無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カテゴリ:鎌倉街道(新規)( 36 )   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(8)西大家~鳩山01-市場   

日時 2017.12.14(木)
天気 晴れ


風は冷たいですがいいお天気です。
ウオーキング行事が続き、おまけの腰痛で
自重してましたが、治まったので出掛けました。

電車を乗り継いで西大家から笛吹峠を目指しますが、
ここは鎌倉街道の遺構が多く残るところなので、
じっくりと見てみたい所、楽しみたいと思います。



・・・大家(村)(おおや)/坂戸市


埼玉県入間郡に存在した村。村名の由来はかつてこの地が『和名抄』において「大家郷」の在った所であるという伝承による。現在の坂戸市の南西部に位置しほぼ村内を高麗川が貫流、北東から南西にかけて長い形の村であった。現在の坂戸市厚川、萱方、成願寺、欠ノ上、森戸、四日市場、多和目及び鶴舞、けやき台、西坂戸がほぼ旧村域にあたる。現在は旧村内を東武越生線が通り、西大家駅が設置されている。県立坂戸西高校、城西大学、明海大学が現在ある所も旧大家村内である。
Wikipedia

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街道の風景① 踏切横の水路が鎌倉道の遺構でしょうか?右手の森が神社です/西大谷駅

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国渭地祇神社(
くにいちぎじんじゃ)鳥居/森戸


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国渭地祇神社
当村は高麗川の南岸に位置する。ここは川沿いが低地で南にいくほどゆるやかな台地状になっている。当社はこの村の鎮守として鎮座し、社前の往来は旧鎌倉街道であると伝える。社名は「クニイチギ」と読み、これはおそらく水と関係あるものといわれる。延喜式内社国渭地祇神社の伝承地については、従来、所沢市吉野に鎮座する北野天神社であることが定説となっている。しかし、当社の社殿から鎌倉期とおもわれる古瓦が出土していることや、樹相などが古いということを考えると、古社であることはまちがいない。もと、当社は国一熊野大権現と称していた。この社名の国一美称で国で一番すばらしい社であるという意味が込められこれが後に国渭地祇に転化されたものと思われる。このため社の創立は、越生の本山派修験山本坊と直接結びついていた別当三宮山大徳院の活動にかかわるものではないかと考えられる。社記には、延歴年中、坂上田村麻呂が東征の帰途、奉賽のため社殿を再営し、下って奥州藤原秀衛が再建したと伝えている。(埼玉の神社)

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森戸の獅子舞
秋になると豊年を祝う獅子舞が市内の各地で行われます。竹で作った「ささら」と呼ばれる楽器を使って獅子舞を踊るので「ささら舞」とも言われ、昔から地元の人々によって受継がれてきました。森戸の獅子舞は江戸時代に始まったと伝えられ、国渭地祇神社と周辺の神社のお祭りに舞われます。獅子は悪霊払いの霊獣として崇められ古来、祭りの主役として獅子舞が全国各地で行われてきました。森戸の獅子舞は江戸時代の安永6年(1777)に始まったと伝わっていますが記録などは残っていません。国渭地祇神社と周辺の神社へ毎年1015日に奉納されます。獅子舞の演者は雄獅子、雌獅子、中獅子の三頭でこれに山の神の天狗、軍配を振って舞いを盛り上げる配追い、花笠をかぶったささら子、これにほら貝、笛吹き、唄うたいが加わります。演目は「すり違い」「竿がかり」「花すい」「秋葉社の舞」「宮まいり」があります。獅子舞の当日はほら貝の合図で社殿を一周する「宮まいり」から始まり、境内で「すり違い」を舞います。四日市場、森戸の秋葉社へ行列を組んで行きそれぞれの神社に舞を奉納します。神社への行き来の間、国渭地祇神社の境内にもどり「竿かがり」を舞い、最後に神社境内で「花すい」を奉納して舞納めとなります。行列の先頭を行く万燈には天下泰平、五穀豊穣、風雨順調、氏子繁昌との願いが記されています。祭の当日に立てられるのぼり旗の文字は巌谷修(児童文学者巌谷小波の父)の書によるものです。(坂戸市教育委員会)


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万葉遺跡大家が原歌碑/坂戸市大字四日市市場
万葉集 巻14に『入間道の大家が原のいはゐづら ひかばぬるぬる吾に絶えそね』と歌われるごとく大家は古い歴史をもつが、和名抄所載入間郡の郷名に大家(於保也介)と見えている。しかしこの大家郷が現在の越生から坂戸の一部大家付近と推定されるだけでいまだ確かな論証はされていない。この歌は入間野に生うるいはゐずらが引けばぬるぬると続いて切れないように、私とあなたの間柄もいつまでも続いて欲しいと率直にその愛を表現したのであろう。この入間道こそ武蔵と上野の国府を結ぶ官道で中世以降は鎌倉街道として重要な役割を果し、新田義貞・畠山重忠ら名将武将もこの道を鎌倉へ上ったのである。なおいはゐずらについては水生植物のジュンサイ説スベリヒユ説があるが定説はない。(坂戸市教育委員会)

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入間郡
7世紀ごろに武蔵国のとして成立。交通路として古代の官道東山道武蔵路枝道入間路」が整備されていたほか、入間川及びその支流の水運も使用していた模様である。『万葉集』巻14東歌(あずまうた)・3778番に「伊利麻治能 於保屋我波良能 伊波為都良 此可婆奴流奴流 和尓奈多要曽称」(入間道の 於保屋が原の いはゐつら 引かばぬるぬる 吾にな絶えそね)がある。現在「入間」は「いるま」と読むが古くは「いりま」と発音していたことが知られる。郡衙は現在の川越市にあったものと見られ、同市大字的場字地蔵堂の霞ヶ関遺跡が郡衙跡であろうと考えられている(所沢市・坂戸市内の別の遺跡を郡衙跡に比定する説もある。またこれらの遺跡は古代の駅家跡であると見る意見もある)。716、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗の遺民1799人を武蔵国に移し高麗郡を設置。この際に入間郡域の西側の一部を高麗郡域に当てたものと見られる。高麗郡は律令制下では小郡に分類され、二郷のみであったものの中世以降高麗郡域が東側に拡大し、江戸時代には入間川が入間郡と高麗郡の境界となっていた。また758朝廷は帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の空いた場所に移した。その場所が後に新羅郡、更に新座郡となる。同郡の郡域は入間郡の東辺の一部を割いて設けたものと見られ、郡内は志木郷と余戸のみの小郡であった。833年、多摩郡との境に悲田処が設けられた。中世以降「入間路」は鎌倉街道上道の本道となったWikipedia

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川の風景① 秩父の山を借景にして滔々と流れます、長閑ないい風景ですね

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高麗川/森戸橋
埼玉県南西部から中部にかけて流れる荒川水系の一級河川である。越辺川の支流。埼玉県飯能市、秩父郡横瀬町、比企郡ときがわ町の境である苅場坂峠(かばさかとうげ・818m)付近に源を発し、南川と北川が合流して高麗川と呼ばれるようになる。飯能市、日高市、毛呂山町を流れその間に長沢川、宿谷川などの支流を合わせ坂戸市越辺川に合流する。かつて高句麗からの亡命者を受け入れた高麗郡(現在の日高市周辺)を流れることからこの名がある。日高市の中心部にある高麗川駅の駅名も高麗川に由来する。(Wikipedia

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街道の風景② 道端にぽつんと庚申塔、高麗川の低地湿地から台地へ上ります/市境付近


・・・市場/毛呂山町

新編武蔵風土記稿の大類村「鎌倉道」の小名の状に『西方川角村の境をい云う、ここに古道あり(省略)南方大久保・市場二村の間に通ぜり、今は尤も小径となれり、是は鎌倉治世の頃、上下野州より鎌倉への往来なり、今も此細径を北へ往ば、越辺川を経て児玉郡本城宿へ通ぜり、南の方は市場・大久保の境を過、高麗川を渡りて森戸・四日市場村の間をつらぬけり』と記されており、道幅はほそくなるものの本庄宿(本庄市)や森戸村、四日市場村(坂戸市)へ抜ける道として用いられてていた江戸時代の鎌倉街道の様子を知ることができます。(「鎌倉街道と苦林野」/毛呂山町歴史民俗資料館刊より)

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鎌倉街道遺構① 台地への上りにある切通し、市場と西大久保の境を北へ進みます/市場

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二差路を左に入ると切通し       県道(川越越生線)にでます

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市場神社鳥居(迷いましたので地元の方に訪ねました、県道の手前を左折ですね) 

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本殿                  参道入口にお地蔵さん

毛呂山の「鎌倉街道」点描
高麗川を渡河した「鎌倉街道」はかつて九日市場と呼ばれた大字市場と大字西久保の境を進みます。街道西側には大正4年(1915)に三島神社から改称した市場神社があります。(「古道と宿の景観」/毛呂山町歴史民俗資料館刊より)

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街道の風景③ 葛川の先左手の森が「掘割遺構」、ここへの道は消えてますので川沿に左折して県道から迂回します

葛川(くずがわ)
坂戸市・毛呂山町流れる荒川水系の一級河川。入間郡毛呂山町の毛呂山総合公園付近に源を発する。概ね北東方向に流れ、坂戸市の葛川水門付近で高麗川に合流する。西大久保地区(旧県立毛呂山高校付近)に高麗川に放流する流路延長0.91kmの葛川放水路が2009年に設けられている。(Wikipedia


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この畦道でしょか?         地元では「鎌倉街道入口」というそうです

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街道の風景④ 伺って正解、右手が「遺構」、樹の先に標柱が立ってます

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鎌倉街道遺構② 「鎌倉街道A遺跡」です、素晴らしいですね

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奥側から見た景観、堀割状態がわかります

鎌倉街道遺跡
ここの前を南北鎌倉街道上道が通っていた。この標識に向って、右手の林道の道をに行けば葛川・高麗川を越えて日高町女影ヶ原古戦場へ行く。は北方の越辺川に出る。すぐ右手の林道の凹道は県下でも珍しく良く旧態を残して、昭和57年県立歴史資料館によって試掘調査が行われた。堆積土の下に5旧道面があり両側には排水溝もあった。低湿のため長い間使用されず今は旧道に大木が生えている。(標柱/毛呂山町教育委員会)

女影ヶ原古戦場(おなかげ)/の関連記事はこちらへ(
http://teione.exblog.jp/26141261/


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「鎌倉街道A遺跡」
市場・西久保境の掘割遺構は南北120m東西70mの範囲で、4mの道幅とその両端に約1.5mの高まりをもつ「掘割」の形状を良好に残しています。昭和56年の埼玉県教育委員会の掘割遺構の調査の結果、現在の地面から30cm掘り下げたところから幅1m、深さ20~50cmの溝跡が道の両側から発見され、掘割は路面の両側に側溝を持つことがわかりました。さらに平成23年に毛呂山町民俗資料館により実施した確認調査では、ドロで埋まった側溝を数度に渡り直す道普請の様子が確認され、鎌倉街道の本来の姿とともに道の改修の様子が分かってきました。

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また、明治14年の陸軍「迅速側図」を見ると、鎌倉街道は村道より狭い騎小径(一本実戦:馬が通れる程度の幅)として描かています。しかし、掘割遺構の地点は道ではなく雑樹林や草地と表現されており明治時代には道としての役割を終えたことがうかがえます。(「鎌倉街道と苦林野」/毛呂山町歴史民俗資料館刊より)


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街道の風景⑤ 雑木林の中を進みます、「鎌倉街道」の案内板が立ってます

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林の先は畑地の径&秩父の山並みを見ながら歩きます


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街道の風景⑥ 街道は県道を横断して進みますが、右折して資料館に寄り道します

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県道角に案内板            街道は直進します

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高麗川渡河地点の周辺の景観/(「古道と宿の景観」/毛呂山町歴史民俗資料館刊より)

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高麗川渡河地点の景観 
「北条役帳」の「河越筋 森戸」は、国渭地祇神社の社頭で「鎌倉街道上道」と川越道が交差します。川越道に沿って街村形態が見られ「宿」「宿頭」の地名があります。宿の中ほどにある西光寺は毛呂山町市場の大林坊が移転したとあり、山号を大林山と称します。対岸の市場との行き来がありました。(「古道と宿の景観」/毛呂山町歴史民俗資料館刊より抜粋)

by Twalking | 2017-12-17 11:47 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(7)入曽~西大家02-女影   

日時 2017.11.7(火)
天気 晴れ

入間川を渡り台地上を北へ進みます。
途中の智光山自然公園は武蔵野の面影が残るいい谷戸です。
日光脇往還を横断して女影ヶ原、ここは古戦場。

女影からは2ルートありますが霞神社~鎌倉街道踏切へ。
住宅地なので道が分かりにくく迷いました。
その先の縄手道はこれぞ鎌倉街道、いい道が残ります。

案内標識がないので不安がありますが、要所を繋いで
なんとか日暮れ前に西大谷駅に到着しました。
この先もこんな感じでしょうか・・・、面白そうです。



・・・柏原(村)/狭山市

埼玉県の南西部、入間郡に属していた村で当初は高麗郡所属であった。1889
(明治22年)町村制施行により以前の柏原村を継承し高麗郡柏原村が成立、1896年(明治29年)高麗郡が入間郡と統合し入間郡となる。1954(昭和29年)入間川町、入間村、堀兼村、奥富村、水富村と合併し狭山市を新設する。Wikipedia

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街道の風景① 入間川を渡り前方の台地へ上ります

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新富士見橋先広瀬東を右折       次の信号左折します

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街道の風景② 入間川低地から入間台地へ上ります、右手に影隠地蔵さん/信濃坂


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影隠地蔵(市指定文化財史跡)/奥州街道入口
この地蔵尊が影隠地蔵と呼ばれるのは、清水冠者義高が追手に追われる身となったとき、難を避ける目的で一時的にその姿を隠したためといわれています。義高は源義仲(木曽義仲)の嫡男で義仲が源頼朝と対立していた際、和睦のために人質として差し出され頼朝の娘である大姫と結婚しました。政略結婚とはいえ二人は幼いながらも大変仲がよかったと伝えられています。その後、義仲と頼朝は再び対立し後白河法皇の命を受けた頼朝は、弟範頼・義経の軍に義仲の討伐を命じ義仲は敗れて討たれました。義高は我が身に難が及ぶのを避けるため、大姫のはからいで鎌倉からのがれ、父義仲の出生地でもあり関係の深かかった畠山重能の住む現在の比企郡嵐山町か、生まれ故郷である信濃国(長野県)へ向いました。しかし、頼朝は将来の禍根を恐れ娘婿の義高に追手を放ちました。命を狙われた義高は元暦元年(11844月、この入間川の地まできたときに追手の堀藤次親家らに追いつかれ、一度はこの地蔵尊の陰で難をのがれたものの、ついには捕えられ藤内光澄に斬られたといわれています。地蔵尊はかつて木像地蔵堂がありその中に安置されていました。道路の拡張により現在の場所へ移動していますが、過去にも入間川の氾濫で幾度か場所が移動していると思われます。また、石の地蔵尊になったのは明治7年(1874)のことで、明治政府がとった廃仏毀釈により木像の地蔵が処分されたためと考えられています。不明な部分もありますが、義高の悲劇をあわれんだ村人が建てたともいわれているなど、変わり行く時代の中でも影隠地蔵はその歴史を後世に伝えています。(狭山市教育委員会 狭山市文化財保護審議会)

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石橋供養塔
安永3年(1774
『南江戸道・北小川道・西八わうじ道』

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信濃坂標柱と案内板






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歴史の道・鎌倉街道
鎌倉幕府の成立とともに整備されたといわれる中世の道「鎌倉街道」は、武蔵武士を代表する畠山重忠をはじめ新田義貞等多くの武将たちがその栄枯盛衰の物語を踏みつけた道として、またさまざまな文化の交流の場として利用され狭山市の歴史の展開に大きな役割を果たした道です。狭山市内を通過する鎌倉街道の伝承路児玉方面(群馬県藤岡方面)に向かう通称「上道」があり、上道の本道(入間川道)と分かれた鎌倉街道には堀兼神社前を通る道があります。このほか「秩父道」などと呼ばれる間道や脇道もあります。また、逆に「信濃街道」「奥州道」といった鎌倉から他国への行き先を示した呼び方もあります。(狭山市)

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狭山工業団地を過ぎると右手に智光山自然公園、日高との境です、いい谷戸ですね/(柏原)

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智光山自然公園/柏原
総面積53.8ha、東京ドーム約11個分の広大な敷地にアカマツ、コナラ、クヌギなど武蔵野の豊かな自然をそのまま生かして作られた大規模な都市公園(総合公園)で、市街地から車で5分ほどのところにあります。公園内にはこども動物園をはじめ市民総合体育館、都市緑化植物園、市営ヘラ鮒釣場「智光公園前山の池」などがあり市民の憩いの場所となっています。(狭山市)


・・・日高市

埼玉県
の南西部にある人口約57千人の市である。ヒガンバナの名所・巾着田で知られる。市東部は関東平野西端に位置しおおむね平坦であるが、市西部は外秩父山地の東麓であり丘陵地が広がっている。そのため西部を中心にゴルフ場が点在している。豊かな自然が残る日和田山、巾着田周辺はハイキングコースがよく整備されており1年を通して東京近辺から多くのハイキング客が訪れる。Wikipedia

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街道の風景③ 圏央道を潜り南湖畔川を渡ります/大谷原(大下橋)

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右手は日高CC            日光脇往還(407号)/鎌倉街道信号

国道407

足利市(南大町・国道50号)から入間市(河原町・16号)に至る一般国道である。埼玉県のほぼ中央部を南北に縦貫し、関東平野西端を走っている事もあり、国道129号や16号と組み合わせ神奈川県西部や多摩地域から埼玉県西部、群馬県方面に向かうルートとして利用されている。地域によっては八王子街道日光街道などとも呼ばれている。Wikipedia


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日光脇往還/鎌倉街道信号(高萩)
江戸時代に鴻巣の追分まで中山道と街道を同じくし、ここで分岐袋村(吹上町)・行田上新郷(羽生市)・利根川を川俣の渡しで越え、館林佐野栃木今市と経て日光街道に合流する街道である。またの名は「日光裏街道」。沿道では日光道などと呼ばれていたが、日光街道と区別するために千人同心街道、日光火の番街道、八王子街道館林道などとも呼ばれた。八王子千人同心が日光勤番のために整備した八王子から日光へ至る40(約160km)の脇往還に属する街道とも一部重なる。現在でも日高市から鶴ヶ島市にかけての国道407は「日光街道杉並木」という名称で杉並木が残っている。なお、佐野宿より先は日光例幣使街道、楡木宿より先は壬生通りと共通となる。(宿場)拝島宿(昭島市)→箱根ヶ崎宿(瑞穂町)二本木宿(入間市)扇町屋宿(入間市)黒須宿(入間市)根岸宿(狭山市)高萩宿(日高市)坂戸宿(坂戸市)高坂宿(東松山市)松山宿(東松山市)吹上宿(鴻巣市)忍宿((行田市)川俣宿(邑楽郡明和町)館林宿(館林市)天明宿(佐野市)冨田宿(栃木市)栃木宿(栃木市)合戦場宿(栃木市)金崎宿(栃木市)楡木宿(鹿沼市)鹿沼宿(鹿沼市)文挟宿(日光市)今市宿(日光市)Wikipedia

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・・・・高萩(村)/日高市


埼玉県入間郡
に存在した村、当初は高麗郡に属した。現在の日高市の東部にあり、武蔵野台地西寄りに位置し、小畔川とその支流が幾筋にもなって東へ流れている。江戸時代には日光脇往還の高萩宿があり、1940年からは川越線に開設された武蔵高萩駅を中心に発展した。現在は国道407号と県道15号川越日高線の交点となっており圏央道が南北に通過する。現在の高萩、下高萩新田、森戸新田、駒寺野新田、女影(おなかげ)、女影新田、中沢、大谷沢、下大谷沢、高富、田木、馬引沢と旭ヶ丘の一部がほぼ旧村域にあたる。Wikipedia
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街道の風景④ 第二小畔川の低地へ下ります、切通が残っています/高萩

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「鎌倉街道上道碑」と案内板/坂下    第二小畔川


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鎌倉街道上道
鎌倉街道は中世武蔵武士団が鎌倉へと馳せ参じた道である。その代表的なものが「上道」「中道」「下道」である。この呼び名は大和盆地に南北に通じる幹線道路がありそれに倣ったものといわれている。鎌倉からの上道は藤沢、町田、府中、所沢へと向かい狭山市で入間川を渡って日高に入り、市内大谷沢から中沢萩、女影別所旭ヶ丘駒寺野新田と道筋をたどり坂戸市の西大家に抜け、毛呂山、鳩山、児玉、藤岡、高崎に続いていた。かつて新田義貞の軍が菅谷から市内女影を通って入間川を超え小手指原などで鎌倉方と戦ったが、この上道を進軍したとされている。また、北条時行が信濃に挙兵し鎌倉を足利勢から奪回するため市内女影ヶ原で戦って勝利し、多摩町田に軍を進めたのもこの鎌倉街道上道。高麗原の戦いなど足利尊氏対新田義興・義宗の武蔵野合戦、更には足利基氏対芳賀禅可入道が戦った苦林野の合戦もこの鎌倉街道をたどる戦いであった。これらは言わば鎌倉街道をめぐる上の合戦として有名で、太平記に伝えられている。時代とともに鎌倉街道上道を伝える関東各地の道筋もさま変わりし、往時の面影を伝える個所も少なくなり幻の道になりつつある。それぞれの地で幹線道路となり道幅も広がり、舗装もされ、法敷きも整備され、交通量もおおくなっている。この碑の前の上道も立派に道路整備され市道として役目を果たすようになった。より便利になるのは時代の趨勢ではあるが、この地の古老は少年の頃まだ十分古道の名残を留めていた上道を偲んで、今でもこの道を鎌倉街道と呼んでいる。(日高市教育委員会)


・・・女影(おなかげ)/日高市

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街道の風景④ この先が直進と右折の分岐ですが、直進して霞野神社へ向かいます/女影

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丘を上る感じです           下ると霞野神社です

女影
『村内に千丈ヶ池と云池ありて、往古せんと云ひし女此池に身を投げて死せしが、その後彼女の影時として池中にあらはれしかば、土人これを女影と呼びしより村名も起りしといへり。最妄誕の説なることは歯牙を待たずして知られたり。千丈の名義據(よりどころ)を知らず。この辺古戦場なれば、直ちに戦場ヶ池と號せしを、後世字をかきかへしと見ゆ』(新編武蔵風土記稿)


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霞野神社鳥居/女影

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霞野神社
当初は諏訪神社と称し女影村社でしたが、明治43年に女影村社の白髭神社中沢村社白髭神社など12社を合祀して霞野神社改めました。祭神に猿田彦命、軻遇突智命(かぐつちのみこと)、建御名方命など14身を祀っています。本殿は江戸時代来の作と考えられています。柱の上の組物と呼ばれる箇所は上部からの荷重を支える部分です。ここには獏、獅子頭の彫刻が施されています。身舎の前方に庇を付けた形式の一間社流造で屋根はこけら葺きです。懸額は文久元年(18614月穀日に甲源一刀流の比留間和十郎源信治の門弟が奉納したものです。(日高市教育委員会)

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女影ヶ原古戦場跡
建武2年(1335)に滅亡した鎌倉幕府最後の執権・北条高時の遺児・時行が、鎌倉幕府復権のため信濃で挙兵した。時行の軍は女影ヶ原で足利尊氏の弟・直義が派遣した軍勢を破りました。その後も小手指ヶ原(所沢市)、分倍河原(府中市)でも破り、ついには直義自ら出陣して武蔵井出ノ沢(町田市)で迎え撃ちましたが、ここでも敗れました。時行は鎌倉を一時的に支配しました。この一連の戦いを中先代の乱といいます。(日高市教育委員会)

井出ノ沢(町田)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/17960720/

中先代の乱

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年(建武2)北条高時の遺児時行が鎌倉幕府再興を企図し建武政府に対して起こした乱。鎌倉時代の北条氏を「先代」室町幕府の足利氏を「当代」とよぶのに対し、時行を「中先代」ということからこのように称される。鎌倉幕府滅亡の直後から北条氏与党の反乱が各地で頻発した。そのようななかで33年(元弘3・正慶26月、後醍醐天皇を暗殺しようとする北条高時の弟泰家(時興(ときおき)と改名)、西園寺公宗(きんむね)の陰謀が発覚した。この計画に呼応するはずであった時行は、翌月諏訪頼重らとともに信濃で挙兵。守護小笠原貞宗の軍を破り、女影原(埼玉県日高市)、小手指ヶ原(埼玉県所沢市)、府中(東京都府中市)において足利軍と戦い、井出沢(東京都町田市)においては直義軍を撃破した。25日、故地鎌倉を奪還、公文所を設置した。しかし直義軍の援助のため京都から下ってきた尊氏に橋本(静岡県浜名郡)、箱根、相模川などの戦いに敗れ、819日わずか20日ばかりで鎌倉を奪われた。このことから、「二十日先代の乱」ともよぶ。諏訪頼重は自刃。時行は逃れた。これにより鎌倉入りした尊氏はたび重なる後醍醐天皇の上洛命令に従わず、征夷大将軍を自称し、建武政権に謀反、足利政権樹立の第一歩を踏み出した。(コトバンク)

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街道の風景⑤ 川の袂に諏訪橋改修碑と供養塔が立ちます。この坂上あたりが「女影宿」だったんでしょうか?


