無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カテゴリ:リバーサイドウオーク(新規)( 58 )   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 玉川上水リバーサイド(中流域-02)三鷹~下高井戸   

日時 2017.12.2
天気 晴れ

東京Wで井の頭公園まできましたので
帰りがてら桜上水辺りまで歩いてみました。

井の頭公園は、三鷹に住んでいた頃は散歩道、
世田谷に戻ってからは子供と一緒にサイクリング
思い出の一杯詰まった懐かしい緑道です。

久し振りに歩きましたが紅葉もまだ盛りでしたし、
玉川上水の跡も見応え十分、面白かったです。
ついでに高井戸宿もちょっと寄ってみました。


・・・下連雀
/三鷹市


三鷹市の北部に位置する。北部は武蔵野市御殿山、同市中町、西部は上連雀、南部は野崎、新川、東部は牟礼にそれぞれ接する。武蔵野台地にあり玉川上水の流れに接している。名は1657年(明暦3年)1月の明暦の大火による神田連雀町(現在の千代田区神田須田町・神田淡路町付近)の被災者の移住地として1658年(万治元年)に神田連雀新田として開墾されたことに由来する。「連雀」とは小板を使った背負子(しょいこ)のことで、江戸神田のその職人仲間が住んでいた町を連雀町と呼んでいたことが連雀の名の由来とする説もある。1700年前後に新田開発の進捗とともに、連雀新田が連雀村と称され、京都(朝廷)に近い方を「上」と称し、江戸方に近い方を「下」と称す慣習により上連雀村に対して下連雀村となった
。(Wikipedia

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上水はJRの下を潜って井の頭公園へ続きます/三鷹橋(風の散歩道/三鷹駅)

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国指定史跡玉川上水/三鷹橋
江戸・東京の水道に果たした役割玉川上水は羽村取水口から四谷大木戸までの約43kmにわたる水路で、承応31654)年に完成しました。これにより多摩川の水が江戸市中の広い範囲に供給されることになり江戸が大きく発展することが出来ました。その後、明治31年(1898)年に完成した淀橋浄水場(今の新宿区)への水路として昭和401965)年に同浄水場が廃止されるまで利用されていました。現在も羽村取水口から小平監視所までは現役の水道用の水路として都民の生活を支えています。

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貴重な土木施設・遺構としての歴史的価値
玉川上水は約43kmの区間を焼く92cmの標高差(100mでわずか約21cmの高低差)を利用して水を流すように設計された長大な土木設計・遺構です。特に小平監視所から浅間橋までの中流部には開削当時の素掘りの水路・法面が多く残され、往時の姿を今日に伝えています。玉川上水は近世の水利技術を知る上で重要な土木施設・遺構であることから平成152003)年、開渠区間約30kmが国の史跡に指定されました。(説明板)


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風の散歩道
玉川上水沿いの道(都市計画道路3413号線、三鷹駅万助橋区間)は、以前は幅員が5m程度しかなく快適な道路空間とは程遠いものでした。市では市民のみなさんと話し合いを続けご協力をいただきながら用地の取得を進めて平成6年度に築造工事に着手しました。約8年をかけて今回完成した道路は幅員が10mに広がり玉川上水沿いに1.5mの散歩道を、住宅側には3.5mの歩道を設けています。整備にあたっては江戸時代の貴重な歴史的遺構である玉川上水に配慮し、全体として落ち着きのある高品質の道路づくりをめざしました。歩道は天然の御影石を使ったブロック舗装、照明灯や車止めは色調をこげ茶色に統一し、桜や若葉の季節には玉川上水の樹木をライトアップする装置も設けています。道沿いには歴史的、文化的に貴重な文化財や施設も数多くあります。三鷹のシンボルともいえるこの道の完成を記念し「愛称名」を公募しました。愛称名募集には文化財や玉川上水にちなんだものや山本有三や太宰治などゆかりの文学者をイメージしたもの、三鷹の森ジブリ美術館(三鷹市立アニメーション美術館)に関連したものなど614通、総数1002件もの作品が集まりました。応募者のみなさんの説明文に散歩道としての素晴らしさを綴ったものが多く、この道にふさわしい新しい感覚を持つ呼びやすい名であることから「風の散歩道」が選ばれました。(三鷹市)

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太宰修碑
『四月なかばひるごろの事である。頭を挙げてみると、玉川上水は深くゆるゆると流れて両岸の桜はもう葉桜になっていて、真青に茂り合い青い枝葉が両側から覆いかぶさり青葉のトンネルのようである。・・・』(太宰治「乞食学生」より)


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むらさき橋
この橋は三鷹市と武蔵野市を結ぶ都市計画街路の一部として両市により昭和3011月に建設されました。現在の橋は平成103月に旧橋の老朽化に伴い架け替えられたものです。橋名は旧橋完成の際両市民の公募により応募総数594通の中から選定されました。橋名のいわれは「古今和歌集」より『紫の ひともとゆへに 武蔵野の 草はみなから あはれとぞ見る』(巻第17 雑歌より よみ人しらず)とあるように、昔はこのあたり一面に咲きほこっていた紫草で染め上げた「むらさき染め」にちなんで命名されたものです。(三鷹市・武蔵野市)

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中を見学したかったですが「長期休館中」でした/山本雄三記念館

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建物
大正末期に建てられた洋風の住宅で、当時流行していたフランスの建築家・フランク・ロイド・ライトに影響された意匠が取り入れられ、様々な建築様式が融合している。個性的な意匠を施された3つの暖炉や、自然風に大谷石が積み上げられた煙突が見所である。希少な建築物として1994年(平成6年)に三鷹市有形文化財に指定された。建物の南側には有三記念公園があり四季折々の緑と花を見る事ができる。
Wikipedia


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名作を記念する『路傍の石』
小説「路傍の石」執筆当時の昭和12年、有三は中野旧陸軍電信隊付近の道端でこの大きな石を見つけ、この家の裏庭に運び込んだと伝えられています。この石は作品の名に因みいつしか「路傍の石」と呼ばれ親しまれるようになり、その後東京都に寄付された山本邸から昭和33年有三青少年文庫として開設された時に現在の位置に移されました。山本有三記念館の開館にあたり、有三の名作「路傍の石」を記念するものとしてこの石の由来を記します。(三鷹市)


・・・井の頭
(いのかしら)/三鷹市

三鷹市の北部に位置する。「井の頭公園」の名で知られる井の頭恩賜公園が地域内にあり地域の多くは閑静な住宅街からなる。歴史的には井の頭の池を中心に古くから集落の形成が見られ、江戸時代は鷹狩場もあった。1965年(昭和40年)にそれまでの牟礼から独立し井の頭として住居表示を実施。井の頭の名は德川家光が鷹狩りに訪れ、湧水がほとばしるように出ているのを見て「井の頭」と命名したとされている。神田川源泉であり江戸市民の行楽地として親しまれてきた井の頭池の歴史にちなんでいる。Wikipedia


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玉川上水の風景① 井の頭公園の森の中を流れます、紅葉が見事です/万助橋


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萬助橋/吉祥寺通り
玉川上水に架かる橋のひとつ、三鷹市下連雀1丁目・2丁目と武蔵野市御殿山1丁目の境に架かっている橋で、吉祥寺通り(都道114号武蔵野狛江線)を通す。橋長は16.5m、幅員は16.8m。橋名はその創架した人物の名前に由来する。安政年間に下連雀村地主であった渡邉萬助が、近く大盛寺境内の杉の木をふたつに割って架けたものだったという。また明治時代に編纂された「下連雀村皇国地誌書上」には、当時の橋が長さ23尺、幅9尺の木橋であったとの記述がみられる。ちなみに「萬助」とは渡邉家の世襲名で8代目の渡邉萬助は第2代三鷹市長を務めた。現在の大きさの橋に改架されたのは19633月。その橋も老朽化のため、19948月に架け替えられている。Wikipedia

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井の頭恩賜公園
武蔵野市と三鷹市にまたがる都立公園である。1917年(大正6年)開園。三宝字池(石神井公園)・善福寺池と並び武蔵野三大湧水池として知られる井の頭池を中心とした公園である。井の頭公園はその中心に井の頭池(約43,0002)を擁している。井の頭池は北西-南東方向に延びる細長い形の池であり、北西端は二つに分かれ、南東端からは井の頭池を源とする神田川が流出している。井の頭池の西側には御殿山の雑木林があり、吉祥寺通りを挟んで井の頭自然文化園が位置している。雑木林の南側には玉川上水が東南方向に流れ、そのさらに南には「西園」が位置している。この西園には400mトラックと三鷹の森ジブリ美術館、玉川上水の下流側の脇には小さな広場のある「東園」がある。Wikipedia

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三鷹の森ジブリ美術館三鷹市
にある三鷹市立のアニメーション美術館。式名称は三鷹市立アニメーション美術館。設計者は日本設計。宮崎駿による断面スケッチを元にデザインされた。2001年に開館した美術館の運営と2007年から三鷹の森ジブリ美術館ライブラリーとして世界のアニメーション映画の配給やテレビ放送を行っているWikipedia

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新橋                 井の頭橋

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玉川上水のの風景② 右岸は左岸より小高く、雑木林が続きます/法政大高裏

神田川(井の頭)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24056043/


・・・牟礼
/三鷹市

三鷹市の東部に位置する。武蔵野台地にあり地域は玉川上水の流れに接している。北部は井の頭に、西部は下連雀に、南部は北野、新川、世田谷区北烏山に、東部は杉並区久我山に接する。歴史的には北多摩郡牟礼村であり、隣接する井の頭にも含まれる部分があった。その後三鷹村を経て三鷹市に編入されて現在に至る。
Wikipedia

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牟礼神明社鳥居/牟礼

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牟礼神明社
天照皇大 神合祀:倉稲魂命この神明社は牟礼の開祖・北條常陸之介康種(牟礼の開村は天正18年・西暦1590年)の父・北條治部少輔綱種(本氏高橋将監種政、北條早雲に養育され軍師多目氏に従学し伊豆韮山城に住んだ。北條左京大夫氏綱の時、大道寺方に配属され江戸城を攻略した。戦功あって御猶子に准ぜられ家号を賜い、北條常陸之介綱種と改め相州甘縄の城代となる。北條氏康の命あって治部少輔と進んで武蔵国の鎮衛の司として江戸城主となる)大永4年正月上杉修理大夫朝興を攻略した。上杉氏は河越に敗走、天文64月河越城に没した。五郎朝定は父の遺志を継いで江戸城を復さんと図る。天文67月老臣難波田弾正を以って深大寺城に出陣。主命あって綱種は江戸城を進発し深大寺城に対峙して砦を築く。天文61115五日(1537)綱種は陣内鎮護のために飯倉神明社の御分霊を勧請し高番山(現在地)に祀る。合祀された稲荷神社は往年村人の結衆に依って稲荷山(高山)に祀られていた。明治元年太政官布告神仏判然令に基き、氏子の総意によって合殿された。以上が牟礼の鎮守と崇められて今日に至るを略記する。(牟礼郷土史研究会)(境内掲示板)

石燈籠(巳待講)
井の頭辨財天への道標を兼ねて牟礼村の巳待講が建てた常夜灯である。以前は高井戸から連雀への道と井の頭道の分岐する角(現在の牟礼2丁目交差点付近)にあった。幕末期、嘉永3年(1850)の建立であり、竜の浮彫は見事である。寄進者名に江戸講中の人名があることから江戸市中の信仰が厚かったと思われる。(三鷹市教育委員会)

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玉川上水の風景③ 川辺のモミジが綺麗に紅葉しています/長兵衛橋

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玉川上水の風景④ 人見街道を横断、この先は杉並区になります/牟礼橋

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どんどん橋             どんどん橋道標&石橋供養塔(宝暦7年) 

どんどん橋/人見街道

三鷹市と杉並区の境を流れる玉川上水にかかる橋で、変わった名前は「橋の上を歩くとドンドンという音がしたから」とも「橋の下を水がどんどん流れていたから」ともいわれています。(三鷹市)

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蛇行する玉川上水
井之頭公園からどんどん橋付近にかけては直線が多い他の区間に比べて蛇行する箇所が多くなっています。これはこの地域が入り組んだ複雑な地形をしており、その中で少しでも高い地点を選んで水路を引いたためです。このことからも玉川上水がわずかな高低差を利用して水が流れるよう設計されていることがわかります。(東京都水道局)


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人見街道
府中市八幡と杉並区大宮の大宮八幡宮を結ぶ古くからの街道である。別名「大宮街道」「下総街道」「府中道」「八幡通り」。人見街道の名は、江戸以前にあった「人見村」を通る道であった事に由来するもので地名に「小人見」の名称がある。さらに、北にある浅間山の別名が人見山である。一説には浅間山の別名人見山(小高い丘から敵の情勢を見る意味)からとも。Wikipedia

大宮八幡宮(善福寺川)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24090782/


・・・久我山
/杉並区

町域内を
神田川玉川上水が流れその両岸にあたる。玉川上水には上水を挟んで両側に未舗装の土の遊歩道が見られ、上水の水と緑とあいまって区部有数の貴重な武蔵野の原風景を形成しているが、東京都がすすめる大規模な放射5号線道路計画の対象となっている。また、当地域内を人見街道が横断している。
くが」とは空閑地や陸地のことであり、武蔵野の新開地の意と推測される。古くは久ケ山とも。江戸時代から1889年までは江戸幕府領久我山村であった。文化文政時代は64戸、水利は玉川上水、鎮守神は久我山稲荷神社であったWikipedia

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玉川上水の風景⑤ 左岸は放射5号線の工事中ですが両側に緑道が続きます/牟礼橋

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岩崎橋                中央道の先は暗渠になります/浅間橋

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玉川上水緑道マップ(三鷹橋~浅間橋)


・・・高井戸/杉並区


杉並区の最南部に位置する地域。現在の町名では上高井戸、高井戸西、高井戸東、下高井戸の4
地域に分かれる。京王井の頭線富士見ヶ丘駅から京王線下高井戸駅、八幡山駅の範囲の地域である。
地名の由来については諸説あるが、かつて村内の小高い所にあった堂の傍らから水が湧き出ていて、高いところから出ていた井戸なので「高井戸」と呼ばれたという説と地域内の宗源寺にある高井戸不動が江戸時代までは高台に祀られていて「高いお堂の不動様」と呼ばれるようになり「高井堂不動」という名が生まれた。そこから高井戸の名が生まれたという説などがある。実際には高低や井戸とは無関係でありかつて高井家が代々宮司を務める神宮司があり、目印となるお堂に「不動様」が祀られていたことから通称「たかいどう」と呼ばれ、周辺を指す地名で使われるうち転じて「たかいど」となる。跡地は団地となっているが高井家15代までの墓が残されているWikipedia


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玉川上水の風景⑤ 浅間橋からは暗渠となり、中央道の下を流れています/環八交差点

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中央道下               20号手前から明大前まで緑道が続きます

・・・
高井戸宿

かつて甲州街道にあった上高井戸宿および下高井戸宿の合宿。現在の杉並区高井戸にあった。通行大名が少なく脇本陣は置かれなかった。当初は、甲州街道の一番目の宿場であったが、後に内藤新宿が設置され、次第に素通りするものが多くなった。周辺住民は農業を主としており、一宿で継ぎ立てを勤められず月初から15日までを下高井戸宿、16日から月末までを上高井戸宿が勤める合宿としていた。
下高井戸宿:日本橋から4里。宗源寺(下高井戸4-2-3)の左隣の「富よし」に本陣が置かれた。本陣前が高札場、本陣向かい側の少し日本橋寄りが問屋(細淵家)跡となる。

上高井戸宿:日本橋から41240間。上高井戸一丁目信号(環八通りとの交点)の北東角にあった並木氏の「武蔵屋」に本陣が置かれた。問屋は篠弥惣治。Wikipedia

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かつての下高井戸宿の中心部ですが、面影はありません/宗源寺門前

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宗源寺
叡昌山宗源寺は十界諸尊を本尊とする日蓮系の寺です。当寺の壇家であった有名な地理学者志賀重昂が記した「宗源寺開基碑」によると、当寺開山光伯院日善の祖先は畠山重忠の一族江戸遠江守太郎判官重永で甲斐国(山梨県)吉田郷に住した吉田宗利であり、宗利が法華宗に帰依して法名宗源」と称したのにちなみ、末孫の日善がこの地に一寺を開いて寺名としたと伝えます。そしてその時期は慶長(1596-1614)初年の頃とされています。境内の不動堂はもとこの近くにあった修験道の本覚院(明治5年廃寺)のものでしたが、明治44年に現在地に移し、昭和42年に改築したものです。なお、この不動堂はかつて高台にあったため「高井堂」と呼ばれそれが高井戸という地名の起源になったとする説もあります。当寺蔵の文化財としては、南北朝初期の板碑や滝沢求馬(1713没)の筆になる釈迦涅槃図が保存されています。(杉並区教育委員会)

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覚蔵寺/下高井戸
清月山覚蔵寺は日蓮宗の寺で本尊は十界曼荼羅・宗祖日蓮聖人像です。当寺はもと真言宗の寺でしたが、慶長年間(1596-1614)に日蓮宗に改宗、中興開山は実成院日相と伝えられています。当寺に安置されている鬼子母神像日蓮聖人の直刻と伝えられています。このことは「江戸名所図会」にも記載されているもので、丈永8年(1271)聖人が龍ノロ法難にあわれる前、馬に乗せられ鎌倉の町を引きまわされて刑場に向う途中、一老女からごまのぼた餅を供養され、そのお礼として手渡したものであるといわれています。この像は江戸時代の中頃に鎌倉の妙法寺から当寺に安置され、それ以降開運鬼子母神として人々の信仰を集めるようになり、寺運も大いに栄えたといわれています。境内の日蓮聖人五百遠忌塔は天明元年(1781)頃に建立されたもので、昭和56年(1981)は聖人七百遠忌の年にあたりそれを記念して銅像を建立しています。また、開山日相聖人塔は三百五十遠忌の年(昭和41年)に建立されたものです。なお、当寺は大本山池上本門寺の末で、現本堂は昭和31年に改築されたものです。(杉並区教育委員会)


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甲州道中一里塚跡
江戸時代、五街道のひとつであった甲州道中(街道)は江戸日本橋を基点とし内藤新宿、高井戸、府中、八王子、甲府を経て上諏訪に至り、つぎの下諏訪で中山道に合するようになっていました。この街道を利用した諸大名は信州高島藩、同高遠藩、同飯田藩の三藩でした。また甲府には江戸幕府の甲府勤番がおり幕府諸役人の往来もありました。この場所の前方、高速道路下に日本橋から数えて4里目(約16km)を示す「一里塚」がありました。当時の旅人はこの「一里塚」を見て道程を知り駄賃などの支払いをしました。塚は五間(約9m)四方、高さ1丈(約3m)を基準として土を盛り上げて築き、榎を植えてありました。(杉並区教育委員会

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玉川上水緑道ルートマップ(三鷹~高井戸)


神田川(久我山・高井戸)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24061274/



・・・・・・・
資料ファイル

江戸東京博物館(江戸上水関連)

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玉川上水ジオラマ/
江戸東京博物館

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小金井橋と玉川上水
玉川上水は江戸の人口増加に対応するために新たに設置された上水で、1653年(承応2)から翌年にかけて玉川庄右衛門・清右衛門によって羽村から虎ノ門までが開削されたとされる。玉川上水の特徴はその測量技術であり、羽村から四谷大木戸までの開渠部分の距離約43kmに対し標高差約100mであった。これは100m流れて20cmほど下がるというもので測量技術の高さがうかがえる。小金井橋は開渠部の中流域にあたり、この一帯は水の便が悪く江戸中期までは大きな開墾は行われなかったが、玉川上水の生活用水としての分流が認められたことによりこの一帯が定住できる場所に変わっていったのである。開拓した時期に植えられたという上水沿いの桜並木は江戸後期になると桜の名所として江戸市中に知られた。(説明板)

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武蔵野小金井桜順道絵図(複製)/1851年(嘉永4以降)/江戸東京博物館

小金井周辺の玉川上水沿いに桜が植えられたのは享保期から元文期にかけての武蔵野新田が開発されたころとされるが、名所として知られるようになるのは寛文年間以降のことである。本図中には観光名所となった小金井周辺の名所、旧跡が記され、江戸や近隣からの里程、碑文なども載せられた一枚の観光案内図である。(説明板)

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江戸上水図/江戸中期(複製)/江戸東京博物館
江戸市内における上水道ごとの配水分布図を示した図。本所・深川地域に配水された本所上水を除いた五上水が記されている。図からは江戸の北部に神田上水が、南部に玉川上水が配されていたことがわかる。このうち玉川上水から分流する青山上水・三田上水・千川上水は1722年(享保7)に上水道としての使用を幕府により禁止された。(説明板)

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江戸府内上水分布図

江戸の上水道はおもに北部が神田上水を、南部が玉川上水の水を利用した。

玉川上水(上流域)はこちらへ(http://teione.exblog.jp/20693841/
玉川上水(中流域-1)はこちらへ(http://teione.exblog.jp/20674257/
玉川上水(下流域)はこちらへ(http://teione.exblog.jp/20780418/

by Twalking | 2017-12-09 09:09 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(5)お茶の水~柳橋03-柳橋&両国   

日時 2017.5.20(土)
天気 晴れ


やっと隅田川に会えました、いい風景ですね。
折角なので両国へ、ここは初めての場所ですので、
ひとまず回向院、吉良邸などを訪ねました。

時間があればじっくりと歩きたいところですが、
最後に江戸東京博物館へ寄ってみました。
随分と大掛かりな展示物、見応え十分でした。

時間かかりましたが、面白いですね~、神田川。
以外と地形的な変化もありますし、さまざまと
江戸の街づくりの歴史を感じ取ることが出来ました。



・・・柳橋
/台東区

江戸時代には奥州街道旅館街として神田川対岸の両国(現在の東日本橋周辺)と共に江戸最大の繁華街として繁栄を築き上げてきた。
旧浅草区に属していたことから「浅草柳橋」と呼ばれている。1630年の江戸時代に徳川幕府が設置した米蔵「浅草御蔵」の一部として指定されており、現在の柳橋2丁目には三河岡崎藩邸信濃植田藩邸などの武家屋敷が置かれており官有地となっていた。浅草御蔵は隅田川の西岸、神田川北側の一画に、南は現在の柳橋2丁目より北は蔵前3丁目にかけて位置していた。幕府の米蔵であり地租が金納となったのちは米廩(べいりん)または米蔵と呼ばれ、1878年(明治11年)以降は大蔵省内において大阪など全国の米蔵を掌握し、米価の調節など貯蓄米にかかわる事務を行った常平局が管理し浅草御蔵の地に本局をおいた。柳橋1丁目は浅草旅籠町などが中心に江戸前の料亭が軒を連ね、特に柳橋芸妓で知られた。Wikipedia

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神田川の風景① 昔ながらの船宿風景が残っていて風情があります/柳橋

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旧浅草柳橋
いくつかの町が整理統合され昭和9年(1934)に誕生した。町名の由来は神田川の隅田川合流点近くに「柳橋」と称する橋があったのにちなんだ。柳橋の名は江戸中期の頃から花街として人によく知られ、橋のほとりには船宿が並んで賑わっていた。ひところは料亭および芸者衆も多く隆盛を誇ったものである。「柳橋」は元禄11年(1698)に初めて架けられた。神田川が大川にそそぐところにあったことから、その当時は川口出口之橋と呼ばれていたが、橋のほとりに柳が植えられていたことからいつしか柳橋と呼ばれた。現在の橋は昭和4年に架けられたものでローゼ形式の橋である。(旧町名由来案内板)

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篠塚稲荷社鳥居

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篠塚稲荷社/柳橋
御祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと)御神徳:商売繁盛 火伏せ
当社の創建は非常に古くて確かな事は図りませんが、神社に伝わる古文書や伝記などに依れば、正中年間(1325頃)に新田義貞の四天王の一人であった篠塚伊賀守重宏が足利尊氏軍との四国での最後の戦いに敗れた後ひそかに東国へ逃れ、現在地近辺の茅原の里にあったという当稲荷の祠の傍らにて仏門に入り、日夜主家の再興を祈願していた事からいつしか里人が篠塚稲荷神社と称する様になったと言われています。古来諸大名や高家及び庶民の崇敬厚く右の図は天保7年版(1836)「江戸名所図会」に記載されている稲荷社の絵図ですが『篠原稲荷社。当地の旧社なり。昔、新田(義貞)の家臣篠塚伊賀守、当社を信仰し晩年に入道して社の側に庵室を結びて住す。別当玉蔵院はその裔孫(えいそん)なりと言えり』と記してります。当時は神仏混合の時代で篠塚伊賀守の子孫は京都醍醐寺から篠塚山玉蔵院宗林寺の山号お受けた真言宗の修験僧で稲荷社の別当を務め、かつ江戸期から大正末期まで神社境内に寺子屋(後に篠原小学校)を運営し、また福井県にも分校を設けていましたが明治維新の際の廃仏稀釈により玉蔵院を廃止し、大正11年に篠原小学校も廃止いたしました。(篠塚稲荷社)
江戸名所図会 第六天篠塚稲荷 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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石塚稲荷神社鳥居/柳橋

石塚稲荷神社
祭神:倉稲魂命。
往古、稲荷大神の夢想の告げにより掘井戸より宝石出現したるにつき、浅草御蔵前元旅籠町の居住者有志、これを勧請して本社を創建した。元禄元年(1688)浅草御蔵御火除御用地として召上げられたので、その代地として現在の地に奉遷され今日に至っている。火伏せの神として霊験灼かで広く衆庶の信仰を集めている。古来、氏神榊神社の兼勤の社として祭事怠ることなく奉仕し現在に至っている。(東京都神社名鑑)

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隅田川の風景① いい眺め、やっと会えました~、感激です/隅田川テラス(上流側)

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総武線橋梁              両国橋(下流側)

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隅田川テラス周辺案内図


・・・神田川河口

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神田川の風景② 神田川河口です、右手に両国橋を望みます/柳橋

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柳橋
柳橋の下を流れる神田川は三鷹市井之頭池を水源とし都心部を流れて隅田川へと注ぐ全長約25kmの都市河川です。柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡舟で往き来していましたが、不便なので元禄10(1697)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され翌11年に完成しました。その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く『柳橋川へ蒲団をほうり込み』と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。この位置に初めて橋が架かったのは元禄11(1698)のことで『川口出口之橋』あるいは近くに幕府の矢の倉があったことから『矢の倉橋』と呼ばれていました。『柳橋』の由来については(1)矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になりさらに柳橋となる。(2)柳原堤の末にあったことに由来する。(3)橋の袂に柳の樹があったことに由来する。このように諸説ありますが真説は不明です。

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明治維新後、柳橋は新橋とともに花街として東京を代表するような場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まる場所であったようです。明治20(1887)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正12(1923)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ・ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ昭和4(1929)に完成しました。

