無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カテゴリ:大山街道(新規)( 38 )   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 当麻道 下溝~上溝02 上溝   

日時 2016.12.10(土)
天気 晴れ

当麻から台地を横断する形で道保川公園のハケへ。
七曲りや園内の森は緑豊かで、段丘の様子や植生など
四季折々の楽しみがあるな~と感じます。

上溝への道は旧道ではないのかもしれませんが、
家並みも落ち着いていますし、寺社の歴史も古く
見応えがありました。

車では通ったことがありますが、この段丘中段の
町がかつての中心地であるとは思いませんでした。
次は相模川を渡り中津原台地へ向かいたいと思います。



・・・
上溝①/中央区

神奈川県北部、相模川左岸に形成された上・中・下3段の河岸段丘からなる相模原台地の「中段」上に位置する。段丘崖(ハケ)はしばしば崖上の上段部分も合わせて「横山」と呼ばれ、崖の大部分は雑木林に覆われている。台地中段上を北西に隣接する下九沢方面から鳩川が南東に流れ、鳩川と同様に段丘崖下の湧水などを集めて当区域内に源を発する姥川道保川が鳩川および段丘崖に並行して流れる。上溝の旧市街は鳩川と姥川の間を北西-南東方向に通過する八王子往還(大山道、国道129号旧道、現県道508号)に沿って形成され、ここを中心に早くから市街地化が進んだ鳩川とJR相模線にはさまれた区域で
昭和51年に住居表示が実施されて上溝一丁目〜上溝七丁目となった。道路交通上の要衝に位置することから上溝は幕末・明治初期以来、神奈川県北部の商業中心地の一つとして発展し、1941年(昭和16年)の相模原町発足後も同町、および昭和29年の市制施行後は相模原市の中心商業地域の地位にあった。
Wikipedia


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台地の風景 無量坂から番場方面へ、農地が広がります。この先で横浜水道道と交差します/東電訓練センター

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番場諏訪神社鳥居

d0183387_12113499.jpg番場諏訪神社

諏訪神社のご祭神は建御名方神、またの名を建御名方富命です。年月は不明ですが36軒村のできはじめに、相模国東郡渋谷庄上村の総鎮守として、八幡社地内に祀りました。文禄3年(1594721日に今の境内の隣地、小山家所有地に移しました。ところが大正21221日、内務省令により小山家より村社・亀ヶ池八幡社へ玉串を捧げ合祀しました。その後大正7823日に再びこの地に勧請しました。(上溝公民館史蹟めぐりマップ)

d0183387_13172180.jpg稲荷大明神/諏訪神社先


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街道の風景① 番田の旧道でしょうか、いい家並みが続きます/番田

d0183387_12561168.jpg旧清水家主屋・長屋門
旧主屋は19世紀中頃と推定される六間取(むまどり)の大型民家です。屋根はトタンがかぶせられていますが茅ぶきで、養蚕のために土間側をカブト(兜)造としています。反対側は入母屋造です。長屋門は、大型で瓦ぶきですが、当初は茅ぶきであったと思われます。外からの見学は出来ますが屋敷内に立ち入ることはできません。模型(1/20)が市立博物館に展示されています。(相模原市教育委員会)

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旧清水家復元模型(昭和時代の初め・1/20)

清水家は上溝地区の要職を務めた旧家です。昭和の初め頃には垣根に囲まれた敷地内にさまざまな設備が整えられていました。そこからは清水家を取り巻く状況やその暮らしぶりを感じることができます。この家が建てられたのは江戸時代の終わりころと推定されています。(相模原市博物館)

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鳩川/番場橋              姥川/かじや橋

姥川
(うばがわ)
相模原市を流れる相模川水系の準用河川。相模原市緑区下九沢から中央区上溝にかけてのハケと呼ばれる段丘崖の湧水に源を発し南東に流れる。上溝駅や原当麻駅付近の商店街の中を蛇行しながら流れ、相模原市磯部付近で相模川の支流である鳩川に合流する。水源地付近は日金沢と呼ばれており「照る手姫伝」にまつわる遺跡も多い。源流付近は指定緑地として公園としての整備が進みつつある。相模原台地の上段の淵沿いを流れる為、ハケからの湧水が常に本流に流れ込んでいるので、比較的水質は良く川幅は規模のわりには広い。Wikipedia

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番田周辺マップ
田尻から八王子道(橙)と大山道(紫)が分けれて西に向かいます(青:鳩川 緑:横浜水道道)



・・・道保川公園


道保川公園は、道保川の水源と
横山丘陵の自然を都市緑地として保全しながら、水と緑が一体となった自然とのふれあいの場として活用するために、風致公園として整備しているものです。現在、公園計画面積88haのうち77haを開放し、身近に野鳥や植物の観察を体験しながら自然への認識を深め、生きた環境学習、野外教育の場としてご利用いただいています。(相模原市
)


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の風景 坂下に「西見坂」の道標と句碑が建ちます/道保公園入口

d0183387_13405668.jpg妙見参四顔
自転車をおりて押しゆく落葉坂 七曲りすれば 故郷の見ゆ(上溝・小形重雄作)

七曲り(西見坂)
いく重にも曲がっている坂なので七曲りと呼ばれています。明治30年に改修され西見坂とも呼ばれるようになりました。(標柱)



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道保川の風景① 水鳥の池
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道保川の風景② こもれびの沢への散策路

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道保川の風景③ さえずりの沢

道保川
(どうほがわ)
相模原市内を流れる総延長約3.7kmの河川で相模川の支流である。相模川が中・下流部の左岸に形成した河岸段丘のうち中段の田名原段丘内にある相模原市上溝1359付近の湧水を水源とし、JR相模線下溝駅付近で鳩川分水路に注ぐ。当川から相模川寄り500m内に姥川・鳩川が並行して流れている。源流付近のほとんどが首都圏近郊緑地保全法の近郊緑地特別保全地区に指定されており、相模原市の道保川公園が整備され、環境庁の日本の音風景100にも認定されている。Wikipedia

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道保川公園案内図



・・・

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街道の風景② 上溝の中心部へ向かいます/田島バス停


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上溝亀ヶ池八幡宮鳥居


d0183387_18052551.jpg上溝亀ヶ池八幡宮

主祭神は誉田別命(応神天皇)
この神社の創建年代は不明です。しかし、暦応2年(1339)には社殿を再建し、慶安2年(1649)には幕府より社領として7石の朱印を受けていたことが記録されています。この神社が「亀ヶ池八幡宮」という名称になったのは明治2年(1869)になってからのことで、それ以前は単に「八幡大菩薩」と呼ばれていたようです。「亀ヶ池」と呼ばれるようになったのは神社の東側にあった池に亀がたくさんいたためです。本殿のなかに祀られている木造神像座像は暦応4年(1341)の年号が刻まれている古いもので、市の重要文化財に指定されています。毎年915日の祭礼の時にここで番田亀山家の神代神楽が演じられますが、これは市の重要文化財に指定されています。(相模原市 相模原市観光協会)

d0183387_17453840.jpg上溝亀ヶ池八幡宮御神体

本像は旧上溝村鎮守亀ヶ池八幡宮のご神体で衣冠束帯姿の坐像である。一見素人の作かと思われる素朴な像である。背銘には「暦応4(二が二つ横に並べて彫られてある)年正月 たんなさえもんのたゆう藤原吉高朝臣」と刻んである。「たんな」は檀那で当時の地頭ではないかと思われるが、人物については不明である。暦応4年(1341)は北朝の年号で南朝の年号では興国年である。ちょうど南北朝の争乱のころで、市域の社寺の年次の明らかな木像としてはもっとも古いものである。(相模原市教育委員会)

d0183387_17460475.jpg御神門

拝殿の東西から延びる廻廊がおよそ170坪の内庭を作り、白御影石が敷き詰められています。その内庭への入口が檜造切妻屋根の御神門です。およそ6mの高さがあります。(亀ヶ池八幡宮HP)



d0183387_17552480.jpg亀八招福稲荷神社

御祭神は宇迦之御魂神(倉稲魂神)。当八幡宮では亀八招福稲荷大明神と称し商売繁盛、五穀豊穣、家運隆昌の神様として崇め奉り、先の亀ヶ池八幡宮御鎮座800年奉祝記念事業において旧御本殿であった建物を現在の場所に移築し、ご遷座しお祀り致しました。社殿は文禄5年(1596年)建築で、建築年代の判明する一間社流造としては県内最古、市内最大規模のお社です。平成2841日、相模原市有形文化財に指定されました。(亀ヶ池八幡宮HP)

d0183387_17582397.jpg一ヶ所七福神

平成77月に参拝者皆様の開運を祈願して創設されました。亀ヶ池八幡宮では1ヶ所で七福神全てにお参りでき、愛嬌のある七福神石像を撫でながら祈願できて、目も和んで楽しい心持ちになれると評判になっております。(亀ヶ池八幡宮HP)


d0183387_17585883.jpgゴールド神社

無事故無違反の証であるゴールド免許証にあやかって、八幡大神様の御分霊をお祀りして創建された神社です。この御社の前で交通安全・車のお祓いを行っています。(亀ヶ池八幡宮HP)


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街道の風景③ 右手が田尻を経て当麻へ向かう道です/千年橋交差点



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d0183387_18101877.jpg宝来寺
この寺は曹洞宗下溝天応院の末寺で、山号を「秀珍山」といいます。縁起によると天文年間(1532-1554)当時地頭であった大石源左衛門定久が出家して真月斎道俊と称し、娘の向西尼とともに上溝本郷の境に「向西庵」という庵を結んで修業したといわれています。その後慶長年間(1596-1615)に名主の佐藤対馬が現在の場所に移し「宝光寺」として開基したと伝えられています。(相模原市 相模原市観光協会)

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街道の風景④ この辺りが中心だったのでしょうか/上溝本町

d0183387_01050455.png上溝市場開設記念碑
上溝市場開設50周年を記念して建てられた石碑が本町自治会館広場に芭蕉の句碑と並んであります。上溝市場は明治3(1870)に開かれました。毎月37のつく日(月に6)に開かれて「溝市」と呼ばれていました。当時この地方は養蚕が盛んで上溝に蚕糸関係の取引所が多くありました。「市」は本町通り(旧国道129号線)の路上(道の真ん中に溝が掘られてあった)に幅6m、長さ約390mに店が背中あわせに並びました。店の種類も日用品から農機具、種苗、衣料品までさまざまで、特に7月のお天王様の前や暮れの大市には近くの町や村からも大勢の人が集まって来て、大変にぎわいました。子供たちも大人の人に一緒に連れてきてもらい、用事のすむのを待って、帰りにはお土産を買ってもらっていたと言うことです。業者は八王子や町田方面からもたくさんの品物を持って来ていたそうです。昭和に入り戦争が激しくなりやがて市場は廃止されました。(上溝公民館史蹟めぐりマップ)

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てるて通りの絵タイルを見ながら駅に向かいました

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姥川/姥川橋            上溝駅

てるて通り
てるて通りの絵タイルには、上溝の思い出の風景や建物が描かれています。まつり通りにはその名にふさわしく「お祭り」をテーマに一般公募された、歩いていて楽しくなるような絵を絵タイルにしています。ぜひ足を止めてみてください。(上溝公民館史蹟めぐりマップ)

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上溝三大イベント            上溝夏祭

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年末大売出しの賑わい(昭和30年頃)  全校朝礼麻溝小学校(昭和16年頃)

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相模原町役場(昭和29年)        藤沢警察署溝分署(明治10年頃)

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亀ヶ池八幡宮(大正末期)        広大な田園風景(昭和40年頃)

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広域案内地図
(赤
:歩行ルート 橙:神奈川往還 緑:16号・129号)

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相模原の主要道
「道」再発見-道の役割とその移り変わり/相模原市立博物館発行より


by Twalking | 2016-12-16 17:12 | 大山街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 当麻道 下溝~上溝01 当麻   

日時 2016.12.10(土)
天気 晴れ


朝の相模川と当麻の渡し、無量光寺、上溝辺りを
八王子道、大山道など部分的に絡めつつ、
川やハケなども入れて歩いてみました。

やはり朝の相模川は気持ちがいいですね。
無量光寺は初めてですが、じっくり歩くと面白そうです。
それに、名残の紅葉が見事、これは嬉しかったです。



・・・下溝

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鳩川の風景 右岸に散策路がついています/木下橋(鳩川)

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道保川を合わせます/鳩川分水路橋      正面に大山、三段の滝の上部です

鳩川
相模原市から海老名市にかけて流れる相模川水系の河川。相模原市の大島団地付近に源を発し南東に流れる。JR相模線と平行し海老名市河原口付近で相模川にに合流する。相模原市磯部には平行する相模川への分水路があり、そのため磯部以南では流量が減り座間市入谷付近では農業用水路のように川幅が細い。江戸時代は旗川と呼ばれこれが転じて鳩川と呼ばれるようになったと推測される。Wikipedia

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谷戸に鎮座する御嶽神社

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下溝八幡神社/南区下溝

d0183387_14412303.jpg祭神:応神天皇 

下溝八幡神社は上溝の亀ヶ池八幡宮から勧請により建立(天文年間)され、当地の鎮守として地域住民の崇敬を集め御神威いよいよ高く、風雪450年の永い歳月を経過して今日に至りました。
山の神神社
祭神:大山祗神 古来山村農業の守護神として崇められてきた。
不動尊 
本尊不動明王の坐像は市の重要有形文化財に指定され火の守護神として尊崇を集めてきた。(案内板等)

d0183387_14412712.jpg木造不動明王坐像(下溝八幡宮)
威厳に満ちた憤怒の相が良く表現された、意匠、技術ともに優れた江戸時代に作られた不動明王像です。檜の寄木造(で、高さ38cm)、膝張り33cmの玉眼入りとなっています。像の胎内墨書に「仏工鎌倉扇谷住 運慶法印未有 不動尊像作者31才二而作 同郡同所住 享保9(1724)11月吉日仏工後藤左近藤原義貴作」「相州高座郡下溝村大光院 建立施主 常照代 本尊 仏出来口入 座間村大坊 新田村寿明院」とあります。(相模原市)

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d0183387_14455643.jpg清水寺(せいすいじ)

当寺は慶長元年(1596)天應院8世天山存雪大和尚の創建になり、本尊に十一面観世音菩薩を安置する。山号の補佗山は仏界にある観音菩薩のおわす霊山を意味し、寺名は眼下に見下ろす相模の清流に因んだと思われる。寛永年間浅草東谷寺より慧林宗哲和尚普住し伽藍を建立した。本尊にまつわる伝承として、大同年間坂上田村麻呂が観音勧請の地と定めた草創の由来あり。慶長末期寺の井戸から十一面観音出現、秘仏の本尊とし宝暦9年初め開扉に始まり、遠近の厚い観音信仰の庇護によって護持され今日に至る。宗派曹洞(禅)寺。(縁起碑文)



・・・三段の滝展望広場

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滝といえば滝ですが・・・、分水路が相模川に三段で流れ込みます/新三段の滝橋

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相模川の風景① 下流側、両岸の段丘が相模平野に下って行きます

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相模川の風景②上流側、昭和橋まで相模川散策路を歩きます

d0183387_15171967.jpg三段の滝展望広場
この展望広場は、河岸段丘に残された美しい自然と地形を利用しています。またこの辺りは河原に群生するタチヤナギなどの優れた自然が残されています。段丘の上からは相模川の眺望が開け、遠く対岸の風景を見渡せます。階段を降りると芝生広場が広がり、ゆっくりと川を見渡しながら休憩することができます。(相模原市)
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相模川散策路を上流に向かって歩きます

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崖下を八瀬川が流れ、相模川に合流します/新八瀬橋

八瀬川
(やせがわ)
相模原市を流れる延長約5kmの準用河川。相模原市上田名付近に源を発し、相模原市磯部上流のJR相模線下溝駅付近の新八瀬川橋よりすぐ先で相模川に合流する。Wikipedia

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相模川の風景③ 昭和橋で当麻道と合流します/昭和橋スポーツ広場(相模川散策路)

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光明学園グランド           段丘の様子がよく分かります


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昭和橋

厚木市上依知と相模原市南区当麻とを結ぶ相模川に架かる橋。橋の架かっている付近ではかつて「当麻(上依知)の渡し」と呼ばれる渡し船が行われていた。これは平塚八王子道・埼玉往還路の経由地となっていた。渡船は上依知側に委託されていたが明治24年(1925)に当麻側に渡賃が請求され始めた。昭和6年(1931)に開通、その後昭和41年の改修により車道5.5m・歩道1.5mに拡幅された。平成2年(1990)に昭和橋側道橋が整備され現在に至る。橋長363.6m。Wikipedia


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相模川の風景④上流側に129号の新昭和橋が見渡せます/昭和橋

新昭和橋
昭和橋の500mほど上流に位置し昭和橋と同様に厚木市上依知と相模原市南区当麻を結ぶ。片側2車線計4車線および両端歩道よりなり、国道129号厚相バイパスが通る。かながわの橋100選に選ばれている。橋長756m(河川上450m・左岸高架部306m)Wikipedia)

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相模川散策路案内図



・・・当麻

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街道の風景①橋本で分かれた「当麻道」はここで相模川を渡ります/宿(当麻) 


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当麻の渡し標柱&石仏群        信号に「宿」の地名が残ります

