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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷②   

日時 2017.6.20(火)
天気 晴れ

府中から鎌倉まで歩こうと思ったのは大分前です。
「歩く」ことが目的でしたが、段々と「歴史」や
「地形」「街」など、興味が広がっていきました。

歩き直しもありましたので時間がかかりましたが、
鎌倉の地を踏みましたので、一応、一区切りです。
まだ、もやもやと錯綜していますが、長い歴史、
少しづつ、といったところでしょうか。


・・・扇ヶ谷
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街道の風景① 扇ヶ谷ガードに戻り、街道を英勝寺へ向かいます

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智岸寺稲荷
稲荷神社について
世にお稲荷様と申上げている稲荷神社は倉稲魂神をお祭りしたもので今から約1300年の昔、和銅4年の2月の初午の日に京都の伏見に稲荷神社が鎮座したのが始まりです。この神は稲がなるイナリの別名が示すように五穀の生育やすべての産業を育成する広大な御神徳のある神ですから、あるゆる人々の信仰をうけ全国各地の神社や邸内に祭られています。鎌倉で由緒ある稲荷は隠里稲荷で、鎌倉風土記によると源頼朝が伊豆の蛭が島にいたとき病の床につき三晩続けて同じ白ひげの老人の夢を見ました。その老人の言うとおりに薬を飲みますと病はなおりこれが縁で幕府を開くことが出来たということです。この白ひげ老人が隠里稲荷の化身であったということです。お稲荷様は大切にお祭りしましょう。(英勝寺)

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阿仏尼卵塔

十六夜日記の作者・阿仏尼と伝えられる。もともと英勝寺境内だが、現在は英勝寺の塀を北鎌倉方面に越えた崖下のやぐらにある。なお、阿仏尼の息子である冷泉為相の墓も近隣の浄光明寺境内にある。(Wikipedia
卵塔:台座上に卵形の塔身をのせた墓石。禅僧の墓石に多く用いられる。無縫塔。

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阿仏尼(あぶつに)
鎌倉時代中期の女流歌人。桓武平氏大掾氏(だいじょうし・中世常陸国に勢力を持った一族で、常陸平氏の嫡流であり多くの緒家を輩出した)安嘉門院に仕え、出仕中10代で初恋の失恋の失意から出家を決意し尼となったが、その後も世俗との関わりを持ち続けた。30歳頃藤原為家の側室となり冷泉為相(ためすけ)らを産む。為家の没後、播磨国細川荘(現兵庫県三木市)の相続をめぐり、正妻の子二条為氏と争い1279年(弘安2年)幕府に訴えるため鎌倉へ下った。このときの紀行と鎌倉滞在のことを記したのが『十六夜日記』である。訴訟の結果がわかる前に鎌倉で没したという説と、京都へ帰った後に没したとの説がある。鎌倉市扇ヶ谷に伝・阿仏尼の墓が残る。(Wikipedia

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英勝寺の入口はこちらです

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英勝寺/扇ガ谷
英勝寺扇ガ谷にある浄土宗の寺院であり、現在鎌倉唯一の尼寺である。山号は東光山。寺域は開基英勝寺尼の祖先であり、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌邸跡地とされる。徳川家康側室大田道潅四代の大田康資・息女とされるお勝の方は、家康との間に生まれた市姫が幼くして亡くなった後、家康の命により後に初代水戸藩主となった徳川頼房の養母を務めた。家康の死後は落飾して英勝院と称したがその後、3代将軍家光より父祖の地である扇ガ谷の地を賜り英勝寺創建した。創建にあたっては徳川頼房娘・小良姫7歳の時に玉峯清因と名付け得度させこれを門主に迎え開山とした。英勝院尼は寛永19年(1642)没し、英勝寺裏山に葬られた。

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寛永14年(または15年)に寺領朱印地として池子村(現逗子市池子)420石を与えられたほか、裏山にあたる源氏山(旗立山)も与えられている。創建の経緯からその後も代々の住持水戸家の姫が務めこのため英勝寺は「水戸御殿」や「水戸の尼寺」とも呼ばれた。高貴な姫である住持は人前に出ることはなく、折々の法要は芝増上寺や鎌倉材木座光明寺の僧が勤めていたという。しかし明治維新を機に水戸家からの住持は絶え寺勢は衰えた。その後、明治28年(1895)に松平家より住持を迎え、さらに大正8年(1919)以降は東京青山善光寺より住職を招請し今日に至る。仏殿、山門、鐘楼は寛永20年(1643年)の建立。祠堂、祠堂門も同じ頃の建立と推定される。各建物は本格的な禅宗様になり、仏殿、山門、鐘楼は屋根を反りのない直線で構成する点に共通点がみられるWikipedia

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山門

三間一戸二重門。屋根は入母屋造、瓦棒銅板葺き。上層には釈迦如来と十六羅漢像を安置する。英勝院尼一周忌の直前に、水戸光圀の兄である高松藩主松平頼重により造営され、「奉敬立相州英勝寺山門 従四位下侍従源頼重朝臣」の棟札を持つ。関東大震災後売却され鎌倉市小町の私有地に移築されたが、2011年、旧部材を用いて復興された。国の重要文化財Wikipedia

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仏殿
方三間、裳階付の禅宗様仏堂。屋根は寄棟造、瓦棒銅板葺き。棟札には寛永13年(1636年)に英勝院が建立とあるが、殿内梁牌には「寛永208月 正三位権中納言源朝臣頼房敬立」の銘があり、当初英勝院が建立しこれを徳川頼房が現在の形に改築したものと考えられる。扁額は後陽成天皇の弟である曼殊院良恕法親王の揮毫。粽(ちまき)付きの円柱、貫(ぬき)の多用、詰組の組物、桟唐戸、花頭窓、石敷きの床など本格的な禅宗様になる。ただし、屋根の隅棟や軒先の線に反りがなく、屋根の形を直線のみで構成するのは独特の意匠である。軒下の蟇股は十二支の彫刻で飾る。堂内は身舎小壁に瑞鳥、天井に迦陵頻伽の彩絵を施すほか、水戸徳川家の三つ葉葵、太田家の桔梗などの装飾が施されている。国の重要文化財Wikipedia

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祠堂門(唐門)
平唐門、銅瓦葺き。祠堂に至る石段下の小門で、祠堂と共に建てられたと考えられる。欄間には精巧な牡丹等の透彫りが施されている。国の重要文化財Wikipedia


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鐘楼
入母屋造、瓦棒銅板葺き。近世の鎌倉では唯一とされる袴腰形式の鐘楼で、梵鐘は寛永20年の林羅山撰文の銘を持つ。国の重要文化財Wikipedia




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太田道灌邸旧蹟/英勝寺前
此の地は武略(軍略)文藻(文才)兼備へ忝(かたじけな)くも 武蔵野は萱原(かやはら)の野と聞きしかどかかる言葉の花もあるかな テフ(と言う)叡感(天皇の感歎)にさえ預りたる道 灌太田持資(もちすけ)江戸築城前邸址なり  寛永11(1634)今の英勝寺と為る 其の創立者水戸藩祖頼房(ともふさ)の准母(内親王)英勝院は道灌の嫡流太田康資の女なるより 晩年将軍家光より特に此の地を授りて之に住するに至れるなり  孤鞍(単騎)雨を衝()いて茅茨(ぼうし:茅葺家屋)を叩く少女為に遣()る花一枝 の詩趣ある逸話は道灌が壮年猶此に在りし日に於て演ぜられし所のものなり(鎌倉町青年会)

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街道の風景② 中央を横須賀線が通ります、左が英勝寺、右が扇ヶ谷上杉邸跡です


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庚申塔群/寿福寺入口


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源氏山/寿福寺入口
源氏山は初め「武庫山」と云ひ、亀ヶ谷の中央にある景勝の地なるをもってまた「亀谷山」とも称せり。源頼義・義家父子、奥州征伐の時、この山に旗を立てたるより、あるいは「旗立山」と名付く。山の麓、寿福寺境内付近は爾来、源氏世々の邸宅たりし地なりと云ふ。「源氏山」の名称はこれに起因せるか。旗竿を建てしと云ふ故址は今尚ほあり(鎌倉町青年団)

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寿福寺外門
/扇ガ谷

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寿福寺
扇ガ谷にある臨済宗建長寺派の寺院である。鎌倉五山3の寺院である。山号を亀谷山(きこくさん)と称し、寺号は詳しくは寿福金剛禅寺という。本尊は釈迦如来、開基は北条政子、開山(初代住職)は栄西である。境内は「寿福寺境内」として1966年(昭和41年)国の史跡に指定された。源頼朝が没した翌年の1200年(正治2年)妻の北条政子が葉上房栄西(明庵栄西)を開山に招いて創建した。もともと現在の寿福寺のある付近は奥州に向かう源頼義が勝利を祈願したといわれる源氏山を背にした、亀ヶ谷と呼ばれる源氏家父祖伝来の地であり、頼朝の父・源義朝旧邸もこの地にあった。

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1180年(治承4年)初めて鎌倉入りした頼朝は、ここに館(幕府)を構えようとしたが、すでに岡崎義実が堂宇を建て義朝の菩提を弔っていたことや、土地が狭かったため当初の計画を変更したといういきさつがある。創建当時は七堂伽藍を擁し14の塔頭を有する大寺院で、禅刹として体裁を整えたのは1278年(弘安元年)頃と推定されている。

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1247年(宝治3年)に火災にあい、1258年(正嘉2年)の火災では一宇を残さぬまで焼失している。これらの復興は伝実朝墓五輪塔などの存在からおそらく南北朝時代の頃と思われる。総門、中門、仏殿、庫裏、鐘楼などが建つ。仏殿は1664年(寛文4年)の再建である。境内裏手の墓地には陸奥宗光、高浜虚子、星野立子、大佛次郎などの墓があり、さらにその奥のやぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)には北条政子源実朝と伝わる五輪塔がある。なお、総門から中門までの参道と裏山の墓地は公開されているが、中門から内側の境内は一般公開されていない。Wikipedia
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国指定史跡寿福寺境内
亀谷山寿福金剛禅寺(臨済宗建長寺派)は正治2年(1200年)に頼朝夫人政子が明庵栄西禅師を開山として建てたもので、鎌倉五山の第3位の寺であります。この地はもと源頼朝の父義朝の館があったといわれ、鎌倉入りした源頼朝はここに館を造ろうとしましたが、岡崎義実が義朝の菩提を弔うお堂を建てていたのでやめたといもれています。墓地にあるやぐらには源実朝北条政子の墓と伝わる五輪塔2基あります。現在伽藍は外門、山門、仏殿、鐘楼、庫裡などですが、外門から山門に至る敷石道は静寂感が漂い、また仏殿前に四株の柏槙があり往時のおもかげを残しています。(神奈川県教育委員会)

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いい道ですが、現在は通れません、左から迂回して裏山の「やぐらへ」

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墓地の奥にある北条政子(左)と源実朝(右)のやぐらです

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伝北条政子の五輪塔          伝源実朝の五輪塔


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八坂大神

建久3相馬次郎師常、己が邸内に守護神として勧請して崇敬したのに始まる。その後現在の地に奉遷する。世に相馬天王と称するのはこの故である。神幸式は512日の両日に行われていたが、今では12日のみとなった。中世御神幸の神輿荒ぶるを以て師常館の岩窟に納め新たに調進したと傳へられる。独特の六角神輿は宗社である京都祇園八坂神社の形を伝承したものである。享和元年、慶應元年に社殿の改築が行われた。明治6年村社に列格される。(境内掲示板)


・・・雪ノ下


鎌倉市鎌倉地域にある大字。もともとは鶴岡八幡宮背後の地域を指していたが、次第に拡大し境内とその周辺を指すようになった。吾妻鏡によると、建久2年(1191217日に降雪が5寸になった雪見のため、鶴岡八幡宮を訪れた源頼朝が佐々木盛綱らに山辺の雪を長櫃に入れて夏に備えて貯蔵させたことが由来とされる。源実朝を暗殺した公暁は雪ノ下の本坊(別当坊)に逃れた。
応永24年(14171月に関東管領上杉禅秀は挙兵して鎌倉公方足利持氏を追放するが敗れて雪ノ下で自刃している(上杉禅秀の乱Wikipedia

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街道の風景③ 寿福寺前の踏切を渡り
岩窟小路(いわや)を鶴岡八幡宮へ向かいます

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岩窟不動尊
奥のやぐらに頼朝鎌倉入り前からあった古い神社だそうです

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街道の風景④
川喜多映画記念館を通り小町通りを左折して流鏑馬道へ

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鉄の井
この井戸の水質は清らかで美味しく、真夏でも井戸の水が涸れることはなかった。昔、この井戸から高さ5尺(1.5m)余りの鉄観音(くろがね)の首を掘り出したことから、この井戸を鉄の井(くろがねのい)と名付けた。正嘉二年(1258)正月17日午前2時頃に安達泰盛の甘縄(あまなわ:長谷方面の昔の地名)の屋敷から出火し、折からの南風にあおられて火は薬師堂の裏山を越えて寿福寺に燃え広がり、総門・仏殿・庫裏・方丈など全てを焼き尽くし、さらに新清水寺・窟堂(いわやどう)とその周辺の民家、若宮の宝物殿及び別当坊などを焼失したと吾妻鏡に述べている。この井戸から掘出された観音像の首は、この火災のときに土中に埋めたのを、掘り出したもので、新清水寺の観音像と伝えられ、この井戸の西方の観音堂に安置された。明治に入り東京に移したと云われている。(鎌倉市青年団)

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街道の風景⑤「流鏑馬道」が街道の起点とありましたので、ここにゴールしました/鶴岡八幡宮

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鶴岡八幡宮に報告とお参りです

鶴岡八幡宮(若宮大路)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/18658364/

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ルート図(藤沢~鎌倉)
(赤:鎌倉街道上道(左)・中道(右) 紫:上道別路 橙:旧東海道)

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鎌倉街道上路ルート図(府中~鎌倉)
(左:上道 中:中道 右:下道)

by Twalking | 2017-06-25 23:20 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①   

日時 2017.6.20(火)
天気 晴れ

ここからは鎌倉の寺社、史跡めぐりです。
海臧寺、東勝寺、寿福寺は定番ですが
それだけではないですね~・・・。

寺社それぞれに由緒や歴史がありまし、
鎌倉、室町の史跡が豊富で面白いです。
整理するは大変ですが、少しづつでしょうか。


・・・扇ヶ谷
(おうぎがやつ)

鎌倉市鎌倉地域にある大字。扇ガ谷はJR横須賀線の鎌倉駅から北鎌倉間の線路沿いの山際一帯の地名である。東を雪ノ下、西を佐助、南を御成町・小町、北を山ノ内と接し、飯盛山、源氏山(初名は武庫山、このほか亀谷山とも呼ぶ)などの丘陵が周辺を囲み、中心部谷戸にある亀ヶ谷坂を経て北鎌倉方面とつながる。地名の由来は鎌倉十井の一つ「扇の井」(現在の扇ガ谷3丁目)に因んだもので、扇ヶ谷は関東管領上杉定正旧邸で、英勝寺の地で亀ヶ谷(かめがやつ)の地内の一地名とある(新編相模国風土記、新編鎌倉志)。もともとこの地は亀谷と呼ばれ鎌倉幕府の記録書である『吾妻鏡』には亀谷(亀ヶ谷)の地名のみ登場し扇ヶ谷は出てこない。亀ヶ谷は鶴ヶ岡に対する対語、もしくは谷戸の中心部にある亀ヶ谷坂(『亀がひっくり返るほど急な坂』の『亀返り坂』の転訛という説)に由来すると云われ、この地は源家父祖伝来の地であった。Wikipedia

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街道の風景① 葛原岡から扇ヶ谷方面の景観です

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海蔵寺山門
/扇ヶ谷


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扇谷山海蔵寺
海蔵寺は古都鎌倉の扇ヶ谷の北、風光明媚な渓間に佇む臨済宗建長寺派の古刹である。もと真言宗の寺跡であるこの渓に、建長5年(1253)宗尊親王の命によって従五位前能州太守藤原仲能が本願主となり七堂伽藍が再建された。しかし、元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡のおり鳥有に帰した後、応永元年(13944月、鎌倉御所足利氏満の命により上杉氏定が再建したのが海蔵禅寺である。氏定は源翁禅師を(心昭空外)を開山に招いて菩提寺とした。天正5年(1577)建長寺に属して今日に至っている。寛政3年(1791)の境内図によると、主な建物の配置は現在の姿とほとんど変わらず、塔頭7ヶ院と旧跡を図示している。(海蔵寺略縁起)

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本堂(龍護殿)
大正12年(1923)の震災で倒壊した後同14年の再建。内殿欄間の雲龍彫は文化9年(1812)、額は延宝9年(1681)霊芝の筆。間切戸の雲龍・山水の絵は狩野探信の筆なり、正面4枚戸の牡丹唐獅子の絵は藤原義信の筆。(海蔵寺略縁起)


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仏殿(薬師堂)
安永5年(1776)浄智寺から移築し翌年入仏供養を行った。薬師三尊像(市指定文化財)・十二神将像・伽藍神像などを安置する。(海蔵寺略縁起)

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十六の井
薬師堂裏手の岩窟内にある。岩窟の床面に縦横各4列、計16の丸穴があり水が湧き出している。井戸ではなく納骨穴とも、十六菩薩になぞらえたものとも言うが正確なことは不詳である。岩窟の正面奥壁には観音菩薩像と弘法大師像を祀る。他に嘉元4年(1306年)銘の阿弥陀三尊像板碑が壁面に安置されていたが鎌倉国宝館に寄託されている(Wikipedia

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底脱の井
この井戸は鎌倉十井の一つです。中世の武将の安達泰盛の娘・千代能がここに水を汲みに来た時、水桶の底がすっぽり抜けたため「千代能が いただく桶の底脱けて 水たまらねば 月もやどらず」とうたったことからこの名がついたといわれています。井戸の底ではなく、心の底が抜けてわだかまりが解け、悟りが開けたという投機(解脱)の歌です(鎌倉市青年会議所)
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本堂裏の庭園、非公開ですが見事です

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街道の風景② 街道は直進ですが、ガードの東側に寄り道/扇ヶ谷ガード

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岩船地蔵堂/亀ヶ谷辻
亀ヶ谷辻に建つこの堂は、古くから頼朝娘大姫を供養する地蔵堂と言い伝えられてきました。木造地蔵尊の胎内の銘札にも『大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公御皇女之守本尊也』 との記述があり、続けて元禄3年に堂を再建しあらたに本像を像立した旨が記されています。「北条九代記」にも許婚との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々がこの谷に野辺送りしたことが記されています。このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に今なおほのかに紅をさす木造地蔵尊を前立像として安置し供養いたしました。心ある方はどうぞご供養の合掌をなさってお通りください。(海蔵寺)

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薬王寺山門/扇ヶ谷


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薬王寺
もとは真言宗梅領山夜光寺と称していました。日像上人(日蓮の孫弟子)が住職と論難の末日蓮宗に改宗させ、薬王寺に改称したと伝えられています。徳川3代将軍家光の弟、駿河大納言忠長公供養塔や松山城主蒲生忠知公(家康の孫)の正室と息女の墓所があり、徳川、蒲生家と縁が深く寺門に三葉葵が用いられるなど格式の高い寺でした明治初期の廃仏稀釈により荒廃しましたが、後に日振、日照が再興に尽力し現山容を整えました。本堂正面の日蓮座像は第11代将軍家斉の命により幕府が建立、説法形の口を開けた珍しい像です。(鎌倉市)

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駿河大納言忠長公供養塔
駿河大納言忠長公(3代将軍家光公弟)は粗暴な性格を理由に高崎に幽閉されたのち、28歳で自刃せられ所領も没収された。悲嘆やるかたない奥方松孝院殿(織田信長次男信雄の息女)は。時の当山3世恵眼院日垙上人に懇願し、悲惨な最期を遂げた夫君忠長公の供養を法華経により営み、追善供養のため当供養塔を建立した(説明板)

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釈迦堂                やぐら群
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薬王寺の高台から扇ヶ谷&鎌倉市中方向の景観、右手が源氏山になります

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街道の風景③ 鎌倉七口の一つ「亀ヶ谷坂」越えると山ノ内です

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国指定史跡 亀ヶ谷坂
この道は亀ガ谷山ノ内を結ぶ亀ヶ谷坂と呼ばれる切通です。切通しとは山を開いて造られて道のことで、交通を容易にするとともに防御の拠点ともなっていました。亀ヶ谷坂が造られた正確な時期はわかりませんが、13世紀の中頃には整備されていたようです。「吾妻鏡」によれば幕府が鎌倉市内の7箇所の商業区域の一つとして「亀ヶ谷辻」を指定しており、建長寺や円覚寺などの大寺院が建立された山ノ内と鎌倉市中を結ぶ亀ヶ谷坂は経済的にも軍事的にも重要な場所だったことがわかります。江戸時代には「鎌倉七口」の一つに数えられるようになり、現在も生活道路として利用されています。(鎌倉市教育委員会)

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相馬師常墓やぐら/扇ヶ谷

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史跡相馬師常墓やぐら
このやぐらは古くから相馬師常(もろつね)の墓と伝えられ、地元の人々に厚く保護されてきました。玄室(げんしつ)の平面形は矩形で、羨道(せんどう)を有し奥壁の中央部には切石で塞がれた大きな龕(がん・仏像を納めるため岩壁を掘りくぼめた場所)があります。龕の前に宝篋印塔が立ち、奥壁左隅の小龕の中には一石五輪塔が置かれています。相馬師常は鎌倉幕府草創期の有力御家人の千葉常胤(つねたね)の次男で、相馬氏、治承4年(1180)父・常胤とともに源頼朝の挙兵に加わり、文治5年(1189)に欧州征伐に随うなど多くの戦功をあげています。本やぐらは閉塞された大形の龕を持つ特色のある形態であり、保存状態も良好で当初の姿を良く伝えているとともに被葬者が知られることが極めて稀な「やぐら」にあって、有力御家人の墓と伝えられるなど資料的にも価値の高いものです。(鎌倉市教育委員会)

