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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(3)高田馬場~江戸川橋01-高田   

日時 2017.4.25(火)
天気 晴れ

高田馬場一帯はじっくりと歩いてみたい所です。
左岸は目白、右岸は早稲田、見所が一杯あります。
川辺も桜並木の遊歩道がついていて憩えます。

ひとまず面影橋から左岸の高田を散策。
ここは鎌倉道が通り江戸名所図会にも描かれた旧地、
閑静な住宅地ですが昔の面影が残っていい雰囲気でした。



・・・高田馬場/新宿区


高田馬場1丁目から4丁目までがある。ただし、本来の高田馬場とは西早稲田3丁目にあった馬場の名で、江戸時代に「高田馬場の決闘」が戦われたのもその地である。地名としては付近一帯(北の豊島区高田や西の中野区上高田に至る)を「高田」と呼んだ。
通称「馬場(ばば)」Wikipedia

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街道の風景① ガード下に「鉄腕アトム」の大きな壁画、夢があって楽しいですね/早稲田通り

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高田馬場再開発記念碑/高田馬場駅
高田馬場とは寛永13年(1636)この東方約1km戸塚町の中央に設けられた江戸時代旗本たちの馬術練習や流鏑馬などを行う馬場から起った名称である。歴史に残る忠臣蔵の堀部安兵衛の助太刀の馬場としても著名である。明治15年(1882早稲田大学の前身東京専門学校が早稲田の森に建設され、明治35年(1902)早稲田大学と改称、学生の往来ようやく繁くなり高田馬場駅が開設されたのは明治43年(19109月で、駅前が発展してきたのは大正初期で、名実共に早稲田大学の玄関口となり学生の町となって賑わいをみせたのは昭和になってからである。

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昭和2年(1927)西武鉄道の開通後駅前周辺は急速に繁華街として発展し、第2次世界大戦後、昭和24年(1949)都電が早稲田終点より駅前まで延長、昭和27年(1952)には西武線の新宿まで延長、地下鉄東西線は昭和39年(1964)に開通し、一方戦災を受けた駅前を近代的な都市に再開発するため昭和23年(19483月東京都から戦災復興事業として区画整理の指定を受け、改めて昭和37年(19623月高田馬場防災建築街区造成組合が設立され家屋の移転、取毀、整理を開始やがて駅前周辺に高層近代ビルが次々と建設されるに至って有志相謀り據出して駅前広場に噴水、花壇を建設、池の中央に東京芸術大学名誉教授山本豊市先生の特志の寄進による平和の女神像を安置して道行く人々に悲話と緑の憩いの場を与え往時と全く面目を一新された。ここに高田馬場沿革史上特記すべき都市再開発並びに広場修景の完成を祝して永く後世に伝えるためこの記念碑を建立するものである。(元早稲田大学総長 大浜信泉撰)

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田川の風景① 西が牛込台、東が関口台、神田川は下町低地を蛇行して流れます/神高橋

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戸田平橋
豊島区高田3丁目にある神田川に架かる橋。1999年に作られたがこれは護岸工事の際に再建されたもので、元の戸田平橋は1919年に作られた。名前の由来は新宿区の戸塚と豊島区の高田(現在はこの橋は全部豊島区に入っている)に、この橋の建設に関係した淀橋区議会議員平野与三吉から。この橋の新宿区方面のたもとに戸塚新道と戸田平橋完成の記念碑がある。この記念碑の書の書き手は北条時敬(教育者・数学者・第12代学習院院長)(Wikipedia


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記念碑/戸田平橋(右岸)
大正8年12月竣工 
戸田平橋 戸塚新道 記念碑 
従三位 北條時敬書


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源水橋
豊島区高田3丁目の神田川に架かるである。1993年に造られたがこの橋は神田川の護岸工事等の際に作り替えられたので元の橋とは違う。元の橋はいつできたか不明。

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名前の由来はかつてこの橋の付近にあった源兵衛村と水車のはじめのを取ったという説もある。この橋の欄干には水車の絵が描かれており明治時代にこの水車はこの付近に存在していた。昔、このあたりの神田川は現在より南側に流れており、現在の神高橋付近から用水路が神田川と平行して流れ、その用水路が神田川へ合流していたのがこの源水橋付近でありそこに水車がありそれを動力源にしていた工場が存在していた。Wikipedia


・・・高戸橋交差点

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神田川の風景② ここで神田川(左)に妙正寺川(高田馬場分水路)が合流します/高田橋

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街道の風景② 左右が新目白通り、前後が明治通り、その右手が都電荒川線です/高戸橋交差点

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高田橋/新目白通り
下流側にある高戸橋の間に妙正寺川合流している(正式には下落合)。名前の由来は下流側の高戸橋は豊島区高田と新宿区戸塚を合わせて高戸橋だが、それなら高戸橋とほぼ同じ場所にある高田橋も高田から戸塚に架かっているから高戸橋と記名できるのではと考える人がいると思うが、このあたりは豊島区と新宿区との区界がとても複雑になっており、高田橋は所在地としては橋全体が豊島区高田3丁目に位置するので高田橋となった。(Wikipedia

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高戸橋/明治通り
名前の由来は旧町名の豊島区「高田」と新宿区「戸塚」の両町名合成したものと考えられている。場所は新宿区と豊島区の境にあり新目白通りと明治通り(環状5号)との交差点(高戸橋交差点)の北側である。高戸橋交差点の西側、新目白通りの谷原方面に高田橋がある。(Wikipedia

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明治通りと平行して都電荒川線が通ります/神田川橋梁


・・・面影橋

面影橋停留場そばにある単純なコンクリート橋だが、太田道灌の逸話にある山吹の里の地とされ江戸時代・明治時代には名所のひとつであった。関連する名称に「姿見の橋」の名があるがこれは面影橋の別名であるとも、神田川よりやや北の小川に架かっていた橋の名であるとも言う。そのほか歌川広重の『高田姿見のはし俤の橋砂利場』(名所江戸は百景)では逆に手前の神田川をまたぐ橋が「姿見の橋」、奥の小川に架かる橋が「俤(おもかげ)の橋」と呼ばれるなどやや混乱を来している。(Wikipedia


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神田川の風景③ 桜並木の葉陰を川面に映して美しい景観です/面影橋

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江戸名所図会 姿見橋 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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面影橋の由来
目白台から続く鎌倉街道沿いにあり姿見橋ともいわれていました。橋名の由来には諸説あり、高名な歌人である在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説、鷹狩りの鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けたという説、近くにいた和田靭負(ゆきえ)の娘であった於戸姫が数々の起こった悲劇を嘆き水面に身を投げた時に歌った和歌から名付けたという説などが知られています。なお、姿見の橋は面影橋(俤橋)の北側にあるもので別の橋だという説もあります。(説明板)

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「山吹の里」の碑(左岸) 
新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋一帯は通称「山吹の里」といわれています。これは大田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日「七重八重花は咲けども 山吹の みのひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられ道灌が無学を恥じそれ以来和歌の勉強に励んだという伝承で『和漢三才図会』(聖徳2年、1712年)などの文献から江戸時代中期の18世紀前半には成立していたようです。「山吹の里」の場所についてはこの地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などとする説があって定かではありません。ただ、神田川対岸の新宿区一帯は昭和63年(1988)の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や鎌倉街道の伝承地などが集中しており中世の交通の要衝地であったことは注目されます。この碑は神田川の改修工事が行われる以前は面影橋のたもとにありましたが、碑面をよく見ると「山吹之里」の文字周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享3年(1686)に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。(豊島区教育委員会)


・・・高田/豊島区(左岸)

高田馬場
の北東側にあたる。北側に学習院大学(豊島区目白)と雑司が谷ある。東側に新宿区早稲田に文京区目白台、南側に新宿区高田馬場、西側に新宿区下落合と接しており豊島区の境界にあたる(境界は神田川)。都電荒川線が通っている。神田川沿いの低地と関口台地(目白台地とも)の境目となるため坂が多く、中でものぞき坂は都内でも有数の急坂として知られる。Wikipedia

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高田氷川神社/高田
氷川神社の創建は武蔵国一の宮氷川神社を当地に分霊したことに始まるといわれる。祭神は素盞嗚命・奇稲田姫命・大巳貴命(大国主命)の三柱で平安時代の歌人・在原業平(六歌仙の一人)も参拝したと伝えられる。「江戸名所図会」(天保51834年刊)などの地誌によれば、当神社は江戸時代には氷川大明神と呼ばれ下高田村(豊島区高田・雑司ヶ谷・目白・文京区目白台)の総鎮守として信仰を集めていた。また、当神社の主神が素盞嗚命であることから俗に「男体の宮」といわれ、奇稲田姫命を主神とする落合村(新宿区下落合)の下落合氷川神社の「女体の宮」と合わせて「夫婦の宮」と呼ばれていたという。明治時代には氷川神社と改称し第2次世界大戦中には昭和20413日の空襲により境内の建物と宝物の大半が焼失した。現在の社殿は昭和29年に再建されたもので境内には神明神社・高田姫稲荷神社・道祖神社も祀られている。毎年正月には弓矢で的を射って災難除けを祈願する「御奉射祭(おびしゃさい)」が江戸時代より行われ、現在は成人の日に執行している。なお寛政2年(1790)に鳥羽藩主稲垣対馬守が寄進した鳥居・狛犬(文化41807年奉納)石燈籠(明治111878年奉納)玉垣が平成3年(1991)に豊島区登録文化財となった。(豊島区教育委員会)


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南蔵院山門/高田
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南蔵院
真言宗豊山派に属し大鏡山薬師寺南蔵院という。寺伝では開山は室町時代の円成比丘(永和21376年寂)とされる。本尊の薬師如来は木造の立像で、奥州藤原氏の持仏といわれ円成比丘が諸国遊化のとき彼の地の農家で入手し、奉持して当地に草庵を建て安置したのが開創であると伝えられる。正徳6年(1716)の「高田村絵図」(東京都公文書館蔵)には境内部分に「薬師堂」・「南蔵院」の文字の他山門、薬師堂と思われる建物および樹木3本が描かれている。

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また、江戸時代の地誌にも紹介されており「江戸名所図会」や「新編武蔵風土記稿」では徳川3代将軍家光がしばしば訪れたと記している。現在の境内には元禄9年(1696)に神保長賢により寄進された山吹の里弁財天の石碑と手水鉢や庚申塔、六地蔵、彰義隊九士の首塚などの石造物があるほか、墓地内には相撲年寄である片男波、粂川、雷、音羽山、二子山、花籠などの墓がある。また三遊亭円朝作の「怪談乳房榎」にゆかりの寺でもある。(豊島区教育委員会)

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江戸名所図会 南蔵院・鶯宿梅 氷川社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

江戸時代の高田村
天保5年(1834)に刊行された「江戸名所図会」では、高田村付近の様子が長谷川雪旦による3枚の挿絵付きで紹介されている。「高田」と題された挿絵の中央に南蔵院が配され境内に薬師堂と鶯宿梅(おうしゅくばい)が描かれている。鶯宿梅は江戸幕府3代将軍徳川家光が自ら植えたといわれ、このときすでに枯れていたとされるが「新編武蔵風土記稿」では鶯宿梅の実から育った木が院内にあると記している。南蔵院の前には右橋、付近には高札場や茶店、道には籠・馬などが描かれている。道を隔てたところには高田氷川神社がある。これらの位置関係や道の曲がり方などは、現在もほとんど変わっておらず江戸時代の名残りをとどめている。(豊島区教育委員会)

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金乗院山門 山門の左手に「長谷寺」の石塔が立ちます/高田

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金乗院/高田金乗院 
金乗院は真言宗豊山派の寺院で、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが草創とされています。永順の没年は文禄3年(15946月であることからそれより以前天正年間(1573-92)の創建と考えられます。当所は蓮花山金乗院と称し中野宝仙寺の末寺でしたが,のちに神霊山金乗院慈眼寺と改め護国寺の末寺となりました。江戸時代には近辺の此花咲耶姫社などの別当でしたが、昭和204月の戦災で本堂等の建物や水戸光圀の手になるという此花咲耶姫の額などの宝物は焼失しました。現在の本堂は昭和46年に再建され平成15年に全面改修されました。

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目白不動堂(東豊山浄滝院新長谷寺)は元和4年(1618)大和長谷寺代世小池坊秀算が中興し関口駒井町(文京区)にありましたが昭和205月の戦災により焼失したため、金乗院に合併し本尊の目白不動明王像を移しました。目白不動明王は江戸守護の江戸五色不動(青・黄・赤・白・黒)の随一として名高く目白の号は寛永年間(1624-44)に3代将軍徳川家光の命によるといわれています。

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墓地には槍術の達人丸橋忠弥、青柳文庫を創設した青柳文蔵などの墓があり、境内には寛文6年(1666)造立の倶利伽羅不動庚申塔をはじめ寛政12年(1800)造立の鍔塚など多くの石造物があります。(豊島区教育委員会掲示)
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街道の風景③ 坂下から鬼子母神へ続く鎌倉街道、いい坂です/金乗院前 

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宿坂道
中世の頃「宿坂の関」と呼ばれるところがこのあたりにあった。この坂の名が宿坂道と残っているのはおそらくそれにちなむものと思われる。「宿坂の関」は鎌倉街道の道筋にあったものといわれ、したがってここ宿坂はその街道上の地名と考えられる。古地図によると鎌倉街道は現在のこの道よりやや東寄りに位置していたが一応ここも鎌倉街道の名残といえよう。今から300年ほど前このあたりには樹木が生い茂り昼なお暗くくらやみの坂道として狐狸の類がとびはねて通行人を化かしたなどという話もいまに伝わっている。(豊島区教育委員会)

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江戸名所図会 宿坂の関旧跡 金乗院 観音堂 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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根生院山門/高田

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金剛寶山 延壽寺 根生院/高田
本尊は薬師瑠璃光如来(秘仏)。創建は寛永13年(16363代将軍徳川家光公がその乳母・春日局の発願により大和の国(奈良県)小池坊(長谷寺)より栄誉を招き開山とし、神田白壁町に堂宇を建立し薬師瑠璃光如来像を本尊とし号を「金剛寶山延壽寺根生院」と称したのがその歴史の始まりである。正保2年(1645)第2世栄専の時、下谷二長町に移り江戸城西の丸祈願所として寺領250石を賜った。貞享47月(1687)新義真言宗江戸四ヶ寺の一ヶ寺となった。同年8月仁和寺御堂光明院の院室を兼務して院家となり歴代の住職は幕府の命によって選ばれる寺となった。

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この地はもと尾張候下屋敷であったものを田安家に譲り渡され、文政のころは一つ橋屋敷となったと伝えられている。下屋敷跡であり池あり丘あり樹木ありまた清泉涌き出た幽境の地であり、宿坂より山門までの参道は欅の並木があり山門の奥には満々たる水を湛えた池があり四季折々を楽しませた。昭和20年付近一帯の戦火の犠牲となり山門を除いて焼失した。戦後、都市化が進み本堂跡は住宅地となり昭和28年境内地の一部に再建され平成14年現在の堂宇に改築された。
Wikipedia


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神田川の風景④ この辺りは川底に岩盤が見られます、遊歩道を戻ります/中之橋

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街道の風景④ 左岸の高田から右岸の早稲田へ向かいます/面影橋停車場

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高田馬場駅周辺マップ
(青:神田川・妙正寺川 緑:鎌倉街道 茶:早稲田通り・新目白通り・目白通り・昭和通り)