当麻の渡し
当麻は古くからの交通の要所で、この先には対岸の依地とを結ぶ渡し場がありました。特に大山詣りが盛んになってからはこれを利用する人も増え、 当麻はさらに宿場としてにぎわいました。(相模原市)

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途中の石造群             
日枝神社


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街道の風景① 「上段」へ登ります。右手が無量光寺、左手に旧道が残ります


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下当麻交差点              旧道入口/当麻市場交差点

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ひかげ坂
                   金比羅大権現

ひかげ坂
一日中日があたらない坂なのでこの名があります。

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街道の風景② 明治の地図を見るとこちらが「当麻道」のようです、やっと会えました


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天満宮鳥居


d0183387_01434844.jpg天満宮

新編相模風土記等によれば、この天満宮は延久5年(1073225日妙音が建てたものとされています。妙音は近江国三井寺の座主であったが、世をのがれて当地に来たり。天神を勧請し山王権現社一宇を建立した。御神体は菅原道真公の木座像、本地十一面観音の立像、湛慶作、古は大日堂にあったものと言われている。別当は天満山明達院梅松寺と言い、他の一寺は明王院明行寺で明達院13世の時分分かれて二院となった。両院とも不動明王を本尊としている。天文の頃(17361741)牛頭天王を相殿に祀った。道真公は太政大臣を追贈され学問の神として尊崇されたいる(案内板)


・・・無量光寺

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無量光寺総門

無量光寺
無量光寺は、当麻のバス停「坂下青年の家」のすぐ前、亀形峰と呼ばれる小高い丘の上にある時宗の大本山です。『風土記稿』や『麻山集』の内容を要約すると、本寺は金光院当麻山と号し、時宗の大本山で古くは「当麻道場」と称されて11ヶ寺の末寺を持っていたとされています。開山は「遊行上人」と呼ばれ、時宗の開祖でもある一遍智真(正応2年(1289)没)です。弘長元年(1261)一遍は諸国遊行の際にこの地を訪れ、金光院という一字を設けたといいます。また、弘安51282)に旅立つ際には自らの木像を刻んだといわれ、これは現在、当寺の本尊であると同時に、昭和33年には最初の市指定重要文化財になっています。嘉元元年(1303)一遍と遊行を共にした2世真数は金光院を無量光寺と改め伽藍を建立しています。その後、当寺は室町時代には後北条氏と深い係わり合いを持ち、また天正19年(1591)には30石の朱印地が与えられるなど大寺院としての威容を保っていました。市の史跡にも指定されている広大な境内には、歴代住職の宝筐印塔が立ち並んでいます。また、毎年1023日の開山忌には稚児行列や雅楽、双盤念仏などが行われ、壇徒や見学の人で賑わっています。(平成さがみはら風土記稿)

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山門

腕木門の親柱の背面に袖をつけ、屋根をかけた高麗門と呼ばれる形式の門です。門としては比較的簡素な形式で、親柱に絵様繰形のある肘木(ひじき)と腕木をさして、桁を受けています。間口は12(3.6)、柱高は13(3.9)あり、親柱も見付寸法が1.5(45cm)もあって、大寺にふさわしい堂々たる門です。17世紀初頭の建築と推定されています。この形式の門は神奈川県内には類例が少なく、その中で最大にして最古のものでありきわめて貴重です。主要材は、控柱が杉であるほかは欅です。(相模原市HP)


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一遍上人像
山門を登り石畳を進むと正面に一遍上人の銅像が建っています。ちょうどそこが、この一帯が明治26年末の大火によって焼失した旧本堂跡です。木造のご本尊は仮本堂に安置されています。(無量光寺HP)

d0183387_02112111.jpg一遍上人(12391289
鎌倉時代中期、時宗を開いた僧です。伊予国(現在の愛媛県)で生まれ、10歳で出家し、信濃国(長野県)の善光寺で「南無阿弥陀仏」と念仏をとなえるとだれでも極楽往生できることを悟りました。1274 年、熊野(和歌山県)で夢のお告げにより時宗をひらき、以後念仏の札を配る布教を始めました。踊りながら念仏をとなえる踊り念仏をはじめ、奥羽(東北地方)から九州まで説法のために歩き、「遊行上人」とも呼ばれています。その生涯は『一遍聖絵』や『一遍上人絵伝』によって今日に伝えられています。(相模原市立橋本図書館)


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本堂
旧本堂跡にある一遍上人銅像の右手後方、旧佛殿跡地に仮本堂があります。内部正面には一遍上人が頭部を自作されたと伝えられる立像が安置され、御影の像とあがめられています。毎年1023日の開山忌には御開帳され、たくさんの信者さんが拝みに来られます。ご本尊の右脇には二祖真教上人、左には三祖智得上人像が安置されています。昭和33年相模原市重要文化財指定(無量光寺HP)


d0183387_02521272.jpg鐘楼
境内右手に「南無阿弥陀仏」と書かれた鐘楼があります。鐘銘には開祖一遍上人の名が記されています(無量光寺HP)





d0183387_02540979.jpgなぎの木
山門の右下の所に常緑樹の背の高い木がそびえています。この大木は「さかさナギの木」と呼ばれ、一遍上人が西国より杖にしてきた一本の椰(なぎ)の木をこの地に刺したところ、根が生え芽を出して育ったといわれています。村人たちは、これは一遍上人の法力によるものと思ったそうです。椰の木は関西以西に自生する亜熱帯性の木で、古くは熊野速玉神社の御神木として知られ、関東で見られるのは珍しいことです。(無量光寺HP)


d0183387_02555553.jpg徳本上人の大名号塔
徳本は江戸時代後期に念仏を広めて歩いた僧で、文化14年に無量光寺を訪れました。念仏塔は、52世他阿上人がその独特の書を求めて建てたものです。(相模原市教育委員会)



d0183387_03041175.jpgお髪五輪塔

本堂左後方に進みますと二基の五輪塔があります。これは南北朝の頃、応安元年(1368)新田義宗が南朝方につき挙兵の折、徳川家康の先祖であります世良田左京亮有親、松平太郎左衛門尉親氏父子が義宗の側につき戦いましたが戦に利あらず、父子共々戦乱を逃れてこの寺に入りました。そのまま八世良光上人の剃髪を受けて出家し、その髪をこの塚に埋めたことから、村人は「お髪塚(おはつづか)」と呼ぶようになりました。その後、有親は長阿彌、親氏は徳阿彌と号し修行に勤めました。父長阿彌はその後この寺で亡くなり、九世慈光上人によりこの塚に遺骨を納め五輪の塔を建立し供養したと伝えられます。息子の徳阿彌は西下し三河の地において松平家を起こし徳川家へと繋がったのです。(無量光寺HP)



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庭園・池
仮本堂の右後方に、一遍上人が自らの姿を映してその姿を描き、木像を刻まれたという御影の池があります。四季の移ろいを湖面に映し出し、参拝者の目を楽しませます。(無量光寺HP)

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仮本堂左手の池

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境内の紅葉


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坂の風景① 惚れするようないい道です、旧道でしょうか/子の神坂

子の神坂
この坂の上に「子の神社(ねのかみしゃ)」があったので、この名があります。


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坂の風景② つづらの上り坂、右手に「無量坂」の道標が建っています/無量坂



・・・・・
資料ファイル

相模原市博物館(2)

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仏教文化財
相模原市では平安時代の遺構から仏教の浸透を示す仏塔や、火葬の骨を収めた器などが発見されています。しかし仏教が人々の間に広まったのは鎌倉時代から室町時代にかけてのことと考えられています。市域の各地に残されている板碑や宝篋印塔、五輪塔がそのことを伝えています。寺院としては当麻の無量光寺が鎌倉時代の末に、新戸の長松寺が室町時代の前半に建てられました。(相模原市博物館)

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描かれた無量光寺

当麻山無量光寺は時宗の二祖信教上人によって建てられました。左の図は信教上人が鎌倉時代の末に無量光寺で行った念仏行事の様子を描いたものです。右の絵は江戸時代の終わりごろに描かれた当麻山無量光寺の様子です。(相模原市博物館)


・・・

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d0183387_19185769.png遺跡分布

平安時代
大陸の政治制度を採り入れ、新たな国つくりが行われました。時代が奈良時代とそれに続く平安時代です。この時代は仏教はじめ様々な大陸文化が都から地方に広まり、神奈川県でも相模国分寺をはじめ各地に寺院が建てられました。平安時代の中頃になると田畑の開拓が進み、集落は台地や山間にも広がります。相模原市の集落もこの時代に急増し、境川や鳩川、相模川などの流域に120ヶ所もの集落が発見されています。(相模原市博物館)


d0183387_19253998.png牧と荘園の分布図

鎌倉・室町時代

鎌倉時代や室町時代は関東の武士が中心となって作り上げた武士の時代です。平安時代の終わりごろから鎌倉時代の初めにかけての相模原市域は、武士団の横山党の勢力下にありましたが、横山党が和田義盛の乱によって滅びた後の状況は明らかではありません。しかし、相模原市内には鎌倉時代から室町時代にかけての村や寺院などの遺跡をはじめ、淵辺義博の伝説や人々の生活を物語る石造物などが数多く残されています。(相模原市博物館)

d0183387_19550911.png後北条氏の関東支配図

戦国時代
関東の戦国時代は伊勢氏(後の北条氏)の伊豆攻略に始まり、北条氏の滅亡で終わります。相模原市域は16世紀の初めごろ北条氏の支配下に下り、無量光寺の門前町(宿場町)の当麻は関所が置かれていました。



by Twalking | 2016-12-15 09:06 | 大山街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 府中通り大山道(2)古溝~磯部03  磯部02   

日時 2016.11.26(土)
天気 晴れ


磯部の渡しから中心部にある磯部城の推定地を訪ねました。
能徳寺、御獄神社、上磯部の土塁の3ヵ所ですが、遺跡などは
見つかってはいませんが、見ておきたかった所です。

もう一つは勝坂の国指定遺跡と擬洋風建築の旧中村家住宅、
閉館ぎりぎりでしたのでじっくりは見れませんでしたが、
これは珍しい住宅です、一見の価値は大いにありでした。

初めて訪ねた場所なので戻ったり、うろちょろしたりと、
ちょっと時間がかかり、日暮れてしまいましたが、
古淵、木もれびの森、磯部とそれぞれに味わい深い所でした。


・・・下磯部

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相模川の風景① 右手に大山、左手は磯部耕地、のびやかな風景です/相模川散策路

下磯部地区の芝さくら
この芝さくらは相模川の自然と環境を守り、併せて景観の向上を図るため下磯部自治会、下磯部老人会及び下磯部大凧保存会の団体が連携し、平成167月「相模川芝さくら愛好会」を結成、それら会員の奉仕活動によって土留め作業、覆土を施し芝さくらを植栽しました。一方、この相模川の河川敷では江戸時代の享保年間から続いている相模の大凧が揚げられます。ピンクの芝さくらが咲き誇る中54日、5日の両日には「相模大凧まつり」が開催されています。(相模川芝さくら愛好会)
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伏越                 相模川左岸用水路


相模川伏越の誌
相模川右岸に位する愛甲郡依知村、厚木町、南毛利村、中郡成瀬村、伊勢原村、太田村、相川村、神田村、大野町、城島村、岡崎村、豊田村の水田二千余町に灌漑するため、相模川左岸頭首工より取水し此処に伏越を設けて対岸に渡した。この河床は深い砂利層で水替えが困難なので、鉄筋コンクリートの井筒を連続して沈めその中に内径150cmのヒューム管を2本並列し玉石コンクリートで被覆した。深さは左岸側河心の最も深い河床より2m下に埋設した。ここに川底深く築造された伏越の原型を作りこれに概要を示す。工事費:13813万円  起工期日:昭和279月  完成期日:昭和299月  伏越の延長:612m  通水量:毎秒53  井筒の形状:長1150 巾6m 高650 45基(碑文)



・・・磯部城址

相模原の歴史(中世)

鎌倉時代の初め、市域に勢力を持っていた横山党は建保元(1213)年の合戦で和田義盛に味方して、北条氏と戦い勢力を失いました。鎌倉時代の末には、時宗の開祖一遍上人が当麻に来たと考えられ、二世真教上人はその故地に無量光寺を建立しました。南北朝時代には、足利直義の家臣淵辺義博が淵野辺を領有していたと言われています。室町時代の後期に長尾景春の乱に際し磯部に城が築かれました。戦国時代の市域は小田原北条氏の支配下に入り、当麻に関所が置かれました。(相模原市HP)

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「磯部城址」の推定ヵ所

d0183387_14294528.jpg上磯部の土塁/磯部(相模川散策路)

現存する幅約11m、長さ約60mの土塁は磯部城附属施設の可能性を持つものです。磯部城は長尾景春(かげはる)の乱の際に、景春方の拠点「小沢城(こさわじょう)」(愛川町)の支城として文明91477)年頃築城され、翌文明101478)年頃に太田道灌の軍勢により攻め落とされたと伝えられています。磯部城の中心は御嶽神社もしくは能徳寺の付近と思われます。また、土塁の北側に堀があったことが発掘調査により確認されていますが、時期を決める遺物は出土していません。外からの見学はできますが、屋敷内に立ち入ることはできません。(相模原市HP)


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能徳寺山門

能徳寺

曹洞宗。中世にあったとされる磯部城は近くの御岳神社かあるいはこの附近にあったとも推定されているが、詳しい場所などは不明。なお、磯部城の付属施設の土塁の可能性が考えられるものが相模川沿いの一角にある。(相模原散策マップ/相模原市立博物館)

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能徳寺本堂


正しくは磯平山能徳寺といい、鎌倉時代に曹洞宗を開いた道元というお坊さんの流れをくみ、下溝の天応院の末寺です。室町時代の終わり頃に建てられました。秋になるとお地蔵さんのまわりに彼岸花が咲き、並んだ石仏にはギンナンの実が落ちてきます。相模川の水を引いた五ケ村用水はこのお寺のすぐ近くから取水されています。(新磯公民館)

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鐘楼                 石仏群

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徳寺門前から南へ一段下り左折すると御嶽神社があります



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御獄神社参道

御獄神社
下磯部の鎮守で91日が例祭。中世にあったとされる磯部城はこの附近にあったものと推測されているが、詳しい場所などは不明。(相模原散策マップ/相模原市立博物館)

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御獄神社拝殿


御獄神社

下磯部地区の中央にある神社です。このあたりには磯部城があったと伝えられています。室町時代の1477年上野国(今の群馬県)を治めていた長尾景春は、関東地方を治めていた山内上杉定顕と戦いました。磯部城は景春に味方しましたが、厚木の溝呂木城などとともに滅ぼされ、関東地方は戦国の世へと移りました。この神社のお祭りは421日です。(新磯公民館)

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神社裏側                 大きなタブの木が残ります


d0183387_15511044.png長尾景春の乱関係図/Wikipedia

長尾景春

山内上杉宰を代々務めた長尾氏(白井長尾家)の一族。自分が次代の宰だと思い込んでいたら、叔父が宰に選ばれた為に憤慨。次第に「これは白井長尾を潰そうという陰謀に違いない」と疑心暗鬼になり始め、・上杉顕定に対する謀反を決意した。名門・上杉氏の没落はここから始まる。山内上杉の一大防衛拠点・五十子(いらこ)をあっさり破壊するなど怒涛の勢いで進軍するが、そこに立ちはだかったのが扇上杉のIE家宰・太田道灌だった。道灌の巧みな戦の前に景春は一時雌伏の時を過ごす事になる。その道灌が主から危険視されて暗殺されると、景春は道灌亡き扇谷家と組んで山内上杉家との闘争を再開。しかしこの戦いは扇谷家が終始劣勢だったこともあって、またも彼の野望は阻止されてしまった。が、今度は顕定が越後で戦死したという予想外の出来事が起こり、景春は北条早雲と組んで三度立ち上がる。最初の挙兵から30年にも渡って山内上杉と戦い続けた名将。反乱が成就する事はなかったが、彼の起こした戦いの長期化によって関東の情勢はますます混乱を極めてゆき、やがて北条早雲の台頭を招く事になる。(にこにこ大百科)


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磯部耕地からみる相州大山の風景です

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薬師堂・不動尊
薬師堂は500年前からあると伝え、下磯部の東地区で管理している。堂前の不動塔は大山不動で、毎年伊勢原市の大山から御札を受けてくる。(相模原散策マップ/相模原市立博物館)



・・・勝坂

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下磯部から丘陵上の勝坂に向かいます/ねこ坂

ねこ坂
昔、この坂で猫が踊っていたのでこの名があるといわれています。(標柱)

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勝坂入口バス停            鳩川の七橋


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旧中村家住宅主屋と長屋門

旧中村家住宅主屋は全国的にも珍しい幕末期の擬洋風建築です。建築当初は3階建てでしたが、関東大震災後、3階部分は取り除かれ2階建てとなっています。建築を手がけたのは鎌倉大工の石井甚五郎で、10年の歳月をかけ完成したと伝えられ、板に記した設計図が残されています。建物の特徴は、1階の外観は和風の要素でまとまっていますが、2階は外壁を海鼠壁とし、洋風の要素として軒を曲線の白漆喰で塗り込め、正面に縦長の窓を配しています。長屋門は、桁行63尺(約19m)の長大なもので、母屋と同時期の慶応年間(18651868)に建てられたと推定されます。(勝坂散策マップ)