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相馬次郎師常之墓
師常は千葉介常胤の第二子にして相馬氏の跡を継ぎ、巽荒神のあたりに邸宅を構えていたが、元久2年(12051115日に67歳で正座し、合掌して決定往生を遂げ、その結縁を求めて僧俗あらゆる人々が集まったという。岩窟の中の宝篋印塔は師常の墓である(鎌倉町青年団)

相馬師常
(もろつね)
千葉氏の庶流。相馬氏初代当主。千葉常胤の子。伝承によると師常は平将門の子孫である信田師国の養子となりその遺領を相続したと伝わる。父と共に源頼朝挙兵に参加し頼朝の弟・源範頼の軍勢に従って各地を転戦した。文治5年(1189)には奥州合戦に参加しその功により頼朝から「八幡大菩薩」の旗を賜ったという。建仁元年(1201)父・常胤が亡くなったために出家し、家督を嫡男の相馬義胤に譲る。出家後は法然の弟子になったと言われている。元久2年(1205年)鎌倉相馬邸の屋敷で端座し、念仏を唱えながら臨終したという。その信心厚い性格から信望の厚かった師常の最期は鎌倉の民衆たちから見取られたと言われている。1879年師常を祀る「相馬神社」が福島県相馬市に建立されたWikipedia


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藤谷黄門遺跡 (ふじがやつこうもん)/ 浄光明寺入口
冷泉為相卿は為家の子なり 従二位中納言となる 和歌所の事に由り 兄為氏と争論の末 その母阿仏尼と共に鎌倉に来たり幕府に訴ふ 遂に藤谷に寓し 藤谷殿と称せらる 藤谷百首と呼び世に伝承せらるる和歌は 此地にて詠出せられし者なり 網引地蔵は其の建立に係ると云う 卿の墓は其の山の頂に在り 五輪塔にして 月巌寺殿玄国昌久の八字を刻せんと謂うも 今は漫滅(摩滅)して字体を弁ぜず(鎌倉町青年団)

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浄光明寺山門/扇ヶ谷

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浄光明寺
扇ガ谷にある真言宗泉涌寺派の寺院。山号は泉谷山(せんこくざん)。本尊は阿弥陀如来である。北条氏や足利氏とゆかりの深い寺院で足利尊氏は後醍醐天皇に対し挙兵する直前、当寺に籠っていたと伝える。新四国東国88ヶ所霊場の第82番。鎌倉七口のうちの亀ヶ谷坂(かめがやつさか)と化粧坂(けわいざか)にはさまれた扇ヶ谷の支谷・泉ヶ谷に位置する。山号の泉谷山はこの谷戸の名にちなむ。

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寺伝によれば建長3年(1251年)頃、第5代執権北条時頼、第6代執権北条長時が開基となって創建したもので、開山(初代住持)は真阿(真聖国師)であった。それ以前、源頼朝の命により文覚上人の建てた草庵があったともいうが定かでない。長時は鎌倉幕府6代執権で、文永元年(1264年)36歳で死去し浄光明寺に葬られ以後、この寺は長時に始まる赤橋流北条氏菩提寺と位置づけられた。

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山門を入ると客殿、庫裏、不動堂などがありその裏手の一段高くなった敷地に阿弥陀堂と収蔵庫(阿弥陀三尊像等)がある。さらに裏手狭い階段を上った先の山上には岩壁をうがった「やぐら」があり、内部に石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵)が安置されている。そこからさらに登ったところには国の史跡に指定されている冷泉為相(れいぜいためすけ、鎌倉時代の歌人)の墓がある。境内は谷戸を雛壇状に造成した中世寺院の景観がよく保存されている。(Wikipedia


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阿弥陀堂               やぐら群

赤橋流北条氏
鎌倉時代の北条氏の一族。赤橋家ともいう。始祖は北条重時(極楽寺流)の次男北条長時。極楽寺流のなかでは嫡流に当たる。長時が第6代執権となったほか、最後の執権(第16代)守時をも出すなど、北条氏の一族では、得宗家に次ぐ高い家格を有しており、得宗家の当主以外では赤橋流北条氏の当主だけが元服時に将軍を烏帽子親としてその一字を与えられる特権を許されていた。屋敷が赤橋(現在の太鼓橋)にあったため「赤橋」を名乗ったと言われている。Wikipedia

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大伴神主家墓所
大伴家は鎌倉時代以来明治維新に至るまで鶴岡八幡宮神主を代々務め、その墓は室町時代の文明年間以降、当寺に営まれるようになりました。墓所は鳥居を浮彫にした江戸時代の(しゃく)型墓碑3基あり、神道特有の墓として貴重です。市史跡(浄光明寺)

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石造地蔵菩薩坐像(網引地蔵)
鎌倉屈指の石仏で、漁師の網に懸かり海から引き上げられたとの伝承から網引地蔵と呼ばれています。背中の銘文に当寺第三世長老性正和尚が正和2年(1313)に供養した事が記され、冷泉為相によって造立されたとも伝えられています。(浄光明寺)

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国指定冷泉為相墓
冷泉為相(ためすけ)は藤原定家で、は「十六夜日記」の作者阿仏尼である。為相は歌学・連歌の道の造詣が深く、歌風は広く世に知られている。永仁3年(1295)鎌倉に下り、嘉歴3年(1328)この地に没した。この宝篋印塔は相輪が欠けているが、南北朝のころの形式をよく伝えている。なお、玉垣は德川(水戸)光圀が寄進したものである。(文部省・神奈川県教育委員会)
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冷泉為相墓より泉ヶ谷&鎌倉市中の景観 

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扇ヶ谷周辺マップ
(赤:鎌倉街道上道 紫:鎌倉街道中路 橙:亀ヶ谷坂 黄:段葛)

by Twalking | 2017-06-25 23:13 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉01-源氏山   

日時 2017.6.20(火)
天気 晴れ


余り日を置くのもと思い出かけました。
住宅地の長い坂を登り源氏山へ、
途中、半夏生を見に鎌倉中央公園へ寄りました。

葛原岡・源氏山は来たことがありますが、
梶原谷への別路を確認しながら散策しました。
化粧坂を下り中心部へ、この切通はいいですね。
海臧寺・英勝院は初めてなので楽しみです。



・・・梶原

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街道の風景① 藤沢からぶらりっとひと歩き、今日はここからスタートです/湘南モノレール深沢駅

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新川沿いに深沢小へ                源氏山への別路の分岐です/坂下

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街道の風景② 梶原の丘を登ります/深沢中学角

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由来/深沢中正門前
この辺りは寺分大工谷といわれていた。鎌倉時代この付近に建てられた関東十刹の一つであった大慶寺などを修復した工匠が住んでいたと伝えられる。昭和585月の住居表示施行により梶原1丁目に編入された。(鎌倉市)
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街道の風景③ 長い坂ですが、振り返って見るといい景色です/坂上 

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右折してた山の上ロータリーへ     山の上通りを行きますがちょっと寄り道


・・・鎌倉中央公園/山崎

山崎

鎌倉市深沢地域にある大字。旧名は洲崎(風土記稿)で鎌倉の戦いにおける「洲崎古戦場」はこの地を指す。地名の由来は山丘の先端に基づく(風土記稿)ほか、京都の山崎を擬えたものとされる。後北条氏の時代には東郡に属したが江戸時代には鎌倉郡に属し正保元年(1644)の正保国絵図にも「山嵜村」と記録されている。江戸時代は幕府領であった。明治22年の町村制施行により深沢村の大字に、鎌倉市との合併で鎌倉市の大字となる。Wikipedia

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清水塚口から入り谷戸を抜けて梶原口までのんびり歩きました/上池

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鎌倉中央公園
鎌倉市の中心に位置した公園で、豊かな自然に恵まれた環境の中にあります。この公園は緑化意識の高揚を目的とした「都市緑化植物園ゾーン」と、現存する田畑などの景観を保ちながら多様な余暇活動の場として利用していただくための「自然活用ゾーン」、樹林地や湿地に棲む小動物や鳥類、野草などを保護し、景観や生態系に配慮した「保全ゾーン」に分かれています。また、災害時の広域避難場所として指定され、非常用飲料水や資機材等が備蓄されている防災公園としての機能もあります。(鎌倉市HP)

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湿生花園               下池

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田んぼと湿地の広がる東谷戸、憩える散策路がついています

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鎌倉中央公園案内図
(赤:散策ルート 右手の梶原口から山の上通りへでます)


・・・

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街道の風景④ この先を左折してもうひと上りです/日当公園

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山ノ内配水池を右折          左カーブの細道を右折して葛原岡へ

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街道の風景⑤ 源氏山から梶原谷へ下る道(別路)はこの下に出てきます/S字カーブ

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梶原(住宅)周辺マップ
(赤:鎌倉街道 緑:梶原谷別路 黄:鎌倉中央公園・S字カーブ) 


・・・葛原岡

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源氏山(公園)
標高93の源氏山周辺に1956年都市計画決定し1966年に開園した。「源氏山」の名は麓に源氏の屋敷があったからとする説が有力である。後三年の役で八幡太郎義家が出陣する際に山上に源氏の白旗を立てて戦勝を祈ったところから「旗立山」の別名がある。1980年には源頼朝の鎌倉入り800年を記念して頼朝像が建立された。源氏山北西一帯は葛原岡と呼ばれ鎌倉幕府の倒幕に関わった日野俊基はこの地で処刑された。俊基の霊を祀る葛原岡神社と墓所は園内にある。同神社は大黒天も祀っており縁結びの祈願も行う。公園南側鎌倉駅方面に下りる途中には銭洗弁天宇賀福神社があり、北側は化粧坂の切り通しに通じる。北鎌倉と鎌倉大仏を結ぶハイキングコースでは本園が中間地点になるWikipedia

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街道の風景⑥ 尾根上の葛原岡・大仏ハイキングコースにでます/葛原岡神社前

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葛原岡神社/山ノ内東瓜ヶ谷

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葛原岡神社
本社祭神:日野俊基朝臣 文章博士従三位蔵人右少辨
建武の中興(1333年・元弘3年)を計画し、不幸にも1331年鎌倉幕府の北条高時に捉えられ、其の完成に会はず中途で悲愴な最期をこの葛原が岡で遂げられた忠臣である。社殿は明治天皇の思召により、地元有志の方々の骨折で全国の崇敬者の協力を得て明治21年に創建された。例大祭は御命日の63日神前祭・墓前祭が行われる。この63日に近い土曜日に氏子地域になっている由比ガ浜で宵宮祭が行はれ、日曜日には大神輿、子供神輿が氏子区域を巡るお渡り神事が行われる。御祭神は学業成就、除災招福、交通安全などの神として崇められて居る。摂社祭神:報徳豆大黒天、福福恵比寿神(石碑 写真:縁結び石)

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日野俊基卿終焉之地碑
鎌倉幕府に捕えられた日野俊基卿は元弘2年(133263日この地で悲しい最期を遂げられる(説明板)


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藤原仲能之墓
此処は道智塚或は阿古耶尼(あこやに)の塚と伝へられしも 海蔵寺伝に拠り 藤原仲能墓所と考察せらる 仲能は従五位下前能州大守にして鎌倉幕府評定衆たりしが 後年 海蔵寺中興の大檀越(檀家長)となり 建長8(1256)129日寂し  道智禅師と称(たた)へられしものの如く 其位牌同寺に現存す(鎌倉町青年団)


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日野俊基墓
日野俊基は鎌倉時代末期の朝臣後醍醐天皇につかえ倒幕計画に参加した。正中の変(1324)に捕えられ許されたが、元弘の乱(1331)の時再び捕えられ鎌倉に送られて、翌年ここ葛原岡で処刑された。国史跡(鎌倉市教育委員会)


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日野俊基
鎌倉時代末期の廷臣。刑部卿・日野種範の子。子に俊業・俊孝がいる。文保2年(1318)に即位した後醍醐天皇の親政に参加し蔵人となる。後醍醐の朱子学(宋学)志向に影響を受け、鎌倉幕府討幕のための謀議に加わる。諸国を巡り、反幕府勢力を募るが六波羅探題に察知され、正中元年(1324)の正中の変で同族の日野資朝らと逮捕されるが処罰は逃れる。京都へ戻るが元徳3/元弘元年(1331)に発覚した2度目の討幕計画である元弘の乱で再び捕らえられ、得宗被官・諏訪左衛門尉に預けられたあと、鎌倉の葛原岡処刑された。辞世の歌は「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらん」。明治維新後、南朝(吉野朝廷)が正統とされると俊基は倒幕の功労者として評価されるようになり、1887年(明治20年)には俊基を主祭神とする葛原岡神社が鎌倉市梶原に創建され、俊基自身にも従三位が追贈された。墓所:葛原岡神社の南にあるWikipedia
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街道の風景⑦ 左折が化粧坂、右折が梶原谷への別慮&銭洗弁天への道です/源氏山公園入口

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右が梶原谷への別路(左は大仏HC)  銭洗弁天への下坂

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銭洗弁財天宇賀福神社/佐助
境内洞窟にある清水で硬貨などを洗うと増えると伝えられていることから銭洗弁財天(銭洗弁天)の名で知られる。源頼朝が巳年である1185年(文治元年)の巳の月(旧暦4月)巳の日に見た霊夢に従い、佐助ヶ谷の岩壁に湧く霊水を見つけそこに洞を穿ち、社を建てて宇賀神を祀ったと伝えられる。同じく巳年の1257年(正嘉元年)に北条時頼がこの霊水で銭を洗って一族繁栄を祈ったのが銭洗の始まりだといわれる。宇賀神と弁財天が神仏混合して弁財天と呼ばれ相馬天王(扇ヶ谷)の末社だった。明治時代の神仏分離により相馬天王は八坂大神と改称、当社も祭神を市杵島姫命とし1970年(昭和45年)には末社から独立した。(Wikipedia

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奥宮                 下之水神宮


・・・化粧坂

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化粧坂
化粧坂は鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける「鎌倉往還上ノ道」(武蔵路)の出入り口に当ります。鎌倉の交通の要衝であったことから、元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでも戦場となっています。「吾妻鏡」建長3年(1251123日条には、鎌倉の中で小町屋及び売買所を構えても良い場所の一つとして「気和飛坂山上(化粧坂の山上)」と書かれています。坂頂上部は葛原岡とも呼ばれ、元弘2年(1332)後醍醐天皇の倒幕計画に関わった日野俊基が斬首された刑場でもありました。指定区域内北側には地蔵像や五輪塔などの浮彫りをもつ特徴的なやぐら群(瓜ヶ谷やぐら群)があります。また周辺の発掘調査では多数の火葬跡が発見されており、化粧坂が交通の要衝であると同時に、都市鎌倉の境界に位置する葬送の地であることが明らかになっています。(鎌倉市教育委員会)

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化粧坂碑文/扇ガ谷
化粧坂又は形勢坂に作る 此名称は 往時平家の大将を討取り 其首を化粧して実験に備へしに拠り起ると言ひ 又一説には古此坂の麓に遊里ありしに拠り此名を負ふと相伝ふるも 東(吾妻)鑑には其名見えず此坂は所謂(いわゆる)鎌倉七口の一にして鎌倉攻防の要路に当り 元弘3(1333)5月 新田義貞軍の鎌倉討入り以来屡々戦場となれる所なり。昭和十五年三月建(鎌倉町青年団)


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化粧坂の道筋
「化粧坂」の鎌倉側の道筋について『鎌倉市史総説編』(高柳光寿)では化粧坂山頂から亀ヶ谷辻を通り、寿福寺前を曲がって現在の鶴岡八幡宮一の鳥居・太鼓橋(当時は赤橋)の前へ至る道を「鎌倉中の武蔵大路」としている。それらを総合すると、鎌倉の中心から武蔵国の中心(府中)へ向かう道の鎌倉の内と外の境界が「化粧坂」であり、建長3(1251)以前から坂上には武蔵国方面の物流の拠点として今でいう市場、商店街が開かれ賑わっていたと言うことになる。

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また鎌倉滅亡の2年前、元弘の乱(1331年)で捕らえられた日野俊基がこの坂上で首を切られ、明治時代になって日野俊基を祭る葛原岡神社が建てられている。現在は鎌倉の内側(鎌倉中)への下り坂が昭和44年(1969)に国の史跡に指定されているが、道の痕跡はいくつもあり鎌倉時代にどのルートであったのかは必ずしも明らかではない。その外側の道も不明であり明治15年の帝国陸軍のフランス式1/20000地図には梶原方面への道が一番太いが、その他に洲埼方面への尾根沿いの道、北鎌倉方面への数本の道、北条常盤亭方面への尾根道も記載されており、尾根道の交差点であるかのような姿となっているWikipedia

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街道の風景⑧ 扇ヶ谷へ下ります

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ルート地図(鎌倉市西北部)/旧鎌倉街道散策の旅(1)上道・山ノ道編/芳賀善次郎著(さきたま出版会)を参照
(赤:鎌倉街道上道 緑:上道別路 紫:鎌倉街道中道 橙:切通を着色)

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葛原岡・大仏ハイキングコースマップ(上下反転)
(赤:鎌倉街道上路 緑:別路 紫:鎌倉街道中道 橙:切通 点線:葛原岡・大仏HC)

葛原岡・大仏ハイキングコースの関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/20309722/


by Twalking | 2017-06-23 15:14 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(5-1)藤沢~鎌倉02-寺分   

日時 2017.6.15(木)
天気 晴れ

地図にルートは落してましたが、住宅地ですし、
土地勘がないので寺分、泣石、梶原など
場所を尋ねながらでしたので時間がかかりました。

なんとか目的の場所は見れましたので良かったです。
次回、鎌倉はじっくり見るとして、ひとまずここで終了、
バスで藤沢まで戻りました。


・・・深沢地域
/鎌倉市

8つの大字(梶原・鎌倉山・上町屋・手広・寺分・常盤・笛田・山崎)がこの地域に含まれる。平安時代には桓武平氏村岡忠(ただみち)を祖とする鎌倉氏の支配領域であった。鎌倉景通(かげみち)の嫡男景久は梶原郷に在して「梶原氏」を称したとされる。梶原氏は鎌倉時代初期に源頼朝の側近として勢力を誇った梶原景時につながる。当地域には等覚寺御霊神社など梶原氏や梶原景時の伝承を残す史跡も多い。深沢小学校の裏には「梶原景時の墓」と伝えるやぐら(横穴墳)がある。鎌倉街道上道(吾妻鏡では下道と記述)が当地域内をほぼ東西に貫いていたと想定される。鎌倉街道上道の鎌倉への入口にあたるため、鎌倉防衛要所とされた。化粧坂と大仏坂の中間にあたる常盤の谷戸には鎌倉幕府第7代執権の北条政村が別邸を構えていたとされる。1333年に新田義貞の鎌倉攻めの際には現在の寺分・上町屋付近(かつて「洲崎(須崎)」と呼称された)において、北条氏の赤橋守時らが戦死した洲崎合戦があった。近世には東海道戸塚宿から鎌倉へ向かう道(鎌倉街道中道)から小袋谷で分岐した江の島道が当地域内をほぼ南北に通っていた。また、1685年(貞享2年)に刊行された新編鎌倉志に鎌倉から常盤に抜ける道筋として大仏切通の記述がある。この地域は戦前には深沢村と呼ばれた地域で1948年(昭和23年)鎌倉市に編入された。Wikipedia

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街道の風景① 上流側の大船方面の景観、渡ると鎌倉市です/柏尾川

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柏尾川/町屋橋
神奈川県南部を流れる二級河川、境川の支流である。戸部川とも呼ばれる。全長は戸塚区柏尾町から藤沢市川名で境川と合流するまでの約11km、流域面積は約84km2。源流である戸塚区の周囲の区から流れる複数の小川のうち港南区から流れる平戸永谷川と瀬谷区から流れる阿久和川が合流する戸塚区柏尾町付近から柏尾川の名称に変わる。戸塚駅付近より大船駅付近までJR東海道本線沿いを流れ、手広付近までは県道304号腰越大船線にほぼ平行に沿う。手広付近からは県道32号藤沢鎌倉線を藤沢駅方向に流れ藤沢市川名で境川に合流する。Wikipedia

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304号を右折/町屋橋BS        少し先二差路を左折

県道304号腰越大船線

国道134号小動岬付近(こゆるぎみさき)腰越橋交差点を起点とし湘南モノレール西鎌倉駅付近までを神戸川・旧江ノ島道とほぼ併走する。青蓮寺付近で旧江ノ島道とわかれ手広交差点で県道32号藤沢鎌倉線と交差、その後は終点(小袋谷)まで柏尾川とほぼ平行して走る。Wikipedia


・・・上町屋
(かみまちや)

鎌倉市深沢地域にある大字。地名の由来は柏尾川の水運と陸の鎌倉街道が交わる要路沿いに、町屋が軒を連ねていたことによる。町は市場、商工関係者の居住地、屋は集落を意味する。正保元年(1644)の正保国絵図には「町屋村」と記載があり、元禄10年(16974月の元禄内国改定図で「上町屋村」と記載がある。「上」が冠された理由は不詳。
Wikipedia

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泉光院山門/上町屋

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泉光院
真言宗大覚寺派。泉光院元青蓮寺の末寺で開山は大法師季等和尚で寛永16年(1639)の創建です。地蔵堂の石地蔵は「いぼとり地蔵」薬師堂の薬師如来は「町屋薬師」とも呼ばれているそうです。

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薬師堂                地蔵堂

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上町屋天満宮鳥居/上町屋

上町屋天満宮
上町屋の氏神。天慶年間(938947)上総介平良文が霊夢を受けて天神をこの地の鎮護として祀ったのがはじまり。 石造庚申塔(寛文10 1670年)は市指定文化財。(神奈川県神社庁)

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拝殿                 庚申塔

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街道の風景② 住宅地なので迷いました、戻ってみると天満宮を右折すとこの下にでます/東町屋

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泉光院先を右折、この先を久里折    道祖神角を右折し下ります

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前方が旧JR大船工場跡、街道はこの下を通ります。右手が泣塔のある小山です/深沢住宅上