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女影宿
南の入間川宿と北の苦林(にがばやし)宿との間に伝馬継立をした。鎌倉に幕府ができてから繁昌し、康平元年(1058)に足利氏が古河に移ると次第に衰え、天正の頃(157392)高萩宿ができると寂れ果てたようである。(鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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街道の風景⑤ 霞神社から東へ行くともう一つのルート、この道で鎌倉街道踏切へ/川越線(高萩)

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この先を左折し川を渡ります      バス通りを横断

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寛政年間建立の「廻国供養塔」/踏切   先道なりに直進し小畔川を横断/別所橋


・・・旭ヶ丘
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街道の風景⑥ 田畑の中に続く縄手道、これはいいですね/旭ヶ丘

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高萩北中を迂回            この辺りで合流でしょうか?右折します

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綺麗な夕日、秩父の山並みですね・・・


・・・駒寺野新田

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街道の風景⑦ すぐ右の道を北へ、集落がでてきます

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二俣を右折              県道を右折し西大谷駅へ

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西大家駅(にしおおやえき)
坂戸市大字森戸623番地7にある東武越生線の駅である。当駅開設当時の村名「大家村」による。ただし1945年(昭和20年)までは隣に大谷駅が存在しその西隣だったため「西」が付いた。単式ホーム11線を有する地上駅。ホーム・駅舎は線路の北側にある。駅のすぐ東側に鶴ヶ島市との境界があり、日高市との境界も駅南西400mほどのところにある。駅の西側にはかつて鎌倉街道上道が通っていた遺構が残っている。Wikipedia

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入曽~西大谷 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照
(赤:鎌倉街道 橙:日光脇往還 青:入間川を着色)


・・・・
資料ファイル

高の歴史
奈良時代に入ると高麗郡建郡という歴史的な出来事がありました。このことは古代歴史書の続日本紀の霊亀2年(716)の項に「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七ヶ国の高麗人1799人を移して高麗郡設置した」と書かれています。高麗郡は和名妙によると高麗郷上総郷2郷を置いたとあります。これは現在の日高市飯能市を中心とした範囲と推測されています。高麗郡の郡長は高句麗から日本に渡来した玄武若光で、大宝3年(703)に王姓(こきしのかばね)を与えられた高麗王若光(こまこきしじゃっこう)と考えられています。高麗王若光は高麗明神として高麗神社に祀られ宮司は若光の子孫が代々勤めています。建郡以降小畔川などの小河川に沿って谷津田の開発を進めそれに合わせて村が作られていきました。高萩地区の拾石(じゅっこく)遺跡、王神遺跡、堀ノ内遺跡はこの時代を代表する規模の大きな村です。建郡後に女影(おなかげ)廃寺、高岡廃寺、大寺廃寺の寺院が相次いで建立されました。その他に須恵器と呼ばれる土器を焼いた登り窯が高岡地区に築かれました。

平安時代末に登場した武蔵七党を代表とする武士団が活躍する時代です。いずれの武士団も土地を開墾し自らの財産を守るために武装していました。合戦があると恩賞を目当てに参戦しました。市内には高麗を姓とする3武士集団が挙げられます。古代の渡来人若光を祖とする「渡来系高麗氏」、武蔵七党の丹党から出た「丹党高麗氏」、桓武平氏の流れを汲む秩父氏より出た「平姓高麗氏」です。その他に鎌倉時代の記録『吾妻鏡』に登場する女影氏(おなかげし)がいました。

鎌倉時代になると鎌倉幕府は兵員馬匹を鎌倉に集めるために街道の整備を行ないました。この街道は鎌倉から関東諸国・信濃・越後・陸奥方面に向かっており上道・中道・下道・秩父道などと呼ばれていました。日高市内を通っているのは上道で、大谷沢から女影を通り駒寺野新田へ通じています。中世を通じて鎌倉街道沿いは数多くの合戦の舞台となりました。南北朝時代の建武2(1335)7月、鎌倉幕府の復興を願う鎌倉15代執権北条高時の遺子・時行は信濃で諏訪頼重らに擁立され挙兵、建武の新政に不満を持つ武士と合流しながら鎌倉街道を南下し鎌倉を目指しました。そして722日それを阻止しようとする足利直義(ただよし)軍と初めて合戦に及んだのが女影原でした。この戦で時行軍は直義軍に勝ち、その後も小手指原・府中などでも直義軍を破り725日に鎌倉を占領しました。この一連の戦乱を「中先代の乱」といいますが、僅か20日程度で足利尊氏に攻められ時行は鎌倉から敗走しました。


室町時代

市内に残る代表的な古文書に「町田家文書」があります。この古文書は南北朝時代の平姓高麗氏の動向のみならず関東の様子も伝えており貴重なものです。特に高麗経澄(こまつねずみ)は度々足利尊氏軍に従軍し戦功を上げています。室町幕府草創期に足利尊氏・直義兄弟の対立により起こされた大規模な内乱を「観応の擾乱」と言います。京都から鎌倉へ入った直義を討つため尊氏は関東へ出撃しますが、この時高麗経澄は鬼窪(白岡町)で兵を挙げ尊氏軍に従軍し羽祢倉(富士見市)・阿須・足柄山で合戦し軍功を上げ、鎌倉に入ったことが町田家文書から分かります。その後、足利直義の死によって観応の擾乱は終息しましたが、翌月、南朝方の新田義興義宗(よしむね)兄弟が上野国で挙兵して鎌倉を占拠しました。足利尊氏は各地で新田軍と戦いましたが、この時も高麗経澄は尊氏軍に入り人見原(東京都府中市)や高麗原(日高市平沢か)で合戦していることが同文書にみられます。(日高市HP)


by Twalking | 2017-11-14 20:22 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(7)入曽~西大家01-入間川   

日時 2017.11.7(火)
天気 晴れ

秋晴れのいいお天気です。
いよいよ武蔵野台地から入間川を渡って入間台地へ、
ここはなんといっても「八丁の渡し」ですね。

中世は多摩川とともに軍事的にも重要な防衛拠点でした。
「入間川御陣」「清水冠者義高終焉の地」等々見所も一杯、
じっくりと訪ねてみたいと思います。


・・・北入曽/狭山市

狭山市

市域の南西(入間・飯能方面)から北東(川越方面)にかけて一級河川の入間川が流れる。流域は沖積層の低地帯が広がっている。市の中心となる地域にも入間川という住所(旧入間川町の名残り)がついており、この川は街のシンボルにもなっている。入間川両岸には河岸段丘が形成されており右岸武蔵野台地左岸入間台地と呼ばれる台地からなっており、狭山市はその二つの台地上に属する。どちらの台地も洪積層からなり、比較的平坦である。市街地はおもに国道16号と西武新宿線を軸として形成されている。市名の由来である「狭山茶」の茶畑は入曽・堀兼地区に多い。Wikipedia


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街道の風景① 不老川からスタート、すぐ先右手に野々宮神社と常泉寺があります/入曽橋

狭山の地名
地名は狭山丘陵及び市内の特産物「狭山茶」に由来する。「狭山」という地名の由来自体は判然としないものの「」は「」を意味し、武蔵野台地西部に散在していた雑木林のことを指していると言われ「林に挟まれた土地」の意味という。江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では狭山丘陵そのものを「狭山」と称しており「狭山」という表現を地域呼称ではなく山の名称の如く用いている。Wikipedia


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野々宮神社鳥居/北入曽

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野々宮神社
古記録に伝えるものはありませんが、社家の伝承によれば奈良時代の創立と伝えています。大和朝廷が皇威の発揚を図り四道将軍を派遣したときに、社家は神武天皇御東征に従軍し日向の宮崎宮を姓となし宮崎と称しました。奈良時代、朝廷の命を受けて倭姫命を奉斎し入間路の警備と七曲井の管理に当りました。東海道、入間路には宮崎を姓とした社家が多く、たとえば井草八幡宮の社家が宮崎を姓としています。

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本殿の左側には明治40年に合祀された神社5の神明神社・八雲神社・稲荷神社・愛宕神社・蔵王神社が並んで建っています。元旦祭や春、秋の大祭等には市指定無形民俗文化財である入曽囃子が奉納されています。(狭山市HP)

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常泉寺本堂/北入曽

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常泉寺
創立年代は古記録等がなく不詳ですが、過去帳によりますと天正年間1573年~1592年)に創立されたようです。寛文3年(1663年)4月法印宥正という住職の入寂の碑が現存しますがその後の記録は絶え、寺は荒れていたようです。その後、元禄2年(1689年)3月に権大僧都法印教海が荒廃した当寺を再興・拡張し、当寺を観音堂のみ残して現在の地移しました。さらにその後、権大僧都法印傅海の代の正徳2年(1712年)8月に高麗村新堀聖天院の末寺となり現在にいたります。ちなみに明治18年に火災のため山門・本堂・庫裡(裏)が焼失しましたが明治20年に再建されました。(狭山市HP)

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街道の風景② 所沢狭山線を一直線に狭山市駅に向かいます/北入曽

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白山神社手前を左折          西武線踏切を渡ります

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白山神社/祇園

祭神 白山比咩命(シラヤマヒメノミコト)/菊理媛命 「当社は加賀国石川郡の霊峰・白山に鎮座する延喜式内社・白山比咩神社の分霊です。勧請の時期は不詳ですが、古老の語に境内の樹齢78百年と推定される大欅を明治10年に伐ったと伝えますので、鎌倉時代初期頃には古道沿いのこの地に鎮座し、霊験あらたかな産土神として土地の人たちから崇め親しまれてきた古社です。祭礼は、古くは「お九日」と云い火焚き行事などもありましたが、現今では1123日に例大祭を執行し傳統を継承しています。(案内板)


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お庚申様ものがたり/踏切先
このお庚申様は今より約200年前此の付近に建立せられ西武鉄道開通の明治278年頃現在地に移され地域の人達の平穏と踏切りの安全を願って今日に至っております。しかし近年破損はげしく庚申塔は傾き雨露を凌いだ屋根もこわれ又土砂崩れ等の危険も感ぜられ平成108月に有志一同「庚申塔改築発起人会」を発足させましたところお蔭様で皆様のご賛同を戴き平成1110月に無事竣工致しました。このお庚申様は菅原町三丁目唯一の道祖神守護神として町内や近在の人達の信仰を集め小さなお庚申様ですが老若男女の区別なく身近に慕われております。これからも皆様の信仰のよりどころともなれば幸甚でございます。(改築発起人 後藤新太郎 田島昭雄鈴木良二)


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馬車鉄道について/狭山市駅前
馬車鉄道とは軌道上の客車を馬が牽引するものです。明治341901510日に入間川町飯能町を結ぶ路面鉄道として入間馬車鉄道が開通しました。入間馬車鉄道は川越え鉄道(川越~国分寺間を結ぶ鉄道で明治28年(1895328日に全線開通)の設立発起人の一人である水富村の清水宗徳から敷設特許を譲り受けた柏原村の増田忠順らにより開設されたものです。開設の目的は川越鉄道の開業によりもたらされた有形無形の利益を水富・飯能方面にもたらすためで、定員15名ほどの客車により一日に1517往復したといわれています。運賃は入間川~飯能間で大人15銭(その後20銭に値上げ)、8歳までの子どもは半額、4歳以下の幼児は無料でした。

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当時の入間川駅(現在の狭山市駅)のこの付近が馬車鉄道の発着場所であったといわれており、停車場は入間川・菅原・御諏訪下・河原宿・広瀬・根岸・笹井・八木・野田・岩沢・双柳・前田・飯能で上りと下りの交換所は笹井地内に設けられていました。しかし、乗客の便を考え停車場以外でも乗り降りさせていたといわれています。また、明治349月には入間川町青梅町を結ぶ中武馬車鉄道が全線開通し、入間川町内では入間馬車鉄道の軌道を借用する形で乗り入れ運転が行われました。しかし、大正4年(19154月に飯能~池袋間を結ぶ武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)が開通すると乗客は急激に減少し、大正6年(19179月に中武馬車鉄道が廃止され入間馬車鉄道も同年の12月をもって廃止されました。(出典:狭山市史


・・・入間川(町)/狭山市


埼玉県の南西部、入間郡に属していた町。1889
(明治22年)町村制施行により以前の入間川村を継承し入間郡入間川村が成立する。明治24年入間川村が町制施行し入間川町に、昭和29年入間村、堀兼村、奥富村、柏原村、水富村と合併し狭山市を新設する。北西部を入間川が流れる。Wikipedia

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街道の風景③ 広場下の道を入間川「八丁の渡し」に下ったものと思われます/狭山市駅西口市民広場(2012年完成)

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狭山市の歴史
(古代)武蔵国入間郡に属する。716年(霊亀2年)新たに高麗郡が設置される。中世以降、入間川西岸の一部地区が高麗郡に属する。(中世)入間川宿が鎌倉街道上道の宿場町として栄える。鎌倉街道上道は入間川宿で上野国方面下野国方面に分岐していた。(近世)川越藩領や天領となる。天領は旗本知行地として旗本小笠原氏の所領となっていた。Wikipedia

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徳林寺山門/入間川 

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徳林寺(曹洞宗)
創立年代ははっきりしませんが入間市金子・瑞泉院末といわれ、開山は瑞泉院三世一樹存松和尚で、開基は小沢主税であると伝えられています。開山一樹存松は天文2年 (1533年)に入寂しており、永正乃至享禄1504年~1532年)頃の創立と考えられます。当寺の旧地については旧登記所(入間川2丁目19番地)北方の低地であるとの伝えがあり新田義貞足利基氏らの滞陣の跡であるとの伝承もあります。また、武蔵野33観音霊場の第17番札所でもあります。寺宝の絹本着色釈迦涅槃図・絹本着色釈迦八相図(狭山市指定文化財)は市指定文化財です。(狭山市)

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薬師堂                地蔵堂

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絹本着色釈迦涅槃図(狭山市指定文化財)
この図は絹地に極彩色の仏画で、入滅した釈迦の周囲には弟子たちをはじめ諸王・大臣・梵釈・諸天・鳥獣までが集まり悲しんでいる様子が描かれています。筆者は「御絵所宗貞」です。御絵所というのは朝廷又は幕府社寺に属する絵師のことです。なお、この絵は田中・沢村を知行した旗本の小笠原家が元禄元年(1688)に寄進したもので、延享5年(1748)に甲田重蔵が最表装したものです。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会)

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絹本着色釈迦八相図(狭山市指定文化財)
この図は絹地に極彩色の仏画で釈迦の生涯の主な事跡を描いたものです。八相とは第一下天相・第二託胎相・第三誕生相・第四出家相・第五降魔相・第六成道相・第七初転法輪相・第八涅槃相の八場面ですが、この図では第八涅槃相を除いた七つしか描かれていないため、涅槃図と合わせて八相図となるように描かれたものと思われます。落款はありませんが構図もしっかりしており、大和絵系の相当名のある絵師によって描かれたものと推察されます。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会)

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福徳院不動尊


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福徳院不動尊
福徳院不動尊の来歴は「福徳院不動尊縁起」によりますと次のとおりです。福徳院不動尊は綿貫家代々の守本尊とされていました。二代目孫兵衛は不動明王尊を篤く信仰しており、年数回も成田山へ来詣し成田山に金燈篭や多額の浄財の寄進を行うほどでした。これを聞いて成田山新勝寺は彼の篤信に感銘を受け、大護摩を厳修してその浄灰をもって不動明王の尊像を謹製し開眼の上、綿貫家に授与したと伝えられています。その後、本尊は明治8年徳林寺に17世賢光師が在住の時に寺へ寄贈され、明治30年には入間郡柏原村の小山保が所有していた御堂が寄進されることになり、諸信者の協賛を得て現在の場所に移転されました。昭和年間に入る頃、宝殿が著しく腐朽してしまいましたが、昭和11年に世話人27人の発願により改修工事が行われました。平成20年には狭山市駅西口開発のため綿貫家の墓所が駅前より福徳院不動尊に移転され、現在にいたります。(狭山市)

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天満天神社/入間川

天満天神社
当神社の建立年代は明らかではない。先年までの社殿は文久2年(1862)に改築されたものであったが、昭和37325日新築した。祭神は京都北野神社福岡県太宰府天満宮より道真公の分霊を鎮祭する。新編武蔵風土記稿に「神體坐像なり」とありもとは御神像があったと考えられるが現在は神のご幣のみである。当社の管理は新編武蔵風土記稿に「村持」とあり天神組、下組、新田組の三組の氏子によって行われてきたが、天神社があるところからこの地域が菅原町と総称されるようになり昭和15年町内会の創設によって天神組が菅原一丁目、下組が二丁目、新田組が三丁目と改称された。(境内掲示)

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街道の風景④ 丘の上に戻り慈眼寺から八幡神社(上からも行けます)参道へ下ります/中之坂

中之坂
この坂道は小高い丘を切り開いて作られた坂道であり、通称「中之坂」といわれている。(狭山市)

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慈眼寺山門/入間川


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慈眼寺(妙智山)
当寺の草創は正長元年(1428年)に草庵が結ばれ、後の大永年間(1521年~1528年)に一樹和尚によって開山されたと伝えられています。武蔵野33観音霊場の第16番観音を本尊としていますが、以前は阿弥陀如来の立像でした。記録によりますと慶安2年(1649年)に阿弥陀堂領十石の朱印を与えられています。また、寺宝の阿弥陀如来立像は市指定文化財です。(狭山市)

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狭山八幡神社鳥居/入間川 

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狭山八幡神社
祭神:応神天皇(誉田別命)九州宇佐八幡宮を本社とする全国八幡宮の一社。創建は社宝『砂破利のつぼ』の推定年代から室町時代初期とされている。源氏一族の保護により武門の神として隆盛をみて後世、新田義貞の信仰厚く一時『新田の八幡宮』と称されたこともある。今日では応神天皇とその母・神功皇后の事績により文化興隆の神として文武に志す人々に崇敬の念が厚く、さらに母と子の情愛から母子神の信仰を生み、安産から初宮詣、そして子育てへのご神徳を仰ぎ、また、新田義貞が合戦に向けて当社で戦勝祈願をし見事勝利を治めたところから文武・必勝の神として市民に親しまれている。(八幡神社HP)

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表参道の石段
中段より上が47段、下が24段あり計71段とする。上段は赤穂47士にちなみ下段は中国の故事24孝をとり享保12(1727)に造られたものである。現在では狭山日高線の開通に伴い石段は中段より曲げられ、鳥居も階段下へと移されてあるが、本来は上段から直線上に商店街の通りまで参道が延びその入口に鳥居が建てられていた。(八幡神社HP)

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八幡神社本殿(市指定文化財・建造物)
八幡神社は祭神応神天皇を祀り当社殿は寛政8年(1796)に初釿をし7年を要して完成したという。当社に伝わる「本社殿棟木書記之事」という古文書によると「享和二竜次壬成(1802)穐(秋)75日棟札」となっており徳川時代末期の建造であることが明らかである。入母屋の流造りの特性をもち、一間社造りの胴のしまった均整のとれた唐破風の向拝があり正面は千鳥破風の珍しい建築様式で、四囲の彫刻は精巧を極めた優雅な社殿総彫で強く建築装飾の粋をつくした透彫である。脇障子にも彫刻が施され勾欄をめぐらせた見事な造りである。また、彫刻製作者が明らかななのも珍しく棟札に「上州勢多郡上田沢湧丸 並木源二襍訓作 享和壬成夏六月彫之 上野国勢多郡深沢上神梅村鏑木半二邦高彫之 享和二成六月ヨリ七月七日迄」という墨書が記されている。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会)

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新田義貞・駒つなぎの松
元弘35月、北条高時を討つべく上州新田郡生品明神の社頭に挙兵した新田義貞510日所沢小手指原に幕府軍との戦火を交えた。その時、新田軍は源氏ゆかりの当社へ自ら戦勝を祈願した。その戦勝祈願の際、愛馬をつないだ松が本殿東側に残る老樹である。(八幡神社HP)

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さわりの壷(県指定文化財工芸品)
さわりの壷は大正12年(1923)に拝殿造営のため本殿を移転するとき、玉垣の神門の下から発見されたもので、中から少量の籾粒と金銀の箔片が検出されました。このことからこれが当社創建当時地鎮祭に供えた鎮物を埋蔵するのに用いた「鎮壇」であったことが推定されます。さわり(砂波利・砂波理・砂張)とはを主として錫・鉛(または銀)を加えた黄白色の合金で、たたくと良い音がするので響銅の字があてられたり、また胡銅器と書かれたりします。この壷は室町時代の制作と推定され高さ187mm、口径70mm、最大直径100mmで形が非常に優美で安定感があり、黄金色に白線の色が映えしっとりと高質な風格をもっています。(埼玉県教育委員会・狭山市教育委員会)

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八幡神社鹿子舞
獅子舞の起源は唐の時代に雅楽の一部から変化し、その後日本に伝来しかつ農耕文化と結びついて水の信仰にまで発展したといわれています。八幡神社鹿子舞の起源については明らかではありませんが、正徳3年(1713)の古記録に盛大に行われていたと書かれています。八幡神社鹿子舞は越後系・庭上舞・ねっこふんがえしに属する獅子舞で、「鹿子舞」と書かれる由来は武蔵地方で鹿を「しし」といったことからだと伝えられています。この鹿子舞は毎年914日・15日に入間川地区の神社をまわり15日の最後に八幡神社で舞います。行列は金棒(先導、つゆ払い)氏子安全旗1人、神官1人、氏子総代5人、各地区世話人、ほら貝(山伏)1人、花笠(ささら)4人、歌役4人、笛役4人、山の神(天狗)一人、赤鹿子(男鹿子 若者)、金鹿子(牝鹿子女、 頭上に宝珠)、黒鹿子(太夫鹿子年寄り、節のある角あり)、各地区世話人、の順にならび、舞は、道中、宮参り、いりは、竿掛り、岡崎、あげ唄、狂い、岡崎、わが獅子、引きはと地ささら、岡崎、やりとり、岡崎、引庭、という順で舞われます。(狭山市教育委員会 狭山市文化財保護審議会)


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子ノ神社/入間川
祭神:大国主命(大己貴命おおなむちのみこと)入間川町誌によると子ノ神社は慈眼寺境内にありましたが、慈眼寺の消失によって一時、諏訪神社境内に遷されました。さらに諏訪神社の社殿改築の際、ある者が御神体を家へ持ち帰ったところ悪疫にかかったため、恐れて奥富村のある家へ遷されました。しかしその家でもまた一家が悪疫に襲われたため元の諏訪神社境内に仮宮を建てて祀り、のちに子ノ神町内に社殿を建築して御神体を遷したと言う伝承が残されています。祭神を大国主命としていますが、子ノ神は飯能市の子ノ権現社の信仰であり本尊は子ノ聖大権現とされています。境内社に出雲神社(石祠)があります。毎年724日近辺の土曜日には子ノ神社の例祭が行われ、子ども神輿が担がれます。(狭山市)

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入間川諏訪神社鳥居/入間川

入間川諏訪神社
正確な鎮祭の年月は不明であり、土地の古老の話によりますと信濃国諏訪大社の祭神を今から400年以前に分社したとのことです。8月第4土曜日・日曜日には市指定無形民俗文化財であるお諏訪さまのなすとっかえ行われ、とてもめずらしいナスのお神輿が担がれ住民の厄除けを祈願しています。以前はこの日に付近の若者たちによる草相撲の奉納がありましたが、現在は行われておりません。(狭山市)

