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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 江の島道02 江の島(改定)   

江の島、久しぶりです。
藤沢まではたまに行くんですが、時間が合わなくて
すっかり“ご無沙汰”してました。
やっぱり、江の島、いいな~。。。


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江の島
藤沢市にある湘南海岸から相模湾へと突き出た陸繋島。(周囲4km、標高60mほど)三浦丘陵や多摩丘陵と同様に第三紀層の凝灰砂岩の上に関東ローム層が乗る地質である。古来は引き潮の時のみ洲鼻(すばな)という砂嘴(さし)が現れて対岸の湘南海岸と地続きとなって歩いて渡ることができた(トンボロ現象)。関東地震で島全体が隆起して以降は地続き傾向にある。対岸の片瀬川河口付近の形状が時代とともに変遷し、満潮のときのみ冠水した時期、常時陸続きとなった時期とあり、砂嘴の位置も移動している。島の周囲は切り立った海蝕崖に囲まれ、ことに波浪の力を強く受ける島の南部には下部には海蝕台(波蝕台)が発達する。江の島の中央部には南北から侵食が進んで島を分断するような地形があり、「山二つ」と呼ばれている。これより東部を「東山」、西部を「西山」と呼ぶ。


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飾北斎『富嶽三十六景』より相州江の島


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四囲を海蝕崖に囲まれた険阻な地形、海蝕洞「岩屋」の存在は、古来宗教的な修行の場として江の島を特色づけてきた。奈良時代には役小角が、平安時代には空海、円仁が、鎌倉時代には良信(慈悲上人)、一遍が、江戸時代には木喰が参篭して修行に励んだと伝えられている。寿永元年(1182)に源頼朝の祈願により文覚が弁財天を勧請し、頼朝が鳥居を奉納したことをきっかけに、代々の将軍や御家人が参拝したといわれる。弁才天は水の神という性格を有し、歌舞音曲の守護神とされたため、歌舞伎役者や音楽家なども数多く参拝した。
江戸時代後期には江戸庶民の行楽地として大山- 江の島 鎌倉- 金沢八景を結ぶ観光ルートが流行した。立て前は寺社参拝だが、景勝地や古蹟を訪ね名物料理を味わい、名産を土産とするという側面が強くなってくる。江の島の風光は多くの浮世絵に描かれ、歌舞伎の舞台となるなど、広く知られるようになる。明治維新の廃仏毀釈により、与願寺は宗像三女神を祀る江島神社となり、宿坊は一般旅館へと転業した。(Wikipedia)


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歌川広重『相州江の島 弁才天開帳詣 本宮岩屋の図』


・・・

江島神社

宗像三女神を祀る。島の西方の「奥津宮(おくつみや)」に多紀理比賣命、中央の「中津宮(なかつみや)」に市寸島比賣命、北方の「辺津宮(へつみや)」に田寸津比賣命をそれぞれ祀り、「江島大神」と総称する。江戸時代までは弁財天を祀っており、江島弁天江島明神と呼ばれた。社伝によれば、欽明天皇13年(552)、神宣に基づき欽明天皇の勅命により、江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まると伝える。神仏習合により当社は金亀山与願寺と称する寺となった。『吾妻鏡』によれば、寿永元年(1182)、源頼朝の命により文覚が島の岩屋に弁財天を勧請したとあり、これをもって創建とすることもある。歴代の鎌倉幕府将軍・執権や代々の領主から崇敬を受けた。江戸時代には弁才天信仰が盛んになり、多くの庶民が参詣するようになった。(Wikipedia)


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辺津宮(へつのみや)
旧下之宮。田寸津比賣命を祀る。建永元年(1206)源実朝が創建。権現造の社殿は延宝3年(1675)に再建された。


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中津宮
旧上之宮。市寸島比賣命を祀る。仁寿3年(853)創建。権現造の社殿は元禄2年(1689)に改築された。


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奥津宮
旧本宮。多紀理比賣命を祀る。入母屋造の社殿は天保13年(1842)に再建された。拝殿天井には酒井抱一の『八方睨みの亀』が描かれ、源頼朝が奉納した石鳥居がある。
           
伝源頼朝寄進の鳥居
吾妻鏡によれば「頼朝は養和2年(1182)奥州平泉の藤原秀衛を調伏するため、京都高尾神護寺の文覚上人に命じて弁財天を岩屋に勧請し、参詣の際には鳥居を寄進しました」とあります。(江の島イラストマップ)


d0183387_19340238.jpg八方睨みの亀
奥津宮拝殿の天井に奉納された亀の絵。作者は江戸時代の画家・酒井抱一で原画は損傷が進んだため片岡華陽画伯による復元画をかかげています。(ふじさわ観光マップ)





d0183387_19334471.jpg瑞心門 
神門は竜宮城を模した竜宮造の楼門









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一遍上人の島井戸                木食上人行場窟


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江の島シーキャンドル(江の島展望灯台)

サムエル・コッキング苑
明治時代中期イギリスの貿易商サムエル・コッキング氏が造った温室遺構が現在も残り、庭園の名前の由来にもなっています。江の島サムエル・コッキング苑内には高さ59.8m、海抜119.6mの展望灯台があります。(ふじさわ観光マップ)


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鎌倉方面の展望


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江の島夕景


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江の島マップ

(湘南シーサイドウオークの下見を改定しました 2015.7)

by Twalking | 2015-07-16 23:06 | 鎌倉散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉七口 極楽寺切通(改定)   

鎌倉七口の一番西側に位置する極楽寺切通し、
稲村ヶ崎に続く尾根を極楽寺の忍性が切り開いたと伝わります。
それ以前は稲村ヶ崎の岩礁を伝う稲村路が使われていたようです。

現在の幹線134号はこの尾根を切り通して造られました。
きっと理由はあるんでしょうが、トンネルで抜いた方が
“鎌倉”的にはマッチするような感じですね~。
それでも、西へ向かうこの往還の景観は素晴らしいですよ!


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御霊神社(鎌倉権五郎神社)

当社の創建は平安時代末期と推定され、当初は関東平氏の祖霊を奉祀していたが、後鎌倉権五郎景政公一柱となる。源頼朝公始め幕府の崇敬篤く、吾妻鏡に御霊社鳴動して奉幣するなど所処に記事散見する希瑞ある神社として有名である。 祭神景政公は桓武天皇の末裔、鎮守府将軍平忠道を祖父とし父鎌倉権守景成の代より鎌倉に住し、鎌倉党武士団を率いる一方、現在の湘南地域一帯(戸塚・鎌倉・鵠沼・藤沢・茅ヶ崎)を開拓した開発の領守でもある。 景政公16才にて奥州後三年役(永保3年~応徳4年)初陣す。 左眼に矢を射立てられしも屈せずして答の矢を射て相手を斃し陣中に帰り、其の矢を抜かんと面部に足を掛けし三浦平太の無礼を刀を構えて叱咤した公の豪気と高い志は歌舞伎にもなり、 武士の鑑と永く仰がれている。(由緒)

鎌倉江ノ島七福神 面掛福禄寿 御霊神社

御霊神社は其の昔鎌倉近辺には大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉という平氏五家があり、これら五家の祖を祀る神社として五霊神社が建てられ、これが御霊神社となり祭神もいつしか武勇で名高い領主の鎌倉権五郎景政公一柱だけを祀るようになりました。 この権五郎景政公の命日が918日で、この例祭日には昔から面掛け行列という珍しい行事があります。これは伎楽や舞楽・田楽などに使われる特異な面を十人衆がつけ、古いいでたちで街の中をねり歩く県指定の文化財です。此の十一面の中に「福禄寿」が含まれており、此れにちなんで「福禄寿」が宝物庫に安置されています。(案内板)

鎌倉景政
平安時代後期の武将。父は桓武平氏の流れをくむ平景成とするが、平景通の子とする説もある。通称は権五郎。名は景正とも書く。父の代から相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも鎌倉市由比ガ浜ともいわれる。16歳の頃、後三年の役(1083 -1087年)に従軍した景政が、右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている。戦後、右目の療養をした土地には「目吹」の地名が残されている(現在の千葉県野田市)。長治年間(1104 - 1106年)相模国高座郡大庭御厨(現在の神奈川県藤沢市周辺)を開発して、永久4年(1116年)頃伊勢神宮に寄進している。子の景継は、長承4年(1134年)当時の大庭御厨下司として記録に見えている。また『吾妻鏡』養和2年(1182年)28日条には、その孫として長江義景の名が記されている。


・・・坂ノ下

極楽寺坂の下にあるので坂ノ下と呼ばれるようになったといわれています(鎌倉市)

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d0183387_23264107.jpg明鏡山円満院星の井寺(御本尊虚空蔵菩薩安置)
天平年間、聖武天皇の御代に諸国行脚中の行基僧正が 当地の古井戸「星月の井」に明るく輝く明星の光りが移るとのうわさを地元民から聴き、井戸をのぞくと中に虚空蔵菩薩のお姿が写し現われていた。行基はそのお姿を仏像に彫り当地にお堂を建立し安置した。かの像は明星の照曜の如き光を放ち、鏡に影の移る如くでありました。以後数百年経って幕下の征夷大将軍源頼朝公はこの菩薩を崇敬し、この菩薩像を内陣仏の秘仏とし、仏師運慶に外陣仏を作らせた。これが前立尊であるという。秘仏虚空蔵菩薩はわが国では唯三体の木彫の仏像で大変貴重な仏像であります。これに加えてこの御仏は明星と一体で、その分身であり限りない知恵をそたえた御仏で、経典では虚空蔵菩薩は、西方香集世界の教主で娑婆世界の苦難する人々の利益のために無不畏陀羅尼を説くことを、釈迦・敷蔵の二仏に許された御仏であります。即ちその本尊に礼するものは三世十万一切の諸仏を礼することと同じであるといわれます。また、虚空蔵菩薩を本尊として修業する虚空蔵求聞持法では心を静かにしこの真言を唱えれば天より明星が口に入り、菩薩の威はあらわれて頭脳は明晰となり記憶力は増進するといわれております。秘仏であるが衆生に縁を結ばせるべきでるとして三十五年一度に開帳し衆生にそのお姿を拝する事が許されました。近代に至り熱心な信仰者の意に添うようにと毎年正月十三日に開帳し、善男善女もそのお姿を毎年拝することが出来るようになりました。正月十三日の初護摩供養には、丑年寅年の人々の守本尊として、また、知恵・記憶力をお授け下さる虚空蔵様として地元民をはじめ各地より善男善女が参詣に集ります。(案内板)


d0183387_23295794.jpg星月井 (ほしづきのい)/
虚空蔵堂前
星月夜の井は一に星の井とも云う 鎌倉十井の一なり 坂の下に属す 往時此の附近の地老樹蓊鬱(おううつ)として昼尚暗し 故に称して星月谷と曰ふ 後転じて星月夜となる 井名蓋し(けだし)此に基く  里老言う 古昔此井中昼も星の影見ゆ 故に此の名あり 近傍の卑女誤つて菜刀を落せしより以来 星影復た見えざるに至ると 此説最も里人の為に信ぜらるるが如し 慶長五年(1600)六月 徳川家康京師よりの帰途  鎌倉に過り特に此井を見たることあり 以て其名世に著(あら)はるるを知るべし 水質清冽 最も口に可なり(鎌倉町青年団)



d0183387_23350528.jpg日限六地蔵由
当地蔵尊は道行く人々をお守り下さり、お地蔵様の眼のとどく範囲で事故がおきても大事にはいたらないと云はれ、また善男・善女が邪心を捨て心も清くもち願い事を期日を極めておすがりすれば、 その期日までに功徳がいただける有難いお地蔵様であるとして、 いつの世か日限地蔵と称されるようにあんったと云い伝えられております。近年になり盗難・悪戯が激しく、こともあろうに心ない酔漢により佛像が破壊されるに至りました。 これ等保護のため、やむなく見苦しいシャッターを取り付けました。(日限六地蔵尊護持会)

