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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道山之道(2)元八王子~増戸 02-増戸   

日時 2017.3.12(日)
天気 晴れ

浄福寺城址で予定外のコースを行きましたが、
街道に戻り川口丘陵、秋川丘陵を越えて秋川へ。
戸沢は旧道が残る静かな里山、いいですね。

その先「駒繋石峠」はちょっと道を間違えて
戻りましたが、ここは畠山重里も通った古道
峠から秋川へいい坂道が続きます。

西が関東山地、東が丘陵、間を川が流れる風景、
変化に富んだ道のりです。
秋川にも会えて、楽しい旅路でした。


・・・美山町


市の西北部、山入川の流域に位置する。1955年(昭和304月川口村の八王子市への合併により翌56年同村内の大字山入が美山町となる。江戸期の山入村。北に川口丘陵、南に入山尾根から東南にのびる山稜があり中央部を山入川が東南流する。川沿いに美山街道が走り谷の最奥の集落遠ノ谷戸まで入る。56年以来、山砂利採取事業が行われていた。
(Web八王子辞典)

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街道の風景① 美山トンネルを抜け戸沢峠へ向かいます

d0183387_14332487.jpg山入川/美山橋

美山町西端の大沢山を水源とし今熊山の南麓をへて東南に流れ、小津川を合わせたあと西寺方町で北浅川に注ぐ川。(流長7.5km)風土記稿には常には水流なく雨降るときのみ流れるとある。別称・山入浅川。美山街道が通じ両岸の山地には採石場が多い。(Web八王子辞典)


d0183387_14333733.jpg御屋敷

美山町の旧小名・小字。町の中央部西寄りの地で、美山町のバス停御屋敷入口から西に入る谷をいう。御屋敷川が東流し西南の山頂に琴平神社がある。(Web八王子辞典)




・・・戸沢


上川町の旧小名・小字。同町の東南部・戸沢峠の北側の谷戸と周辺の地域をいう。旧鎌倉街道といわれる古道が通じいまも都道となって峠を越えている。登り口に馬頭観音堂、その西に西八幡社が建つ。秋川街道にバス停戸沢がある。(Web八王子辞典)

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街道の風景② 戸沢峠を越えて上川町へ向かいます

戸沢峠

上川町戸沢と美山町馬込との間にあった峠。高さ248、秩父から相模へ向かう古道が通じていた。武蔵図会に戸沢嶺とある。いま戸沢の馬頭観音堂の前に「鎌倉古道」の石碑が建つ。近年まで古道の景観をとどめていたが844月に都道上川口宮の全線が開通し旧観はなくなった。(Web八王子辞典)

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登り口の美山小東           右にカーブしてゆく登り坂です          

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街道の風景③ 戸沢の集落へ下りますがいい道ですね

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馬頭観音堂              観音頭前の石仏群

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大仙寺

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大仙寺

真言宗豊山派。鎌倉時代の順徳天皇の御代、建暦2年(1212)時の将軍・源実朝の開基によるもので、開山は頼空上人と伝えられている。安土桃山時代の天正18年(1590)に兵火により焼失したが、源宥僧都が再興したのが江戸慶長7年(1602)のことである。慶安2年(1649)には本尊不動領として朱印86斗を賜り田守明神社の別当でもあった。境内にある桜の老樹は「重忠公お手植えの桜」と言い伝えられているが確証は無い。重忠の軍勢が網代の山越えや、戸沢峠超しにあたって中間に位置するこの付近で小休止したと推定される。(八王子仏教会)

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街道の風景④ 山裾ののどかな風景です、左がこれから越える秋川丘陵です/大仙寺



・・・上川町


市の北部、川口川の上流域に位置する。1955年(昭和30)川口村の八王子市への合併により翌56年同村内の旧大字上川口が上川町となる。江戸期の川口村の西半部。北に秋川丘陵、南に川口丘陵が東西に連なりその間を川口川が東流する。川沿いに秋川街道が並走し北方へ小峰峠を越えて五日市へ通じる。町の西端近くに今熊山が高まり、その西方の舟子尾根との間に逆沢が深い谷を刻み金剛滝がかかる。町域の西端部にあたるこの谷は秋川水系に属している。帝京八王子高校、円福寺・三光院・大仙寺・福寿寺・正福寺・戸沢観音堂、今熊神社・田守神社・熊野神社、上川農村環境改善センター、八王子上川霊園・福寿霊園、GMG八王子ゴルフ場がある。
(Web八王子辞典)

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田守
上川町の旧小名・小字。町の中部秋川街道のバス停上川(Web八王子辞典)

秋川街道
八王子と青梅を結ぶ道路。八木町・八幡町の境で甲州街道から分かれて北上し、楢原町・川口町をへて小峰峠を越え、五日市町をとおって青梅市に出て青梅街道に合する。このうち八王子五日市間の道を江戸期には五日市街道、また江戸〜明治〜大正期にわたり五日市往還と呼んだ。八王子青梅間の主要路線の一、川口街道とも通称する。
(Web八王子辞典)

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田守神社鳥居

d0183387_16015011.jpg田守神社/上川町

祭神大己貴命、応神天皇。例祭日43日。創建年代は明らかではないが、一説には順徳天皇の時代、田の守護神として奉斎したとの伝承がある。昔は古明神と称していたが、成小(鳴呼)ヶ谷に移して田守明神社と改称、豊年万作の祈願所とした。また小名田守の名をとって田守明神社としたとの伝承もある。例祭日には雨乞祈願の獅子舞が奉納される。内社八幡社。〔市指定文化財〕田守神社獅子舞。(Web八王子辞典)

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川口川

d0183387_15590317.jpg川口川/重忠橋
上川町西部の今熊山を水源として東南流し川口町をへて中野上町で浅川に注ぐ川、流長15km。北側には加住丘陵、南側には川口丘陵が連なり川ぞいには秋川街道が並走する。古代の多摩十郷の一である川口郷はこの川の下流域にあたるとされる。(Web八王子辞典)

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街道の風景⑤ 山田通りを北へ、秋川丘陵越えになります/重忠橋

秋川丘陵

市の西北端、日向峰通し付近から秋川南岸を東方にのびて雹留山あたりまでの丘陵を呼ぶ。別称:秋留丘陵。秋川と浅川水系との分水稜をなす。高さは西部で330m、東方では260m前後となる。秋川丘陵都立自然公園に指定されているが、霊園・ゴルフ場などの開発が進んでいる。丘陵の東方はさらにのびて加住丘陵につづく。(Web八王子辞典)


・・・
駒繋石峠

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街道の風景⑤ 左が鎌倉道、山田通りは2つのトンネルで越えます/上川トンネル入口

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この先あたりが駒繋峠でしょうか

駒繋石峠
網代坂のこと。畠山重忠が馬をつないだという岩が現地に伝わることから名づけられたという。(Web八王子辞典)

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駒繋石
左側が駒繋石(御前石)右側は後世に建てられた馬頭観音だそうです

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街道の風景⑥ 左は五日市CCになってますがいい下り坂です/網代坂

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街道の風景⑦ 秋留台地です。この先網代トンネル口で合流します


・・・・あきる野市
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秋川の風景① 上流:奥に控えるのは大岳山、山峡の風景です/山田大橋

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秋川の風景② 下流:左が秋留台地、右が秋川丘陵、麓はサマーランドです/山田大橋


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瑞雲寺山門/山田
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本堂と大悲閣


d0183387_17493042.png瑞雲寺
足利尊氏座像
臨済宗建長寺派に属する瑞雲寺は南北朝時代に開かれたと考えられています。開基(創立者)は尊氏の子である基氏の母(あるいは伯母)という寺伝がありますが、この像はこの伝承と符合します。また南朝、北朝に分かれて全国的な戦乱の時代に当地方は北朝系地侍の地盤であったことを示しています。制作年代は江戸時代と考えられ、尊氏像はあまり類例を見ないことから稀少価値があります。なお、昭和40年代に修復が行われ、彩色が施されています。(あきる野市教育委員会)

d0183387_17504115.png瑞雲寺板碑

板碑は鎌倉時代から室町時代にかけて追善や供養などの目的で作られた石製塔婆の一種です。この板碑は蓮華台の上に草書体で「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の称号(名号)が大きく彫られ、その下方中央に「門阿」(供養者)右に「建武2年乙亥」(1335)左に「721日」の文字が刻まれています。秩父産の緑泥片岩が使用され、市内では大型に属し遺存状態も良好です。全長122cm・巾32.6cm・厚さ2.8cm。(あきる野市教育委員会)



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山田八幡神社鳥居/山田

d0183387_18051055.jpg山田八幡神社

御祭神:応神天応御由緒:文和年間(1352~)足利尊氏公家人・影山大炊介貞兼の建立で、瑞雲寺が奉仕していた。明治2年神仏分離令により神職の奉仕となる。明治6年、昭和60年社殿再建(説明板)秋川の風景③ 


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渡ってきた山田大橋です/八幡神社前


d0183387_18072794.jpg五日市街道

現在の都道7号杉並あきる野線の本線とほぼ一致する。徳川家康の江戸入府後、五日市(現・あきる野市)や檜原から木材・炭などを運ぶために整備された街道。初期には「伊奈道」と呼ばれ、伊奈(五日市より少し東にある集落)の石材を扱っていた石工が江戸城修築のため江戸へ行き来するための道として発展したが、修築が終わり木炭輸送が主流になるにつれ伊奈と五日市の重要性が逆転した。武蔵野台地の新田開発が進むと多摩地域と江戸を結ぶ街道の一つとして発展した。Wikipedia

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街道の風景⑧ 武蔵増戸駅(ますこ)に到着しました

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駅のホームから大岳山がくっきり見えます/武蔵増戸駅

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ルートマップ(下恩方~増戸)
(赤:鎌倉道 橙:案下道 茶:秋川街道 紫:五日市街道 赤丸:戸沢峠・駒繋石峠 緑:ハイキングコース)



・・・・・
資料ファイル
秋川自然公園ハイキングコース

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間違って右折して、途中まで歩いて戻りました/遊歩道入口(上川トンネル上)

d0183387_19044317.jpg秋川丘陵都立自然公園

秋川丘陵・秋川渓谷を中心とする都立自然公園。1953年(昭和28101日指定、面積1335haうち八王子市域内は425.5ha)。市西北部の上川町・戸吹町地内にあたり東端は滝山自然公園につづく。(Web八王子辞典)

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砂利道ですが、ここも面白そうな道です

d0183387_18562032.jpg「日本事務器・あきる野引田企業の森」
森林所有者:東京都競馬(株)東京サマーランド 管理:公)東京都農林水産振興財団、と看板に書いてありました

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雹留山(ひょうどめやま)

上川町の北部、秋川市引田との境にある山。高さ270m。周りはBGM八王子ゴルフ場、上川霊園になっています。

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この道も右手に下れそうな感じです



by Twalking | 2017-03-16 20:24 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道山之道(2)元八王子~増戸 01-下恩方   

日時 2017.3.12(日)
天気 晴れ


元八王子から尾根を越えて秋川を目指して歩きます。
八王子城の支城である小田野城、浄福寺城などありますし
旧道も残っているので楽しみにしています。

地元の方から城の東側の尾根もいいと伺い、行ってみました。
道はしっかりしてますが、深い堀切と細尾根が続く下り道、
久し振りに緊張しましたが、なんとか辿りつきました。
面白かったですね~、ありがとうございました。


・・・下恩方町


八王子市西部、北浅川の中流に位置する。扇状地を中心に恩方グリーンタウンや繊維工業団地があり上恩方町と違い市街化している。
Wikipedia

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街道の風景① 八王子城分岐から丘を越えます。一帯は霊園だらけです/元八王子

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北からみる八王子城址         左に旧道が残ります/三光寺

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街道の風景② 右手が小田野城址、前方は川原宿になります

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入口が分かりませんでしたが小山が城址跡です

d0183387_14302215.jpg小田野城

八王子市西寺方町。八王子城(1587年・天正15年頃築城)とほぼ同時期に、八王子城主・北条氏照の家臣である小野田源太左衛門が築城したと伝えられる。「武蔵名所図会」では小田野氏の居館跡であるという。1978(昭和53)に八王子市教育委員会の実施した「深沢遺跡及び小田野城遺跡予備調査」でその実在が確認された。1590(天正18)の八王子城攻撃の直前、小田野城は上杉景勝の軍勢と大激戦の末、攻め落とされたとも伝わる。その後、小田野源太左衛門は小田源左衛門と改姓して水戸徳川家に仕官した。1983(昭和58)八王子城の一部として国の指定史跡となる。Wikipedia

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小田野城(緑:鎌倉道 橙:都道・小田野トンネル)


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d0183387_15153383.jpg心源院
(しんげんいん)
八王子市下恩方町にある曹洞宗の寺院。山号は深沢山。滝沢城主大石定久が開基したという。甲州征伐時、甲斐国から逃れてきた信玄の娘・松姫(信松尼)がこの寺で出家した。境内山門近くに八王子千人同心の小谷田子寅の碑が立つ。梵鐘の鐘には地元の詩人・中村雨紅直筆の歌詞が彫られている。Wikipedia

d0183387_14442814.jpg念記

深澤山心源院は遠江国榛原郡高尾村の曹洞宗龍門山石雲院末にして、文明年は季雲永缶大和尚を以って開山に拝請し、武州柚井の城主大石源左エ門道俊開基となり創立せしものにして、天正年間には八王子城主北條陸奥守氏照の祈願所となり巨刹の内に属せしが、北條氏滅亡後は徳川氏より御朱印20石を賜り代々寺領とせり。たまた慶安年間寺中より出火し七堂伽藍残らずは灰にきせしを諸星正之と言える者之を中興、以来綿々たりしが、昭和1612月に大東亜戦争宣せられるや当山も国難に応じたり。昭和2081日空襲による戦禍にあい諸堂を再び焼失せり。然るに昭和45年春当山檀信徒相謀り、本堂建設の運びとなり満2年の歳月を費やし茲に落慶を得たり。仏天の照鑑をこい偏にその加護あらん事を祈り之を記念して茲に記銘す。(石碑文)


d0183387_15005147.jpg信松尼
武田信玄の六女、出家前の名は松姫。天正元年(1573)に信玄が死去し異母兄の勝頼が家督を継承すると、松姫は兄の仁科盛信の庇護のもと信濃邦伊奈郡高遠城下(伊那市)の館に移る。天正10年(1582)には織田・徳川連合軍による甲斐への本格的侵攻が開始され、兄の盛信を高遠城において勝頼は新府城(韮崎市)から天目山へ逃れともに自刃し、武田一族は滅亡する。盛信により新府城へ逃がされた松姫は勝頼一行と別行動を取り、海島寺(山梨市)に滞在したのち盛信の娘である小督姫ら3人の姫を連れ、相武国境の案下峠を越えて武蔵国多摩郡恩方(現・八王子市)へ向かい金照庵(現・八王子市上恩方町)に入る。同年秋、22歳で心源院(現・八王子市下恩方町)に移り出家して信松尼と称し、武田一族とともに信忠の冥福を祈ったという。元武田家臣であり当時は江戸幕府代官頭の大久保長安は、信松尼のために草庵を作るなど支援、また武田家の旧臣の多くからなる八王子千人同心たちの心の支えともなったという。元和2年(1616年)に死去、享年56。草庵は現在信松院である。Wikipedia

八王子信松院の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22970417/)


d0183387_14464014.jpg小谷田子寅(こやたしいん)の碑
小谷田子寅は千人同心で宝暦11年(176144日、武州多摩郡川口村(現八王子市川口町)に生まれ名を小谷田権右衛門昌亮という。幼くして父をなくしたが勉学を好み天文学、洋学に詳しく特に医学に明るく薬を乞う者、診断を求める者があとをたたず民衆に慕われたという。この善徳を称えるため千人同心きっての硯学といわれた塩野適斎が撰文、同植田孟縉が書ならびに模刻したきわめて貴重な碑である。(八王子市教育委員会)

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d0183387_15162032.png下恩方秋葉神社/心源院裏山
建年代は不詳で、元文2年(1737)に別当心源院21世及び関口八兵衛により、拝殿が造営された記録が残っているそうです。

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街道の風景③ 向かいの峰が浄福寺城跡、麓に案下道・北浅川が流れます/
心源院



・・・川原宿


下恩方町の旧小名・小字。バス停川原宿のある北浅川北岸から対岸の山稜上にある高丸山までの地をいう。北浅川の谷口集落にあたり、陣馬街道沿いにのびる街路には戦国期以来の宿の地割形態がよく残る。恩方郵便局、心源院・称讃寺・法妙寺、秋葉神社、二十三夜塔、河原宿橋、川原宿大橋がある.
(Web八王子辞典)

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街道の風景④ 川原宿です。鎌倉道は左手尾根の麓を真直ぐに北進します/
心源院

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北浅川より八王子城址を望みます/川原宿大橋

d0183387_15320768.jpg浅川

八王子市・相模原市の境目にある陣馬山(857m)や堂所山(731m)に源を発し東へ流れ、日野市石田付近で多摩川に合流する。日野台地と多摩丘陵(七生丘陵)にはさまれて流れる。小仏峠を源流とする南浅川の合流地点(八王子市役所付近)より上流を通称として北浅川と呼ぶ。かつての浅川は今よりももっと南を流れており多摩川との合流地点ももっと下流の関戸橋付近にあったことが知られている。八王子市楢原町付近(中央道の架橋下付近)の流域ではメタセコイヤの化石や新種のハチオウジゾウの一部の化石が発見されている。Wikipedia

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街道の風景⑤ 案下道から浄福寺城に寄り道します/川原宿交差点先

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この辺りが八王子城の搦め手・松竹になります

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浄福寺山門

d0183387_16015849.jpg浄福寺

真言宗智山派。緑濃い山を背に静寂な中に佇む千手山浄福寺は、古くより教線を遠く甲州にまで及ぼした古刹である。古くは寺号を千手山普門院城福寺と称したが江戸後期に浄福寺と改めた。草創は文永年間(12641274)広恵上人によると伝えられる。大永5年(1525)大石道俊及び憲重父子が大檀那となり長尊により再興された。天正19年(159111月御朱印10石を賜り、境内一万一千四百坪を有したといわれ、八王子、山梨にまたがり末寺15ヶ寺を擁した。背後の山は新城(浄福寺城)と呼ばれ至徳元年(1384)大石信重開城の案下城とみなされている。境域及び後山には多くの遺構が見られ中世城郭としてまた大石氏の経緯を知る上で重要な城跡である。(境内・城跡一帯は八王子市指定史跡)(八王子仏教会)

d0183387_16042959.jpg浄福寺城観音堂内厨司

「新編武蔵風土記稿」にある観音堂の古棟札の写しから大永5年(1525)観音堂が建立されたことがわかり、この厨司もその頃造られたと推察されます。厨司は本尊の千手観音像を安置するための入れ物で建物の形を模しています。四方に丸柱を立て正面には両開戸を備えます。扉は桟木を組んで枠とし間に鋭い山形の鎬(しのぎ)があるのが古式で、関東や東北地方の室町時代の遺構に特有なものです。組物と屋根は後補材ですがその他の大部分は当初のものを良好にほぞんしています。室町時代の様式と地方性を備える数少ない例として貴重です。もともとは山頂の観音堂にありましたが昭和53年に本堂に移設されました。(東京都教育委員会)