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資料ファイル

宿坂道
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『鎌倉街道の面影を残す宿坂を訪ねる』
徳川家康によって江戸が開府される以前に武蔵野には鎌倉から東北にいたる「鎌倉街道」が通っていた。豊島区内では都電荒川線「鬼子母神前」駅から目白通りを渡り「面影橋」へ向かう道がその古い道の一本にあたるといわれている。その途中、カーブして南へ下る急坂「宿坂」はもっとも鎌倉街道の面影を残す道だ。 宿坂は由緒ある「金乗院(目白不動)」前の坂道。この裏には中世の頃「宿坂の関」と呼ばれる関所が設けられていた。「宿坂の関」は鎌倉街道の道筋にあったものと伝えられ宿坂はその街道上の地名と考えられるが、古地図によると、鎌倉街道は現在のこの道よりやや東よりに位置している。宿坂の地名の由来には、昔、練馬方面から江戸に来るときここで一泊しなければならなかったため、この名がついたという一説もある。「宿坂の関」廃止後はここに茶屋ができたという。往来の人の立て場であったところから「立丁場」と呼ばれた。また、今から300年ほど前のこのあたりは樹木が生い茂り昼間でも暗く寂しい場所だったらしい。したがって俗に「くらやみ坂」ともいわれ「狐狸がとびはねて、通行人を化かした」という話しも今に伝わっているほど。『江戸名所図会』雪旦画「宿坂関旧趾金乗院 観音像」によると菅笠に杖の人物二人が急坂をジグザグに上る姿が描かれている。その急坂は現在と同じようなカーブで描かれているのが興味深い。(豊島区HP)


雑司ヶ谷鬼子母神の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24149684/




by Twalking | 2017-04-28 08:36 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(2)明大前~高田馬場02-下落合   

日時 2017.4.19(水)
天気 晴

淀橋、小滝橋、田島橋と風景は全く違いますが
それでも名所図会などで当時を想いながら歩るくと、
これもまた味わいがあって楽しいものです。

両岸には桜並木の遊歩道が続きますので
歩くのには最適、くつろげます。
スポットだけでしたので「街」もみてみたいですね。



・・・淀橋(青梅街道)

新宿区と中野区の境の神田川に架かる青梅街道上の橋。現在の新宿駅西口の一帯を指す地域の旧称でもある。
淀橋(橋の名称)はかつて姿見ずの橋、面影橋などと呼ばれていたが「淀橋」となった理由にはさまざまな説がある。Wikipedia

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街道の風景 青梅街道が神田川と交差します/淀橋

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青梅街道
1603年(慶長8年)、江戸城築城のために青梅の成木村で採れる石灰を運搬する道路として、大久保長安の指揮の下に整備された。当時の名称は成木街道であった。しかし、江戸時代中頃には絵図や紀行文などに「青梅街道」の記述が見られる。内藤新宿で甲州街道から分かれ、青梅、大菩薩峠を経由し、甲府の東にある酒折村(現:甲府市酒折)で甲州街道と再び合流する。(Wikipedia

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淀橋の由来
「淀橋」の名は江戸時代の3代将軍徳川家光が名付けたといわれています。古くからこの橋は、昔は「姿見ずの橋」とか「いとま乞いの橋」といわれていたといいます。この辺りで中野長者といわれていた鈴木九郎が自分の財産を地中に隠す際、他人に知られることを恐れ手伝った人を殺して神田川に投げ込みました。九郎と橋を渡るときには見えた人が帰るときには姿が見えなかったことからその名がついたといわれます。江戸時代の初めに鷹狩のためこの地を訪れた将軍家光はこの話を聞き「不吉な話でよくない。景色が淀川を思い出させるので淀橋と改めるよう」に命じ、これ以降その名が定まったそうです。(新宿区道みどり課)

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江戸名所図会 淀橋水車 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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神田川の風景① 左岸は中野区、右岸は新宿区、区界を流れます/栄橋先


・・・東中野/中野区

中野区の最東部に位置し神田川にも接している。西部は中野区中野、南部は大久保通りを境に中央、神田川を境に東部を新宿区北新宿、北部は早稲田通りを境に新宿区上落合と中野区上高田に接する。北東部は新宿区高田馬場にも接している。町域内は主に住宅地として利用されている。鎮守は氷川神社。(Wikipedia

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神田川の風景② 左岸には「四季の散歩道」(淀橋~小滝橋)があります

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四季の散歩道案内板          末広橋/大久保通り

大久保通り
飯田橋より新宿区百人町、中野区中野を経由して杉並区高円寺南まで結ぶ道路の通称。(Wikipedia

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氷川神社鳥居/東中野(左岸)

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中野の氷川神社
この神社は旧中野村総鎮守社で、創建は長元3年(1030)に武蔵一の宮である埼玉県大宮市の氷川神社から勧請したものと伝えられています。室町時代の応永年間に社殿を改築した伝えもありますから中野村の開発とともに鎮座も古いことがうかがわれます。祭神は須佐之男命・稲田比売尊・大己貴尊の三柱で例祭は91415日ですが、もとは2627日の両日でした。江戸時代には総護摩行が行われ、湯立神楽をあげ淀橋・上宿・下宿・西町・仲宿・打越・囲・原の氏子がそれぞれの地区の幟や提灯の美を競いました。豊年には獅子舞・相撲・力石くらべなども行われて近在をあげての盛大な行事になっていました。明治・大正期の巡行はいまも語り草になっています。拝殿にある中世の石の狛犬をはじめ境内には中野の歴史を語る多くの遺品があります。(中野区教育委員会)

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二の鳥居               神楽殿


・・・北新宿(新宿区)

青梅街道、税務署通り、小滝橋通り、神田川に囲まれており面積0.9km2を占める。新宿区西部に位置する。北西から北にかけて中野区東中野、北東で高田馬場、東で百人町、南で西新宿、西で中野区中央と隣接する。(Wikipedia

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神田川の風景③ 東中野駅のユニゾンスクエアが見えてきました/新開橋

ユニゾンスクエア
(Unison Square)
中野区東中野にある高層マンションや商業施設などが集まった再開発地区の名称である。結婚式場として知られる日本閣の跡地を再開発し高層マンション2棟とスーパーマーケットなどの商業施設、さらに「West 53rd 日本閣」として新たにリニューアルされた日本閣からなっている。新しい日本閣は2005年、高層マンションは2007年にそれぞれオープンした(Wikipedia

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円照寺山門/北新宿(右岸)

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円照寺
真言宗豊山派の寺院で医光山瑠璃光院円照寺という。もと鎧神社別当寺であったといわれる。縁起については定かではないが「江戸名所図会」などによれば次のような経緯を経て藤原秀郷によって建てられたという。醍醐天皇の時代に、理源大師の弟子の貞崇僧都が現在の円照寺のあたりに薬師如来像を安置した。承平5年(935)から天慶2年(939)にかけて平将門が関東に勢力をもつようになった。天慶3年(940藤原秀郷が将門を討伐するため軍勢を率いて出陣したが中野のあたりで病に伏してしまった。あいにくと軍中に適当な薬もなくこまっていたが、その夜の霊示に従ってこの薬師如来像に祈ったところ苦痛はたちまちのうちになくなったばかりでなく、あわせて行なった将門討伐の祈願も無事に達成された。喜んだ秀郷は凱旋の後に堂塔を建立し円照寺としたという。

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また一説では、旧地頭の柏木右衛門佐頼秀館跡であったとも伝えられており、境内にその由来にもとづく右衛門桜が植えられており名木として有名だった(現在の木は三代目)。 堂宇はその後何回か焼亡し修覆をくり返した。寛永18年(1641)には春日局が施主となり再建されている。第2次大戦の戦災でも被害を受け近年になり堂塔が新築された。(新宿区の文化財)

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円照寺の梵鐘
円照寺の中興開山琳伝和尚の発願、柏木村名主川本又四郎を施主として寛政2年(1790)に鋳造された銅製の梵鐘です。総高124cm・口径68cmで江戸鋳物師(いもじ)西村和泉守藤原政時が製作しました。全体に精巧に仕上げられた梵鐘で、江戸鋳物師の技術的特徴がよく表されています。また銘文からは圓照寺の歴史や梵鐘鋳造の由来などを知ることができ、地域史料として価値も高いといえます。区内の江戸時代の梵鐘は太平洋戦争中の金属供出により現存数が少なく大変貴重です。(新宿区教育委員会)

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鎧神社鳥居/北新宿(右岸)

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鎧神社 
当社は江戸時代迄、鎧大明神と称し此の辺りの古社として人々の尊崇を受けて来たが、鎧の社名は日本武命御東征のおり甲冑六具の内を此の地に蔵めた事より社名起ると伝えている。天慶3年(940)関東に威を称えていた平将門公、下総猿島に亡びし時土俗の公を追慕して天暦(947)の始め、将門公の鎧も亦此所に埋めたという。別説によれば将門軍残党を追って此地に来た藤原秀郷、重病を得て悩み苦しんだ時、是れ皆将門公の神霊の怒り也と怖れ、薬師如来を本尊とする円照寺内に公の鎧を埋め一祠を建てて厚くその霊を弔った所、病悉く癒えたという。これを聞いた里人達その神威のあらたかなるを畏み、柏木淀橋にかけての産土神として深く信仰して来たものである。明治初年将門公は朝廷に反したものとして官の干渉で末社に移されたが、大戦後氏子全員の願いで本社に復する。(境内掲示)

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摂社天神社
御祭神 菅原道真公学問の神様・菅原道真をお祀りする摂社です。もともとは柏木北公園に鎮座しており、明治中頃に遷座されました。成子天神の元の社であることから元天神とも言われます。祭日は1125日です。(鎧神社HP)


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狛犬型庚申塔
素朴な一対の狛犬を用いた庚申塔で台座正面に「庚申奉造立供養」側面には武州豊島郡柏木村在住の講中の氏名と享保6辛丑天11月(1721)の紀年銘が記されている。向って右側が阿形像(雄)左側が吽形像()で、当時の姿をほぼそのまま残している。狛犬型の庚申塔は珍しく民俗学的にも貴重なものである。(東京都教育委員会)

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江戸名所図会 鎧明神社・円照寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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神田川の風景④ JRのガードを潜る川沿いに公園があります/東中野駅(右岸)

神田上水公園/北新宿

神田川沿いの遊歩道に沿って整備された公園です。延長約600mのなかに流れや遊具で遊べる空間があります。園内の桜並木はみどりの新宿30選に選ばれており四季折々に美しいです。(新宿区)


・・・小滝橋

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神田川の風景⑤ 「かぐや姫のヒット曲「神田川」は作詞家喜多条忠が車でこの橋を通りかかった際、自らの学生時代を想起して作ったという」そうなんですか、いい雰囲気が漂います/小滝橋(小滝橋通り)

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小滝橋の由来
神田川に架かっているこの橋は江戸時代には上戸塚村(現新宿区)と中野村(現中野区)の間に架けられていた板橋でした。小滝橋という名はかつてこの橋の下に小さな堰があり、そこから水が流れて小さな滝となっていたことから名付けられたといわれています。今はもうこの堰は残されていませんが、吉祥寺にあった油屋の小僧が大蛇を切ってしまいその下アゴの骨がこの堰まで流されてひっかかったという昔話が伝えられています。(新宿区道みどり課)

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小滝橋通り
新宿区西部にある道路。(新宿大ガード交差点から小滝橋交差点)名の由来は終点付近の神田川に架かる「小滝橋」から。(Wikipedia




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「いきいきウオーク新宿」案内板     ちょっと寄り道/讃岐屋


・・・上落合/新宿区

新宿区の北西部に位置する。町域北部は妙正寺川に接しこれを境に新宿区中落合に北東部は新宿区下落合にも接している。東部は神田川に接しこれを境に新宿区高田馬場に接する。南部は早稲田通りに接しこれを境に中野区東中野に接する。西部は中野区上高田に接する。(Wikipedia

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月見岡八幡神社鳥居/上落合(左岸)

d0183387_18104554.jpg月見岡八幡神社 
上落合村の鎮守社でありもとは区立八幡公園(上落合1-7)周辺が境内地であった。しかし、都下水道局落合処理場が建設され境内がその用地に組み込まれることになったため昭和36-37年に近隣の公園と社地を交換し現在地へ遷座した。祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇であり、境内社として明治39年に北野神社、昭和2年には浅間神社と富士塚(山手通りと早稲田通りの交差点、現在の上落合228付近にあった)を合祀した。創建年代ははっきりしないが社伝に源義家が奥州征伐の時参詣し戦勝を祈念して松を植えたとの伝承がある。社名の由来は旧境内地に湧井がありその水面に月光がきれいに写ったので村人が自然にそう呼んだという。本社は第2次大戦の戦災で大きな被害をうけているが宮司の努力で上落合村明細帳ほか数点の古文書が保存されている。
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境内には旧社地からの石造品がそのまま移されており、正保4年(1647)の宝篋印塔型の庚申塔(区指定文化財)は区内では最古のものであり珍しいものである。また、天明5年(1785)の銘をもつ鰐口と旧社殿の格天井の板絵の一枚であった谷文晃の絵はともに(区登録文化財)となっている。

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境内左手奥にある富士塚は、もともとは前述のとおり浅間神社にあり大塚という古墳を利用して造られたもので「落合富士」といわれた。寛政2年(1790)に造られたが昭和2年の同社の移転時にとりこわされて当社の旧社地に移築された。かつては上落合・下落合・中井・西落合(葛谷)などに広がる月三落合惣元講という講中があったが、現在は活動していない。しかし山開きの行事だけは毎年7月中旬に行われている。上落合にはかつての農村の面影をのこす餅つき唄(区登録文化財)も保存されているが、毎年2月の二の午に近い日曜日、当社の餅つきの際に唄われることになっている。(新宿区の文化財ガイドマップ)


・・・下落合


下落合は台地部と神田川沿いの低地部で異なった様相を呈する。妙正寺川神田川合流点が落合の名の由来で、水利によって江戸時代初期から染色工業の中心地の一つとして賑わい、現在でも洗張(あらいはり・着物等縫い合わせて衣服の形状をなしているものから抜糸をして、解き離しての洗浄を行う)やクリーニング工場など繊維関連企業が集中している。(Wikipedia

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神田川の風景⑥ 桜並木の遊歩道が続きます、昔はこの先で妙正寺川と合流していました/滝沢橋(下落合駅)

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現在は妙正寺川は分水路となっています/辰巳橋(妙正寺川)

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妙正寺川
東京都を流れる一級河川、荒川水家の支流である。流路延長9.7km、流域面積21.4km2。杉並区の妙正寺公園内妙正寺池(すぐそばにある妙正寺に由来)に源を発し、途中中野区松が丘2丁目で江古田河を合わせ、新宿区下落合1丁目の辰巳橋付近で神田川高田馬場分水路に合流する。かつては西武新宿線下落合駅の東側で流路を南に変えて今の神田川の滝沢橋落合橋間の地点で神田川と合流していた。だが、大雨の度にこの合流地点は川の水が氾濫したため高田馬場分水路の建設に合わせて流路を変更し、辰巳橋で神田川高田馬場分水路に合流するよう流路改築が行われ現在の形になった。この周辺の地名である「落合」とはこの二つの川がかつて合流していたことからその名が付いた。Wikipedia

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薬王院山門/下落合(左岸)

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薬王院
真言宗豊山派の寺院で瑠璃山薬王院医王寺という。また東長谷寺ともいう。開山は鎌倉時代、相模国大山寺を中興した願行上人という。その後兵火に遭い荒廃したが江戸時代の延宝年間(1673-81)実寿上人が中興し、元文年間(1736-41)火災により焼失し幕末にいたった。現在の庫裡は明治11年の再興である。本尊は薬師如来。境内には石造品が多く江戸時代初期、寛永年間(1624-44)頃からの墓石も多い。また本寺には中世の板碑が8点保存されている。徳治2年(1307)、建武5年(1338)、貞治6年(1367)の3枚は保存状態も良く貴重である。境内では各種の牡丹を栽培しているので牡丹寺と呼ばれ4月末から5月上旬には見物客で賑わう。(新宿区の文化財)

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下落合氷川神社鳥居/下落合(左岸) 

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下落合氷川神社 
5代孝昭天皇の御代の創建と伝えられ江戸時代には下落合村の鎮守で、薬王院が別当寺であった。祭神は素盞鳴尊、稲田姫命、大己貴命で、境内には三峯社、天祖社、稲荷社、諏訪社、浅間社を合祀している。江戸時代には氷川明神社といい祭神は稲田姫命一座で女体の宮ともいわれ、下高田村の鎮守で南蔵院が別当の豊島区高田1丁目の高田氷川神社が祭神を素盞鳴尊一座で男体の宮と呼ばれたため合わせて夫婦の宮と呼ばれた。神社正面鳥居前の交差点隅には庚申塔があり文化13年(1816)の造立で青面金剛像の下に三猿が配してある。この庚申塔は道標をかねたもので、みぎに「ぞうしが屋」左に「くずが屋」と刻んである。(ガイドブック新宿区の文化財)


