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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり狭山丘陵・山口地区   

日時 2017.10.23(月)
天気 晴れ


台風一過、あれよあれよという間に天気が回復、
久し振りの青空に誘われてちょっとドライブ、
昼近くでしたが、狭山丘陵に向かいました。

ここは鎌倉道の上道からは外れていますが、
山口城址や名所図会にも載る古刹があるので
訪ねてみたいと思っていました。

小手指古戦場跡にも寄りたかったんですが、
北野天神で時間切れ、又の機会としたいと思います。



・・・山口地区


狭山丘陵の間を西から東に柳瀬川が流れています。水の便のよいこの場所は古くから人が住み、中世には山口氏という武士が館を構えていました。江戸時代には勝楽寺、堀口、大鐘、新堀、川辺、菩提木、氷川、打越、町谷、山口堀之内、岩崎という11もの村が密集し、これらの村は明治8年に山口村、上山口村、勝楽寺村という3つの村にまとまりました。さらにこれらがひとつの「山口村」となるのは明治35年のことです。その後昭和18年に所沢町などと合併し「山口」「上山口」「勝楽寺」の名が大字として今に残りました。(所沢市)

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街道の風景① 近くに車を置かしていただきぶらりと歩きてみました/山口

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参道から見る街道の風景です/中氷川神社

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街道側参道入口            東側参道入口

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中氷川神社/山口
所沢市山口にある氷川信仰の神社である。旧入間郡多摩郡92総鎮守で旧県社。式内社・中氷川社の論社であり、大宮氷川神社同様、須佐之男命(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)の3神を祀る。中氷川神社の「」の意味は、大宮氷川神社奥氷川神社(東京都西多摩郡奥多摩町)の中間、大宮氷川神社と武蔵国の国府(府中市)の中間などの説がある。地元では古くから「氷川様」と呼ばれている。Wikipedia)

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街道の風景② 右手が山口城址跡です、標柱が立ちます/山口城交差点

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山口城跡交差点
山口城は平安時代末期から室町時代にかけて活躍した山口氏の居城です。この城は現在は大型店舗が建った正面木立のあたりを中心に、付近の住宅地にかけてかなり広範囲に広がっていたと考えられています。手前の畑には今はファーストフード店があります。(所沢市)

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西武線側からみる土塁跡

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埼玉県指定史跡・山口城跡
山口城は平安時代末から鎌倉・室町時代にこの一帯を本拠とした武蔵武士の山口氏によって築かれました。この場所は北に椿峰の丘陵がせまり、南は柳瀬川と湿地に囲まれた要害の地で、西側には鎌倉街道が通っていました。城跡の規模は東西約400m、南北約200mと推定され埼玉県の旧跡に指定されています。築かれた頃の大きさは不明ですが、戦乱の時代に館を囲む土塁(土手)や堀は徐々に広げられました。室町時代の終わりには複数の郭がつながった姿となりました。この城跡には石垣がなく、土塁の上に木や竹の柵を造り幅が広く深い堀をめぐらせて敵が入るのを防いでいました。戦国時代の戦乱によって落城し、江戸時代に入ると城跡は畑や宅地として拓かれ、堀跡は溜め池に利用されました。その後、道路や鉄道が開通し元の姿は一部を除いて失われました。現在、周辺には「堀の内」「城上」「梨の木戸」といった城跡に関係する地名が残されています。

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土塁と空堀
現在、敷地内には3基の土塁があり、土塁の規模はそれぞれ異なりますが幅10m前後、長さ2030m、高さ3m前後です。第1号土塁と第2号土塁は互いに向かい合い、第3号土塁L時型で東側に張り出しています。さらに発掘調査によって第12号土塁の間に南北方向に伸びる第45号土塁が新たに確認されました。土塁の外側には堀がめぐり、上部幅約4m、底部幅約2m、深さ1.52mの逆台形で底から水が湧き出して沼地のような状態でした。これらの築造と掘削の年代は戦国時代に入った頃と考えられます。土手の下から永楽通宝が、堀跡の底近くからは木製の椀や塔婆が出土しています。

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2号土塁                 3号土塁

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郭・曲輪
土塁に囲まれた内部は東側より一段高く東西約20m、南北約32mの長方形の平地となっていました。これを「くるわ」と呼び何回か繰り返し整地を行っています。多数の柱穴や焼土とともに井戸跡6基が発見され、建物があったと推測できます。また、鎌倉・室町時代の灯明皿や、常滑焼の壷や甕の破片、年号のわかる板碑等が出土しました。(所沢市教育委員会)

武蔵山口氏

桓武平氏の流れをくむ武蔵七党村山党から派生した支族であり、平安時代末期から戦国時代にかけて武蔵国入間郡山口(現在の所沢市山口)を領した。なお、武蔵国には横山党から派生した山口氏もある。
武蔵国多摩郡村山(現在の武蔵村山市)を領した平頼任が村山党のとなり、その孫の家継が入間郡山口に住み山口を名乗ったのが始まりである。代々山口城に在した。保元の乱では村山党の金子家忠・仙波家信らと共に山口六郎源頼朝に従う。承久の乱では山口兵衛太郎が負傷を負っている。山口高清の代に武蔵平一揆で河越氏の側につき、鎌倉公方足利氏満方の上杉憲顕に攻められ山口城は落城。その後永徳3年(1383)、南朝の力を得た高清の子・山口高治は、祖父山口高実とともに再び兵を挙げ氏満と戦ったが敗北し、山口城に火を放ち自害して果てた。高治の子・山口高忠は上杉氏に仕え、その後上杉氏が没落すると後北条氏に仕えた。後北条氏の滅亡後、子孫の山口大善は徳川氏に仕えた。Wikipedia)

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すぐ南側を柳瀬川が流れています

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海蔵寺本堂 柳瀬川対岸にある真言宗豊山派のお寺さんです/山口

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街道の風景③勝光寺、来迎寺と続くこの辺りが中心部でしょうか/下山口駅先

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参道入口に「坂東西国秩父四国供養塔」が建ちます/勝光寺

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勝光寺
抑々當山は弘安4辛己年鎌倉建長寺派第一世石門和尚が開山せられ、北条時宗公を開基として創建せられましたが、元弘の乱に屢々兵馬の巷となり堂宇悉く灰燼となり、其の後正平11年慈眼庵次で慈光庵其の他諸堂宇が再建せられ、門風大いに賑いましたが、永正年間に再び回禄の災に遭い堂宇烏有に帰し頗る衰微するに至り天文17年に不動尊を安置し、信者を募り復を期すべく檀徒相計り寺門の復興につとめたが、元亀3年時の住持が没し圓覚寺派の僧を住持として迎え自来圓覚寺派となり、天正19年に京都より慶叟和尚来山入寺し、徳川家康公より寺領として境内地壹万坪御朱印貳拾石を下附せられ、速禅和尚の時客殿及び山門等の諸堂宇共に再建せられ、當山の門風大いに賑い太平の幕末の世まで続き今日に至った。(境内説明板)

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山門

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勝光寺山門(所沢市指定文化財)
瑞幡山と号し臨済宗妙心寺派の寺である。同宗の野火止の平林寺、上富の多福寺と共に美しい楼門造りの山門を有することが特徴である。弘安元年(1278北条時宗の創建と伝えられ、中興・東山天皇より賜わる綸旨を寺宝としている。山門は元禄7年より堂々たる楼門で市内における唐様の白眉ともいえる美しい建築である。粽(ちまき)を有する太い円柱、花頭窓、組子入りの桟唐戸など年輪の美しさに酔うばかりで、十六羅漢を奉安している楼上より望む狭山丘陵の風光は心を洗うながめである。

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本堂は延宝5年(1677)の建立、鐘楼は享保161731)の建立で、本堂外陣に安置する不動明王は天文17年(15482月相州大山住、若狭法眼賀竹の32才の作である。(所沢市教育委員会)



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勝光寺本堂(所沢市指定文化財)
勝光寺本堂は「京都龍安寺塔頭方丈を延宝5年(1677)に移築、行田の宮大工が建築した」との伝承をもちます。現在、本堂は入母屋造の桟瓦葺ですがこの形式は昭和34年(1959)に改められたもので、それ以前は寄棟造の茅葺でした。平面構成はともに両側に脇間を備えた内陣、外陣からなる六間取り形式をとっており、外陣の南側には広縁が設けられています。また、意匠的特徴としては内陣の全面に仏壇を設け、丸柱や組物を用いない簡素なつくりであり、外陣とその両脇の三室全体を一つ天井で覆い天井が浮遊するように見える蟻壁を設けています。このような建築形式や意匠や、江戸時代初期における京都の臨済宗系寺院の方丈建築の特色をよくあらわし、京都からの移築の可能性をうかがわせます。しかし、建物調査によると柱間は京間の寸法基準とは異なり、江戸時代の関東間の寸法基準ととっています。また、製作時期が異なると思われるヒノキ柱とケヤキ柱が混在し、ヒノキ柱の多くに新しい材で継ぎ足した根継ぎが見られました。以上の調査結果から推測するとこの建物は京都で解体され運び込まれた前身建物の部材を用い、行田の宮大工が関東間として建築したものと考えられます。関東地方では稀な建築形式を受け継ぐ建造物として大変貴重です。(所沢市教育委員会)

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中には入れないんですね・・・/来迎寺山門

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来迎寺
来迎寺は大光山無量寿院といい、詳しい歴史はわからないが鎌倉時代初期に創立されたと考えられ、本尊は阿弥陀三尊であり「車返しの弥陀」の伝説がある。昔、奥州平泉、藤原秀衡の守護仏であった阿弥陀三尊を源頼朝の所望により鎌倉に運ぶ途中、東京都府中市車返まで来たところ、車が急に動かなくなりやむなく引き返してこの地まで来たが、再び車が停ったので草堂を建てて三尊を安置したと伝えられています。

板碑
この碑は高さ155cm・幅50cm・厚さ8cmあり、建長8年(1256223日に武蔵七党丹党の加治左衛門尉丹治泰家が建てたものである。碑には梵字「キリク」(弥陀)のほか観無量寿経の一節「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」の文字が刻まれている。(所沢市教育委員)

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江戸名所図会 
来迎寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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仏蔵院山門


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仏蔵院
真言宗豊山派の寺院。かつては埼玉県入間郡勝楽寺村、その後山口村にあたる。1927年に山口貯水池(狭山湖)の建設が始まって以降、ほぼ全域が山口貯水池(狭山湖)もしくは保安林となっており、現在、同所を住所としている建物は東京都水道局の貯水池管理事務所のみである。水没前、勝楽寺と呼ばれる寺院があったが貯水池の工事に伴い、そのまま建造物を解体・移転移築し、現在の所沢市大字山口1119仏蔵院と名前を変えて存在している。Wikipedia
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(参考)江戸名所図会 勝楽寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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瑞岩寺は祥雲山と号する曹洞宗のお寺です

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本堂                 無量堂・鐘楼

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山口氏の墓塔

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山口氏の墓塔(所沢市指定文化財)
山口氏は平安時代の末期、武蔵七党の一つ村山党から分かれ山口城に居住し、その後戦国時代にかけて武蔵武士の一員として活躍したことが知られています。室町時代の初期に山口氏菩提寺として創建されたと伝えられる瑞岩寺には、山口氏の墓塔が本堂西側に三基あり、いずれも五輪塔・宝篋印塔などの残欠部分で構成されています。特に向かって左側の塔の基礎部分には「帰実禅門永徳3癸亥613日」と彫られており、これは足利氏満と戦って永徳31383613日に討ち死にしたという瑞岩寺に伝わる山口城主・山口高実の位牌の紀年銘と一致しています。中世山口氏の消息を知る資料として貴重です。(所沢市教育委員会)


・・・北野

所沢市中西部に位置し小手指地区に所属する。かつては埼玉県入間郡小手指村であった。小手指村が所沢町と合併した頃には大字北野として現在の青葉台・北野新町・北野南・小手指町・小手指元町・小手指南を含む広大な範囲であったが、昭和52年から平成17年までに区画整理や町名・地番変更により現在の範囲になった。現在の町域一帯は小手指原と呼ばれ緑豊かな原野や畑が広がっている。
Wikipedia

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北野天神社鳥居(南側)

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境内


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北野天神社
物部天神社国渭地祇神社(くにいちぎ)天満天神社」の総称として「北野天神社」と呼称される。旧社格は県社。この神社は社伝によれば日本武尊が東征の折に創祀したのに始まるとされる。物部天神社は物部(无邪志国造・むさしのくにのみやつこの一族)氏神であった。今もその物部氏の祖神の饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が祭神である。江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられた。天神社としては長徳元年(995)に菅原道真の5世の子孫菅原修成が武蔵守として京都北野神社より勧請し、その後は源義家、源頼朝、足利尊氏、前田利家により社殿が造営された。江戸出開帳7年(172241日〜61日、江戸の旧目白不動院長谷寺にて、当社の御神体の出開帳が行われ、また期間中424日に社宝の掛幅や文書などが将軍の意向により江戸城内に提出された。境内の西・南側に鳥居と石灯篭が立ち並ぶ参道があり、西側は南北に通る旧鎌倉街道に面し、県道179号線沿いの南側からは複数の階段と鳥居を経て拝殿前に至る。(Wikipedia

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西側参道                神楽殿

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江戸名所図会 北野天神 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


小手指ヶ原古戦場
小手指地区北野の埋蔵文化財調査センターのある一帯は「小手指ヶ原」と呼ばれ、今から650年以上前たびたび合戦が繰り広げられました。中でも新田義貞による鎌倉攻めの戦いは、印象的であったことを地名や伝承地などからうかがうことができます。上野国(現在の群馬県)を本拠とする新田義貞は鎌倉幕府を倒すため兵を挙げ、元弘31333年)58に新田荘を出ます。初め150騎ほどであった一行は、兵を進めるに連れて沿道の武士が加勢し数を増やしていきました。鎌倉を発った幕府軍との合戦の火蓋は511小手指ヶ原で切って落されます。戦いは一進一退を繰り広げる激戦となりましたが、幕府軍は徐々に新田軍の進軍を許すところとなり522に陥落、鎌倉幕府は滅びました。所在地:所沢市北野二丁目12番地の4(石碑の所在地)(所沢市)

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『山口文化財あんない』マップ

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狭山丘陵周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:鎌倉街道上道 緑:青梅街道 紫:五日市街道 紺:玉川上水)


・・・・・・
資料ファイル

村山党

平安時代から鎌倉時代にかけて武蔵国多摩郡村山郷(現在の入間川付近)に勢力のあった武士団、武蔵七党の一つ。野与党と同族である。平頼任が北多摩郡村山に住み村山氏と名乗ったと言う。村山頼任の子孫とされる一族を村山党と呼ぶ。主な一族には金子氏宮寺氏山口氏仙波氏などがある。子孫は狭山丘陵北部の武蔵野の台地上に広がっている。金子十郎・山口六郎は共に台地上の畑地を占め、仙波七郎の居も川越市仙波で台地上で前面には荒川の低地の水田が広がっている。三条町の条里地域の西北方約10kmの地点である。(条里の遺構は不明瞭である)。彼らの名字の地(本貫)は現在でも地名として入間市金子入間市宮寺川越市仙波所沢市山口などに残っている。

平安時代、保元の乱では後白河天皇方として金子家忠や仙波家信が活躍した。治承・寿永の乱では当初村山党は他の武蔵の武士団のほとんどと同じく平家方だった。吾妻鏡によれば治承4年武蔵の平氏方の中心的存在である秩父党畠山氏の畠山重忠に従い、村山・金子氏の一党も相模国の三浦氏を攻撃している(衣笠合戦)。その後畠山氏と同じく源頼朝の傘下に入った。
鎌倉時代以降、村山党には金子氏や仙波氏など伊予国を初めとする西国に所領を得たものも多かったが、武蔵では秩父党棟梁の河越氏に従っていた。鎌倉時代末期には河越高重に従い新田義貞の倒幕軍に加わり分倍河原の戦いなど倒幕の原動力になった。
室町幕府が成立すると鎌倉公方や関東管領の支配が強くなり、応安元年(13681月河越直重を中心に武蔵平一揆を起こすがあえなく鎮圧される。山口高清などは自害し村山党諸氏没落した。以降村山党諸氏は関東管領上杉氏家臣の大石氏に従う。
戦国時代になり上杉氏が後北条氏に敗れ没落すると、主家を失った大石定久は北条氏康の三男・北条氏照を娘婿に迎えて家督を譲った。以降、後北条氏の支配下となった。小田原征伐で後北条氏が滅亡し徳川家康が関東に入ると、その支配体制に組み込まれた。村山党の子孫の一部は徳川氏の旗本となって存続した。Wikipedia

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武蔵国七党之系図/ふれあい歴史館


武蔵国七党之系図

東村山の地名のもととなる村山党は平安時代後期から活躍した武士団である武蔵七党のひとつです。この系図によれば桓武平氏平良文の子孫・村山頼任を始祖としていますが、さだかではありません13世紀なかばには村山党のまとまりはなくなりますが金子氏山口氏は武士団として南北朝時代にまで活躍します。(ふるさと歴史館展示資料/東村山市)

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村山党の根拠地
狭山丘陵周辺に勢力のあった村山党は次第にその勢力をに拡げました。そして大井・宮寺・金子・山口・難波田・仙波・久米・荒幡などの場所にちらばり居館(住居)を構えた土地の名を名乗りました。また、なかには源氏と主従関係を結び保元・平治の乱で戦功をあげた金子十郎家忠のような武士もいました。(ふるさと歴史館展示資料/東村山市)


平頼任
(よりとう 生年不詳)
村山 頼任(よりとう)は平安時代後期の武蔵国多摩郡の武将である。平基宗の子。村山頼家の父。野与元永の弟。武蔵国多摩郡村山(現在の武蔵村山市)に住み村山氏を名乗り村山党の始祖となった。子孫は金子氏、宮寺氏、山口氏、仙波氏などと名乗り武蔵七党として活躍した(Wikipedia

by Twalking | 2017-10-25 20:40 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「三増峠合戦の道」02-三増   

日時 2017.3.17(金)
天気 晴れ


志田峠をくだり三増合戦跡の周辺を散策しました。
陣立図をみると逆のような気もしますが、
素早く反転して高位を確保したんでしね?