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主屋正面               長屋門


d0183387_16271915.jpg中村家と国指定史跡勝坂遺跡

勝坂遺跡の調査の歴史は古く、大正15年までさかのぼります。その年の夏に休暇で帰省した学生の清水二郎氏が、中村家当主であった中村忠亮(ただすけ)氏の所有する畑で採集した土器を、考古学者の大山柏氏に標本として渡し、大山氏による最初の発掘調査が行われました。この時発見された厚手で装飾性豊かな土器が注目され、後年「勝坂式土器」として、中部・関東地方の縄文時代中期のめやすとされました。発掘地点は、旧中村家住宅裏手の勝坂A地区の一画で「勝坂土器発の地」の案内板が設置されています。(勝坂散策マップ)


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石楯尾神社(いわたてお)参道


d0183387_17012140.jpg楯尾神社

楯尾神社はいつ造られたかはっきりとわかっていません。今の神社は江戸時代の寛政12年(1800)に建てなおされたものです。磯部勝坂地区の鎮守として集落を見下ろす丘の頂きにあります。鎮守とは、神様が鎮まり坐して守護するという意味です。鳥居をくぐると長い参道が続きその先に121段にもおよぶ長い石段があり、それを登りきると石楯尾神社があらわれます。社殿の天井には「鳴き龍」が描かれています。(新磯公民館)

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勝源寺山門


d0183387_17041506.jpg勝源寺

新編相模風土記稿(天保12年・1841成立)によれば、龍鳳寺(厚木市)の末寺で山号を金澤山といい、千手観音を本尊としています。当寺には「六本庚申」と呼ばれる青面金剛像が安置され、明治から大正時代にかけては養蚕守護を願う参拝客でにぎわったといいます。(勝坂散策マップ)

d0183387_17041983.png勝源寺の大青面金剛王(六本庚申)

青面金剛王尊(しょうめん)は仏法の守護神として知られる帝釈天の使者ともいわれ、病魔、災難を除く神として、また民間に盛行した「庚申信仰」の本尊として信仰されてきました。当山に祀られいる青面金剛像は「六本庚申」「千本庚申」とも呼ばれ、養蚕に効験のある庚申様として広く信仰を集めました。現在お像脇に納められている焼物のミニチュア像も、往時は千体あったと伝えられています。人々は養蚕の始まる頃に参拝しミニチュアのお像を借りて家に祀り、養蚕が終わるとお参りしてお像を納めました。4月の庚申の日あたり行われたお祭りには露店が出され、大神楽が行われるなど近隣ほもとより遠方からも大勢の人が参拝に訪れ賑わいました。この勝坂周辺には庚申塔が多く建てられており、六本庚申との深い関わりがあることがうかがわれます。(金澤山勝源寺・写真は案内板のもの)

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大山道から分かれ座間への道でしょうか、落ち着いた街並です/楯尾神社石入口



・・・史跡勝坂遺跡公園

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史跡勝坂遺跡公園D地区の風景

d0183387_23021300.png国指定史跡・史跡勝坂遺跡公園
縄文時代中期(約5000年前)の大集落跡です。大正151926)年、大山柏(かしわ)氏によって発見されて土器は、装飾的な文様や顔面把手(とって)(顔を表現した取っ手)などによって注目を浴び、後に「勝坂式土器」として縄文時代中期のめやすとされました。また、同時に発見された多くの打製石斧(せきふ)を、土を掘る道具と考えて原始農耕論が提唱されました。(勝坂散策マップ)






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堅穴住居(笹葺)1号住居

4700年前の住居を復元しました。勝坂遺跡D地区では、堅穴住居跡が80軒以上発見されていますが、同時に存在したのではなく長い年月の間で住居の構築・建替え・廃絶が繰り返して集落が継続された結果と考えられます。東京都港区の伊皿子貝塚で発見された焼失住居の調査で、屋根葺材と考えられるアズマネザサが発見された事例を参考に、全国的にもめずらしい笹葺住居として復元しています。時期:縄文時代中期後半(約4700年前)。(勝坂散策マップ)

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堅穴住居(土葺) 3号住居

堅穴を掘った土を屋根に葺いて利用した土葺住居は保湿性に優れており、石囲いの炉に火を焚いて暖をとっていたと考えられます。一方で雨漏りや湿気のため、湿潤な時期に住むのには適さず寒い時期だけの「冬の家」とも考えられています。時期:縄文時代中期後半(約4700年前)。(勝坂散策マップ)

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廃絶住居(窪地)

打製石斧など土掘の貝を使って深さ1m前後まで掘られる竪穴住居は、10数年程度で住居としての役割を終えたと考えられています。竪穴住居の内部には、やがて土が流れ込んで埋まり始めます。縄文集落の一般的な景観とはこのように現に使われている住居と廃絶されて住居「跡」となった窪地が見えていたと考えられます。その後窪地は格好のごみ捨て場として利用されており、発掘調査すると大量の土器や石器が発見されます。(勝坂散策マップ)

d0183387_23050460.jpg敷石住居展示
縄文時代中期の終わりごろになると、それまでの竪穴住居から構造が大きく変わり、柄鏡(えかがみ)の形に石を敷いた住居(柄鏡形敷石住居)が登場します。30号住居は発掘当時の状況をレプリカ展示してあります。(勝坂散策マップ)



d0183387_23210930.png埋没谷

勝坂遺跡は鳩川流域沿いや湧水の流れる谷戸沿いにつくられた縄文集落群です。勝坂遺跡D地区は北と南に集落がつくられており、その周りに埋没した谷が走っていました。(勝坂散策マップ)
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谷戸の風景
田んぼ、畑、湧水などが見られ、野鳥など多様な生き物が生息しています。(勝坂散策マップ)

d0183387_23415218.jpg有鹿神社

相模国の延喜式内13社のひとつである有鹿神社(海老名市)の奥宮といわれ、4月に海老名の有鹿神社関係者により「有鹿さまの水もらい」と呼ばれる神事が行われています。現在は簡素化していますが、明治時代までは本宮から神輿で御神体が渡御し、48日から614日までの2ヶ月あまりの間、御神体をここに留め置いたといわれています。(勝坂散策マップ)

有鹿の里(海老名)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22928853/


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勝坂散策マップ
(赤:大山道 緑:散策ルート 青:鳩川)

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相模川の風景② 下流の灯は海老名あたりでしょうか/三段の滝(下溝)


・・・・・・・
資料ファイル

相模原市博物館

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勝坂式土器

d0183387_09365279.png勝坂遺跡の発掘調査で縄文土器が11個体と土器片593点が出土した。調査翌年の昭和2年に刊行された「報告」では、縄文土器の実測展開図まで掲載され、土器の装飾、形態、製作について触れ、その内容は精緻極まるものである。翌昭和3年には縄文土器の編年研究を進めていた山内清男によって、縄文時代中期の標準となる土器として「勝坂式土器」と呼ばれるようになる。勝坂式土器は現在、中部・関東地方に広がる土器型式で、造形的にも豊かな勝坂式土器は日本を代表する縄文土器のひとつといえる。(相模原市博物館展示パネル)

大正15年出土の勝坂式土器
大山柏が調査した勝坂遺跡の出土品は戦禍で全て失われてしまっており、残された数少ない写真資料、実物大。(相模原市博物館展示パネル)

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勝坂遺跡の調査地点(明治期の迅速測図)/
相模原市博物館展示パネル


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「相模川流域の景観」ジオラマ

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d0183387_09523423.png関東山地をつくる地層

神奈川県で最も古い地層は約12000万年~6500万年(中生代白亜紀の後期)に作られた「小仏層群」と約6500万年~2400万年前(新生代古第三紀)に作られた「相模原層群」です。これらは関東山地、特に秩父山地をつくっている地層のひとつで、市内では大島の河原で見ることができます。(相模原市博物館展示パネル)


d0183387_09535287.png段丘の姿
相模原台地をはじめとして相模川沿いには河成段丘がよく発達し、日本を代表する段丘地形として知られています。河成段丘とは、昔の河原の一部が削られて階段状に残った地形です。この段丘を調べると、相模川は気候変動や地面の変化、地殻変動などによって浸食と堆積を繰り返してきたことが分かります。相模原台地は相模川が山間部から平地部に出た所につくられた大きな扇状地の一部で、高い方から相模原段丘、中津原段丘、田名原段丘、陽原段丘に大きく分けられます。(相模原市博物館展示パネル)


d0183387_10015580.png台地の崖に見る大昔の河原

台地の崖にはしばしば火山灰層の下に河原の石や砂からできた地層が見られます。これはかつてそこに相模川が流れていた証拠で、段丘砂礫層と呼ばれ平らな段丘面をつくっています。段丘面とその砂礫層が高い位置にあるほど河原であった時代は古く、その上の火山灰層も低い段丘より厚くなっています。(相模原市博物館展示パネル)








d0183387_10410310.png250万年前の相模原
250200万年前の相模原の様子は、田名付近の相模川の崖の地層で知ることができます。あまり固まっていないこれらの岩石は、暖流の流れ込む浅い海に堆積した中津地層群です。軽石が多く、今の丹沢付など近くで火山(島)が活動していたことを示します。このころの相模原は浅い海の底で、丹沢はまだ山ではなかったようです(相模原市博物館展示パネル)


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相模原台地のできごと(相模原市博物館展示パネル)

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関東地方の地質図(相模原市博物館展示パネル)

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相模原市博物館

相模原市博物館/中央区高根3-1-15
博物館には「川と台地と人々のくらし」をテーマにした自然・歴史展示室、「宇宙とつながる」をテーマにした天文展示室、様様な企画の展示を行う特別展示室の3つの展示室、210人が一度に観覧できるプラネタリウムがあります。プラネタリウムでは生解説による星空の投影のほか、迫力ある大型映像の映画(全天周映画)の上映も行います。(相模原市HP)

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相模原の主要道
「道」再発見-道の役割とその移り変わり/相模原市立博物館発行より


(2016.12.4追記しました)

by Twalking | 2016-12-04 11:37 | 大山街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 府中通り大山道(2)古溝~磯部02 磯部01   

日時 2016.11、26(土)
天気 晴れ


大野台の林間を抜けると台地が開けますが、道は消えてます。
住宅地をジグザグに峯山霊園に向かうとやっと旧道が出てきます。
ここから坂道を3段下ると相模川河岸の磯部宿になります。

峯山からは眺めもいいし、変化があって面白いですよ。
磯部は見所が一杯なので、ひとまず渡し場まで行ってから、
磯部城の関連個所や勝坂の史跡などを散策することにしました。


・・・麻溝台/南区

「麻溝台」という地名はこの区域がかつて所属していた高座郡麻溝村に由来する。「麻溝村」という旧村名は同村の前身である当麻(たいま)村と下溝村からの合成地名である。相模川左岸に上・中・下3段の河岸段丘からなる相模原台地の「上段」に位置し、西側に南の磯部方面へ続く細長い谷戸が伸び、ほぼ中央部を目久尻川の源流につながる浅い谷が南北に貫通するほかはほとんど平坦な台地上に広がる。元は相模国高座郡下溝村(一部は当麻村)の一部。明治初期までは「相模野」と呼ばれた広大な原野の一部で、このことから明治15年には全国的な地図作成のための測量の起点となる一等三角点が設置された(相模野基線北端:現・麻溝台四丁目)。原野の開墾は明治17年の下溝村からの入植に始まるとされ、大正期には周辺地域での養蚕業の発展とともに桑畑と雑木林が交錯する土地利用となっていた。しかし、1937年(昭和12年)に陸軍士官学校の座間への移転に合わせて麻溝村から南隣の新磯村にかけての台地上の土地の大部分が陸軍に買収されて士官学校の演習場とされた。
Wikipedia

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街道の風景① 林間を抜けると台地が開け大山が顔を出しますが、道は消えてます/麻溝台


d0183387_16172540.jpg下溝の一里塚/
麻溝台2丁目交差点
『新編相模国風土記稿』高座郡下溝村の二ツ塚の項に「一里塚なり。高さ九尺。塚上に榎樹あり。元和3年、神柩日光遷御の御路なれば築きし所なりと云」と記載されている塚がありました。


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街道の風景② たまご街道の幟、今日のお土産にしよっと。。。

たまご街道
神奈川県相模原市の麻溝台地域は古くから養鶏が盛んで、現在は7戸が続けております。養鶏家全員で「麻溝畜産会」を結成。鶏舎や直売所が点在する市道を『たまご街道』と名付け、地域商業の活性化に取組んでいます。直売所では、第6次産業にも取組んでいて、洋菓子やカフェなどで賑わいを見せています。(麻溝畜産会)


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d0183387_16412462.jpg顕正寺/麻溝台

日蓮宗。ご本尊:久遠實成本師釈迦牟尼佛 諸仏:鬼子母神 (堂内)金龍弁財天(境内地)開山源吾上人は岐阜にて宮大工をしていたが、墨壺の墨が目に入り両眼が見えなくなり、当時の医学では治療が出来ず、代々伝わる観音様に手を合わせ病気平癒を祈った所、夢枕に観音様が立ち身延山の日朝堂にて修行をせよとのお告げがあり、21日間火の通した物は口にしないと誓い修行をした。その甲斐あり両眼が見えるようになり故郷へ帰ろうとした時、又観音様が夢枕に立ち、東の方へ千箇寺参りをせよとのお告げがあり、下溝の地に来た時に篤信の信者を得て留まることになり今に至る。(相模原仏教会)


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街道の風景③ 横浜水道道、また出会いましたね~/消防署入口



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街道の風景④ 街道は住宅地の右手を峯山霊園に向かっていたようです

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消防署入口を右折           峯山霊園入口付近に出てきたようです

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街道の風景⑤ 勝坂歴史公園と自然散策の森の間のみねん坂を下ります/勝坂

みねん坂
「峰の坂(みねのさか)」の意味で、東側に広がる峰へつづいていました。(標柱)

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勝坂歴史公園の景観

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勝坂歴史公園 
公園に入る方向が座間・厚木への道のようです。道は勝坂地区の「史跡・勝坂史蹟公園」に続いています。
(赤:大山道 橙:座間への道 赤丸:勝坂歴史公園・勝坂史跡公園・磯部の渡し)



・・・新磯

新磯地区は、西側に相模川が流れ、東側は河岸段丘の斜面緑地に面しており、磯部・新戸周辺には水田地帯が広がるなど、緑の多い豊かな自然に恵まれています。地区内には「勝坂式土器」の名で全国的に知られる「勝坂遺跡」や国の登録文化財「中村家住宅」が存在しており、さらに「相模の大凧まつり」や「芝ざくらまつり」などの文化・観光行事には、県内外から多くの見学者が訪れています。一方、地区内には在日米陸軍キャンプ座間があり、ヘリコプター騒音などの基地を取り巻く諸問題の解決が大きな課題となっています。(南区)

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街道の風景⑥ 勝坂からの下り坂、前方に磯部の町と大山が見えてきました


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鳩川先を右折             右角に石像群/磯部八幡宮前

新磯村
1889
年(明治22年)から1941年(昭和16年)にかけて神奈川県高座郡に存在した町村制による自治体、現在は相模原市南区の一部である。村名は旧村名の戸、からの合成地名Wikipedia

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街道の風景⑦ 相模線新磯踏切を渡り八幡坂の坂下を直進します

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右手に厳島神社            坂下の標柱
 

八幡坂

八幡宮のそばにある坂なのでこの名があります。(標柱)


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磯部八幡宮鳥居


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拝殿

d0183387_16174249.jpg八幡宮由緒碑
御祭神:応神天皇 境内社:三社神 金比羅神社 山神社 疱瘡神社 境外社:厳島神社 社外地不動堂
八幡神社はもともと源氏の氏神でありますがこの社は古く創立年月日は不詳であります。延文元年(1356)以前より磯部村の鎮守として信仰厚く、御神像として仏弥佗を奉斎しております。この社を開いたのは鎌倉から来訪した山伏・祐圓(延文2922日歿)で、別当は小田原玉瀧坊(本山派の修験寺院・松原神社の別当觸下の佛像院磯部山宮神宮寺でありました。又、文明103月(1478大田道灌勢により陥落するまで磯部地内には城主長尾景春)がありました。記録によると文禄3年(1594)当時には八幡宮は幕府から社領10石を与えられておりました。

d0183387_19033580.jpg享保18年(1733715日別当磯幡山神宮寺2世・仏像院快省法印、再建し毎年815日に角行(かくぎょう)を興業にしておりました。当時の地頭は大津新右衛門で、上下村勝坂氏子中と棟札に記されております。江戸初期の不動尊と寺社奉行宛て宛古文書等推定樹齢500年の銀杏が現存しております。当社では山伏の修験が行われ、江戸時代には沢山の家業繁昌、厄除けの護摩が炊かれ、またこの地域には大山詣での宿場のため境内は非常に賑ったと伝えられます。当時は対岸の依知、山際等からも参拝あり特に火渡り護摩が有名でありました。

d0183387_16470992.jpg明治2年神仏混合の禁止令により別当職が解かれ八幡大神と称しました。明治6年太政官布告により官有地第1種に編入され、同年12磯部村村社に指定されました。明治26年の神社明細書には氏子数(上磯部、下磯部勝坂)で229と記されております。明治40年境外地(山林)は神社風致林として宮内庁御料局より払下げを受けました。大正123月老朽化に伴い氏子の奉賛により社殿を新改築いたしました。昭和10927新磯村の総鎮守として指定村社に列せられ、法律の施行により昭和287月宗教法人となりました。昭和5710月東京電力()の送電線神社用地上空通過に伴う補償料にて御社殿、末社、鳥居石段、手水舎等の改築整備を建設委員を設置して行い、昭和604月竣工いたしました。先人の築いた長い由緒を持つ地域の氏神様として、郷土の繁栄と健康で遠永に平和で豊かな生活ができますよう厚い御加護があるものと祈願いたします。(石碑文)