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七曲坂
折れ曲がった坂であることからその名がついた(江戸名所図会)古くは源頼朝が近在に陣を張った時、敵の軍勢を探るためにこの坂を開かせたという伝説がある(遊歴雑記)/標柱



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相馬坂
この坂に隣接する「おとめ山公園」は江戸時代には将軍家御鷹場として一般人の立ち入りを禁止した御禁止山(おとめやま)であった。この一帯を明治時代末に相馬家が買い取って屋敷を建てた。この坂は新井薬師道から相馬邸に向け新たに造られた坂道であるためこう呼ばれた。(標柱)

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おとめ山公園中池


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おとめ山公園/下落合
新宿区下落合2丁目にある新宿区立公園。目白台から神田川を臨む南傾斜地にあり、敷地内の斜面からは東京の名湧水57選に選ばれているわき水が出ている。この水を利用してホタルの養殖が行われており毎年7月には「ホタル鑑賞会」が開催される。敷地内は起伏に富みナラ、シイ、クヌギなどの落葉樹が生い茂りかつての武蔵野の原野の風景を留めている。おとめ山は御留山または御禁止山と書き、江戸時代にこの一帯が徳川家の狩猟地で一般人の立ち入りが禁止されていたことからこの名前がある。この公園の北方、豊島区目白3丁目所在の德川黎明館、さらにその北にある「上り屋敷」地区(かつては西武池袋線の上り屋敷駅があった)と合わせ江戸時代にはこの一帯が将軍家の所有だった。

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明治時代にはこの徳川家の土地を近衛家と相馬家が所有し、相馬家の所有部分は「林泉園」という庭園となった。戦後「落合秘境」と呼ばれていたこの自然を残してほしいとする近隣住民の強い要望が実り、東京都が3年をかけて整備を行い1969年に公園として開園し、同時に新宿区に移管され区立公園として現在に至っている。(Wikipedia

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神田川の風景⑦ 山手線がすぐ、右手のさかえ通り商店街を行くと駅です/田島橋

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田島橋の由来
江戸時代鼠山(現豊島区)に下屋敷があった安藤但馬守がよくこの橋を通ったため「但馬」を「田島」としてこの橋の名がついたといわれています。この橋は江戸時代初めには既に架けられていたようで、初めは仮橋だったものを後に土橋に改めたと伝えられています。この橋の上流には賽ヶ淵という深い淵があって、江戸時代には高田12景といわれる月の名所の一つとして知られていたそうです。(新宿区道みどり課)

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江戸名所図会 落合惣図 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
神田上水と妙正寺川が中央で合流、右手が田島橋です。合流地上が薬王院、右に氷川神社、その奥が藤森稲荷でしょうか。

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江戸名所図会 落合蛍 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
中央が神田上水の田島橋、右が氷川神社になります。昔は蛍の名所だったんですね。

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高田馬場駅周辺マップ
(赤:歩行ルート 青:神田川・妙正寺川 茶:早稲田通り・目白通り・明治通り 赤丸:旧合流地)

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神田川水系流域図
(赤:神田川 緑:善福寺川 橙:妙正寺川)



by Twalking | 2017-04-23 20:04 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(2)明大前~高田馬場01-中野本町   

日時 2017.4.19(水)
天気 晴れ

春なのに夏日の予報、木陰もあろうかと出かけました。
明大前から先、目白までは初めて歩きますが、
中野界隈、下落合は一度訪ねて見たかった街です。

神田川の両岸のスポットを見て廻りましたが、
見所が一杯ありますね~、川辺は遊歩道になっていて
葉桜の下を気持ちよく歩けました。


・・・和泉(杉並区)


区南部に位置し東で環七通りを境として方南、南で甲州街道を境として世田谷区松原・大原、西で井の頭通りを境として永福、北で方南通りを境として大宮・堀ノ内と隣接する。甲州街道が通過し神田川が流れる。和泉の名の由来は「どんな日照りでも枯れることがなかった」といわれた泉に由来する(現在は枯れている)。(Wikipedia

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街道の風景① ここからスタート、改修中なので先から河岸へ/神泉橋(井の頭通り)

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井ノ頭通り
渋谷区宇田川町の渋谷駅前付近と武蔵野市関前にある境浄水場付近を結ぶ道路の通称。大半の区間が直線的な道路である。境浄水場から和田堀給水場までの間に水道管を敷設するための施設用地を道路に転用したために以前は水道道路と呼ばれていたが、後に近衛文麿元首相によって井の頭街道と命名されその後東京都によって井ノ頭通りと改められた。(Wikipedia

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龍光寺山門/和泉(左岸)

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龍光寺/和泉
当寺は泉涌山医王院と号する真言宗室生寺派の寺院です。本尊は薬師如来立像で、杉並区内では珍しい平安時代末期12世紀前半)に造立されたものです。開創は明治10年の書上げによると承安2年(1172)とされ、開山は寺伝によれば龍観和尚(明応21493年寂)と伝えられています。山号の泉涌は和泉の地名の由来ともなった貴船神社(和泉3-22)の泉に、院号の医王は本尊の薬師如来に因むものといわれています。また寺号の龍光は当時のすぐ下を流れる神田川の源、井之頭池にすんでいた巨大な竜が川を下ってきて、この付近で雷鳴をとどろかせ光を放って昇天したことに由来すると伝えられています。江戸時代、当寺の本尊は難病にご利益のある薬師如来として信仰あるく護摩の煙が絶えなかったといわれています。

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戦時中の供出で今はなくなってしまった寛保2年(1742)銘の梵鐘にも「医王之宝殿」「衆病悉除抜苦」と記されていました。なお現在の梵鐘は昭和29年に造られたもので区内では最も大きいものです。当寺に伝わる文化財としては室町期に作られたといわれる興教大師像、文明2年(1470)銘・明応5年(1496)銘の板碑のほか、江戸時代の庚申塔・供養塔など多数が所蔵されています。また、当寺は明治初年に廃寺となった宝仙寺末の慈冠山日照寺(杉並区永福1-34)を合併しています。(杉並区教育委員会)

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山門                 新四国八十八ヶ所和泉霊場

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和泉熊野神社鳥居/和泉(左岸)


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和泉熊野神社
当社は旧和泉村鎮守で現在も「和泉の鎮守さま」として人々に親しまれています。祭神は天御中主命・伊弉諾命・伊弉冉命で明治7年には村社となっています。社伝によれば文永4年(1267)に紀州の熊野神社の分霊を祀ったのが当社の創建で、弘安7年(1284)に社殿を修造し、その後北条氏綱が上杉朝興と戦い江戸城を攻略した際にも大いに社殿を修めたと伝えられています。江戸時代には寛永16年(1639)と元禄9年(1696)の両度にわたって社殿の改修をおこなったことが棟札によってわかります。現在の社殿は文久3年(1863)の造営で明治4年に修覆したものです。

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「新編武蔵風土記稿」は江戸時代の当社について「除地300坪、村の北の方にあり、屋2間四方、本社5尺四方、拝殿2間半に2間、社前に木の鳥居を立」と述べています。当社の境内からはかって縄文時代の土器・石斧・石棒、古墳時代の土師式土器なども出土しており、古い時代から人々がこの地で生活していたことがわかります。また境内には徳川家光が鷹狩りの途中に休息しその時に手植えしたと伝えられる松の大木もそびえています。例祭日は9月第2日曜日です。(杉並区教育委員会)

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神田川の風景①静かな住宅街ですが、街に潤があっていいですね/中井橋


・・・方南

杉並区南東部に位置する。町域北部は善福寺川を境に杉並区和田に接する。西部は環七通りを境に杉並区堀ノ内と和泉に接する。方南を含むこの一帯は和田村といい字として方南、向方南などが江戸期より見られた。地名はかつて和田村(または杉並村)から南に向かった方という説や、かつての江戸幕府の鷹場を持つ野方領の南端という説などが見られるが詳細は不明。杉並区発足時には字方南と周辺の字を併せて方南町となった。(Wikipedia


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神田川の風景② 大きく蛇行しながら環状7号線を横断します/方南橋(環7)

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神田川環状7号線地下調整池
環状7号線の道路下(40)に延長4.5km、内径12.5mのトンネルを設置し、水害が頻発している神田川流域の洪水を貯留するものです(東京都第3建設事務所)


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東運寺山門/方南(左岸)

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東運寺
釜寺」の通称で親しまれている念仏山東運寺は阿弥陀如来像を本尊とする浄土宗の寺で、「釜寺」という通称の由来となった「身代わり地蔵尊」も安置されています。戦国のころ天正元年(1573)備前の僧一安上人が、安寿と厨子王の守り本尊「身代わり地蔵尊」を奉じてこの地に来ました。これに帰依した方南の大地主鈴木伊兵衛が屋敷を寄進して念仏堂としたのが、当寺の開創と元禄14年(1701)もと住職であった祐梵上人筆の由緒書は伝えています。この「身代わり地蔵尊」は山椒太夫に釜ゆでにされそうになった厨子王をお坊さんの姿になって助けたという言い伝えがあり、それにちなんで当寺本堂の屋根に釜を置いたといわれます。

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現在の大釜は昭和20年の戦災で本堂焼失後、当地の信者が寄進したもので米一俵を炊くことができるといいます。文化財としては元禄2年(1689)の刻銘のある半鐘や江戸初・中期の庚申塔・石仏などが保存されています。また、山門はもと田村右京太夫江戸屋敷の脇門(浅野内匠頭が通ったと伝えられる)であったのが、そのゆかりの人々の冥福を祈って寄進保存されたものです。そのほか中国山東省の孔子家より頂いた銘木「楷樹」が数株植えてあるのも珍しいです。なお、大正11年、下谷入谷町にあった東運寺(慶安41651年茂山上人開山)と合併し改めて念仏山東運寺となりました。(杉並区教育委員会)

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山門
この山門は元禄の頃、芝田村屋敷の脇門にして浅野内匠頭是を通ると伝う。明治末葉、三井総本家これを今井町に移し、元織田有楽斎如庵の茶室(国宝)の表門となせるも、用うること稀なりしが為め「開けずの門」と称すと。戦中解体保管しあるを適々昭和28年同家御当主元男爵三井高公(襲名八郎右衛門)殿より当山中興精誉桂巌上人に寄進せらる。因に当山門は屋根瓦は当初田村公の時、明治末三井家の時、当山に再建の時の三種あり、釘は全く用いず組合せ式、門自体約五分内側へ傾けてある由、門扉開閉確実の為めとは古昔の工匠修錬実績の智慧に無限の敬意を表せんものを。茲に昭和3077日落慶法会を修す。住職勧誉興道代(説明板)


・・・南台(中野区)

中野区の最南部に位置する。地域の東部は渋谷区本町に、南部は渋谷区笹塚と幡ヶ谷に接する。北部は方南通りに接し中野区弥生町との境に、西部は杉並区方南に接している。(Wikipedia

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神田川の風景③ 環7を越えると中野区、右岸が小高い/丘になっています/角田橋

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多田神社鳥居/南台(右岸)

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多田神社の由緒
多田満仲公は第56代清和天皇の御曾孫多田源氏の祖神である。幼少より文武両道に秀で国家に貢献されたる偉勲功績は、わが国史に燦然として輝き武門の棟梁たる勅諚を賜わり国家鎮護の大任を果たされたるのみならず、或は沼地を開拓して広大なる田畑を造成し或は河川を改修して農村の拡大に寄与し、併せて源家興隆に確固たる基盤を築かれた。またその成功は関東に及び特に雑色村の文化向上に尽された事蹟は(甚少)少ではない。仍って時の里人の敬慕浅からぬものがあった。その第2子は歴史上著名な頼光公であり第4頼信公は平忠常を討ち関東を平定、続いて頼義・義家の父子二公は前九年・後三年の両役に大軍を率いて奥羽の地に赴きその凱旋の帰途、寛治6年(1092)祈願達成の報賽として大宮八幡宮に神鏡を献じ別当宝仙寺を建立すると共に、大宮八幡宮造建の時の八幡宮神供の雑色料の地である当地に日頃淑敬する満仲公を建てたところ、雑色村の鎮守社として住民に崇敬されて来たということが「武蔵名勝図会」に記されている。新編武蔵風土記稿には「多田権現稲荷合社」と記されている。慶長2年社殿を再建、更に江戸後期の文政年間修復を加えた。明治14年改築しまた明治44年にも改築したと社史に記してあるが、太平洋戦争後、氏子の急増により昭和35年社殿を改築したのが現在の社である。(境内石碑)

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雑色村と多田神社
現在の南台の地域は古くから雑色(又は雑色村)とよばれていました。そしてこの多田神社を雑色の鎮守としてあがめ現在にいたっています。当社は約900年前、寛治6年(1092源義家が大宮八幡宮(杉並区大宮2丁目)に参詣のおり、先祖多田満仲を奉祀したことにはじまると伝えられています。したがって当社の創建の時からすでに雑色の地は大宮八幡宮とのつながりがとりわけ深く、天正19年(1591)の検地帳にも「多東郡大宮之内雑色村」と記され大宮領に含まれていたことがわかります。また、鎌倉街道と伝えられる古道が両神社〜雑色地域の間に通じていたともいわれています。「雑色」とは皇室の文書や道具類を納める倉を管理したり、皇室行事の実施を担当する役所で働いていた人々のことで、その所有地であったことに由来する地名とする説と、大宮八幡宮の造営に働いた人びとの所有地であったことが地名の起りであるとする説があります。(中野区教育委員会)

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すぐ隣は宝福寺、真言宗豊山派のお寺です/南台(右岸)

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本堂
                      筆塚碑

筆塚碑

この「筆」の字は戸村直衛という人が書いたもので明治の初めに建てられたと考えられています。戸村氏は明治3年雑色村に「戸村塾」を開いた人で、中野区最初の公立校「桃園小学校」の教師も勤めました。身分・経歴は明らかではありませんが、家塾開業願や小学校設立伺書などによれば若いころに幕府の関係者から数学・書道・洋学を学んだ知識人であったことがうかがえます。明治5年に学制が発布されるまで庶民教育は江戸時代から民間の塾や寺子屋で行われていました。明治初め中野にも戸村塾など数カ所の私塾があったといいます。明治4年当時、戸村塾の生徒は25名で教場は宝福寺や村内の民家をあて学制発布後も存続し私立戸村小学校から桃園小学校雑色分校へと引き継がれました。この筆塚は師弟の使用した毛筆を納めて供養し学業上達を願ったものと考えられます。これは中野の初等教育を物語るゆかしい記念碑です。(中野区教育委員会)


・・・弥生町


中野区の南部に位置する。町域東部は渋谷区本町と新宿区西新宿に接する。南部は概ね方南通接し渋谷区本町と中野区南台と接する。北部は神田川と善福寺川に接し中野区本町と杉並区和田に接している。なお善福寺川は町域内で神田川と合流している。西部は杉並区方南に接している。(Wikipedia)

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神田川の風景④ 左岸が小高い丘、右岸に丸の内線の車輛基地があります/栄橋(方南通り)

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方南通り
新宿区西新宿から渋谷区、中野区を経由して杉並区永福に至る都道である。都道14号新宿国立線に属する。当初は栄町通りと呼ばれていた。(Wikipedia


中野車両基地
中野区弥生町5丁目にある東京地下鉄の車両基地および車両工場の総称である。車両基地の中野検車区と車両基地の中野検車区で構成され丸ノ内線の車両が所属している。(Wikipedia

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神田川の風景⑤ 左手から善福寺川が合流します。左岸は杉並区になります/和田廣橋(善福寺川)