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安下道は浅川対岸の山裾を通っていたそうです。左手に圏央道が通ります/
浄福寺



・・・浄福寺城址


d0183387_17423280.jpg浄福寺城

現在の八王子市下恩方町。新城(にいじょう)、案下城(あんげじょう)、松竹城(まつたけじょう)、千手山城(せんじゅさんじょう)など様々な別称で呼ばれていた。城の南側、陣馬街道に沿って、大石氏によって開基された浄福寺がある。この寺は当時武将が待機する居館との説もある。八王子教育委員会の説明板によれば、大石氏は系図(山木伊藤家伝)によれば木曽義仲の後裔が信濃国大石郷に住んでいたが、1356(延文元年)入間・多摩に13郷を得て多摩に移住し、二宮(現・あきる野市)から浄福寺城、高月城(長禄2年)、滝山城(大永元年)と次第に大豪族となり城を移したといわれ大石氏の経緯を知る上でも貴重な城跡であるという。なお、近年において齋藤慎一が同地域に関する古文書や浄福寺城の遺構に関する分析から、従来の大石氏に関する伝承を否定して、浄福寺城こそが後の「由井領」の由来ともなった大石氏の本拠である由井城(ゆいじょう)であり、大石氏を継承した北条氏照も当初はここを本拠としており永禄10年(1567)頃になって初めて滝山城を築いて本城を移したとする説を提示している。Wikipedia

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本堂の裏手から浄福寺城址へ向かいます

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尾根道は観音堂への参道になっています

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いい道ですが段々と嶮しい上りになります

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竪掘でしょうか            尾根を堀切っています


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主郭跡

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主郭にたつ小さな祠          腰曲輪

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浄福寺城址縄張り図

d0183387_17424592.jpg市史跡浄福寺城跡
浄福寺城は関東山地から連なる標高356mの尾根を利用して築かれた城で、南側には北浅川が流れています。城の高低差は約160mもある要害の城です。尾根頂上部に主郭を配し、ここから四方にのびる尾根を堀切り、ところどころに小さな曲輪を造作し居住に適した広い面積を持つ曲輪を設けず防御のみに徹した縄張りをしています。築城者については不明な点が多く「武蔵名勝図会」によると、関東管領上杉氏の武蔵守護代であった大石氏といわれています。近年の研究では大石氏の養子に入った北条氏照の初期の居城とも、八王子城の搦め手に位置することから八王子城の出城ともいわれていますがはっきりとはしていません。中世の八王子を知るうえで貴重な城址です。(八王子市教育委員会)

八王子城址の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23894925/


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戻るつもりでしたが、地元の方から東の尾根から行けますよ、と伺い行ってみました。

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主郭直下の堀切です               細尾根の下り、緊張します

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圏央道が見えてきました、いい眺めです


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尾根を下ると御嶽神社に出ました

d0183387_00463675.jpg御嶽神社
下恩方町。祭神少彦名命、大己貴命、大山祇命。例祭日48日。創建年代は明らかでないが1667年(寛文7)に勧請したとの伝説がある。現在の社殿は1687年(貞享4)再建による。境内に菅原神社がある。例祭神事は百八灯の行事が行われる。
(Web八王子辞典)



・・・辺名


下恩方町の旧小名・小字。同町の西北端にあり小津川の両岸にまたがる。下原鍛冶の発祥の地とつたえ、市史跡下原鍛冶発祥の地の碑が建つ。「辺名の桜」で知られている。辺名町会館、医王寺、金山神社、バス停辺名がある。
(Web八王子辞典)

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街道の風景⑥ 街道に戻った先、左手に旧道が残ります。

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ここを左折します           旧道のお地蔵さん

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辺名三叉路(モリアオガエルの道)   三叉路の石仏群

モリアオガエルの道

下恩方町元木小学校から小津林道入口までの道路名。1990年(平成2)命名。(Web八王子辞典)

d0183387_10483132.jpg下原刀鍛冶発祥の地碑(下恩方町126)/ 圏央道の手前

下原刀は永正の頃(15041520)、ときの領主大石氏の招きに応じ、この地にきて鍛刀した周重(ちかしげ)と名のる刀匠を祖とする。のち隣接の地、恩方下原に移り北条氏ならびに徳川氏の庇護をうけ、以来一族十家に繁栄し、その作刀は全国に流布され独特の鍛練法による下原肌なる作風を示して数多くの名刀を残している。(Web八王子辞典)

d0183387_10503374.jpg金山神社
/辺名町会館
下恩方町辺名。創建年代は明らかではないが一説には下原刀鍛冶の祖先が祀ったものという。江戸初期の棟札が保存されている。木造の社殿は1985年(昭和60)ごろ取り払われた。
(Web八王子辞典)

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医王院/
下恩方町辺名
薬師山医王寺。曹洞宗下恩方心源院末。開山禅室祖参上人。本尊釈伽如来。創建は慶長年間(15961615)で、第2世林翁上人が一宇を現在地に建立、その後幾多の興廃を経て現在に及ぶ。
(Web八王子辞典)

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街道の風景⑦ 道は消えてますので丘を都道のトンネルで越えます/桜木橋

d0183387_11154278.jpg都道61号山田宮の前線

あきる野市山田から八王子市上川町を経由して同市元八王子町に至る主要地方道である。通称名は秋川街道交点以北が都道185号山田平井線と合わせて「山田通り」、以南が「美山通り」である。Wikipedia

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小津川/桜木橋
小津川小津町西端の入山峠を水源として東南流し、同町原でニシ沢と合流してさらに東流、下恩方町元木付近で山入川に注ぐ川。原から上流を入山川と呼ぶ。谷ぞいに小津林道がのびる。かつては峠までの小道があったがいまは廃道となっている。(Web八王子辞典)

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圏央道から浄福寺城址の東尾根を振り返ります/八王子西IC


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ルートマップ(高尾~下恩方)
(赤:鎌倉道 橙:案下道(陣馬街道)紫:甲州街道 赤丸:八王子城・小田谷城・浄福寺城)


by Twalking | 2017-03-16 11:20 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道山之道 元八王子02- 八王子城址   

日時 2017.2.25(土)
天気 晴れ


八王子宿は八王子落城後に新たに造られた街、
そのもとである「元八王子」には興味がありました。
鎌倉道の筋道なのでじっくりと見てみました。

深沢山の頂からみる滝山城下と現在の八王子市街
そして眼下の元八王子、すばらしい景観であるとともに
このトライアングルの風景は歴史を物語っています。

「知識」としてではなく、まさに「実感」として
その歴史を肌で感じた旅となりました。



・・・根小屋地区(城下)


家臣の屋敷や寺院などの存在が予想されていますが、調査範囲が狭いことや落城以降の開発の跡があり、今のところ区割状の遺構、掘立柱建物跡、井戸などが確認されているのみです。(八王子市教育委員会)

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この辺りが中宿と呼ばれている所です/宗関寺門前

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城下入口にお地蔵さん2体            稲荷神社


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宗関寺山門


d0183387_23272557.jpg宗関寺

曹洞宗。延喜年間の草創で天慶2年朱雀天皇から領地を賜り勅願所として牛頭山神護寺とした。北條氏照が八王子城を築き、永禄7年牛頭山を復興した。天正18年落城翌年再興し朝遊山宗関寺とした。現在の場所には明治25年に移築(元の場所は氏照墓所辺り)された。(八王子仏教会)

d0183387_23315025.jpg梵鐘
この梵鐘は元禄2(1689)711日宗閑寺開基・北条氏照百回忌供養のため鋳造されたものである。鋳工は椎名伊予良寛、同兵庫重長と銘文にある。寄進した中山信治は八王子城落城の折、討ち死にした中山家範の孫にあたり水戸藩家老・中山家3代目当主。口径72.5㎝、高さ1.5mで釣手に龍頭をあしらい、乳の間には一間五段五列の乳頭、草の間には連続唐草紋が鋳出されたみごとな梵鐘である。池の間には北条氏照百回忌追悼文が刻まれ資料的にも貴重である。太平洋戦争中、元禄年間(16881704)以後の梵鐘は応召されたが市内ではこの梵鐘等数点のみが残されているだけである。(八王子市教育委員会)

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城下から仰ぐ八王子城(深沢山)/宗関寺

城山

八王子市にある標高446mの山である。その他の城山と区別するために八王子城山とも呼ぶ。かつては深沢山(ふかざわやま)とも呼ばれ八王子城があった。直下に圏央道の「八王子上城跡トンネル」が通っている。Wikipedia


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d0183387_23404311.jpg北条氏照及び家臣墓(都指定旧跡)

北条氏照は早雲の孫・氏康の子で、関東管領上杉家の老臣大石定久に代わって永禄2年(1559)頃滝山城主となったとされています。氏照はほかに榎本・古河・栗橋など数城を併有したとされ、後北条氏の勢力拡大に大きく寄与した人物でした。武蔵国と甲斐国の境に大規模な山城である八王子城を築いたことでも有名です。天正18年(1590)の小田原攻めでは豊臣秀吉の武将前田利家・上杉景勝らの軍勢に対する家臣中山勘解由らの防戦もむなしく八王子城は落城しました。兄氏政を助けて小田原城にいた氏照も開城後兄とともに切腹を命じられました。現在ある氏照の供養塔勘解由の孫水戸藩家老中山信治が氏照の死後100年忌の追善供養のために建てたものです。両脇には家臣であった勘解由と信治自身の墓もあります。(東京都教育委員会)

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園路を通ってエントランス広場へ/ガイダンス施設

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国史跡八王子城跡全景模型(1/1000縮尺)/
エントランス広場

八王子城の構造
八王子城は関東山地東端の独立峰のようにそびえる標高460mの深沢山を要害とし、その南麓に居館群を配置した戦国時代最終期に築かれた城館です。要害は山頂の主郭(本丸)を中心に松木、小宮曲輪、無名の曲輪を配しそれぞれ腰曲輪が取り巻いています。そこから派生する幾筋かの尾根に適宜削平されて防御用の小さな平場が造成されており、円錐形の急峻な要害は守り易く攻め上りにくい構造といえます。居館群のうち城主氏照の館(御主殿)が発掘調査されています。曳橋を渡り右に折れた道路を進むと左に折れ石段を登ります。石段の途中の踊り場には四脚門の礎石が残り、さらに進むと枡形の虎口と考えられる大型の礎石建物と数棟の付属建物、庭園が発見されています。要害・居館の他、城山川に沿った谷筋の根小屋地区、対岸尾根筋の太鼓曲輪など外郭防衛遺構も含めて考えると東西約2km、南北約1kmにも及び、八王子城の縄張の範囲はさらに広大なものとなり、史蹟として指定されているだけでも約159haにもなります。(八王子市教育委員会)

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史跡区域を表示した全体図(緑:山の道(秋川街道) 青:城山川・滝ノ沢)



・・・要害地区


要害地区は急な斜面に守られた山頂から尾根の上に造られています。山頂付近は本丸、松木・小宮などの曲輪群があり、西側には詰めの城と呼ばれる曲輪が残っています。合戦の時に籠城して戦うところで、兵糧を入れる倉庫などが建てられていたと思われます。今でも2ヶ所に井戸が残されています。(八王子市教育委員会)

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この鳥居をくぐって山頂(本丸)を目指します


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二の鳥居               観音堂

観音堂(福善寺)
千葉県に福善寺と呼ばれる寺があり、円通寺住職の余生を送るためや若い僧の修行に使い隠居寺であった。福善寺が江戸時代に荒廃し円通寺は明治の始に渋谷の吸江寺と合併した為、拙堂和尚が城跡に福善寺を復興した。Wikipedia

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金子丸跡

金子三郎左衛門家重が守っていたといわれている曲輪です。尾根をひな壇状に造成し敵の侵入を防ぐ工夫がされています。(八王子市教育委員会)

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搦め手口からのルート(右)が合流します/柵門跡

柵門跡

山頂の本丸方面へ続く道の尾根上に築かれた平坦地で柵門跡と呼ばれています。名前の由来など詳しいことは不明です。(八王子市教育委員会)

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「高丸」の標識、旧道でしょうか    素晴らしい展望が待ってます

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眼下の谷が元八王子、加住丘陵を越えて攻め込まれたんですね


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八王子神社

延喜13年(913)深沢山の麓、華厳ヶ谷(けいがやつ)に庵を結んだ華厳菩薩妙行が山頂で修業中、牛頭天王と八人の王子が出現しました。その因縁によって延喜16年(916八王子権現を祀り、山麓に宗関寺の前身となる神護寺を建立したといわれています。北条氏照は八王子城の築城にあたりこの伝説に基づいて八王子権現を城の守護神としました。また「八王子」の起源ともされています。(八王子市教育委員会)

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武劦八王子古城之図(慶安元年)

本丸周辺の曲輪

標高460mの深沢山山頂に設けられた本丸を中心に松本曲輪、小宮曲輪などの曲輪が配置された要害部は、籠城のための施設と考えられます。急峻な地形を利用した山城は下からは攻めにくく、上からは攻撃できる守りには有利な構造です。天正18年(1590)旧暦623日豊臣秀吉の命を受けた前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの軍勢に加え降参した北条勢を加えた数万の大軍が八王子城に押し寄せました。小田原に籠城中の城主北条氏照を欠いた留守部隊は、必死に防戦しましたが1日で落城しました。激戦の末守備した北条勢はもちろんのこと、攻めた豊臣方も多くの犠牲があったようです。(八王子市教育委員会)


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d0183387_01110551.jpg松本曲輪

中山勘解由家範(いえのり)が守っていたといわれる曲輪です。中の丸とも二の丸とも呼ばれていました近くには「坎井」(かんせい)と呼ばれる井戸があります。前田利家の軍勢と奮戦しましたが多勢に無勢で防ぎきれなかったといわれています。この時の家範の勇猛ぶりが徳川家康の耳に入り、その遺児が取り立てられ水戸徳川家の過労にまでなりました。(八王子市教育委員会)

中山家範
(いえのり)
父は丹党加治氏一族の中山家勝。通称は勘解由左衛門、助六助。子に中山照守、常陸水戸藩付家老の中山新吉。父家勝は武蔵飯能の豪族で山内上杉氏の家臣だったがのち後北条氏へ仕えた。主君氏照の元で勇戦し、その武名は関東一円に轟いた。Wikipedia


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d0183387_01255250.jpg本丸跡(城山山頂)

城の中心で最も重要な曲輪です。平地のあまり広くないため大きな建物はなかったと考えられます。横地監物吉信が守備していました。(八王子市教育委員会)


詰めの城

八王子城の西限です。本丸の背後を警戒するほか、本丸が敵の攻撃に支えられなくなった時、最後の拠点となる場所です。西側には敵を防ぐために尾根を掘りのように削り取って寸断させた深い堀があります。(八王子市教育委員会)


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d0183387_01224530.jpg小宮
曲輪
狩野一庵が守っていたといわれる曲輪です。三の丸とも一庵曲輪とも呼ばれていました。上杉景勝の軍勢の奇襲にあい落されたといわれています。(八王子市教育委員会)

狩野一庵
(いちあん)
伊豆衆・狩野氏の一族と思われ、佐藤博信により狩野泰光と同一人物であることが判明した。はじめ北条氏康に馬廻りとして仕えるが、永禄11年(1568)以降に北条氏照の奉行人となり、主に奏者として氏照支配下の国人衆との連絡役を務めたり、八王子城や滝山城の留守居役などを任されている。Wikipedia



・・・居館地区


城山川沿いの山麓に御主殿と呼ばれる大きな館跡とその東側にアシダ曲輪などの曲輪群が残っています。御主殿は城主である氏照の居館跡とされ、アシダ曲輪は有力な家臣の屋敷跡と考えられています。平成4
5年にかけて行われた御主殿の調査では大きな建物の跡や石を敷いた通路、溝などが発見され、庭園があったことも分かっています。(八王子市教育委員会)

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入口広場から古道を御種殿に向かいます


d0183387_13422605.jpg大手の門跡

昭和63年(1988)の確認でおの存在が明らかになりました。以前から八王子城の古図などでこのあたりに門などの施設があることは予想あれていました。発掘された礎石や敷石からいわゆる「医薬門」と呼ばれる形状の門と考えられています。


d0183387_13422126.jpg大手と搦手

一般に城の裏門にあたる所を『搦手』と呼びます。なぜ裏門を搦手と呼ぶのかというと、正門から攻めてきた敵を背後から「搦め取る」軍勢が出撃するためという説があります。そのためか正門は「追手」(おうて)がなまって「大手」になったともいわれています。八王子城の搦手は城の北側の恩方方面にあったといわれ、滝の沢口とも言われていますが滝は落ちるという意味に通じるので、当時は霧降ヶ谷(きりふりがやつ)と名前を変えたとも言われています。(八王子市教育委員会)


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d0183387_13503803.png古道(大手道)

発掘調査では当時の道は明確に検出されませんでしたが、門跡の存在や橋台の石垣の検出さらに平坦部に連続していることからここが御主殿にいたる大手道であったことが明らかになりました。現在の道はこの地形を利用して整備されたものです。当時はここから城山川の対岸にアシダ曲輪や御主殿の石垣、城山の稜線にそって連なる多くの曲輪や建物が見渡せたと思われます。(説明板)


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曳橋


d0183387_14111838.png橋台石垣と曳橋

城山川の両岸の斜面に橋を架けるための橋台石垣が発見され、御主殿へわたる橋の存在が確認されました。当時はこの橋台に簡単な木橋を架け、この橋(曳橋)を壊すことによって敵の侵入を防いだものと考えられます。橋台は検出した石垣の崩れた部分を新たに補い想定復元したものです。また、橋そのものは現代の工法で建造したものですが史跡の景観に合うように木造にしました。(説明板)

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「八王子城本丸跡荒涼ノ図」/新編武蔵風土記稿(国立公文書館所蔵)


d0183387_14001190.png御主殿への経路

御主殿へは城山川上流域を超えて向かうため、このあたりに橋が架かっていたと考えられます。しかし当時の正確な場所や構造、名称は分かっていません。これまで使用していた「曳橋」という名称は江戸時代後期の地誌『武蔵名勝図会』(文政3年・1820脱稿)に記載によるものです。右下のお拡大図にあるようなすぐに壊すことが出来る簡素な橋が架けられていたと考えられます。今回の整備した橋は当時の復元ではなく、見学者が御主殿へ行くための通路として城山川に架けたものです。落城後の八王子城を描いたものには「八王子城古図」のほか「武蔵名勝図会」「新編武蔵風土記稿」などがあります。「曳橋」の名称を記載しているのは「武蔵名勝図会」だけです。(八王子市教育委員会)

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櫓門跡

櫓門跡

この踊り場からは4つの建物礎石が発見されました。両側の石垣の下に敷石面より10cm程高くなっている大きな石がそれです。礎石の間は東西約4.5m、南北3.6mあります。想定される建物は通路の重要な位置にあることから物見や指揮をするための櫓門であったかもしれません。(説明板)