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お諏訪さまのなすとっかえ(狭山市指定無形民俗文化財
諏訪神社は長野県の諏訪大社を分祀したもので祭神は「建御名方神」です。なすとっかえは自分の畑で採れたナスを神社に納める代わりに、神前に供えてあるナスを戴いて帰るもので、毎年8月の第4土曜・日曜に行われる神事です。その由来には次の伝説が残されています。昔、諏訪神社の裏に底なし沼があったころ、ある日村人達がそこを通りかかると、沼から水しぶきがたち、龍神が暴れ始めました。驚いた村人達は、持っていた鎌や鍬と一緒に、採ったばかりのナスが入った籠を投げ出して逃げ帰りました。これを聞いた村の若者達が駆けつけてみたところ、空っぽになった籠が浮かんでいるだけで、沼はすでに元の静けさをとり戻していました。しばらく後、村人の夢枕に龍神が現れてこう言いました。「私はあの沼に住む竜神だが、騒がせて悪かった。実は夏病に苦しめられていたのだが、投げられたナスを食べたところ病がすっかり治った。これからは諏訪の大神に仕え、村のために尽くすつもりだ。こうして夏病にナスが効くことを知った村人は、神前にナスを供え、代わりに龍神からナスをいただき、夏病を避けたといわれています。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会)

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川の風景① やっと会えましたね~、入間川、右手奥の名栗が源流域です/本富士見橋

入間川
埼玉県を
流れる荒川水系の一級河川である。上流部は名栗川とも呼ばれる。荒川の支流としては最長である。江戸時代の頃は、江戸の市中まで通じる大事な交通路だった。標高1294mの大持山の南東斜面に源を発し飯能市、入間市、狭山市を流れその間に成木川、霞川、越辺川などの支流を合わせさいたま市と川越市の境界付近の川越市大字古谷本郷で荒川に合流するWikipedia

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清水八幡宮/入間川 

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木曽清水冠者義高公
源義高は鎌倉時代木曽義仲の侍女との間に生まれた嫡子で、比企郡岩殿山大蔵が生まれ故郷であり、7ヶ所の清冷水を汲んで産湯を使った故、清水冠者又は志水冠者義高と名乗ったと伝えられる。義仲が治承4年(1180)頼朝とともに行家から以仁王の平家追討の令旨を得て挙兵し、寿永2年(1183)に北陸道を京へせめのぼる直前、背後を固めるため対立状態にあった伯父頼朝に幼少(6才)の時人質として送られたが、後成人になるや頼朝と政子との間にできた娘大姫婿となり鎌倉営中に住居を構えていたが、義仲は後白河法皇の義仲追討の宣旨を受け西上した範頼、義経軍に敗れ、寿永3120粟津原の戦討死するが、日頃疑り深い頼朝は彼義高の意中を計りかね勅勘を蒙って討たれた者の息子を放置することも出来ず「娘をくれておくのも無駄なこと、堀藤次折を見て密かに小冠者を片付けい」と密談(実際には殺す意図はなかったとも伝えられて居る)侍女はこの様子を見て東御殿にかけつけ告げたのである。寿永3416日元歴と改元されその月の20日宵のことで、この知らせを聞いた大姫は自分の夫義高を助けようと母政子と力をあわせ自分の衣装で女装をさせてまわりを女たちに囲ませ従士6名ばかりと共に、祖父義賢の地(大蔵館)・義仲を授けた畠山重能の地(菅谷館)である現在の嵐山町めざし鎌倉街道に沿って逃亡し、府中・所沢を過ぎ入間川の八丁の渡しに出たとき、頼朝が追手として送った堀藤次親家等に追いつかれ藤内光澄の為に遂に此の地で討たれたのである。

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かくて寿永3426日藤内光澄等が鎌倉に帰り、この事を頼朝に報告するや姫君は悲嘆のあまり漿水を絶つに及んで間もなく14才を以て死亡せり。母なる政子は頼朝の仕打を怒ると共に直接義高を刃にかけた光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるため討ち果てた地入間河原にを建てた(五月)と云う次第である。正徳3年(1713)八幡神社縁起によれば槻の木を植え塚を築いたとの事なるが、政子は廟所を転じ神祠を営み清水八幡宮とあがめ、自ら入間川の地に来り供養をし且つ神田を寄附されたという。この為に社殿は朱の玉垣をめぐらし壮麗なものであったが、応永98月(1402)の大洪水に全てを流失したる由。亦現在の八幡宮の附近に梨畑があり人々は梨原と言い、朱塗の美しい神社を梨原御殿とも言った。その後今から約180年前現在地より北方三丁程の杉林中より石祠が発見され、現在の処に鎮座し再建されたるものなり。(参考資料 狭山の文化財及入間川風土記)

なお木曾冠者義高公のは鎌倉市内、臨済宗常楽寺にあり、墓所は常楽寺の裏山標高70m位かと思われる場所に百平方米程の広さとなっており、墓の周囲には公孫樹、黒松の大木等茂り中心に石材の高さ四十糎の祠と「木曾清水冠者義高公之墓」なる墓石とが建立され、後世建てられた石碑には次のような由来が記されてある。

木曾冠者義高之墓
義高ハ義仲ノ長子ナリ義仲嘗テ頼朝ノ怨ヲ招キテ兵ヲ受ケ将ニ戦ニ及バントス、義高質トシテ鎌倉ニ至リ和漸ク成ル、爾来頼朝ノ養フトコロトナリ其ノ女ヲ得テ妻トナス後義仲ノ粟津ニ誅セラルルニ及ビ遁レテ入間河原ニ至リ捕ヘラレテ斬ラル 塚ハ此ノ地ノ西南約二丁木曾免トイフ由間ニ在リシヲ延宝年中此ニ移ストイフ旭将軍ガ痛烈ニシテ豪快ナル短キ生涯ノ余韻を傅へテ数奇ノ運命ニ弄バレシ彼ノ薄命ノ公子ガ首級ハ此ノ地ニ於テ永キ眠ヲ結ベルナリ大正十五年一月 鎌倉同人會建附記常楽寺栗船山常楽寺と号し開基は北条泰時、開山は退耕行勇と伝えられ大覚禅師の初道場で、寺の名は泰時の法名常楽院殿からとったものです。また鎌倉國宝館に寄託されている有名な梵鐘は重要文化財に指定されています。(境内掲示)

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清水八幡(市指定文化財史跡)
清水八幡には源義高(清水冠者義高)がまつられています。義高は源(木曽)義仲嫡子ですが、源頼朝に人質として鎌倉へ送られ、頼朝とその妻北条政子との間に生まれた娘・大姫の婿になっていました。義仲が頼朝に討ち果たされたのを知った義仲は、自分にふりかかる難をのがれるため従者6人ばかりと共に祖父義賢の地(大蔵館)や義仲を助けた畠山重能の地(菅谷館)がある現在の嵐山町をめざして逃亡しましたが、当地入間河原で頼朝の追手に討ち果たされました。このくだりは「吾妻鏡」にのっていますがそれによると政子と大姫は義高の討死を嘆き悲しみ、直接、義高を刃にかけた藤内光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるためその討ち果てた地・入間河原を建てたということです。それが清水八幡ですが、度重なる暴風雨や洪水で当時の社は跡形もなくなり、場所も現在でははっきりせずこのあたりであろうと思われます。(狭山市教育委員会・狭山市文化財保護審議会)

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川の風景② 「八丁」であれば往古は今よりずっと広い流れですね。市では「八丁の渡し」を2ケ所を推定していますが、狭山市駅から直線的に下るとすればこのあたり、右岸が「入間川宿」になりますが、どうなんでしょうか???/新富士見橋

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入間川宿
入間川宿は入間川の渡し場にできた宿場で、古代の官道の頃は小さな宿場だったろうが、鎌倉時代になると北関東・信越地方との往来が繁敷くなり交通上はもちろん軍事上でも重要な宿場となった。(旧鎌倉街道散策の旅(1)上道・山ノ道編/芳賀善次郎著を参照しました)





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八丁の渡し
鎌倉街道の入間川に「八丁の渡し」と呼ばれるところがあります。大きな橋もなく人々は川の浅瀬を探しながらの徒歩渡りでした。昔、木曽義仲が源頼朝に討たれます。そのとき義仲の嫡子で12歳になる清水冠者義高は、頼朝の娘である大姫の計らいで女装をして入間川まで逃れてきます。そして、八丁の渡しにさしかかったところで無念にも追っ手によって討たれてしまいます。入間川の八丁の渡しが義高終焉の地とされ、今も残る国道16号線沿いの「清水八幡」のお社と奥州道に安置されている「影隠し地蔵」には多くの参拝者が後を絶ちません。この八丁の渡しは市内に2ケ所あるとされています。その1つは子ノ神(ねのかみ)さまを下り本富士見橋周辺の中島辺りだとか、もう1つは奥富の前田、入間川堤防に建つ九頭龍大権現(くずりゅうだいごんげん)の石仏辺りから柏原へ渡る浅瀬です。春の入間川の土手を歩いていますと周りは緑に包まれ、また堤内では少年・少女のスポーツが盛んで、明るい元気な声と野鳥のさえずりが聞こえる中での歴史ウオーキングが楽しめます。(狭山市)(写真:対岸から駅方向の景観です)

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新富士見橋
狭山市にある埼玉県道262号日高狭山線に架かる橋の一つで道路橋と歩道橋が一つずつ存在する。歩道橋はすぐ上流側に平行して架けられている。晴れた日には文字通り新富士見橋から富士山を望むことができる。狭山市内の橋では最も古く、橋が老朽化しているため埼玉県に橋の架け替えを要請しているが現時点では具体的な動きはない。Wikipedia河口から22.8km 橋長:180m 有効幅員:約8m 完成:1958-昭和33)

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狭山市駅周辺地図(180°回転)

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入間川周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照



・・・・
資料ファイル

入間川御陣
(いるまがわごじん)

正平8/文和2年(1353)に鎌倉公方足利基氏が武蔵国入間郡入間川に設置した宿営地入間川御所とも呼ばれる。観応の擾乱後に上杉氏勢力に対抗するため9年間にわたって鎌倉府この地に移されて、公方である基氏は「入間川殿」とも呼ばれた。

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薩埵山の戦で弟の直義を破って関東を奪還した室町幕府初代将軍足利尊氏は、直義方であった関東執事(後の関東管領)上杉憲顕追放して畠山国義を後任に任命し、憲顕が守護を務めた上野・越後は下野の宇都宮氏綱に与えられた。この時期の鎌倉府の体制を学術上において「薩埵山体制」とも称する。氏綱は重臣芳賀禅可一族を守護代として派遣していたが、両国は上杉憲顕が上野を根拠とする南朝方の有力勢力である新田氏を制圧する過程で勢力を築いており、上杉氏や新田氏の支持者が新守護の宇都宮氏に反抗する可能性が高かった。そのため畠山国清は基氏を奉じて入間川鎌倉街道の交点近くに鎌倉府の機能移転させ北関東の平定にあたろうとしたのである。

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ところが尊氏の死後、鎌倉府の長として成長した基氏は上杉憲顕の復権を画策して国清・氏綱らと対立する。結果、正平16/康平元年(1361)に南朝討伐のための上洛軍失敗の責任を取らせる名目で国清を更迭、これに激怒した国清は翌正平17/貞治元年(1362)に領国伊豆反乱を起こした。基氏はこれを討つ名目で入間川を離れて伊豆に向かい国清を降伏させ、その後は鎌倉に戻って入間川に再び入ることはなかった。更に同年には宇都宮氏綱の越後守護職が更迭されて、憲顕復帰して程なく鎌倉に呼び戻された。そのため「上杉氏に対抗する」という入間川御陣設置の意義が喪失したためそのまま廃絶されたと考えられている。同時に国清らを中心とした薩埵山体制も終焉を迎えることとなった。
なお、入間川御陣の正確な所在地は不明であるが、現在の狭山市入間川にある徳林寺旧境内(狭山市入間川2丁目19番地北方)付近から狭山八幡神社付近など数箇所が候補に挙げられている。Wikipedia
写真:(上)徳林寺墓地上 (下)八幡神社脇より

by Twalking | 2017-11-11 09:32 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(6)東村山~狭山02-所沢   

日時 2017.10.26(木)
天気 晴れ


長久寺から台地を上り東川低地へと下ると所沢、
駅周辺は行ったことがありますが旧市街は初めてです。
街道周辺に寺社・旧跡が残っています。

峰の坂を上ると狭山台地、県道ですが狭山境辺りから
茶畑が広がってのどかな田園風景になります。
入曽も旧跡が多く見応えがあって面白いと思います。



・・・南住吉/所沢市


所沢市内の南部、吾妻地区に所属する。西武新宿線・池袋線所沢駅の南西側に位置し、西住吉、東住吉、北秋津、久米、星の宮と隣接する。
Wikipedia

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街道の風景① 長久寺墓地に沿って柳瀬川の低地から所沢台地へ上ります/長久寺先

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西武線の踏切を横断左折        すぐの二差路を右折します/南住吉

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街道の風景②「旧鎌倉街道」の標柱が立っています/南小学校正門

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バス通りを横断            幼稚園前に旧道の標柱

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街道の風景③ 電電公社先から東川低地へ下ります。坂下に説明板、その先が実蔵院です/金山町

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鎌倉街道
鎌倉街道は治承4(1180)源頼朝が鎌倉に拠ってから、これに従う武士たちが「鎌倉へ- 」と馳せ参じた道であり、その代表的な道が上道・中道・下道の三道であった。上道は高崎方面から児玉・菅谷・入間川・所沢・府中・町田・瀬谷を通って鎌倉に至る道であり、中道は古河・栗橋方面から春日部・川口・池袋・渋谷・二子玉川を通って鎌倉に至り、下道は水戸・石岡方面あるいは千葉方面から国府台・浅草・川崎・金沢を通って鎌倉に至った。これらの道は武蔵野を通過する幹道であり、その重要性は徳川家康が江戸に入府し江戸五街道ができるまで続いた。所沢上道のほぼ中心にあるため古来合戦の地となり、また文人僧侶などの旅人が所沢を通過していった。所沢市の地名を有名にしたのは太平記であり廻国雑記である。太平記には小手指原の合戦が記され、また廻国雑記には「野遊びのさかなに山の芋そえてほり求めたる野老(ところ)沢かな」の歌がある。(所沢市教育委員会)


・・・元町
(もとまち)

所沢市中心市街地に位置し寿町・西住吉・星の宮・金山町・宮本町・有楽町と隣接する。所沢駅と西所沢駅の直線上のほぼ中間にあり所沢小学校、公共複合施設「所沢ハーティア」が所在するなど所沢市のかつての中心地であった。江戸時代この辺りは上宿・中宿と呼ばれ、河原宿(現在の宮本町付近)から江戸四谷への道が整備され東(江戸街道)・西(秩父道)・南(府中・八王子方面)・北(川越方面)へ延びる主要道路の中継地として繁栄した。
Wikipedia


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実蔵院山門/元町

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実蔵院
もと野老山正福寺ところさん)と呼び、現在は単に野老山と号し真言宗豊山派に属している。寺歴については宝暦3年と文政7年の2度の大火で古文書、縁起類一切烏有に帰して詳らかでないが、戦前供出した古半鐘には正平7新田義興によって開基されたとの銘があった。現在の本堂は嘉永3年に再建され本尊は大日如来、同本尊の脇侍として聖観世音菩薩が安置されている。

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なお当寺は旧鎌倉街道に沿っておりこの野老とは、現在の所沢の古い名称であり、このことによっても創立が古いことを証明していると思われる。昭和29年本堂の修繕及び庫裡の改築が行われた際、貞治4136588日建立の弥陀一尊種子板碑、應永11142422日建立の弥陀一尊種子板碑、並びに享徳31454930日の金箔押弥陀三尊種子板碑が発見され保存されている。宝暦年間1751-64の中興開山を慧海阿闍梨と伝えられており現在の住職は墓誌によって第23世に当たっている。(武蔵野33観音霊場案内)


・・・金山町


金山町交差点付近は江戸時代から江戸四谷への道が整備され東(江戸街道)・西(秩父道)・南(府中・八王子方面)・北(川越方面)へ延びる主要道路の中継地として繁栄した。この中継地は現在も金山五差路として残っている。明治・大正期には特に織物買継商の取引の場として栄えた
Wikipedia


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街道の風景④ 街道は直進ですが、左折してかつての中心部を三ツ井戸へ/江戸道(小金井街道)

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昔の面影が残ります          金山五差路を右折


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弘法の三ツ井戸/西所沢
この井戸は昔一人の旅僧(弘法大師)が諸国巡歴の折、当地に来たり民家に立ち寄り飲み水を求めた。すると機を織っていた婦人が遠方まで水を汲みに行った。これを見ていた旅僧は村人の難儀を救おうと思い、杖で三か所場所を示して印を付け、「ここを掘れば良い清水が得られる」と教えた。そこで村人は教えられた三か所を掘ると果たして清水が得られたという。三ツ井戸は東川にそってほぼ50間隔で掘られ、現存する井戸はその東端のものであり、後方には弘法大師をまつる小堂がある。(所沢市教育委員会)

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川の風景① 左手奥に弘法大師の小堂があります/弘法橋

東川
(あずまがわ)
所沢市を流れる柳瀬川支流で荒川水系の一級河川である。所沢市三ヶ島の狭山丘陵北部から所沢市内の中央部を西から東に流れて、所沢IC付近の城下橋先で柳瀬川に合流する。途中河道の上に構造物を渡すもしくは暗渠化され駐車場となっている区間がいくつかある。Wikipedia


・・・有楽町


所沢市内の中央部、所沢地区に所属する。所沢駅と航空公園駅の中間に位置し近隣の北有楽町、御幸町、寿町、元町、宮本町と隣接する。町境北側には国道463号が東西に通過し南側に東川が流れている。地内には江戸・明治期創業の老舗商家なども点在している。江戸時代頃の当地の界隈は浦町(うらまち・
当時の江戸道(現小金井街道)から見て北側に東川が流れており、その裏にあたる町の意)と呼ばれた。1912年(大正元年)1117日、所沢飛行場への大正天皇の行幸を記念して近隣の御幸町・寿町・宮本町と共に縁起の良い名称に改称された。Wikipedia

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街道の風景⑤ 元町を反対側の所沢駅方向へ行くと有楽町です/江戸道(小金井街道)

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店は閉まってますが立派な塀です     安政3年創業の深井醤油

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藥王寺山門/有楽町

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藥王寺
東光山自性院と号して本尊は薬師如来の木像で身丈け55cmある。寺の縁起によると新田義宗は戦に敗れた後、再起の時を待つために主な家臣に言い含めて軍勢を群馬県に引き返させ、それから「義宗は北国に落ちて行った」と云いふらせ、自分は密かに所沢隠れ住んだ。ところがその後、足利氏の勢いは日増しに強くなり遂に南北朝も統一され戦乱も収ったとの話が伝わって来た。そこで義宗は髪を落とし、衣を着て今までの隠れ家をお堂に改めた。そして一体の薬師如来を彫刻し、その腹の中に守本尊をまつりこみ戦死した一族や部下の菩提を弔いながら毎日を送り、遂に応永20年(1413この地で亡くなった。本尊は昭和37年解体修理の際、永禄10年(1567)修理の墨書体内銘があった。境内には明治30年に義宗の子孫が建てた「新田義宗終焉之地」の碑や江戸時代の女流俳人三上里恵の句碑などがある。(所沢市教育委員会)


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新田 義宗
南北朝の武将。新田義貞三男。父・義貞の戦死後、越後の新田一族に匿われて成長したと思われる。成長すると兄義興、従弟の脇屋義治らと越後、関東で南朝方を指揮する。正平7/観応3年(1352)閏2月に正平の一統が崩れると、宮方と観応の擾乱足利直義方に付き足利尊氏に敵対した武士をあわせ、同年閏215日に上野で挙兵する。武蔵国金井原(小金井市)などで尊氏と合戦する。三浦氏の支援を受け義興は迂回して鎌倉に突入し、尊氏の子基氏を敗走させ、鎌倉の奪還を果たす。基氏は武蔵国石浜(台東区)で義宗と対陣していた尊氏と合流し義宗を破る。義宗は退いて笛吹峠(埼玉県嵐山町)に陣を敷き足利軍を迎え撃った。直義方だった上杉憲顕の参陣を受けたが、足利軍に敗北し越後へ落ち延びた。義興は32日鎌倉を脱出し、関東南朝方の挙兵は鎮圧された。これら一連の戦いを総称して「武蔵野合戦」という。正平13/延文3年(1358)、尊氏が没したのを機会に関東で決起を図り東国の南党に働きかけるが、義興が武蔵国矢口渡で基氏方に謀殺されたため頓挫。その後も義治と共に越後を中心に散発的に行動するが、南朝方の劣勢は増すばかりで組織的蜂起はできなかった。正平23/応安元年(1368)、足利義詮、基氏が病死したのを機に武蔵での河越直高らの武蔵平一揆に呼応して越後で義治と挙兵したが、上野沼田荘で敗北。義宗は戦死し、義治は出羽に逃れた。異説として、義宗は武蔵国所沢薬王寺に逃れ、再起を窺っていたがやがて出家し、戦死した一族郎党の菩提を弔いながら応永16714日(1409))又は応永20年(1413)に死亡したという説、また義治とともに阿波に落ち延びたという説もある。Wikipedia
写真:境内の「新田義宗終焉之地」碑

筏道・矢口新田神社の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25462327/


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川の風景③ 小金井街道の北側の東川沿いが良さそうですね/有楽町江戸

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名所図会 所澤 薬王寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
右が薬王寺、中が明神社、左が新光寺でしょうか。新光寺の鈎の手・東川の袂が「河原宿」、東西の江戸道の方が賑わっている感じがします。


・・・宮本町


所沢市中心市街地内に位置する。西武新宿線航空公園駅と池袋線西所沢駅を結んだ線上にあり元町・金山町・西所沢・上新井・けやき台・泉町・喜多町・有楽町と隣接する。江戸時代には河原宿が設置されておりここから江戸四谷への道が整備され繁栄した。
Wikipedia
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街道の風景⑥ 元町から直進した新川の川辺・鉤の手あたりが「河原宿」でしょうか、旧道を示す標柱が立ちます/新光寺門前

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中世の道
令制の衰退とともに時代は武士の台頭する中世へと移りました。中世、政治の中心が鎌倉に移ると東国の武士が鎌倉との往復などに使うため鎌倉街道が整備されました。市内では「入間川道」と呼ばれた本道の他に「堀兼道」「小手指道」などの枝道があり、入間川道と堀兼道の分岐点の南・宮本町1丁目の新光寺付近に発展した河原宿などのように街道沿いに集落ができ宿として発展していきました。鎌倉街道は鎌倉幕府の崩壊にも大きな役割を果たしています。新田義貞は上野国新田庄(群馬県太田市)で倒幕の兵を挙げ鎌倉街道南下しました。緒戦となった小手指ヶ原は30余回も打ち合った合戦の場であり、現在そこには「小手指原古戦場碑」が建てられています。鎌倉街道は室町幕府が成立した後も地方機関として鎌倉府(関東府)が置かれ関東を管轄したこともあり近世に入ってからも使用されていました。(所沢を通る古の道/所沢図書館)

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新光寺山門/宮本町


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新光寺
当寺の創建は定かではない。新光寺略縁起に遊石山観音院と号し本尊の聖観音、行基大士の作と伝え、慶安21649観音堂領として幕府から6石の朱印が出されている。寛政21790の寺社書上には「三間四面のお堂」と記録されている。草堂に観音像を安置したのがこの寺の始まりであろうか。また『新編武蔵風土記稿』や『吾妻鏡』『武蔵野話』『江戸名所図絵』などの地誌に建久41193源頼朝が那須野へ鷹狩に向かう途中ここで昼食をとった折り、その時の幕舎の地を寄進している。その後元弘31333新田義貞が鎌倉攻に向う途中、当寺に立寄り戦勝を祈願したことなどが記載されている。更に、聖護院門跡道興准后の『廻国雑記』に野老沢の観音院に福泉と言う山伏がいて、酒の肴にとろろいもを出したので『野遊のさかなに山いもそいて ほりもとめたる野老沢かな』と書いている。当寺は旧鎌倉街道の傍にあってこの附近が所沢の地名集落発生のところとされている。(武蔵野33観音霊場案内)

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八角堂                福寿稲荷社

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所沢の地名由来
所沢という地名は古く実のところその由来ははっきりしません。所沢の名前が文字で見られる資料の中で一番確実で時代が古いものは、京都の道興准后という身分の高い僧侶が記した『廻国雑記』という紀行です。文明18年(1486年)この人物は東国を巡り歩く中で所沢にも立ち寄り観音寺という寺でもてなしを受けた感慨を「野遊のさかなに山のいもそへて(添えて)ほりもとめたる野老(ところ)沢かな」という歌に残しました。この「野老沢」の「野老」(ところ)はヤマイモ科の植物のことです。ところざわという地名と「山のいも」を掛けた歌になっています。このことから所沢の地名の由来を説明するときにはこのトコロに由来すると説明されることが多いようです。もてなしを受けた観音寺は現在の新光寺(宮本町)だと言われています。(所沢市)
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所澤神明社鳥居(峰の坂側)/宮本町


