無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カテゴリ:中原街道(完)( 15 )   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中原街道(6)寒川~平塚03 中原   

日時 2015.10.25(日)
天気 晴れ

中原街道の目的地、中原御殿にゴールしました。
現在、跡地は中原小学校、碑が建っているだけですが、
周辺を歩くと往時を偲ばせる寺社や遺跡などがあります。

虎ノ門から60km、脇往還ということで最初は躊躇しましたが、
どうして、どうして、古代・中世の漂いが色濃く残っています。
東海道とはまた違った趣き、面白さがありました。
歩いてよかったなぁ~、と思っています。


・・・真土(しんど)

d0183387_19055113.jpg
諏訪神社前に残る旧道/東真土 


d0183387_19203218.jpg
d0183387_19204227.jpg
宮林交差点まで戻り左折        諏訪神社前の旧道を左折


d0183387_19245315.jpg

真土神社御由緒

創立年代 不詳 当神社の御祭神の数が多いのは真土地域内の各地に御鎮座する諏訪神社、白山神社、本宮神社、明神神社、八坂神社、稲荷神社、御嶽神社の各祭神を明治の年間に一社に合祀し真土の総鎮守としたのである。(説明板)


d0183387_19252281.jpg
d0183387_19300778.jpg
宮鐘と鐘楼の由来

諏訪社 村鎮守なり、円隆寺 鐘楼 天保4年(1833)の鋳造(天明7年再鋳の鐘を再び鋳替しなり)を懸く白山社 是も鎮守なり、東光寺持 △鐘楼 鐘は元文4年(1739)鋳造なり 真土には江戸時代、村の鎮守が二社、諏訪社と白山社があり、それぞれに鐘楼があり鐘が懸けてあったと、天保12年(1841)に編纂された『新編相模国風土記稿』に記されています。白山社の鐘は安政34月(1856)国家急海防のために供出。諏訪神社(真土神社に明治八年合祀)の鐘は、第二次世界大戦中の昭和173月(1942)供出応召された。共に時代が大きく変貌するときに大砲、小銃、弾丸に変わって往った。現在の宮鐘は大正6年(1917)に鋳造された四代目です。この鐘楼は大正6年(1917)に諏訪神社(東真土4丁目139番ノ1)より宮鐘と共に移築されたものです。供出された宮鐘の銘文によれば、初代の宮鐘は安永7年(1788)に鋳造されておりしたがって、この鐘楼は江戸時代の中頃に造られたものと思われます。

蛙股の彫刻 
この鐘楼には、近隣ではあまり例を見ない四神を彫刻した蛙股が取り付けられています。四神とは、中国の周代に始まった四方を守護する神で、東方を青龍、西方を白虎、南方を朱雀(鳳凰)、北方を玄武(亀と蛇の合体)といいます。奈良県の高松塚古墳の壁画、明日香村・キトラ古墳の壁画、薬師寺の仏像台座、群馬県の前双子山古墳の須恵器にも四神が描かれています。東・青龍は、天から恵みの雨を降らせ、豊作をもたらし、家運を隆盛にさせます。西・白虎は、女性に子宮と安産を授けて、夫婦円満に導くとされています(この白虎おなかが大きい)。南・朱雀は、その翼で災厄を払いのけて、大いなる福を招くとされています。北・玄武は、長寿と福を招く亀と災厄を寄せ付けない蛇の霊力を合わせ持ち、長寿と繁栄をもたらすとされています。(真土神社)


d0183387_19341448.jpg
左への道が残っている旧道です


d0183387_19354030.jpg古道中原街道/
真土神社前
古来より真土を斜めに横断している古道があった。海ぎわの東海道が整備される以前から、この道は相模道・奥州道などと呼ばれ、大磯から中原を通り真土・用田・小杉を経て江戸に入り、更に奥州へ至る古道であった。家康は、関東移封のときやその後中原に御殿をつくり、たびたび宿泊をして鷹狩りを楽しむなど好んでこの道を用いた。その後、江戸が政治の中心になるにしたがい東海道が整備されたため、中原街道の公的な役割は薄れ脇街道となっていった。しかし、この道は起伏が少なく江戸への最短距離であったため、急ぎ旅の者や物産輸送におおいに利用された。いまでも中原街道の名称は各地に残っているが、最も良く昔の面影を残しているのは真土地区であるといわれている。この道で展開されたロマンや役割を大切に伝えていきたいものである。(真土連合会自治会 真土神社 平塚市観光協会)


d0183387_19415664.jpg真土大塚山/真土神社前 
神獣鏡の碑
真土神社の北西400mにあった真土大塚山はかつて古墳時代前期の古墳があり、昭和10年ごろから神獣鏡の出土した径22.1cm、青銅製の三角縁四神二獣鏡である。鏡の縁の断面が三角で、東王父や西王母など四体の神仙像と龍と虎の瑞獣二頭が彫られており、周囲に「陳是作鏡甚大好、上有王父母、左有倉竜右白虎、宜遠道相保」の文字が刻まれた銘帯がある。同笵鏡が京都や岡山などから四面出土しており、真土が大和王権と深い繋がりがあったことを示す貴重な史料である。私たち真土地域はここに碑を建立し、この郷土に宝を未来に伝える(代表 平井茂)


・・・中原

d0183387_20024611.jpg
交差点を直進、その先を左折して中原御殿へ/中原北


d0183387_20025464.jpg中原上宿遺跡/中原2北交差点右角
この道路は、昭和45年から昭和56年にかけて主要地方道平塚・伊勢原線の新道として建設されたものです。建設に際して附近一帯に遺跡のあることがわかり発掘調査が行われました。発掘にあたった「中原上宿遺跡調査団」の調査によりますと、沖積低地における古代集落の解明に役立つ弥生時代の住居址、奈良平安時代の住居跡群や、大型の井戸址の存在が確認されました。この発掘調査により、古代の相模国に住んだ人びとの生活がかなりわかるようになりましたので、この成果を後に伝えるために記念碑を建てたものです。(石碑)


d0183387_20030179.jpg中原街道一里塚跡
中原街道は別名「御酢街道」とも呼ばれ、成瀬酢(なるせず)を江戸城まで運ぶこの場所の両側に一里塚はありました。(標柱)






d0183387_20031699.jpg

日枝神社御由緒
日枝神社は、昔は山王社と言われた。文禄年間、徳川家康公が鷹野の遊殿を中原に建設の際、当社は御殿の鬼門にあたるので方徐鎮護のため再三にわたり修営をされた。寛永1712月(1640)に御社を現在の地に遷座された。徳川家代々崇敬の厚いお社であった。明治4223日雑社東照宮を合祀した。境内地八百九拾四坪現在の社殿は昭和3710月改築した。境内社八坂神社・稲荷神社・神明社(説明板)


d0183387_20032096.jpg得願寺の礎石

この石は山王社(現日枝神社)の別当寺だった得願寺の礎石(基壇)です。得願寺は日枝神社神楽殿の南側にありました。この寺は中原御殿が寛永17年(1640)に三代将軍家光によって大改修されたとき、御殿の鬼門鎮護として山王社が「御殿後」の地から現在地へ遷座されるに伴って創建されました。しかし、明治になって神仏分離政策によって廃寺となりました。この礎石は日枝神社の鐘楼を支える四柱として用いられていたもので、平成15年の改修工事で発掘されました。そして得願寺の存在を実証する貴重な歴史的遺産として、中原の歴史再発見事業活動委員会等によってこの地に据え置かれることになりました。得願寺は明治6528日、教育施設として崇広館が開設されました。これが現在の中原小学校の原点です。中原小学校が現在地の中原御殿跡地に売ったのは明治4277日のことです。(平塚市)


d0183387_20032870.jpg庚申供養塔
 
この庚申供養塔は、平塚市中原1丁目17番(旧平塚市中原下宿169番地)の一角にあったものですが、昭和26年から始まった旧大野町土地改良区事業の一環として大山道(通称豊田道)の一部(平塚江南高校東側道路と平塚~伊勢原線旧県道の現在のT字路を更に北へ直進し、慈眼寺の東角へ向う道路の内約40m)が整理消滅したため、ここ日枝神社境内に移されたものです。この塔の正面から左側に「平塚ステーション道」と刻まれていますのは、明治20年に東海道本線平塚駅が開設されて駅に直接通じる道が整備され、それを記念して設置されたものです。そしてこの塔は、いろいろなところで紹介されていますが、現在ではかなり表面が剥落して昔の面影を失いつつあり、これを元の位置周辺に戻すには崩壊の恐れがありますので、この地に安置しています。(施主原興平 撰文 小川治良 中原の歴史再発見活動委員会)


d0183387_22262242.jpg谷川と谷川橋の跡
現在のこの道はかって谷川(やがわ)といった排水路だった。谷川は谷川堀ともいい平塚の沖積地を東西に列する平塚砂丘のうち第2砂丘列(日枝神社境内・伊勢山・大塚山等の標高12mから17mの丘)の南側の低列地にある。字谷川の舟窪の凹地の池から発源して砂丘低列の畑地の排水を集め西流し、先行流が渋田川に合した。現在は度々の改修によりその全容を失い、ついに道路敷となり消滅した。谷川は明治8年の中原上宿村誌によると幅平均2間(約3.6m)長さ1.115間(約2.007m)深さ最も深き処1丈(約3m)浅き処4尺(約1.2m)とある。またこの谷川には中原往来の石造の谷川橋が架けられていた。村誌には文政8年(1825)に再設とあるから江戸時代からあったと思われる。谷川が昔、単なる排水路でないことは諸文献などから、近世初頭の関東鷹野御殿の一つである中原御殿と中原代官陣屋に深い係わり合いがあることが散見される。それは谷川に、かって水門が設けられ上流の舟窪の池の余水と畑地の排水を貯水して、中原御殿の空堀引水と代官陣屋・屋敷堀用水を供給したが後年中原御殿引き払い、そして中原代官陣屋廃止により谷川からの堀水は必要はなくなり、水門は棄却され谷川は再び低列畑地の排水路と化して現在に至り、昔日の面影を失ったのである。(中原地区町内会・自治会連合会記)



d0183387_22262580.jpg中原宿高札場跡/御殿入口角

中原宿の高札場は、徳川家康の築いた中原御殿に向う大手道と中原街道の交わる位置に設けられていました。高札場とは、幕府などから出された禁令を木の札に書き掲示した場所のことです。「中原御宮記」(長谷川雪堤画)を見ると土台を石垣で固めて柵を結い、高札が掲げられる部分には屋根がついていました。(平塚市)


・・・中原御殿跡

d0183387_22265888.jpg
中原小学校、御殿跡です

中原御殿

江戸時代初期、現在の平塚市御殿2丁目にあった徳川将軍家の御殿(別荘)である。1596年(文禄5年)に徳川家康の命により、江戸・駿府間の往復や鷹狩りの際の宿舎として建てられた。「御鷹野御殿」「東照宮御旅館」「雲雀野御殿」ともいったが当時の呼称は「御旅館」。神奈川県内には他に、神奈川御殿(横浜市神奈川区)、小杉御殿(川崎市中原区)、藤沢御殿(藤沢市)があった。規模は東西約140m、南北約100mで約7100坪の広大な敷地を持っていた。現在跡地には平塚市立中原小学校があり、御殿跡碑が設置されるのみである。周囲に約10m幅の堀をめぐらしていたといわれ、中原小学校の北側道路が堀跡といわれる。1640年(寛永17年)に一度修理をしているが明暦の大火のあった1657年(明暦3年)、取り払いとなる。平塚市内にある茅葺きの善徳寺三門は、この御殿の裏門である冠木門を遷したものと伝えられている。中原街道はその名をこの御殿に由来するが、街道そのものはすでに後北条氏の時代には整備されていたものであり、もともとの起点は大磯宿外れの化粧坂である。また、御殿造営の頃よりこの地や平塚宿などに黒松を中心とした植林がなされた。合計127町歩に及んだ松林は中原御林(なかはらおはやし)と呼ばれ厳重に保護された。(Wikipedia

d0183387_22411189.png
中原御殿跡を描いた「中原御宮記」(天保1018399月)平塚市博物館蔵(説明板の写真)


d0183387_22262979.jpg中原御殿/中原小学校前
徳川家康が鷹狩りなどの折に宿泊所とした中原御殿が、中原小学校を含む一帯にありました。御殿の規模は東西78間(約141m)南北56間(約101m)で、四方に幅六間(約10m)の堀をめぐらし東側を表としていました。御殿が造られたのは慶長元年(1596)ともいわれますが、諸説がります。寛永19年(1642)に修復されますが明暦3年(1657)には引き払われました。その後、跡地には松や檜が植えられ、その中に東照宮が祀られました。その様子は「中原御宮記」(平塚市指定重要文化財)の巻頭に長谷川雪堤の筆によって描かれています。(平塚市)


d0183387_22265337.jpg相州中原御殿之碑(
徳川崇敬 題額)
この地は 慶長年間 江戸に幕府を開いた徳川家康公が 旅のやどりとして造営した相模国大住郡 中原御殿の跡である。御殿は またの名を雲雀野御殿ともいい 家康公が鷹狩り 江戸と駿府往来の途次に宿泊した   文献によると文禄元年 肥前国名護屋陣に赴くさい 中原に止宿したのを始めとし 係わりは深いものがある中原は 御殿の勝地にとどまらず この地方に与えた影響は大きい 江戸時代初期の大住郡の行政 中原御林 中原街道など 皆この地より発したという 明暦360有余の歳月を経た御殿は 惜しくもお引き払いとなり中原を去ったここに 近世初頭の光彩を放つ著名史跡を末永く顕彰するため 建碑したのである (平塚市長石川京一 撰 平塚市文化財保護委員 高瀬慎吾書)


・・・御殿周辺

d0183387_23275904.jpg船に乗ったお地蔵さん/南原








d0183387_23280287.jpg

善徳寺と三門/
舟地蔵先(右)
善徳寺は浄土宗に属し南原山永琳院という。開山の善徳徹巌は俗名を大館玄誉といい、久しくここに庵室を構えていたが、のち一宇を建立し天正2年(1574)正月没したと言われている。この寺の三門は、徳川家康の御旅館中原宿の雲雀野御殿の裏門を移建したものであると、昔からいい伝えているが、如何にも由緒あり気な風格と雅趣を兼備した建造物である。(案内板)

絹本着色法然上人像一幅

善徳寺は善徳徹厳(1574年没)によって開創されたと伝えられる浄土宗の寺院です。法然上人(源空11331212)は浄土宗の開祖であり、その肖像画は数多く描かれております。本図もその1つで左を向いて礼盤(らいばん)の上に座し、数珠をつまぐっています。法然像の形式としては最も一般的なもので、京都の二尊院が所蔵する「足曳御影(あしびきのみえい)」の像容を踏襲しています。上部の賛(画に書き添えた文)は、弟子の勝法房が法然の肖像画を描いたときに、法然自身が書いて授けた賛を引用したもので「首楞厳経(しゅりょうごんきょう)」にみえる勢至菩薩の悟りの強さを説いたものです。本像の制作された場所や善徳寺に伝来した経緯はよくわかりませんが、制作年代は、全体の描法や用いられた絹の特徴などから室町時代前期と推定されます。本像のように中世にまで遡る法然上人像は神奈川県下では極めて珍しいものです。(平塚市教育委員会)
d0183387_23363828.jpg
旅の終わりは高麗山の美しい夕景でした/国道1号線


・・・・・
資料ファイル

平塚市
神奈川県のほぼ中央、相模川右岸(西側)に位置し、南は相模湾に面する。相模川から金目川までの間は市域北端部まで平野となっており、南部には市街地が広がる。金目川より西側は大磯丘陵の一部となる丘陵地帯であり、緑も多い。(歴史)4世紀後半:真土大塚山古墳、塚越古墳(現在は消滅)が築造される。(奈良時代・8世紀ごろ)現在の平塚市四之宮周辺に下ノ郷廃寺が存在し、国厨・郡厨・大住厨と書かれた墨書土器が出土していることから、既にこの時期に相模国大住郡という行政組織が機能していたことが窺える。また相模国国府跡とも大住郡庁跡ともいわれている。(9世紀終~10世紀初頭)伝承によると、この頃平真砂子(高望王の妹)がこの地で没する。(11世紀から13世紀前半・和田合戦まで)高望王を祖と号する中村党の土屋宗遠が土屋周辺を、同じく高望王系である三浦党の岡崎義実(中村宗平の女婿)が岡崎周辺、その子佐奈田義忠が真田周辺を支配。1199年:相模川に架けた橋を源頼朝が馬で渡ろうとしたところ落馬し、これが頼朝の死去につながったという説があり、以降の相模川は馬入川の別名で呼ばれることになる。1416年:上杉禅秀の乱の功により中村党系の勢力は所領を失い大森氏の領するところとなる。1512年:北条早雲が三浦氏の岡崎城攻略。以降、小田原北条氏の領するところとなる。1596年徳川家康により中原御殿(現 平塚市立中原小学校 - 日枝神社)が造営される。現代の名阿原海道という街道名はこれに由来する。また、同時期に造営された小杉御殿は現在の川崎市中原区にあった。伝承ながら御殿裏門が市内南原の善徳寺三門に移築され遺構として残る。Wikipedia


d0183387_13032868.jpg

平塚の塚

平塚市にある、当地地名の由来となったとされる史跡である。新編相模風土記稿、或いは当地の伝承によると桓武天皇三世の孫、高見王の娘である平真砂子(眞砂子、政子との表記もある)が都より東国へ下向の途上、相模国の海辺の里で長旅の疲れからか急な病を得て亡くなった。土地の人々は幸薄い都の高貴な姫の死を悼み、遺体を里外れの松の大木の根元にねんごろに葬り、塚を築いて弔った。時を経ていつしかその塚は風化して平たくなり、周辺の地域は「平塚」と呼ばれるようになったとされる。真砂子は高見王の子で桓武平氏の祖といわれる高見王の妹、平国香(平氏着流、平清盛の祖) 平良将(平将門の父) 平良文(坂東八平氏の祖)等の叔母に当たる。故に「平氏の姫の墓(塚)」がある、ということで「平塚」となったとする説もある。高望王は寛平元年(889)宇多天皇の命により平姓を賜って臣籍に降り、平高望を名乗った。その後、昌泰元年(898)上総介に任じられた。当時上級地方官に任命された者は任地には赴かない遙任が多かったが、高望は子の国香等を伴って実際に上総に受領として赴任し、その子孫は東国に勢力を伸ばしていった。(Wikipedia


d0183387_13475641.png
平塚宿史跡絵地図


d0183387_19142071.jpg
d0183387_19142386.jpg
東組問屋場跡             江戸方見附跡

d0183387_10311300.png
東海道五十三次 平塚 (広重)