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築城当時の石垣

この石垣は土の中に400年間くずれずによく残っていたためで、検出したそのままの状態にしてあります。戦国時代の石積様式を示す全国でも貴重なものです。その特徴はこの城山山中から産出する砂岩を利用してひとつひとつ丁寧に積み重ね、その隙間には小石を詰めて全体として強固な石垣としていることです。石垣の勾配が急な事、石垣の裏側にたくさんの砕いた石を入れていることも特徴です。(説明板)


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御主殿虎口
城や曲輪の入口は虎口と呼ばれ、防御と攻撃の拠点となるようさまざまな工夫がこらしてあります。御主殿の虎口は木橋を渡った位置から御主殿内部まで高低差約9mを「コ」の字形に折れ曲がった階段通路としていることが特徴です。階段は全体で25段、踏面が平均1m、蹴上が36cm、約5mの幅を持っています。途中の2ヶ所の踊場とともに全面に石が敷かれているのは八王子城独特のものです。(説明板)

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御主殿跡

d0183387_19213481.png御主殿跡

御主殿は落城後は徳川氏の直轄領、明治以降は国有林であったため余り人の手が入らず落城当時のままの状態で保存され、落城時の状態のままで保存され遺構の状態も良好でした。平成4年から2年間、発掘調査行い城主であった北条氏照が執務を行ったと考えられる大規模な礎石建物跡をはじめ、さまさまな遺構が発見されました。調査の結果、氏照の生活の場はここからさらに奥に眠っていると思われます。また中国の磁器類の破片や陶器、鉄砲弾をはじめとする武器や武具類などの遺物が発見されました。中には当時の武人のたしなみであった茶道具や当時でも極めて珍しかったと思われるベネチア産のレースガラス器の破片も含まれ、氏照の生活ぶりがうかがえます。(八王子市教育委員会)

d0183387_19372834.jpg主殿
主殿は中心となる建物で政治向きの行事が行われたと考えられています。広さは15間半×10間(29.4m~19.8m)で、折中門と呼ばれる玄関から入ります。大勢の人が集まる「広間」や城主が座る「上座」などがあります。建物は平屋で屋根葺は瓦ではなく板葺か檜皮葺と思われます。


d0183387_19233004.jpg会所

会所は主殿で儀式を終えた後、宴会などを行った場所と考えられます。広さは11間×6間(20.9m×13.3m)で、北側が主殿と廊下でつながっています。会所の北東には庭園が造られています。(説明板)



d0183387_19491599.jpg池を中心とする庭園遺構

会所と主殿の建物に囲まれた範囲に池を配した庭が見つかりました。池は2段ないし3段に石を組んで護岸施設をつくり、池と陸とわかれるような構造となっていました。池底には粘土がはられていましたが、各種分析の結果からみると大雨の後に水が溜まった程度ものであったと考えられます。池の西側には池の近くに寄れるように石を敷き詰めた通路も見つかっています。池や庭に使われた石は八王子城周辺の山からとれる砂岩という石で、他から運んできたものではないようです。池の全容が明らかになっていないため今回は整備を行わず埋め戻したままになっています。(八王子市教育委員会)


d0183387_20022819.jpg御主殿の滝

天正18年(1590623日の豊臣秀吉の軍勢による攻撃で落城した際に、御主殿にいた女性や子供、将兵たちが滝の上で自刃をし、次々に身を投じたといわれています。その血で城山川の水は三日三晩、赤く染まったとの言伝えが残っています。(八王子市教育委員会)

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居館地区案内図


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資料ファイル


d0183387_00522744.png北条 氏照

天文9年(1540年)北条氏康三男として生まれ初め武蔵滝山城城主、後に八王子城城主となった。永禄2年(1559)信濃木曾氏一門の武蔵滝山城主大石定久の娘・比佐を娶り、養子縁組をして大石源三氏照と名乗り家督を譲られる。後に姓を北条に復して大石氏を配下に組み入れたとされる。自領であった現・相模原市方面の各村への文書では「油井源三」を名乗っており、氏照が大石氏を継いだ当時由井城(油井城)が同氏の拠点であり滝山城はまだ存在しておらず、滝山城は家督継承後の氏照が築城したとする説もある。
その後、氏照は父に従って小田原城の戦い直後の永禄4年(1561)には辛垣城の三田綱秀と、永禄7年(1564)には里見氏と、天正2年(1574)には簗田氏と戦い主に東方を担当して後北条氏の勢力拡大に大きく寄与した
永禄10年(1568)武田信玄の家臣・小山田信茂らの軍勢が小仏峠を越え相模国に侵攻した。氏照は中山家範・横地吉信らに迎撃を命じたが高尾山麓の廿里(現、八王子市廿里町、廿里古戦場)にて敗退。その後余勢を駆って押し寄せた武田勢に攻め立てられ、滝山城は三の丸まで陥落し氏照は二の丸で指揮をとったという(この時、氏照と武田勝頼が槍をあわせたとも伝わる)。このような氏照の奮戦により最終的には武田軍に滝山城の攻略を断念させている。永禄11年(1569)再度来襲した武田の軍勢が小田原城を囲んだ。撤退する武田勢を氏照・氏邦の軍勢が迎え撃ったが、小田原から追撃してきた本隊の動きが遅く挟撃体制は実現しなかった。この間に武田別働隊が氏照・氏邦の陣よりさらに高所から襲撃し戦局は一転、氏照・氏邦は敗北した。戦国最大規模の山岳戦として知られる三増峠の戦いである。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際には徹底抗戦を主張し、居城である八王子城には重臣を置いて守らせ自身は小田原城に籠もっているが、八王子城は上杉景勝、前田利家に攻略された。小田原開城後、秀吉から主戦派と見なされ711日に兄・氏政と共に切腹を命じられた。享年51歳。Wikipedia

大石氏の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23876369/


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「勝頼山城接戦図」桑都日記/国立公文書館所蔵

滝山城で武田信玄と戦う
永禄11年(156812月甲斐の武田信玄は同盟を破って駿河に攻め込みます。今川氏真の救援要請を受けた北条氏は信玄と戦うことになりました。翌129月、信玄は大軍を擁して上野から南下し北条領に攻め込んできます。9月末には拝島に本陣を置いて滝山城を攻撃しました。武田勝頼が中の丸の門まで攻め込んだといいます。しかし、武田勢は3日後の夜半に軍を引き小田原城を攻めるため相模国へと進軍していったのです。(ガイダンス施設展示資料)

滝山城の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23871197/


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八王子城に攻め入る豊臣軍

武蔵名勝図会(国立公文書館所蔵)/ガイダンス施設展示スペース


八王子城合戦

小田原征伐の一環として1590年(天正18年)724 (旧暦623)、八王子城は天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの部隊15千人に攻められた。当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野守主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民・婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠ったに過ぎなかった。豊臣側は前夜のうち霧をぬって主力が東正面の大手口(元八王子町)・北側の絡め手(下恩方町)の2方向より侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。その後は激戦となり1000人以上の死傷者を出し一時攻撃の足が止まった。その後、絡め手側別働隊の奇襲が成功しその日のうちに城を落とした。氏照正室・比佐を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。城代の横地監物は落城前に桧原村に脱出したが小河内村付近にて切腹している。八王子城攻防戦を含むこの小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は兄・氏政とともに切腹した。その後新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となった。Wikipedia

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八王子城遺構鳥瞰図/ガイダンス施設展示スペース


二つの城をさわってみよう(模型縮尺1/3000)


d0183387_11533683.png滝山城
滝山城は標高170mほどの加住北丘陵に築かれた城で、北側を流れる多摩川との比高いおよそ40mの要害となっています。本丸と呼ばれる主郭を中心に土塁と深い空堀に囲まれた郭が連なっています。それぞれの郭は広いのですが、高低差は少ないのが特徴といえましょう。


d0183387_11532925.png八王子城

一方、八王子城は関東山地の東端部にある標高約460mの深沢山を要害域とし、比高約200m下の山裾を切り盛りして御主殿と呼ばれる氏照の館のあった郭を中心に、いくつかの郭群が連なって築かれています。少人数でも守り易い戦闘を意識した城郭といえましょう。(ガイダンス施設展示スペース)


・・・

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中央右が伝氏政、左が伝氏照の墓(五輪塔)です


d0183387_12344796.jpg北条氏政・氏照の墓所/小田原市
北条氏政は北条氏4代の領主、氏照は氏政の弟で八王子城など5つの支城の城主でした。天正18年豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原城が落城すると、5代領主氏直は高野山に追放され、父氏政とその弟氏照は城下の田村安斎邸(現南町)で自刃しました。両人の遺体は当時この地にあった北条氏の氏寺伝心庵に埋葬されました(現在永久寺所有)その後、放置されていた墓所は稲葉氏が城主の時(16331685)北条氏追福のため整備されました。大正12年の関東大震災では墓所が埋没する被害を受けましたが、翌年地元の有志により復元されました。(小田原市教育委員会)

小田原城の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/17727076/



by Twalking | 2017-03-02 17:10 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道山之道 元八王子01-廿里町   

日時 2017.2.25(土)
天気 晴れ


町田街道につづき秋川街道を北へ向かいます。
道筋は町田街道~秋川街道で良さそうですが
もう少し山側を通っていたかも知れません。

「いざ、鎌倉」ではありませんが、時代がくだって
滝山城、八王子城は八王子の歴史を物語る要地、
先に進む前にじっくりと散策してみました。



・・・廿里町
(とどりまち)

八王子市の西南部に位置する。森林総合研究所多摩森林学園や武蔵陵墓地の一部が大部分を占めている。町制施行前は下長房村、施行後は横山村に属していた
Wikipedia

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街道の風景① 懐かしいですね~甲州街道、ここからスタートします/高尾駅前

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高尾街道を北へ向かいます       南浅川を渡ると廿里町/敷島橋

都道
46号八王子あきる野線

八王子市から同市楢原町を経由してあきる野市に至る都道(主要地方道)である。この道路の東京都通称道路名は主として高尾街道で、国道411号との重複区間は滝山街道を通称としている。距離9.435km。Wikipedia

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南浅川の風景① 廿里砦のあったとされる白山神社にむかいます/敷島橋

南浅川
八王子市
裏高尾町から元本郷町を流れる多摩川水系の一級河川。浅川(北浅川)支流である。八王子市の西部に位置する小仏峠付近に源を発し東に流れ、八王子市元本郷町付近で浅川(北浅川)に合流する。
Wikipedia

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南浅川の風景② 左岸は高尾山口への「多摩御陵・銀杏並木散歩」道、歩いてみたいですね


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白山神社鳥居

d0183387_15122058.jpg白山神社高尾駅北口からほどない廿里の山の斜面には、地元では「白山様」と呼び親しまれて神社があります。およそ700年前の鎌倉時代の創立と考えられているようです。白山神社はちょうど桜の実験林で有名な多摩林業科学園の裏にあり、数年前に実験林が拡張された際に麓の白山橋のそばに社殿を移築したようです。それまではこの山の長い階段を登っていかなければならず信者の方には相当の負担だったようですがこれでお参りも楽になったとか。江戸時代、時の幕府から14石の御朱印を賜ったといいますが、高尾のような地方の神社ではかなり高額であり格式が髙かったことを物語っている。(高尾通信)

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山道を登ります            奥社です

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奥社の上は平場、ここが廿里砦だったんでしょうか

十十里防塁跡

廿里町にある戦国期の砦跡。1569年(永禄12)北条氏照が武田氏の攻撃に備えて築いた防塁の跡で八王子城防衛の前線にあたる(Web八王子辞典

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南側                 北側


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街道の風景② この一帯が廿里古戦場だったようです。向は初沢城になります/高尾街道

d0183387_16130397.jpg廿
里古戦場
永禄12年(1569)、武田信玄は小田原の北条氏康を責めるために甲州を出発し、碓井峠を越えて北関東の北条氏の諸城を次々に攻撃し、滝山城攻撃のために拝島に陣した、一方、信玄の武将甲州岩殿城主・小山田信繁は甲州から小仏峠を越えて攻め込んだ。滝山城主北条氏照の家臣横地監物・中山勘解由・布施出羽守らは10月1日にこの付近で迎え撃ったが一戦にしてろもくも敗れ去った。この戦いの後、滝山城は三の丸まで攻め込まれ落城の危機に瀕したが、信玄は途中で小田原に向かい落城はまぬがれた。この戦いで氏照は滝山城の弱点と甲州口の重要性を感じ小仏峠に近い八王子城の築城を計画したといわれている。(八王子市教育委員会



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左は森林科学園、いい森です      高尾街道と別れ左折します/城山大橋(秋川街道)

国指定史跡・滝山城址の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23871197/



・・・元八王子町

八王子市西部に位置する。西部には八王子城がある。城下町が移るまでの八王子の中心であった。地名は華厳菩薩妙行が916年(延喜16年)深沢山(八王子城付近)に八王子権現を祀り、北条氏照が1587年(天正15年)八王子城を築城したことが由来。1590(天正18年)八王子合戦によって八王子城が落城、廃城となる。1593年(文禄2年)城下町が現在の八王子中心部に移る。Wikipedia

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妙観寺山門

d0183387_22484300.jpg妙観寺

1468年(応仁2)といい古くは明観寺とも称せられていた.その後、天文年間(153255)に多聞坊により中興された。1941年(昭和16災により焼失、その年の12月に再建された。旧本尊は大横町極楽寺本尊の歯吹如来といわれている。(Web八王子辞典)

d0183387_22484856.jpg笠地蔵と五重石塔

この阿弥陀・釈迦・地蔵の三体の石仏は俗に「笠地蔵」と呼ばれ、当寺先住法養房実円法印が十万有縁の記者を募り弘化2年(1845)から同5年(1848)にかけて造立し、五重石塔も同じく嘉永5年(185211月に造立したものである。実円法印は武州多磨郡二分方村柳沢の人で、天保14年(184310月には師岡忠助美実作の梵鐘を鋳造し当寺の興隆にはって功があった有徳の住僧である。安政2年(1855910日当寺で没したが、五重石塔の下に入寂していると伝えられている。これらの石造物は大正129月の震災により倒壊破損したのをこの度実円和上116回の忌辰に当り、先徳追善の為修補して旧状に復したものである。(説明板)


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街道の風景③ 中央道の先を左折すると八王子城址になります/城址入口



・・・
八王子城址散策後元八王子から長房周辺を歩いてみました

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八幡神社の赤鳥居

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境内

d0183387_23272269.jpg梶原八幡神社
御祭神:應神天皇 比売命 御神体:甲冑馬上の木像
当社は康平68月(1063)源頼義朝臣、鎌倉由比郷に石清水八幡宮の神を奉祀するに始まる。後治承410月(1180)源頼朝公、大庭景義に命じてこれを小林郷松ヶ岡に遷す。(今此処を鶴ヶ丘八幡宮と称す)。建久24月(1191)宮殿の造営全く竣へ、正遷座の際、古神体を頼朝公家臣・梶原平三景時に賜ふ。此の地は八王子発祥の地、の所領ゆえ同年6月此処に奉祀す。降って寛正・文明の頃傷んだ社殿の造営修復す。元亀3年(1572)北條氏照公、当地に八王子城(日本百名城選)を築き、居住する間社領若干を賜る。越えて天正1911月(1591)将軍徳川家康公より社領10石(朱印)を賜り、後明治6年(1873)郷社に列せられる。尚、景時勧請時の棟札ありしも戦災の折残念ながら焼失す。

d0183387_23550437.jpg梶原杉の由来

当社参道には梶原杉の大樹有あり、景時が八幡宮を勧請した時植えたとされ、樹齢約800年、高さ30m余り、目通り幹周囲が12mあり昭和3年都の天然記念物に指定され、都内随一の大杉といわれた。当社御神木として尊崇保存されてきたが樹盛急に衰え昭和474月愛惜の中伐採された。現在切株があり往時が偲ばれる。(由緒書)


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「市指定史跡 武蔵太郎安國鍛刀之地」の碑がありました/鍛冶屋敷バス停付近

武州下原刀鍛冶
(シタハラトウ)
戦国期永正年間(150421)ころから明治初期にわたり山本但馬周重を祖とする刀工群で、八王子市下恩方町下原横川町下原元八王子町鍛冶屋敷を拠点に活躍した山本姓一族を中心とした総称。その発祥地が下原であるところから下原刀の名称がつけられた。詳細は明らかではないが永正年間、大石氏の招へいにより刀鍛冶山本但馬周重が恩方辺名に住み、鍛冶を始めたとされておりその後2代周重が下原に移り、その分家として横川下原元八王子鍛冶屋敷等に分散し活躍した。2代周重は北条氏康より康の字をつけることを許されて康重と改名その後、康重の弟長門周重が北条氏照から照を許可され照重と称したという。下原鍛冶は康重・照重・廣重と名のる例が複数出て活躍しているが、廣重の系統では江戸期初・中期に武蔵太郎安国、また直系ではないが武蔵太郎安貞がでて下原新刀の隆盛期をつくった。1786年(天明6)奉行所に提出された御用鍛冶職の覚には優秀鍛冶として下原鍛冶14名が記載されている。下原刀の最大の特徴は刀の中央部に下原肌といわれる渦巻状の文様線がでていることで、古刀期にその形状が強く認められたが安国以降の新刀期には小さくなっている。現在89振の刀、脇指、短刀、槍の下原作品が市文化財に指定されている。(Web八王子辞典)


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城山川の風景 橋に「出羽山城(砦)」の名を留めます/出羽山橋

城山川

元八王子町3丁目西端の山間から流れ出し、東北流して横川町北部で北浅川に注ぐ川。(流長7.7km)風土記稿には山城川とも出る。源流部は御殿谷川とも呼び、元八王子町3丁目の宮の前で御霊谷川を合わせてから城山川となり同町2丁目・1丁目をへて横川町で大沢川を合わせる。川ぞいに中央自動車道が走り、南北にJR高尾駅から四ツ谷方面への高尾街道がのびる。源流部左岸に八王子城山が高まる。流域の開発が進み多くの霊園・住宅団地ができた。(Web八王子辞典)


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出羽山から八王子城を望む/出羽山公園(城山手)

d0183387_14361228.jpg出羽山公園
城山手にある出羽山公園は、この地が出羽山と呼ばれていたことからこの名がつきました。出羽山には戦国時代の武将、北条氏照の家臣近藤出羽守屋敷があったといわれています。近藤出羽守は天正18年豊臣秀吉の軍勢が八王子城を攻めた際、八王子城で討死した人物の一人です。(はちバス沿線の見所)


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安下道から登る尾根道、旧道の感じがします/共立女子大裏

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共立女子大周辺            中央道月夜峰第2橋

月夜峰

元八王子町2丁目の東端、長房町と横川町の境の辺の丘をいう。別称:月宵峰,月見岡,月見ケ丘。蔵図会に「北条氏照居城の砌、この地にて月を賞せしより」名づけるという。いま共立女子大学が建つ。(Web八王子辞典)