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柳橋の諸元 
所在地:中央区東日本橋2丁目=台東区柳橋1丁目 (神田川) 形式:タイド・アーチ橋 橋長:37.9m 有効幅員:11.0m(車道6.0m 歩道2.5×2) 建設年次:昭和412月(復興局施行) 完成から70余年、現在区内では復興橋梁も少なくなり柳橋は貴重な近代の土木遺産として、区では平成3年に優美な形をしたこの橋を後世に伝えるため傷んだ親柱を復元し、欄干は花街に因んで「かんざし」を飾り歩道には御影石を貼って再生しました。また夕暮れより照明の演出をして、神田川河口に架かる「柳橋」の存在感をもたせました。平成3年に整備し同11年に区民有形文化財に登録されています。(中央区・中央区教育委員会)

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柳橋ぶらりマップ


・・・東日本橋/中央区

日本橋地域の北東に位置し台東区(浅草橋・柳橋)・墨田区(両国)との区境にあたる。清州橋通りを挟み西側は問屋街、東側は商業地と住宅地が混在する区域である。現在の東日本橋にあたる区域は江戸開府以来交通の要所として栄え歓楽街であった。史跡も数多く残る。明治時代までは薬研堀がありその大川口には元柳橋が架けられていた。近世以前の「両国」は隅田川西岸大橋西詰にあたるこの付近を指していた。かつては両国広小路が置かれていた地であり現在は記念碑が設置されている。

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両国広小路
両国広小路は両国橋西詰めの現在の中央区東日本橋に設けられた火除地(広場)である。明暦の大火の教訓を元に整備され、江戸三大広小路のひとつにあげられる。見世物などの小屋が立ち並んで賑わった。現在、両国橋西交差点付近に「両国広小路記念碑」が設けられている。(Wikipedia

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旧蹟・両国広小路
隅田川は当時武蔵下総両国の境をなしていた。明暦の大火(1657)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その際このあたりで逃げ場を失って焼死するものが多数出た。このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。また延焼防止のため橋に向う沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。やがてこれが広小路となり江戸三大広小路の一つとして上野浅草に並び称せられる盛り場に発展した。明治維新のころ、ここには新柳町・元柳町・横山町・吉川町・米沢町・薬研堀町・若松町があったが昭和7年合併して日本橋両国町となり現在に及んだ。維新後百年を経た今日、まちの近代化はめざましく広小路や両国の名も過去のものとして忘れ去られようとしているが300年前火除け地が設定され、これが広小路に発展して行った事跡のなかには先人の英知と努力が偲ばれてまことに意義深いものがある。ここに由緒ある両国広小路の旧跡を永く保存するため町会の総意によりこの碑を建てた。昭和44113日(中央区日本橋両国町会 建碑・施工 青山石勝ガーデン)

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両国
中央区・墨田区両区の両国橋周辺一帯。また、墨田区の町名のひとつである。本来、両国とは隅田川西側武蔵国側である。元禄時代1688)からの本所深川開発以降、現在の両国である旧下総国側(墨田区側)を東両国向両国・むこうりょうごくとも)と呼ぶようになった。江戸期には後の東日本橋地区に留まらず近隣の日本橋馬喰町、日本橋横山町、日本橋久松町なども含めて隅田川西側地区が両国の名称を使用し、または両国を冠称していた。本所、深川は旧来の下町(神田、日本橋、京橋)からは「川向こう」であり西側が本家の両国、川向こうは東両国(向両国)だった。路面電車の「両国停留所」「両国郵便局」など西岸にあるものに「両国」の名称が使用されるのもその名残である。(Wikipedia
写真は日本橋北 内神田 両国 浜町明細絵図/案内板
(青:神田川 丸:浅草御門・柳橋・両国広小路 両国橋)


・・・両国橋

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隅田川の風景② 神田川川河口の様子がよく分かります/両国橋

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両国橋
隅田川にかかる橋で国道14号(靖国通り・京葉道路)を通す。西岸の中央区東日本橋2丁目と東岸の墨田区両国1丁目を結ぶ。橋のすぐ近くには神田川と隅田川の合流点がある。現在は武蔵国内にあるが1686年(貞享3年)に国境が変更されるまでは下総国との国境にあったことから両国橋と呼ばれる。両国橋の創架年は2説あり1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)である。千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。長さ94間(約200m)幅4(8)。名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい。(Wikipedia)

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隅田川の風景② 船で川下りもいいですね~、いい風景です/両国橋(下流側)

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江戸名所図会 両国橋 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
手前左が柳橋、右が両国広小路、川向うに見えるのは竪川でしょうか、華やかな賑わい振りです。

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両国花火
1732年(享保17年)に起こった全国的な大飢饉(いわゆる享保の大飢饉)や江戸におけるコレラの流行を受けて、八代将軍徳川吉宗が死者の弔いと悪病退散を願って両国にて水神祭と施餓鬼を行った。この際に花火を打ち上げて川開きを同時に行ったことが両国花火大会の始まりといわれている。1733年(享保18年)5月のことであった。担当した花火師が両国の篠原弥兵衛、有名な「鍵屋」6代目である。後にこの鍵屋から暖簾分けした「玉屋」が加わりそれぞれ両国を挟んで上流側・下流側を担当した。花火を打ち上げるたびに「たまやーかぎやー」という掛け声がかかるのはこの競演に由来する。両国花火大会は何度かの中断があったものの、現在も続いている日本で最も歴史の長い花火大会である。1978年(昭和53年)に15年ぶりの復活を遂げた際、現在の「隅田川花火大会」へと名を変えた。(Wikipedia
(写真『両国橋西詰』模型/江戸東京博物館)


・・・両国/墨田区

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街道の風景 初めて両国橋をわたりましたが、なんだかドキドキしますね/両国橋(京葉道路)

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両国(墨田区)
現在の両国は旧本所区にあたる本所地域内江戸期には「向両国」と呼ばれた地区である。本所区時代の1929年には東両国の町名が成立した。住居表示実施の1967年には従来の両国(中央区側の両国)は日本橋両国となっていて、単なる「両国」という町名があいていたためこの地域の町名を両国とした。吉良邸に赤穂浪士が討ち入った赤穂事件の舞台として知られている。現在そのごく一部が吉良邸跡として保存され区立本所松坂町公園となっている。近代、墨田区側の両国が全国に知られているのは両国国技館によるところが大きいと思われる。1909年に完成し1944年まで使用された旧両国国技館は両国2丁目の回向院の旧境内にあった。その後、蔵前国技館への移転を経て1985年に新しく完成した現・両国国技館は両国駅の北側、墨田区横網に位置している。(Wikipedia

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両国橋と百本杭
両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに百本杭があります。昭和5年(1930)に荒川不水路が完成するまで隅田川には荒川中川綾瀬川が合流していました。そのため隅田川は水量が多く湾曲部ではその勢いが増して川岸が浸食されました。両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には数多くのが打たれました。水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ川岸を保護するためです。夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになりその光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。

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江戸時代の歌舞伎では多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場します。「十六夜清心」でも冒頭に「稲瀬川百本杭の場」がおかれています。稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。観客は「百本杭」という言葉からこの場面が実は隅田川を舞台としていることに気づくのです。百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。また明治17年(1884)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれそれが百本杭を示しています。明治35年(1902)に幸田露伴は『水の東京』を発表し「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出たるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。このほか本所向島に親しんだ多くの文人が百本杭と往時の記憶について書き留めています。しかし明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの杭は抜かれ百本杭と隅田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。(墨田区教育委員会)

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回向院山門/両国

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回向院
墨田区両国2丁目にある浄土宗の寺院、および過去にその別院であった荒川区南千住5丁目にある寺院。両国2丁目にある寺の山号は諸宗山。正称は諸宗山(一時期、国豊山と称す)無縁寺回向院。墨田区本所地域内に所在していることから「本所回向院」とも呼ばれている。振袖火事と呼ばれる明暦の大火1657・明暦3年)の焼死者108千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まり。のちに安政の大地震をはじめ水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬する。1733(寛永5)老中・松平定信の命によって造立された「水子塚」は水子供養の発祥とされている。2月第1土曜日14時から水子塚の前にて水子総供養をその他は隔月毎に本堂にて水子供養を行っている。著名人の墓として山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉など。(Wikipedia

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相撲関係石碑群〈力塚〉
墨田区と相撲の関わりは明和5年(17689月の回向院における初めての興行にさかのぼります。以後、幾つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。天保4年(183310月からは回向院境内掛け小屋で相撲の定場所として年に2度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。明治時代に入っても相撲興行は回向院境内で続いていましたが欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治17年(1884)に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し多くの名力士が生まれました。そして明治42年(1909)に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。力塚は昭和11年(1936)に歴代相撲年寄慰霊のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ大正5年(1916)に建てられた角力記と法界万霊塔もこの中に移動しました。現在は、相撲興行自体は新国技館に移りましたが力塚を中心としたこの一画は相撲の歴史が76年にわたり刻まれ、現在もなお相撲の街として両国の姿を象徴しています。(墨田区教育委員会)

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鼠小僧供養塔
墓石の高さ100cm 幅710cm 奥行き55cm 台石の高さ35cm 幅116cm 奥行き78cm 石組の墓壇の高さ65cm 幅150cm 奥行き130cmを測る(安山岩製)碑の正面には「天保2年(1831818日」「俗名中村次郎吉之墓」「教覚速善居士」「道一書」裏面には「大正15年(19261215日建立」左側には「永代法養料金五拾園也 細川仁三」と刻まれている。

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鼠小僧は寛政9年(1797)生まれの実在の盗賊であり「武江年表」によると天保3年(1832819日に浅草で処刑されている。「甲子夜話」によれば武家屋敷にのみ押し入ったため庶民からは義賊扱いされていると記されている。後に幕末の戯作者河竹黙阿弥が、権力者である大名家に自在に侵入し被権力者側である庶民に盗んだ金を配るという虚構の鼠小僧を主人公とした作品を世に送り出したことから人気に火がつき、演劇界においては現在まで続く当り狂言の一つとなった。明治12年(18791月の「朝野新聞」によると歌舞伎の市川一門の一人である市川団升が、狂言が当った礼として碑と永代供養料10円の寄付を行うほどの熱の入れようであったと伝えており、施主として刻まれ墓の横にも石灯籠を寄進している。細川仁三とは市川団升のことであるとみる説もある。文学界においても芥川龍之介が「戯作三昧」・「鼠小僧次郎吉」・「復習」と3度題材に取り上げるなどとしており虚構の鼠小僧の人気は高い。江戸時代犯罪者には墓を作ることが禁止されていた。しかし歌舞伎や狂言での成功によって祈願対象物としての墓の必要性が生じ、この供養碑が作られたと思われる。他方、供養墓の前にある小さな供養碑は正面に供養墓同様「教覚速善居士」と刻まれているが、別名「欠き石」とも呼ばれるものである。鼠小僧の墓石を欠き財布や袂に入れておけば、金回りが良くなるあるいは持病が治るとも言われ、成就した人々の奉納した欠き石は数年ごとに建て替えられ続け現在までに数百基にも及んでいるという。発生時期は不明であるが、明治18年(1885)に初演された河竹木阿弥の「四千両小判梅集」には台詞の中でこの信仰の事が触れられている「この供養碑は変貌著しい墨田区と歌舞伎とのかかわりを示す資料でもあり、ここにはまた庶民のささやかな幸福追求の対象物としての価値も含まれる」(墨田区史より/説明板)

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猫の恩返し(猫塚)
猫をたいへんかわいがっていた魚屋が、病気で商売できなくなり生活が困窮してしまいます。すると猫がどこからともなく2両のお金をくわえてき魚屋を助けます。ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で2両をくわえて逃げようとしたところを見つかり奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け魚屋とともにその遺体を回向院に葬りました。江戸時代のいくつかの本に紹介されている話ですが本によって人名や地名の設定が違っています。江戸っ子の間に広まった昔話ですが実在した猫の墓として貴重な文化財の一つに挙げられます。(墨田区)

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国技館(大鉄傘)跡
相撲はもともと神事であり礼儀作法が重んじられてきました。現代の大相撲は江戸時代の勧進相撲を始まりとします。回向院境内にある「回向院相撲記」には天保4年(1833)から国技館に開催場所が移されるまでの76年間、相撲興行本場所の地であった由来が記されています。国技館はこの回向院の境内に明治42年(1909)に建設されました。32本の柱をドーム状に集めた鉄骨の建物は大鉄傘とも呼ばれ13千人収容の当時最大規模の競技場でした。日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾が設計を監修しました。相撲興行は戦後もGHQに接収されていた国技館で行われました。しかし、メモリアルホールと改称された後は本場所の開催が許されず、明治神宮外苑や浜町公園の仮設国技館での実施を経て、台東区に新設された蔵前国技館における興行に至ります。一方、接収解除後のメモリアルホールは日本大学講堂となりますが、老朽化のため昭和58年(1983)に解体されました。そして昭和60年(1985)地元の誘致運動が実を結びJR両国駅北川の貨物操車場跡に新国技館が完成、「相撲の町両国」が復活しました。大鉄傘跡地は現在複合商業施設となっていますが中庭にはタイルの模様で土俵の位置が示されています。(墨田区教育委員会)

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江戸名所図会 回向院 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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吉良邸跡/本所松阪公園

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本所松坂町公園由来
この公園は「忠臣蔵」で広く知られる赤穂義士の討入があった吉良上野介義央の上屋敷跡です。その昔、吉良邸は松坂町12丁目(現両国23丁目)のうち約84002を占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならびいまではそのおもかげもありません。昭和9年(19343月地元町会の有志が遺跡を構成に伝えようと、旧邸跡の一角を購入し史跡公園として東京市に寄付したもので、昭和25年(19509月墨田区に移管されました。周囲の石壁は江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁長屋門を模した造りで、周囲には元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷社などの遺跡があり当時をしのばせております。また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されております。(墨田区)

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吉良邸跡
吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西73間、南北35間で面積は約2550坪(約84002)だったとされています。現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は当時の86分の1の大きさに過ぎません。吉良上野介が隠居したのは元禄14年(17013月の刃傷事件の数ヶ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ代わりにこの本所二ツ目に新邸を与えています。討入りは翌元禄151214日ですから1年半に満たない居住でした。園内には吉良上野介の首を洗った井戸を再現したり吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。(墨田区)

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吉良家臣二十士・みしるし洗い井戸   吉良上野介義央公座像

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松坂稲荷大明神由来
松坂稲荷は「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したものです。「兼春稲荷」は徳川氏入国後、現今の社地たる松坂町方面に御竹蔵を置かれし当時、其の水門内に鎮座せしもので元禄15年の赤穂浪士討入り後、吉良邸跡へ地所清めのために遷官され昭和10年に既存の「上野稲荷」と合祀され、当本所松坂町公園開園とともに当所に遷座されました。(墨田区文化観光協会)

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勝海舟生誕の地/両国公園

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勝海舟生誕の地
勝海舟は文政6年(1823)正月30日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。父惟寅(小吉)は男谷忠恕(幕府勘定組頭)の三男で、文化5年(18087歳のとき勝元良に養子入りし、文政2年(1819)に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えました。海舟が男谷邸で生まれたのはこのためだと考えられます。海舟は7歳までの幼少期をこの地で過ごしました。その後は旗本天野左京の自宅2階(現亀沢2丁目3番)や代官山口鉄五郎の貸家(現亀沢3丁目6番)を転々とし、ようやく落ち着いたのは天保初年(1830)、旗本岡野融政の貸地(現緑4丁目25番)に転居してからのことでした。海舟は赤坂に転居する弘化3年(1846)までそこで暮らし、島田寅之助(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島の弘福寺に通い参禅していたと伝えられています。

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海舟が海外事情に関心を寄せはじめた時期は分かりませんが、天保14年(184321歳の時には師匠島田のすすめで蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事し、嘉永3年(1850)には「氷解塾」を開いて西洋兵学を教授しはじめました。米国使節マシュー・ペリーが浦賀に来航したのはまさにその頃、嘉永6年(185363日のことでした。海舟は幕府首脳部に独自の海防論を呈し、安政2年(1855)正月には目付大久保忠寛の推挙をうけて異国応接掛手附蘭書翻訳御用となり、安政3年(1856)に講武所砲術師範役、安政6年(1859)に軍艦操練所教授方頭取に就くなど活躍の場を広げていきました。そして、安政7年(1860)正月には日米修好通称条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断に成功しました。

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また、帰国後も軍艦操練所頭取や軍艦奉行などを務めるなど政局の混迷の中でますます重要な役割を担うようになったのです。慶応4年(18683月に行われた西郷隆盛との会見は徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の代表的な事績となりました。海舟は新政府で高官に任ぜられますが明治8年(187511月に元老院議官を辞した後は著述活動や旧幕臣の名誉回復、経済支援に尽力しました。明治19年(18865月には酬恩義会を創設して将軍家霊廟の保存を図るなど、最期まで旧幕臣としての意識を持ち続けていました。明治32年(1899119日海舟は77歳で病没。洗足池畔の墓で静かに眠っています。(墨田区教育委員会)

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竪川(たてかわ)/一之橋
墨田区及び江東区を流れる人工河川。江戸城に向かって西)に流れることからこの名称となった。竪川は1659年(万治2年)に起工された運河で日本橋横山町と逆井の2つの地点にのろしを上げてそれを目印に開削された。すぐ北側を千葉街道が並行していた(五之橋北詰に記念碑が建てられている)こともあり、かつては小名木川とともに隅田川中川を結ぶ直線航路として利用され、物資の輸送はもとより成田山、香取、鹿島神宮への参詣路としても親しまれた。竪川の開削後すぐ隅田川(大川)に近いほうから順に一之橋から六之橋まで単純に番号を振った橋が架けられた。Wikipedia

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一之橋
幕府は低湿地であった本所開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削し、掘り出した土を陸地の補強・嵩上げに利用しました。排水路は隅田川に対し縦・横に開削されました。万治2年(1659)縦の代表格、堅川の開削と同時に架けられ隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名されたのがこの一之橋で、長さ十三間、幅二間半ほどありました。堅川の両岸には全国から水運でもたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが立ち並び、橋を行き交う人々も多く大いに賑わいました。一之橋は赤穂浪士泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています。(案内板)
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両国駅周辺マップ

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神田川流域マップ
(赤:神田川 緑:善福寺川 橙:妙正寺川 紫:日本橋川 青:隅田川)



・・・・・・・・・
資料ファイル

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東京都江戸東京博物館
墨田区横綱にある東京都立の博物館。JR両国駅から徒歩3分、国技館の隣に位置する。失われていく江戸、東京の歴史と文化に関わる資料を収集、保存、展示することを目的に「江戸と東京の歴史や文化を伝える博物館」として平成5年(1993)に開館した。1階に企画展示室、3階(屋外)に「江戸東京ひろば」、5階と6階に常設展示室があり、常設展示のほか年に45回の企画展示や催し物などが開催されている。

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吹き抜け構造の56階に設けられた常設展示室は江戸ゾーンと東京ゾーンに分かれる。江戸ゾーンには絵図、浮世絵などの資料や日本橋(縮尺1/1)や中村座(縮尺1/1)の模型、長屋の大型模型、可動模型、持上げ可能な千両箱などの展示物が設置されており庶民の日常生活、火消し、食生活、文化など城下町としての江戸に関する展示が行われている。東京ゾーンでは明治維新、文明開化、関東大震災、東京大空襲などの展示がある。図書室(7階)、映像ホール(1階)や映像ライブラリー(7階)などの学習施設なども設置されている。(Wikipedia

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江戸府内上水使用分布図/展示資料
江戸の上水道は主に北部が神田上水(緑)南部が玉川上水(紺)の水を利用していた
(青:神田川 緑:神田上水を着色)

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玉川上水模型
(赤:玉川上水 青:神田川・神田上水 橙:甲州街道を着色)

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上水井戸               小金井橋と玉川上水


江戸の変遷/展示資料

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左:『関東入府後の様子』(初代家康の頃1590~・天正18年 
右:『外郭工事の進展』(2代秀忠の頃(1606・07)

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左:『神田川の疎通工事』(2代秀忠の頃1620・天和6年)
右:『外郭工事の完成』(3代家光の頃(1635・36・寛永12・13年)

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左:『江東運河の成立』4代家綱の頃(1659~1661・万治2年~寛文元年)
右:『隅田川架橋の完成』(5代綱吉の頃1688~1704・元禄年間)

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武家地表示図
(赤:五街道 青:隅田川・神田川を着色)


街道/展示資料

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五街道と脇往還/展示パネル
(橙:五街道 紫:脇往還を着色)


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江戸の玄関(四宿)
(赤角:四宿 橙:五街道 青:神田川・日本橋川 緑:外濠を着色)

by Twalking | 2017-05-28 10:24 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(5)お茶の水~柳橋02-浅草橋   

日時 2017.5.20(土)
天気 晴れ

昔は筋違い御門から浅草橋にかけて
右岸は柳の土手、左岸は河岸だったそうです。
面影はありませんが、裏路地は面白はいですね。

岩本町は以前、龍馬ウオークで訪ねたところ、
浅草橋は日光街道で歩きました。
そんな懐かしさもあってついつい寄り道、
街道とはまた違った出会いもあってよかったです。


・・・岩本町(右岸)

千代田区の北東部に位置する。岩本町と神田岩本町を含めた町域の北側は神田川を挟んで千代田区神田佐久間町・神田佐久間河岸に接し、東は千代田区東神田、南は中央区日本橋小伝馬町・日本橋本町、西は千代田区神田須田町・神田松下町・神田東紺屋町・神田紺屋町・神田西福田町・神田美倉町にそれぞれ接している。岩本町と神田岩本町の間を昭和通りが通っている。(Wikipedia

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神田川の風景① 左岸は神田佐久間町、右岸は岩本町になります/和泉橋

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和泉橋/昭和通り
この橋を和泉橋といいます。『御符内備考』には藤堂和泉守屋敷前の通りに架かるゆえに呼名にしたとあります。橋を渡った右側が和泉守の屋敷跡で神田和泉町の町名が残っています。神田川の南岸沿いには柳を植えた土手が築かれていたのでこの辺りを柳原といい、橋の北側一帯を向柳原(むこうやなぎはら)といいましたが、明治初年頃に柳は枯れたり取り除かれ、また関東大震災後の区画整理で土手も平になりました。橋はたびたびの火災で焼けましたが明治25(1892)に鉄橋となり欄干の唐草模様の中に神田和泉の文字が崩し模様になっていました。大正5(1916)に鋼橋に架け替え、さらに昭和2(1927)帝都復興事業の一環で拡張されました。長さ35.8m、幅44m、鋼橋。(千代田区教育委員会)

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昭和通り
1京浜・銀座中央通り(国道15号)とが交差する港区新橋交差点から明治通りが交わる台東区大関横丁交差点に至る道路の東京都通称道路名である。昭和通りは関東大震災の復興事業として計画、建設された道路である。当時東京市長だった後藤新平の原案では道幅を108mとするものであったが、広い道路の重要性が当時は受け入れられず結果現在の道幅に狭められ1928年(昭和3年)に完成した。(Wikipedia

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柳原土手跡/和泉橋
「江戸名勝志」に『柳原土手西は筋違橋(元の万世橋・よろずよばし)より東は浅草橋迄の間、長さ10丁余(1.1km)つづけり。柳樹多くあり』とあり昔このあたりは土手で柳の並木がありました。「柳森神社記」によると長禄2(1458)太田道灌が江戸城の鬼門よけに柳を植えさせたとあります。また享保(171635)のはじめ将軍吉宗が昔の柳が枯れて柳原土手の名だけになっていたので植えさせたものだともいいます。昔は町屋が土手の南側下まで並んでいたので、土手上を人は通行していました。寛政6年(1794)幕府は土手沿いの人家を取り払い火除け地とし、この明地(あきち)にその後老中松平定信は凶災に備えてお救い米を貯蔵する籾蔵(もみぐら)を建てました。安政3年(1856)この籾倉は葛飾郡小菅村に移されたため翌年夏よりこの跡地にまた町家ができました。柳森稲荷(柳森神社)は土手下にあって元禄八年(1695)はじめて社が完成し繁盛したといいます。故に稲荷河岸とも呼ばれていました。関東大震災(1923)で社殿は焼失しましたが再建され境内に力石などが残っています。また土手は昔、葦簀張(よしずばり)の古着屋、古道具屋が店を並べていたそうです。明治6年(1873)土手は崩されました。(千代田区教育委員会)

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柳原土手(緑:柳原土手 青:神田川 橙:中山道・日光街道 赤丸:筋違見附・浅草見附)

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江戸名所図会 柳原堤 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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岩本町3丁目/和泉橋
江戸時代この界隈を流れる神田の土手は柳並木があったことから「柳原土手」と呼ばれていました。岩本町周辺は江戸城から見れば鬼門(北東方向)にあたります。柳森神社(現・神田須田町2丁目)の社伝によれば、太田道灌鬼門除け稲荷を祀り、を植えたのが始まりといわれています。そんな柳原土手に沿った地域に最初に住んだのは大名旗本などの武士たちでした。江戸時代の後半になると商人職人で町も栄えはじめます。さらに土手の周辺では古着を扱う露店が集まるようになりました。その伝統は明治維新後も引き継がれました。明治14年(1881)、現在の岩本町3丁目の一部から神田岩本町の一部にまたがる大市場が開設されます。「岩本町古着市場」と呼ばれたこの市場には、多いときには400軒もの古着屋が軒を連ねていたと伝わっています。さらに昭和に入ると町内には4階建てのビルまで登場し「和泉橋ダンスホール」が併設されました。このように洒落て小粋な雰囲気を醸していた戦前の岩本町ですが、太平洋戦争末期には空襲によって跡形もなく焼き尽くされてしまいました。それでも戦後この地は「服の町」としてよみがえります。紳士服や婦人服の製造を手がける繊維メーカーが集まってきて、この町でつくられた洋服が全国のデパートのショーウインドーを飾るようになりました。現在、数こそ減ってきましたが岩本町3丁目をささえ町の礎を築いてきたのはこうした繊維業者です。日本の繊維産業とともに発展してきた町それが岩本町3丁目なのです。(千代田区町名由来板)

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お玉ヶ池種痘所
お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さであったのが、安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけです。一時は池のほとりに梁川星巌の玉池吟社、市川寛斎の江湖詩社、大窪詩仏の詩聖堂、東條一堂の瑶池塾、佐久間象山の象山書院、剣士千葉周作の道場玄武館、磯又右衛門の柔道道場、永坂宅、清元太左衛門宅など文武の華が咲きほこりました。この標柱の場所は勘定奉行川路聖謨の屋敷内に設けられたお玉ヶ池種痘所があったところで、東京大学医学部発祥の地です。同学部は昭和33年に迎えた創立百年の記念に昭和36年文化の日お玉ヶ池種痘所記念碑と同時にこゝに元標を立てられました。(お玉ヶ池史蹟保存会)

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繁栄お玉稲荷神社/岩本町
桜ヶ池」と呼ばれた巨大な池に身投げしたお玉の霊を祀る社として「江戸砂子」「江戸惣鹿子名所大全」や「江戸名所図会」などに取り上げられている神社。隣接する小祠は弁天財を祀っている。『新撰東京名所図会』には古くからお玉ヶ池稲荷神社に龍神社と市杵島比売之命が合殿されていると記し、龍神の伝承も記されている。(千代田区観光協会)

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千葉周作玄武館跡・東條一堂の瑶池塾跡/東松下町
『千葉周作はここに玄武館を開いて北辰一刀流の剣術を指南し、その西隣に文政4年(1821)東條一堂は瑶池塾を開いて諸生に儒学と詩文を教授した(千代田区)』の案内板があったんですが、マンションになっていて見当たりませんでした。