それを追う形で戦った北条勢ですが、別働隊に背後を
つかれて総崩れしたと解説されています。
詳しくは分かりませんが感慨深いものがありました。
違うルートでいつかまた訪ねてみたいと思います。



・・・志田峠

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峠の風景① 南から志田峠を振り返ります

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街道の風景① 左の谷を志田川が流れています。静かないい道です

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相模原側は舗装されてます           ケート辺りが境、愛川町に戻ります



・・・旗立ての松


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玄関にお地蔵さん/志田山ホーム        旗立松の案内板を左折

d0183387_11423038.jpg三増合戦場旗立ての松の由来/東名厚木CC
永禄12年(1569106日三増の山野で甲斐の武田信玄と小田原の北条氏康とが戦った。旗立て松はこの三増合戦のおり、信玄が大将旗を立てた跡である。北から西へ連なる三増の山並みを越えて甲州に通ずる道には、三増・中・志田の三峠があるがそのうちで最も高く嶮しいのが中峠であった。信玄は相模の原を一望するこの高台を中心にして鶴翼の陣を張り追撃する北条軍に備えた。中峠近く高く聳える松に旗を翻し、自らは麓の桶尻本陣を置き合戦の指揮をとったのである。往時を知らす緑の松は小学生が56人でとり囲むほどの太さであった。惜しいかな大正12年の失火により枯れて今はなく、ただ記念碑と旗立て松二世に戦の跡をしのぶのみである。(愛川町教育委員会)

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ここから更に登ると中峠になります

d0183387_11470015.jpg武田信玄立松の趾碑の解説文

右手に立っている「武田信玄旗立松之趾碑」文は日本紋章学の権威沼田頼輔氏によるもので、概略次のようなことが書かれています。高峰村が津久井と接する北の境の山脈は延々と東西に広がっています。その中で最も険しいものを「中峠」と呼んでいます。くっきりと四方の展望が開け、麓の村に行き来する人馬は豆粒ほどにしか見えません。山の峰に一本の老いた松が青々と茂り天に伸びています。里の人はこれを「武田信玄旗立松」と呼んでいます。言い伝えでは永禄12108日信玄が北条氏政の軍と当地で戦った折、本陣をこの峰に張り旗をこの松の上に掲げたという由来により、こうした名称になったということです。つまりこの地こそは信玄が足跡を印した所であって松の樹もまた信玄の心に触れたものということができます。

d0183387_14503867.pngそれから350余年を経て、松に吹く風は今なおその余韻を伝え人々にその当時を偲ばせていたのですが、近年の火災により惜しいことに昔からある老松をもう一度見ることはできなくなりました。高峰村青年団諸君はここに一見の価値のある史跡が空しく消えてしまうことを惜しみ、石碑をたてて何時までも伝えようと考えその碑文を私(沼田頼輔)に依頼してきました。この地は私が以前からよく遊んでいた所です。老いた松の姿もなお心に刻まれています。これまでのことを聞いて感慨も更に切なるものがありよって拙さをも顧みずこの文を作りました。昭和39月中旬 沼田頼輔撰、高梨貞義書 (愛川町教育委員会)

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峠の風景② 相模川(左)と中津川(右)に挟まれた中津台地、南に3段で下っています。/中峠

中津原
神奈川県中央部、相模川とその支流の中津川にはさまれた台地で北半は愛甲郡愛川町、南半は厚木市に属する。台地の東西両側が2河川に臨むところは急崖であるが、表面はおおむね平たんで高度は北端部で約180南端部では約50である。相模川東岸の相模原台地と同じ地質で表面は厚さ1014mの関東ローム層におおわれその下に段丘礫層があり地下水面は深い。台地は一面が桑園であったが第2次大戦末期に中央部の中津に陸軍飛行場が設けられ、その跡地に1966年神奈川県企業庁によって内陸工業団地が造成された。(コトバンク)



・・・三増合戦場跡


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麓へ下ります             右折して合戦碑へ/中原


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史跡三増合戦場跡

d0183387_15353021.jpg三増合戦のあらまし
永禄12年(156910月、甲斐(今の山梨県)の武田信玄は2万の将兵を従えて小田原城の北条氏康らを攻めその帰り道に三増峠をえらんだ。これを察した氏康は息子の氏照氏那、娘の夫綱成らを初めとする2万の将兵で三増峠で迎え討つことにした。ところが武田軍の近づくのをみた北条軍は半原の台地上に移り態勢をととのえようとした。信玄はその間に三増峠のふもと桶尻の高地に自分から進み出てその左右に有力な将兵を手配りし、家来の小幡信定を津久井の長竹へ行かせて津久井城にいる北条方の動きを押さえ、また山県昌景の一隊を韮尾根に置いていつでも参戦できるようにした。北条方はそれに方々から攻めかけたのでたちまち激戦となった。そのとき山県の一隊は志田峠を越え北条軍の後ろから挟み討ちをかけたので北条軍は総崩れとなって負けてしまった。この合戦中、武田方の大将浅利信種は北条軍の鉄砲にうたれて戦死した。北条氏康、氏政の親子は助けの兵を連れて萩野まで駆けつけてきたがすでに味方が負けてしまったことを知り空しく帰っていった。信玄は勝ち戦となるやすぐ兵をまとめ反畑(今の相模湖町)まで引き揚げ、勝利を祝うとともに敵味方の戦死者の霊をなぐさめる式をとりおこない甲府へ引きあげたという。(愛川町教育委員会)

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あいかわ景勝10選三増合戦碑と志田峠(左鞍部が志田峠 中央奥が中峠・旗立松)

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三増合戦場陣立図

d0183387_15270577.jpg志田南遺跡出土遺物について
平成10年正月5日、ここから東へ130m程の桑畑の中「塚場」と呼ばれる地点で人骨及び六道銭が発見されました。この周辺は武田・北条の二大戦国大名が戦った三増合戦主戦場ということもあり戦死者の骨である可能性があります。鑑定の結果、骨の主は筋肉が良く発達した壮年後半の男性であることが分りました。また、一緒に出土した銭は全て中世の渡来銭でした。地元では相模国風土記稿に見える北条氏の家臣間宮善十郎の墓であるとののあり三増合戦場碑の傍らに埋葬することにいたしました。(愛川町教育委員会)


d0183387_16021694.jpg首塚

不動明王を祀る小高い所を首塚という。 宝永3年(1706)建立の供養塔がある。このあたりは三増合戦(1569)のおり、志田沢沿いに下ってきた武田方の山県遊軍が北条軍の虚をつき背後から討って出て、それまで敗色の濃かった武田方を一挙に勝利に導くきっかけをつくったところという。この戦いのあと戦死者の首を葬ったといわれるのが首塚であり、道をへだてた森の中には胴を葬ったという胴塚がある。なお、三増合戦での戦死者は北条方3269人、武田方900人と伝えられる。(愛川町教育委員会)

d0183387_16034498.jpg胴塚
永禄12年(156910月当町三増の原で行われた「三増合戦」は甲州の武田、小田原の北条両軍が力を尽くしての戦いだったようでともに多くの戦死者が出た。そのおり、討ち取られた首級はここから150mほど上手の土手のうえに葬られ「首塚」としてまつられているが、首級を除いた遺骸はすぐ下の志田沢の右岸わきに埋葬され塚を築いてそのしるしとした。この地ではそれを「胴塚」と呼び、三増合戦にゆかりのひとつとして今に伝えている。(愛川町教育委員会)


・・・田代上原

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街道の風景② 田代へ下る甲州みちです。陣立図にある志田沢が横断しています/上志田バス停

d0183387_16251544.jpg上原の庚申塔

田代上原の庚申塔は数ある町内の庚申塔の中でも最も古く寛文8年(1668)の造立である。碑面には神像とも仏像ともいわれる珍しい異形像が浮き彫りされており、初期庚申塔の一形態を示している。下部には三猿が刻まれ「相州愛光郡上川入田代村」とある。庚申とは干支のうち庚(かなえ)と申(さる)の組合さった日で、この日を特別な日として信仰行事が行われていた。これを庚申待ちといい塔を建てる習慣があっつた。(愛川町)

d0183387_16251967.jpg田代上原道標

この道はかつての甲州みちであった。厚木市上荻野の打越から当町の海底(おぞこ)を経て中津川を渡り関場坂からここに至り、それから志田峠を越え津久井の鼠坂(ねんざか)の関所を過ぎて吉野宿へと通じる小田原から甲州への通路であった。道標には「甲州道中」「左吉野ねんさか」とあり江戸中期ころの建立とされている。また近世には領主の使臣が村々を巡視する道筋であったことから「巡見道」よも呼ばれ、ほかに「津久井道」「志田道」の名もあった。(愛川町教育委員会)


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バス停に田代城の案内板        愛川中学校

田代城址/愛川中学
田代城は室町時代の山城で自然の地形をそのまま要害とした武士の居館であった。築城の年月は不詳。城域は230002ほどの広さをもち南の方を表口としていた。城主は小田原北条氏の幕下にあった内藤氏下野守秀勝とその子三郎兵衛秀行2代が在城し、田代・半原・小曽郷(海底)・隅田(角田)・箕輪下村・坂本・五坊(北原)・磯辺を領地としていた。永禄12年(156910月、武田信玄小田原攻めのおりにこの城は落城したと伝えられる。城址には石塁跡と守護の八幡社があり位置場、うまやなどの地名を残している。(愛川町教育委員会)

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愛川中裏側に八幡神社がありますが、遺跡らしきものはないようです
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街道の風景③ 経ヶ岳でしょうか、下ると田代ですが戻ります/愛川中学バス停

経ヶ岳
丹沢山地の東部にある標高633mの山。厚木市、清川村、愛川町の境界に位置し、神奈川県立丹沢大山自然公園に属する。郷土富士のひとつで荻野富士ともいう。(Wikipedia



・・・三増

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街道の風景④ 「三増合戦みち」の名がついてます。平だと思ったら意外とアップダウンがあります

d0183387_20252595.jpg三増中原辻の神仏/中原
辻(岐路)はそれぞれの地域への分かれ道であるため村や集落(最寄)の境界となっていることが多い。そのうえこの境い目は民間信仰において季節ごとに訪れる神々を迎える場所でもあり、村落へ入ってくる悪霊や邪鬼を追い払うところでもあった。そのためいつしか祭の場所として特殊な考え方が生じ、いろいろな神仏をここへ祀るようになった。この辻にあるのは「馬頭観音像」「如意輪観音像」「観音地蔵供養塔」「聖徳太子講供養塔」「庚申供養塔」「弁財天浮彫座像」「舟形浮彫地蔵像」等である。(愛川町教育委員会)

d0183387_20261765.jpg深堀沢

三増桶尻の奥を水源とし南に流れる沢。戸倉地区で志田沢と合流し中津川に注いでいます。三増合戦の記録にも見られます。(標柱)


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三増諏訪神社鳥居祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)です

d0183387_22191167.jpg三増の獅子舞(神奈川県指定無形民俗文化財)
三増は甲州街道宿場として中世から知られているところで、伝統の獅子舞はこの宿場の諏訪神社(伝1235年創建)の摂社である八坂神社のお祭に行われます。これは一人立ち三頭獅子舞で関東一円に分布するものと同じ系統に属し、約300年の星霜を舞い継いできています。またこの獅子舞は古くから諏訪神社を中心に一町(約110m)以外の土地に踏み出さない掟がありました。獅子がしらは父・母・子の三頭で父を老獅子、母を玉獅子、子を剣獅子といい祭り当番の家から「道行きの渡り拍子」で神社まで行進し、忌竹をめぐらせた舞場の中で舞います。この他、天狗、教導役としてバンバささら摺り役などがつきその舞ぶりは大きく優雅で他に類のないものといわれています。(愛川町教育委員会)


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街道の風景⑤ 三増の町並みです、ここを左折して三増峠に向かいます/三増バス停

県道65号厚木愛川津久井線
厚木市(129号山際交差点)相模原市(大沢交差点)に至る県道(主要地方道)である。日赤前交差-大沢交差点は旧津久井街道で国道413号(津久井-橋本)の前身である県道55号(国道昇格で現在は欠番扱い)の旧道である。Wikipedia


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軒岩院山門


d0183387_22302020.jpg軒岩院(とうがんいん)

曹洞宗。本尊の薬師如来は今から410年前(1597)に祀られたものである。慶長年間(1596-1615)に入る頃流行病に悩む者が溢れ、時の本寺である勝楽寺四世棟岩宗梁禅師がこの三増地区に寺を作り本尊として薬師如来を祀りこの地の人々を病から救ったことが棟岩院の縁起。(いいお墓)


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清徳寺山門

d0183387_22333436.jpg清徳寺

真言宗大師派。石段を登ると入母屋造り銅葺、間口9間、堂々とした本堂がある。本尊は弘法大師作と伝える大日如来(秘仏)、脇士に僧・行基作の十一面観世音と弘法大師(融通大師)が奉安されている。応徳元年(1084)高野山の僧・真海によって開創され、文亀2(1502)僧・珍算により再興された。かつては古義真言宗の関東法談所36院の一つに数えられ別格本山である。この寺は一般に「融通大師」で知られ、お大師さんがどんな願い事でも融通して必ず叶えてくださることから庶民が信仰することになった。(関東88ヶ所霊場)


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街道の風景⑥ 前方の鞍部が三増峠でしょうか/上三増

d0183387_23411725.jpg勝負谷戸(庄兵衛谷戸)

この道を北に進むと現在は開発されているが昔は狭い谷戸道であった。三増には三栗山系を越え津久井郡の葉山島に通じる古道が三筋ある。そのうち最も上手に位置したのがこの谷戸道で、道沿いのあたり一帯を「勝負谷戸」または「庄兵衛谷戸」と呼んでいる。勝負谷戸の名の由来は永禄12年(1569)の三増合戦のときこの谷戸でも戦闘があって武田勢を勝利に終わったという伝承からである。また別の説ではむかし庄兵衛という人がこの谷戸を開墾したので庄兵衛谷戸の名が起こったのだとも伝えられる。(愛川町教育委員会)

d0183387_23453544.jpg三増峠

三増峠は志田山塊の東端「下の峰」にかかる峠路で、三増峠越えまたは三増通りの名がある。中世の頃は信濃(長野)・甲斐(山梨)から鎌倉へ向かう古街道であった。永禄12年(1569)北条・武田両軍が戦った三増合戦の折、武田方小荷駄隊が通行したといわれる道で信玄道の名を残している。皇国地誌殘稿に「松ヶ平より西北へ上ること5673尺(約1km)にして嶺上に達し是より津久井郡根古屋村に連なる険にして近便なり」とある。(愛川町教育委員会)

d0183387_23531120.jpg三増トンネル(トンネル上の左手が峠)

愛川町三増と相模原市緑区根小屋を結ぶ県道65号愛川津久井線のトンネルである。トンネルが貫通する山塊には三増峠があり戦国時代、武田信玄軍と北条氏康軍が激戦を繰り広げた三増す峠の戦いの古戦場でもある。1992年(平成4年)竣工。全長462m。元々、古道・歩道しか存在しない僻地であったが津久井方面と愛川方面を繋げる道路として開発された。周囲に神奈川県愛甲郡愛川町三増新宿、上宿、下宿といった大字が残っているとおり中世から江戸時代に亘って甲斐国より相模国小田原大山への街道として宿場が設けられた地方であり古く交通の要衝であったということができる。(Wikipedia

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街道の風景⑦ 林道がありますが通行止めになっていました/三増峠 

d0183387_00130521.jpg三増峠登り口
この峠は三増合戦のおり武田勢が帰陣に用いたと伝えられるなど愛甲と津久井・山梨方面とを結ぶ道筋の要衝であった。(標柱)




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つづらに上ります           峠のお地蔵さん

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愛川町イラストマップ

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津久井地域の古道/津久井湖城山公園パークセンター
(赤:津久井道 橙八王子道 茶:津久井往還 紫:甲州街道 緑:矢倉沢往還)

津久井城址の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23941501/


by Twalking | 2017-03-24 14:15 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「三増峠合戦の道」01-半原   

日時 2017.3.17(金)
天気 晴れ


滝山城や津久井城などを歩いてみて
「志田峠」「三増峠」など三増合戦の現地を
実際に見て肌で感じてみたいと思っていました。

初めてなのでひとまず半原から志田峠越て三増原、
三増峠辺りを歩いてみました。
中津川や中津原台地からの景観は素晴らしいですね。


・・・半原

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街道の風景① この辺りが町の中心でしょうか/撚糸組合前

愛甲郡
愛川町、清川村。相模国に属し、元は同国最北部にあたる相模川・道志川流域の山間部も領域に含んだ。郡衙は厚木市内にあったとされるも不詳。古くは「あゆかは」と読んだ。この地名は後に「鮎川」「愛川」の地名が派生する源となった。中世、現在の厚木市付近に毛利荘が成立し、鎌倉時代初期に幕府の創立に貢献した大江広元の所領となった。彼の子孫は毛利氏を名乗り、後に安芸国に移転して戦国大名・近世大名に成長した。北部の山間部は「奥三保」と呼ばれていたが、鎌倉時代に三浦氏支族の津久井氏(津久井は三浦半島の地名、後に大江氏の血統に置換したとも言われる)が城山(相模原市緑区)に城郭(津久井城・築井城)を築いて以降「津久井」と呼ばれるようになった。戦国時代には小田原の後北条氏の支配下に入った。半支配と呼ばれる武田の飛び地を抱えたが、城代内藤氏以下の苦心の統治によって甲斐国の武田氏に対する前線となった。1569年(永禄12年)現在の愛川町で両軍による三増(みませ)合戦が起きている。Wikipedia