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由比ヶ浜展望/成就院


d0183387_23402892.jpg成就院略縁起
弘法大師さまが全国を巡り修行された折、この地にて護摩行・虚空蔵求聞持法等を修められたと伝えられる。その後、承久元年(1219)に北条泰時が深願を込め高僧を招き本尊に不動明王をまつり 普明山法立寺成就院と名付け建立した。 元弘3年(1333)新田義貞鎌倉攻めの時に堂宇は焼失し、近くの西ガ谷に移っていたが、元禄年中、祐尊僧正が旧地に復興し現在に至っている。本尊は縁結び不動明王さまとして信仰されている。 
境外仏堂 虚空蔵堂:参道を坂ノ下側に下り星月夜ノ井の上に成就院が所有する堂がある。 本尊に虚空蔵菩薩をまつり、正・五・九月十三日には本尊さまが開廟される。



d0183387_00370131.jpg仏法寺跡(史跡名勝天然記念物)/成就院裏山(右上)
仏法寺跡は、神奈川県南東部に位置し、鎌倉市中央部の西側山稜部に所在する、西大寺流律宗極楽寺の13世紀後半から17世紀中頃の有力末寺の寺院跡である。北西側は谷を挟んで極楽寺に続き、北側には極楽寺坂が通っている。極楽寺忍性は13世紀後半に極楽寺坂を開削し、仏法寺に住して請雨法を修したと伝えられている。仏法寺跡の山稜は、地元では霊鷲山、霊山(りょうせん)と呼ばれており、江戸前期頃の「極楽寺境内絵図」には霊山の山頂付近に仏法寺と請雨池が描かれている。元弘3年(1333)の鎌倉攻め関係史料には「鎌倉霊山寺」とあり、一帯は激戦地の一つであった。鎌倉市教育委員会の発掘調査により、山頂部付近で葬地、供養遺構を、平場で礎石建物堂舎跡、池跡等を検出した。13世紀後半から16世紀のかわらけ、陶磁器、石塔類、火葬骨等が出土し、池跡からは柿経等も出土した。極楽寺の寺伝では、明暦3年(1657)に仏法寺の建物を移築して極楽寺の方丈にしたという。仏法寺跡は、鎌倉幕府、北条氏の支援のもとで陸上・海上交通を支配した極楽寺の有力末寺の寺院跡で、元弘の鎌倉攻めの激戦地の一つでもあり、都市周縁部の葬送、供養関係の遺構も良好に残されており、我が国の歴史を考える上で重要である。(文化遺産オンライン)法寺



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極楽寺坂切通 
鎌倉七口の中では最も西南に位置し、鎌倉市の極楽寺方面から由比ヶ浜方面に抜ける道である。鎌倉時代の公文書といえる「吾妻鏡」には極楽寺坂切通の名は見られず、京都と鎌倉を結ぶ重要な連絡路としては、鎌倉時代初期には海岸沿いの稲村路が使われていたと考えられている。鎌倉初期の紀行文「海道記」にはこの稲村路を使用した記述があり、また、「吾妻鏡」の記録では建長4年、鎌倉幕府六代将軍として京から下向した宋尊親王が稲村ヶ崎を通って鎌倉に入ったとされており、稲村路を使用したと推測される。しかし、鎌倉時代後半に極楽寺坂が開かれ、以後、主要な交通路となった。極楽寺の寺伝によれば、同寺の実質的な開祖である真言律宗の僧・忍性が最初に切り開いたとされる。忍性の入寺は文永4年(1267)で、乾元2年(1303)に同寺で没しており、寺伝が確かであればこの間に開かれたことになる。歴史上、極楽寺坂を有名なものとしたのは、元弘3年(1333)の鎌倉幕府滅亡時の合戦における新田義貞鎌倉討入りである。武蔵国の分倍河原の戦いの勝利の後、藤沢まで兵を進めた義貞は、軍を巨福呂坂(こぶくろ)・化粧坂(けわい)方面と極楽寺坂方面に分け鎌倉攻略を図った。極楽寺方面の新田軍は大館次郎宗氏 江田三郎行義を大将とし、一方の鎌倉軍は大仏陸奥守貞直が大将として迎え撃った。しかし、極楽寺坂切通は険しい上に、幕府軍が陣を整えて待ちかまえていたために新田軍はこれを破ることができず、左将軍・大館宗氏はここで戦死する。巨福呂・化粧坂方面から応援に駆けつけた新田義貞は結局、極楽寺坂切通の突破攻略は困難と判断、剣を投じて干潮を祈願したとの伝説が伝わる稲村ケ崎の海岸線(稲村路)を通って鎌倉に侵入に成功し、幕府方の敗北により鎌倉幕府は終わりを告げる。過去の路面よりも広く深く掘削されており、元の切通しとしての路面の高さは、切通しに並行してある成就院の門に至る道とほぼ同じであったと推測されている。(Wikipedia

d0183387_23435563.jpg極楽寺坂/成就院参道右側
此所 
往古畳()山なりしを 極楽寺開山忍性菩薩 疏鑿(そさく)して一条の路を開きしと云う 即ち極楽寺切通と唱ふるは是なり 元弘三年(1333)の鎌倉討入りに際し 大館次郎宗氏 江田三郎行義は新田軍の大将として此便路に向ひ大仏陸奥守貞直は鎌倉軍の大将として此所を堅め相戦ふ(鎌倉町青年団)




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霊鷲山感應院 極楽寺 (真言律宗南都西大寺末
開基 北條重時公 開山 良観房忍性菩薩) 
当山は、北條重時公の発願にして正元元年(1259)の創建と伝えられる。重時はその業半ばにして薨じ、その男執権長時及び業時兄弟によって文永年間(12641266)東西八丁、南北七丁に及ぶ寺域に七堂伽藍四十九院を完備せる壮大な寺院が完成された。その後相次ぐ天災兵火の為、当初の建物は失われ、現在、文久3年(1863)の再建になる山門及び本堂、大師堂、客殿が残るのみである。開山忍性菩薩は勧学院を興して律の教学を広める一方、施薬院、悲田院、施益院、癪宿、馬病舎等を設け、病者、貧者の救済に努めた。現在境内に残る千服茶臼、石造製薬鉢にその名残りを止めている。又土木事業も盛んにし極楽寺切通しを開いたことも有名である。その徳行は世に称えられ嘉元元年(1303)八十七才で没した後、後醍醐天皇により菩薩号を送られている。寺宝  釈迦如来立像(重要文化財)、釈迦如来坐像(重要文化財)、十大弟子(重要文化財)、不動明王像(重要文化財)、密教法具(重要文化財)、忍性塔(五輪塔)(重要文化財)、 約に如来像、文殊菩薩像、その他(案内板)

開山は良観房忍性(にんしょう)奈良西大寺叡尊門下で戒律を学ぶ。弘長2年(1262)に北条業時(なりとき)に招かれて多宝寺住持となり、その後文永4年(1167)極楽寺に開山として迎えられた。極楽寺は正元元年(1259)深沢に創建され後に開基となる北条重時(しげとき)が現在の珍移転したと言われています。元寇に際しては幕府の命により異国降伏の祈祷を行い、また鎌倉幕府滅亡後も勅命により国家安泰を祈る勅願所として社格を保持した。(鎌倉市)


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針磨橋

鎌倉十橋の一にして 往昔此の附近に針磨(針摺)を業とせし者住みにけりとて 此の名ありといふ(鎌倉町青年団)


d0183387_00122991.jpg十一人塚 
元弘三年(1333)五月十九日 新田勢大館又次郎宗氏を将として 極楽寺口に攻入らんとせしに 敵中 本間山城左衛門手兵を率いて大館の本陣に切込み 為に宗氏主従十一人戦死せり 即遺骸を茲(ここ)に埋め 十一面観音の像を建て以て其の英魂を弔し 之を十一人塚と称せしと云う(鎌倉町青年団)


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134号に合流/稲村ヶ崎西側



by Twalking | 2015-06-06 14:48 | 鎌倉散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 江島道01 腰越   

日時 2015.3.22(日)
天気 晴れ

小動岬からの展望が見てみたくて、
江ノ電経由で江の島に向かいました。
朝の江の島、気持いいですね、最高!


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江の島&腰越港/小動神社

小動岬
(こゆるぎみさき)
八王子山とも呼ぶ。岬には腰越村の鎮守として信仰を集めた
小動神社(当時は八王子社と称す)がある。幕末には台場(八王子山台場)が設置され川越藩・会津藩・長州藩などが沿岸の監視に携わっていた。かつては「小動」という地名の由来となった「小動の松」が岬の山頂にあったが、明治以降いつのまにか枯れてしまい現在は見る事ができない。岬の南は相模湾に面し、東は七里ヶ浜、西は腰越と接し、腰越漁港が隣接している。(Wikipedia


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d0183387_21441276.jpg小動神社(こゆるぎじんじゃ)
建須佐之男神・建名方神・日本武命を祀る。鎌倉市腰越の小動岬にある神社である。旧腰越村の鎮守社である。文治年間(1185 - 1189)の源平合戦の際、佐々木盛綱が父祖の領国であった近江国の八王子宮を勧請したものと伝え、江戸時代までは八王子神社と称していた。元弘3年(13335月には、新田義貞が鎌倉攻めの戦勝を祈願したと伝えられる。江戸中期には、小田原藩主・大久保忠真が扁額を奉納した。明治
元年(1868)、神仏分離に伴い地名をとって小動神社と改称し村社に列格した。(Wikipedia



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腰腰(こしごえ)

鎌倉市の最南西に位置し、南部は相模湾に面し、西部は藤沢市と接している。北部は西鎌倉・津(津村)・津西と接し、東部は小動岬をはさんで七里ヶ浜と接している。海岸線を国道134号と江ノ島電鉄線が平行して走る。また大字を縦断するように神戸川が走り、神奈川県道304号と旧江の島道が川をほぼ併走している。龍口寺や満腹寺、腰越村の鎮守として信仰を集めた八王子神社(現在の小動神社)など寺社も多い。鎌倉幕府成立以前の古代腰越については史料が残存していないため不明な点も多い。しかし鎌倉が古代から地域政治の中心として栄えていた事や、三浦半島を経由し海路で房総半島へ向かう古代の海道が腰越を走っていたらしい事が考古学の分野から判明しており、このことから腰越は古代から宿駅(腰越駅)として栄えていたと推測されている。元暦2年(1185)源平合戦にその名を残す英雄源義経は念願の平家討滅を成し遂げたにも関わらず兄頼朝から面会を拒絶され続けた。そして旧暦524日(623日)腰越の満福寺に逗留していた義経は頼朝の近臣大江広元に兄への心情を訴え、執り成しを依頼する書状を認めたとされる。これが世に有名な腰腰状である。(Wikipedia



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龍口寺
(りゅうこうじ)
神奈川県藤沢市片瀬の龍口刑場跡に建つ日蓮宗の本山(霊蹟寺院)。山号は寂光山(じゃくこうさん)。略字体を用いて「竜口寺」と称す場合もある。この地はかつて刑場跡で文久8年(1271年)912日に日蓮宗の開祖日蓮が処刑されそうになった。この事件を日蓮宗では龍ノ口法難と呼ぶ。その後延元2年(建武4年、1337)に日蓮の弟子、日法がこの地を「龍ノ口法難霊蹟」として敷皮堂という堂を建立し、自作の祖師像(日蓮像)と首敷皮を置いたのが龍口寺の始まりと伝わる。なお、本格的な寺としての格式を整えたのは腰越・津(鎌倉市)の国人で日蓮宗の信奉篤い島村采女が慶長6年(1601)に土地を寄進して以来のこととされている。明治19年(1886)までは選任住職を置かず、片瀬八ヶ寺が輪番で維持していた。現住は15世本間日恩貫首(台東区善慶寺より晋山)、池上法縁五本山の一つ。(Wikipedia


d0183387_22061553.jpg本堂 
天保3年(1832)竣工。法難時に日蓮が足元に敷いていた敷皮が安置されているため、敷皮堂ともよぶ。木造欅造り。



d0183387_22035644.jpg五重塔
明治43年(1910)竣工。木造ケヤキ造で五重塔としては神奈川県で唯一。建造には竹中工務店が携わった。彫刻は一元流(藤沢彫川)の一元安信。全国的にも数少ない明治期の五重塔だが、近年老朽化が目立つ。


d0183387_22035160.jpg仏舎利塔
昭和45年(1971912日竣工。龍口法難700年を記念し日本山妙法寺(藤井日達上人)が建立。塔内には仏舎利が安置されている。龍口寺裏山(龍口山)の高台にあり、かつては江ノ島や相模湾を一望のもとにできたが、国道134号・国道467号沿いに複数の高層ビルが建って以降、視界がビルにさえぎられるようになった



d0183387_22073432.jpg御霊窟
法難の際に日蓮が入れられていたとされる土牢。中には祖師像が安置されている。






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龍口
(たつのくち)
神奈川県藤沢市片瀬南東部にある小字、龍ノ口とも表す。龍口という地名はこの地に残る五頭
竜の伝承にちなんでつけられたという。この伝承は、かつて悪事の限りを働いていた五頭竜が江の島の女神(弁財天)に惚れ、改心し山に姿をかえて津村・腰越の守護神となったというもの。伝承によるとちょうど龍口のあたりが五頭竜の頭部にあたるため「龍口」という名前がつけられたという。龍口は鎌倉時代後期ごろより刑場として史書に登場する。特に文久8年(1271912日に日蓮が処刑寸前に助命される事件(龍ノ口法難、日蓮宗では処刑直前に奇跡が起き助かったと伝わっている)は有名。ほかにも元の使者杜世忠や、中先代の乱を起こした北条時行もこの地で処刑された記録が残る。(Wikipedia