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江戸名所図会於玉ヶ池の故事 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用


・・・佐久間河岸(左岸)

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神田川の風景② 蔵地だったようです、橋詰に蔵をあしらったWCがあります/美倉橋

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美倉橋
神田川に架かり左衛門橋から約250m上流にあります。東神田13丁目と神田佐久間町4丁目の間を結び、清洲橋通り上にあります。江戸図を見ると正保年間(16441650)に記載はなく、承応年間(16531655)に「くわんはし」とあり、寛文年間(1670)以降には「あたらしばし」として出ています。神田美倉町はもと佐柄木町・本銀町・紺屋町の蔵地からなり三倉地と呼ばれ、橋の営繕は町の費用で行われていました。明治2年(1869)に三を美に改め町名・橋名にしました。現在の橋は昭和4年(19292月の架設、長さ35.35m、幅23.31mの鋼橋です。別名として、「くわんしんはし」・「あたらしばし」があります。(千代田区観光協会)

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神田佐久間町
佐久間町の町名は佐久間平八という材木商が住んでいたことに由来すると伝わっています。実際この地域は江戸でも早い時期から商人や職人が集まる町でした。一方でこの地域は火事が多かったことも古文書に記されています。享保3年(1718年)には火災で焼け落ちた町の一部が防火のための火除地に定められ、そこに住んでいた人々は元誓願寺前(現在の神田東松下町周辺)に移動するように命じられます。しかし、町の人々にとって河岸(船荷を上げ下ろしする場所)に隣接したこの地から離れるのは好ましいことではなかったようです。そこで奉行所に願い出てたき火をしないことや建物の間を空けるといった条件つきで火除地の一部の使用許可を得ました。その結果、この界隈は商人や職人たちの町として発展を続け明治維新を迎えています。明治2年(1869)神田佐久間町4丁目元地、神田佐久間町4丁目裏町、そして神田富松町元地が合併し神田佐久間町4丁目となり、明治5年(1872年)には隣接していた武家地を編入しました。明治44年(1911)の町名変更でいったん佐久間町4丁目となりますが昭和22年(1947年)、神田区と麹町区が合併して千代田区となるとふたたび神田佐久間町4丁目となりました。(旧町名案内板)


・・・東神田

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神田川の風景③ 左岸は台東区、なんとなく川の雰囲気が変わってきました/左衛門橋

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左衛門橋
神田川に架かり東神田2丁目と同3丁目の間を結んでいます。もと橋の北側に酒井左衛門尉の屋敷があったことからこの橋名がつきました。明治4年(1871)の「東京大絵図」には記載がなく、明治33年(1900)発行の『新撰東京名所図会』には「長十四間幅三間なり。明治8年(1875)換架(経費1881円)したりしが、爾来25星霜を経、朽損せしを以て目下新設工事中にて……」とあります。現在の橋は昭和5年(19305月の架設、長さ35.5m、幅15.6mの鋼橋です。(千代田区観光協会)

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東神田3丁目
南に神田川をのぞむ東神田3丁目はかつて神田八名川町(やながわちょう)、神田元久右衛門町、神田餌鳥町(えとりまち)、神田向柳原町一丁目に分かれていました。このうち八名川町という名は江戸時代初期の元和2年(1616年)駿府在城時の徳川家康に奉仕した三河国八名川村出身の旗本22名がこの地に屋敷を与えられたことから付けられました。隣の神田元久右衛門町は同じく元和2年久右衛門という人物が町屋を草創したことに由来するとされています。このあたりは河岸地で材木商、薪炭(しんたん)商が多く住んでいました。一時、火事で深川に移転し、荷揚げに便利なこの地に願い出て戻り焼け跡を蔵地として復興しました。神田餌鳥町は鷹狩の鷹の餌となる小鳥などを飼う仕事を請け負っていた役人の屋敷が、神田餌鳥屋敷と呼ばれていたことからこの名が付きました。また、神田向柳原町は神田川南岸の柳原から見て川向こうであることにちなむ名前です。江戸時代からのこれらの町の名は明治5年(1872年)に正式な町名となりました。向柳原町は浅草区へ編入したのちに一部神田区へ戻り、神田向柳原町一丁目となります。昭和42年(1967)住居表示の実施により町名が大きく変わることになりました。このとき案として出された「秋葉原」や「秋葉」の名前に満足できなかった町の人たちは要望書を提出して「神田」の二文字を残すことにしました。こうして江戸時代から続いていた町名は東神田3丁目という名前に生まれ変わったのです。(町名案内板)


・・・
日本橋馬喰町/中央区(右岸)

日本橋地域の最北端に位置し千代田区(東神田)、台東区(浅草橋)との区境にあたる。日本橋横山町と共に東京都内屈指の問屋街である。(Wikipedia

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街道の風景① 懐かしいですね、日光・奥州街道の見附になります/浅草橋南交差点

江戸通り(6号)

千代田区大手町2丁目から台東区花川戸2丁目に至る道路の通称である。浅草橋交差点より先は隅田川とほぼ平行している。(Wikipedia


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郡代屋敷跡/浅草橋南詰
江戸時代に、主として関東の幕府直轄領年貢の徴収治水領民紛争の処理などを管理した関東郡代役宅があった場所です。関東郡代は天正18年(1590)徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永19年(1642)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(1688-1704)には関東郡代という名称が正式に成立し代々伊奈氏世襲しました。その役宅は初め江戸城の常盤橋門内にありましたが明暦の大火(1657)による焼失後、この地に移り馬喰町郡代屋敷と称されました。寛政4年(1792)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は勘定奉行が関東郡代を兼ねることとなりこの地に居住しました。文化3年(1806)に関東郡代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した後には代官の拝領地となって馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。(中央区教育委員会神田川の風景④ いい風景ですね、柳橋の先に隅田川が覗いてます/浅草橋(江戸通り)

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初音森神社由緒/中央区東日本橋
当神社は元弘年間(1330年頃)に創祀され豊受比売命(宇迦之魂神)を祀る。文明年中太田道灌公により大社殿が建てられた。当時初音之里と呼ばれ奥州街道添い樟木等の生い茂った森、すなわち後の初音の森が現在の馬喰町靖国通り交差点の辺りであった。尚この処を初音の里と称え日本橋四之部、馬喰町、横山町はその中心に位置し、社殿建立によって付近の産土神として信仰をあつめた。天文20年(1551)社前に馬場が出来、初午祭には馬追いの催し等が行われ、天正日記に初音の馬場を当時の博労(馬喰)高木源兵衛預りの記録がある。徳川幕府の入府後、この所が見附番所(浅草見附門)建設にあたり境内地の半分程が削られ、更に明暦3年の大火後、その別当地(神社をお守りする寺:西光寺)も関東郡代屋敷地となり、現在本社(初音森神社)のある墨田区千歳替え地を拝領し遷宮、今日に及ぶ。昭和23年旧蹟の一部であるこの所(現地)に神社を建立し、昭和4812月新殿及び儀式殿を近代建築とした。(説明板)

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名井三日月の井戸由緒
慶長5年(1600)関が原の戦起るや徳川家康は下野国の小山にいたが急遽引返し、初音の馬場に勢揃し木村常陸之介を代参として初音森神社に戦勝祈願。神井の水にて一息、乗馬にもその水を呑ませて出発、大勝してかえった。後その縁故を以て神井に三日月(みかづき)と命名したと伝えられている。明暦3年(1657)の大火後、神社寺院の境内が幕府の用地に指定され移転する事となり、初音森神社も当時下総国葛飾郡たる現在本社のある墨田区遷宮した。旧跡は一部郡代屋敷、他は町家となり三日月の井戸も町家の庭内となった。江戸時代飲料水は順次水道になったが勿論充分ではなく、用水として井戸を掘っても飲料には不適であるため良水の井戸は有名となり古老の話には三日月の井戸の水は水売り商人が諸々に運んで売ったものだと云う。此の井戸のあった家に、浮世絵師喜多川歌麿紫廼家と名乗り住んでいたが、ある問題で歌麿が罰せられ遂に病死した。その後住んだ染物屋が有名な歌麿の屋号をつけてむらさきやとした。むらさきやは三日月の井戸を使用するにあたり、側に神祠を建て初水を供えて使用したと云う。明治にいたり水道の発達により20年頃井戸は埋められたが井桁に組まれた石の井戸枠は昭和3年の区割整理迄保存されむらさきやが移転に際し先祖よりの伝承を説明し、神祠の神鏡を当社に納めた。その神鏡は今も初音森神社に祀られている。(説明板)

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神田川の風景④ 柳橋の先に隅田川がのぞいています/浅草橋(江戸通り)

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浅草橋
神田川にかかる橋で国道6号(江戸通り)を通す国管理の橋である。その名の通り旧江戸郭内の日本橋と浅草を結ぶ橋であり、かつては浅草寺門前橋浅草橋御門)であった。五街道日光・奥州街道として非常に往来の多い橋梁であった。現在も浅草橋を通る道路は国道6号に指定されており、古今を通じて交通の要所を担っている。Wikipedia

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浅草見附跡碑
浅草見附は江戸36門の中外郭門に配する12見附の一つであり、奥羽への街道口として寛永13年に設営された。慶長年間すでに浅草橋の名があり、見附が廃されたのは明治以前のことである。これに因んで昭和961日現在の浅草橋123丁目の町名が生れた。昭和31101日開都500年大東京祭記念浅草南部有志観光協会之を建てる(碑文)

江戸城三十六見附

江戸城門に置かれた見附(見張り番所)のうちの目ぼしい36か所を挙げたもの。見附とは本来、街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所に由来する言葉で、城門を警護する番兵が通行人を見張る場所のことを言い、とくに枡形をもつ城門の監視場所を指した。俗に江戸城には36見付があったといわれ(江戸城36見附)現在も四谷見附・赤坂見附など地名として残っている。実際には江戸の城門の見張り場所自体はもっと多数あったようだが(6690など諸説あり)枡形門を持つ見附は幕府作事方の資料によると外曲輪に26門あり、内曲輪にいくつあったかは明らかになっていない。語呂の関係から枡形の26門に目ぼしい10門を足して「三十六見附」とし江戸の名所として喧伝されたようである。Wikipedia


・・・浅草橋


台東区の地名で旧浅草区にあたる浅草地域内である。浅草橋1丁目から5丁目まで設けられている。人形やビーズアクセサリー、雑貨、店舗用品等を取り扱う会社・店舗が多く建ち並んでいる。(Wikipedia

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街道の風景② 浅草寺へ向かう江戸通り、賑やかですね/浅草橋駅前

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旧浅草橋
浅草橋という町は昭和9年(1934)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。江戸幕府は主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永13年(1636)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。(旧町名由来案内板/台東区)

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銀杏岡八幡神社鳥居/浅草橋


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銀杏岡八幡神社
後冷泉天皇の御代
源頼義公、八幡太郎義家公は、朝廷の命に依り奥州の安倍貞任、宗任を平定する為に奥州街道を下向の砌当地に至りました。当時このところは小高い丘で隅田川の流れを一望出来る絶景の地であった。一休止のため陣をとりました時、川上より流れくるものを拾い上げてみますと銀杏の枝でありました。その枝をこの丘の上に差し立て都の氏神を遥かに拝み「朝敵退治のあかつきには枝葉栄ふべし」と祈願し旅立ち安倍一族を平定の後、再びこの地に帰り至りました時丘の上に差した銀杏の枝は大きく繁茂しておりましたので、義家公は御神恩に感謝し、この処に大刀一振を捧げ八幡宮を勧請いたしましたのが、康平5年(1062)当社の始と伝へられています。そしてこの銀杏は大樹となりまして、隅田川を上り下りする舟や街道を行き交う人々のよい目標となりましたが、時代は下り徳川家江戸入府後、元和4年(1618)この地は福井藩松平家の屋敷となり、邸内社として尊崇されてまいりましたが、享保10年(1725)この地が公収され屋敷の跡地は町屋となり同15年、時の町奉行大岡越前守様に依り福井町と命名され願いにより当社は地域の産土神として崇敬されてまいりました。大銀杏は延享2年(1745)9月14日台風のため中程より折れましたが、高さ6m位を残して繁茂しておりましたが、文化3年(1806)江戸大火の折焼失しました。御祭礼は、江戸時代8月15日に執り行われていましたが、明治の中頃より6月15日にかわり、現在は原則として6月第1土曜、日曜に執り行っています。(説明板)

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須賀神社鳥居/浅草橋

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須賀神社
巻子本仕立のものと天正塚碑文というものとあるが内容はだいたい同じである。すなわち推古天皇九辛酉年(601)このあたり(武蔵国豊島郡)に疫病が流行した折、郷人等が牛頭天王に病難平癒を願ったところ、ことごとく快気を得たのでこの所にをたてたのが創始とされる。68日と伝えられる。『求涼雑記』『江戸名所図会』等にも村上天皇の天暦年中(94757)神祠があったことを記している。江戸時代将軍家光の時、松平伊豆守信網公銭を与え賜わり、時の奉行神尾備前守元勝、朝倉石見守在重に命じて造替せしめ寛永16年(1639)りっぱに竣工せりと記している。当社所在地である蔵前は江戸時代「札差」が軒を並べていたところで、当社の氏子にもその札差が多かった。札差とは旗本や御家人の代理として禄米を受けることを業とした、いわば米商人で吉宗将軍のころには109名もが公認されていたといわれている。彼らは武士への金貸しなども行なって富を得、次第に江戸の経済を動かすほどの勢力を持つようになった。それが大の祭り好きで6月の祭礼もその財力を背景にして大いに賑わった。その有様は『江戸名所図会』には4頁にわたって描かれている。また文政の頃(181830)両国吉川町大黒屋平吉の板による新版御祭双六にも出ている。明治以降、天台宗東叡山寛永寺末真鏡山宝現院大円寺から分離して須賀神社と改称した。大正12年関東大震災・昭和20年の戦災被害をうけたが、昭和36年社殿・社務所等建物はことごとく完成した。(東京都神社名鑑)

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浅草橋周辺マップ
(青:神田川・隅田川 橙:日光・奥州街道 茶:江戸通り・靖国通り)


by Twalking | 2017-05-25 20:47 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(5)お茶の水~柳橋01-神田   

日時 2017.5.20(土)
天気 晴れ

暑くなりそうですね~、
いよいよゴールの柳橋を目指します。
駿河台、神田、浅草橋等見所は一杯あります。

距離はありませんが下町はよく知りませんので
ひとまずさわりだけでもと、思っています。
暑いのであまり無理せず歩きます。


・・・御茶ノ水


文京区湯島から千代田区神田に至る千代田区神田駿河台を中心とした一帯の地名(通称)。台地上にあり、中央部を東西に走る掘割に神田川(両区の境界にあたる)が流れ、またJR東日本御茶ノ水駅がある。江戸時代は付近一帯が大名屋敷地であった。現在では地区内と周辺に明治大学、東京医科歯科大学、順天堂大学などの大学や専門学校、予備校が集る日本国内最大の学生街として知られ、また、江戸の総鎮守・神田明神湯島聖堂ニコライ堂等を始めとする宗教施設、有名病院等が多数存在。
古くは北側の本郷台(湯島台)と南側の駿河台が一続きで「神田山」と呼ばれていたが、2代将軍秀忠の時代に水害防止用の神田川放水路と江戸城の外堀を兼ねて東西方向に掘割が作られ、現在のような渓谷風の地形が形成された。同じ頃、その北側にあった高林寺から泉が出て、この水を将軍のお茶用の水として献上したことからこの地が御茶ノ水と呼ばれるようになったといわれる。Wikipedia

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神田川の風景① 神田山を崩して壕割った渓谷です、右が淡路坂、左が相生坂になります/聖橋

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聖橋/本郷通り
神田川に架けられた橋の1つ。千代田区駿河台と文京区湯島にまたがり本郷通り(都道403号)を結んでいる。御茶ノ水駅の東端にある。放物線を描くアーチ橋で形式は鉄筋コンクリートアーチ橋。関東大震災後の震災復興橋梁の1つで昭和21927)に完成した。設計・デザインは山田守、成瀬勝武。名前は東京市(現:東京都)が公募し、両岸に位置する2つの聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことから「聖橋」と命名された。橋は船から見上げた時に最も美しく見えるようにデザインされており御茶ノ水駅のホームからはややそれに近い視点で見ることができる。長さ92.0m、幅22.0m(Wikipedia

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近代教育発祥の地/湯島
江戸時代このあたりは学問(儒学)の府であった聖堂(孔子廟)の一部、昌平坂学問所(昌平黌:しょうへいこう)があったところである。寛政9(1797)学問所の学寮、宿舎が建てられ、旗本や藩士の子弟を対象とした教育が施された。明治維新後、学問所は新政府に引き継がれ昌平学校、大学校、東京大学と発展していった。明治4(1871)に文部省が設置され我が国の近代教育の原点となる施策が展開されることになった。当地には明治5(1872)師範学校(翌年東京師範学校と改称)が開校し、その後隣接地に東京女子師範学校が置かれた。東京高等師範学校は明治36年に大塚窪町に移転し後に東京教育大学(現筑波大学)となり、東京高等女子師範学校は昭和7年に大塚に移転し後に新制大学として発足の折、この場所の地名を冠しお茶ノ水女子大学と称し現在に至っている。(文京区教育委員会)

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駿河台交差点から坂上方向の景観です/本郷通り

本郷通り

千代田区神田錦町および内神田の神田橋交差点から北区滝野川の飛鳥山交差点に至る道路の通称である。文京区本郷を通ることからこの名が付けられた。国道17号線内は中山道、都道455号線内は日光御成街道(岩槻街道)の道筋である。(Wikipedia

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太田姫神社(旧地)/淡路坂上
太田姫神社は江戸城外濠(神田川)を作るにあたり 伊達家と徳川家が神田山を開削した時 江戸城の結界また鬼門の護り神として江戸城内よりこの地に移された 昭和6年(1931)総武線開通に伴い 現在の駿河台下に移る。なお、鉄道(「甲武線」中央線の前身)は堀の中にあり、開通時天皇家との間に「堀幅を減じない」「中で商業を営まない環境を守る」との約束がある(明治期鉄道史より)

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軍艦山/ソラシティ
大正12年(1923)の関東大震災では神田駿河台周辺においても火災により多くの建物が焼失しました。震災後の復興区画整理事業により本郷通りと聖橋が整理され、本郷通りと霊南坂の交差部分には石垣による鋭角の角地ができました。石垣をよく見ると幽霊坂側と本郷通り側では石種や石組が異なるのが分かります。この辺りは「軍艦山」と呼ばれ、特に昭和10年代には子供たちの遊び場となっていました。軍艦山先端の石垣とクスノキは往時のまま残され、岩崎彌之助邸擁壁の煉瓦を再利用したこの歴史案内板や広場のベンチと共に神田駿河台の歴史ある風景を継承しています。(案内板)岩崎彌之助邸跡/ソラシティ

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蜀山人終焉の地/ソラシティ
太田蜀山人は、名は覃(ふかし)、通称直次郎・七左衛門、南畝・四方山人などの号を称しました。寛延2(1749)に江戸の牛込に生まれ、勘定所の役人として支配勘定まで登用され、大坂銅座、長崎奉行所への赴任などの役目を歴任しました。また幼少期から学問を好み、文筆に優れた才能を発揮しました。明和4(1767)に狂詩集「寝惚先生文集」が評判となり、寛政初年までは「万載狂歌集」、洒落本「甲駅新話」を発表し、のちに随筆「半日閑話」、「一話一言」を執筆しました。文化9(1812)に当地に移り住み、文政6(1823)に没するまで過ごしています。(説明板)

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岩崎彌之助は嘉永4(1851)に土佐国で生まれ、明治7(1874)後藤象二郎の長女早苗との結婚を機に、当地の洋館に住みました。明治18(1885)に三菱2代社長に就任し、三菱社を設立して本社を当地に置きました。彌之助は、鉱業、造船を中心に、銀行、保険、倉庫業にも力を注ぎ、経営の多角化を行いました。また丸の内や三崎町の官有地を買い取り、それぞれにオフィス街や繁華街を計画しました。彌之助は文化・芸術を好み、収集した図書を母体として静嘉堂文庫を当地に設立し、東洋固有の文化財の収集を行いました。(説明板)

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幽霊坂
この坂を幽霊坂といいます。もとは紅梅坂と続いていましたが、大正13年(1924)の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれた坂になりました。「東京名所図会」には「紅梅坂は」「往時樹木陰鬱にして、昼尚凄寂たりしを以って俗に幽霊坂と唱えたりしを、今は改めて紅梅坂と称す」とかかれています。また古くは光感寺坂とも埃坂などとも呼ばれていたこともあるようですが一般には幽霊坂の名でとおっています(千代田区)

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ニコライ堂/神田駿河台
このすばらしい聖堂は高さ約34.5m、鐘楼の高さは約37.7m、建坪は約105002あります。ニコライ堂とはこの堂を建てたニコライ大主教の名前をとった呼称で、正しくは日本ハリストス正教会教団東京復活大聖堂といいます。建築の様式はビザンチン式が基本で、壁が厚く窓が小さく中央にドームがあり外からみると壮大で堅牢です。細かい部分にイギリスのロマネスク風やルネッサンス式が巧みに取り入れられているのは、イギリス人のジョサイア・コンドルが工事監督にあたったからでしょうか。そもそもこの大聖堂が建てられた駿河台の場所は、江戸時代は定火消屋敷跡で火の見櫓が高くそびえており、ニコライがはじめて明治5(1872)に東京に来たい際、この地に大聖堂と心に決めた所でロシア国公使館の付属地でもありました。最初の大聖堂はロシア人・シュチュールボフの基本設計、コンドルの監督設計、長野泰輔の工事責任で、明治17(1884)に工事が始まり約7年かかって明治24年(1891)に完成しました。(千代田区観光協会)

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太田姫稲荷神社鳥居/駿河台道灌通り

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太田姫稲荷神社
千代田区にある神社である。旧社格は村社。社伝によると室町時代中期に太田道灌の娘が天然痘(疱瘡)に罹って生死の境をさまよい、京都の一口稲荷神社(いもあらいいなり)が小野篁にまつわる縁起により天然痘に霊験があると聞いた道灌が一口稲荷神社に娘の回復を祈願したところ、天然痘が治癒したという。道灌はこのことに感謝し、長禄元年(1457)に一口稲荷神社を勧請して旧江戸城内に稲荷神社を築いたとされる。後に城内鬼門に祀られた。徳川家康江戸入府後、慶長11年(1606)に江戸城の改築により、城外鬼門にあたる神田川のほとり(南側・右岸)(現在の千代田区神田駿河台4丁目、後に架けられた聖橋南詰の東側)に遷座した。明治5年(1872)村社に定められ名も太田姫稲荷神社と改めた。大正12年(1923)の関東大震災では社殿が焼失、湯島天神に避難したが昭和3年(1928)に再建された。昭和6年(1931)に御茶ノ水駅の総武線拡張により現在地遷座した。淡路坂上の旧社所在地で御茶ノ水駅臨時改札口脇に残された椋の木には元宮を示す木札と神札が貼られている。Wikipedia


・・・神田

1947
年に神田区が麹町区と合併し千代田区が発足する際、神田区内の町名にはすべて「神田」を冠称する町名変更がなされた.元は現在の大手町の平将門首塚付近から神田山(駿河台)にかけての一帯を指したが、江戸城・城下下町整備後には常盤橋から浅草橋にかけての奥州往還沿いに成立した本町通り北側地域を指すようになった。江戸時代後期には幕府が武芸修練所として現在の小川町に設置した講武所や、北辰一刀流の玄武館などの剣術道場があった。伝馬町牢屋敷も置かれ安政の大獄では多くの人物が処刑された。Wikipedia

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今回は淡路坂(右岸)を昌平橋へ下ってみました/駿河台

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淡路坂
この坂を淡路坂といいます。この坂には相生坂、大坂、一口坂(いもあらいざか)などの別名もあります。坂上に太田姫稲荷、道をはさんで鈴木淡路守の屋敷がありこれが町名・坂名の由来といわれます。一口坂太田姫稲荷が一口稲荷(いもあらいいなり)と称したためです(標柱)

神田淡路町(右岸)

代田区の北部に位置し神田地域に属する。主に商業地として利用される。江戸時代は武家地だった。1872年(明治5年)神田淡路町12丁目が起立する。1911年(明治44年)に神田の冠称を外したが1947年(昭和22年)に神田区が千代田区に合併すると同時に冠称を復した。地名は淡路坂に由来する。淡路坂は江戸前期に坂上西側に鈴木淡路守の屋敷が存在したことに由来し一口坂(いもあらいざか)相生坂とも呼ばれた。一口坂は坂上東側にあった太田姫稲荷神社旧称に由来する。相生坂とは本来神田川を挟んで並行する坂との総称だが、現在ではそちらの坂のみを相生坂と称する。(Wikipedia

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街道の風景① 昌平橋を挟み昌平橋架道橋(手前)松住町架道橋と歴代の鉄道橋が架かります/淡路坂下(外濠通り)

昌平橋架道橋
千代田区神田須田町1丁目・神田淡路町2丁目にある鉄道経(架道橋)、JR東日本中央本線を通している。中央本線が昌平橋駅から万世橋駅まで延長された際、昌平橋駅-万世橋駅間(紅梅河岸高架橋-万世橋高架橋間)の一等道路第二類の道路(現在の外濠通り)に架けられた橋梁である。橋長:44.2m 線数:複線(3線)竣工:1908年(明治41年)(Wikipedia

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神田川の風景② 上流側にはお馴染みの総武線神田川橋梁が架かります/昌平橋


神田川橋梁

千代田区外神田1丁目・神田淡路町2丁目にある鉄道橋、JR総武線が御茶ノ水駅まで延長された際、御茶ノ水駅-秋葉原駅間の神田川に架けられた橋梁である。橋脚は八の字形のラーメン形式であるのが特徴である。本橋梁の御茶ノ水方はコンクリート製橋台が中央線上り線を跨ぐ形となっている。秋葉原方はコンクリート製橋台を挟んで松住架道橋へと繋がる。橋長:56.0m 線数:単線×2 竣工:1932年(昭和7年)(Wikipedia


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神田川の風景③ 下流側は万世橋&秋葉原、右岸は旧万世橋駅跡(現マーチエキュート神田万世橋)になります/昌平橋


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昌平橋
外濠通り上にあり上流側・下流側に歩行者用の橋が併設されている。橋の北は千代田区外神田1丁目・同2丁目、南は千代田区神田淡路町2丁目・神田須田町1丁目で、北側の総武本線松住町架道橋・南側の中央本線昌平橋架道橋(昌平橋ガード)に挟まれた場所にある。この地に最初に橋が架設されたのは寛永年間1624 -1645)と伝えられており、橋の南西にある淡路坂の坂上に一口稲荷社(いもあらいいなりしゃ、現在の太田姫稲荷神社)があったことから「一口橋」や「芋洗橋」(いずれも「いもあらいばし」と読む)と称した。また『新板江戸大絵図』(寛文五枚図)には「あたらし橋(新し橋)」、元禄初期の江戸図には「相生橋」とも記されている。1691年(元禄4年)に徳川綱吉が孔子廟である湯島聖堂を建設した際、孔子生誕地である魯国の昌平郷にちなんで同年22日(169131日)に「昌平橋」と命名された。Wikipedia