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半原神社鳥居

まず半原の鎮守にご挨拶、祭神は建御名方命 ( たけみなかたのみこと )です。

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二の鳥居               拝殿 

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仏果山登山道入口/宮沢川        鳥居坂

鳥居坂

馬坂から分かれて下ってきたこの坂のことで、沢向うにあった鳥居に由来する(標柱)


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顕妙寺は日蓮宗のお寺さんです

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中津台地と丹沢東麓の間を中津川が流れ、川沿いに県道54号(相模原愛川線・相模原市と愛川町を結ぶ県道)が通ります/顕妙寺

愛川町

町の中央を中津川が流れ西部は丹沢山地となっている。愛名・愛甲・鮎川・愛川といった地名を一連のものと考えると大化の改新以前の記録がある相模国最古の地名のひとつである。戦国時代最初期、長尾景春の乱では反乱軍の景春・豊島氏方の有力拠点であった小沢城(こさわ)が太田道灌によって攻略されている。武田信玄が小田原侵攻に関連して北条氏康と戦った三増の戦い(みませ)は愛川町の三増周辺だったと考えられており、史跡三増合戦場跡が存在する。西部の半原盆地を中心として、元来米の生産に向かない地形から養蚕、製糸・撚糸などの軽工業、宮大工などの出稼ぎ職人の本貫として知られていた。半原宮大工は江戸城修復にかかわるなど飛騨の大工と並びその腕を称えられていた。撚糸業では群馬県富岡の機械を模倣して水力を補助動力とした軽工業が盛んだった。Wikipedia


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若宮神社              八幡坂 

八幡坂
若宮神社のわきから和平の台地のはしに至る坂をいいます。(標柱)

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横須賀市水道局半原水源地

半原水源系統(旧軍港水道施設)は大正10年に完成し、これまで長い間横須賀市民の生活を支える貴重な水源として活躍してきました。しかし、水需要の減少、水源水質の悪化、施設の老朽化により平成19年度からは取水を休止していましたが 平成27228日をもって廃止しました。(横須賀市HP)

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中津川の風景① 日向橋を渡り向かいの鞍部に上ります/日向橋上流


d0183387_19243423.jpg撚り糸発祥の地半原

半原の撚糸業は江戸時代後期から始まり、撚糸機を作る大工の存在、中津川の水車動力によって発展しました。(標柱)

撚糸
漢字で書くと「撚糸(ねんし)」。糸に撚り(より)をかけること、または撚りをかけた糸のことです。「撚る(よる)」とはねじりあわせること。“腕によりをかける”とか、“よりを戻す”って言葉、ご存知ですよね。撚り(縒りとも書きます)は日常会話の中で使われていますが、「糸の撚り」を語源として出てきた言葉なんです。(日本撚糸工業組合連合)

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中津川の風景② 正面は高取山(705m)左は仏果山(半原富士・747m)、奥が宮沢湖になります/
日向橋

仏果山

丹沢山地の東部に位置する標高747mの山。愛川町と清川村の境界線上にあり、清川村側は神奈川県立丹沢大山自然公園に指定されている。郷土富士のひとつで半原富士ともいう。Wikipedia


d0183387_19305151.jpg日向橋

神奈川県愛甲郡愛川町の中津川に架かるトラス橋である。現在の橋は1930年(昭和5年)に開通したトラス橋で、河川内に橋脚を設けず洪水時の水流の妨げとならない構造とした。1991年(平成3年)には、同じ愛川町内の中津川の平山橋とともにかながわの橋100選に選定された。本橋開通以前の大正時代時代には吊り橋が架けられていた。Wikipedia

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街道の風景② 中津川左岸の山並み、手前が大峰、向山、富士居山と連なります/真名倉坂

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街道の風景③ こちらは右岸の山並み、仏果山&経ヶ岳になります/真名倉坂

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街道の風景④ 右手が大峰、半原川に深く谷が切り込んでいます/真名倉坂

d0183387_22004748.jpg真名倉坂
国道412号線愛川大橋北側信号辺りから津久井町韮尾根清正公入口近くまでの坂道をいう(標柱)

国道412

平塚市より相模原市へ至る一般国道であるが、始点より厚木市まで国道129号と重複しているため実質的には厚木市より相模原市への道路である。(Wikipedia


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桜沢
日々良野奥を発し中津川左岸に達するまでの沢をいう。真名倉沢は地名に瀬無し沢とは流れの姿による。(標柱)

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宮ケ瀬ダム下流行観光案内図



・・・志田峠へ

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街道の風景⑤ 中津原台地の上にでました。右手鞍部の志田峠へ向かいます/清正公入口(相模原市・長竹)

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「丹沢あんぱん」お勧めです      清正公大権現の石碑を右折


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街道の風景⑥ 正面に津久井城址が見えます。街道は緩やかに長竹へ下ります


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街道の風景⑦ 韮尾根(にろうね)へ下る「関東ふれあいの道」と合流します/東京農工大フィールドミュジアム


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「喜見梯」と書いてあるでしょうか、急階段の上りです/朝日寺参道

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参道                 小さな祠

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清正光
寺号:志田山朝日寺(ちょうにちじ) 正安元年(1299)鎌倉に実成庵として中老日実が開基、昭和9年鎌倉より移転し 旧号実成庵を志田山朝日寺と改める。昭和27年「清正光」として単独の宗教法人となる。本尊:清正光大菩薩  明治10年(1877)志田山に勧請する。その神体は天の三光(太陽・月・星)で、清正光の名は三光天子(日天子、月天子、明星天子)の教えを象徴して神格としたもので「清」は清らかな汚れない光ですべての物を平等に照らしてくれる太陽の教えを「正」は不正を破り正しい道を明らかにする明星の教えを「光」は優しく愛する月の光の教えを顕しています。(環境庁・神奈川県)

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本堂                 清正光別院


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街道の風景⑦ 緩やかないい道ですが林道のようですね、この先が峠です


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相模原市なんですね、右手は残土処分場、ちょっと残念ですね/志田峠

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峠の標識               馬頭観音

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三増へ下ります


d0183387_16542300.jpg志田峠

志田峠は志田山塊の峰上を三分した西端にかかる峠で、愛川町田代から志田沢に沿ってのぼり津久井町韮尾根にぬける道である。かつては切通し越え、志田峠越えの名があった。ここは永禄12年(1569)北条・武田両軍の古戦場で、武田方の山県三郎兵衛の 率いる遊軍がこの道を韮尾根から下志田へひそかにかけ下り、北条方の背後にでて武田方勝利の因をつくった由緒の地と伝えられる。江戸中期以降は厚木・津久井を結ぶ道として、志田山塊東端の三増峠越をしのぐ大街道となった。なお志田山の地名の起こりはこの山が芝山であったことによるという。(愛川町教育委員会)


by Twalking | 2017-03-23 17:12 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり城山02-川尻   

日時 2017.3.6(日)
天気 晴れ


小倉橋の名前はよく耳にします。
関東山地から相模川の河岸段丘に移る際で、
相模川が大きくカーブして流れていきます。

大山道はここから船で厚木に下ったそうですが、
河原の舟をみているとそんな光景が思い浮かびます。
相模川に沿ったハケしたの道も良さそうですね。



・・・川尻
(かわしり)

現在、当区域は旧城山町域の北部と南東部に分断して存在しているが、隣接する若葉台町屋広田久保沢向原原宿谷ヶ原(たにがはら)、城山原宿南はいずれも当区域から分離し新設されたものである。
元の区域のほぼ中央を国道413号(津久井往還)が東西に貫通している。これに沿って成立した久保沢原宿などが当区域および城山町の中心集落として発展した。特に東部の台地上段では1980年代以降宅地化が進行し、当時の市町界をはさんで隣接していた相模原市橋本地区(相原・二本松)から連続した市街地が形成された。Wikipedia

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山を下ると圏央道とBPが交差、右手方向・小倉橋へ向かいます/小倉口

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小倉口入口              右岸の小倉山の山並み

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河岸段丘を小倉橋へ下ります/宮原

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宮原八幡社鳥居            拝殿

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相模川の風景① 段丘上より下流側を望みます/小倉橋右岸

川尻(地理)
西半部は高尾山などに連なる丘陵とそれを開析する数本のヤト(谷戸)からなる。東半部は相模原台地の北西端に当たり、相模川左岸に形成された河岸段丘のうち「上段」(相模原面)と「中段」(田名原面)にまたがっている。北は境川を境に町田市の相原町と隣接する。南東部は台地中段(田名原面)上に位置し、隣接する大沢地区(大島、上九沢、下九沢)から続く農地が広がっている。北西部は丘陵部とそれを刻み境川に合流する数本のヤト、およびその出口の堆積面とからなる。それぞれのヤトごとに雨降、滝尻、風間、穴川、小松という集落が形成され、丘陵下の集落とヤト底面の水田という景観が広がる。Wikipedia


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右岸より小倉橋と新小倉橋を望みます

d0183387_17391347.jpg小倉橋

相模原市緑区にあり相模川に架かる道路橋である。県道長竹川尻線を通し右岸で県道太井上依知線と接続する。1979年(昭和54年)にかながわ景勝50選、1986年(昭和61年)に相模川八景、1991年(平成3年)にかながわの橋100選、2008年(平成20年)に土木学会選奨土木遺産に認定されている。開腹式上路アーチ橋が4径間連続しており、橋長は176.6mである。名称の由来は右岸の地名から。2011年現在、相模川に架かる橋梁としては最も古い橋梁である。そのアーチ形式の美しさから、景勝地としても知られ、夏期にはライトアップや灯籠流しも行われている。本橋の架橋位置は古くから大山道津久井往還や水運など東西南北の交通の結節点であったが橋梁はなく、代わりに小倉の渡設置されていた。陸運の利便を向上させるために建設された。Wikipedia

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小倉橋


d0183387_17425743.jpg渡船上跡

現在の小倉橋が架けられた昭和時代の初めまで、対岸の久保沢との重要な交通手段として渡し船が使われた。(石碑)




d0183387_17434532.jpg小倉橋

小倉橋は1938(昭和13)年に建設されたもので、現在相模川に架かる橋では最も古い道路橋です。当時としては画期的な4径間が連なる鉄筋コンクリート製アーチ橋で橋長176.6m、幅員4.5m、川面からの高さは16mあります。このアーチが描き出す力強くかつ優しい造形線は、周辺の自然環境と調和して相模川を代表する美しい景観を作り出しています。2008(平成20)年技術的、デザイン的に優れた近代を代表する土木構造物として社)土木学会から「選奨土木遺産」に選定されました。(神奈川県津久井土木事務所)

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相模川の風景② この辺りから大きく右に湾曲して流れます。左岸にダムの放水路があります。

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相模川の風景③ 510号の新小倉橋です/小倉橋左岸

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段丘を登ります。渡し場への旧道でしょうか

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段丘上から城山を振り返ります

県道510号長竹川尻線

平日は国道413号とともに津久井地区から相模原市中心部方面への自動車通勤に多く使われる道で、近年の普通乗用車の大型化によって相模川に架かる小倉橋は離合がほぼ不可能になり、数km単位の渋滞が発生していた。そのため1992年(平成4年)より小倉橋の上流約100m地点において新橋の建設に取りかかり、2004年(平成16年)に実質上相模原市中心部方面へのバイパスである新小倉橋として片側2車線の橋が開通し、相模川右岸の小倉にアクセス用の道路が新設された。Wikipedia


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三王神社と境内の笠付大地蔵念仏塔(寛永61794)/向原

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久保沢の街並。右が津久井往還、左が田名方面です/久保沢交差点

川尻の歴史
古くは相模国高座郡に属したと考えられているが中世末期には津久井領に属し、これは江戸時代初期に津久井県と称された。津久井県は1870年(明治3年)に津久井郡と改称した。「新編武蔵風土記稿」によれば渋谷庄の一部。中世末期には川尻村あるいは河尻村の表記で現れる。元は1村であったが1667年(寛文7年)に上川尻村下川尻村2村に分割された。概ね西半部が上川尻村、東半部が下川尻村となったが「新編相模国風土記稿」に記載されている両村の小名には一部重複があり、また現存する小字名の分布から両村の境界はやや錯綜していたものと思われる。両村を津久井往還(現国道413号)が貫通し甲州道中の裏街道として利用された。上川尻村でこの街道と交差し相模川に流れ落ちるヤトに沿った久保沢は相模川水運の河岸としても重要であり、台地上を通過する街道に沿って成立した下川尻村の原宿とともに市場が開かれ、津久井県(津久井郡)および高座郡北部の商業中心地の一つとして大いに発展したWikipedia


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大正寺
臨済宗建長寺派のお寺さんです(本尊は釈迦如来)/谷ヶ原

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本堂                 参道のお地蔵さん

谷ヶ原大正寺の徳本念仏塔

徳本は宝暦81758)年に紀州に生まれ、江戸時代後期に伊豆や関東の各地に念仏を広めた僧です。徳本が近隣を訪れた際に、各村々の念仏講中がその特徴ある書体で書かれた名号(みょうごう)を求め、それをもとに念仏塔を建てたとされます。この念仏塔は自然石石塔で正面に「南無阿弥陀仏 徳本(花押)」の他「畑久保 尻無沢 当所講中」、側面に「文政4年辛巳10月日」(1821年)の銘があります。主体部は高さ97cm、幅65cm、奥行き57cmです。地域の念仏講や村の生活史を知る上で貴重な資料です。(相模原市HP)


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川尻八幡宮鳥居

川尻八幡宮
創建は大永5年(1525)と伝えられ、戦国時代小田原北条氏が武蔵・相模に勢力を伸ばした頃のことです。祭神は応神天皇。江戸時代には南東にのびる参道に松の並木があったことから並木八幡とも呼ばれ、祭礼には湯ばな、相撲興業などが催され近郷の人たちで賑わったといわれています。境内には古墳の石室(7世紀前半の古墳)もあり、古代より鎮守の森とともに神の宿る聖域として村人の信仰の場として今日に伝えられています。また、境内には八坂神社、春日神社、金刀比羅宮、天満宮などが祀られていますが、明治42年の合祀令により統合されたものです。(城山町教育委員会)

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境内

d0183387_00161084.jpg川尻八幡宮本殿
川尻八幡宮は上川尻、下川尻両村の鎮守社で広大な境内を有する神社です。川尻八幡宮本殿は一間社流造、桁行6尺(1.84m)の朱塗りの社殿で一間社としては大規模な部類に属します。また一般の一間社よりやや横長な平面を持ち、背面中央にはひとまわり細い柱を立てています。屋根正面には千鳥破風を置き向拝には軒唐破風を設けています。建立年代は18世紀中期と推定されます。(相模原市HP)


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川尻八幡神社古墳(翁塚)

この古墳は昭和4年城山町の神藤一松先生が苦心して発見し、掘り出されたものである。河原石を組み合わせて石室が造られ、室内から直刀3振、小口2口、宝珠型の鍔(つば)1個、鉄製の鏃(やじり)20数本などが出土した。出土品や墓の構造から奈良時代(8世紀)の様式の墳墓と推定されている。伝説によると「平安時代のの初期、舎人親王(天武天皇の皇子)の子孫が奥州に下向の際、この地で病に倒れ奉戴(ほうたい)していた石清水八幡宮の御分霊を祀った」という。この墳墓がその墓であろうと伝えられている。(石碑文)

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南東にのびる参道

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大山道の道標             津久井往還の大鳥居 

甲州街道浅川口大山道

現在の八王子市から途中相模川の舟下り経て大山へ向かうものである。都道47号八王子町田線・神奈川県道48号鍛冶屋相模原線などが近似したルートを辿っている。
(経路)甲州街道上椚田(東京都八王子市)-権現谷(以降町田市)-大戸--小松(以降相模原市)-町屋-川尻村久保沢小倉の渡し(相模川)-相模川舟下り-厚木 -矢倉沢往還を経て大山へ(Wikipedia            

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津久井往還と交差します/東原宿交差点

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久保沢周辺地図
(赤:歩行ルート 紫:津久井往還 橙:大山道)
  


by Twalking | 2017-03-11 11:51 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり城山01-津久井城址   

日時 2017.3.5(日)
天気 晴れ


城山ダムは車では通ったことはありますが、
津久井城のことは余り知りませんでした。
街道を歩いていて興味をもった次第です。

「三増峠の戦いの道」というのがあるんですね。
これは面白うそう・・・、でもその前に、
ということで手始めに城山に出かけてきました。

城址の遺跡がよく残っていますし、説明板など
解説もしっかりしていて分かり易いですね。
道も整備されハイキングには持って来い、
早春の里山を十分に満喫してきました。


・・・城山町

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津久井湖の風景① 右手が草戸山、南高尾山稜を望みます/城山ダム