満福寺
(まんぷくじ)
鎌倉市腰越にある真言宗大覚寺派の寺院。元歴2年(11855月、源義経が兄頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを許されず腰越の地に留められた際に、頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺として知られる。寺には弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が展示されており、境内には弁慶の腰掛け石や手玉石など、義経・弁慶ゆかりの品々が多数展示されている。(Wikipedia

義経宿陣之蹟
文治元年 (1185)五月、源義経は、朝敵(平家)を滅ぼした。ときの敵方の総大将・前内府平宗盛を捕虜として引きつれ鎌倉に凱旋して来たが、頼朝の不審を蒙り、鎌倉に入ることを許されなかった。腰越宿に滞留して、積もる鬱憤のあまり、因幡前司 大江広元に一通の書状を送ったことが、「東鑑」(吾妻鏡)に記載されている。世に言い伝えられている 『腰越状』とは此の時の書状のことである。其の下書きと伝えられている物が、「満福寺」に保存されている。(鎌倉市青年)                                        


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江の島東浜



・・・

江の島道(えのしまみち)
旧藤沢宿から龍口を経て江の島に至る旧道。また鎌倉街道を小袋谷(こぶくろや)を経て江の島にいたる旧道も江の島道と呼ばれた。いずれの旧道も江の島へ向かう遊山客や地域住民の生活路としてにぎわい、多くの寺社・旧家が立ち並んでいたが、明治時代以降になると鉄道・新道の開通によって廃れていった。現在では要所要所に残されている道標などが往時の姿をしのばせている。この道標には江の島と深い縁を持つ杉山検校が建てたものが多い。(Wikipedia


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東海道五十三次 藤沢・遊行寺


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大鋸(だいぎり)広小路説明版/藤沢宿(赤丸が一の鳥居)


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冠木門&参道(いろは坂・四十八段)  遊行寺橋(大鋸橋・だいぎり)/境川


by Twalking | 2015-06-05 19:26 | 鎌倉散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 稲村ヶ崎・磯づたいの道(改定)   

鎌倉を起点にした「湘南シーサイドウオーク」のスタートが、
この稲村ヶ崎・岩礁の道になります。
海沿いを西へ、湘南の海を満喫できる道です。


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鶴岡八幡宮に参拝


関東ふれいの道 稲村ヶ崎・磯づたいのみち
このみちは、鎌倉駅から若宮大路を海に向かっていくと1.3kmぐらいで起点の由比ヶ浜にでます。海に出て、右に曲がってからこのコースは国道134号沿いの歩道を左手に相模湾と沖に伊豆大島を望みながら小田急電鉄片瀬江ノ島駅までの道のりとなります。(距離6.2km)滑川が流れ込む東側が材木座海岸、西が由比ヶ浜海岸で、夏は海水浴客で賑わう砂浜です。しばらく進んで、右に曲がれば鎌倉名物で通称「長谷の大仏」・「長谷観音」に立ち寄ることができます。坂ノ下地区鎌倉海浜公園を過ぎて坂を登りきると稲村ヶ崎につきます。ここより腰越の小動(こゆるぎ)岬の約4kmにわたる平らな海浜を七里ヶ浜といいます。小動岬を過ぎてゆるやかな坂を下りると左に腰越漁港があり、目の前に江ノ島が横たわっています。日蓮聖人の「滝の口の法難」を記念して建てられた滝口寺(りゅうこうじ)の入口を過ぎ、境川に架かる弁天橋を渡ると終点の片瀬江ノ島駅となります。(関東ふれあいの道パンフレット)


・・・由比ヶ浜
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稲村ヶ崎を目指します/由比ヶ浜 


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東側の磯

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稲村ヶ崎への遊歩道                134号切通


・・・稲村ヶ崎
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正面にうっすらと富士/稲村ヶ崎・鎌倉海浜公園


d0183387_17421726.jpg稲村ヶ崎
地名の由来は稲穂を重ねたように見えるためだと言われている。古来良質な砂鉄が採取できることで知られ、古代にはこの地で製鉄がおこなわれていたと考えられる。奈良時代の鎌倉には「見越しの崎」あるいは「御輿の崎」「神輿の崎」と呼ばれる地名があったことが知られており、万葉集巻14-3365に、 鎌倉の 見越しの崎の 岩崩(いわくえ)の 君が悔ゆべき 心は持たじと詠まれている。この地名がどこを指すかについては、長谷の甘縄神社裏山という説と稲村ヶ崎という説があり、確定していない。しかし、岩崩の名所として知られていたならば、稲村ヶ崎説が有力となる。鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)5月に上野国(群馬県)新田荘を本拠とする新田義貞が挙兵し、分倍河原の戦いと関戸河原の戦いで北条氏の軍に勝利して鎌倉にせまった(鎌倉の戦い)。5月18日極楽寺口より攻撃を加え、21日には義貞みずから稲村ヶ崎の海岸を渡ろうとしたが、当時の波打ち際は切り立った崖となっており、石が高く、道が狭小なため軍勢が稲村ヶ崎を越えられなかった。そこで、義貞が潮が引くのを念じて剣を投じると、その後潮が引いて干潟となったので岬の南から鎌倉に攻め入ったという伝説が『太平記』に記されている(ただし、近年において天文計算により、稲村ヶ崎の潮が引いたのは18日のことであったことが明らかになり、『太平記』の日付には誤りがあると考えられている)。(Wikipedia)


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展望台の東屋             コッホ碑

ローベルト・コッホ碑
この碑は、世界的細菌学者ドイツのローベルト・コッホ博士の来日を記念して、弟子である北里柴三郎博士と鎌倉市関係者により大正元年(19129月、建立されたものです。当初、霊仙山頂に建立されたが地盤の脆弱化により、昭和58年(198310月、鎌倉市医師会等によりこの地に移設された。コッホ博士は病気と病原菌の関係を客観的に証明する方法を提案し、病原細菌学という新しい分野を開拓した人である。明治35年(1905)「結核に関する研究」でノーベル生理学・医学賞を受賞している。北里は破傷風菌の純培養に成功、さらにその毒素に対する免疫抗体を発見、それを応用した血清療法を確立し現代免疫学の祖と言われている。(案内板)


d0183387_17232938.jpg稲村崎

今を距(へだて)る五百八十四 年の昔 元弘三年(1333)五月 二十一日 新田義貞此の岬を廻りて鎌倉に進入せんとし 金装の刀を海に投じて 潮を退けんことを海神に祈れりと言ふは此の処なり(鎌倉町青年団)







・・・七里ヶ浜
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七里ヶ浜
神奈川県鎌倉市南西部にある相模湾に面した2.9kmほどの浜で、稲村ヶ崎と小動岬の間にある。日本の渚百選の一つ。かつては、海食崖に直接波が打ち寄せる険阻な地形のため、交通は困難であった。奈良〜平安時代の鎌倉には、現在の鎌倉駅西方に鎌倉郡衙(ぐんが)が置かれており、源頼義や鎌倉景政らの武将も居住していたが、上方(かみがた)や相模国衙との連絡には主に大仏坂や化粧(けわい)坂が用いられ、最短ルートの七里ヶ浜は余り用いられなかったと思われる。鎌倉幕府が開かれると、忍性により極楽寺の再興と共に極楽寺坂切通しが整備され、上方と結ぶ重要なルートとなった。1271年の日蓮龍口(たつのくち)法難の際には、事件を伝える使者と赦免を伝える使者が七里ヶ浜中央部で行き違い、そこを流れる河川の名を行合川と名付けたという言い伝えがある。1333年 、鎌倉攻めの新田義貞軍が稲村ヶ崎の断崖の海岸伝いに鎌倉へ突入、この奇襲攻撃が功を奏して鎌倉幕府の滅亡に繋がったという言い伝えは余りにも有名である。(Wikipedia


d0183387_17432384.jpg西田幾多郎博士記念歌碑

七里ヶ浜 夕日漂う波の上に 伊豆の山々 菓し知らずも
明治44年(1911)「善の研究」交刊後、日本の哲学を代表する西田哲学を樹立した西田幾多郎博士は、明治3年(1870)石川県河北郡宇ノ気町に生まれ、学習院、京都大学教授を歴任後、昭和8年(1933)当地を見下ろす稲村ガ崎(当時の極楽寺姥ヶ谷)に仮寓をもとめ昭和20年(194567日にここで没するまでの12年間余を主に夏と冬を過ごした。 当記念歌碑は、昭和26年(1951)に博士の偉業を記念するために、博士の同郷の友人鈴木大拙博士や門下生らの発起により、多くの著名な知識人や芸術家などの賛同を得て建設された。 設計は板倉準三氏による。(鎌倉市)



・・・小動岬
          
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小動岬(こゆるぎみさき)
神奈川県鎌倉市腰越2丁目にある岬で、八王子山とも呼ぶ。岬には腰越村の鎮守として信仰を集めた小動神社(当時は八王子社と称す)がある。幕末には台場(八王子山台場)が設置され川越藩・会津藩・長州藩などが沿岸の監視に携わっていた。展望台があり、相模湾を一望の下に置く事ができる。さらに晴れた日は富士山や伊豆半島も望める。(Wikipedia



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・・・江の島
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江の島/境川・片瀬橋 

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相州江の島 葛飾北斎

by Twalking | 2015-06-05 18:59 | 鎌倉散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 若宮大路・鶴岡八幡宮(改定)   

以前、稲村ヶ崎・岩礁のみちを歩いた時に「ぶらり 鶴岡八幡」として
掲載したものを、カテゴリー分類を機に内容を改定しました。
(写真は当時のものです)

・・・鶴岡八幡宮

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鶴岡八幡宮
祭神:応神天皇(第15代天皇)  比売神 (ひめがみ)  神功皇后( 第14代仲哀天皇の妃、応神天皇の母)
康平6年(1063年)8月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。永保元年(1081年)2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。治承4年(1180年)10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。建久2年(1191年)に、社殿の焼失を機に、上宮と下宮の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。承元2年(1208年)には神宮寺が創建される。(Wikipedia)

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本宮
(上宮)
文政
11年(1828)に徳川家斉(いえなり)が再建した流権現造で、国の重要文化財に指定されています。大石段は61段あり、登りきると桜門、その奥に拝殿とつながった本宮があります。

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若宮(下宮)祭神:仁徳天皇
など3柱です。


d0183387_12292228.jpg舞殿 
「下拝殿」ともいう。前面にある建築物は21世紀に入ってから増築されたもので、当初は朱塗りではなく白木造りであったそうです。


d0183387_12292805.jpg白旗神社(祭神:源頼朝、源実朝)
豊臣秀吉
が小田原征伐の後に参拝したが、その際に祀られていた頼朝像を見て「我と御身は共に微小の身から天下を平らげた。しかし御身は天皇の後胤であり、父祖は関東を従えていた。故に流人の身から挙兵しても多く者が従った。我は氏も系図も無いが天下を取った。御身より我の勝ちなり。しかし御身と我は天下友達なり。」と言うと、笑いながら頼朝像の背中をポンポンと叩いたという、こんな逸話があります。

d0183387_12325743.jpg旗上弁天社
源氏池の島に鎮座。周囲には源氏の二引きの白旗が多く見られる。明治の神仏分離令で一度は廃れたが、昭和55年(1980年)に文政年間の古図を元とし復元された。


d0183387_12342358.jpg大銀杏 
建保
7年(1219)源頼家2代将軍)の次男で八幡宮の別当を務めていた公暁がこの銀杏の木に隠れて待ち伏せ、源実朝を殺害したという伝説があります。(隠れ銀杏)平成22年3月10日に強風のために大銀杏は根元から倒れました。


d0183387_12343851.jpg太湖橋 
源平池には横切るように石造の橋が架けられています。創建当時は木造で、朱塗りだったため「赤橋」と呼ばれていました。北条氏
の庶流・赤橋家の苗字はこの橋の名称に由来しています。




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源平池

寿永元年(1182)四月 源の頼朝の命により 専光坊並に大庭平太景義等奉公して境内に池を掘りしこと 東(吾妻)鑑に見ゆ 一説に 夫人政子 源家の興隆を祈請して此の池を造作せしめ 東池に白蓮 西池に紅蓮を植え 源平の旗色を表はしたりと伝へられ源平池の名あり(鎌倉町青年団)