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神田川の風景④ この一帯がハつ小路、筋違い見付があった所です/神田須田町

神田須田町(右岸)

千代田区の北東部にある地区。かつては中央線の前身甲武鉄道の始発駅万世橋駅や青物市場があったところで、明治・大正期は一都心部を形成して繁栄。その後、1936年に万世橋駅は廃止となり、駅舎跡には交通博物館が建てられた。青物市場も関東大震災後は外神田、さらに大田区に移転。江戸時代の柳原土手の古着市の伝統を受継ぎ服地、洋服付属品の問屋が多く卸売えい商業が盛んである。(コトバンク)

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御成道/マーチエキュート神田万世橋
「御府内備考」に「御成道、筋違外(すじかいそと)広小路の東より上野広小路に至るの道をいう」とあります。筋違は筋違御門のあった所で、現在の昌平橋の下流50mの所あたりに見付橋が架かっていました。御成道の名は将軍が上野の寛永寺に参墓のため、江戸城から神田橋(神田御門)を渡りこの道を通って行ったからです。見附内の広場は八つ小路といって江戸で最も賑やかな場所で明治時代まで続きました。八つ小路といわれたのは筋違、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、小柳町(須田町)、柳原の各口に通じていたからだといわれます。また、御成道の道筋には武家屋敷が多くありました。江戸時代筋違の橋の北詰めに高砂屋という料理屋があり庭の松が評判であったといいます。明治時代には御成道の京屋の大時計は人の眼をひいたようです。また代々餅で売出した有名な店もありました。(千代田区)
(青:神田川 紫:御成道 橙:中山道 緑:八つ小路 赤:筋違い御門・筋違い橋・昌平橋)

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江戸名所図会 筋違ハツ小路 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
左が筋違い御門・筋違い橋、右手が昌平橋になります。万世橋が架けられたのは後の時代です。

中山道(湯島聖堂・神田明神)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/21114882/

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旧万世橋駅(右)
かつて中央線の神田~御茶ノ水間に明治451912)年に開業した「万世橋駅」がありました。昭和18年に休止になりましたが、赤レンガの万世橋高架橋の中にホームや階段など駅の施設が一部残っていました。「旧万世橋駅」はこれら駅の遺構を再生し歴史的価値ある遺構を随所にご覧いただける施設です。開業当時の姿をほぼ留めた「1912階段」や交通博物館開館時に設けられた「1935階段」をはじめとする遺構を公開するほか、旧万世橋駅時代のプラットホームにデッキを設けた“2013プラットホームにはフリースペースやカフェがあります。このほかにも万世橋駅の足跡を今に伝える展示も実施しています。(東日本鉄道文化財団)


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万世橋と神田祭
外神田にある神田明神平将門を祀った江戸の総鎮守として、古代以来柴崎村(神田橋内)に鎮座していたが、江戸城築城にあたり慶長8年(1603)に神田駿河台、元和2年(1616)に現在地に移った。江戸時代の神田祭は山王権現の山王祭とともに「天下祭」と呼ばれ、将軍が上覧、神幸行列が江戸城内に入ることを許された祭礼である。山王祭と神田祭は隔年で執行され、各所が自前の山車と神輿を仕立てた行列が町を練り歩くので、祭礼番付とよばれたパンフレットが毎年作られるなど各所化されていった。神田祭は915日に庶民の祭礼として執り行われ雉子町の名主である斉藤月琴(げっしん)が著した「江戸名所図会」や「東都歳時記」によれば贅を尽くした練り物が町中に練り歩き、人々は桟敷を造って見物したとある。明治時代の「新撰東京名所図会」によれば明治17年神田祭は40余りの山車が八辻(筋違八小路)に集合し、万世橋を渡り聖堂前より師範学校前を経て神田神社に向ったとある。電線の設置など都市の近代化によって明治期以降、山車行列が難しくなり巡行が少なくなっていく。(説明板)

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神田川の風景⑤ 上流側の昌平橋方向の景観です/万世橋

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万世橋
中央通り(国道17号)上にある。万世橋の歴史は1676年(延宝4年)に架けられた筋違橋に遡る。当橋は徳川将軍が寛永寺に詣でる時に渡る橋で、現在の昌平橋と万世橋との中間にあった。すぐ南に筋違見附があり、橋はその見附の付属物であった。1872年(明治5年)に筋違見附が取り壊され、翌1873年(明治6年)にその石材を再利用して、筋違橋の場所にアーチ2連の石造りの橋が完成した。当時の東京府知事大久保忠寛が萬世橋(よろずよばし)と命名したが、次第にまんせいばしという音読みが一般化した。眼鏡橋とも呼ばれた。上流の昌平橋1873年に洪水に流され1896年(明治29年)に復旧されるまでは、現在の万世橋の位置に仮木橋が架けられ、それが昌平橋と呼ばれた。この期間は万世橋の下流に昌平橋があったことになる。1903年(明治36年)一時昌平橋と呼ばれた仮木橋の場所(現在の位置)に新万世橋が架け直され、元万世橋と名を変えた上流の眼鏡橋は1906年(明治39年)に撤去された。新万世橋は1923年(大正12年)の関東大震災で被災したが、直ちに修復された。(Wikipedia

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震災復興と万世橋
明治5年(1872)に筋違見附が取り壊され、翌年その石材を再利用して筋違橋の場所にアーチ2連の石造りの橋が完成した。この橋は当時の東京府知事・大久保忠寛が萬世橋(よろずはし)と命名したが、次第に「まんせいばし」という音読みの方が一般化した。さらに明治29年(1896)に万世橋東側木橋を架けて馬場鉄道が開通する。明治361903)に現在の位置に新しい万世橋が架け直され、元万世橋と名前を変えた上流の眼鏡橋の方は後に撤去された。この元万世橋には路面電車が走るなど東京の名所となったが、大正12年(1923)の関東大震災で被災し、昭和5年(1930)に長さ26m、幅36m、石及びコンクリート混成のアイーチ橋に架け替えられた。現在神田川に架けられている橋の多くは震災復興橋梁と呼ばれる大正末年から昭和初期に架け替えられたもので、各橋は地域性を踏まえたデザインで造られたという。トラスドアーチ橋の聖橋、鋼ラーメンゲルバー桁橋のお茶の水橋、ヒンジアーチ橋の和泉橋と美倉橋など神田川にある震災復興橋梁は様々な構造で造られ、親柱や欄干にデザインに特徴を見出すことができる。(説明板)

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神田旅籠町/万世橋
この周辺はかつて神田旅籠町と呼ばれていました。昌平橋北側に当たるこの地は中山道の第一宿場である板橋宿日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として旅籠が数多く立ち並んでいたため「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。江戸幕府は五街道のなかでも遠く京都に通じる東海道と中山道の整備に特に力を入れていました。

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また、日光御成街道は将軍日光参拝の際必ず通った街道で現在の国道122号にほぼ相当します。こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。しかし、天和2(1682)に江戸で大火事が起こります。浄瑠璃や歌舞伎でも有名な「八百屋お七」の大樋です。もともとあった旅籠町はこの火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸跡地に替地を与えられました。そして元禄7(1694)には浅草御門の普請のため、馬喰町・柳原(やないはら)周辺の町が代地を与えられ移転しています。これを機に旅籠町にも1丁目と2丁目ができました。さらに明治2(1869)昌平橋と筋違橋の北側にあった幕府講武所付町屋敷が神田旅籠町3丁目と改称されました。さて、旅籠町の由来となった旅籠ですが幕末のころにはほとんど姿を消しています。『諸問屋名前帳』によれば嘉永(1848~1854)のころまで残っていた旅籠はわずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えていたことがわかります。街道筋の宿場町として誕生した旅籠町はその後、活気あふれる商人の町として生長をとげたのです。(千代田区町名由来板)

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街道の風景② 万世橋を渡ると秋葉原、賑やかな街です/万世橋(中央通り)

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秋葉原(左岸)
東京都の千代田区と台東区にまたがる地名。JR秋葉原駅周辺の外神田134丁目、神田佐久間町12丁目一帯を指す。1869(明治2)12月の火災以後、火よけ地を置き70年に秋葉神社をまつり秋葉ヶ原と称したことに由来する。かつては〈あきばはら〉と呼ばれていたが、駅名の〈あきはばら〉の方が一般化した。神田川北岸に位置し江戸時代から町屋(商店街)として発達してきた。JR山手・京浜東北両線と総武線が交差し、貨物駅もあり、また駅に隣接してあった東京中央卸売市場神田分場は1989年、大田区東海の東京卸売市場大田市場(386000m2)が開設されて移転した(コトバンク)

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神田川の風景⑥ 新幹線を潜ると柳森神社があります/神田ふれあい橋

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神田ふれあい橋
神田川に架かりJR東北新幹線のすぐ東側にあります。同新幹線の工事用の橋でしたが、地元の要望により工事完了後も撤去しないで平成元年(19894月から歩道橋として供用されています。神田須田町2丁目と神田佐久間町1丁目を結んでいます。それまで遠回りしなければ行き来できなかった両地区の住民が直接往来できることになったので親しみをこめて「神田ふれあい橋」と命名されました。長さ48.6m、幅2.6mの鋼橋です。(千代田区観光協会)

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柳森神社鳥居/神田須田町(右岸)

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柳森神社
祭神:倉稲魂大神 境内社:倉稲魂大神
今を去る500余年の昔、この東京が武蔵野の原と称し足利時代の頃長禄2年(1457太田道灌公江戸築城の時、その東北方即ち此所に城郭鎮護鬼門除けとして京都伏見稲荷大明神を勧請して御祀り申し上げ、神田川土堤一帯柳の木を多数植え繁茂したるに依り、柳原の名と共に柳森神社の起源となった。其の後、江戸城を中心に年を追って江戸八百八町は繁栄しこの柳森神社も商売繁盛の神として非常に賑わいを極めたのである。元禄と文政の頃には徳川家より社殿造営の寄進があり、其の造営物は大正129月の関東大震災にて惜しくも烏有に帰した。尚其頃迄には柳町・小柳町・元柳町向柳町・柳原河岸などと柳に因んだ町名のあったことも此の柳の森より起因したものである。昭和30年が当神社創建500年祭に相当するので、崇敬者の発願に依って祈念事業として此の神楽殿を建立し、同年515日楽慶大祭を執行した次第である。例大祭は毎年51415日。昭和365月吉日(境内説明板)

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おたぬきさん・福寿神御由来
江戸開府以来、年と共に諸制度も完備して漸く泰平の世を迎えた5代将軍綱吉公の御代、将軍のご生母桂昌院によって江戸城内に福寿いなりとして創建された。桂昌院は京都堀川の生まれ、八百屋の娘が春日局に見込まれて3代将軍徳川家光の側室となり5代将軍徳川家綱吉の生母となる。大奥の御女中衆は他を抜いて(たぬき)玉の輿に乗った院の幸運にあやかりたいと、こぞって「おたぬきさま」を崇拝したという。後世、元倉前甚内橋際・向柳原の旗本・瓦林邸内に祠を移し祭祀される様になり、明治2年現在の柳森神社に合祀されました。開運、諸願成就の福寿神として殊に近年は他を抜いて受験、勝運、出世運、金運向上などにご利益があると信奉されております。なお当社において頒与する〝おたぬきさん〟と呼ばれる土製の親子狸のお守りは素朴で大変に愛されております。(説明板)



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富士講関係石碑群
柳森神社は延宝8年(1680)に駿河富士宮浅間神社から分祠した富士浅間神社を相殿・合祠しました。また『東都歳時記』には天保期(18301844)頃の「富士参」の例として柳森神社が上げられています。これらのことから柳森神社は富士講に関わりが深い神社であり、富士塚なども境内に築かれていたと思われています。この塚が明治時代以降何らか理由で一度廃れてしまい、これに対して昭和5年に周辺の富士講によりあらたに富士塚が再建されました。本件の石碑群はこの時再建された富士塚の周辺に移設あるいは設置されたと思われます。しかし戦後には富士講そのものが廃れてしまい、昭和35年に富士塚は破却されました。この際、余った黒ぼくの石を境内の東南隅に積み上げて小山と築きこの周辺に富士講石碑群を設置し直しました。こうして石碑だけが富士講の信仰の痕跡として残されることとなりました。

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各石碑の名称/制作年代/寸法(高××厚、単位cm)/作製者は以下の通りです。①北富士分教会の碑/昭和5年(193011月改築/83.5×79.4×7.5/不詳 ②神田八講の碑/大正14年(19256月再建/141.5×67.5/13.4/神田八講③北口神田講社の碑/昭和5年(193061/139.5×64.2×12.7/山京講④小御嶽大神の碑/(年代不詳)/61.0×35.0×./不詳富士講とは浅間信仰の信者が組織した講であり、夏季に富士山に登山して祈願・修行をしました。江戸時代、特に町民・農民の間で流行し、江戸にあっては沢山の講社が組織され俗に「江戸八百八講」などとも称されます。これらの講社の内から、居ながらにして富士登山が出来る様に富士山とその山内の修行場などを模した塚を築くことが行われるようになりました。この様な塚が富士塚です。富士講の信仰は江戸時代においては幕府の度重なる禁令に抗うかのように隆盛しましたが、明治以降の交通の発達、特に東海道線の開通による登山道、登山方法の変化や、入山に際しての女人禁制の撤廃による登山のあり様そのものの変化の中で、徐々に富士講は数を減らし始め、第二次世界大戦前後には多くの講社が姿を消していきました。したがって富士塚の幾つかも徐々に破却されていきました。都内では現在50前後の富士塚が現存するばかりですが、台東区の「下谷坂本の富士塚」(台東区)豊島区の「豊島長崎の富士塚」練馬区の「江古田の富士塚」は国の有形民俗文化財に指定されているなど、幾つかは文化財として保護されはじめています。「富士講関係石碑群」は江戸時代以降、昭和初期まで当地域に存在した富士講に関わる記念碑であり、千代田区内とその周辺におけるこの時代の信仰の一端を示してくれる貴重な資料です。(千代田区教育委員会)

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力石
「力石」とは一定重量の大小の円形または楕円形の石で、若者達が力試しに用いたと記録されている。古来、わが国民間信仰では石にかかわる信仰は多い。また「力石」に於ける伝承の一つとして「道切」説もあるが、「巨人伝説の大草鞋」同様と考えられる。しかしこれらは石神等に関する伝承の変化であって、昔は村々に疫病の侵入を防ぐための神であり、呪い等であったようである。(疫病は道を伝って来ると信じられていた。)この境内にある「力石」は大正年間(19121926)、当時この道の力士として有名であった神田徳三こと飯田徳三とその一派が使っていた力石の一部と伝える。なお、江戸後期に素人の力持ち仲間で有名な者に、神田明神下の酒屋で内田屋金蔵、神田鎌倉河岸豊島屋の徳治()郎の二人が共に大関格であったとの記録がある。これ等「力石」は江戸・東京の若者たちの生活と娯楽等の一端を知るうえで貴重な資料である。(千代田区教育委員会)

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神田川の風景⑦ 昔は左岸が佐久間河岸、右岸は柳原堤が続いてました/神田ふれあい橋

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御茶ノ水駅周辺マップ(青:神田川 橙:中山道 紫:御成街道)

by Twalking | 2017-05-23 23:19 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(4)江戸川橋~御茶ノ水03-巻石通り   

日時 2017.5.11(木)
天気 晴れ


神田川と神田上水、ちょっとごちゃごゃしていました。
神田上水は大洗堰で取水し水戸屋敷から外濠を懸樋で越え、
江戸市中に給水していた江戸最古の上水道でした。

その流路は現在の「巻石通り」にあたります。
ここは初めて歩く道でしたが、寺社や旧跡も多くて面白いです。
都水道博物館にも寄り江戸上水の歴史など興味深く拝見しました。
少し整理が進みました、ありがとうございます。


・・小日向/文京区

小日向台
という台地があり坂が多い。坂には「切支丹坂」「薬罐(やかん)坂」など江戸期からの名称がついている。閑静な住宅街。石川啄木・安倍公房・横溝正史などの旧居があった。旧・茗荷谷町付近はその地形の美しさから「茗渓」(めいけい)という美称でも呼ばれていた。『江戸砂子』によれば、当地は鶴高日向守善仁寺の所領で家が絶えたあと「古日向」といっていたのがいつしかこの名になったという。鶴高日向は名主飯塚三四郎家の遠祖といい、小日向水道端鶴高山善仁寺の開基とされる。また、『十方庵遊歴雑記』は大塚大慈寺(現在廃寺)が昔日向国にあり徳川家康に従い当地に移転し、火災後大塚に移転したと伝わることからこの意味の「古日向」の可能性もあるとする。(Wikipedia

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巻石通りの風景① 神田上水は現在の巻石通りを水戸屋敷へ流れていました/江戸川橋

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旧町名案内-小日向水道町
古くは小日向村の内でほとんどが畑であった。明暦2年(1656)町屋となった。正徳3年町方支配となった。承応年間(165255)から町は神田上水定浚(じょうざらえ)を命じられたので水道町と名づけられた。明治2年知願寺、清光院、龍興寺の門前を併せ同5年久世邸及び武家地、寺地を併せた。大日坂から西、音羽通りの崖上一帯は下総関宿の藩主久世大和守(老中職の家柄)の下屋敷であった。明治維新後長く草原となり、今も「久世山」と呼ばれている。いつか星夜となりて 久世山の 木々にまつわる 霧消えにけり/金子薫園(文京区)
(旧町名案内地図に紺:神田上水(巻石通り)青:神田川 緑:坂等を色付けしました。以下同様です)

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妙足院/小日向

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覺王山長善寺妙足院
東叡山護國院末で本尊は大日如来、寛文年中の創立、浩善法尼の開基に係り、初めは草庵であつたが2世玄順の時護國院末となり山寺號を定めた。文政時代の寺地は御年貢地140坪と借地140坪とで、その大日堂は大日坂名稱の由来をなし、小日向の一名所として縁起が『江戸名所圖会』『新編江戸志』其他に記されている。(小石川区史)


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大日坂/小日向
……坂のなかばに大日の堂あればかくよべり。」(改撰江戸志)この「大日堂とは寛文年中(166173)に創建された天台宗覚王山妙足院の大日堂のことである。坂名はこのことに由来するが、別名「八幡坂」については現在小日向神社に合祀されている田中八幡神社があったことによる。この一円は寺町の感のする所である。『この町に遊びくらして三年居き 寺の墓やぶ深くなりたり』折口信夫(筆名・釈超空1887-1953)文京区教育委員会)

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江戸名所図会 大日坂大日堂 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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巻石通りの風景② 左手が旧黒田小の跡地、白堀跡の説明板があります/総合福祉センター

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神田上水白堀跡
文京区小日向12丁目南遺跡神田上水旧白堀跡
文京総合福祉センター建設工事に伴い平成23年から24年にかけて実施された文京区小日向12丁目南遺跡の発掘調査で神田上水関連遺構が検出されました。この地は旧黒田小学校(後の区立第五中学校)の跡地にあたります。神田上水は、神田川(旧平川)を水源として江戸市中のおよそ23割の範囲に飲料水をまかなった江戸を代表する上水道として知られています。神田上水が市中に入るこのあたりの白堀開渠の堀)は、神田川の北岸小日向台地の南側縁辺部を沿うように流れていました。

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本調査で初めて発見された新旧2筋の堀跡は間知石の石積み護岸で、長さは60m以上確認されその一部を現地で展示しています。展示範囲は旧白堀の石積み護岸(15b号遺構)をそのまま利用した新白堀の護岸(15a号遺構)が後に石蓋(万年巻石蓋)で覆われて渠化された所です。発掘調査時には石蓋は取り除かれ石積みも一部破却された状況でしたが、見つかった状態のまま復原し展示しています。東京砲兵工廠(小石川後楽園)では、東京市内への上水の供給が終了した明治341901)年以降も神田上水を工業用水や園内の大泉水の水源として使用していました。大正初期、石蓋で覆われた水路は鉄管の水路へ置換し姿を消します。関口大洗堰の取壊しや庭園用の深井戸設置に伴い昭和81019331935)年頃神田上水の役割は終焉を迎えます。神田上水関連遺構は都市化の進む江戸・東京で飲料水をどう確保してきたのかを考える上で貴重な情報を提供しているといえます。(文京区教育委員会)

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小日向神社鳥居/小日向


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祭神 誉田別皇命、建速須佐之男命。
当神社は氷川神社八幡神社を合祀して明治25月に小日向神社と改称された。天慶3年(940)の春、当時の常陸国の長官平貞盛がこの地方を平定して、その奉賛として現在の文京区水道橋2丁目日輪寺の上の蓮華山に建立したものである。また、八幡神社は昔の名を「田中八幡」といい現在の文京区音羽1丁目に鎮座していた。創立は貞観3年(860)の春の事と記述されている。古くからこの地域の氏神さまとして里人に親しまれていた。なお当神社には有栖川宮・小松宮の掛軸や額等があったが、去る昭和20525日の戦災によりすべてのものを焼失した。現在、残っているものは短刀二振だけである。なお、当神社の氏子区域は文京区水道1丁目・2丁目、小日向1丁目・2丁目・3丁目・4丁目、関口1丁目である。(文京区神社誌)

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服部坂/小日向(坂下)
坂の上には江戸時代、服部権太夫の屋敷がありそれで「服部坂」と呼ばれた。服部氏屋敷跡には明治2(1869)小日向神社が移された。永井荷風は眺望のよいことろとして『日和下駄』に「金剛寺坂荒木坂 服部坂 大日坂等はみな斉しく 小石川より牛込赤城番町辺を見渡すによい」と書いている。坂下にある文京区立第5中学校はもと黒田小学校といい永井荷風も通学した学校である。戦災で廃校となった。(文京区教育委員会)


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新渡戸稲造旧居跡/服部坂(坂上)
新渡戸稲造
文久2年(1862)〜昭和8年(1933)教育家・農学博士・法学博士南部藩士の子として盛岡で生まれ、明治4年(1871)上京した。明治10年札幌農学校第2期生として内村鑑三らと共に学んだ。同校卒業後、東京帝国大学専科に学びさらにアメリカやドイツに留学して農政経済学や農学統計学などを学んだ。明治24年メアリー夫人(アメリカ人)と結婚して帰国、札幌農学校で教えた。

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明治36年京都帝国大学教授、同39年第一高等学校長を経て東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長などを歴任した。また、拓殖大学の学監(学長)も務めた。その人格主義教育は学生たちに深い影響を与えた。日本と外国をつなぐ「太平洋の橋」になりたいと若い時から考え、わが国の思想や文化を西洋に西洋のそれをわが国に紹介することに努めた。国際的にも広く活躍し大正9年(1920)に国際連盟事務次長となり「連盟の良心」といわれた。昭和2年(1927)帰帰国の後、太平洋問題調査会理事長となりきびしい国際情勢のもと平和を求めて各地の国際会議に出席するなか昭和8年にカナダで亡くなった。当地は明治37年から昭和8年まで住み、内外の訪問客を迎えニトベ・ハウスと呼ばれた旧居跡である。(文京区)


・・・水道
/文京区

文京区西部に位置し東西に細長い町域を持つ。巻石通りから神田川に向かって若干傾斜する地勢的特徴を持ち全域とも概ね標高10m以下である。南は神田川、目白通り並びに高架の首都高5号池袋線を介して新宿区と関口、北は巻石通りを介して春日2丁目、小日向1一丁目・2丁目、西は音羽通りと江戸川橋駅を介して音羽、関口、東は神田川が大きく向きを変えるあたり(大曲交差点付近)で後楽2丁目に接する。(Wikipedia

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巻石通りの風景③ 左手に寺社が並び寺町になっています/水道図書館前

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旧町名案内-水道端12丁目
もと神田川上水堀南北に沿った町で、町名は水道端と名づけられた。明治5年上水堀の南側の持筒組(戦時に先鋒となる)屋敷および武家地を併せて水道端1丁目とした。明治5年上水堀の北側の荒木坂服部坂の間の武家地や寺地を併せて2丁目とした。ここは寺通りで称明寺、本法寺、日輪寺、善仁寺など片側に軒並み寺院が続いている。神田上水は最古の上水道で、徳川家康の命で大久保主水が造った。井の頭池を水源とし、小日向台地下を素掘りで通した。明治11年頃石で巻いて暗渠にした。それで巻石通りまたは水道通りと呼んでいる。(文京区)

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本法寺山門/小日向

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本法寺
高源山随自院本法寺は東本願寺の末寺で真宗大谷派に属し、夏目漱石(金之助)の菩提寺である。夏目家は代々江戸の名主をつとめた。明治141月に母、203月に長兄、6月に次兄が本法寺に葬られた。それ以来漱石はしばしば小日向を訪れた。亡き母を詠んだ句もある。兄の死を悼んだ英文のスピーチを旧制一高で弁じたこともある。蓮如の「御ふみ」の言葉を友人子規に書き送りもした。作家となってからは「坊っちゃん」の清の墓をここに設けるなど漱石の心の中に本法寺の幻はゆらめきつづけた。境内には早稲田大学第14代総長奥島孝康が揮毫した漱石の句碑がある。(早稲田大学創立125周年記念)

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巻石通りの風景④ この辺りの土手に第六天が祭られていたようです。現在は北野神社境内に合祀されてます/小日向交差点

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旧町案内-旧第六天町
もと小日向村に属し正保3年(1713)町方支配となった。神田上水堀の土手の上に第六天社が祭られていた。その北側の前の町ということで第六天前町と称した。明治2年称名寺門前を併せ、同5年には旧久世長門守下屋敷、寺地、千手組屋敷などを合併した。町名は第六天前町の前を省いて第六天町と変更した。今井坂を上ったところ、もと大久保長門守の屋敷跡に明治34年最後の将軍慶喜(よしのぶ)が移ってきた。そして大正2年ここで波乱の一生を終わらせた。(文京区)
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江戸名所図会 小日向水道端道祖神 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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荒木坂と巻石通り/小日向交差点 
称名寺の東横を小日向台地に上がる坂である。『江戸砂子』によれば「前方坂のうへに荒木志摩守殿屋敷あり。今は他所へかはる」とある。坂の規模は「高さ凡五丈程(15)、巾貳間貳尺程(4)、(御府内備考)と記されている。この坂下の小日向台地のすそを江戸で最初に造られた神田上水が通っていたことから、地域の人々は上水に沿った通りを「水道通り」とか「巻石通り」と呼んでいる。神田上水は井の頭池を源流とし、目白台下の大洗堰(大滝橋付近)で水位を上げ、これを開渠で水を導き水戸屋敷(後楽園)へ入れた。そこからは暗渠で神田、日本橋方面へ配水した。明治11年頃水質を保つため開渠に石蓋をかけた。その石蓋を「巻石蓋」と呼んだ。その後、神田上水は鉄管に変わり飲料水としての使用は明治34(1901)までで、以後は水戸屋敷跡地に設けられた兵器工場(陸軍砲兵工廠)の工業用水として利用された。(文京区教育委員会)