東海道平塚宿
平塚の名は『吾妻鏡』に「範隆寺平塚」「黒部宮平塚」とあるのを初見とする。宿の形成は鎌倉期にさかのぼり、正和五年(1316)ごろ鎌倉に滞在していた益性法親王の上洛の際の書状に「平塚宿」と見えることから、そのころには宿としての機能を整えていたことがうかがえる。東海道の宿駅には慶長6年(1601)に指定される。慶安4年(1651)に平塚新宿を加宿に編入。明治4年(1871)廃藩置県により平塚宿および加宿平塚新宿村は足柄県に編入された。宿内は江戸方から十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町と続き、街道北側二十四軒町に脇本陣安兵衛、同じく西仲町に本陣加藤七郎兵衛、二十四軒町と東仲町の間に東組問屋、西仲町に西組問屋があった。宿場の長さは九町五間(約1km)、道幅四間一尺(約7m)から六間(約11m)であった。(東海道への誘い・国土交通省横浜国道工事事務所HPより)

東海道平塚宿はこちらへ(http://teione.exblog.jp/17193047/)


d0183387_01101001.jpg
中原街道コース図(起点:虎ノ門 終点:中原御殿跡)


by Twalking | 2015-10-29 10:32 | 中原街道(完)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中原街道(6)寒川~平塚02 四之宮   

日時 2015.10.24(土)
天気 晴れ

平塚に入ると街道の道筋はわずかしか残されておりません。
でも、ここ四之宮は相模国府が置かれたとされる有力な地です。
前鳥神社の宮司さんから話を伺い、関連の箇所を訪ねてみました。

これも今回の目的のひとつ、面白いですね、興味が尽きません。
ありがとうございました。


・・・四之宮

大住郡
(おおすみぐん)
相模国にあった郡。真土大塚山古墳から、弥生時代末~古墳時代初頭の土器片と、京都の椿井大塚山古墳のものと同じ鋳型の三角縁神獣鏡が出土している。『延喜式』では大住郡、『和妙抄』では「於保須美」とある。郡衙は平塚市四之宮付近にあったと見られている。相模国の国府が置かれていた可能性があり、『和名抄』および『拾芥抄』に記述があるほか、1979年(昭和54年)から行われた四之宮下郷遺跡群の発掘調査で、前鳥神社周辺から墨書土器、彩釉陶器、装身具などが出土した。さらに1990(平成2年)には、国厨と記した土器が発見されている。Wikipedia

d0183387_22204908.jpg
前鳥神社

御祭神 菟道椎郎子命(うちのわきいらつのみこと) 大山昨命(おおやまくいのみこと)日本武尊

d0183387_22203903.jpg

御由緒
神社の名の「さきとり」は平安以前の古い地名で、相模川河原に接する自然堤防の南端で、地形名からおこったと言われています。奈良時代の天平7735)年の「相模國封戸租交易帳」には「大住郡崎取郷」として記載されています。この「さきとり」の地に奈良時代以前、畿内から御祭神を「氏の上」とする氏人が移り住み、遺徳を偲び、清浄な地にお祀りしたのが「さきとり」神社と考えられます。延喜年間に編纂された「延喜式」という法制書の中で、全国の著名な神社が収録されている神名帳に、当社は「前鳥神社」と記され、相模国13座のひとつとして登載されています。また、四之宮の称は、養老年間(717724)の相模国の国府祭が始まったとされる頃に生じ、平安時代には四之宮郷として通称されるようになりました。鎌倉時代には幕府の崇敬をうけ、建久311928月、源頼朝公夫人政子の安産祈願にあたり神馬の奉献があり、建暦21212)に幕府は当社を将軍家祈願所と定めました。近世にはいると、関東八ヶ国の領主となった徳川家康公は天正19159111月、当社に武運長久のために朱印地10石を寄進、あわせて社地二千余坪を除地として加護しました。時代が近世になってからは寺社領の確定により、古義真言宗雪霜山鏡智院神光寺が別当寺として祭事のすべてを掌っておりました。そして明治維新の大改革の際に鏡智院家が復職が複飾、名を神代に改め、現在に至るまで神仕えの職に就いております。


d0183387_22281641.jpg
d0183387_22274619.jpg
御神徳

前鳥大神(菟道椎郎子命)は第15代応神天皇の皇太子です。当時百済から来朝していた阿直岐(あちき)から帝王への道を学ばれた後、博上王仁(わに)を師として学問の道を開かれました。論語や千字文などの漢書をわが国で最初に学ばれた方でもあります。また、命は帰化した渡来人技術者を篤く庇護し、産業技術の導入を計られ、日本の農業・土木建築などの急速な発展をなされました。皇太子と定められましが、兄大鷦鷯命(後の仁徳天皇)と皇位を譲り合い、兄を立てて自らはお隠れになりました。(パンフレット)


d0183387_12114249.jpg平塚八景 森の前鳥神社

ケヤキの老樹など森にかこまれた四之宮に鎮座する前鳥神社は、平安時代の延喜式神名帳に相模第四之宮として載っている古社である。社号は大住郡サキトリの郷にあったため左喜登利、前鳥、前取の文字があてられている。祭神は莬道稚郎子命と大山昨命、そして日本武尊命でありこれらの祭神にちなむ前鳥神事がある。また、境内には奨学神社などがあって古い時代をしのばせる。(平塚市)




・・・宮司さんから教わった「巡礼道」の古刹を訪ねてみました

d0183387_13301396.jpg


d0183387_12371616.jpg

大念寺

明暦の初め、代々後北条氏に仕えていた佐藤出雲守信辰が本蓮社源譽哲道を請じ、五十坪の堂宇を建立したのが初めと言われ、相模風土記には「相州四之宮村大念寺屋舗之儀、当時地は古地頭、伊丹播磨守康勝殿、大久保与一郎殿、服部兵吉殿、の寄進するところなり。三氏が寺基を献じ、源譽哲道を請じ開山した」と述べている。開基信辰は寛永14124日(1637)に歿して大念寺に葬るとすれば寛永年間、若しくはそれ以前の建立であると推測する。現在大念寺の過去張は元禄2年以後の物からしか現存せず、それ以前の過去張はなく確かな事は分からず。明治42年大野小学校の新校舎落成祝賀会で、盛んに花火を打ち上げたところ不発のまま大念寺の草葺き屋根に落ち大火事を引き起こし、当山の山門以外は全て全焼した。また、四之宮旧家のほとんどが全焼し由緒ある古資料のすべてが喪失してしまったと伝えられている。其の時に過去張は消失したかもしれない。その後、大念寺 第17代真常和尚が大正六年本堂再建した。(大念寺HP)

平塚市四之宮
にある浄土宗の寺院である。山号は見光山。院号は眼性院。本尊は阿弥陀如来。平成9年に開通した湘南銀河大橋は、平塚市四之宮から寒川町田端を結ぶ橋となり、その影響で大念寺墓地の半分が県道44号線となる。大念寺墓地並びに境内・本堂の大改修を致し、平成195月に本堂落成慶讃法要を行い今現在に至る。(Wikipedia

d0183387_13093226.jpg四之宮人形師匠墓所

江戸時代中期、庶民の娯楽として浄瑠璃と人形芝居が流行し相模川中流域にも多くの芝居の座がありました。ここ四之宮人形連中と呼ばれる座が結成され、前鳥神社の奉納行事として芝居を行いました。昭和初期には活動が中断されましたが、昭和32年に新たに「前鳥座」の座名を冠して活動が再開されました。四之宮人形芝居の発展では吉田朝右衛門が第一人者として大きな功績を残しました。彼は安政3年頃(1856)に師匠として四之宮に迎えられ、明治163月に89歳で没するまで、四之宮をはじめ相模川中流域の各地で全生涯にわたり弟子の指導を行いました。まら、吉田朝右衛門のほか吉田三十郎、ワカ夫婦も四之宮に定住し師匠として人形の遺い方を指導する傍ら、人形のカシラの修理なども行い四之宮人形芝居の伝承のため尽力した人物として称えられています。ここ大念寺には吉田朝右衛門の墓石・墓誌とともに吉田三十郎・ワカ夫婦の墓石も並んで建てられています。(平塚市)


d0183387_12391546.jpg

d0183387_12390023.jpg
d0183387_12391239.jpg
北向観音

お寺は円通山大会寺(だいえじ)と言います。相模国33ケ所霊場の第9番で、鎌倉時代源頼朝や徳川家康の祈願所でした。伝説ではこの寺を作ったのは聖徳太子だとされています。「太子は聖観音の身の丈3寸の三十三身の御分身の像を一刀三礼をもって彫り、安置する場所に大会御堂と名をつけ、また五大力尊も置いて国が栄えて国民が幸福になるように願った」ので五大堂ともいわれたとあります。ここは昔、牛頭天王が祀ってありましたが明治の初めに前鳥神社に移され、八坂神社になりました。境内の東側にある記念碑は日枝神社の跡です。明治43年に前鳥神社に移されました。(四之宮歴史再発見広報NO.3より)


d0183387_12421150.jpg
高林寺

木造大日如来坐像
もともとは四ノ宮明神社(現前鳥神社)別当鏡智院の本尊であった。明治初年に当院が廃絶されたのちは、大会寺(北向観音堂)に客仏として祀られていたが、昭和60年(1985)に高林寺の本尊に迎えられた。胸の前で左拳の人差指を右拳で握る智拳印(ちけんいん)を結ぶ金剛界大日如来。光背・宝冠・台座などは後世の補造である。胎内背面(墨書)と面部内(二字朱書・三字墨書)に梵字が書かれており、後頭部内に次の墨書銘がある。「康永3年甲申五陽 奉修復之者也 地頭兼神主藤原季□ 修造司周豪」 これにより、康永3年(1344)に修理されたことがわかり、造立はこれより遡る鎌倉時代後期と考えられる。張りのある顔立ちや量感に富む体躯に運慶風の写実性を示す一方、宝けいや腰部の波状に表した衣の皺などに宋元風の影響がみとめられる(平塚市HP)


d0183387_13260197.jpg江戸ケ崎供養塔

江戸時代後期、無敵と謳われた雷電為右衛門に最後の黒星を与えたのが相模国大住郡四之宮村出身の江戸ケ崎源弥です。江戸ケ崎は天明元年(1781)平野家で生まれました。安政73月に「大隅」のしこなで初土俵を踏み、後に「荒馬」と改名しました。同10月に入幕し文化元年3月に関脇に昇進しました。この間に久留米藩有馬家のお抱え力士になり、しこなを「江戸ケ崎」に改めました。幕内24場所在位し、12437負という好成績を残した江戸ケ崎でしたが、文化9年(1812710日京都へのぼる途中、東海道藤川宿で現役のまま亡くなりました。この供養塔は没後35年にあたる弘化4年(1847)に四之宮村で追善相撲が興行された際建立されたものです。(平塚市)


・・・
資料ファイル

相模国府
国府所在地は未だ明らかでない。史料では、『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)および『拾芥抄』(しゅうがいしょう)において「大住郡」、『伊呂波字類抄』(いろはじるいしょう)では「淘綾郡」(ゆるぎぐん)と見えるが、いずれも国分寺の所在地(高座郡)と異なるため、最低でも3遷したと推測される。高座郡国府説:相模国分寺の地に初期国府の所在を求める説。推定地は現在の海老名市付近。江戸時代の『新編相模国風土記稿』に高座郡国分村と見える一帯に推定される。大住郡国府説:平安時代中期成立の『和名抄』の記載に基づく説。別地から移ったと見る説では、元慶2年(878)の関東大震災を契機として新たに建てられたと推測する。平塚市四宮において関連遺跡が発掘されている。餘綾郡国府説:平安時代末期成立の『伊呂波字類抄』の記載に基づく説。推定地は相模国総社の六所神社が鎮座する大磯町国府本郷付近。
Wikipedia

d0183387_14365665.jpg
湘南新道(伊勢原藤沢線)/四之宮・大念寺前


d0183387_14405911.png

湘南新道関連遺跡/大念寺交差点

湘南新道関連遺跡は、都市計画道路建設に伴って平成12年~17年にかけて発掘調査が行われました。遺跡名は坪ノ内遺跡、大会原遺跡と六ノ城遺跡の総称です。発掘調査の結果、坪ノ内遺跡と六ノ城遺跡から写真のような奈良時代の府付き大型立柱建物が東西86mの距離をおいて並列して発見されました。白線で囲んであるのが柱穴で、その規模が1m以上と大きく、建物の外側には塀が廻ることなどから、この大型建物は相模国の役所である国庁の脇殿と考えられます。これまで国庁の所在については諸説がありましたが、この発見によって四之宮の地が奈良時代における相模国の中心地であったことがわかりました。発見された大型立柱建物の一部は道路の下に保存されています。また、建物の場所については歩道上に舗装の色を変えて表示してあります。(神奈川県 平塚市教育委員会 財)かながわ考古学財団)


d0183387_14515094.jpg
見せていただいた四之宮付近のイメージ画(平塚市博物館刊行物だと思います)
赤:国庁 緑;前取神社 道は古東海道


市指定重用文化財「国厨」墨書土器他

ここ稲荷前A遺跡は平塚市四之宮から東八幡の砂州・砂丘域に立地する埋蔵文化財包蔵地として周知されています。本資料が出土した第一地点は、店舗建設に伴って平成元年4月に発掘調査されました。資料は、奈良時代後半の所産と見られる1号竪穴住居址から出土し、住居の成り立ちから廃絶後までの様相を示す一括資料です。土師器(はじき)、須恵器、灰釉陶器(かいゆうとうき)、黒色土器、瓦、鉄製品、石が含まれます。なかでも土師器と須恵器に「国厨(こくちゅう)」と墨書されたものを複数含む点が注目されます。「厨」を記した土器は、官衙内の諸施設に対する食膳の準備、食料の調達・管理等を担当する厨(くりや)・厨家(ちゅうけ)の備品であることを示したものと考えられます。つまり「国厨」墨書土器の出土は、周辺に厨家が存在したこと、ひいては厨家を含む官衙施設が存在したことを裏付けるもので、そこに国府があったという根拠となり得るものです。奈良時代において、相模国の国府が四之宮周辺に置かれていたという学説を裏付けることとなったこの墨書土器は、平塚の古代史には欠くことができない資料であるとともに、全国的にも古代地方官衙研究に寄与する貴重な資料の一つです。(平塚市教育委員会)


d0183387_15012075.gif
相模国の駅路(国土交通省横浜国道工事事務所HPより)


by Twalking | 2015-10-28 18:54 | 中原街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中原街道(6)寒川~平塚01 田村   

日時 2015.10.25(日)
天気 晴れ

いいお天気ですね~、最高のウオーキング日和です。
富士と相州大山もにっこりと出迎えてくれました。
ここまで来ると、「旅」してる気分になります。
さ、ゴール目指してがんばろっと。。。


・・・一之宮(寒川町)

d0183387_13590105.jpg
一之宮中心部を通り相模川へ


d0183387_13592640.jpg
d0183387_13592846.jpg
旧国鉄西寒川駅・相模海軍工廠跡/二差路左・
八角広場
ここ旧国鉄西寒川駅跡に佇んで東を望み、さらに街に目を転ずるとその視界に工場群が迫る。そこは、かつて多くの仲間が働いた相模海軍工廠(昭和20年 敷地704000㎡)の跡地である。往時を偲べば、先人や友の姿が彷彿と甦り、懐旧の想いひとしおである。第二次大戦後、工場立地に恵まれた跡地に町発展の礎となり、今日の繁栄をもたらした。いま、大地に深く根ざした緑に世界の平和を願い、国土の安泰を祈る。(建立相廠会及び協力企業 昭和63年春)


d0183387_13593210.jpg河原不動尊
本尊は不動明王坐像と二体の眷属(お供の仏像)からなる不動三尊像です。不動明王坐像は江戸時代初期の作とみられ、宝暦3年(1753)に江戸芝ロ(東京港区)の初音屋平吉が修理した。との「胎内納入名札」に記されています。この坐像と眷属一体の制吃迦童子像は、共に寄木作りの非常に上手な技巧による佳作と評されています。お堂の前にある力石や道標も江戸の人達が230年頃前に奉納したものです。このようにこの不動尊は江戸とのつながりが深く、江戸時代には観光ルートとしても著名であった。目の前の大山道を多くの道者達が往来し、大山参詣が栄えた様子を物語る史跡といえましょう。「新編相模国風土記稿」にこの不動尊について「村民持ち大山道にあり」と記され、村人達が安寧を願い、寄り合い所として長い年月にわたり大事に守り続けて来たことがうかがえます。また同稿には「田村(相模川対岸の現平塚市田村)にあり(旧一之宮村の)現在地に移された」とも記されていますが、詳細は定かではありません。(一之宮河原地区住民による不動尊維持管理会)

d0183387_13593667.jpg大山街道/川河原橋手前右角
江戸時代、大山講と称する講が関東一円にひろがり、江戸から大山阿夫利神社へ幾本かの大山街道が発進したが、最も隆盛を極めたものが東海道という一番安全な道を利用し、昔語りの名勝地となった鎌倉や行楽地の江の島を訪れてのコース~東海道藤沢の西、四つ谷から西方に進み大曲、中瀬、一之宮から田村の渡しを経て大山に通じる~この道であった。
之宮不動堂
堂内の不動尊は、かつて大山詣ゆかりの不動尊である。(寒川町教育委員会)

d0183387_14224287.png
大山街道・田村通り(黄丸:現在地 赤:中原街道 茶:大山街道田村道)