・・・若宮大路

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参道
鶴岡八幡宮の参道は若宮大路と呼ばれる。由比ヶ浜から八幡宮まで鎌倉の中心をほぼ南北に貫いており、京の朱雀大路を模して源頼朝が自らも加わり築いた。二の鳥居からは段葛(だんかずら)と呼ばれる車道より一段高い歩道がある。そこを抜けると三の鳥居があり、境内へと到る。(現在、段葛は改築工事中です)

段葛/三の鳥居西側
段葛一(いつ)に置石と称す 寿永元年(1182)三月 頼朝その夫人政子の平産祈祷の為め 鶴丘社頭より由比海浜大鳥居辺に亘(わた)りて之を築く その土石は北条時政を始め源氏家の諸将の 是が運搬に従へる所のものなり 明治の初年に至り二の鳥居以南其の形失へり(鎌倉町青年団)


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三の鳥居               二の鳥居

一之鳥居
鶴岡八幡宮の大鳥居(一の鳥居)は鶴岡八幡宮創建当初に建てられたといわれています。現在の鳥居は、徳川四代将軍家綱によって建てられました。この鳥居には徳川2代将軍秀忠の夫人「江」(崇源院)の願いが込められています。江は、鶴岡八幡宮の弁財天を信仰していました。ある日、夢の中に弁財天が現れて「木造の鳥居を石造にするように」とのお告げを受けます。このお告げによって造られたのが現在の大鳥居です。徳川四代将軍家綱は、この大鳥居(一の鳥居)と一緒に、二の鳥居と三の鳥居も石造のものに建て替えますが、関東大震災によって3つともに倒壊してしまいました。その後、大鳥居(一の鳥居)だけが元通りに復元され、二の鳥居と三の鳥居はコンクリート造に建て替えられ朱塗りの鳥居となっています。(Wikipedia)

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一の鳥居

浜の大鳥居跡

鶴岡八幡宮参道(若宮大路)の最も南側に立つ鳥居は「浜鳥居」と呼ばれ 治承4年(1180)の建立だそうです。鳥居柱痕の年代は戦国期と推察され、天文22年(1553)北条氏康により造立された大鳥居のものである可能性が高いといわれています。浜の大鳥居は現在の鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居)の北方約180mに位置し、特異な構造であるとともに、旧浜鳥居の位置が推定できる点でも重要なものです。


d0183387_15064405.jpg石造宝篋印塔/一鳥居西側

高さ3.4mを超える市内でも大型の宝篋印塔で、鎌倉幕府御家人畠山六郎重保墓塔と伝えられています。塔基礎には「明徳第四 葵酉霜月三 日大願 主比丘道友」と刻銘があり、作風からも明徳4年(1393)造とみられます。同じく14世紀後半に造立された市内の宝篋印塔としては聞和5年(1356)銘の通称「泣塔」(寺分所在)も有名です。(鎌倉市教育委員会)


畠山重保邸址/一鳥居西側
畠山重保は重忠の長子なるが 嘗(かっ)て北条時政の婿平賀朝雅と忿争す 朝雅其の余怨を畜へ重保父子を時政に讒(ざん)す 時政もと重忠が頼朝の死後其の遺言に依り 頼家を保護するを見て之を忌み事に依りて之を除かんと欲す 及(すなわ)ち実朝の命を以て兵を遣して重保の邸を囲む 重保奮闘之に死す 時に元久二年(1205)六月二十二日此の地即ち其の邸址なり 其の翌重忠亦(また)偽り誘はれて武蔵国二俣川に闘死す(鎌倉町青年団)


d0183387_15072081.jpg稲瀬川(いなのせかわ)/由比ヶ浜
万葉に鎌倉の美奈能瀬河とあるは此の河なり 治承四 年(1180)十月政子鎌倉に入らんとして来り 日並の都合により数日の間此の河辺の民家に逗留せる事あり 頼朝が元暦九年範頼の出陣を見送りたるも 正治元年義朝の遺骨を出迎へたるも共に此の川辺なり 元弘三年(1333)新田義貞が当手の大将大舘宗氏の此の川辺に於て討死せるも人の知る所 細き流にも之に結ばる 物語少なからざるなり(鎌倉町青年団)



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材木座海岸方向の景観

由比ヶ浜
普通、滑川河口の西側の海岸とその周辺(由比ガ浜一~四丁目付近)を由比ヶ浜、東側を「材木座海岸」と称している。現在は湘南の海として知られ、毎年夏になると多くのサーファーが集まっている。鎌倉時代には御家人同士の激戦地となり、現在でも人骨は埋まっており、工事で当時の人骨が出土することがある。源義経の妻妾静御前が、源頼朝配下に捕われて鎌倉に送られた後、義経の男児を出生するが、男子が生まれた場合は殺すという頼朝の命により浜に遺棄されたと伝えられている。また、有力御家人和田義盛もここで戦死したと伝えられる(和田合戦)。元弘の乱の鎌倉の戦いにおいては、新田義貞が稲村ヶ崎を突破して浜に進攻、幕府の滅亡を決定的にした。Wikipedia)

材木座

明治期期に海水浴場場となり、夏目漱石の『こころ』に描かれて有名になった。源実朝が宋(中国)に渡る計画を立て、大きい船を完成させたが遠浅のため進水できなかったとも伝えられている。名称は鎌倉時代鎌倉七座(米座、相物座、博労座、炭座、材木座、絹座、千朶積座)という商工組合があり、これに由来する。江戸時代には材木座村と内陸側の乱橋(みだればし)村に分かれていたが、のちに合併して大字「乱橋材木座」となり、これが住居表示に伴い材木座一丁目-六丁目となった。Wikipedia)

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歌川広重 由比ヶ浜



by Twalking | 2015-06-04 16:00 | 鎌倉散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 小町大路(2)祇園山   

日時 2014.5.30(土)
天気 晴れ

妙本寺の裏山が祇園山ハイキングコースになっているので、
八雲神社口から東勝寺址口へ歩いてみました。
祇園山の見晴台からの展望もいいし、手頃なコースですね。


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常栄寺(ぼたもち寺)
幕府に捕らわれた日蓮が鎌倉の町を引き回され、龍ノ口の刑場(藤沢市・龍口寺)へ送られる途中、ここに住む老婆がぼたもちを差し上げたことが、ぼたもち寺の由来です。日蓮は処刑を奇跡によってまぬがれますが、この法難のあった9月12日には老婆がつくったものと同じ胡麻をまぶしたぼたもちが振る舞われます。厄除けの「首つなぎぼたもち」といわれ、終日にぎわいます。(鎌倉市)


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八雲神社略記
祭神
須佐之男命、稲田比賣命、八王子命、佐竹氏の霊
永保年中、新羅三郎源義光公の勧請と伝う。 室町時代、関東官領足利成氏公は公方屋敷に渡御した当社の神輿に奉幣を行うを例とした。戦国時代、小田原城主北條氏直公は祭礼保護の「虎印禁制状」を下賜し、慶長9年、徳川家康公は永楽五貫文の朱印地を下賜された。 古くは祇園天王社と称したが、明治維新に八雲神社と改称された。


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祇園山ハイキングコース案内図


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祇園山見晴台からの展望

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八雲神社奥からひと登りで見晴台に出ます


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前方の名越切通を越えてきました

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妙本寺の裏山を通り東勝寺址へ下ります



d0183387_21505754.jpg東勝寺旧蹟/腹切やぐら入口
元弘三年五月 新田義貞 鎌倉ニ乱入スルヤ 高時 小町ノ邸ヲ後ニ 父祖累世ノ墓所東勝寺ニ籠リ 百五十年來殷賑ヲ極メシ府下邸第肆纏ノ 今ヤ一面二焔煙ノ漲ル所トナルヲ望見シツゝ 一族門葉八百七十餘人ト共ニ自刃ス 其ノ北條執権史終局ノ惨憺タル一齣ハ 實ニ此ノ地ニ於テ演ゼラレタルナリ(鎌倉町青年団)
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東勝寺跡

国指定史跡「東勝寺跡」は、国指定史跡「鶴岡八幡宮境内」の南東、滑川を渡った葛西ヶ谷と呼ばれる谷戸に立地する。滑川の西岸には、最後の北条氏得宗・高時一族の菩提を弔うために、後醍醐天皇が高時邸跡に建立した宝戒寺がある。宝戒寺のある市街地と葛西ヶ谷とを結ぶ橋は東勝寺橋という。東勝寺は青龍山と号し、開基は三代執権の北条泰時、開山は栄西の弟子の退耕行勇である。当初は禅密兼修の北条得宗家の氏寺で、正確な創建年代は不詳だが、開山の退耕行勇は仁治二年(1241年)に東勝寺で没している。元弘三年(1333年)523新田義貞等の鎌倉攻めにより屋敷を焼かれた北条高時は葛西ヶ谷に引き籠もり、東勝寺の伽藍堂舎に火をかけて、一族郎党以下八百七十余人とともに自害して果て鎌倉幕府は滅亡した(『太平記』)。東勝寺はその後直ちに再興され、室町時代には関東十剰の第三位に列する名刺であったが、元亀4年(1573年)には旧東勝寺の所領が建長寺の僧侶に与えられていたことが明らかであり(仏日庵文書)、この頃には廃絶していたと考えられる。葛西ヶ谷は、滑川で限られた西に向かって開口する谷戸(約10万ヘクタール)で、貞享2年(1685年)刊行の『新編鎌倉志』にはこの地が東勝寺の旧跡であると記載されている。谷戸は三つの支谷に分かれており、指定予定地は北側及び中央の支谷とその周辺の丘陵部で、「高時腹切やぐら」と通称される八百七十余人首塚を含む範囲である。昭和5051年と平成89年に北側及び中央の支谷を中心に発振調査が行われた。出土遣物の年代や炭化物層及び被熱の状況から、元弘3年には存在していたと推定される鎌倉石の切石を積み上げた石垣、切石を敷いた坂道、岩盤を掘削した溝、門跡と推定される地覆石列、礎石建物1棟(柱間66寸、2間×4間以上)、擁立柱建物1棟(柱間7尺、4寸角柱、桁行7間以上×梁間4間)等の遺構が良好に遺存していることが確認された。北条氏の家紋である三鱗文の瓦が出土したことにより、ここが近世地誌の記載や伝承のとおり東勝寺跡の重要な一画であることが判明した。出土遺物には一般の寺院跡ではみられない中国産の獣足青磁香炉・獣足褐軸香炉・天目茶碗、国産の古瀬戸朽葉文壷等が多数含まれており、流通と対外貿易を掌握していた北条得宗家の氏寺跡ならではの優品として注目される。発掘調査と併せて実施した周辺部の地形調査では滑川を前面の堀とし、丘陵部に崖を切り落とした人工的な切岸、削平平場を配置して要害化した状況がよく残っており、城郭的な色彩の強い寺院構造であったことが確認されている。東勝寺は、北条得宗家の邸宅のすぐ東側に位置し、政権の最高権力者の得宗家を守ることを目的の一つとして建立されたことは明らかである。東勝寺跡は北条泰時が創建した得宗家の氏寺跡で、鎌倉幕府、北条氏得宗・高時一族の終蔦の地となった。城郭的な機能を持った寺院跡としても特異であり、禅宗寺院としての寺格も高く、遺構・遺物の遺存状態も良好である。よって、史跡に指定し保存を図ろうとするものである。(国指定文化財等データベース)


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東勝寺橋/滑川

東勝寺橋は鉄筋コンクリートが積極的に導入された震災復興期の大正13年(1924)に建造されたアーチ構造の橋です。太く安定感のあるアーチリング、V字型の谷間との微妙なバランスなどその美しい姿は多くの人々に愛され、平成11年(1999)には「かまくら景観百選」に選定されました。(鎌倉市)


・・・小町

商業でにぎわう店などがありそれほど大きくない町という意味で大町にたいして呼ばれた地名です。(鎌倉市)

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小町大路


d0183387_22261752.jpg北条執権邸旧蹟/宝戒寺入口
往時此の地に北条氏の小町亭在り 義時以後累代の執権概ね皆之に住せり 彼の相模入道が朝暮に宴筵(えんえん:宴会)を張り 時に田楽法師に対し列座の宗族巨室(重臣)と倶(とも)に 直垂(ひたたれ)大口(おおくち:大口袴)を争ひ解きて  纏頭(てんとう:褒美)の山を築けりと言ふも此の亭なり 元弘三年 (1333)新田義貞乱入の際 灰塵に帰す 今の宝戒寺は 建武二年(1335) 足利尊氏が高時一族の怨魂忌祭の為 北条氏の菩提寺東勝寺を此の亭の故址に再興し 以て其の号を改めしものなり(鎌倉町青年団)  