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神田川合流地
善福寺川は善福寺池を水源とした荒川水系における神田川水系に属し、区内の中央部を蛇行しながら東へ流れ、中野区との区界付近で神田川と合流します。この先台東区柳橋付近で隅田川に合流しやがて東京湾に注がれます。この神田川水系は都内の中小河川の中でも最大規模の流域を持つ都市河川です。(善福寺川流域案内板/杉並区)

善福寺川01(善福寺池)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24083934/
善福寺川02(荻窪)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24090782/


・・・和田/杉並区

杉並区の東部に位置する。北部は青梅街道に接しこれを境に高円寺南になる。西部は環七に接しこれを境に梅里と堀之内になる。南部は善福寺川に接しこれを境に方南になる。東側は中野区との区界となり東部は中野区本町に南東部は弥生町に接する。(Wikipedia

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立法寺鳳凰門/和田(左岸)

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立法寺
当寺は長廣山立法寺と号する日蓮宗の寺院で本尊は一塔両尊四士です。寺伝によると永正3年(1506)長廣院日立上人を開山、秋里氏を開基とし赤坂(現港区)に開創され、その後、青山権田原(現港区元赤坂)に移転したと伝わります。ただし「文政寺社書上」には寛永8年(1631)立法院日了上人により青山権田原甲賀町(現港区元赤坂)に開創されたと記されています。元文2年(1732)千駄ヶ谷村名主太十郎の先祖弥次右衛門より土地を寄進され、当寺7世境妙院日性上人の代に千駄ヶ谷村(現国立競技場内)へ移転しました。安政2年(1855)の火災により堂宇を焼失しましたが、明治初年に再建されました。大正8年(1919)に明治神宮外苑造営のため現在地に移転しました。

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その後、昭和56六年(1981)宗祖七百遠忌の際、本堂、客殿、庫裏を新築、平成15年(2002)立教開宗750年・開創500年の記念事業として鳳凰門(仁王門)と宝塔を建立しました。当寺に安置されている日蓮上人像は文永11年(1274)日蓮上人が佐渡流刑を赦され島から離れる際、佐渡の信者のために自作した木坐像で「感応の高祖日蓮大菩薩」と呼ばれたと木坐像の「略縁起」(明和317664月)に記されています。境内には葛飾北斎の門人であった浮世絵師・魚屋北渓(嘉永31850没)の墓があります。(杉並区教育委員会)


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東円寺山門/和田(左岸)

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東円寺
医王山悉地院東円寺は真言宗豊山派の寺で薬師如来像を本尊とし、江戸期に造られた聖観音像も安置されています。開創は天正元年(1573)で備後国の僧祐海(一説には秀海)が開山したと伝えられています。本堂は徳川家康が入府した頃に九州から出府した三谷氏の発願により改築したと伝え、さらに昭和7年に再改修したものです。境内にある観音堂は江戸33観音霊場の第19番札所であり、また六地蔵石像は寛政8年(1796)に造られたものでしたが破損がはなはだしく近年新たに造立したものです。墓地入口にはかつての妙法寺道の北側にあった「十三塚の碑」が移されています。このほか文化財としては康永3年(1344)・至徳3年(1386)銘の板碑が保存されています。

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なお、当寺の飛境内(和田1丁目13番)には御不動様が祀られています。この御不動様は大山不動尊の道しるべであったと伝えられるもので今も人々の信仰を集めています。(杉並区教育委員会)




・・・本町
(ほんちょう)/中野区

中野区のほぼ中央部に位置する。町域の東部と南部は神田川に接しており、東部は川を境に新宿区西新宿に、南部は中野区弥生町に接する。北部は青梅街道を境に中野区中央に、西部は杉並区和田にそれぞれ接している。町域内を中野通りと山手通りが縦貫している。中野区のほぼ中央部に位置するため、本町とされる。(Wikipedia

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街道の風景② 中野通りを横断します、新中野・中野駅へ通じています/寿橋

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東京都道420号鮫洲大山線
品川区八潮橋交差点と板橋区仲宿交差点を結ぶ特例都道である。狭隘区間が多く残るがおおむね山手通りと環七通りの中間を通りそれらを補完する役割を担っている。南長崎6丁目交差点- 笹塚交差点間の通称は中野通り。(Wikipedia

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新宿副都心が見えてきました      中野新橋 

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本郷氷川神社鳥居/本町(左岸)

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本郷氷川神社
文明元年(1496太田道灌が江戸城を工築するにあたり鎮護のため武州大宮氷川神社より勧請し奉斎せられた。太田家の崇敬篤く例大祭には幣帛の寄進があった。文明9年(1477)道灌が石神井・練馬の両城を攻略するにあたり戦勝を祈願し社頭に杉一株を献植したが惜しくも後年落雷のため枯亡してしまった。道灌の凱陣後、戦勝を祝ぎて社殿を修復した。以来、当本郷村の鎮守社として氏子の崇敬篤く奉られている。(東京都神社名鑑)

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福寿院山門/本町(左岸)

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福寿院真言宗豊山派
当院は元応元年に智真上人の開基と伝えられている。本尊の薬師如来像は弘法大師の作と伝えられていて、一体を当院に安置し、他の体は新井薬師の本尊としたという。なお、この本尊は霊仏であり今日でも秘仏となっている。

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また当院の境内にある弁財天は井之頭の弁財天の娘であるとの言い伝えもある。文化財として文和3(1354)、貞治4年などの銘のある板碑(鎌倉時代に流行した卒塔婆の一種で石で作られている)が保存されている。(中野区寺院案内)


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宝生東郷の宮由緒
主祭神:天乃御中主之命 国常立之命
東郷の名称はこのあたりの旧町名「東郷町」からきております。宝生(ほうせい)の名称は右の建物の中に鎮座の八津御嶽神社、文治元年1185年後鳥羽天皇の御代、鎌倉時代の守護地頭職が現在の山梨県巨摩郡南部町の地になだらかな宝生山のふもと、時の地頭職八津多多聞左エ門藤原如流師の「生きている事が宝」と全国各地に神徳の教導をして以来、平成24730100周年記念として神田川遊歩道沿いの東郷町に鎮座されました。人びとの健康を守り、自家成立繁栄、子育ての力、智恵の力をいただくやすらぎのお宮です。(宝生山八津御嶽神社敬神会)

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神田川の風景⑥ 山手通り長者橋を横断しますがちょっと寄り道/長者橋(山手通り)

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成願寺山門/本町(左岸)


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成願寺(じょうがんじ)/本町
中野区本町2丁目にある曹洞宗の寺院。山号は多宝山(たほうざん)。中野長者と呼ばれた鈴木九郎の寺として知られる。開基である鈴木九郎は紀州出身で室町時代に当地にやってきた商人であった。商売が成功し財を成し「中野長者」と呼ばれ、成願寺付近に邸宅を構えていた。鈴木九郎には小笹という一人娘がいたが18歳で病死し九郎に深い悲しみを与えた。これを機に残りの人生を仏門に生きる決意をし、小田原の大雄山最乗寺の春屋宗能の教えを受け名を正蓮に改め僧侶となり邸宅を寺院にしたのが当寺院の始まりである。1438年のことであった。名は娘の戒名から当初は正観寺となっていたが、江戸時代に成願寺と改められる。幕末には一時、新撰組の近藤勇とその家族が当寺院に身を寄せていた。明治時代に神仏分離令により十二社(現:新宿区西新宿)の熊野神社分離され現在に至っている。Wikipedia

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龍鳳閣 (開山堂)           圓通閣(百観音堂)


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鍋島家墓所
この成願寺には蓮池鍋島家の墓所があります。中野在来の寺院で大名家の墓所があるのはここだけです。蓮池(佐賀市東部)の鍋島家は、直澄が寛永16年(163952600石を与えられ分家したのに始まります。墓域に入ると10基の墓石が立ち並んでいます。手前の自然石が4代藩主・直恒の供養碑、3番目の四角いのが墓石です。銘文によれば、直恒は寛延2年(1749)に麻布龍土町の藩邸で病死し、衾村(目黒区)に葬られましたがのちその墓は成願寺に移されました。他の8基の墓は2代直之・8代直与・9代直紀の子供達のものです。また墓地の右手の奥に鍋島地蔵と呼ばれる地蔵姿の墓碑があり「真如院殿一幻妙覚童女之霊」の法名が刻まれています。(中野区教育委員会 写真は鍋島地蔵)

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開基中野長者鈴木九郎墓地 

鈴木九郎 
建徳
2年(1371)頃-永享12年(1440))は室町時代の商人・僧侶。紀伊国の生まれ。現在の中野区から新宿区西部(中野坂上から西新宿付近)の開拓や商売で成功し、中野長者(なかのちょうじゃ)と呼ばれた人物として知られる。代々紀州で熊野神社の祭祀を務めた鈴木氏の末裔で、応永年間に武蔵国多摩郡中野邑(現在の中野区)に来たとされている。武士の出自であるが武士として生計を立てることはできず、馬の売買や当時荒地だった中野付近の開拓で生計を立てようとした。商売は成功し財を築き上げて近郷の誰よりも財を成し人々から中野長者と呼ばれるようになった。Wikipedia

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江戸名所図会 成願寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


・・・中央/中野区


中野区のほぼ中央部に位置する。東部は神田川を境に新宿区北新宿に南部は青梅街道を境に中野区本町に接する。北部は大久保通りを境に中野区東中野・中野に西部は杉並区高円寺南に接している。地域内を中野通りと山手通りが縦貫している。(Wikipedia


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街道の風景③ 青梅街道と山手通りが交差する中野坂上、左に行けば宝仙寺です/中野坂上

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宝仙寺山門/中央(左岸)

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宝仙寺
(ほうせんじ)中野区中央2丁目にある真言宗豊山派の寺院。中野区でも屈指の広大な寺院で千年近くの歴史を誇る古刹である。山号は明王山。戦前は当時の中野町役場も置かれていた。また著名人の葬儀・告別式も多く執り行われることでも有名な寺院である。節分の僧兵行列も趣き深い。寛治年間、源義家によって現在の杉並区・阿佐ヶ谷にて開かれた。本尊は義家が後三年の役の際に護持していた不動明王像で良弁作と伝えられる。また宝仙寺は同じ杉並区の大宮八幡宮の別当寺となった。本尊は鎌倉時代には秘仏になった。室町時代になり現在の位置に移転した(1429年)。

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江戸時代には優れた僧を出し歴代の将軍から厚い保護を受け発展した。当寺院の僧侶が将軍の御前論議に参加することもあった。また将軍家が鷹狩りに出た際の休憩所としても利用された。明治期以降、境内には中野町(現在の中野区)の役場が置かれていた。戦災を被ったものの戦後再建され三重塔や本堂を見ることができる。(Wikipedia


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御影堂
御影堂とは弘法大師の御影すなわちお姿を安置してあるお堂のことです。このお堂は三間四方の純木造建築です。このお堂に安置してある日輪弘法大師像は脱活乾漆という漆と麻布で作られており、この技法でこのような大きな仏像は壹千年以上も絶えて作られておりませんでした。この弘法大師像は座像で高さは後背まで入れて約3mです。(説明板)

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三重塔
当寺の三重塔は宝永13年に建立された塔が飛地境内の塔ノ山公園(現在の中野区立第10中学校)にありましたが、昭和20年の戦災で焼失致しました。平成20年の興教大師850年御遠忌記念として再建されました。この塔は焼失した塔とほぼ同じ高さの約20mで、奈良法起寺に範をとり飛鳥様式の純木造建築で心柱は基壇まで貫通しております。境内には大日如来を中心とした胎蔵五仏が安置されております。(説明板)



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宝仙寺の石臼塚
中野区と新宿区との間を流れる神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を挽くことに使われていた。そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の一大拠点となり、中野から東京中のそば店に供給されたため、中野そばとまで言われるようになった。その後、機械化により使われなくなった石臼は道端に放置され見向かれなくなっていった。それを見て当山、宝仙寺第50世住職富田敦純大僧正(宝仙学園創立者)が人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして境内に「石臼塚」を立て供養した。(中野区商店街連合会・中野法人会)

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堀江家墓所
堀江家の起りは明らかではありませんが12代重賢(しげかた)の徳川幕府への届出書によれば、越前(福井県)から同家の先祖・兵部という人が農民10数人とともにこの地に来て、弘治元年(1555)中野の開発に着手したとされています。当時、関東を支配していた小田原北条氏から小代官に任ぜられ、歴代の当主は中野村の名主として中野とその近郷の有力な指導者となりました。堀江家がはたした業績によって中野村はしだいに発展していきました。その間の村政及び幕府との関係文書は現在「堀江家文書」として東京都立大学に保管され研究に供されています。堀江家は将軍鷹場の村むらへの御用触次、青梅街道中野宿の問屋場役人、組合村寄場役人のほか江戸城内への種物・なす苗の上納など各方面に事跡を残しましたが、明治以降も中野の町村政のためにはたした業績はまことに大きく現在の中野区の発展の礎となっています。(中野区教育委員会・明王山宝仙寺)

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江戸名所図会 中野宝仙寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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神田川流域マップ(中野区)
(赤:歩行ルート 青:神田川・善福寺川 紫:青梅街道 茶:方南通り・中野通り・山手通り)



by Twalking | 2017-04-22 09:14 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 善福寺川02-荻窪   

日時 2017.4.10(火)
天気 晴れ


荻窪、阿佐ヶ谷、中野・・・、この中央線沿線は
名前だけは知っていましたが縁がなかったですね。
早くから開けた住宅街ですので興味を持ってました。

台地の低地部を善福寺川が蛇行して流れ、川沿いに
ズーッと緑地が続いて歩くのには最高です。
それに古刹の多いこと、やはり鎌倉道なんでしょうか。

ここは見所に事欠きません、面白い川筋だと思います。
神田川の合流点までは行きつきませんでしたが、
目的を変えてまたいつか訪ねてみたいと思います。



・・・荻窪


広義には荻窪駅周辺および歴史的に南荻窪・上萩・西萩北・西萩南が範囲に含まれる。荻窪という地名の由来はこの地を訪れた旅人が辺に自生していた萩を刈り取って草堂を造り、観音像を安置し荻堂(おぎどう)と名付けたことと、周辺の地形が窪地であったことによると伝えられる。荻堂のあった場所は現在では慈雲山荻寺光明院という寺になっている。関東ローム層
が地表を覆い水利がきわめて悪い周辺地域の中で、善福寺川流域は水利が良く古くから水田が開かれていた。寛平年間(889-897荻窪八幡神社が創建される。荻窪八幡には1052源頼義が前九年の役の戦勝祈願をしたと伝えられている。また、1477年には太田道灌が頼義の故事にならい石神井城主豊島泰今経を攻める時に戦勝祈願をしている。1590年荻窪村が西側の上荻窪村と東側の下荻窪村に分割される。江戸時代初期には下荻窪村は服部半蔵の上荻窪村はその配下の知行地であったがその後どちらも天領となった。1606年、青梅成木村に産する石灰の運搬路として青梅街道が開かれる。Wikipedia)

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善福寺川の風景① 環七の喧騒をよそになかなかいい感じの川辺です/忍川橋

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中道寺山門/荻窪
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中道寺

当寺は大光山千葉院と號し日蓮宗の寺院としては区内でも古い寺院の一つです。本尊は「願性の祖師」と呼ばれる黒目の日蓮上人像でその名のごとく玉眼作りの目が特徴的です。また、伝教大姉の作と伝える鬼子母神像も祀られています。当寺所蔵の3世日治が記した「中道寺由来記」によれば、天正10年(1582)大光院日道がこの地に草庵を建てたのが開創で、弟子日法が元和2年(1616)に大光山中道寺を称したといわれています。そして、寛永13年(1636)下総(千葉県)の豪族千葉氏の家臣でこの地に土着した宇田川氏が旧主の菩提のために土地を寄進しそれによって堂舎を整えたと伝えられています。安房誕生寺の末寺となったのもこの頃と考えられています。境内の鐘楼と山門を兼ねた鐘楼門は安永2年(1773)に建てられたもので区内では珍しい建物です。境内北側に祀られている宝暦6年(1756)の銘のある不動尊石碑は当時流行した熱病を鎮めるために造られたといわれ、現在も地元の人々の厚い信仰を集めています。なお、境内の鎮守(妙王)稲荷はかつて関東管領上杉顕定の家臣中田加賀守の守護神であったといわれ、大正時代当寺に奉安されたものです。(杉並区教育委員会)