田村通り大山道

大山道の中で最も主要とされ、起点の藤沢四ツ谷に置かれた石造の「一の鳥居」は、万治4年に木造で設置された後、昭和35年に大改修され、鳥居の正面に天狗の面がかけられた。「御花講大山道」や「御花講道」とも呼ばれ、東海道と藤沢宿で接続し、藤沢宿を挟み対面の江の島道にも通じるため、最もにぎわいをみせた経路である。神奈川県道44号伊勢原藤沢線や県道611号大山板戸線が近似したルートを辿っている。(経路)東海道藤沢宿四ツ谷(藤沢市)-一ノ宮(寒川町)-田村の渡し(相模川)-横内(平塚市)-下谷(伊勢原市)- 伊勢原 -〆引 -石倉- 子易-大山。(Wikipedia


d0183387_13591776.jpg目久尻川
相模原市南区相武台団地付近を水源とし、高座郡寒川町で相模川に注ぐ相模川水系の一級河川。この川の名の由来はいくつかの説がある。一説には、この川が座間市栗原にあった寒川神社の御厨(みくりや)のあたりから流れてくるために下流で「御厨尻川」と呼び、それが転じて「目久尻川」となったという。一方、海老名の伝承によると、昔この川に河童が住み着いて悪さをしていたため、地元の人々はこの河童を捕らえて目を穿り(くじり=抉り)取ってしまった、という出来事から、この川は「目穿川」と呼ばれるようになり、それが転じて「目久尻川」となったという。この伝承にちなんで、海老名市内の目久尻川に架かる伊勢下村橋には河童の像があしらわれている。(Wikipedia

d0183387_22564887.jpg
圏央道


・・・田村の渡し

d0183387_14275717.jpg
左に富士、右に相州大山、素晴らしい景観です/神川橋

神川橋
平塚市・高座郡寒川町にあり、相模川に架かる道路橋である。県道44号伊勢原藤沢線と47号藤沢平塚線を通している。名前の由来は、中郡神田村と寒川町を結んだことから。橋長 493m 幅員 12.0m(Wikipedia)

d0183387_15290191.jpg
相模川
山梨県西部から中部を流れる川。全長 109km。上流は山中湖に発して山梨県の郡内地方を流れる桂川。神奈川県に入ると丹沢山地と関東山地の間を南東流する。厚木市からは、に向きを変え丹沢山地と相模原台地の間に相模平野を形成して相模湾に注ぐ。(コトバンク)

d0183387_22501060.jpg田村の渡し場
田村の渡しは中原街道と大山道の二つの往還の渡しでした。中原街道は中原村と江戸を結んだ脇往還で、大山道は藤沢・江ノ島からの大山参詣のために使われた道です。渡し場のある田村はこの両往還と平塚から厚木へ向う八王子道が交差する所で、旅籠屋などもあり「田村の宿」とも呼ばれていました。渡船場の業務は田村と対岸の一之宮村・田端村(寒川町)の三か村が勤めていました。また、田村の渡し場付近は大山・箱根・富士山を眺望することができ、景勝地としても知られていました。(平塚市)


d0183387_22502415.jpg田村と田村の渡し場
石の碑文)
田村の地は古くから坂上田村麿に因縁の地と伝え、箱根路につづく陸奥への海道に沿ったところに相模川の渡し場があった。鎌倉時代には三浦平六義村の田村の館があり、鎌倉武士がしばしば往還したことは史書にあきらかである。また、江戸時代には関東の靈域大山石尊社への参詣道として繁昌した。田村の渡し場は大住郡田村高座郡一之宮村、同田端村の三村が管理し渡し舟と馬舟など四艘を常置していた。明治初年の記録に「川幅を五百二十三間(約939m)水流六十間(約108m)とみえている。渡し場から西方諸山の眺望の絶景は、最も著名で詩歌の作品が多く残っている。(平塚市観光協会)



d0183387_14330445.png
相州大山田村渡しの景 歌川国芳

相模川八景 
寒川宮山の富士この地には寒川神社が鎮座し、その昔田村の渡しや砂利採取で賑わった。今日県民の命の源である命の水を送る寒川取水堰があります。川の歴史と文化の薫り、水辺の水鳥や富士山、大山丹沢の眺めは四季の彩りを豊かにします。


d0183387_10054802.jpg大山
(おおやま)
大山標高(1,252m)は、丹沢表尾根の東端にあり富士山のような三角形の美しい山容から、古くから庶民の山岳信仰の対象とされた(大山信仰)。「大山」の名称は、山頂に大山祇神を祀ったためとされるが、大山祇神は、かつては「石尊大権現」と呼ばれていた。大山の山頂には巨大な岩石を御神体(磐座)として祀った阿夫利神社の本社(上社)があり、中腹に阿夫利神社下社、大山寺が建っている。また、大山は別名を「阿夫利(あふり)山」、「雨降(あふ)り山」ともいい、大山および阿夫利神社は雨乞いの神ともされ、農民の信仰を集めた。Wikipedia


d0183387_14322975.jpg義村田村ノ館の跡/
田村宮の前公園先
この地一帯は鎌倉時代の武将三浦平六義村の田村ノ館の蹟である。承久元年7月鎌倉第4代の征夷大将軍を嗣ぐべき人として迎えられた藤原頼経は、5日間この山荘に滞在し719日晴れの鎌倉入府を行った。東鑑によると頼経将軍は数回来地している。安貞2723日もそのひとつである。この時は執政北條泰時、連署北條時房等鎌倉の将軍多数が居従し、三日間にわたり田村の秋興を満喫した。館は田村の渡しにつらなる古街道に面し手を北にもっていたものと思われる。義村は延應元年12月に殉じている。この館はそれに前後して廃されたものとおもう。(承久元年より740年 昭和34年春建 平塚市長外川貞夫撰)


d0183387_22525873.jpg
八坂神社

田村の八坂神社は古くは牛頭天王社といい、江戸時代には田村の鎮守であった。この八坂神社の祭囃子として伝わるのが田村ばやしである。田村ばやしの由来については、京都から来た楽人が編曲したものと伝えられている。鎌倉時代この地には三浦義村の田村館があった。義村は源実朝死後、後継将軍に藤原頼経擁立を支持した。その関係から将軍頼経はしばしば田村館にも来遊した。その折り、京都の楽人(雅楽)を伴い遊興したといい、その楽人に起源を求める伝承もある。親太鼓(大胴)1・締太鼓2・笛1・鉦1から構成され、曲目は、「屋台・宮昇殿」「昇殿・神田丸」「唐楽鎌倉・仕丁舞(しちょうめ)・印場」の7曲と3つの組み合わせからなり、いずれも笛のリードで曲が変化していくことに特長がある。屋台を曳くための囃子で、上町・横宿・下町の3町内の屋台があるが、現在は交通事情などから屋台の曳行はない。(平塚市HP)


・・・田村(平塚市)

田村の地名は、征夷大将軍・坂上田村麿が蝦夷征伐の際、この地に立ち寄ったということに由来するという。

d0183387_16310390.jpg
田村十字路を左折し四之宮へ向かいます


d0183387_16304899.jpg
d0183387_16305256.jpg
旧田村十字路             田村渡し最中の井筒屋


d0183387_18180167.jpg
妙楽寺山門

d0183387_18214184.jpg
d0183387_18214450.jpg
本堂                 水準点


妙楽寺閻魔王座像

像底からみえる体幹部前材下側に墨書があり、このなかに文禄四年(1595)の年紀と、佛士(師)長芸の名があり、造像年代・作者ともに判明する。頭部が大きく作られ、面貌は眉眼をつり上げ怒号する、かなり誇張した表現につくられている。体部はずんぐりとした体形で、量感があり迫力が充分であるが、左右の袖先は小ぶりで、衣文も強い表現ではなく、全体に頭部に比し穏やかにまとめられている。彫技は本格的で作者の高い技量がうかがわれる。室町時代の像にみるような量感に富む体形と、近世期のやや誇張の勝った面貌表現を合わせ持つ中世彫刻の余風を遺す優れた作例である。閻魔王像の基準作例として、本市のみならず県内においても希少な存在といえる。(平塚市HP)


d0183387_18234564.jpg田村駒返橋跡/
駒返橋バス停(右)

ここは、臨済宗妙楽寺の門前で古くから馬継の場であったので駒返橋の名が発生したものと思われる。古歌に「ふるさとを たちいでる幾月ぞ 夕月あおぐ 駒返の橋」天正18年(1590)徳川家康が関東に入国すると、このあたりは家康の最も好んだ狩場となった。たまたま家康が鷹狩にこの地に来たとき、大雨のあと道路がひどく悪かったので田村の人たちがたたみを出して運行の便宜を図ったので、家康は田村の人たちの苦労をもんばかって、ここから馬を返したという伝説がある。(平塚市観光協会)

d0183387_18235185.jpg右手がわずかに残る旧道のひとつです



d0183387_18235889.jpg田村の一里塚の跡/
鹿見堂橋バス停(右)
ここに平塚で最も古い道の一つで、平安の昔の奥州道であったといわれ、後に徳川家康が江戸城から相州中原(平塚市中原)の宿舎まで、鷹狩にくるのに用いたと言う中原街道といわれる重要な街道があった。このあたりに、東海道などと同様に一里塚が設けられ榎が植えられたという。「新編相模国風土記稿」には八王子道にかかる一里塚であるとの記述もあり、このあたりでは中原街道と八王子道は、同一であったと思われる。(平塚市観光協会)


・・・四之宮の渡し

d0183387_22365980.jpg
河原より上流の景観


d0183387_00010374.png四之宮の渡し/
下水道公社沿いに左折
江戸時代、幕府は相模川の架橋を禁止し、相模川の渡河は幕府が定める馬入や田村の渡しによって行われていました。相模川の対岸に飛び地を持つ村々は、飛び地に開けた農地を耕作するため独自に渡し場を設けていました。四之宮の渡し場の一つでした。江戸時代のはじめ、徳川家康が江戸と中原御殿を往来した時、四之宮の渡しも利用していたようで、その時の話が「四之宮の逆さ舟」「箸立の森」などの言い伝えとして残っています。実際の渡し場の位置は、川の流れの変動に応じて目久尻川合流点付近から前鳥神社付近の間でたびたび移動していました。四之宮の渡しは昭和30年(1955)頃まで使用されていましたが、その後廃止されました。(平塚市)


d0183387_18591608.jpg湘南銀河大橋 

高座郡寒川町と平塚市を結び、県道44号伊勢原藤沢線(湘南新道)を通す。橋の名称は公募され、2371通の応募の中から「天にそびえる2本の塔に支えられ相模川をまたぐ壮大さと360度の広がりで見渡せる湘南の雄大な展望に、無限に広がる宇宙の夢、希望」(選考理由より)をイメージした「湘南銀河大橋」に決定した。(Wikipedia

by Twalking | 2015-10-27 11:48 | 中原街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中原街道(5)桜ヶ丘~寒川03 寒川    

日時 2015.10.22(木)
天気 晴れ

寒川は相模国一之宮・寒川神社の門前町として、
また相模川の渡しで賑わった街です。
さすがに一之宮、厳かで素晴らしい社叢、落ち着きます。

もうひとつは、梶原景時の館跡が残されています。
世間的な評判はあまり芳しいとはいえませんが、
創生期の鎌倉幕府を取り仕切った人物の一人です。
じっくりと見て回ると、寒川は面白いですよ~。


・・・寒川町  

神奈川県の中央部に位置し、相模国一の宮寒川神社の門前町で知られる高座郡の町である。相模川の下流東側に位置し、おおむね平野だが段丘も見られる。 


d0183387_15294168.jpg
この先右に旧道(天野屋倉庫)がありますが見落としました/宮原南先


d0183387_15333804.jpg
先の二又を右折します/小谷4


d0183387_15390373.jpg
左角に屋敷門








d0183387_15390786.jpg十三塚(おこり)/二差路直進、県営住宅前バス停(右)
十三塚は、北は岩手県南は鹿児島県まで分布しており、神奈川県では27か所が知られています。配列はほぼ一直線に並ぶのが基本と考えられ、村境や街道筋に沿ったものが多く、当地の十三塚もその一例といえます。おこり塚は、かつて15基存在したと伝えられる塚の中で最も大きな規模となっています。昭和62年に実施した発掘調査の結果、中世後半(室町~戦国時代ごろ)に築造されてと考えられています。(寒川町)


d0183387_15520518.jpg
旧道を直進/二差路 


d0183387_15560298.jpg
d0183387_15560501.jpg
日産工機を右折            調圧タンク角を左折



・・・寒川神社/寒川小を右折

寒川町宮山
にある神社。式内社(名神大社)で相模国一宮に当たる。相模川河口から約7km遡った左岸の低台地上に鎮座する。古代には相模湾がここまで入り込んでおり、神社からさらに8キロ上流の海老名市国分付近に相模国分寺があった。相模国における延喜式内社13社の中でも、大社とされたのは当社のみである。古代、相模川沿いは相模国造がおり、有力な豪族のいずれかが造営したと推定される。雄略天皇の時期に奉幣、神亀4年(727)に社殿建立の記録があるが、公式には『続日本書紀』にて承知13年(846)に仁明天皇から従五位下を授る記録がある。また、鎌倉時代の『吾妻鏡』には「一宮佐河大神」と記載があり、相模国の一宮とされたことがわかる。戦国時代には武田信玄が行軍中に当社を参拝し、自身の纏っていた兜と太刀を安全祈願に奉納した。Wikipedia

d0183387_16180058.jpg

御由緒
御祭神:寒川比古命・寒川比女命・寒川大明神と総称する 例祭日920日 前日祭919日流鏑馬神事 当神社の創始は古く日本総国風土記によれば今より約1500年前、雄略天皇の御代朝廷より奉幣のことが記されており、当時朝野遠近の敬篤く著名の大社であつたことが知られ。後桓武天皇の延暦7年を始めとして歴代奉幣のことがあり、亦仁明天皇承和13年以来数次に亘り神階を奉授せられ、更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳に相模国の名神大社と定められ幣帛を奉せられておりこの地方の庶民信仰の中心をなしていた。後世源頼朝、小田原北条氏累代、社殿造営社領の寄進等あり武田信玄の信仰も特に篤く、徳川時代に至っては徳川氏社殿再建のこと亦社領の寄進等古家武門武将の崇敬は鄭重きわめるものがあつた。明治43月官国幣社制度の制定せられるや国幣中社に列せられ国費を以て幣帛料御奉納あらせられたるも、昭和2012月神道指令により神社の国家管理を廃止され、現在は神社本庁の神社として全国崇敬者より御神徳を敬仰されている。(境内説明板)

d0183387_11413277.jpg

神池・二の鳥居
神池にかかる太鼓橋。平成23年老朽化により架け直され神池橋と命名されました。神様がお渡りになる橋といわれています。境内にある桧造りの明神鳥居。平成2年、紀元2650年奉祝記念事業として立て直されました。(寒川神社HP)

d0183387_16183094.jpg

神門

重層の門、平成5年竣功。新年には「迎春ねぶた」が掲げられ、参拝者をお迎えします。(寒川神社HP)

d0183387_16180916.jpg

御本殿

御祭神をお祀りする社殿。平成910月竣功。総桧造りで、東西翼殿をはじめ附属施設があり、拝殿には216名が一度に着席、参拝できる席が設けられています。(寒川神社HP)

d0183387_16223218.jpg方位盤と渾天儀(こんてんぎ)

寒川神社は古くより全国唯一の八方除の守護神として信仰されています。八方除とは地相・家相・方位・日柄から起因する、すなわち方位神によるあらゆる悪事災難を除く方災厄除の神としての御神徳です。ここに方位盤・四神の彫塑、渾天儀という八方除に因む三つの構造物の構成による記念碑を制作しました。方位盤は四正(東・南・西・北)と四隅(北東・東南・南西・西北)の八方位と中央の九星・十干十二支を、八方には易の八卦を配当しています。一般的な気学方位位置とは異なり、八方位を均等に配置し、正八角形の意匠でわかりやすく象られています。四神は天の四方の方角を司る霊獣で、東は青龍、南は朱雀、西は白虎、北は玄武を配します。渾天儀は本来天体の位置を測定する器具ですが、特に星の運行は人ばかりではなく国家の命運をにぎると考えられました。天文観測により暦が作られ、さらに暦によって日々の吉凶が占われたのです。龍は天空を支えるという故事にならい渾天儀の四隅に配置しています。寒川大明神を敬仰する氏子崇敬者の皆様には、この方位盤と渾天儀により方位除についてより深くご理解いただき八方除信仰の礎として活用下さいますよう祈念いたします(宮司)

d0183387_16223972.jpg一ノ鳥居記
この鳥居は当神社の一ノ鳥居で寛政8年(1796)木内善次郎の寄進により参道に建立されたもの。安政2年江戸大地震、大正12年関東大震災、2度にわたり倒壊した。高さ一丈一尺(約3.3m)柱間一丈(約3m)明神鳥居。当時をしのびここに設置する。(案内板)



d0183387_16274663.jpg
宮山神社御由緒
寒川神社末社宮山神社は、古くよりこの宮山各地区に鎮座しておりました七社の小祠を、現在の社地に御社殿を建て合祀いたしております。明治4112月琴平社に八剣社、雷社、祢岐志社、若宮八幡社の4社が合祀され、大正39月稲荷社が合祀されました。大正12年の関東大震災により社殿が半島解するなどの被害を蒙りまし たが、昭和5年国費を以て復旧いたしました。昭和449月三峰社が合祀されております。

御神徳
宮山神社に白豆腐をお供えして祈ると母乳に恵まれると云われています。子供の安産の願い、母子の健やかな生育を願う祈願等の信仰が今に伝えられ ています。また、御祭神の御神徳は厚く、家運隆昌、家内安全、無病息災、商売繁盛、五穀豊穣の神として、宮山地区の人々はもとより広く一般に崇敬されております。(説明板)


d0183387_11150771.jpg西善院

木造地蔵菩薩及両童子立像・附胎内納入地蔵(像高:80.5cm)
この立像は寒川神社別当寺であった薬王寺の本尊でした。中尊は通常の尊容であり脇侍として掌善、掌悪童子を伴っています。地蔵菩薩の像容は右手に錫杖(しゃくじょう)左手に宝珠を持つ一般的な姿です。何度か改修されたようであり中世から近世の作と思われます。胎内に地蔵菩薩が内入されています。坐像で南北朝時代の作と考えられます。また両童子は明和8年(1775)江戸時代の作です。(寒川町教育委員会)


・・・岡田

d0183387_16324996.jpg
寒川小に戻り、先の二又を右手・合流左折し寒川駅へ


d0183387_16314747.jpg中原街道
/左手墓地前
平塚市郊外の中原から渋谷に通じる道で、寒川町内は田村の渡しから一之宮を東北に抜け、根岸の南端から山道を回って小谷御座松(こやとござまつ)、北上して小動(こゆるぎ)の東側を用田に抜けていた。また、この街道は中原にすばらしいお酢を造る家があり、将軍徳川家康が放鷹(ほうよう)の時そのお酢を気に入られ将軍家の使用料として荷駄馬で運ばせたところからお酢街道の名がある。(寒川町教育委員会)