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八王子城址方向の景観、「月夜峰」の名は中央道のOVに残ります/月夜峰第2橋

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左手が八王子城、奥が犬目、右が月夜峰になります/ジオラマ

豊臣軍の八王子城攻めについて「桑都日記」は次のように伝えています。八王子城を攻めようとする前田・上杉などの大軍は平の渡しで多摩川を越えます。元横山から横川村に出て、前田軍月夜峰に陣を張り大手に向かったのです。一方、上杉軍犬目原に陣を張り、川口村に火を放ち、調原(ととのいはら)から滝ノ沢に至り搦め手から攻めこんだのです。(八王子城址ガイダンス施設・展示スペース)


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北側の加住丘陵の景観です/「月夜峰」


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南浅川の風景③ 中央が高尾、右手が八王子城址方向になります/横山橋(長房町)

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八王子城址周辺マップ
(赤:歩行ルート 橙:鎌倉道 紫:旧甲州街道 茶:高尾街道 青:南浅川・城山川)



by Twalking | 2017-02-27 19:58 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道・上道(5)西国分寺~東村山02 東村山   

日時 2017・1.28(土)
天気 晴れ

小平や東村山は車で通る程度でよく知りません。
地図をみながら歩いていると玉川上水や野火止め用水、
多摩湖自転車道など歩いた記憶がよみがえります。

東村山は史跡や古刹など見所がたくさんあります。
ひとまず八国山の南麓一帯を散策してみましたが、
廻り切れないほど、次回に残りを見てみたいと思います。


・・・小平


武蔵野の西側に位置する。市域は底辺の長い台形の形をしており「小平」という地名のとおり起伏はあまりない。
律令制下では武蔵国多摩郡に属し、官道である東山道武蔵路が中世には鎌倉街道上道の道筋が南北に通過しているが、近世まで安定的定住は困難であったと考えられている。江戸時代には青梅街道が整備され小川宿が設置され、承応3年(1654)に開削された玉川上水から分水された用水路の整備を受けて新田開発が行われ諸村が形成され、一部は武蔵野新田に属する。また、延宝6年(1678年)には尾張徳川家鷹場が設置された。たかの街道やたかの台の地名はこれに由来する。Wikipedia

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街道の風景① 住宅地ですが北へ一直線の道「鎌倉街道」の標識が建ちます/小川東町(青梅街道)



d0183387_17152115.jpg鎌倉街道(小平市小川東町~津田町)

小川村が開発される前の小平はススキの生い茂る広漠たる原野でした。この原に天平の昔(730年頃)から府中の武蔵国府と前橋の上野国府を結ぶ1本の官道(東山道武蔵路)が通っていました。その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くとこの道は鎌倉街道と呼ばれるようになりました。小平市域での道程はわずか2kmに過ぎませんが、千数百年の歴史を有するこの道筋には「二つ塚」「石塔が窪」」「九道の辻」などの地名や史跡が残り、また場所は明らかではありませんが2ヶ所の「まいまいず井戸」があったと伝えられています。(小平市教育委員会)

d0183387_17551481.pngまいまいず井戸
かつて武蔵野台地で数多く掘られた井戸の一種である。地表面をすり鉢状に掘り下げてあり、すり鉢の底の部分から更に垂直の井戸を掘った構造である。「まいまい」はカタツムリの事であり井戸の形がその殻に似ている事からそう呼ばれる。Wikipedia


d0183387_17394853.jpg青梅街道

1603(慶長8年)江戸城築城のために、青梅の成木村で採れる石灰を運搬する道路として、大久保長安の指揮の下に整備された。当時の名称は成木街道であった。しかし、江戸時代中頃には絵図や紀行文などに「青梅街道」の記述が見られる。内藤新宿で甲州街道から分かれ、青梅、大菩薩峠を経由し、甲府の東にある酒折村(現:甲府市酒折)で甲州街道と再び合流する。このため、「甲州裏街道」とも呼ばれていた。Wikipedia

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街道の風景② 府中街道にでて西武拝島線を潜ります/ブリジストン正門先(小川東町)

小川町

小川町の地名は江戸時代に小川一帯の開拓者の名に由来する。また、市の名称にもなった小平の由来ともなったとされている。小川(小)の開拓した平坦なの小と平らでこの地の特徴である平坦な地形(平)をあわせて小平とされた。Wikipedia

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街道の風景③ 昔の面影はありませんが道路が交錯する信号です/八坂交差点


d0183387_17542615.png九道の辻
ここ九道の辻は旧鎌倉街道のほぼ中間で鎌倉へ18里(72km)前橋へ18里(72km)の地点にあった。江戸道・引股道・宮寺道・秩父道・御窪道・清戸道・奥州街道・大山街道・鎌倉街道の本の道が、この地に分岐していたことから九道の辻という名がついたもので、この辻の付近は野火止用水が開通されるまで広漠たる原野の中にあったといわれる。明治以降の交通機関の発達にともなう道路の改変はこの辻にも例外なく、往時の九道の辻の姿は今は全く消え失せてしまった。(標柱)


d0183387_17514793.jpg迷いの桜(小平市小川東町2丁目)
昔、九道の辻の鎌倉街道の南角に季節には見事な花をつけ、往来の人の目を楽しませてくれつ1本の桜の木がありました。人々は「迷いの桜」また「九道の桜」の呼び名で親しまれていました。伝えられるところによると。元弘3年(13335新田義貞が鎌倉攻めの際にこの「九道の辻」にさしかかり、どれが鎌倉への道であるのか迷ったので1本を植えさせて道しるべとしたものとされています。桜はその後いくどか植え替えられてきましたが、昭和55年、後の世に「迷いの桜」んお名を伝えようと新たに苗木が植えられました。(小平市教育委員会)

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野火止め用水も交差しています/天王橋


d0183387_17553152.png野火止用水(小平市中島町~新座市野火止)

承応4年(1655)老中松平伊豆守信綱が玉川上水開削の功績により、玉川上水の水を自己の領地内に引く許可を得て開いたもので「伊豆殿堀」供いいます。市内中島町西端の取入れ口から水は九道の辻を通って野火止に至り、大和田、志木地方の稲田を潤し新河岸川の樋(いろは樋)を渡って宗岡村(現志木市)に達していました。この用水沿いには50数戸の農民が居住しているに過ぎませんでしたが、その後移り住むものが増加し明治初期には1500戸がこの用水を飲料水にしていたといわれます。(小平市教育委員会)



・・・東村山

市域は象の頭部を正面から見たような形をしている。武蔵野台地のほぼ中央、狭山丘陵の東縁に位置する。律令制下では武蔵国多摩郡に属し、奈良・平安時代の遺跡では完形の瓦塔(東京国立博物館所蔵)が出土した東村山市No.2遺跡のほか、平安時代の池状遺構も見られる。古代には官道である東山道武蔵路の道筋が南北に比定されている。平安後期には狭山丘陵に武蔵七党の村山党が進出し、一族は鎌倉幕府の御家人となった。鎌倉時代には鎌倉街道の上道が通り久米川宿を中心とする宿場として栄え、日蓮は佐渡島に流刑される際に当宿に宿泊している。鎌倉末期には武蔵野台地を舞台に新田義貞率いる倒幕軍と幕軍の間で一連の合戦が起こり、市域では久米川の戦いが起きている。また、幕府滅亡後に成立した建武の新政に対して北条残党が蜂起した中先代の乱における合戦も起こっている。戦国期には相模国の戦国大名である後北条氏の領国に含まれ、後北条領国では川越街道が整備されたため、相対的に鎌倉街道の重要性は薄れる。江戸時代は幕府直轄領となり武蔵野台地の開拓が進む。また、尾張徳川家の設置した鷹場にも含まれる。1889の町村制施行の際に北多摩郡野口村・廻田村・大岱村・久米川村・南秋津村が合併して東村山村となった。村名はこの一帯を村山郷といい、村域がその東部にあったことによるものである。Wikipedia

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街道の風景④ すぐ先が西武多摩湖線の八坂駅、「多摩湖自転車道」も通ります/八坂駅

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野口八坂神社鳥居

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野口八坂神社

祭神は素盞嗚命(牛頭天王)である。創立は別当正福寺の火災で記録が焼失し詳らかでないが正福寺の建立された弘安元年(1278)から間もないころか、または国宝正福寺千体地蔵堂の創建された応永14年(1407)の頃と考えられる。宝暦411月の野口村柄様子銘細書上帳に「村内鎮守牛頭天王 別当正福寺 五反七畝弐十弐歩御除地」とあり、また明治311月の神社書上帳には「社号 往古より天王宮と唱え来候処 明治2年奉願上八坂大神と改替仕候」とあって、同年八坂神社と改め村社に列せられる。武蔵名勝図絵多摩郡之部巻二武蔵野新田山口領村山郷には「天王神社山口領野口村 往古より奥州街道の辺りに鎮座 勧請の年月不知 社地松樹翁鬱生茂す 村内正福寺持なり。祭神素盞嗚命尊 之の神像なり神体手に斧を提持し立給銅像 是巨旦が賊を討滅し給う威霊の像なり。長7寸許 此れ霊像にて見る事を許さず 村内の鎮守なり。社地風5町歩 祭礼615日」とある。社殿は残っている棟札から天保3壬辰年に拝殿が改築され屋根は茅葺であった。明治42年屋根は亜鉛鉄板葺に替えられている。この頃の例大祭は715日で前日から神輿 大太鼓 屋台囃子等賑わいは遠く近郷の人々も詣で大きな楽しみとなっていた。昭和39年に拝殿幣殿とも改築されたが、平成元年(1989)現社殿が新築落成した。(石碑)

d0183387_23014387.jpg八坂神社(天王さま)の大獅子頭
この一対の大獅子頭は文久3年(1863)に櫻井富右エ門、鈴木勘左エ門、松田定右エ門、五十嵐喜兵衛によって奉納されました。八坂神社の祭神牛頭天王(通称「天王さま」素盞嗚命と同体とされる)は疫病除けの神として信仰されていますが、以前は疫病が流行るとこの大獅子頭をかぶって村内を巡ったそうです。祭礼の際などに魔除け厄除けを目的として大獅子頭を練り歩く風習は他の地域でも知られています。八坂神社では今では大獅子頭を練り歩くこともなく7月の祭礼の時だけ、本殿の回廊に奉安されることとなっています。(東村山市教育委員会)

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空堀川の野口橋を渡ります/府中街道

d0183387_23250408.jpg空堀川
荒川水系の柳瀬川支流、総延長は約15km。武蔵村山市本町の都立野山北公園域内の丘陵に源を発する。概ね東へ流れ東大和市高木で奈良橋川が合流する。そして清瀬市中里の小金井街道清瀬橋付近で柳瀬川に合流する。かつては渇水期に水がなくなる(そのことから空堀と呼ばれる)一方で大雨が降ると洪水が起きる「荒れ川」であった。Wikipedia

d0183387_23284074.jpg境塚/平和塔公園

武蔵の狭山丘陵の村々は近世中頃にかけて広い(まぐさ・馬のエサ)であったが、幕府は武蔵野原の新田開発をすすめた。延宝・元禄年間に入会地の開墾をめぐって幕藩領主と自立農民との対立も起こり、その後村々には「境界絵図」が築かれ、そのひとつといわれる。もと「大塚」「小塚(今はなし)」と呼ばれた頂上にはご覧のように平和の女神が建立(昭和36年)ている。

浅間塚
あちら側にある円墳状の塚で、頂上にはかつて浅間神社の石祠が祀ってあって、富士信仰による浅間塚と呼ばれている。西宿(現諏訪町12丁目)の講中の方々の信仰のものであったこの祠は、いま諏訪神社(諏訪町)境内に遷されている。(東村山市教育委員会)

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街道の風景⑤ 街道歩きはここ迄にして周辺を散策してみました/東村山駅入口

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東村山駅周辺マップ
(赤:散策コース 緑:鎌倉街道 茶:府中街道 青:北川・前川 黄:東村山・西武園駅)



・・・東村山散策

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街道の風景⑥ 旧道かなと思ったら「東山道武蔵路」の遺構、びっくりです/本町

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道祖神                東山道武蔵路遺構

東山道武蔵路跡

奈良時代の律令体制は全国を畿内と七道の行政区域に分け統治していました。東村山市がある地域は武蔵国と呼ばれ、東山道に属していました。また奈良の都から東山道の各国の国府に向う道も東山道と呼ばれていました。武蔵国府へ向かう道は現在の群馬県太田市付近で東山道本道から分岐し、これを本道の東山道と区別して「東山道武蔵路」と呼んでいます。東村山市内で平成12年の発掘調査により3ヶ所見つかりました。ここはそのうちの1ヶ所で、側溝を含む幅12mの道跡が発見されています。(東村山市)

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前川に架かる弁財橋          弁天池公園


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大善院境内

d0183387_00154073.jpg恵日山大善院(通称:東村山野口不動尊)
大善院は以前八王子市(元かすみ村)本寺恵日山圓通寺の塔頭で、縁起によると天正元年に旧修験を廃し正寺格に改め正徳2年海要権大僧都により再建し法印を以って中興の開基とす。後の明治8年暴風に遭い破倒し再建の資金無く空隙の寺院として歳月を送る事9年、本寺34世亮宥私財を投じて仮本堂を建て寺務法要一切は本寺にて施行していた。

d0183387_00155350.jpg当時在家出身でたいへん信仰心が深い者がおり出家得度をし、修行を重ね天台宗大善院の住職の拝命を受け、出身地である東村山にこの寺を移したいという願いで多難な手続きを行い明治32年には、東村山に同院の名称を移して現在の本堂を建立し初代に慈善和尚を迎えて当所に於ける開山とする。


d0183387_00154780.jpg後の明治39年に不動明王を安置しさらに境内に高さ7mの山を築き唐金製不動明王36童子を安置し、当時毎月の不動尊縁日には門前市をなし参拝者は終日あとを絶ず、現世利益の代表仏である不動明王の名は四隣に知れわたりました。さらに境内には七福神や水子地蔵菩薩がまつられており恵まれない水子たちの拠り所ともなり水子地蔵尊としても知られている。(天台宗東京教区)


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d0183387_00390619.jpg正福寺山門

金剛山小福寺は臨済宗の寺院で鎌倉の建長寺の末寺です。その仏殿である地蔵堂は応永14年(1407)建立の典型的な禅宗様式建築であり、東京都唯一の国宝建築物です。(昭和3年指定)鎌倉幕府執権であった北条時宗か、またはその父である時頼によって開基され、勧請開山は中国南宋の石渓心月仏海であると言い伝えられていますが確たる史料は現存していません。正福寺山門は昭和48年に行われた解体修理の際発見された親柱木内(ほぞ)の墨書銘「元禄14辛已無神月吉日祥日建□(者)也此時住寺號月山(以下略)」から元禄14年(1701)月山の代の建立であることが判明しました。山門の建築様式は四脚門で切妻、昭和48年修理の際に茅葺から茅葺銅板葺に改修されました。建築様式は禅寺様式でその規模は桁行10尺(3.03m)梁行10尺、高さも柱底部から桁下端まで10尺となっています。屋根はかつては化粧裏板の上に登り梁を架けて茅葺としていたものと考えられます。また彩色は柱、桁、冠木、束等に朱の痕跡が見られもともとは全体に朱で塗装されていたものとみられます、江戸時代の伽藍遺構を示す貴重な禅寺様建築物です(東村山市教育委員会)

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正福寺地蔵堂(国宝)

d0183387_01022140.jpg正福寺千体小地蔵尊像

正福寺地蔵堂は千体地蔵尊堂と呼ばれるとおり堂内には多くの小地蔵尊が奉納されています。一体造り丸彫り立像で高さが1530cm位のものです。祈願する人はこの像を1体借り、願いが成就すればもう1体添えて奉納したといわれます。指定されている小地蔵尊は約900体です。背面に墨書のあるものは約270体で年号の分かるものは24体です。正徳4年(1714)~享保14年(1729)にかけて奉納されたものが多く、奉納者は現在の東村山・所沢・国分寺・東大和・武蔵村山・立川・清瀬・国立・小金井の各市に及んでいます。なお、地蔵堂内には1970年代に奉納された未指定の小地蔵尊約500体も安置されています。(東村山市教育委員会)

正福寺千体地蔵堂本尊

地蔵堂の本尊は木造の地蔵菩薩立像で、堂内内陣の須弥檀に安置されています。右手に錫杖、左手に宝珠をもつ延命地蔵菩薩で、像のたかさ127cm、台座部分の高さ88cm、光背の高さ175cm、錫杖の長さ137cm。寺に伝わる縁起には古代のものと伝えられ、また一説には中世のものとも伝えられていますが、昭和48年の修理の際に発見された墨書銘によって文化8年(1811)に江戸神田須田町万屋市兵衛の弟子善兵衛の作であることがわかりました。(東村山市教育委員会)

d0183387_00585565.jpg貞和板碑

この板碑は都内最大の板碑といわれ、高さ285cm(地上分247cm)幅は中央部で55cmあります。碑面は釈迦種子に月輪、蓮座を配し光明真言を刻し銘は「貞和5年卯月8日帰源逆修」とあり西暦1349年のものです。この板碑はかつて前川の橋として使われ、経文橋または念仏橋と呼ばれていました。江戸時代からこの橋を動かすと疫病が起きると伝えられ、昭和25月に改修のため板碑を撤去したところ付近に赤痢が発生したので、これを板碑のたたりとし同年8月に橋畔で法要を営み、板碑をここ正福寺境内に移築したものです。(東村山市教育委員会)

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正福寺本堂

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正福寺八坂神社

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北山公園

北山公園は、狭山丘陵を背景にした自然公園で新東京百景に選ばれています。豊かな水と緑に囲まれ初夏には300種類8千株10万本の花菖蒲が咲き乱れます。また、園内には多くの野草が自生しており、池やその周辺には多くの野鳥が集まり羽を休める姿などを見ることもできます。(東村山市)


・・・八国山

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丘の風景① 樹林越しですが南側の東村山中心部が望めます/八国山


東京都立八国山緑地

東村山市にある緑地であり都立公園となっている。狭山丘陵東端に位置し、北側を所沢市に接する東西に細長い緑地。東西約1.5km、南北約300mほどにわたって広がる。南側には西武・西武園線が通っている。園内には標高89.4m八国山がある(頂上地点というものは存在しない)。この八国山は、かつて上野・下野・常陸・安房・相模・駿河・信濃・甲斐の8つの国を望むことができたことに由来する(現在は樹林に囲まれて展望はない)。八国山は新田義貞が「久米川の戦い」の際に陣を張ったとされる場所であり、これに因んで尾根の東部にある塚には「将軍塚」と書かれた石碑が建てられているが、元となった塚は富士塚、あるいは古代の古墳といわれている。かつて付近は、律令時代の官道である東山道武蔵路が通っていたとされ、将軍塚の付近の谷戸地形から溝または切通し跡と考えられる遺構と8世紀頃のものと思われる須恵器なども発見されている。アニメ映画「となりのトトロ」に登場する七国山の舞台である。また、主人公のサツキとメイの母が入院している「七国山病院」のモデルとなった新山手病院は敷地内に位置する。Wikipedia