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鎮守(妙王)稲荷              地蔵尊


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中道寺鐘楼門
この鐘楼門は天明元年(1781)に竣工した表門と鐘楼を兼ねたもので建築当初の姿をよく留めています。11尺の楼門形式の四脚門ですが、上層は鐘楼で桁行3間・梁間2間、下層は桁行1間・梁間2間とし、上層に腰組付の縁を廻していますが高欄はありません。建築様式は基本的には禅宗様で、肘付は和様とし下層の頭貫上に蟇股を入れ江戸期の折衷様の特徴を示しています。本鐘楼門は都内においては珍しい建築構造であり建築史上からも大変貴重なものです。(杉並区教育委員会)

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境外仏堂不動堂について
この不動堂の中には宝暦6年(1756)に造立された「南無妙法蓮華経不動明王 上荻久保村別当仲道寺」と刻まれた高さ6尺(1.8m)の石碑が納められています。不動堂が現在地に移されたのは大正末年の区画整理の時でかつては荻窪高校付近にあったといわれます。「新編武蔵風土記稿」にある「除地百六十八坪村ノ東北ノ方ニアリ不動ト云文字ヲ梵字モテエリシ石標アリ今ハ堂ヲ廃セリ」という不動堂が現在のものとの考えもありますが詳かではありません。不動明王は法華経の守護神として信仰され現世利益信仰を代表する明王で、人々は治病や安産・災害の除去、財福を得る、死の苦しみをのぞく等種々の願事に応じる仏として修験者や祈祷師を通じ広く信仰しました。この不動明王も下荻窪村に熱病が流行して多くの村人が亡くなった時、村人達が浄財を出しあって石碑を造りお祈りしたところ熱病の流行がピタリと止んだという話が今も残っており、別名を「護施不動明王」と名づけられています。それ以後、下荻窪村はもちろん近在の村でも熱病がはやるとこのお不動様へ願をかけてお祈りしたそうです。なお、境内にある記念碑は昭和53年に不動堂の再建を記念して建立されました。(杉並区教育委員会)


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三年坂/中道寺裏
この右手の坂道は「三年坂」と言われていますが名称の由来ははっきりしていません。三年坂と呼ばれる坂は、京都や熊本地方などにも数多くあり坂名の由来については様々に言われているようです。東京では、江戸時代より三年坂と呼ばれていた坂は旧東京市内に6か所ほどあるようです。いずれも地域の境界にあり、昔は急坂で寺院や墓地がそばにあったり、または寺院から見えるところにある坂ばかりです。この坂で転んだものは3年きり生きられないとか、3年たつと死ぬとか言われた伝承がありました。当地のこの坂もほぼ同様のいい伝えが残されており、かつては尾崎橋から宝昌寺北へ一直線に上がる坂で成宗村村境に位置していたと思われます。明治時代のころの地図でみますと崖端を直線で登る車馬の通行困難な急坂で、宝昌寺のうっそうとした森と杉二小の崖に挟まれた昼でも暗い気味の悪い物騒な感じのする所だったようです。そこで人々は坂の行き来に用心が必要だということから三年坂の名をつけたのではないでしょうか。通称地名には昔の杉並をしのばせるものがたくさんあります。この坂の地名も大切に伝えてゆきたいものです。(杉並区教育委員会)


・・・成田


東京都杉並区の汎称地名である。旧町名の「成宗」「田端」から各1字ずつ取った合成地名である。大まかにいえば五日市街道を中心に北端は青梅街道、南端は大宮八幡宮から五日市街道柳窪交差点に向かう細い道である。杉並の地名は成宗村の北境にあたる青梅街道に植えられた杉並木に由来している。旧田端村は旧成宗村を挟む形で東西に分かれていた。田端村と成宗村は1889年の町村制施行時に杉並村大字田畑・成宗となる。1932年の杉並区成立時東西に分かれていた大字田端の東側が「東田町」、西側が「西田町」となった。
Wikipedia

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善福寺川の風景② 神通橋から善福寺川緑地へ入ります/神通橋


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善福寺川緑地
善福寺川に沿う形で広がっている。成田一帯は古くから水はけが悪く蛇行しながら流れる善福寺川周辺には自然溜池ができるなど水害多い地域である。戦後は宅地化が進み、河川を改修し周囲は都立公園として整備された。下流に隣接する和田堀公園は溜池を中心として造成されたのに対し、善福寺川緑地は植物を中心に造成された公園である。荻窪一丁目の神通橋から五日市街道の尾崎橋までの約1.5kmの間に約400本の桜並木が続き、都内有数の花見の名所として知られ、近隣住民の憩いの場として、また遠方から植物や野鳥を観測する来訪者も多い。Wikipedia

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都立善福寺川緑地(善福寺川緑地・和田掘公園)マップ
(青:善福寺川 紫:五日市街道・人見街道 緑:鎌倉街道)

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成宗城址(なりむね)と伝えられますが遺構などはありません/共立女子大研修センター

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成宗城址/成田西(左岸)
鎌倉時代の砦跡。現在の共立女子大学研修センター杉並寮の敷地内にある。この地には鎌倉時代の御家人・中野左衛門尉成宗が鎌倉街道監視のためにを築いたといわれている。成宗村の名は室町時代後期の記録に既に残されている。小田原衆所領役帳における江戸衆の島津孫四郎の所領として「廿一貫文永福寺」とあり、その追記に「沼袋ニモ有之、成宗ニモ有之、目黒内ニモ有之」という記述が見られる。太田道灌は家臣を遣わして字矢倉の砦・柵を守らせたと伝えられており、また鎌倉街道がこの地を通っていたという伝承も残されておりこの地が地形上・軍事上からも武蔵野の拠点のひとつであったことが考えられる。Wikipedia抜粋・写真は矢倉橋)


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尾崎熊野神社鳥居/成田西・右岸

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尾崎熊野神社/成田西(右岸)
この神社は五十猛命・大屋津比咩・抓津比咩命の三柱を祭神とし旧成宗村の鎮守でした。当社の創建年代は詳らかでありませんが大宮八幡宮・同村白山神社とほぼ同年代の創建と言われ、安藤本家文書、宝昌寺境内出土の板碑によると、鎌倉時代末期に鎌倉から移住してきた武士が代々崇敬する紀州の熊野権現をこの地へ勧請したのに基くと伝えられています。「新編武蔵風土記稿」の成宗村熊野社の条には「除地、五畝、小名尾崎にあり、社は二間に二間半、神軀白幣・・・村内じ寳昌寺の持なり」とあり、江戸時代には宝昌寺が別当を務めていました。明治維新後、大宮八幡宮の神職が兼務するところとなり明治41年付近に散在していた稲荷社・猿田彦社・御嶽社を境内に合祀し現在は境内末社として祀っています。地名の「尾崎」は尾崎=小さな崎の意で、崎とは舌状にのびた台地突端部をあらわしこのあたりの地形に由来したものと考えられています。昭和43年秋、境内から縄文時代早期(井草式)の土器片、縄文時代前期(諸磯式)・土師器時代(鬼高式)の住居址が発掘され、古くからこの地には人間が住んでいたことがうかがわれます。なお、境内にそびえるクロマツの大木は当社の御神木で、樹齢約400年と言われ区内でも有数の樹木の一つです。(杉並区教育委員会)街道の風景 

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浜田山から続く鎌倉道のようです/鎌倉街道バス停(宝昌寺裏)


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宝昌寺/成田西(右岸)

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宝昌寺
白龍山宝昌寺は曹洞宗の寺で本尊は釈迦牟尼如来坐像です。当寺は文禄3年(1594)頃中野成願寺5世葉山宗朔によって開創されました。曹洞宗となるまえは真言宗の寺であったと思われ、室町期作の旧本尊大日如来像が現存しています。江戸時代の宝昌寺は、成宗村檀那寺として村民の信仰の拠りどころであり、また村内の熊野神社須賀神社白山神社の管理をする別当寺でもありました。安政3年(1856)火災のため本堂を焼失、現在の本堂は大正10年に建立したものです。この火災により伝来の古記録類はほとんど失われましたが、寺内にはなお多数の板碑のほか区内でも最古といわれる舟型地蔵尊や庚申塔などの文化財が所蔵されています。

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境内に奉安する豊川稲荷社は、明治末年付近一帯が飢饉に襲われた時、人々の災難消除と五穀豊穣を祈願して愛知県豊川閣から移し祀ったもので、その利益はいちぢるしく大正時代から近在諸村に豊川稲荷信仰がひろまったといわれます。(杉並区教育委員会)


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山門                 石仏


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成宗
須賀神社鳥居/成田東(左岸)成宗須賀神社/成田東(左岸)

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成宗須賀神社
この神社は旧成宗村本村の鎮守で祭神は素盞嗚尊です。社名は祭神が同じ素盞嗚尊である出雲の須賀社にちなんだものです。当社の由緒については近世初期に社殿を造営したともあるいは天慶4年(941)に創建され、慶長4年(1599)に再建されたとも伝えられていますが、安政年間に記録を焼失したため詳かでありません。しかし、いずれにしても近世初期にはすでに建立されていたものと思われます。江戸時代の当社は牛頭天王社と呼ばれていました。これは素盞嗚尊は牛頭天王の垂跡という神仏混淆の考えによるものです。

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「新編武蔵風土記稿」は江戸時代の当社について「字本村に鎮座し、社は二間半に二間・・・社から二〇間ばかり離れて鳥居を立つ、例祭は不定、農間に神酒を供す」と記しています。明治維新後、当社は成宗村の村社として人々の信仰を集め昭和33年には社殿を新築、同時に旧拝殿を神楽殿に改築するなど現在の景観を整えました。また境内末社としては御嶽神社と稲荷神社があります。(杉並区教育委員会)
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成宗弁財天/成田東(左岸)

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成宗弁財天
当社は成宗村がつくられたのと同じ頃、水神様のご加護を祈って遊水池(弁天池・現在神社裏の住友銀行社宅内)のほとりに建立されたのが始まりと伝えられていますが詳細は不明です。ご神体は鎌倉時代に江ノ島弁財天で焚いた護摩の灰を練り固めて作ったという伝説のある素焼きの曼荼羅像です。近世の当社は弁天社にお詣りし弁天池の水を持ち帰る習慣であったといわれています。近代になっても大正初期頃までは富士山・榛名詣り・大山詣り等の際には弁天池で水垢離をして道中の安全を願ったということです。この弁天池は天保11年(1840)馬橋村等が開削した新堀用の中継池として利用されましたが、その際池を掘り上げた土で富士講のための築山を作りました。成宗富士と呼ばれた富士塚がそれです。

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この富士塚は大正7年頃に取り壊されましたが、境内の大日如来像、惣同行の碑、浅間神社、手水鉢などはかつての成宗富士の面影を伝えています。また、鳥居前に残る石橋、水路跡は天保用水の名残で板型の用水路記念碑と共に貴重な文化遺産です。当社は弁天講の人々により厚く守られて来ましたが、現在は隣接する須賀神社の役員により引き継がれ維持管理されています。(杉並区教育委員会)

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善福寺川の風景③ まだまだ川辺の道は和田堀公園へ続きます/尾崎橋

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尾崎橋/五日市街道
上流に向って左側台地尾崎と呼ばれています。「おさき」とは突き出した台地の先端(小崎)を指す古い地名で、発掘された石器や土器また住居址からみてこの台地には約8,000年前から人が住んでいたことが知られます。またこの地名に付会して「源頼義 が奥州征伐のため当地を通過した際、源氏の白幡のような瑞雲があらわれ、これが因縁で大宮八幡宮を勧請することになったが、その白幡の見えたあたりを白幡(この付近)、尾のあたりを尾崎と名付けた」(大宮八幡宮縁起)との伝説があります。このあたりの風景は、五日市街道を通って小金井の桜見物に出かけた江戸の文人たちの随筆にも書かれており、辻知篤の享和3年(1803)の文には次の様に記されています。「馬橋村のなかばより左におれて、山畑のかたへのほそき道をゆく」「つづらおりめいたる坂をくだりて田面の畦をゆく。田の中に小河ありて橋をわたる。これを尾崎橋という」(杉並区教育委員会)

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成宗白山神社/成田東(左岸)

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成宗白山神社
当社は旧成宗村字白幡の鎮守で祭神は伊弉册命です。『新編武蔵風土記稿』によれば地名の「白幡」について「往古人王70代後冷泉院(在位10451068)の御字、奥州の夷賊蜂起しければ……」とあり、源頼義が奥州征伐のみちすがら、空に白幡がなびくような雲をみて、勝利の現われだと1社を勧請しその時からこの地を白旗(白幡)と呼んだと伝えています。また、成宗村については永禄2年(1559)の『小田原衆所領役帳』に「永福、沼袋、成宗3ヶ村、弐拾壱貫文、島津孫四郎」とあるので古村であることがわかります。この成宗村は江戸時代に天領(幕府直轄の領地)になるまでは旗本・岡部氏の知行地になっていました。なお「白幡」はかつて一時期ではあるが和田村に属していたと思われます。当社は『新編武蔵風土記稿』多摩郡成宗村の条に白山社とあって「除地六畝、東南の方小名白幡にあり、社は二間半に二間南向、社より十二間ほど隔てて鳥居をたてり」と記されており、江戸時代には村内の宝昌寺が別当職を務めたといわれています。創建については記録もなく詳かではありませんが、古墳時代の土器等が発見されていることから大宮八幡宮と同じ頃だと考えられます。現在の当社は境内末社に御嶽神社・稲荷神社・金刀平神社・第六天神社の4社を合殿し社殿(昭和47年新築)社務所(昭和55年新築)神輿庫などの景観を整えています。(杉並区教育委員会)


・・・
大宮

杉並区のほぼ中央に位置する。町域東部は堀ノ内、北部は松ノ木に、北西部は成田東と成田西に、西部は浜田山に、南部は方南通りを境に永福・和泉に接している。北辺を沿うように善福寺川が流れている。町域北部の善福寺川沿い一帯には都立和田堀公園が広がる。川沿いに広場や、樹木も多く、区内でも緑が多く残されている。当地域には地名の由来にもなっている大宮八幡宮がある。大宮八幡宮は子育て・安産の神様としても知られ遠方からの参拝者も多い。
Wikipedia

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善福寺川の風景④ 左が和田堀公園、右が大宮八幡宮になります/大成橋

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大宮遺跡(右岸)

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大宮遺跡(東京都指定遺跡)
善福寺川南崖上に位置するこの地は大宮遺跡の発掘地です。大宮遺跡は都内で初の方形周溝墓(しゅうこうぼ)が発掘されたことで有名です。方形周溝墓は「方形の四方を溝で囲んだ土器時代の古代人の墓」で、弥生時代末期のものとされています。昭和44年の発掘調査では3基の周溝墓が発見され、そこから土器や勾玉、ガラス玉等が見つかりました。特に壺形土器の配列やそこに穴をあけた形状(穿孔土器)から、この遺跡が住居跡ではなく尊貴な者(族長=祖神)の墓域祭祀遺跡であることが判明しました。当時善福寺川沿いの低地では水田耕作が行われていた模様です。そして対岸松ノ木遺跡には多くの竪穴式居住跡が発見されています。つまり川や田んぼを挟んで住居と祭りの場所を厳密に区分するという観念が当時から存在していたことを示します。この遺跡は大宮八幡宮の旧社殿地ともほとんど重なり、この一帯が聖域とされていた古代からの信仰がのち大宮八幡宮の創建につながったものと思われます。大宮遺跡は発掘後埋め戻されましたが、出土品の一部は当宮清涼殿に展示してあります。(大宮八幡宮)