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旧東日本旅客鉄道大船工場/寺分 
1945年(昭和20年)大井工機部大船分工場として発足。209系電車以降の「新系列車両」の増加による保守体系の見直しにより検査業務が縮小され、東京と大宮総合車両センターに業務を引き継がせる形で検査業務を終了し2006年(平成18)に閉鎖された。鉛などに汚染されていた跡地の汚染対策費と建物解体費の合計が売却予定額を数十億上回るという結果が出ており、鎌倉市とJR東日本の間で協議を続けていたが、土壌処理を2012年から2014年にかけて実施、引き続き鎌倉市が周辺地域を含めた総合整備事業を進めている。敷地内には鎌倉市の有形文化財に指定された泣塔が存在する。Wikipedia


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泣塔/寺分(多目的グランド内)
鎌倉市寺分旧東日本旅客鉄道大船工場敷地脇に建つ宝篋印塔の通称。伊豆石と呼ばれる安山岩で作られており、高さは203cm。塔身や基礎の部分は典型的な「関東形式」の特徴を持つ。塔の背後にやぐらがあり、中には朽ちて一部しか残っていないものも含め14五輪塔が建つ。
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泣塔という名前の由来について詳しいことはわかっていないが塔の後ろのやぐらが風に反響し、泣き声のような音を出すことから泣き塔と名づけられたという説や「無き人(無縁仏の意)の塔」が訛ったとする説がある。また、一時石塔を近隣の青蓮寺に移したところ、夜な夜なすすり泣く声が聞こえた事から「泣塔」と名付けられたという伝承もある。ただし移設されたとする青蓮寺に記録が残っていないため移設の事実なども含めて詳細は不明である。昭和8年(1933年)に調査を行った際、基壇部に「文和5年丙申2月廿日供養了」という銘文が発見された事から1356 (文和5)220日に建立された物と推測される。塔の正式な由緒は不明だが、鎌倉時代末期に新田義貞が鎌倉を攻めた際の古戦場(洲崎古戦場)が付近にあること、塔の背後にやぐらがある事からやぐらに葬られた戦死者を周辺の住民が弔う為にたてた塔と見られている。Wikipedia

(標識はありませんが、富士塚小入口信号角から入って右手の小山が泣塚です。現在はフェンスに囲まれていて塚の中には入れません)



・・・寺分(てらぶん)

鎌倉市深沢地域にある大字。「寺分」とは「寺領であったところ」を意味する。地名の由来は南北朝時代から戦国時代に大慶寺の寺領であった(大慶寺は後に廃絶)。寺名を略して「寺分」と称した。天文16年(15471121日の「北条氏康判物」で「須崎大慶寺分」と記されているのが初見である。永禄2年(1559)の小田原衆所領役帳には「同(東郡)須崎大慶寺分 養竹院」とあるが、永禄9年(1566722日の「北条氏政判物」では「須崎大慶寺分」を円覚寺塔頭の帰源庵領として安堵し、後北条氏滅亡まで同庵領であった。江戸時代の正保国絵図や元禄内国改定図には「寺分村」と記載されている。新編鎌倉志では「てらわけ」とされる。当時の地域は現在の寺分の他梶原1-2丁目が含まれていた。
Wikipedia

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街道の風景③ 湘南モノレールを直進、前方小山の左裾へ。右折は湘南深沢駅、左折した坂途中に洲崎古戦場碑があります/富士塚小入口

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洲崎古戦場跡/寺分
此の辺り古の州崎郷に属す 元弘3(1333)5月新田義貞鎌倉攻の折 その武将堀口三郎貞満・大島讃岐守守之州崎口より攻む 鎌倉方は赤崎相模守守時を将として邀撃(ようげき:迎撃)し 戦闘60数度 遂(つい)に敗れ守時以下90余人自刃したる古戦場なり昭和31年(鎌倉友青会)

鎌倉の戦い-小袋坂
巨福呂坂は北条一門で執権の赤橋守時率いる幕府勢が守りを固めた。赤橋守時は妹登子が足利尊氏の妻であったことから、北条高時に疑われるのを恥じて死を覚悟してこの戦いに臨んだと『太平記』は伝える。新田方の武将は堀口貞満大島守之518日朝、守時は巨福呂坂から出撃『太平記』によれば一日に65もの突撃を繰り返し、新田勢と激戦を繰り広げ化粧坂攻撃義貞軍の背後の洲崎(現在の鎌倉市深沢地域周辺)まで迫った(洲崎合戦)。しかし、激戦のため守時の軍勢は洲崎に到達した時点で兵力の大多数を失っており、守時や侍大将南条高直ら90余名洲崎自刃した。新田勢は攻撃を続け山ノ内(鎌倉市山ノ内付近)まで攻め込むが幕府勢の守りは固く巨福呂坂の突破はできなかった。Wikipedia

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北条守時
北条氏の一門、鎌倉幕府第16代・最後の執権赤橋守時とも呼ばれる。鎌倉幕府第6代執権・北条長時の曾孫にあたる。父は赤橋流の北条久時。同幕府を滅ぼし室町幕府初代将軍となった足利尊氏は妹婿(義弟)にあたる。正慶2/元弘3年(1333年)5月、姻戚関係にあった御家人筆頭の足利高氏(のちの尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛旗を翻し六波羅探題を攻め落とし、同母妹の登子と甥の千寿王丸(のちの足利義詮・よしあきら)も鎌倉を脱したため、守時の幕府内における立場は悪化し高時から謹慎を申し付けられる。518日一門から裏切り者呼ばわりされるのを払拭するため新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つ先鋒隊として出撃し、鎌倉中心部への交通の要衝・巨福呂坂に拠り新田勢の糸口貞満つと激戦を繰り広げて一昼夜の間に65合も斬りあったとされるが、最期は衆寡敵せず洲崎(現在の深沢地域周辺)で自刃した。(Wikipedia

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等覚寺山門/梶原


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等覚寺
鎌倉市梶原にある真言宗の寺院。寺伝によると応永年間、秀恵僧都による創建とされる。元は青蓮寺の末寺であったが、現在は高野山實寿院の末寺である。明治6年(1873)には境内に「訓蒙学舎」が建てられ、明治8年 (1875)に「梶原学校」と改められた。この学校は現在深沢小学校に続いている。かつては御霊神社の東隣にあったが深沢中学校の建設により移転したWikipedia
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大慶寺山門/寺分


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大慶寺
鎌倉市にある臨済宗円覚寺派の寺院である。山号は霊照山、本尊は釈迦如来。創建は弘安年間と伝わる。創建当時は現在より南東(梶原1丁目、現鎌倉市立深沢中学校付近)にあった。1386年(至徳元年)には関東十刹と列せられるなど鎌倉幕府・室町幕府による禅宗保護の政策により発展し、深沢周辺に広大な寺域をもった。大慶寺周辺一帯は「寺分」という地名だがこれは「大慶寺の寺域」に由来する地名で往時の広さを推測できる。しかし、1512年(永正9年)には北条早雲の軍勢に寺が焼き払われ、その後も上杉謙信の鎌倉侵攻(小田原城の戦い)の影響をうけ、本尊はじめ諸像を円覚寺に退避させるなど戦乱の影響によって次第に衰退していき廃寺となった。1841年(天保12年)に成立した新編武蔵風土記稿には「大慶廃寺」との記載があり江戸時代後期には廃絶していたと推測される。その後、1943年(昭和19年)に大慶寺の塔頭だった「方外庵」を大慶寺に改称し現在に至っている。Wikipedia

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駒形神社鳥居/寺分


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駒形神社
寺分の鎮守。治承年間(11771181)の創建。邇々芸命(ににぎのみこと)を祀ると伝えられ、農業の守護神として崇敬が篤く、大庭影親の所領にして、大庭氏天候不順の折は時折代参を派遣して水害旱魃の災なからんことを祈願したと伝えられている。(神奈川県神社庁)

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富士浅間神社の石塔          道祖神 

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東光寺/寺分
真言宗のお寺、創建は永享3年と伝えられてます。


・・・梶原

鎌倉市深沢地域にある大字。湘南モノレール江ノ島線の湘南深沢駅を挟んだ東西の地域である。平安時代中期に編纂された和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)に鎌倉郡内の七郷の一(梶原郷)として記録がなされており、律令制下の国郡郷制の郷だったと考えられる。現在の梶原よりも広く深沢地域をほぼ指していたと比定される。尊碑分脈によると鎌倉景通がここに住み梶原氏を称し、その子景久が住んだとされ原氏出自の地とされる。景通の玄孫である景時の墓と伝えられるやぐらが深沢中学校の校庭に存在する。一方、新編鎌倉志では鎌倉景政が居住した旧地に同族の梶原氏が居住したと記録されている。
Wikipedia

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街道の風景④
大慶寺角を右折し全方の丘・深沢中学を目指します/東光寺前

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坂上を左折すると源氏山        下って坂下右折が御霊神社

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御霊神社 (ごれいじんじゃ)/梶原


御霊神社
祭神:鎌倉権五郎景政。建久元年(1190)梶原平三景時、景政公の霊を祀り御霊社とした後、景時を合祀した。「相模風土記」には権五郎景政公天ぷの像と伝える木像二体と景時の木造を置き、等覚寺持とある。(神奈川県神社庁)

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御霊神社拝殿

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御陵神社
鎮座地:鎌倉市梶原1丁目12番27号
祭神:鎌倉権五郎景政霊
由緒:祭神景政は後冷泉天皇の御宇永承壬辰年(1045年頃)命を奉じて、源頼義と奥州に下向し安部貞任・宗任と合戦大勝して帰る。天喜元年(1052)時の人始めて鎌倉権五郎景政に御霊大権現の神号を奉り村岡邑に奉斎せり。後年鎌倉権太夫景通梶原の邑に居を定め屋号を梶原と改む、建久元年(1190)九月梶原平蔵景時一宇を建て、景政の霊を祀り御霊社と尊称す。(碑文)

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御霊神社本殿

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本殿への階段             本殿のヤグラ群

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鎌倉景正/平景正
平安時代後期の武将。父は桓武平氏の流れをくむ平景成とするが平景通の子とする説もある。通称は権五郎、は景政とも書く。父の代から相模国鎌倉(現在の鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも鎌倉市由比ヶ浜ともいわれる。16歳の頃、後三年の役(1083 - 1087年)に従軍した景正が右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州三年記」に残されている。戦後、右目の療養をした土地には「目吹」の地名が残されている(現在の千葉県野田市)。長治年間(1104-1106)相模国高座郡大場御厨(現在の藤沢市周辺)を開発して永久4年(1116)頃伊勢神宮に寄進している。子の景継は長承4年(1134年)当時の大庭御厨下司として記録に見えている。また『吾妻鏡』養和2年(118228日条にはその孫として長江義景の名が記されている。『尊卑文脈』による系譜では景正を平高望の末子良茂もしくは次男良兼の4世孫とし、大庭義景・景親・梶原景時らはそいずれも景政の3世孫とする。他方、鎌倉末期に成立した『桓武平氏諸流系図』による系譜では景正は良文の系統とし、大庭景親・梶原景時らは景正の叔父(あるいは従兄弟)の系統とする。Wikipedia

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梶原景時の墓(供養塔)と伝えるやぐらが深沢小学校裏手の山裾にありま

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梶原氏
坂東八平氏の一つで鎌倉氏の一族が著名である。鎌倉景通の嫡男の梶原景時が相模国鎌倉郡梶原にて梶原氏を称したことに始まる。梶原景時の代に源頼朝に仕え権勢を誇ったがその死後に没落した。1180年に源頼朝が挙兵すると大庭景親と共にこれを石橋山の戦いで迎え撃ったが、景時は頼朝一行を見逃した。頼朝はこの時の行為を深く感じ入り景時を重用する事となる。頼朝に服属してからの梶原一族は平家追討に功を立て、1185年の壇ノ浦の戦いにて滅亡させることとなるが、平家滅亡後に源義経とともに朝廷から勝手に官位を受けた為に頼朝から怒りをかっている。その後、奥州合戦にも従軍し頼朝の君寵が厚かったが、その反面多くの御家人の反発を買った。そして頼朝が死ぬと事態は急変する。北条氏を始めとする御家人達はここぞとばかりにと景時に謀反の疑い有りと弾劾する。景時は息子らを引き連れて京に逃れんとしたがその途上で討たれた。時に1199年のことであった(梶原景時の変)。その後、景時の弟の朝景が梶原氏の家督を継いだが1213年の和田合戦に属して討ち死にした。しかし、梶原氏はこれで滅んだと言う訳ではなく、景時の次男の子孫は鎌倉幕府、後には足利氏に従い被官として歴史に名を残している。Wikipedia

(校舎の裏手にありますのでお断りして見せて頂きました。写真は深沢小校庭です)

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梶原周辺地図
(赤:鎌倉街道 緑:鎌倉街道別路 紫:県道)

by Twalking | 2017-06-21 22:31 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(5-1)藤沢~鎌倉01-村岡   

日時 2017.6.15(木)
天気 晴れ


梅雨晴になりそうなので出かけました。
一応鎌倉まで行く予定にはしてますが、
調べてみると村岡、寺分は重要なポイント。

坂東八平氏の祖・平良文ゆかりの史跡や
梶原氏関連などのは是非見ておきたいところです。
暑くなりそうなので、のんびりと散策してみます。


・・・柄沢(からさわ)/藤沢市

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街道の風景① 遊行寺坂を鉄砲宿やひと上り/遊行寺坂(旧東海道)

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一里塚跡
かつて、このあたりの道路の両側に一里塚がありました。一里塚は主要な街道の一里(約4km)ごとに江戸幕府が設けたもので旅程の目安として利用されていました。崖上の高さまであった江戸時代の東海道を掘削改修したのが現在の道路で、一里塚も崖上にありましたが今は何も残っていません。左図は往時の面影を伝える史料の一つです。画面上部の道が東海道、くの字に曲がるところに遊行寺が描かれています。その右手に「一りづか 榎三」と記され街道の両側に植木のような描写があります。今の遊行寺坂より遥かに急な坂道で、その坂の上に遠くからでも分かりやすいように盛土されて榎が植えられていた様子がうかがえます。急坂の上、榎の木かげで一休みする旅人の姿が浮かんでくるようです。図:天保12年(1841)年版『東海道分間絵図より』「藤沢」(藤沢市教育委員会)

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街道の風景② 鉄砲宿から戸塚境を下り滝ノ川沿いに柄沢へ。道は消えているようです/大鋸(だいぎり)

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左が東海道が通る尾根/坂下       滝ノ川の西側の道を行きます

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滝の川を渡りGS先を左に       道なりに行くと隆昌寺門前です

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隆昌寺山門/柄沢

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柄沢山宗休庵隆昌院(通称柄沢の鬼子母神)
創立:元禄16年(1703開山:閑攝院相休日心上人
播州赤穂の城主浅野内匠頭の家臣奥田孫大夫(武具奉行)の末子、君父菩提のため鎌倉に来たり、両山(鎌倉妙本寺、池上本門寺)24世日等の法弟となり日等より鬼子母神像を賜り、当地に当院を建立する。その後本堂大破し文久3年(1863)今日の本堂を再建す。当山安置奉る鬼子母神は日蓮上人が松葉草庵に中老日法上人に彫刻させ宗祖開眼の尊像と伝えられ、のちに比企大学に与え妙本寺に格護、両山6世日行に夢告あり。両山7世日寿(稚児貫主)を現出させた由緒ある尊像として子授け、安産、育成、虫封じ、命名、厄除け等ご利益甚大にして信者参拝多し。病弱の子供が丈夫になり長命を得た人々の孫えお連れこの参拝多数あり(縁起書)

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柄沢神社鳥居/柄沢

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柄沢神社
御祭神:天照皇大神 孝安天皇
由緒:創立の時不詳であるが、建久4年(1194)右大将源頼朝武州入間川に狩りせし路次当神社に奉斎せしより、鎌倉武士及び領主大久保佐渡守忠保等の崇敬極めて篤く村民亦氏神と仰ぎ祭事を尽くした。文化66月(1810)並に文久元年4月(1861)社殿を造営し、更に明治454月社殿を新築した。明治元年328日付太政官達により第六天社を柄沢神社と改称した、明治612月村社に列せられた。大正10331日神奈川県指令内教第906号を以って太神宮を合併した。昭和50814日鐘楼堂不慮の火災に遭い焼失、昭和52415日鐘楼堂再建並に社殿屋根葺替完成。

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新編相模風土記第104村里部鎌倉郡36(抜粋)「柄沢村 江戸より行程十二里十町村岡郷に属す 中略 建久44月右大将源頼朝武州入間野に狩せし路次当所を経て武州関戸宿に到りし事重須曽我物語に見えたり「鎌倉殿見浅間腰離山三原狩倉共建久四年丑四月下旬出鎌倉打超気幸坂過柄沢飯田著武蔵国関戸宿」今も猶武州多摩郡木曾町辺へ通ぜしといふ鎌倉古道村内に係れり。蓋し此道なるべし」検地は貞享元年(1684)国領半兵衛重次改む。今領主大久保佐渡守忠保なり。古御料所。享保9年(1724)当領主に賜ふ。神明宮、第六天社以上2社共に村の鎮守にて例祭は1116日。祭礼小祭415日。大祭916日(神奈川県神社庁)
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街道の風景③ 坂下は柄沢橋・遊行寺方面、左折して渡内へ向かいます/柄沢保育園(302号)

県道302号小袋谷藤沢線

鎌倉市小袋谷(こぶくろや・大船地区)と藤沢市西富とを結ぶ一般県道。古くは鎌倉山之内往還と呼ばれ、藤沢宿から遊行寺を経て小袋谷に至り鎌倉街道(現県道21号線)と合流する街道だった。鎌倉時代この街道は藤沢宿から鎌倉へ向かう交通の要衝として位置づけられ小袋谷付近に関所が置かれていた。Wikipedia


・・・渡内

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慈眼寺山門
/渡内

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慈眼寺
藤沢市にある曹洞宗の寺院。山号は無量山。韓嶺の開山、北条綱成の開基により天文年間(1532-1555)頃に創建した。木造11面観世音菩薩立像:像高178.5cm蓮華を左手に持つ通常相、鎌倉時代の作。旧・江島寺梵鐘:寛永6年(1629)金亀山江之島寺(江ノ島神社)の梵鐘として鋳物師の酒巻庄五郎定勝により鋳造され、明和8年(1771)江之島寺の鐘が再鋳されたので請来した梵鐘。総高100.5cm、口径54cm、身高80.3cm。Wikipedia

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秘仏十一面観音立像と梵鐘
この寺院は無量山慈眼寺と号し曹洞宗に属す。天文2年(1523)の頃、玉縄3代城主北條左衛門大夫綱成が開創し、中興開山は韓嶺和尚と伝えられる。山門前の階段脇に文政4年(1821)に建立された鎌倉札所第33番の石柱がある。歌舞伎「小栗判官」で知られる常陸真壁郡小栗城主満重と照手姫を蘇生させたという観音縁起の版木(寛政6年・1794)が存在する。

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十一面観音立像は等身大(178.5cm)の本格的な造像で寄木造、玉眼を嵌(かん)し、頭体とも四材矧(は)ぎを基本に造られている。太つくりな肉取りをみせる量感がある体部やよく引き締まった面相など鎌倉地方の中世像らしい作域を示すが、やや硬く形式化された衣文表現などに多少時代の下降を思わせ、造立時期は14世紀後半と思われる。平成3年藤沢市により解体修復が行われ往古の優れた尊容に復元されたが、この折像内より紙片が発見され、これにより天正11年(1583)に玉縄6代城主北條氏勝の弟・直重が祖母の菩提のため鎌倉仏士快円に修復を依頼したことや、この寺院が慈眼山観福禅寺と号し北鎌倉の円覚寺の塔頭天地庵に関係があっつたことなど貴重な事実が新たに確認された。本堂正面右手に吊るされれいる梵鐘は陰刻銘によれば当初、上州藤岡の住人が「現世安穏、往生善処」を祈願して梵鐘を鋳造し江島寺に寄進し、明和8年(1771)に藤沢宿大鋸の住人が江島寺より梵鐘を買受け慈眼寺に寄進したことを知ることができる。銅造で総高100.5cm、口径54cmとやや小振りではあるが寛永6年(1629)の鋳造で、旧江島寺梵鐘であることなど往時を知ることが出来る(藤沢市教育委員会)

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混生樹(寄り木)
右が指定文化財でモチノキ(モチノキ科)4株、タブノキ(クスノキ科)3株、スダジイ(ブナ科・シイノキのうち樹皮が縦に割れるもの)1株の3種類8株が根本でくっついて一部融合した寄り木です。樹齢は300年以上と推定され高さは約10m、全体の根回りは7.5mにもなっている大変珍しい樹木です。左も同様にケヤキとサクラの混生樹で輪状に植えられた苗木が成長していく過程でこのような形になったものと思われます。共にもとは本堂裏手の丘の上にありました。(藤沢市教育委員会)

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平氏満の墓
板戸町(現在の藤沢本町)の旅籠小松屋の隠居。歌名を旦上平氏満という。詩歌を粉のみ「我棲里」の著者でもある小川泰堂とも親交があり、嘉永元年(1848)の「藤沢山白鑑」(遊行寺の日記)には「千種集」と題した千句の和歌を遊行上人に献上したことが記されている。「千種集」は天地一巻よりなり遊行上人の返し歌も記されており現在も遊行寺汁宝として宝物館に所蔵されている。没後は海の見える場所に埋葬してほしいとのことから慈眼寺の高台の一隅に墓を設けたものであったが、昭和62年からの区画整理によりこの場所に移動したものである。(藤沢市教育委員会)

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302号と別れ右折/渡内         住宅地を抜けた左に日枝神社があります