神奈川県
の北西部、津久井郡に属していた町。(2007年相模原市に編入)古くは相模川の水運で栄えた町である。相模原台地が関東平野に代わろうとする所にある。町の南部は関東山地の一角をなす丹沢山塊の北東端であり、町の北西部高尾山に連なる山や丘陵が広がっている。その間を縫うように町の中央部を相模川が南北に流れている。町の東部相模原台地の北西端を占め、東隣の旧相模原市域の橋本地区および大沢地区に続く。北部境界の大部分は境川であり町田市北西部の堺地区に隣接する。相模川は町の西部に建設された城山ダムによって堰き止められて津久井湖となり、隣接する旧津久井町(現・相模原市)の側に続いている。Wikipedia

d0183387_01201566.png津久井湖
神奈川県北部、相模川中流部の城山ダムによってできた人造湖。城山ダムは1965年(昭和40)完成の洪水調節・上水道・工業用水・発電用ダムで、重力式コンクリートダム(堤高75m、堤長260m、面積2.5km2、総貯水容量6230m3)。北方約1kmにある揚水式発電用調整池の城山湖(本沢ダムによる人造湖)との間に設置された城山発電所は、関東有数の規模の最大出力25万kw誇る。両岸を三井(みい)大橋・名手(なて)橋・新道志橋が結ぶ。(コトバンク)


d0183387_00084384.jpg県立津久井湖城山公園
津久井湖の南西にそびえる城山(宝ヶ峰)と城山ダム周辺の苑池・展望台を合わせ98haの広さになる予定です。城山の自然や湖周辺の美しい風景、戦国時代の山城「津久井城」の遺構を守りながら「豊かな自然の中で歴史のロマンを体感できる公園」として整備が進められています。「花の苑池」「水の苑池」はガーデンテラスや噴水・芝生広場など「花と水」をテーマにした憩いの広場として気軽に利用できます。(案内板)

d0183387_16055539.jpg城山御林の「江川ヒノキ」
津久井の豊かな山林には17世紀後半から江戸幕府が直轄して山林資源の保護・存続と恒久的財源化を図るため「御林」が多く設定されました。城山北麓の山裾に今も残る針葉樹樹林は19世紀後半、伊豆韮山に代官所を持つ代官・江川太郎佐左エ門英龍の時代に植林されたヒノキで、御林の管理者である代官に因んで「江川ヒノキ」と呼ばれています。(説明板)

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津久井湖の風景② 北根小屋から津久井町方向の景観です/花の苑地展望台

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県立津久井湖城山公園案内

草戸山&城山湖(本沢ダム)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23773481/



・・・根小屋

根小屋(ねごや)とは
根古屋とも記す。日本中世の集落形態の一つ。豪族の館を中心として山や丘陵の麓に発達した集落。戦時は山城に詰めるため根小屋集落は平時の住居であった。呼称は地域によって異なり薩摩では麓、肥後では拵(かこい)、中国・四国では土居(どい)山下(さんげ、関東では堀の内・堀籠(ほりごめ)・根小屋・箕輪 (みのわ)・寄居(よりい)などと呼んだ。(コトバンク)

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根小屋諏訪神社鳥居/根小屋

d0183387_00254189.jpg根小屋諏訪神社

御祭神建御名方之命(たけみなかたのみこと )
建久3(1192)年津久井城主・築井太郎二郎義胤の勧請。天文5(1536)年本殿造営の記録が残る


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功雲寺山門/根小屋

d0183387_00404453.jpg功雲寺

功雲寺の前身は宝ケ峰西麗にあった耕雲庵です。応永151408)年に建てられたとされるこの庵を戦国期の築井城主であった内藤左近将監景定が開祖となり、根小屋に移して功雲寺と改めました。時の住職潮翁能音和尚は静岡県蔵春院から当寺に招かれたため、開山は蔵春院と同じく大綱明宗大和尚(最乗寺2世)となっています。内藤景定(天文31534327日卒)の子・大和守景豊の時、徳川勢の平岩主税に攻められ天正181590)年築井城は落城し内藤氏はこの地を追われることになります。そのとき、景豊は築井城の守護神であった道了権現(小田原最乗寺より分身勧請された)を徳川氏より50石のご朱印を下賜されました。当時相模国内で50石以上の朱印を下賜された寺は17ヶ寺程だそうです。寛文61666)年の文書には石高256石とあり寺領の大きさをうかがい知ることができます。往時には修行期間に50人の修行僧が集まること(本堂右額元禄5年(1692)寺代官をおいて内外の業務を行ったこと。七堂伽藍があったことなども古文書に記されています。(高橋石材店HP)


d0183387_00451336.jpg津久井城主・内藤景定の墓

津久井城は鎌倉時代、三浦氏の一族・津久井氏に築城されたという。降って明応4年(1495)戦国期の武将・小田原北条氏の祖・伊勢新九郎(死後北条早雲という)は関八州を併呑し、伊豆より相模に入り小田原城を本拠となし、北相模を守る支城としてこの古城を再興し津久井城によって甲州勢(武田氏)に備えた。内藤左近将監景定はその先を俵藤太秀郷より出て初め六左衛門と号し、また玄蕃充と称した。相州に生まれ北条氏康に仕えて相州津久井城主となり許多(許多)の地を領した。場内に道了大薩埵を勧請して守護神となし、また根小屋太井山功雲寺を開基す。天文3年申午年320日没し、法名隴山院功雲道勲大居士と諡(おくりな)され同寺に葬られる。なお、正史には津久井城の戦跡はないという。子には津久井城主内藤大和守景豊がいる。(津久井町教育委員会)



・・・津久井城址

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西側の根小屋から津久井城を望む/功雲寺境内

d0183387_15510209.png根小屋部分の遺構
根小屋は根本・城板、小網、荒久、馬込地区一帯に広がっていたと推定され各地区で大小の曲輪が確認できます。特に城板地区にはお屋敷跡、馬場、左近馬屋などの地名が残されており津久井城の根小屋の中心と考えられています。また、お屋敷跡の発掘調査では建物跡や煙硝蔵跡、深さ3mにも及ぶ空堀・土塁跡などが見つかっており城主館跡と考えられます。(説明板)

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雑木林につけられたデッキ園路でぶらり森林浴です

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牢屋の沢               小倉道


小倉道

ここから東へ行くと荒久(あらく)という集落にでます。この古い道は「小倉道」と呼ばれ、江戸時代からあった道だと考えられています。荒久から小倉へは「串川」の川伝いに歩きます。串川は相模川と並んで津久井城を防御する天然の堀の役目を果たしていました。(説明板)

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御屋敷跡


d0183387_15514444.png御屋敷跡

戦国時代、津久井城主内藤氏が館を構えていた場所です。発掘調査では深さ2.5mの堀や半地下状の蔵、中国製磁器や天目茶碗をはじめさまざまな遺物が発見されています。また、落城後江戸時代初期には代官によって陣屋関連の施設が営まれていたことも分かっています。(説明板)

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南側の景観です左手が三増峠、こんど歩こうと思っている所です/御屋敷跡上

三増峠の戦い

ここから見える風景は「金原」(かなはら)と呼ばれる場所です。左側の山の辺りが三増峠(みませ)です。永禄12年(1569)武田信玄が小田原攻めの帰りに、北条氏とこの近くで戦いました。(三増峠の戦い)その時、武田信玄が通ったとされる「信玄道」やその時の伝説が残る場所が津久井城には多く残されています。(説明板)

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ここからは尾根に向かって直登です/男坂


・・・

山城部分の遺構
標高375mの山頂、西峰の本城曲輪、太鼓曲輪、飯縄神社のある東峰の飯縄曲輪を中心に各尾根に小曲輪が階段状に配置されています。これらの曲輪には土塁や一部石積みの痕跡も残っています。また、山頂尾根には敵の動きを防ぐため3箇所に大堀切が、山腹には沢部分を掘削・拡張した長大な堅堀が掘られています。飯縄神社の東下にある宝ヶ池と呼ばれる溜井は今でも水を湛えています。(説明板)

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山頂以降見取り図


d0183387_16410107.jpg関東ふれあいの道
「山里から津久井湖への道」
関東ふれあいの道(首都圏自然歩道の愛称)は16県を巡る長距離自然歩道です。自分の足でゆっくり歩いて、豊かな自然にふれ歴史などを訪ねながらふる里を見直してみませんか。このコースは県内17コースの一つで、雨乞山、城山、津久井湖などが見所です。(環境庁・神奈川県)

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太鼓曲輪

d0183387_15460104.png太鼓曲輪と家老屋敷

根小屋から城坂・くるま坂を登りつめ堀切に出て、そこから本城曲輪に向かう際に通るしゃもじの形に削られた平場が「太鼓曲輪」です。飯縄曲輪方向に対する防御を固めていて、広くなった部分は東側を土塁で囲み斜面を急角度に削り落とし切岸としています。家老屋敷は三角形の曲輪で、山の斜面を削り出して平たく造成しています。(津久井城物語/厚木土木事務所津久井治水センター)


d0183387_17081909.jpg堀切と引き橋

堀切は尾根伝いに攻めてくる敵を防ぐため尾根を逆台形に大きく掘りこんだものです。平時は木橋が架けられていますが、いざ戦いとなると橋を引いたり落したりして敵を防ぎました。津久井城ででは山頂の尾根に3ヶ所の堀切があります、(説明板)

d0183387_17094216.png引き橋について

山城では木橋や土橋が使われています。この場所には引橋の地名が伝えられています。また古絵図にも橋が描かれていることから堀切を渡る木橋が架けられていたものと思われます。木橋の構造はよくわかりませんが、はしごを横にねかせたような簡易なもの、コロや車輪を使い移動することができる引き橋、もちろん現在のように固定されたものもあったようです。ただその多くは非常時に簡単に取り壊したり移動することができるものでした。(説明板)

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本城曲輪

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ここが虎口でしょうか?        米曲輪の土塁


d0183387_17271858.png本城曲輪と土塁
本城曲輪は津久井城の中心です。周囲の尾根には何段もの曲輪や長大な竪堀が掘られるなどとても堅固は造りになっています。土手状に残った部分です。これは土を突き固め盛り上げた防御塁で敵を攻撃する台としても使われました。(説明板)



d0183387_17405825.jpg築井古城記碑
築井古城記は城主内藤氏の家臣・島崎氏の末裔で、当時の根小屋村名主・島崎律直により文化13年(1816)に建立されたもので、津久井城の地形や沿革、内藤氏の系譜、建碑の由来等が記されています。題額者は白川少将朝臣(松平定信)、選者は題額頭林衛、書者が国学者屋代(源)弘賢、そして碑文を刻んだのが広瀬群鶴と製作には当時の一流名士が関わっています。(説明板)

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東側 本城曲輪からみる橋本方面の景観です 

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西側 当時は津久井湖はありませんが、津久井方面の景観です


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飯縄曲輪

d0183387_15464683.png飯縄曲輪
「飯縄神社」を中心とする曲輪群で天狗山とも呼ばれていたようです。堀切(鞍部)から「飯縄曲輪」に登るには、現在は山頂に鎮座する飯縄神社の参道・階段を登っていますが、当時の城道は空堀状になっていて、山頂の手前(西側)にある土塁の切れ目を入り、多少曲折しつつ階段の手前を大杉方向に折れ西→北→東へと回り込み到達したと思われます。「飯縄曲輪」は、長方形の平場で、この曲輪にとりつく帯曲輪の外縁には部分的に土塁の跡が見られます。南側には「鐘撞堂・烽火台」「みはらし」と呼ばれる曲輪が続き、その先にも数段の平場が確認されています。(津久井城物語/厚木土木事務所津久井治水センター)

d0183387_18442559.jpg飯縄神社

飯縄神社は「飯綱権現」を祀っています。飯縄権現は不動明王の化身で軍神として戦国武将に受け入れられていました。後北条氏は関東の飯縄権現信仰の中心地である高尾山を厚く庇護しており、津久井城でも同じように祀られたと考えられます。現在では農耕や火除け、商売繁盛などの神様として信仰されています。(津久井城物語/厚木土木事務所津久井治水センター)

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南側の「鐘撞堂・烽火台」「みはらし」です


d0183387_18550686.png烽火台と鐘撞堂

この附近は烽火台と鐘撞堂とも伝えられています。戦国時代、城や砦の間の情報伝達は天気の良い日は烽火(狼煙とも書く)や旗、吹き流しなど、また夜間や雨の日には鐘や法螺貝等「音」が使われていました。津久井城周辺には敵に備え多くの砦や烽火台が築かれていました。(説明板)


d0183387_18542213.png江戸時代の中期に大阪の医師寺島良安により編集された百科事典「和漢三才図会」を参考にして復元された井桜矢倉式の烽火台です。跳ねつるべの先に火種をとりつけ空中に上げる様式のものです。烽火はオオカミの糞を火種にしたことから狼煙とも書きますが、オオカミの糞は真っ直ぐに上がり風に強いと伝えられています。また煙草や青葉、松なども使われていました。
(説明板)

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飯綱曲輪の北側の尾根筋に宝ケ池があります

d0183387_19042922.jpg宝ヶ池
いざ戦となって山城にたてこもっても水がなくては戦いどころではありません。宝ヶ池は津久井城の水の手(溜井)のひとつです。江戸時代の地誌「新編相模風土記記稿」は「日照りや雨が続いた年でも、いつも安定して水をたたえている」と記しています。水が白く濁っていることから城兵が刀を研いだとも伝えられます。また水が枯れないところから雨乞いの行事にも使われました。(説明板)

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山城と水
中世にまとめられた城作りの手引書「築城記」は山城を築くときの心得として、まず「水があることが大切、また水の手(井戸など)は遠くにつくってはならない」と記しています。水は戦はもとより日常の城中生活に欠くことのできないものだからです。また「水が枯れるので、やたらに尾根を掘ったり、大木を伐ってはいけない」ともあります。水の確保には常に気を配っていたことがわかります。(説明板)


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宝ケ池から東へ細尾根を下ると鷹射場になります

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東側が開け相模原台地の様子がよく分かります。尾根を下ると小倉口へ出ます



・・・・・・・・・・・・
資料ファイル

津久井湖城山公園パークセンター


d0183387_14144666.png津久井城の歴史

津久井城の位置
津久井城は地理的には北方に武蔵国、西方に甲斐国に接する相模国の西北部に位置しています。そして八王子から厚木・伊勢原の古代東海道を結ぶ八王子道と、江戸方面から多摩丘陵を通り津久井地域を東西に横断し甲州街道に達する津久井往還に近く、古来重要な水運のルートであった相模川が眼前を流れていることなどから交通の要衝の地でもありました。また、津久井地区はその豊かな山林資源から経済的に重要な地域としても認識されていました。このように津久井地区は中世の早い時期から政治・経済・軍事上の要衝であり、利害の対立する勢力のせめぎ合いの場でもありました。

d0183387_14254779.pngいつごろ、誰がつくったのか?

津久井城の築城は、鎌倉時代三浦半島一帯に勢力を誇っていた三浦氏の一族・津久井氏によると伝えられています。戦国時代、小田原城を本城とした北条氏は16世紀中ごろまでには相模・武蔵を領国とする戦国大名に発展しました。そしてこの広大な領国を経営し、敵勢力から守るため本城の下に支城を設け、支城領を単位とする支配体制を作りました。当時の津久井地域は甲斐国境に近く、領国経営上重視されており津久井城(城主内藤氏)は有力支城のひとつとして重要な役割を果たしていました。現在残っている遺構は16世紀北条氏が整備したものです。

津久井城が滅びたのは?
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻め際、北条方の関東の諸城も前後して落城しました。津久井城は徳川勢の本田忠勝、平岩親吉ら12000人の軍勢に攻められ625日に開城しました。城の南に広がる金原地区には前陣場、奥陣場、勝どき畑、首塚など戦に関連すると考えられる地名が残されています。(説明板)

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相州筑井古城之図
東京都狛江市石井家に伝わる絵図で、地図に記された年号によると落城58年後の慶安元年(1648)に描かれたものです。(説明板)


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津久井城模型(S1/1800

平成67年の遺構調査に基づき曲輪や竪堀の配置など津久井城の基本構造を明らかにしたものです。周辺の街道やまちなみは江戸時代に描かれた村絵図などを参考にしています。(説明板)


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津久井城跡縄張り図


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津久井城見取り図


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慶安3年閏10月「相州津久井領絵図」

津久井地域では慶長3915981604)にかけて検地が行われました。それぞれの村高(村の生産力を米の取高に換算したもの)に基づいて年貢が決められました。絵図の村名の脇に書かれた文字はこの村高を漢数字で記載したものです。また江戸幕府は交通体系の整備なども行い、甲州道中(甲州街道)の設置、具体的には伝馬制度、宿駅及び助郷などの整備が行われました。絵図の転々と打たれているのは一里塚を表しています。鼠坂(ねんざか・相模湖町)青野原(津久井町)の2ヶ所に関所が置かれました。「相州津久井領絵図」では御林や市の設置などを含めて、江戸時代初期の村の姿が手をとるように分かります。(パークセンター資料集)



by Twalking | 2017-03-10 09:34 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 滝山城址(日野~東秋留)03 高月   

日時 2017.2.15(水)
天気 晴れ


本丸で地元の方と話が弾んでしまい、
時間が押していましたが、秋川をみたかったので
予定通り秋留に向かいました。

秋川は渓谷かと思っていましたが思い違い、
低地に田園が広がり道は秋留台地へと上ります。
ここは小川氏や大石氏の根拠地と後で知りました。
じっくりとみてみたかったですね~。



・・・加住町
(かすみまち)/八王子市

八王子市の東北部に位置する。町の中央部を谷地川が東南流し、その北岸沿いを滝山街道が走る。北半部の1丁目は加住北丘陵にかけて広がり、南半部の2丁目は加住南丘陵地帯で大沢川が東北流する。
Wikipedia

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城下には横山・八日市・八幡の三宿がありました/龍源寺境内

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神明神社鳥居/加住町

d0183387_11083634.jpg神明神社
御祭神:天照大神(他八神)神社創立の年代は詳らかでないが、神明神社は現在地に十二天社は森越に、富士浅間神社は村の南の山上にありと新編武蔵風土記稿(1826)に記されている。神明神社保存の板碑 正知元年(1313) 龍源寺の板碑には文安5年(1448)谷慈郷とされ、この地は古へより藤原氏の荘園として存在した。山野の中に生きて来た祖先は神明、浅間、吉野を信仰し今に至る。神々の御光り神恩に感謝し、ここに碑をしるす三入生一 選文(石碑文)