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大宮八幡宮一の鳥居

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参道・二の鳥居

大宮八幡宮社叢(
東京都指定天然記念物)
「大宮」という地名は神域が広大であったことに由来する。現在の境内は14000坪。樹齢を重ねた大樹が点在し、周囲も緑が多く今も武蔵野の面影を残している。ことに社叢につつじが多いのは徳川3代将軍家光の発願により1000本の山つつじが植えられたからである。満開時の華やかさからいつしか「山照らしつつじ」と称されるようになったと伝えられている。現在も境内には166000本のつつじが植えられている。
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数々の老木の中でも御社殿左側にある菩提樹は、結城秀康(徳川家康の次男・越前松平家)の側室で当社を篤く崇敬した清涼院のお手植えと伝えられ樹齢は350年以上である。6月は黄金色の清楚な花をつけ夏には青々とした葉で日かげをつくり秋には種を落とす。また神門の両袖には梢高く茂り合う御神木の夫婦銀杏があり、特に右の「男銀杏」は杉並区内で一番の巨木である。「女銀杏」は秋には実をつけ色づいた葉は秋空の境内に彩をそえている。(東京都教育委員会)

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神門

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大宮八幡宮
当宮は古く江戸8箇所八幡のうちに数えられた大社です。大宮とよばれるのは往古から広大な境内をもつ社であったことから社名とも、また鎮座地の地名にもなったといわれています。祭神は応神天皇(誉田別尊)仲哀天皇(帯仲彦尊)神功皇后(息長足比売尊)の3神で、創立については当宮の縁起(天正19年奥付)に「平安時代末、源頼義が奥州へ出陣の際、当地で白雲が八つ幡のようにたなびく瑞祥をみて、八幡大神の霊威を感じ勝利を得ることができた。この報賽のため康平6年(1063)この地に源氏の氏神である八幡神を祀ったのが当宮の起源である」と記されています。南北朝時代の貞治元年(136212月大宮の社僧が紀伊国(和歌山県)熊野那智大社に納めた願文の写し(米良文書)があり、これによるとその頃から当宮に奉仕する社僧のいたことがわかります。
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徳川時代には代々朱印地30石を与えられて大名や武士たちからも武勇の神として崇敬されてきました。昭和44年には善福寺川に面する旧境内地から首長の墓とみられる方形周溝墓3基が発掘されました。また対岸の松ノ木台地からも竪穴住居あと群や、縄文・弥生・古墳時代の各期にわたる遺物が数多く出土しているので、当宮の周辺は古くから集落がいとなまれその中心地として重要な地域であったことがうかがわれます。社宝には豊臣秀吉の制札・由比正雪の絵額・山岡鉄舟筆の幟・武術練達祈願の額などがあります。(杉並区教育委員会)
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江戸名所図会 大宮八幡宮 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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大宮八幡宮境内マップ

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和田堀公園
杉並区に所在する都立公園である。善福寺川に沿う形で広がっており、東京23区内では数少ない閑静かつ広大な緑地帯により形成された公園である。12の橋がまたがる川伝いの公園。当地は地盤が低く住宅地の低層を蛇行する善福寺川は氾濫を繰り返す歴史がある。氾濫により自然に溜池が作られ古くから水はけの悪い土地である。戦後の宅地化が進む中、河川を改修して周囲に池を作り遊具や広場を整備し公園として開園した。Wikipedia


・・・堀ノ内


1451年(宝徳3年)の下知状に「堀之内」として初出する。もとは和田村の一部だったといわれ、江戸時代には多摩郡堀之内村。江戸で妙法寺の参詣が人気を博し堀ノ内詣と謂った。1889年(明治22年)和田堀之内村の大字となる。1932年(昭和7年)より杉並区堀ノ内。和田義盛の居館があったと伝えられる。Wikipedia

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善福寺川の風景⑤ 和田掘公園に続き右岸に斉美(せいび)公園があります/武蔵野橋

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斉美橋/荒玉水道道路          武蔵野橋

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堀ノ内熊野神社鳥居/堀之内(左岸)


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堀ノ内熊野神社
当社は旧堀之内村の鎮守で大屋津姫命、五十猛神、抓津姫命の三柱が祀られています。社伝によれば当社は文永4年(1267)に紀州(現和歌山県)の熊野三山を勧請したのにはじまり、室町時代に北条氏綱が上杉朝興を破り江戸を攻略した際社殿を修築し祝祭を行い、江戸時代の寛永11年(1634)にさらに修繕を加えたと伝えられています。別当は村内の妙法寺が明治維新までつとめていました。江戸時代の当社の用数を「新編武蔵風土記稿」は「除地、四百五十坪、外に鎮守免一町九段、小名本村にあり、社は四尺に三尺南向、拝殿二間に三間、・・・前に石の鳥居を立」つと記しています。総欅造りの社殿は「安政4年(18572月吉日氏子当村住人井上龍三」と銘が刻まれ、その精巧かつ豪華なことは区内随一の評があります。

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また、桧造りの幣殿は大正12年の造営でこの時旧幣殿を現在の神楽殿に改修しました。昭和29年稲荷社・第六天王社の合殿社を改新築、同35年社務所の新築、社殿の整備を行い、同46年奥殿土台石の修復、神楽庫の新築等今日の景観を整えました。当社は文化財にも恵まれまた大正1291日の関東大震災の当日、浅草で買い求め猛火の中を無事帰着して納められた「火伏の神輿」が祭礼の際には町内を渡御します。なお、当社には古くから奉納された絵馬・額等も多く所蔵されています。(杉並区教育委員会)
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善福寺川の風景⑥ 綺麗な夕焼けに出合いました。環七和田堀橋から方南町駅へ向かいます/堀之内橋

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神田川・善福寺川流域マップ
(緑:善福寺川 赤:神田川 緑丸:善福寺池 赤丸:井の頭池・合流点)

by Twalking | 2017-04-15 18:28 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 善福寺川01-善福寺池   

日時 2017.4.10(月)
天気 晴れ/曇り


小さい頃吉祥寺に住んでいましたが、
記憶にあるのは井の頭公園と善福寺池でしょうか。
善福寺はザリガニ、どこにあるのかは覚えていません。

善福寺川は神田上水の水源ですし神田川に合流しますので、
懐かしさも手伝って何十年ぶりで訪ねてみました。
初めてみたいなものですがいい所ですね、くつろげます。


・・・善福寺/杉並区


杉並区の最北西部に位置する。町域の北部から西部にかけては弧を描くように練馬区清町南に接している。西部は一部練馬区立野町にも接する。南西部は武蔵野市吉祥寺東町に接する。北東部から東部一帯にかけては青梅街道に接しこれを境に北東部は杉並区上井草に、東部は今川に南東部は桃井に接する。町域中央付近の2丁目と3丁目には善福寺公園が作られている。この善福寺池を水源に善福寺川も流れ町域内も流れている。また東部の青梅街道沿いには井草八幡宮がある。地名の由来となっているとされる元の善福寺は善福寺池のほとりにあったが、江戸時代に災害により壊滅しそのまま廃寺になったため現存しない。
Wikipedia

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池の風景① 名の記憶はありますが風景は覚えていません、いいですね~/上池

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左が上池、右が下池です/渡戸橋     内田周五郎翁の像

善福寺池

東京都杉並区北西端にある池。江戸時代、池畔に善福寺、万福寺があり名の由来というが、現在ではその跡は不明である。三宝寺池(練馬区)井の頭池(三鷹市)とともに武蔵野台地のなかの湧水として3名池の一つに数えられた。池は上池、下池に分かれあわせて面積約1万m2、周囲は武蔵野のおもかげを残す善福寺公園で、池水は善福寺川の水源で神田川に注ぐ。(コトバンク)

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池の風景② この滝が現在の善福寺川の源流になっているようです/上池

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遅野井の滝
その昔、源頼朝が奥州征討のためこの地に軍を率いて宿った。氏神八幡宮に誓願し無事征討を終えこの地に戻った時、折からの干ばつで軍勢は渇きに苦しんだ。頼朝は弁才天に祈り、弓で7ヶ所掘った。軍勢は水が出るのが遅い、遅の井と言った。すると忽然と7ヶ所から水が湧き出し渇きを癒した。その後、江ノ島弁才天をこの地に勧請して善福寺弁才天を創建したと言う。(説明板)


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市杵嶋神社(いちきしまじんじゃ)
この島に鎮座する社は市杵嶋神社といい祭神は市杵嶋姫命です。当社は江戸時代、善福寺池の弁才天といわれ『新編武蔵風土記稿』には「池の南に弁天の祠あり。一尺(約30㎝)四方にて南に向ふ。本尊は石の坐像にて長八寸(約24㎝)はかり」とあります。また、寛永年間(162444)にはそれまで祀られていた右手奥の島から現在地へ移されたといわれ、それ以降その島を「元弁天」という様になりました。「善福弁才天略縁記」によれば、この地域の旧名「遅の井」の地名譚(源頼朝が奥州征伐の途時この地に宿陣し、飲水を求めて弓筈(ゆはず・弦をかけるところ)で各所を穿ちましたが水の出が遅く、弁才天を祈りやっと水を得た)に倣い、建久8年(1197)に江ノ島弁才天を勧請したのが当社の始まりとあります。このことから甘水に霊験ありとして、旱魃(かんばつ)の折には区内はもとより練馬・中野の村々からも雨乞い祈願に参りました。雨乞い行事は、池水を入れた青竹の筒2本を竹竿につるして担ぎ、その後に村人達が菅笠を被り太鼓をたたいて「ホーホィ、ナンボェ~」と唱えながら村境を巡りました。また氏神の前に井戸水に池水をはった四斗樽4個をすえ、四方に散水しながら祈ったともいわれています。この様に旱魃の年毎に行われてきた雨乞いの行事も昭和24年(1949)を最後に見られなくなりました。(杉並区教育委員会)

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池の風景③ 桜も散り始めですが美しい風景です/下池

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左手のハケに流れがあります      雑木林の道は気持ちいいですよ


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善福寺公園の生い立ち
この公園は多摩川から東京湾に流入して形づくられた隆起扇状地で、武蔵野台地の一部をしめております。標高50西側はほぼ平坦な台地で、東側は石神井川、妙正寺川並びに神田川などが流れ起伏に富んだ丘陵になっています。また善福寺池は三宝寺池・妙正寺池並びに井の頭池と共に武蔵野台地の東側にあって、地底や水辺から湧水によってできたである点が共通の大きな特徴となっています。善光寺の名称の起源については、昔丘の西側に善福寺・万福寺の二寺があり、その一つが池の名となって残ったともいわれています。ここは交通の便に恵まれなかったため自然の景観がよく保存されたいましたが、その後周囲の住宅化や近代設備の設置などによってこの風致を保有するために、昭和510月都市計画法によって風致地区に指定してこの地域では建築物その他工作物の築造、土地の形質変更、樹木・土石の採取あるいは風致維持に影響ある行為を制限することにしました。昭和32年に東京都市計画公園として決定され、その一部が昭和366月に東京都善福寺として開園し現在に至っています。(説明板)


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善福寺山門

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善福寺
当寺は福寿山と号する曹洞宗の寺院で本尊は阿弥陀如来立像です。開創は詳かではありませんが、開山は御堂阿闍梨と伝えられ中興開山は月山機法です。古くは無量山福寿庵と称する浄土系の小庵でしたが、宝永6年(1709)に観泉寺(今川2-16-1となりました。(一説に享和年間1801-4ともいわれます)。往古、池畔に「善福寺」という寺院があったといわれています。文政9年(1826)にできた「新編武蔵風土記稿」に「往古は善福寺・万福寺とて二ヵ寺ありしが、いつの頃か廃絶して今はその跡さえも知れず・・・此善福寺の廃せしは、千年大に自身せしとき池水溢れいで、堂宇これが為に破壊に及びしが遂に再修に及ばず、其名空くただ池の称のみ残れりと。思うに此時、寺をば何へか引移せしものならん」とあります。

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この「善福寺」と当寺との直接の関係については明らかな資料はありませんが、小庵から引きついでいる机に「文化12年・・・無量山善福寺福寿庵」とあるところからも「善福寺」という名が代々伝わっているものと思われます。また、本尊の阿弥陀如来立像は室町時代の作といわれ衣丈が流れるような美しい優雅な像です。その他、境内には浄土系寺院時代の歴代住職の墓石や建武元年(1334)銘板碑、享保2年(1717)銘地蔵石像などがあります。(杉並区教育委員会)


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井草八幡宮楼門

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井草八幡宮
この神社は旧上・下井草村の鎮守です。御祭神は八幡大神で、明治時代までこの付近の古い地名から遅野井八幡宮とも呼ばれていました。境内東側付近からは縄文時代中期(約四千年前)の住居址が発見され、多くの土器が発見されました。その中の顔麺把手付釣手形土器は国の重要文化財に指定されております。このように当社周辺は太古の昔から森もあり水も豊かで、生活に適した景勝の地であったと思われます。当社は900余年の歴史をもつと伝えられ、社前には源頼朝が文治2年(1186)奥州藤原泰衡征討の際、戦勝を祈願して手植寄進したという天然記念物の大きな松がありましたが残念ながら昭和48年枯れてしまいました。また、江戸時代の慶安2年(1649)徳川家光は社殿を造営させ朱印領6石を寄進しております。祭日は101日を中心に3年ごとに神輿の渡御、5年ごとに鎌倉の昔をしのぶ珍しい流鏑馬の神事が行われています。(杉並区教育委員会)

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神門                 北鳥居

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頼朝公御手植の松
鎌倉代初頭の文治5(1189)、源頼朝公は奥州藤原氏の討伐に向かう途次、当社に立ち寄り戦勝祈願に立寄りました。その後、無事奥州平定に成功した頼朝公は、その宝賽として建久4(1193)社頭に雌雄2本の松を自ら手で植え奉献されました。その後雌松(赤松)は明治時代初頭に枯れてしまいますが、雄松(黒松)は約800年の間井草地域の標徴として仰ぎみられていました。東京都の天然記念物に指定され、高さ約40m、周囲約5m大人3人でやっと抱えられる程の威容を誇っていました。しかしながら昭和472月強風により二股に分かれた大幹の一方が折れ落ちて以来急速に衰え終には枯れてしまいました。現在、神門内側にある衝立はその根を輪切りにしたものです。現在の松はその末流にあたり二代目の「御手植の松として大事に育てられています。(説明板)


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富士塚/浅間神社
こちらの小山は富士塚といって浅間信仰に由来するものです。浅間信仰とは浅間神社の御祭神であり富士権現とも称される木花開耶姫命を信仰するもので富士信仰とも言われました。富士信仰は集団になって資金を集め、代表者が登拝する体参制を主流にした富士講によって発展を遂げていきました。富士講は戦国時代末に長谷川角行によって創初され、18世紀半ばから大変流行しました。講の名称には普通、地名が付けられる事が多く井草周辺では昔の村名でもある「遅乃井」の頭文字をとって「丸を講」という講が戦前まで続いた。

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富士塚は実際の富士登山が出来ない人たち(体が悪い・老人・婦女子)のため、精神的に少しでも信仰欲を満たすにうに造られ、現在も都内に約50ヵ所あると言われていますが、この規模の富士塚は杉並区内では唯一のものです。以前は本殿西南側にあったもので昭和50年に現在地に移築され、塚前の浅間神社より丁度西方遥か遠くに富士山を仰ぐことが出来る位置にあります。旧塚の跡地には小御岳石尊大権現(通常、富士塚の五合目に置かれる)や庚申塔などの石碑が昔日の面影を残しています。(井草民族資料館)


・・・善福寺川

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善福寺川の風景①美濃山橋から下ります。狭いですが両岸に側道がついてます