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日枝神社鳥居/渡内

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日枝神社の由来
渡内の日枝神社は渡内の鎮守となっておりますが、発祥は裏山の台地宮山平良文が京都より延長年間(923940)宅の守護神として日吉山王大権現(大山咋命)を勧請したと伝えられています。その後応永27年(1420)に福原家のご先祖・福原左衛門平忠次が現在地に移し、そのおり平良文の霊を合祀しました。尚、慶長126月(1607)福原孫十郎重種が再建する旨の棟札があります。社前の石段上り口に神鏡石燈籠があり「村岡山王大権現御宝前石燈2基、平良文の遠縁村岡良綱、天保6年正月吉日(1835)建立」とあります。現在の本社覆殿は天保911月(1838)福原家のご先祖・福原高峯が発願主となり村の有志達によって再建されたものであります。その後、地域の開発が行われ渡内東土地区画整理事業(平成1721年)によって周辺の環境の変化に伴い土地の造成工事が行われ、合わせて神殿の増改築を行い現在に至っております。(渡内日枝神社)

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祠群
右側の祠は渡内4丁目1番(県道小袋谷・藤沢線沿いの渡内バス停北側)辺りにあったもので、平成10年(1998)区画整理事業に伴い移設したものです。中央の祠は峯渡内村の名主家にあったもので、その位置は現在地より東に70m程行った所です。平成20年(2008)区画整理事業に伴い移設したものです。左の祠は坪井三社大権現で、現在地より北東に140m程行った藤沢市本在寺公園の山頂に祀ってあったものです。坪井三社大権現とは源頼義義家父子の二人に加えて徳川家康の分霊を祀った祠のことをいいます。(説明板)

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街道の風景④ 日枝神社を東へ行った小山が二伝寺砦(二伝寺)です

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二傳寺山門

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戒法山宝国院二傳寺
当寺は戦国時代の永正2年(1505玉縄城主北条氏時の発願によって開山された寺です。開山にあたっては福原左衛門忠重の援助がありました。当時は玉縄城から尾根つづきの域で一番高い場所にあり、加えて旧鎌倉街道に沿っていたので玉縄城の砦の役割を担うために寺を創建し利用したと考えられます。開山当時寺号違うものでしたが、大本山光明寺に伝わる本山伝の伝書が紛失した時に当寺に本山伝の写し(二つ目の伝書)があったので二伝寺と呼ばれるようになったと伝えられています。

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平良文(村岡五郎良文)
桓武天皇の4代あと平高望の5男、東下りして村岡城に居を構え村岡五郎と称しました。後に鎮守将軍に任ぜられ坂東平氏の始祖と言われています。境内山頂に初代平良文、二代忠光、三代忠通の塚があります。


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松平正次一族の墓
玉縄城開城の後、徳川家康から屋敷を賜り渡内に住み玉縄城を守護したのが松平正次です。その後、玉縄城は廃城になりますが松平正次の子供たちが玉縄藩としてこの地を治めました。向って右から松平正次、正次の内室、正吉、久治、正吉の子の順に宝篋印塔が並んでいます(案内板)

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本堂の裏山に三代の塚があります 

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正面に村岡五郎平良文の塚       その左に二代忠光の塚 

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手前側右手に三代忠通の塚       上り口の村岡五郎平良文公墓前碑

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村岡五郎平良文公墓前碑
良文公は桓武天皇の玄孫(5代目の子孫・げんそん・やしゃご)にして仁和2年(886318日生まれ。延長元年(923)正月母と共に東国に下り相模の国村岡郷渡内村に館を構え(今の村岡城址公園周辺)、比叡山麓の日吉大社の祭神大山昨命を城砦の守護神勧請し(現在の日枝神社)、天慶2年(939)鎮守府将軍従四位下陸奥守に任ぜられ翌年の天慶3年、平将門征討と国家安穏を祈願し京の山城国の御霊宮の祭神・早良親王(追謚号祟道天皇)を同郷宮前村に勧請した(現在の御霊神社)と旧くより伝えられ関東一円に強力なる勢力を張った坂東八平氏(三浦・千葉・上総・大庭・畠山・長尾・梶原・土肥)の始祖とし、多くの荘園有し武威を関東に振るたり。その子孫は繁栄せり。公の晩年は役の嚇々たる勲功、頼朝の鎌倉幕府創設に尽力する等、大いに繁栄せり。公の晩年は仔細は不詳なるも天慶6年(952年)121867歳を以て病没し此の地に葬る。右に2代忠光公、左に3代忠通公、之を村岡城御3代城主の墳墓なりと旧くより里人の口碑に伝えられている。平成17年乙酉年11月吉日 村岡郷土史研究会 建立(碑文)北側の風景 

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坂東八平氏
平安時代中期に坂東(関東地方)に下向して武家となった桓武平氏流平良文を祖とする諸氏。昌泰元年(898年)に平高望が遙任国司(ようにん・任地に赴任しない)が常態であった上総介に任じられると、子の国香・良兼・良将を伴って任地に下向し、上総は元より国香は常陸大掾(大掾氏)、良将は鎮守府将軍を勤めるなどして常陸国や下総国にも勢力を拡大し坂東武士団形成、後に平将門や清盛まで輩出する武家平氏の基盤を固めた。続いて高望の側室の子良文も下り、その子孫が坂東各地に散らばって勢力を扶植、三浦氏・土肥氏・秩父氏・千葉氏などの武家となった。この良文流坂東平氏を指して坂東八平氏と呼んでいる。良文を祖とする坂東八平氏は、忠頼の子・将恒(生母は平将門の娘)をとする秩父氏とそれからの派生による秩父平氏(畠山氏・川越氏・葛西氏・江戸氏・小山田氏など)、忠常とする上総氏や千葉氏の流れは房総平氏(相馬氏など)、相模全域に繁茂した鎌倉氏を中心とする相模平氏(中村氏、土肥氏、三浦氏、鎌倉氏、長尾氏、大庭氏、梶原氏)から成る。他に直方流の熊谷氏を中心とした武蔵平氏や、北条氏を中心とした伊豆平氏(長崎氏)もある。時代や年代により優勢を誇った氏族が移り変わるため、数え方はその時々の各氏族の勢力により様々であるが、一般的には千葉・上総・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾の八氏が多く挙げられる。Wikipedia
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本在寺北公園になるんでしょうか/裏山の墓地


・・・村岡

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村岡
村岡は起伏が激しく坂の多い土地だったので「重なり合う岡のむれ」からその地名がついたと伝えられる。約1000年前の940年(天慶3)村岡城主・村岡五郎良文(平良文)は平氏の守護神である御霊神社を京都から勧請したが、ここにこの地の歴史がはじまる。鎮守府将軍相模守村岡五郎平良文居城の地であった村岡は村岡郷と呼ばれ当時関東・東北の政治の中心地であった。その後、鎌倉幕府の成立、玉縄開城で武家屋敷が増え、江戸時代には藤沢宿の定助郷を務めるようになる。村岡郷五ヶ村とは宮前(みやまえ)小塚(こつか)弥勒寺(みろくじ)、高谷(たかや)渡内(わたうち)を指す。宮前の地名は御霊神社によるもの、小塚の地名は古墳があったためといわれ、弥勒寺は寺の名前によるものといわれている。明治21年の町村制施行により川名と柄沢(からさわ)を加えて村岡村となり昭和16年藤沢市に合併した。一部に水田を主とする農耕地と深い谷戸をもち山苺、山百合、野草が見られる山林地帯であったが、時の変遷とともに市街化への要望が高まり、昭和413月およそ10年の歳月をかけて区画整理事業がおこなわれた。(村岡のおはなし/藤沢まちづくり協会)

ルート地図(藤沢~寺分)
旧鎌倉街道散策の旅(1)上道・山ノ道編/芳賀善次郎著(さきたま出版会)を参照(赤:鎌倉街道 緑:東海道 橙:江の島道 青:境川 紺:柏尾川を着色)

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村岡城址/村岡城址公園

村岡城は坂東八平氏の祖平良文が村岡に居住した10世紀後に築いたといわれている。城と言っても空堀をめぐらせた山城のようなものだったという。元弘の変の時に新田義貞がこの城に布陣して鎌倉へ突入して行った所でもある。(藤沢市観光協会)

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額 元帥伯爵東郷平八郎書
村岡城の地位は古来武相交通の要衡に在り、往昔従五位下村岡五郎平良文公及び其の後裔5の居城なり、蓋し其の築城は今を距ること約一千年前に属す。良文公は関東八平氏の始祖にして天慶2年鎮守府将軍陸奥守に任せられ、多くの荘園を有し威を関東に振ひたり。天慶の乱起るに及び藤原秀衡、平貞盛と共に将門を征討し、大に軍功を立てたり。其の後裔に秩父平氏の一族渋谷庄司重国あり、其の孫実重は薩州東郷氏なり。昭和6年村岡城址を史蹟として縣廳より指定せらるる。同7年村岡の有志相謀り鎌倉同人会の賛助を得、城址に碑を建て以て後昆に傳ふ 村岡城址の碑と云爾。昭和7103日海軍中将東郷吉太郎撰書(碑文)

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平良文(よしふみ)
平安時代中期の武将。桓武天皇4世。平高望5とされ、生母は高望の側室である藤原範世(または藤原師世)の娘とされる。官位は従五位上、陸奥守、鎮守府将軍。仁和2年(886)京で生まれたとされ(『千葉大系図』)優しい風貌の勇将であったと伝わる。昌泰元年(898)に父の平高望が東国に下向した際には正室の子である平国香、平良兼、平良持は従ったが、側室の子である良文は従わなかった。延長元年(92336歳の良文は醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅命を受けて東国に下向し盗賊を滅ぼしたと伝わる。その後武蔵国熊谷郷村岡(現・熊谷市村岡)、相模国鎌倉郡村岡(現・藤沢市村岡地区)に移り、そこを本拠に村岡五郎を称したとされるが、謎の多い人物である。加えて下総国結城郡村岡(現下妻)にも所領を有し、現在の千葉県東庄町、同小見川町にも居館があったとされる。天慶2年(939417日、陸奥守であった良文は鎮守府将軍に任じられて乱を鎮圧し鎮守府である胆沢城にとどまった。実際に同日、出羽国で俘囚(ふしゅう)と秋田城司の軍勢が衝突しており朝廷は陸奥守にも兵を出すように命じている。天慶3年(9405月良文は関東に帰国した。

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晩年は下総国上郡さらに阿玉郡へ移り天暦6年(9521218日に67歳で没したと云われる。千葉県小見川町の阿玉には「伝平良文館」があり、城郭の遺構として空堀、土塁、物見台などが確認された。藤沢市村岡東村岡城跡と伝わる場所があり、良文の後裔の一族のひとつである薩摩東郷氏出身の海軍元帥・東郷平八郎が額を書いた(撰書は海軍中将・東郷吉太郎)城址碑が建つ。子孫良文には5人の子がおり(『二中歴』)長男の平忠輔は早世したが、春姫(平将門の娘)を正室とした三男平忠頼からは千葉氏上総氏秩父氏河越氏江戸氏渋谷氏などが、五男・平忠光からは三浦氏梶原氏長江氏鎌倉氏などが出て、さらにこれらの氏族から多くの氏族が分かれて「良文流平氏」を形成した。後に源頼朝による源平合戦(治承・寿永の乱)に従軍して鎌倉幕府の創立に協力し鎌倉幕府で有力な御家人になった者の多くがこの良文流平氏に属する(Wikipedia)

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長福寺 公園の南側にある曹洞宗のお寺さんです/村岡


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街道の風景⑤ 村岡城址から下りここを左折、武田薬品の正門へ/村岡東2

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正門向かいのガードを潜ります     左折して道なりに長屋橋へ


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天嶽院/渡内
天嶽院の歴史は真言宗の古寺「不動院」から始まる。源頼朝公が治承4年(1180)伊豆に兵を挙げ鎌倉を目指す途中立ち寄り、不動明王様に大願成就の祈願をされたとの伝説がある。明応4年(1495北条早雲公によって伽藍の一寺が創建され「不動院」を改め曹洞宗の禅寺とし、虚堂玄白禅師を迎えて開山とした。天正4年(15764世住職の代に伽藍は焼失するが、玉縄城主北条綱成・氏繁公父子によって伽藍が復興された。

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更に紀伊大納言徳川光貞卿の信仰篤く
6世住職の代に七堂伽藍が完成された。この姿が「相中留恩記略」巻之18に記載されている。なお天正19年(159111月家康公から30石の朱印地を賜った事実がある。安政2年(185522622世住職の代に再び火災にあい大伽藍はことごとく焼失した。焼失を免れ現存する総門(山門)は江戸中期に水戸光圀公が建立したと伝えられる。昭和51年(1976)春伽藍復興に着手、20年余を経て平成10年(1998)七堂伽藍を室町時代の様式に統一して復興した。(天嶽院HP)

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山門
水戸光圀公建立の天嶽院山門、江戸中期の建物で唯一火災を免れた。山門前には仁王様が破邪の睨みをきかせている。

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天嶽院境内

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『むらおか古今東西』マップ
(橙:鎌倉道 赤:東海道 緑:江の島道 青:境川・柏尾川)


・・・・・
資料ファイル

東海道藤沢宿
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境川下流側の景観です、左岸に滝ノ川が合流します/藤沢橋

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遊行寺橋(旧大鋸橋)高札場跡
江戸から東海道を進むと東海道第6の宿・藤沢宿内の遊行寺橋(旧大鋸橋)で境川(片瀬川)を超えて鎌倉郡から高座郡に入ります。橋を渡って右手が大久保町。橋のたもとに高札場があり、公定運賃の定めやキリシタン禁制など徳川幕府の重要法令が掲示されていました。左手(南側)には「江の島一ノ鳥居」が建てられていました。江の島弁財天の遥拝の鳥居で、東海道と別れて鳥居をくぐれば「江の島道」です。

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藤沢広小路
広小路とはもともと「火除地」を意味します。江戸のではたびたびの火災で多くの人家が焼失したので、幕府は1657年の明暦の大火前から火除地を計画していましたが、護持院の焼失(1717)を契機に八代将軍徳川吉宗はこの地を火除地とし、さらに江戸市中にとどまれず各地の重要社寺地の門前にも設定しました。藤沢広小路は大鋸広小路とも言われ、時宗本山清浄光寺(遊行寺)門前の商家が櫛比(しっぴ)していた場所に設けられました。この場所は人々の往来も繁く各地に知れ渡って日本三大広小路の一つとも言われていました。また東海道五十三次の「三曲がり」としても有名です。(説明板)

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藤沢宿
藤沢宿は慶長6年(1601)東海道の宿場となり、後に戸塚宿、川崎宿が追加され五十三次の第6番目の宿場となりました。天保14年(1843)の記録では宿場の人数4089人、家数919軒でした。大山道や江の島道が分かれる観光地としての賑わいに加え、周辺農村からの物資の集積地として繁栄しました。宿場の機能がなくなったあとも、明治から昭和初期にかけては交通の要所としての地の利を活かした問屋業で栄え、その面影を残す土蔵や町屋がわずかに残っています。

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①藤沢御殿
藤沢御殿は藤沢宿が整備される前の慶長元年(1596)東海道を利用する際の休憩、宿泊施設として徳川家康が築いたと推定されます。記録によれば将軍の御殿利用は寛永11年(1634)の3代将軍家光の利用が最後のようです。

本陣・脇本陣
江戸幕府は街道を往来する幕府の役人や大名、公家などの専用宿舎として各宿場に本陣を指定しました。藤沢宿では堀内本陣と蒔田本陣がありましたが、堀内本陣は延享2年(1745)に火災のため役を返上し、その後は蒔田本陣1棟になりました。脇本陣は本陣の補助的な施設で、享和3年(1803)時点で大久保町と坂戸町に1棟づつありましたが、のちに坂戸の脇本陣は廃業し大久保町の脇本陣も別の家が勤めるなど特定の家に限定されていなかったようです。

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問屋場
宿場の役割として休泊と並んで重要なのが人馬継ぎ立て、すなわち運輸の機能でした。問屋場は陣馬継ぎ立てを行うための役所です。藤沢宿では大久保町と板戸町に各々1ヶ所ありました。

見附
見附は土居ともいい、宿場の玄関口となる施設で道の張側に石垣が築かれていました。通常江戸方と京方の両方に在り見附から見附までが宿場の範囲で、藤沢宿の長さは約2190mでした。

旅籠
一般の武士や庶民は旅籠屋に泊まりました。藤沢宿の旅籠は享和3年(1803)には49軒、天保14年(1843)には45軒あったという記録があります。(説明板)

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遊行寺総門(黒門)
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時宗総本山遊行寺
清浄光寺(しょうじょうこうじ)が公式の寺名ですが、遊行上人の寺ということから。宗祖一遍上人1239年~1289年)で、南無阿弥陀仏のお札をくばって各地を回り、修行された(遊行といいます)念仏の宗門です。この遊行寺は正中2年(1325年)遊行4代呑海上人によって藤沢の地に開かれ時宗の総本山となっています。宝物として国宝「一遍聖絵」、国重要文化財「時衆過去帳」など多数があります。境内には日本三黒門の一つである総門、銀杏の巨木、中雀門、市指定文化財の梵鐘、国指定の藤沢敵御方供養塔、小栗判官と照手姫の墓、板割浅太郎の墓、有名歌人の句碑などもあります。また、桜・ふじ・花しょうぶの名所で、観光百選の一つにもなっています。(案内板)

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呑海(どんかい)
鎌倉時代後期の時宗の僧。遊行上人4。有阿弥陀仏のち他阿弥陀仏。呑海は別号。相模国の俣野氏の出身。遊行上人2世神教に師事。真教から浄阿真観とともに賦算を許され、1301(正安3年)京都に七条道場金光寺(現・長楽寺)を建立し、1319年(元応元年)遊行上人を継いだ。しかし1320(元応2年)遊行3代他阿智得が当麻道場無量光寺)で没したとき呑海は遊行に出ており、智得の弟子の真光が執権北条高時の命で住持となった。そのため呑海は当麻道場に入ることができず、正中2年(1325)兄の俣野景平の援助により相模国藤沢藤沢道場清浄光寺を建立して、そこに住した。遊行上人が遊行を終え清浄光寺に独住する藤沢上人の初代である。その後呑海の門流は時宗十二派中最大の遊行派と称された。遺書を『四代上人法語』という。
Wikipedia

俣野氏の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24337254/

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国指定史跡・藤沢敵御方供養塔
この石塔は上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため応永25五年(1418年)に造立されたものです。基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ塔身に銘文が刻まれています。銘文は磨滅していて読みとりにくいのですが次のように解読・解釈されています。南無阿弥陀佛/自應永廿三年十月六日兵乱至同廿四年/於在々所々敵御方為箭刀水火落命/人畜亡魂皆悉往生浄土故也/過此塔婆之前僧俗可有十念者也/應永廿五年十月六日(応永23年(1416106日からの戦乱は同24年に至り、あちらこちらで敵方も御方も箭(矢)・刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過ぎる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい)この戦乱は足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏とその補佐役との争いだったため鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年1月に禅秀らの敗北自害で落着しました。銘文末の日付は塔の造立日で乱が起きてからちょうど3回忌にあたります。時の遊行寺住職は遊行14代(藤沢八世)太空上人。文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は持氏が発願主となって太空上人を導師として造立したものと考えられています。敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては慶長4年(1599年)高野山奥の院(和歌山県)に、豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。時宗では怨(敵)・親(味方)両者を区別せず平等に弔った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んでいます。(藤沢市教育委員会)

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長生院

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長生院
藤沢市西富にある時宗の寺院。別名小栗堂。時宗総本山である清浄光寺(通称:遊行寺)本堂裏手にある。永享元年(1429)清浄光寺の塔頭として建てられた。本尊は阿弥陀如来。かつては「長照院」とも表記された。小栗堂の別名の通り、小栗判官伝説に登場する照手姫が晩年尼となって住んだという伝説が残る。江戸時代には『小栗略縁起』を発行した。また周囲には小栗判官と十勇家臣の墓、照手姫の墓、名馬鬼鹿毛の墓もあり、小栗判官伝説伝承の中心地となっている。(Wikipedia

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小栗判官(おぐりはんがん)
伝説上の人物であり、またこれを主人公として日本の中世以降に伝承されてきた物語。妻・照手姫の一門に殺された小栗が閻魔大王の計らいで蘇り、姫と再会し一門に復讐するという話で、説経節の代表作であり浄瑠璃や歌舞伎などになった。常陸国小栗御厨(現在の茨城筑西市)にあった小栗城の城主である常陸小栗氏の小栗満重やその子・小栗助重がモデルとされる。人物としての小栗判官は藤原正清、名は助重、常陸の小栗城主。京の貴族藤原兼家と常陸国の源氏の母の間に生まれ、83歳で死んだとされるが、1516世紀頃の人物として扱われることもある。乗馬と和歌を得意とした。子宝に恵まれない兼家夫妻が鞍馬の毘沙門天に祈願し生まれたことから毘沙門天の申し子とされる。(Wikipedia)写真:小栗判官と十勇士の墓

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照手姫の墓              名馬鬼鹿丸の墓

by Twalking | 2017-06-19 20:57 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(4)瀬谷~藤沢02-俣野   

日時 2017.5.30(火)
天気 晴れ

飯田郷は飯田家義、俣野郷は俣野氏の本拠地と
それぞれゆかりの寺社や碑などが続きますので
楽しみにして歩きました。

鎌倉初期ですから資料的には少ないようですが、、
それでも案内で伝承等に触れ、寺社の社叢を見て
少しは往時の雰囲気に触れたような感じがします。

鎌倉に近づくとこうした相模の武士団に関連した
ゆかりの地や伝承などがさまさまと出てきます。
整理はおぼつきませんが、この先も楽しみです。



・・・下飯田町(泉区)

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街道の風景① 相鉄とブルーラインを越えていきます/左馬神社先(下飯田町)

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公園内に建つ「富士塚城址」の碑、飯田郷一帯は飯田家義が領していました/富士塚公園

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富士塚城址の石碑
富士塚団地内に「富士塚城址」の石碑が公園内にあります。この地は源頼朝の危機を救った飯田五郎家義があったところと言われています。造成前には空堀の跡と思われる窪地やそれらしき地名も残っていました。また明治32年(1899)には五輪塔や納骨瓶が出土しました。当地の人々は、飯田氏の墳墓であろうと考え「古賢大菩薩(こけんだいぼさつ)」の碑を建て供養しました。(泉区)