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今井坂(新坂)/文京区春日(金富小)
『改撰江戸志』には「新坂は金剛寺坂の西なり、案に此坂は新に開けし坂なればとてかかる名あるならん、別に仔細はあらじ、或はいふ正徳の頃(171116)開けしと」とある。新坂の名のおこりである。今井坂のおこりは『続江戸砂子』に「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平桜(今井四郎兼平の名にちなむ)と名づけた大木があった。これにより今井坂と呼ぶようになった」とある。この坂の上西側一帯は現在財務省の宿舎になっている。ここは徳川最後の将軍・慶喜が明治34(1901)以後住んだところである。慶喜は自分が生れた小石川水戸屋敷に近いこの地を愛した。慶喜はここで専ら趣味の生活を送り大正2(1913)に没した。現在、その面影を残すものは入口に繁る大公孫樹のみである。この町に遊びくらして3年居き寺の墓やぶ深くなりたり(釈 超空)(この町とは旧金富町をさす)(文京区教育委員会)

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徳川慶喜公屋敷跡/今井坂(坂上)
徳川幕府最後の将軍徳川慶喜18371913)は水戸徳川藩主斉昭(なりあき)の7男として、小石川上屋敷(現在の小石川後楽園一帯)で生まれた。一橋家の家督を継ぎ、慶応2年(1866)第15代将軍に就任。翌年、大政を奉還したが鳥羽伏見の戦とそれに続く江戸城開城の後、恭順の意を表し水戸にて謹慎の後、駿府に隠棲した。明治30年(1897)東京に戻り、同34年(1901この地に移り住んだ。慶喜はのちに公爵、勲一等旭日大綬章を授けられ大正2年(19131122日、急性肺炎のためこの地で没した。享年76歳。寛永寺墓地に葬られた。(文京区)

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旧町名案内-旧金富町
明治2年小石川金杉水道町の一部、小石川富坂新町、小日向金剛寺門前町、多福院門前町の4町を合併した。町名は金剛寺の金と富坂新町の富の頭文字をとって金富町とした。金剛寺坂上に俗に鶯谷というところがあった。ここに江戸時代狂歌で有名な大田蜀山人(南畝)が住んでいた。また、小説家永井荷風は明治12年金富町45番地に生まれ、少年時代を過ごしこのあたりから伝通院周辺は荷風の心のふるさとであった。小学校は黒田小学校を卒業した。(文京区)
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神田上水路/金富小付近
日本最初の上水といわれる「神田上水」は、江戸時代初期徳川家康の命を受けて大久保藤五郎忠行が開いた。井の頭池、善福寺池、妙正寺池の流水を落合で合わせ、目白台下の現在の大滝橋辺りにを設けて川の水位を上げて上水とし、余った水は神田川に(江戸川)に流した。上水は水戸屋敷(現在の小石川後楽園)を通し現在の水道橋東側で神田川にを架けて渡し神田・日本橋方面に給水した。この上水は江戸時代から長い間江戸・東京市民の生命の糧として大きな役割を果たした。明治3419016月飲用水としての給水を停止しその使命を終えた。この前の道路は神田上水の流路で、開渠であったものを明治の初めに暗渠として道路としたものである。通称「水道通り」といい旧町名に水道町、水道端の名を残している。(文京区教育委員会)

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江戸名所図会 金剛寺 氷川神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

神田上水左岸の丘は寺地です。現在、本法寺同じ位置にありますが、金剛寺は中野区へ移転、氷川神社は小日向神社に名を変えています。


金剛寺坂/春日
江戸時代この坂の西側・金富小学校寄りに金剛寺という禅寺があった。この寺のわきにある坂道なのでこの名がついた。小石川台地から神田上水が流れていた水道通り(巻石通り)に下る坂の一つである。この坂の東寄り(現・春日2-20-25あたり)で明治12年に生まれ少年時代をすごした永井荷風は、当時の「黒田小学校」(現在の旧第五中学校のある所、昭和20年廃校)にこの坂を通ってかよっていた。荷風は昭和16年ひさしぶりにこの坂を訪ずれむかしを懐しんでいる様子を日記に記している。(文京区教育委員会)


・・・春日

文京区南部に位置する。北で小石川、東で本郷、南で後楽、南西で水道、西で小日向と接する。春日通り(国道254号)に沿って北西から南東に延びる細長い町域を持つ。1630年(寛永7年)に徳川家光の乳母春日局が拝領、町屋にした。2丁目には三井家の邸宅が存在する。(Wikipedia

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巻石通りの風景⑤ 坂を登ると伝通院になります/安藤坂

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安藤坂
この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが1909(明治42)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで戦前は「安藤殿坂」戦後になって「安藤坂」とよばれるようになった。(文京区教育委員会)

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牛坂/春日
北野神社(牛天神)北側の坂で古くは潮見坂・蛎殻坂・鮫干坂など海に関連する坂名でも呼ばれていた。中世は今の大曲あたりまで入江であったと考えられる。牛坂とは牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石がありそれが坂名の由来となったといわれる。(牛石はもと牛坂下にあった)「江戸志」に『源頼朝の東国経営のとき、小石川の入江に舟をとめ老松につないでなぎを待つ。その間、夢に菅中(菅原道真)が牛に乗り衣冠を正して現われ、ふしぎなお告げをした。夢さめると牛に似た石があった。牛石がこれでとある」と記されている。(文京区教育委員会)

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牛天神北野神社参道/春日 

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牛天神北野神社
祭神:菅原道真公。当社は寿永3年の昔、右大将・源頼朝御東国追討の時、此処の入江の松に船を繋ぎ和波を待つ。その間夢に菅神牛に乗りて現はれ、頼朝卿に二つの幸のあらんことを告げ、武運満足の後は、必らずや社を営み報ゆべしと託し給ふ。頼朝卿夢覚めて傍を見れば、一つの岩石ありて夢の中に菅神の乗り給ひし牛に似たり。依りて是を奇異とせしが、果して同年の秋頼家卿誕生あり。更に翌年には動かずして、平家を悉く退け国を鎮定せり。その報寶として此処に、御神を勧請ありて御神領等を寄進す。因て御創立はこの年元暦元年なりと云ふ。(境内由緒)

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北野神社・中島歌子歌碑
北野神社は江戸時代金杉天神、俗に牛天神と呼ばれた。御祭神は菅原道真公である。縁起によると、寿永元年(1182源頼朝が東国経営のとき台地下の老松に舟をつなぎ、風波のしずまるのを待った。夢中に菅神(道真公)が現れて、二つの吉事があると伝えた。お告げの通り男子(頼家)が生まれ、平家を西海に追うことができた。頼朝は大いに喜び元暦元年(1184)ここに社殿を造営したという。また、夢さめて菅神の立っていた跡に牛の形をした石(牛石という)があった。(現在は社殿の前にある)境内の南側に中島歌子(1844-1903)の歌碑がある。歌子はすぐ近くの安藤坂の歌塾「萩の舎」の塾主である。門下には梨本宮妃、鍋島侯夫人や前田侯夫人など上流中流層の婦人1000余人がいた。樋口一葉、三宅花圃らはその門弟である。歌碑は歌子の死後、明治42年(1909)門下生によって建てられた。(文京区教育委員会 写真:牛石)

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大田神社
芸能の神・天鈿女命(あめのうずめのみこと)と道の神・猿田彦命を祀る。人々の信仰厚く関東大震災のころまでは、祭の日ともなると未明から深夜まで参拝の人出賑わったという。芸能の神とした歌舞伎、新劇人など芸能人の信者を集め名のある役者が度々参拝に訪れた。この神社はもともとは貧乏神ともいわれた黒闇天女(弁財天の姉)を祀っていたが、江戸の頃この近くに住む貧乏旗本の窮状を救ってからは、福の神として庶民の信仰を集めるようになったという伝説が残っている。また、合祀の高木神社は旧第六天町(現小日向1丁目)にあった五穀豊穣の神である第六天社を道路拡張に伴いここに移したものである。(文京区教育委員会)

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巻石通りの風景⑥ 牛坂下の神田上水を渡ると諏訪神社、その先は外濠になります/諏訪神社前

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旧町名案内-旧諏訪町
元禄9年(1696)、御本丸小間遣10人が町屋敷を拝領しその後変遷があった。町内に諏訪明神があったので古くから諏訪町と呼ばれた。(御府内備考より)明治5年(1872)隣地の牛天神下広小路、袋町新道と呼ばれていた武家地を合併した。(東京府志科より)(文京区)

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小石川諏訪神社鳥居/後楽

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小石川諏訪神社
御祭神:健御名方命、八坂刀売命
由緒
室町時代1390年(明徳元年)7月に牛天神別当『龍門寺』の住職であった乗観法印が信州諏訪大社より勧請、創建したと伝う。由緒によるとある夜諏訪明神が霊夢に現れ「汝の在国に清浄の地ありや」法印曰く「寺の西南に当たりて杉松のうっそうとした浄地あり」と、明神曰く「我其の地の森に移りて氏を守り、汝が思ひを満足せん」と言ひで光焉として飛び去り給う。(思い満足せる森とて今に思ひの森と言い伝え(り)その日比の地は大風が吹き荒れ雷鳴がとどろきわたった。風が収まりし後に一本の大木に白幣がたなびいていたという。信州より帰った乗観が信託の趣を衆に語り不思議な符号を認め此の地に民と力を合わせ官居を建てた。この信託により当社を思いの森と言ひ伝う。」(境内由緒書)

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江戸名所図会 牛天神 諏訪神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

神田上水が麓を流れます。牛神社の正面の参道は現在はありません、左手の裏門が参道になっています。牛坂を下り諏訪神社への道は面影が残ります。


・・・後楽

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巻石通りの風景⑦ 神田上水は水戸屋敷から外濠を懸樋で越え市中に給水されていました/牛天神下

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旧町名案内-旧小石川町
京都聖護院門跡道興准后が「廻国雑記」(文明181486)に次のことを書いている。『ここ(上野忍岡)を過ぎて小石川と言へる所にまかりて、我方を思ひ深めて小石河いつをせにとかこひ渡るらん』、また「江戸砂子」(享保171732)に『小石多き小川が幾筋もある故なり わけて伝通院の後の流 ねこたま橋の川筋 小石川の濫觴(らんしょう)なり』とある。むかし千川(小石川)江戸川(神田川)や周囲の高台から流れに細流が現在の後楽園一帯で合流していた。こられの川は砂や小石が多かったのでこの辺を小石川村と呼んでいた。明治5年小石川町とした。(文京区)

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小石川後楽園

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小石川後楽園/後楽
文京区後楽1丁目にある都立公園。江戸時代初期に水戸徳川家の江戸上屋敷内につくられた築山泉水回遊式の日本庭園(大名庭園)であり、国の特別史跡及び特別名勝に指定されている。1629年(寛永6年)水戸徳川家水戸藩初代藩主・徳川頼房が作庭家・徳大寺左兵衛に命じて築いた庭園を、嫡子の光圀が改修、明の遺臣朱舜水(しゅしゅんすい)の選名によって「後楽園」と命名して完成させた。出典は『岳陽楼記』の「天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」によっており、岡山市にある後楽園と全く同じである。1869年(明治2年)版籍奉還により藩主徳川昭武が邸宅とともに新政府に奉還し、そののち東京砲兵工廠(しょう)の敷地の一部として陸軍省の所管となった。(Wikipedia

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砲兵工廠付近地図(明治17年実測)/小石川後楽園
(青:神田川 紺:神田上水 赤枠:かつての屋敷地 緑枠:現在の小石川後楽園)

小石川後楽園の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/21935485/

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神田川流域マップ(江戸川橋~お茶の水)
(赤:神田川 紺破線:神田川上水 紫:日本橋川)


・・・・・・
資料ファイル

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本郷給水所公苑/本郷

本郷給水所の上部に構築されている。東京市水道局1892年(明治25年)に給水場を建設、1898年(明治31年)に配水池が作られ1974年(昭和49年)に配水池の拡張工事が完了。その後配水池の上に文京区が公苑を建設する使用許可を取得し1976年(昭和51年)開園した。日本庭園(和風庭園)とフランス式(洋風庭園)を採用している。(Wikipedia

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東京都水道歴史館
文京区本郷にある東京都水道局が運営するPR施設である。1995年(平成7年)開館。従来、西新宿にあった東京都水道記念館を閉館して本郷給水所に隣接する東京都水道局本郷庁舎2号館に新設された。東京水道400年の歴史を江戸時代と明治時代以降に分けて実物大模型や歴史資料、映像を用いて紹介している。玉川上水に関する歴史資料が非常に充実しており、閲覧室では都立中央図書館でも所蔵されていない貴重な一次資料や二次資料が閲覧できるようになっている。博物館の裏手には、京都水道局が管理する本郷給水公苑があり神田上水の石桶が保存されている。
Wikipedia

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展示風景
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江戸上水の歴史

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神田上水
天正18年(1590)徳川家康の江戸入府に先立ち城下に飲料水を供給するため、家臣の大久保藤五郎に上水開設を命じた。藤五郎は小石川に水源を求め、目白台下の流れを利用し神田方面へ通水させたと伝えられる。これが小石川上水の誕生である。その後随時拡張され神田上水となった。井の頭池や善福寺池を水源とした。

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玉川上水
家光が3代将軍になると「参勤交代の制度」「大名正妻嫡子の江戸在府の制度」により、諸国の武家が江戸に集まってくるとともにその生活を支える町人が増え、江戸の人口は増加し水需要が増大した。この江戸の都市化に対し神田上水に加え新たな上水の開設が必要になった。江戸町人・庄右衛門、清右衛門兄弟により、多摩川を水源に承知3年(1654)玉川上水が開設された。

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青山上水
万治3年(1660)に木瓜屋庄兵衛によって開設された。四谷大木戸で玉川上水の余水をに水口を付け給水し、主に青山・赤坂・麻布・芝方面に供給された。享保7年(1722)に廃止されたが明治15年(1882)から麻生水道として近代水道が敷設されるまでの一時期に利用された。

三田上水

三田上水は玉川上水を下北沢で分水し、渋谷川の谷と目黒川の谷の間の狭い台地を通している。寛文4年(1664)に中村八郎右衛門、磯野助六により開設され、三田・芝・金杉方面へ供給された。享保7年(1722)に廃止された。

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千川上水
元禄9年(1696)小石川白山御殿、本郷湯島、聖堂、上野東叡山寛永寺、浅草浅草寺など将軍御成りのところへ上水を引用するため、玉川上水を谷保村で分水し開設された。享保7年(1722)に廃止されたが、沿線への村々には灌漑用水として利用された。また明治13年(1880)岩崎弥太郎により千川水道株式会社として復活した。

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亀有上水
明暦の大火後、江戸の復興に伴って本所深川の町づくりが万治2年(1659)以降に行われており、この頃開設されたと思われる。隅田川西側には神田・玉川上水より給水されていたが、東側には給水することが出来ず、このため元荒川に堰を作って溜井とし、埼玉県北足立郡を経て亀有に入り南下して本所方面に給水された。後に本所上水と呼ばれるようになった。享保7年(1722)に廃止。(展示パネルより)

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神田川に懸けられた懸樋の模型(1/50

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発掘された江戸上水「東京都千代田区丸の内3丁目遺跡」(旧都庁・阿波徳島藩上屋敷跡)

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馬水槽                消火栓

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神田上水石樋(復元)

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神田上水石樋の由来
神田上水は天正18年すなわち西暦1590年、徳川家康が関東入国に際し良質な飲料水を得るため、家臣大久保藤五郎忠行に命じて開削させたのが始まりと伝えられています。この上水は井の頭池を水源とする神田川の流れを、現在の文京区目白台下に堰を設けて取水し、後楽園のあたりからは地下の石樋によって導き、途中掛樋で神田川を渡して神田・日本橋方面へ給水していました。日本における最初の上水道といわれ、その後明治34年近代水道が整備されるのにともない廃止されるまで、ながく江戸・東京の人々の暮らしに大きな役割を果たしてきたのです。ここに見られる石樋は昭和62年文京区本郷1丁目先の外堀通りで、神田川分水路の工事中発掘された神田上水遺跡の一部です。四百年近く土中に埋もれていたにもかかわらず原型を損なわず、往時の技術の優秀さ水準の高さを示しており、東京の水道発祥の記念として永く後世に伝えるため移設復原されたものであります。平成210月 杉本苑子誌(碑文)

by Twalking | 2017-05-20 19:41 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(4)江戸川橋~御茶ノ水02-水道橋   

日時 2017.5.11(木)
天気 晴れ

飯田橋から水道橋、お茶の水坂を登り駿河台へ。
家康入府以前は平川が流れていた湿地帯でしたが、
ここに濠を掘って外濠とし、現在の神田川とした所です。

その後、秀忠の時代には神田山を掘割り流路を隅田川へ変え、
また神田上水はこの壕を懸樋で渡して市中へ給水しました。
江戸の街づくりの上で重要なポイントとなる事業です。
面影は少ないですが、それでも興味深い場所です。



・・・飯田橋

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神田川の風景① 右手は讃岐高松藩の上屋敷、旧平川が日比谷入りに流れていました。大事なポイントのようですね/飯田橋

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飯田町遺跡周辺の歴史
江戸時代以降、この地域には日本橋川や神田川という河川があり、近くには水道橋の由来となった神田上水が流れていました。もともとこの一帯は神田川下流の平川小石川合流する地点で、駿河台と麹町台地に挟まれた低地にあたり、絶えず水害の危険にさらされていた場所でした。元和6年(1620)幕府は江戸中心部を洪水から守るために、神田川の流路を船河原橋あたりで東に曲げて駿河台を掘りぬく現在の運河神田川」を切り開きました。この工事によってそれまで日比谷入江に注いでいた平川堀留(現在の堀留橋)で神田川から切り離し、江戸城外堀としました。「正保年中江戸絵図」には堀留の北側にも堀が延びており工事後しばらくはこの付近まで平川の流路が残っていたことを示しています。平成12年に行われた飯田町遺跡の発掘調査では讃岐高松藩上屋敷とともに、江戸時代初期の盛土や石垣、板の土留めの護岸をもつ幅10mの堀が発見されました。この堀は先の「正保年中江戸絵図」に見える平川の流路の名残と考えられ、明暦31657)の大火直後に埋め立てられたことがわかりました。その後、神田川や外堀には水運に利用された多くの河岸が設けられました。明治維新後、この地は神田川の対岸を含めて陸軍用地となり、明治28年(1895)には甲武鉄道飯田町駅が開業、明治36年には日本橋川再度開削して神田川に接続させ、陸軍用地を中心に水運と鉄道をつなぐ貨物のターミナルになりました。このようにこの一帯は古くから河川とともに歩んできた地域でした。飯田町遺跡の発掘によって江戸時代初期の堀跡や大規模な盛土による造成工事の様子が明らかになりました。そこには当時の人々の水害を防ぐ努力を見ることができます。(千代田区教育委員会)

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街道の風景① 外濠通りの歩道にモニュメントが造られてます/外濠通り

都道405号外濠環状線
港区新橋1丁目を起点、同新橋2丁目を終点とする皇居(旧江戸城)外濠に沿った環状の特例都道である。本線の通称は「外堀通り」(Wikipedia

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旧町名案内-市兵衛河岸 
小石川橋北側の神田川(外堀)の河岸一帯で水道橋から船河原橋までの河岸地である。『江戸砂子』(享保17年・1732)に『牛込御門の外なり。岩瀬市兵衛の屋敷あるゆえにいう』とある。この市兵衛から町名をとった。昭和15年の改正で市兵衛河岸を分けて一部は小石川町1丁目に、一部は春日町1丁目に編入されて残地がわずかに残った。神田川の昌平橋との間を往復する客船の船着場であった。また荷物を岸に揚げる物揚場があった。東京砲兵工廠のあったころは工廠用の貨物が揚げ下ろしされた。(文京区)

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首都高点検用の船が係留してます    小石川橋です


・・・後楽/文京区

文京区南部に位置する。中央部に小石川後楽園、東部に東京ドームシティが所在する。西と南の境界を神田川が流れ、神田川に沿って南北に目白通りと首都高5号池袋線、東西に外堀通りが、東の境界を白山通りが走っている。地名は水戸徳川家の庭園小石川後楽園に由来する。(Wikipedia

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神田川の風景② 飯田橋方面の景観です/小石川橋

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小石川橋(小石川見附)
この橋を小石川橋といいます。寛永13年(1626)に江戸城外郭門が設けられた際、備前岡山藩池田光政によってここに見附が構築されました。曲輪内から小石川方面への出入口であるところから「小石川口」と呼ばれ小石川見附と名付けられました。橋は見附の構築に合わせて木橋が設けられています。見附の渡櫓は寛政4年(1792)に焼失しその後、再建されないまま明治維新を迎え、名残りの桝形石垣も明治6に他の外郭門取り壊されました。一方、橋はいくたびか架け替えられましたが、後楽園一帯が造兵工廠であった頃はそこに勤める人達で朝夕は賑わいを見せていました。現在の小石川橋は昭和212月に架橋されました。長さ19.7m、幅13.03mです。(千代田区教育委員会)
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神田川の風景③ 左先が後楽橋、右手が三崎橋、現在の日本橋川の起点です/小石川橋

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三崎橋
神田川と日本橋川の分流点にあって日本橋川に架かる橋です。新三崎橋と同様に飯田橋3丁目と三崎町3丁目の間を結んでいます。明治の日本橋川再掘削にともない架橋されましたが、現在の橋は昭和29年(195433日に改架されました。長さ27m、幅7.6mの鋼橋です。分流点の神田川には小石川橋が架かっています(千代田区観光協会)

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神田川の風景④ 左岸が文京区(後楽)、左岸が千代田区(三崎町)になります。/後楽橋

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後楽橋
千代田区と文京区の間を流れる神田川に架かる橋である。関東大震災の復興橋の一つとして1927年(昭和2年)に架設された。緑色に塗装された鋼製のアーチ橋で石造りの親柱を持つ(橋長21.0m、幅員22.56m)橋の名称は北側にある小石川後楽園から採られている。1964年には東隣に歩行者専用の後楽園ブリッジが架けられた。上流側の小石川橋との間で日本橋川が分岐する。この分流点と後楽橋の間には千代田清掃事務所三崎町中継所があり、千代田区と文京区で出される不燃ごみが船に積み込まれて神田川を通って臨海部の処理センターまで水上輸送される(Wikipedia

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市兵衛河岸 
河岸とは物資輸送のために水ぎわに作られた物揚場などの施設のことである。この河岸の名は江戸時代の中頃まで現在の後楽2-1-18あたりに岩瀬市兵衛の屋敷があったことによる。市兵衛河岸は飯田橋駅近くの船河原橋から水道橋までの神田川沿いの一帯で、江戸外切絵図にもこの名が見える。この河岸は明治8年から昭和8年まで現在の後楽園遊園地一帯にあった砲兵工廠荷揚場としてにぎわった。明治時代、この河岸から早船といわれた客船が神田昌平橋まで往復していたこともあった。町名としての市兵衛河岸は昭和39年の住居表示の施行により後楽1丁目となりこの名は消滅した(文京区教育委員会)

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延宝年中之形(1673~1681)/案内板
(青:神田川・江戸川 紺:神田上水 赤角:岩瀬市兵衛の屋敷)


・・・三崎町(千代田区)

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街道の風景② JRのガードを潜ると三崎町、学生さんが多いですね/水道橋駅

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三崎町1丁目
三崎町という町名が誕生したのは明治5年(1872)のことです。江戸に幕府が開かれる以前、この地にあった「三崎村」が町名の由来といわれています。江戸が開発されるまで、現在の大手町から日比谷や新橋周辺には日比谷入江と呼ばれる遠浅の海が広がっていました。三崎村は日比谷入江に突き出した「ミサキ(岬)」だったためこの名が付いたと伝わっています。JR水道橋駅のすぐ南側には三崎稲荷神社が鎮座しています。創建は詳らかではありませんが、鎌倉時代初期の建久年間(1190年~1199年)よりも前とも伝わっておりとても歴史ある神社です。江戸時代には3代将軍家光が自ら三崎稲荷を崇敬するばかりでなく、参勤交代の大名たちにも信仰させたことから参勤登城する大名は必ずまず三崎稲荷に参拝し心身を清めたそうです。ここから三崎稲荷は「清めの稲荷」とも称されています。閑静な武家地であった三崎町は明治も中ごろを過ぎると劇場や飲食店が増え、賑やかな歓楽街へと生まれ変わります。隣町の三崎町2丁目には三崎三座と呼ばれる三つの劇場ができるなど周辺も活気にあふれる街でした。関東大震災後の区画整理で三崎町1丁目は昭和9年(1934)に三崎町2丁目と統合されますが町名は三崎町1丁目のままでした。昭和22年(1947)神田区と麹町区が合併して千代田区になると、頭に神田を付けて神田三崎町1丁目に変わります。そして昭和42年(1967)の住居表示の実施にともない、神田三崎町1丁目は分割され旧三崎町1丁目だった区域がふたたび三崎町1丁目と定められ現在に至っています。(千代田区HP)

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三崎稲荷神社鳥居/三崎町

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三崎稲荷神社
創建は建久(12世紀末)以前とされています。氏神社の社号は三崎稲荷神社ですが、金刀比羅神社を合祀しているため三崎神社と通称されています。創建当初は和田倉付近にありその後三崎村に移転、万延元年(1860)講武所の設置に伴って水道橋に移転し、甲武鉄道(現JR中央線)が万世橋まで延長されたのに伴い明治38年(1905現在の地に移りました。(千代田区観光協会)

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百度石
古来より度重ねて祈る事により願い事の成就を祈るという信仰がある。「百度石」は俗に「お百度を踏む」即ち百回の参詣の往復の起点として参道の入り口に立てられてものです。本来は百日間に渡り参詣するのので百日参りと言われてましたが、今日では一日で百度参詣される者もあるようです。お百度を踏むときには回数を間違えないように、予めこより等を百用意して祈願する度に置いていくのが一般的な参詣の方法です。(案内板)

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江戸名所図会 三崎稲荷社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景③ すり鉢の底ですが広いですね、神田川上水が合わせてきます/水道橋交差点(白山通り)

白山通り

都道301号白山祝田田町線の千代田区の平川門交差点から文京区の千石駅前交差点までと、国道17号の千石駅前交差点から豊島区の西巣鴨交差点までの東京都の公式愛称である(Wikipedia

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水道橋
千代田区と文京区の間を流れる神田川に架かる橋である。右岸(南側)が千代田区三崎町12丁目、左岸は上流側が文京区後楽1丁目、下流側が同本郷1丁目となる。文京区には水道という町名があるが本橋より神田川沿いに2kmほど上流に離れている。江戸時代初期に神田川の開削に合わせて架けられたのが始まりで当初は現在よりやや下流に位置していた。付近にあった吉祥寺から「吉祥寺橋」とも呼ばれた時期もあるが、この寺院は1657年(明暦3年)の明暦の大火で焼失し本駒込に移転している。1670年(寛文12年)の地図では「水道橋」と表記されており、この橋名は本橋の下流に神田上水懸樋があったことに由来する。1928年(昭和3年)に長さ17.8m、幅30.7mの鋼橋が架けられた。現在の橋は1988年(昭和63年)3月に架け替えられたものであり先代よりやや大ぶりの橋である。(Wikipedia