・・・一之宮

d0183387_16480072.jpg
相模線を超えて直進/岡田西(左折寒川駅)

d0183387_16483756.jpg
d0183387_16485466.jpg
文化福祉会館手前を右折        一之宮小入口信号


d0183387_17004220.jpg寒川町南部教育発祥の地/
文化福祉会館手前
この地付近は江戸時代、大山街道の宿場として大いににぎわい、明治6 (1873)に至り、この地に博習学舎が設けられ明治9年一之宮学校と改称された。現在の一之宮小学校の前身であり寒川町南部の教育発祥の地である 。(寒川町立南部文化福祉会館竣工に当り昭和582月建立)


d0183387_17003212.jpg一之宮八幡大神神社/一ノ宮
寒川一之宮八幡大神神社(おおかみ)は一之宮の鎮守で、元禄10年(16978月の創建と伝えられていますが、平安時代の知名妙に「左牟河波伊知乃三夜牟良(さむかわいちのみやむら)」と記されていることから、古くから奉祀されていたと推定されます。(寒川町観光協会)


d0183387_17002813.jpg景観寺
十一面観世音菩薩立像:室町時代の作と推定される。座高105.3cm 木造割矧造玉眼 
宝篋印塔:景観寺の僧回国行者念求は享保8年(1723)から3年半をかけ全国の霊場を行脚して、願文や400もの社寺の巡礼帳を塔内に納めた。享保12年(1727710日願いが成就してこの塔は建立された。(寒川町教育委員会)


d0183387_17285903.png
寒川駅周辺マップ(赤:旧道 橙:現中原街道 紫:寒川神社参道)


・・・・
資料ファイル

梶原氏

各地にこの氏を称する家があるが、多くは、相模国鎌倉郡梶原郷(神奈川県鎌倉市)よりおこった桓武平氏鎌倉氏流の梶原氏(景通・かげみち)またはその子景久を始祖とする)に出身を求める。景久の曽孫(そうそん)(一説に孫)景時は草創期鎌倉幕府の重職につき、長子景季(かげすえ)も宇治川の先陣争いで武名をあげたが、源頼朝の死後幕府を追われ、1200年(正治2)正月、駿河国・狐崎(静岡市)で父子ともに戦死した。しかし景時の孫のなかに滅亡を免れた者があり、彼らはのち許されてふたたび幕府に出仕し、各地の梶原氏を称したと思われる。(コトバンク)

d0183387_19370644.jpg

伝梶原氏一族郎党(七士)の墓/松戸橋の信号右折(左側奥広場)
この石造物群には次のような言い伝えがあります。庄治2年(1200年)正月、梶原景時一族郎党が一宮館を出発、上洛の途中清見関(静岡市清水区)で討死してしまったので、一宮館の留守居役であった家族、家臣らが弔ったといいます。また、景時親子が討死してから、しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣7人が、世情が代わったのを見て鎌倉に梶原氏の復権、所領安堵を願い出たが許されず、7士はその場で自害し、それを祀ったものという説もあります。なお、後の水路は当時の内堀の名残ともいわれています。(寒川町教育委員会)


d0183387_19371665.jpg箙(えびら)の梅
梶原源太影季(かげすえ)は景時の長男で、勇猛果敢歌道にも秀でた弓取である。寿永3年(1184)正月、宇治川の合戦で佐々木高綱との先陣争いで愛馬「磨墨」共に武名をあげる。同年三月、生田の森・一ノ谷の合戦では、折りしも咲き誇る梅が枝を箙に挿し かかれば花は散りけれど 匂いは袖にぞ残るらん と戦陣を馳せる影季公の風雅を平家物語など諸本が伝え、今日でも能や歌舞伎で「箙の梅」が演じられている。八月、一之宮八幡大神例祭の宵宮の屋台巡行に加わる「西町」の屋台は館址にふさわしく、梶原氏に因む彫刻で飾られ、碑の景季公は一部を模写したものである。(梶原公顕彰会20周年記念事業)



d0183387_19380084.jpg

梶原景時と一之宮館址/
西町集会所(左)
梶原景時(生年不明~1200)は「鎌倉本體(ほんたい)の武士」といわれ、源頼朝を補佐し鎌倉幕府の基礎を築いた文武ともに優れた武士です。梶原氏は、桓武平氏の流れをくむ鎌倉党の一族とされ、同族には大庭氏、俣野氏、長尾氏らがいました。治承4(1180)伊豆に流されていた源頼朝が挙兵しましたが、824日石橋山(小田原市)の合戦で大敗して椙山に逃れ「鵐(しとど)の岩屋」(湯河原町・真鶴町の両説あり)に潜んでいました。大庭影親率いる平家方の一員として参戦していた梶原景時は、頼朝を発見したものの討たずに救いました。これが景時と頼朝の出会いでした。翌年1月景時は、関東を平定し鎌倉に入った頼朝に土肥実平の仲介により面謁し、「言語を巧みにする」と高く評価され、家臣として認知されました。以来、源平合戦で多くの功績をあげたほか、頼朝の片腕として侍所所司をなじめさまざまな重職に携わりました。頼朝の死後、正治元年(1199)10月、結城朝光謀判の疑いを将軍頼朝に讒言したとの理由で後家人66名の連署をもって弾劾され、弁明の機も得られるまま一宮に下向。再度鎌倉に戻るものの12月鎌倉追放が正式に決まり、鎌倉の館は取り壊されました。正治2120日、景時とその一族は朝廷や西国武士団の支援を軸に甲斐源氏の武田有義を将軍に擁立し再起を図ろうと、一宮館をあとに京都に向け出立します。その途中、駿河国狐ケ崎(静岡県清水市)で在地の武士吉川小次郎らに迎え討たれ、交戦の末、梶原山にて最後を遂げました。幕府内の主導権を手中にしたい北条氏と、頼朝の側近として職務に忠実過ぎた景時を快く思わなかった御家人たちとの思惑が一致したことが背景にあったと言われています。(説明板)



d0183387_19384749.jpg
梶原景時館跡

d0183387_19385823.jpg
d0183387_19390258.jpg

梶原景時館跡・天満宮/一ノ宮小入口手前(左)
梶原景時は治承4(1180)8月、源頼朝挙兵の時、石橋山の合戦で洞窟に逃れた頼朝の一命を救った。翌年正月、頼朝の信任厚い家臣となり鎌倉幕府の土台を築くのに貢献した。その後、一之宮庄を所領しこの地に館を構えた。図に示すとおり館の規模は広大で、現在も当時の堀のなごりを留めている。天満宮の位置はその一角で、当時は物見の場所として一段と高く構築したものと思われる。景時は和歌もたしなみ文武両道に秀でた武将であった。頼朝の死後、多くの家臣からそねまれ、ついに正治元年(1199)11月鎌倉を去り、一族郎党を率いて一之宮の館に引き揚げた。その後、景時は再起を期し上洛するため翌正治2(1200)正月20日午前2時頃ひそかに館を出発した。一行は駿河(清水市郊外)で北条方の軍の攻撃を受け、景時以下討死という悲劇的な最期を遂げた。館の留守居役の家臣も翌年尾張(犬山市)に引き揚げたと伝えられ、また物見のあとの高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創建したともいわれている。(寒川町教育委員会)

d0183387_19430443.png
一宮館案内図(赤:中原街道 緑:大山街道)



by Twalking | 2015-10-24 13:21 | 中原街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中原街道(5)桜ヶ丘~寒川02 用田   

日時 2015.10.22(木)
天気 晴れ

秋の好日、広々とした相模野台地を西に向かいます。
綾瀬市から藤沢市、そして寒川町へ、ほぼ県道を進みますが、
ちょっと街道から入ると長閑な田園風景、いいですね!

葛原にも寄りたかっんですが、場所探し等に手間取ってしまい
残念ながらお預け、又の機会に譲りたいと思います。


d0183387_23014491.jpg
相模野台地/綾瀬市役所・展望室

相模野台地

多摩丘陵と相模川に挟まれた地域に広がる台地である。旧国郡では大部分が相模国高座郡に属し、境川左岸は上流側が武蔵国多摩郡(1878年以降は南多摩郡)、下流側は相模国鎌倉軍に属する。相模川中下流部の左岸に位置し、主に相模川の堆積作用によって形成された扇状地に由来する河岸段丘である。大きく分けて35段、詳細には十数段の段丘面に区分される。(Wikipedia


・・・吉岡東 

d0183387_23124752.jpg
緩やかに相模野台地を下ります/綾瀬市吉岡


d0183387_23125468.jpg
d0183387_23125603.jpg
御岳神社/
吉岡交差点(左)
祭神は、櫛真知命で、火災・盗難よけの神とされています。鳥居の右にある不動明王は、安政3年(1856)の造立です。その手前には庚申塔があり、造立は天保9年(1838)で、銘文には「東江戸道・南 ふしさハ(藤沢)道・西 大山道・北 ほしのや(星谷)道」という文字が刻まれています。(綾瀬市教育委員会)


・・・女坂(めざか)/藤沢市

「藤沢」の地名の起源については巷間に諸説があります。(ア)藤(ふじ)の多い水辺の地(イ)藤沢次郎清親(鎌倉時代)の居住地(ウ)淵(ふち)や沢の多い土地などが代表的なものです。しかし、藤沢がとくに植物の「ふじ」に関係が深い(ア)とは考えられませんし、(イ)の人名と地名との関係については、むしろ地名が先で人名が後だとする見方が強く、従って淵沢(ふちさわ)が藤沢(ふじさわ)に転化したとする説(ウ)が最も妥当と考えられています。(藤沢市)



d0183387_23251510.jpg
もう一段下り、新幹線を超えて用田辻へ/藤沢市松葉


・・・用田

昔、寒川町の寒川神社の所領の御用田があったので用田と呼んだと言われている。一説に昔角田氏の勢力があったころに、伊豆より伊東氏がきてその勢力に敗れて「ク」を取り用田となった説もあるが、今に残る文書から角田氏が領主のころ、用田郷の地名が見られたといわれる。(藤沢市)


d0183387_23543596.jpg

中将姫/新幹線手前を右折、坂上(右)
中将姫は奈良時代の右大臣藤原豊成公の娘で、幼くして母を失い継母に育てられました。しかし、その美貌と秀でた才能から継母に嫉まれ、命を狙われ面で顔を隠す逃亡生活であった。その面は寿昌寺に預けられた後、用田の寒川神社へと納められたが盗難に遭い現存していない。その後、姫は父と再会し一度は都に戻りましたが願いにより当麻寺へ入り、17歳で中将法如として仏門に入り称賛浄土経一千巻の写経を達成した後、阿弥陀如来と観世音菩薩のお力の元に、百駄の蓮の茎より一夜にして一丈五尺(約4m四方)もの蓮糸曼荼羅を織り上げになりました。その後29歳を迎えられた中将法如は、光仁天皇の宝亀6年(775314日、諸仏の来迎を受けて大往生を遂げられました。(案内板)


d0183387_23572964.jpg
寿昌寺
護法山と号する用田の字中条にある曹洞宗の寺院です。1613(慶長18)年に創建され、開基は用田区の豪農にして大庄屋として知られる伊東家の伊東孫右衛門、開祖は僧・通山です。元遠藤宝泉寺の末寺で、6世悦道が中興の祖とされています。山門付近には大銀杏が2本あり当寺のシンボル、続く参道も石燈籠が並び豊かな緑に囲まれています。また、創建以来ほとんど火災に会っていないほか、関東大震災でも倒壊しなかった数少ない寺院のひとつで、本堂には地獄絵図2幅、十六羅漢像、まわり地蔵などが残されています。(御所見まちづくり推進協議会)


d0183387_00204376.jpg
d0183387_00210753.jpg
法華山示現寺
/新幹線先・左折
示現寺は永禄3(1560)108日、当時の豪族伊東孫右衛門祐矩公により永禄山観生寺(禅宗)として開かれ、人々の信仰を受けていま したが、第二次大戦後に継承者不在の為、衰退の道を辿りました。その後数十年間廃寺となっていたこの寺を、平成元年5月に前住職 (自修院日得聖人)により新たに開山し寺号を示現寺(日蓮宗)として改宗復興、その後単立宗教法人を取得し、平成164月山号を法華 山と定め「法華山示現寺」として歩んでいます。(藤沢市)


d0183387_01015269.jpg
用田辻へ上ります/寿昌寺入口



d0183387_00251755.jpg
用田寒川神社/新用田辻左折

天正2年(1574)伊東孫右衛門により勧請。大鳥居の右側にご神木であるモミの大木がそびえており、砂利を踏みしめながら100mほどの参道を行くと木立の中に社殿 が現れる。この周辺は寒川町の寒川神社の御用田だったところから「ようだ」とよばれたという。(藤沢市)


d0183387_00325054.jpg
d0183387_00325358.jpg
用田交差点              大山道道標/用田交差点右角

柏尾通り大山道

東海道方面からの経路で、現在の横浜市戸塚区から大山へ向かうものである。この経路の起点は不動坂と呼ばれ、道標や石碑が多くみられる。明治5年のころに、講衆同士が大げんかを始め「戸塚の血の雨」と呼ばれる騒ぎになった。なお、下粕屋からは矢倉沢往還(青山通り大山道)を利用して大山に至る。県道401号瀬谷柏尾線・22号横浜伊勢原線などが近似したルートを辿っている。(経路)東海道戸塚宿不動坂(横浜市戸塚区柏尾町)-岡津(横浜市泉区)-中田-和泉-上飯田村-境川-七ツ木村(藤沢市)-長後-用田-門沢橋(海老名市)-戸田の渡し(相模川)―下津古久(厚木市)-下落合(伊勢原市)-下糟屋-青山通り大山道を経て大山へ。(Wikipedia


・・・宮原(みやばら)

高座郡寒川町宮山にある相模一の宮寒川神社の社地であった原野を開拓したところからこの地名が付いたといわれている。村の中央を中原街道が通り、北町に大山街道がとおっていた。街道には旅人の往来も多く、当時の様子を思い起こさせる屋号も多く残っている。(藤沢市)


d0183387_00434750.jpg
この辺りは植木屋さんが多いですね/宮原南


d0183387_00515582.jpg
d0183387_00520539.jpg
双体道祖神
/宮原中央信号(左)     メンチカツお奨め!/御畜食肉センター


d0183387_09120600.jpg
宮原寒川神社/宮原中央信号・右折
祭神は品陀別命(応神天王)、寒川彦命、寒川姫命で本殿は明神造、拝殿は入母屋造となっている。一帯は寒川神社の宮地であった原野を開拓して村を作ったので宮原とよばれるようになったという。大正4年(1915)神饌幣帛料供進神社に指定された。(藤沢市)


d0183387_09352647.jpg観蔵寺

観蔵寺は、藤沢市宮原にある宮原山不動院と号する真言宗の寺院です。創建時期は不明とされていますが、安土桃山時代と推定され、寛永年間(162444)に僧・成印により再興されたと伝えられています。明治期まで道を挟んで隣接する宮原寒川社を管轄していました。本尊不動三尊、本堂安置の阿弥陀如来は獺郷にあった西福寺の旧本尊です。現在の本堂は大正大震災後に改築されたものです。(御所見まちづくり推進協議会)


d0183387_09573788.jpg
街道からちょっと入ると長閑な田園風景が広がります、いいですね!/宮原 


・・・・
資料ファイル

御所見(ごしょみ)の歴史

その昔、桓武天皇第三皇子葛原(カツラハラ)親王より出た板東平氏の一族である長田氏が平安時代、葛原の地を私領、垂木主膳正従四位下長田武蔵守平忠望がこの地に館を構えたので里人が垂木(タルキ)御所と呼んだ。その御所が菖蒲沢の塚より展望できたのでこの塚を御所見塚と呼んだ。また、別の伝えでは葛原親王が当地に下向し葛原の地に御所を造り、付近を散歩のおりこの塚より御所を眺められたとも言われている。後に塚の名前が御所見村の名となり藤沢市合併後、御所見地区と呼ばれている。(藤沢市)

御所見の起源

平成5年度から始まった横浜伊勢原線、用田バイパス工事に伴い遺物が大量に発見されています。旧石器時代の末期の土器や住居跡、動物を捕るために使ったであろう落とし穴、また、この時代ではほとんど確認することができなかった木材が炭化した状態で出土し注目を集めました。また、富士山の噴火で埋没した溝や道、地震のあった痕跡等がみつかっています。御所見の環境を考えるとはるか18000年前から人々が生活していたことが伺えます。(藤沢市)

御所見の交通
江戸から14里(約56km)のところにあり、商店が連なる用田の県道横浜伊勢原線は昔の大山街道、用田辻で交差する県道丸子中山茅ヶ崎線は中原街道であった。また、大山街道は御所見中学校前で厚木街道(県道藤沢厚木線)交わっている。用田辻付近は旅籠や茶店が集まり、大山参りの人たちでにぎわったといわれている。江戸時代には旅人が一休みし、雄大な富士山の景観を楽しんだ後に、大山へ向かって歩き始めた。(藤沢市)

d0183387_10173481.jpg
御所見のルーツコース地図(御所見まちづくり推進協議会)

皇子大神(おおじおおかみ)

葛原の鎮守さまとして親しまれている神社。美しい木々に囲まれた社と長い参道は、桓武天皇の第三皇子、葛原親奉祀するにふさわしいただずまいを見せています。

瀧山不動尊

滝不動は、もと明滝山長盛寺の廃跡にあるお堂です。天保12(1841)成立の『新編相模国風土記稿』によると、慶安5(1652)に村人の与右衛門に夢のお告げがあって、境内の滝のそばから不動像が出現したと伝え、当地の領主であった旗本の長田重正が承応3(1654)に病気になった時、その霊験で治癒したので、翌年にお堂を建てたということです。

by Twalking | 2015-10-23 17:17 | 中原街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中原街道(5)桜ヶ丘~寒川01 綾瀬   