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木造不動明王坐像
本像は檜の寄木造で漆箔を施し、玉眼を入れています。手には願主の名を刻んだ鉄賢剣と後補の剣索を持ち、光背は朱塗りの火焔光背です。台座は岩座、受座、上框座、下框座の四座からなりそれぞれには細部にわたって技巧的・装飾的な彫刻が施されています。本像は昔から八幡宮の別当・仏像院の護摩堂に安置されていたと伝えられ、明治時代の神仏分離状況に際しても失われることなく現在に至っているものです。本像には製作者、制作年代が知れる銘文等はありませんが江戸時代の作と考えられます。像高57.5cm 台座高69cm。 (相模原市教育委員会)


d0183387_17144391.jpg稲荷神社

この稲荷大神は推定室町時代から過去数百年に亙り信仰厚い溝呂木本講中の原点で、心のよりごころとして護持されてまいりました。明治初期の講中名簿現存す。開山八幡宮別当(神宮)の鬼門の位置として伏見稲荷大社から奉祀されたと思われます。五穀豊穣と地域の繁栄を祈願してまいりました。又かつて溝呂木家の墓地は八幡宮に隣接してありました。子々祖先からの継承されてきた絆は今もまた将来も続くものと確信いたします。ここに溝呂木講中拾七戸の浄財をもって改築いたしました。この守護神のご加護により健康で永遠に幸あらんことを祈願いたします。(説明板)

d0183387_17145297.jpg三社神社

この三社神の由来は東京赤坂山王日枝神社、東京湯島天満宮、大山阿夫利神社の神霊を祀ってあります。(説明板)



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街道の風景⑧ 大山道は上磯部から下嘘辺の集落の中央を通っています

d0183387_18594158.jpg磯部の道標/左折角
中央に道祖神、右は不動明王像、左は「不動尊」の文字と道しるべ「東 木曽・南 大山・北 八王子」と刻まれています。




d0183387_16472179.jpg磯部八幡宮参道の鳥居








d0183387_19264170.jpgもんや稲荷

バス折返し所の一角ににあり、この場所にあった大家の屋敷稲荷という。(相模原散策マップ)





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磯部民俗資料館
相模原市磯部民俗資料保存会が運営する施設で、地域に残されてきた民具をはじめ行事などの古写真を保管・展示する。(相模原散策マップ)(残念ながら閉まってましたので外からの写真だけです)

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街道の風景⑨ 街道の面影がほのかに残ります、この先を右折して磯部の渡しへ


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「右 大山道」の道標         左手に石仏群


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「磯部の渡し」の標柱が立っています/磯部頭首工公園(相模川散策路)

d0183387_22105638.jpg磯部の渡し

このあたりには対岸の猿が島とを結ぶ渡し場がありました。そのため「猿が島の渡し」とも呼ばれていましたが、大山参りの人々にもよく利用されていました。(標柱)

新編相模国風土記稿によると「渡船場あり 矢倉澤道の係る所なり 対岸猿ヶ島村にて進退す」とあります。



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街道の風景⑩ 渡し場付近から相州大山を望む


d0183387_22480245.jpg望月珪治翁顕彰碑

望月翁は昭和5年近郷7か町村を結合して相模川左岸普通水利組合を設立、管理者となり10数年にわたるかんがい用排水改良事業の完成に尽力しました。この事業により延長20km余りの水路、排水施設が完成し、2200haの耕地が水害と干ばつから救われました。明治165月海老名村に生まれ、29歳の時、同村助役となり更に村長を歴任すること20有余年におよび、その間、県町村会長、高座郡農会長等を兼ね声望ほかに比肩するものがありませんでした。(農林水産省HP)



d0183387_22480946.jpg「五ヶ村用水」「豊受水神社」
「相模川左岸用排水路改良事業完成記念碑」


五ヶ村用水
この用水は、江戸時代後半に磯部村、新戸村など五ヶ村の水田に水を引くためにつくられました。また、その用水の取水口があるこのあたりは「すいどうくち」と呼ばれています。(標柱)



d0183387_22545534.jpg磯部頭首工

頭首工(とうしゅこう)

湖沼、河川などから用水を取り入れる農業水利施設の総称。おもに取水堰と取り入れ口(取水口) から成る。取水堰は用水取り入れに必要な水位を確保するためのもので土砂吐き、魚道、流木路、いかだ道などをつける。(コトバンク)
      


d0183387_22551278.jpg磯部堰の沿革
明治の初め以来旧5箇村と新田の用水取り入れ口であった磯部に、昭和10年県営相模川左岸用排水改良事業によって堰が築造され、毎秒6.853の農業用水が相模原市から茅ヶ崎市に至る左岸2000ha余の耕地を潤してきた。しかし同19年相模川河水統制事業による相模ダムが上流に建設されて土砂の流下が減少し、また戦後急激な砂利類の採掘により河床が低下して以来災害対策と取水とに悩まされた。さらに同32年には県営相模川右岸農業水利改良事業によって毎秒5m3が取水され厚木市から平塚市に至る右岸2000ha余の耕地をも潤した。このため災害復旧と維持管理の経費は年々増大するに至ったので、同39年県営用水障害対策事業が農林省に採択され、5箇年の歳月と39800万円の巨費をもって今年3月改修工事が完成したのである。かくてこの堰の取水は末永く相模野の沃田を潤すことであろう。昭和445月(相模川磯辺堰土地改良区連合)


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相模川散策路案内図
(赤:大山道 赤丸:磯部の渡し)

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磯部村絵図(江戸時代 正徳年間頃)/相模原市博物館


by Twalking | 2016-11-30 10:35 | 大山街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 府中通り大山道(2)古溝~磯部01 古淵   

日時 2016.11.26(土)
天気 晴れ


相模台地を歩いてみたいと思っていました。
八王子通りで相模川までたどり着きましたので、
木曽宿からの続き、府中通りを磯部までぶらりっと。

境川左岸の旧道を一回りして境橋からスタート。
木れびの森に寄りましたが、やっと「林間の径」
に会えた感じがしました、いい森ですね~。



・・・古淵
(こぶち)/相模原市南区

区域内を神奈川往還およびJR横浜線が貫通し小淵駅が設けられている。当区域の大部分に当たる段丘崖南西側はほとんど平坦な相模原台地の一部となる。古くからの集落は段丘崖付近に分布し、また神奈川往還沿いに路村形態の集落が形成されていた。境川沿いの低地に水田が開かれることもあったがごく狭く、台地上の大部分は畑として利用された。元は相模国高座郡淵野辺村の一部。明治22年の町村制施行のための明治の大合併で淵野辺村が鵜野森村ほか3村と合併して高座郡大野村となると、大野村の大字淵野辺の一部となった。神奈川往還に沿って並ぶ旧村のちょうど真ん中に位置することから下長久保(現・古淵三丁目)に村役場が置かれ、村の行政中心となった。
Wikipedia

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境川の風景① 下流側(相模原市)に河岸段丘が続きます/境川橋

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しも坂                うとう坂

しも坂・うとう坂

東側の坂は「しも坂」といい、この付近の集落を「しも」というためこの名があります。西側の坂は「うとう坂(おと坂)」と呼ばれています。(標柱)


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大日堂
このお堂はもともとは南側の崖下にあったものを江戸時代にこの地点に移したものと伝えられています。このお堂の由来については、地域の人々によって口々に唱えられてきた和賛(わさん)の中に伝えられています。これによると、南北朝時代にここで合戦があり、その戦死者を供養するために建てられたお堂であることがうかがえます。この合戦とは北条時行と足利直義による建武2年(1335年)の「井出の沢の合戦」のことと考えられます。「井出の沢」とはお堂の西側をながれていた小沢のことです。また、お堂の中の大日如来で、秘仏として信仰されています。(相模原市・相模原市観光協会)

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「いでのさわ」標柱と石仏群      後ろ側に祠があります

いでのさわ
この付近にあった沢を「いでのさわ」といい、南北朝時代(14世紀)の「井出の沢」の合戦は、ここ行われたと伝えられています。(標柱)


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古淵鹿島神社鳥居

古淵鹿島神社/古淵 
祭神
この神社はいつ創建されたかは不明ですが、新田義貞が鎌倉攻めのおり祈願のために建立した言い伝えがあり、また、渡辺義博の子、義喬が建立した言い伝えもあります。古文書によりますと、文禄2年(1593年)に奉再建鹿嶋大明神一社一宮御修復とあり、その後、慶安3年、寛延2年、文政2年に再建した記録があり、明治34522日に焼失し同36年に再建され現在に至っています。毎年522日を『焼日祭』と言って祈願しています。境内の大ケヤキは千年を経ていると言われ、根元にある石は「カナメ石」と呼ばれ、境川のほとりにあった「田の神」とも言われています。祭神は「武甕槌神」で本殿右は「香取神社」、大ケヤキの横は「稲荷神社」を祭っています。遠い昔より村の鎮守様として守り今日に至っています。(相模原市・相模原市観光協会)

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赤鳥居                拝殿

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街道の風景① 境川左岸に続く古道、いい道です

神奈川往還

八王子市周辺と横浜市を結んだ道。別称として浜街道、武蔵道、絹の道、横浜側では八王子街道とも呼ばれる。現在の町田市相原町字坂下付近と町田市鶴間字大ヶ谷戸付近までの間で二通りの経路に分かれており、ひとつは主流であった現在の町田街道の経路である。もうひとつの経路として、相原村(現在の相原坂下交差点付近)で分岐して境川を渡って相模野国高座郡橋本村に入り、同郡の淵野辺村上鶴間村(相模原市)、下鶴間村(大和市)などを経由した後に再び境川を渡って武蔵国多摩郡の鶴間村に入ったところで上記の経路と合流する現在の国道16号に相当する経路がある。但し、上記の原町田を抜ける経路のほうが発展していたことや距離が近かったことなどから、もっぱら裏街道のような存在であった。こちらは後に国道16号(東京環状)として発展することになる。Wikipedia

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かわしま坂をくだります        古淵1丁目市民緑地

かわしま坂

このあたりは昔、島のような地形だったのでこの名があります。(標柱)


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境川の風景② 大山道に架かる境橋、ここからスタートです/境橋

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木曽宿から下ってきました/境橋     右岸の旧流路跡


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龍像寺山門


d0183387_15582951.jpg龍像寺/南区東淵野辺

JR横浜線古淵駅より北西へ700m、境川沿いにある曹洞宗の寺院です。『風土記稿』によると、弘沢寺(厚木市七沢)の末寺で、山号を浄源山(現在は淵源山)といい釈迦如来を本尊としています。また、開山は弘沢寺2世の巨海(弘治3年(1557)没)で、6世萬州の時に再建をし慶安元年(1648)に12石の朱印地を与えられています。同書所収の寺伝では、淵辺伊賀守が毒蛇(龍)を退治し、その蛇身を面巳って龍頭・龍像・龍尾の3寺を建立したとしています。後に3寺とも廃寺となり唯一再建されたのが当寺であるというわけです。ちなみに龍の骨片矢じりと伝えられるものが寺宝として保管されています。また、淵辺伊賀守とは南北朝時代に当地の地頭であったとされる淵辺義博のことで、護良親王を奉殺した人物としても知られています(地域では親王を助けた人物として伝えられている)。当寺の墓地には、江戸時代に当地を所領していた旗本岡野氏歴代の墓碑があります。明治時代、本寺でも寺小屋を継いで「淵博学舎」が開かれましたが、その最初の教鞭をとったのは岡野氏の末裔にあたる18世初白でした。(平成さがみはら風土記稿)

d0183387_15583577.jpg龍像寺の岡野氏墓地

江戸時代の淵野辺村領主、旗本岡野氏一族の墓地です。墓地は龍像寺の本堂に向かって左手の崖の中腹にあります。岡野氏の祖は板部岡融成(おかとおなり)(号江雪)という人物で、融成は小田原北条氏に仕え評定衆となり、北条氏滅亡後は岡野と姓を改め豊臣・徳川両氏に仕えました。その後、寛永31626)年に融成の次男房次の子・英明が淵野辺村の地頭となり1500石を領有しました。英明の跡を継いだ次男貞明(さだあきら)は寛文31663)年に弟の友明(ともあきら)に淵野辺村の一部を分知し、幕末にいたりました。(相模原市)

d0183387_15583864.jpg淵野辺龍像寺の徳本念仏塔(左)
徳本は宝暦8(1758)年に紀州に生まれ、江戸時代後期に伊豆や関東の各地に念仏を広めた僧です。徳本が近隣を訪れた際に、各村々の念仏講中がその特徴ある書体で書かれた名号(六字名号ともいう「南無阿弥陀仏」、念仏のこと)を求め、それをもとに念仏塔を建てたとされます。側面に「文政元年」(1818年)と「相州渕野辺邑徳本念仏講中」の銘が側面にあります。主体部の高さ75cm、幅29cm、奥行き24cmです。地域の念仏講や村の生活史を知る上で貴重な資料です。(相模原市)

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「淵辺義博の伝承」板         門前の石仏群

淵辺義博の伝承(龍像寺)
境川沿いにあった龍池に住み、人を困らせていた大蛇を地頭の淵辺義博が矢を放って退治し、頭、銅、尾の3つに分けてそれぞれ葬りました。頭部は龍頭寺、銅は龍像寺、尾部は龍尾寺として3つの寺を建立しましたが、後にこの二寺は廃寺となり、龍像寺が弘治2年(1556)に再興され今日に至っています。(大野北公民館)

「木曽宿」「淵辺義博の居館跡」関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23557764/


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街道の風景② 坂下に龍像寺参道の道標と龍像寺坂の標柱が建ちます/参道入口

龍像寺坂

龍像寺の山門につづいているのでこの名があります。また昔は「おお坂」とも呼ばれていました。

d0183387_18353541.jpg古淵一本松跡

古淵一本松は古淵と嶽之内との間で龍像寺表参道入口の門柱がある所の坂上にあり、武州から来る木曽街道(別名磯部街道)のかたわらに高くそびえ立っていました。(大野北公民館)


当麻道

当麻道の主な道筋は二筋あった。その一筋は多摩方面から無量光寺をめざすもので、木曾村(町田市)で境川を渡り、龍像寺坂で「同者みち(磯部道)」と分かれ台地上に出、當麻村に向かう道筋である。「当麻道(境道)」あるいは「大道(おおみち)」ともいった。もう一筋は津久井方面から無量光寺をめざすもので、大島村の古清水集落、田名村の四ッ谷集落から広い原野を通り抜け当麻村に向かう道筋である。「当麻道久保沢路」ともいった。(シニアネット相模原)


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街道の風景③ 古淵駅東側の住宅地を16号に向かいます/坂上

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横浜線津久井踏切           16号を横断します/古淵駅入口



・・・大野台

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街道の風景④ 16号先にわずかに旧道がのこります/東大沼

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旧道入口               この先の大野中南を右折


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街道の風景④ 旧道に近い道だと思いますがこの先で大沼へ左折します


(木れびの森)

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大野小入口から直進しましたがわくわくするようないい森ですね~

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木れびの森/相模原中央緑地(大野台)
コナラ、クヌギなどの雑木林が連なり相模野の面影を残す平地林(木もれびの森)の中に整備された緑地で、四季折々の自然の表情を満喫できる散策路や芝生広場があります。平坦地なのでお年寄りから子どもまで森林浴が楽しめます。また木もれびの森は、「かながわの美林50選」に選ばれています。(相模原市)






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畑地かんがい用水大野支線
畑地かんがい用水は、戦後、食糧難を補う食糧増産のため県営事業として昭和38年に完成しました。しかし、その後の食糧事情の好転や都市化により充分に機能しないうちに使われなくなってしまいました。「大野支線」は東幹線からの支線で、現在そのほとんどは相模緑道緑地として整備されていますが、ここは当時の様子を伝える貴重なものです。(相模原市教育委員会)

d0183387_19265186.jpg万葉集

万葉集は5世紀半ばから8世紀につくられた長歌や短歌など4500首余りが20巻におさめられたわが国最古の歌集です。万葉集とは「万の言を集めた」とも「万世(おろずよ)に伝えるべき集」ともいわれていますが、まさに日本古典文学の代表作品です。万葉集の歌は上の図のように内容によって基本的に3つに大別されています。「挽歌」(ばんか):柩を挽く時の歌という意味で、人の死に際してその悲しみを述べた歌。「相聞」(そうもん):互いの近況をたずね合い、たま意思を伝えかわすという意味ですが、ほとんどは恋の歌で占められています。「雑歌」(そうか)上の2種類以外のことを歌った歌でさまざまなことが歌われています。万葉集には山川草木をうたった歌がたくさんあります。とりわけ野の草や花木をよんだ歌は数多く1700首におよび、登場する植物は150種類にのぼるといわれています。相模原中央緑地内では、とりあえず12種の植物を万葉の歌で紹介しています。(案内板)