吉祥寺の関連記事はこちらへ(
http://teione.exblog.jp/20891042/

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神田川の風景⑤ 江戸初期に神田山を開削したんですね、凄い工事です/仙台壕

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神田上水
神田上水は井の頭池の湧水を水源とする江戸時代初期につくられた日本最古の都市水道です。文京区関口に堰を設けて上水を取り入れ、小日向台下の裾をとおり小石川後楽園をぬけ、水道橋の東側で神田川を掛樋で渡し、神田・日本橋方面に給水されていました。文京区本郷2丁目7番にある本郷給水所公苑内に神田上水石垣樋が移設保存されています。(文京区土木部公園緑地課)

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神田川分水路事業
「お茶の水分水路」碑

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神田川分水路案内図
(赤:神田川分水路 青:神田川・隅田川 紺:神田上水 緑:中山道・日光街道)

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神田川の風景⑥ 神田川上水を掛樋で渡したのはこの付近でしょうか


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神田上水懸樋(掛樋)跡
江戸時代、神田川に木製の碑を架け神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していました。明治34年(1901)まで、江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として、大きな役割を果たしました。この樋は懸樋(掛樋)と呼ばれ、この辺りに架けられていました。この絵は、江戸時代に描かれたもので、この辺りののどかな風情が感じられます。(文京区)

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神田上水御茶水
『万治の比 仙臺侯欽命を請け 御茶能水(おちゃのみず)を切王(わ)り、小石川より浅草川(隅田川)へ船路の自由を奈須(なす) 神田川是なり 岸奈免(なめ)らか尓(に)して巌のことく 蛾眉山の月影川水(かすい)に流れて風景絶勝なり 川上に橋あり 水道ばしといふ いの頭上水の樋をかけて流すゆへ この橋の名に呼ふ』

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江戸名所図会 御茶の水 水道橋 神田上水懸樋 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景④ 駿河台へ上るお茶の水坂です/外濠通り

お茶の水坂
この神田川の外堀工事は元和年間(1615-1626)に行われた。それ以前にここにあった高林寺(現向丘2丁目)の境内に湧き水があり『お茶の水』として将軍に献上したことから「お茶の水」の地名がおこった。『御府内備考』によれば「御茶ノ水は聖堂の西にあり、この井名水にして御茶ノ水に召し上げられしと・・・」とある。この坂は神田川(仙台堀)に沿ってお茶の水の上の坂で「お茶の水坂」という。坂の下の神田川に、かって神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていたが、明治34(1901)取りはずされた。『お茶の水橋 低きに見ゆる水のいろ 寒む夜はふけてわれは行くなり』島木赤彦(1876-1926)(文京区教育委員会)


・・・駿河台

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千代田区の台地。秋葉原の南西、千代田区神田駿河台1丁目と2丁目に位置する。元は北の本郷台地南端に当たる部分だが、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の命を受けた仙台藩祖・伊達正宗1620年(元和6年)に仙台堀(神田川)を開削したことにより湯島台と駿河台とに分離され、孤立した高台となった。神田川を挟んで北側に位置する湯島台とは聖橋お茶の水橋により台地上端の標高で結ばれている。削って下町を埋めたために今は台地ではないところもある。地名は江戸時代初期に、駿府(駿河府中、現・静岡市葵区付近)から江戸(東京都区部)に移住した徳川家康家臣居を構えたことに由来する。(Wikipedia)

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神田川の風景⑦ 駿河台から振り返る仙台壕の景観です/お茶の水橋

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お茶の水橋              聖橋方向の景観

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お茶の水橋
神田川に架かり、聖橋の上流約200mの所にあります。神田駿河台2丁目と文京区湯島1丁目を結んでいます。橋下は都心では珍しい渓谷の面影を残しています。お茶の水の地名は江戸時代に将軍家の茶の湯に用いる清水がこの渓谷近くから湧き出ていたことによります。橋の名もその地名にちなんでつけられました。明治24年(1891)に初の日本人設計の鉄橋として完成しました。明治34年(1901)に修復しましたが関東大震災で損害を受けました。現在の橋は昭和6年(1931)に架けられました。長さ80.0m、幅23.8mの鋼橋です。(千代田区観光協会)

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お茶の水碑/お茶の水橋南詰
聖堂の西比井名水にてお茶の水にもめしあげられたり。神田川掘割の時ふちになりて水際に形残る。享保14年江戸川拡張の後川幅を広げられし時 川の中になりて今その形もなし (「再校江戸砂子」より)慶長の昔この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった ある時 寺の庭より良い水がわき出るので将軍秀忠公に差し上げたところ お茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた それから毎日この水を差し上げる様になりこの寺をお茶の水高林寺と呼ばれ この辺りをお茶の水と云うようになった 其の後 茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地であった 時代の変遷と共に失われ行くその風景を惜しみ心ある人達がこの碑を建てた(お茶の水保勝会 坂内熊治 高林寺 田中良彰 昭和3299日)

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水道橋周辺マップ
(青:神田川・日本橋川 茶:外堀通り・靖国通り・目白通り・白山通り)


by Twalking | 2017-05-17 10:16 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(4)江戸川橋~御茶ノ水01-飯田橋   

日時 2017.5.11(金)
天気 晴れ


夏日になりそうですが、出かけてきました。
飯田橋で降りましたので牛込城址のことを知り、
牛込台地を散策しながら江戸川橋へ向かいました。

江戸川橋から神田川は外濠へ、神田上水は水戸屋敷へ
と分流しますので、行ったり来たりしながの道中です。
整理の都合上、それぞれ別々のまとめとしました。


・・・牛込(新宿区)


新宿区
の地域名の一つで旧東京市牛込区の範囲を指す。主な地名としては神楽坂市谷および早稲田が牛込地域に該当する。江戸時代は大名や旗本の住む武家屋敷が集中した地域で伝統ある山の手の住宅街である。一方で町屋も少なからず形成され、古くからこの地に住む住民が多くコミュニティ活動が活発なことも当地の特色である。地名のとおり牛込の歴史は少なからずに縁がある。701年(大宝元年)大宝律令により武蔵国に「神崎牛牧(ぎゅうまき)」という牧場が設けられ「乳牛院」という飼育舎がこの地に建てられたという。古代の馬牧が今日東京都内に「駒込」「馬込」の地名で残されているところから「牛込」がこの牛牧に比定された。Wikipedia

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街道の風景① 牛込見附から早稲田通りを江戸川橋へ向かいます/飯田橋駅

牛込見附

飯田橋駅西口から左へ進み跨線橋(牛込橋)を渡りきったあたり、日本基督教団富士見町教会前の交差点近辺に江戸城牛込門の枡形があった。道を挟んで向かい合っていた2基の見附櫓の基部が残っている。名称は(城内から)牛込方面へぬける門の意。門から北西へ延びる道がいわゆる神楽坂である。Wikipedia

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街道の風景② やはりここは裏路地が風情があって面白いですね/神楽坂

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神楽坂
神楽坂の由来については「坂の途中にあった穴八幡の御旅所で神楽を奏したから」「津久戸明神が移転してきた時にこの坂で神楽を奏したから」「若宮八幡の神楽がこの坂まで聞こえてきたから」「この坂に赤城明神の神楽堂があったから」などの説があります(案内板)

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善国寺
(ぜんこくじ)
新宿区神楽坂にある日蓮宗の寺院である。旧本山は大本山池上本門寺で鎮護山善国寺という。開基は徳川家康、開山は日惺上人と伝わる。安土桃山時代の文禄4年(1595)池上本門寺第12代貫主である日惺上人により馬喰町に創建される。たびたび火災に見舞われ麹町を経て寛政5年(1793)には現在地へ移転した。本尊の毘沙門天は江戸時代より「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集め芝正伝寺・浅草正法寺とともに江戸三毘沙門と呼ばれた。現在は新宿山ノ手七福神の一つに数えられている。(Wikipedia

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善國寺の毘沙門天像
神楽坂の毘沙門天さまとして江戸時代より信仰をあつめた毘沙門天立像である。木彫で像高30cm、右手に鉾、左手に宝塔を持ち磐座に起立した姿勢をとる。造立時期は室町時代頃を推定されるが、詳しくは不明である。加藤清正の守本尊だったとも土中より出現したともいわれる。善國寺は、文禄4年(1595)德川家康の意を受けて日惺上人により創建された。この像は日惺上人が鎮護国家の意をこめて当山に安置したもので、上人が池上本門寺に入山するにあたり二条関白昭実公より贈られたと伝えられる。毘沙門天は別名を多聞天と称し持国寺・増長天・広目天と共に四天王の一つである。寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に世に現れたといい北方の守護神とされる。善國寺の毘沙門天は江戸の三毘沙門と呼ばれ多くの参詣者を集め、明治・大正期には東京でも有数の信仰地として賑わった。現在も、正月・5月・9月の初寅の日に毘沙門を開帳し、賑わいを見せている。(新宿区教育委員会)

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善國寺の石虎
安山岩製の虎の石像で像高は阿形(右)が82cm、吽形(左)は85cmで、台石・基礎部も含めた総高は両像ともに2mをこえる。台石正面には浮彫があり虎の姿を動的に表現している。嘉永元年(1848)に奉納されたもので、阿形の台石右面には「岩戸町1丁目」「藁店」「神楽坂」「肴町」などの町名と世話人名が刻まれ、寄進者が善國寺周辺の住民であったことがわかる。石工は原町の平田四郎右衛門と横寺町の柳沼長右衛門である。善國寺は毘沙門天信仰から「虎」を重視し、石虎の造立も寄進者らの毘沙門天信仰によると考えられる。また、台石に残された寄進者名や地名は江戸時代後期における善國寺の毘沙門天信仰の広がりを示している。石虎は都内でも珍しく区内では唯一の作例である。戦災による傷みが見られるが希少な石像であるとともに地域にとっても貴重な文化財である。なお、阿形の台石正面にある「不」に似た刻印は明治初年のイギリス式測量の几号水準点で残存している数は全国的にも少ない。新宿区指定民俗文化財(新宿区教育委員会)

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江戸名所図会 牛込神楽坂 
(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


・・・袋町


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牛込台地上にあり見晴らしがよかったことから戦国時代には牛込氏がこの地一帯に牛込城を構えたが、後北条氏滅亡後廃城となった。江戸時代には地蔵坂に牛込肴町に属する町屋があり、藁を売る店が多かったことから「藁店」(わらだな)と呼ばれた。また坂上は牛込北御徒町(現・北町)に入るところで御徒組の門に突き当たり袋小路となっていたため袋町と呼ばれた。1645年(正保2年)当地に光照寺が移転し門前町が形成された。Wikipedia

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光照寺山門/袋町


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光照寺
浄土宗、増上寺の末寺である。この地は室町初期に上野国(群馬県)大胡から移って来た大胡(のち牛込)氏の築いた牛込城の跡といわれ、光照寺は正保2年(1645)に神田から移転した。この付近は見晴しの良い高台で昔は江戸湾に出入りする船が望見できたと伝えられている。光照寺は出羽(山形県)松山藩主酒井家の江戸における菩提寺であったため、初代忠恒をはじめ歴代藩主一族の墓が並んでおり大名家の威勢をしのばせてくれる。

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境内には東京のほうずき業者が昭和16年に建てた珍しい「海ほうづき供養塔」をはじめ、金石学研究家奥田抱生の墓、徳川家の奥右筆だった大久保北隠の石庭風の墓、狂歌師便々館湖鯉鮒(文政元年45日没、法号は便了院殿松誉夕山居士)の墓(区登録史跡)などがある。また「諸国旅人供養碑」(区登録文化財)は神田松永町の旅籠屋紀伊国屋の店主利八が文政8年(1825)に旅行先で死亡した人々の菩提をとむらうためにたてたもので、信濃(長野県)、奥州(福島・宮城県など)、越後(新潟県)など関東、中部、東北の諸国からの旅人の名が記されている。(新宿区の文化財)

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出羽国松山藩主酒井家墓地
この墓域は出羽国松山(松嶺)藩主酒井家一族の墓所である。松山藩は徳川の譜代大名であり、庄内藩初代藩主酒井忠勝の3男忠恒が分家して、正保4年(16472万石で創設された。明治の廃藩置県に至るまで8代を数える。このうち3代藩主忠休が寛延2年(1749)より26年間幕府の若年寄りの要職を務めた功により、安永8年(1779)上野国に5千石が加増され築城も許された。光照寺には初代忠恒以下代々の藩主及び妻子の墓があるが、一族のうち江戸で死去したものは光照寺に、国元で死去したものは酒田市初山心光寺に葬られた。現在同寺には国元の有志により3代の廟所が設けられている。8代以降数代はカトリックに改宗したため墓所は台東区谷中に移された。江戸期における大名墓は一般に国元ではよく保存されているが、府内のものは次々に消失している。新宿区内では当寺のものを含む数カ所のみである。(説明板)

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牛込城跡
光照寺一帯は戦国時代この地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。牛込氏は赤城山の麓上野国(群馬県)勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とする。天文年間(153255年)に当主大胡重行が南関東に移り北条氏の家臣となった。天文24(1555)重行の子の勝行は姓を牛込氏と改め、赤坂、桜田、日比谷付近も含めて領有したが、天正18年(1590年)北条氏滅亡後は徳川家康に従い牛込城は取り壊される。現在の光照寺は正保2(1645)に神田から移転してきたものである。なお、光照寺境内には新宿区登録文化財「諸国旅人供養碑」「便々館湖鯉鮒の墓」などがある。(東京都新宿区教育委員会)

牛込氏(墓所・宗参寺)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24131657/


・・・筑土八幡町


町域南端部を大久保通りが通っている。地名の由来となっている筑土八幡神社があり筑土八幡町の中心的な存在となっている。(Wikipedia

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筑土八幡神社参道/筑土八幡町

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筑土八幡神社
昔、嵯峨天皇の御代(今から約1200年前)に武蔵国豊島郡牛込の里に大変熱心に八幡神社を信仰する翁がいた。ある時、翁の夢の中に神霊が現われて「われ、汝が信心に感じ跡をたれん」と言われたので、翁は不思議に思って目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現われて松の梢にとまった。翁はこのことを里人に語り神霊の現われたもうたことを知り、すぐに注連縄をゆいまわしてその松を祀った。

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その後、伝教大師がこの地を訪れた時この由を聞いて神像を彫刻して祠に祀った。その時に筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので筑土八幡神社と名づけた。さらにその後、文明年間(今から約500年前)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾してこの地の産土神とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。現在、境内地は約22002あり昭和20年の戦災で焼失した社殿も、昭和38年氏子の人々が浄財を集めて熊谷組によって再建され、筑土八幡町、津久戸町、東五軒町、新小川町、下宮比町、揚場町、神楽河岸、神楽坂4丁目、神楽坂5丁目、白銀町、袋町、岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。(説明板)

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石造鳥居
石造の明神型鳥居で享保11(1726)に建立された区内で現在最古の鳥居である。高さ375cm、幅470cm、柱35cm。柱に奉納者名と奉納年が刻まれておりそれにより常陸下館藩主黒田豊前守直邦により奉納されたことがわかる。(新宿区教育委員会)

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庚申塔
寛文4(1664)に奉納された舟型(光背型)の庚申塔である。高さ186cm。最上部に日月、中央部には一対の雌雄の猿と桃の木を配する。右側の牡猿は立ち上がり実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側の雌猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく大変貴重である。(新宿区教育委員会)

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江戸名所図会 筑土八幡宮・同明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)



・・・赤城元町
(あかぎもとまち)

町域の中央付近に地名の由来にもなっている赤城神社があり、町域の中心的な存在となっている。(Wikipedia

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赤城神社鳥居/赤城元町


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赤城神社
明治維新までは赤城大明神や赤城明神社と呼ばれた。岩筒雄命(いわつつおのみこと)と相殿として赤城姫命(あかぎひめのみこと)を祀る。岩筒雄命は火の神である迦具土神(かぐつち)より生まれ経津主神(ふつぬしのかみ)の親神にあたるという。赤城姫命は一説によると神社を創建した大胡氏の息女と伝わり別当寺である東覚寺の本地仏であった。鎌倉時代の正安2年(1300)上野国赤城山の麓から牛込に移住した大胡彦太郎重治により、牛込早稲田の田島村に創建されたと伝わる。文安元年(1444)には大般若経が奉納された。

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寛正元年(1460)江戸城を築城した太田道灌により牛込台に移された。その後、弘治元年(1555大胡宮内少輔により現在地に移される。江戸時代には徳川幕府によって江戸大社の一つとされ牛込の鎮守として信仰を集めた。『江戸名所図会』では「赤城明神社」として紹介され大胡重泰(おおごしげやす)により創建されたこと、牛込の鎮守であり別当寺は東覚寺(天台宗)であることなどが記されている。
Wikipedia
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江戸名所図会 赤城明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

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街道の風景③ 牛込台地を江戸川橋へ下ります/東西線神楽坂駅付近

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渡邊坂/江戸川橋通り
江戸時代坂の東側に旗本渡邊源蔵の屋敷があったのでこう呼ばれた。源蔵は500石取りの御書院番で寛文7年(1667)に市谷鷹匠町の屋敷と引替えにこの屋敷を拝領し、渡邊家は幕末までこの地にあった。(標柱)


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子育て地蔵尊/地蔵通り商店街(文京区関口)
三方を台地に囲まれたこの地が一面の田畑であったころ、近くの江戸川(現在の神田川)がしばしば氾濫した。この地蔵尊は明治の初めにいずこからか流れてきてここに留まったものと言い伝えられている。やさしいお顔の尊像に接した里人がこの地におまつりして以来、子育て・商売繁盛、またこの地域が戦災のほか大火に見舞われないことから「火伏せ地蔵」として敬われている。地元では「延命講」をつくり地蔵尊をお守している。(文京区教育委員会)


・・・関口(文京区)

西古川町、東古川町、小日向町、松ヶ枝町、関口町、関口水道町、関口駒井町、関口台町などが合併されて誕生。正保年間(16441648)には関口村と称していた。地名の由来は奥州街道の関所、神田上水を神田川に分流するための堰があったからなど諸説あり。(Wikipedia

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神田川の風景① 下ってきた右岸の牛込台地と左岸の小日向台地の間を南へ流れます/江戸川橋

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江戸川橋               江戸川橋公園/目白通り

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石切橋の由来
この橋は江戸時代の初期・寛文年間(166173年)に架けられたといわれ、かつてこの橋の周辺に石工が住んでいたことからその名がついたともいわれますが定かではありません。明治時代中頃の記録によれば、この橋は長さ8間半3(およそ長さ15m・幅5m強)の木橋で、当時この付近では最も幅が広く大きい橋でした。中流域にあたるこの付近では昭和40年位まで神田川を江戸川という名で呼んでおりこの橋も元は江戸川大橋と呼ばれていたそうです。(案内板)

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西江戸川橋
この橋は明治後期の資料によると西江戸川町(現在の文京区水道2丁目)牛込五軒町(現在の新宿区西五軒町)との間に架けられた木橋であったそうです。橋が架けられた時期などは定かではありませんが、橋の名はこうした地名に因んで付けられたものと推察されます。また、明治初期の資料にはこの橋の記載はありませんが明治20(1887)頃の地図ではこの橋と見られる橋が現在よりやや上流に記されています(案内板)

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中之橋の由来
この橋が架けられた時期は明確ではありませんが、江戸時代初期に(1670年頃)刊行された「寛文江戸図」の中には無名ながらこの橋を見つけることができます。当時はまだ現在のようにたくさんの橋がなかったので、この橋の下流側の隆慶橋と上流側の石切橋の間にあることになり「中之橋」と名付けられてといいます。明治時代中頃、この橋を挟む両岸一帯に桜が植えられ明治末頃まで東京市内屈指の桜の名所として知られていました。(「東京江戸川の桜」/案内板)
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神田川の風景② 白鳥橋から大きく右にカーブしていきます/大曲交差点(目白通り)
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明治20年頃の西江戸川橋付近(東京実測図/案内板)
(青:神田川 紺:神田上水)


・・・飯田橋

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江戸時代、千代田区側外堀の城壁である土居にかこまれてこの目白通りも飯田橋もありませんでした。明治初年(1868)に簡単な木橋がかけられましたが、明治14年(1881)に土居が掘切られて車の通行ができるになりました。明治23年(1890)には鉄製の橋にかわり、昭和4年(1929)に現在の橋がかかりました。飯田橋と言っても町の名前ではありません。JR飯田橋駅の新宿側の橋の名前です。その向こう側に船河原橋があります。こちらの橋の方が飯田橋より古いのかもしれません。現在の飯田橋という町は、以前は飯田町と言われていました。戦後の町名変更で飯田橋となって飯田町という町名は残っていません。(飯田橋散歩路)
(「飯田橋界隈」安政3年・1856/案内板 青:神田川 緑:外濠 赤丸:牛込御門・小石川御門)

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街道の風景④ 外濠の内側はオフィス街、記念碑が並びます/東西線飯田橋駅前

飯田橋サンポーロ
昔々、縄文時代の頃このあたりは波の打ち寄せる入江でした。その後、海は後退して葦の生い茂る広い湿地となりました。徳川家康が江戸に来て大規模な築の城工事が行われこのあたりは湿地から旗本屋敷にかわりました。九段坂、中坂を中心とした元飯田町は町人の町として賑わいましたが、明治になって旗本屋敷の後は住む人もなくなり、一時は大変さびれました。しかし、次第に賑わいを取り戻し現在のようなビル街に変わりました。この飯田橋散歩路に標柱を建てこの町の移りかわりを示します。(飯田橋散歩路)


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日本大学開校の地
明治22年(1889)ここ皇典講究所内に維新の志士・吉田松陰門下、時の司法大臣である山田顕義により日本法律学校が創立されました。これは日本大学の前身にあたります。明治28年(1895)に三崎町に移りました。(飯田橋散歩路)

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國學院大學開校の地
明治15年(1882)この地旧飯田町5丁目に国学を研究する皇典講究所が設けられました。明治23年(1890)、皇典講究所を母体として所長山田顕義によって國學院が開校しました。現在の國學院大學です。大正12年(1923)、渋谷に移りました。(飯田橋散歩路)

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甲武鉄道飯田町駅明治22年(1889)新宿-八王子間に甲武鉄道が開業し、同28年(1895)には市街線として延長され飯田町駅が開業し現在の中央線の始発駅となりました。同37年(1904)我が国で初めて飯田町-中野間で電車が運転され、円板型自動信号機が設置されました。その後甲武鉄道は御茶ノ水方面に延長されました。同39年(1906)甲武鉄道は国有化され昭和8年(1933)に飯田町駅は貨物専用駅となりました。この奥のホテルエドモントが旧駅構内で改札口は小石川側にありました。(飯田橋散歩路)

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神田川の風景③ 歩道橋から江戸川橋方面の景観です。外濠に合流し東へ流れます/飯田橋交差点

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街道の風景⑤ 右が飯田橋、左の船河原橋から外濠の流路となります/飯田橋交差点

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飯田橋親柱              橋下は外濠からの流れです

飯田橋

神田川に架かり小石川橋の上流約550mの所にあります。飯田橋34丁目の間と新宿区下宮比町を結ぶ目白通りの橋です。明治初年に橋が架けられ近くに飯田町があることから飯田橋と名付けられました。明治23年(189011月に修築、同41年(19081023日に鉄橋に改架して渡り初めを行いました。現在の橋は昭和4年(1929410日に架設、長さ18m、幅27.2mのコンクリ-ト橋です(千代田区観光協会)

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船河原橋
飯田橋の直ぐ東側に船河原橋がV字状にあります。外堀通りの内回り左折車の一方通行路として交通渋滞の緩和に役立っています。もともとの船河原橋は飯田橋と「カギ形」に新宿区と文京区を結ぶ外堀通りの橋です。この橋は江戸図にも出てくる古くからある橋です。現在の橋は昭和45年(1970)に架けられたコンクリ-ト橋です。この橋から枝分かれした形で飯田橋とV字形に並んでいますので飯田橋の一部と見られがちです。なお、飯田橋西側の外濠埋立て地にあるセントラルプラザの庭園に流れるせせらぎに可愛い橋があります。「ひいらぎ橋」といい、昭和59年(19843月のセントラルプラザの完成と同時にオ-プンし人々の憩いの場に花をそえています。この庭園にはこのほかに「かえで橋」「けやき橋」「さくら橋」がありますがこれらの橋は新宿区に入ります。(千代田区観光協会)

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セントラルプラザ前の親水公園/飯田橋駅

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牛込揚場跡碑/親水公園
江戸時代には海からここまで船が上ってきた。全国各地から運ばれてきた米、味噌、醤油、酒、材木などがこの岸で荷揚げされたのでこの辺は揚場と呼ばれた。昭和47年(1972)に都の市街地再開発事業としてビル建設が決定され飯田濠は埋め立てられることになったが、濠を保存してほしいという都民の強い要望からビルの西側に飯田壕の一部を復元すると共に以前水面があったことにちなんで約230mのせせらぎを造った。小濠の水はこのせせらぎの地下水路を通って昔のとおり神田川に注いでいる。(東京都)

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安藤広重 絵本江戸土産「牛込揚場」
『牛込御門外北の方 船河原橋より南の方 町武の第宅軒を並べ 東南のかたより御堀にて材木および米味噌はさら也 酒醤油始め諸色を載せてここに集へる 船丘をなせり故に揚場の名は負けらく これより四谷赤坂辺まで運送す因ってこの所の繁華山ノ手第一とせり』
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飯田橋周辺マップ
(青:神田川 紺:神田上水 緑:外濠 茶:目白通り・早稲田通り・大久保通り・外濠通り)


外濠(市ヶ谷・飯田橋)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23284543/

by Twalking | 2017-05-14 23:50 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 妙正寺川02-新井薬師   

日時 2017.5.3(水)
天気 晴れ


後半は新井薬師周辺、江古田古戦場、哲学堂、
中井に入ると上高田の寺町と見所一杯、
道を探しながらでしたので時間がかかりました。

初めての場所なのできるだけ寄り道しましたが
新井薬師と哲学堂はじっくり見るのがお勧めです。
川筋は蛇行してるのでうまく組み合わせるといいですね。


・・・新井(中野区)


中野区の北部寄りに位置する。東部は上高田に、南部は早稲田通りを境に中野と接する。北部は妙正寺川を境に沼袋と西部は野方に接している。早稲田通り沿いは中野駅から徒歩10分程度で利用可能。北西部には平和の森公園(旧中野刑務所)が設置されている。地名は新井薬師(梅照院)を由来とする。この寺院が名称の由来となった西武新宿線の新井薬師前駅は駅前の通り一つ隔てて隣の上高田にあり町域外である。(Wikipedia

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妙正寺川の風景① 今度は右岸の平和公園から新井薬師へ向かいます/新道橋

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ここは中野刑務所の跡地、まだ未完成でのようですがいい森です/平和の森公園