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なだらかな尾根道が続きます/将軍塚手前

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d0183387_01572278.jpg将軍塚
狭山丘陵の東端に位置するこの山はかつて駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃の八か国の山々が望めたことから八国山と呼び伝えられ、鎌倉時代にはこの付近を鎌倉街道上道が南北に通っていた。元弘3(1333)、鎌倉幕府を倒そうと上州で挙兵した新田義貞は同道を南下し、小手指ヶ原で幕府と対戦したが苦戦を強いられ分倍河原(現東京都府中市)の合戦でようやく勝利するが、このとき義貞がこの地に一時逗留し、塚に旗を立てたことから将軍塚と呼ばれるようになったと伝えられる。江戸時代に編纂された『新編武蔵国風土記稿』には「此ニ一ツノ塚アリ。是ヲ将軍塚ト呼ブ」とある。同書にはこの塚は富士塚とも呼び、あるいは古代の塚ではないかとも記されている。(現地説明文)

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丘の風景②北 側の所沢方向の景観です/八国山



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d0183387_02055683.jpg久米川古戦場

北川と前川の合流するこの地域の低地と狭山丘陵東端の八国山の麓一帯を鎌倉時代には久米川宿といっていた。文永8(1271)日蓮の書状に「武蔵国久目河に付き……」とあって、上野国(群馬県)と鎌倉を結ぶ政治的にも経済的にも重要な交通路であった鎌倉街道上の道の主要な宿駅であった。『太平記』によれば、元弘3(1333)58日群馬県新田町の生品神社(新田義貞挙兵伝説地)から鎌倉幕府倒幕のため挙兵した新田義貞の軍勢は、11日初戦の小手指河原合戦(所沢市)で鎌倉軍を破り、翌12日に南下した新田義貞と鎌倉幕府軍との2が行われたのがこの周辺一帯であるといわれている。『江戸名所図会巻四』によると久米川合戦に勝った新田義貞が塚を築き、旗をたてたといわれる将軍塚(所沢市)が八国山にある。標高約190mの八国山は駿河(富士)、伊豆(天城山)、相模(箱根・大山)、甲斐(多波山)、信濃(浅間)、上野(吾嬬)、下野(日光)、常陸(筑波)、の八か国の山が眺められるのでこの名がついたといわれている。久米川宿を中心とする久米川一帯は、その後も建武2(1335)中先代の乱や応永23(1416)と同24(1417)上杉禅秀の乱などたびたび合戦の戦場となったが、近年は宅地化が進み当時の景観は偲ぶべきもない。国の重要文化財『元弘の板碑』は八国山山麓にあったものを文化年間(180418)に臨済宗福寿山徳蔵寺(東村山市諏訪町126)に移したものである。(東京都教育委員会)

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街道の風景⑦ この道は徳鞍寺先で鎌倉街道に合流します/将陣場橋(北川)

北川

東京都の主に東村山市を流れる一級河川。荒川水系柳瀬川の支流である。東大和市の多摩湖に源を発し、都立狭山自然公園内から東方向へ流れ、北山公園の南側を沿ながら所沢市との境の二瀬橋付近で柳瀬川に合流する。Wikipedia

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江戸名所図会 将軍塚 徳蔵寺(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

・・・

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徳蔵寺山門

d0183387_02351833.jpg徳蔵寺
臨済宗大徳寺派に属し福寿山徳蔵寺と称す。創立は永禄3年(1560)、開山年は元和年中(16151623)と伝えられている。徳蔵寺は当時赤坂種徳寺末であったが、徳蔵寺に住した全叟由禅師は寺の復興に尽力し、璧英禅師を奉請し中興開山となって頂き、全叟由禅師「自ら」は徳蔵寺中興2代(世)となった。寛永12年(1635)璧英禅師は招請され徳蔵寺の中興開山となったがその年の秋に遷化された。江戸時代中期、永春庵は八国山から徳蔵寺境内に移されその後「元弘の碑」も移された。現在、国の重要文化財に指定されている。昭和43年に徳蔵寺板碑保存館が建設され、本堂・客殿・庫裏・永春庵は昭和57年に改築落慶し、平成22年にはこれまで無かった山門も新築した。(徳蔵寺HP)

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諏訪神社鳥居


d0183387_11520420.png諏訪神社本殿

社屋の奥に納められている本殿は間口が106cm(3.5尺)棟田253cm(8.35尺)で、小さな規模の社に用いられる見世棚造です。屋根は板葺で厚板を2枚重ねに葺いた錣葺(しころぶき)という古風な葺き方で、多摩地方では珍しいものです。記録等は発見されていませんが、様式から江戸時代初期(17世紀後半)の建築と推定されます。また本殿正面虹梁(こうりょう)上部の蟇股に鎌を交差させた絵様が彫られ、豊作を祈願する村民の思いが込められたユニークな意匠です。(東村山市教育委員会)

d0183387_02352876.jpg諏訪神社

野口実来(つぶれや)に、前川の洪水の時流れ着いた御神体を、大紋廻(おおせど)と字名で呼ばれる桜井利兵衛(現桜井長寿氏方の先祖)がお祀りして、古くは諏訪明神と言われて来た。貞享2年に6反歩の境内地と共に西宿部落(現諏訪町)の鎮守様として寄贈したと代々桜井家に言い伝えられて来た。寄贈の年月日は詳でないが利兵衛氏より徳蔵寺に当てた諏訪明神関係の古文書に、貞享2年丑ノ411日と銘記しておりこの日付に近い時期だと推定される。(右は桜井裕久氏の文献及び口述に依る)明治の世代になり神仏判然令が施行されるまで永く徳蔵寺の管理下にあり、昔は素晴らしい杉林であって現在の徳蔵寺本堂は諏訪神社の杉材にて建立されたと伝えられて居る。例祭に立てる大幟は、徳蔵寺17世住職朝木蒨渓師が文久元年に書いたもので、幟の建石は文久元年7月願主清水市良衛門、清水岩次郎、清水助右衛門が納め、2基の石燈籠は明治215月桜井家の子孫宇重郎氏が奉献したものである。その後台石等破損したので昭和4212月宇重郎氏の孫裕久氏に改修して頂いてある。拝殿に向って左側に小祠がある。浅間神社で側面に天保133月西宿中と刻んである。市の指定文化財に指定されて居る境塚(浅間塚とも言う)の頂上に祀られて在ったものを昭和の初め合祀したのである。明治7年学制施行後、化成小学校建設に当り境内の大部分を敷地に提供して、現在の処に移したのである。明治年代から大正14年迄、毎年99日・10日が例祭日であったが、季節が220日で毎年のように降雨に見舞われるので、926日・27日に変更、2年間続いたがその頃晩秋蚕飼育が盛んになり、丁度上蔟期になるので再び826日・27日に更えて今日に至る。古老の言い伝えによると、明治の中頃は例祭日にはよしづを張り廻らせた水茶屋等も掛り、非常な賑わいを呈したと聞くが、明治末期から大正・昭和と大きな舞台を掛け、野火止・竹間澤・中福等の神代神楽師を招き、祭ばやしと共にお神楽を奉納したのである。昭和22年平和音頭の踊りが流行して氏子の婦人達が奉納したのが始まりで、現在も奉納の踊りに祭りばやしを織り込んで奉納している。(説明板)

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東村山駅西口わくわくマップ(赤:散策ルート 緑:鎌倉街道)





by Twalking | 2017-02-04 19:25 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道・上道(5)西国分寺~東村山01 恋ヶ窪   

日時 2017.1.28(土)
天気 晴れ


府中から国府・国分寺の連絡路を意識しつつ、
伝鎌倉道を通り武蔵路の関連施設を見ながら歩きました。
凄い遺跡ですね、鎌倉道と並走してますので先が楽しみです。

恋ヶ窪から先は住宅地ですから、交差する街道や玉川上水等
を確認しながらの道のりです。
東村山辺りまでは行っておきたいと、急ぎ足になりました。



・・・恋ヶ窪

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街道の風景①国分尼寺の先に「伝鎌倉街道」が残ります/西元町(黒鐘公園)


d0183387_13062526.png伝鎌倉街道
鎌倉時代、幕府の置かれた鎌倉と各地を結び後に「鎌倉街道」と総称される幹線道路が整備されていった。武蔵国内を通るもののうち上道(律令制下の東山道武蔵路をほぼ踏襲する)は特に有名である。市域を通過する「上道」(かみのみち)は鎌倉から町田、府中をへて北上し上野、信濃に至っており、街道沿いに有力御家人が勢力を奮っていたことから軍事的にも重要な道路であったことが知られる。市内の伝祥応寺や恋ヶ窪廃寺(西国分寺駅南)発掘調査の結果、次第に明らかになりつつある。(国分寺市教育委員会)
(緑:鎌倉街道 黄:東山道武蔵路 紫:府中街道)


d0183387_12525606.jpg伝祥応寺跡・塚跡
本遺跡は尼寺伽藍の一部とする説もあったが、近年の調査によって鎌倉時代末頃に建てられた寺跡と判明し、本多4丁目の祥応寺の前身にあたると考えられている。旧鎌倉街道と言われる切通しに東面して土塁(基底部幅3m、高さ1.2m以上)と溝とで東西30m、南北45mの長方形の区画が形づくられている。現存する大小15個の礎石の分布などから東西9m南北18m程の規模の堂がその中央にあり、瓦を用いない建物だったと推定されている。出土品としては鉄製風鐸、板碑、銭貨などがある。(国分寺市教育委員会)


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この塚(盛土遺構)は底面約22m高さ約3mで、1辺約7mの平坦な頂部を有する方錐体と復元され周囲の地山層(黒褐色土)を削った土で築かれている。旧来「土塔」といわれ、国分寺に関係を有するものとされてきたが、2度に及ぶ発掘調査の結果、中世(1415世紀頃)において種々の祈願の成就を得るために作法に則り本尊に対し祈祷するために築かれた修法壇跡伝祥応寺との関係を有するものと推考される。鉄道拡張工事に伴う第1次調査(1969)では下層より平安時代の竪穴住居跡2軒、盛土内より明銭(洪武通宝・1368初鋳)1枚、頂部に主体部と思われる粘土敷き硬化面、その付近より梅瓶(めいびん)型瀬戸灰釉瓶子(かいうへいし)や素焼きの土師質土器細片数点などが出土している。(国分寺市教育委員会)

d0183387_12204200.png恋ヶ窪廃寺跡
西国分寺駅南東90mの泉町3丁目33番地一帯にあります。古瓦や板碑の出土によって江戸時代末期には指揮者の注目するところとなっていましたが。府中街道脇の林として長い間保存されてきました。昭和46年西国分寺駅舎建設の前後から開発の波にさらされ、現在遺構の大半はビルの下になっています。昭和46年~63年まで6次にわたる調査の結果、礎石建物跡1棟、掘立柱建物跡6棟、堀跡5条の他、土壙墓12基、火葬墓6基など古代から中世にかかる遺構が多数発見され、大きく3期の変遷が判明しています。遺跡の範囲は道路や鉄道などのため明らかになっていません。出土品には板碑、宝篋印塔など中世の供養塔や灰釉華瓶(かゆう)、古銭などがあります。(国分寺市文化財資料展示室)


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街道の風景② 府中街道の東側に直線的に伸びる旧道が残ります/西恋ヶ窪


d0183387_13211349.png恋ヶ窪用水(恋ヶ窪村分水)の由来/姿見の池入口

この水路は江戸時代の明暦3年(1657)国分寺村、恋ヶ窪村(国分寺市)、貫井村(小金井市)の田の灌漑用水に利用するため玉川上水から分水してつくられ、久右衛門橋付近に分水口がありました、この水路は現在の府中街道の恋ヶ窪交差点(東戸倉と東恋ヶ窪の境)付近で3本に分かれ、南へ流下する水路が「恋ヶ窪分水」と呼ばれました。恋ヶ窪分水には上水からの水のほか「一葉松」(ひとはまつ)の伝説のある姿見の池付近からの湧水も注いでいました。この分水の築造により村の収穫量が倍増し、村人の暮らしも豊かになりました。また享和3年(1803)には水車もつくられました。その後明治になって上水に船を通すため分水口が廃止され、この分水は砂川用水(野中新田分水)から水を分けてもらうことになりました。現在この水路(恋ヶ窪用水)と呼ばれています。ほとんどが埋め立てられて昔の面影がなく、ここも汚水が流れていましたが里山の自然を復元するため昔の用水をイメージして整備しました。(説明板)


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姿見の池


d0183387_00465059.png姿見の池とその伝祥

姿見の池はかつて付近の湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み清水を湛えていました。その名の由来は鎌倉時代恋ヶ窪が鎌倉街道の宿場町であった頃、友情たちが朝な夕なに自らの姿を映して見たという言伝えによります。また、この池は「一葉松」の伝承の中にも登場します。源平争乱の頃、遊女の夙妻太夫(あさづまたゆう)と坂東武者で名将といわれて畠山重忠とが恋に落ちました。ところが太夫に熱をあげるもう一人の男がいてその男は重忠が平家との西国の戦で討死したと嘘をつきあきらめさせようとしましたが、深く悲しんだ太夫は姿見の池に身を投げてしまったと言い伝えられています。更に歴史は下って江戸時代に描かれた「江戸名所図会」にこの辺りのものが描かれています。この様な伝承に彩られた姿見の池は昭和40年代に埋め立てられましたが、平成10年度環境庁及び東京都の井戸・湧水復活再生事業費補助を受け、昔の姿をイメージして整備しました。また他に湿地・用水路・水辺林等周辺の東京都指定「国分寺姿見の池緑地保全地域」と一体となるよう整備し、かつての武蔵野の里山自然を回復し保全してゆくものです。(説明板)

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江戸名所図会恋ヶ窪 阿弥陀堂・傾城松・牛頭天王 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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東福寺境内 

d0183387_16050343.jpg東福寺

武野山広源院東福寺はJR西国分寺駅より250m程北東に位置します。東面する敷地は上下2段に分かれた段丘を取り込むように構成され、下段には斎場、石段を挟んだ上段に本堂と客殿、寺務所が建ちます。なお、正面の石段傍らには「傾城墓」「傾城墓由来」など一葉松の伝説に因む石碑類が佇んでいます。 本寺には鎌倉時代初期と享禄元(1528)年の開創との寺伝があり元和7 (1621)年、享保10 (1725)年の再興が伝わります。東福寺は真言宗豊山派で府中市の妙光院末寺、江戸時代は近接する熊野神社の別当寺でした。現在、本堂南側には子ノ権現(聖堂)が祀られますが、これはもともと百姓十郎右衛門の先祖が祀ったものを天明4 (1784)年当寺の飛地境内とされました。また、熊野神社南側に閻魔堂が飛地境内として享保10(1725)年以来ありましたが、第2次世界大戦で焼失し現在は墓地とされています。(国分寺市有形文化財調査報告書)

d0183387_16051098.jpg傾城墓由来碑
傾城之墓は当恋ヶ窪に在り。往昔奥州より鎌倉を通する要当たり。頗る繁華にして多数の妓楼軒を並べしといふ。其の中に夙妻太夫といへる遊女あり。此の遊女深く秩父重忠お寵を承け愛情蜜だった。或る日重忠源義経に随て平家の追討に赴きしに、重忠西国に在りて戦死を遂げしと偽り告ぐる者あらしむ。彼の女悲哀の情に堪えず憂悶の余り終に自刃せりと云ふ。里人其の死を憐み、阿弥陀坂の上に葬り其塚に松を植えて墓標とせしといふ。爾来数百年を経る従ひ其松は枯れ、塚も平らけらし其傷痕も分からずるに至り、当地の出身者6世雪庵可尊翁深く旧蹟の滅するを惜しみ、同志と相謀りここに墓標を建て再び松を植え傾城の墓の墓とせし。其松復枯としかむ、今回復松を植え併せて斯の碑を建て其の由来を記し、以って墓標と共に不朽の伝とす。今もなお 朽ちせぬ名にぞ 新たなれ 松の操の 傾城の墓 今もなお 朽ちせぬ名にぞ 新たなれ 松の操の 傾城の墓(石碑文)

傾城(けいせい)
美人の意、および遊女の意。漢書に美人を「一顧傾人城,再顧傾人国」と表現したのに基づき、古来君主の寵愛を受けて国 () を滅ぼす (傾ける) ほどの美女をさし、のちに遊女の同義語となった。浄瑠璃、歌舞伎の役柄に多く取入れられ女方の基本の一つとされる。(コトバンク)

d0183387_16150606.jpg一葉松

「一葉松」は武将・畠山重忠(平安末期から鎌倉)と傾城・夙妻太夫との悲運の恋に由来しており、夙妻太夫の死を哀れんだ里の人々が墓標として植えた松です。不思議な一本葉の松で夙妻太夫の一途な思いの現れとも云われ、いつしか「一葉松」(ひとはまつ)と呼ばれるようになりました。言い伝えの一葉松はすでに枯れてしまいましたが、現在枝を植継いだ松が東福寺内の本堂・事務所にむかう階段横に数本植えられており、わずかではありますが一葉を見ることが出来ます(国分寺市)


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熊野神社鳥居

d0183387_16401009.jpg熊野神社

熊野神社は府中街道と熊野神社通の交差点である「西恋ケ窪3丁目」交差点を東へ100m程進んだ旧鎌倉街道とされる道路に西面して鎮座します。敷地北西隅は道路の拡幅により斜に削ぎ落され敷地西面に幟台、石階段等を構えます。敷石が真直ぐ社殿に向かい南に社殿、神楽殿があり、北側に手水舎、太鼓庫及び境内末社の八雲神社、八幡神社、古峯神社が鎮座します。当社は旧鎌倉街道とされる道路に西面し、社伝では新田義貞の兵火で焼失して応永(13941427)年間に社殿再建、天正181590)年兵火により再度焼失し、慶長21597)年に社殿が再建再勧請され、延宝61678)年の検地では131歩とされます(「神社明細帳」東京都公文書館所蔵)。以後も社殿は明治101877)年の暴風で倒れ、大正121923)年の関東大震災では大破、加えて昭和201945)年の爆撃により大破し、昭和411966)年に社殿を改築したとされます(『北多摩神社誌』)。祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊。(国分寺市有形文化財調査報告書)

d0183387_16401594.jpg聖護院道興准后の御歌の碑

朽ち果てぬ 名のみ残れる 恋ヶ窪 今はた訪ふも 知記りならずや
「廻国雑記」に文明18年(14865准后道興法親王、鎌倉より入間へ向かう途中恋ヶ窪にて御歌御奉願ある。(熊野神社社務所)