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源寺山門/加住町

d0183387_11113727.jpg龍源寺

現在より490前に桂巖暁暾大和尚を開山に迎え設立、現在で19世になる。(八王子仏教会)

龍源寺の文安の板碑

板碑は江戸時代に描かれた「武蔵名勝図会」に絵入りで紹介されている板碑で、阿弥陀三尊を梵字で表した月待供養(特定の月齢の日に人々が集まって供養を共にし、月の出を待ち拝む民間信仰)を知る上で全国的にも貴重な板碑である。「谷慈郷代谷村(現在の大谷町と推測される)の住人」の銘があり、当時の地名を示し住人が月待行事をおこなった事実を伝える歴史的にも貴重な資料であるといえる。多摩地区の月待供養碑としては最古のもの。また月待供養の板碑はこのほか市内に4基ほど知られている。(八王子市教育委員会)

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勝手神社
/加住町

丹木御岳神社の末社として創立した。貞和5年(134975日大石信重崇敬し懸仏一面を奉納。天文7年(1538918日社殿再建し、勝手明神社と称し明治初年勝手神社と改称した。現社殿は昭和42年の造営である。(東京都神社名鑑)


・・・高月町

市の北端、加住北丘陵の北面にあり秋川と多摩川にのぞむ。1955年(昭和30)加住村の八王子市への合併により、翌56年同村内の旧大字高月と同滝山の一部が高月町となる。江戸期の高月村で、風土記稿によれば同村の枝郷に滝村があり1971年に西多摩郡秋多町(現あきる野市)に編入された。(Web八王子辞典)

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丘を越えると一面に田畑がひろがります/高月バス停


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円通寺
/高月町


d0183387_11350631.jpg円通寺
恵日山観音院と号し本尊聖観音、開山は讃海(天暦年中 947956 118日寂)と伝えられるが明らかではない。中興開山は尊泰(寛文3年 1663 38日寂)である。現在の寺地に移るまでは西多摩郡戸倉・山田・草花・二ノ宮・熊川などの各地を転々としたと伝えられるが詳細は不明である。現寺地は修験喜見坊の旧跡であるといわれる。天正19年(159111月御朱印10石を賜わったが、延宝(16731680)・天和(16811683)のころ火災にかかり、天保3年(1832)および安政4年(1857)再建の本堂および庫裡は昭和2076日戦災により焼失した。塔中に興善院・大善院および不動院の3ヵ寺があった。(八王子市史)

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山門                 お地蔵さん


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高月の中心部でしょうか、左手に石仏群が残ります


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石仏群                八幡神社

高月八幡神社

創建の年代は詳らかでない。高月城主大石源左衛門尉定重が城中の守護神として崇敬した。寛文12年(1672)再建し享保17年尊像を造立し社殿造営し、延享3年(1746)再建し、大正8年社殿改修した。(東京都神社名鑑)


・・・高月城

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「高月ホテル」が目印ですが、この一角も城跡のようです

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道は切通になっています        下からみると断崖になっています


高月城
(たかつきじょう)
現在の八王子市高月町にあった戦国時代初期の日本の城(山城)である。多摩川と秋川の合流点近くで、加住丘陵を利用した天然の要害である。曲輪、堀切、土塁などの遺構が残る。1458年(長禄2年)山内上杉氏の重臣で武蔵国の守護代大石顕重が築城し、二宮(現在のあきる野市)から移った。田中正光の論によると『廻国雑記』に「前庭に高閣あり、矢倉などを相かねて侍けるにや、遠景すぐれて数千里の江山眼の前に盡ぬとおもおゆ」という記述が高月城を指すものとしているが確証はない。また、大石氏が高月城城主である記述のある大石氏系図については他研究者から信憑性がない事が指摘されており、高月城と大石氏を直接結ぶ根拠は皆無に等しいといえよう。Wikipedia

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特に案内板等はありません       私有地?になっているようです

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特に遺構らしきものはありませんがここが主郭のようです

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北側は林越しですが秋川方面が望めます



・・・小川(あきる野市)

あきる野市の東部、多摩川と秋川の合流点の北西部に位置し、両河川を境に東は福生市、南は八王子市と接している。Wikipedia

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東秋留橋を渡ります/秋川

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秋留台地に陽が落ちていきます、ちょっと急がないと/東秋留橋

秋留台地(あきるだいち)
あきる野市東部にある台地である。島のような河岸段丘なので地形は特殊。北の端は平井川、東の端は多摩川、南の端は秋川でそれぞれ川へ向かって標高が低くなっている。西は関東山地なので、そこから東へ堆積しその後に上記の3河川が浸食してできたものと推測できる。この台地の一帯は、あきる野市で最も栄えている場所であるといえる。西部に秋川駅や住宅地、郊外型店舗が集まり、東部は学校や公園の他は畑になっている。Wikipedia

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宝清寺

d0183387_19400384.jpg宝清寺 (ほうせいじ)
山号は水谷山(すいこくざん)。西多摩では唯一の日蓮宗久遠寺の末寺で開山は法清院日億上人、開基は青木勘左衛門(武田勝頼の縁者)。甲州武田勝頼の滅亡後、その青木勘左衛門は八王子城落城後、関東に入国した徳川家康に見出されてこのあきる野市小川の地を賜った。勘左衛門は戦国時代に滅んだ武士達の霊を弔うために出家し、元和年間 (1615 - 1624) 故郷甲斐国雨利郷(甘里)にあった東照山教林寺をこの地に移し東照山法清寺と号し創立した。

d0183387_22215097.jpg境内内地は武蔵七党1つである西党の小川氏の居城・小川城の跡とされている。
最初は東照山と号していたが、宝永年間 (1704 - 1711) 九世圓妙院日亮上人の代に東照山とは徳川家に対して畏れ多い山号だとして、領主水谷信濃守より身延山に申し出て、寺禄等を寄進して祈願処としたことにより水谷山寶清寺と改められたといわれる。Wikipedia

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日蓮上人像              浄行菩薩

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加住丘陵夕景手前が高月城、奥が滝山城になります/宝清寺境内


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熊野神社鳥居 

d0183387_22271566.jpg小川熊野神社

創建年代不詳。宝永5年(17089月修復、寛政6年(17949月再建したことは本社棟札によって知れる。もと熊野三社大権現と称したが、明治2年神仏分離令により熊野神社と改称した。(東京都神社名鑑)



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普門寺山門

d0183387_17483981.jpg普門寺

臨済宗建長寺派文永61269)年北条時宗によって二宮神社の廃社跡地に建てられ、山号もこれに由来して神護山と名づけられたと伝えられている。当初は鎌倉の寿福寺末でしたが明治初年に建長寺末となっている。(あきる野寺院一覧)



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二宮神社鳥居/野辺

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二宮神社
創建年代不詳。往昔より小川大明神または二宮大明神と称した。小川大明神とはその鎮座地が『和名抄』記載の武蔵国多摩郡小川郷の地区内にあったためで、また二宮大明神とは『神道集』または『私案抄』等にみられる武蔵総社六社宮(現大國魂神社)所祭神座の二次にあるがためその地名も二宮と称した。明治3年二宮神社と改称した。古記録によると藤原秀郷が己の生国近江国山王21社中の二宮を尊崇せる縁故をもって、特に当社を尊敬し天慶の乱にさいし戦勝祈願をこめ、乱平定の奉賽として社殿・玉垣を造営、くだって源頼朝、北条氏政も崇敬篤く、ことに北条氏照滝山城主となり同氏の祈願所とした。爾後社殿・神官宅罹災により記録の大半が焼失。天正19年(1591)徳川家康より御朱印15石を受け以後代々継承されてきた。(東京都神社名鑑)

d0183387_19440891.jpg二宮神社お池

参道の石段を降りて道路を渡った反対側には当社の「お池」があり、豊富な湧出量を誇る清らかな湧き水が満々とたたえられ「千人清水」と名付けられた小川が勢いよく流れ出している。この湧水は同市の八雲神社の湧水ととも、東京都選定「東京の名湧水57選」のひとつに数えられている。お池の中には平成2年菅野遊邦作の「雨乞いの男」という、座って横笛を吹いている男の像がある。これは昔ここで雨乞いをしていたという言い伝えに基づいて制作されたものである。Wikipedia




・・・・・・・
資料ファイル

あきる野市の沿革
武蔵国は代表的な馬の産地で四つの勅使牧の一つ小川牧は小川郷(秋川・平井川流域)を中心にした牧でした。鎌倉時代この地域は秋留郷と呼ばれ、武蔵七党のうち西党に属する小川氏二宮氏小宮氏平山氏などが鎌倉幕府の御家人として活躍していました。また、室町時代になると武蔵総社六所宮随一の大社である二宮神社小川大明神と呼ばれていました。戦国時代の終わりごろからは伊奈と五日市に「市」が開かれ、炭などが盛んに取引されました。江戸時代になると木材は秋川・多摩川を筏で流し江戸に送っていました。江戸時代の集落は秋川・平井川の段丘面や草花丘陵縁辺などに点在し、現在もその多くが市域の字名として残る32か村となって明治時代に至っています。(あきる野市HP抜粋)

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牧の推定地と関連遺跡/パルテノン多摩歴史ミュージアム


d0183387_19565239.jpg二宮神社並びに城跡(都指定旧跡)

二宮神社の創建は不明ですが、武蔵六所宮である大國魂神社の二之宮に祀られていることから有力な神社であったことがわかります。神社は秋留台地の東端部に立地しており、江戸時代に建てられた本殿は良好な状態を保ち、その中には室町時代宮殿が納められています。
神社境域及びその周辺は、室町時代にこの地域に勢力をもつ豪族であった大石氏城館跡の可能性が考えられています。そのことを裏付けるように昭和58年(1983)の秋川市教育委員会(当時)による発掘調査では、神社東側段丘上の「御屋敷」と呼ばれる地点から14世紀豪族居館跡が発見されました。(東京都教育委員会)


小川氏
小川氏は武蔵国の勅旨牧の1小川牧を基盤としていたと言われる。その後、薩摩国甑島(こしきじま)に領地を得、土着している。この甑島の小川氏に伝わる系図は、原本は平成に入ってから火災で失われたもの、研究家の写真撮影によるコピーが残されており西党研究の貴重な資料となっている。初代は西次郎宗貞の玄孫である小川太郎宗弘Wikipedia

小宮氏
小宮氏は現在のあきる野市秋川上流域を地盤としていた。初代小宮三郎道經は12世紀後半の武蔵野国秋留郷の地頭。三代目又四郎經行の兄弟4人が九州へ地頭として赴任。 戦国時代初期には小宮上野介憲明戸倉城を築城。小宮氏の氏神である小宮神社(あきる野市草花)には寛正4(1463)に小宮上野介憲明が奉納した梵鐘がある。Wikipedia

西党の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23830616/

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八王子市の城館跡

大石氏
室町時代、戦国時代に関東地方で活躍した氏族。関東管領上杉氏のもと四宿老(長尾氏・大石氏・小幡氏・白倉氏)の一人に数えられ代々武蔵国の守護代を務めた。信濃藤原氏(沼田氏と同族とされる)の後裔といい、信濃国佐久郡大石郷に住んでいたことから大石氏を名乗ったといわれる。室町時代初期、大石為重は初代関東管領の上杉憲顕(のりあき・山内上杉家の始祖)に仕えた。彼には男子がなく1334年(正慶3年)に縁戚関係にある木曽義仲の血筋を引くとされる大石信重(木曽家教の三男、家村の弟)を婿養子として迎え、源姓木曽氏の庶家(分家・家臣)となったという。信重は勧応2年(1351)挙兵した南朝方の新田義宗との笛吹峠の合戦で先陣を勤めた。その戦功として1356(延文元年)武蔵国入間・多摩の両郡に13を得て多摩に移住し、二宮(現・あきる野市)にを構えた。1384年(至徳元年)信重は浄福寺城(現・八王子市下恩方町)を築城した。応永年間には叔父(養叔父)の大石能重(為重の弟)が武蔵・上野・伊豆各国守護上杉能憲に仕えて守護代を務めた。1548年(長禄2年)大石顕重(あきしげ・信重の玄孫)が高月城(現・八王子市高月町)を築城し、二宮から本拠を移した1521年(大永元年)大石定重は高月城の北東1.5km滝山城(現・八王子市丹木町)を築城し本拠を移転した。1546年(天文15年)関東に進出した後北条氏の北条氏康が河越夜戦で大勝する。その結果、扇谷上杉氏は滅亡し、関東管領山内上杉氏は武蔵国から排除され越後国の長尾景虎を頼って没落する。主家上杉氏の没落により大石定久は北条氏康の三男・氏照を娘・比佐の婿に迎えて、自らは戸倉に隠居した。領地支配を守護上杉氏に頼りすぎた大石氏はほかの守護代のように領域支配に失敗し戦国大名への脱却をできなかったといえる。小田原征伐により後北条氏が没落すると、大石定久の実子大石定仲と養子定勝は徳川氏に仕えた。八王子千人同心としてその子孫は明治時代を迎えた。Wikipedia

大石系図

江戸時代に作成され、現在由木の伊藤家に保存されている大石氏の系図。室町時代に武蔵守護代として活躍した大石氏が戦国時代後北条氏に属し、小田原落城後その子孫の一部が由木に土着する由来を記している。(Web八王子辞典)

永林寺(由木城址)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23477568/



by Twalking | 2017-02-23 10:50 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 滝山城址(日野~東秋留)02 滝山城址   

日時 2017.2.15(水)
天気 晴れ


16号を渡り多摩川から眺めていた加住丘陵へ。
ひと登りすれば尾根上はなだらかとなり、
広葉樹、杉林、熊笹と変化して歩きやすい道です。

橋を渡った先は滝山城址、二の丸、中の丸、本丸と続き、
壕・土塁・曲輪など貴重な遺構が残ります。
小田原古城、山中城等に劣らぬ見事な縄張りです。

ちょっと甘く見てましたが、見応え十分です。
八王子の元となった城下も歩きましたが、
古甲州街道、鎌倉道にも出会え収穫がありました。


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多摩大橋から加住丘陵を望みます

d0183387_16005696.png加住丘陵

市の北方、雹留山付近から東方にのびる丘陵。秋川・多摩川と川口川との分水稜をなす。谷地川によって二派に分かれ、加住北丘陵・加住南丘陵と呼ばれる。高さは西方で260前後、北丘陵の先端は小宮町までのびて140前後。南丘陵は大谷町付近まで達して130mまで高度を下げその先は日野台地に広がる。北丘陵は滝山丘陵の名で親しまれ都立滝山自然公園がある。各所で開発が進み住宅団地・ゴルフ場・大学などが生まれた。北丘陵の先端部の公団宇津木台団地はとくに規模が大きい。(Web八王子辞典)


・・・かたらいの路・滝山コース


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16号入口から入り階段をひと登りで尾根道にでます/16号入口先

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左手から少林寺の道を合わせます/古峰ヶ原園地

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「かたらいの路・滝山コース」
かたらいの路とは多摩の丘陵地に位置する国立公園や国定公園、都立自然公園などを結んで子供からお年寄りまで都民の皆さんが楽しめる野外レクリエーションのための施設です。滝山コースには自然や史跡などがいっぱいつまっていて次のような見所があります。さぁ、お弁当と水筒を持ってみなさんで出かけましょう。

d0183387_21341410.jpg雑木林

私たちが雑木林と呼んでいる林はコナラやクヌギなどの落葉広葉樹を主とした林の総称です。昔、人々は薪や炭を燃料として利用していましたがこれらの燃料として使われていたのが雑木林の木々でした。かつての武蔵野には特にこの雑木林が広く分布し作家国木田独歩は小説「武蔵野」の中でその様子を描いています。雑木林を構成している木々は切り株から芽を吹く力が強く15年~20年の間隔で何度も伐採されながら利用されてきました。従って雑木林は人の手によって管理されてきた林であるともいえます。燃料として薪や炭が使われなくなってから、各地の雑木林は次々と伐採や管理をされなくなってしまいました。

d0183387_15053778.jpg滝山城跡
滝山城は武蔵野の国の守護代であった大石定重が築城したとされる典型的な山城で、大石氏と小田原北条氏の一族の居城でした。城郭の大きさや掘割の規模など戦国時代の城郭の遺構としては日本有数の規模を誇っています。現在でも本丸跡、中の丸跡、空堀や土塁などを見ることができ、空堀の底に下りることもできます。また滝山城跡を周遊するルートも設けてあります。現在の滝山城跡はサクラの名所としても知られておりソメイヨシノやヤマザクラなど5000本のサクラが植えられています。

d0183387_16222299.jpg秋川と多摩川
秋川の上流部は三頭山に源を発する南秋川と、倉掛山付近から流れ出す北秋川2本に別れています。これらが檜原村本宿付近で合流、あきる野市を通って八王子市・昭島市との境界付近で多摩川に合流します。浅川と並んで多摩川の大きな支流の一つとなっています。本流である多摩川は山梨県丹波郡に源を発する丹波川と小菅川とが奥多摩で合流しひとつになったもので東京都を代表する河川です。上流から中流にかけては日原川や秋川、浅川などの支流を合わせて流下し下流では神奈川県との県境となしています。秋川、多摩川ともに上流部には数多くのキャンプ場や釣り場があり都民に貴重なレクリエーションの場を提供しています。(東京都多摩環境事務所)