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平和の森公園と弥生時代の遺跡
明治43年(1910)に市ヶ谷から移転して以来、中野刑務所は70年余年間この地にありましたが、昭和58年(1983)廃庁となりました。平和の森公園はこの中野刑務所跡地に造られ、昭和60年(1985)に開園したみどりの防災公園です。園内には先土器時代(約13000年前)から江戸時代末期までの複合遺跡である平和の森公園北遺跡が発見されています。特に弥生時代後期(約1800年前)の竪穴式住居や土器が多く、隣接する新井3丁目遺跡を含めて約260軒もの住居を持つ集落が発掘されました。当時の村の有力者の墓と見られる方形周溝墓が区内では初めて発掘されました。(歴史と文化の散歩道・薬師平和の森散歩)

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豊多摩刑務所
大正・昭和を通じて東京府豊多摩郡野方村(中野区新井3丁目)に存在した刑務所。豊多摩監獄や中野刑務所と呼ばれた時代もある。特に1925年(大正14年)の治安維持法制定以後は思想犯が多数収監された。四万坪に及ぶ跡地は現在、平和の森公園および法務省矯正研修所東京支所となっている。研修所敷地内に監獄の表門が保存されている。(Wikipedia)写真は矯正研修所内に残る旧正門です)


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新井天神北野神社鳥居/新井

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新井天神北野神社
御祭神:菅原道真公(天神様)
残存する梅照院縁起に「開基の行春より数代後の住持玄鏡が、天和年間に手植の梅一株を北野天満宮に献じた」とあります。当社は天満宮として天正・天和(16世紀)の頃には新井の里の鎮守であったと思われます。豊かな水に恵まれた新井の村は妙正寺川の水害からの守護を天神様に祈り、すべての食物の御親である保食神に豊作を祈願しました。天神様として祀られた菅原道真公は世に優れた学者であり右大臣にまで出世されたことから、後には学問の神として尊崇を集め学業成就・子の成育・家内安全・家門隆盛・事業繁栄・工事安全・交通安全・厄除など祈願する人が多くなりました。(新井天神北野神社HP)

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合祀社宝樹稲荷社由来
江戸時代後期の文化14年(1817)に板倉勝政氏により市ヶ谷の邸内に守護神として鎮守されてたのが始まりである。平成2710月矯正研修所施設移転に伴い北野神社境内社稲荷神社に合祀され現在に至る。尚、本殿横の宝樹稲荷社社号碑(背面由来書あり)は前鎮守地境内にあったものを当地に移設したものである。(説明板)

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天神信仰と撫牛
牛は菅原道真公の「おつかい」と考えられています。菅原道真公を祭神とする神社では牛が聖獣とされ、境内に臥(ふ)した牛の像が安置されていることが多いです。また撫で牛には農耕神や雷神として祀られてきた天神が道真の御霊と結びつき、その一方で農耕のなかで大切にされ天の祟りを祓う獣でもあった牛と天神信仰とが結びついたことにより、牛が天神の使いと考えられるようになったものと考えられます。(新井天神北野神社HP)

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力石
この石碑の周囲にめぐらされている13個の大きな石は「力石」といって昔、若者たちが力くらべに使ったものです。今日とは違い娯楽の少なかった時代には神社の祭礼は人々の最大の楽しみでした。祭りの日、若者たちは大きな石を頭上に高くかかげてその力を競い合い、持ち上げた石に重量や姓名を刻んで奉納したものです。刻まれている銘文からは新井村や上高田村から集まった若者たちが、38貫目余(約143.5kg)~70貫(262.5kg)までの石を持ち上げ奉納したことがわかります。力石の行事は娯楽の面だけではなく、その多くが神社の境内にあることからも本来は神事儀礼であり、また重い石を持ち上げることにより一人前として社会に認められた当時の通過儀礼のひとつでもありました。(中野区教育委員会)

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梅照院山門/新井

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梅照院
東京都中野区にある真言宗豊山派の寺院。新井山梅照院薬王寺と号する。中野区最大の寺院であり西武新宿線の駅名にもなるなど都内でも有数の著名寺院である。駅前から山門にかけては商店街の続く門前町となり地域住民からも新井薬師として古来親しまれている。なお、新井の名は当地で新たに井戸を掘ったことに由来するもので、足立区にある西新井大師と同じ真言宗豊山派の寺院。高尾山薬王院、日向薬師、峰の薬師ともに武相四大薬師に数えられる。

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また当寺の井戸水(白龍権現水)は一般に開放されており飲用水として多くの人がここの水を汲みに来る。天正4年(1586)僧・行春により創建された。本尊は空海作の伝承を有する薬師如来と如意輪観音像である。本尊は表を薬師如来、裏を如意輪観音とする二仏一体の像であるとされ、秘仏であるが12年に一度、寅年のみに開帳される。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の五女で後水尾天皇中宮の和子(東福門院)が当寺の薬師如来に眼病平癒を祈願したところたちまち回復したとされることから、特に眼病治癒の利益に関して有名になった。その他子育てなどにも利益があるとされている。

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現在も広大な境内に本堂、不動堂があるほか境内の一部が公園になっている。また、南北朝時代にこの地域に本拠地を構え、南朝方(新田義貞)についた窪寺氏の葬地にもなっている。
Wikipedia



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本堂再建供養塔
この塔は梅照院(新井薬師)の再建に尽した住職運樹の業績と信徒の信仰心にこたえるため、安永8年(1779)後継者の英俊が高野山延命院の引導地蔵尊を模して建立したものです。碑文によれば「梅照院は天正14年(1586)行春が建てたことに始まる。本尊の薬師仏は弘法大師の手刻といわれている。住職が薬師仏のお告げでつくった小児の妙薬(夢想丸)はどんな難病にも効能があった。延享元年(1744)運樹が住職に迎えられると御利益が広まりいっそう寺運が盛んとなった。明和元年(1764)寺院が焼失した。老僧運樹は直ちに仮仏殿を造りさらに本堂再建の大願をたて趣意書を示して広く喜捨を募った。しかし明和4年(1767)本堂の建立をまたず75歳で没した。あとを継いだ英俊は10年以上も苦労の末、安永8年(1779)の春ついに本堂の落成に至った」ことが記されています。(中野区教育委員会)

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梅照院境内

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山門                  地蔵堂

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境内地にある新井薬師公園、ここは憩えますね


・・・松が丘


中野区の北東部に位置する。東部は上高田・新宿区西落合に、北部は新青梅街道を境に江古田、西部は妙正寺川を境に沼袋に、南部は新井に接する。町域内を中野通りが縦貫し、地域内で妙正寺川と江古田川とが合流している。丘の名の通り哲学堂通りから中野通りへと高低差が激しい。明治初期まで片山村と呼ばれていたところで、住居表示の施行によって新町名を制定する際、哲学堂公園周辺の台地がかつて松林で有名であったことにちなみ、最終的に「松が丘」が採用された。(Wikipedia


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妙正寺川の風景② 西武線を越えて江古田橋を頂点にU字形に大きく蛇行して流れます/松が丘

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江古田橋               大きくカーブします

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江古田川が左岸から合流します/江古田公園

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江古田川
練馬区豊玉地域から中野区江古田地域にかけて流れる一級河川。練馬区ではかつて中新井村を流れていたことから中新井川とも呼ばれる。開渠区間2 km弱。水源は学田公園の溜池で付近の湧水を合わせて南に流れる。江古田の森公園北辺から中野区内部に入り江古田地域を流れた後、松が丘の江古田公園にて妙正寺川に合流する。(Wikipedia

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江古田古戦場跡/江古田公園(松が丘)
このあたり哲学堂公園から野方6丁目にいたる新青梅街道沿いの一帯は、文明9年(1477太田道灌豊島泰経らが激戦をしたところです。ここでの合戦は享徳の乱1454-1482)という長期にわたる内乱の中での戦でした。享徳の乱は古くからの豪族に支持された関東公方足利成氏と太田氏が仕える関東管領上杉氏とが対立するなかで、結城・武田氏により管領上杉憲忠が殺害されたことがもとで起きました。この乱により関東は二分され、幕府などの支援をうけた上杉方は武蔵・相模・西上野をおさえましたが、そのとき江戸城を根拠地とした道灌は武蔵国の領主たちを支配下にまとめ戦を有利にすすめるために重要な役割をはたしました。ここでの合戦は武蔵野の開発を行って来た豊島氏にかわって、太田氏武蔵野支配確立するうえで大きな意味をもっていました。(中野区教育委員会)

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碑文
文明9年(1477413日上杉定正の臣江戸城主太田道濯は関東管領上杉顕定及び定正を襲うて敗走せしめた。長尾景春の党豊島泰明を平塚城に攻めて帰ったが、泰明の兄豊島泰経等石神井練馬両城より泰明救援のため馳せ来るを迎えて、江古田原沼袋の地に激戦し泰経は翌14日敗死し、後遂に石神井等を陥れた。この事は史籍に明徴有り、道灌の偉業の一つに数うべきであらう。道灌江戸築城以来ここに五百年わが区は道灌戦蹟の地に因み碑を建てて永くその事績を伝えんとするものである。(昭和31101日東京都中野区)

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片山北野神社鳥居/松が丘


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片山北野神社
当社は往昔天神社と称し古来北野神社の鎮守社であった。文明9年(1477)太田道灌が石神井、練馬両城攻略のさいこの社に詣で戦勝を祈願したとも伝えられる。社の付近に葛ケ谷古戦場も存している。明治五年北野神社と改称した。また口碑によれば慶長12年(1607)京都北野神社造営のさい、里人菅公を崇拝のあまりここに奉祀したともいう。明治17年一時江古田村に合し、江古田村の一衆落になり江古田氷川神社に所属したが、昭和89月社殿改築とともに片山村の氏神とし神苑も整備した。(東京都神社名鑑)

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北野神社のおびしゃ
この神社は長い間天満宮ともよばれ新編武蔵風土記稿にもみえています。この神社では昔から「おびしゃ」(御歩射・備射)の神事が行われてきましたが、いまではそれも行われなくなって伝統を語る古老も少なくなってしまいました。「おびしゃ」の神事は関東地方東部で行われる春の農村行事で、弓で的を射てその年の農作物の豊凶を占うものですが、いつ頃からか神と人の直会(なおらい)の宴のような色合いが濃くなり大正頃には、光の強飯式(ごうはんしき)に似た行事に変ってしまったそうです。この神事は2月の初午の日と秋の例祭の2回行われ、当初は当番と両隣りの家が本膳を用意し、おとなたちは祝いのうたを歌いこどもたちは豊年祈願の文章を読むのが恒例になっていました。(中野区教育委員会

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妙正寺川の風景③ 中野通りを渡った左岸の丘一帯が哲学堂公園になります


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哲学堂公園


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中野区立哲学堂公園(東京都指定名勝)
哲学堂公園は哲学館大学(現東洋大学)創始者である井上円了氏が、文部省より大学公称の許可を得たのを記念し一堂(四聖堂)を建立(明治37年(1904))したのに始まります。その後、自らの退隠所及一般人に対する精神教育、社会教育の場としての「精神修養的公園」とするために私費を持って創設した公園です。井上氏の死後は財団による管理を経て昭和19年(1944)に東京都へ寄付されました。昭和21年に東京都により「哲学堂公園」として開園し、その後中野区へ移管され現在の「中野区立哲学堂公園」となりました。台地部分の広い範囲を「時空岡」と称する中心広場とし、四聖堂などの主要施設を設けています。南側低地部に「唯物園」と「唯心庭」と称する哲学空間を配し、道筋には「経験坂」や「二元(にげん)衛(く)」などの哲学的思考状況を示す場所を設定しています。舌状台地先端の立地と崖、川や泉の自然地形を利用し、哲学的空間・概念を巧に配した特異な公園です。四聖堂や六賢台、宇宙館などの建物は、井上氏の哲学的思想と奇抜な意匠により哲学堂公園の代表的な建造物となっています。(東京都教育委員会)

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哲理門
哲学堂の本堂である「四聖堂」の正面にあたる門で「妖怪門」とも呼ばれている。門の両側には仁王尊の代わりに左右それぞれ「幽霊」と「天狗」の木彫りを納めている。(案内板)

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六賢臺(ろっけんだい)
ここに東洋的六賢人として日本の聖徳太子・菅原道真、中国の荘子・朱子、印度の龍樹・迦毘羅を祀っている(案内板)


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四聖堂
本堂に東洋哲学の孔子と釈迦、西洋哲学のソクラテスとカントの「四聖」を世界的四哲人として祀るために建立されました。



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絶對城(図書館)
万巻の書物を読みつくすことは絶対の妙境に到達する道程であって、哲学界の万象はこの読書堂にありとしてこの名がある。(案内板)



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宇宙館
哲学とは宇宙の真理を研究する学問であってその講和または講習を開かんがために設けられた講義室である。

皇國殿
本館(宇宙館)内部に横斜して位置する特殊構造の一室であり国家社会の原理を講究する哲学堂として本殿が設けられたものである。(案内板)
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心字池
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哲学堂公園案内図

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新井周辺マップ
(青:妙正寺川 茶:新青梅街道・早稲田通り・中野通り)


・・・上高田

中野区の東部に位置する。地域の東部は妙正寺川を境に新宿区中井・中落合に接し、南東部は新宿区上落合とも接する。北部も概ね妙正寺川を境として新宿区西落合に、南部は早稲田通りを境に中野区東中野・中野に、西部は中野区松が丘・新井に接している。南部の早稲田通り沿いは寺院が多く寺町となっている。「上高田」の地名は江戸初期に成立した多摩郡上高田村に由来するものであるが、現在「上高田」と呼ばれる町域は1960年から1967年にかけて整備された町割による。(Wikipedia
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妙正寺川の風景④ この先川を境にして左岸は中井、右岸は上高田になります。

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萬昌院功運寺山門/上高田


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萬昌院功運寺
中野区上高田にある曹洞宗の寺院。山号は龍寶山(りゅうほうざん)。赤穂事件(忠臣蔵)で知られる吉良義央の墓がある。元々は萬昌院という寺と功運寺という別々の寺であったが1948に合併してできた寺である。

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萬昌院
萬昌院は山号を久寶山(くほうざん)といい天正2年(1574)の創建と伝えられる。開基は今川長得、開山は仏照円鑑禅師(喚英長応)長得は戦国大名今川義元三男であり長得の兄今川氏真もはじめは萬昌院に葬られた。また、今川家と先祖を同じくする一族であり、江戸時代初期には極めて近い姻戚関係にあった吉良家菩提寺にもなっている。もともとは江戸城半蔵門近くにあったがその後市谷田町、筑土八幡町(いずれも現在の新宿区)と幾度かの移転を繰り返した。1914年に現在地に移転してきたが、1917年に火災により本堂・書院などが焼失してしまった。(写真:今川家歴代の墓)

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功運寺
功運寺は山号・竜谷山といい慶長3年(1598)の創建である。開基は永井尚政、開山は黙室芳闇禅師。永井尚政は将軍徳川秀忠のもとで老中を務めた人物で功運寺は永井家菩提寺となっている。創建当初は江戸城桜田門外にあったが三田(芝三田功運町)に移り1922年に当地に移転してきた。その後、戦後の1948年に萬昌院と功運寺が合併し現在に至っている。本尊は釈迦如来坐像。(Wikipedia 写真:永井家の墓

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吉良家の墓
この万昌院はもと千代田区永田町にありましたが、のち新宿区の市谷・筑土八幡をへて大正2年現在地に移ってきました。幕府高家の吉良家はこの寺を菩提寺としていました。義定・義弥・義冬・義央の4代にわたってその墓石・供養塔が建てられています。高さの違いはありますがいずれも宝篋印塔です。相輪部の彫りが深く、特に請花や笠部の墨飾突起はどれも外方に向って突出するなど江戸時代の作風を示しています。義央の石碑面に「元禄15壬午1215日」と刻まれているのは、赤穂浪士の討ち入りの際に死去した史実を裏付ける金石文として興味深いものです。なお、昭和55年義央の墓前には「吉良家忠臣供養塔」と「吉良邸討死忠臣墓誌」が建てられました。(中野区教育委員会)

今川氏累代墓(観泉寺)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24083934/

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宝泉寺仁王門/上高田
すぐ隣は
宝泉寺、曹洞宗のお寺です。板倉内膳正重昌の墓所があります。


・・・中井/新宿区

新宿区北西部に位置する。町域北東端で新目白通りと山手通りが交差している。町域の北は新宿区中落合4丁目に接している。東は山手通りを境に新宿区中落合1丁目に接する。町域西部から南部にかけては妙正寺川が町界となり西から南西は中野区上高田、南部は新宿区上落合に接する
Wikipedia
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妙正寺川の風景⑤ この辺りはちょっとした渓谷、西武線を潜ります

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中井御霊社鳥居/中井


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中井御霊社
中井御霊神社は創建が不明であるものの、古くから落合村中井の鎮守でした。この神社には「備射祭」(新宿区指定文化財)に使われる的を描く際に、「コンパス」として用いる『分木』(新宿区指定文化財)が保存されています。2本の『分木』の存在によって江戸時代以前にすでに「備射祭」が行われていたことがわかります。

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また『雨乞のむしろ旗』(新宿区指定文化財)も保存されています。これは江戸時代に農民が雨乞いの行事で用いたものです。「竜王神」と墨書され干害に備えて竜神に降雨を願いました。現在のむしろ旗は幕末頃のものと推定されます。素朴な農民の信仰がうかがえる貴重な民俗資料です。(新宿観光振興協会)




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林芙美子記念館/中井通り        中井駅前

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妙正寺川の風景⑥ 山手通り中井富士見橋を潜ります/中井駅前


・・・落合(町)


東京府豊多摩郡
にかつて存在した町の一つである。ほとんどが武蔵野台地を構成する豊島台上にあるが、妙正寺川・神田川の周辺には谷底平野が形成されている。この2つの川は当地で合流しており地名の「落合」の由来にもなっている。(Wikipedia

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妙正寺川の風景⑦ かつてはこの先で神田川と合流していました/下落合駅入口

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現在は高田馬場分水路に流入      神田川を高田馬場駅へ


神田川(下落合)の関連記事こちらへ(http://teione.exblog.jp/24113633/

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落合周辺マップ
(青:妙正寺川・神田川 茶:哲学堂通り・山手通り・目白通り・新目白通り)

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妙正寺川流域マップ
(橙:妙正寺川 緑:善福寺川 赤:神田川)

by Twalking | 2017-05-08 16:28 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 妙正寺川01-妙正寺池   

日時 2017.5.3(水)
天気 晴れ


神田上水は大洗堰で神田川から取水し、
神田や日本橋に水を供給していましたが、
妙正寺池はその水源のひとつになります。

ここも訪ねてみたいと思っていましので、
大洗堰に辿り着いた機会に歩いてみました。
この辺りは初めてなので楽しみです。



・・・清水/杉並区


杉並区の中北部に位置する。町域の北部は早稲田通りを境に同区下井草に、西部は環八通りを境に同区今川・桃井に、南部は天沼本通りを境に同区天沼に、東部は本天沼にそれぞれ接する。妙正寺が置かれこれに隣接して妙正寺公園がある。同公園内にある妙正寺池を水源に妙正寺川が流れている。江戸時代には下井草村の一部であった。1932年(昭和7年)に東京市杉並区に編入された際「清水町」の地名が生まれた。この地の旧家にあるから清水が湧き出ていたことから江戸時代には「清水」が字の名として使われるようになった。
Wikipedia

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池の風景① 住宅地の小さな公園ですが、ここが妙正寺川の水源です/妙正寺公園

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妙正寺公園/清水
妙正寺川の水源にもなっている妙正寺池を中心に遊具や広場が整えられており、周辺住民の憩いの場として知られる。園内で妙正寺川に支流の井草川(現在は暗渠)が合流している。妙正寺池は古来より武蔵野台地の湧水池のひとつとしてあり、1352年に池のほとりに日蓮宗の寺院である妙正寺が建てられた。池の名前はそれに因んでいる。妙正寺は現在でも池の南側に在り杉並区でも有数の由緒ある寺として知られている。妙正寺の弁財天はかつて妙正寺池のほとりにあったものである。付近の宅地化とあわせて公園として整備され、公園としては1963年に開園した。現在では湧水量が減り池の水は人工的に揚水しているものである。Wikipedia

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妙正寺山門/清水

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妙正寺
法光山妙正寺は日蓮宗の寺で十界諸尊を本尊とし、ほかに大黒天・鬼子母神・三十番神・弁財天などの諸像が祀られています。約600年前の文和元年(1352)中山法華経寺(千葉県)の第3世日祐上人が妙正寺のほとりに堂を建て、法華経守護の天照大神・八幡大神・春日大神など三十番神を勧請したのが草創であり、正保3年(1646)中興開山日明が社殿再建してから広く信仰されるようになったといいます。慶安2年(16493代将軍徳川家光が鷹狩りの折、神前に武運長久を祈願し葵の紋幕と朱印地五石を寄進してからは「御朱印寺」として一層有名になりました。

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現在でも毎年1025日に三十番神堂に葵の紋幕を掲げて一般に公開する法会が行われています。天保元年(1830)に本堂は古文書類と共に焼失しましたが天保3年には再建され、昭和6年に改築して今日に至っています。また、三十番神堂及び鐘楼は安政3年(1856)の大暴風で倒壊し安政6年に再建されました。

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現在の鐘楼は昭和38年に新しく建て替えられました。当寺に伝わる鎌倉期から室町期の板碑8基は妙正寺池周辺の古い村落のことがうかがえる貴重な文化財です。鬼子母神像は「生毛鬼子母神」と称され、安産に霊験ありとして江戸城大奥にありましたが天保改革(1841)の大奥粛清の時この寺に移されたもので、それ以来この地域の人々に「安産の神」として親しまれてきたといわれます。なお弁財天像はもと妙正寺池の弁天島に祀られていたものです。(杉並区教育委員会)

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中瀬天祖神社/清水

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中瀬天祖神社当社は「新編武蔵風土記稿」多摩郡下井草村の条に「十羅刹堂」とあり「妙正寺ヨリ三町程北ノ方小名神戸ニアリ。妙正寺御朱印地ノ内ナリ 即此ノ寺ノ持」と記されています。十羅刹とはもと人を食う悪魔でしたが、後に法華経を守る守護神となった10人の羅刹女といわれています。このことから日蓮宗の妙正寺がここに十羅刹を祀ったものと思われます。明治以前は従羅刹様、神明様などと称していましたが、維新後の神仏分離令(明治元年)によって天祖神社と改称されました。祭神は大日孁貴神(天照大神の別の尊称)・市杵嶋姫命(天照大神の姫神)・保食神(穀物や食物の神)の三神です。

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また、このほかに市杵嶋神社・稲荷神社合殿の境内社が一社あります。「神社明細帳」の由緒には「当社は井草八幡宮の境外神社」で井草川の西岸神戸坂の上に在り、極めて古き社にして、神体は一大石剣なり」とあります。この神体を霊石とする伝説があり、昭和20年頃までは例祭日には社前で餅をつき「下ベロ餅」という丸餅を参拝者に配りました。この餅を食べると子宝が授かるといわれ延宝からも多数の参拝者があり「神戸の鎮守様」として昔から親しまれてきました。天祖・稲荷それぞれに講中があり、100余名の氏子が熱心に維持管理に当たっています。例祭日は10月15日です。(杉並区教育委員会)


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妙正寺川の風景① GWですね、鯉のぼりが泳いでます/落合橋

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橋落合橋               両岸に遊歩道がついています

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妙正寺川
妙正寺川は妙正寺池を水源とし区内北部をほぼ東へ流れる延長約9km(区内部分約1.2km)の川で、中野区・新宿区を経て神田川に合流し最後は隅田川にそそぎ込みます。武蔵野台地上にある杉並区では地下67mに武蔵野砂礫層が堆積しており、その中を流れる地下水が標高約50m付近にある窪地から地表に湧き出て飲料水などとして利用されてきました。この湧水も現在ではほとんど見ることができませんが妙正寺池もその一つです。

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本川の流域には小規模な縄文・古墳時代の遺跡が点在しており、古代から人々の生活に適した環境をつくり出していたものと思われますが、水量はそう多くはなかったので江戸時代になって千川用水より引水し、神田川上水の助水として利用されてきました。しかし梅雨の頃になると水量が増えるので、人々が集まり竹竿の先につけたジョレンなどを使い、川をさらったり長く伸びた川藻を刈取ったりしました。又昔は神奈川県の大山阿夫利神社を信仰する人が多く、その講中の人々は代参人を大山に送る時、下流の寺前橋付近にあった「清めの不動様」を祀る大水門で水垢離をとったといわれ、日照りが続くと阿夫利神社からの神水と妙正寺から借りた太鼓を先頭に大水門から村中を練り歩き、最後にその神水を川に流し雨の降ることを祈ったといわれています。(杉並区HP)

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妙正寺川の風景② 左岸の遊歩道です、のんびり歩けますよ~/宮前橋付近

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永久橋/早稲田通り           松下橋/旧早稲田通り

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銀杏稲荷神社/下井草
当社は旧下井草村の鎮守で社名は神社の裏山にあった銀杏の大木に由来しています。創建は棟札に「抑当社勧請者元和21616)歳比、先祖外記造営(下略)」とあり、井口家の先祖である井口外記といわれています。井口家は相州(現神奈川県)の三浦氏の末裔といわれ天正年間(1573-1592)に当地に移り住んだもので、その一族の多くは名主・年寄役などを勤めました。井草の地名のおこりも井口姓を名乗った長佐衛門なるものが「草分け長佐衛門」と呼ばれたことからおこったという説もあります。村の鎮守として祀られた当社は、かつては境内も200坪ほどあり、江戸時代には下井草村の妙正寺が別当として管理していましたが、現在は井口家を中心とする30数軒の講中の稲荷として地元の人々に信仰されています。現在も残されている文政12年(18292月に下井草村氏子中が奉納した「正一位銀杏稲荷大明神」の大幟は当時からも稲荷信仰が盛んだったことをうかがわせる貴重な資料です。毎年2月初午には世話役の頭を中心にして、この大幟と各講中持ち回りの幟を立て、井草八幡宮より御幣を戴き御神酒及び種々の御供物をして、赤飯を子供達に与、五穀豊穣・講中安全・子孫繁栄を祈願しています。祭礼は2月初午です。(杉並区教育委員会)

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妙正寺池公園周辺マップ
(青:妙正寺川 茶:環状8号・旧早稲田通り・早稲田通り・新青梅街道)


・・・鷺宮/中野区

中野区の北西部に位置する。町域の東部は中野区野方・丸山に、北部は練馬区中村南・中野区上鷺宮に、南部は中野区若宮・白鷺に、西部は杉並区井草に接する。地名は1064源頼義がこの地に八幡神を祀った社殿を建立した(現在の鷺宮八幡神社)。その神社(宮)の境内にが多く棲んでいたことから里人に「鷺宮大明神」と呼ばれるようになりこれがこの地名の起因といわれる。江戸時代は多摩郡上鷺宮村・下鷺宮村の一部。上鷺宮村は今川直房の所領、下鷺宮村は幕府直轄領となる(Wikipedia


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妙正寺川の風景③ 中野区に入り、駅前を右折して八幡神社へ/八幡橋(西武新宿線鷺宮駅)

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交通危除地蔵尊(福蔵寺)           妙正寺川改修記念碑/白鷺

白鷺

白鷺は1965年の住居表示施行により成立した町名である。住居表示前の旧町名・鷺宮から鷺か宮のどちらか1文字を残したいという住民の要望が、町域内にある福蔵院という寺院の山号「白鷺」と一致しこれをそのまま採り入れたものである。(Wikipedia