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相模原中央緑地案内図



・・・大沼


神奈川県高座郡相模原町および相模原市の旧大字名。現在の同市南区の北部を占める。「大沼」の名は当地域内にあった、およびその付近に開かれた江戸時代前期の新田集落(大沼新田)に由来する。全域が相模原台地の「上段」(相模原面)上にあり、ほとんど平坦であるが大沼神社(南区東大沼二丁目)付近がわずかな窪地となり「大沼」と呼ばれる沼があった。これは地下の宙水に由来するものであり、全般に地下水位が非常に深い台地上面にあってこの周辺は浅い位置で地下水が得られる。相模原台地上にはこのほかに「小沼」(南区若松二丁目)、「菖蒲沼」(中央区淵野辺五丁目)、「鹿沼」(中央区鹿沼台二丁目)など宙水に由来する大小の沼が散在していたが、公園内の池として整備された鹿沼以外はいずれも1970年代までに埋め立てられ消滅した。
Wikipedia


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街道の風景⑤ 旧道は右手を通っていたようです。「大沼」跡へ寄り道します/大沼4丁目先


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大沼神社鳥居

大沼神社/東大沼
御祭神:市杵島姫命 ( いちきしまひめのみこと )。大沼神社は、今から272年前の元文元年(1736)弁財天社として新田への入植者によって祀られたと記されています。(大沼公民館)

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拝殿                 お堀のような池

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境内付近の風景ですが、この付近一帯が大沼だったようです


d0183387_21342308.jpg大沼

ここには「大沼」と呼ばれる大きな沼がありました。また、弁財天がまつられているので「弁天沼」とも呼ばれています。(標柱)




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神社の西、観音堂でしょうか      境内の石仏


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古淵駅周辺文化財案内図
(赤:大山道 緑:散策ルート 青:境川 橙:16号)


by Twalking | 2016-11-28 12:19 | 大山街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 八王子通り大山道(2)橋本~田名 02田名(2)   

日時 2016.11.18(金)
天気 晴れ


時間も押してましたので散策路を望地に向かいました。
この相模川散策路の景観はいいですね~、
林間のキャンプ場、南には望地田圃が拓けています。

坂を登り、台地上の旧道を陽原、半在家から堀之内へ、
途中でバスの便を伺い、田名まで戻りました。
初めて訪ねた「水郷田名」のんびりと散策でしました。



・・・望地


昔は毛地と称し、非常に良く肥えた土地で農作物の収穫が多かったという。また、農作物が畑に立っている状態を立毛(たちげ)と呼びその状態を小高いところから望める意味の「望地」を地名にあてたとも言われている。(「田名の地名」さんより)


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相模川の風景 相模川散策路を望地弁天キャンプ場へ向かいます

d0183387_23221383.jpg弁天どぶ
川の水がよどんでいるところや淵を「どぶ」と呼ぶことがありました。ここは「弁財天」が近くにあるので「弁天どぶ」と呼ばれています。(標柱)




d0183387_23222112.jpg万平穴
相模川から水を引き水田開発を行うための用水の隧道です。伝承によると安政年間の飢饉の際に陽原の中島万平が先頭に立って掘ったと言われています。(相模原市教育委員会)



d0183387_00011572.jpg望地弁天池キャンプ場

水郷田名から少し下流の河川敷に設けられたキャンプ場です。キャンプ場は3月中旬~1031日まで開設されており、71日~831日まで宿泊することができます。(水郷田名マップ)



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d0183387_23272712.jpg望地弁天

この弁財天はもともとは江島神社に安置してありましたが、明治11年(1878)に南光寺の森恵力(えりき)師が養蚕鎮守のため望地河原の一画に「望島殿」(ぼうとうでん)を設けて迎えました。しかし、明治40年(1907)の大洪水によって社殿は流失してしまい、運び出された座像は一時南光寺に保管されていました。その後昭和24年望地水田の整理に伴って現在の位置に社殿が再建されました。この弁財天座像は江戸時代の制作と思われ市の重要文化財に指定されています。(相模原市観光協会)

d0183387_23295569.jpg木造弁財天座像
本像は寄木造りで彩色を施し玉眼をいれています。額上には金銅透彫の火焔形宝冠をつけ、頭頂には鳥居と宇賀神をいただいています。8本ある腕はそれぞれ持物を持ち、荷葉形の台座に坐しています。本像はもともと江の島の江島神社にて厚い信仰を集めていましたが、明治時代の神仏分離の後、藤沢の常光寺・綾瀬の斉運寺に移されました。その後、田名南光寺の住職森恵力のあっせんにより明治1110月、田名の望地・陽原・塩田の3集落が養蚕守護のために当地に移し安置したものです。本像には製作者、制作年代を知る銘文等はありませんが江戸時代の作と考えられます。像高45.5cm、台座高28.5cm。(相模原市教育委員会)

d0183387_23313311.jpg清水下頭首工完成記念碑

清水下頭首工はもと明治44年烏山用水路延長工事の際、取水口として設置された。旧烏山用水は藩侯の命により農民粒粒辛苦の結果、久所耕地を潤すにいたった歴史的なものであった。星移り昭和22年「相模川沿岸当麻望地農地開発事業」の実施に伴い両耕地を加えて受益面積83haに達した。当初、望地は宗祐寺下当麻は弁天下と別れ取水していたが相模川の河床低下、耕地保水力の減少、相つぐ水害に農民の心労その極に達し相寄り相集い昭和353月「相模原用水組合連合会」を結成し地域内用排水路の整備、取水堰の統合を図り現地点に水門を設けた。昭和409月、台風24号の被害は激甚をきわめ永年の労苦は徒労に帰するかに思われたが関係機関の配慮により5600万円あまりの巨費をもって昭和423月完成したものである。ここに沿革を記し幾多先人の功を称え関係者一同永くその喜びを共にせんとするものである(碑文)

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望地水田の風景 たんぼ左手の馬坂下に「望地の渡し碑」が立っているそうです。

望地の渡し
このあたりには対岸の六倉とを結ぶ、渡し場がありました。そのため「六倉の渡し」ともよばれていましたが、 上流の「久所の渡し」が開かれる以前には大山詣りの人々にもよく利用されていました。(相模原市)

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弁天裏の坂道をひと登り        坂上にお地蔵さん


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稲荷社/望地自治会館
南光寺の参道を南に進むと望地集落、途中のT字路を左におれしばらく歩くと左手に望地の自治会館、稲荷札は同じ敷地の中にあります。この稲荷は望地の人々が祭るもので、鳥居の奥の左右には1794(寛政6)年に建立した灯籠が建っています。また、祠の前には望地と陽原の人々によって建てられた秋葉権現と祇園牛頭天王の常夜燈もあります(田名の史跡めぐり)


・・・陽原

「ミナバラ」とは平担な台地を示す言葉で、昔は皆原または南原とも書いた。今の「陽原」という文字は陽原山南光寺の山号からとったと思われる。(「田名の地名」さんより)

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南光寺

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南光寺山門


d0183387_00181501.jpg南光寺

入り口の左には秋葉灯籠や徳本の念仏塔、出羽三山供養塔、大山道の道標などがあります。さらに進むと地蔵様や二十三夜塔、念仏供養塔などの石仏がならび、左手に大きな長屋門の山門をみることができます。お寺を建てたのは仏寿禅師といわれ、禅師は南北朝時代の1354(正平9)年に亡くなっていますから今から600年も前に建てられたお寺であるということになります。江戸時代には将軍家光から81斗の領地を安堵されています。建物はたびたび火災にあっており、今のものは22世の住職のときに境内の一本の杉で建てたといわれています。また、今はありませんがかつては境内の一角にあった観音堂の本尊の聖観音は南光寺で管理しています。本堂の裏に一本の大ケヤキがありかつての鬱蒼としていた寺林の面影を今に伝えています。(田名の史跡めぐり)

d0183387_00215455.jpg田名南光寺の徳本念仏塔(文政5年)

徳本は江戸時代後期に念仏を広めて歩いた僧で、村の念仏講中は徳本の書を求め念仏塔を建てました。元は500m東、望地先の県道沿いにありました。(相模原市教育委員会)



・・半在家 (はんざいけ)


地元の古老は「はんぜーけ」と言いました。堀之内の東、紅葉川(もみじがわ・通称:やくばのかわ)にそった南向きの小さな段丘の斜面に広がった集落で平安後期には既に居を構えた人々がいたと思われます。平時は農民として田畑を耕し、いざ非常時ともなればたちまち武士として山野を駆け巡り、戦が終わればまたもとの農民に戻る。つまり半分は在家武士であることから「半在家」という地名になったのではないかという説。半在家と言う地名は寺領と官領が折半されていた所から生れた名であるという事。官領は公地を意味するもので寺領の拡張が官領を押領していく過程で生れたものであるという説。荘園制の土地支配の状態に「在家」と呼ばれた徴税負担の単位がある。「半在家」の呼称もこの考え方から類推すれば、在家役の負担が「一在家」に足りない地区であったと考えられるが、田名地域の農耕地の中心的な地区であったと考えられる(田所の姓が多い)という説。在家は一般に農民の住宅のことですが、寺域の農家をいう場合もあります。(「田名の地名」さんより)

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旧道の風景 県道と平行して堀之内へ続いています/南光寺裏

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陽原バス停              半在家バス停

県道48号鍛冶谷相模原線

町田市相原町と相模原市南区(たいま)をむすぶ主要地方道である。なお「鍛冶谷」とは起点である町田市相原町の小字である。旧相模原市域を南北に貫く一番西側の道(以降東へ国道129号、旧大山道、村富線、木もれび日通り(中央大通り)、国道16号、旧16号)であり、町田街道も含めこれらの道全てが16号の迂回路線になっているが、この道は比較的すいている傾向がある。全長12.9km。Wikipedia

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半在家山王神社
山王神社は山王様とも呼ばれた。半在家の鎮守様として祀られています。その起源は平安時代(西暦800年代)に建立されたと言われています。お社には中央に山王社、右に稲荷社、左に社宮司社(石神社ともいわれている)の三社が鎮座し、山王社には見猿、言わ猿、聞か猿の三猿が御本尊として地区の五穀豊穣、家内安全、病気平癒などを祈願して祀られるとともに境内には地区内の各所にあっつた庚申塔、道祖神、馬頭観音、また「性または賽」の神といわれる子孫繁栄を願って男女のシンボルを模した石が祀られています。山王様のお祭りは通称灯篭祭、または芋っ葉灯篭(または道路)とも言われ、よく雨が降ったそうで「石灯篭に点した火が消えそうになったので畑の芋の葉を傘代わりにした」などが名前の由来となっています。(半在家自治会)

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石仏群                賽の神

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陽が西に傾いてきました、バスで相模原駅に向かいます/田奈四谷

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周辺史跡景観案内図
(赤:大山道 緑:散策ルート 橙:相模川散策路 紫:横浜水道道)


・・・・・・・
資料ファイル

相模田名民家資料館

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展示場風景


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展示場風景

d0183387_14542598.png養蚕の伝播経路

養蚕の技術は弥生時代の前期頃に中国や朝鮮半島から渡来人と共に直接日本に伝わって来たものと推定されています。九州北部に伝えられた養蚕はやがて近畿から東国へ伝わっていきました。(展示パネル)


d0183387_14551289.png神奈川の絹の道

明治の中頃までは群馬県、埼玉県、長野県、山梨県地方で生産された生糸は八王子に集まって来ました。そうして八王子から片倉、槍水、町田、長津田を経由して横浜まで運ばれました。相模原方面で生産された生糸もこのルートを利用して横浜まで運ばれました。(展示パネル)



d0183387_14575102.png生産工程(卵から生糸まで)
1.掃立 昔は蚕の卵がいっぱい入っている種紙を買ってきて自分の家で孵化させ、それをエガに移すのを掃立(はきたて)といいます。

2.
エガ(エビラ)大きくなると竹で作った四角のエガの中で蚕座紙をしいて、毎日3回桑を与え続けると28日くらいの間に4回脱皮し繭をつくる大きさとなり、その状態を「ひきた」と言います。

3.
まぶし 藁で編んだ蔟(まぶし)に蚕を入れることを「上蔟」(じょうぞく)または「おこやと」とも言います。蔟に入った蚕は盛んに糸を吐いて12昼夜で繭を作りあげます。

d0183387_14575102.png4.
けばどり 蔟から繭を取り離しケバ取り機にかけてきれいになった繭を出荷または乾燥して保存します。

5.
糸取り 繭を8時間くらい適温で火乾燥させてさなぎを殺して貯蔵しておいて、生糸を取る時繭を鍋で煮て、繭層(げんそう)を柔らかくし6粒位の繭の糸口を抱合させ、糸取器を使って糸枠で引いて1本の絹糸にしました。

6.
まき返 糸枠で取った糸をほぐして束にするために巻きかえ(楊返しともいう)して生糸にしました。

7.
糸染め 大きな釜で糸をそれぞれの色に染め上げていきます。千両はウコンやヤマモモなどの転園の物ばかりでしたが、現在は科学染料が多く用いられたいます。

8.
糸より器 よこ糸は糸より器でいか竹で作った管に巻き取りはたおり機で布にしました。


d0183387_15032321.jpg『相模田名民家資料館と覚明学舎跡』
明治、大正、昭和初期と約70年の間、横浜開港と同じくして、生糸は米国を始め欧州各国への輸出の花形であり、全国各地に養蚕は盛んになり、水田の無い相模原地方では現金収入を求めて各農家では養蚕に力を入れていた。中でも田名では産業組合が中心になり、製糸事業が盛んであった。組合では地区内に二ヶ所の製糸工場を建て、農家の子女をして従事させて雇用の面でも一石二鳥の役割を果たした。また各農家でも足踏座繰機にて生糸を生産して生活にうるおいをもたらしたのである。大正、昭和初期、上溝の市を賑わしたのも生糸の取引が大きく貢献したことは言うまでもない(大正13年の県下組合の貯金高が田名産業組合が抜きんでていたのもこの証左といえる)。当時、田名の農家の90%が養蚕にたづさわり、蚕にかかわる話は尽きる所がないほどである。これらの業績を後世に伝えんものと祖先が残した財産、三栗山の収益金を基金として資料館を建設したのである。そしてこの地を選定したのは、隣の大杉公園は田名小学校の前身である覚明学舎および田名村役場のあった所であり、田名行政文化の発祥の地といわれた。明治29年田名小学校は現在地に、田名村役場は現在出張所公民館駐車場の所へ移転したといわれる。田名小学校100周年記念事業に地域から収集した貴重な資料も提供して頂き展示した所以のものです。二階は展示室に、一階は「かたりべの館」としまた生涯学習の場として大いに活用していただきたいものです。(館内の館長挨拶文)


by Twalking | 2016-11-26 20:34 | 大山街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 八王子通り大山道(2)橋本~田名 02田名(1)   

日時 2016.11.18(金)
天気 晴れ


田名坂上から久所の渡しへ下ります。
しろ坂(旧道)の脇の坂を下ると大山道の道標、
こちらが元の大山道だったみたいですね。

田名氏の館跡とされる大杉公園、滝坂から滝の渡し、
烏山用水、八幡宮、水郷田名など見どころは一杯です。
先へ行こうと思いましたが、じっくり見ることにしました。


・・・堀之内

もともと堀之内の集落は相模川を望むハケ・バタと呼ばれる崖上の集落と、大杉公園周辺のホリノウチの集落に分けられていたようです。ホリノウチには諏訪神社という古いお宮もあり、明治時代には学校や役場がおかれ田名の中心となっていました。現在でもかつての集落からは離れていますが農協や郵便局、商店などもたちならんでいます。(田名の史跡めぐり)

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坂の風景① 田名小から陽原(みなばら)へ下る旧道です/でい坂(田名小前)

d0183387_17164641.jpgでい坂標柱と道祖神


でい坂

このわきにある家の屋号が「でえ(台)」なのでこの名があります。(標柱)

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かつての中心地、風情がありますね。右手に「相模田名民家資料館」があります

大杉公園
大きな池は大杉の池と呼ばれ半在家、塩田へと流れる「紅葉川」(当麻地区では八瀬川と呼ぶ)の水源となっています。また、かつてこの地の近くの明覚寺役場がもうけられていたことから川は「やくばのかわ」、池は「やくばのいけ」などと呼ばれたこともあります。池のとなり弁財天の西側は明覚寺のあとです。明覚寺ができたのは鎌倉時代の1206(建永元)年といわれ、お寺をひらいた良山阿闍梨は1221(承久3)年に亡くなったといわれています。明覚寺はもともと南の諏訪社の別当寺であったと思われますが、江戸時代の終わりころには水郷田名の八幡宮の別当寺ともなり、田名村の中心的存在となっていました。(田名の史跡めぐり)


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d0183387_17393873.jpg蚕影山(こかげさん)