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所澤神明社
所沢市宮本町にある神社である。所澤総鎮守であり「関東のお伊勢さま」としても知られる。日本武尊がこの付近で休憩をした際に天照大御神に祈りを捧げたという伝説にちなんで祀ったとされているが、文政9年(1826)に起こった火災の為、記録資料等が全て焼失しそれ以前の詳細は不明である。1911年(明治44年)4月に日本最初の飛行場として開設された所沢飛行場において、その初飛行のパイロットとなった徳川好敏が前日に関係者数名とともに正式参詣したことから、今日では特に飛行機と空の安全に関する祈願のために参拝客も訪れる。

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小高い南向斜面の上に建つ所澤神明社は神明社としては比較的規模の大きな神社で東・西・南三方に鳥居と参道があり、本殿の北・西側は鎮守の杜となっている。総檜造りの現拝殿は1934年(昭和9年)3月造営されたもので、屋根には先端が水平に切られた千木の間に太い鰹木(かつおぎ)が並んでいる。(Wikipedia

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街道の風景⑦ 平川の低地から峰の坂を台地上に上ります、右手が所澤神明社です/峰の坂上交差点手前

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峰の坂
峰の坂は元町から坂の頂上を見るとのようだったため名付けられたといわれるように、昔は坂の傾斜がきつかったそうです。昭和7年の道路改修工事によって斜面が削られなだらかになりました。(所沢市)

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街道の風景⑧ 峰の坂から入間までは狭山台地上を一直線に北へ向かいます/峰の坂上先

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鎌倉道の支線・堀兼道の分岐です    新所沢駅入口

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小手指駅入口             西武線踏切を横断左折します

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街道の風景⑨ この辺りから茶畑の田園風景、空には軍用機が飛び交います/狭山市境


・・・南入曽/狭山市


「入曽」の地区名称について

2009年合併前の旧村名「入間村」に由来する名称「入間地区」より改めた。入間市との混同を避けるとともに駅名とあわせ分かりやすくするため。Wikipedia)

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街道の風景⑩ 入曽駅入口を過ぎると金剛院、入間神社、観音堂があります/入間神社前


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金剛院山門/南入曽


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金剛院
真言宗豊山派の寺で、奈良県長谷寺の末寺であり本尊は不動明王である。当寺の創立年代は明らかではないが建久年間119097)と伝えられる。天文年間(153254)に深悦沙門が中興し、その後の慶安2年(1649)には3代将軍徳川家光から御朱印10石を賜っている。天保4年(1833)及び明治38年に火災に遭い、四脚門と土蔵を残して全焼したが、再建し昭和32年に現在の唐招提寺風の屋根に大改装した。堂内には享保元年(1716)玄慶作の木造不動明王座像をはじめ室町時代以前の作と推定される木造地蔵菩薩立像など多数の文化財がある。また、境内にある四脚門は天明2年(1782)寛慶により建立されたものである。その他当寺には県指定無形文化財となっている「入曽の獅子舞」が伝承されており、毎年101415日に奉納される。(埼玉県 狭山市)

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木造地蔵菩薩立像
地蔵菩薩は釈迦が亡くなってから567000万年後に弥勒菩薩が現れるまでの無仏の間この世で衆生(生命のあるものすべて)を救う仏とされています。そのため尊顔は慈悲深い穏かな顔立ちをしており、右手には錫杖(しゃくじょう)を、左手には宝珠を持っています。錫杖は僧侶が持つ環のついた杖で、もともとはインドの僧が山野を遊行するときに振り鳴らし、毒蛇や害虫を追い払ったものといわれています。宝珠は如意宝珠ともいい、意のままに宝などを出す珠のことで、病苦も取り除くことができます。この地蔵菩薩立像は像高79.5cm、寄木造り玉眼、漆箔(しっぱく)及び金泥彩からなり、かつて同院所属の南入曽にあった地蔵堂本尊でした。金剛院所蔵の古文書によると春日の作(神作といって仏像の由来を尊厳にするため付けられることが多い)と伝えられる古仏が失われたため、元亀4年(1573)に地元の有志と金剛院の甚悦沙門らが仏師玉運に依頼して再興したことや、承応2年(1653)に修理が行われたことが記録されています。仏師玉運は元亀・天正年間に当像以外にも武蔵・相模地方で数件の仏像製作や修理を行ってることが判明いています。(狭山市教育委員会)

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入間神社鳥居(いるまのじんじゃ)/南入曽


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入間神社
入間野神社の主祭神は大山祗命木花咲耶姫命で合祀神として天照大神ほか六神を祀っている。社伝によると当社は建久21191)の創建と伝えられ、石造の御神体には天正6年(1578)の年号が刻まれている。旧号を国井神社、後に御岳大権現と称し社領として慶安2年(1649)に10石の御朱印を賜っている。

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明治元年の社号改正につき御岳神社と改称したが、明治44年に大字水野にあった浅間神社を合祀し現在の名称となった。大祭は毎年415日、1015日、1123日に行われるが、特に1015日には県指定文化財の「入曽の獅子舞」が奉納される。当社には宝暦8年(1758)の獅子舞の絵馬があるのでそれ以前から伝承されているものと思われる。(埼玉県 狭山市)
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参道入口に鎌倉街道の案内板、これを見ると見所が多そうですね/入間神社

鎌倉街道(上道)のみちすじ

鎌倉街道(上道)は源頼朝が建久3年(1192)鎌倉に幕府を開いてから天正18年(1590)後北条氏が滅びるまでの約400年間、重要な道路としての役割を果たしてきました。幕府成立とともに整備された中世の道といわれ、武蔵武士を代表する畠山重忠をはじめ新田義貞等名将たちが栄枯盛衰の物語を刻み付けた道で、県の歴史に大きな影響を及ぼしております。さらに、この道は鎌倉から関東諸国へあるいは遠く信濃(長野県)、越後(新潟県)方面に通じ、兵士や軍馬の通った道であり、また諸国の武士たちが鎌倉へ参集するために利用された政治的・軍事的機能を持つ道でありました。(埼玉県)

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常泉寺の観音堂/北入曽
観音堂の創立は建陣2年(1202)と言い伝えられている。その後文保2年(1318)も旱魃の際、村人が観音堂に祈り古井をさらったところたちまち水が吹き出したと伝えられる。本尊は木造聖観音菩薩坐像で、江戸時代後期の川越住仏師・大覚の作であり、堂宇は宝永5年(1708)の再建である。毎年111日の観音様のお祭りにはかつては五色の布や鈴、新しい鞍や腹掛けをつけた牛馬がお堂のまわりをまわり、賑やかな祭だったといわれている。(埼玉県 狭山市)

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七曲井(
埼玉県指定史跡)/北入曽


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七曲井(ななまがりのい)
この七曲井は周囲70m余り、直径26m、深さ11.5mという大規模な漏斗状井戸です。竪堀井戸を掘る技術が確立される近世まではこの井戸のように漏斗状に地下水まで掘り下げたと考えられます。井戸に降りる道は上部で階段状をなし、中央部では曲がり道、そして底近くでは回り道となっており、この形状名前の由来になっているといわれています。また、井筒部は人頭大の石で周囲を組んだ中に松材井桁を組んでありました。井戸所在地の小字名堀兼井」読みは「ほりかねい」或いは「ほりがたい」から、古来この地方に住む人々にとって飲料水を得ることが困難であったことがわかります。井戸が掘られた時代については建仁2(1202)との説がありますが確かではありません。ただ、府中から入間川に至る奈良・平安時代の古道沿いにあるため、平安中期に開拓と交通の便を図るため武蔵国府(現在の役所)の手により掘られたと考えられています。七曲井は何度か改修が行われ地域の人々の貴重な水源として活用されてきましたが、宝暦9(1759)の改修を最後に歴史から姿を消します。その後、土砂やゴミの堆積によって埋もれてしまいました。昭和45年に埼玉県教育委員会と狭山市教育委員会によって発掘、復元され地元の人々により大切に保存されてきましたが、最近になって壁の一部に崩落の危険性があることが明らかになりました。その為、平成1718年度に崩落防止工事を実施しました。この工事により現在見える姿は往時と異なるものとなってしまいましたが、井戸本体は半永久的に保存可能となったのです。(埼玉県教育委員会・狭山市教育委員会)

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「この井戸は下におりる道が上部では階段状をなし、中央部ではイナズマ型に曲がり、底近くでは回り道になっている。井筒部は玉石で周囲を組んだ中に松材で井桁が組まれている。このようなすり鉢状の形は武蔵野台地に残る数少ない漏斗状井戸マイマイズ井戸)の典型といえる。この井戸の起源については建仁2年(1202)との説があるが確かではなく、平安時代中期に開拓と交通の便のため武蔵国府により掘られたものではないかと推定される。井戸は文献によると文永7年(1270)を初めとして宝暦9年(1759)まで数度にわたり修復されたことがわかる。その後、使用されなくなりごみや土砂が堆積していたものを昭和45年に発掘し復元した。井戸の周囲は70m余り、直径1826mで地表から約10m下ったところに井桁がある。(案内板)

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川の風景④ 古多摩川の名残りですか・・・、日没が近いので入曽駅に戻ります/入曽橋

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不老川(としとらずがわ)
この川は入間市宮寺付近に源を発し、野水を集めながら堀兼を通り川越市で新河岸川に注いでいる。地質的には古多摩川名残り川であると言われている。現在では一年中水が流れているが、昔は毎年冬季になると必ず水が涸れ〈としとらず川〉と言われ「節分の夜、不老川の橋の下にいると年をとらない」との伝説がある。(埼玉県 狭山市)

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所沢周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照
(赤:鎌倉街道上道 緑:堀兼道 青:東川・不老川)



by Twalking | 2017-11-03 14:18 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(6)東村山~狭山01-久米川   

日時 2017.10.26(木)
天気 晴れ


東山道武蔵路の遺構のことを知りたくて
歴史館を訪ねたのは2月頃だったでしょうか。
桜の頃に・・・が、半年以上が過ぎてしまいました。

天気に誘われて久し振りの鎌倉街道上道です。
久米川宿、所沢宿、入間宿と見所が多いので
じっくりと見てみたいと思います。


・・・久米川町(東村山市)

道興准后の「廻国雑記」(1486)に現在の柳瀬川を「くめくめ川」と呼んでいた記載がありこれが地名の由来のようです。鎌倉時代には鎌倉街道の宿駅として久米川宿は軍事的にも経済的にも重要な役割を果たしてきました。古くから宿場町として栄えてきたこの町には古木で有名な梅岩寺があります。樹齢700年といわれている大ケヤキは東京都の天然記念物に指定され、それに対峙して立つ樹齢600年のカヤの木は市指定の天然記念物に指定されています。熊野神社は隈に公園を擁し梅岩寺とともに豊かな緑地を市民に提供しています。(東村山市)

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街道の風景① 駅前の道は現在の府中街道です/東村山駅入口 

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次を左折すると武蔵路の遺構です  
   鎌倉道はその先を左折します/本町

本町の由来

昭和39年市制施行と同時に市政中心地であることから 「本町」と名付けられました。町名が示すように東村山駅の東南に広がる本町には市役所をはじめ中央公民館、市民センター、中央図書館、警察署など、豊かで安全な市民生活に欠かせない公共施設が集まっています。本町の北部を通る鎌倉古街道跡は上古の昔からこの地域が上毛、北越方面へ向かう交通の要所であったことを今に伝えています。新田義貞が鎌倉攻めの道としたことでも有名です。(東村山市)


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街道の風景② 左手に「旧鎌倉街道」の標柱が立っています/本町 

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旧蹟鎌倉古街道/グランド前
鎌倉幕府は重要な基盤である関東地方をしっかり統治するため鎌倉を起点として四方の街道を整備した。主なものは上ッ道、中ッ道、下ッ道と呼ばれた。東村山にも市域の南北上ッ道が通っており、市域鎌倉街道は古代の官道である東山道武蔵路にほぼ平行して走っていたと推定される。鎌倉化粧坂から府中を経て、小平市境の九道の辻より現府中街道にほぼ沿って北上し八坂神社(前にまいまいず井戸があった)、東村山駅を過ぎ白山神社付近から西武鉄道にほぼ平行し東村山と所沢市久米の境である勝陣橋あたりより堀兼・入間川・男捦・上野国を経て信濃に至る。文久8年(1271)日蓮上人の佐渡流刑の際に立ち寄った記述のある久米川宿、元弘3年(1333)の新田義貞鎌倉倒幕の久米川古戦場なども沿道にあったと考えられ、市の歴史上極めて由緒深い。(案内板)

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グランドの先左手に久米川白山神社が鎮座します/久米川町

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久米川白山神社
久米川町の鎌倉街道に沿いにありイザナギノミコトを祀っています。例大祭は1010日前後の土日で、境内には高さ67cmで石造丸彫座像の牛頭天王像があり市の有形民俗文化財に指定されています。(歴史の散歩道/東村山市)


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白山神社の牛頭天王像
牛頭天王は頭に牛頭をいただいた像で通称は「天王さま」として知られ、素盞鳴尊を同体とされています。疫病除けの神として知られていますが家内繁栄や招福の神としても信仰されました。この白山神社の牛頭天王像は高さ67cmcm程ですが、石造丸彫座像としては極めて珍しく武蔵野地域には類をみない優れた忿怒相の石仏です。胸には「信心者 当病除」と造立者の願いが彫られ、また台石には「村内安全」の文字とともに文政21819)に北久保忠蔵が願主となって造立したことが刻まれています。地域の言い伝えによるとこの像はもともと白山神社にあったものではなく明治の初め頃に井戸の中から発見されたそうですが、願主の北久保忠蔵の名は近くの「普門品供養塔」にもみえており当時のこの地域の有力者であったようです。(東村山市教育委員会)

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街道の風景③ 突き当りに「立川家長屋門」はなかったですね~、この一帯が「久米川宿」なのでしょうか?

久米川辻
旧久米川村の中心で南北方向の府中街道を軸に6本もの道が複雑に走っています。北へ延びる道は志木河岸や所沢方面へ、西へ延びる道は廻田町や青梅方面、南へ延びる何本かは府中や東京へと続いています。こうして村の辻は各方面からの情報の交差点でもありました。(東村山市教育委員会)


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梅岩寺山門/久米川町

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梅岩寺
1651年(慶安4)阿山呑碩和尚に中興開山されたといいます。ケヤキ(都天然記念物)、カヤ(市天然記念物)が山門の左右にあり、それぞれの樹齢が約700年、600年といわれています。市内で現存する最古い庚申塔や四国霊場巡りと同じ功徳が得られるという新四国石仏など文化財も多いです。(歴史の散歩道/東村山市)

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新四国石仏
江戸期特に中ごろから霊場巡り巡礼が庶民の間に盛行し、近くは坂東・秩父に遠くは四国八十八ヶ所詣でなどいわゆるお遍路が行われました。四国への霊場巡りは現代とちがって数ヶ月もかかり経済的にも身体的にもそれはたいへんなことで、だれでもが実行できるものではありませんでした。そこで地元に八十八ヶ所の石仏を造立し、四国まで行かなくとも同じ功徳が多くの人に得られるようにしました。これを新四国石仏といいますが、この石仏は文政7年(1824)に久米川村の榎本権兵衛らが建立し奉納したものであり現今、完全に八十八体として残されているものはこの近郷になく信仰史のうえからも価値があります。(東村山市教育委員会)

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庚申塔
江戸時代のころより庶民の間に庚申信仰がさかんになり村々では庚申講がつくられ、その講によって庚申塔が建立された。寛文(1661-1673)のころ多く建てられたが、この塔は市内で最も古いもので延宝5年(1677)梅岩寺三世一宣高策和尚(天和2年没)が建立したもので、笠付、上部に日輪・月輪、下に三猿、台石に講中の人名が刻まれている。庚申信仰とは61日目に廻ってくる庚申の夜に人体の中の30の虫が抜け出して、その人の悪事を天帝に告げられるのを防ぐという中国道教思想に始まる信仰である。(東村山文化財案内)

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ケヤキ
目通り幹囲7.1m、高さ約32.5m、幹は地上約3mのあたりから数本の大枝に分かれる。新編武蔵風土記稿久米川村梅岩寺の条に「門、芳林山ノ三字ヲ扁ス、周囲二丈許ノ古槻、或ハ一丈二尺許ノ椵樹、門ニ入テ左右ニアリ」と記している。地勢なお旺盛で都内にあるケヤキのうち有数の巨樹でありとくに樹高が秀でている。ケヤキはニレ科に属し巨樹となる落葉樹、春には新葉と同時に淡黄色の細かい花を開く。(東京都教育委員会)


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カヤ
梅岩寺のカヤは都内でも有数のカヤの大木で目通り幹囲5m、高さ約30m。樹令はおおむね600年です。新編武蔵風土記稿久米川村梅岩寺の条に「周囲二丈許の古槻、或は一丈二尺許の椵樹、門に入て左右にある」とありますが、槻はケヤキ(東京都指定天然記念物)であり椵はこのカヤを指すと思われます。カヤは一位科に属し常緑樹で枝も多くうっそうとしています。(東村山市教育委員会)

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久米川熊野神社鳥居/久米川町

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久米川熊野神社
旧鎌倉街道の沿道に鎮座し、元弘年間久米川の合戦の時新田義貞後詰を置いた所。明治4年村社に列せられた。明治14年本殿落成の折、有栖川熾仁新王の真蹟二軸を賜り毎年例祭にこれを掲げている。(北多摩神社誌)

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境内の北側は一段下がって公園に池があります。昔は大きな池があったそうですがその名残でしょうか?

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街道の風景④ 踏切を渡ると「西宿」、徳蔵院・将陣橋から八国山東麓への道も古道のようです/西武新宿線

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将陣橋&八国山            踏切先を右折します

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街道の風景⑤ 住宅地の道を直進、二瀬橋信号を左折します

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川の風景① 前川を合わせた北川が柳瀬川(右)と合流します/二瀬橋(所沢境)

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柳瀬川に沿って進みます        坂下の二差路を左折

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柳瀬川
荒川水系の支流である。東京都西多摩郡瑞穂町大字石畑字御達間ならびに入間市大字宮寺字金堀沢の狭山湖水道用地内の大沢・金堀沢などに源を発し、狭山湖を経た後ほぼ都県境に沿って(上流の金堀沢もほぼ都県境に沿って流れている)北東へ流れ、清瀬市下宿で清瀬水再生センターの放流を受け入れ、志木市新河岸川に合流する。狭山湖の湖底には現在でも川の旧流路が残っている。(別称)かつて所沢市南部を中心に「久米氏」という名の豪族が栄えた事から一部では久米川との別名があった。今では西武新宿線の久米川駅にその名が残っている。Wikipedia

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江戸名所図会 久米川 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


八国山将軍塚・久米川古戦場跡の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23820487/


・・・久米
(くめ)/所沢市

所沢
大字。所沢市中南部に位置する。北で星の宮・南住吉、東で北秋津、南東で東村山市久米川町、南で松が丘、西で荒幡・北西で山口と隣接する。また北東側に飛び地を持ち北でくすのき台、東から南にかけて北秋津、西で東住吉と隣接する。西南部の鳩峯公園周辺狭山丘陵の一部となっておりナショナル・トラストによる『トトロの森2号地』など豊かな自然が広がる。地名はかつて久米某と名乗るものがこの地に居住したためとされるWikipedia

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街道の風景⑥ 左手に庚申塔が立ちます、直進し所沢台地へむかいます/久米

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T字路を左折             勢揃橋からの道を合わせます

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街道の風景⑦ 正福寺から北川沿いに八国山東麓、柳瀬川への道も鎌倉道の別ルートのようです/勢揃橋

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長久寺山門


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長久寺
長久寺は所沢で唯一の時宗の寺です。開山は鎌倉時代(元弘元年)です。山門の前を旧鎌倉街道が通っています。約3000坪の敷地に山門、本堂、客殿、庫裏、斎場、墓地、永代供養墓などがございます。(長久寺)

金銅造阿弥陀三尊立像(所沢市指定文化財)

長久寺の本尊として長い間伝わり通常は公開せず秘仏として厨子の中にお祀りされています。長久寺の開山は玖阿弥陀仏(くあみだぶつ)で新田義貞の鎌倉幕府倒幕の際、元弘3年(13335月に府中分倍河原で戦死した新田方の武将の供養塔八国山に建立した人で、この三尊は当時から伝来したものと思われます。三尊の高さは中尊が約19cm、両脇侍が約11および12cmです。像の身部に金色の残容が見られるのでもとは銅造鍍金の金銅仏であったことがうかがわれます。(所沢市教育委員会)

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廻国供養塔(所沢市指定文化財)
この塔の建立者である平塚宗順常陽は江戸時代中頃、江戸へ出て小児婦人科医を開業し、後に日本廻国行者となりました。当時は観音巡礼や四国遍路にならって日本国中の社寺を廻ることが流行していたようで、常陽も国中の神社仏閣を参詣し、その記念として安永3年(1774)にこの供養楼を建てたのです。この塔には四面すべてに文字が刻まれています。特に左側側面には「やくしのうた」と題して「唯たのめむびょう(無病)そく才(息災)福々と 寿命てきふう(長久)諸ぐわん(願)成就」とあり、さらに平塚夫妻の和歌が次のように記されています。今むまれて死ぬことの世の中にながきと人の思うもの哉 源常陽朝の間に心とめてしあさかほの見せばや人に夕ふくれのそら 妻とみなお、塔身の上の薬師如来像は塔の建立後新しく置かれたものです。(所沢市教育委員会)

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旗本中根氏の墓(所沢市指定文化財)
「旗本中根氏の墓」は長久寺本堂の裏手にあり中根正重200回忌にあたる寛政9年(179794日に子孫の中根正寧が再建したものです。また、正重の400回忌にあたる平成9年(1999)には長久寺護持会一同によって400回忌法要が行われ墓石覆屋と記念碑の建立及び墓域の整備がなされました。大名旗本諸家の家譜を記した「寛政重修諸家譜」によると、正重は慶長3年(159894日に伏見において死没し久米村長久寺に葬られました。正重の子の中根正成以降、代々の葬地は江戸深川法禅寺(現神田寺)に移りますが、長久寺には後代中根氏とその奥方息女などの位牌が納められています。また、中根氏は本堂の修復や屋根替えなどに際しても費用を寄進しており長久寺の維持発展に大きな功績を残しています。中根正重ははじめ徳川家康の長男信康に仕えていましたが信康の死後、家康に仕えて関東入国に供奉し天正19年(159153日、久米村200知行地を与えられました。以後、天和2年(1682421日中根正延の時に知行6千石となり、上級旗本として相応の職に就いた中根氏の久米200石知行は幕末まで続きます。「旗本中根氏の墓」は江戸時代初期に所沢市域を支配した旗本の地方知行の実相を示す貴重な資料です。(所沢市教育委員会)

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豊川稲荷
明治44(1911)愛知県の豊川稲荷より分社してもらい当山34世鐘阿義圓和尚によって安置されたものです。社殿は昭和47年と平成16年に再建されています。熊野大権現とともに寺の鎮守として大切にお祀りしています。初午祭、星祭の神事も行っております。(長久寺)

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街道の風景⑧ 街道は長久寺に沿って右に曲がりますが、ちょっと寄り道します/長久寺門前


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松が丘/所沢市

南端に東京都東村山市との都県境に位置し、北で久米、東で荒幡、南で東村山市諏訪町と接する。狭山丘陵の一角に西武グループが開発した住宅地の一つで、開発初期から電線地中化が行われ「環境共生住宅団地」の認定を受けたり「さいたま景観賞」を受賞した
Wikipedia)

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川の風景② 柳瀬川は八国山の北鹿の谷間を西から流れてきます/吾妻橋


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悲田処跡/悲田処跡公園

悲田処
平安時代初期の天長10833)、武蔵国多摩郡入間郡に設けられた布施屋。飢えや病気に苦しむ旅行者の一時救護所・宿泊所としての役割を果たした。悲田処の設置場所については設置時の記述に「多摩郡と入間郡の境」としか書かれていないため古来より諸説ある。比定地としては多摩郡側が東京都東村山市内に3ヶ所と清瀬市に1ヶ所、入間郡側が埼玉県所沢市に1ヶ所存在する。