道興
(どうこう)
幼少の頃から出家し聖護院門跡となる。14866月に京都を発つと若狭国から越前、加賀、能登、越中、越後の北国を経て下総、上総、安房、相模の関東を廻り、翌14875月には武蔵から甲斐を廻り奥州まで至っている。道興は後に東国廻国を紀行文『廻国雑記』として著している。Wikipedia


d0183387_16401952.jpg芭蕉句碑
ひょろひょろと なお露けしや をみなえし
この碑は恋ヶ窪出身の俳人室雪庵可尊が明治7年(1874)に建てたもので、字は可尊のもの。
可尊句碑
月花の 遊びにゆかむ いざさらば 
室雪庵可尊(坂本八郎兵衛)は明治19年に88才で亡くなったが、その辞世の句を門人たちが明治30年に建てたもの。(熊野神社社務所)

d0183387_12341380.jpg昔の道(鎌倉街道)/熊野神社先

鎌倉街道は鎌倉と北関東を結ぶ主要街道の総称です。上道・中道・下道の3道が特に有名で、そのうち上道が恋ヶ窪を通っていたといわれています。恋ヶ窪に残る一葉松の伝承や新田義貞の鎌倉攻めなどもこの道を舞台にしています。用水路の脇を通るこの道は、古い鎌倉街道が移動したもので、江戸時代には「川越街道」と呼ばれ、昭和19年頃に現在の府中街道が出来るまでは重要な道路でした。(案内板)

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街道の風景③ 府中街道を進みます/恋ヶ窪

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厳島大弁財天を左折/恋ヶ窪交差点    歴史と文化の散歩道標柱/窪東公園


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五日市街道と府中街道が交差/上水本町  五日市街道を左折して玉川上水へ

五日市街道

東京都の多摩地域などを通る街道。現在の都道7号杉並あきる野線の本線とほぼ一致する。徳川家康の江戸入府後、五日市(現・あきる野市)や檜原から木材・炭などを運ぶために整備された街道。初期には「伊奈道」と呼ばれ、伊奈(五日市より少し東にある集落)の石材を扱っていた石工が江戸城修築のため江戸へ行き来するための道として発展したが、修築が終わり木炭輸送が主流になるにつれ伊奈と五日市の重要性が逆転した。武蔵野台地新田開発が進むと多摩地域と江戸を結ぶ街道の一つとして発展した。Wikipedia

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街道の風景④ 玉川上水に架かる鎌倉橋を渡ります


d0183387_13514137.jpg玉川上水
かつて江戸市中へ飲料水を供給していた上水(上水道として利用される溝渠)であり、江戸の六上水の一つである。多摩の羽村から四谷までの全長43km1653年に築かれた。羽村取水堰で多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し四谷大木戸(現在の四谷4丁目交差点付近)に付設された「水番所」(水番屋)を経て市中へと分配されていた。羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているほか、大規模な分水路もおおむね武蔵野台地内の河川の分水嶺を選んで引かれている。1722年(享保7年)以降の新田開発によって多くの分水(用水路)が開削されて武蔵野の農地へも水を供給し、農業生産にも大いに貢献した(代表例野火止用水、千川上水)。Wikipedia)

玉川上水の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/20674257/


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資料ファイル
東山道武蔵路

d0183387_14303569.png古代官道東海道武蔵路とは
大化の改新(645)後、日本は政治の仕組みを整えるため唐の制度を積極的に取り入れ、天皇の居所に(藤原京・平城京など)を造営し、律(刑法)や令(行政法)に基づく中央集権国家を成立させました。この過程で、国の支配体制を全国に及ぼすために都周には「畿内」その他の地域には東海・東山・北陸・海南・山陽・山陰・西海道の「七道」を設定し、五畿七道と呼ばれる地方行政区分を施行しました。七道は地方の領域を示すとともに、都から各地の国府に向かう幹線道路(官道)の名称でもありました。古代の官道は目的地までを最短距離で結ぶために極力直線を志向して経路が設定されていることが特徴です。また、約16kmごとに駅家(うまや)を起き、都の役人が往来するために駅馬(はゆま)が配備されていました。これを駅制と呼んでいます。平安時代に編纂された「延喜式」には当時の駅路が記載されていますが、そこから古代の道路網を復元するとその総延長は約6300kmにも及んでいたことが明らかになっています。


d0183387_14321698.png現在東京都・埼玉県・神奈川県の一部を包括する武蔵国は当初七道のうち東山道諸国に含まれていました。東山道は都から東へ山伝いに続く道で、近江・美濃・信濃国から碓氷峠を越えて上野国に入り、下野国を経て陸奥・出羽国へと通じています。このうち、武蔵国は上野・下野国を通る東山道の本道から南へ大きく外れた位置にあるため、上野国の新田駅付近から5つの駅家を経て武蔵国府に南下する枝道が存在したことが、奈良時代に編纂された「続日本記」に記されています。その後、宝亀2771)年に武蔵国は都との往来が東山道では不便であるという理由で、相模国を経由する東海道諸国に配属替えされました。これにより東山道武蔵路は公的な駅路としての役割を終えることになりますが、その後も武蔵国内の重要な南北交通路として機能していたことが様々な資料からうかがえます。(泉町説明板)

d0183387_14550962.png武蔵国分寺と東山道武蔵路
奈良・平安時代の武蔵国の中心で、国府・国分寺が置かれていた現在の府中市、国分寺市域では、開発工事に先だって数多くの発掘調査が行われています。昭和50年代以降、約12m幅で並走する複数の遺構がほぼ一直線上に並んで点々と検出される状況が明らかになり、国分寺市内ではこれらの遺構を「SF1道路跡」と名付けて調査を行ってきました。この後、全国的に古代の道路遺構に対する関心が高まる中で、これらの遺構の延長線上にあたる各地で構造が類似する遺構や硬化面の発見が相次ぎ、府中・国分寺市を南北に縦貫する道路遺跡が北関東と武蔵国府をつなぐ「東山道武蔵路」であるという見解が定着していきました。また、国分寺市では昭和5060年代に実施した武蔵国分僧尼跡の範囲確認調査によって、東山道武蔵路を挟んで東側に僧寺西側に尼寺を配する伽藍域を形成していたことや、東山道武蔵路が僧寺寺院を囲む区画で西辺としての機能を兼ねていることが明らかになりました。市内で東山道武蔵路は、北側から東戸倉1丁目、東恋ヶ窪643丁目、西恋ヶ窪1丁目、泉町1丁目、西元町23丁目を通り、その延長は3kmに及ぶことが想定されます。平成263月現在、約60ヶ所の発掘調査地点から道路の痕跡が発見されています。(泉町説明板)

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史蹟-1 市立歴史公園

d0183387_15104574.jpg史蹟東山道武蔵路跡(武蔵国分寺跡北方地区

東山道武蔵路は都と東国の山間地を結ぶ東山道が、上野国から分岐して武蔵国に至る古代の官道である。武蔵国分寺は東山道武蔵路の東西に僧寺と尼寺を配置し、僧寺の寺院地区西辺を道路で区画するなど、東山道武蔵路と武蔵国分寺は密接な関係にある。そのため平成228月、東山道武蔵路は史跡として武蔵国分寺跡に追加指定された。この公園は市立第4小学校の跡地であり、平成18年度に市が発掘調査を行い西恋ヶ窪1丁目・泉町1丁目から続く東山道武蔵路の延長部分が確認された。道路はいくどか補修、造り替えが行われており、当初側溝間約12の直線道路であったものが(第1期)、側溝の埋設後にその上面を路面とした段階(第2期)、西側にすらして側溝を再掘削した段階(第3期)へと変遷する。また道路と重複する他の遺構も検出された。公園ではこれらの遺構を地中に保護し地上に復元展示している。(市立歴史公園説明板)

d0183387_15170642.png周辺地域の東山道武蔵路(武蔵国南部の様相)

1期の道路跡は国分寺市域以外の多くの地点でも確認されている。第1期の道路が直線的であること、道路幅が約12でほぼ一定であること、側溝の形状が特徴的であることなどから離れた地点で検出された場合も比較的容易に東山道武蔵路の一部とわかる。多摩市打越山遺跡では、側溝は伴わないが丘陵を切り開いて路面とした道路跡が検出され、位置と方向から東山道武蔵路の延長部分と考えられる。さらにこのまま南下すると相模国に至ると想定される。「続日本書紀」は東山道武蔵路について「上野国邑楽郡(おうらぐん)より5箇駅を経、武蔵国に至る」とだけ記しているが、実際には東海道と東山道を結んでいた可能性も考えられる。(説明板)

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史跡-2 泉町地区


d0183387_15243112.png東山道武蔵路(泉町地区)の発掘調査
昭和63年(1989)日本国有鉄道の民営化に伴いそれまで西国分寺駅の南東側にあった中央学園跡地に広がる泉町地区では開発に先立ち平成513年にかけて大規模な発掘調査が行われ、特に平成7年度調査では総延長約400mにも及んで直線に延びる古代の道路遺構が姿を現した。この時の調査で道路の構造や規模のみではなく4時期にわたって道路が変遷していたことも明らかになりました。1東西幅12側溝を伴う道路で、西側溝断面は逆台形状を呈しその幅は約4080cm、深さは約1.2mを測ります。両側溝の断面は所々で途切れるなど断続的で、溝低面のレベルも一定せず凹凸に富んだ形をしています。そのため側溝は道路の排水機能よりも道幅を表示するために掘られたものと考えられます。またここより約100m北側ではJR中央線に向って地形が低く傾斜していますが、そこでの路面は道路中央が窪んだ切通し状になっていて、地形に応じて路面の構造が異なっていたことも確認されています。2は第1期の側溝が埋設し後に使用された道路で、両側溝の上層で硬化面が確認されていますが、道路幅は不明です。3は第1期の側溝に重複して掘られた9m幅の東西側溝を伴う道路です。4はそれまでの主軸方向からやや北東へ振れて蛇行し、切通し状に掘り込まれた道路となっています。(説明板)

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東山道武蔵路4期の変遷/説明板


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古代道路遺構の再生展示

d0183387_15274085.jpg古代道路遺構の再生展示

東山道武蔵路は都と地方を結ぶ古代東山道の枝道(支路)の一つで、上野国から武蔵国府へと南下する幅約12mの直線道路です。この官道は国分寺市内を南北に通過しており、市域の想定道路延長は約3kmに及びます。このうち西恋ヶ窪2丁目(恋ヶ窪地区)、泉町2丁目(西国分寺地区)、西元町2丁目(旧第4小学校跡地地区)の3ヶ所が国史指定されています。泉町2丁目では幅15、長さ400の範囲で舗装路面に当時の道路幅と側溝の位置を表示しています。東山道武蔵路は現在地から北方の恋ヶ窪谷へ向かって下りながら次第に路面の中央がえぐれて切通し状になり、側溝が失われていきます。ここでは当時の道路造成面を型取りして復元したレプリカを作成し、遺構と同じ位置で高さを上げて展示しています。(展示説明板)

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古代道路遺構の再生展示説明板

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史跡-3恋ヶ窪地区(姿見の池)

d0183387_15434922.png恋ヶ窪谷の東山道武蔵路

平成9年度にこの場所で東山道武蔵路の発掘調査が行われました。他の調査(西国分寺地区など)では側溝を伴った幅12m、路面が踏み固められた道路跡が出土していましたが、ここの道路は丸太で枠をつくり木杭で押さえ粗朶(そだ・アシや木の枝)を敷き、1020cmの礫を敷き詰めさらにローム主体土と黒色土を交互に積み重ねた「敷粗朶工法」と呼ばれる版築道路の構造でした。これは湧水が多い谷の湿地に対応するためと考えられ、直線道路を構築するための古代の土木技術を知る貴重な資料であるとともに、当時の恋ヶ窪谷の自然をうかがい知ることができます。(姿見の池説明板)

武蔵国分寺・尼寺史跡の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23812716/

東山道武蔵路
古代に造られた官道の一つ。当初東山道の本道の一部として開通しのちに支路となった道であり、上野国・下野国から武蔵国を南北方向に通って武蔵国の国府に至る幅12m程の直線道路であった。現在武蔵路として確実な遺構は南部を中心に集中的に見つかっている。
・旧国鉄中央鉄道学園跡地遺構(国分寺市泉町2丁目)官道遺構が大規模に発見された全国でも稀な遺跡で都の指定史跡。
・上水本町遺構(小平市上水本町)原島農園遺構(小平市小川2丁目)小川団地遺構(小平市小川東町2丁目)
・野口橋遺構(東村山市本町1丁目)土方医院遺構(東村山市本町2丁目) 八国山遺構(東村山市諏訪町2丁目)以上6ヶ所は旧国鉄中央鉄道学園跡地遺構と東の上遺跡を結んだ線上を調査して得た遺構。

・東の上遺跡(所沢市久米)武蔵路の遺跡としては最初に見つかったもの。国府から北に直線に上がったところにあたるため、発掘当時から武蔵路の跡と目されていた。両幅に溝が掘られた道幅12mの直線道路が発掘され、溝から須恵器の蓋などが見つかり、7世紀第4四半期ものと認定された。その後の更なる発掘調査の結果、周囲に多数の建物の跡や各地の土器、馬具等も出土している為、駅跡の可能性も注目されている。
柳野遺跡(所沢市下富)上記の東の上遺跡の延長上から推定して発掘調査した結果、平成243月に同じ構造の遺構が見つかっている。
・八幡前・若宮遺跡(川越市的場)「驛長」の墨書土器が出土しこちらも駅跡の可能性が高いとして注目されている。
・女堀遺跡(川越市的場)現在確実に武蔵路の遺構として考えられている最北の遺跡。
・西吉見条里遺跡(比企郡吉見南吉見)2001年(平成13年)度の発掘で官道級の幅員を持つ古代道路跡が発見され、その後も道路跡の延長上の遺跡で同様の発見があった。武蔵路の遺構との推測がなされているが、向きが北東に傾いているため、郡衙同士の連絡道、または常陸国へ通じる間道という説もあって確定していない。Wikipedia



by Twalking | 2017-02-03 08:59 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 北野街道(館町~片倉)山田町   

日時 2017.1.13(金)
天気 晴れ

町田街道に出ましたので、北野街道沿いを歩いてみました。
目指すは古刹の山田の広園寺さん、訪ねてみかったお寺さんです。
丘の上と下の街道を交互に混ぜてながら見て回りました。

道を一本外すとのどかな田園風景が残ります。
牧場でお土産を買い道を訪ねると「湯殿川が近道」と伺い、
川辺を片倉へ、高尾東稜に沈む夕景が綺麗でした。



・・・椚田町
(くぬぎだまち)

江戸時代まで現狭間町とともに下椚田村の一部であった。下椚田村に加え現高尾町、初沢町、東浅川町辺を上椚田村といった。横山党の横山権守時重の四男、大郎重兼がこの椚田の地に居を構えたとされ、その子次郎広重より代々椚田氏を名乗ってこの地に住んだので、このあたりを横山庄椚田郷と呼ぶようになったとされる。この椚田氏が初沢城(椚田城)の初代城主ではないかという説がある。(新編武蔵国風土記稿)
Wikipedia

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ひとまず椚田遺跡公園通りを東へ向かいます/狭間町(町田街道)

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振り返ると高尾山/狭間駅付近         椚田公園を右折/東京高専前


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宝泉寺山門/館町

d0183387_17153631.jpg宝泉寺

宗派:臨済宗南禅寺派 
享禄元年(1528)遠叟祖順禅師によって建立。本尊は薬師瑠璃光如来で、守護神である十二神将は江戸中期のもので、付近住民による素人一刀彫であると伝えられている。明治25年改修され後昭和50年改築。現在は斎場、霊園や納骨堂等を備えている。(八王子仏教会)


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街道の風景① よさそうな道なので登ってみました/団地入口(北野街道)

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旧道でしょうか?、地蔵堂と並んで馬頭観音がありました/椚田町

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丘の風景① 町田街道・恋路峠の方向の景観です/椚田町


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街道の風景②いい道があったので下りましたが、また御嶽神社へ上ります/椚田中

東京都道173号上館日野線
八王子市館町上館の都道47号八王子町田線交点から、日野市高幡の都道41号稲城日野線交点に至る一般道である。北野街道ともいう。路線延長:11.853kmWikipedia

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椚田(大牧)御岳神社/椚田町
祭神:日本武尊、素戔嗚尊慶長元年(1596)のころ武州御嶽社から勧請したと伝える。明治31年改築。大正59月に再建。(東京都神社名鑑)

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御嶽神社の先に椚田遺跡公園があります/椚田町


d0183387_18034344.png椚田遺跡

東京都をほぼ西から東へ貫流する多摩川の右岸には、関東山地から派生した多摩丘陵が約40kmに亘って海岸部にまでのびているが、北部の山地よりには広い平面を呈す丘陵が幾つか発達している。八王子盆地の南を囲む比企丘陵もその一つで、本遺跡はその支脈上に存在する。昭和50年発掘調査が実施され、遺跡の全面に3枚の生活面が確認された。最上位面は古墳時代の集落であり、中位面は縄文時代中期末葉、最下位面は縄文時代中期中葉に属する集落である。

d0183387_18020431.png古墳時代の遺構は堅穴住居跡の数や遺物の発見量も少なく小規模なものと考えられるが、縄文時代中期の集落跡は本遺跡の中心的な内容をもつ重要なものとして注目される。発掘調査範囲は遺跡の約6分の1に相当するが、縄文時代中期中葉の竪穴住居跡45が発見されており、全体ででは270以上の存在が予想されるところである。それらの住居跡は径約150mの環状に展開する典型的な集落形態を示すものであり、環状の内側には多数の土壙群が構築されている。この様に内側に土壙群をもつ集落跡は極めて例が少なく、内側が空地の広場をなす一般の集落跡に対して、より広範な地域圏内における中心的な性格を帯びた集落とも考えられ、当時の集落相互の関係ひいては縄文時代の社会を解明する上で重要である。

d0183387_18024345.pngなお、中期末葉の柄鏡形敷石住居跡3及び配石遺構、埋甕などが集落の下限を示し、中期中葉以来長期に亘って集落が営まれたものであることがわかる。さらに、この間に製作使用された土器・石器類は種類も多く膨大な量に上っており、学術的価値の高いものである。(文化財データベース)


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左はめじろ台駅、椚田遺跡通りを東へ/椚田町

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・・・山田町

八王子市南部の地名である。八王子市の南部の横山丘陵上に位置し、北部を山田川が流れ、京王高尾線が南北に分断している。元々は農村地であったが、1967年の京王高尾線開業以降、急速な住宅地化が進んでいる中、北部には東京都指定史跡の広園寺を始めとする寺院が建つ。
Wikipedia

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雲龍山門/山田町

d0183387_18532786.jpg雲龍寺

雲龍寺は曹洞宗(禅宗)に属し、大本山は福井県永平寺町の永平寺と横浜市鶴見区の総持寺と二つあり、このお寺は正親町天皇より紫衣と勅賜禅師号を賜った勅賜佛國普照禅師が開山(天正8年、1580515日)しました。本郷村の投込み寺といって無縁貧困者の無付届寺として建立。明治に至って廃寺同然のところを「36世足利正山」が再興し、昭和20年第二次世界大戦の空襲で全焼。37世足利正明が戦役から帰郷しただちに再建しました。災孤児らを寺でお世話をしながら福祉事業に貢献し後に社会福祉法人多摩養育園を設立。現在16施設を運営しています。昭和38年東京オリンピックに際し区画整理により八木町から現在の山田町へ移転しました。そして現在のような堂々たる伽藍を揃えた寺に発展しました。今後、旧建物の建て替えにより更に地域に貢献できる斎場を備えた多目的ホール等の建設を予定しています。雲龍寺の功績を残した「37世足利正明」は平成193月に92歳にてに遷化しました。 そして今の住職「38世足利正哲」が引き継ぎ現在に至ります。(雲龍寺HP)