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飯田家義
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。桓武平氏秩父氏流渋谷重国の子。兄弟に光重、高重、時国、重助、重近、佐々木秀義室。相模国高座郡長後(藤沢市)で誕生した。大庭御厨の管理を行っていた大庭景親との所領争いの末、鎌倉郡飯田郷(横浜市泉区)を治める。その後景親と和睦しその娘を娶った。1180年(治承4年)源頼朝が起こした石橋山の戦いでは源氏方に加勢する計画であったが境川の前を平家方の総大将・景親に、後方を弟の俣野景久に挟まれ、その場は平家方として参戦した。しかし戦いの末少数となった頼朝勢を土肥の椙山(すぎやま)へと逃避させた。なお椙山で頼朝は大庭軍の梶原景時に居所を知られるが未発見を装うことで景時も頼朝の窮状を救った。しかし後の富士川の戦いにて家義は源氏方に参戦して武勲を挙げ、また石橋山での救援の件により頼朝から厚く信任され、論功行賞において平氏側だった者では家義だけが飯田郷を安堵され地頭に任ぜられた。1200年(正治2年)北条義時の命を受けかつて石橋山の戦いで頼朝を救った仲である梶原景時を倒し、駿河国大岡(沼津市)の地頭職を得た(梶原景時の変)。晩年を過ごした飯田郷には現在富士塚城址公園があり空堀の跡も僅かだが残されている。Wikipedia

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琴平神社参道/下飯田町

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琴平神社
琴平神社はこの地に東泉寺が移転建立された天正18年(1590)頃に、鎮守として水難守護治水の神である金比羅神を祀って建立されたと伝えられています。毎月10日の縁日の夕刻には今でも「お堂番」といわれる当番の人が参詣の人を待ち「おごっく」と呼ばれる供物を配っています。また10月には大祭が行われます。(泉区)

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東泉寺/下飯田町

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東泉寺山門

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巨木山東泉寺
当寺は徳川家の旗本・筧為春(かけひためはる)によって開かれました。宗派は曹洞宗、鎌倉市植木龍宝寺末寺。本尊は釈迦無牟尼仏。開山は遼国壽鶴(りょうこくじゅかく)大和尚。創建の年月日は不明ですが、為春が下飯田を知行地としてからまもなく建立されたものと考えると、知行地を与えられた天正18年から起算しますと平成29年で426年を数えます。また、現在地に東泉寺が開かれたのと同時期に下飯田町本郷地区の通称薬師藪にあった薬師堂も同境内に筧為春によって移転されております。

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この薬師堂鎌倉期に寺域周辺の飯田郷を治めていた飯田五郎家義が信仰したとされるもので、飯田家義ゆかりの寺とも言われています。飯田家義は石橋山の合戦以来源頼朝に仕えた勇将として知られております。また、堂内には弘法大師の石像が安置されており、新(準)四国88大師の59番札所となっています。山門は天明3年(1783)に11世春長義天(しゅんちょうぎてん)大和尚の晋山の際に再建されています。平成5年の屋根替修復工事の時に天明の飢饉、浅間山の噴火、風水害の様子などが梁や肘木に多数書付けられているのが発見されました。

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また、当時の俳人(松尾芭蕉門下)美濃口春鴻の自筆と思われる句「人も斯く老いて秋立つ眉毛かな」等数点が書かれています。生家の美濃口家は上飯田本興寺の檀徒ですが、下飯田の名主をつとめ江戸期の寺請制度中にあっては当寺の壇中として尽力いただいておりました。寺号額(本堂向拝前)は明治31年鎌倉円覚寺の釈宗演禅師の書によるものです。本堂は大正12年の関東大震災によって倒壊し、昭和9年に再建され現在に至っています。主な柱には裏山の松が使われています。昭和60年に銅版へと屋根替をし、平成10年に庫裏の新築と同時に位牌堂を増築しました。(曹洞禅ナビ)

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街道の風景② 下飯田交差点から下ると境川遊水地公園になります/下飯田交差点先

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境川の風景① かつての境川の氾濫原に造られた公園です。街道は左山裾と丘上のルートがあったようです/遊水地公園

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県立境川遊水地公園/下飯田
泉区下飯田町、戸塚区俣野町、藤沢市今田にまたがって位置する神奈川県立の都市公園(総合公園)。境川の治水のために1990年度から神奈川県藤沢土木事務所が総合治水対策「かながわSafetyリバー50」に基づいて着手した俣野遊水地・下飯田遊水地・今田遊水地を県立公園として整備している。現在は18.9haが開放されているが約30haの面積になる予定である。当公園で境川に和泉川が合流する。Wikipedia

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鷺舞橋
平成2012月に開通した鷺舞橋により境川対岸の藤沢大和自転車道(サイクリングロード)や藤沢市側に整備中の今田遊水地とのアクセス性が向上します。鷺舞橋は3つの遊水地の中心に位置し、公園のランドマークともなる橋でとしてデザイン性にも配慮した結果、主塔を有する吊橋形式を採用いたしました。形状が周辺に飛来する鷺が羽を広げた姿を連想させることから「鷺舞橋(さぎまいばし)」と名付けられました。構造:2径間連続PC吊橋 橋長:129m 幅員:5.450(神奈川県)


・・・和泉町


かつての鎌倉郡和泉村で明治22年に鎌倉郡中田村・上飯田村・下飯田村、高座郡今田村飛地・上和田村飛地の合併により中和田村大字和泉となった。昭和14年に横浜市に編入、戸塚区和泉町、1986年分区により泉区に編入され現在に至る。町内に「酒池」と呼ばれる池があり池の水を父親に勧めると酒に変わっていたという伝説から「和泉」の地名が付いたとの説がある。北は瀬谷区、南は戸塚区に接し、東側の県道阿久和鎌倉線(かまくらみち)と西側の環境4号線に挟まれた南北に長い町域を持つ。面積は泉区全体の1/3以上を占め横浜市内でも最も広い町である。Wikipedia
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街道の風景③ 台地上と山裾の道があったようなので、ひとまず上ってみます/鍋谷橋(和泉川)

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坂の途中の庚申塔群           天王森泉公園の園路を下ってみました

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麓に弁財天が祀られています      天王森泉館

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天王森泉館/和泉町
天王森泉公園にある天王森泉館は明治441911)に清水製糸場の本館として建設されました。その後、昭和6年頃に左側半分が約500m北から現在の敷地に移築され、個人の住宅として利用されていましたが、平成9年に公園整備に際して製糸工場本館当時の姿を再現し、天王森泉館と名づけられ公園の拠点施設として利用されています。 (泉区)

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街道の風景④ 振り返ってみる山裾の道、なかなかの景色です


・・・俣野町/戸塚区

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むかしは鎌倉郡上俣野村といいました。明治22年に東俣野村、山谷新田村、城廻村の飛地をあわせて俣野村大字上俣野となり、大正4年に富士見村、俣野村、長尾村をあわせて大正村大字上俣野、その後昭和14年鎌倉郡から横浜市になるときむかしの村の名前をとって俣野町ができました。(戸塚区)


ルート地図(俣野~柄沢)
旧鎌倉街道散策の旅(1)上道・山ノ道編/芳賀善次郎著(さきたま出版会)を参照
(赤:上道 橙:別ルート 緑:旧東海道 青:境川 紺:宇田川 黄丸:庚申塔)

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街道の風景⑤ 天王森から途中丘からの道を合わせ俣野へ/観音堂辻手前

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三辻の庚申塔                その先にお地蔵さん

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三叉路の角に観音堂があります、境内には入れませんでした/俣野観音堂前

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俣野五郎影久と観音堂
治承4823(1180)伊豆に流配中の源頼朝が平家政権打倒のため石橋山に挙兵すると、平家側の総大将として是を襲ったのは藤沢の大庭影親であったが、弟俣野五郎影久は家臣長尾兄弟(上杉謙信の祖)と源氏の先陣佐奈田与一を討ち取り、頼朝軍は敗走辛うじて房総に逃れた。頼朝が源氏累代の家臣・千葉一族の協力を得て勢力を回復し、10月鎌倉に入府すると大庭影親を片瀬川畔で梟首し、五郎影久を遠く京都に敗走させて石橋山の報復を遂げた。寿永25月、俣野影久は平宗盛の将として頼朝の従弟木曽義仲の軍と加賀の篠原で対戦したが平家の敗色濃厚で、武将の間からいっそ源氏に鞍替えしてはとの話が出ると影久は強く反対し「武士としていさぎよく討死」の覚悟を示し、守護仏の観音像を家臣に托して母の待つ故郷相模国俣野村に送って、自らは壮烈な最期をとげた。いま篠原には影久の戦友で共に討死した斎藤実盛の墓はあるが、影久等の墓はない。推うに実盛はまだ3歳だった義仲が殺されるのを助けた生命の大恩人であるが、是に反し影久は徹底した反源氏の将なるが故にその墓が憚られたものに相違ない。影久に由緒ある観音堂は、茲、鎌倉街道西の道に接してはいるが治承の昔からこの地に建立されていたかは定かではない。(大正地区歴史散歩の会平成410月吉日 建之)

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俣野神社鳥居/俣野町

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見事な社叢です。この俣野神社境内に沿う道が古道のようです


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俣野神社
御祭神:須佐之男命、欽明天皇。
古くより欽明天皇御宇の創立と伝えられ、「欽明天王社」と称したが、明治初年「上俣野神社」と改称した。安政3年社殿を再建、明治6年村社に列格。同32年氏子中にて改築。平成16年銅板葺に葺替る。(神奈川県神社庁)

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俣野氏
桓武平氏良文流の系統で鎌倉党の嫡流景宗の子・景久が相模国鎌倉郡俣野にて俣野五郎を称したことに始まる。俣野は現在の横浜薬科大学一帯で、境川を挟んで藤沢市西俣野から戸塚区俣野町、東俣野町にまでおよぶ。大庭御厨の一部であった。境川は古くは「俣野川」とよばれていた。景久(初代)平安時代末期の治承・寿永の乱において平氏方につき石橋山の戦いなど各地で転戦したものの、最後は信濃国飯山で敗死したためその後の俣野氏の動向は明らかでない。俣野にあった大日堂(現・御嶽大神)は鎌倉景昌ゆかりのものであったが『吾妻鏡』によると景久死後は荒廃していたというから鎌倉時代には既に没落していたものと思われる。(Wikipedia)

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道なりに下り十字路を直進       十字路左角に庚申塔

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宇田川を渡り、川沿いに右折します/宇田川橋(俣野小先・写真は上流側です)

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宇田川(下流側)
横浜市を流れる二級河川(境川水系)。泉区中田町を源流とし、戸塚無線通信所を避けるようにほぼ南西に流れる。戸塚区俣野町にて境川に注ぐ。かつては村岡川と呼ばれていたが(皇国地誌などには村岡川と書かれている)治水に尽力した宇田氏の功により、大正時代に改称したとされる。延長は約3.52km。流域には民話の残る「まさかりが淵市民の森」が所在する。(Wikipedia
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境川の風景② 宇田川合流点から天王森を振り返ります。タワーは旧ドリームランドです


・・・東俣野町


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むかしは鎌倉郡東俣野村といいました。明治22年に上俣野村、山谷新田および城廻村の飛地をあわせて俣野村大字東俣野に、大正4年に富士見村、俣野村、長尾村をあわせて大正村大字東俣野、その後昭和14年鎌倉郡から横浜市になるときむかしの村の名前をとって東俣野町ができました。(戸塚区)
地図は東俣野農業専用地区の案内板です
時代は違いますが、台地の尾根上を東西に旧東海道が通り、その裾を鎌倉道が影取へ向かって上る感じになります。

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花卉組合温室二差路を左へ上ります   この先が龍長院です

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龍長院参道入口に鎌倉道の案内板と庚申塔があります/東俣野町

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「旧鎌倉街道」の道筋
龍長院を南へ行くと東俣野町の鎮守八坂神社があり、その鳥居を左に折れ堂坂を上り「旧東海道」を横切って影取町に入り大船方面へ通じている。(戸塚観光協会)


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曹洞宗のお寺です          延命地蔵堂

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八坂神社/東俣野町

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八坂神社
祭神は素護鳴尊。享保18年(1733)の創建、「八坂大神」とも呼ばれているそうです


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街道の風景⑤ 坂上に鳥居、これは八坂神社の鳥居です/東俣野町

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鎌倉街道西の道
鎌倉街道西の道とも上の道とも言われるこの道は鎌倉と地方を結ぶ重要街道の一つで、新田軍が鎌倉攻略に進撃したのはこの道と伝えられ歴史ある古道である。元弘3年(133358日、新田義貞は上州新田庄の生品神社の境内で鎌倉幕府討伐のため挙兵した。はじめは其の数わずか150騎だったが呼応する者が激増し、小手指原(所沢)、分倍河原(府中市)で幕府の大軍を撃破、さらに村岡(藤沢市)州崎(大船)で大勝し、鎌倉の包囲網に成功した。新田軍はついに稲村ヶ崎、極楽寺、化粧坂、巨袋、亀ヶ谷の各方面から鎌倉市中に突入し、北条高時ら一族門葉870余人が東勝寺で岳火の中に自刃、鎌倉幕府は滅亡した。ときに522日、源頼朝が鎌倉入りしてから153年目のことである。(大正地区歴史散歩の会、10周年記念建碑)

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道路改修記念碑(写真は庚申塔です)
昭和235月挙げ町相図りて、戸塚区東俣野町農道幹線の改修を企画してより10余年、町民自らの労力を横浜市の補助により延長4粁に及ぶ道路の完成をみた。今はるかに往時を偲ぶとき感慨詢に深いものがある。茲にその改修を祝い愈々町の隆昌を祈念する。(横浜市長)

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農業地区を蛇行しながら上りに    もうひと上りで坂上です

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境川の風景③ 前方は立石橋、上ると善行駅です。両岸に台地が迫ります

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坂上は立石(橋)への分岐点     右角の庚申塔群


・・・影取町


むかしは鎌倉郡山谷新田および城廻村飛地といいました。明治22年に東俣野村、上俣野村および城廻村飛地をあわせて俣野村大字山谷新田に、大正4年に富士見村、俣野村、長尾村をあわせて大正村大字山谷新田、その後昭和14年鎌倉郡から横浜市になるとき大正村大字山谷と城廻から影取町をつくりました。(戸塚区)

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街道の風景⑥ 旧東海度のバイバス入口、懐かしいですね/影取第3歩道橋(国道1号)

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旧東海道案内板           道祖神

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鉄砲宿の桜並木/影取町
国道1号線から藤沢バイパスが分岐するが、その少し先までが横浜市戸塚区影取町でその外れに鉄砲宿があった。財団法人杉山産業化学研究所の敷地には鎌倉市関谷の飛び地もあり、影取町は藤沢市ばかりではなく鎌倉市とも境を接している。この辺りは元々旧東海道松並木があったところであるが、現在では松は殆どなく桜並木になっている。また、藤沢バイパスの切通の法面にも桜が植えられ桜並木となっている。しかし、藤沢市に入った緑ヶ丘バス停脇には「旧東海道松並木跡」の石碑が建っておりかつては松並木であったことを偲ばせてくれる。なお、藤沢バイパスに架かる東俣野陸橋を渡った向こうの境川の河岸段丘の法面にも桜並木や枝垂れ桜が植えられており、春の桜の時期には華やぐことだろう。(旧東海道鉄砲宿標柱)


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鉄砲宿と影取池の昔話
昔々このあたりにいた長者が自分の蔵に住み着いた大蛇を水神様のお使いとして「おはん」と名付け、大層かわいがっていました。ところが長者の家が没落し大蛇への餌もままならなくなってきました。それをみた大蛇は長者様に迷惑はかけられないと近くの池去ってゆきましたが、そこには十分な食料がなく、元々大食だった大蛇は空腹に耐えかねると池のほとりを歩く人の影を食べて飢えを凌いでいました。ところが影を食べられた人はだんだん弱ってしまうので、村人はこの池を影取池と呼んで恐れるようになりました。大蛇を退治しようとしたのですが、鉄砲を見ると大蛇は水底深く潜ってしまうので退治できません。村人は一計を案じ鉄砲の上手い猟師に頼み、昔の長者様のように「おはん」と名を呼びました。昔の飼い主が迎えにきたと思いこんだ大蛇は姿を現すとついに撃ち殺されてしまいました。いつしか影取池は埋められ影取の名と悲しい話だけが残されました。この大蛇を撃った猟師が住み着いたところを鉄砲宿と呼ぶようになったといいます。(標柱)

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横浜旧東海道戸塚宿周辺散策案内図
(赤:鎌倉街道 緑:旧東海道 茶:国道1号BP 青:柏尾川)

旧東海道戸塚宿の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/16496102/

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ルート図
(赤:鎌倉街道上道・中道 緑:旧東海道・中原街道 茶:長後街道 青:境川)

by Twalking | 2017-06-05 11:48 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(4)瀬谷~藤沢-01飯田   

日時 2017.5.30(火)
天気 晴れ


久し振りの鎌倉街道上道です。
「いい時期に・・・」なんて思っていたら、
あっという間に約1年、空いてしましました。

上飯田までは歩きましたが、その先は初めての道、
ちょっと感覚を取り戻しながら、ですね~。
鎌倉ゆかりの地も多いので楽しみながら歩きます。

それと、復刻した芳賀さんの『旧鎌倉街道散策の旅』を
少し読み込みながらポイントを外さないように
現地を見てみたいと思いますが、さて、どうなるか。



・・・和田地区(上・下和田村)/大和市(右岸)


大字上和田・大字下和田は近世には上和田村・下和田村としてそれぞれ一村として成り立っていました。大字上和田は久田(くでん)・宮久保・上和田の3集落、大字下和田は下和田の1集落から成ります。上和田村は天正191591)年旗本石川永正の知行地となり、以後幕末に至ります。下和田村は当初は蔵入地(徳川氏の直轄地)で、その後慶長61601)年旗本辻久吉の知行地となり幕末に至ります。(大和市)
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丘の風景① 右岸は相模原台地、左岸は多摩丘陵、低地を境川が流れます/巡礼道(大和市上飯田)

和田

「和田」は河川の流れているところに多くみられる地名で久田(くでん)、宮久保のことをさしています。古語「わた」は入り曲ったところを示す「曲=わた」であり、川(境川)の曲った部分の地から起こった名と考えられます。境川沿いのこの地区もそうしたことから名付けられたと考えられます。(大和市)


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中原街道沿いにありますが、巡礼道を境川方向へ下ってみました/上和田左馬神社(上和田


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上和田左馬神社
御祭神:左馬頭義朝
宝暦143月桃園天皇、徳川9代将軍家重の代、名主渡辺兵左衛門・小川清右衛門この地に宮を建立、左馬頭源義朝の霊を勧請し村民の精神道場となるや、漸次庶民崇敬の的となり文化343日、上和田信法寺14世住職憧与上人氏子の賛同を得て五穀豊穣の祈願をなしなるや、其の御神徳の偉大さに武家・一般庶民に深き感銘を与う。以来、五穀豊穣はもとより家内安全の守護神として広く世に伝わり崇敬者多し。尚、境内社として天照皇大神、神武天皇、須佐之男命、三神を奉斎し国土安穏、氏子崇敬者の安泰(疫病・痘癒・厄除)守護を念ずる参詣者今尚多し。(説明板)

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順礼街道
順礼者がめぐった坂東33札所のうち、第8番星谷寺(座間市)と第14番弘明寺(横浜市)または 第4番長谷寺(鎌倉市)を結ぶ江戸時代の古道。(標柱/大和市教育委員会)


中原街道瀬谷付近の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22307963/

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一帯は「上和田城山城」があったと伝わりますが、詳細は不明です/大和南高校

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上和田城山
県立大和南高校の近く境川沿いの上和田城山も古くから城跡とされてきました。『風土記稿』には「壘跡 城山ト呼フ 今林トナレリ 地域30間四方 東北ニ水田アリ 壘跡ハ一丈程高ク 西南ハ平地ニ續ケリ 所々ニ堀ノ状存ス 和田判官ト云人住セシトノミ傳フ 按ズルニ判官ハ左衛門尉義盛ニヤ」とあり、「和田判官」という人物が住んでいたとしています。上和田城山に近い薬王院には鎌倉時代の武将・和田義盛にまつわる伝承が残っており、風土記稿の記述との関連が気になるところですがいずれも確証はありません。(大和市)

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上和田城山(じょうやま)遺跡
神奈川県立大和南高校開設に先立ち埋蔵文化財の発掘調査が昭和52.53年に実施され、この一帯は旧石器時代から縄文時代早期にかけての遺跡であることがわかりました。旧石器時代の狩生語たちが残した石器は赤土(関東ローム層)の中から発見されていますが、最も深いところでは地表面下約3.5mのところから狩猟具、加工具、調理具などの石器が出土しています。境川流域の狩猟対象地域としていた集団が何回かにわたり残したものと考えられます。特質されるものとしては旧石器時代最終末に細石刃を主な狩猟具として使う時期がありますが、本遺跡からはその細石刃を大量生産するための制作技術を復元できる資料が発見されています。円礫を分割して複数の細石刃石核(石器を作るための元になる石器)を作り、その細石刃核から細石刃を製作するという一連の制作工程が明らかになりました。(大和市教育委員会)

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薬王院/上和田


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薬師如来縁起
抑當山に安置し奉る薬師如来は行基大士の御作と称し、往古より霊験あらたかなること世人のすべてに能く知る所なり。夫れ薬師如来は諸病悉除の誓願あり。中古三浦大助の二男和田小太郎義盛は当村の地頭なりし時、 眼疾を患ひて尊像を祈る事17日。ついに平癒する事を得たり。其後誓って云く「若し擁護を蒙りて待所の別當たるを得ば一院を創せん」と志願空しからずして其職に任ずる事を得たり。因って一院を創建す。即ち薬王院是なり。亦元和年中、石川家祖先の内室眼病にて醫薬効なきを以て、乃ち尊像に祈念する事17日。晝夜速かに明眼を得たり。故に再建す。今の伽藍是なり。夫れより以来毎年98日をトして会日とし、寅年を以て開扇し、普く平等大悲に結縁せしむる事となり。大正1291日の大震災は関東一圓の堂塔佛寺の大半は倒潰せしも、當薬王院の伽藍は幸にも其難を免ることを得たり。之偏へに薬師如来の諸難悉除の霊験なり。此のあらたかなる尊像を安置し奉る。是薬師如来の縁起なり。(神奈川県高座郡渋谷村上和田 薬王院 信徒一同)