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鷺ノ宮八幡神社鳥居/白鷺


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鷺ノ宮八幡神社
当社の創建は康平7年(1064)陸奥守源頼義勅を奉じ東国平定後、鎌倉街道に面した当地に社殿を建て八幡神の御神霊を奉祀し戦勝感謝国家安泰、源氏の隆昌を祈願したのが始めであると伝えられる。往昔境内に老樹、林立し鷺が多く棲んでいたので里人は鷺宮大明神と称しこれが地名の起因になった。正保2年(1645今川直房所領の折、八幡神社と改称した。慶安2年(1648)以降江戸幕府より御朱印7石余を寄進せられ、中野区内に於て御朱印を付与された唯一の神社で崇敬厚き古社である。

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戦後宗教法人法により発足し昭和25年国有境内地346221049坪)の譲与を受け、同35年本殿、幣殿・拝殿50坪天地改築、及手水舎改築、明治100年記念事業として同40年御嶽神社、同42年稲荷神社を堂舎境内に合併改築、同年神楽殿改築、参集殿新築、石塀設置、同50年天皇陛下御在位50年記念、狛犬設置、同56年本殿・幣殿屋根葺替え改修、同63年天皇陛下御在位60年記念事業として社殿改修、常夜燈設置等神社の面目一新し今日に至っている。(境内掲示板)

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福蔵院山門/白鷺

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福蔵院
福蔵院は真言宗豊山派の寺院で僧頼珍が大永元年(1521)に創建したとされています。江戸時代には隣接する鷺宮八幡神社別当寺を務めていました。御府内88ヶ所霊場の14番札所です。山門をくぐった右側には不動明王(初七日)、釈迦如来(二七日)、文珠菩薩(三七日)、普賢菩薩(四七日)など石造の十三仏があります。この十三仏は死後の忌日をつかさどるもので、冥界で生前の審判を受ける死者の救済を願って江戸初期のころ奉られたものです。(まるっと中野HP)

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福蔵院の13
ここにならぶ仏菩薩が13仏です。右から不動明王(初7日)釈迦如来(27日)文殊菩薩(37日)、普賢菩薩(47日)地蔵菩薩(57日)弥勒菩薩(67日)薬師如来(77日)観世音菩薩(百か日)勢至菩薩(一周忌)阿弥陀如来(3回忌)阿閤如来(7回忌)大日如来(13回忌)虚空像菩薩(33回忌)です。この13仏の仏菩薩は死後の忌日をつかさどるもので、冥界で生前の審判を受ける死者の救済を願ってまつられたものです。このように自他の供養がまとめて修められることから室町時代以降、民間で広く信仰されました。銘によれば8体は寛文6年(1666)の大日如来像を最古として、貞享2年(1685)の普賢菩薩像に至る19年間に造立され、あとの5体は破損したものとみえ、現存のものは100余年後の寛政8年(1796)に真言講中の27人によって再建されたものです。このように石像で13体そろったものは都内でもめずらしく他の石仏と同様、江戸時代後期の日常生活に深く根づいていた庶民信仰の現われといえましょう。(中野区教育委員会)
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境内の紅葉が青々として素晴らしいですね

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鷺宮駅周辺マップ(青:妙正寺川 茶:中杉通り)



・・・大和町
(やまとちょう)

中野区の北西部に位置する。東部は環七通りが通りこれを境に中野区野方12丁目に接する。北部は妙正寺川を境に中野区野方五丁目・若宮に、西部は中野区白鷺と杉並区阿佐ヶ谷北に接している。南部は早稲田通りを境に杉並区高円寺北に接している(Wikipedia

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妙正寺川の風景④ 鷺宮付近から大きく湾曲し蛇行しながら流れます/鷺盛橋付近

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下鷺橋                川北橋

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大和八幡神社鳥居/大和町


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大和八幡神社
永承年間(104652)奥羽地方征討の途中の源義家が高台のこの地で京都石清水八幡宮を遥拝祭儀を行なった。義家を慕い同八幡宮を信仰した村人たちが天喜4年(1056)ここに同八幡宮の御神霊を勧請して八幡神社を造営したと伝えられ、以後地域の鎮守として崇敬されてきた。社殿は昭和3年の改築と新しいが貞享2年(1685)の地蔵尊像、宝暦11年(1762)の手洗盤、文政13年(1830)の狛犬一対、文久3年(1863)の石燈籠等古いものが残る。(説明板)

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神社参道付近に育英(こそだて)地蔵堂と厄除不動堂が並んで建ってます

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環状7号線を横断します。前方が西武新宿線の野方駅です

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この先は行き止まり、新昭栄橋を左に迂回して遊歩道に戻ります/新昭栄橋


・・・沼袋


中野区の北部に位置する。東部と南部は妙正寺川を境に東部は中野区松が谷と、南部は中新井に接する。西部は中野区野方に接する。北部は新青梅街道を境に中野区江古田に接する。『鎌倉大草紙』には1478年(文明8年)に太田道灌、上杉朝昌、千葉自胤以下が江古田原沼袋に馳せ向かったと記録されている(江古田・沼袋原の戦い)。江戸期には上沼袋村と下沼袋村に分村されていた。(Wikipedia

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妙正寺川の風景⑤この辺りから見所が多くなります、先ず左岸へ/沼袋駅付近

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沼袋氷川神社鳥居/沼袋


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沼袋氷川神社
当社は正平年間(134670)に武蔵国一の宮である大宮鎮座の氷川神社より御分霊をいただいて当地に奉祀したのにはじまると伝えられる。文明9年(1477太田道灌が豊島一族と江古田原・沼袋の地で合戦したさい戦勝を祈願して社頭に杉一本を献植、後年道灌杉と呼ばれていたが昭和19年枯損した。正保年間(164448)代官野村彦太夫が社殿を修築し文久4年(1864)石鳥居が建てられ、明治13年(氏子数70軒余)社殿を改築、大正11年幣殿を増築、大正15年社務所を新築する。昭和15年皇紀2600百年記念として表参道に石大鳥居を建立、記念植樹がなされた。(境内説明板)

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道灌杉
当神社には太田道灌が植えたといわれる道灌杉がありました。惜しくも昭和19年頃(1944)枯れてしまいましたが、当時の写真からは高さが30mに達し樹齢数百年にもなると思われるご神木の姿がしのばれます。文明9年(14774月対立関係にあった関東管領方の武将太田道灌と関東公方方の豊嶋泰経(やすつね)は江古田と沼袋の地で戦闘を交えました。(江古田・沼袋合戦)その際、道灌によって戦勝を祈願して植えられたのがこの道灌杉であると伝えられています。道灌はこの合戦に勝利し、豊嶋氏にかわって武蔵野台地を支配しました。(中野区教育員会)

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三本願い松
古来より「悪しきことはスギ去れ、願い叶うをマツ」と杉の木に願いを掛けて不運・災難から逃れ、松の木に幸福を願うと必ず叶うと信じられてきました。豊かな森がいつでも身近にあった我々日本人には自然の恩恵や営み、特に木に宿る魂に対する謙虚な姿勢がありました。「三本願い松」に思いを託し大神さまのお蔭を頂き健康で豊かな日々をお過ごしくださいますよう祈念申し上げます(案内板)


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禅定院山門/沼袋 

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禅定院
禅定院瑠璃光山薬王寺。真言宗豊山派。禅定院は南北朝時代の中期、貞治元年(1362)の開創と伝えられる寺院です。開創の地は後世の新橋村(多摩郡野方領下沼袋村から枝分かれした村)でありましたが、後に現在の寺地に移りました。草創期のご本尊は薬師瑠璃光如来であり山号と寺号はこのことに由来しています。

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現在のご本尊は鎌倉時代後期の作とされる不動明王立像です。旧上沼袋村の伊藤家とその一族の菩提寺としての特色を持っていたことから伊藤寺とも呼ばれていました。明治16年霊場巡拝の信仰の一つ「御府内八十八カ所」の第48番霊場(林松院)の弘法大師像が奉安されたことから第48番霊場となりました。また、檀信徒や地域の方々の要望により幼児期の教育の場として昭和29年に沼袋幼稚園を設立し現在に至っております。(禅定院HP)

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沼袋駅周辺マップ
(青:妙正寺川 茶:環7・中野通り・新青梅街道・早稲田通り)



by Twalking | 2017-05-07 11:16 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(3)高田馬場~江戸川橋03-目白台   

日時 2017.4.25(火)
天気 晴れ

早稲田から対岸の目白台へ向かいます。
ここは歩いたことがありますが緑が多く
史蹟もありますので楽しめます。

河辺も味わいがありますし、坂も魅力的。
永青文庫や芭蕉庵は是非訪ねてみたい所です。
名所図会にある清水坂もよかったですよ。
神田川でこの界隈が人気があるのがわかりますね。


・・・目白台(文京区)

山手線内とは思えないほど公園や緑が多い地域である。高台の閑静な文教地区であり、また古くは大名屋敷であった。現在の東大病院分院跡地は松平出羽守の下屋敷、日本女子付属豊明小学校は大岡主膳正の下屋敷、日本女子大付属豊明幼稚園は鳥羽藩の下屋敷、肥後細川庭園(旧新江戸川公園)は細川家の下屋敷だったところである。この地に目白不動とよばれた新長谷寺(本尊は現在は金乗院に移される)という寺があった。地名は目白台という台地に由来。(Wikipedia

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神田川の風景① 神田川の豊橋から目白台地の縁を江戸川橋へ向かいます/豊橋

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坂の風景① 豊川稲荷社から目白通りへ登る坂です/豊坂
 
豊坂/目白台
坂の名は坂下に豊川稲荷社があることから名付けられた。江戸期この一帯は大岡主膳正の下屋敷で明治になって開発された坂である。坂を下ると神田川にかかる豊橋があり、坂を上ると日本女子大学前に出る。目白台に住んだ大町桂月は『東京遊行記』に明治末期のこのあたりの路上風景を次のように述べている。「目白台に上れば女子大学校程近し。さきに早稲田大学の辺りを通りける時、路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが、ここでは海老茶袴をつけたる女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ、云々」坂下の神田川は井之頭池に源を発し、途中、善福寺川、妙正寺川を合わせて流量を増し、区の南辺を経て隅田川に注いでいる。江戸時代、今の大滝橋のあたりに大洗堰を築いて分水し、小日向台地の下を素堀で通し江戸市民の飲料水とした。これが神田上水である。(文京区教育委員会)

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旧高田豊川町(昭和41年までの町名)
もと、小石川村の内である。延享年間(174448)以前に町屋を開き小石川四ッ家町(伝通院領)といった。明治2年町内の豊川稲荷神社の豊川と付近一帯を下高田と呼んでいたので町名を高田豊川町とした。同5年旧大岡主膳正、稲垣摂津守、小笠原信濃守などの大名屋敷及び武家地を併せた。同34年元小石川村飛地字豊川、高田村字明神下を合わせた。明治34日本女子大学校(日本女子大学)が目白台2丁目に成瀬仁蔵によって創立された。成瀬記念講堂はコンドルの孫弟子田辺淳吉の設計により建てられた。(文京区)

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豊川稲荷神社/目白台(坂下)

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肥後細川庭園大池

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肥後細川庭園/目白台
細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした池泉回遊式庭園です。目白台台地が神田川に落ち込む斜面地の起伏を活かし、変化に富んだ景観をつくり出しています。湧水を利用した流れは「鑓り水(やりみず)」の手法をとりいれて、岩場から芝生への細い流れとなり、その周辺に野草をあしらっています。池はこの庭園の中心に位置し、広がりのある景観をつくりだし池をはさんで背後の台地を山に見立てています。

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その斜面地は深い木立となっていて、池に覆いかぶさるようにヤマモミジやハゼノキの一群が秋には真っ赤に紅葉した姿を水面に映し出します。山に続く園路は深山の中の自然の尾根道のようです。所々に開けた空き地がありベンチが置かれています。もともとそこからは木々の梢の間から池や低地の町並みを見渡せるようになっていましたが、木の生長とともに森の中にいるような雰囲気となりました。(文京区HP)

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松聲閣(松声閣、しょうせいかく)
明治時代に細川家下屋敷跡に学問所として建設され、大正時代に改修された木造2階建(延べ床面積約5002)の建物。1959年に公園となって集会施設として活用されていたが老朽化が進んだため文京区が修復と耐震補強工事を行い20161月に完了した。Wikipedia

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永青文庫(えいせいぶんこ)
文京区目白台にある日本・東洋の古美術を中心とした美術館である。旧熊本藩主細川家伝来の美術品、歴史資料や、16代当主細川護立の蒐集品などを収蔵し展示・研究を行っている。文庫の所在地は細川家の屋敷跡であり、建物は昭和時代初期に細川家の事務所として建てられたものである。文庫名の「永青」は細川家の菩提寺である永源庵(建仁寺塔頭、現在は正伝永源院)の「永」と細川藤孝の居城・青龍寺城の「青」から採られているWikipedia
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熊本藩最後の御用絵師「杉谷雪樵」が描いた松聲閣の庭園


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細川家と目白台
細川家は室町幕府の三管領の一つとして武門の誉高い家柄で、現在の細川家は藤孝(幽斎)を初代として戦国時代に始まりました。代々も文武両道にすぐれた細川家は3代当主・細川忠利のとき肥後熊本54万石を与えられ、強力な外様大名として幕末に至りました。現在の永青文庫と肥後細川庭園、そして隣接する和敬塾の敷地は幕末から戦後まで広大な細川家の屋敷でした。細川邸の前にはかつて鶴・亀と呼ばれた松があり、このあたりお旧町名・高田老松町の由来ともなりました。江戸時代の切絵図には2本の松の絵が描かれています。(目白台・関口の歴史案内板)


・・・関口(文京区)


フォーシーズンズホテル椿山荘、東京カテドラル聖マリア大聖堂などが所在。2丁目と3丁目は目白台から続く高台の文教地区で獨協中学校・高等学校や東京音楽大学付属高等学校などがある。西古川町、東古川町、小日向町、松ヶ枝町、関口町、関口水道町、関口駒井町、関口台町などが合併されて誕生。正保年間(1644-1648)には関口村と称していた。地名は奥州街道の関所、神田上水を神田川に分流するための堰があったからなど諸説あり。Wikipedia


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神田川の風景②左が水神社、右が関口芭蕉庵、正面が胸突坂になります/駒塚橋

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水神社鳥居
/目白台


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水神社
祭神は速秋津彦命(はやあきつひこのみこと)、速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)、応神天皇。創建の年代は明らかでない。『江戸砂子』には「上水開けてより関口水門守護神なり」とある。わが国最古の神田上水は、徳川家康の命により大久保主水(もんと)が開いた。井頭池からの流れを目白台下の現大滝橋のあたりに堰(大洗堰)を築き、水位を上げて上水神田日本橋方面に通じた。伝えによれば水神が八幡宮社司の夢枕に立ち「我水伯(すいはく、水神)なり。我をこの地に祀らば堰の守護神となり、村民を始め江戸町のことごこく安泰なり」と告げたのでここに水神を祭ったという。上水の恩恵にあずかった神田、日本橋方面の人たちの参詣が多かったといわれる。また、このあたりは田園地帯で清らかなかんだ上水が流れ、前には早稲田田んぼが広がり後ろには目白台の椿山を控え、西には富士の姿も美しく眺められて江戸時代は行楽の地であった。(文京区教育委員会)

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坂の風景② 急坂ですが趣きのある坂です。坂上に永春文庫等があります/坂下


胸突坂(むなつきざか)
目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。坂がけわしく自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。(文京区教育委員会)

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旧関口町(昭和41年までの町名)
正保(164448)のころまで関口村といっていた。土地の人の伝えに、むかしこの辺りに奥州街道の関所があったので村名としたという。また、神田上水を江戸川に分水するため堰(大洗堰)を設けたので関口の名が起こったという。神田上水は天正18年(1590)ころの開設と伝えられるのでそれ以後に関口村の名称が起ったのではないかといわれる。天和(1681~84)以後、町家が開かれ享保5年(1720)ころには町並地となり武家屋敷もおかれた。明治5年目白台の旧武家屋敷地付近の寺地を合併して関口町となった。町が開かれるにつれて飛地ができ数ヶ町に分かれた。(文京区)

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ここが入口ですが休館日でした、またの機会に/関口芭蕉庵


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関口芭蕉庵/関口
この地は、江戸前期の俳人松尾芭蕉が延宝5年(1677)から8年(1680)まで神田川改修工事に参画し「龍隠庵」(りゅうげあん)と呼ばれた庵に住んだと伝えられている。後に世人は「関口芭蕉庵」と呼んだ。芭蕉は早稲田田んぼを琵琶湖に見立て、その風光を愛したともいわれている。そこで寛延3年(1750)宗瑞・馬光らの俳人が芭蕉の直筆「五月雨にかくれめのや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓にした。この墓を「さみだれ塚」と称した。(文京区教育委員会)旧町名案内 旧関口町 (昭和41年までの町名)

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椿山荘庭園/関口

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椿山荘
武蔵野台地の東縁部にあたる関口台地に位置し神田川に面したこの地は、南北朝時代から椿が自生する景勝地だったため「つばきやま」と呼ばれていた。明治の元勲である山縣有朋1878年(明治11年)に購入、自分の屋敷として「椿山荘」と命名した。

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1918年(大正7年)には大阪を本拠とする藤田財閥2代目当主藤田平太郎男爵がこれを譲り受け東京での別邸とした。戦災で一部が焼失したが、1948年(昭和23年)に藤田興業の所有地となり、その後1万余の樹木が移植され1952年(昭和27年)より結婚式場として営業を開始した。1955年(昭和30年)に藤田興業の観光部門が独立して藤田観光が設立されると、椿山荘の経営は藤田観光に移管された。そして1992年(平成4年)に敷地内にフォーシーズンズホテル椿山荘東京が開業した。2006年(平成18年)5月には藤田観光の本社が敷地内に移転している。(Wikipedia

鬼子母神&<関口芭蕉庵の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24149684/


・・・大洗堰跡

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神田川の風景② 遊歩道の桜並木から江戸川公園に入ります/大滝橋

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江戸川の桜/大滝橋
江戸川公園周辺の神田川は江戸時代には御留川(おとめがわ)と呼ばれ、その後昭和40年(1965年)までは江戸川と呼ばれていました。江戸川と呼ばれていた明治17年(1884年)頃、旧西江戸川町の大海原氏が自宅前の土手に桜の木を植えました。それがもとで石切橋から大曲まで約500mの両岸にソメイヨシノなどの桜が多いときで241本あり、桜の名所となり新小金井といわれ夜桜見物の船も出て賑わっていました。

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その後神田川の洪水が続き、護岸工事に伴って多くの桜は切られました。江戸川公園から上流の神田川沿いには、神田川河川改修に伴い昭和58年(1983年)に新たに桜の木が植えられ、現在では開花の時期になると多くの花見客で賑わっています。(文京区HP 写真:江戸川の夜桜「新撰東京名所図会」/案内板)


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神田上水取水口大洗堰跡
徳川家康の江戸入り(天正18年・1590)の直後、井の頭池から発する流れに善福寺池、妙正寺池の流れを落合であわせ関口で取水して水路を定めたのが神田上水である。大洗堰で水は二分されて分水は江戸川に落とし、他は上水として水戸殿に給水し、神田橋門外付近で二筋に分かれた。一つは内堀内の大名屋敷に給水し、他の一つは本町方面、日本橋で北の町屋に給水した。大正末年には水質、水量とも悪くなり昭和8年に取水口はふさがれた。上水道として最も古い神田上水の取水口である大洗堰の跡は永く歴史に残したいものである。(文京区教育委員会)
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神田上水取水口の石柱/江戸川公園
ここにある石柱は当時のもので、昭和8年大洗堰の廃止により撤去されたものを移した。なお、上水に取り入れられた余水お茶の水の堀から隅田川へ流された。上水道として最も古い神田上水の取水口である大洗堰の跡は永く歴史に残したいものである。(文京区)

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「大洗堰由来碑」について
かつてこの地には神田上水の堰があり古来より風光明媚な江戸名所として知られていました。上水の工事には俳人松尾芭蕉も関与しその旧居(芭蕉庵)は400m程上流に復元されています。大正8年東京市はこの地を江戸川公園として整備し、史跡(大洗堰)の保存に努めましたが昭和12年になり江戸川(神田川)の改修により失われたので翌年、堰の部材を再利用して由来碑を建てました。左の碑文はその文面です。由来碑はすでに失われましたが近年、この碑文のみが見つかりましたのでここに設置しました。(文京区)

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大井玄洞翁の胸像
生誕 安政元年(1855)加賀藩金沢に生まれる 明治33年(1900)より小石川区(現文京区)在住 逝去 昭和5年(1930815日 伊豆にて没す(享年75才) 
江戸川(現神田川)の治水事業は沿岸の人々にとって永年の願いであった。明治43年(1910)の大洪水の後、玄洞翁は人々の願いの実現に努力し大正2年(1913)護岸改修に着工させ大正8年(1919)に完成させた。人々は大きなの功績をたたえ永くその徳を伝えるために昭和3年(1928)江戸川公園内の当所に胸像を建てた。(文京区役所)
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江戸名所図会 目白下大洗堰 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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神田川の風景③ 公園の出入り口が江戸川橋になります/江戸川橋公園

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旧関口水道町(昭和41年までの町名)
むかし関口村の内であった。鷹匠細田加右衛門他2名の知行所であったが、延宝年間(167381)以前から村方町屋となった。貞享2年(1685)町屋が許され町奉行・代官両支配となった。そして武蔵国豊島郡関口水道町となる。明治5年、造平司(江戸末からの大砲製造所明治2年政府の東京関口製造所と改称、同3年竹橋内吹上に移転、砲兵工廠の前進)で武家屋敷地その他を併せた。江戸時代に水番所があり大洗堰の神田上水の水門の差蓋揚卸の役を勤めていた。上水の管理運営にあたる人が住んでいたので水道町の町名ができたといわれる。(文京区)



・・・目白坂

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坂の風景③ 折角なので目白坂を上り目白へ向かいました/坂下

目白坂
西方清戸(清瀬市内)から練馬経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通りこのあたりから音羽谷の低地へ急傾斜で下るようになる。この坂の南面に元和4(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。そもそも三代将軍家光が特に「目白」の号を授けたことに由来するとある。坂名はこれによって名付けられた。『御府内備考』には「目白不動の脇なれば名とす」とある。かつては江戸時代「時の鐘」の寺として寛永寺の時の鐘とともに庶民に親しまれた寺も明治とともに衰微し不動尊は豊島区金乗院にまつられている。目白台の空を真北に渡る雁 稀に見る雁の四・五十羽かも 窪田空穂(1877-1967)(文京区教育委員会)

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旧関口駒井町
古くは関口村の畑池であった。宝永元年(1704年)町家を設け元文2年(1737)ころ町奉行支配となった。町名の由来は明らかではないが「若葉梢」に次の記事がある。駒止橋(現・駒塚橋)の項目に、丸太橋であったころこの上四ツ谷の南土手に馬多く宿して駒込の馬市に出していた。目白不動門前駒井町にも駒店(馬を売る)があった。駒店があり駒がいるから駒居ー駒井の町名が生まれたのであろう。明治4年、新長谷寺門前、大泉寺門前および武家地を合併した。目白坂上に新長谷寺があった。「時の鐘」として有名であったが戦災にあい廃寺となった。(文京区)

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江戸名所図会 目白不動堂 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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正八幡神社
/関口


正八幡神社
祭神は猿田彦命、稲荷大神。古来関口台の鎮守として祀られ、江戸時代別当は龍泉山洞雲寺であった。古く水神社に並び鎮座していた椿山八幡宮を下の宮と呼ぶのに対し、上の宮ともまた関口八幡宮とも称せられた。現在の社殿並に石玉垣は昭和125月に新築したものである。(文京区神社誌)

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江戸名所図会 目白坂関口八幡宮 
(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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幸(こう)神社
/関口


幸神社

祭神は猿田彦命・稲荷大神である。道山幸神社または駒塚神社とも称した。創建年代は不詳。江戸時代、当社の祭神の猿田彦命の神像はその昔当地の崖下が入江であった頃、海中より出現した神像で神体全体に蠣殻が付着していたと伝わる。かつては神木の榎が植えられた庚申供養塚がありそこに猿田彦命を安置したという。幸神社が面する道路はかつて「清土道」とよばれ、江戸・東京から練馬などの西北近郊の村々とを結ぶ主要道の一つであった。道の神である猿田彦命を祀った当社は清土道における江戸・東京の出入り口に位置し、道行く人びとの安全を祈った祠であった。(文京区教育委員会)

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江戸名所図会 道山幸神社 
(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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旧関口台町(昭和41年までの町名)
もと、関口村の内で畑地であった。天和2(1682)町屋を開き、享保5(1720)から町奉行支配となった。町名は関口村の高台(目白台地)にあったので関口台町と称えたといわれる。関口の名称はむかしこの辺りに奥州街道の関所があったからともまた神田上水の分水のための大洗堰があったからともいわれている。明治5年旧細川越中守、黒田豊前守(現・椿山荘)、柳生播磨守ほかの武家屋敷地および寺地を併せた。目白台下に松尾芭蕉ゆかりの芭蕉庵がある。西隣の胸突坂下には神田上水の守護神であった水神社がある。芭蕉庵や水神社の一帯を椿山といった。鎌倉合戦のころこの辺りに伏兵を入れたとありそのころから椿が多かった。(文京区)

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街道の風景④ この先で目白通りに合流します、台地の上も魅力的です/幸神社前

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清戸道(きよとみち)
主に江戸時代に江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)との間を結んでいた古道である。神田川に架かる江戸川橋(現東京都文京区関口付近)を江戸側の点とし、そこから北西へ約56里(約2024km)の武蔵国多摩郡清戸(上清戸村・中清戸村・下清戸村・清戸下宿。(現東京都清瀬市上清戸・中清戸・下清戸・下宿付近)との間を結んでいたとされる。成立の経緯は明らかではない。江戸時代に尾張藩の鷹場が清戸にありそこへ鷹狩に向かう尾張藩主が通ったといわれているが、それよりも農村であった清戸から市場である江戸への農産物の輸送路としての役割が大きかった。56里という距離は当時徒歩で1日で往復できる範囲であり、清戸の農民は早暁、野菜等の農産物を背にかついだり荷車に積んだりして出発。江戸に着いたらそれらを市場や町家で売りさばき、また野菜栽培に欠かせない下肥を町家で汲み取り、それらを持って夕方には村へ帰ってこれたものと推測される。「清戸道」の名称は江戸時代以前の文献には確認できないが『新編武蔵風土記稿』では「下高田村」(現:東京都豊島区)の「村の北寄に目白より練馬辺への往還掛れり」「長崎村」(同)の「雑司ヶ谷より練馬村境界に通ずる往来あり、幅五間」といった形で清戸道に相当する道の記述が見られる。(Wikipedia

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目白台・関口周辺マップ
(赤:歩行ルート 青:神田川 茶:新目白通り 目白通り)

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神田川流域マップ(赤:神田川 緑:善福寺川 橙:妙正寺川)



by Twalking | 2017-05-02 08:45 | リバーサイドウオーク(新規)