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本堂                 聖徳太子堂

宝戒寺
(ほうかいじ)
天台宗の寺院。山号は金龍山。詳名を金龍山釈満院円頓宝戒寺と称し、本尊は地蔵菩薩。萩の名所として知られ「萩の寺」とも呼ばれる。寺域は北条義時以来の歴代の鎌倉幕府執権の屋敷地跡と伝える。『吾妻鏡』によれば、鎌倉幕府最後の執権・北条高時は1333年(元弘3年)522日、新田義貞の軍に追い詰められて葛西ヶ谷(かさいがやつ、宝戒寺の裏山)の東勝寺で自害、一族郎党870余名も運命を共にし、鎌倉幕府は滅亡した。宝戒寺蔵の1335年(建武2年)328日付の足利尊氏寄進状に、同寺は「北条高時の慰霊のため、その屋敷跡に後醍醐天皇が建立した」旨の記述があり、後醍醐天皇が天台宗の高僧・円観慧鎮を開山としてこの寺を造営しようとしていたことは事実と思われる。しかし、実際の造営は、後醍醐天皇による建武の新政が崩壊し、同天皇が没した後に足利尊氏らによって行われたと推定されている。Wikipedia


d0183387_22275398.jpg日蓮上人辻説法之址
此辺は往昔に於ける屋敷町と商家町との境をなす地点に位し 幕府に近きこととて 殷賑(隆盛)を極めし所なり 建長五年(1253)五月 日蓮聖人房州より鎌倉に来り松葉が谷に草庵を結び 日に日に此辺りの路傍に立ち 弘通(ぐつう:布教)の為め民衆に対し獅子吼(ししく:強声)を続けし址なりとて 世に辻説法の旧蹟と伝へらる(鎌倉町青年団)


鎌倉幕府址の推移
・治承4年(1180)源頼朝鎌倉に入り、大蔵の地に邸を設ける(大蔵幕府旧蹟) 
・家禄元年(1225)幕府を宇津宮辻に移す(宇都宮辻幕府旧蹟) 
・嘉禎2年(1236)幕府を若宮大路に移す(若宮大路幕府旧蹟)
(元弘3年(1333)北条一門滅亡)

d0183387_22382746.jpg大蔵幕府旧跡/清泉小学校・南西角

今を距る七百三十七年の昔 治承四年(1180) 源頼朝邸を此の地に営後覇権を握るに及びて政を此邸中に聴く 所謂大蔵幕府是なり 爾来 頼家 実朝を経て 嘉禄元年(1225)  政子薨(こう)じ 幕府の宇津宮辻に遷()れるまで 此の地が覇府の中心たりしこと 実に四十六年間なり鎌倉町青年会)


d0183387_23291089.jpg若宮大路幕府旧蹟/野尻邸(旧大佛次郎茶亭跡)隣
鎌倉の幕府は初め大蔵に在りしが 嘉禄元年(1225)政子の薨(こう)ずると共に 将軍藤原頼経之を宇都宮辻)に遷し 後十一年にして 嘉禎二年(1236) 再び此の地に遷す  爾来九十八年 頼経以後六代の将軍相継ぎて政を此に聴けり 元弘三年(1333) 新田義貞鎌倉に乱入するに及びて廃絶せり(鎌倉町青年団)


d0183387_23291564.jpg宇都宮辻幕府旧蹟/宇都宮稲荷隣
仏鎌倉幕府は始め大蔵に在りしが 嘉禄 元年(1225)政子薨(こう)じてより之を他に遷さんとの議()起り及 (すなわ)ち時房 康時等巡検評議の末 同年十一月この他に造営 十二月将軍藤原頼経此に移り住す 爾後嘉禎二年(1236) 頼経再び之を若宮大路に遷せるまで  天下の政令の此に出ずるもの凡そ十二年なり(鎌倉町青年団)



d0183387_22382989.jpg畠山重忠邸址/
流鏑馬道・東側入口
正治元年(1199)五月 頼朝の女(むすめ)三幡疾み 之を治せんが為 当世の名医丹波時長京都より来れる事あり 東鑑に曰く七日 時長 掃部頭(かもんのかみ)親能(ちかよし)が亀が谷の家より 畠山次郎重忠が南御門(みなみみかど)の宅に移住す 是と此の地即ち其の南御門の宅の蹟なり(鎌倉町青年団)



by Twalking | 2015-06-02 10:28 | 鎌倉散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 小町大路(1)大町   

日時 2015.5.30(土)
天気 晴れ 

名越坂を下り、小町大路・大町界隈をぶらり、
ここは日蓮上人ゆかりのお寺が多いですね。
街中ですが、裏通りは静かな佇まい、和みます。


・・・大町

大町大路ぞいに多くの町屋がならび「まち」が大きかったのでその名がついたといわれています。(鎌倉市)


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小町大路
(こまちおおじ)
鎌倉幕府による都市計画の中核をなす「六大路」の一つで、東鑑にもその名が記されている。若宮大路の東側を並行する。朝比奈切通しから鎌倉中心部に向かう金沢街道の突き当たり「筋替橋」を基点とし、ほぼ南向きに材木座海岸に向かっていた。途中、宝戒寺前で横大路を横切り本覚寺前で夷堂橋を渡り、大町四つ角で大町大路を横切り、魚町橋(すぐ近くには逆川橋がある)の約100メートル先の本興寺手前で車大路を横切り、乱れ橋を渡って材木座海岸に至る鎌倉時代の基幹大路であった。なお、そこから左折すると光明寺門前を経て小坪坂を越え三浦方面に向かうことができた。小町大路の両側には、幕府高官・有力御家人の屋敷が並び、とくに大町四つ角以南は当時の鎌倉随一の商業地区でもあった。また、日本最古の築港とされる和賀江島への流通経路にもあたり繁華を極めていた。このため、日蓮聖人のいわゆる「辻説法」も、この大路のあちらこちらで行われたものと考えられ、大路の2箇所に辻説法跡の記念碑(大町の本興寺門前、及び小町2丁目)が建てられている。Wikipedia

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松葉ヶ谷(まつばがやつ)
鎌倉市大町の名越(なごえ)に含まれる一地域名。建長5年(1253)に日蓮が、安房国清澄寺から鎌倉に入り、松葉ヶ谷草庵(後に法華堂と号する)を構えた場所。その後、文永8年(1271)(龍ノ口法難)までの約18年間、日蓮の布教活動のための起居の場所となる。また、文応元年(1260)に『立正安国論』を著した場所。「草庵跡」は妙法寺(日蓮在住19年の旧跡で日蓮宗最初の寺)、長勝寺(日蓮の庵室跡で日朗、日印、日静が住居とし本圀寺の前身となった寺)、安国論寺(立正安国論を著した岩窟がある寺)の三寺である。
Wikipedia


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長勝寺(ちょうしょうじ)
伊豆に配流されていた日蓮が鎌倉に戻り、この地にあった石井長勝の邸内に庵を結んだことが当寺の発祥です。京都本國寺の前身と伝えられており、日静の代、貞和元年(1345年)に寺号が京都に移った後、石井山(せきせいざん)長勝寺と号し今日に至ります。境内の建物のうち、法華堂は県指定重要文化財。室町時代末期の造営と推定されています。また、日蓮大聖人の銅像は、鎌倉辻説法を写しています。毎年211日には國祷会といわれる厳しい寒さの中で冷水を浴びる荒行が行われます。(鎌倉市)



d0183387_20541256.jpg日蓮上人草庵阯/安国論寺前

建長五年(1253)日蓮上人 房州小湊より来たり 此地に小庵を営み始めて法華経の首題を唱へ 正嘉元年(1257)より文応元年(1260)に及び 岩窟内に篭(こも)り 立正安国論一巻を撰述せしは即ち此所なりと言う(鎌倉町青年團)


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安国論寺
(あんこくろんじ)
当山は日蓮聖人松葉ヶ谷御小庵の霊跡です。御小庵の元となった岩窟(『御法窟』または『日蓮岩屋』という)が本堂の向かいにあります。この御法窟で日本国の安泰と人々の幸せを願って文応元年(1260)七月十六日、前執権北条時頼に建白した『立正安国論』が執筆されました。翌827日に立正安国論に反感をもつ人々に庵が襲われました。これは『松葉ヶ谷の法難』といわれています。本堂の裏山に一時避難した『南面窟』があります。境内は四季折々の花や紅葉で彩られています。なかでも御小庵の傍らの山桜は、日蓮聖人の桜の杖が根づいたといわれ、『妙法桜』と呼ばれています。サザンカやカイドウと共に鎌倉市の天然記念物に指定されています。(鎌倉市)


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釈迦堂址

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仁王門                大塔宮御墓

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鎌倉市内・稲村ヶ崎の景観が望めます

妙法寺
(みょうほうじ)
日蓮宗 楞厳山(りょうごんざん)妙法寺 延文2年(1357)建立 開祖 日蓮聖人(中興開山 日叡上人)
ここは、布教のため安房から鎌倉に入った日蓮聖人が、最初に草庵、いわゆる松葉ヶ谷御小庵を結んだと伝えられている地です。辻説法などで他宗を批難したため草庵が焼き打ちされた「松葉ヶ谷の法難」の場所もこのあたりであるとの伝承があります。のちに護良親王の皇子である楞厳丸(日叡)が、悲壮な最期を遂げた父母の供養と日蓮聖人の遺跡を守るためにこの寺を建て、山号を楞厳山としました。本堂は、細川家の寄進による見事な欅造りです。護良親王の墓がある山頂からは、市街地と海を見渡せます。(鎌倉市)



d0183387_23314379.jpg佐竹屋敷址/大砲寺

此所は佐竹四郎秀義以降 代々の屋舗跡と云ふ 昔当所に佐竹氏の霊社ありしが 後年村内天王社に合祀す 後の山を佐竹山と呼ぶ 其の形 扇の地紙に似て 中に三本の畦あり 左右を合て五本骨の如し(鎌倉町青年團)



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多福明神社              新羅三郎義光義盛霊廟       

大宝寺
(たいほうじ)
鎌倉市大町にある日蓮宗の寺院。開山は日出上人(文安元年・1444年創建)。本尊は三宝祖師。境内には佐竹氏の守護神社の多福明神社(大多福稲荷大明神)がある。佐竹氏の遠祖にあたる源義信(新羅三郎義光)は永保3年(1083年)の後三年の役戦勝は、日頃から信仰していた多福大明神の加護によるものとし、この地に多福神社を建てたと伝承される。その後、この地は源頼朝により佐竹秀世義へ与えられて屋敷を構え、代々佐竹氏の居館となった(佐竹隆義・秀義は源義光を祖に持ち、常陸国北部に基盤を持っていた。最初、頼朝の下に参陣せず秀義は富士川の戦い直後に征伐され、奥州に落ちのびた。文治5年(1189年)に頼朝に帰順し、奥州合戦で武功を上げたため御家人となる)。応永6年(1399年)に佐竹義盛が若くして出家し多福寺を建立した。一旦、廃寺(大町の八雲神社に合祀)となった後、文安元年(1444年)に一乗院日出上人(本覚寺の開山でもある)によって再興された。その際、旧寺号を山号とし多福山大宝寺と改名された。明応8年(1499年)に松葉ヶ谷妙法寺の日証上人により八雲神社から多福神を再び境内に勧請する。Wikipedia

源 義光 
平安時代
後期の武将。河内源氏の2代目棟梁である源頼義の三男。兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(加茂二郎)がいる。近江国の新羅明神(大津三井寺)で元服したことから羅三郎と称した。義光の子孫は、平賀氏、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏、簗瀬氏と在地武士として発展した。本家の河内源氏に対しては、義光系の甲斐源氏(武田義信・加賀美遠光・安田義定など)が一族内で分裂をせず頼朝軍に合流したため、影響力を維持した。ただしその勢力の大きさから警戒され、武田信義が失脚、その子・一条忠頼が暗殺され、加賀美遠光は逆に厚遇されるなど抑圧・分裂策により御家人化していった。一方、常陸源氏の佐竹氏は、平家と結んで源頼朝後の東関東に影響力を伸ばしたが、鎌倉幕府成立により所領没収となり、後奥州合戦に加わって領地は戻るが振るわず、活躍は室町時代に入ってからである。Wikipedia