明覚寺跡の南に堀之内の自治会館があります。会館の右には蚕影山のやしろがあります。この地はもと諏訪社の敷地ですが、今は蚕影山の祠のなかに諏訪様金比羅様がいっしょに祭られています。このお諏訪様はハ幡宮が田名の鎮守となるまえの村の中心的神社であったと思われる古いお宮です。蚕影山は養蚕の神として信仰を集め、相模原では江戸時代の終わりころに各地でさかんに行事が行われています。なかでもここ堀之内はよく知られていました。蚕影山の向かって右側は道祖神の陽石が建てられています。この道祖神はほかの庚申塔や大山不動の道標などといっしょに、もとは西方の「大曲]と呼ばれた坂の上にあったものを道路の改修工事でこの地に移されたものです。(田名の史跡めぐり)

d0183387_18453694.jpg影山と金色姫の由来

蚕影山の祭礼は昔から養蚕を行っている人々の家内安全、その年の豊蚕を祈願し、また御神体の金色姫の御冥福を祈る祭りです、この本殿の中には蚕影山金色姫が舟に乗った貴重な木像が一体あります。この御神体の由来は和讃に依りますと、印度の国王・りんえ大王はお后様を早く亡しになり後のお后様をお迎えになりました。りんえ大王には一人娘の金色姫がいましたが大王が金色姫を非常にかわいがるので、後のお后様は心憎く思い常に姫を虐待し山に捨てたり島流しにしたりしましたが、そのたびに姫は奇跡的に助け出されたので、ますます憎んで後のお后様はついに宮殿の庭に姫を生き埋めにしましたが、この時も姫の命は無事でした。このままでは姫が殺されてしまうと心配した大王は、桑の木で作った舟に姫を乗せ、どこか仏法流布の地に流れ着くことを祈って海に流しました。その舟は日本の常陸の豊浦の浜にたどり着き、権の大夫という人に助けられましたが間もなく姫はお亡くなりになりました。手厚く葬られた姫の体は虫になり、桑の舟は桑の木となりその葉を食べて繭になりました。これが養蚕の始まりでした。そこで常陸の地(現在のつくば市大字神部)に蚕影神社があり信仰を集めています。金色姫は4回虐待されましたが、これは蚕の4回の脱皮の苦難になぞられたものと思われます。そのため蚕の最初の脱皮を「しし」2回目を「たか」3回目を「ふな止り」4回目を「大ならび」または「庭に止まる」と言うようです。この蚕影山の祭礼は明治時代から100年余に渡って伝承され、いまなお引き続き堀之内自治会の行事として家内安全、地域発展の祈願のため続けられています。(堀の内自治会)

蚕影神社
(こかげじんじゃ)
つくば市神郡にある神社。全国にある蚕影神社の総本社。神社がある山を俗に子飼山(大日本地名辞典)、蚕飼山(筑波山名跡誌)、神郡山などという。蚕影山は寺院時代の山号である。筑波国造が創祀に関わることから、古来筑波山神社とも縁が深い。筑波山神社の御座替祭を構成する祭祀に神衣祭と神幸祭とがあり、いずれも神衣を祭器としているが、蚕影神社は神衣を織るための養蚕製紙機織の技術伝来の地として養蚕の神を祀っている主祭神:和久産巣日神(ワクムスビ・五穀・養蚕の神として信仰されており他の食物の神と一緒に祀られることが多い)埴安姫命(ハニヤス・地鎮祭で土の神として他の神とともに祀られることがある)木花開耶姫命。Wikipedia


d0183387_17414297.jpg烏山領制札場旧跡

制札場は高札場ともいわれ、江戸時代に幕府や藩の命令、知らせなどを立てた場所です。田名村は享保13年(1728)以後、明治になるまで烏山藩(現在の栃木県那須郡烏山町)大久保氏の領地でした。この制札場は地域の人々が石碑を立てるなど大切に保存されてきました。(相模原市教育委員会)

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坂の風景② 田名坂上から左へ、水郷田名(久所)に下ります/しろ坂歩道橋

d0183387_17542930.jpgしろ坂

この坂の岩肌が白かったのでこの名があります。また「城坂」とも呼ばれています。(標柱)

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街道の風景① 左手に大山道の旧道、坂下に大山道の道標があります/しろ坂

七曲がりと旧道
坂の下に旧大山道の石柱があり坂の名前を知ることができます。今は原形を止めないほそいツヅラおりの道ほ「七曲がり」と呼ばれ、右の道が「旧道」(旧大山道)と呼ばれています。二つの道は久所の大々はほもちろんですが大山が江戸時代から「雨降り山」として南関東地方の大々から雨ごいの神として信仰を集めていたので大山詣での大々にも利用されていました。「旧道」は七曲がりよりは新しい道ですが、バス通りの道が明治時代に造られてからは旧道と呼ばれるようになりました。バス通りは新道あるいほ「しろ坂」と呼ばれていますが、今では田名バイパスができていますから新道と呼ぶのもおかしいかもしれません。(田名の史跡めぐり)

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大山道道標              石仏群


・・・滝


滝の集落は相模川を望む段丘の崖(がけ)下にひろがっています。かっての人々は崖下の水田と崖上の畑をたがやして生活していました。現在は水田にまで家が建ち並び隣の久所(ぐぞ)集落(水郷田名)との境は分かりにくくなっています。(田名の史跡めぐり)

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d0183387_19044980.jpg宗祐寺

1616年に曹洞宗の寺院となる。それ以前は天台宗の寺院で古い記録では13世紀にはすでにこの地に位置づいていたことがわかる。当時からの本尊は虚空蔵菩薩、現在は釈迦三尊である。相模原市緑区根小屋の大井山功雲寺の末寺で、御開山は功雲寺10世・仏光普月禅師・柳山洞絮大和尚である。境内地は相模川河畔の高台に位置し、開創以来幾度かの大改修を経て現在の山容を得て広く檀信徒の信仰を得ている。山内は本堂・薬師三尊を安置する薬師堂、子育て地蔵、六地蔵、鐘楼、仁王門が山容を整えている。(相模原仏教会)

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山門                 薬師堂

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境内からの滝&久所方面の景観は素晴らしいです


断崖にかこまれた地区で、地方(主に中国地方)によっては断崖を『ダキ』と呼ぶところもあり、断崖にかこまれていることから名づけられたとも言われる。(「田名の地名」さんより)

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坂の風景③ 宗祐寺から登る滝坂、清水が湧くつづら道はいいですね~

d0183387_19215395.jpg滝坂
滝集落にある坂なのでこの名があります(標柱)





d0183387_19215099.jpg秋葉大権現
秋葉大権現の石碑と石灯籠があります。秋葉大権現というのは、静岡県の周智郡春野町にある秋葉山の秋葉寺三尺坊のことで、火防鎮護の神として火災から財産を守るため江戸時代から人々の信仰を集めていました。この燈籠は1787(安永7)年に滝の人々によって建てられました。秋葉燈籠は各地に建てられていますが、相模原市内では23基が現存し、そのうちの6基が田名地区にあります。滝の人々も、かつては交替でこの燈籠に灯明をともし村の安全を祈ったことと思われます。(田名の史跡めぐり)

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相模川の風景① 滝坂から烏山用水を渡って進むと相模川河岸にでます


d0183387_19492168.jpg滝自恃会館敷地のなかには、廃寺となった宝永寺の本尊(地蔵菩薩)が安置されています。宝永寺は久所の八幡宮の別当寺(江戸時代の神社はふつうお寺に管理されており神社を管理する寺は別当寺とよばれていました)で、1191(建久2)年に建てられたといわれています。会館の前には明治時代にまえを流れる相模川の中洲にうち上げられた大亀が祭られています。今でも毎年99日にはこの亀をしのんで「亀の甲祭」が行われています。(田名の史跡めぐり)

d0183387_19493463.jpg滝の渡し
滝の渡しは滝集落と対岸の葉山島下河原集落を結んでいました。相模川(田名地区)には他に久所の渡しや望地の渡しなどがありましたが、滝の渡しは最も近年(昭和47年頃)まで行われていました。(田名の史跡めぐ)



・・・水郷田名

水郷田名・久所
昔、久所に公文所といって、今の市役所のようなものがあり『文』の字を省略して公所と呼んでいたという。その後公所は大山街道の宿場町として栄え、相模川の洪水のたびに人々が久しく宿屋にとどまることが多く、同音であったので久所と称したと言われる。水郷田名は、昭和10年(1935)『鮎の水郷田名』として、横浜貿易新報社(現神奈川新聞)による県下45佳選に当選した。その後、昭和58(1983)久所のたんぼに水郷田名団地ができたことから久所も水郷田名に改名した。(「田名の地名」さんより)


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街道の風景② しろ坂を下り相模川の久所の渡し(高田橋)へ/ふれあい科学館前

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相模ふれあい科学館          江成九兵衛翁顕彰碑

相模川の水をひく

現在、相模川沿いの沖積低地の大島河原、田名望地、当麻、磯部にはかなり広い水田地帯を見ることができますが多くは昭和の土地改良事業によって開かれたものです。しかし、江戸時代の頃から用水路と堤防をつくり相模川の水を引き入れて荒地を水田にしてきた所もありました。当時の相模川は上流にダムがなかったのでたびたび大氾濫を起こしていて、そこから水を引くことはたいへん難しいことでした。しかし、流域の農民はこれに立ち向かっていきました。田名久所地区では烏山藩の計画の下、1859年に烏山用水が完成しましたが、翌年の大洪水で堤防は崩れ水田は砂で埋まってしまいました。烏山藩は工事をあきらめましたが、地元出身の農民・江成久兵衛は藩の許可を得て難工事に挑み28年の歳月私財のほとんどを費やして4つの堤防を完成させ烏山用水工事をやりとげました。(相模原市河川情報センター)

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相模原幹線用水路(大堀)

d0183387_21393131.jpg相模原幹線用水路(大堀)

相模原の米作りは相模川沿いの大島、田名、当麻、磯部、新戸の水田が中心です。昔の人々は「一粒でも多くのお米を作りたい」との願いから、江戸時代より相模川沿いの土地を大規模に開墾し、堤防を築き、開田して水を引きお米を作ってきました。しかし大雨のたびに川は増水し堤防は決壊したり川の流れが変わってしまうため「お米作りの水」を確保するのは大変難しいことでした。この用水路は相模川の河床の低下などにより水田への取水が困難となったため、堰の結合と合わせて昭和22年から昭和31年にかけて作られ、清水下頭首工を取水口とし久所望地当麻までの水田を潤しています。この用水路の完成によって農家のみなさんが安心してお米つくりが出来るようになりました。(説明板)

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田名八幡宮鳥居

d0183387_21502358.jpg田名八幡宮神殿御造営由緒 
祭神:誉田別命 (ほむだわけのみこと)田名村は昭和16年の近隣8町村合併により相模原町田名として新生し、これを期に古くから田名村の村有地であった三栗山を共有財産として残すため村社田名八幡宮に無償譲与を決議した。田名八幡宮の旧神殿は明治期の築造で、風格のある建物であったが老朽化が激しく近年、新神殿御造営の機運が募った。折しも「国土交通省計画の「さがみ縦貫道路」建設に三栗山の土地の一部が国道用地として買収され、その補償金の支払が行われるに及び新神殿御造営の計画が一挙に具体化した。補償金のうち25千万円と篤志奉賛者からの多大な御寄進により、着工から21か月という期間で御神殿・社務所・宮司住宅の建設及び境内の整備が行われた。新神殿の規模と風格は、本社の永い歴史にあって真に「平成の御造営」と呼ぶにふさわしい大事業であり、これらは地域の伝統である人々の和と結束、そして宮司・氏子中を始め関係各位のご尽力により成し遂げられたものである。(田名八幡宮建設委員会)

d0183387_21502677.jpgばんばあ石・じんじい石

その昔、日照りが続いて農作物が枯れそうになった時このばんばあ石を相模川に沈めると不思議に雨が降ったのである。けれども多くの場合は嵐を呼んで大洪水となり大被害をうけることがあった。それはあとに残されたじんじい石の寂しさの涙が怒りとなってのし返しだと考えられ、語りつがれていた。そこで右側の代理の石を置くことによって、慰めれば怒りもおさまり洪水にはならないだろうと考えた。しかし、いずれにしてもばんばあ石を沈めるためには一大決心が必要である。干天の続きぐあい、作柄の具合を見て誰かがきめなければならない。そしてそれを村会の議決に従うことにきめた。行事は正装の村長・神官・役員その他一般村民多数(觸れを出して集めた)が参加して「一の釜」とよばれる深淵近くへ裸の若人が肩にかついで先頭に立ち、その他多数も全員で裸で続き、口々に「サーゲサーゲ ロッコンショウジョウ」(降げ 降げ 六根清浄)と唱えながら両手で川水を石を担いだ人の頭からかけて置きの方へ運んで行って沈めたものである。願いがかなって雨となると、石を川から出してもとのところ(境内)へ安置したものである。この行事は、言い伝えによると少なくとも江戸時代中期からはじまり大正時代末期まで続き、これに参加した実証の出来る人は現在まだ相当数いる。(田名八幡宮)

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新堀用水路(烏山用水
相模原市水郷田名地区にある「新堀用水路」は、江戸時代末期の安政5年(1858)に当時田名村の領主であった烏山藩大久保氏により、久所(ぐぞ)河原の水田開発のため相模川の水を引き入れて作られたもので、地域の水田を潤してきた親しみ深い農業用水路です。一時期、農業用水路としての使命が薄れたことから水質の悪化が深刻化した時期もありましたが、地元の「新堀用水路を愛する会」が中心となって再生し、花菖蒲や錦鯉が彩りを添えるこの地域は「農村景観百選」にも入選しました。(相模原市)

d0183387_22502754.png烏山用水の石積み

敷地内にある烏山用水の石積みは安政5年(1858)領主の烏山藩大久保氏によって作られたものです。石積みは河床から約2mの高さがあり、隧道出口付近の原形を残すものとして伝えられています。私有地のために屋敷内に立ち入ることはできません。(相模原市教育委員会)


d0183387_23043288.jpg烏山用水石柱









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稲荷社赤鳥居             白子園稲荷と大鷲神社

稲荷社

鳥居をくぐって進むと改築されたま新しいおやしろが二つ目にはいります。むかって左が白子園稲荷で右が大鷲神社です。稲荷の左には秋葉権現の常夜塔も安置されています。おやしろの裏は「しんぼり」で堀の上の歩道を北へ行くと八幡宮へもどることもできます。(田名の史跡めぐり)

d0183387_23331549.jpg水郷田名の歴史
「水郷田名」は田名地区の中でも特に相模川に面して発達した久所(ぐぞ)地域を中心に広がる地域をいいます。この水郷田名を含む田名地区の歴史は古く原始・古代の時代に遡ることができます。しかし記録としては戦国時代のものが最も古いもので、それ以前のことは不明な点も多くよくわかっていません。江戸時代の後半、この地域を支配していたのは下野国烏山藩の大久保氏です。大久保氏は田名河原の水田を拡張するために相模川に隧道を掘り用水を引きました。しかし洪水のために荒廃してしまいこの計画は失敗してしまいました。その後、地域の篤志家江成久兵衛らの努力によって再び用水として復興され現在に至っています。そのためこの用水を「烏山用水」または「新堀」と呼んでいます。この頃ここには相模川を渡り対岸の小沢(愛川町)とを結ぶ「渡し場」がありました。大山詣りの参詣者たちは橋本から下久沢を通る「大山街道」を通ってここまで来、この「渡し」を利用しました。また相模川はそのまま水上交通の流通路としても栄え筏・高瀬船などが行き来する姿が見られました。その後もともと盛んだった鮎漁鵜飼いなどの観光的な要素も含まれ、兼業旅館などが建ち並ぶ歓楽街となって繁昌し「水郷」と呼ばれる所以となりました。また明治3年英国人マック・レガーはここでカヌーを浮かべこれが日本で最初のカヌーの旅として紹介されています。やがて昭和10年に神奈川の観光名所45選の中に選ばれ「水郷田名」として広く知れわたることとなりました。しかしこのように明治から昭和の初めにかけて観光客でにぎわった水郷田名も、上流のダム建設による相模川の水量の減少や砂利採集による河床の低下による魚類相の変化などにより、観光地としての一時の勢いを失ってしまいました。(碑文)

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相模川の風景② 高田橋手前から対岸の風景です

d0183387_00074527.jpg久所の渡し

このあたりには対岸の小沢とを結ぶ渡し場がありました。おもに大山参りの人々がよく利用したため、久所はその宿場としてにぎわいました。(相模原市)




d0183387_00074882.jpg久所の渡しと初代の橋
江戸時代中期に大山講が隆盛し(大山道)、武州から相州大山への参詣者の渡河のために久所(田名)・小沢(高峰)間に渡船が行われていた。その後高峰村・田名村間の渡船は神奈川県道として整備された愛川・八王子線の一部となっていたが、度重なる洪水で渡船が流失破壊し、請願や寄付の結果1924年(大正13年)に竣工した。名前の由来は当時の右岸(高峰村)と左岸(田名村)から一文字ずつ抜き出して名付けられました。かながわの橋100選に選ばれている。
Wikipedia

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田名史跡めぐりマップ(赤:大山道 緑:散策ルート)

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田名ジオラマ/相模田名民家資料館
(赤:大山道 青:烏山用水・大堀 赤丸:大杉公園・瀧・久所・望地の渡し紫:横浜水道道を着色しました)


・・・・・・・・・
資料ファイル

「田名氏」館跡
武蔵横山党の田名氏の「館跡」と伝えられる堀之内(大杉公園一帯)を散策してみました。

相模原の歴史

平安時代後期には武士団が各地に形成されます。市域南部は相模国高座郡の中部(現在の藤沢市長後から綾瀬市)にいた渋谷氏の影響下にあったと考えられます。また、武蔵国横山庄(現在の八王子市域の多摩丘陵)を本拠とした横山党は南下して市域の相原・小山・上矢部・田名などへ進出しました。鎌倉時代の初め、市域に勢力を持っていた横山党は建保元(1213)年の合戦で和田義盛に味方して北条氏と戦い勢力を失いました。 鎌倉時代の末には時宗の開祖一遍上人が当麻に来たと考えられ、二世真教上人はその故地に無量光寺を建立しました。南北朝時代には、足利直義の家臣淵辺義博が淵野辺を領有していたと言われています。室町時代の後期には長尾景春の乱に際し磯部に城が築かれました。戦国時代の市域は、小田原北条氏の支配下に入り、当麻に関所が置かれました。(相模原市)