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東門                    五重の塔

d0183387_19000309.jpg安寧坂車地蔵尊
今から700年の昔、鎌倉時代に本郷村の村長(むらおさ)である寺があった。門前の坂道は秩父への鎌倉街道である。この坂は急坂で、転んで怪我をする人も少なからず地蔵尊がまつられてあった。ここでころんでも3年たてば全くなおるのでこの坂を村人は三年坂と云った。この地蔵尊に安産、子育てを祈り京の清水(きよみず)にならいこの坂を産寧坂と名付けられた。車地蔵尊は箱根宮下と現体とは兄弟と伝えられ、延享3年古い石像が朽ちたので村の有志たちが再建した。関東大震災で台座が折償し日米戦争で車だけ焼けた。車はもとの如く再建された。寺が昭和38年旧地よりここ山田町に移り地蔵尊もこの丘上に移った 旧地八王子市八木町三年坂は甲州街道バイパスとなりこの地蔵尊の分身がまつられている。また、市の北郊多摩老人ホーム内にも分身がまつられており分身2体の新建願主は當寺37世正明戒珠和尚である。交通安全、安産、子育ての地蔵尊、願う者に功徳を与える慈悲力のある佛である。(案内板)


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街道の風景③ 旧道でしょうか、丘を北に下ると古刹・広園寺の杜です/山田橋

d0183387_21081566.jpg山田川

山田川は浅川の右支川で流路延長4.80km、流域面積5.0km2 の河川である。八王子市山田町付近に源を発し、JR 八王子駅南側市街地を貫流して同市北野町地先で浅川に合流する。以前は流域の大半が雑木林と農耕地であったが、全域が市街化区域であったため急速に宅地開発が行われ市街化が進んだ。上流部は自然河川のまま蛇行を繰り返しているが、中下流部では典型的な都市河川の様相を見せながら市街地を一気に流下する。(東京都)


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兜卒山広園寺(とそつざんこうおんじ)通用門


d0183387_21434062.jpg広園寺境域

広園寺は康応2年(1390大江備中守師親峻翁令山和尚を請じて開創したと伝えられますが、火災等により文献が焼失しているため明らかでありません。幾度かの火災や復興を経ましたが天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに際し兵火にかかり諸堂が焼失しました。江戸時代初期には幕府の庇護のもと、京都南禅寺派の禅宗寺院として発展し七堂伽藍が整備されます。今日多くの塔頭寺院等は失われているものの広園寺の伽藍配置は踏襲されています。元禄10年(1687)及び寛政4年(1792)の火災で荒廃しましたが、文化から天保年間にかけて現在の堂宇のほとんどが再建されました。丘陵を背にし、南面し総門・山門・仏殿が南北の一直線上にあり、中間東方に鐘楼があります。背後には石垣をもって一段高く本堂・庫裏・開山堂が東西に接続しています。江戸時代後期の建築物(総門・山門・仏殿・鐘楼が都有形文化財)を含む禅宗寺院様式の伽藍配置が良く残っています。(東京都教育委員会)

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総門
天保元年(1830)再建、桁行一間・梁間一間、一重で切妻造

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山門
三間一戸、二重門、入母屋造で室町時代から伝わる寺額を掛けている

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仏殿
文化8年(1811)再建、桁行三間・梁間三間、一重、寄棟造

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方丈(先へは入れませんので外から)

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石仏が2体、宝篋印塔などが置かれてます


d0183387_22133142.jpg広園寺

広園寺建造物群として総門・山門・仏殿・鐘楼(附銅鐘)の4棟が文化財に指定されています。総門は禅宗寺院では表門のことでその構造は四脚門、切妻造、桧皮葺型銅板葺。両袖塀各一間がついています。文政13年(1830)の再建で、細部の技法から江戸時代後期の特徴をよく現しています。山門の構造は三間二重門。入母屋造、上層桧皮葺型銅板葺、下層板葺型銅板葺で、細部の技法が仏殿と類似するので両者は同時代の再建と考えられます。仏殿は桁行三間、梁間三間、単層、寄棟造で、文化8年(1811)の再建、平成15年に全ての屋根を葺き替えています。鐘楼は桁行一間、梁間一間で、屋根一重、宝形造、桧皮葺型銅板葺で天保13年(1842)の再建です。附の銅鐘には応永4年(1397)及び応仁21468)の旧銘及び慶安2年(1649)の改鋳銘があり、鐘銘の末尾に「武州滝原住加藤甚右金吾吉重」とあります。現在に残る建造物群は寛政4年(1792)の放火による焼失後のものですべて江戸時代後期の再建です。(東京都教育委員会)

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まるで別世界にるような厳かで重厚な雰囲気です/広園寺境内


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同証院山門

兜卒山同証院(どうしょういん)
応永8年(14019月の草創、本尊正観音を奉安し、開山南禅寺2世大源(正長元年・14281016日示寂)で、当寺は広園寺の塔頭である。(八王子市史)

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本堂                 六道能化地蔵大菩薩

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兜率山慶泉院

広園寺の塔頭の一つ。正長元年(14283月の創立、開基慶泉院殿賀翁大禅定門(永享2年・143188日卒)、開山は雲渓玄岫(永享9年・1437818日示寂)である。本尊阿弥陀弥勒の両尊を奉安してある。(八王子市史)

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永明院(ようめいいん)
山号金峰山、明応元年(14924月の創建、開山は不明であるがもと当寺は真言宗に属し、新横山村にあったのを後このところに移して広園寺塔頭とし、京都南禅寺から貴雙玄栄を請じて中興開山としたのである。玄栄は相州小田原の産で川和氏、元亀元年(15706月の示寂、開基は小田原の家人田中和泉守で今なおその子孫が由木村大沢に在住している。なお、当寺宝物として大鷹を画いた掛物一軸があり大久保長安の奉納と伝えられていたが現在は不明である。(八王子市史)


・・・小比企町
(こびきまち)
八王子市の地名である。八王子市の南部の小比企丘陵上に位置し、南北を湯殿川とそれに平行する北野街道が分断し、北端を京王高尾線が通る。Wikipedia

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丘の風景② 山田駅先の丘から「はるひ野」方面の景観です/南山田

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旧道でしょうか、いい道です      磯沼牧場があります


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街道の風景④ 街道は左手山裾を行きますので、片倉駅には湯殿川が近道です

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本堂                 薬王地蔵尊

大林寺(だいりんじ)/
小比企町 
曹洞宗。明応4年、小坂大林居士によって創建。慶安2年(1649)月州尊海禅師(後の永平寺31世)により禅宗寺院としての様式を整える。(八王子仏教会)

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湯殿川の風景① 左が子安丘陵、右は小比企丘陵、その間を流れます/殿田橋

子安丘陵

南浅川と湯殿川の間に子安丘陵が舌出し、湯殿川以南の小比企丘陵の南部は多摩丘陵へと連なる。(Web八王子辞典


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稲荷神社鳥居

d0183387_00551575.jpg小比企稲荷神社

祭神:宇迦御魂命稲荷神社は建久元年(1190)に当地に鎮座されたと伝えられ、古文書によれば承応2年(1652)本殿再建、貞享3年(1686)に拝殿再建とある。寛政8年(1796)には神祇伯京都吉田家に願い出、神名帳に記載し神祇道管領式位社の称号を賜る。其の記念碑が今も鳥居の右側に残っている。今日見る社殿や彫刻は文政11年(1828)頃より計画され、弘化4年(1847)に完成したとある。此の間天保の大飢饉があり一時中止のやむなきに到り名主、村民、棟梁の苦痛ははかり知れぬものがあったと記してある。此の宮の建築に当たった棟梁は飛騨内匠と称し、其の後日光東照宮の工事に当たったと伝えられる。其して今残る古文書の中に神社完成祝に行った御神楽、余興として行った相撲大会の記録がある、其して延々明治初期までしばしば相撲大会が行われ、神楽殿の西側の広場は相撲場と云う名が今も残っている。時は流れて現在では万物生産、商売繁盛の神として庶民の間に崇拝されている。(境内稲荷神社略史)

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湯殿川の風景② 振り返ると高尾東稜に陽が沈んでゆきます/稲荷橋

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湯殿川の風景③ 片倉城址のある片倉山、駅はもうすぐです/風原橋付近

小比企丘陵

七国峠から北方へ派出し東北にのびて片倉城跡まで達する丘陵。多摩丘陵の一支脈で湯殿川と兵衛川の分水稜をなす。稜線上を古道が通じ鎌倉街道の脇道という。現在八王子南部開発が進められている。(Web八王子辞典)

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街道の風景⑤ 片倉城址公園内を通り国道16号へ/片倉駅入口

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広域マップ
(赤:歩行ルート 茶:北野街道 橙:町田街道 紫:旧甲州街道 緑:浜街道・八王子通り大山道)


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八王子(明治14年測量図)

片倉&片倉城址の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23541239/


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資料ファイル

歴史と文化の散歩道

「歴史と文化の散歩道」は都内に残されている歴史的・文化的資源を系統的に結ぶ散歩道です。都民の身近なレクリエーションの場や散策することを通じて東京の再発見とふるさと意識の高揚を図る目的で、昭和58年から平成7年にかけて整備された全23コース(計240.5km)があります。(東京都)

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『関東武士ゆかりの地散歩』ルート図/案内板
(赤:ルート 紫:旧甲州街道 橙:北野街道 青:山田川)

歴史と文化の散歩道-関東武士ゆかりの地散歩
関東武士ゆかりの地散歩は、真覚寺から片倉駅まで約6.1kmの道のりです。武蔵七党の活躍する中世から八王子城が落城する戦国時代末期まで、八王子は関東武士が割拠してしのぎを削った舞台でした。そのゆかりの地を巡ります。(案内板)

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広園寺門前


中世八王子の城跡と名刹
平安後期、武蔵国を中心に鎌倉時代の向け社会をつくる原動力となった「武蔵七党」と呼ばれる武士団が起こった。八王子ではその中の最大規模を誇った横山党が活躍し、戦国時代には大石氏さらに北条氏照らの本拠地となった。山田川沿いの入り組んだ地形の中に臨済禅宗の古刹・広園寺、蛙合戦で有名な真覚寺が点在している。また片倉城址、八王子城址、滝山城址など地形を利用した中世城郭のあとに往時の武将・豪族たちの築いた城の姿をしのぶことができる。(案内板)



by Twalking | 2017-01-19 17:32 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 高乗寺八尊仏   

日時 2017.1.13(金)
天気 晴れ

以前、法事で伺った時にもちょっと気になりました。
『8尊仏』ですか・・・、撮っておこっと。。。


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子年生まれ 先手観音菩薩
変幻自在にあなたのそばに現れて、千の慈しみの手で苦しみを救いとる


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丑・寅年生まれ 虚空蔵観音菩薩
空のように広大無辺の蔵のなかから宝のような智慧をあなたに授ける


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卯年生まれ 文殊観音菩薩
右手にもつ智慧の宝剣であなたのこころを獅子のように覚醒させる


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辰・巳年生まれ 普賢観音菩薩
尽きることのない賢さで象の上からあなたをいつもやさしく包みこむ


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午年生まれ 勢至観音菩薩
大いなる賢さと慈愛の種をあなたに植えつづけすべてを見守り続ける


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未・申年生まれ 
大日如来宇宙のすべてにはたらく命そのもの、あなたの前でいつでもどこでも現れる


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酉年生まれ 不動明王
左手の縄で悩みをすくい右手の剣、怒りの相と姿で苦難や悩みを打ち砕く


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戌・亥年生まれ 阿弥陀如
来静かに座し永遠のやすらぎの姿をあなたの前に無限の光で示し続ける



d0183387_19561986.png八尊仏(生まれ年 護り本尊)

その昔、中国の天文学では天を12に分け方位、時刻を表しました。そしてその方位を8種のほとけ様(八尊仏)が見守られるとされました。やがてその方位には12の動物が当てはめられ、八尊仏と結つき生まれた歳の干支の守り本尊が誕生しました。あながた生まれた年、12年で天を一周する木星の方位によりあなたのご本尊様が定められ、見守って下さってます。信心することにより心の安らぎを得、諸願成就、身体健全、家族安全、家業繁栄、無病息災、良縁成就のご利益が授かると伝えれています。あなたとの干支にあたるほとけ様の御前でどうぞお参りください(高乗寺説明板)

高乗寺の関連記事はこちらへ(
http://teione.exblog.jp/23783240/





by Twalking | 2017-01-17 12:15 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 町田街道(相原~高尾)04-初沢町   

日時 2017.1.13(金)
天気 晴れ

高乗寺は車ですが、法事で一度だけ訪ねたことがあります。
初沢川に沿った谷戸の奥に佇む古刹、
西の尾根をハイカーが歩いていたのが印象に残ります。

この尾根が草戸山&城山湖に続く「かたらいの路」、
そして東側は都蹟「初沢城跡」があった初沢山、
調べて分かりましたので街道に関連して歩いてみました。



・・・初沢町

八王子市西南部に位置する地名。江戸時代は上椚田村の一部である。元は浅川町の一部であった。地名は小字に由来する。元は花沢と呼ばれていたが訛って初沢と呼ばれるようになった。鎌倉時代初期に初沢城長井氏(諸説あり)によって築城される。横山党の一族・椚田氏の居城と推測されている。1394年(応永元年)片倉城を築城した長井道広によって高乗寺が開かれる
。(Wikipedia

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駅のホームから初沢山&
みころも霊堂が一望できます/京王高尾駅


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大光寺山門/初沢町

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大光寺 
宗派:真言宗智山派系単立 御本尊:喜多向阿弥陀如来坐像(作鎌倉時代) 宗祖:弘法大師空海上人 中興祖:興教大師覚鍐上人
高尾の峯をはるかに眺め幽玄なるたたずまいの中に屹立する正名山地蔵院大光寺は、弘法大師の教えを汲む多摩四国八十八ヵ所第七十番札所霊場の真言宗寺院です。当山は元和元年(1615)、高尾山薬王院第9世・源恵上人による開基で中興開山広雄上人より今日まで中興第15世を数えます。中興開山から開基まで遡ると、かなりの人数の僧侶により継承されてきたことがうかがわれます。およそ190年前、天明5年(1785)中興第6世憲善上人の古文書によれば本堂91畳、境内杉、さわら56千本余り、また大南院より5石、以下常憲院、温恭院、昭徳院、明徳院より9通の御朱印状と御朱印地を賜り往事の隆盛のさま、堂々たる伽藍の様子がうかがわれます。

d0183387_17372470.jpg明治15年災害に懸り惜しくも本堂・庫裏等が焼尽しましたが、明治43年高尾山の本堂であった薬師堂を大光寺本堂として、また山門も同時に移築しました。庫裏は清水次郎長一家の客分で映画、演劇、講談に登場する関東綱五郎の旧宅を移築したものです。しかし、この本堂も昭和40年代に入り老朽甚だしき為、昭和50年に地下客殿、地上一階を新造再建しました。珍しい北向きの本堂で、御本尊様は喜多向阿弥陀如来として有名です。願意は福徳無量、関連守護、財福無量の御利益がとくに強力です。(大光寺縁起)


d0183387_17401725.jpg縁結び稲荷大明神(荼枳尼天
荼枳尼天(だきにてん)は後世日本の稲荷信仰として信仰された仏教の天部の仏様です。自在の神通力をもちこの仏様に祈れば大願がかなうといい、日本の信仰が日本在来の狐信仰と習合し、稲荷信仰として信仰されるようになり、福神として民間に広がりました。当山の縁結び稲荷大明神は霊験あらたかです。特に縁を結ぶ法力が強く男女の縁、合格祈願、縁を取り持つすべてにご利益があります。心を込めてお詣りください。(案内板)

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大光寺霊木枝垂れ桜(樹齢400年)    
四国88ヶ所お砂踏み霊場


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街道の風景①右手が金毘羅山、すぐ先に「登山道入口」の標識があります/初沢橋

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急な登りですが道はしっかりしています、一度下って上ると神社になります

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d0183387_00171232.jpg浅川金毘羅神社
甲州街道沿いにあるこの神社は高尾山の前山として高尾山に登る前に参拝されました。明治になって高尾山の滝で修行していた修験者が山頂に社を築き、関東一円から信者が訪れました。以来、地元ではここに参拝すると強運に恵まれると言うことで、第二次大戦中も弾除けの祈願をする方も多かったようです。戦時中は大本営を移す計画も一時出て、地下壕も掘られました。最近ではこの山を崩して高校を建設する計画も出ましたが、信者さんと自然を守ろうとする人々の働きにより、山を残すことなりました。現在では、東京都の公園にしよういう計画が出ています。数年前に屋根裏から「成就山」と言う山号が入った看板が発見され、以来、「成就山浅川金毘羅大権現」と称しています。(金毘羅神社HP)

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街道の風景② 初沢川に沿って谷戸を高乗寺へ、静かないい道です/浅川中先


d0183387_00272648.jpg高尾霊園の石碑/浅川中入口
当寺は応永元年3月(1394)長井大善太夫高乗公の開基、開闢始祖は臨済正伝勅法光円融禅師俊翁令山大和尚である。長禄元年(1457)空海禅忠大和尚により現在地に移転、永正24月(1505)本師通庵浩達大和尚を群馬県最興寺より請して曹洞宗高乗寺を開創した。尓来連綿今日に及ぶ。高尾霊園は昭和403月当寺現佳大雲信孝大和尚に依り当山寺有地内に開設され、檀信徒及び有縁の施主が使用する高乗寺経営の公園墓地である。この地は高乗寺総門跡であり、2間四方、丸柱6本、扉無しの古色豊かな総門があった由である。(碑文)

d0183387_00350780.png金比羅緑地(金毘羅神社参道)
この緑地は八王子市が市街化区域内に存在する貴重なみどりとして公有化し保全を計っています。JR及び京王高尾線駅西の一帯に広がるクヌギ、コナラなどを中心とした雑木林で、その中の一部にスギ植林地が見られる樹林地です。高尾山の前山とも呼ばれています。面積約7.1ha(八王子市環境部)