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薬王院と双盤念仏
信法寺の東側に隣接する薬王院には薬師如来座像がまつられ12年に一度寅年に開帳されます。鎌倉時代の武将・和田義盛が眼病治癒を薬師如来に祈ったところ全快したので、一堂を建て薬師如来をまつったと伝わっています。そのためこの薬師如来は眼病に霊験があるとされます。98日に行われる薬王院の例祭では眼病に効能があるという「薬師ショウガ」が売られます。薬王院の双盤念仏(そうばん)は浄土宗信法寺の別院薬王院において毎年本尊薬師如来の縁日である98日とその前日に行われています。双盤といわれる鉦と太鼓を打ち鳴らしながら念仏を唱えます。鎌倉光明寺から伝わったものとされ市の重要無形民俗文化財に指定されています。(大和市)

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信法寺山門/上和田


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信法寺
『新編相模国風土記稿』には「生養山ト号ス 浄土宗 京知恩院末 本尊三尊弥陀 開山空閑 元和212月卒 開基ハ故地頭石川與次右衛門永正 法名東陽院深譽浄喜 元和35月朔日卒 薬師堂 薬師ハ行基ノ作ト云 坐像長二尺五寸」とあります。生養山と号す浄土宗の寺です。開基とされる旗本石川與次右衛門永正は、天正191591)年上和田村を知行地として宛行(あてが)われました。石川氏は上和田村内に屋敷を設け住んだと伝えられます。同寺にある旧石川家の墓は市の重要文化財に指定されています。石川家の墓信法寺の開基・石川永正は家康に仕え関ヶ原の合戦、大阪の陣に従軍しました。旗本同士の相給(一村が二人以上の旗本などに知行されること)などと違い、上和田村はすべてが石川氏の知行地となっていました。同寺の旧石川家墓地(市指定重要文化財)には歴代当主及び一族の墓碑や供養塔があります。 (大和市)

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境川の風景① 台地がせり出して蛇行して流れます。左岸は泉区になります/上和田2号橋


・・・泉区(左岸)


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横浜市の南西部に位置し、相模野台地と呼ばれる関東ローム層に覆われた比較的平坦な台地の一部で、区の西側を境川和泉川が南北に流れ、北側を阿久和川、東側を宇田川(村岡川)が流れている。河川流域に農業地帯が開け製糸業が行われていた。区内は歴史的な経緯より中川地区と中和田地区から成る。西側は境川を市境として藤沢市・大和市と接し、北側は瀬谷区・旭区、東側と南側は戸塚区と接する。かつて戸塚区に属し日立製作所戸塚工場・横浜工場、ブリジストンの従業員らのベッドタウンでもあり戸塚とのつながりが深い
Wikipedia)

ルート地図(瀬谷~上飯田)
旧鎌倉街道散策の旅(1)上道・山ノ道編/芳賀善次郎著(さきたま出版会)を参照
(赤:上道 緑:中原街道 青:境川 紺:相沢川を着色)

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街道の風景① 瀬谷区との境、相沢川に沿って南へ向かいます/宮久保公園手前

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てみず橋/上和田中           右手に境川が流れます/藪山橋先

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柳明神社(やなみみょうじんしゃ)鳥居/上飯田町

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柳明神社御
祭神:天照皇大神、大山咋命廃寺になった鎌倉郡観音24番札所大石寺跡に、村境の伊勢山に祀られていた神明社を遷したものです。昭和50年に柳明神社と改められました。大石寺が廃寺になったとき本尊の観音像を阿久和村の観音寺に預けました。その後、村に不幸が起ったため境内に観音堂を建て観音像を安置しました。神社裏の道の分岐点には八王子道(鎌倉道)と神奈川道の道標が立っています。神社前には柳明天満宮もあります。(泉区)

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大石寺跡
大石寺は現在柳明神社がある場所にありました。神明神社の境内に行基作と伝えらている十一面観音菩薩を本尊とする観音堂があります。宝暦10年(1760)に造立された観音標識塔には「当寺本尊十一面観世音」と刻まれた塔の側面と台座に「鎌倉群24番札所・大石寺」とあることから、鎌倉郡観音33か所の24番目の札所となっていたようです。(泉区)
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境川の風景② 左岸にいちょう団地、右岸の丘は高座渋谷駅になります/ふれあい橋(クローバー公園)

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新幹線を潜ります           本興寺旧参道

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「江戸柳明古地図」をみると本路は境川沿いの低地部を、東側の台地を「たつ道」が通っていたようです/グローバー団地入口
(赤:かまくらかみのみち 橙:かまくらいくさみち 青:境川・相沢川)

矢の下

上和田には鎌倉時代の武将・和田義盛が闘ったという伝承のある「矢の下」と呼ばれる地名があります。義盛軍が矢を射たところ矢から根が出、矢竹となったといいます。また「ヤ」には「」の意味があることから地域を流れる境川、あるいは水田の水が一段低い土地へと流れるさまを指して「ヤの下」と呼ばれるようになったとする説もあります。(大和市 地図の左下)

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本興寺山門/上飯田町

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本興寺仁王門

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本興寺
日蓮宗の本山(由緒寺院)山号は法華山。日什門流八別格本山のひとつ(他の別格本山は会津妙法寺、会津妙國寺、品川本光寺、品川天妙國寺、見附玄妙寺、吉美妙立寺、京都寂光寺)。もともと飯田のこの地は鎌倉街道上ノ道が通り、身延山に隠棲した日蓮が湯治のため常陸国に向かう途中に通過しまた、没後の遺骨も通過したゆかりの地であったという。鎌倉の地(現:鎌倉市大町)に延元元年(1336)日蓮の門弟「九老僧」の一人天目が休息山本興寺を建立した。永徳2(1382)日什が2世となり山号を法華山と改める。辻説法の由緒地に程近く「辻の本興寺」とよばれた。のちに日什が開創した京都妙満寺を本寺とする日什門流(什門)の寺となった。

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星霜を経た慶長13(1608)本興寺27世から妙満寺27世となった日経が不受不施を説いたため、江戸幕府によって京都六条河原で耳・鼻削ぎの刑に処せられ関連寺院は取り潰された。(慶長の法難)日経が与同した師日奥らの不受不施派はキリシタンとならんで幕府の厳しい詮議の対象となった。このため30世日顕により万治3(1660)日蓮ゆかりという鎌倉郡飯田村の当地に寺基を移し法灯を伝えることとなったのである。なお、辻の旧地にも寛文10(1670)比企谷妙本寺日逞により鎌倉に本興寺が再興され妙本寺末寺となって現在に至っている。

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什門の名刹としてその後戦前に至るまで顕法法華宗本山であった。同宗は政府の意向により1941年日蓮宗と合同した。戦後旧守派の大本山妙満寺、本山妙法寺、本山天妙國寺、本山寂光寺等200箇寺が分離したものの、改革派は日蓮宗に残り本興寺は什門4本山(妙國寺、本興寺、玄妙寺、妙立寺)の一つとなる。なお中間派は単立として現在に至る(品川本光寺等)。日蓮宗に残留した180箇寺は宗内で「日蓮宗什師会」を組織している。(Wikipedia)

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飯田神社鳥居/上飯田町

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飯田神社
境川や和泉川沿いに見られる「サバ神社」の一社で、祭神は源頼朝を主神に宇迦之御魂大神・大山咋神です。伝承によると飯田五郎家義がお祀りしたといわれています。縄文時代境川沿いは入り海で、神社の境内の土手から縄文後期の人々が使った注口土器が出土しました。境内の神楽殿は明治20年頃、飯田学校校舎として使われていました。鳥居前には地蔵像、七観音像、庚申塔、道祖神が立っています。(泉区)

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七観音                庚申塔

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街道の風景② バス通りの一本東側の道ですが、こちらが旧道のようです/神明社手前

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神明社前               上飯田公園を抜けていきます

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神明神社/上飯田
市営上飯田団地16棟の前を上飯田公園から飯田神社方面へ通ずる道がある。鎌倉時代に源頼朝が那須野や浅間山麓へ巻狩りに行く時、また弘安5年(12829月に日蓮上人が通ったといわれている鎌倉道(上の道)である。この道沿いで団地16棟西側にある神社が上飯田の神明神社である。上飯田団地ができる前は水田に面した小高い丘陵の上に祀られていた。いつ頃この地に祀られたのかはわからないが、伝承では享保年間(171635)に境川の氾濫が多かったことを憂い、当時の村人たちが社殿を再興して五穀豊穣を祈願したと伝えられている。本殿中宮は総けやきの三殿造りで、天照皇大神、応神天皇、春日大明神を祀る。市営上飯田団地の造成には神社周辺の丘陵部を切り崩して低地の水田を埋めるという工法がとられた。現在なら鎮守の森を存続させるために社殿を残したまま廻りを削り取るという造成方法も取れたと思うが、昭和38年代の社会環境下では無理であった。昭和4134日、神明神社はまだ造成工事が行われている最中に50mほど西方の新社地に遷座した。(泉区)

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無量寺山門/上飯田町

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無量寺
無量寺は大山道沿いにあり、境内には大山道の道標を兼ねた名号碑があります。また、名木古木に指定されているイチョウの古木や、寛政6(1794)造立の「出羽三山・西国・板東・秩父百番札所」供養塔、元徳年間に造立された板碑などがあります。(泉区)


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街道の風景③ 長後街道を横断し、左手の丘上にある三柱神社へ/団地入口

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長後街道
県道22号横浜伊勢原線のバスセンター前(戸塚区戸塚町)-高鎌橋(藤沢市高倉)と、高倉下長後線(旧県道22号横浜伊勢原線)の高鎌橋-長後小学校入口(藤沢市長後)までの道路区間の名称。長後街道として整備される前の旧道は戸塚みち大山道とも)と呼ばれていた。明治から大正時代にかけて藤沢市北部・横浜市泉区・瀬谷区周辺では養蚕が盛んで長後街道周辺には製糸工場も数多くあったため、東海道の宿場であった戸塚・保土ヶ谷経由で横浜港へ絹糸を運ぶための道として重要な役割を果たしていた。Wikipedia

ルート地図(上飯田~下飯田)
旧鎌倉街道散策の旅(1)上道・山ノ道編/芳賀善次郎著(さきたま出版会)を参照
(赤:上道 緑:長後街道 青:境川を着色)


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三柱神社鳥居/上飯田町

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三柱神社
祭神は日枝神社(別名山王様)大山咋命、神明社(別名稲荷様)豊受気姫命、天満宮(天神様)菅原道真が祀られております。当社は上飯田下組といわれた地域内に古くから祀られていた三つの神社を大正元年12月に寄宮して三柱神社としたのが初めである。(中和田郷土誌より)山王様:現在の宮崎政雄氏の上の山(字島辺り188八番地)にあり祀られてありました。現在は宮崎一門の稲荷大明神が祀られております。稲荷様:現在の永井稔氏宅、持田一族のお墓の中間(字溝下385番地)に祀られておりました。当時は大きな赤松があったと伝えられ今でも稲荷坂とよばれております。天神様:中野為雄氏、三橋とし氏宅前の細い道を登った一段高くなった所(字天神山1118番地)に祀られておりました。

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大正元年からこれら三神を持田初次郎、宮崎芳松、中野林之助、野渡儀兵衛、麻生喜作、持田寿作、持田元治の各氏が部落統一のため現在の境内に寄営し、次のような文面を後世に伝へている。当部落統一上、集会所設置の議熟し敷地の撰定に苦しめり。地主の利益を捨て便益に資せんとして土地を譲与されたり。その徳を頌し併せて一般寄付を記して記念とする。畑。一反四畝二十九歩、約162272、持田寿作畑。四畝四歩、約40922、中野林之助現在の参道は昭和31年、拝殿奥の院は昭和4410月氏子の寄付によって再建したものです。(境内掲示)

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街道の風景④バス通りの西、この道も鎌倉街道のようです/下飯田町

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鎌倉道・美濃口家
飯田の鎌倉道は「上(西)之道」と呼ばれ、新田・足利ゆかりの地や信濃方面と鎌倉を結ぶ重要な道でした。美濃口家は代々名主や村長を勤め、当家出身の春鴻(しゅんこう)は芭蕉の流れを汲む蕉門の俳人で、関係資料は横浜市地域有形文化財(歴史資料)になっています。(一般の家屋のため、門の中の見学はできません。)また、近くに持田・美濃口両家の氏神と伝えられる日枝社があります。(飯田五郎家義コース)

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美濃口春鴻資料一式23件(非公開)
美濃春鴻は享保181732)相模国鎌倉郡(現泉区)下飯田村の美濃口源左衛門の子として生まれ、幼名は虎松、のちに源吾次と称した。下飯田村は旗本筧(かけい)家領にあたり、美濃口家は代々名主を勤め、また村制がしかれてからは村長も勤めた家柄です。春鴻は江戸時代中期の相模を代表する俳人で、はじめ春江と号し明和2年(1765)松露庵鳥酔に入門、戸塚宿の二之日庵鶏父の連に属していました。後に関東の蕪村と称された春秋庵白雄(しらお)の門人となり、白雄8大弟子の一人に数えられました。寛政5年(1793)には白雄追善集「冬瓜汁」を出版しています。また、相模俳壇の長老として鴫立庵(しぎたつあん・現大磯町立鴫立庵)を後見しました。(鴫立庵は江戸時代中期に大淀三千風が中興した俳諧道場で、明和4年(1767)鶏酔が入庵し再興しました。今日との落柿舎(らくししゃ)、滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つと言われています)。春鴻は享和3年(180367日に71歳で没し、追悼集に門人雉啄(ちたく)編集の「鴫の井」があります。美濃口家には「芭蕉100年忌追悼の巻」(写)をはじめ句会での記録が数多く遺されています。これらは江戸中期の俳壇の様子を知る上で貴重な資料です。(横浜市教育委員会)

東海道大磯宿・鴫立庵の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/17489957/

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下飯田左馬神社鳥居/下飯田町


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下飯田左馬神社
下飯田町の「なしの木学園」の近くの1389番地に明治6年に下飯田村の村社に指定された左馬神社がある。この神社も以前は「鯖神社」と表記しており飯田神社と同じ境川沿いのサバ神社の一社で左馬頭源義朝が祀られている。伝承によると飯田郷の地頭・飯田五郎家義が勧請したといい、また小田原北条時代に下飯田を治めた川上藤兵衛がこの神社に武運長久を祈願したといわれている。また天正18年(1590)に下飯田の領主になった筧助兵衛為春は、地域の鎮守さまとして信仰し氏子とともに社殿の修復をしたといわれている。

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境内林は明治以来、神奈川県の風致保安林に指定されておりけやき、犬つげ、藪ニッケイ等の実生で生え自然に繁茂した樹木が育っている。境内の庭はむかしの村社らしく広い。その広い庭を覆うように横浜市の名木・古木に指定された銀杏が枝を伸ばしている。現在神社の入口は新道に面しているが、以前は飯田神社同様鎌倉道(上の道)から入るようになっており、今でも入口の小川には石橋が架けられている。しかし昭和40年代に地域の農道整備が行われた時、長い参道が分断されて今の新道が造られた。

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この境川流域にははやり病に罹(かか)ると「七サバ参り」をすると治るという風習があった。七サバとはどこの神社であるか定かでない。七は単なる吉数なのかもしれない。またこの流域には境を意識した行事や習慣が残っていたことなどから、柳田国男がその著『石神問答』の中で「相模の左馬明神又は鯖明神」と特異な神として指摘している。境川沿いの両岸に祀られているサバの神社のことであるがこの上飯田、下飯田の二社がその指摘の神社であることは間違いない。(いずみいまむかし/泉区)


・・・高倉/藤沢市(右岸)

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境川の風景 下飯田(右岸)と高倉(右岸)を結びます。前方の丘は湘南台でしょうか/渡戸橋

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東勝寺/藤沢市高倉


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無尽燈
東勝寺は秋雄和尚によって南北朝時代(1300年代)に創建された阿弥陀仏を御本尊とする臨済宗円覚寺派の禅寺である。執権北条高時一族が鎌倉の東勝寺で滅亡(1333)したのを悼み、密かにこの寺は建立されたと伝えられる。その為に山号を再び燈を点じる点燈山と呼ぶ。後に中興の祖・天遊和尚(慶長141609年没)により寺は一新されたが、江戸時代後期に現在の山門(貞享31686年 鎌倉大工渋谷七郎兵衛造)を残して焼失した。

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その後延享3(1746年)現本堂の欄間に再建されたのが旧本堂であったが、老朽甚だしく平成5(1993)に再建が発願された。平成9(1997)には仏祖の御加護の下に檀徒一同の悲願が結実し、本堂客殿新築と山門修復(設計 建築企画飛鳥 施工 英社寺建築)境内整備は完成した。ここに点燈山の法燈が尽きること無きを祈り、更に檀徒の子孫は長久にして信力はいよいよ堅くして、尽きること無きを願って無尽燈の碑を建立する(東勝寺)


・・・・・
資料ファイル

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たつ道と弥生時代の遺跡
泉区の西側の境川と和泉川にはさまれた台地を南北に真っ直ぐ貫いている道は「たつ道」と呼ばれ、瀬谷から戸塚区俣野方面への最短の直線道路である。この道は古くから飯田と呼ばれてきた集落の中を通る道とともに鎌倉道いわれ、下飯田の南端の鍋屋橋付近で一緒になる。いわば、たつ道は飯田地区のバイパスとしての役割を担っていたともいえよう。新田義貞は鎌倉攻めの際にこの道を通ったともいわれている。道沿いからはあちこちで土器や遺跡が出土し古来からの生活の息吹を感じさせてくれている。埋蔵文化財発掘調査によれば、このたつ道沿いのおよそ13地区が遺跡の形跡があるとして記録(別表参照)されている。下飯田の南端付近の台地からは弥生時代中期後半の宮の台期の土器が発見されており「元木遺跡」と呼ばれている。また、中和田南小学校周辺(下和泉遺跡)からも先土器時代の石斧が発見されている。昭和62年から平成元年にかけて、相模鉄道線延伸の予備調査では弥生時代後期から古墳時代にかけての土器が出土した。続いて、平成77月から行われた市営地下鉄の調査では同時代の竪穴式の集落跡と原形をとどめた多数の土器が掘り起こされた。これらの遺跡は、その字名から「草木遺跡」「中ノ宮遺跡」「下飯田林遺跡」と名付けられている。また、同調査の際、たつ道に沿って10mほど東側に中世から近世にかけての古道があったことがわかり、当時から重要な道であったことが裏づけられている。昭和5年から6年にかけて俣野の石川重郎、下飯田の大川弥助らの尽力により中和田村の事業としてたつ道の拡幅工事が行われ、整備後は農作業の車両が通ったり、物資の搬送に使われるようになったため「産業道路」とも呼ばれた。また、環状4号線がこのたつ道を通ることとなりさらに一歩新しい役割を担い工事が進んでいる。(いずみいまむかし-泉区小史/泉区)


by Twalking | 2017-06-03 11:27 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道山之道(2)元八王子~増戸 02-増戸   

日時 2017.3.12(日)
天気 晴れ

浄福寺城址で予定外のコースを行きましたが、
街道に戻り川口丘陵、秋川丘陵を越えて秋川へ。
戸沢は旧道が残る静かな里山、いいですね。

その先「駒繋石峠」はちょっと道を間違えて
戻りましたが、ここは畠山重里も通った古道
峠から秋川へいい坂道が続きます。

西が関東山地、東が丘陵、間を川が流れる風景、
変化に富んだ道のりです。
秋川にも会えて、楽しい旅路でした。


・・・美山町


市の西北部、山入川の流域に位置する。1955年(昭和304月川口村の八王子市への合併により翌56年同村内の大字山入が美山町となる。江戸期の山入村。北に川口丘陵、南に入山尾根から東南にのびる山稜があり中央部を山入川が東南流する。川沿いに美山街道が走り谷の最奥の集落遠ノ谷戸まで入る。56年以来、山砂利採取事業が行われていた。
(Web八王子辞典)

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街道の風景① 美山トンネルを抜け戸沢峠へ向かいます

d0183387_14332487.jpg山入川/美山橋

美山町西端の大沢山を水源とし今熊山の南麓をへて東南に流れ、小津川を合わせたあと西寺方町で北浅川に注ぐ川。(流長7.5km)風土記稿には常には水流なく雨降るときのみ流れるとある。別称・山入浅川。美山街道が通じ両岸の山地には採石場が多い。(Web八王子辞典)


d0183387_14333733.jpg御屋敷

美山町の旧小名・小字。町の中央部西寄りの地で、美山町のバス停御屋敷入口から西に入る谷をいう。御屋敷川が東流し西南の山頂に琴平神社がある。(Web八王子辞典)




・・・戸沢


上川町の旧小名・小字。同町の東南部・戸沢峠の北側の谷戸と周辺の地域をいう。旧鎌倉街道といわれる古道が通じいまも都道となって峠を越えている。登り口に馬頭観音堂、その西に西八幡社が建つ。秋川街道にバス停戸沢がある。(Web八王子辞典)

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街道の風景② 戸沢峠を越えて上川町へ向かいます

戸沢峠

上川町戸沢と美山町馬込との間にあった峠。高さ248、秩父から相模へ向かう古道が通じていた。武蔵図会に戸沢嶺とある。いま戸沢の馬頭観音堂の前に「鎌倉古道」の石碑が建つ。近年まで古道の景観をとどめていたが844月に都道上川口宮の全線が開通し旧観はなくなった。(Web八王子辞典)

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登り口の美山小東           右にカーブしてゆく登り坂です          