日時 2015.10.10(土)
天気 曇り

急ぐ旅ではありませんが、桜ヶ丘に早く着いたので先に進みました。
東海道では街道から離れているので鎌倉や大庭城址などは寄りません。
でも、相模は中世の武士団ですね、面白いし、重要だと思っていました。
いい機会なので、城山城址公園の渋谷氏の跡を訪ねてみました。


d0183387_22513076.jpg
小田急江ノ島線踏切/桜ヶ丘駅

高座郡

神奈川県(相模国)に所属する郡。相模川(馬入川)と境川に挟まれた地域からなる。南北に伸びる相模平野の中心地域で、相模野台地の大部分を占め南部は湘南砂丘地帯になる。古くは「たかくらぐん」とも読んだ。海老名市で発掘された国分寺跡から、国府が置かれていた可能性がある。また、茅ヶ崎市にある県立茅ヶ崎北陵高等学校が、古代高座郡の郡衙跡と推定されている。寒川町には相模国一宮の寒川神社が鎮座する。平安時代後期、南部の大庭御厨や東部の渋谷荘などの荘園が成立し(いずれも現藤沢市を中心とする)、有力武士である大庭氏、渋谷氏の本拠となった。また、北部は隣接する武蔵国多摩郡を本拠とする武士団である横山党の勢力範囲に属し、粟飯原(相原)、小山、矢部、淵辺(淵野辺)、田名など当郡北部に分布する地名(いずれも現相模原市)を名字とする武士が現れている。鎌倉時代には時宗教団の活動拠点となり、当麻(たいま・現相模原市)に無量光寺が開かれ、藤沢に開かれた清浄光院(のち清浄光寺・遊行寺とも。鎌倉郡側に位置する)と同教団の本山の地位を争った。戦国時代は小田原の後北条氏の支配下にあり、「東郡」と称した。1590年(天正18年)の後北条氏滅亡後は徳川家康の支配下に入る。江戸近傍に位置する当郡は、南部の東海道沿いのをはじめとして多くの村が幕府領(天領)とされたほか、旗本領や藩領の飛び地も多く設けられ、郡全体が一円的に支配されることはなかった。(Wikipedia


d0183387_22511405.jpg金比羅神社/桜ケ丘駅先

境内の奥に宝永7年(1710)建立の庚申塔。側面に「八王子みち」「大山みち」と刻まれている。(桜ケ丘交差点にあったもを移設)




・・・桜株

桜株は江戸時代滝山道と中原道が交差していた付近で、かつて桜の名所であったとされ、ここから名づけられたと考えられます。また、次のような言い伝えも残っています。常州小栗の城主小栗満重は、謀反の疑いで鎌倉管領上杉持氏に追われ、商人に身をやつして三河国へ落ちのびる途中藤沢の横山太郎という強盗の家に宿をとります。横山太郎は満重をよい獲物とみてもてなしますが、翌朝、庭の桜の古木に鬼鹿毛と呼ばれる暴れ馬がつないであるのを見た満重は、この悪馬を苦もなく操り、今の桜ヶ丘の地に到着します。このとき、馬に引っかかっていた桜の枝が落ちて地にささり、やがて大木となったので、この地を桜株と呼んだということです。(大和市 古地名)


d0183387_22513783.jpg桜株十一面観世院菩薩の由来/踏切(左)
この尊像は昭和111023日深谷村秋祭と大和村小学校の運動会の帰途、当時もの珍しい自動三輪車にてこの桜株踏切にさいかかるや、折からばく進し来たりし江の島行電車に接触し一大音響と共に三輪車もろともに11名即死、2名が重傷と云う大惨事を巻き起こし、これを契期に部落の先輩諸氏が事故防止を呼びかけ設立運動を起し、翌昭和12年有志の善意が高なり浄財の御喜捨により、当時綾瀬村報恩寺住職の御懇篤なる御教導仰いで11名の尊き御霊の冥福を祈るために、十一面観世音菩薩像が踏切わきの此の地に安置されて二度とこのような事故を起さぬよう永遠に交通安全を願い、菩薩の御加護祈願し茲に尊像が設立致しました。(桜ヶ丘自治会)


・・・福田

16世紀前半に福田地区に移住し、この地域を開発した通称「福田開拓九人衆」(広田刑部之助、斎藤民部、駒井文太夫、広瀬藤八、市川源兵衛、山下半哉、小林大玄、保田筑後守、田辺因幡守)が相談して、大永41524)年に九人衆のうちの保田筑後守、田辺因幡守、広田刑部助の「田」を取り、「末永く幸福であるように」との願いを込めて「福田村」と名づけたとされます。しかし、「福田」の地名が鎌倉時代にはすでに郷名として存在していた可能性を示す資料もあります。(大和市 古地名)

d0183387_22574797.jpg
新道下へ下り、代官1へ上ります

d0183387_22580710.jpg
新道下
大住郡中原村(平塚市)と江戸を結ぶ中原街道は、市の南部を東西に走っています。地域では中原街道を「新道」(しんみち)と呼び、新道下とはこの街道の下の集落を指します。(大和市 古地名)



・・・代官庭
「庭」は場所、あるいは邸内の草木の植えてある所を意味します。代官庭は、16世紀前半に福田地区に移住し、その開発に当たった「福田開拓九人衆」の一人、保田筑後守の屋敷があったとされることから名付けられたと考えられます。(大和市 古地名)


d0183387_23090742.jpg
旧道は基地に沿って進みます/代官2付近 

d0183387_23091361.jpg
d0183387_23122930.jpg
代官1二差路を左折           代官3で合流します
d0183387_23304417.jpg
手:厚木海軍飛行場  左手:大和ゆとりの森


d0183387_23562584.jpg厚木海軍飛行場
綾瀬市と大和市にまたがる飛行場で、アメリカ海軍と海上自衛隊が共同で使用している軍事基地。県内で唯一、固定翼ジェット機が離着陸できる航空施設である。ダグラス・マッカーサー連合軍総司令官の乗った輸送機「バターン号」が厚木飛行場に着陸。「メルボルンから東京へ、長い道のりだった」と第一声を放った。このとき、彼が細いコーンパイプを咥えてタラップを降りる写真(『ライフ』カメラマンのカール・マイダンス撮影)が現存し、日本の敗戦や連合国による占領時代を象徴する1枚としてしばしば用いられる。(Wikipedia


d0183387_23565393.jpg大和ゆとりの森
大和市にある公園である。当公園と隣接して綾瀬市立の綾瀬スポーツ公園が位置している。厚木飛行場の真南に位置し、過去は航空進入信号灯と調整池が有る雑草だらけの空き地であった。開園現在でも園内には航空進入信号灯が設置・運用されており、信号灯の障害になる為夜間の公園内の照明にも制限が有る。(Wikipedia


・・・綾瀬市


全域が相模川の河岸段丘にあり、丘陵の起伏は比較的穏やか。「緑と文化が薫るふれあいのまち あやせ」を市の標語に掲げている。神奈川県内では最も新しい市で、市内の18%強が在日米軍と海上自衛隊の厚木基地になっており(同基地総面積の約78%に相当)、市長選では常に騒音問題が争点となる。(Wikipedia


d0183387_00162760.jpg
綾瀬橋交差点を左折

d0183387_00201059.jpg
d0183387_00201766.jpg
蓼川(たてかわ)から廻り坂へ     坂上


d0183387_00250241.jpg
d0183387_00250464.jpg
大法寺/
綾瀬市深谷右角           南無妙法蓮華経の髭題目碑



d0183387_00272634.jpg
早川交差点

d0183387_00560165.gif
綾瀬市全図(赤:中原街道 緑:城山公園)



・・・・
資料ファイル

渋谷氏
桓武平氏秩父氏の一族から分派し日本全国へと広まった。代表的な一族に下記が挙げられる。相模渋谷氏は、渋谷氏宗家で相模国高座郡渋谷荘に寄り本貫地の渋谷を名字とした。薩摩渋谷氏は鎌倉時代中期以降に薩摩に移住した渋谷氏庶家で、薩摩東郷氏、祁答院氏(けどういんし)、鶴田氏、入来院氏、高城氏の祖。渋谷氏の人物は、平安時代末期の渋谷家重(河崎重家)、渋谷重国、渋谷金王丸が知られる。その内の一人、渋谷重国の次男である高重が和田義盛の乱に加担したため相模国渋谷荘を没収され、それが後に重国の長子光重に与えられる。光重は更に、宝治合戦の恩賞として薩摩国の高城郡・東郷別府・入来院・祁答院を下賜された。光重はそれらを自らの六人の男子に分割、長男の重直に相模国の渋谷荘を与えたのが相模渋谷氏として存続し、次男の実重に薩摩国の東郷別府を、三男の重野保に同国の祁答院を、四男の重茂(重諸とも)に同国の鶴田を、五男の定心に同国の入来院を、六男の重定に同国の高城を与えたのが薩摩渋谷氏の始まりとなる。

相模渋谷氏
相模国高座郡渋谷荘に寄り本貫地の渋谷を名字とした。現在の神奈川県大和市・藤沢市・綾瀬市一帯に勢力を張った一族。現在の東京都渋谷区一帯も領地としており、後には分家が在住した。小田急江ノ島線の駅名・高座渋谷は、旧・高座郡渋谷村に由来する。
Wikipedia


d0183387_14144373.jpg
城山城址公園・入口広場

d0183387_14243669.jpg
d0183387_14243306.jpg
街道からの遠景            桜の広場(本郭・物見塚)


d0183387_13594204.png

早川城跡

早川城跡は地元では古くから「城山(じょうやま)」と呼ばれ、鎌倉時代の御家人渋谷氏の城と伝えられています。しかし、文献資料がないことから、その実態は明らかではありませんでした。そこで、綾瀬市教育委員会では平成元年度から平成6年度にかけて、早川城跡の学術調査を行いました。発掘調査によって堀切・土塁・物見塚・曲輪等、多くの城郭関連遺構が発見され、県内でも有数な保存状態の良好な中世城郭であることが明らかとなりました。また、城郭が構築される以前には、縄文時代や古代の集落が営まれていたことも明らかとなりました。(綾瀬市)


d0183387_22010923.png

渋谷氏と早川城 
渋谷氏は平安の末期、綾瀬市域を中心に渋谷荘(吉田荘)という荘園を支配し、勢力をもった武士でした。『吾妻鏡』によると平治の乱(1159年)に敗れて奥州に落ち延びていく源氏の重臣・佐々木秀義を渋谷重国が保護したとの記事があることから、この頃までには綾瀬市域一帯を支配下に置いたものと思われます。鎌倉時代になると、渋谷重国は源頼朝の家臣である御家人となり、その子高重が後をつぎました。高重は早川次郎と名乗り、早川に拠点を置いて一族を統率していたものと思われます。和田合戦(1213年)では高重は和田義盛に組したため高重はじめ多くの一族が討たれましたが、宝治合戦(1247年)の後、その軍功により薩摩国入来院ほかに所領を得、地頭となり、その際多くの一族が移って行きました。しかし、室町時代の初め頃までは綾瀬市域に渋谷氏の支配が続いたと思われ、その一族が早川城を築城したものと考えられます。(綾瀬市)


d0183387_14020072.jpg堀切と土塁
鎌倉時代に築城されたと推定される早川城は、天守閣を持つ江戸時代の城と異なり、自然の地形を巧みに利用し、堀切と土塁を周囲に巡らした「砦」的な要素の強い城郭であることが発掘調査によって明らかとなりました。堀切とは外敵の侵入を防ぐため、城の周囲に巡らされた堀のことです。堀切の内側には、堀切を掘った土を利用して、土塁と呼ばれる高い土手を築き、さらに堅固な防御施設を作り上げています。早川城の場合、東西及びみな南側は急峻な崖に囲まれ、自然の要害となっています。しかし、北側は平坦なため、幅約11m、深さ5m以上という大規模な堀切と土塁を築いて敵の侵入を阻んでいます。早川城は有事の際に周囲に暮らす武士たちが集結して、外敵の侵入に備える防御施設として、また、領民に対しては、権力を誇示するシンボルとしてそれぞれ機能していたものと思われます。(綾瀬市)


d0183387_14030666.jpg物見塚と東郷氏祖先発祥地碑
 
早川城本郭の西側に位置するこの塚は、物見塚と呼ばれています。南北21m、東西23m、高さ約2mの塚です。発掘調査の結果、表土直下に宝永火山灰(1707年、富士山の噴火による火山灰)が見られることから江戸時代初期以前に築かれていることは明らかです。また、塚の作り方が土塁と同様の版築(黒土と赤土を交互に敷きつめて突き固めたもの)であることから、城郭の関連遺構の一つであり、外敵の侵入を見張るため築かれた塚であると思われます。物見塚の上には、昭和七年に祖先発祥地東郷会により建てられた「東郷氏祖先発祥地碑」があります。この碑は日露戦争で有名な旧海軍元帥である東郷平八郎の先祖の地であることを記念して建てられたものです。東郷家は、早川城主であったと伝えられる渋谷氏の末裔の一つでした。(綾瀬市)


d0183387_21492854.jpg
早川城跡(城山城址公園)/綾瀬市役所展望室(7F)


d0183387_21574770.jpg
城山城址公園案内図(「グレゴリウス写真館」さんより引用しました)



・・・早川

綾瀬市
の地名。市内中央部から西部、相模野台地内の目久尻川と比留川の間の台地上に位置する。鎌倉時代には当地に渋谷氏の居城である早川城が存在した(現在の早川城山地内)。Wikipedia

d0183387_16500041.jpg


d0183387_16501525.jpg長泉寺

山号を宋福山といい曹洞宗(禅宗)のお寺です。本尊は釈迦如来で、寛永11年(1634)亡の僧格雲守存(かくうんしゅそん)により開山しました。かつてここは、中世の在地領主渋谷氏の菩提寺と伝えられる祖師山菩提寺という寺がありました。渋谷庄司重国の孫・曽司五郎定心(じょうしん・入来院氏)とのゆかも考えられる一帯といえましょう。(綾瀬市教育委員会)


d0183387_17211424.jpg
目久尻川上流の景観/新橋


(2016.2.10 長泉寺を追加しました)


by Twalking | 2015-10-13 15:53 | 中原街道(完)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中原街道(4)中山~桜ヶ丘02 瀬谷   

日時 2015.10.10(土)
天気 曇り


保土ヶ谷バイパス先から旧道を登りますが、ここが丘陵のピークでしょうか。
多少の高低をつけながら国境の境川に下ります。
手前の宗川寺門前で鎌倉道・上道と交差しますが、懐かしい場所です。

鎌倉街道は府中からこの先まで歩きましたが、宿題が残ったまま。
鎌倉まではひと行程なのでいずれ歩かないと、と思っています。


・・・笹野台 

d0183387_23093695.jpg
旧道は階段をひと登りして笹野台の住宅地に向かいます 

d0183387_23131631.jpg
d0183387_23133822.jpg
この階段を上ります/インター先(左)      この合流地がピークです/西部病院入口

d0183387_00065564.jpg
見晴ポケットパーク
旧中原街道沿いの高台にある。横浜駅方向の眺望がすばらしい休憩所です。こじんまりした中にベンチ、案内板、花壇などが整備されています。


d0183387_23204864.jpg矢指の一里塚跡/見晴らしポケットパーク前
塚の大きさは直径3m、高さ1mあったという。中山の宮下より1里、大和市の桜株より1里だそうだ。(標柱)





d0183387_23211795.jpg
d0183387_23212049.jpg
岩船地蔵尊
/ほうゆう病院向
この近辺には数少ない石仏で、「イボ取り地蔵」ともいわれていました。今も地元の人によって地蔵様もお堂もよく保全されています。「享保九天庚辰1117日 世主吉祥院」「奉造立地蔵菩薩供養為二親」と刻まれています。岩船地蔵とは船に乗った地蔵様で、六道の苦海に舟で棹さして溺れる人達を救いあげ、願いをかなえてくれるといわれています。(ささのだい・わが町の歩み)

d0183387_23314174.png

旭区グリーンロード(赤:旧中原街道 橙:現中原街道)
二俣川駅と三ツ境駅を結ぶ約5.2kmのコースです。二俣川方面から歩き、試験所通りを通り抜けるとイチョウ、トウカエデの並木道を追分・矢指市民の森に着きます。谷戸田を利用したお花畑ではヒマワリやコスモスなど四季折々の花々を楽しむことができます。(旭区)


・・・追分市民の森

d0183387_23503333.jpg

d0183387_23561658.jpg
d0183387_23520639.jpg
追分市民の森

帷子川の源流域のある自然豊かな市民の森です。谷戸の田んぼや畑の田園風景が樹林と一体となり、四季折々の自然を楽しむことができます。お花畑は季節によって菜の花、ヒマワリ、こすもすなどのいろいろなお花を楽しむことができます。鳥の声をバックに散歩やジョギングに汗を流す人とあいさつを交わしながらの散策は気分爽快。そのまま、瀬谷市民の森まで足をのばしてみては?林の中をぬける心地よい風はまさに桃源郷の趣です。面積 30.4ha 散策路延長 3400(旭区)

d0183387_00124083.png
追分市民の森案内図(赤:旧道 橙:現中原街道)


・・・三ツ境

瀬谷区
神奈川県のほぼ中央部、横浜市の西端に位置し、区域は大和市との境界である境川に沿って南北に細長く5つの川が流れている。相模の台地・相模平野に位置し、相鉄線を挟んで北部は平地が広がり、南部は川沿いに段丘状になっている。「せや」の地名は、一説に狭谷(せや)で「い川瀬の小がある土地」に由来すると言われている。(鎌倉時代)南北を縦断する鎌倉街道の上道は、当時の主要な街道の一つであり、源頼朝、日蓮、新田義貞などが通った跡が残されている。源頼朝は、石橋山の戦いに敗れ安房に逃れた後、態勢を建て直し鎌倉攻めをする前夜に、相沢の諏訪社で宿泊・夜陣を張ったという言い伝えがある。日蓮は晩年、鎌倉を出発し中原街道を通り池上に向かう途中、妙光寺に立ち寄った。新田義貞は、世野ヶ原(現在の瀬谷)で20万を越える勢力の陣揃えをして鎌倉攻めの準備をした。阿久和は鶴岡八幡宮の荘園だったという記録が残されている。(室町・戦国時代)
応永23年(1416年)に起きた上杉禅秀の乱では、上杉・足利持仲と江戸・豊島の両軍が世田原の戦いで戦った。主な戦場は鎌倉台(楽老峰)・中丸山で、破れた上杉軍は鎌倉道を敗走していった。甲斐武田氏が滅亡した時武田家ゆかりの者の一部が瀬谷に土着したと言われ、区内の善昌寺は支族岩崎丹後守が一族を弔うために開基したと伝えられている。(江戸時代)天正6年(1578)中原街道沿いの瀬谷(現在の北新、宗川寺あたり)に問屋場が設けられる。天正18年(1590)、石川弥治右ヱ門重久に経営が委嘱された。二ツ橋には、荷物等の受け渡しを行う継立場が設けられた。(Wikipedia

d0183387_00332212.jpg

d0183387_14252427.jpg三ツ境
(みつきょう)/相鉄線アンダー
瀬谷区東部にあり、東側は旭区に接する。北部に相模鉄道と厚木街道(県道40号横浜厚木船)が走り三ツ境駅が設けられている。かつての鎌倉郡阿久和村の一部で、1889年(明治22)に周辺の村と合併、中川村大字阿久和となる。昭和14年に横浜市に編入され戸塚区阿久和町の一部となった。1952年、町界町名地番整理事業の施行により阿久和町から三ツ境を新設。1969年戸塚区から瀬谷区を分離、瀬谷区三ツ境となり現在に至る。二俣川村・都岡村川井分・中川村阿久和分の三村の境、境は橋が転訛した、旭区希望が丘にある長楽寺の密教に関係するなど諸説ある。(Wikipedia