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大杉池:「水の手」と伝わる大杉の池です。紅葉川の水源となっています/大杉公園

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紅葉川                弁財天

大杉池にある標柱には『大杉の池大きな杉の木があったのでこの名があります。また明治時代にはここに役場があったので「役場の池」とも呼ばれています』としか書かれていませんでした。

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池の上部:池の上は平場で公園になっています。隣には相模田名民家資料館があります。散策路は「土塁」のような雰囲気は感じられますが。

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段丘上の田名小前と館への「登城路」とされるでい坂の様子です 

d0183387_13432791.png田名堀の内遺跡/田奈小前
この相模原消防署田名分室の地下では、建設工事に先立つ調査で平安時代(8001200年前)の村の一部が発見されました。調査ではかまどを持つ方形の竪穴住居6軒ほか当時使われていた土器なども見つかっています。平安時代以外にも縄文時代に動物などを猟るために使われた落とし穴などが見つかりました。(周辺地区史跡景観案内板)

「田名氏」館跡
『田名氏は横山時広の二男広季が田名郷に入部して田名二郎兵衛を称したことに始まるとされる。相模川対岸の小沢氏、上流の小倉氏など、横山党一族はこの地に勢力を扶植していた様である。田名広季とその子時季は1213年の和田合戦で和田義盛に味方して討死した。田名氏館は田名地区の堀之内にあったと考えられている。大杉の池という溜池の背後にある田名大杉公園は周囲より一段高い高台となっており、この高台の池側の辺縁部には土塁の様な形状で、池を含めて全体を見渡すと見るからに水堀と土塁という趣である。それ以外に遺構は残っていない』(「相模原情報発信地」さんの解説を参照させて頂きました)

横山党の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22965590/



by Twalking | 2016-11-22 14:48 | 大山街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 三界萬霊塔   

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三界萬霊塔
九澤山金泉寺/大山道(相模原市・下九沢)
う~ん、こうごうしいお姿だこと・・・。


三界萬霊

お寺には三界萬霊と書かれた石碑や位牌が祀られています。これは三つの世界すべての精霊に対して供養することの大切さを示すものです。三界とは無色界(心だけが生きている世界)、色界(形質だけの世界)欲界(物質欲の世界)の三つをさします。界の原語には層という意味もあるので、界は階層と考えてもよいと思います。細かく分けると、無色界は4階層、色界は1618階層、欲界は2036階層(処)になります。(やさしい仏教入門)


by Twalking | 2016-11-21 16:53 | 大山街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 八王子通り大山道(2)橋本~田名 01下九沢   

日時 2016.11.18(金)
天気 晴れ


天気に誘われて大山街道を歩いてきました。
一帯は住宅地と工業団地になっていますので、
興味としては相模原台地と水郷田名でしょうか。

橋本台から新道坂を下ると田名原面の下九沢、
街道からちょっと入ると上段の河岸段丘が見渡せます。
街道の面白味はありませんが、坂道や鳩川、水道道と
段々と街並や風景が変わってよくなってくる感じです。


・・・塚場

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坂の風景① 橋本台(相模原面)から下九沢(田名原面)に下ります/新道坂

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中ノ原信号(坂上)          塚場バス停(坂下)


d0183387_22111243.jpg新道坂標柱/坂途中

改修された新しい坂を「新道坂」、東に向かう坂を「神明坂」といいます。このわきには神明様がまつられています。(標柱・写真:神明坂)




d0183387_22172500.jpg子育て地蔵(塚場の疱瘡神)/新道坂
地元ではこの石仏を子育て地蔵とか疱瘡神とよんでいます。台座がもう一つあるので以前は三体あったと思われます。この建立の年代は風化のために年号不詳。その昔、疱瘡(天然痘)を防ぐため種痘が良くつくようにお地蔵さまにお願いしました。また、風邪の流行の季節ともなると願を掛ける親たちでにぎわったそうです。全快すると供物として、さん俵(俵の頭の押え)に半紙に赤飯を載せ真中に赤白の弊束をたてて、四隅に紐をつるし真中で縛ります。その他に子どもの好きな飴玉やだんご、果物を奉納しました。はしかや風邪の季節にもなると、たくさんの供物でその様は川に浮かんだ帆かけ船の様であったといいます。いつの間にか子育て地蔵との名がついたということです。(大沢史蹟めぐり/大沢公民館)

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峠の風景 神名坂から相州大山を望む



・・・下九沢

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下九沢御嶽神社鳥居


d0183387_22331304.jpg下九沢御嶽神社/下九沢 
祭神:
日本武尊御嶽神社は下九沢塚場地区にある旧下九沢村の鎮守です。この神社は明治2年に「御嶽神社」と改称されましたがそれ以前は「蔵王大権現」と呼ばれていました。また、創建は定かではありませんが応永年間(13941428)に久沢山金泉寺を開いた源秀によって勧請されたと伝えられています。『風土記稿』を見ると「杉一株神木なり」という記録があります。これは近年まで境内にそびえていた大杉のことで、その樹高は40mを越え、根回りは5.7mにもおよんでいました。そのため昭和33年には市の天然記念物にも指定されましたが、あまりの老木のためついに枯朽し、現在では社殿の裏手にその切り株だけが残されています。

d0183387_22371765.jpgまた境内には皇大神社・天満宮・日枝神社などが合祀されています。この日枝神社は塚場地区の氏神として明治41年までは現在の塚場自治会館のところにあったものです。なお、例大祭の日には境内で「下九沢の獅子舞」が奉納されますが、これは剣獅子・玉獅子・巻獅子、そしてバンバ画が勇壮な舞いを見せるもので、県指定の文化財となっています。そのため昭和41年には「獅子舞の碑」も建てられています。広い境内は木々に囲まれ、静かな風情を残しています。(さがみはら風土記稿)

d0183387_22364909.jpg拝殿前の大燈籠

高さ3m。胴部分真中に御神塔。右横に寛政10戊午歳。左横に7月吉日。下台座に若者講中。横に内出三組とあります。本体傘部分がかなり傷んでいますが、安政の大地震か関東大震災でたおれたのではないかと推測されます。この燈籠は、御嶽神社のシンボル的なもので下九沢村氏子の象徴的のものでした。(大沢史蹟めぐり/大沢公民館)

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金泉寺山門/下九沢


d0183387_22420222.jpg金泉寺
金泉寺はバス停「下九沢」より東へ300mにある真言宗智山派の寺院です。『風土記稿』によると、薬王院(八王子市高尾)の末寺で、山号を九澤山といい薬師如来を本尊としています。また、開山を源秀〔応永9年(1402)没〕としています。この創建について寺伝では、弘仁3年(812)に多奈久坐和という武士が田名の葛輪に「」という-庵を結び、その三女の湖年姫が仏門に入って庵主となったと伝えています。その後、荒廃していたものを応永9年(1402)に源秀が現在地に再建し、薬師如来を安置して医王山薬師院金泉寺と改称して中興したとしています。

d0183387_22494046.jpgまた、源秀は同時に蔵王権現を勧請していますが、これは現在の御岳神社のことで金泉寺が別当でした。ちなみに慶安2年(1649)には61斗余の朱印地が与えられています。なお、当時は境内に七観音を祀る観音堂があり、ほかにも日宮・山王社・稲荷社などを持っていたことがわかります。また、寺小屋も開かれ、地域の教育の場として親しまれていました。境内には市内で最も大きな寛保3年(1743)造立の宝篋印塔や、明治時代に活躍した下九沢出身の政治家・山本作左衛門の記念碑もあります。(平成さがみはら風土記稿)

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坂の風景② 緩やかな坂を下ると左手にわずかに旧道が残ります/久沢橋

d0183387_00485090.jpg夜泣き地蔵/ 久沢橋手前
塚場自治会館を下り左側のあたり古川さん宅地内に石仏が3体並んでいます。最近新しい祠が建てられました。石仏の年代は風化されてしまい不明です。いずれにしても江戸時代中期の頃と推定されます。昔は夜泣きする子が多く、家人が困りお地蔵さまに夜泣きが治りますように願を掛け日参すると、ご利益があり自然に治ったそうです。お礼として子どもが好む色ものの前垂れを奉納しました。夜泣き地蔵とは子どもの成長と幸せを祈った子育て地蔵のひとつで、村人たちの信仰が厚かったそうです。(大沢史蹟めぐり/大沢公民館)

d0183387_00490386.jpg大山道道標/久沢橋
大山参りの人々がよく利用した道だったのでこの名があります。また「八王子道」とも呼ばれ塚場は小さな宿場となっていました。(標柱)




d0183387_00554618.jpg塚場の庚申塔
/久沢橋
塚場のシンボルは大きな石塔の庚申塔です。県道小野相模原線並びに上溝城山線改修 拡幅工事のために現在地に移されました。元の場所は八木屋商店前にあり、その昔武州(東京都)大山街道と甲州(山梨県)久保沢街道の交差地点にありました。昭和5年ころ県道拡幅工事のため北側に移された際に、古刀を発掘したという実話があります。永禄12年北条勢と武田勢が戦った三増峠の古戦場がありますが、その時この付近でも小さな合戦があり、討ち死にした侍を村人が葬った塚との伝説もあります。庚申塔の建立は安永49月(1775)のことですが、塚はそれ以前からありました。祭神は庚申で60年に一回廻ってくるかのえ申のことをいいます。両脇に2体の石仏が ありますが1体は出羽三山供養塔です。寛政7年に下九沢村と田名村葛輪の 講中が建てたもので、あとの1体は風化して分かりません。昭和5年の移転の際に御神楽を奉納し、昭和46126日の移転の時も自治会では地鎮祭を行い御神楽を奉納しました。(大沢史蹟めぐり/大沢公民館)

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街道の風景① 段丘の下には鳩川が流ています/久沢橋

鳩川

相模原市の大島団地付近に源を発し南東に流れる。JR相模線と平行し海老名市河原口付近で相模川に合流する。江戸時代は旗川と呼ばれこれが転じて鳩川と呼ばれるようになったと推測される。大島団地付近には源である事を示す石碑が設置されている。Wikipedia

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南橋本駅周辺マップ
(赤:大山道 紫:16号・129号 黄角:南橋本駅 黄丸:橋本五差路)



・・・田名(たな)

相模原市中央区の西部に位置し一部は緑区に属する。近世以降は相模国高座郡田名村と呼ばれ、1889年(明治22年)の町村制施行にともなう明治の大合併の際にも単独で神奈川県高座郡田名村となった。相模川沿いの段丘崖上には早くから集落の形成が見られたと考えられており塩田(田名塩田三丁目)には後期旧石器時代末の遺跡とされる田名向原遺跡がある。古代以降は相模国高座(たかくら)郡に属した。江戸時代には高座郡田名村とされ、後期には隣接する大島村とともに全域が篠の烏山藩の飛び地領となった。(Wikipedia


葛輪

田名の北のはし、鳩川の淵に広がる集落で対岸(東)は下九沢地区です。「くざわ」の地名は鳩川を挟んだ一帯のもので、以前は「田名分九沢(たなぶんくざわ)」と呼ばれていました。(田名の史跡めぐり)

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葛輪の二差路を右折          その先を右折すると金刀比羅神社があります


金刀比羅神社/葛輪
元は一族の守り神として祭られていたともいわれていますが、今は葛輪集落全休が祭っています。鳥居の先の左右には1811(文化8)年に奉納された御神燈が建っています。(田名の史跡めぐり)

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街道の風景② 工場地帯(右キャタピラー、左三菱重工)を進みます/北門入口


・・・四ッ谷


今は金融機関
やスーパーマヶットで賑わっう町並みとなっていますが、以前は農家が大山街道や久保沢(当麻)街道に沿って並ぶ集落でした(田名の史跡めぐり)

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坂の風景③ あか坂を下ります/上四ッ谷

あか坂の石柱
赤土のさかだったのでこの名があります(標柱)

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坂上にあか坂の標柱          上四ッ谷バス停先を左折して寄り道

四ツ谷
四ツ谷交差点を清水方面に向かい県道大磯線の交差点に四軒の家(原、小野、木下、篠崎)がありそこから始まったと言われ、四ツ家が同音の四ッ谷になったと。四ツ谷の北方に三谷(三家)という集落があったが人々は清水に移住している。(「田名の地名」さんより)

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街道の風景③ 標柱があったので「久保沢道」と分かりました/四ツ谷自治会館前

d0183387_01553661.jpg久保沢道
おもに久保沢に向かう人々が行き来した道なのでこの名があります。また当麻山無量寺へお参りに行く人々も通ったので「当麻街道」とも呼ばれています。(標柱)


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石神社/田奈四ッ谷

d0183387_02040611.jpg石神社
四ツ谷集落の南東のはしに位置する石神社は集落の守り神として信仰されています。境内には集落内の石造物が集められており地神塔、庚申塔、秋葉塔、六地蔵、二十三夜塔さらには大山道の道標や1805(文化2)年の三ケ所橋供養塔等がここに保存されています。

d0183387_02043879.jpg川がない集落なのに橋供養というのも不思議と思うかもしれませんが、四ツ谷付近は梅雨時などには野水(のみず)という湧き水が溢れることがよく起こったので、それを防ぐ水路が何本か造られていました。今でも児童館の周辺などにその堀のなごりを見ることができます。この水路にかけられた橋の供養碑がこの橋供養塔です。橋供養塔には父をたずねて旅をした母娘の伝説も地元に残されています。また、今は久保沢(当麻に沿って家並みは続いていますが、以前は児童館のあたりで家は途切れ、北の大山街道沿いの集落を四ツ谷と呼び、南の今は商店が多くなった方を下四ツ谷と呼んでいました。(田名の史跡めぐり)


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街道の風景④ 54号相模原愛川線、正面に大山を望みます/石神社前(田奈四ッ谷)

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街道の風景⑤ 旧道に戻って西へ/上四ツ谷バス停

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「横浜水道道」を横断します/田名北小      この先で54号と合流します

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街道の風景⑥ 合流地にお地蔵さん、右折して水郷田名(陽原面)へ下ります


・・・・・・・・・
資料ファイル

相模原台地
私たちが住む相模原台地は北から南へゆるやかに傾斜していますが、これは相模川が山間部から平野部に流れ出たところにつくられたかつての扇状地であるためで、市域はさらに相模川に沿った3つの河岸段丘(階段状の地形)から構成されています。河岸段丘は相模川が台地を削り、侵食と堆積、地盤の隆起などを繰り返してできました。段丘は高い方から上段『相模原段丘』中段『田名原段丘』下段『陽原段丘』と呼ばれ、木々の茂る1040mの急斜面(段丘崖)によってその境ができています。また、階段状に相模川に下ってみると、段丘崖付近では小河川が浅い谷を刻んで流下し相模川に注いでいます。河岸段丘のさらに下の段には相模川が運んできた砂や粘土が堆積してできたわずかばかりの沖積低地が広がっています。(相模原市立環境情報センターHP)

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相模原台地の地形断面位置図/相模原市立環境情報センターHP
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相模原台地の地形断面模式図/相模原市立環境情報センターHP


相模原台地の地層
台地の表面は数万年前に及ぶ富士・箱根などの火山活動によって赤茶色の厚い火山灰層(関東ローム層)に覆われ、台地上段では厚さ2030mに及びます。その下にある砂や小石がつまっている層は昔の相模川川底や河原の跡です。さらにその下にはかつて海の底であった中津層や小仏層と呼ばれる古い岩盤の層があります。これらの層をつくっている砂や泥は粒が細かいため、水を透しにくくなっています。(相模原市立環境情報センター)

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相模原台地の地層/相模原市立環境情報センターHP


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相模原台地① 下九沢御嶽神社付近からみる相模原面の段丘崖です 

相模原面群

相模原市では上段とも呼ばれる。相模野台地の中では最も広い面積を占め、詳細には5の堆積面に分けられる。相模原市緑区(旧城山町)の川尻八幡宮付近(標高約170m)を最高点に北半部の相模原市内では南東方向に、大和市以南では南方向に徐々に高度を下げ、南西端の寒川町で相模川沿いの沖積面(相模川低地)の下に埋没する。一方、南東側の藤沢市白旗付近では標高約50mで台地末端となり比高40m程で境川沿いの低地に接する。多摩丘陵の谷戸を水源とする境川を除いて、北半部には台地を開析する河川がほとんどなく平坦地が非常に広く分布する。Wikipedia

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相模原台地② 田名原面を流れる鳩川/久沢橋

田名原面群
田名原の名はこの段丘面の多くを占める相模原市中央区田名に由来する。相模原市では中段とも呼ばれ、詳細には4段の堆積面に分けられる。同市中央区田名のほかに緑区大島、中央区上溝、南区当麻(たいま)および下溝の北部にかけて広がりを持つが、下溝南部以南にはほとんど分布しない。相模原面群(上段)との間の段丘崖は「横山」(または相模横山)と呼ばれ、崖下の湧水を水源に鳩川、姥川、道保が並行して南流する。(Wikipedia


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相模原台地③ 相模川河岸からみる陽原面の段丘涯と望地水田です