・・・滝山城址公園

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木橋を渡ると滝山城址の遺構が次々に出てきます

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滝山公園案内図
(赤:歩行ルート 橙:かたらいの路 紫:滝山街道)


d0183387_22490652.jpg木橋(引き橋)
唯一尾根続きのこの場所は、滝山城の弱点であったと考えられる。そのため防禦の厳重を要した。この橋は「引き橋」だったと思われる。橋の下の堀は大池の土手とつながり一大防御を考えた縄張り(城の設計)になっていた。(説明板)


d0183387_23241482.jpg信濃屋敷跡・刑部屋敷跡

城跡の曲輪は大まかに城郭の中心となる要害部と、それを取り巻く家臣屋敷は分けられるが、この曲輪は後者である。 南側に一段低く通路が設けられ、曲輪内部は四つに区分されている。(説明板)


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二の丸跡

d0183387_09551366.png二の丸

滝山城で最も防御性に優れているのが二の丸である。3ヶ所の出入り口は全て「馬出」を備え、集中的な防御の備えが認められる。築城家は二の丸を防ぐことによって本丸・中の丸を守れると考えたようだ。(説明板)


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左が坂下バス停(大手口)方向、直進すると中の丸・本丸です/分岐

d0183387_23563721.jpg都立滝山公園(公園の概要)

多摩川と秋川の合流点の南側に広がる加住丘陵にあり都立滝山自然公園の一部です。標高160の公園の北には田園や多摩川の景観を望むことができます。またここには古くからハイキングコースとして親しまれています。付近一帯は桜の名所として知られソメイヨシノやヤマザクラ約5000本が春を彩ります。

滝山城跡 戦国時代中期に建てられて滝山城は川沿いの絶壁を利用した典型的な山城で、今も本丸・二の丸・千畳敷・空堀など貴重な遺構があります。滝山城跡は昭和26年に国の史跡として指定されました。(説明板)


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中の丸跡

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中の丸南側の防御

中の丸の南側は2方向から攻め寄せられ、敵が合流できる場所だった。この場所には木橋の前面を守る防衛施設が必要である。土塁の残り方から考えて櫓門があったのではないかと推定される。

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中の丸
「中の丸」の山腹には腰曲輪と呼ばれる平面が多摩川に向って数多く設けられている。このことから北側の多摩川方面に対して警戒していたと考えられる。付近には河越街道の渡河地点である「平の渡し」がある。この重要な地点を抑えるために滝山城は構築されたと考えられる。(説明板)

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対岸の拝島方向の景観です/中の丸


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本丸跡

d0183387_10404326.png本丸跡
曲輪は南北二段に分かれ土塁により囲まれている。南側の低い段には出入口と推定される枡形虎口が2箇所確認できその一つは引橋を通じて中の丸へ、もう一つは堀底へと通じている。当時の井戸跡も良好に現存している。北側は一段高く多摩川方面が一望のもとに見わたせる配置である。(説明板)






d0183387_12555861.jpg本丸への木橋

当時の木橋はもう少し下に設けられていた。おそらく中の丸に敵が押し寄せてきたら、本丸へ半分程度引き込むことができたと思われる。人工的に掘られた大堀切の上に架けられており、本丸が最終的な砦となっていた様子がわかる。「大堀切」はもっと深かったことが試掘によって確認されている。(説明板)

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本丸南側枡形虎口
本丸の主たる出入り口は2ヶ所ある。1ヶ所は中丸から引き橋を渡って入る虎口、もう1ヶ所は南側に設けられている。枡形は敵の直進を防ぐための工夫である。もし敵がこの虎口に侵入すると体の左側に城兵の攻撃を受けることになる。現在でも枡形が大変よく残っている城郭遺構である。(説明板)


d0183387_00560995.jpg滝山城本丸址の碑(左)
此の城は関東の名城といわれ天文5年(1536)北條氏康、同21年(1552)上杉謙信、永禄12年(1569)武田信玄の諸豪からの猛攻を受けている。大永元年(1521)始めて大石定重之を築き定久之を受けついで北條氏照の居城となった。尚この城の城下町八王子の発祥地である。(八王子市長野義造)

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井戸跡                   沢井益三氏の句碑

d0183387_01034510.jpg霞神社由緒
明治378年戦役(日露戦争)に武勲を樹て散華された英霊を奉斉せん為、明治4551日當時の在郷軍人会加住村分会の首唱によって史蹟である北條氏照の居城滝山城跡本丸跡をトし、神社を創建して霞神社と称した。この時に奉斉の英霊は15柱で、爾後毎年盛大な慰霊顕彰の祭典が奉仕され来った。 昭和の御代となり満州事変、支那事変及び大東亜戦争に出征し戦功を挙げて戦没された壱129柱の英霊を更に合祀して今日に至った。今回、八王子市合併を機とし加住地區遺族会が発起して設立された滝山霞神社銘碑建設協賛会によりここに碑を建て、霞神社御祭神芳名を録しその勲功を永久に伝へんとするものである。(碑文)


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かたらいの路分岐から大手口へ下ります。右手は千畳敷、左手が三の丸です


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馬出/千畳敷
虎口(出入り口)の前方に設けられて空間を馬出という。この場合は方形に作られていることから「角馬出」と呼ばれている。馬出があることによって大変堅固な守りとなり、守備する城兵の出撃も容易である。二の丸の3ヶ所の出入り口は馬出がそれぞれ設けられていた。(説明板)


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コの字型土橋/三の丸
堀を掘る際に一部を土のままに残して通路として使う場所を土橋という。当時はもっと狭く、敵方の侵攻に対して4回も体の向きを変えて進ませ側面攻撃が出来るように工夫していた。敵の直進を防ぐための土橋であり大変貴重な城郭遺構である。(説明板)


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三の丸の下が小宮曲輪、右手奥進むと山上曲輪があります

d0183387_12044442.png小宮曲輪

「小宮曲輪」と称されてきているもので、氏照の家臣の中に西多摩地域出身の家臣(小宮氏)が活躍していたと思われる。小宮曲輪の内部には土塁(土盛り)でいくつかの屋敷に区切られていたと考えられる。小宮曲輪と三の丸との間には枡形虎口(出入口)があったが車道により消滅した。(説明板)





d0183387_12324931.png山の神曲輪

「山の神」とは全国各地に残る民間信仰で農耕の神である。春は里に下り、秋の収穫を見守ると再び山に戻ってくる。この山神を祀る山神曲輪は城下や周辺村人の民衆たちを敵の乱取り(放火や略奪)から守るために設けられて避難場所だったと考えられる。永禄12年(1569)城周辺の村々は武田軍によって焼き払われて。この時一般の民衆は領主の城(滝山城)へ避難したと思われる。(説明板)



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展望が開け対岸の様子が分かります、眼下は高月になります/山の神曲輪跡


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天野坂

d0183387_12493073.png天野坂から枡形虎口へ
大手口と思われる天野坂からの堀底道は城兵が効果的に攻撃できるように工夫されている。小宮曲輪と三の丸の間に枡形虎口が設けられていた(図の中で復元)攻め上る敵側にとっては大変脅威にさらされる場所で、侵入するのが難しかったと思われる。(説明板)








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城址の入口(大手口)         滝山街道からすぐです




・・・滝山城下

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城下の西側には谷地川が流れ、橋に宿名が残ります/八幡橋

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滝山街道

石川町から戸吹町までの道の通称。国道411号線の一部で、谷地川沿いに走り日野市方面と秋川市・五日市町方面とを結んでいる。(Web八王子辞典)

d0183387_13374198.jpg滝山村
江戸期から明治前期にかけての村名。多摩郡小宮領のうち滝山郷谷地庄に属す。滝山の名は古くこの周辺一帯を滝山といった。戦国期に北条氏照が滝山城居城のころは八幡宿といった。氏照が城を慈根寺(元八王子)に移しさらに八王子城落城の後、総名滝山をとり滝山村という(風土記稿)。江戸期の村高(村の生産力)185石、戸数24戸から30戸、人口100人から170人ほど。今の滝山12丁目と尾崎町にあたり1889年(明治22加住村の大字となる。(Web八王子辞典)


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ここからも尾根に出れます       途中でお馬さんに会えます

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滝沢街道の左手に「古甲州街道」が残ります/純真女子大下


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鉤の手にお地蔵さん          少林寺の鈎の手にもお地蔵さん

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純真女子大の脇の道は「鎌倉道」だそうです


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古峰ヶ原園地へ行けます       「古甲州街道」との鈎の手です

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少林寺山門

d0183387_14100254.jpg少林寺

元亀2年(1571)の創建で瀧山城主北条氏照開基の寺で、開山は氏照の乳母の子・桂厳暁嫩大和尚です。徳川家光公より慶安元年715日朱印貮拾伍石を賜る。末寺10数ヶ寺を有し、檀家7割は北条家臣団の末裔です。瀧山城の東南の山麓の景勝地、龍の池のほとりに建立し出入口が辰巳という四神相応の地で氏照の住居だったと言われています。少林寺を中心として参道の西側を八幡宿、東側を八日市宿横山宿と今でも呼ばれており、現在の八王子町並の元がここだとわかります。天保年間に建立された荘厳な七堂伽藍の建築に際して創建時に氏照寄進の北条の壱千有株の松(270年程の松)を伐採した。明治19年の1月の火災で惜しくも前建築の本堂他焼失した。現在の本堂は平成5年に落成した木造入母屋造り。(八王子仏教会)

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境内からみると街道側は谷戸になっています

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東京都立滝山自然公園案内図
(緑:滝山自然公園 茶:滝山近郊緑地保全区域 赤:歩行ルート 橙:かたらいの路)



・・・・・・・
資料ファイル

滝山合戦

1569年(永禄121012日、北条氏照と甲州武田勝頼の間に生じた攻囲戦。北条氏の関東進攻は武田氏、今川氏と結んで進められたが、今川氏の滅亡をめぐる対立から武田氏と対抗した。武田信玄は同年秋北条氏を威嚇し、同盟者にひきもどすことを狙って関東侵攻を断行。信玄は総帥として拝島大師に陣取り、滝山城攻めには勝頼が当たった。同月2日、滝山城内の小宮郭、三の丸一帯は陥落したが氏照は二の丸二階門に上がって防戦した。信玄は小田原城攻めを前にして自軍の損害が増加することを恐れ2日夜攻囲を解き、杉山峠を夜中に通過し小田原城へ向かった。(Web八王子辞典)

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滝山城縄張図

都立滝山公園(解説)
滝山城は相模小田原城に本拠を置く戦国大名北条氏4代当主・氏政の弟・氏照の居城である。縄張りの見事さから全国有数の戦国時代の城郭として評価されている。北条氏照はこれまで「大石系図」などにより武蔵守護代の系譜を引く大石定久として滝山城に入ったとされていた。しかし、近年の研究では氏照は幼名を藤菊丸と称し、浄福寺城(市内下恩方)を拠点に由井領を支配していた大石道俊(定久か)の子・大石綱周の養子となったと考えられている。滝山城の築城年代や氏照の入城時期は不明な点があるが、永禄10年(1567)までには滝山城を居城としていたとみられる。永禄12年(156910月、甲斐の武田信玄が小田原城攻略の途中、その道筋にあった滝山城を包囲した。拝島大日堂の森(昭島市)に陣取った武田勢は周辺の村々を焼き払い、滝山城を裸城にしたと伝えられている。このとき、氏照は古甲州街道沿いの城下「宿三口」(しゅくみくち)へ兵を繰り出し戦ったと、後年の上杉謙信に自らの書状で伝えている。その後、天正10年頃から新城の築城工事が始められ、同15年までには滝山城から八王子城(市内元八王子)へ移っていったのである。(説明板)


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d0183387_14314282.jpg都立滝山公園(解説)

この城の大きな特徴二の丸の防御方法にある。二の丸へは三方面から侵入できるが、どの方面にも「馬出」という平場が備えられている。その中の二カ所は方形の平場で「角馬出」と呼ばれている。寄せ手(敵方)はこの馬出を占拠しなければ、二の丸へは侵入できなかった。こうした二の丸防御の堅固さから永禄12年(156910月、甲斐武田信玄との滝山合戦において、城主氏照は二の丸櫓門の上で奮戦し敵を退けたと軍記物に語られるようになった。軍記物の記述の真偽はともあれ、このとき氏照は自らの書状で古甲州街道沿いの城下「宿三口」(しゅくみくち)へ兵を繰り出し戦ったと、越後の上杉謙信に伝えている。(説明板)

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行き止まり曲輪
「行き止まり」とは「ふくろのねずみ」という意味で、両端が狭い土橋になっていて行き止まりのような形になる。寄せ手側には行き止まりのからくりが、城兵からすると格好の馬出(出撃用)となり、実に巧妙な防御が施されている。こうした「行き止まり」の曲輪は二の丸の南側にもあり、大変貴重な城郭遺構である。(説明板)

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大馬出                角馬出




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本丸へ入る枡形虎口

d0183387_00502477.png国史跡滝山城跡・枡形虎口

この場所は中の丸から引橋を渡って本丸に入る虎口(城の出入り口)という部にあたります。虎口は防御と攻撃の両方の機能を備えたもので、中世末において発達したものですが、滝山城の虎口は周囲を土塁で方形に囲った「枡形虎口」と呼ばれるもので、北条流の特徴の一つと言われています。滝山城跡は都立公園として整備されていますが、東京都では平成8115日~1228日にわたって枡形虎口の発掘調査を行いました。調査は東京都教育委員会・八王子市教育委員会の指導の下に行われ、現在は元通りに埋戻してあります。


d0183387_00550121.png調査の結果、現状の地表から約1.2mのところに3040mの扁平な川原石を敷き詰めた道路が発見されました。その巾は引橋櫓でで5.4m、右に直角に曲がると約3m、さらに左に曲がると約2mとだんだん狭くなっていました。引出側には南側と両側にL型状に側溝がつき、その先は一部暗渠となって土塁の中につながっています。また、土塁の断面からは赤土(ローム)と黒土を交互に突き固めた版築も確認されました。

d0183387_01093239.png土塁の断面
水平に土を盛り上げていることが分かります。石畳の面から測ると土塁の高さは約4.7mにもなります。(説明板)





・・・

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八王子市の城館跡

高月城

八王子市高月町。多摩川と秋川の合流点近くで加住丘陵を利用した天然の要害である。曲輪、堀切、土塁などの遺構が残る。1458年(長禄2年)山内上杉氏の重臣で武蔵国の守護代大石顕重が築城し二宮(現在のあきる野市)から移った。Wikipedia

浄福寺城
八王子市下恩方町にあった中世山城で新城(にいじょう)、案下城、松竹城、千手山城(せんじゅさんじょう)など様々な別称で呼ばれていた。1384(至徳元年)大石信重によって築城されたと言い伝えられる。一方、『新編武蔵風土記稿』によれば、「大石源左衛門尉入道道俊と云もの当所に居城を構へし」(道俊は大石定久といわれる)との記述もある。後北条氏の時代になると八王子城の出城として使用されたとされる。1590(天正18)の豊臣秀吉による八王子城攻め、落城とともに浄福寺城も落城、廃城となった。Wikipedia

戸吹城
戸吹町にある。1521年(大永1大石氏が築いたと伝える。滝山城の支城で根小屋城ともよぶ。空濠の遺構が僅かに残る。(Web八王子辞典)

戸倉城
あきる野市西戸倉城山にあった日本の城。戸倉城は小宮氏により築かれた山城。両上杉氏が没落すると北条氏の支配するところとなったが、この際北条氏に家督を譲った大石定久隠居の地として戸倉城を選んだと伝わる。Wikipedia

初沢城

現在の八王子市初沢町にあった中世の山城である。別名を椚田城(くぬぎだじょう)・高乗寺城という。鎌倉時代に片倉城に在城していた高乗寺開祖の長井氏によって築城されたとも伝わるが諸説ある。「新編武蔵風土記稿」によれば、鎌倉幕府初期の御家人で武蔵七党の横山党の一族・椚田氏の居城と推測されている。後北条時代、八王子城の出城の一つとされ1590年(天正18年)の豊臣秀吉による八王子城攻め、落城とともに初沢城も落城・廃城となった。Wikipedia
初沢城址の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23783240/

片倉城
八王子市片倉町にあった平山城である。扇谷上杉氏の家臣長井氏が拠ったとされる。平安時代中期以降、武蔵七党の一つ横山党の領地となった。室町時代、大江広元を祖先に持つ大江備中守師親あるいは長井時広が在城(築城)したと言われているが諸説ある。長井氏以降の片倉城に関しては詳らかでないが、その堅固な構造から後北条氏の領地になってからも砦として戦国時代後期まで使用されたと考えられる。1569年三増峠の戦いで北条氏照と氏邦が出陣した城。Wikipedia
片倉城址の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23541239/

大石氏館跡
松木にある室町期の屋敷跡。大石顕重が高月城を築くまでの居館という。大栗川東岸の台地上に土塁・空濠の跡がわずかに残る。(Web八王子辞典)
(伝)大石氏館跡の関連記事はこちらへhttp://teione.exblog.jp/23472917/



by Twalking | 2017-02-21 10:59 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 滝山城址(日野~東秋留)01 小宮   

日時 2017.2.15.(水)
天気 晴れ


鎌倉街道山之道では八王子城は外せません。
調べているうちに、その前に滝山城ではないか、
そう感じましたので、まず滝山城を訪ねてみました。

バスで丹木下、あるいは小宮駅からが一般的ですが、
ネットでみると日野~東秋留というのもありました。
モノレールも使えますので東光寺道で行ってみました。



・・・東光寺道(日野市)

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街道の風景① 左手に日野台地を見ながら、日野用水と共に北へ/栄町