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左が龍雲閣です/高乗寺境内

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高乗寺本堂

d0183387_21243803.jpg高乗寺
当寺は応永元年(1394)法光圓融禅師峻翁令山大和尚により開創しました。その後、現在の境内地へ移築、臨済宗から曹洞宗への改宗を経て永正2年(1505)、通庵浩達大和尚により改めて開山しました。開創に関して、当時の片倉城主・永井大膳太夫高乗公が深くかかわっており、高乗寺の寺名は此処に由来しています。また永井家は毛利家の系譜の降下であることから寺紋は毛利家の紋です。当寺は三多摩の曹洞宗の名刹で、都立高尾陣馬公園内に位置し多摩八大寺のひとつに数えられています。池の前には生まれ年干支守り本尊八尊仏が並び、霊園内の聖観音初沢観音が霊園全体を優しく見守っています。敷地内には山王神社社殿があり毎年8月には祭礼が開かれます。本堂には本尊に釈迦牟尼仏、両脇に文殊菩薩と普賢菩薩を安置しております。本堂隣接の大慈閣には正面に十一面観音立像をまつり、奥壇には八王子33観音霊場第19番札所、また武相観音第18番札所に指定されている秘仏三十三体観音像を安置し、12年に一度卯年の4月に御開帳となります。(説明板)

d0183387_00434329.jpg長井道広

?〜1402年(応永9729日。片倉城主、高乗寺・広園寺開基、大膳大夫と称す。1378年(永和4)評定衆頭人となる。90年(明徳1)広園寺開基、943月高乗寺開基、1402年置玉平野(山形県)で伊達政宗と交戦し戦死。大江師親の長男か否かについては議論が分かれている。(Web八王子辞典)

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大慈閣                八尊仏

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左手階段を登ると住吉神社があります

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この谷戸の奥が源流のようです/高尾霊園

初沢川
八王子市の初沢町から高尾町にかけて流れる河川、また通称では水路と呼ばれる。南浅川の支流である。初沢町の新高尾霊園付近に源を発し山間の中を流れ込んでゆく。山間を抜けるとやがて高尾町に入りJR中央線や京王高尾線、国道20号(甲州街道))の下を抜け都道46号付近で南浅川と合流していく。Wikipedia

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「高乗寺絵図」(部分)/八王子市郷土資料館

八王子市郷土資料館の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22970417/



・・・初沢城址へ

d0183387_23294003.jpg初沢城

現在の八王子市初沢町にあった中世の日本の城(山城)である。別名を椚田城(くぬぎだじょう)・高乗寺城という。鎌倉時代に片倉城に在城していた高乗寺開祖の長井氏によって築城されたとも伝わるが、諸説ある。「新編武蔵風土記稿」によれば、鎌倉幕府初期の御家人で武蔵七党の横山党の一族・椚田氏の居城と推測されている。長井氏は鎌倉幕府初期の重臣・大江広本を祖先に持ち、横山党が1213年(建暦3年)和田合戦で滅亡すると、同地は大江氏に与えられた。長井氏は扇谷上杉氏の傘下となる。1504年(永正元年)、扇谷上杉軍が山内上杉軍を破った立河原の戦いの際、落城した扇谷上杉方の椚田塁に比定される。後北条氏時代、八王子城の出城の一つとされ、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による八王子城攻め、落城とともに初沢城も落城、廃城となった。標高294m(比高100m)の初沢山の尾根上に曲輪、堀切、土橋などの遺構が残る。現在はハイキングコースとして整備され東京都の指定史跡である。(Wikipedia

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初音坂からみる初沢山

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初音橋からもみじ階段を登ります    ここから城址跡へ/紅葉台

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南:高尾東稜「かたらいの路」の尾根が見渡せます

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西:樹間に高尾山がくっきりと確認できます

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山頂に「初沢城址」の標柱、ここが主郭でしょうか/初沢山

初沢城址(都指定旧跡)
築城年代などは詳らかではないが、築城の手法からみて室町時代の15世紀末頃と考えられる。「新編武蔵風土記稿」などによると平安時代末から鎌倉時代初めにかけて当地方で勢力を得ていた横山氏の庶流・椚田氏の末裔の居城という説もある。標高294m、比高100mくらいの山城で、城の構造は西北から東南に走る尾根山稜の主郭部とそこから東北に張り出す誌支尾根の出城部分からなっている。主郭部では左右に尾根を掘切っている遺構が確認されている。(昭和58年 東京都教育委員会)

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主郭部尾根の堀切跡でしょうか     主郭東側の様子

d0183387_00124256.png初沢城址(都指定旧跡)
初沢城は標高294m、比高差110mに位置する山城です。山頂部と北西から南東にかけて走る稜線上に築かれた主郭部とそこから北東へ張り出す支尾根に造られた曲輪からなります。主郭部は尾根の左右に堀切の跡が確認されています。初沢城の築城年代などは明らかではありませんが、築城の方法から15世紀末頃と考えられます。また城主については文献史料の記述から椚田氏あるいは長井氏の可能性があります。(平成2年 東京都教育委員会)

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沢筋をみころも公園に下ります、いい森ですね~


やすべえの森

やすべえさんは身代を興しせっせと土地を買いました。ほかの人なら柵をして入るべからずしただろう、やすべえさんはだれでも散歩できるようぐるぐる小径をつくりました。やすべいの森は春から冬までこんな思いが聞こえます。私たちはこの森が大好きです。この森の中心部分は山口安兵衛さんのご子孫ほかご寄附により、八王子市の史跡自然公園になります。(高尾浅川の自然を守る会/山頂掲示板)



・・・狭間町


八王子市西南部に位置し、東西に長く西に行くほど標高が高い。町田街道の東側に狭間工業団地があり、西側には高尾紅葉台住宅が整備されている。江戸時代まで現椚田町とともに下椚田村の一部であった。1533年(天文2年)高楽寺が創建される。
Wikipedia

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みころも霊堂/狭間町

労働福祉事業団が労働省と協議し労働災害保険法施行20周年記念行事として国費、民間有志の協力により1972年(昭和476月開堂した労働災害で殉じた人々のための慰霊堂。設計(株)伊藤喜三郎建築研究所、施工大成建設(株)、建築延面積32962,地下1階、高さ45m(相輪部までは65mのパゴタ風の建造物)、3階テラス、48階納骨堂、9階祭祀室-10階展望室、11階拝殿。納骨室は約10万柱の御霊を収納できる。拝殿はシンボルゾーンで永遠の灯が点灯されている他、堂内には二紀会審査員滝川毘堂作の「日光像」、日展理事賞昼間弘作「天地像」の他日展会員月岡栄貴の「静進(あゆみ)」伊藤喜三郎・大越貞次の手になる「宝珠の玉 釈迦とその弟子達」三輪勇之助の「燭(ともしび)」などの絵画によって彩られている。〔年中行事〕5月花まつり、8月夏まつり、9月秋の慰霊大祭。(Web八王子辞典)

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d0183387_00463599.jpg高尾天神社

高尾天神社は浅川中学校の栗山の土手の上、御衣(みころも)公園の一角にある菅原道真公をお祀りする神社です。そもそもこの公園は1936(昭和11)年に町の素封家が土地を寄贈してつくられた公園です。そして、この「みころも」とは道真の漢詩の一節「恩賜の御衣いまここにあり」からとられたとのこと。高尾天神社の建物はその後1983年に出来ましたが、勧請は1995125日といいますから、それほど古いものではありません。神社の儀式として大晦日には大祓、除夜祭、お炊き上げ、元旦から3日にかけては合同進学祈願が執り行われます。なお、高尾天神社の裏から初沢山に登ることができます。(高尾通信)

d0183387_00494260.jpg菅原道真銅像

初沢町御衣公園内。彫刻家渡辺長男が昭和初期に製作、高さ4.8m、重量6000kgのブロンズ像。当初、皇居前広場に楠正成銅像と文武対比で置かれる予定であったが実現せず、1936年(昭和1112月現在地に建立された。市内に置かれた初のブロンズ像。(Web八王子辞典)


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北側・高尾駅方面の景観です/みころも公園


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高楽寺

八王子市にある真言宗智山派の寺院。山号は独峰山。本尊は不動明王。境内にある『桜姫』と呼ばれる樹齢200年のしだれ桜でも知られる。この寺は戦国時代の1533年(天文2年)に創建されたと伝えられ、境内の岩窟にある石仏は江戸時代中期に発生した天明の大飢饉の際に作られたものとされる。(Wikipedia

d0183387_01230586.jpg高楽寺としだれ桜
高楽寺は天応2年(1533)観応上人により開山され、真言宗智山派に属しており大本山高尾山薬王院の直末の寺として御本尊不動明王をお祀りし、真言宗の法灯を守り続けております。境内に花を咲かせている桜は紅しだれ桜と申しまして樹齢約200年ともいわれ高さは15m、幹廻りは4m、枝の周囲は40mにもなり、満開の姿は笠をかぶったお姫様に似ている事から桜姫とも呼ばれています。開花の時期は毎年お彼岸過ぎの3月下旬から4月の初頭までの10日間程、精一杯艶やかな姿を披露してくれます。ここで桜の拝観についてお願い申しますと、こちらはお寺の境内でございます。この桜の花は高楽寺に静かに眠る檀信徒のご先祖様が年に一度見せて頂ける笑顔でもございます。どうぞお静かに仏様を拝むようなお気持ちで拝観なさっていただきとうございます。尚住宅地でもございますのでライトアップは午後9時とさせていただきます。ご承知ください。(当山執事)

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狭間御岳神社鳥居


d0183387_01291229.jpg狭間の獅子舞(市指定文化財)

8月狭間町御嶽神社祭礼に奉納されている。明治初年までは旧浅川町氷川神社に奉納されていたが、1872年(明治5)行政区画の変更により現在の御嶽神社祭礼に奉納されるようになった。古文書によれば八王子城主北条氏照が所持していた獅子を1590年(天正18315日、家臣の横地監物・近藤出羽守の取り持ちで狭間村に下賜されたものと伝えられている。八王子市内でも最も古い歴史を持つ獅子舞の一である。構成は大獅子、中獅子、雌獅子の3頭一人立ち形式の獅子に笛3人、花笠4人、幣負い1人、軍配1人、歌方3人、棒使い3人からなっている。曲目は入破、岡崎、雌獅子隠しの3庭により舞われる。(Web八王子辞典)

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高尾駅周辺マップ
(赤:歩行ルート 橙:町田街道 紫:旧甲州街道 茶:北野街道 青:初沢川・湯殿川)

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「かたらいの路」(高尾~大戸コース案内図)

大地沢(境川源流)・草戸山の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23773481/


by Twalking | 2017-01-16 20:06 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 町田街道(相原~高尾)03-館町   

日時 2017.1.3(火)
天気 晴れ


峠を越えて八王子に入ります。
拓大の前に湯殿川の上流端の標識がありました。
片倉城址などで出会った川、この奥が源流域のようです。

この川を下ってゆくと御霊神社、浄泉寺があります。
「鎌倉景政」の館跡との伝承があるそうですが、
地名の謂れからすると「武士の館」は確かなようです。

町田街道もこうして「鎌倉道」と思って歩るくと、
また違った味わいや出会いなどがあって面白いですね。
先もありますからまた機会を作ってみたいと思います。



・・・恋路坂

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街道の風景① 町田と八王子の境の峠を越えてゆきます/恋路坂

恋路坂
館町と町田市相原町の境にある坂、210m。風土記稿の館村の項に「古の鎌倉街道とて一条の往来あり」と出、武蔵図会には「秩父、高麗辺より相州鎌倉又は小田原などへの古往還なり」とある。横山道とも呼ばれた。いま町田街道が越えている。越地の坂あるいは越路坂の転か。(Web八王子辞典)

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こちらの方が峠道らしいですね     この先がピークです/清掃工場入口

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法政大学校舎へ続く道のようです、歩いてみたいですね~/清掃工場入口(市境)


・・・
館町(たてまち)

八王子市西南部に位置する。陵南地域の中心でありUR都市機構が開発した館ヶ丘団地やゆりのき台団地などの団地、拓殖大学八王子キャンパス、穎明館中学・高等学校(えいめいかん)、教育特区の高尾山学園などの学校が多くを占めている。浅川支流である湯殿川の源流がある。地名は鎌倉景政近藤綱秀があったことに由来している。1000年中頃から鎌倉景政が御霊神社(社伝によると当時は御霊谷戸(現元八王子)に在ったとも)に本拠を構えていることから周囲に住居があったことが伺える。1062年(康平5年)頃、前九年の役に従軍した横山党が大日如来像を龍見寺の大日堂に安置している。1573年(天正元年)近藤綱秀が浄泉寺を創建する。
Wikipedia

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街道の風景② この先が現在の峠ですが拓大正門へ左折します/拓殖大学南入口

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湯殿川の風景①片倉城址で出会いましたが、ここが上流端です/拓大正門

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湯殿川上流端の標識          構内の調整池から流れます

湯殿川

八王子市の西南部を流れる多摩川水系の一級河川である。八王子市にある多摩丘陵の起点である小峰(追分)に源を発するとされている。拓殖大学設置による開発によって川の一部が埋められており八王子市館町の拓殖大学敷地内の調整池が源流となっているが、相模原市緑区城山付近が源流ともいわれている。寺田町付近まで蛇行した川筋であるがそれより東は改修工事によりゆるやかな川筋となっている。Wikipedia

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街道の風景③ 拓殖大学の正門を通りくだります

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圏央道高架              町田街道に合流します/拓大北入口

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湯殿川の風景② 河川改修が進められているようです/湯殿橋


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館の地蔵堂(梅元庵神社)
館町古歌場、百姓甚右衛門持。本尊地蔵菩薩、開創年代は不詳。梅元庵とも云っていたが明治初期に廃寺になる(Web八王子辞典)

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神社と題目塔             石仏群

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街道の風景④ 北野街道の旧道でしょうか、西明神橋の先に御霊神社があります


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御霊神社参道/館町
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御霊神社
鎮座地:八王子市館町1271番地」1
祭神:鎌倉権五郎景政
祭神の景政は醍醐天皇の子孫で貴族武士である。前9年の役(康平5年・1062)に陸奥守であった源頼義とその子義家に従い16才で出陣し奥州の安倍貞任を討伐、その後義家の命令により景政はこの附近に館を構える。後3年の役(応徳3年・1086)に再び義家に従い出羽の清原家衡を討伐の途中景政はこの館に立寄りしが、晩秋のひとときくつわ虫の鳴き声に聞き入る一瞬に流れ矢が右目に当る、剛勇の景政はそれにひるまず敵を寺田山に斬り散らして倒れる。その時宝治元年1087)享年42の時と伝えられる。

d0183387_22590344.jpg(由緒)創建は天延じだいである。もと御霊谷戸に祀られ「御霊大明神」といわれた社を、八王子城主・北条氏照の家臣・近藤出羽守助実により移される。慶安2年(1649)に神像を彩色、元禄8年(1695823日社殿を再建。昭和42年(1967)に拝殿を新築する。祭は景政が奥州凱旋の時か、1115日の寒い頃だったので村人は篝火を盛んに炊いて歓迎したという。この館の祭典は昔は霜月15日に行われ篝火を炊く神事があったと伝えられている。今は無く8月に夏祭りが行われている。

d0183387_22584429.jpg(社殿・社務所の新築及び境内整備)
御霊神社境内地の一部、1847.622が湯殿川改修工事のため平成11723日東京都に買収され、これを基金に社屋82.242、社務所125.872と手水舎、御神木舎及び鳥居を新築、境内全域にわたり整備回収を行った。玉垣は当神を崇敬する氏子の方々の寄付により建設された。平成1312月吉日(新築記念碑文)

鎌倉景正
平安時代後期の武将。父は桓武平氏の流れをくむ平景成とするが、平景通の子とする説もある。通称は権五郎。名は景政とも書く。父の代から相模国鎌倉(現在の鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも鎌倉市由比ヶ浜ともいわれる。16歳の頃、後三年の役(10831087)に従軍した景正が、右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている。戦後、右目の療養をした土地には「目吹」の地名が残されている(現在の野田市)。長治年間(1104-1106)相模国高座郡大庭御厨(現在の藤沢市周辺)を開発して、永久4年(1116年)頃伊勢神宮に寄進している。子の景継は、長承4年(1134年)当時の大庭御厨下司として記録に見えている。Wikipedia


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浄泉寺山門/館町

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本堂


d0183387_23210721.jpg浄泉寺の歴史
浄泉寺は戦国時代末期のころ御霊山浄泉寺城と称し近藤砦とも呼ばれていました。天正初年、八王子城主北条氏照の家臣・近藤出羽守助実公がこの寺を創建されました。過去帳によると龍洞院殿一渓浄泉大居士、天正18623日寂すと、記されていることから浄泉寺の開基とされております。また、お寺をお開きになった僧は入間郡久米村(現所沢市)永源寺の末、当時開山・獄應儀堅禅師(天正151017日寂)であります。この寺の2世・照鑑圓應禅師(慶安1648-1658)は、当時10石の御朱印を賜っていた名僧でもありました。

d0183387_23233491.jpgこの寺と武士とが関わった歴史は古く、今から九900年前、平安末期に醍醐天皇の系統貴族の子孫・鎌倉権五郎景政という武将が本拠を構えておりました。しかし、後3年の役(1068-10881083年の時、景政は右目を矢で射られそれでも敵を追い払い又矢を抜こうとする者に「無礼者、弓矢で死するは武士の道」と叫んだことは有名で、諸行無常にして景政は寛治元年(10879933才で無念なる人生を閉じたのでした。勇敢な武将として讃えられその景政を祀る神社が寺のすぐ下にあり、当時は寺の守護神として建られ、明治に入り神仏分離によって絶学天真禅師ご親筆により御霊山を釈尊山と山号を改め、また御霊神社を明神様と称するようになったのであります。浄泉寺は武将の館に相応しく周囲には川が流れて人の往来をさえぎりやすく、その上切り立つような丘のため、城砦としては申し分のない場所であったのです。今も土塁(土盛り)や空堀の
跡が残された歴史ある古いお寺でございます。(釈尊山浄泉寺 山主)

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本堂裏手は広い墓地になっています

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東側の谷戸              北側御陵神社前の湯殿川

近藤綱秀

安土桃山時代の武将。後北条氏の家臣。通称は出羽守。妻は朝倉正景の娘。近藤照秀の父とされる。綱秀の近藤氏の出自および活動開始時期については不明。北条氏康の三男・北条氏照に仕え、一説には氏照が滝山城主になった際に付けられた家臣とされており、綱秀は天正元年(1573)に現在の八王子市館町に浄泉寺城を創建しているため、少なくともその頃から活動していた家臣であろう。また、「綱」の1字は氏康の父・北条氏綱から与えられた可能性があり、その代からの家臣とも考えられる。氏照が下野国小山を掌握した際に榎本城を任され、天正11年(1583)から所領宛行や寺領寄進などを行い榎本領の統治にあたった。綱秀に与えられた権限は大きかったようで、「天福」という独自の印判の使用も許可されていた。また、東北の伊達氏家臣の片倉氏との交渉にあたるなど外交面での活動もみられる。天正18年(1590年)豊臣氏による小田原征伐の際に榎本城に守備兵を残し八王子城に籠城するも、落城の際に戦死した。Wikipedia


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街道の風景⑤ 京王線高架の先を左折すると高尾駅になります

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右折が北野街道/館町          狭間町から下ります


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高尾駅周辺マップ
(赤:町田街道 紫:旧甲州街道 青:湯殿川)


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広域マップ
(赤:町田街道 紫:旧甲州街道 橙:八王子通り大山道 黄色:浜街道 緑:鎌倉古道 青:境川・湯殿川)



by Twalking | 2017-01-09 09:10 | 鎌倉街道(新規)