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所沢市松が丘説
比定地は所沢市松が丘1丁目31番地14で、現在でいうと所沢の新興住宅地である松が丘の東に位置する。東村山市諏訪町説と並び東山道武蔵路通過していた地でもある。古くから跡地として伝承されていたようで5つある比定地の中では唯一「武蔵国悲田処跡」と書かれた標柱が立つとともに、周辺は「悲田処跡公園」として整備されている。しかしここを比定地とする根拠はあくまで伝承によるものであり学問的な根拠はまったく存在しない。このため疑義が出たのか昭和221947)に一度埼玉県の史跡指定を受けながら10年で解除され、昭和331928)に所沢市の方で再度史跡指定するという不自然な経過をたどっている。さらに昭和531978)から始まった宅地造成で発掘調査が行われたものの縄文時代の住居跡がわずかに見つかっただけで平安時代の遺物・遺構は一切確認されず考古学的にも跡地であることが否定される結果となった。

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東村山諏訪町説
比定地とされているのは中世に「久米川宿」が営まれた地域のうち「西宿」と呼ばれる地区で、現在の住所では諏訪町1丁目の中ほどに当たる。この地は所沢松が丘説と並び東山道武蔵路通過していた地でもある。この地域の特徴は単に「悲田処があった」というだけでなくかなり細かい伝承が残されていることである。それによると悲田処の建物は「板倉」「ハナヤ」「タケヤ」「ウメヤ」「薬師寺」の五棟からなっていた。中心的な建物は「薬師寺」でありこれが悲田処の本部というべき存在であった。「薬師寺」は後に「正永寺」という寺となったが「薬師寺」の名称は通称として残った。「薬師寺」→「正永寺」の跡地は諏訪町1丁目2817号の諏訪町自治会館周辺であるという。このような歴史的展開まで踏まえた伝承は他の地域にはない。Wikipedia抜粋)

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仏眼寺山門/久米

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仏眼寺
真言宗豊山派の寺院。佛眼寺は延暦21年(802)の建立とも伝えられています。周りをみどりに囲まれ良好な景観を形成しています。お散歩コースにもなっています。(所沢市)

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仏眼寺から鳩峯八幡神社へ雑木林の小道を森林浴、生き返る心地でした/久米八幡越市民緑地

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鳩峯八幡神社
(はとみね)鳥居/久米

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鳩峯八幡神社
旧社格は郷社。誉田別命(ほんだわけのみこと)・比売神(ひめかみ)・気長足姫尊(きながたらしひめのみこと)を祀る。創建は延喜21年(921)、山城国綴喜郡(つづきぐん・現在の京都府八幡市)の男山に鎮座する石清水八幡宮より分祀を受け、これを狭山丘陵の一部である現在地に祀ったことによる。社号や鎮座地の「鳩峯」は男山の正式名鳩ヶ峰にちなむ。なお創建について『新編武蔵風土記稿』は元弘3年(1333)としているが誤りである。以後しばらくの間、貞永元年(1232)に社殿を修復した以外に目立った動きはないが、伝説として鎌倉幕府を倒した新田義貞の話が残されている。

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元弘3年(1333年)に地元の上野国で倒幕のため挙兵した義貞は武蔵国で幕軍と衝突することになった。この際、八国山の将軍塚を布いた義貞は、当社で社前の松に兜を掛け境内に鎧を置いて戦勝祈願を行った。そしてのちに義貞が幕府を滅亡に追いやり一躍英雄となったのを記念し兜を掛けた松を兜掛の松と呼び、鎧を置いた場所には稲荷社を祀って鎧稲荷と称したというものである。この両者については現在も当社に残されている。天正19年(1591)には徳川家康より朱印地5石を寄進され幕末まで続いた。

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以降、久米地域総鎮守となる。明治維新後、明治5年(1872)に一度村社に列せられたが大正10年(1921)に郷社へ昇格した。

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本殿は建造年が不明であるが慶長13年(1608)の年号が入った棟札が残され、この年に修復を行った旨が記されていることから建造はそれ以前、室町時代より前であることがほぼ確実視されている。建築様式は一間社流見世棚造と呼ばれる比較的質素な様式による。埼玉県内でも数少ない室町時代以前の神社建築であり、埼玉県指定有形文化財に指定されている。周囲は狭山丘陵の一部で鬱蒼とした雑木林(鳩峯公園)となっており、その中に八幡神社本社そして周囲に摂社2社と末社数社が祀られている。Wikipedia

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鳩峯八幡神社社務所と参道

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久米水天宮鳥居

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水天宮(久米水天宮)
摂社の1。境内の南側の一段下、石段を下がったところに位置する。祭神は安徳天皇。地名を冠して「久米水天宮」と呼ばれる。例大祭は15日でだるま市が開かれる。この際には市内から初詣客とともに人が押し寄せにぎわいを見せる。また普段から安産の神様として周辺地区だけでなく所沢市中心部の人々の崇敬を集め、かつては市内の団子屋が縁起物として「子持ち団子」を売っていたこともあった。なお当社は単独の参道を持ち、地形上も独立しているような配置になっているほか、麓を走る西武バスのバス停名でも「水天宮下」の名が採用されるなど鳩峯八幡神社とは別の神社と勘違いされやすい状況下にあるが、あくまで立場は「鳩峯八幡神社の摂社」であるWikipedia

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永源寺山門/久米


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永源寺
久米に位置する、南北朝時代に創建された曹洞宗の古刹です。山門や伽藍は閑静なたたずまいにして、良好な景観を形成しています。延命・子育て地蔵にお参りする人も多く、境内の雪割草も親しまれています。(所沢市)


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大石信重墓塔
永源寺を創建したと伝えられる大石信重は木曾義仲の末裔を名乗り、室町幕府の関東管領を勤める山内上杉氏に仕えました。その後合戦の手柄によって上杉氏に重用され、武蔵国のうち多摩・入間両郡の内13の領主となり、さらには武蔵・伊豆両国の守護代を歴任しました。本堂の石段を上がったところに覆屋に入った石塔がありますがこれが大石信重の墓塔です。五輪塔や宝篋印塔などの部分で構成されていますが銘文のある基礎石は宝篋印塔の形式であるので、本来は宝篋印塔であったと考えられます。銘文には次のように刻まれています。直山守公菴主 正長三祀□廿八日巳剋 「直山守公」とは大石信重法名です。この石塔はいささか変形ながら中世の所沢地方を支配した大石氏の資料として貴重なものです。(所沢市教育委員会)

大石信重

南北朝時代の武将。大石氏中興の祖とされる。兄家村同様に足利氏に属して活躍した。木曾氏当主・木曾家教の三男。縁戚関係にある大石為重の婿養子となる。関東管領・上杉憲顕に仕え、武蔵国比企郡津下郷三百貫文を与えられた。観応2年(1351)挙兵した南朝方新田義宗と敵対し笛吹峠の合戦で先陣を勤めた。延文元年(13565月その戦功として武蔵国入間多摩両郡13を得て同年8月に多摩に移住し、二宮(現在のあきる野市)にを構えた。また武蔵国目代職、武蔵国守護代、伊豆国守護代を歴任した。至徳元年(1384浄福寺城(現在の八王子市恩方町)を築城した。応永31年(1424年)89歳(または91歳)で死去。墓所は信重が開基した曹洞宗大龍山青松院永源寺所沢市久米)。Wikipedia

大石氏の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23876369/


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八国山周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照



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資料ファイル

東山道武蔵路遺構

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東の上遺跡の案内板/南陵中学

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東の上(あずまのうえ)遺跡/久米
東の上遺跡は狭山丘陵を南に望む柳瀬川左岸武蔵野台地縁辺に立地し、面積は約30万m2を擁します。これまでの発掘調査によって縄文時代から中世・近世にかけて各時代の遺構が検出されていますが、とりわけ奈良・平安時代には大規模な集落が営まれており、入間地区でも屈指と言われています。特に南陵中学校校庭から検出された幅約12道路跡は古代国家の幹線道路「東山道武蔵路」として埼玉県内で初めて確認されました。また、墨書土器や漆紙文書、炭化した大量の米、帯金具や馬具などを出土していることから役所の働きをする集落であったと推測されます。出土遺物は所沢市立埋蔵文化財調査センターに展示及び収蔵されています。(所沢市)
(写真:ふるさと歴史館展示資料/東村山市)

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八国山周辺東山道武蔵路推定ライン/「東村山市No157遺跡調査概要報告」より(赤:東山道武蔵路推定ライン 赤破線:同支線 橙:鎌倉街道上道 青:柳瀬川・北川・前川)

東山道武蔵路・国分寺地区遺構の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23816935/


東村山市ふるさと歴史館

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ふるさと歴史館/諏訪町1丁目
東村山市は古代の「東山道」、中世の「鎌倉街道」を軸に特徴ある歴史がありこれらを反映した文化財が残されています。ふるさと歴史館は文化財保護や歴史資料の収集を進め東村山の歴史に関わる展示を開催しています。また、窓口では埋蔵文化財包蔵地(遺跡)の照会も行なっています。(東村山市)
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展示風景
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東山道が通る
7世紀もなかばを過ぎたころ小さな集落の散財する東村山に12もある大きな道である東山道武蔵路が通いました。所沢の台から降りてきて国分寺や武蔵国府一直線に目指すこの道は、律令制により中央と地方を結ぶ官道の一つ上野国府武蔵国府を結んでいたものです。その後、武蔵国府は東海道のグループに所属替えになりましたが、武蔵路は上野国へ向かう主要な道として東村山にさまざまな影響を与えていったのです。(ふるさと歴史館展示資料)

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鎌倉街道と久米川
鎌倉時代の東村山には北関東の有力武士団の根拠地よ幕府のある鎌倉とを結ぶ鎌倉街道上ツ道が通っていました。諏訪町の一部は西宿と呼ばれ、また久米川町には上宿新宿という地名が残されていることから、日蓮上人が佐渡島に流される途中に宿泊した久米川宿があったと推定されます。また、久米周辺はその地形的特徴から1333年(元弘3)の新田義貞の鎌倉攻めでも戦場となった軍事的にも重要な地域で、その後も多くの戦いがくりひろげられました。(ふるさと歴史館展示資料)


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村山党の根拠地
狭山丘陵周辺に勢力のあった村山党は次第にその勢力をに拡げました。そして大井・宮寺・金子・山口・難波田・仙波・久米・荒幡などの場所にちらばり居館(住居)を構えた土地の名を名乗りました。また、なかには源氏と主従関係を結び保元・平治の乱で戦功をあげた金子十郎家忠のような武士もいました。(ふるさと歴史館展示資料)

村山党・山口氏の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25984290/

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元弘の板碑(複製)1333年(元弘3
新田義貞の鎌倉攻めに従って府中及び相模の村岡で戦死した3名の武将を供養した板碑です。「太平記」の記述を証明するものとして国の重要文化財に指定されました。江戸時代には八国山の将軍塚の南斜面に立っていましたが、その後徳蔵寺に移され、現在は多数の板碑とともに徳蔵寺板碑保存館に展示されています。(ふるさと歴史館)


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瓦塔(複製)奈良時代(8世紀)
1934(昭和9)狭山丘陵の開墾中に発見され、東京国立博物館に運ばれ復元されました。瓦と同じ焼物の五重塔で、焼き方や土の特徴から奈良時代に埼玉県比企郡の窯で焼かれたことがわかります。当時の東村山には東山道武蔵路が通っており、武蔵国府や国分寺にも近く、遠く都から伝わった仏教文化の影響があったことを示す貴重な文化財です。(ふるさと歴史館)

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貞和の板碑(複製)貞和5年・1349
東京都内で現存する板碑のなかでは最大の板碑といわれています。この板碑は野口町を流れる前川の橋として使われ経文橋、念仏橋と呼ばれていました。それ以前は経文橋から約100m南に以前あった自教院の境内にあったとか、小川(小平市)の石塔を窪から大力の男が運んできたなどの言い伝えがあります。金剛山正福寺所蔵。(ふるさと歴史館)

by Twalking | 2017-10-30 22:04 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷②   

日時 2017.6.20(火)
天気 晴れ

府中から鎌倉まで歩こうと思ったのは大分前です。
「歩く」ことが目的でしたが、段々と「歴史」や
「地形」「街」など、興味が広がっていきました。

歩き直しもありましたので時間がかかりましたが、
鎌倉の地を踏みましたので、一応、一区切りです。
まだ、もやもやと錯綜していますが、長い歴史、
少しづつ、といったところでしょうか。


・・・扇ヶ谷
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街道の風景① 扇ヶ谷ガードに戻り、街道を英勝寺へ向かいます

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智岸寺稲荷
稲荷神社について
世にお稲荷様と申上げている稲荷神社は倉稲魂神をお祭りしたもので今から約1300年の昔、和銅4年の2月の初午の日に京都の伏見に稲荷神社が鎮座したのが始まりです。この神は稲がなるイナリの別名が示すように五穀の生育やすべての産業を育成する広大な御神徳のある神ですから、あるゆる人々の信仰をうけ全国各地の神社や邸内に祭られています。鎌倉で由緒ある稲荷は隠里稲荷で、鎌倉風土記によると源頼朝が伊豆の蛭が島にいたとき病の床につき三晩続けて同じ白ひげの老人の夢を見ました。その老人の言うとおりに薬を飲みますと病はなおりこれが縁で幕府を開くことが出来たということです。この白ひげ老人が隠里稲荷の化身であったということです。お稲荷様は大切にお祭りしましょう。(英勝寺)

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阿仏尼卵塔

十六夜日記の作者・阿仏尼と伝えられる。もともと英勝寺境内だが、現在は英勝寺の塀を北鎌倉方面に越えた崖下のやぐらにある。なお、阿仏尼の息子である冷泉為相の墓も近隣の浄光明寺境内にある。(Wikipedia
卵塔:台座上に卵形の塔身をのせた墓石。禅僧の墓石に多く用いられる。無縫塔。

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阿仏尼(あぶつに)
鎌倉時代中期の女流歌人。桓武平氏大掾氏(だいじょうし・中世常陸国に勢力を持った一族で、常陸平氏の嫡流であり多くの緒家を輩出した)安嘉門院に仕え、出仕中10代で初恋の失恋の失意から出家を決意し尼となったが、その後も世俗との関わりを持ち続けた。30歳頃藤原為家の側室となり冷泉為相(ためすけ)らを産む。為家の没後、播磨国細川荘(現兵庫県三木市)の相続をめぐり、正妻の子二条為氏と争い1279年(弘安2年)幕府に訴えるため鎌倉へ下った。このときの紀行と鎌倉滞在のことを記したのが『十六夜日記』である。訴訟の結果がわかる前に鎌倉で没したという説と、京都へ帰った後に没したとの説がある。鎌倉市扇ヶ谷に伝・阿仏尼の墓が残る。(Wikipedia

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英勝寺の入口はこちらです

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英勝寺/扇ガ谷
英勝寺扇ガ谷にある浄土宗の寺院であり、現在鎌倉唯一の尼寺である。山号は東光山。寺域は開基英勝寺尼の祖先であり、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌邸跡地とされる。徳川家康側室大田道潅四代の大田康資・息女とされるお勝の方は、家康との間に生まれた市姫が幼くして亡くなった後、家康の命により後に初代水戸藩主となった徳川頼房の養母を務めた。家康の死後は落飾して英勝院と称したがその後、3代将軍家光より父祖の地である扇ガ谷の地を賜り英勝寺創建した。創建にあたっては徳川頼房娘・小良姫7歳の時に玉峯清因と名付け得度させこれを門主に迎え開山とした。英勝院尼は寛永19年(1642)没し、英勝寺裏山に葬られた。

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寛永14年(または15年)に寺領朱印地として池子村(現逗子市池子)420石を与えられたほか、裏山にあたる源氏山(旗立山)も与えられている。創建の経緯からその後も代々の住持水戸家の姫が務めこのため英勝寺は「水戸御殿」や「水戸の尼寺」とも呼ばれた。高貴な姫である住持は人前に出ることはなく、折々の法要は芝増上寺や鎌倉材木座光明寺の僧が勤めていたという。しかし明治維新を機に水戸家からの住持は絶え寺勢は衰えた。その後、明治28年(1895)に松平家より住持を迎え、さらに大正8年(1919)以降は東京青山善光寺より住職を招請し今日に至る。仏殿、山門、鐘楼は寛永20年(1643年)の建立。祠堂、祠堂門も同じ頃の建立と推定される。各建物は本格的な禅宗様になり、仏殿、山門、鐘楼は屋根を反りのない直線で構成する点に共通点がみられるWikipedia

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山門

三間一戸二重門。屋根は入母屋造、瓦棒銅板葺き。上層には釈迦如来と十六羅漢像を安置する。英勝院尼一周忌の直前に、水戸光圀の兄である高松藩主松平頼重により造営され、「奉敬立相州英勝寺山門 従四位下侍従源頼重朝臣」の棟札を持つ。関東大震災後売却され鎌倉市小町の私有地に移築されたが、2011年、旧部材を用いて復興された。国の重要文化財Wikipedia

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仏殿
方三間、裳階付の禅宗様仏堂。屋根は寄棟造、瓦棒銅板葺き。棟札には寛永13年(1636年)に英勝院が建立とあるが、殿内梁牌には「寛永208月 正三位権中納言源朝臣頼房敬立」の銘があり、当初英勝院が建立しこれを徳川頼房が現在の形に改築したものと考えられる。扁額は後陽成天皇の弟である曼殊院良恕法親王の揮毫。粽(ちまき)付きの円柱、貫(ぬき)の多用、詰組の組物、桟唐戸、花頭窓、石敷きの床など本格的な禅宗様になる。ただし、屋根の隅棟や軒先の線に反りがなく、屋根の形を直線のみで構成するのは独特の意匠である。軒下の蟇股は十二支の彫刻で飾る。堂内は身舎小壁に瑞鳥、天井に迦陵頻伽の彩絵を施すほか、水戸徳川家の三つ葉葵、太田家の桔梗などの装飾が施されている。国の重要文化財Wikipedia

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祠堂門(唐門)
平唐門、銅瓦葺き。祠堂に至る石段下の小門で、祠堂と共に建てられたと考えられる。欄間には精巧な牡丹等の透彫りが施されている。国の重要文化財Wikipedia


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鐘楼
入母屋造、瓦棒銅板葺き。近世の鎌倉では唯一とされる袴腰形式の鐘楼で、梵鐘は寛永20年の林羅山撰文の銘を持つ。国の重要文化財Wikipedia




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太田道灌邸旧蹟/英勝寺前
此の地は武略(軍略)文藻(文才)兼備へ忝(かたじけな)くも 武蔵野は萱原(かやはら)の野と聞きしかどかかる言葉の花もあるかな テフ(と言う)叡感(天皇の感歎)にさえ預りたる道 灌太田持資(もちすけ)江戸築城前邸址なり  寛永11(1634)今の英勝寺と為る 其の創立者水戸藩祖頼房(ともふさ)の准母(内親王)英勝院は道灌の嫡流太田康資の女なるより 晩年将軍家光より特に此の地を授りて之に住するに至れるなり  孤鞍(単騎)雨を衝()いて茅茨(ぼうし:茅葺家屋)を叩く少女為に遣()る花一枝 の詩趣ある逸話は道灌が壮年猶此に在りし日に於て演ぜられし所のものなり(鎌倉町青年会)

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街道の風景② 中央を横須賀線が通ります、左が英勝寺、右が扇ヶ谷上杉邸跡です


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庚申塔群/寿福寺入口


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源氏山/寿福寺入口
源氏山は初め「武庫山」と云ひ、亀ヶ谷の中央にある景勝の地なるをもってまた「亀谷山」とも称せり。源頼義・義家父子、奥州征伐の時、この山に旗を立てたるより、あるいは「旗立山」と名付く。山の麓、寿福寺境内付近は爾来、源氏世々の邸宅たりし地なりと云ふ。「源氏山」の名称はこれに起因せるか。旗竿を建てしと云ふ故址は今尚ほあり(鎌倉町青年団)

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寿福寺外門
/扇ガ谷

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寿福寺
扇ガ谷にある臨済宗建長寺派の寺院である。鎌倉五山3の寺院である。山号を亀谷山(きこくさん)と称し、寺号は詳しくは寿福金剛禅寺という。本尊は釈迦如来、開基は北条政子、開山(初代住職)は栄西である。境内は「寿福寺境内」として1966年(昭和41年)国の史跡に指定された。源頼朝が没した翌年の1200年(正治2年)妻の北条政子が葉上房栄西(明庵栄西)を開山に招いて創建した。もともと現在の寿福寺のある付近は奥州に向かう源頼義が勝利を祈願したといわれる源氏山を背にした、亀ヶ谷と呼ばれる源氏家父祖伝来の地であり、頼朝の父・源義朝旧邸もこの地にあった。

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1180年(治承4年)初めて鎌倉入りした頼朝は、ここに館(幕府)を構えようとしたが、すでに岡崎義実が堂宇を建て義朝の菩提を弔っていたことや、土地が狭かったため当初の計画を変更したといういきさつがある。創建当時は七堂伽藍を擁し14の塔頭を有する大寺院で、禅刹として体裁を整えたのは1278年(弘安元年)頃と推定されている。

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1247年(宝治3年)に火災にあい、1258年(正嘉2年)の火災では一宇を残さぬまで焼失している。これらの復興は伝実朝墓五輪塔などの存在からおそらく南北朝時代の頃と思われる。総門、中門、仏殿、庫裏、鐘楼などが建つ。仏殿は1664年(寛文4年)の再建である。境内裏手の墓地には陸奥宗光、高浜虚子、星野立子、大佛次郎などの墓があり、さらにその奥のやぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)には北条政子源実朝と伝わる五輪塔がある。なお、総門から中門までの参道と裏山の墓地は公開されているが、中門から内側の境内は一般公開されていない。Wikipedia
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国指定史跡寿福寺境内
亀谷山寿福金剛禅寺(臨済宗建長寺派)は正治2年(1200年)に頼朝夫人政子が明庵栄西禅師を開山として建てたもので、鎌倉五山の第3位の寺であります。この地はもと源頼朝の父義朝の館があったといわれ、鎌倉入りした源頼朝はここに館を造ろうとしましたが、岡崎義実が義朝の菩提を弔うお堂を建てていたのでやめたといもれています。墓地にあるやぐらには源実朝北条政子の墓と伝わる五輪塔2基あります。現在伽藍は外門、山門、仏殿、鐘楼、庫裡などですが、外門から山門に至る敷石道は静寂感が漂い、また仏殿前に四株の柏槙があり往時のおもかげを残しています。(神奈川県教育委員会)

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いい道ですが、現在は通れません、左から迂回して裏山の「やぐらへ」

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墓地の奥にある北条政子(左)と源実朝(右)のやぐらです

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伝北条政子の五輪塔          伝源実朝の五輪塔


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八坂大神

建久3相馬次郎師常、己が邸内に守護神として勧請して崇敬したのに始まる。その後現在の地に奉遷する。世に相馬天王と称するのはこの故である。神幸式は512日の両日に行われていたが、今では12日のみとなった。中世御神幸の神輿荒ぶるを以て師常館の岩窟に納め新たに調進したと傳へられる。独特の六角神輿は宗社である京都祇園八坂神社の形を伝承したものである。享和元年、慶應元年に社殿の改築が行われた。明治6年村社に列格される。(境内掲示板)


・・・雪ノ下


鎌倉市鎌倉地域にある大字。もともとは鶴岡八幡宮背後の地域を指していたが、次第に拡大し境内とその周辺を指すようになった。吾妻鏡によると、建久2年(1191217日に降雪が5寸になった雪見のため、鶴岡八幡宮を訪れた源頼朝が佐々木盛綱らに山辺の雪を長櫃に入れて夏に備えて貯蔵させたことが由来とされる。源実朝を暗殺した公暁は雪ノ下の本坊(別当坊)に逃れた。
応永24年(14171月に関東管領上杉禅秀は挙兵して鎌倉公方足利持氏を追放するが敗れて雪ノ下で自刃している(上杉禅秀の乱Wikipedia

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街道の風景③ 寿福寺前の踏切を渡り
岩窟小路(いわや)を鶴岡八幡宮へ向かいます

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岩窟不動尊
奥のやぐらに頼朝鎌倉入り前からあった古い神社だそうです

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街道の風景④
川喜多映画記念館を通り小町通りを左折して流鏑馬道へ

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鉄の井
この井戸の水質は清らかで美味しく、真夏でも井戸の水が涸れることはなかった。昔、この井戸から高さ5尺(1.5m)余りの鉄観音(くろがね)の首を掘り出したことから、この井戸を鉄の井(くろがねのい)と名付けた。正嘉二年(1258)正月17日午前2時頃に安達泰盛の甘縄(あまなわ:長谷方面の昔の地名)の屋敷から出火し、折からの南風にあおられて火は薬師堂の裏山を越えて寿福寺に燃え広がり、総門・仏殿・庫裏・方丈など全てを焼き尽くし、さらに新清水寺・窟堂(いわやどう)とその周辺の民家、若宮の宝物殿及び別当坊などを焼失したと吾妻鏡に述べている。この井戸から掘出された観音像の首は、この火災のときに土中に埋めたのを、掘り出したもので、新清水寺の観音像と伝えられ、この井戸の西方の観音堂に安置された。明治に入り東京に移したと云われている。(鎌倉市青年団)