日野台地
市の東北部の大和田町・高倉町辺から日野市北部にかけて広がる台地。高さ100120m。加住南丘陵の東につづく地形で、多摩川と浅川の間にあり、台地の縁では段丘地形がよく観察される。台地上を甲州街道が縦走する。(Web八王子辞典)

d0183387_00115997.jpg都道169号淵上日野線

あきるの市から八王子市を経由して日野市に至る都道である。『日野市史』によればこの道は室町時代には五日市道と呼ばれていて、江戸時代初期に甲州街道が開かれるまでは武蔵と甲州との交通はこちらの方がメインストリートであった。甲州街道が開かれてからは脇往還として機能していた。この道はまたの名を東光寺道とも言う。江戸時代末、新撰組の支援者であった佐藤彦五郎らが土佐藩兵を中心とする東征軍から逃れるために使った道でもある。起点:あきる野市渕上 終点:日野市日野本町6丁目Wikipedia


d0183387_23393913.jpg加賀塚(竹間加賀入道の墓)

加賀入道は小田原北条氏に仕え日野本宿に住み、日野に知行を有した武士である。また鉢形城(埼玉県)の守備にあたったとも伝えられる。その名は佐藤昱家の古文書(北条氏照印判状)にもみられる。豊臣秀吉が関東に兵を進め、北条氏と交戦状態に入った天正18年(159028日鉢形城から帰り、この地で切腹したという。八王子城が豊臣軍の攻撃で落城する4ヶ月前のことである。(日野市教育委員会)


d0183387_23423837.jpg水車堀公園

日野用水上堰の流れるこのあたりには東光寺地区の共同水車があり、昭和25年くらいまで地域の人々にさかんに利用されていました。当時の日野用水は水量が豊富で、その水車は通常の水車と比較にならないおおきなものでした。通常の水車は杵が6本のところ12本あり、一度に米6俵がつけました。さらに粉場(製粉場)もありました。(日野市)

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日野用水の風景① 川幅が少し広くなってきます/栄町5


d0183387_23494410.jpg東光寺大橋の碑

日野の栄町と新町一帯は東光寺と呼ばれ、日野宿と八王子を結ぶ通称「東光寺道」が通っていた。右側にある「東光寺大橋の碑」は東光寺道が日野用水上堰を渡る場所に架けられた石橋(現存せず)の架橋を記念して弘化31846)に建立されたものである。碑文には天明6年(1786)に土橋から板橋に架け替え、文化5年(1808)には石橋にしたが、天保年間(183044)に崩落したこと、このため村民が協力して弘化3年に伊豆石を用いて架橋したことが記され村の変遷を知ることができるものとして市史跡に指定された。
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またこの碑の左には大正時代に建てられて「東光寺大坂の碑」がある。碑文には八王子に向けて登る坂道が険しかったため崖を開削し、排水溝を設けたことなどが記されている。この碑は往時の交通を支えた村民の姿を今日に伝えるものとして貴重なものである。(日野市教育委員会)


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新旭橋

旭橋の下を流れるのは谷地川です。河川改修が行われ現在のような直線の川となりました。旧谷地川は石川堰の場所を流れていました。新旭橋と平行して日野用水も橋で川を渡っています。このあたり、たぬきやハクビシンが出没するそうです。(日野市観光協会)

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日野用水を歩くマップ/日野市観光協会(赤:東光寺道 緑:中央道)

日野本郷の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23830616/



・・・小宮町(八王子市)


八王子市の最北東に位置する。東端を谷地川が北流して多摩川に合流している。西部を八高線が南北に縦断し小宮駅が設置されている。昭和18年八王子市大字栗ノ須の一部から成立。地名は近世、南多摩郡に存在した領名・小宮領に由来する。小宮領は新編武蔵風土記稿によれば59ヶ村を占める地域であり、小宮領の由来は武蔵西党の庶流にあたる小宮氏の所領であったことによる。
Wikipedia

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日野用水の風景② この辺りは東屋があって釣りもできるそうです/日野市境

お茶屋の松
日野用水に沿った道は「東光寺道」とも「拝島道」とも呼ばれていました。用水を掘削した時に造られた道ともいわれる古い道です。現在は工場の敷地に細い松が植えられていますが、ここには、昭和40年代まで「お茶屋の」という黒松の大木がありました。昔からここは東光寺村(日野市域)と粟ノ須(あわのす)村(八王子市域)との境界となっていました。この先、日野用水は小宮を抜け平町にある日野用水堰(平堰)まで続きます(日野市観光協会)

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街道の風景②/ 街道は真直ぐですが取水口のある多摩川へ寄り道します/小宮町

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多摩川の風景① 奥多摩の山並みが美しいですね。煙突の左が加住丘陵の登り口、滝山城へ続きます/多摩大橋

d0183387_01050229.jpg都道59号八王子武蔵村山線

八王子市から昭島市、立川市を経由して武蔵村山市に至る主要地方道である。2007年多摩大橋の新橋開通。2014年全線に「多摩大橋通り」の通称名を設定。起点:八王子市大和田町 終点:武蔵村山市本町Wikipedia

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多摩川の風景② まだ乗ったことのない路線ですが
八高線を潜ります



・・・平町
(たいらまち)

平村
江戸期から明治初期にかけての村の名。多摩郡小宮領のうち、現在の日野市域の平村(南平村)と区別して「山の根平村」とも呼んだ。また1590年(天正18)名主が徳川家康の案内をした際下賜された金銭と檜扇から、金扇平または金銭平とも呼んだ。発音は「きんせん」又は「きんせね」という。江戸初期は代官領であったが、1778年(安永7)以降旗本・高家前田信濃守の知行地。村高(村の生産力)434斗、江戸期の戸数12から15戸、人口73人の小村である。鎮守は西玉権現日光大権現社、のちの平町の地域。(Web八王子辞典)

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多摩川の風景③ 日野用水の取水口になります

d0183387_01295625.jpg日野用水堰

この堰から日野用水は取り入れられています。堰のある場所の地名から「平(たいら)堰」とも呼ばれています。ここ八王子市平町はその昔は平村だったため、浅川に沿った日野市域にあった平村は変名を余儀なくされ南平となったという経緯を生みました。堰は昭和29年から8年もの工事を経て完成しました。近年においても魚道の建設など、改良が加えられています。堰によってできた中州は絶好の生き物たちの棲み家となっています。なかでも、夏はツバメの集団ねぐらとなっており夕方には野鳥愛好家が多く訪れています。(日野市観光協会)

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多摩川の風景④ 対岸の大神もそうですが、中州が広がる光景は和みます


平の渡し

多摩川にあった渡船場。江戸期に平村と対岸の大神村とを結ぶ渡船があって川越街道の往来に利用されており、さらに古く後北条氏の時代から用いられていたという。193233年(昭和78)ごろ廃止。いま旧渡船場の位置には大堰ができている。(Web八王子辞典)

d0183387_09472782.jpg平の集落

江戸時代は日光へ続く主要な街道の拠点であった。集落を西南から東北に貫く道がその街道で、広い道ではないが、道端には石の道標があり、集落の北の高台には小さな集落には不相応とも思える社寺が並ぶ。寺の南の高台にある西玉神社は元は作目村にあったが、多摩川の洪水で集落ごと流されたためここに移設したと伝えられている。大蔵院という寺の西、旧街道から少し西に入ったところに樹齢500年と言われる太い銀杏の木が立っている。(Web八王子辞典)

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d0183387_09512357.jpg大蔵院

比盧宝山福生寺と号し、本尊文珠菩薩。僧栄秀が元和七年(16213月創建したが、その前身は才蔵坊という庵であった。その後万治3年(1660)本堂を焼失し、現在の本堂は文化7年(1810)建立のものである。同村西玉権現社および大日堂の別当であった。(八王子市史)


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西玉神社鳥居

d0183387_10170748.jpg西玉神社・東照宮

祭神大国命に東照宮=徳川家康を配祀。例祭日417日、915日。西玉神社の創建は不詳。昔村の西・玉川岸にあったが水害により社殿が流失。1841年(天保12)現在地に遷座。東照宮は1622年(元和8)徳川家康7回忌に龍光寺僧秀観が遷座。境内に歯神がある。(Web八王子辞典)

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多摩川の風景⑤ 日野用水堰、対岸の大神公園&昭島駅方向の展望です/境内


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街道の風景③ 丘陵上は大規模な旧宅地ですが公園を緑地で繋いでいます/宇津木台緑地

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大きな住宅地です/宇津木台      16号を左折すると滝山城址の登山口です


by Twalking | 2017-02-17 17:05 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり日野(5) 平山城址   

日時 2017.2.12(日)
天気 晴れ


ちょっとご無沙汰してましたので七生丘陵へ。
ここは自宅から歩いても1時間程の所、
堀之内の里山と尾根歩きが楽しめます。

今回は平山城の関係史跡を訪ねてみました。
住宅地になってますが感じはなんとなく掴めます。
尾根の眺めもいいし、また違った味わいでした。


・・・堀之内

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七生丘陵の風景① 南麓の堀之内から平山城址を眺めます/堀之内寺沢里山公園

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七生丘陵の風景② 谷戸との上は農地が広がります/堀之内寺沢里山公園上

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途中のお地蔵さん                 谷戸の上です

堀之内の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23469909/



・・・七生丘陵西コース

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七生丘陵の風景③ 丹沢山系&富士が一望できます。右手が尾根道です/メモリアルガーデン多摩

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ここがコース入口です               左のフェンスが旧多摩テックです


・・・平山城址公園

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七生丘陵の風景④ 左手(南側)が西園になります

d0183387_22410823.jpg平山城址公園
多摩丘陵北部の八王子市と日野市にまたがる公園である。京王帝都電鉄(現・京王電鉄)によって野猿峠ハイキングコースの中間にある平山ゴルフ場跡1954年、平山城址公園が開設された。1980年都立公園に指定。平山周辺には平山季重の居館があり平山城址公園には見張所があったとされていることから公園の名称にもなっている。公園入口付近にある季重神社では平山季重を祀っている。500本のソメイヨシノやヤマザクラなどが植えられており桜の名所として知られている。 また、クヌギやコナラなどの植物も多い。夏になるとオニヤンマやカブトムシなども稀に見かけることができる。Wikipedia

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ひとときのデッキ           ひだまりのデッキ

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展望広場からは奥多摩の山々が一望できます。前方左手が東園になります

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京王グランド先へ           東園の入口です

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こちらの谷戸も変化があって面白いですよ/東園

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尾根は野猿峠に続きますがこの先で住宅地へくだります/野猿峠ハイキングコース

野猿峠ハイキングコース

1928年(昭和4年)から1930年頃にかけて鎌田鳥山と京王電鉄がハイキングコースとして高幡不動から野猿峠、御殿峠の尾根道を開いたハイキングコースである。長沼公園と平山城址公園をつなぐコースであり、その南側に並行して野猿街道がある。昭和30年代始めにはハイカーで賑わった。その後多摩動物公園の開園や造成に伴い尾根道は分断されている。Wikipedia

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七生丘陵の風景⑤ これは絶景 高尾&奥多摩に囲まれ中央を浅川が流れます/六国山

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平山城址公園案内図(黄:七生丘陵西コース) 

d0183387_23493306.png都立平山城址公園

源平の一の谷合戦の先陣争いをはじめ、数々の合戦で勇名を馳せた源氏方の侍大将・平山武者所季重(すえしげ)。季重の居館は現在の京王線平山城址公園駅付近に、見張所はその南にそびえる丘陵尾根にあったと云われています。平山城址公園はこの見張所のあった丘陵に広がる公園で、東京薬科大学の通路を挟んで、西園と東園に分かれています。公園と駅の間に位置する宗印寺には季重の供養塔(五輪塔)が残され都の旧蹟に指定されています。宗印寺の背後の丘陵尾根上には季重神社が建立されています。また、東園の南側には八王子堀之内里山保全区域が隣接し、里山風景が広がっています。(案内板)


・・・平山城址

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季重神社

都立平山城址公園入口の北側、丘陵が少し突き出ている所に平山季重神社の小さな祠が建っています。古くは日奉明神社と呼ばれており、現在でも日奉神社とも呼ばれています。平山季重が祖先の日奉を祀ったものとも季重を子孫が祀ったものともいわれています。この場所は丸山と呼ばれ、かつては平山氏の見張り台があった場所との言い伝えもあります。現在の祠は平成1743日に落成したもので、祠正面に「平山季重」とくっきり刻まれています。平山八幡神社の氏子や地域の方々の協力で約50年ぶりに建て替えられ総ヒバ造りの白木が眩しく光っています。平山季重の居館があったとの言い伝えもある平山橋北の大名淵。そこには大正末頃、安田財閥の安田善衛氏の別荘があり昭和30年代それが取壊しとなった時、敷地内にあった稲荷を丸山に移して祀り祠を建てたのが先代のものです。もともとこの場所には古くから石で出来た小さな祠がありそこに合祀したのです。その石祠はその当時もそして今回も祠の礎石の中心に大切に祀られています。(日野市観光協会)

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下り道の様子             季重神社直下の様子

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さらに下った中腹の削平地の様子、もとゴルフ場だったそうです


d0183387_12043031.png平山城縄張り図
当城の形態が鎌倉期まで遡るものとは考えられず、平山一族とこの平山城を結びつける根拠はとぼしい。仮に平山氏一族の子孫がこの城の最初の構築者であったとしても、後北条氏の武蔵進出の一連の戦乱の中で、多摩川周辺の城砦群と同様、適時利用され改修が加えられていった結果、現在の姿が形成されたものと考えるべきだろう。平山城はごく素朴な山城といえる。全体的な構成や曲輪の配置、曲輪の縁に土塁がみられないこと、さほど強い遮断的意思を感じないことなどの点では高幡城とよく似た印象をうける。一方、ルートに対する備えという面では、土塁状の張り出しを用いて明確な防塁意図をもった虎口を形成(赤丸)している点に、やや進んだ面があるともいえる。(日野市ふるさと博物館紀要41994「日野の中世城館を探る」から抜粋)


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宗印寺山門

d0183387_00311617.jpg宗印寺 

万福閣と号し曹洞宗、由木(八王子市)永林寺末である。本尊聖観世音菩薩。境内は昔安行寺無量院のあったところといわれている。開山は永林寺第七世傑秀賢鷟大和尚(寛永14年・1637 54日寂)といい、開基を中山助六郎照守(寛永11年・1634正月22日卒去)とする。縁起によれば本寺の裏手に当たる地に一体の聖観世音菩薩像が安置されていた。無量院の廃庵内ではなかったかといわれる。その菩薩は人々の求めには必ず応え、願いの叶えられぬことはなかった。地頭の中山照守は永林寺の傑秀賢鷟禅師に懇請してその地に一庵を建て尊像を安置したのがはじまりであったという。慶長4年(1599)のことである。その後67名の住持が入れ替わったが一寺を成すには至らなかった。寛文3年(1663)になって一東天樹はひとえに檀徒を募り新たに一寺を開いた。一東天樹大和尚を当寺開山とするのはこの故である。それから42年後の宝永2年(1705)堂宇も朽損したので時の3世大本慧立大和尚が、諸人の合力を得て普請にかかり同年620日落成した。このとき開基中山照守の戒名宗印居士をとって大沢山宗印禅寺と号した。下って明治初年平山大福寺が無住となり同17年(1884)当寺に併合した。

d0183387_00350782.jpg明治初期からの宗印寺は荒廃甚だしかった。大正中期住職が当山の再興を本願しているとき「当山に大神あり、寛政年中に山城国より正一位稲荷を武蔵国多摩郡平山(当山)に祭祀しあり、よく堂内を見るべし」との霊示を受け、直ちに調べたところ庫裡の神棚に一尊像を拝したという。この神体(秘尊)を平山万福稲荷大明神として本堂南西の高台の堂宇に奉祀し守護神とした。以釆、大沢山の山号を呼ばずに万福関と称するに至った。現在は万福皇太神として稲荷の称号を廃している。本尊聖観世音菩薩は本堂内陣の中央に安置してある。高さ約13寸不動尊と多聞天を脇侍とする。武相観音霊場の第44番札所でもある。特に卯年には巡拝の人々が後を絶たない。堂内には別に千手観世音菩薩立像が安置される。もと大福寺の持仏であったが明治17年(1884)当寺に移された。

d0183387_00401702.jpg薬師堂
昭和18年平山地区に都道が開設された際、その道筋にあった薬師堂をこの地に移したものである。古くから平山の寅薬師と呼ばれ安産と眼病平癒を祈願した。毎月22日の縁日には地元の老若男女が集い読経念仏の供養がなされ、1022日にオコモリ供養が行われる。(日野市史)

木造平山季重坐像(市指定有形文化財)

平山季重は武蔵七党の武士団に属し、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて源氏に従い活躍した武将だが晩年には仏門に帰依したと伝えられる。像は小形ながら基本的には頭、体部を通じ前後二材と両側面各一材、それに膝前一材を用いた寄木造である。剃髪し袈裟を着けた法体形に表される。太い眉、遺志的な口元は肖像彫刻として像主の個性をよくとらえたものと思われるが、手なれた技法や作風から江戸時代前期の制作と考えられる。故人の遺徳を追慕して造立されたものであろう。(日野市教育委員会)

d0183387_00464720.jpg都旧跡平山季重墓(都指定有形文化財)

平山季重は平安末期、鎌倉初期の東国武士の典型である。平山氏は武蔵七党の中の一つ西党に属し宗家日奉氏の分派になる。秋川流域を中心として後代この地を支配した小宮氏は平山氏の同族で政権の移転によって改姓したのではないかという説もある。建保元年(12135月の和田の乱で横山党は滅亡したが、同族の平山氏はこの乱に加担しなかったと思われる。季重は一の谷合戦に際し熊谷直実、直家父子とともに有名をはせたことが活写されているように、豪放大胆な関東武士の面影をあますところなく発揮し、さきの保元、平治の乱にも活躍した人物である。五輪塔の高さは1.7、旧平山小学校内にあったが大福寺が明治6年(1873)に廃寺になったので現在地に移転された。この墓は季重25代の孫松本藩の平山季長が追悼のために建立したものである。(東京都教育委員会)


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平山天神像              布袋尊像


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北野街道を横断して平山城址公園へ向かいます


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平山季重遺跡之碑」(右)「季重公霊地碑」(左)の間から城址を望む/駅前