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徳治3年銘の宝篋印塔(鎌倉最古)  北条政子の供養塔  

安養院
尼将軍と称される北条政子が、夫である源頼朝の冥福を祈るために佐々目ガ谷に建立した祇園山長楽寺が前身であると伝えられます。その後、鎌倉末期に善導寺の跡(現在地)に移って安養院になったといいます。安養院は北条政子の法名です。延宝8年(1680)に全焼したため、頼朝に仕えていた田代信綱がかつて建立した田代寺の観音堂を移します。こうして「祇園山安養院田代寺」となりました。(鎌倉市)



d0183387_00355351.jpg夷堂橋(えびすどうばし)/本覚寺前

鎌倉十橋の一つで、このあたりは昔は夷堂があったという。この川(滑川)は上流は胡桃川と言い、浄妙寺門前に至ると滑川の名前がある。文覚屋敷と伝えられるあたりでは座禅川と唱え、このあたりでは夷堂川と呼び、延命寺の傍らではすみうり川と名付けられている。閻魔堂の址のあたりでは閻魔堂川という。(鎌倉町青年團)



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本覚寺
本覚寺のあるこの場所は幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝が鎮守として夷堂を建てた所といわれています。この夷堂を、日蓮が佐渡配流を許されて鎌倉に戻り、布教を再開した際に住まいにしたと伝えられます。その後、鎌倉公方・足利持氏がこの地に寺を建て、日出に寄進したのが本覚寺であるといい、二代目住職の日朝が、身延山から日蓮の骨を分けたので「東身延」と呼ばれています。日朝は「眼を治す仏」といわれ、本覚寺は眼病に効く寺「日朝さま」の愛称で知られています。十月は「人形供養」、正月は福娘がお神酒を振舞う「初えびす」でにぎわいます。鎌倉の住人、名刀工・正宗の墓が境内にあります。(鎌倉市)



d0183387_18373392.jpg比企能員邸址/妙本寺総門
能員は頼朝の乳母比企禅尼の養子なるが 禅尼と共に此の地に住せり 此の地比企が谷の名あるも之に基づく能員の女(むすめ) 頼家の寵を受け若狭局と称し 子一幡を生む 建仁三年(1203)頼 家疾()むや母政子関西の地頭職を分ちて 頼家の弟千幡に授けんとす 能員之を憤り蜜(ひそか) に北条氏を除かんと謀)る謀泄()れて 郤()つて北条氏の為一族此の地に於て滅さる。(鎌倉町青年団)

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鎌倉最大級の木造仏堂建築/祖師堂


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妙本寺二天門             比企一族の墓


d0183387_19113755.jpg一幡の袖塚
比企の乱後、焼け跡の中からわずかに見つかったという袖をまつる。戦火の中、6歳で死んだ一幡の袖だという。


妙本寺
妙本寺のある谷戸は比企谷(ひきがやつ)と呼ばれ、鎌倉時代には比企能員一族の屋敷があった。比企能員(よしかず)は源頼朝に仕えた御家人で、頼朝の乳母・比企尼の養子にあたり、妻は源頼家の乳母、娘の若狭局は頼家の妻となり頼家の子・一幡を生むなど、源氏とは深い関係を持った。1203年(建仁3年)頼家が病気で倒れると次の将軍を誰にするかで、千幡(後の源実朝)を推す北条氏と、若狭局が生んだ一幡を推す比企氏の間で争いが起きた。能員は頼家と北条氏討伐を謀るが察知され名越で殺害され、比企一族は比企谷の谷戸(小御所)に篭って北条氏らの軍勢と戦うが敗れ、屋敷に火を放って自害した(比企能員の変)。若狭局は池(蛇苦止の池)に身を投げて自害し、一幡も戦火の中で死んだ。能員の末子・能本は生き残り、後に京都へ行き順徳天皇に仕え、承久の乱で順徳天皇が配流になると佐渡まで供をした。彼の姪にあたる竹御所(源頼家の娘)が4代将軍九条頼経の妻になったことから許されて鎌倉に帰った。1234年(文暦元年)竹御所は出産時に死去する。新釈迦堂が建立され竹御所は新釈迦堂のその下に葬られた。1253年(建長5年)能本は日蓮に帰依する。1260年(文応元年)能本は菩提を弔うため、日蓮に屋敷を献上し法華堂を建立する。これが妙本寺の前身である。その後、日蓮の弟子・日朗が妙本寺を継承し、日蓮宗の重要な拠点となった。池上本門寺と当山は両山一首制で一人の住職が管理していた。両山一首制は1941年(昭和16年)まで続いた。Wikipedia

比企氏

平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡と東松山市)を領した藤原秀郷の末裔を称する関東の豪族。一族は族滅したため、詳細な史料が残らず、系譜も明らかではないが、一族である比企尼が源頼朝の乳母を務めた関係から、比企氏は早い時期から頼朝を支えた御家人となる。比企氏の家督を継いだ能員が、頼朝の嫡男で鎌倉幕府2代将軍となる頼家の乳母父となった事から、将軍外戚として権勢を強めた。しかし頼家の母方の外戚である北条氏との対立により比企能員の変(比企の乱)が起こり、一族は滅亡した。Wikipedia



by Twalking | 2015-06-01 20:02 | 鎌倉散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 浦賀道 名越切通   

日時 2015.5.30(土)
天気 晴れ


真夏日ですね。
まんだら堂やぐら群が公開されていると聞きましたので、
鎌倉七口のひとつ名越切通を逗子側から鎌倉へ越え、
大町&小町当たりの寺社や旧跡を歩いてきました。

名越切通や祇園山ハイキングコースなどは森の中ですから
ひんやりとしていて空気が違いました。
尾根上の展望台から見る景色はなかなかのものですね。。。


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披露山の右手奥を目指します/逗子海岸

浦賀道
(うらがみち)
浦賀へと到る東海道の脇往還(街道)である。保土ヶ谷宿と戸塚宿より延びる2本の道があり、三浦半島各地へ向かうための交通路として利用されていた。浦賀街道とも呼ばれる。771年(宝亀2年)に武蔵国を編入するまで東海道は三浦半島から対岸の上総国へ抜けており、鎌倉~馬掘付近の経路は後の浦賀道(鎌倉道)と重なる。鎌倉時代には鎌倉から三浦半島へ通じる唯一の道として重要視されていた。また保土ヶ谷からの道は鎌倉時代に開かれたとされる。江戸時代に入ると江戸湾口に位置する浦賀が発展し、街道の重要度も増していく。江戸湾に入る船舶の監視を行っていた下田奉行が享保5年(1720)に浦賀へ移転すると、幹線道路として整備された。特に黒船来航など外国船がしばしば来訪した幕末は人馬の往来が盛んであった。保土ヶ谷宿から東京湾側の六浦湊、横須賀を経由する道と戸塚宿から相模湾側の鎌倉、葉山を経由する道があり、前者の六浦以北は金沢道、また後者は鎌倉道とも呼ばれた。(Wikipedia)


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311号を北へ、前方の尾根を越えて鎌倉に向かいます。

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横須賀線のトンネル上が切通です     小坪階段口から切通へ

小坪

律令時代に入ると畿内から常陸国に至る古東海道が開かれた。足柄峠から相模国に入った古東海道は、鎌倉から姥子台を越えて小坪に入り、さらに披露山を越えて現在の逗子市中心部を通り、三浦半島を横断して横須賀市の走水から海路で房総半島に渡ったものと考えられている。ただし、律令時代の官道は後の街道より広く直線的に建設されたと考えられており、旧小坪路と称される、現在も所々に残る細く曲がりくねった山道が古東海道の一部であったかどうかは異論が残る。下って治承4年(1180)の源頼朝の挙兵に際し、当時三浦半島に勢力を持っていた三浦氏の三浦義明、義澄親子は源氏方に付くが、緒戦の石橋山の戦いには大雨のために合流できず、三浦に引き返すところ、平家方の畠山忠重と遭遇し、824日この地で合戦となった。畠山勢が由比ヶ浜に、三浦勢が小坪峠に陣を敷いたこの合戦を、小坪合戦または小壺坂合戦と称する。貞永元年(1232)には、飯島崎鎌倉側に貿易港である和賀江島が築港され、一方で小坪は鎌倉に魚介類を供給する漁港として発展することになる。小坪には伊勢・志摩の商人や海女も移住し、その名残は旧小坪村の中心であった湾沿いの4地区(南町・伊勢町・中里・西町)の地名の中にも伺える。1250年頃には魚介類を扱う魚座(いおざ)が開設されていたとされ、以後、江戸から近代に至るまで、漁港として栄えた。また、小坪湾と逗子海岸を隔てる大崎上の披露山(ひろやま)は、鎌倉時代、将軍への献上物を披露する場所であったとも、あるいはそれを担当する役人の在所であったとも言われる。(Wikipedia抜粋)



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「第一切通」

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「第二切通」                    「第三切通」

名越切通(なごえきりどおし)
名越切通は、鎌倉から相模湾沿いに三浦半島を結ぶ交通路で『吾妻鏡』天福元年(1233)8月18日条にとして初めて登場し、明治時代になって直下を通る現在の横須賀線や県道のトンネルが開通するまで、長い間幹線道路として使い続けられた重要な道です。急峻な尾根を掘り割って造られた切通は、時代が下るにつれて通行しやすいように改修したり、地震等で崩れては復旧を繰り返しているため、鎌倉時代の姿そのものではありません。しかし、その周辺には横穴式の供養施設であるやぐらが150基も集中する「まんだら堂やぐら群」や死者を荼毘に付した跡など、中世の葬送に関する遺構が数多く分布するほか切通の防衛にも関係すると考えられる人工的な平場や大規模な石切場(大切岸)が尾根筋に見られるなど、古都鎌倉の周縁の歴史的景観をたいへん良く残しています。(逗子市教育委員会)

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JRトンネルの鎌倉側出口付近

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名越切通を振り返って               JR踏切(鎌倉側)から

(名越切通)
鎌倉市南東部から逗子市に抜ける道である。鎌倉七口のひとつに数えられる。名越切通は、鎌倉と三浦半島を結ぶ要路のひとつであり、戸塚宿から鎌倉を経て浦賀へ続く浦賀道の一部でもあった。切通を含む名越路(名越坂とも)は、より南側にある小坪路とともに、かつては鎌倉から三浦半島へ連絡する数少ない陸路であった。鎌倉側の地域名ともなっている「名越」の名は、この道が峻険で「難越」(なこし)と呼ばれたことに由来すると言われる。道はいくつかの小さな切通を経由しながら、逗子市小坪の谷戸の最奥部を巻くように進む。途中には、谷戸(京浜急行バス「緑ヶ丘」バス停付近)に下りる道もある。現在の逗子側出口は、切通し道に連なる尾根上が「亀が岡団地(逗子市小坪一丁目)」として開発されている。逗子側出口近く、逗子市の資料では「第一切通」と呼ばれる切通しは、名越切通の道筋にある複数の切通しのなかでも最も大きく深い。これが『新編鎌倉志』に記された「大空峒(おおほうとう)」ではないかと言われているが確証はない。また『新編鎌倉志』には「左右ヨリ覆ヒタル岸二所」とあるが、実際には小規模な切通しは数箇所あり、どれが「小空峒(こほうとう)」にあたるかは定かではない。「亀ヶ岡団地」の北側に沿って歩くと急坂を経て、切通し下の名越隧道ほかを抜けてきた県道311号鎌倉葉山線に出る。急坂下、県道の少し手前には再び庚申塔があり、この道筋が名越路の逗子側からの登り口であったことが判る。平成12年(2000年)に第一切通し部分で通路を横断する形で行われたトレンチ調査の結果、現在の路面のおよそ60cm下までに4度の道路補修跡が確認された。最下の60cm下の路面上から18世紀後半以降の焼物片が発見され、少なくとも江戸時代半ば以降、現在より低い位置を通る道が崖面からの瓦礫等で埋まりかさ上げされてきたことが判明した。また、第一切通のもっとも狭まった部分は道幅が約90cmしかなく、しかも崖面が斜めになっているために人一人がやっと通れる程度で、切通しの防衛的性格の表れであると評されることも多いが、これも平成16年度(2004年度)の崩落防止工事に伴う調査で、かつては270cm以上あった道幅が岩塊の崩落で狭まった結果であることが確認されている。一方で平成21年度には、現在の第一切通より逗子寄りにある、現在の切通し道より約5m高い平場で15世紀以前のものと考えられる細い掘割り道の遺構が発見されており、こちらが中世の名越切通の本道であった可能性も指摘されている。また、第一切通の現路面から約8m上の崖面に崩れかけたやぐらが発見されており、これも当初の路面がかなり高い位置を通っていた傍証とされる。(Wikipedia抜粋)