陽原面群(みなばら)
陽原面の名は相模原市中央区田名の小字名である「陽原」に由来する。相模原市では下段とも呼ばれ、詳細には5段の堆積面に分けられる。同市緑区大島から中央区田名にかけておよび南区下溝南部の台地西端に分布し、相模原面群(上段)、田名原面群(中段)に比べるとその面積は小さい。上流側の大島では相模川沿いの沖積面との間に40m程の比高があるが下流側へ向けて急速に高度を下げ、同市南区磯部付近で沖積面の下に埋没する。(Wikipedia


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相模原台地④ 対岸の中津台地の景観です

中津原面
中津原の名は相模川右岸の愛川町中津に由来する。右岸では愛川町南東部から厚木市北部にまたがって相模川と中津川の間に広く分布するが(中津台地、中津原台地)、左岸の相模野台地では相模原市南区磯部から新戸(しんど)にかけて座間丘陵の西に接した幅のごく狭い平坦面が分布するのみである。(Wikipedia


by Twalking | 2016-11-21 10:25 | 大山街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 八王子通り大山道(1)片倉~橋本02 橋本   

日時 2016.11.12(土)
天気 晴れ


住宅地になってますが、境川への下りは急坂です。
下ると境川、両国橋を渡ると橋本宿になります。
旧道には長屋門の立派な門構えのお宅が多いですね。

橋本は道路が複雑で渋滞しますので敬遠気味でしたが、
こうして歩いてみると、旧道筋は落ち着いた街並み、
寺社の創建も古く、由緒があって見応え十分です。



・・・相原町(町田市)

町田市北西部、境川の北側に位置し東西に細長い地域である。北側は丘陵地とそれを刻む谷戸が分布し南の境川に沿って平坦地が細長く伸びる。この平坦地を町田街道が東西に貫通し、これに沿って集落が街村状に広がっている。
古くは粟飯原とも表記し、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国多摩郡を中心に割拠した武士団「横山党」のうちの粟飯原氏の名字の地とされる。Wikipedia

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街道の風景① 住宅地の急坂を16号(旧道)へ下ります/相原町

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16号に合流/坂下            右折して町田街道を横断します

東京都道47号八王子町田線

八王子市から町田市に至る主要地方道である。この道路は通称町田街道と呼ばれる。ほぼ全区間東京湾と相模湾の分水界に沿っているほか、町田市相原町字橋本付近から町田駅付近までは旧来の絹の道(浜街道)の道筋とほぼ一致する。陸上距離:26.774km起点:八王子市東浅川町(町田街道入口交差点)終点:町田市原町田(三塚交差点)Wikipedia


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清水寺(せいすいじ)境内 

d0183387_16564410.jpg清水寺
宗派:臨済宗。京都妙山寺末。山寺号:瑞石山清水寺。本堂:寄棟御堂造り。中央に銅製宝珠を置く。そしてその下正面に二個の葵の定紋を配す。向拝銅葺唐破風。二重棰造り。正面二間、奥行九尺。また本堂は四間四方の総欅造り。花鳥、河川、人物遊戯等の彫刻を四方に施し、向拝左右の角柱にも16の花丸を刻し町田市稀有の建築である。堂正面には澄川翁の書「施無畏殿」四文字の額を掲げ、23段の石階上にある。
水屋:幅一間、奥行四尺の欅造り。亜鉛葺合掌屋根の下に石の手洗いを置く。この屋根にも葵紋あり。鐘楼:九尺四方天井に25の花丸を描くも今は明確には見えない。入母壁、亜鉛葺。梵鐘、天保13年鋳鐘、太平洋戦に供出し、昭和33年新鋳のもの。「南無観世音菩薩」と刻す。

d0183387_16573562.jpg本尊:観音立像。『風土記稿』には「釈迦木の坐像にて長一尺ばかり」とある。しかし「相原村誌」に「本尊は聖観音にして」とあるものと今はしている。この観音像は丸山の観音山にあったが、武田信玄小田原侵入の際寺院焼失し、わずかに全焼を免かれた一木像だが昭和34年東京都多摩丘陵調査の際、丸尾彰三郎調査員によって藤原時代像だろうとされた夜叉神とならんで古代仏像であろうといわれている。ただ惜しむらくは焼痕のため鮮明を欠く。

d0183387_17052492.jpg町田市指定文化財。
以上本堂・御水屋・鐘楼は相原町丸山長福寺建築後、嘉永3年(1850315日、時の相原村名主青木助次郎易直の手によって新築されたもので、一連一体の建築物のため昭和4838日市重宝に指定された。庫裡:寄棟亜鉛葺。木造平屋、間口五間半、奥行五間、一間の式台入口を設く。付属文化財:この寺には、さきに市が天然記念物に指定した数種類の樫の群落があり、また善寧児の碑がある。善寧児碑はこの種の碑としては日本最古の碑で明治254月に建てられている。そのそばに近藤勇の碑もあって門人53名の手で建てられた。勇の風貌を偲ぶに足るであろう。(町田市史)

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清水寺観音堂
清水寺観音堂は桁行三間・梁行四間・正面一間に軒唐破風の向背を設け宝形造・平入・銅板葺で四周に疑宝珠高欄付の縁を設けている。大きさは桁行24.5尺(約7.45m)梁行24.7(約7.49m)で、柱径は来迎柱、側柱とも0.995尺(約0.3m)である。向背は二重肘木を用いた横拡のある斗栱をくみ、向背木鼻から中備まで龍の彫刻で飾り、堂本体とのつなぎも雲龍の丸彫になる。堂の側廻りは、長押・頭貫・台輪でつながれ、柱上に尾垂木つき三手先斗栱をくみ、お垂木は龍および模形の彫刻となり、軒支輪も浮彫で飾って軒の二軒とする。当観音堂は本格的な三手先を用いながら彫刻装飾を多用した堂で、よく幕末期の傾向をあらわしている。建立は、嘉永3年(1850)再建とされている。(町田市教育委員会)

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唐破風・中備(正面)        斗拱(ときょう)・海老虹梁(雲龍丸彫)


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境川の両国橋を渡ります

d0183387_15041844.jpg精進場
橋本宿の北端にある両国橋の上流に「精進場」と呼ばれるところがあり、大山参りの人たちがそこで水を浴あびたと伝えられています。武州方面からの旅人は御殿峠を越えると清らかな流れの境川にたどり着つきます。そこで人々は川に入り「六根清浄」と唱えながら水を浴びて体を清め、また大山を目指しました。「精進」とは体を清めることを言います。(発見さがみはら/橋本図書館)



・・・橋本(相模原市緑区)

相模国高座郡に属し元は相原村の一部であった。橋本の地名は八王子・川越方面と厚木・小田原方面とを結ぶ中世以来の主要街道(八王子街道または大山街道、国道16号旧道)が、境川を渡る地点に架けられた両国橋に由来するとされている。橋の南側橋本宿が形成され宿を中心に橋本村として江戸時代初めに相原村から分立した。江戸時代には旗本支配地となり、明治政府成立後の1868年(慶応4年・明治元年)に神奈川府(間もなく神奈川県)の所属となった。明治の大合併(明治22年)によって隣接する相原村、小山村、清兵衛新田と合併して高座郡相原村の一部となり、旧橋本村の区域をもって大字橋本が編成された。合併以前の旧相原村(大字相原)は村域内の西部に位置するが、村役場や小学校などはいずれも橋本に置かれ、明治41年に橋本が開設されたこともあって橋本が相原村の中心集落の地位を占め続けた。Wikipedia

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街道の風景② 橋をわたると橋本宿になります/両国橋

d0183387_15095400.jpg橋本宿

武州(埼玉)方面から八王子を通とおって大山参りに行く人々は、御殿峠を越こえて境川を両国橋で渡わたり橋本宿にたどり着つきました。橋本宿のあった橋本村は正保31646)年相原村から分れて誕生しました。宿場がいつ頃ころできたのかははっきりとはわかりませんが、享保211736)年の村明細帳には「毎日伝馬4頭、人足4人が用意されていて、48軒の家があった」ことが記録されています。両国橋から香福寺近ちかくの山王山(現在、徳本念仏塔や秋葉大権現の碑が残のこされている辺)まで、大山道をはさんだ両側に発達した宿場は、南から上宿中宿下宿とわかれていました。 また両国橋付近の宿場入り口の両側には幕府の高札場があったと言われています。残念なことに天保121841)年、橋本宿は大火事で家や文書類が燃もえてしまったため、現在はあまりくわしい資料が残のこっていません。(発見さがみはら/橋本図書館)


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牛久保家の長屋門 

この長屋門は桁行9.5(17.1m)、梁行2.5(4.5)堂々たる構えです。建築年代は近世末と推定されています。相模原に現存する長屋門としては規模の大きなものです。また、軒のセガイは柱に腕木をほぞ差しとする古い形式です。部材は全体に太く、冠木の丈は1.4(42cm)、その上に乗る梁は約1(30cm)です。登録年月日平成1541日(相模原教育委員会) 注:外からの見学はできますが、屋敷内に立ち入ることはできません。(相模原市)

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瑞光寺山門/元橋本

d0183387_17555960.jpg瑞光寺

元橋本町のバス停「橋本本町」より西200mにある曹洞宗の寺院です。『風土記稿』によると高乗寺(八王子市)の末寺で山号を橋本山といい釈迦如来を本尊としています。開山は聖山大祝(天正19年・1591没)で、開基は瑞光月心(天正14年・1586没)としています。この瑞光月心は俗称を勘十郎といい、武州下相原村(町田市)の人であったようです。また、当時は境内に百観音を安置する観音堂や筑波山麓の桑寺から勧請した蚕影山権現などがあったようですが現存していません。

d0183387_17560322.jpg当寺も古くから教育の場として活用され、江戸時代には寺小屋が開かれ、明治6年(1873)からは現在の旭小学校の前身ともいえる「本然学舎」が開校されています。ちなみに教育には当時の住職であった19世蔵宗があたっています。昭和59年、当時の生徒の子孫らにより「本然学舎橋本学校開設の地」の記念碑が山門前に建てられました。(平成さがみはら風土記稿)

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街道の風景③ 瑞光寺脇の道が古道と伺いましたが、この道でしょうか?


d0183387_18481703.jpg秋葉大権現について/香福寺横
静岡県袋井市の可睡斎三尺坊秋葉大権現を本山とし、古来より火伏の神として信仰されています。境内の櫛形角柱塔は天保5年(1619)に建立され、前面に秋葉大権現と彫られています。右側に出羽三山の参詣供養塔、三王社など石仏が並んでいます。手前にある燈籠は東日本大震災で一部損傷を受けましたが修復して昔の姿を残しています。火伏祈願祭は毎年11月中旬に大きなのぼり旗をたて、香福寺住職による法要を行います。本山へは講全員の参拝と役員の代参を隔年で行っています。(橋本本町秋葉講)


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香福寺山門/橋本

d0183387_18522612.jpg香福寺

橋本のバス停「橋本出張所前」のすぐ前にある臨済宗建長寺派の寺院です。『風土記稿』によると、建長寺(鎌倉市)の末寺で、山号を橋本山といい地蔵菩薩を本尊としています。開山は建長寺67世の蔵海性珍(応永18年・1411没)で、矢嶋左近某(寛永17年・1640没)が中興したとしています。また、本尊の地蔵菩薩像は鎌倉時代の仏師・運慶の作と伝えていますが定かではありません。当寺には支院として「延寿堂」と「常慶庵」がありました。「延寿堂」は病憎などの診療所であり、「常慶庵」は常慶(延宝7年・1679没)が開いたと伝えられていますが、ともに『風土記稿』が編さんされた頓にはすでに廃寺になっていたことがわかります。境内には薬師堂や江戸時代後期に建てられた鐘楼・四脚門があります。また、境内中央のマキの大樹は樹齢400年といわれています。(平成さがみはら風土記稿)

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鐘楼                   高野槇

d0183387_18560313.jpg薬師堂
『風土記稿』によるとこの薬師堂はもともと橋本の本宿というところにあったことがわかります。それがいつの頃にかなくなり、本尊の薬師如来とその脇侍のみが香福寺に安置されるようになりました。また、同書ではこの薬師如来の製作者を聖徳太子であるとし、矢島出雲という人が安置したことを伝えています。薬師如来の開帳は明治34年(1901)以来、現在に至るまで33年ごとに行われています。この開帳の時には薬師如来の手から紅白の綱がひかれ、これに触れて安産守護の利益にあやかろうとする人々で賑わいます。(平成さがみはら風土記稿)


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蓮乗院山門/東橋本

d0183387_21593505.jpg蓮乗院

東橋本のバス停「小山本町」より北へ200mのところにある真言宗智山派の寺院です。『風土記稿』によると薬王院(八王子市高尾)の末寺で、山号を天縛山といい阿弥陀如来を本尊としています(現在の本尊は不動明王)。また小山村の鎮守である天縛皇神社の別当であり阿弥陀堂などを持っていました。慶安2年(1649)には朱印地84斗が与えられています。その創建について寺伝では、天文3年(1534)に長尊という僧が安楽坊と法泉坊という小堂を合わせて一院として開き、それを元和元年(1615)から翌年にかけて、円西が再建したと伝えています。やがて亨保9年(1724)に薬王院の新末寺に編入されています。

d0183387_22134929.jpg当寺には清兵衛新田の開発で知れる原清兵衛の墓碑がありますが、天保14年(1843)、この新田の開発にあたり江川代官所の役人たちは本寺を宿泊所としてその職務にあたっています。また、脇侍の薬師如来は江戸の人々にも信仰されていたと伝えられ、戦時中に供出した梵鐘は江戸講中によって寄進されたものといわれています。なお、当寺も江戸時代には寺小屋が開かれ、明如寺代には「養麟学舎」が開校されています。(平成さがみはら風土記稿)

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梵鐘                「養麟学舎開校之地」碑


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街道の風景④ 香福寺から橋本商店街を通り橋本駅方向へ向かいます/香福寺入口

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橋本商店街              大山街道踏切


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神明大神宮一の鳥居

d0183387_22392491.jpg神明大神宮

神明大神宮は旧大山道に沿う橋本商店街の中にあります。細長くのびる参道のまわりにはまだ若いイチョウの木が立ち並んでいますが、以前は樹齢が400年を越す大松が生い茂り、昼でもなお暗い神城を成していました。しかし、昭和34年の伊勢湾台風などの被害により次々と枯死してしまい、現在ではずいぶんとさっぱりとした境内になっています。この神社の創建は永禄121569)と伝えられています。しかし、天保年間(183044)に地域全域を襲う大火があり、貴重な記録のすべてが焼失してしまいました。そのため地域の歴史やこの神社の詳細を調べることは非常に困難となっています。ただ、この神社の境内は古くから「お伊勢の森」と呼ばれ、伊勢神宮をお詣りに行く人はここで旅の安全を祈願してから出かけたといわれています。境内には天満宮八坂神社が合祀されていますが、昭和46年には商売繁盛を願う商店街の人々により大鷲神社が勧請されました。そのため毎年11月の「酉の市」では縁起ものの熊手などを求める参拝者でにぎわっています。この「酉の市」には手作りのあんどんが参道いっぱいに並べられるため「あんどん祭り」と呼ばれています。(さがみはら風土記稿)

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二の鳥居               大鷲神社

酉の市由来
大鳥神社の本社はもと官幣大社で大阪府堺市の鳳町にあった。昔は武士が武運長久を祈る神だったのが次第に商売繁昌を祈り客商売の開運の神として信仰されるようになった。東京都足立区花畑町の大鷲神社(旧葛西の花又村)の方が大酉又は本酉とよばれていた。千住勝泉寺(台東区千束長国寺か?)の鳳明神は中の酉とよばれていた。東京を中心に酉の市が行われ、縁起物を取り合わせた熊手を売る熊手市で有名である。三の酉まである年に火事が多いなどと言う俗信も残っている。(案内板)


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街道の風景⑤ 左折は橋本駅、街道は真直ぐ16号に向かいます/駅南入口
 


大山道道標

大山参りの人々がよく利用したの道だったのでこの名があります。また「埼玉往還」「八王子道」などとも呼ばれ、橋本はこの宿場としても賑わいました。(標柱)

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街道の風景⑥ 棒杭があります、ここで当麻への道と分かれます/橋本変電所先

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二差路を左へ/橋本変電所前   すぐの角を右折して16号へ 
      
d0183387_23173670.jpg棒杭

この辺りを棒杭といいます。この近くにある石仏がそのように呼ばれているためですが、大山参りの人々が利用した大山道は、ここで田奈方面と当麻方面に分かれており、この石仏はその道しるべでもありました。(標柱)

橋本の棒杭(大山道道標)

大山道の追分に立てられたものですが、区画整理により旧道を失いながらも地域の人々によって守られてきた貴重な遺跡です。道標の高さは151cm・幅35cmで安政2(1855)年に建てられました。正面に「右大山みち」右側に「北八王子道」左側に「南あつぎ道」とあります。この標石からこの地域は「ボウグイ」と呼ばれ小字としても親しまれていました。(相模原市HP)


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街道の風景⑦ 16号の1本西側の道を南へ向かいます/橋本台

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16号を潜りすぐ左折          左は橋本五差路、直進して橋本台へ

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橋本駅周辺マップ
(赤:大山道 緑:鎌倉道 橙:旧16号 紫:町田街道・16号BP・129号 赤丸:棒杭 黄色丸:橋本駅)

by Twalking | 2016-11-16 15:13 | 大山街道(新規)