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街道の風景⑤「流鏑馬道」が街道の起点とありましたので、ここにゴールしました/鶴岡八幡宮

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鶴岡八幡宮に報告とお参りです

鶴岡八幡宮(若宮大路)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/18658364/

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ルート図(藤沢~鎌倉)
(赤:鎌倉街道上道(左)・中道(右) 紫:上道別路 橙:旧東海道)

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鎌倉街道上路ルート図(府中~鎌倉)
(左:上道 中:中道 右:下道)

by Twalking | 2017-06-25 23:20 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①   

日時 2017.6.20(火)
天気 晴れ

ここからは鎌倉の寺社、史跡めぐりです。
海臧寺、東勝寺、寿福寺は定番ですが
それだけではないですね~・・・。

寺社それぞれに由緒や歴史がありまし、
鎌倉、室町の史跡が豊富で面白いです。
整理するは大変ですが、少しづつでしょうか。


・・・扇ヶ谷
(おうぎがやつ)

鎌倉市鎌倉地域にある大字。扇ガ谷はJR横須賀線の鎌倉駅から北鎌倉間の線路沿いの山際一帯の地名である。東を雪ノ下、西を佐助、南を御成町・小町、北を山ノ内と接し、飯盛山、源氏山(初名は武庫山、このほか亀谷山とも呼ぶ)などの丘陵が周辺を囲み、中心部谷戸にある亀ヶ谷坂を経て北鎌倉方面とつながる。地名の由来は鎌倉十井の一つ「扇の井」(現在の扇ガ谷3丁目)に因んだもので、扇ヶ谷は関東管領上杉定正旧邸で、英勝寺の地で亀ヶ谷(かめがやつ)の地内の一地名とある(新編相模国風土記、新編鎌倉志)。もともとこの地は亀谷と呼ばれ鎌倉幕府の記録書である『吾妻鏡』には亀谷(亀ヶ谷)の地名のみ登場し扇ヶ谷は出てこない。亀ヶ谷は鶴ヶ岡に対する対語、もしくは谷戸の中心部にある亀ヶ谷坂(『亀がひっくり返るほど急な坂』の『亀返り坂』の転訛という説)に由来すると云われ、この地は源家父祖伝来の地であった。Wikipedia

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街道の風景① 葛原岡から扇ヶ谷方面の景観です

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海蔵寺山門
/扇ヶ谷


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扇谷山海蔵寺
海蔵寺は古都鎌倉の扇ヶ谷の北、風光明媚な渓間に佇む臨済宗建長寺派の古刹である。もと真言宗の寺跡であるこの渓に、建長5年(1253)宗尊親王の命によって従五位前能州太守藤原仲能が本願主となり七堂伽藍が再建された。しかし、元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡のおり鳥有に帰した後、応永元年(13944月、鎌倉御所足利氏満の命により上杉氏定が再建したのが海蔵禅寺である。氏定は源翁禅師を(心昭空外)を開山に招いて菩提寺とした。天正5年(1577)建長寺に属して今日に至っている。寛政3年(1791)の境内図によると、主な建物の配置は現在の姿とほとんど変わらず、塔頭7ヶ院と旧跡を図示している。(海蔵寺略縁起)

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本堂(龍護殿)
大正12年(1923)の震災で倒壊した後同14年の再建。内殿欄間の雲龍彫は文化9年(1812)、額は延宝9年(1681)霊芝の筆。間切戸の雲龍・山水の絵は狩野探信の筆なり、正面4枚戸の牡丹唐獅子の絵は藤原義信の筆。(海蔵寺略縁起)


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仏殿(薬師堂)
安永5年(1776)浄智寺から移築し翌年入仏供養を行った。薬師三尊像(市指定文化財)・十二神将像・伽藍神像などを安置する。(海蔵寺略縁起)

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十六の井
薬師堂裏手の岩窟内にある。岩窟の床面に縦横各4列、計16の丸穴があり水が湧き出している。井戸ではなく納骨穴とも、十六菩薩になぞらえたものとも言うが正確なことは不詳である。岩窟の正面奥壁には観音菩薩像と弘法大師像を祀る。他に嘉元4年(1306年)銘の阿弥陀三尊像板碑が壁面に安置されていたが鎌倉国宝館に寄託されている(Wikipedia

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底脱の井
この井戸は鎌倉十井の一つです。中世の武将の安達泰盛の娘・千代能がここに水を汲みに来た時、水桶の底がすっぽり抜けたため「千代能が いただく桶の底脱けて 水たまらねば 月もやどらず」とうたったことからこの名がついたといわれています。井戸の底ではなく、心の底が抜けてわだかまりが解け、悟りが開けたという投機(解脱)の歌です(鎌倉市青年会議所)
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本堂裏の庭園、非公開ですが見事です

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街道の風景② 街道は直進ですが、ガードの東側に寄り道/扇ヶ谷ガード

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岩船地蔵堂/亀ヶ谷辻
亀ヶ谷辻に建つこの堂は、古くから頼朝娘大姫を供養する地蔵堂と言い伝えられてきました。木造地蔵尊の胎内の銘札にも『大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公御皇女之守本尊也』 との記述があり、続けて元禄3年に堂を再建しあらたに本像を像立した旨が記されています。「北条九代記」にも許婚との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々がこの谷に野辺送りしたことが記されています。このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に今なおほのかに紅をさす木造地蔵尊を前立像として安置し供養いたしました。心ある方はどうぞご供養の合掌をなさってお通りください。(海蔵寺)

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薬王寺山門/扇ヶ谷


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薬王寺
もとは真言宗梅領山夜光寺と称していました。日像上人(日蓮の孫弟子)が住職と論難の末日蓮宗に改宗させ、薬王寺に改称したと伝えられています。徳川3代将軍家光の弟、駿河大納言忠長公供養塔や松山城主蒲生忠知公(家康の孫)の正室と息女の墓所があり、徳川、蒲生家と縁が深く寺門に三葉葵が用いられるなど格式の高い寺でした明治初期の廃仏稀釈により荒廃しましたが、後に日振、日照が再興に尽力し現山容を整えました。本堂正面の日蓮座像は第11代将軍家斉の命により幕府が建立、説法形の口を開けた珍しい像です。(鎌倉市)

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駿河大納言忠長公供養塔
駿河大納言忠長公(3代将軍家光公弟)は粗暴な性格を理由に高崎に幽閉されたのち、28歳で自刃せられ所領も没収された。悲嘆やるかたない奥方松孝院殿(織田信長次男信雄の息女)は。時の当山3世恵眼院日垙上人に懇願し、悲惨な最期を遂げた夫君忠長公の供養を法華経により営み、追善供養のため当供養塔を建立した(説明板)

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釈迦堂                やぐら群
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薬王寺の高台から扇ヶ谷&鎌倉市中方向の景観、右手が源氏山になります

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街道の風景③ 鎌倉七口の一つ「亀ヶ谷坂」越えると山ノ内です

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国指定史跡 亀ヶ谷坂
この道は亀ガ谷山ノ内を結ぶ亀ヶ谷坂と呼ばれる切通です。切通しとは山を開いて造られて道のことで、交通を容易にするとともに防御の拠点ともなっていました。亀ヶ谷坂が造られた正確な時期はわかりませんが、13世紀の中頃には整備されていたようです。「吾妻鏡」によれば幕府が鎌倉市内の7箇所の商業区域の一つとして「亀ヶ谷辻」を指定しており、建長寺や円覚寺などの大寺院が建立された山ノ内と鎌倉市中を結ぶ亀ヶ谷坂は経済的にも軍事的にも重要な場所だったことがわかります。江戸時代には「鎌倉七口」の一つに数えられるようになり、現在も生活道路として利用されています。(鎌倉市教育委員会)

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相馬師常墓やぐら/扇ヶ谷

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史跡相馬師常墓やぐら
このやぐらは古くから相馬師常(もろつね)の墓と伝えられ、地元の人々に厚く保護されてきました。玄室(げんしつ)の平面形は矩形で、羨道(せんどう)を有し奥壁の中央部には切石で塞がれた大きな龕(がん・仏像を納めるため岩壁を掘りくぼめた場所)があります。龕の前に宝篋印塔が立ち、奥壁左隅の小龕の中には一石五輪塔が置かれています。相馬師常は鎌倉幕府草創期の有力御家人の千葉常胤(つねたね)の次男で、相馬氏、治承4年(1180)父・常胤とともに源頼朝の挙兵に加わり、文治5年(1189)に欧州征伐に随うなど多くの戦功をあげています。本やぐらは閉塞された大形の龕を持つ特色のある形態であり、保存状態も良好で当初の姿を良く伝えているとともに被葬者が知られることが極めて稀な「やぐら」にあって、有力御家人の墓と伝えられるなど資料的にも価値の高いものです。(鎌倉市教育委員会)

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相馬次郎師常之墓
師常は千葉介常胤の第二子にして相馬氏の跡を継ぎ、巽荒神のあたりに邸宅を構えていたが、元久2年(12051115日に67歳で正座し、合掌して決定往生を遂げ、その結縁を求めて僧俗あらゆる人々が集まったという。岩窟の中の宝篋印塔は師常の墓である(鎌倉町青年団)

相馬師常
(もろつね)
千葉氏の庶流。相馬氏初代当主。千葉常胤の子。伝承によると師常は平将門の子孫である信田師国の養子となりその遺領を相続したと伝わる。父と共に源頼朝挙兵に参加し頼朝の弟・源範頼の軍勢に従って各地を転戦した。文治5年(1189)には奥州合戦に参加しその功により頼朝から「八幡大菩薩」の旗を賜ったという。建仁元年(1201)父・常胤が亡くなったために出家し、家督を嫡男の相馬義胤に譲る。出家後は法然の弟子になったと言われている。元久2年(1205年)鎌倉相馬邸の屋敷で端座し、念仏を唱えながら臨終したという。その信心厚い性格から信望の厚かった師常の最期は鎌倉の民衆たちから見取られたと言われている。1879年師常を祀る「相馬神社」が福島県相馬市に建立されたWikipedia


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藤谷黄門遺跡 (ふじがやつこうもん)/ 浄光明寺入口
冷泉為相卿は為家の子なり 従二位中納言となる 和歌所の事に由り 兄為氏と争論の末 その母阿仏尼と共に鎌倉に来たり幕府に訴ふ 遂に藤谷に寓し 藤谷殿と称せらる 藤谷百首と呼び世に伝承せらるる和歌は 此地にて詠出せられし者なり 網引地蔵は其の建立に係ると云う 卿の墓は其の山の頂に在り 五輪塔にして 月巌寺殿玄国昌久の八字を刻せんと謂うも 今は漫滅(摩滅)して字体を弁ぜず(鎌倉町青年団)

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浄光明寺山門/扇ヶ谷

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浄光明寺
扇ガ谷にある真言宗泉涌寺派の寺院。山号は泉谷山(せんこくざん)。本尊は阿弥陀如来である。北条氏や足利氏とゆかりの深い寺院で足利尊氏は後醍醐天皇に対し挙兵する直前、当寺に籠っていたと伝える。新四国東国88ヶ所霊場の第82番。鎌倉七口のうちの亀ヶ谷坂(かめがやつさか)と化粧坂(けわいざか)にはさまれた扇ヶ谷の支谷・泉ヶ谷に位置する。山号の泉谷山はこの谷戸の名にちなむ。

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寺伝によれば建長3年(1251年)頃、第5代執権北条時頼、第6代執権北条長時が開基となって創建したもので、開山(初代住持)は真阿(真聖国師)であった。それ以前、源頼朝の命により文覚上人の建てた草庵があったともいうが定かでない。長時は鎌倉幕府6代執権で、文永元年(1264年)36歳で死去し浄光明寺に葬られ以後、この寺は長時に始まる赤橋流北条氏菩提寺と位置づけられた。

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山門を入ると客殿、庫裏、不動堂などがありその裏手の一段高くなった敷地に阿弥陀堂と収蔵庫(阿弥陀三尊像等)がある。さらに裏手狭い階段を上った先の山上には岩壁をうがった「やぐら」があり、内部に石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵)が安置されている。そこからさらに登ったところには国の史跡に指定されている冷泉為相(れいぜいためすけ、鎌倉時代の歌人)の墓がある。境内は谷戸を雛壇状に造成した中世寺院の景観がよく保存されている。(Wikipedia


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阿弥陀堂               やぐら群

赤橋流北条氏
鎌倉時代の北条氏の一族。赤橋家ともいう。始祖は北条重時(極楽寺流)の次男北条長時。極楽寺流のなかでは嫡流に当たる。長時が第6代執権となったほか、最後の執権(第16代)守時をも出すなど、北条氏の一族では、得宗家に次ぐ高い家格を有しており、得宗家の当主以外では赤橋流北条氏の当主だけが元服時に将軍を烏帽子親としてその一字を与えられる特権を許されていた。屋敷が赤橋(現在の太鼓橋)にあったため「赤橋」を名乗ったと言われている。Wikipedia

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大伴神主家墓所
大伴家は鎌倉時代以来明治維新に至るまで鶴岡八幡宮神主を代々務め、その墓は室町時代の文明年間以降、当寺に営まれるようになりました。墓所は鳥居を浮彫にした江戸時代の(しゃく)型墓碑3基あり、神道特有の墓として貴重です。市史跡(浄光明寺)

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石造地蔵菩薩坐像(網引地蔵)
鎌倉屈指の石仏で、漁師の網に懸かり海から引き上げられたとの伝承から網引地蔵と呼ばれています。背中の銘文に当寺第三世長老性正和尚が正和2年(1313)に供養した事が記され、冷泉為相によって造立されたとも伝えられています。(浄光明寺)

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国指定冷泉為相墓
冷泉為相(ためすけ)は藤原定家で、は「十六夜日記」の作者阿仏尼である。為相は歌学・連歌の道の造詣が深く、歌風は広く世に知られている。永仁3年(1295)鎌倉に下り、嘉歴3年(1328)この地に没した。この宝篋印塔は相輪が欠けているが、南北朝のころの形式をよく伝えている。なお、玉垣は德川(水戸)光圀が寄進したものである。(文部省・神奈川県教育委員会)
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冷泉為相墓より泉ヶ谷&鎌倉市中の景観 

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扇ヶ谷周辺マップ
(赤:鎌倉街道上道 紫:鎌倉街道中路 橙:亀ヶ谷坂 黄:段葛)

by Twalking | 2017-06-25 23:13 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉01-源氏山   

日時 2017.6.20(火)
天気 晴れ


余り日を置くのもと思い出かけました。
住宅地の長い坂を登り源氏山へ、
途中、半夏生を見に鎌倉中央公園へ寄りました。

葛原岡・源氏山は来たことがありますが、
梶原谷への別路を確認しながら散策しました。
化粧坂を下り中心部へ、この切通はいいですね。
海臧寺・英勝院は初めてなので楽しみです。



・・・梶原

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街道の風景① 藤沢からぶらりっとひと歩き、今日はここからスタートです/湘南モノレール深沢駅

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新川沿いに深沢小へ                源氏山への別路の分岐です/坂下

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街道の風景② 梶原の丘を登ります/深沢中学角

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由来/深沢中正門前
この辺りは寺分大工谷といわれていた。鎌倉時代この付近に建てられた関東十刹の一つであった大慶寺などを修復した工匠が住んでいたと伝えられる。昭和585月の住居表示施行により梶原1丁目に編入された。(鎌倉市)
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街道の風景③ 長い坂ですが、振り返って見るといい景色です/坂上 

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右折してた山の上ロータリーへ     山の上通りを行きますがちょっと寄り道


・・・鎌倉中央公園/山崎

山崎

鎌倉市深沢地域にある大字。旧名は洲崎(風土記稿)で鎌倉の戦いにおける「洲崎古戦場」はこの地を指す。地名の由来は山丘の先端に基づく(風土記稿)ほか、京都の山崎を擬えたものとされる。後北条氏の時代には東郡に属したが江戸時代には鎌倉郡に属し正保元年(1644)の正保国絵図にも「山嵜村」と記録されている。江戸時代は幕府領であった。明治22年の町村制施行により深沢村の大字に、鎌倉市との合併で鎌倉市の大字となる。Wikipedia

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清水塚口から入り谷戸を抜けて梶原口までのんびり歩きました/上池

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鎌倉中央公園
鎌倉市の中心に位置した公園で、豊かな自然に恵まれた環境の中にあります。この公園は緑化意識の高揚を目的とした「都市緑化植物園ゾーン」と、現存する田畑などの景観を保ちながら多様な余暇活動の場として利用していただくための「自然活用ゾーン」、樹林地や湿地に棲む小動物や鳥類、野草などを保護し、景観や生態系に配慮した「保全ゾーン」に分かれています。また、災害時の広域避難場所として指定され、非常用飲料水や資機材等が備蓄されている防災公園としての機能もあります。(鎌倉市HP)

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湿生花園               下池

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田んぼと湿地の広がる東谷戸、憩える散策路がついています

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鎌倉中央公園案内図
(赤:散策ルート 右手の梶原口から山の上通りへでます)


・・・

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街道の風景④ この先を左折してもうひと上りです/日当公園

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山ノ内配水池を右折          左カーブの細道を右折して葛原岡へ

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街道の風景⑤ 源氏山から梶原谷へ下る道(別路)はこの下に出てきます/S字カーブ

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梶原(住宅)周辺マップ
(赤:鎌倉街道 緑:梶原谷別路 黄:鎌倉中央公園・S字カーブ) 


・・・葛原岡

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源氏山(公園)
標高93の源氏山周辺に1956年都市計画決定し1966年に開園した。「源氏山」の名は麓に源氏の屋敷があったからとする説が有力である。後三年の役で八幡太郎義家が出陣する際に山上に源氏の白旗を立てて戦勝を祈ったところから「旗立山」の別名がある。1980年には源頼朝の鎌倉入り800年を記念して頼朝像が建立された。源氏山北西一帯は葛原岡と呼ばれ鎌倉幕府の倒幕に関わった日野俊基はこの地で処刑された。俊基の霊を祀る葛原岡神社と墓所は園内にある。同神社は大黒天も祀っており縁結びの祈願も行う。公園南側鎌倉駅方面に下りる途中には銭洗弁天宇賀福神社があり、北側は化粧坂の切り通しに通じる。北鎌倉と鎌倉大仏を結ぶハイキングコースでは本園が中間地点になるWikipedia

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街道の風景⑥ 尾根上の葛原岡・大仏ハイキングコースにでます/葛原岡神社前

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葛原岡神社/山ノ内東瓜ヶ谷

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葛原岡神社
本社祭神:日野俊基朝臣 文章博士従三位蔵人右少辨
建武の中興(1333年・元弘3年)を計画し、不幸にも1331年鎌倉幕府の北条高時に捉えられ、其の完成に会はず中途で悲愴な最期をこの葛原が岡で遂げられた忠臣である。社殿は明治天皇の思召により、地元有志の方々の骨折で全国の崇敬者の協力を得て明治21年に創建された。例大祭は御命日の63日神前祭・墓前祭が行われる。この63日に近い土曜日に氏子地域になっている由比ガ浜で宵宮祭が行はれ、日曜日には大神輿、子供神輿が氏子区域を巡るお渡り神事が行われる。御祭神は学業成就、除災招福、交通安全などの神として崇められて居る。摂社祭神:報徳豆大黒天、福福恵比寿神(石碑 写真:縁結び石)

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日野俊基卿終焉之地碑
鎌倉幕府に捕えられた日野俊基卿は元弘2年(133263日この地で悲しい最期を遂げられる(説明板)


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藤原仲能之墓
此処は道智塚或は阿古耶尼(あこやに)の塚と伝へられしも 海蔵寺伝に拠り 藤原仲能墓所と考察せらる 仲能は従五位下前能州大守にして鎌倉幕府評定衆たりしが 後年 海蔵寺中興の大檀越(檀家長)となり 建長8(1256)129日寂し  道智禅師と称(たた)へられしものの如く 其位牌同寺に現存す(鎌倉町青年団)


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日野俊基墓
日野俊基は鎌倉時代末期の朝臣後醍醐天皇につかえ倒幕計画に参加した。正中の変(1324)に捕えられ許されたが、元弘の乱(1331)の時再び捕えられ鎌倉に送られて、翌年ここ葛原岡で処刑された。国史跡(鎌倉市教育委員会)


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日野俊基
鎌倉時代末期の廷臣。刑部卿・日野種範の子。子に俊業・俊孝がいる。文保2年(1318)に即位した後醍醐天皇の親政に参加し蔵人となる。後醍醐の朱子学(宋学)志向に影響を受け、鎌倉幕府討幕のための謀議に加わる。諸国を巡り、反幕府勢力を募るが六波羅探題に察知され、正中元年(1324)の正中の変で同族の日野資朝らと逮捕されるが処罰は逃れる。京都へ戻るが元徳3/元弘元年(1331)に発覚した2度目の討幕計画である元弘の乱で再び捕らえられ、得宗被官・諏訪左衛門尉に預けられたあと、鎌倉の葛原岡処刑された。辞世の歌は「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらん」。明治維新後、南朝(吉野朝廷)が正統とされると俊基は倒幕の功労者として評価されるようになり、1887年(明治20年)には俊基を主祭神とする葛原岡神社が鎌倉市梶原に創建され、俊基自身にも従三位が追贈された。墓所:葛原岡神社の南にあるWikipedia
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街道の風景⑦ 左折が化粧坂、右折が梶原谷への別慮&銭洗弁天への道です/源氏山公園入口

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右が梶原谷への別路(左は大仏HC)  銭洗弁天への下坂

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銭洗弁財天宇賀福神社/佐助
境内洞窟にある清水で硬貨などを洗うと増えると伝えられていることから銭洗弁財天(銭洗弁天)の名で知られる。源頼朝が巳年である1185年(文治元年)の巳の月(旧暦4月)巳の日に見た霊夢に従い、佐助ヶ谷の岩壁に湧く霊水を見つけそこに洞を穿ち、社を建てて宇賀神を祀ったと伝えられる。同じく巳年の1257年(正嘉元年)に北条時頼がこの霊水で銭を洗って一族繁栄を祈ったのが銭洗の始まりだといわれる。宇賀神と弁財天が神仏混合して弁財天と呼ばれ相馬天王(扇ヶ谷)の末社だった。明治時代の神仏分離により相馬天王は八坂大神と改称、当社も祭神を市杵島姫命とし1970年(昭和45年)には末社から独立した。(Wikipedia

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奥宮                 下之水神宮


・・・化粧坂

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化粧坂
化粧坂は鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける「鎌倉往還上ノ道」(武蔵路)の出入り口に当ります。鎌倉の交通の要衝であったことから、元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでも戦場となっています。「吾妻鏡」建長3年(1251123日条には、鎌倉の中で小町屋及び売買所を構えても良い場所の一つとして「気和飛坂山上(化粧坂の山上)」と書かれています。坂頂上部は葛原岡とも呼ばれ、元弘2年(1332)後醍醐天皇の倒幕計画に関わった日野俊基が斬首された刑場でもありました。指定区域内北側には地蔵像や五輪塔などの浮彫りをもつ特徴的なやぐら群(瓜ヶ谷やぐら群)があります。また周辺の発掘調査では多数の火葬跡が発見されており、化粧坂が交通の要衝であると同時に、都市鎌倉の境界に位置する葬送の地であることが明らかになっています。(鎌倉市教育委員会)

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化粧坂碑文/扇ガ谷
化粧坂又は形勢坂に作る 此名称は 往時平家の大将を討取り 其首を化粧して実験に備へしに拠り起ると言ひ 又一説には古此坂の麓に遊里ありしに拠り此名を負ふと相伝ふるも 東(吾妻)鑑には其名見えず此坂は所謂(いわゆる)鎌倉七口の一にして鎌倉攻防の要路に当り 元弘3(1333)5月 新田義貞軍の鎌倉討入り以来屡々戦場となれる所なり。昭和十五年三月建(鎌倉町青年団)


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化粧坂の道筋
「化粧坂」の鎌倉側の道筋について『鎌倉市史総説編』(高柳光寿)では化粧坂山頂から亀ヶ谷辻を通り、寿福寺前を曲がって現在の鶴岡八幡宮一の鳥居・太鼓橋(当時は赤橋)の前へ至る道を「鎌倉中の武蔵大路」としている。それらを総合すると、鎌倉の中心から武蔵国の中心(府中)へ向かう道の鎌倉の内と外の境界が「化粧坂」であり、建長3(1251)以前から坂上には武蔵国方面の物流の拠点として今でいう市場、商店街が開かれ賑わっていたと言うことになる。