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やぐら                全景/展望台

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駿河湾展望/展望台

まんだら堂やぐら群期間限定の公開
やぐらは、鎌倉とその周辺地域に見られる特殊な遺構です。まんだら堂やぐら群は、150穴以上が集結して造られており、やぐら群として最大級の規模を誇ります。明確な文献資料がなく「まんだら堂」とは何なのか、いつどのように造られたのか等は不詳ですが、整備に先駆けて実施した発掘調査の結果、やぐら内部に石塔を据えて納骨・供養する施設として13世紀後半頃から造られ始め、おおむね15世紀いっぱい(部分的には16世紀まで)行われていたと考えられます。これだけまとまった数のやぐらを見ることのできる遺跡は鎌倉市内にもほとんどなく、たいへん貴重です。(逗子市教育委員会)

d0183387_12584132.jpg火葬跡

この場所の70cmほど地下で、岩盤を四角く掘った穴が2基発見されました。穴の内側は黒く焼け焦げており、ここで遺体を火葬したと考えられます。やぐら群の前の平場では、火葬の痕跡が多く見つかっていますが、その多くは楕円形で浅い皿形をしていて、このような四角い形の火葬跡は比較的珍しいものです。(逗子市教育委員会)



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お猿畠の大切岸
お猿畠の大切岸は、800m以上にわたって 高さ310mの断崖が 尾根に沿って連続する壮大な遺構です。従来、鎌倉幕府が三浦一族の攻撃に備えて守りを固めるため 切通の整備と併せて築いた防衛遺構だと言われてきましたが、平成14年度の発掘調査で大規模な石切作業の跡だということが確認されました。これによって 鎌倉防衛の役割が完全に否定されたわけではありませんが、鎌倉では1415世紀の建物の基礎などに切石を大量に使用しており、ここはその頃の石材生産地だったと考えられます。なおお猿畠という地名は、鎌倉を追われた日蓮が この付近で三匹の白猿に助けられたという伝承に因むものです。(逗子市教育委員会)


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国指定史跡名越切通 あんない図(逗子市)

by Twalking | 2015-05-31 15:17 | ○鎌倉散歩

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 六浦道03 二階堂   

日時 2015.5.23(土)
天気 晴れ

・・・二階堂
源頼朝によって建てられた永福寺(ようふくじ)の本堂を二階堂といったのでこの地を二階堂と呼ぶようになったといわれています。(鎌倉市)

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d0183387_22404496.jpg 理智光寺址
此所ハ願行上人ヲ開山トセシ、五峰山理智光寺ノ址ナリ。建武二年淵邉伊賀守義博ハ足利直義ノ命ヲ承ケ、護良親王ヲ弑シ奉リシガ、其御死相ニ怖レ御首ヲ傍ラナル藪中ニ捨テ去リシヲ、當寺ノ住僧拾ヒ取リ山上ニ埋葬シ奉リシトイフ(鎌倉町青年團)



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護良親王墓

中先代の乱
1335(建武2)7月北条高時の次男北条時行が建武政権に抗して起こした反乱。当時執権北条氏を先代と呼んだので、その再興を図った時行を中先代と称した。この年6月北条氏と親密であった公卿西園寺公宗の建武政権転覆の陰謀が発覚したが、公宗と呼応するはずであった時行は旧北条氏御内人(みうちびと)諏訪頼重らに擁せられて信濃に挙兵し、武蔵に進んで女影原、小手指原、府中に足利軍を破った。当時成良新王を奉じ鎌倉にあって関東を治めていた足利直義は、武蔵井出の沢に時行軍を防いだが敗れ幽閉中の護良親王を斬らせ、成良親王を擁して東海道を西走し、時行軍は鎌倉を占拠した。(コトバンク)


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d0183387_23200364.jpg永福寺旧蹟

永福寺世ニ二階堂ト稱ス 今ニ二階堂ナル地名アルハ是ガタメナリ文治五年 頼朝奥州ヨリ凱旋スルヤ彼ノ地大長壽院ノ二階堂ニ擬シテ之ヲ建立ス 輪奐壮嚴洵ニ無雙ノ大伽藍タリキト云フ 享徳年間關東管領ノ歿落セル頃ヨリ後 全ク頽廢ス(鎌倉町青年會)



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復元想像CG

永福寺跡
(ようふくじあと)
鎌倉市二階堂にある史跡。永福寺は鎌倉時代初期、源頼朝が中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して建立した寺院で、鶴岡八幡宮、勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺社の一つであった。二階建てであった事から二階堂とも称された。現在、永福寺跡周辺が「二階堂」と呼ばれているのもこの建物が由来となっている。昭和58年から開始された調査で翼廊跡などが確認された。寺跡は国の史跡に指定されている。源頼朝は文治5年(11859月の奥州合戦を契機に、源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊をしずめ、冥福を祈るための寺院の建立を発願。その年の12月には永福寺の建立に着手した。建立には畠山重忠ら関東の御家人の助力があった事が『吾妻鏡』に記載されている。建久3年(11921125日に本堂が完成し、落慶供養が行われた。応永12年(1405)の火災ののち廃絶した。(Wikipedia)


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瑞泉寺
(ずいせんじ)
鎌倉市二階堂にある臨済宗円覚寺派の寺院。山号は錦屏山(きんぺいさん)。本尊は釈迦如来で、開基は二階堂道
道蘊ある。寺のある一帯は紅葉ヶ谷(もみじがやつ)と呼ばれる谷戸に位置している。特にスイセンが有名な「花の寺」として知られている。瑞泉寺の総門脇より入る山道は、瑞泉寺の裏山を通って建長寺、今泉方面へ出ることのできる天園ハイキングコースの一部となっている。瑞泉寺の裏山では、得宗最後の北条高時の首塚伝説を残す「首やぐら」と呼ばれるやぐら群がある。鎌倉幕府の重臣であった二階堂道蘊が嘉暦2年(1327)、夢窓疎石を開山として創建した寺で、当初は瑞泉院と号した。足利尊氏の四男で初代鎌倉公方の足利基氏は夢窓疎石に帰依して当寺を中興し、寺号を瑞泉寺と改めた。以後、鎌倉公方足利家の菩提寺となっている。禅寺として、鎌倉五山に次ぐ十刹(じっせつ)の筆頭格の扱いを受け、以後、夢窓派の拠点として重きをなしたが、公方家4代足利持氏による永享の乱で衰亡した。本堂裏の庭園は夢窓疎石による岩盤を削って作られた禅宗様庭園で、書院庭園の起源となった。荒廃していたのを後に発掘復元した。また、背後の山頂には徧界一覧亭と呼ばれる景勝地があったが、現在は入ることができない。(Wikipedia)


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庭園
境内の北の一隅の岩盤の正面に大きな洞(天女洞)を彫って水月観の道場となし、東側には坐禅のための窟(坐禅窟・葆光窟)を穿(うが)ちました。天女洞の前には池を掘って貯清池と名づけ池の中央は掘り残して島となしました。水流を東側に辿れば滝壺に水分け石があり、垂直の岩壁は滝、その上方をさらに辿れば貯水槽があって天水を蓄え、要に応じて水を落とせば坐雨観泉となるしつらえとなっています。池の西側には二つの橋がかかり、これを渡るとおのずから池の背後の山を辿る園路に導かれます。岩盤を彫刻的手法によって庭園となした「岩庭」とも呼ぶべきこの庭園は、書院庭園のさきがけをなすものであり、鎌倉に残る鎌倉時代唯一の庭園なのです。(瑞泉寺HP)

偏界一覧亭旧蹟(非公開)
亭ハ嘉暦三年 夢窓國師ノ建立ニシテ 五山ノ僧徒屡々詞會ヲ催セシ所ナリ 然ルニ其後頽癈セシヲ 徳川光圀一堂ヲ建テ 其傍ニ寮ヲ設ケ 一覧亭集詩板ヲ懸ケシトイフモ 堂寮共ニ今ナク 礎石ヲ存スルノミ。前毛また かさなる山のいほりにて 梢につヽく 庭の白雲ハ 夢窓國師ノ此亭ニテ詠メルモノナリト傳ヘラル(鎌倉町青年會)




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覚園寺
(かくおんじ)
鎌倉市二階堂にある真言宗泉涌寺派の仏教寺院である。山号を鷲峰山(じゅぶせん)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は北条貞時、開山(初代住職)は智海心慧(ちかいしんえ)である。鎌倉幕府執権北条家歴代の尊崇を集めた寺院である。相模国と武蔵国を結ぶ金沢街道から北に入った谷戸の奥に位置し、境内および周辺は自然環境が良好に保全され、都市化が進む以前の鎌倉の面影を最もよく残す寺の1つといわれている。鎌倉の地形の特色である尾根と尾根の間に深く入り込んだ谷(やつ)が覚園寺の境内となっている。覚園寺のある谷は薬師堂ヶ谷と呼ばれる。鎌倉宮(大塔宮)から覚園寺へ向かう道の途中の、庚申塔の立っているところがかつての覚園寺総門跡であり、その左手の谷に大楽寺があった。入口正面には愛染堂が建ち、その脇の参道を進むと薬師堂、地蔵堂、鎌倉市手広から移築した旧内海(うつみ)家住宅などがある。このほか、境内奥には開山智海心慧と2世大燈源智の墓塔(ともに重要文化財)、鎌倉十井の一である「棟立の井」などがあるが、公開されていない。覚園寺の裏山である鷲峰山の山頂付近の谷合には、「百八やぐら」と呼ばれる中世の横穴墓群があり、前述の総門跡の庚申塔の右手の細い道が鷲峰山への登り口になる。
Wikipedia)


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鎌倉宮
(かまくらぐう)
護良親王を祭神とする。別名大塔宮(おおとうのみや)。祭神である護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博によって殺められた。武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、明治2年(18692月、明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じた。614日に鎌倉宮の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営された。
Wikipedia)


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荏柄天神社(えがらてんじんしゃ) 
祭神 菅原道真 創建 良治元年(1104)古くは荏柄山天満宮とも称し、福岡の大宰府天満宮、京都の北野天満宮と並び日本三天神の一つに数えられてきました。平安時代中頃、雷雨とともに天神の姿絵が降りてきたのを里人が敬い、そこに神社を建てて祀ったのが始まりとされています。源頼朝が大蔵(現在の雪ノ下三丁目付近)に幕府を開くとその鬼門を守護する神社として崇められました。(鎌倉市)

d0183387_12143292.jpg荏柄天神

『和名鈔』当郡に「荏草」と記せる郷名あり。今、その名を失すれども当社付近の旧称なりしがごとし。草に「かや」の古訓あれば、「えがら」は「えがや」の転訛なるを、後、文字をさえ今のごとく改めしものか。社前の松並木を古来「馬場」と称す。本社はもと、中央に管公(菅原道真)束帯の坐像、右方に天拝山祈誓の立像、左方に本地仏十一面観音の像を安置せしも、勧請の年代を伝へず。頼朝公はじめて大蔵の地に幕府を設けし時、当社を以て鬼門の鎮守となす。爾来、歴代将軍の尊奉せし所。天文年間(15321555年)北条氏康社前に関を置き、関銭を取りて社料に供せしめし事あり。徳川氏の世には、鶴岡八幡宮造営の節毎にその余材残木を受けて本社修造に抵(あ)つるを例とせしと云ふ。(鎌倉町青年団)


・・・西御門(にしみかど)

源頼朝が大倉(蔵)に鎌倉幕府を建てたとき、四方に門を造りました。その西側の門を西御門というようになり、そのあたりの土地を西御門と呼ぶようになったといわれています。(鎌倉市)

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法華堂跡

堂はもと頼朝の持仏を祀れる所にして 頼朝の薨(こう:)後其の廟所となる 建保五年(1217)五月 和田義盛叛して火を幕府に放てる時 将軍実朝の難を避けたるは此の処なり 宝治元年(1247)六月五日 三浦康村此に篭りて北条の軍を邀(げき)へ 刀折れ矢尽きて 一族郎党五百余人と供に自尽し 満庭朱殷(しゅあん)染めし処とす(鎌倉町青年団)

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法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)
この平場は鎌倉幕府を開いた源頼朝の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。治承4年(1180)平家追討のために挙兵した源頼朝は同年鎌倉に入りました。元歴2年(1185)に平家を、文治5年(1189)に奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、鎌倉を拠点とする武家による全国的な政権の基礎を築きました。以降江戸時代が終わるまで約700年間に渡り武家による政権が続くことになります。建久10年(1199)に頼朝が53歳で没すると法華堂は幕府創始者の墳墓堂として後の時代の武士たちからもあつい信仰を集めました。鎌倉幕府滅亡後も法華堂は存続しましたが17世紀の初頭までに堂舎がなくなり、石造りの墓塔が建てられました。現在の墓域は安永8年(1779)に薩摩藩主島津重豪(しげひで)によって整備されたものです。(鎌倉市教育委員会)