・・・二ツ橋町

かつての鎌倉郡瀬谷村の一部で、1939年(昭和14)に横浜市に編入され、瀬谷村大字二ツ橋の全域及び大字瀬谷の一部が戸塚区二ツ橋町となった。町名は、町内に二つの小橋があったことに由来し、徳川家康は1613年(慶長18年)に「しみじみと清き流れの清水川 かけわたしたる二ツ橋かな」と和歌に詠んでいる。(Wikipedia

d0183387_00341028.jpg
二ツ橋交差点

d0183387_00341337.jpg
d0183387_00342042.jpg
二ツ橋地名由来の碑/二ツ上橋交差点左角
相模野の流れもわかぬ 川水を 掛けならべたる 二ツ橋かな 道光親王 文明16甲辰年11月詠 しみじみと 清き流れの 清水川 かけ渡したる 二ツ橋かな 徳川家康 慶長18年癸丑年12月詠 二ツ橋地名の由来はこの歌のいずれかは詳かでないが、二首ともにこのあたりの清らかなたヽずまいにふれて詠まれたものでその昔は豊かな自然に恵まれた土地であったと思われます。道標には「右 八王子往来 左 神奈川往来」「中原街道」(案内板

二ツ橋学舎跡
ここより東方百米(二ツ橋町三百十五番地)山名平左衛門義実が此の地に学舎を創設、武州二州に亘って学業の実を挙げ、その弟子から数多くの人材を輩出、明治大正の時代にかけての指導者は山名先生の訓育によるものが多かったと伝えています。(瀬谷区役所)


・・・南台

d0183387_01032621.jpg

d0183387_01155461.jpg中原街道の梛の木/歩道橋先(左)
江戸時代寛文年間(16611673)、この地を治めていた津島久利候が薩摩の国(現在の鹿児島県)より、梛の木の苗を取り寄せて植えました。村人も協力してその育成に努めました。弘化元年(1844)江戸城で大火があり、本丸、西の丸を全焼してしまいました。その知らせを受け、当地の梛の木の良材を伐採して中原街道を急送し、その復興の要を果たしたと伝えられています。(瀬谷区)


d0183387_01162721.jpg相沢川ウォーク鎌倉古道(南コース)/歩道橋先(左)
鎌倉古道・上道(かみつみち)の瀬谷駅南側ルート沿いを瀬谷八福神をはじめ神社仏閣と路傍の地蔵尊、庚申塔、道祖神のある橋戸下瀬谷方面へ、さらに初春の川津桜(瀬谷の一番桜)をはじめ季節感あふれる緑と水を観察できる相沢川ウォークをめぐるコースです。(瀬谷区)


・・・下瀬谷

d0183387_01242868.jpg
境川へ下ります/下瀬谷2


d0183387_01172559.jpg
d0183387_14045590.jpg
d0183387_14053753.jpg
山門                 鎌倉街道(上道)を横断

宗川寺

宗川寺は寛永2乙丑年(1625)富士重須本門寺第12世日賢上人開山、開基は石川宗川である。山門を入ると左右の夫婦銀杏は昔から縁結び、安産祈願の信仰を受け、近所より多くの参詣があり、いまは横浜市の名木と指定された大樹である。中原街道瀬谷問屋場は天正6戌寅年(1578)小田原北條氏の関東経営の駅路として、中原街道瀬谷に問屋場が設けられ、のち、徳川氏の江戸開府により駿河国山宮西谷の住人石川彌次右衛門重久(虎之助)が問屋場の運営を幕府より託され、江戸平塚間五駅の中宿、瀬谷駅の問屋場として、江戸時代270年にわたって中原往還の道筋の人馬諸貨物の運送、継立てにその役割を果たした。これより東方80米、桧林がその跡である。(瀬谷区役所)

d0183387_14095426.jpg
境川下流側の景観です/新道大橋

d0183387_14131546.jpg境川
川の名称はかつて武蔵国と相模国の国境とされたとに由来し、現在でも上流部は概ね東京都と神奈川県の都県境となっている。かつては相模国高座郡に由来する高座川(たかくらがわ)とも呼ばれていた。町田市相原街大戸の同市最高峰・草戸山(365 m)北東面(町田市立大地沢青少年センター付近)に源を発し、東京都と神奈川県の境界に沿って南東に流れる。神奈川県大和市付近から南へ流れを変え、藤沢市の江の島付近で相模湾に注ぐ。上流部は、現在の河川規模に比較して大きな河谷を形成しているが、これはかつての相模川の流路の痕跡であると考えられている。平安時代後期の境川筋は、上流部を横山党の横山氏、中流部を渋谷氏、下流部を鎌倉党の俣野氏と大庭氏という武士団が支配していた。文禄3年(1594)、彦坂刊部直道が検地するにあたり「高座川を相武の国界とし、境川と称す」として以後境川となり、現在は全流域の正式名称となっているが、下流は片瀬川と呼ぶ場合もある。(Wikipedia


・・・大和市

東西間の距離は3.22km、南北間の距離は9.79kmと南北に細長い市域である。相模野台地(相模原台地)上にあり、北から南へ緩やかに傾斜した地形で、高低差は38mに及ぶが丘陵起伏はほとんど無い。市内最高点は下鶴間・浅間神社跡の標高90m、最低点は福田・江の窪の標高30mである。(Wikipedia


d0183387_14144767.jpg
新道橋を渡ると大和市です
d0183387_23500970.jpg
振り返って見る境川方向の景観です


d0183387_23523896.jpg
上和田左馬神社鳥居/坂上信号(左)

d0183387_23530998.jpg上和田左馬神社
御祭:左馬頭義朝 
(由緒)宝暦143月、桃園天皇、徳川九代将軍家重の代、名主渡辺兵左衛門・小川清右衛門、この地に宮を建立、左馬頭源義朝の霊を勧請し、村民の精神道場となるや漸次庶民崇敬の的となり、文化343日、上和田信法寺十四世住職憧与上人、氏子の賛同を得て五穀豊穣の祈願をなしなるや、其の御神徳の偉大さに武家・一般庶民に深き感銘を与う。以来、五穀豊穣はもとより家内安全の守護神として広く世に伝わり崇敬者多し。尚、境内社として天照皇大神、神武天皇、須佐之男命、三神を奉斎し、国土安穏、氏子崇敬者の安泰(疫病・痘癒・厄除)守護を念ずる参詣者今尚多し。(案内板)

鯖神社
(さばじんじゃ)
神奈川県中部の境川中流域、横浜市泉区・瀬谷区、藤沢市北部、大和市南部にかけて12社ある、「サバ」と読む社名を持つ(あるいは過去に持っていた)神社。社により鯖以外に左馬、佐婆、佐波とも表記され、地名にちなむ名に改名したもの(七ツ木神社・飯田神社)もある。祭神は源頼朝(9社)もしくは源満仲(3社)。語源については、源義朝が左馬頭(さまのかみ)だったためともいうが、諸説あり詳細は不明。(Wikipedia


d0183387_23575795.jpg
d0183387_14162416.jpg
巡礼街道/左馬神社前            標柱

順礼街道
順礼者がめぐった坂東三十三札所のうち、第八番星谷寺(座間市)と第十四番弘明寺(横浜市)または 第四番長谷寺(鎌倉市)を結ぶ江戸時代の古道(大和市教育委員会)


d0183387_14213774.jpg
この先右が桜ヶ丘駅です/467号桜ヶ丘


・・・

旭区の多摩丘陵にも魅力的な散策路が多いですね。
街道から離れますが機会があれば歩いてみたいですね。

d0183387_15041904.jpg

旭区グリーンロード全体図(旭区 赤:中原街道)

by Twalking | 2015-10-12 15:05 | 中原街道(完)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中原街道(4)中山~桜ヶ丘01 都岡   

日時 2015.10.10(土)
天気 曇り

三連休の初日、天気が持ちそうなので出かけました。
鶴見川右岸の中山から多摩丘陵を横断して武相国境へ、
だらだらとした坂道が続いてちょっと単調なコースです。

でも、川筋や谷戸に入ってみるといい散策路があります。
やはり多摩丘陵ですね、変化に富んいて面白いです。
街道と合わせて里山を組み込むのもいいと思います。


・・・宮の下(緑区)

d0183387_12122450.jpg
最初の上り、長坂から振り返る風景/長坂上

d0183387_12135951.jpg
d0183387_12140670.jpg
坂下/鎌倉街道(中道)分岐       坂上/長崎谷公園

緑区
区域は鶴見川流域に沿って東西に細長い。中央を鶴見川やJR横浜線が東西に縦走している。鶴見川流域は平地であるが南側は丘陵地となり住宅地が多く旭区に隣接する。北側は緑産業道路である川崎町田千に沿って工業団地となっている。鶴見川と恩田川合流地点から上流は市内でも珍しい広大な農業用地となっており、稲作や梨の生産が見られる。Wikipedia


・・・上白根(旭区)

d0183387_12281369.jpg
旭区に入り長坂を下ります/長坂上

旭区

1950年代から横浜市中心部や京浜工業地帯への通勤者のベッドタウンとして宅地化が進み、丘陵地や農地に万騎が原、上白根、左近山、ひかりが丘、横浜若葉台団地などの大規模団地が造成され人口が激増した。1999年には日本最大級のよこはま動物園ズーラシアが開園した。横浜市編入以前は都築郡に属し、郡役所が現在の都岡町に置かれたが、後に川和町(現都筑区)に移転。隣の瀬谷区との区境は武装国境である。1969年に保土ヶ谷区から旧都築郡の領域を分区して発足した。区の大半は八王子市や町田市から連なる多摩丘陵に位置し、標高は60100m程である。西部は一部相模台地に含まれる。区の中央を帷子川が縦断し源流も区内にある。古代、武蔵国都築郡に属し、保土ヶ谷区から当区にかけて広大な榛谷(はんがや)御厨(榛谷氏は坂東八平氏のうち秩父市の流れ)が存在し、善部(膳部)、半が谷などの地名が残る。(Wikipedia


d0183387_12490016.jpg
中堀川プロムナード
雨水排水路として使われていた中堀川を下水道整備に伴い、せせらぎが流れる水と緑が豊かなプロムナードとして再生したものです。このたび、下流部の約410m(県住宅供給公社上白根共同住宅付近~商橋)が開通しました。プロムナードには、せせらぎが流れ、緑豊かで色とりどりの花を楽しめます。とりわけ、春には、ソメイヨシノやカワヅザクラ、シダレザクラなどいろいろな桜が満開となり、お花見を楽しむこともできます。また、ところどころには昔懐かしい手押しポンプの井戸もあります。散策に疲れたら「上白根ふる里公園」や「上白根コミュニティハウス」でちょっとひと休みもお薦めです。(旭区)


d0183387_12511373.jpgズーラシア
神奈川県横浜市旭区にある動物園。19994月オープン。「生命の共生・自然との調和」をテーマとし、世界の気候帯・地域別に約約70400点の動物を飼育・展示する。総面積は現在40.7haだが拡張中で、最終的には53.3haの日本最大級の動物園を目指している。「ズーラシア」は英語で動物園を意味するZOOと広大な自然をイメージしたユーラシア(EURASIA)を合成した造語で、公募により選定された。(コトバンク)


d0183387_12562737.jpg
二番目の上りは旧道、都岡へ下ります

d0183387_12562370.jpg
d0183387_12562925.jpg

スーララシア入口を左折、旧道へ    高校前で合流すると下りになります


・・・都岡(つおか)

都岡(村)
神奈川県都筑郡南部の村。現在の横浜市旭区北部にあたる(帷子川沿岸)。本来は「都筑村」を名乗る予定であったが、のちの川和町も「都筑村」を名乗るべく準備していたため、村名を巡る争いになった。結局、丘陵地帯であった本村が都岡村(「都筑の岡」の意)、田園地帯であったのちの川和町が都田村(「都筑の田」の意)を名乗ることで収拾した。(Wikipedia

d0183387_13171322.jpg
左右方向は絹の道/都岡交差点 

神奈川往還

現八王子市周辺と横浜市を結んだ道。別称として浜街道、武蔵路、絹の道があるほか、横浜側では八王子街道とも呼ばれる。経路は現在の町田街道および国道16号に相当する。従来より八王子周辺は多摩郡や甲州・武州各地で生産された生糸の集積地となっており、この生糸を江戸や多摩郡の各地域へと出荷していたが、1859年(安政6年)に横浜港が開港すると、海外への生糸の輸出のため横浜方面へも出荷が行われるようになり、浜街道と呼ばれるようになった。これにより、従来よりも多摩郡と横浜方面との往来が盛んになり、後に絹の道とまで呼ばれるほど発展するようになる。(Wikipedia


d0183387_13064178.jpg庚申塔/かっぱ寿司先(右)左側面「左江戸ミち」右側面「右かな川」






d0183387_13064417.jpg天拝日蓮大菩薩塔/すぐ先
(右側)文政9年(1826)の銘







d0183387_13064775.jpg都築郡役所創設之跡/
(右側)









d0183387_13211528.jpg
帷子川
旭区若葉台近辺の湧水に源を発し、保土ヶ谷区を南東に流れ、西区のみなとみらい地区と神奈川区のポートサイド地区にまたがる場所で横浜港に注ぐ。(平安時代)袖ヶ浦と呼ばれた入り海が現在の横浜市保土ヶ谷区東端部まで湾入しており、現天王町付近の河口は帷子湊(かたひらみなと)と呼ばれ、橘樹神社付近は「かたひらの宿」「かたひらの里」として栄えた。(明治時代)絹のスカーフの輸出増大を受けて、染色・捺染工場が集まる。八王子からの「絹の道」が通り天王町が栄えた。名は現在の横浜市保土ケ谷区天王町一帯は片方が山で片方が田畑であったため、かつては「かたひら」と呼ばれていた。その地を流れていたので「かたびらかわ」と呼ぶようになったともされているが、名称の由来については諸説ある。(Wikipedia

d0183387_13204536.jpg御殿橋・橋名の由来/交差点先(左)
 
旧中原街道の一部である『御殿橋』は、東海道の裏街道にかかる橋として、歴史的な価値を持ったものである。道は虎ノ門に通じ、古くは徳川家康が江戸入城のとき(天正18年・1590)にこの橋を通行したといわれています。家康はその後この橋を改修し、鷹狩りや民情視察などでよく利用したとのこと。また、江戸時代初期(慶長181613)に家康が相州高座郡の中原御殿(平塚市)へ行く途中、この付近でお茶をたてたので、このあたりを「御殿丸」という字名がついたという。橋の名称も徳川家康にちなんでつけられたものである。(『旭区内覧見』より 旭区水辺さわやか推進委員会ヨコハマさわやか運動旭区本部)


・・・下川井町 

古くは都築郡下川井村で、1889年(明治22)に周辺5ヶ村と合併し都岡村大字下川井となった。旭区のやや北部に位置する。町の南部を中原街道、北西部を保土ヶ谷バイパス通る。下川井ICが知られているが、同インターは町域から西方に外れた野矢指町と金が谷に位置する。(Wikipedia

d0183387_13330617.jpg
三嶌神社(みしまじんじゃ)/坂上(左)
創建の年代と創建者は明らかではないが、和銅6年(714)奈良時代相模国風土記に鎌倉郡中川村字岡津三嶋神社として文献にある。再興。天文5年(1536)室町時代乱世の代より多くの武人・農民が岡津の地に住み心の拠り処として祭事を行った。天正18年(1590)安土桃山時代の代官が守護神として社を造営整備信仰につとめた。文化4年(1807)江戸時代名主4人世話人9人により社を再建、昭和44年(1969)昭和時代旧社殿は建立後約160年経過し修復も難しくなり地域の人々の浄財を仰ぎ現社殿が新築された。御祭典。11日元旦祭、1115日七五三祝、97日例祭、1123日新穀感謝祭(掲示板)
d0183387_13331208.jpg

川井御殿/三島神社向かいの丘
新編武蔵国風土記稿に「旧跡御殿場、下川井の内、東中原道の傍にあり、むかし東照宮江戸より相州高座郡中原御殿に渡御ありしとき、しばしが程此の所におわしましお茶を立てられしと云、古松一株あり、御殿松と呼ぶ、囲み八尺ばかり埒(らち)をゆひ廻せり」と記されていますが、御殿松は今は残っていません。


d0183387_18300757.jpg
保土ヶ谷をバイパス横断/下川合IC


d0183387_21501331.png
中山駅周辺地図(赤:中原街道 紫:鎌倉街道・中道)


by Twalking | 2015-10-11 21:55 | 中原街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中原街道(3)武蔵中原~中山02 佐江戸   

日時 2015.10.6(火)
天気 晴れ

街道は下末台地から多摩丘陵へ続きます。
“たまのよこやま”から連なる多摩丘陵、馴染み深いですね。
丘の上は港北ニュータウン、下れば継場の置かれた佐江戸です。

ニュウタウンには茅ヶ崎城、これは見逃しましたが、
佐江戸には佐江戸城がありました、いずれも中世の出城でしょうか。
こちらは丘の上の景色を見たくて登った所がそうでした。
坂道は多いですが、なだらかな道、気持がいいですね。


d0183387_20104784.jpg
早渕川 

横浜市青葉区美しが岡西に源を発し南東に流れる。横浜市都筑区、港北区を流れて綱島西付近で包み側に合流する。約30万年前、多摩丘陵の成立とともに雨の浸食と湧水によってできたと考えられている。蛇行が比較的あるために早瀬や渕があり、そこから「はやぶちがわ」という名前が付けられたと推測されているが、確かな資料に名前の由来は記されていない。Wikipedia


d0183387_20111780.jpg
清林寺/勝田橋手前(右)
平明な表情の面相や、ゆったりとした肉どりの体躯、また静謐な立ち姿などに、平安時代後期に活躍した仏師定朝の流れを汲む特色を示しています。寄木造の技法はやや変則的なものでありますが、その表現は丁寧で、本格的な仏師による製作とみられ、できばえは優れています。元禄5年(1692)開基の清林寺に本尊聖観音菩薩像として伝来し、本堂須弥壇宮殿形厨子内に今は独尊として安置されておりますが、その左手を曲げ、腰をわずかに左に捻じる形姿からすれば、本来は三尊像の脇侍像として製作された可能性が高く、中尊は等身大の如来坐像だったと推測できます。平安後期(12世紀)のこの地域に、中尊が等身大規模の三尊像を安置する寺院があったことを推測させる資料としても貴重な遺品です。(横浜市教育委員会)