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また鎌倉滅亡の2年前、元弘の乱(1331年)で捕らえられた日野俊基がこの坂上で首を切られ、明治時代になって日野俊基を祭る葛原岡神社が建てられている。現在は鎌倉の内側(鎌倉中)への下り坂が昭和44年(1969)に国の史跡に指定されているが、道の痕跡はいくつもあり鎌倉時代にどのルートであったのかは必ずしも明らかではない。その外側の道も不明であり明治15年の帝国陸軍のフランス式1/20000地図には梶原方面への道が一番太いが、その他に洲埼方面への尾根沿いの道、北鎌倉方面への数本の道、北条常盤亭方面への尾根道も記載されており、尾根道の交差点であるかのような姿となっているWikipedia

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街道の風景⑧ 扇ヶ谷へ下ります

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ルート地図(鎌倉市西北部)/旧鎌倉街道散策の旅(1)上道・山ノ道編/芳賀善次郎著(さきたま出版会)を参照
(赤:鎌倉街道上道 緑:上道別路 紫:鎌倉街道中道 橙:切通を着色)

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葛原岡・大仏ハイキングコースマップ(上下反転)
(赤:鎌倉街道上路 緑:別路 紫:鎌倉街道中道 橙:切通 点線:葛原岡・大仏HC)

葛原岡・大仏ハイキングコースの関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/20309722/


by Twalking | 2017-06-23 15:14 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(5-1)藤沢~鎌倉02-寺分   

日時 2017.6.15(木)
天気 晴れ

地図にルートは落してましたが、住宅地ですし、
土地勘がないので寺分、泣石、梶原など
場所を尋ねながらでしたので時間がかかりました。

なんとか目的の場所は見れましたので良かったです。
次回、鎌倉はじっくり見るとして、ひとまずここで終了、
バスで藤沢まで戻りました。


・・・深沢地域
/鎌倉市

8つの大字(梶原・鎌倉山・上町屋・手広・寺分・常盤・笛田・山崎)がこの地域に含まれる。平安時代には桓武平氏村岡忠(ただみち)を祖とする鎌倉氏の支配領域であった。鎌倉景通(かげみち)の嫡男景久は梶原郷に在して「梶原氏」を称したとされる。梶原氏は鎌倉時代初期に源頼朝の側近として勢力を誇った梶原景時につながる。当地域には等覚寺御霊神社など梶原氏や梶原景時の伝承を残す史跡も多い。深沢小学校の裏には「梶原景時の墓」と伝えるやぐら(横穴墳)がある。鎌倉街道上道(吾妻鏡では下道と記述)が当地域内をほぼ東西に貫いていたと想定される。鎌倉街道上道の鎌倉への入口にあたるため、鎌倉防衛要所とされた。化粧坂と大仏坂の中間にあたる常盤の谷戸には鎌倉幕府第7代執権の北条政村が別邸を構えていたとされる。1333年に新田義貞の鎌倉攻めの際には現在の寺分・上町屋付近(かつて「洲崎(須崎)」と呼称された)において、北条氏の赤橋守時らが戦死した洲崎合戦があった。近世には東海道戸塚宿から鎌倉へ向かう道(鎌倉街道中道)から小袋谷で分岐した江の島道が当地域内をほぼ南北に通っていた。また、1685年(貞享2年)に刊行された新編鎌倉志に鎌倉から常盤に抜ける道筋として大仏切通の記述がある。この地域は戦前には深沢村と呼ばれた地域で1948年(昭和23年)鎌倉市に編入された。Wikipedia

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街道の風景① 上流側の大船方面の景観、渡ると鎌倉市です/柏尾川

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柏尾川/町屋橋
神奈川県南部を流れる二級河川、境川の支流である。戸部川とも呼ばれる。全長は戸塚区柏尾町から藤沢市川名で境川と合流するまでの約11km、流域面積は約84km2。源流である戸塚区の周囲の区から流れる複数の小川のうち港南区から流れる平戸永谷川と瀬谷区から流れる阿久和川が合流する戸塚区柏尾町付近から柏尾川の名称に変わる。戸塚駅付近より大船駅付近までJR東海道本線沿いを流れ、手広付近までは県道304号腰越大船線にほぼ平行に沿う。手広付近からは県道32号藤沢鎌倉線を藤沢駅方向に流れ藤沢市川名で境川に合流する。Wikipedia

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304号を右折/町屋橋BS        少し先二差路を左折

県道304号腰越大船線

国道134号小動岬付近(こゆるぎみさき)腰越橋交差点を起点とし湘南モノレール西鎌倉駅付近までを神戸川・旧江ノ島道とほぼ併走する。青蓮寺付近で旧江ノ島道とわかれ手広交差点で県道32号藤沢鎌倉線と交差、その後は終点(小袋谷)まで柏尾川とほぼ平行して走る。Wikipedia


・・・上町屋
(かみまちや)

鎌倉市深沢地域にある大字。地名の由来は柏尾川の水運と陸の鎌倉街道が交わる要路沿いに、町屋が軒を連ねていたことによる。町は市場、商工関係者の居住地、屋は集落を意味する。正保元年(1644)の正保国絵図には「町屋村」と記載があり、元禄10年(16974月の元禄内国改定図で「上町屋村」と記載がある。「上」が冠された理由は不詳。
Wikipedia

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泉光院山門/上町屋

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泉光院
真言宗大覚寺派。泉光院元青蓮寺の末寺で開山は大法師季等和尚で寛永16年(1639)の創建です。地蔵堂の石地蔵は「いぼとり地蔵」薬師堂の薬師如来は「町屋薬師」とも呼ばれているそうです。

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薬師堂                地蔵堂

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上町屋天満宮鳥居/上町屋

上町屋天満宮
上町屋の氏神。天慶年間(938947)上総介平良文が霊夢を受けて天神をこの地の鎮護として祀ったのがはじまり。 石造庚申塔(寛文10 1670年)は市指定文化財。(神奈川県神社庁)

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拝殿                 庚申塔

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街道の風景② 住宅地なので迷いました、戻ってみると天満宮を右折すとこの下にでます/東町屋

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泉光院先を右折、この先を久里折    道祖神角を右折し下ります

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前方が旧JR大船工場跡、街道はこの下を通ります。右手が泣塔のある小山です/深沢住宅上

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旧東日本旅客鉄道大船工場/寺分 
1945年(昭和20年)大井工機部大船分工場として発足。209系電車以降の「新系列車両」の増加による保守体系の見直しにより検査業務が縮小され、東京と大宮総合車両センターに業務を引き継がせる形で検査業務を終了し2006年(平成18)に閉鎖された。鉛などに汚染されていた跡地の汚染対策費と建物解体費の合計が売却予定額を数十億上回るという結果が出ており、鎌倉市とJR東日本の間で協議を続けていたが、土壌処理を2012年から2014年にかけて実施、引き続き鎌倉市が周辺地域を含めた総合整備事業を進めている。敷地内には鎌倉市の有形文化財に指定された泣塔が存在する。Wikipedia


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泣塔/寺分(多目的グランド内)
鎌倉市寺分旧東日本旅客鉄道大船工場敷地脇に建つ宝篋印塔の通称。伊豆石と呼ばれる安山岩で作られており、高さは203cm。塔身や基礎の部分は典型的な「関東形式」の特徴を持つ。塔の背後にやぐらがあり、中には朽ちて一部しか残っていないものも含め14五輪塔が建つ。
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泣塔という名前の由来について詳しいことはわかっていないが塔の後ろのやぐらが風に反響し、泣き声のような音を出すことから泣き塔と名づけられたという説や「無き人(無縁仏の意)の塔」が訛ったとする説がある。また、一時石塔を近隣の青蓮寺に移したところ、夜な夜なすすり泣く声が聞こえた事から「泣塔」と名付けられたという伝承もある。ただし移設されたとする青蓮寺に記録が残っていないため移設の事実なども含めて詳細は不明である。昭和8年(1933年)に調査を行った際、基壇部に「文和5年丙申2月廿日供養了」という銘文が発見された事から1356 (文和5)220日に建立された物と推測される。塔の正式な由緒は不明だが、鎌倉時代末期に新田義貞が鎌倉を攻めた際の古戦場(洲崎古戦場)が付近にあること、塔の背後にやぐらがある事からやぐらに葬られた戦死者を周辺の住民が弔う為にたてた塔と見られている。Wikipedia

(標識はありませんが、富士塚小入口信号角から入って右手の小山が泣塚です。現在はフェンスに囲まれていて塚の中には入れません)



・・・寺分(てらぶん)

鎌倉市深沢地域にある大字。「寺分」とは「寺領であったところ」を意味する。地名の由来は南北朝時代から戦国時代に大慶寺の寺領であった(大慶寺は後に廃絶)。寺名を略して「寺分」と称した。天文16年(15471121日の「北条氏康判物」で「須崎大慶寺分」と記されているのが初見である。永禄2年(1559)の小田原衆所領役帳には「同(東郡)須崎大慶寺分 養竹院」とあるが、永禄9年(1566722日の「北条氏政判物」では「須崎大慶寺分」を円覚寺塔頭の帰源庵領として安堵し、後北条氏滅亡まで同庵領であった。江戸時代の正保国絵図や元禄内国改定図には「寺分村」と記載されている。新編鎌倉志では「てらわけ」とされる。当時の地域は現在の寺分の他梶原1-2丁目が含まれていた。
Wikipedia

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街道の風景③ 湘南モノレールを直進、前方小山の左裾へ。右折は湘南深沢駅、左折した坂途中に洲崎古戦場碑があります/富士塚小入口

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洲崎古戦場跡/寺分
此の辺り古の州崎郷に属す 元弘3(1333)5月新田義貞鎌倉攻の折 その武将堀口三郎貞満・大島讃岐守守之州崎口より攻む 鎌倉方は赤崎相模守守時を将として邀撃(ようげき:迎撃)し 戦闘60数度 遂(つい)に敗れ守時以下90余人自刃したる古戦場なり昭和31年(鎌倉友青会)

鎌倉の戦い-小袋坂
巨福呂坂は北条一門で執権の赤橋守時率いる幕府勢が守りを固めた。赤橋守時は妹登子が足利尊氏の妻であったことから、北条高時に疑われるのを恥じて死を覚悟してこの戦いに臨んだと『太平記』は伝える。新田方の武将は堀口貞満大島守之518日朝、守時は巨福呂坂から出撃『太平記』によれば一日に65もの突撃を繰り返し、新田勢と激戦を繰り広げ化粧坂攻撃義貞軍の背後の洲崎(現在の鎌倉市深沢地域周辺)まで迫った(洲崎合戦)。しかし、激戦のため守時の軍勢は洲崎に到達した時点で兵力の大多数を失っており、守時や侍大将南条高直ら90余名洲崎自刃した。新田勢は攻撃を続け山ノ内(鎌倉市山ノ内付近)まで攻め込むが幕府勢の守りは固く巨福呂坂の突破はできなかった。Wikipedia

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北条守時
北条氏の一門、鎌倉幕府第16代・最後の執権赤橋守時とも呼ばれる。鎌倉幕府第6代執権・北条長時の曾孫にあたる。父は赤橋流の北条久時。同幕府を滅ぼし室町幕府初代将軍となった足利尊氏は妹婿(義弟)にあたる。正慶2/元弘3年(1333年)5月、姻戚関係にあった御家人筆頭の足利高氏(のちの尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛旗を翻し六波羅探題を攻め落とし、同母妹の登子と甥の千寿王丸(のちの足利義詮・よしあきら)も鎌倉を脱したため、守時の幕府内における立場は悪化し高時から謹慎を申し付けられる。518日一門から裏切り者呼ばわりされるのを払拭するため新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つ先鋒隊として出撃し、鎌倉中心部への交通の要衝・巨福呂坂に拠り新田勢の糸口貞満つと激戦を繰り広げて一昼夜の間に65合も斬りあったとされるが、最期は衆寡敵せず洲崎(現在の深沢地域周辺)で自刃した。(Wikipedia

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等覚寺山門/梶原


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等覚寺
鎌倉市梶原にある真言宗の寺院。寺伝によると応永年間、秀恵僧都による創建とされる。元は青蓮寺の末寺であったが、現在は高野山實寿院の末寺である。明治6年(1873)には境内に「訓蒙学舎」が建てられ、明治8年 (1875)に「梶原学校」と改められた。この学校は現在深沢小学校に続いている。かつては御霊神社の東隣にあったが深沢中学校の建設により移転したWikipedia
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大慶寺山門/寺分


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大慶寺
鎌倉市にある臨済宗円覚寺派の寺院である。山号は霊照山、本尊は釈迦如来。創建は弘安年間と伝わる。創建当時は現在より南東(梶原1丁目、現鎌倉市立深沢中学校付近)にあった。1386年(至徳元年)には関東十刹と列せられるなど鎌倉幕府・室町幕府による禅宗保護の政策により発展し、深沢周辺に広大な寺域をもった。大慶寺周辺一帯は「寺分」という地名だがこれは「大慶寺の寺域」に由来する地名で往時の広さを推測できる。しかし、1512年(永正9年)には北条早雲の軍勢に寺が焼き払われ、その後も上杉謙信の鎌倉侵攻(小田原城の戦い)の影響をうけ、本尊はじめ諸像を円覚寺に退避させるなど戦乱の影響によって次第に衰退していき廃寺となった。1841年(天保12年)に成立した新編武蔵風土記稿には「大慶廃寺」との記載があり江戸時代後期には廃絶していたと推測される。その後、1943年(昭和19年)に大慶寺の塔頭だった「方外庵」を大慶寺に改称し現在に至っている。Wikipedia

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駒形神社鳥居/寺分


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駒形神社
寺分の鎮守。治承年間(11771181)の創建。邇々芸命(ににぎのみこと)を祀ると伝えられ、農業の守護神として崇敬が篤く、大庭影親の所領にして、大庭氏天候不順の折は時折代参を派遣して水害旱魃の災なからんことを祈願したと伝えられている。(神奈川県神社庁)

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富士浅間神社の石塔          道祖神 

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東光寺/寺分
真言宗のお寺、創建は永享3年と伝えられてます。


・・・梶原

鎌倉市深沢地域にある大字。湘南モノレール江ノ島線の湘南深沢駅を挟んだ東西の地域である。平安時代中期に編纂された和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)に鎌倉郡内の七郷の一(梶原郷)として記録がなされており、律令制下の国郡郷制の郷だったと考えられる。現在の梶原よりも広く深沢地域をほぼ指していたと比定される。尊碑分脈によると鎌倉景通がここに住み梶原氏を称し、その子景久が住んだとされ原氏出自の地とされる。景通の玄孫である景時の墓と伝えられるやぐらが深沢中学校の校庭に存在する。一方、新編鎌倉志では鎌倉景政が居住した旧地に同族の梶原氏が居住したと記録されている。
Wikipedia

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街道の風景④
大慶寺角を右折し全方の丘・深沢中学を目指します/東光寺前

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坂上を左折すると源氏山        下って坂下右折が御霊神社

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御霊神社 (ごれいじんじゃ)/梶原


御霊神社
祭神:鎌倉権五郎景政。建久元年(1190)梶原平三景時、景政公の霊を祀り御霊社とした後、景時を合祀した。「相模風土記」には権五郎景政公天ぷの像と伝える木像二体と景時の木造を置き、等覚寺持とある。(神奈川県神社庁)

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御霊神社拝殿

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御陵神社
鎮座地:鎌倉市梶原1丁目12番27号
祭神:鎌倉権五郎景政霊
由緒:祭神景政は後冷泉天皇の御宇永承壬辰年(1045年頃)命を奉じて、源頼義と奥州に下向し安部貞任・宗任と合戦大勝して帰る。天喜元年(1052)時の人始めて鎌倉権五郎景政に御霊大権現の神号を奉り村岡邑に奉斎せり。後年鎌倉権太夫景通梶原の邑に居を定め屋号を梶原と改む、建久元年(1190)九月梶原平蔵景時一宇を建て、景政の霊を祀り御霊社と尊称す。(碑文)

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御霊神社本殿

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本殿への階段             本殿のヤグラ群

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鎌倉景正/平景正
平安時代後期の武将。父は桓武平氏の流れをくむ平景成とするが平景通の子とする説もある。通称は権五郎、は景政とも書く。父の代から相模国鎌倉(現在の鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも鎌倉市由比ヶ浜ともいわれる。16歳の頃、後三年の役(1083 - 1087年)に従軍した景正が右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州三年記」に残されている。戦後、右目の療養をした土地には「目吹」の地名が残されている(現在の千葉県野田市)。長治年間(1104-1106)相模国高座郡大場御厨(現在の藤沢市周辺)を開発して永久4年(1116)頃伊勢神宮に寄進している。子の景継は長承4年(1134年)当時の大庭御厨下司として記録に見えている。また『吾妻鏡』養和2年(118228日条にはその孫として長江義景の名が記されている。『尊卑文脈』による系譜では景正を平高望の末子良茂もしくは次男良兼の4世孫とし、大庭義景・景親・梶原景時らはそいずれも景政の3世孫とする。他方、鎌倉末期に成立した『桓武平氏諸流系図』による系譜では景正は良文の系統とし、大庭景親・梶原景時らは景正の叔父(あるいは従兄弟)の系統とする。Wikipedia

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梶原景時の墓(供養塔)と伝えるやぐらが深沢小学校裏手の山裾にありま

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梶原氏
坂東八平氏の一つで鎌倉氏の一族が著名である。鎌倉景通の嫡男の梶原景時が相模国鎌倉郡梶原にて梶原氏を称したことに始まる。梶原景時の代に源頼朝に仕え権勢を誇ったがその死後に没落した。1180年に源頼朝が挙兵すると大庭景親と共にこれを石橋山の戦いで迎え撃ったが、景時は頼朝一行を見逃した。頼朝はこの時の行為を深く感じ入り景時を重用する事となる。頼朝に服属してからの梶原一族は平家追討に功を立て、1185年の壇ノ浦の戦いにて滅亡させることとなるが、平家滅亡後に源義経とともに朝廷から勝手に官位を受けた為に頼朝から怒りをかっている。その後、奥州合戦にも従軍し頼朝の君寵が厚かったが、その反面多くの御家人の反発を買った。そして頼朝が死ぬと事態は急変する。北条氏を始めとする御家人達はここぞとばかりにと景時に謀反の疑い有りと弾劾する。景時は息子らを引き連れて京に逃れんとしたがその途上で討たれた。時に1199年のことであった(梶原景時の変)。その後、景時の弟の朝景が梶原氏の家督を継いだが1213年の和田合戦に属して討ち死にした。しかし、梶原氏はこれで滅んだと言う訳ではなく、景時の次男の子孫は鎌倉幕府、後には足利氏に従い被官として歴史に名を残している。Wikipedia

(校舎の裏手にありますのでお断りして見せて頂きました。写真は深沢小校庭です)

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梶原周辺地図
(赤:鎌倉街道 緑:鎌倉街道別路 紫:県道)

by Twalking | 2017-06-21 22:31 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(5-1)藤沢~鎌倉01-村岡   

日時 2017.6.15(木)
天気 晴れ


梅雨晴になりそうなので出かけました。
一応鎌倉まで行く予定にはしてますが、
調べてみると村岡、寺分は重要なポイント。

坂東八平氏の祖・平良文ゆかりの史跡や
梶原氏関連などのは是非見ておきたいところです。
暑くなりそうなので、のんびりと散策してみます。


・・・柄沢(からさわ)/藤沢市

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街道の風景① 遊行寺坂を鉄砲宿やひと上り/遊行寺坂(旧東海道)

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一里塚跡
かつて、このあたりの道路の両側に一里塚がありました。一里塚は主要な街道の一里(約4km)ごとに江戸幕府が設けたもので旅程の目安として利用されていました。崖上の高さまであった江戸時代の東海道を掘削改修したのが現在の道路で、一里塚も崖上にありましたが今は何も残っていません。左図は往時の面影を伝える史料の一つです。画面上部の道が東海道、くの字に曲がるところに遊行寺が描かれています。その右手に「一りづか 榎三」と記され街道の両側に植木のような描写があります。今の遊行寺坂より遥かに急な坂道で、その坂の上に遠くからでも分かりやすいように盛土されて榎が植えられていた様子がうかがえます。急坂の上、榎の木かげで一休みする旅人の姿が浮かんでくるようです。図:天保12年(1841)年版『東海道分間絵図より』「藤沢」(藤沢市教育委員会)

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街道の風景② 鉄砲宿から戸塚境を下り滝ノ川沿いに柄沢へ。道は消えているようです/大鋸(だいぎり)

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左が東海道が通る尾根/坂下       滝ノ川の西側の道を行きます

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滝の川を渡りGS先を左に       道なりに行くと隆昌寺門前です

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隆昌寺山門/柄沢

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柄沢山宗休庵隆昌院(通称柄沢の鬼子母神)
創立:元禄16年(1703開山:閑攝院相休日心上人
播州赤穂の城主浅野内匠頭の家臣奥田孫大夫(武具奉行)の末子、君父菩提のため鎌倉に来たり、両山(鎌倉妙本寺、池上本門寺)24世日等の法弟となり日等より鬼子母神像を賜り、当地に当院を建立する。その後本堂大破し文久3年(1863)今日の本堂を再建す。当山安置奉る鬼子母神は日蓮上人が松葉草庵に中老日法上人に彫刻させ宗祖開眼の尊像と伝えられ、のちに比企大学に与え妙本寺に格護、両山6世日行に夢告あり。両山7世日寿(稚児貫主)を現出させた由緒ある尊像として子授け、安産、育成、虫封じ、命名、厄除け等ご利益甚大にして信者参拝多し。病弱の子供が丈夫になり長命を得た人々の孫えお連れこの参拝多数あり(縁起書)

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柄沢神社鳥居/柄沢

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柄沢神社
御祭神:天照皇大神 孝安天皇
由緒:創立の時不詳であるが、建久4年(1194)右大将源頼朝武州入間川に狩りせし路次当神社に奉斎せしより、鎌倉武士及び領主大久保佐渡守忠保等の崇敬極めて篤く村民亦氏神と仰ぎ祭事を尽くした。文化66月(1810)並に文久元年4月(1861)社殿を造営し、更に明治454月社殿を新築した。明治元年328日付太政官達により第六天社を柄沢神社と改称した、明治612月村社に列せられた。大正10331日神奈川県指令内教第906号を以って太神宮を合併した。昭和50814日鐘楼堂不慮の火災に遭い焼失、昭和52415日鐘楼堂再建並に社殿屋根葺替完成。

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新編相模風土記第104村里部鎌倉郡36(抜粋)「柄沢村 江戸より行程十二里十町村岡郷に属す 中略 建久44月右大将源頼朝武州入間野に狩せし路次当所を経て武州関戸宿に到りし事重須曽我物語に見えたり「鎌倉殿見浅間腰離山三原狩倉共建久四年丑四月下旬出鎌倉打超気幸坂過柄沢飯田著武蔵国関戸宿」今も猶武州多摩郡木曾町辺へ通ぜしといふ鎌倉古道村内に係れり。蓋し此道なるべし」検地は貞享元年(1684)国領半兵衛重次改む。今領主大久保佐渡守忠保なり。古御料所。享保9年(1724)当領主に賜ふ。神明宮、第六天社以上2社共に村の鎮守にて例祭は1116日。祭礼小祭415日。大祭916日(神奈川県神社庁)
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街道の風景③ 坂下は柄沢橋・遊行寺方面、左折して渡内へ向かいます/柄沢保育園(302号)

県道302号小袋谷藤沢線

鎌倉市小袋谷(こぶくろや・大船地区)と藤沢市西富とを結ぶ一般県道。古くは鎌倉山之内往還と呼ばれ、藤沢宿から遊行寺を経て小袋谷に至り鎌倉街道(現県道21号線)と合流する街道だった。鎌倉時代この街道は藤沢宿から鎌倉へ向かう交通の要衝として位置づけられ小袋谷付近に関所が置かれていた。Wikipedia


・・・渡内

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慈眼寺山門
/渡内

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慈眼寺
藤沢市にある曹洞宗の寺院。山号は無量山。韓嶺の開山、北条綱成の開基により天文年間(1532-1555)頃に創建した。木造11面観世音菩薩立像:像高178.5cm蓮華を左手に持つ通常相、鎌倉時代の作。旧・江島寺梵鐘:寛永6年(1629)金亀山江之島寺(江ノ島神社)の梵鐘として鋳物師の酒巻庄五郎定勝により鋳造され、明和8年(1771)江之島寺の鐘が再鋳されたので請来した梵鐘。総高100.5cm、口径54cm、身高80.3cm。Wikipedia