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善福寺川
善福寺川は善福寺池を源とし、杉並区の中央を蛇行して流れ中野区に入って神田川に合流する区内最長の川で、区内での延長は約10kmです。この川の流域には区内における最大級の複合遺跡として知られる松ノ木遺跡(先土器時代~奈良・平安時代)を始めとして、光明院南遺跡川南(かわみなみ)遺跡谷戸遺跡・大宮遺跡・済美台(せいびだい)遺跡などがあり、こうした遺跡や包蔵地の所在はかつての水量豊かな善福寺川の流れを古くから人々が活用していたことをうかがわせます。徳川家康は天正18年(1590)江戸に入国すると、ただちに善福寺川・神田川・妙正寺川を給水源とする最初の上水といわれる小石川上水(のちの神田上水)をつくり江戸に給水しました。そして明治34年飲料水給水を廃止するまで善福寺川は東京における最古の水道源のひとつとして人々を潤わせてきたのです。善福寺川は灌漑用水としてもひろく利用され、流域の農村・農民にとって農耕上・生活上重要な価値を持っていました。また、子供達の水遊びやつりの場でもありました。善福寺池西側には源頼朝ゆかりといわれた噴泉がありかつては盛んに湧水していました。今日、池を中心とした周辺は区内有数の公園として親しまれ区民の憩いの場となっています。私たちはこのような歴史ある河川を一層大切に守りつづけたいものです。(杉並区教育委員会)

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善福寺川の風景② 住宅の裏の道、前方は西荻窪駅でしょうか/寺分橋

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八幡橋                耕整橋


・・・西荻窪


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杉並区の旧地名、1970年に廃止1-3丁目が存在した。西荻窪駅が存在することから現在も近隣の汎称地名として用いられる。通称は西荻(にしおぎ)。住居区域は西荻窪駅を中心に都道113(女子大通り)と善福寺川を北縁とし、五日市街道を南縁とする。アンティークの雑貨店や古書店が多いことでも知られる。カウンターカルチャーの店がいくつか入ったほびっと村などが有名。(Wikipedia


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善福寺川の風景③ 川に水草が繁茂して目にやさしいですね/関根橋

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右折すると西荻の駅です/関根橋     森が荻窪神社です/社橋

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荻窪八幡神社鳥居/上荻

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荻窪八幡神社
この神社は旧上荻窪村の鎮守で今から約1080年前の寛平年間に応神天皇を祭神として建立されたと伝えられています。永承6年(1051源頼義が奥州の安倍貞任征伐の途中ここに宿陣して戦勝を祈願し、のち康平5年(1062)凱旋の時神恩に感謝して当社を厚く祭ったといわれています。また文明9年(14774月、江戸城主太田道灌は上杉定正の命をうけ石神井城主豊島泰経を攻めるにあたり、源氏の故事にならってこの神社に武運を祈願しました。この時植えた槇の樹一株が500年の歳月が経過した今も「道灌槇」と呼ばれ、御神木として大切に保護されています。なお、当社には永仁2年(1294)、嘉慶2年(1388)、応永29年(1422)銘の板碑、その他土器や石器類、社宝の勝海舟の大幟、掛軸などがあります。(杉並区教育委員会)

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神門                 神楽殿


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道灌槇
関東管領であり武蔵の領主であった上杉定政に対し、家臣の長尾春経が武蔵を侵さんとして石神井城城主・豊島泰経及びその甥の平塚城主・豊島泰明と款を通じて反逆した。之を激怒した上杉定政は江戸城主・太田道灌に出陣を命じた。道灌は文明9413平塚城を攻撃し四囲より火を放った。この急報に豊島泰経は道灌軍の背後を突き、江戸城へ進撃せんとして江古田、沼袋の線で石神井城へ進撃する道灌勢と遭遇し、後世「江古田の合戦」と伝えられる戦闘を開いたが、豊島軍利あらず道灌軍は騎虎の勢いをもって石神井城に迫った。文明9416日道灌軍は東及び南より石神井城を攻撃するにあたって、道灌は当社に詣でて戦捷を祈念して軍神祭を行い槇樹一株を献植した。これが今当社に伝わる道灌槇で、一根二幹であったが昭和9年の暴風雨で一幹折損し一幹となり、樹齢500年を経たる今も「千年の社・百尺の高野槇」と称えられている。(荻窪八幡神社社務所)

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街道の風景 荻窪八幡の東側には青梅街道が通ります/荻窪警察前

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善福寺川の風景④ 街中を緩やかに蛇行して流れます/城山橋


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鍛冶橋                中央線が見えてきました/神明橋


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光明院山門


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光明院
慈雲山光明院は、真言宗豊山派の寺院で通称「萩寺」と呼ばれ、荻窪という地名もその名に由来するといわれています。当寺蔵の「縁起石碑」によれば、和銅元年(708)行基作の仏像を背負った遊行中の僧がこの地を通りかかったところ急に仏像が重くなり、萩の草堂を作って仏像を安置したのが開創と伝えています。本尊の千手観音は南北朝期の作であり、また境内から本尊と同時代に作られたとみられる五輪塔や室町期の板碑などが出土しており、当寺の開創は南北朝にさかのぼるものと考えられます。今も寺の周辺に残る「四面堂」「堂前」の地名も、当寺の御堂に起源をもつといわれています。本尊の千手観音像は俗に「荻窪の観音様」の名で近在の人々に親しまれ、大正時代までは本尊の写し観音が地域を巡業する行事が行われ、信仰を集めたといわれています。なお、嘉永3年(1850)再建された本堂は現在の位置よりも西南側にありましたが、明治21年(1888)甲武鉄道(現中央線)建設のため、現在地に移されました。(杉並区教育委員会)
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泣きべそ地蔵             手水鉢

天和2年銘手水鉢

手水鉢としては区内最古のとなる天和2年(1682)の銘を有し、江戸郊外では貴重とされる元禄年間(16881703)以前の石造物である。正面左右面には蓮華の意匠が厚く浮彫されており勢いよく力強い図柄は直線状の手水鉢の底部とともに江戸時代前期における石造物の特色を示す。銘文は「荻(まま)窪村」の村名や願主、江戸木挽町の石工の名があり、左面にみられる「當寺朝善」は光明院住職と考えられる。この手水鉢は江戸時代前期の遺品として貴重であり上荻窪村の様子を物語る文化財としても重要である。(杉並区教育委員会)



・・・今川


杉並区北部に位置する。北辺は早稲田通りを境に上井草に、西辺は青梅街道を境に善福寺に、南部は桃井に、東辺は環八通りを境に清水にそれぞれ接している。江戸時代の武蔵国多摩郡上井草村の一部にあたる。1645年、
今川直房(今川義元の曾孫)に対し多摩郡井草村(江戸時代初期、上井草村・下井草村に分割)・上鷺宮村(現・中野区上鷺宮一帯)および豊島郡中村(現・練馬区中村一帯)が知行地として与えられた。以後、この地域は幕末まで今川氏の所領であった。今川氏の菩提寺として庇護を受けた観泉寺はその知行地支配の拠点でもあった。観泉寺境内には今川氏歴代当主の墓所(都旧跡)がある観泉寺は江戸時代に当地を治めた高家旗本・今川氏ゆかりの寺院で本堂(1764年再建)は杉並区最古の木造建築である。「今川」の地名はこれに因んでいる。
Wikipedia

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観泉寺山門

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観泉寺
当寺は宝珠山観泉寺といい本尊は釈迦如来で戦国時代の名門今川氏ゆかりの寺として広く知られています。寺伝によれば、慶長2年(1597)今の下井草2丁目付近に開山鉄叟雄鷟大和尚により創建され、観音寺といわれました。正保2年(1645)今川13直房は将軍家光の命をうけて京に上り、東照大権現の宮号宣下の使者を勤めました。その功により井草村など3か村500石の加増をうけましたので当寺を菩提寺と定め、現在地に移して寺号を観泉寺と改め、祖父氏真を開基とし信仰厚く伽藍建立に寄与した姉(観泉寺殿簾室慶公大姉)を中興としました。その後万昌院(現中野区)から祖父氏真の墓所を当寺に改葬しました。ここに眠る開基今川氏真は23歳の永禄3年(1560519日「桶狭間の戦」で織田信長によって父義元を失い、その後出家しましたが歌人としても多くの歌を残しています。(杉並区教育委員会)

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観泉寺境内

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観音堂                鐘楼

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今川氏累代の墓


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今川氏累代墓
戦国時代桶狭間の戦いで織田信長に敗れた今川義元の子孫は、江戸時代には高家とし幕府に仕えました。今川家は知行地として上・下井草、鷺宮、中村などを給され幕府の儀式典礼を司り、将軍の名代として京都への使者や日光、伊勢などの代参を勤めました。義元から3代目となる直房はこの観泉寺を今川家の菩提寺とし、今川氏の始祖国氏や義元など今川一族の供養を行うようになりました。墓碑が残るのは義元の子氏真以降の当主や一族出身の女性や子供など多岐にわたっています。また、観泉寺は今川氏の所領支配の中心でもあり年貢の徴収や裁判の拠点となっていました。この周辺の今川という地名も今川家と観泉寺とのかかわりに因むものです。(東京都教育委員会)

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参道左手の石仏群

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参道右手の石仏群           三界万霊塔

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善福寺川流域マップ
(青:善福寺川・神田川 紫:青梅街道・五日市街道・人見街道 緑:鎌倉街道)



by Twalking | 2017-04-13 12:05 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(1)井の頭公園~明大前02-高井戸   

日時 2014.4.4(火)
天気 晴れ


ここは歩いたことはありますが川筋だけ、
井の頭線も駅名は分かりますが降りてはいません。
ひとまず周辺の寺社などを訪ねて見ました。

昔からの鎮守であったり地名の謂れだったりと
やはり古刹が多いですね、それに人見街道や
鎌倉道など古道も交差して興味を惹かれました。
のんびりと散策すにはいいコースだと思います。


・・・久我山(杉並区)


町域内を神田川と玉川上水が流れその両岸にあたる。「くが」とは空閑地陸地のことであり武蔵野の新開地の意と推測される。古くは久ケ山とも。江戸時代から1889年までは江戸幕府領久我山村であった。文化文政時代は64戸、水利は玉川上水、鎮守神は久我山稲荷神社であった
Wikipedia

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神田川の風景① 桜並木が続きます、静かな住宅地です/久我山3

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宮下橋                宮下橋公園


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久我山稲荷神社鳥居

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久我山稲荷神社
この神社は「新編武蔵風土記稿」多摩郡久ヶ山村の条に稲荷社とあって「除地、二段五畝十五歩、堂屋舗にあり、小社にて上屋九尺に二間、拝殿二間に三間、南向、前に鳥居を立つ、石階鳥居の外に三級内に二十数級あり、村内の鎮守、例祭十一月にて日定らず、光明寺の持」と記されているように、創建の由来については詳かでないが、古来からの久我山村の鎮守で祭神は保食命です。明治404月に字北原にあった天祖神社(祭神大日孁貴神)が合祀されました。昭和162月に村社となりました。境内末社に八雲神社・天満天神社があります。

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本社では714日に夏祭りが行われ「湯の花神楽」が奉納されます。その昔この地に疫病が流行した際、村人が神楽を奉納し祈願したところ疫病がやんだという故事によるものです。この湯立ては杉並区では極めて珍らしい行事となっています。境内には明治32年に氏子が奉納した金玉均(朝鮮の李王朝末の政治亡命家)の手跡を刻んだ「人心同」の碑があります。この碑は、久我山村生れで幼くして小笠原にわたり砂糖王と呼ばれた飯田作右衛門が、遠く離れている父に朝夕仕えることもできず心で思うばかりである。せめて父の住むところに自分の不孝をわびる石碑を建ててくれと頼み、その心根に強く打たれた金玉均の手跡です。

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なお、元禄16年(1703)の庚申塔があります。かつて村人がこの庚申様に砧の槌を納めて養蚕の無事を祈願したと言い伝えられています。また、昭和57年に新築された「額堂付神楽殿」には多数の絵馬が保存されています。(杉並区教育委員会)

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街道の風景 人見街道を横断します/久我山橋(久我山駅前)

人見街道
府中市八幡と杉並区大宮の大宮神社を結ぶ古くからの街道である。別名「大宮街道」「下総街道」「府中道」「八幡通り」。「人見街道」の名は江戸以前にあった「人見村」を通って府中へ至る道であった事に由来するもので地名に「小人見」の名称がある。さらに北にある浅間山の別名が人見山である。 浅間山を構成する前山尾根上東端に黒い石碑の「人見四郎の墓跡」があるなど地域の一族「人見氏」にも関係している。Wikipedia

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久我山駅               神田川流域案内板

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神田川親水プロムナード案内板(紫:人見街道・環状8号線)


・・・高井戸


地名の由来については諸説あるがかつて村内の小高い所にあった堂の傍らから水が湧き出ていて高いところから出ていた井戸なので「高井戸」と呼ばれたという説と、地域内の宗源寺にある高井戸不動が江戸時代までは高台に祀られていて「高いお堂の不動様」と呼ばれるようになり「高井堂不動」という名が生まれた。そこから高井戸の名が生まれたという説などがある。実際には、高低や井戸とは無関係でありかつて高井家が代々宮司を務める神宮寺があり、目印となるお堂に「不動様」が祀られていたことから通称「たかいどう」と呼ばれ、周辺を指す地名で使われるうち転じて「たかいど」となる。跡地は団地となっているが高井家15代までの墓が残されている。
Wikipedia

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神田川の風景② 左岸は井の頭線の電車区、右岸は段丘になっています/清水橋

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つきみばし/富士見ヶ丘駅       むつみばし


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吉祥院参道入口/高井戸西

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吉祥院当院は象頭山遍照寺と号する天台宗の寺院で本尊は不動明王坐像です。中興開山は上高井戸村の並木卓善で、明治16年(1883)に開創されました。並木卓善は成田山不動尊を信仰し、明治8年に成田山新省講を結成さらに講中の寺院を創設しようと図りました。しかし、当時は寺院の新設は禁止されていたため谷中(現台東区)の吉祥院(江戸初期に霊岸島に開創されのち谷中に移転、寛政年間に松平定信の崇信を受け大寺席となったと伝えられます)の住職に二世晃恭が就任し、当地に移転するという形で明治16年に開かれたのが当院のはじまりです。

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当院は新省講の祈願寺として信徒の信仰を集めました。大正5年(1916)に刊行された「東京府豊多摩郡誌」ではそうした当院の様子を「毎月廿八日寳客多し、殊に節分会及215日は信徒の詣づるもの頗る多く境内立つ錐の地なし」と伝えており、今日でも東京西北部一帯の人々に広く信仰されています。現在の本堂は文化3年(1806)の建築で開創の年に移築したものです。

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また、境内の諸石像を配置した築山は成田山を模して造られたものといわれています。なお、当院は信徒から寄進された多くの記念石碑のほか、江戸時代につくられた大日如来像、阿弥陀如来像、地蔵菩薩像などの仏像も所蔵しています。(杉並区教育委員会)



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神田川の風景③ 環八を渡ると桜並木が続きます/佃橋

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環八を横断します/高井戸駅       杉並清掃工場/高井戸橋


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神田川と高井戸
神田川は杉並区の南端を流れる川で、その流域では塚山遺跡高井戸東遺跡など旧石器時代(約30000年前)から古墳時代(約1400年前)にかけての遺跡が発見されています。またこの川は天正18年(1590)家康の入府後、神田上水として利用され江戸市民にとっては重要な上水でもありました。高井戸の地名の由来は「掘りかね井戸」がこの地にあったからという説や昔この地域の小高い丘の上に不動堂があったため「高井堂」と呼ばれていた等の諸説があります。(歴史と文化の散歩道 神田川周辺の路散歩)

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神田川の風景④ 桜を見ながらぶらり、気持いいですね/乙女橋

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乙女橋
乙女橋の左側一帯は江戸時代徳川家の御三卿(田安・一橋・清水)の鷹場として、将軍家が定めた場所で「お留め場」といわれていました。「お留め場」はその中で行う農耕・建築など日常の生活に厳しい規制がありました。この橋は自由に通行できない「お留め橋」でしたが慶應3年に鷹狩り制度が廃止された後、「おとめ」の音を当てはめて「乙女橋」と名付けられたそうです。(歴史と文化の散歩道 神田川周辺の路散歩)

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左へ登ると浜田山駅です/堂ノ下橋

浜田山(左岸)