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街道の風景③ 戸沢の集落へ下りますがいい道ですね

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馬頭観音堂              観音頭前の石仏群

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大仙寺

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大仙寺

真言宗豊山派。鎌倉時代の順徳天皇の御代、建暦2年(1212)時の将軍・源実朝の開基によるもので、開山は頼空上人と伝えられている。安土桃山時代の天正18年(1590)に兵火により焼失したが、源宥僧都が再興したのが江戸慶長7年(1602)のことである。慶安2年(1649)には本尊不動領として朱印86斗を賜り田守明神社の別当でもあった。境内にある桜の老樹は「重忠公お手植えの桜」と言い伝えられているが確証は無い。重忠の軍勢が網代の山越えや、戸沢峠超しにあたって中間に位置するこの付近で小休止したと推定される。(八王子仏教会)

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街道の風景④ 山裾ののどかな風景です、左がこれから越える秋川丘陵です/大仙寺



・・・上川町


市の北部、川口川の上流域に位置する。1955年(昭和30)川口村の八王子市への合併により翌56年同村内の旧大字上川口が上川町となる。江戸期の川口村の西半部。北に秋川丘陵、南に川口丘陵が東西に連なりその間を川口川が東流する。川沿いに秋川街道が並走し北方へ小峰峠を越えて五日市へ通じる。町の西端近くに今熊山が高まり、その西方の舟子尾根との間に逆沢が深い谷を刻み金剛滝がかかる。町域の西端部にあたるこの谷は秋川水系に属している。帝京八王子高校、円福寺・三光院・大仙寺・福寿寺・正福寺・戸沢観音堂、今熊神社・田守神社・熊野神社、上川農村環境改善センター、八王子上川霊園・福寿霊園、GMG八王子ゴルフ場がある。
(Web八王子辞典)

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田守
上川町の旧小名・小字。町の中部秋川街道のバス停上川(Web八王子辞典)

秋川街道
八王子と青梅を結ぶ道路。八木町・八幡町の境で甲州街道から分かれて北上し、楢原町・川口町をへて小峰峠を越え、五日市町をとおって青梅市に出て青梅街道に合する。このうち八王子五日市間の道を江戸期には五日市街道、また江戸〜明治〜大正期にわたり五日市往還と呼んだ。八王子青梅間の主要路線の一、川口街道とも通称する。
(Web八王子辞典)

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田守神社鳥居

d0183387_16015011.jpg田守神社/上川町

祭神大己貴命、応神天皇。例祭日43日。創建年代は明らかではないが、一説には順徳天皇の時代、田の守護神として奉斎したとの伝承がある。昔は古明神と称していたが、成小(鳴呼)ヶ谷に移して田守明神社と改称、豊年万作の祈願所とした。また小名田守の名をとって田守明神社としたとの伝承もある。例祭日には雨乞祈願の獅子舞が奉納される。内社八幡社。〔市指定文化財〕田守神社獅子舞。(Web八王子辞典)

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川口川

d0183387_15590317.jpg川口川/重忠橋
上川町西部の今熊山を水源として東南流し川口町をへて中野上町で浅川に注ぐ川、流長15km。北側には加住丘陵、南側には川口丘陵が連なり川ぞいには秋川街道が並走する。古代の多摩十郷の一である川口郷はこの川の下流域にあたるとされる。(Web八王子辞典)

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街道の風景⑤ 山田通りを北へ、秋川丘陵越えになります/重忠橋

秋川丘陵

市の西北端、日向峰通し付近から秋川南岸を東方にのびて雹留山あたりまでの丘陵を呼ぶ。別称:秋留丘陵。秋川と浅川水系との分水稜をなす。高さは西部で330m、東方では260m前後となる。秋川丘陵都立自然公園に指定されているが、霊園・ゴルフ場などの開発が進んでいる。丘陵の東方はさらにのびて加住丘陵につづく。(Web八王子辞典)


・・・
駒繋石峠

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街道の風景⑤ 左が鎌倉道、山田通りは2つのトンネルで越えます/上川トンネル入口

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この先あたりが駒繋峠でしょうか

駒繋石峠
網代坂のこと。畠山重忠が馬をつないだという岩が現地に伝わることから名づけられたという。(Web八王子辞典)

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駒繋石
左側が駒繋石(御前石)右側は後世に建てられた馬頭観音だそうです

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街道の風景⑥ 左は五日市CCになってますがいい下り坂です/網代坂

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街道の風景⑦ 秋留台地です。この先網代トンネル口で合流します


・・・・あきる野市
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秋川の風景① 上流:奥に控えるのは大岳山、山峡の風景です/山田大橋

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秋川の風景② 下流:左が秋留台地、右が秋川丘陵、麓はサマーランドです/山田大橋


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瑞雲寺山門/山田
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本堂と大悲閣


d0183387_17493042.png瑞雲寺
足利尊氏座像
臨済宗建長寺派に属する瑞雲寺は南北朝時代に開かれたと考えられています。開基(創立者)は尊氏の子である基氏の母(あるいは伯母)という寺伝がありますが、この像はこの伝承と符合します。また南朝、北朝に分かれて全国的な戦乱の時代に当地方は北朝系地侍の地盤であったことを示しています。制作年代は江戸時代と考えられ、尊氏像はあまり類例を見ないことから稀少価値があります。なお、昭和40年代に修復が行われ、彩色が施されています。(あきる野市教育委員会)

d0183387_17504115.png瑞雲寺板碑

板碑は鎌倉時代から室町時代にかけて追善や供養などの目的で作られた石製塔婆の一種です。この板碑は蓮華台の上に草書体で「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の称号(名号)が大きく彫られ、その下方中央に「門阿」(供養者)右に「建武2年乙亥」(1335)左に「721日」の文字が刻まれています。秩父産の緑泥片岩が使用され、市内では大型に属し遺存状態も良好です。全長122cm・巾32.6cm・厚さ2.8cm。(あきる野市教育委員会)



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山田八幡神社鳥居/山田

d0183387_18051055.jpg山田八幡神社

御祭神:応神天応御由緒:文和年間(1352~)足利尊氏公家人・影山大炊介貞兼の建立で、瑞雲寺が奉仕していた。明治2年神仏分離令により神職の奉仕となる。明治6年、昭和60年社殿再建(説明板)秋川の風景③ 


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渡ってきた山田大橋です/八幡神社前


d0183387_18072794.jpg五日市街道

現在の都道7号杉並あきる野線の本線とほぼ一致する。徳川家康の江戸入府後、五日市(現・あきる野市)や檜原から木材・炭などを運ぶために整備された街道。初期には「伊奈道」と呼ばれ、伊奈(五日市より少し東にある集落)の石材を扱っていた石工が江戸城修築のため江戸へ行き来するための道として発展したが、修築が終わり木炭輸送が主流になるにつれ伊奈と五日市の重要性が逆転した。武蔵野台地の新田開発が進むと多摩地域と江戸を結ぶ街道の一つとして発展した。Wikipedia

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街道の風景⑧ 武蔵増戸駅(ますこ)に到着しました

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駅のホームから大岳山がくっきり見えます/武蔵増戸駅

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ルートマップ(下恩方~増戸)
(赤:鎌倉道 橙:案下道 茶:秋川街道 紫:五日市街道 赤丸:戸沢峠・駒繋石峠 緑:ハイキングコース)



・・・・・
資料ファイル
秋川自然公園ハイキングコース

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間違って右折して、途中まで歩いて戻りました/遊歩道入口(上川トンネル上)

d0183387_19044317.jpg秋川丘陵都立自然公園

秋川丘陵・秋川渓谷を中心とする都立自然公園。1953年(昭和28101日指定、面積1335haうち八王子市域内は425.5ha)。市西北部の上川町・戸吹町地内にあたり東端は滝山自然公園につづく。(Web八王子辞典)

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砂利道ですが、ここも面白そうな道です

d0183387_18562032.jpg「日本事務器・あきる野引田企業の森」
森林所有者:東京都競馬(株)東京サマーランド 管理:公)東京都農林水産振興財団、と看板に書いてありました

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雹留山(ひょうどめやま)

上川町の北部、秋川市引田との境にある山。高さ270m。周りはBGM八王子ゴルフ場、上川霊園になっています。

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この道も右手に下れそうな感じです



by Twalking | 2017-03-16 20:24 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道山之道(2)元八王子~増戸 01-下恩方   

日時 2017.3.12(日)
天気 晴れ


元八王子から尾根を越えて秋川を目指して歩きます。
八王子城の支城である小田野城、浄福寺城などありますし
旧道も残っているので楽しみにしています。

地元の方から城の東側の尾根もいいと伺い、行ってみました。
道はしっかりしてますが、深い堀切と細尾根が続く下り道、
久し振りに緊張しましたが、なんとか辿りつきました。
面白かったですね~、ありがとうございました。


・・・下恩方町


八王子市西部、北浅川の中流に位置する。扇状地を中心に恩方グリーンタウンや繊維工業団地があり上恩方町と違い市街化している。
Wikipedia

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街道の風景① 八王子城分岐から丘を越えます。一帯は霊園だらけです/元八王子

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北からみる八王子城址         左に旧道が残ります/三光寺

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街道の風景② 右手が小田野城址、前方は川原宿になります

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入口が分かりませんでしたが小山が城址跡です

d0183387_14302215.jpg小田野城

八王子市西寺方町。八王子城(1587年・天正15年頃築城)とほぼ同時期に、八王子城主・北条氏照の家臣である小野田源太左衛門が築城したと伝えられる。「武蔵名所図会」では小田野氏の居館跡であるという。1978(昭和53)に八王子市教育委員会の実施した「深沢遺跡及び小田野城遺跡予備調査」でその実在が確認された。1590(天正18)の八王子城攻撃の直前、小田野城は上杉景勝の軍勢と大激戦の末、攻め落とされたとも伝わる。その後、小田野源太左衛門は小田源左衛門と改姓して水戸徳川家に仕官した。1983(昭和58)八王子城の一部として国の指定史跡となる。Wikipedia

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小田野城(緑:鎌倉道 橙:都道・小田野トンネル)


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d0183387_15153383.jpg心源院
(しんげんいん)
八王子市下恩方町にある曹洞宗の寺院。山号は深沢山。滝沢城主大石定久が開基したという。甲州征伐時、甲斐国から逃れてきた信玄の娘・松姫(信松尼)がこの寺で出家した。境内山門近くに八王子千人同心の小谷田子寅の碑が立つ。梵鐘の鐘には地元の詩人・中村雨紅直筆の歌詞が彫られている。Wikipedia

d0183387_14442814.jpg念記

深澤山心源院は遠江国榛原郡高尾村の曹洞宗龍門山石雲院末にして、文明年は季雲永缶大和尚を以って開山に拝請し、武州柚井の城主大石源左エ門道俊開基となり創立せしものにして、天正年間には八王子城主北條陸奥守氏照の祈願所となり巨刹の内に属せしが、北條氏滅亡後は徳川氏より御朱印20石を賜り代々寺領とせり。たまた慶安年間寺中より出火し七堂伽藍残らずは灰にきせしを諸星正之と言える者之を中興、以来綿々たりしが、昭和1612月に大東亜戦争宣せられるや当山も国難に応じたり。昭和2081日空襲による戦禍にあい諸堂を再び焼失せり。然るに昭和45年春当山檀信徒相謀り、本堂建設の運びとなり満2年の歳月を費やし茲に落慶を得たり。仏天の照鑑をこい偏にその加護あらん事を祈り之を記念して茲に記銘す。(石碑文)


d0183387_15005147.jpg信松尼
武田信玄の六女、出家前の名は松姫。天正元年(1573)に信玄が死去し異母兄の勝頼が家督を継承すると、松姫は兄の仁科盛信の庇護のもと信濃邦伊奈郡高遠城下(伊那市)の館に移る。天正10年(1582)には織田・徳川連合軍による甲斐への本格的侵攻が開始され、兄の盛信を高遠城において勝頼は新府城(韮崎市)から天目山へ逃れともに自刃し、武田一族は滅亡する。盛信により新府城へ逃がされた松姫は勝頼一行と別行動を取り、海島寺(山梨市)に滞在したのち盛信の娘である小督姫ら3人の姫を連れ、相武国境の案下峠を越えて武蔵国多摩郡恩方(現・八王子市)へ向かい金照庵(現・八王子市上恩方町)に入る。同年秋、22歳で心源院(現・八王子市下恩方町)に移り出家して信松尼と称し、武田一族とともに信忠の冥福を祈ったという。元武田家臣であり当時は江戸幕府代官頭の大久保長安は、信松尼のために草庵を作るなど支援、また武田家の旧臣の多くからなる八王子千人同心たちの心の支えともなったという。元和2年(1616年)に死去、享年56。草庵は現在信松院である。Wikipedia

八王子信松院の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22970417/)


d0183387_14464014.jpg小谷田子寅(こやたしいん)の碑
小谷田子寅は千人同心で宝暦11年(176144日、武州多摩郡川口村(現八王子市川口町)に生まれ名を小谷田権右衛門昌亮という。幼くして父をなくしたが勉学を好み天文学、洋学に詳しく特に医学に明るく薬を乞う者、診断を求める者があとをたたず民衆に慕われたという。この善徳を称えるため千人同心きっての硯学といわれた塩野適斎が撰文、同植田孟縉が書ならびに模刻したきわめて貴重な碑である。(八王子市教育委員会)

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d0183387_15162032.png下恩方秋葉神社/心源院裏山
建年代は不詳で、元文2年(1737)に別当心源院21世及び関口八兵衛により、拝殿が造営された記録が残っているそうです。

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街道の風景③ 向かいの峰が浄福寺城跡、麓に案下道・北浅川が流れます/
心源院



・・・川原宿


下恩方町の旧小名・小字。バス停川原宿のある北浅川北岸から対岸の山稜上にある高丸山までの地をいう。北浅川の谷口集落にあたり、陣馬街道沿いにのびる街路には戦国期以来の宿の地割形態がよく残る。恩方郵便局、心源院・称讃寺・法妙寺、秋葉神社、二十三夜塔、河原宿橋、川原宿大橋がある.
(Web八王子辞典)

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街道の風景④ 川原宿です。鎌倉道は左手尾根の麓を真直ぐに北進します/
心源院

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北浅川より八王子城址を望みます/川原宿大橋

d0183387_15320768.jpg浅川

八王子市・相模原市の境目にある陣馬山(857m)や堂所山(731m)に源を発し東へ流れ、日野市石田付近で多摩川に合流する。日野台地と多摩丘陵(七生丘陵)にはさまれて流れる。小仏峠を源流とする南浅川の合流地点(八王子市役所付近)より上流を通称として北浅川と呼ぶ。かつての浅川は今よりももっと南を流れており多摩川との合流地点ももっと下流の関戸橋付近にあったことが知られている。八王子市楢原町付近(中央道の架橋下付近)の流域ではメタセコイヤの化石や新種のハチオウジゾウの一部の化石が発見されている。Wikipedia

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街道の風景⑤ 案下道から浄福寺城に寄り道します/川原宿交差点先

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この辺りが八王子城の搦め手・松竹になります

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浄福寺山門

d0183387_16015849.jpg浄福寺

真言宗智山派。緑濃い山を背に静寂な中に佇む千手山浄福寺は、古くより教線を遠く甲州にまで及ぼした古刹である。古くは寺号を千手山普門院城福寺と称したが江戸後期に浄福寺と改めた。草創は文永年間(12641274)広恵上人によると伝えられる。大永5年(1525)大石道俊及び憲重父子が大檀那となり長尊により再興された。天正19年(159111月御朱印10石を賜り、境内一万一千四百坪を有したといわれ、八王子、山梨にまたがり末寺15ヶ寺を擁した。背後の山は新城(浄福寺城)と呼ばれ至徳元年(1384)大石信重開城の案下城とみなされている。境域及び後山には多くの遺構が見られ中世城郭としてまた大石氏の経緯を知る上で重要な城跡である。(境内・城跡一帯は八王子市指定史跡)(八王子仏教会)

d0183387_16042959.jpg浄福寺城観音堂内厨司

「新編武蔵風土記稿」にある観音堂の古棟札の写しから大永5年(1525)観音堂が建立されたことがわかり、この厨司もその頃造られたと推察されます。厨司は本尊の千手観音像を安置するための入れ物で建物の形を模しています。四方に丸柱を立て正面には両開戸を備えます。扉は桟木を組んで枠とし間に鋭い山形の鎬(しのぎ)があるのが古式で、関東や東北地方の室町時代の遺構に特有なものです。組物と屋根は後補材ですがその他の大部分は当初のものを良好にほぞんしています。室町時代の様式と地方性を備える数少ない例として貴重です。もともとは山頂の観音堂にありましたが昭和53年に本堂に移設されました。(東京都教育委員会)

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安下道は浅川対岸の山裾を通っていたそうです。左手に圏央道が通ります/
浄福寺



・・・浄福寺城址


d0183387_17423280.jpg浄福寺城

現在の八王子市下恩方町。新城(にいじょう)、案下城(あんげじょう)、松竹城(まつたけじょう)、千手山城(せんじゅさんじょう)など様々な別称で呼ばれていた。城の南側、陣馬街道に沿って、大石氏によって開基された浄福寺がある。この寺は当時武将が待機する居館との説もある。八王子教育委員会の説明板によれば、大石氏は系図(山木伊藤家伝)によれば木曽義仲の後裔が信濃国大石郷に住んでいたが、1356(延文元年)入間・多摩に13郷を得て多摩に移住し、二宮(現・あきる野市)から浄福寺城、高月城(長禄2年)、滝山城(大永元年)と次第に大豪族となり城を移したといわれ大石氏の経緯を知る上でも貴重な城跡であるという。なお、近年において齋藤慎一が同地域に関する古文書や浄福寺城の遺構に関する分析から、従来の大石氏に関する伝承を否定して、浄福寺城こそが後の「由井領」の由来ともなった大石氏の本拠である由井城(ゆいじょう)であり、大石氏を継承した北条氏照も当初はここを本拠としており永禄10年(1567)頃になって初めて滝山城を築いて本城を移したとする説を提示している。Wikipedia

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本堂の裏手から浄福寺城址へ向かいます

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尾根道は観音堂への参道になっています

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いい道ですが段々と嶮しい上りになります

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竪掘でしょうか            尾根を堀切っています


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主郭跡

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主郭にたつ小さな祠          腰曲輪

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浄福寺城址縄張り図

d0183387_17424592.jpg市史跡浄福寺城跡
浄福寺城は関東山地から連なる標高356mの尾根を利用して築かれた城で、南側には北浅川が流れています。城の高低差は約160mもある要害の城です。尾根頂上部に主郭を配し、ここから四方にのびる尾根を堀切り、ところどころに小さな曲輪を造作し居住に適した広い面積を持つ曲輪を設けず防御のみに徹した縄張りをしています。築城者については不明な点が多く「武蔵名勝図会」によると、関東管領上杉氏の武蔵守護代であった大石氏といわれています。近年の研究では大石氏の養子に入った北条氏照の初期の居城とも、八王子城の搦め手に位置することから八王子城の出城ともいわれていますがはっきりとはしていません。中世の八王子を知るうえで貴重な城址です。(八王子市教育委員会)

八王子城址の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23894925/


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戻るつもりでしたが、地元の方から東の尾根から行けますよ、と伺い行ってみました。

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主郭直下の堀切です               細尾根の下り、緊張します

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圏央道が見えてきました、いい眺めです


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尾根を下ると御嶽神社に出ました

d0183387_00463675.jpg御嶽神社
下恩方町。祭神少彦名命、大己貴命、大山祇命。例祭日48日。創建年代は明らかでないが1667年(寛文7)に勧請したとの伝説がある。現在の社殿は1687年(貞享4)再建による。境内に菅原神社がある。例祭神事は百八灯の行事が行われる。
(Web八王子辞典)



・・・辺名


下恩方町の旧小名・小字。同町の西北端にあり小津川の両岸にまたがる。下原鍛冶の発祥の地とつたえ、市史跡下原鍛冶発祥の地の碑が建つ。「辺名の桜」で知られている。辺名町会館、医王寺、金山神社、バス停辺名がある。
(Web八王子辞典)

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街道の風景⑥ 街道に戻った先、左手に旧道が残ります。

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ここを左折します           旧道のお地蔵さん

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辺名三叉路(モリアオガエルの道)   三叉路の石仏群

モリアオガエルの道

下恩方町元木小学校から小津林道入口までの道路名。1990年(平成2)命名。(Web八王子辞典)

d0183387_10483132.jpg下原刀鍛冶発祥の地碑(下恩方町126)/ 圏央道の手前

下原刀は永正の頃(15041520)、ときの領主大石氏の招きに応じ、この地にきて鍛刀した周重(ちかしげ)と名のる刀匠を祖とする。のち隣接の地、恩方下原に移り北条氏ならびに徳川氏の庇護をうけ、以来一族十家に繁栄し、その作刀は全国に流布され独特の鍛練法による下原肌なる作風を示して数多くの名刀を残している。(Web八王子辞典)

d0183387_10503374.jpg金山神社
/辺名町会館
下恩方町辺名。創建年代は明らかではないが一説には下原刀鍛冶の祖先が祀ったものという。江戸初期の棟札が保存されている。木造の社殿は1985年(昭和60)ごろ取り払われた。
(Web八王子辞典)

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医王院/
下恩方町辺名
薬師山医王寺。曹洞宗下恩方心源院末。開山禅室祖参上人。本尊釈伽如来。創建は慶長年間(15961615)で、第2世林翁上人が一宇を現在地に建立、その後幾多の興廃を経て現在に及ぶ。
(Web八王子辞典)

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街道の風景⑦ 道は消えてますので丘を都道のトンネルで越えます/桜木橋

d0183387_11154278.jpg都道61号山田宮の前線

あきる野市山田から八王子市上川町を経由して同市元八王子町に至る主要地方道である。通称名は秋川街道交点以北が都道185号山田平井線と合わせて「山田通り」、以南が「美山通り」である。Wikipedia

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小津川/桜木橋
小津川小津町西端の入山峠を水源として東南流し、同町原でニシ沢と合流してさらに東流、下恩方町元木付近で山入川に注ぐ川。原から上流を入山川と呼ぶ。谷ぞいに小津林道がのびる。かつては峠までの小道があったがいまは廃道となっている。(Web八王子辞典)

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圏央道から浄福寺城址の東尾根を振り返ります/八王子西IC