・・・勝田町(かちだ)

d0183387_20135101.jpg
勝田旧道の家並み

d0183387_20141437.jpg
d0183387_20155301.jpg
早渕川勝田橋             二又を直進

d0183387_20201181.jpg
関家住宅
/二又左・新道の先 
関家は『新編武蔵風土記稿』にも載る旧家でもと後北条氏に使えた地侍と伝え、江戸時代には代々名主を勤めたといいます。小高い丘陵に挟まれた袋状の谷戸の中腹に屋敷を構え、主屋を中心として南に表門(長屋門)、東西に土蔵・書院を配し、右後方の小高みに墓地や鎮守があります。主屋は桁行18.1m、梁間9.1m、入母屋造、茅葺。住宅としては規模も大きく、平面は整型四間取りで土間が広く、構造は上屋・下屋からなり、梁組は比較的細い曲材で構成されています。17世紀前半を降りることはないであろうと考えられ東日本で最古の一つに数えられる貴重な民家です。(昭和41年指定)書院は主屋の南面西端に張り出す形で接続し桁行9.3m、梁間6.3m、寄棟造、茅葺で、前面両側面に90cmの縁を廻しています。使用材料、部屋の構えなどから判断して18世紀前半の建築と思われます。(昭和53年指定)主屋・書院については平成17年に完了した保存修理で建築当初の規模・形式に復元整備しました。表門は20.6mm、梁間5.5mm、寄棟造、茅葺で19世紀中頃に建てられたものです。当初は平屋建であったものを明治24年に養蚕を行うために二階建てに改造したものです。(昭和53年指定)なお、現在関家住宅は生活されている建物ですので常時公開はしておりません。公開の日時については、「広報よこはま」などでご案内いたします。(国指定重要文化財 横浜市教育委員会文化財課)


・・・茅ケ崎

横浜市都筑区にある地域。茅ケ崎町、茅ケ崎東、茅ケ崎南、茅ケ崎中央からなる。江戸期までは、武蔵国都筑郡茅ヶ崎村であった。地域内を中原街道(丸子中山茅ヶ崎線)が通っており、周辺の案内標識では混乱を避けるため、「茅ヶ崎市方面」を茅ヶ崎ではなく茅ヶ崎市と表記している。由来は北条氏が建てた茅ヶ崎城からとったといわれている。この城は小机城の支城として使われた。Wikipedia


d0183387_23150001.jpg最乘寺/旧道二差路(右)
浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院。今から約500年前に当地に浄土真宗の寺として開創された。本堂は寛政7年(1795)に建立、樹齢600年の大イチョウ(高さ約35m)がある。


d0183387_20253695.jpg

d0183387_20280574.jpg
d0183387_23263299.jpg
杉山神社                       寿福寺
 
寿福寺/坂上(右)
浄土真宗本願寺派平安初期(806年)に弘法大師によって創建された古刹です。その後400年余り真言宗でしたが、鎌倉時代に入り、承元4年(1210年)に多田山城守行綱の孫、智空法師(俗名多田福寿丸)によって浄土真宗に改宗されました。

d0183387_23331286.jpg
坂上からの風景/郷の関橋手前

港北ニュータウン
横浜市都筑区茅ヶ崎を中心とするニュータウンである。「港北」と名付けられ、かつては港北区・緑区に属していたが、行政区再編により現在は都筑区が中心となっている。横浜市都心部から北北西へ約12km、東京都心部から南西へ約25kmの地点に位置している。港北ニュータウンは計画推進の状況に応じて4つの地区設定がなされている。港北ニュータウンのメインとなる「公団施行地区」、地元の農家が農業を引き続き営むための「農業専用地区」、民間ディベロッパーが1965年以前に既に開発計画を持っていた「既開発地区」、横浜市が主体となって開発を実施する「中央地区」である。(Wikipedia

d0183387_23460755.jpg
港北ニュータウン

茅ヶ崎城/茅ヶ崎中央公園(歩道橋を右折・奥)
中世の城郭としては、比較的よく遺構が残っている。茅ヶ崎城は治安年間に多田行綱による築城とする言い伝えもあるが、正確な築城年代は分かっていない。現在は、おそらく後北条氏による築城だろうと考えられている。「小田原衆所領役帳」によれば、茅ヶ崎一帯は小机衆の一員である座間氏の所領だったことから、茅ヶ崎城は小机城の支城で、座間氏が城代もしくは城番を勤めていたものと思われる。後北条氏滅亡とともに廃城となった。周辺は宅地化されているものの比較的よく遺構が残っており、土塁、空堀、郭、櫓台の跡がはっきりと確認できる(Wikipedia


d0183387_23463629.jpg
d0183387_23464161.jpg
向原信号右折(T字路)        大塚原交差点左折(マック)


・・・東方町

d0183387_00061587.jpg
なだらかな登り坂が続きます/メルカート前

d0183387_00053155.jpg
d0183387_00053444.jpg
道祖神(右)             馬頭観音(左)

d0183387_00160647.jpg
ここがピーク、佐江戸へ下ります/開戸交差点


d0183387_00265680.jpg
d0183387_00270167.jpg
道祖神                ちょっとだけ旧道が残ります



・・・佐江戸

川の合流する佐江戸は交通の要衝であった。鎌倉時代には武蔵国都筑郡佐江戸郷と呼ばれた。戦国時代に猿渡内匠助が小机城(港北区小机町)の支城として佐江戸城を築いたとされる。猿渡氏は大國魂神社の神主家であった。隣の川和町でも川和城が築かれており、重要な地であったことが分かる。この頃は北条氏尭の領地であり、記録には北条氏尭が百姓に、今後は人夫役などを全て免除するとしたとある。江戸時代以降は都築郡佐江戸村であった。「西土」と書いた地名が「佐江戸」と変化したといわれている。中原街道を通ると江戸に着くことに由来している。荷物の受け渡しをする継立場が設置された。(Wikipedia

d0183387_01061134.jpg
佐江戸交差点

佐江戸村」
江戸日本橋までは七里の行程にて、神奈川宿へは二里をへだつ、家数七十九軒、村内一條の道あり、相州中原への往還なり、道幅三間ほど、中山村より村内へかかること十一町ばかりにして、池辺村に達す。当村は其道にありて馬次場なり、大棚、川井と三ケ村組合にて其役を勤む、故に他の役はなしと云。(新編武蔵風土記稿)



d0183387_01065223.jpg東漸寺(とうせんじ)/交差点手前(右)

高野山真言宗の寺院。(由緒)天平16年(744年)行基はこの地に留錫し草庵を結び、文殊菩薩を造顕奉安したと云われている。これが寺のはじまりとされ、永享12年(1440年) 智運が不動明王を奉安して開山した。寛永10年(1633年)より寛文12年(1672年)には領主竹尾元孝の菩提寺となり江戸幕府より朱印五石を得ている。また杉山神社(佐江戸)の別当寺だった。当時の境内は7千坪あり寺運は盛んであったが、明治・大正と荒廃し、昭和46年より本堂をはじめとする諸堂 が再建され伽藍は整備された。


d0183387_01115425.jpg
d0183387_01130004.jpg
無量寺

高野山真言宗の寺院、歸命山と号します。創建年代等は不詳ながらかつては七堂伽藍を備えた大寺院だったものの、戦災により烏有に帰したといいます。慶安2年(1649)徳川家光より寺領6石余の御朱印状を拝領しました。


d0183387_01130728.jpg
d0183387_01131105.jpg
佐江戸杉山神社


杉山神社
主に五十猛神(スサノオの子)や日本武尊を主祭神とする神社である。旧武蔵国における式台社の一社とされるが、その論社とされる神社は現在の横浜市を中心に川崎市、町田市、稲城市などに数十社存在する。杉山神社は周辺地域に住む民衆の信仰の中心として鶴見川水系沿いを中心に拡大したとされるが、謎の多い神社である。鶴見川の他に帷子川および大岡川水系、多摩川の右岸(川崎市・稲城市)に存在するが、多摩川を超えた領域には存在しない。江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』では杉山神社が全部で72社あると記されているが、その後の合祀や社名変更などにより現状で宗教法人登録されている「杉山」(椙山も含む)が付く神社の合計は44社となっている。(Wikipedia

d0183387_01164285.jpg
佐江戸城跡/杉山神社奥

d0183387_10393167.jpg

d0183387_10394284.jpg
d0183387_10393788.jpg
地蔵尊前(T字路)を右折       街道辻の地蔵尊(右)


・・・鶴見川落合橋

d0183387_10442340.jpg
鶴見川 

東京都および神奈川県を流れる川。町田市上小山田町の泉を源流とし、横浜市鶴見区の河口から東京湾に注ぐ。全長42.5km、流域面積235km2、支川数は10。鶴見川の源流は東京都町田市の北部、多摩市との境に近い上小山田町にある多摩丘陵の谷戸群(低湿地)の一角、田中谷戸(標高約170m)の湧泉である。横浜市緑区と都筑区の境界に沿い、下末吉台地に挟まれた沖積低地の入り口付近である緑区中山町で恩田川と合流する。このあたりまで、鶴見川は谷本川(やもとがわ)とも呼ばれ、源流からおおむね南東に流れる。Wikipedia

d0183387_10505525.png緑区の地形

横浜市の北部一帯は、なだらかな多摩丘陵と平坦な下末吉台地の2つの洪積台地から成り、その丘陵と台地を刻みながら鶴見川とその支流が流れ、流域に沖積平野をつくり出しています。そのような地形の中で緑区は、鶴見川とその支流の恩田川を北側の区境とし、分水嶺となる尾根を南側の区境とする東西に細長い区域となっています。区の地形は、鶴見川に流れ込む短い支流の流域にあたる丘陵地(丘陵・台地)と鶴見川が流れる低地から構成されています。鶴見川や尾根の連なりが東西方向であるのに対して、丘陵地には、現在の緑区あたりまで海(古鶴見湾)がせまっていた頃に海蝕によって形づくられた谷戸と呼ばれる谷や沢が南北方向にいくつも刻まれ、それら1つ1つの土地のかたまりが緑豊かな丘となっています。(緑区HP)

鶴見川上流域はコチラへ(http://teione.exblog.jp/20626978/


・・・緑区中山

d0183387_11053292.jpg
右折すると中山駅です/宮の下交差点


d0183387_11100723.jpg
d0183387_11101348.jpg
杉山神社               長泉寺(高野山真言宗)

by Twalking | 2015-10-08 14:15 | 中原街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中原街道(3)武蔵中原~中山01 千年   

日時 2015.10.6(火)
天気 晴れ

秋晴れのいいお天気です。坂道が多いと聞いてましたが、
街道は下住吉台地、多摩丘陵を縫って西へ向かいます。

千年は古代、橘樹郡の郡衙があった場所と推定されるところ。
「たちばなの散歩道」の標識に従って歩いてみましたが、
高台から望む景色、古刹の雰囲気など、ここはいいですね。。。


・・・下小田中(中原区)

橘樹郡
郡名は、かつて橘樹郡内であった現在の川崎市高津区子母口富士見台に弟橘媛の御陵とされる富士見台古墳があることによると伝えられる。その近くの高津区子母口には日本武尊・弟橘媛を祀る橘樹神社がある。(歴史)古代(奈良時代7世紀以降)この地域は武蔵国橘樹郡となり、郡衙は影向寺(ようごうじ・7世紀建立)付近か高津区千年付近に置かれたと推定されている。武蔵国内の首都である国府(府中市)へ繋がる府中街道が設置される。足柄道(後の矢倉沢往還・大山街道)が官道として利用されはじめる。中原街道が形成されはじめる。(鎌倉時代)秩父平氏の流れをくみ源頼朝の御家人となった稲毛三郎重成が、枡形城に拠点を構え、北部一帯を治めるようになる。なお、現在の川崎市北部地域は摂関家の荘園であり、その荘官として治めたともいわれる。この頃より江戸時代まで、橘樹郡北部は稲毛領(稲毛荘)と呼ばれるようになる。現在の川崎市南部地域は河崎領などと呼ばれており、秩父党および横山党の諸勢力が拠点を置く。(室町時代)後北条氏による所領の記録「小田原衆所領役帳」に、星川(橘樹郡・都築郡、かつては久良岐郡に属したとも言われる)、仏向、程ヶ谷(保土ヶ谷)など当郡内の地名が記載されており、当時の当郡内は後北条氏の家臣により分割統治されていたと推定されている。(江戸時代)東海道が整備され川崎宿、神奈川宿、程ケ谷宿が置かれる。中原街道が東海道の脇往還として再整備される。足柄道に沿って矢倉沢往還(大山街道)が整備され、二子・溝口宿が置かれる。Wikipedia


d0183387_22373958.jpg

下小田中
中世以前の当地は、上小田中と一体の「小田中郷」であった。小田中が上小田中と下小田中に分かれたのは、1540年前後(天文10年前後)だと考えられている。また、世田谷吉良氏の家人であった内藤氏が当地に戸隠大明神を勧請している。(Wikipedia


d0183387_22502242.jpg大戸神社(右)

大戸神社は世田谷吉良氏の家臣内藤豊前の舎弟内藤内匠之助が永正年間(1504-1521)に戸隠明神として当地に創建したといいます。明治39年に下小田中にあった稲荷社・天神社等を合祀しています。



d0183387_22503700.jpg全龍寺の文化財/下小田中5(左)
当寺は曹洞宗に属しています。当寺所蔵の石造・小林正利坐像は風折烏帽子をかぶり、紋付の直垂を着た俗体像です。背中や底部等の刻銘から、宝永5年(17088月、江戸の石工船戸屋八郎が制作した小林正利74歳の時の寿像であることがわかります。石造の寿像は全国的にも珍しく、また、像主・小林正利(1635-1711)が徳川家綱に仕え、武蔵国多摩・橘樹両郡450石を領し、当地に関係の深い旗本である点も貴重です。(川崎市教育委員会)

d0183387_23055609.jpg厳川橋跡の石標/江川せせらぎ遊歩



・・・川崎市高津区 
川崎市のほぼ中部に位置する。多摩川に沿った低地と、その南側および西側に広がる丘陵地帯(多摩丘陵東端部)で構成されている。大和朝廷の支配が関東に及ぶと、律令制のもとで現在の高津区一帯は橘樹郡に属し、高津区千年付近に郡衙が置かれ、この地域の行政の中心になったと推定されている。AS荘園が発達し、周囲の寺社や有力豪族の支配地となる。江戸時代からは東海道の脇往還として大山街道(矢倉沢往還)が整備され、二子の渡しや二子・溝口宿は江戸から大山阿夫利神社(伊勢原市)へ向かう参拝者で賑わった。Wikipedia

d0183387_11300046.png
下末吉台地(赤:中原街道 緑:大山街道 橙:登戸道 紫:府中街道)

下末吉台地(しもすえよしだいち)
神奈川県北東部の川崎市高津区、横浜市都筑区・鶴見区・港北区・神奈川区・西区・保土ヶ谷区・中区などに広がる海抜40-60メートルほどの台地である。鶴見川、帷子川、大岡川などによって開析が進み、多数の台地に分断されている。北側は多摩川沿いの沖積平野に接し、西側は多摩丘陵に連なる。横浜市中心部では海に迫っており、野毛山、山手や本牧など坂や傾斜地の多い地形を作っている。横浜市鶴見区下末吉に由来するが、元は関東地方の台地形成に関する下末吉面という地質学用語である。これは下末吉を模式地とし、東京の淀橋台や荏原台、高座台地(相模野台地の南西部)なども含み、武蔵野面(武蔵野台地の多くの部分)の上位面に当たる台地面をいう。125千年ほど前の間氷期における海進(下末吉海進)時に形成された海成面と考えられている。これが特定の台地だけを指す名に転用されたのが「下末吉台地」であるWikipedia


d0183387_23181724.jpg
千年
(ちとせ)
川崎市高津区の大字。当地からは弥生時代の遺跡が発掘されているほか、橘樹郡の郡衙に比定される影向寺(ようごうじ)の近くから古代の建物群が発見されており、郡衙に関連するものではないかと考えられている。また、当地にある能満寺は影向寺の塔頭であり、行基菩薩の創建と伝わる。