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秘仏十一面観音立像と梵鐘
この寺院は無量山慈眼寺と号し曹洞宗に属す。天文2年(1523)の頃、玉縄3代城主北條左衛門大夫綱成が開創し、中興開山は韓嶺和尚と伝えられる。山門前の階段脇に文政4年(1821)に建立された鎌倉札所第33番の石柱がある。歌舞伎「小栗判官」で知られる常陸真壁郡小栗城主満重と照手姫を蘇生させたという観音縁起の版木(寛政6年・1794)が存在する。

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十一面観音立像は等身大(178.5cm)の本格的な造像で寄木造、玉眼を嵌(かん)し、頭体とも四材矧(は)ぎを基本に造られている。太つくりな肉取りをみせる量感がある体部やよく引き締まった面相など鎌倉地方の中世像らしい作域を示すが、やや硬く形式化された衣文表現などに多少時代の下降を思わせ、造立時期は14世紀後半と思われる。平成3年藤沢市により解体修復が行われ往古の優れた尊容に復元されたが、この折像内より紙片が発見され、これにより天正11年(1583)に玉縄6代城主北條氏勝の弟・直重が祖母の菩提のため鎌倉仏士快円に修復を依頼したことや、この寺院が慈眼山観福禅寺と号し北鎌倉の円覚寺の塔頭天地庵に関係があっつたことなど貴重な事実が新たに確認された。本堂正面右手に吊るされれいる梵鐘は陰刻銘によれば当初、上州藤岡の住人が「現世安穏、往生善処」を祈願して梵鐘を鋳造し江島寺に寄進し、明和8年(1771)に藤沢宿大鋸の住人が江島寺より梵鐘を買受け慈眼寺に寄進したことを知ることができる。銅造で総高100.5cm、口径54cmとやや小振りではあるが寛永6年(1629)の鋳造で、旧江島寺梵鐘であることなど往時を知ることが出来る(藤沢市教育委員会)

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混生樹(寄り木)
右が指定文化財でモチノキ(モチノキ科)4株、タブノキ(クスノキ科)3株、スダジイ(ブナ科・シイノキのうち樹皮が縦に割れるもの)1株の3種類8株が根本でくっついて一部融合した寄り木です。樹齢は300年以上と推定され高さは約10m、全体の根回りは7.5mにもなっている大変珍しい樹木です。左も同様にケヤキとサクラの混生樹で輪状に植えられた苗木が成長していく過程でこのような形になったものと思われます。共にもとは本堂裏手の丘の上にありました。(藤沢市教育委員会)

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平氏満の墓
板戸町(現在の藤沢本町)の旅籠小松屋の隠居。歌名を旦上平氏満という。詩歌を粉のみ「我棲里」の著者でもある小川泰堂とも親交があり、嘉永元年(1848)の「藤沢山白鑑」(遊行寺の日記)には「千種集」と題した千句の和歌を遊行上人に献上したことが記されている。「千種集」は天地一巻よりなり遊行上人の返し歌も記されており現在も遊行寺汁宝として宝物館に所蔵されている。没後は海の見える場所に埋葬してほしいとのことから慈眼寺の高台の一隅に墓を設けたものであったが、昭和62年からの区画整理によりこの場所に移動したものである。(藤沢市教育委員会)

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302号と別れ右折/渡内         住宅地を抜けた左に日枝神社があります

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日枝神社鳥居/渡内

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日枝神社の由来
渡内の日枝神社は渡内の鎮守となっておりますが、発祥は裏山の台地宮山平良文が京都より延長年間(923940)宅の守護神として日吉山王大権現(大山咋命)を勧請したと伝えられています。その後応永27年(1420)に福原家のご先祖・福原左衛門平忠次が現在地に移し、そのおり平良文の霊を合祀しました。尚、慶長126月(1607)福原孫十郎重種が再建する旨の棟札があります。社前の石段上り口に神鏡石燈籠があり「村岡山王大権現御宝前石燈2基、平良文の遠縁村岡良綱、天保6年正月吉日(1835)建立」とあります。現在の本社覆殿は天保911月(1838)福原家のご先祖・福原高峯が発願主となり村の有志達によって再建されたものであります。その後、地域の開発が行われ渡内東土地区画整理事業(平成1721年)によって周辺の環境の変化に伴い土地の造成工事が行われ、合わせて神殿の増改築を行い現在に至っております。(渡内日枝神社)

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祠群
右側の祠は渡内4丁目1番(県道小袋谷・藤沢線沿いの渡内バス停北側)辺りにあったもので、平成10年(1998)区画整理事業に伴い移設したものです。中央の祠は峯渡内村の名主家にあったもので、その位置は現在地より東に70m程行った所です。平成20年(2008)区画整理事業に伴い移設したものです。左の祠は坪井三社大権現で、現在地より北東に140m程行った藤沢市本在寺公園の山頂に祀ってあったものです。坪井三社大権現とは源頼義義家父子の二人に加えて徳川家康の分霊を祀った祠のことをいいます。(説明板)

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街道の風景④ 日枝神社を東へ行った小山が二伝寺砦(二伝寺)です

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二傳寺山門

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戒法山宝国院二傳寺
当寺は戦国時代の永正2年(1505玉縄城主北条氏時の発願によって開山された寺です。開山にあたっては福原左衛門忠重の援助がありました。当時は玉縄城から尾根つづきの域で一番高い場所にあり、加えて旧鎌倉街道に沿っていたので玉縄城の砦の役割を担うために寺を創建し利用したと考えられます。開山当時寺号違うものでしたが、大本山光明寺に伝わる本山伝の伝書が紛失した時に当寺に本山伝の写し(二つ目の伝書)があったので二伝寺と呼ばれるようになったと伝えられています。

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平良文(村岡五郎良文)
桓武天皇の4代あと平高望の5男、東下りして村岡城に居を構え村岡五郎と称しました。後に鎮守将軍に任ぜられ坂東平氏の始祖と言われています。境内山頂に初代平良文、二代忠光、三代忠通の塚があります。


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松平正次一族の墓
玉縄城開城の後、徳川家康から屋敷を賜り渡内に住み玉縄城を守護したのが松平正次です。その後、玉縄城は廃城になりますが松平正次の子供たちが玉縄藩としてこの地を治めました。向って右から松平正次、正次の内室、正吉、久治、正吉の子の順に宝篋印塔が並んでいます(案内板)

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本堂の裏山に三代の塚があります 

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正面に村岡五郎平良文の塚       その左に二代忠光の塚 

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手前側右手に三代忠通の塚       上り口の村岡五郎平良文公墓前碑

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村岡五郎平良文公墓前碑
良文公は桓武天皇の玄孫(5代目の子孫・げんそん・やしゃご)にして仁和2年(886318日生まれ。延長元年(923)正月母と共に東国に下り相模の国村岡郷渡内村に館を構え(今の村岡城址公園周辺)、比叡山麓の日吉大社の祭神大山昨命を城砦の守護神勧請し(現在の日枝神社)、天慶2年(939)鎮守府将軍従四位下陸奥守に任ぜられ翌年の天慶3年、平将門征討と国家安穏を祈願し京の山城国の御霊宮の祭神・早良親王(追謚号祟道天皇)を同郷宮前村に勧請した(現在の御霊神社)と旧くより伝えられ関東一円に強力なる勢力を張った坂東八平氏(三浦・千葉・上総・大庭・畠山・長尾・梶原・土肥)の始祖とし、多くの荘園有し武威を関東に振るたり。その子孫は繁栄せり。公の晩年は役の嚇々たる勲功、頼朝の鎌倉幕府創設に尽力する等、大いに繁栄せり。公の晩年は仔細は不詳なるも天慶6年(952年)121867歳を以て病没し此の地に葬る。右に2代忠光公、左に3代忠通公、之を村岡城御3代城主の墳墓なりと旧くより里人の口碑に伝えられている。平成17年乙酉年11月吉日 村岡郷土史研究会 建立(碑文)北側の風景 

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坂東八平氏
平安時代中期に坂東(関東地方)に下向して武家となった桓武平氏流平良文を祖とする諸氏。昌泰元年(898年)に平高望が遙任国司(ようにん・任地に赴任しない)が常態であった上総介に任じられると、子の国香・良兼・良将を伴って任地に下向し、上総は元より国香は常陸大掾(大掾氏)、良将は鎮守府将軍を勤めるなどして常陸国や下総国にも勢力を拡大し坂東武士団形成、後に平将門や清盛まで輩出する武家平氏の基盤を固めた。続いて高望の側室の子良文も下り、その子孫が坂東各地に散らばって勢力を扶植、三浦氏・土肥氏・秩父氏・千葉氏などの武家となった。この良文流坂東平氏を指して坂東八平氏と呼んでいる。良文を祖とする坂東八平氏は、忠頼の子・将恒(生母は平将門の娘)をとする秩父氏とそれからの派生による秩父平氏(畠山氏・川越氏・葛西氏・江戸氏・小山田氏など)、忠常とする上総氏や千葉氏の流れは房総平氏(相馬氏など)、相模全域に繁茂した鎌倉氏を中心とする相模平氏(中村氏、土肥氏、三浦氏、鎌倉氏、長尾氏、大庭氏、梶原氏)から成る。他に直方流の熊谷氏を中心とした武蔵平氏や、北条氏を中心とした伊豆平氏(長崎氏)もある。時代や年代により優勢を誇った氏族が移り変わるため、数え方はその時々の各氏族の勢力により様々であるが、一般的には千葉・上総・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾の八氏が多く挙げられる。Wikipedia
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本在寺北公園になるんでしょうか/裏山の墓地


・・・村岡

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村岡
村岡は起伏が激しく坂の多い土地だったので「重なり合う岡のむれ」からその地名がついたと伝えられる。約1000年前の940年(天慶3)村岡城主・村岡五郎良文(平良文)は平氏の守護神である御霊神社を京都から勧請したが、ここにこの地の歴史がはじまる。鎮守府将軍相模守村岡五郎平良文居城の地であった村岡は村岡郷と呼ばれ当時関東・東北の政治の中心地であった。その後、鎌倉幕府の成立、玉縄開城で武家屋敷が増え、江戸時代には藤沢宿の定助郷を務めるようになる。村岡郷五ヶ村とは宮前(みやまえ)小塚(こつか)弥勒寺(みろくじ)、高谷(たかや)渡内(わたうち)を指す。宮前の地名は御霊神社によるもの、小塚の地名は古墳があったためといわれ、弥勒寺は寺の名前によるものといわれている。明治21年の町村制施行により川名と柄沢(からさわ)を加えて村岡村となり昭和16年藤沢市に合併した。一部に水田を主とする農耕地と深い谷戸をもち山苺、山百合、野草が見られる山林地帯であったが、時の変遷とともに市街化への要望が高まり、昭和413月およそ10年の歳月をかけて区画整理事業がおこなわれた。(村岡のおはなし/藤沢まちづくり協会)

ルート地図(藤沢~寺分)
旧鎌倉街道散策の旅(1)上道・山ノ道編/芳賀善次郎著(さきたま出版会)を参照(赤:鎌倉街道 緑:東海道 橙:江の島道 青:境川 紺:柏尾川を着色)

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村岡城址/村岡城址公園

村岡城は坂東八平氏の祖平良文が村岡に居住した10世紀後に築いたといわれている。城と言っても空堀をめぐらせた山城のようなものだったという。元弘の変の時に新田義貞がこの城に布陣して鎌倉へ突入して行った所でもある。(藤沢市観光協会)

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額 元帥伯爵東郷平八郎書
村岡城の地位は古来武相交通の要衡に在り、往昔従五位下村岡五郎平良文公及び其の後裔5の居城なり、蓋し其の築城は今を距ること約一千年前に属す。良文公は関東八平氏の始祖にして天慶2年鎮守府将軍陸奥守に任せられ、多くの荘園を有し威を関東に振ひたり。天慶の乱起るに及び藤原秀衡、平貞盛と共に将門を征討し、大に軍功を立てたり。其の後裔に秩父平氏の一族渋谷庄司重国あり、其の孫実重は薩州東郷氏なり。昭和6年村岡城址を史蹟として縣廳より指定せらるる。同7年村岡の有志相謀り鎌倉同人会の賛助を得、城址に碑を建て以て後昆に傳ふ 村岡城址の碑と云爾。昭和7103日海軍中将東郷吉太郎撰書(碑文)

渋谷氏関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22311545/

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平良文(よしふみ)
平安時代中期の武将。桓武天皇4世。平高望5とされ、生母は高望の側室である藤原範世(または藤原師世)の娘とされる。官位は従五位上、陸奥守、鎮守府将軍。仁和2年(886)京で生まれたとされ(『千葉大系図』)優しい風貌の勇将であったと伝わる。昌泰元年(898)に父の平高望が東国に下向した際には正室の子である平国香、平良兼、平良持は従ったが、側室の子である良文は従わなかった。延長元年(92336歳の良文は醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅命を受けて東国に下向し盗賊を滅ぼしたと伝わる。その後武蔵国熊谷郷村岡(現・熊谷市村岡)、相模国鎌倉郡村岡(現・藤沢市村岡地区)に移り、そこを本拠に村岡五郎を称したとされるが、謎の多い人物である。加えて下総国結城郡村岡(現下妻)にも所領を有し、現在の千葉県東庄町、同小見川町にも居館があったとされる。天慶2年(939417日、陸奥守であった良文は鎮守府将軍に任じられて乱を鎮圧し鎮守府である胆沢城にとどまった。実際に同日、出羽国で俘囚(ふしゅう)と秋田城司の軍勢が衝突しており朝廷は陸奥守にも兵を出すように命じている。天慶3年(9405月良文は関東に帰国した。

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晩年は下総国上郡さらに阿玉郡へ移り天暦6年(9521218日に67歳で没したと云われる。千葉県小見川町の阿玉には「伝平良文館」があり、城郭の遺構として空堀、土塁、物見台などが確認された。藤沢市村岡東村岡城跡と伝わる場所があり、良文の後裔の一族のひとつである薩摩東郷氏出身の海軍元帥・東郷平八郎が額を書いた(撰書は海軍中将・東郷吉太郎)城址碑が建つ。子孫良文には5人の子がおり(『二中歴』)長男の平忠輔は早世したが、春姫(平将門の娘)を正室とした三男平忠頼からは千葉氏上総氏秩父氏河越氏江戸氏渋谷氏などが、五男・平忠光からは三浦氏梶原氏長江氏鎌倉氏などが出て、さらにこれらの氏族から多くの氏族が分かれて「良文流平氏」を形成した。後に源頼朝による源平合戦(治承・寿永の乱)に従軍して鎌倉幕府の創立に協力し鎌倉幕府で有力な御家人になった者の多くがこの良文流平氏に属する(Wikipedia)

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長福寺 公園の南側にある曹洞宗のお寺さんです/村岡


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街道の風景⑤ 村岡城址から下りここを左折、武田薬品の正門へ/村岡東2

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正門向かいのガードを潜ります     左折して道なりに長屋橋へ


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天嶽院/渡内
天嶽院の歴史は真言宗の古寺「不動院」から始まる。源頼朝公が治承4年(1180)伊豆に兵を挙げ鎌倉を目指す途中立ち寄り、不動明王様に大願成就の祈願をされたとの伝説がある。明応4年(1495北条早雲公によって伽藍の一寺が創建され「不動院」を改め曹洞宗の禅寺とし、虚堂玄白禅師を迎えて開山とした。天正4年(15764世住職の代に伽藍は焼失するが、玉縄城主北条綱成・氏繁公父子によって伽藍が復興された。

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更に紀伊大納言徳川光貞卿の信仰篤く
6世住職の代に七堂伽藍が完成された。この姿が「相中留恩記略」巻之18に記載されている。なお天正19年(159111月家康公から30石の朱印地を賜った事実がある。安政2年(185522622世住職の代に再び火災にあい大伽藍はことごとく焼失した。焼失を免れ現存する総門(山門)は江戸中期に水戸光圀公が建立したと伝えられる。昭和51年(1976)春伽藍復興に着手、20年余を経て平成10年(1998)七堂伽藍を室町時代の様式に統一して復興した。(天嶽院HP)

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山門
水戸光圀公建立の天嶽院山門、江戸中期の建物で唯一火災を免れた。山門前には仁王様が破邪の睨みをきかせている。

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天嶽院境内

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『むらおか古今東西』マップ
(橙:鎌倉道 赤:東海道 緑:江の島道 青:境川・柏尾川)


・・・・・
資料ファイル

東海道藤沢宿
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境川下流側の景観です、左岸に滝ノ川が合流します/藤沢橋

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遊行寺橋(旧大鋸橋)高札場跡
江戸から東海道を進むと東海道第6の宿・藤沢宿内の遊行寺橋(旧大鋸橋)で境川(片瀬川)を超えて鎌倉郡から高座郡に入ります。橋を渡って右手が大久保町。橋のたもとに高札場があり、公定運賃の定めやキリシタン禁制など徳川幕府の重要法令が掲示されていました。左手(南側)には「江の島一ノ鳥居」が建てられていました。江の島弁財天の遥拝の鳥居で、東海道と別れて鳥居をくぐれば「江の島道」です。

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藤沢広小路
広小路とはもともと「火除地」を意味します。江戸のではたびたびの火災で多くの人家が焼失したので、幕府は1657年の明暦の大火前から火除地を計画していましたが、護持院の焼失(1717)を契機に八代将軍徳川吉宗はこの地を火除地とし、さらに江戸市中にとどまれず各地の重要社寺地の門前にも設定しました。藤沢広小路は大鋸広小路とも言われ、時宗本山清浄光寺(遊行寺)門前の商家が櫛比(しっぴ)していた場所に設けられました。この場所は人々の往来も繁く各地に知れ渡って日本三大広小路の一つとも言われていました。また東海道五十三次の「三曲がり」としても有名です。(説明板)

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藤沢宿
藤沢宿は慶長6年(1601)東海道の宿場となり、後に戸塚宿、川崎宿が追加され五十三次の第6番目の宿場となりました。天保14年(1843)の記録では宿場の人数4089人、家数919軒でした。大山道や江の島道が分かれる観光地としての賑わいに加え、周辺農村からの物資の集積地として繁栄しました。宿場の機能がなくなったあとも、明治から昭和初期にかけては交通の要所としての地の利を活かした問屋業で栄え、その面影を残す土蔵や町屋がわずかに残っています。

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①藤沢御殿
藤沢御殿は藤沢宿が整備される前の慶長元年(1596)東海道を利用する際の休憩、宿泊施設として徳川家康が築いたと推定されます。記録によれば将軍の御殿利用は寛永11年(1634)の3代将軍家光の利用が最後のようです。

本陣・脇本陣
江戸幕府は街道を往来する幕府の役人や大名、公家などの専用宿舎として各宿場に本陣を指定しました。藤沢宿では堀内本陣と蒔田本陣がありましたが、堀内本陣は延享2年(1745)に火災のため役を返上し、その後は蒔田本陣1棟になりました。脇本陣は本陣の補助的な施設で、享和3年(1803)時点で大久保町と坂戸町に1棟づつありましたが、のちに坂戸の脇本陣は廃業し大久保町の脇本陣も別の家が勤めるなど特定の家に限定されていなかったようです。

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問屋場
宿場の役割として休泊と並んで重要なのが人馬継ぎ立て、すなわち運輸の機能でした。問屋場は陣馬継ぎ立てを行うための役所です。藤沢宿では大久保町と板戸町に各々1ヶ所ありました。

見附
見附は土居ともいい、宿場の玄関口となる施設で道の張側に石垣が築かれていました。通常江戸方と京方の両方に在り見附から見附までが宿場の範囲で、藤沢宿の長さは約2190mでした。

旅籠
一般の武士や庶民は旅籠屋に泊まりました。藤沢宿の旅籠は享和3年(1803)には49軒、天保14年(1843)には45軒あったという記録があります。(説明板)

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遊行寺総門(黒門)
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時宗総本山遊行寺
清浄光寺(しょうじょうこうじ)が公式の寺名ですが、遊行上人の寺ということから。宗祖一遍上人1239年~1289年)で、南無阿弥陀仏のお札をくばって各地を回り、修行された(遊行といいます)念仏の宗門です。この遊行寺は正中2年(1325年)遊行4代呑海上人によって藤沢の地に開かれ時宗の総本山となっています。宝物として国宝「一遍聖絵」、国重要文化財「時衆過去帳」など多数があります。境内には日本三黒門の一つである総門、銀杏の巨木、中雀門、市指定文化財の梵鐘、国指定の藤沢敵御方供養塔、小栗判官と照手姫の墓、板割浅太郎の墓、有名歌人の句碑などもあります。また、桜・ふじ・花しょうぶの名所で、観光百選の一つにもなっています。(案内板)

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呑海(どんかい)
鎌倉時代後期の時宗の僧。遊行上人4。有阿弥陀仏のち他阿弥陀仏。呑海は別号。相模国の俣野氏の出身。遊行上人2世神教に師事。真教から浄阿真観とともに賦算を許され、1301(正安3年)京都に七条道場金光寺(現・長楽寺)を建立し、1319年(元応元年)遊行上人を継いだ。しかし1320(元応2年)遊行3代他阿智得が当麻道場無量光寺)で没したとき呑海は遊行に出ており、智得の弟子の真光が執権北条高時の命で住持となった。そのため呑海は当麻道場に入ることができず、正中2年(1325)兄の俣野景平の援助により相模国藤沢藤沢道場清浄光寺を建立して、そこに住した。遊行上人が遊行を終え清浄光寺に独住する藤沢上人の初代である。その後呑海の門流は時宗十二派中最大の遊行派と称された。遺書を『四代上人法語』という。
Wikipedia

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国指定史跡・藤沢敵御方供養塔
この石塔は上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため応永25五年(1418年)に造立されたものです。基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ塔身に銘文が刻まれています。銘文は磨滅していて読みとりにくいのですが次のように解読・解釈されています。南無阿弥陀佛/自應永廿三年十月六日兵乱至同廿四年/於在々所々敵御方為箭刀水火落命/人畜亡魂皆悉往生浄土故也/過此塔婆之前僧俗可有十念者也/應永廿五年十月六日(応永23年(1416106日からの戦乱は同24年に至り、あちらこちらで敵方も御方も箭(矢)・刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過ぎる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい)この戦乱は足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏とその補佐役との争いだったため鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年1月に禅秀らの敗北自害で落着しました。銘文末の日付は塔の造立日で乱が起きてからちょうど3回忌にあたります。時の遊行寺住職は遊行14代(藤沢八世)太空上人。文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は持氏が発願主となって太空上人を導師として造立したものと考えられています。敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては慶長4年(1599年)高野山奥の院(和歌山県)に、豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。時宗では怨(敵)・親(味方)両者を区別せず平等に弔った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んでいます。(藤沢市教育委員会)

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長生院

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長生院
藤沢市西富にある時宗の寺院。別名小栗堂。時宗総本山である清浄光寺(通称:遊行寺)本堂裏手にある。永享元年(1429)清浄光寺の塔頭として建てられた。本尊は阿弥陀如来。かつては「長照院」とも表記された。小栗堂の別名の通り、小栗判官伝説に登場する照手姫が晩年尼となって住んだという伝説が残る。江戸時代には『小栗略縁起』を発行した。また周囲には小栗判官と十勇家臣の墓、照手姫の墓、名馬鬼鹿毛の墓もあり、小栗判官伝説伝承の中心地となっている。(Wikipedia

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小栗判官(おぐりはんがん)
伝説上の人物であり、またこれを主人公として日本の中世以降に伝承されてきた物語。妻・照手姫の一門に殺された小栗が閻魔大王の計らいで蘇り、姫と再会し一門に復讐するという話で、説経節の代表作であり浄瑠璃や歌舞伎などになった。常陸国小栗御厨(現在の茨城筑西市)にあった小栗城の城主である常陸小栗氏の小栗満重やその子・小栗助重がモデルとされる。人物としての小栗判官は藤原正清、名は助重、常陸の小栗城主。京の貴族藤原兼家と常陸国の源氏の母の間に生まれ、83歳で死んだとされるが、1516世紀頃の人物として扱われることもある。乗馬と和歌を得意とした。子宝に恵まれない兼家夫妻が鞍馬の毘沙門天に祈願し生まれたことから毘沙門天の申し子とされる。(Wikipedia)写真:小栗判官と十勇士の墓

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照手姫の墓              名馬鬼鹿丸の墓

by Twalking | 2017-06-19 20:57 | 鎌倉街道(新規)