・・・
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国指定史跡・法華堂跡(北条義時墓)
この平場は、頼朝の墓の東の隣接地に鎌倉第2代執権北条義時の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。北条義時は承久3年(1221)の承久の乱においては後鳥羽上皇方を破り、これ以降、鎌倉幕府は全国的な政権としてより強固なものとなりました。貞応3年(1224)に62歳で没しました。「吾妻鏡」には、源頼朝の法華堂の東の山の上を墳墓の地とし、そこに、新法華堂(義時の法華堂)を建てたことが記されています。義時の法華堂は鎌倉時代の終わりには途絶えたようですが、平成17年(2005)に行われた発掘調査により、8.4m四方の平面正方形の建物跡が確認され、「吾妻鏡」の記述が裏付けられました。(鎌倉市教育委員会) 


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毛利季光墓(左)            大江広元墓(中央) 


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島津忠久(右)            三浦氏のやぐらでしょうか


史跡名勝天然記念物:法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)

法華堂跡(源頼朝墓)は神奈川県の南東部に位置し、大蔵幕府跡推定地北側の山稜部とその南側山裾部に所在する。昭和2年の山稜中腹部の塚と石塔を源頼朝墓、山裾部の廟所跡(現在の白旗神社境内)を法華堂跡として史跡指定した。その後、赤星直忠氏の研究によって、源頼朝墓は法華堂と同一で中腹の平場が法華堂跡であることが明らかにされ、平成12年に法華堂跡(源頼朝墓)に統合・名称変更された。指定範囲は東西約110m、南北約70mである。 
二代執権・北条義時は元仁元年(1224)年613日に死去し、18日に葬儀が執り行われた。『吾妻鏡』18日条に「故右大将家法華堂東の山上を以て墳墓となす」、88日条に「今日。故奥州禅室墳墓堂<新法花堂と号す。>供養なり」とあり、法華堂跡(源頼朝墓)の東隣の山稜平坦地が北条義時の法華堂跡と推定されていた。『吾妻鏡』をはじめとする文献史料には幕府有力者が頼朝法華堂と義時法華堂を併せて参拝したこと、焼亡した両法華堂が幕府によって再興され修復維持されていたことなどが記されている。義時法華堂の存続期間は、文献史料上の終見が延慶3年(1310)であること(『鶴岡社務記録』等)、出土瓦の年代等から元仁元年から鎌倉時代末期ころまでと推定される。鎌倉市教育委員会は平成17年に発掘調査を実施し、一辺約28尺(8.48m)の方三間堂で、幅約4尺(1.21m)の縁が巡る法華堂跡を検出した。四周(南側は消失)には雨落ち溝が巡り、軒の規模で一辺41尺(12.4m)と推定される。鎌倉時代前期から後期の瓦が出土しており、瓦葺きと推定され高麗青磁梅瓶、青白磁水注破片等の高級貿易磁器も出土している。近世以降の耕作等による削平を受けており埋葬施設等は検出されなかった。義時法華堂跡境内の範囲は東西約80m、南北約110mである。
義時法華堂跡裏の斜面部には、近世に島津家と毛利家の墓所が営まれた。安永8年(1779)に鹿児島藩主島津重豪が島津氏初代忠久墓を造営し頼朝墓を整備した。文政6年(1823)には萩藩主毛利斉煕が毛利氏初代季光墓と季光父の大江広元墓を造営した。墓所はいずれも古墳時代の横穴墓を転用したものである。東側は島津忠久墓、中央が大江広元墓、西側が毛利季光墓で、島津家、毛利家は参道、石段、灯籠等も併せて整備している。頼朝の法華堂跡は標高25.5m、約9002の平場に、義時の法華堂跡は標高23.5m、約6002の平場に造営されており両者の主従関係を明示している。両法華堂跡は幕府を守護し、幕府の精神的な拠り所となった墓所跡、寺院跡である。よって北条義時の法華堂跡と源頼朝墓の参道付近を追加指定し、名称を法華堂跡(源頼朝墓)から法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)に変更し保護を図ろうとするものである。(国指定文化財等データベース)


by Twalking | 2015-05-26 12:52 | 鎌倉散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 六浦道02 十二所&浄明寺   

日時 2015.5.23(土)
天気 晴れ

・・・十二所
昔は、十二郷ヶ谷ともいわれたようです。十二軒の村だったのでこういう名前がついたのだとか、熊野神社の十二社があったからだともいわれています。(鎌倉市)

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十二所神社(じゅうにそうじんじゃ)
十二所の鎮守社。中世には三浦十二天(『吾妻鏡』)、近世期には十二天社(『新編相模国風土記稿』)十二天明神社、または熊野十二所権現社とも称された。創建年代は定かではなく、弘安元年(1278)との伝承があるが、寿永元年(1182811日の条には北条政子の出産に際して、奉幣使が派遣されたとの記述が(『吾妻鏡』)、さらに813日の条には十二所神社のほか諸社に源頼家誕生を祝って神馬を奉納した旨が記されている(『吾妻鏡』)ことなどから、遅くとも12世紀末までには確立していたと見られる。古くは、現在の光触寺境内にあったと伝えられる(『新編相模国風土記稿』)が、天保9年(1838)に現在地に再建された。当時、別当寺院を務めていた明王院所蔵の記録『十二所権現社再建記』によると、この再建事業は、氏子三十余軒による土地・用材の寄進と土木開墾の奉仕によるものであるという。明治新政府の神仏希釈分離政策や廃仏毀釈の動きにより現社名に改称され、1837年(明治6年)十二所地区の鎮守として村社に列せられた。(Wikipedia)


・・・浄明寺(じょうみょうじ)
昔は浄妙寺と書きましたが、浄妙寺があるので「妙」を「明」に改めたといわれています。(鎌倉市)


d0183387_15361865.jpg足利公方邸旧蹟/鎌倉市浄明寺4丁目

頼朝開府の初、足利義兼、居を此の地に卜して以来二百数十年間、子孫相嗣いで此の地に住す。尊氏、覇を握りて京都に遷るの後、其の子義詮、二代将軍となりて京都の邸を嗣ぎ、義詮の弟基氏、関東管領[初代鎌倉公方]となりて兵馬の権を此の邸に執る。而して之を子孫に伝ふ。子孫、京都に比擬して公方と僭称す。享徳4年(1455年)、公方成氏[五代鎌倉公方]、執事上杉憲忠[関東管領]との不和の事より下総古河に遷るに及びて、遂に永く廃虚となる。(鎌倉町青年会石碑)

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浄明寺周辺案内図



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本堂奥からの景観

浄妙寺
(じょうみょうじ)
山号は稲荷山(とうかさん)。詳名は稲荷山浄妙広利禅寺という。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は足利義兼、開山(初代住持)は退耕行勇。鎌倉五山の第五位。鎌倉市の東部、市の中心部から横浜市の金沢に抜ける金沢街道沿いにある。境内は南に開けた谷の中央に位置し、西には杉本寺と杉本城址、東は胡桃ヶ谷(くるみがやつ)があり、南に衣張山を望む。鎌倉五山の第五位の寺院として、かつては広大な寺地を有し、23箇院の塔頭を有していた。現在でも付近一帯の地名を「浄明寺」といい(地名は「妙」の代わりに「明」字を用いる)、住宅団地名にも使用されるなどその名残を残している。寺には婦人病に霊験のある神とされる淡島明神立像を安置することから、婦人病の祈願所とされている。境内墓地には足利義貞の墓とされる宝篋印塔がある。
本堂:寄棟造、銅板葺(もと茅葺)。平面は方丈形式の六間取りとする。江戸時代中期の建物だが、仏壇周辺などには室町時代の材が用いられている。
喜泉庵:天正年間(1573 - 1591年)に建立された茶室喜泉庵を復興したもの。枯山水庭園があり、有料で茶菓が供される。
稲荷山:寺の裏山で、藤原鎌足が子孫のために「霊鎌」を埋めた地とされ、これが「鎌倉」の地名由来となったという伝承がある。複数ある「鎌倉」の地名由来伝承の一つである。鎌足稲荷神社の小祠がある。


d0183387_16171214.jpg宝篋印塔:本堂裏の墓地に足利貞氏の墓と伝える明徳3年(1392)銘の宝篋印がある。基台の銘文により、罪障消滅・後生善根を願う逆修塔とされる。





d0183387_16183770.jpg足利義直墓とありました/石窯ガーデン奥








室町時代には浄妙寺の東側に足利公方屋敷が構えられ、足利尊氏やその子孫が居住していた。
境内に隣接して大休寺跡と延福寺跡がある。大休寺は足利義直(尊氏の弟)の菩提所、延福寺は足利高義(尊氏の異母兄)が母の追善のために建てた寺である。寺の西側の熊野神社付近が大休寺跡、裏山のカフェレストラン付近が延福寺跡である。(Wikipedia)


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報国寺
(ほうこくじ)
鎌倉市にある臨済宗建長寺派の寺院。山号は功臣山。本尊は釈迦三尊。境内に竹林があり「竹の寺」とも称される。鎌倉観音霊場第十番、鎌倉十三仏第八番
(観音菩薩)、東国花の寺百ヶ寺鎌倉5番札所。この寺は1334年(建武元年)天岸慧広の開山により創建されたと伝えられ、開基については足利尊氏の祖父足利家時とも上杉重兼ともいわれている。1438年(永享10年)におきた永享の乱で敗れた鎌倉公方方足利持氏の子義久がこの寺で自刃している。
Wikipedia)

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足利氏のヤグラでしょうか         竹林の庭園



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杉本寺
鎌倉市二階堂にある天台宗の寺院。山号は大蔵山。本尊は十一面観音で、坂東三十三箇所・鎌倉三十三箇所の第1番札所である。鎌倉最古の寺とされている。寺伝によれば天平6年(734)行基が十一面観音を安置して創建したのに始まるという。文治5年(1189)堂宇が焼失しているが、このとき観音像は自ら本堂から出て、境内に避難したと伝えられる。『吾妻鏡』によれば、中世には大倉観音堂と呼ばれ、文治5年(1189)の火災時には別当浄台房が炎の中から本尊を持ち出し無事であったという。同書には建久2年(1191)源頼朝が当寺を参拝し、修理料を寄進したとある。背後にはかつて杉本城があり、足利方の武将で鎌倉府執事を務めた斯波家長が拠ったが、南朝方の北畠顕家に攻められ、この寺で自害している。

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本堂(観音堂)
寄棟造、茅葺、方五間(正面側面とも柱間が5間)の密教仏堂である。棟札から延宝6年(1678年)の建立と判明する。堂内奥には本尊として3体の十一面観音像を安置し、他に前立十一面観音像、新十一面観音像、観音三十三応現身像、毘沙門天立像、地蔵菩薩立像(2体)などを安置する。

d0183387_17010473.jpg山門(仁王門)
切妻造、茅葺の八脚門。左右に金剛力士(仁王)像を安置する。江戸時代、18世紀半ば頃の建立。






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金沢街道から石段を上った先に山門(仁王門)が建ち、さらに上ったところに本堂(観音堂)が建つ。山門から本堂へ上る正面の鎌倉石の石段はすり減っていて通行禁止となっており、参拝者は左側の新しい階段を使用する。本堂の裏山は杉本城跡であり、本堂右手前には杉本城の戦いで戦死した斯波家長と一族の供養塔とされる石塔群がある。Wikipedia)


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杉本城

三浦氏の棟梁である三浦義明の長子で杉本氏の祖・杉本義宋が三浦半島を出て鎌倉郡杉本郷に居を構えて築城した。同地は三浦氏の勢力下で六浦道を抑える要衝であった。義宗は三浦氏の勢力が及ぶ安房国に水軍率いて出陣し、長狭常伴と合戦に及び待ち構えていた長狭勢からの矢傷が原因で杉本城内で亡くなるが、その後、義宗の長子、和田義盛は三浦郡和田郷に拠点を構え、義宗の次男、義茂が入城し、杉本の家督と城を守った。その後、源頼朝が伊豆の蛭ヶ小島で挙兵し、三浦一族は源氏方についたものの、頼朝勢が大庭影親勢と激突した石橋山の合戦で敗北した後、鎌倉由比ヶ浜に平家方の畠山重忠が進駐してきたが、三浦氏は畠山氏と姻戚関係にあるため、すぐさま合戦にはならなかったが、畠山勢の三浦勢攻撃と誤解した義茂は杉本城内から畠山勢に攻めかかり、合戦に及ぶなど杉本城は治承・寿承の乱(源平合戦)における軍事拠点として重要な役割を果たしている。南北朝時代、北朝方(足利方)奥州大将・斯波家長が朝夷奈切通から攻め入った杉本城の戦いで陸奥将軍府・北畠顕家軍に敗れ杉本城は落城の憂き目にあった。その後、現存する杉本寺境内に城跡としてその痕跡を残すのみとなっている。Wikipedia)


by Twalking | 2015-05-25 17:30 | ○鎌倉散歩