道たちばなの散歩道
d0183387_00252307.png

橘樹神社のある川崎市高津区子母口の高台は、東急田園都市線の梶が谷駅から続く「たちばなの散歩道」の終点にあたり、付近には縄文時代早期の標識遺跡である「子母口貝塚」や弟橘媛の御陵とされる「富士見台古墳」(高津区子母口富士見台)、白鳳の開基といわれる「影向寺」(宮前区野川)と、その塔頭十二坊の一つであった「能満寺」(高津区千年)などがあり、豊かな歴史的環境に恵まれた地域である。また、江戸(東京)から続く中原街道が丸子の渡しで多摩川を越えた最初の台地にあたる場所で、ここから西へ続く多摩丘陵の入口でもある。(Wikipedia


d0183387_00290422.jpg子母口富士見台古墳

此の古墳は、道路に面した部分が大きく削られていますが、築造当初はかなり大きな円墳であったと思われます。現在の規模は墳丘3.7m、墳丘径17.5mです。此の古墳には、古くから弟橘媛にちなむ話しが伝えられています。橘樹神社の社伝では、日本武尊東征の際、尊の身代わりに海中に身を投じた弟橘媛の御衣・御冠が此の地に漂着したと伝えています。また、古事記では「かれ七日ありて後にその后の御櫛海辺によりたりき。すなわちその櫛を取りて御陵を作りて治め置きき」と伝えています。(川崎市教育委員会)


d0183387_00302842.jpg
橘樹神社
高津区子母口(旧武蔵国橘樹郡)にある神社。日本武尊、弟橘媛を祀る。また近隣に郡衙が置かれていたと推定される地域にあることから、かつて橘樹郡の総社であったと考えられている。古くからの子母口村の鎮守で、日本武尊、弟橘媛の男女2躯の神体を祀り、かつては立花社ともいわれていた。社伝によると「日本武尊東征の際海が荒れ、弟橘媛はその身を投じ海を鎮た。やがて入水した媛の御衣・御冠の具だけがこの地に漂着した。」とある。また古事記でも「かれ七日ありて後に、其の后の御櫛海辺によりたりき。すなわち、その櫛を取りて御陵を作りて治め置きき」と伝えられている。この社伝と古事記の記述とが結びつき、近くの子母口富士見台の高台にある「富士見台古墳」は、一説には弟橘媛の「御陵」であるとも伝えられているが、史料がなく具体的なことは分かっていない。Wikipedia

d0183387_12544016.jpg
江戸名所図会 橘明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)



d0183387_00353447.jpg
たちばなの散歩道
能満寺/
高津区千年
もともと影向寺の塔頭十二坊(薬師さまを守る十二神の一体づつをまつった脇寺)のひとつであったのが、天文年間(153254)にここに移り快賢によって開かれたといわれます。 現在の本堂は元文4年(1739)に建てかえられたものです。本尊の木造虚空蔵菩薩像は寄木造りで、明徳元年(1390)仏師朝祐の作。玉眼入りの漆地に彩色を施した立像で、卵形をしたひきしまった顔や複雑な衣装のあつかいは宋風彫刻の影響が認められ、強い精神性と神秘性が感じられます。同寺所蔵の一木造聖観世音菩薩像(平安初期の作)とともに市重要歴史記念物指定。(川崎市)

d0183387_00360076.jpg
木造聖観世音菩薩立像・木造増田孝清坐像当寺は星王山寳蔵院と称する天台宗の寺院です。本堂に祀られている秘仏の木造聖観世音菩薩立像(昭和411115日・川崎市重要歴史記念物指定)は、量感のある一木造りで、着衣部の彫法から平安時代初期の制作と考えらています。また、不動堂に祀られている木造増田孝清坐像(昭和601224四日・川崎市重要歴史記念物指定)は寄木造、玉眼嵌入の僧形像で、胎内墨書銘や納入銘札から江戸時代前期の寛永101633)孝清65五歳の時に、鎌倉仏師三橋日向守が制作したものであることがわかります。(川崎市教育委員会)


d0183387_00471536.jpg
影向寺
(ようごうじ)
当時は、天台宗に属します。縁起によれば、天平11年(739)光明皇后がご病気のおり、聖武天皇は夢告で武蔵国橘樹郡橘郷、すなわちこの地に霊石のあることを知り、早速、当時の高僧行基を使わし祈願させたところ霊験あらたかで、皇后のご病気も快ゆされたという。そして聖武天皇の勅命により、この地に伽藍をそびえたのは、その翌年のことであると伝えています。事実、境内から採集された古瓦の中には、奈良時代のものも含まれており、当時の創建が縁起に近いことがわかります。境内の安置堂内には、当時の古刹であることをうらづける数多くの文化財が所蔵されています。重要文化財に指定されている、本尊の木造薬師如来坐像(欅材)と両脇侍立像(桜材)の三躯は、一木造で、平安時代後期の作品です。風格のあるおだやかな表情とあふれる量感が特徴的です。この本尊には、木造二天立像二躯(平安時代後期)と木造十二神将立像十二躯(室町時代)が眷属(けんぞく)として侍立しています。また、木造聖徳太子立像一躯(室町時代)もあり、いずれも川崎市重要歴史記念物に指定されています。薬師堂は、江戸時代初期の万治年間(16581660)に火災で失い、その後まもなく復興したと伝えられているもので、現在の薬師堂がそれにあたるものとおもわれます。建立の時期は建築様式上の特徴から、寛文頃(16611672)のものとされております。境内の東南隅にある影向石は、縁起でいう霊石にあたるものでしょうが、その実際上の用途は、塔の心礎であろうといわれています。また、江戸時代の民衆が本尊によせてきた信仰を物語る絵馬や昔話の舞台となった乳を乞う母親が祈願したイチョウの大木など、当時にかかわる歴史的な話題は数多く伝えられています。(川崎市教育委員会)

d0183387_00475699.jpg

影向寺薬師堂 
影向寺は奈良時代の天平12年(740)、聖武天皇の命を受けた僧行基によって開創されたと伝えられていますが、近年の発掘調査の結果、創建の年代は白鳳時代末期(7世紀末)にまで遡ることが明らかになりました。現在の薬師堂は、創建当時の堂宇とほぼ同じ位置にあり江戸時代中期の元禄7年(1694)に建立されました。棟梁は橘樹郡稲毛領清沢村(現在の高津区千年)の大工・木嶋長右衛門直政です。薬師堂の規模は方5間で、寄棟造の茅葺(現在は銅板葺)の屋根をあげ、正面1間に銅板瓦欅葺の向拝を付けています。内部は前面2間を信徒の入る外陣、後方3間を神聖な空間である内陣、その両側を脇陣とし、特に内陣・外陣・脇陣の境を中敷居と格子によって厳重に結界するのは中世以来の密教本堂の形式を伝えるもので、薬師堂の大きな特徴です。また、堂の形式・建具・軒などの外観の基本を和様としながらも、柱上部などに禅宗様の意匠を採用しています。薬師堂は、間口3間の厨子(元禄7年造立)などとともに、昭和52819日、神奈川県の重要文化財に指定されました。(川崎市教育委員会)

d0183387_00485913.jpg
聖徳太子堂

父君用明天皇の病気平癒を願う御尊姿の聖徳太子孝養像(市重要文化財-鎌倉時代)を太子堂に安置礼拝供養す。聖徳太子は職人の祖として多くの建築技術を伝授す。この偉大な功績に讃仰・報恩・感謝のため影向寺太子講を結成す。昭和55年秋、太子堂建立を発願。太子講重文保存会・川崎鳶工業連合会の有縁の浄財により、 59年早春着工、60211日落慶法要を奉修、大願を成就す。篤信各位の芳名は太子堂内銅額に刻記、後世に伝承す。(宮田孝代司)

d0183387_12371566.jpg
江戸名所図会 稲毛薬師堂 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


d0183387_00572088.jpg
野川神明社/高津区野川

祭神:天照皇大神、伊邪那岐神、伊邪那美神、素盞嗚尊、大己貴神(大国主命)(由緒沿革)多摩川の西岸に位する野川の土地は古くより人が居住し風光明美、地味は肥沃にして産物も豊かであった。縄文・弥生文化の遺跡も極めて多く、壱千余年の歴史を有する古刹影向寺と共に各集落氏神として韋駄天社・八坂神社・子神社は遠近の信仰篤く栄えてきた。明治維新により明治35月神明社は村社に列格、明治41年に三社を合併、野川の総鎮守となった。昭和15年指定村社、昭和25年国家より境内地譲興を受け、昭和28年宗教法人「神明社」となる。(縁起)神明社は野川の歴史と文化の中心、ここ影向寺台に往古より地域の守り神として人々の篤い崇敬を受け続けてきた。明治期末、各所に鎮座する八坂社、子神社、韋駄天社を合祀して現在に至る。平成11年氏子一同永年の念願である御造営に着手し、赤誠溢れる奉賛のもと、当初の計画を越えて本殿以下、社務所、管理棟、手水舎に至るまで新築し面目を一新した。今般町民挙りて祝賀気運昴まる奉祝大祭に際し、是の夢久栄の碑を建立し神明の加護に奉謝しつつ、当社と氏子中の永遠なる発展を期する。(野川神明社宮司、野川神明社建設委員長)


・・・野川(のがわ)

野川
は川崎市高津区と宮前区に跨る町名。広大な台地を中心とした地域で、平地は矢上川や有馬川(いずれも鶴見川の支流)の流域近辺に限られている。野川の地名の由来は矢上川の流れによるものと考えられる。南北の丘陵のあいだを流れる矢上川が「野川」と呼ばれ、それに沿う村と言う事で「野川村」になったと思われる。1950年代までは古い農村の姿が残っていた。低地・谷戸には水田、台地上には畑作、雑木林は炭林に。大正時代には養蚕が盛んだったが、戦後は代わって養鶏・養豚が盛んになった。(Wikipedia

d0183387_09034008.jpg

d0183387_09041528.jpg
d0183387_09070530.jpg
野川交差点              野川橋

d0183387_09043748.jpg矢上川
(やがみがわ)
川崎市の西南部を流れる鶴見川水系の支流である。源を多摩丘陵に位置する宮前区水沢から発した後、東名高速道路付近から、下末吉台地を開削してほぼ東南東に流下、高津区の五反田橋手前で有馬川を合わせ、子母口で多摩川低地に入り、以後、下末吉台地北縁を南東に流れ、鷹野大橋で鶴見川に合流する。加瀬山より南の幸区加瀬付近から鷹野大橋までは最も屈曲が激しかったことが明治時代や大正時代の地形図で明らかであり、三日月湖の存在も見て取れる。矢上川(古矢上川) はボーリング地質調査などから、子母口で古多摩川と合流していたと推定される。現在のように矢上で多摩川低地を離れ鶴見川支流となったのは、地質年代では比較的最近の、縄文海進が海退に入り陸化した縄文時代後期以降のことと思われる。(Wikipedia


・・・横浜市都筑区
港北ニュータウンセンター
を中心とする旧港北区の北西部(山田、中川、茅ヶ崎地区等)と旧緑区の北東部(川和、池辺、東方、荏田南、荏田東地区等)からなる。南部の鶴見川沿いを除いて全域が丘陵地帯であり、起伏はなだらかだが高低差は大きい。

都筑郡
古くから当地域は「つつき」と呼ばれており、その読みに字を当てた「都筑」が8世紀頃に郡名として定着したと考えられている(「つつき」の語源については定説がない)郡衙は長者原遺跡(横浜市青葉区荏田西)に置かれていたと推定されている。(古代)この時期、足柄道(後の矢倉沢往還・大山街道)、中原街道の整備が進み、東海道や東山道につながったと見られる。(中世)鎌倉時代- 各地に鎌倉街道が整備され、当郡を縦断し鶴川・柿生・黒川など各地を通って多摩郡へ抜け、首都である武蔵国の国府(府中市)へ至る様々な道が通る様に成ったと推定されている。室町時代- 茅ヶ崎城(現在の横浜市都筑区)が築かれる。(Wikipedia)

d0183387_10081980.jpg
第三京浜

d0183387_10141482.jpg
d0183387_10141851.jpg
道中坂下旧道(右)          のちめ谷戸旧道(右)

東山田
地名から採ったもの。古来は都築郡山田村で、1889年に中川村が合併成立した際、大字山田が設けられたが、小字は同時に整理統合されて東部に字東が設けられた。1939年、横浜市編入の際に大字山田字東の箇所に東山田町が設けられ、現在に至る。読み方は「ひがしやま」と濁音なしに読む。Wikipedia

鎌田堂の由来/道中坂下(左)

堂の背後に鎌田兵衛正清の館ありし故、土人 鎌田堂と云う。二間に三間なり。印子の観音を安置しありしが奪われ、霊元天皇、寛文13年現在の石地蔵建立さる。寛永の頃、佛誉常心止住、以来安政の頃迄念佛道場として繁栄、道場坂の名を残す。尚子育地蔵、諸願成就の地蔵として庶民の信仰厚き聖地なり。因りて堂の再建に際し、此の碑及び堂標を造立して記念とす。(観音寺檀徒54名・信徒75名)


d0183387_10550552.jpg
宮の下への旧道/東山田


d0183387_10570806.jpgのちめ不動尊由来
/旧道(右)
この不動尊は、今から約130年前の文久2年(1864)のちめの住人が八王子からお不動様を背負ってこの地に祀り、7世代にわたり地域の守り神として護持されて来ました。昔は山の上に鎮座されていましたが、天災の為現在の場所に安置されました。この間数回の改築補修がなされましたが、平成元年暮れに二メ・城山講中全員の発意により再建することになりました。平成33月多額の浄財をいただき造成工事、本堂の建設、仏像仏具の修復等予定通り順調に進み同年10月下旬落慶法要を行いました。霊験あらたかなお不動様のお顔は怒りの相を現して右手に降摩の剣を左手には、ひもなわを持って火炎を背にして石の上に立っており悪魔煩悩(心や身体をなやます一切のまよい)を降伏させて下さいます。また本堂左側にはお釈迦さまのお弟子さんのお賓頭様が祀られております。この像をなぜて病気の場所をなぜると病気が治ると言い伝えられています。今から約80数年前(明治末期から大正初期)この地域に疫病が蔓延し多くの人々が亡くなりましたが、この講中からはお不動様の御加護により死者がなかったと言い伝えられています。毎年727日(前夜祭)には地域の住民が全員集まり一年の無事と幸せを祈願しています。崇敬者の皆様に末永くお不動様の御加護がありますよう御祈念いたします。(由来碑)


d0183387_11461986.jpg
現中原街道を振り返る/旧道合流地(宮の下手前)

d0183387_11204547.jpg
d0183387_11224878.jpg
山田神社本殿
附(つけたり)棟札一枚/宮の下(右)
山田神社は、明治43年に近隣の村社である神明神社を諏訪神社・八幡神社・稲荷神社等14社とともに妙見社に合祀した際、地名にちなんで山田神社と改称されました。社殿によると、諏訪神社は平安時代前期、貞観2年(860)に、妙見社は室町時代中期文安5年(1445)に鎮座されたと伝えられています。現在の本殿は、棟札により天保13年(1842)の造営であることが判ります。正面柱間0.91mの小規模な一間社流造で、正面に軒唐破風・千鳥破風を付け、屋根をこけらで葺いています。この本殿の最も大きな特色は彫物が多用され、しかも建築とよく調合していることです。彫物はけやきの素木造で向拝柱には丸彫の竜が巻き付き、壁面には仙人像、欄間には鳳凰、脇障子には鷹に松など主題は多種多様です。以上のように山田神社本殿は小規模な一間社流造ですが、素木造の精巧な彫物を多用し、彫物と建築が良く調和した江戸時代末期の、典型的な例として貴重です。(横浜市教育委員会)


・・・・
資料ファイル

稲毛氏 
桓武平良文流で坂東八平氏の一つ秩父氏の一族である。のちに武蔵国の橘樹郡(川崎市)を本拠に勢力を張った一族。秩父平氏の系譜を引き、平家の郎党として在京していた小山田有重の三男である重成が、治承・寿永の乱において東国へ下国し、院政期に立荘された稲毛荘に進出し稲毛氏を称したことに始まる。重成は北条政子の妹を嫁とし、鎌倉将軍家・北条家の親戚関係となり、一族の畠山重忠や弟の榛谷重朝(はんがや)とともに治承・寿永の乱や奥州合戦において活躍し、鎌倉幕府の成立において重用された。多摩川沿いの登戸に枡形城を、稲城市と境界を接する川崎市多摩区菅に小沢城を構える。川崎市多摩区枡形の広福寺は稲毛領主館跡と伝わり、現在もその遺構が残る。1205年同族の畠山氏と北条氏との抗争に巻き込まれ、三浦善村三浦善村に滅ぼされる。一族が讃岐国へ流れた。Wikipedia

d0183387_12490924.jpg
小沢城跡/多摩区菅


d0183387_13094134.jpg小沢城

多摩丘陵の先端に位置し、鎌倉道・矢野口(多摩川)の渡しを抑える交通の要衝、丘のふもとを三沢川が流れる要害の地である。平安時代末期、稲毛三郎重成により築かれると伝わる(あるいは重成の子小沢小太郎が築城とも)。観応2年(13561)足利義直方の小沢城を足利基氏方の高麗経澄が攻め落とす。この時焼失した。享禄3年(15306月には、小沢城から出陣した北条氏康が、北条領に侵攻した上杉朝興を迎え討つ小沢原の戦いが起こり、氏康が上杉勢を退け初陣を飾る。戦国時代以降は廃城となり放置されるが、江戸時代に入ると富士講が流行し、峰を富士塚として利用されるようになる。文化3年に祠が、万延元年に富士登山三十三度大願成就記念碑などが建てられている。Wikipedia


小山田氏
有重が武蔵国小山田荘(町田市上小山田・下小山田)を本領としたことに由来し、鎌倉時代に甲斐国へ移り、甲斐東部の都留郡(郡内地方)のうち谷村(都留市)を本拠とする。居館は市内大泉寺に比定。江戸時代後期の文化11年(1814年)に編纂された『甲斐国志』では小山田氏は武蔵国秩父氏の末流とし、平重弘(秩父太郎大夫)の次男有重、さらにその子の行平(正しい諱は「行重」)の流れを戦国期小山田氏の祖としている。『国志』の根拠と見られている『千葉上総系図』では平重弘の子に有重、有重の子に行平の存在を記している。有重は兄重能の子が鎌倉幕府有力御家人の畠山重忠で、有重の三男である重成は稲毛氏を、四男の重朝は榛原氏を、五男の有朝は田奈氏を、六男の重親は小山田氏を、七男の行重は森氏を称した。いずれの系図においても小山田氏は武蔵小山田荘に権益を持った「小山田別当」と記され、「別当」は牧の管理者を意味することから、小山田荘は本来牧であった可能性が考えられている。『平家物語』に拠れば治承4年(1180)の以仁王の挙兵に際して重能・有重兄弟は在京して平清盛に仕えている。続く伊豆における源頼朝の挙兵において重能の子重忠、有重の子稲毛重成らとはじめ平家方に属していたが、畠山重忠は治承410月に秩父氏の家督を継いでいた河越重頼ら秩父一族とともに頼朝方に降伏しており、有重の動向は不明であるが頼朝に帰服したと考えられている。Wikipedia

d0183387_13041706.jpg
大泉寺/町田市下小山田

d0183387_13073633.jpg小山田有重

平安時代末期の武蔵国の豪族。秩父氏の一族で、『千葉上総系図』『尊卑分脈』に拠れば秩父重弘の子。兄に畠山重能がいる。武蔵国多摩郡から都築郡にまたがる小山田保、また武蔵小山田荘を支配して小山田別当を称し、小山田氏の祖となる。有重の子孫は稲毛氏、榛原氏が分出した。町田市下小山田町にある大泉寺は有重の館跡と伝えられ、境内に有重・行重父子と南北朝期の高家の三基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。Wikipedia


by Twalking | 2015-10-07 16:45 | 中原街道(新規)