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ルートマップ(高尾~下恩方)
(赤:鎌倉道 橙:案下道(陣馬街道)紫:甲州街道 赤丸:八王子城・小田谷城・浄福寺城)


by Twalking | 2017-03-16 11:20 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道山之道 元八王子02- 八王子城址   

日時 2017.2.25(土)
天気 晴れ


八王子宿は八王子落城後に新たに造られた街、
そのもとである「元八王子」には興味がありました。
鎌倉道の筋道なのでじっくりと見てみました。

深沢山の頂からみる滝山城下と現在の八王子市街
そして眼下の元八王子、すばらしい景観であるとともに
このトライアングルの風景は歴史を物語っています。

「知識」としてではなく、まさに「実感」として
その歴史を肌で感じた旅となりました。



・・・根小屋地区(城下)


家臣の屋敷や寺院などの存在が予想されていますが、調査範囲が狭いことや落城以降の開発の跡があり、今のところ区割状の遺構、掘立柱建物跡、井戸などが確認されているのみです。(八王子市教育委員会)

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この辺りが中宿と呼ばれている所です/宗関寺門前

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城下入口にお地蔵さん2体            稲荷神社


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宗関寺山門


d0183387_23272557.jpg宗関寺

曹洞宗。延喜年間の草創で天慶2年朱雀天皇から領地を賜り勅願所として牛頭山神護寺とした。北條氏照が八王子城を築き、永禄7年牛頭山を復興した。天正18年落城翌年再興し朝遊山宗関寺とした。現在の場所には明治25年に移築(元の場所は氏照墓所辺り)された。(八王子仏教会)

d0183387_23315025.jpg梵鐘
この梵鐘は元禄2(1689)711日宗閑寺開基・北条氏照百回忌供養のため鋳造されたものである。鋳工は椎名伊予良寛、同兵庫重長と銘文にある。寄進した中山信治は八王子城落城の折、討ち死にした中山家範の孫にあたり水戸藩家老・中山家3代目当主。口径72.5㎝、高さ1.5mで釣手に龍頭をあしらい、乳の間には一間五段五列の乳頭、草の間には連続唐草紋が鋳出されたみごとな梵鐘である。池の間には北条氏照百回忌追悼文が刻まれ資料的にも貴重である。太平洋戦争中、元禄年間(16881704)以後の梵鐘は応召されたが市内ではこの梵鐘等数点のみが残されているだけである。(八王子市教育委員会)

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城下から仰ぐ八王子城(深沢山)/宗関寺

城山

八王子市にある標高446mの山である。その他の城山と区別するために八王子城山とも呼ぶ。かつては深沢山(ふかざわやま)とも呼ばれ八王子城があった。直下に圏央道の「八王子上城跡トンネル」が通っている。Wikipedia


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d0183387_23404311.jpg北条氏照及び家臣墓(都指定旧跡)

北条氏照は早雲の孫・氏康の子で、関東管領上杉家の老臣大石定久に代わって永禄2年(1559)頃滝山城主となったとされています。氏照はほかに榎本・古河・栗橋など数城を併有したとされ、後北条氏の勢力拡大に大きく寄与した人物でした。武蔵国と甲斐国の境に大規模な山城である八王子城を築いたことでも有名です。天正18年(1590)の小田原攻めでは豊臣秀吉の武将前田利家・上杉景勝らの軍勢に対する家臣中山勘解由らの防戦もむなしく八王子城は落城しました。兄氏政を助けて小田原城にいた氏照も開城後兄とともに切腹を命じられました。現在ある氏照の供養塔勘解由の孫水戸藩家老中山信治が氏照の死後100年忌の追善供養のために建てたものです。両脇には家臣であった勘解由と信治自身の墓もあります。(東京都教育委員会)

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園路を通ってエントランス広場へ/ガイダンス施設

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国史跡八王子城跡全景模型(1/1000縮尺)/
エントランス広場

八王子城の構造
八王子城は関東山地東端の独立峰のようにそびえる標高460mの深沢山を要害とし、その南麓に居館群を配置した戦国時代最終期に築かれた城館です。要害は山頂の主郭(本丸)を中心に松木、小宮曲輪、無名の曲輪を配しそれぞれ腰曲輪が取り巻いています。そこから派生する幾筋かの尾根に適宜削平されて防御用の小さな平場が造成されており、円錐形の急峻な要害は守り易く攻め上りにくい構造といえます。居館群のうち城主氏照の館(御主殿)が発掘調査されています。曳橋を渡り右に折れた道路を進むと左に折れ石段を登ります。石段の途中の踊り場には四脚門の礎石が残り、さらに進むと枡形の虎口と考えられる大型の礎石建物と数棟の付属建物、庭園が発見されています。要害・居館の他、城山川に沿った谷筋の根小屋地区、対岸尾根筋の太鼓曲輪など外郭防衛遺構も含めて考えると東西約2km、南北約1kmにも及び、八王子城の縄張の範囲はさらに広大なものとなり、史蹟として指定されているだけでも約159haにもなります。(八王子市教育委員会)

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史跡区域を表示した全体図(緑:山の道(秋川街道) 青:城山川・滝ノ沢)



・・・要害地区


要害地区は急な斜面に守られた山頂から尾根の上に造られています。山頂付近は本丸、松木・小宮などの曲輪群があり、西側には詰めの城と呼ばれる曲輪が残っています。合戦の時に籠城して戦うところで、兵糧を入れる倉庫などが建てられていたと思われます。今でも2ヶ所に井戸が残されています。(八王子市教育委員会)

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この鳥居をくぐって山頂(本丸)を目指します


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二の鳥居               観音堂

観音堂(福善寺)
千葉県に福善寺と呼ばれる寺があり、円通寺住職の余生を送るためや若い僧の修行に使い隠居寺であった。福善寺が江戸時代に荒廃し円通寺は明治の始に渋谷の吸江寺と合併した為、拙堂和尚が城跡に福善寺を復興した。Wikipedia

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金子丸跡

金子三郎左衛門家重が守っていたといわれている曲輪です。尾根をひな壇状に造成し敵の侵入を防ぐ工夫がされています。(八王子市教育委員会)

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搦め手口からのルート(右)が合流します/柵門跡

柵門跡

山頂の本丸方面へ続く道の尾根上に築かれた平坦地で柵門跡と呼ばれています。名前の由来など詳しいことは不明です。(八王子市教育委員会)

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「高丸」の標識、旧道でしょうか    素晴らしい展望が待ってます

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眼下の谷が元八王子、加住丘陵を越えて攻め込まれたんですね


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八王子神社

延喜13年(913)深沢山の麓、華厳ヶ谷(けいがやつ)に庵を結んだ華厳菩薩妙行が山頂で修業中、牛頭天王と八人の王子が出現しました。その因縁によって延喜16年(916八王子権現を祀り、山麓に宗関寺の前身となる神護寺を建立したといわれています。北条氏照は八王子城の築城にあたりこの伝説に基づいて八王子権現を城の守護神としました。また「八王子」の起源ともされています。(八王子市教育委員会)

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武劦八王子古城之図(慶安元年)

本丸周辺の曲輪

標高460mの深沢山山頂に設けられた本丸を中心に松本曲輪、小宮曲輪などの曲輪が配置された要害部は、籠城のための施設と考えられます。急峻な地形を利用した山城は下からは攻めにくく、上からは攻撃できる守りには有利な構造です。天正18年(1590)旧暦623日豊臣秀吉の命を受けた前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの軍勢に加え降参した北条勢を加えた数万の大軍が八王子城に押し寄せました。小田原に籠城中の城主北条氏照を欠いた留守部隊は、必死に防戦しましたが1日で落城しました。激戦の末守備した北条勢はもちろんのこと、攻めた豊臣方も多くの犠牲があったようです。(八王子市教育委員会)


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d0183387_01110551.jpg松本曲輪

中山勘解由家範(いえのり)が守っていたといわれる曲輪です。中の丸とも二の丸とも呼ばれていました近くには「坎井」(かんせい)と呼ばれる井戸があります。前田利家の軍勢と奮戦しましたが多勢に無勢で防ぎきれなかったといわれています。この時の家範の勇猛ぶりが徳川家康の耳に入り、その遺児が取り立てられ水戸徳川家の過労にまでなりました。(八王子市教育委員会)

中山家範
(いえのり)
父は丹党加治氏一族の中山家勝。通称は勘解由左衛門、助六助。子に中山照守、常陸水戸藩付家老の中山新吉。父家勝は武蔵飯能の豪族で山内上杉氏の家臣だったがのち後北条氏へ仕えた。主君氏照の元で勇戦し、その武名は関東一円に轟いた。Wikipedia


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d0183387_01255250.jpg本丸跡(城山山頂)

城の中心で最も重要な曲輪です。平地のあまり広くないため大きな建物はなかったと考えられます。横地監物吉信が守備していました。(八王子市教育委員会)


詰めの城

八王子城の西限です。本丸の背後を警戒するほか、本丸が敵の攻撃に支えられなくなった時、最後の拠点となる場所です。西側には敵を防ぐために尾根を掘りのように削り取って寸断させた深い堀があります。(八王子市教育委員会)


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d0183387_01224530.jpg小宮
曲輪
狩野一庵が守っていたといわれる曲輪です。三の丸とも一庵曲輪とも呼ばれていました。上杉景勝の軍勢の奇襲にあい落されたといわれています。(八王子市教育委員会)

狩野一庵
(いちあん)
伊豆衆・狩野氏の一族と思われ、佐藤博信により狩野泰光と同一人物であることが判明した。はじめ北条氏康に馬廻りとして仕えるが、永禄11年(1568)以降に北条氏照の奉行人となり、主に奏者として氏照支配下の国人衆との連絡役を務めたり、八王子城や滝山城の留守居役などを任されている。Wikipedia



・・・居館地区


城山川沿いの山麓に御主殿と呼ばれる大きな館跡とその東側にアシダ曲輪などの曲輪群が残っています。御主殿は城主である氏照の居館跡とされ、アシダ曲輪は有力な家臣の屋敷跡と考えられています。平成4
5年にかけて行われた御主殿の調査では大きな建物の跡や石を敷いた通路、溝などが発見され、庭園があったことも分かっています。(八王子市教育委員会)

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入口広場から古道を御種殿に向かいます


d0183387_13422605.jpg大手の門跡

昭和63年(1988)の確認でおの存在が明らかになりました。以前から八王子城の古図などでこのあたりに門などの施設があることは予想あれていました。発掘された礎石や敷石からいわゆる「医薬門」と呼ばれる形状の門と考えられています。


d0183387_13422126.jpg大手と搦手

一般に城の裏門にあたる所を『搦手』と呼びます。なぜ裏門を搦手と呼ぶのかというと、正門から攻めてきた敵を背後から「搦め取る」軍勢が出撃するためという説があります。そのためか正門は「追手」(おうて)がなまって「大手」になったともいわれています。八王子城の搦手は城の北側の恩方方面にあったといわれ、滝の沢口とも言われていますが滝は落ちるという意味に通じるので、当時は霧降ヶ谷(きりふりがやつ)と名前を変えたとも言われています。(八王子市教育委員会)


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d0183387_13503803.png古道(大手道)

発掘調査では当時の道は明確に検出されませんでしたが、門跡の存在や橋台の石垣の検出さらに平坦部に連続していることからここが御主殿にいたる大手道であったことが明らかになりました。現在の道はこの地形を利用して整備されたものです。当時はここから城山川の対岸にアシダ曲輪や御主殿の石垣、城山の稜線にそって連なる多くの曲輪や建物が見渡せたと思われます。(説明板)


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曳橋


d0183387_14111838.png橋台石垣と曳橋

城山川の両岸の斜面に橋を架けるための橋台石垣が発見され、御主殿へわたる橋の存在が確認されました。当時はこの橋台に簡単な木橋を架け、この橋(曳橋)を壊すことによって敵の侵入を防いだものと考えられます。橋台は検出した石垣の崩れた部分を新たに補い想定復元したものです。また、橋そのものは現代の工法で建造したものですが史跡の景観に合うように木造にしました。(説明板)

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「八王子城本丸跡荒涼ノ図」/新編武蔵風土記稿(国立公文書館所蔵)


d0183387_14001190.png御主殿への経路

御主殿へは城山川上流域を超えて向かうため、このあたりに橋が架かっていたと考えられます。しかし当時の正確な場所や構造、名称は分かっていません。これまで使用していた「曳橋」という名称は江戸時代後期の地誌『武蔵名勝図会』(文政3年・1820脱稿)に記載によるものです。右下のお拡大図にあるようなすぐに壊すことが出来る簡素な橋が架けられていたと考えられます。今回の整備した橋は当時の復元ではなく、見学者が御主殿へ行くための通路として城山川に架けたものです。落城後の八王子城を描いたものには「八王子城古図」のほか「武蔵名勝図会」「新編武蔵風土記稿」などがあります。「曳橋」の名称を記載しているのは「武蔵名勝図会」だけです。(八王子市教育委員会)

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櫓門跡

櫓門跡

この踊り場からは4つの建物礎石が発見されました。両側の石垣の下に敷石面より10cm程高くなっている大きな石がそれです。礎石の間は東西約4.5m、南北3.6mあります。想定される建物は通路の重要な位置にあることから物見や指揮をするための櫓門であったかもしれません。(説明板)


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築城当時の石垣

この石垣は土の中に400年間くずれずによく残っていたためで、検出したそのままの状態にしてあります。戦国時代の石積様式を示す全国でも貴重なものです。その特徴はこの城山山中から産出する砂岩を利用してひとつひとつ丁寧に積み重ね、その隙間には小石を詰めて全体として強固な石垣としていることです。石垣の勾配が急な事、石垣の裏側にたくさんの砕いた石を入れていることも特徴です。(説明板)


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御主殿虎口
城や曲輪の入口は虎口と呼ばれ、防御と攻撃の拠点となるようさまざまな工夫がこらしてあります。御主殿の虎口は木橋を渡った位置から御主殿内部まで高低差約9mを「コ」の字形に折れ曲がった階段通路としていることが特徴です。階段は全体で25段、踏面が平均1m、蹴上が36cm、約5mの幅を持っています。途中の2ヶ所の踊場とともに全面に石が敷かれているのは八王子城独特のものです。(説明板)

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御主殿跡

d0183387_19213481.png御主殿跡

御主殿は落城後は徳川氏の直轄領、明治以降は国有林であったため余り人の手が入らず落城当時のままの状態で保存され、落城時の状態のままで保存され遺構の状態も良好でした。平成4年から2年間、発掘調査行い城主であった北条氏照が執務を行ったと考えられる大規模な礎石建物跡をはじめ、さまさまな遺構が発見されました。調査の結果、氏照の生活の場はここからさらに奥に眠っていると思われます。また中国の磁器類の破片や陶器、鉄砲弾をはじめとする武器や武具類などの遺物が発見されました。中には当時の武人のたしなみであった茶道具や当時でも極めて珍しかったと思われるベネチア産のレースガラス器の破片も含まれ、氏照の生活ぶりがうかがえます。(八王子市教育委員会)

d0183387_19372834.jpg主殿
主殿は中心となる建物で政治向きの行事が行われたと考えられています。広さは15間半×10間(29.4m~19.8m)で、折中門と呼ばれる玄関から入ります。大勢の人が集まる「広間」や城主が座る「上座」などがあります。建物は平屋で屋根葺は瓦ではなく板葺か檜皮葺と思われます。


d0183387_19233004.jpg会所

会所は主殿で儀式を終えた後、宴会などを行った場所と考えられます。広さは11間×6間(20.9m×13.3m)で、北側が主殿と廊下でつながっています。会所の北東には庭園が造られています。(説明板)



d0183387_19491599.jpg池を中心とする庭園遺構

会所と主殿の建物に囲まれた範囲に池を配した庭が見つかりました。池は2段ないし3段に石を組んで護岸施設をつくり、池と陸とわかれるような構造となっていました。池底には粘土がはられていましたが、各種分析の結果からみると大雨の後に水が溜まった程度ものであったと考えられます。池の西側には池の近くに寄れるように石を敷き詰めた通路も見つかっています。池や庭に使われた石は八王子城周辺の山からとれる砂岩という石で、他から運んできたものではないようです。池の全容が明らかになっていないため今回は整備を行わず埋め戻したままになっています。(八王子市教育委員会)


d0183387_20022819.jpg御主殿の滝

天正18年(1590623日の豊臣秀吉の軍勢による攻撃で落城した際に、御主殿にいた女性や子供、将兵たちが滝の上で自刃をし、次々に身を投じたといわれています。その血で城山川の水は三日三晩、赤く染まったとの言伝えが残っています。(八王子市教育委員会)

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居館地区案内図


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資料ファイル


d0183387_00522744.png北条 氏照

天文9年(1540年)北条氏康三男として生まれ初め武蔵滝山城城主、後に八王子城城主となった。永禄2年(1559)信濃木曾氏一門の武蔵滝山城主大石定久の娘・比佐を娶り、養子縁組をして大石源三氏照と名乗り家督を譲られる。後に姓を北条に復して大石氏を配下に組み入れたとされる。自領であった現・相模原市方面の各村への文書では「油井源三」を名乗っており、氏照が大石氏を継いだ当時由井城(油井城)が同氏の拠点であり滝山城はまだ存在しておらず、滝山城は家督継承後の氏照が築城したとする説もある。
その後、氏照は父に従って小田原城の戦い直後の永禄4年(1561)には辛垣城の三田綱秀と、永禄7年(1564)には里見氏と、天正2年(1574)には簗田氏と戦い主に東方を担当して後北条氏の勢力拡大に大きく寄与した
永禄10年(1568)武田信玄の家臣・小山田信茂らの軍勢が小仏峠を越え相模国に侵攻した。氏照は中山家範・横地吉信らに迎撃を命じたが高尾山麓の廿里(現、八王子市廿里町、廿里古戦場)にて敗退。その後余勢を駆って押し寄せた武田勢に攻め立てられ、滝山城は三の丸まで陥落し氏照は二の丸で指揮をとったという(この時、氏照と武田勝頼が槍をあわせたとも伝わる)。このような氏照の奮戦により最終的には武田軍に滝山城の攻略を断念させている。永禄11年(1569)再度来襲した武田の軍勢が小田原城を囲んだ。撤退する武田勢を氏照・氏邦の軍勢が迎え撃ったが、小田原から追撃してきた本隊の動きが遅く挟撃体制は実現しなかった。この間に武田別働隊が氏照・氏邦の陣よりさらに高所から襲撃し戦局は一転、氏照・氏邦は敗北した。戦国最大規模の山岳戦として知られる三増峠の戦いである。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際には徹底抗戦を主張し、居城である八王子城には重臣を置いて守らせ自身は小田原城に籠もっているが、八王子城は上杉景勝、前田利家に攻略された。小田原開城後、秀吉から主戦派と見なされ711日に兄・氏政と共に切腹を命じられた。享年51歳。Wikipedia

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「勝頼山城接戦図」桑都日記/国立公文書館所蔵

滝山城で武田信玄と戦う
永禄11年(156812月甲斐の武田信玄は同盟を破って駿河に攻め込みます。今川氏真の救援要請を受けた北条氏は信玄と戦うことになりました。翌129月、信玄は大軍を擁して上野から南下し北条領に攻め込んできます。9月末には拝島に本陣を置いて滝山城を攻撃しました。武田勝頼が中の丸の門まで攻め込んだといいます。しかし、武田勢は3日後の夜半に軍を引き小田原城を攻めるため相模国へと進軍していったのです。(ガイダンス施設展示資料)

滝山城の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23871197/


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八王子城に攻め入る豊臣軍

武蔵名勝図会(国立公文書館所蔵)/ガイダンス施設展示スペース


八王子城合戦

小田原征伐の一環として1590年(天正18年)724 (旧暦623)、八王子城は天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの部隊15千人に攻められた。当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野守主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民・婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠ったに過ぎなかった。豊臣側は前夜のうち霧をぬって主力が東正面の大手口(元八王子町)・北側の絡め手(下恩方町)の2方向より侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。その後は激戦となり1000人以上の死傷者を出し一時攻撃の足が止まった。その後、絡め手側別働隊の奇襲が成功しその日のうちに城を落とした。氏照正室・比佐を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。城代の横地監物は落城前に桧原村に脱出したが小河内村付近にて切腹している。八王子城攻防戦を含むこの小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は兄・氏政とともに切腹した。その後新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となった。Wikipedia

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八王子城遺構鳥瞰図/ガイダンス施設展示スペース


二つの城をさわってみよう(模型縮尺1/3000)


d0183387_11533683.png滝山城
滝山城は標高170mほどの加住北丘陵に築かれた城で、北側を流れる多摩川との比高いおよそ40mの要害となっています。本丸と呼ばれる主郭を中心に土塁と深い空堀に囲まれた郭が連なっています。それぞれの郭は広いのですが、高低差は少ないのが特徴といえましょう。


d0183387_11532925.png八王子城

一方、八王子城は関東山地の東端部にある標高約460mの深沢山を要害域とし、比高約200m下の山裾を切り盛りして御主殿と呼ばれる氏照の館のあった郭を中心に、いくつかの郭群が連なって築かれています。少人数でも守り易い戦闘を意識した城郭といえましょう。(ガイダンス施設展示スペース)


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中央右が伝氏政、左が伝氏照の墓(五輪塔)です


d0183387_12344796.jpg北条氏政・氏照の墓所/小田原市
北条氏政は北条氏4代の領主、氏照は氏政の弟で八王子城など5つの支城の城主でした。天正18年豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原城が落城すると、5代領主氏直は高野山に追放され、父氏政とその弟氏照は城下の田村安斎邸(現南町)で自刃しました。両人の遺体は当時この地にあった北条氏の氏寺伝心庵に埋葬されました(現在永久寺所有)その後、放置されていた墓所は稲葉氏が城主の時(16331685)北条氏追福のため整備されました。大正12年の関東大震災では墓所が埋没する被害を受けましたが、翌年地元の有志により復元されました。(小田原市教育委員会)

小田原城の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/17727076/



by Twalking | 2017-03-02 17:10 | 鎌倉街道(新規)