平山季重居館跡
平山季重遺跡の碑が建てられている周辺はもと曹洞宗由木永林寺末・大福寺のあったところで、古く平山季重の館跡であったと伝えられている。文化2年(1805)大福寺を訪れた平山正名(下総国香取郡鏑木村・季重の子孫と称する)は寺内の季重の墓に詣で、その荒廃を嘆いて修復を発願した。その意思は子の正義に受け継がれ遺跡の碑は正義によって建てられた。碑文の筆者は幕末の剣客として有名な男谷精一郎信友である。季重居館跡の碑は大正14年(1925)に七生青年団平山支部によって建てられた。(説明板)

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七生丘陵の風景⑥北麓を流れる浅川・滝合橋から七生丘陵を眺めます。右手が平山城址です


・・・・・・・
資料ファイル

d0183387_12555280.png平山中心部

平山の城・平山館について

館の候補地として新編武蔵風土記稿による「大名淵」、平山城址公園の山頂の「平山城」、平山季重の墓標などがあった「大福寺跡」があげられる。

大名淵
南に対しては強固であるが北は段丘が広く防衛が困難で館の存在は考えにくい。発掘調査では縄文~奈良・平安時代の住居跡は発見されたが、館跡に関する遺構・遺物は発見されていない。


平山城址公園の城郭遺構

北は浅川に接し八王子から狭山丘陵方面を一望できる優れた要所。形態や占地から北に対して構築され、中世的要因が強く、性格的には物見の城繋ぎの城と考えた方がいい。また、平山方面から多摩丘陵を超えて直接柚木の永林寺へ向かう道が平山城の脇を抜けており、総合的に判断すると大石定久の柚木城との関係が強とおもわれ、平山季重の時代とは考えられず、後の時代に築かれたものではないか。

大福寺跡
廃寺(明治6年)後は平山小学校、その後は平山城址公園駅前と姿を変え、季重ゆかりのものは散在してしまった。東・西側は水路により区画され、南の西半分に土塁状の遺構を残し、正面を入口(虎口)としほぼ方形の区画で方形居館として考えられる。館は平山のほぼ中心地にあたり、中央部は字名の境界となり東側半分が平山4号大出口、西側が平山25号辻ヶ谷戸である。館の東隣は小出口と言い、4号大出口の範囲の東側中央の出口と言われている。これらの字名や屋号は館に関係する名残であろうか?(日野市ふるさと博物館紀要41994「日野の中世城館を探る」から抜粋)

由木城・永林寺の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23477568/

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道は切れてますが由木を結んでいたかもしれません/神社西側



平山氏

武蔵国平山郷を本領とする中世武家。武蔵七党西党の一流で季重(一説直季)とする。季重は源氏家人として保元・平治の乱に活躍、のち源義経の平家追撃軍にも加わって数々の戦功をあげた。しかし義経らとともに源頼朝の許可なく任官したため、頼朝から〈顔ハフワフワトシテ希代ノ任官哉〉とののしられ処罰を受けた。その子孫は1213(建保1)の和田合戦で和田方にくみして衰退した。下って室町時代に関東管領上杉氏の影響下にあった武州南一揆の主導的有力国人として現れる平山三河入道は、おそらく季重一族の末流であろう。(コトバンク)

平山季重(ひらやま すえしげ)

生年:生没年不詳。平安後期・鎌倉前期の武士。本姓は日奉氏で武蔵七党の西党に属す。父は直季。武蔵国多西郡舟木田荘園平山郷(日野市平山)本領とし、院の武者所に祗候して平山武者所と称した。保元・平治の乱の際源義朝に属す。治承4(1180)年源頼朝の挙兵に従い、佐竹討伐ではまっ先に敵城に登り、宇治川合戦で橋桁の先陣、一の谷合戦で先陣の武功をあげたが,、治1(1185)年頼朝の許可なく右衛門尉に任官したため関東への下向をとどめられた。同5年奥州合戦に従軍。建久3(1192)年実朝誕生のときには鳴弦役を務め、同6年の頼朝の上洛に供奉している。頼朝は彼の容貌を「顔ハフワフワトシテ」と評している。(コトバンク)



by Twalking | 2017-02-14 13:46 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり日野(4) 日野宿   

日時 2017.2.7(火)
天気 晴れ

日野台地を下り日野宿を散策しました。
時々は通りますが、宿として歩くのは久し振り。
五街道の最初でしたので振り返ると懐かしいですね。

町並みもさることながら、ここはやはり本陣、
都内では唯一現存する貴重な文化遺産です。
ガイドもして頂けるのでみる価値は大いにありますよ~!



・・・日野宿(日野本町)

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街道の風景① 「下宿」東の地蔵の鈎の手が宿の入口です/新奥多摩街道入口

宿場の町並みは街道両側に沿った東西9町(約1km)余、東から「下宿」「中宿」「上宿」に分かれていたようです。


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街道の風景② 「中宿」宿の中心部、左が本陣、右に問屋場跡です/本陣前

「中宿」には下佐藤家の脇本陣と上佐藤家の本陣が軒を並べ、向には問屋場(間口3間半・6.3m)高札場等がありました



d0183387_18272935.jpg日野宿

甲州街道の5番目の宿場町であり日野市の前身である。宿場町として整備されたのは1605年(慶長10年)のことで、八王子宿を整備した大久保長安の手によって開かれている。甲州街道は幾度か経路の変遷があるが、1685以降日野橋の開通までは日野の渡しで多摩川を越え、都道149号立川日野線を南下し新奥多摩街道入口信号で右折して東京都道256号八王子国立線を西進、日野駅前東交差点北側の日野不動産裏を左折して日野自動車手前で現甲州街道に合流する道筋だった。

d0183387_19025348.jpg本陣跡
には本陣としては東京都内で唯一遺された当時の建物(日野市日野本町)が建っている。その前の現在駐車場になっている辺りにあった長屋門を改装して佐藤彦五郎が天然理心流の道場を開いた。この道場で剣術を教えていたのがのちの新選組局長近藤勇である。近藤と土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助ら新選組主要メンバーはここで出会った。この向かいに問屋場高札場があったが現在は石碑が建つのみである。
Wikipedia


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d0183387_19002556.jpg日野宿脇本陣

日野宿は甲州道中45宿のうち江戸から数えて10番目の宿場です。宿場には日野本郷の名主と日野宿問屋役人を兼帯して世襲する2軒の佐藤家の屋敷がありました。正徳6年(1716)以降、西側の佐藤隼人家(通称「上佐藤」)は本陣を、西側の佐藤彦右衛門家(通称「下佐藤」)は脇本陣を務めました。本陣は公家・大名・旗本や幕府役人専用の宿所であり、脇本陣は本陣の補助的な役割をもっていました。なお、この脇本陣は19世紀初頭以降本陣と同様の機能を担っています。本陣建坪117坪、脇本陣建坪112坪であったといい、甲州道中で本陣・脇本陣とも100坪を超える例は犬目宿(山梨県 本陣2軒です)と日野宿だけであったとされます。嘉永2年(1849)の大火により本陣・脇本陣等は焼失し、現在の脇本陣の建物は元治元年1846)に完成しました。北面中央に式台玄関を備え屋根は瓦葺であり、一般的な名主屋敷と異なり脇本陣としての格式を備えた建物です。また、本屋敷は新撰組とも深いかかわりがあり、幕末の歴史の舞台ともなりました。東京都内には江戸時代に五街道を中心に10余りの宿場が現存していましたが、敷地と屋敷が現存しているのはこの脇本陣のみです。(東京都教育委員会)


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街道の風景③ 「上宿」この辺りがそうでしょうか、現在も駅に近く賑わっています/八坂神社前


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日野八坂神社鳥居

d0183387_19073568.jpg日野八坂神社
創祀年代不詳。社伝によれば応永5年(1398普門寺が旧本宿辺に開創されたとき、その鎮守として牛頭天王社が祀られ以来同寺は永くその別当をつとめた。その後、永享年間(14291441)権少僧都智伝が社殿を造営中興し、元亀元年(1570)普門寺の移転に際し、当社も現在地に遷座されたといわれる。降って慶安元年(1648717日徳川三代将軍家光が、天下安穏・国土泰平の祈願として社領免除の旨を下し朱印地14石を寄進した。以来徳川累代将軍寄進の朱印状写がある。なお享保17年(1732)別当普門寺住職長快が牛頭天王像荘厳を本願し、佐藤八兵衛忠勝・土方甚八郎等講中の合力を得て江戸の仏師に依頼し、翌年618日に完成、元文元年(1736612日本殿に安置した。その後社殿朽損の為、権大僧都法印尊盛が再興を計画、寛政12年(1800)同盛信の時完成した。これが現在の社殿と思われる。現存する神輿は佐藤俊宣の発起により明治13年(18809月完成した。御仮屋その他の付属品とも当時一千余円を費やしたといわれる。(日野市史)

d0183387_19092856.png天然理心流奉納額

安政5年天然理心流近藤周介の門人であり佐藤道場で稽古に励んでいた25名によって八坂神社(当時は牛頭天王社)に奉納。槁板に大小2本の木刀が架けられている。最後に嶋崎勇とあるが、後の近藤勇のことである。最後から2番目に名がある沖田惣次郎は後に惣司と改めている。正式入門が安政6年の土方歳三の名前はない。八王子千人同心井上松五郎と弟の井上源三郎の子孫は今でも近藤勇の子孫と共に「天然理心流・勇武館」を継承している。(説明板)



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大昌寺山門

d0183387_19265076.jpg大昌寺

三鷟山鶴樹院と号し浄土宗知恩院末。本尊は阿弥陀如来。この地にはもと金峰山と称する天台宗の寺院があった。この旧跡に大善寺(八王子市)の讃誉上人が隠退後、住民に懇請され堂宇を創建して大昌寺と号するに至った。慶長7年(1603)のことである。第15世湛誉林道大和尚の代に再建された堂宇は大正12年(1923)の関東大震災に被災、昭和4年に修復した。修復前は寄棟造萱葺きであった。本堂はこのとき入母屋破風造亜鉛板葺きに改めた。本堂内は内陣とこれをとり巻く五部屋の外陣、廊下(一間半)とから成る。本堂須弥壇に本尊阿弥陀如来坐像・脇侍観世音・勢至両菩薩像が、位牌堂には法然・善導両大師像、開山讃誉、中興湛誉両上人像・地蔵菩薩立像(木彫金泥高さ13寸)が安置される。山門は建築の年代を伝えないが、造りは重厚で上部の彫刻は巧緻である。

d0183387_19265544.jpg鐘楼は明治36年(1903)に改築。梵鐘は享保2年(1717)の鋳造で、鋳匠は多川民部見蔵であった、第二次大戦中供出された。鍾銘も不明となるところであったが、郷土史家山上茂樹の拓本によってその法韻(仏法の音)を伝えることを得た。内陣にあった青銅製の大灯龍も前記多川民部の作であったがこれも供出された。当寺の寺宝で東京都重宝(典籍)となっている『説法色菓集』十巻は、天正13年(1585)開山讃誉上人の筆になる。讃誉上人の墓は高さ3尺余りの自然石で市史跡に指定されている。また幕末の新選組や農兵隊等の育ての親であり、明治11年初代の南多摩郡長となった佐藤俊正(彦五郎)や幕末に江戸の狂歌師絵馬屋三世をついだ玉川居祐翁の墓(市史跡)等がある。(日野市史)

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街道の風景④ ひとつ露地を挟むと日野用水が流れています/
大昌寺


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宝泉寺山門


d0183387_19444623.jpg宝泉寺

如意山と号し臨済宗建長寺派の禅剃、本尊は釈迦牟尼仏である。当寺は元徳年間(13291332)の開創といわれ開山は建長寺59世曇芳周応である。はじめ字姥久保の地にあったが天正(15731592)末、火災にかかり伽藍古記等ことごとく灰燼に帰した。その後間もなく現在地に移転再建したと伝える。開山以来21世代を経て当代に及ぶがその間小田原北条氏から寺領を請け、徳川氏からは高8石と寺中山林竹木諸役免除の朱印状を授けられた。本堂には本尊釈迦如来、脇侍文殊・普賢両菩薩の三尊が安置される。

d0183387_19511075.jpg境内は1208坪。旧伽藍は本堂間口9間・奥行7間、向きは東北、宝暦4年(1754)に修繕の記録があるが、建立年月は不明。昭和5年内外に大改修が施された。同48年に客殿・庫裡等の新改築が実施された。このとき旧来の庫裡をとり壊し、跡地に客殿をその北側に庫裡をそれぞれ新築し、併せて本堂屋根の葺き替えと東・北・西の濡れ縁の取り外しを行った。この諸普請は51年竣工した。

d0183387_19425059.jpg観音堂は3間四方、西北向ぎ、塗りごめ格天井・丸柄・丸柱、文政年間(18181830)の建立。本尊は馬頭観世音石像、高さ12寸、俗に「持ち上げ観音」の名で知られており、現在は本堂と客殿との間に安置してある。堂の須弥壇には代わりの石像と十王像とが安置されている。十王像は下河原にあった西明寺の持ち物であったが、同寺が廃寺となったのち明治10年(18778月この堂に移し安置された。山門は六脚総欅造、間口1間半、嘉永6年(1853)の再建。彫師は八王子八幡宿小川屋巳之助、石工は相州厚木の秋本忠次郎、瓦師は万願寺の金子元次郎、棟梁は日野宿天野巳之蔵・奥住直次郎・八王子八木宿守屋勘吉等である。客殿の南側には古くから裏山を借景にした庭園がある。築山池泉のほとりに、古木や佳岩を配して静寂の趣を伝えている。鐘楼は9尺四万で、延享2年(1745)梵鐘新鋳の際建立した。梵鐘の総高は4尺、外直213分、鋳工は江戸神田住西村和泉守であった。この梵鐘は第二次大戦中供出したが梵鐘銘は拓本として遺されている。現在の梵鐘は昭和4011月落慶したものである。(日野市史)


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井上源三郎の顕彰碑          井上源三郎の墓 


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街道の風景⑤ 坂下地蔵が宿の西側口、JRが通りますので迂回して大坂へ向かいます

d0183387_20153352.jpg飯綱権現社

坂下地蔵堂の隣一段高くなった所に飯綱権現社が祀られています。明治21年甲武鉄道が建設されるまでは日野駅から見える丘の上、百数十段の階段を上がった場所に鎮座していました。さぞかし展望が良かったに違いありません。伝説や棟札からも高尾山と関係が深いと言われており、地元では「いずなさま」と呼ばれています。現在の場所に遷座された際、基礎部分に日野のレンガが使用されました。今もレンガではありますが、関東大震災の被害を受け改修されその定かは確かではありません。(日野市観光協会)

d0183387_20153762.jpg坂下地蔵

正徳3年(1713)に江戸小舟町の井田八左衛門が釈宗威信士菩提のため造ったものである。日野をはじめ八王子・青梅・立川・大神・福生・由木にわたり、232人の合力を得て奉造したと蓮座に彫りつけてある。作者は大昌寺の釣鐘・灯籠、谷戸の念仏鉦等を鋳造した江戸神田鍛治町の田川民部藤原見歳である。永く甲州道中日野宿西の出入り口に鎮座して、ここを通行する旅人を見守り彼らからは坂下地蔵サマと親しみ敬われた。近来は地元自治会の婦人達によって仏縁の日、念仏供養が行われる。(日野市教育委員会)

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日野観光案内図(紫:旧甲州街道 黄:日野駅・甲州街道駅)

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日野宿・分間延べ絵図/案内板


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資料ファイル

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緑が初期(万願寺の渡し)、赤が移設された道筋(日野の渡し)です


d0183387_22463683.png日野宿と甲州街道

慶長8年(1603)に江戸幕府が開幕されると代官頭・大久保長安によって甲州街道の整備が進められましたが、慶長10年(1605)日野は甲州街道の継場(宿場)に指定されました。当初は府中宿を立つと青柳村(現国立市)から万願寺の渡を通り万願寺一里塚を経て日野宿に至る道筋でしたが、貞享元年(1684)甲州街道は多摩川の流路の移動や洪水を避けるため府中から柴崎村(現在の立川市)を通る段丘上に移設され、それに伴って渡船場の位置が万願寺から上流の日野の渡しに移動し、以来渡船場経営は日野宿となりました。それから250年の時を経た大正158月日野橋が開通し、この「日野の渡し」もその歴史に幕を閉じました。なお、渡船場入口角にあった高木家(屋号「角屋」)の塀に使われていた煉瓦は明治20年代初頭、土淵英、高木吉蔵、河野清助らによって設立された日野煉瓦場製の煉瓦といわれています。その煉瓦の工場は現高木歯科医院隣の福地蔵(通称東の地蔵)近くにあった西明寺付近にありました。(案内板 写真は大正末期の日野渡船場)



日野本陣の建物

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①主屋広間(18畳)ここが仕事場だったそうです 奥に玄関の間・控えの間が続きます

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玄関の間(10畳)から土間方向     広間北縁(街道側)

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玄関の式台

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左に覗き穴があります           節隠しに瓢箪の細工が施されてます

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控の間(6畳2間)市村鉄之助を匿っていました 「すなわち武すなわち文」

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南奥に下の間・奥の間(12.5畳)・南縁があります。その隣に納戸(4.5畳)・仏間と茶の間(6畳)の生活スペースがあります。

現在の建物の間取りはここまでです。創建当初にはこの南側奥に「上段の間」(12.5畳)と「御前の間」(10畳)等があったそうです。この2間は明治26年の大火で焼失した佐藤彦五郎の四男彦吉の養子先・有山家に曳家されています。(非公開)  



by Twalking | 2017-02-11 10:11 | たまのさんぽ道(新規)