現在町域内にある杉並南郵便局付近一帯は江戸時代まで一帯が江戸内藤新宿(現在の新宿区新宿)の商人浜田屋の所有地で松やクヌギの林(付近では「山」と呼ばれていた)になっていたほか浜田屋の墓があり、彼岸の時は浜田屋の人間が江戸から当地まで墓参りに訪れていた。この浜田屋の山から浜田山の地名が生まれ現在の地名になったと言われている。浜田屋は米問屋であったと言われ、初代は江戸時代の初期頃に伊勢国浜田村(現在の三重県津市)から江戸に出てきて内藤新宿に店を構えて商売に成功し、浜田屋弥兵衛と名乗ったという。その後浜田屋は明治時代に米相場に失敗して没落していき、浜田屋の墓も当地から隣の永福にある理性寺の境内に移されて現在に至っている。(Wikipedia

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大塚山公園/下高井戸

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大塚山遺跡について
大塚山遺跡は縄文時代中期(約35004500年前)の集落跡で、昭和10年に江坂輝彌氏によって紹介されました。その後昭和13年に明治大学の後藤守一氏によって初めて本格的な発掘調査が行われ、4軒の竪穴住居跡が発見されました。昭和4410月に江坂氏の指導のもと区教育委員会によって台地の東側斜面が調査され住居跡1軒が発掘されました。また昭和48年秋には西側斜面が調査され住居跡20軒が発見されました。これらの調査により塚山遺跡が縄文時代中期の環状集落であったことがわかりました。(説明板)

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縄文時代中期の復元住居
この復元堅穴住居は昭和48年に発掘された1号住居跡をモデルに不燃化材で建てたものです。この様式は武蔵野台地におけるこの時期の典型的なもので、住居床上の中央部やや奥に「石囲い」の炉を掘りこみ、住居の隅がやや円いことから「隅丸方形」と呼ばれています。(説明板)
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街道の風景02 鎌倉街道ですね、これも歩いてみたい道です/鎌倉橋

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鎌倉橋
神田川にかかるこの鎌倉橋について『武蔵名勝図会』には「上高井戸のにあり古の鎌倉街道にて…いまは農夫、樵者の往来道となりて 野径の如し」とあります。鎌倉街道は東国御家人と鎌倉を結ぶ道で鎌倉~室町時代に繁栄しましたが、江戸時代以降次第に衰え後半期には前述の「野径の如し」といわれるように一部分を残すだけとなりました。また、この付近には鎌倉時代に陣屋櫓が作られ、後に大田道灌の支配地になってからは家臣某が任に当っていたという伝承が残されています。橋名の由来については同書多摩郡之部高井戸宿の条に「鎌倉街道ゆえ、鎌倉橋という」と記されていることから鎌倉橋と名付けられたという説があり、また一説には長禄元年(1457)大田道灌が江戸城を築く際工事の安全を願い家臣に命じて下高井戸八幡神社を建立させ、武士の信仰の厚い鎌倉八幡宮の神霊を勧請したおりに鎮座地に近いこの橋を鎌倉橋と名付けたと言われています。また、延宝2年(16744月の『武州多摩郡下高井戸村御縄打帳』には「鎌倉橋北側」「鎌倉橋南側」という小字名がみえています。このことからみても江戸時代初期にはすでに「鎌倉橋」という字名がついていたと言えるでしょう。なお、『豊多摩郡誌』は大正初期の鎌倉橋について「木造、延長3間、幅員1」と当時の様子を伝えています。(杉並区教育委員会)


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神田川の風景⑤ この辺り右岸側に旧流路が残ります。お洒落な橋が架かり楽しめます

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梢橋                 藤和橋

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下高井戸八幡神社鳥居


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下高井戸八幡神社/下高井戸
この神社は、旧下高井戸宿鎮守で祭神は応神天皇です。社伝によると長禄元年(1457太田道灌が江戸城を築くとき、工事の安全を願い鎌倉の鶴岡八幡宮の神霊を勧請して創建したものといわれます。本殿は、棟札によると弘化4年(1847)の再建であることがうかがわれ、現在の拝殿・覆殿は昭和34年に落成したものです。

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境内には末社として天祖神社・御嶽神社・稲荷神社のほかに当神社に功労のあった人々を祀る祖霊社があります。神田川沿いの台地や斜面には先土器時代から古墳時代に至る遺跡が各所に発掘されていますが、当社の近くからも集落跡が発見され、石器・土器等の出土もあり古くから人々が住んでいたことがわかります。中世以降、村落の発達とともにこの地に神社が奉斎され村の鎮守として尊崇を厚くしてきました。昭和初期まで当社の宮司であった斎藤守高氏は俗に「面芝居」ともいう神楽の元締で、芸名を「中村縫之助」といい鼓・太鼓・三味線に合わせて踊る芸の師匠でありました。この面芝居は明治末から昭和初期にかけて流行しましたが今は絶え、残された数個の面が往時をしのばせています。(杉並区教育委員会)

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神田川親水プロムナード案内板(緑:鎌倉街道 紫:状8号線)


・・・永福


杉並区の南部に位置する。地内北部は方南通りと接しこれを境に杉並区大宮になる。西部は杉並区浜田山に接し、南西部は杉並区下高井戸に接する。東部は概ね井ノ頭通りに接し杉並区和泉に接する。南部は甲州街道に接しこれを境に世田谷区松原になる。地名は当地内にある永福寺に由来する。
Wikipedia

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神田川の風景⑥ 護岸に桜の影、いい感じです/むつみ橋

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荒玉水道道路/神田橋
神田橋を南北に通る「荒玉水道路」は多摩川の水を北の町村へ送るため砧浄水場から杉並区梅里1丁目までほぼ直線的に建設されていた約9kmの水道専用道路です。(歴史と文化の散歩道 神田川周辺散策路)


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永福通り
北は永福寺を経て永福寺駅、南は甲州街道・下高井戸駅方向になります/永福橋

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永福寺山門

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永福寺
万歳山永福寺は曹洞宗の寺です。本尊は十一面観音像で脇侍の不動・毘沙門両像とともに鎌倉期の仏師快慶の手になるものと伝えられています。寺伝によれば開創は大永2年(1522)で開山は秀天慶実と伝え村名もこの寺名によっています。永福寺の名は永禄2年(1559)に北条氏康が作成した「小田原衆所領役帳」にも見え、開創は寺伝の伝える頃に近いものと思われます。小田原落城後、北条氏の家臣であった安藤兵部丞が当寺の住職をたよってこの地に帰農し、永福寺の檀家となり村の開発につとめたといわれます。中興開基は幕府御馬預役加藤重勝で、下高井戸村に拝領地を持ち当寺を菩提寺としました。
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当寺は文禄2年(1593)・元文3年(1738)・昭和20年と三度災害をうけましたが、天正16年(1588)の「検地書出」をはじめ20数点の文書が無事保存されており永福寺村を知る貴重な資料となっています。なお、この他の文化財も多く境内には「子授け地蔵」の名で村人に信仰された正徳5年(1715)銘の地蔵菩薩石像等があり、また寺の西門脇には正保3年(1646)・天和元年(1681)銘の庚申塔、元禄4年(1691)銘の地蔵石像が安置されています。(杉並区教育委員会)

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正保3年銘五輪庚申塔
この石塔は正保3年(1646)に造立された区内では最古の庚申塔で、江戸時代初期の庚申信仰の普及状況を示す貴重なものです。また五輪塔形式の庚申塔というのも非常に珍しく、中世の名残をみせる「武州多東郡養福寺村」という地方銘を刻んだものとしも数少ないものです。この庚申塔は当初永福1-27にあった修験儀宝院(廃寺)持ち塚(永福3-42)にありましたが、昭和30年頃から現在地に安置されています。(標柱)

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永福稲荷神社鳥居


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永福稲荷神社
当社は「新編武蔵風土記稿」多摩郡永福寺村の条に稲荷社(永福寺境内)とあって「上屋2間に1間半 内に小祠を置 拝殿3間に2間 社前に鳥居を立 村内の鎮守なり」とあるように旧永福寺の鎮守で祭神は宇迦之御魂命です。社伝によれば享禄3年(1530)に永福寺の開山秀天和尚が、永福寺境内の鎮守として伊勢外宮より豊受大神を勧請創建し、寛永16年(1639)の検地の際に永福寺村持ちの鎮守になったといわれます。明治維新後永福寺から分離して一社を成し今日にいたっています。境内末社として天王社・白山神社(以上合殿)白鳥神社(一殿)及び明治4010月に同村字水久保にあった北野神社(祭神・菅原道真公)が合祀されています。境外末社に御嶽神社(永福1-39-17)があります。(杉並区教育委員会)

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神田川の風景⑦ 緩やかなカーづを描いて流れます/永高橋

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永高橋                井の頭線を潜ります

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井の頭通りを右折して明大前駅へ向かいます/しんせんばし

井ノ頭通り

渋谷区宇田川町の渋谷駅前付近と武蔵野市関前にある境浄水場付近を結ぶ道路の通称。大半の区間が直線的な道路である。境浄水場から和田給水所までの間に水道管を敷設するための施設用地を道路に転用したために、以前は水道道路と呼ばれていたが、後に近衛文麿元首相によって井の頭街道と命名され、その後東京都によって井ノ頭通りと改められた。Wikipedia

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神田流域マップ(赤:神田川 緑:善福寺川)


by Twalking | 2017-04-08 09:09 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(1)井の頭公園~明大前01-吉祥寺   

日時 2017.4.4(火)
天気 晴れ


神田川は部分的には歩いていますが、
通しで歩きたいと思っていました。
いい機会なので花見を兼ねて出かけてみました。

吉祥寺は子供のころ住んでいたんですが、
記憶にあるのは父と行った井の頭動物園の象さんと
自動車の乗り物、これは今でもよく覚えています。

そして結婚して住んだのが三鷹、子供を連れて
よく井の頭公園に遊びに行きました。
縁があるんですね・・・、懐かしい街です。



・・・吉祥寺(武蔵野市)


東京都武蔵野市に1889年(明治22年)から1962年(昭和37年)まで存在した大字。旧北多摩郡吉祥寺村。また、現在は吉祥寺駅を中心とする街及び同市に属する広域地域名として使われる。武蔵野市東端に位置する。現在、武蔵野市内で「吉祥寺」が冠される町名には吉祥寺本町(1丁目〜4丁目)、吉祥寺北町(1丁目〜5丁目)、吉祥寺東町(1丁目〜4丁目)、吉祥寺南町(1丁目〜5丁目)がある。これに御殿山(1丁目・2丁目)と中町(1丁目〜3丁目)を合わせた範囲がかつての大字吉祥寺である。
Wikipedia

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街道の風景① 子供の頃、この辺りに住んでいました、すっかり変わってますが懐かしいお宮さんです/五日市街道八幡宮前


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武蔵野八幡宮鳥居/吉祥寺東町

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境内


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武蔵野八幡宮
吉祥寺の氏神様として有名な八幡宮。789年に坂上田村麿が宇左八幡大社の御分霊を祀ったと伝えられる。明暦の大火で小石川水道橋外吉祥寺は今の駒込に移り、火事で住居を無くした門前町の人々は移住を命じられてこの地に吉祥寺村を開村した際に、武蔵野八幡宮を鎮守として信仰したといわれている。弓矢の神様としても名高い、応神天皇を祀る。境内は約1300坪の広さで、ケヤキやクスノキなどの大木が繁華街とは思えない静かで荘厳な佇まいを見せる。八幡様以外に拝殿右手前の境内社に三島・出雲・大鳥・厳島・稲荷・須賀・疱瘡の七社が祭られている。(武蔵野市観光機構)

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神田御上水井之頭弁財天道標
この道標は井の頭弁財天様へお参りする人のために建てられてもので、台座を含めると約2mあり、道標としては大きいものです。正面には「神田御上水井之頭弁財天」と彫られており、左側面には「天明5歳乙巳3月吉日 これよりみち」とあります。(天明5年は西暦1785年)もとはここ八幡宮の対角にあったものですが、大正時代に道路拡幅のため井の頭通りと吉祥寺通りの交差する旧大踏切に、さらに昭和44年に武蔵野郷土館(現在は江戸東京たてもの園)へと移設を繰り返し、平成2098日当初の場所に程近いこの武蔵野八幡宮の地に戻ってまいりました。(吉祥寺を愛する会)


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街道の風景②南へ向かうと吉祥寺駅・井の頭公園です/吉祥寺通り

四軒寺

吉祥寺の安養寺・光専寺・蓮乗寺・月窓寺を総称して「四軒寺」と呼ばれている。吉祥寺は古くからのお寺町でこの四つの寺は武蔵野八幡宮付近に集まっている。近くの吉祥寺通りと女子大通りの交差点は「四軒寺」と名づけられている。尚、吉祥寺という名前のお寺は武蔵野市には存在しない。(武蔵野市観光機構)


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安養寺山門

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安養寺
岸光山吉祥院安養寺は真言宗豊山派に属する密教寺で本尊は不動明王、総本山は奈良県桜井市にある長谷寺である。口伝によると開山は寛永元年(1624)、開基は元小田原城主北条氏の48将の一人であった布施三河守弾正左右衛門康貞の末裔で布施弾正といい、入道して深忍法印と号したと伝えられている。当時、武蔵国牟礼野といわれたこの地で提灯測量を行ない、わずかな高低を見定めて最も高い場所を中心と定めそこに不動明王を安置して庵を構えたとされており、現在でも同じ位置に本尊不動明王を祀っている。安養寺は「多摩新四国88ヶ所札所第一番」の霊場で毎年春から夏にかけて大勢の巡礼者が訪ねる。門前には寛文5年(1665)の庚申供養塔(市有形民俗文化財)や六地蔵がある。(武蔵野市観光機構)

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安養寺の梵鐘
この梵鐘は安永2年(177310月、当時の武州多摩郡吉祥寺村の小美野(濃)源助が本寺に奉納したもので、江戸時代のものとしては市内に現存する唯一のものです。鐘の身高は102.5cm、竜頭高は37cm、口径は69cm、駒爪厚は7cmです。梵鐘としては大きい方で竜頭の2本の角は江戸期のものの特徴をよくあらわしています。鋳造した人は境村の高橋甚右衛門尉藤原宣満といい鋳物師・七之丞とも呼ばれた人です。このように本鐘は当市域の鋳物師の存在を知る史料としても貴重なものです。(武蔵野市教育委員会)

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安養寺の甲辛供養塔
この庚申塔は代官野村彦太夫により吉祥寺新田村の検地を受けた翌年の寛文5年(166512月に建てられ、旧北多摩郡では最古のものに属します。碑の高さは117cm、幅39.5cm、厚さは13cmあり、銘文には吉祥寺新田開発に関係の深い人達の名が刻まれ特に女性の名が十数人も記されているのは珍しいことです。銘文中の「南無阿弥施仏」は「南無阿弥陀仏」、「甲辛」は「庚申」だと考えられます。庚申塔は60回目(日、年)ごとに回ってくる「庚申」の夜を供養する塔です。(武蔵野市教育委員会)


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光専寺山門

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光専寺
浄土宗。享保の頃この地に疫病が流行した際、住職が子供たちの供養と延命を祈願して箪笥を改造した厨子に納めて巡礼したと伝えられている。「箪笥地蔵」の像がある。
(武蔵野市観光機構)


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蓮乗寺山門


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蓮乗寺/吉祥寺本町
日蓮宗。この寺の本堂正面に安置されている日蓮上人の像は木製の坐像で右手にしゃく、左手に経文の巻物をもっている。「厄除日蓮」とよばれ厄年男女の守り本尊として有名である。(武蔵野市観光機構)

厄除日蓮聖人坐像
この寺の本堂正面に安置されている日蓮上人の像は木製の坐像で高さ130糎で右手にしゃく、左手の経文の巻物をもっている。この像は文政年間(約140年前)吉祥寺村名主松井十郎左衛門の孫娘が紀州候の奥女中をやめる際、殿様より拝領し母方の菩提寺である当寺へ寄進したもので厄除日蓮とよばれ爾来厄年男女の守り本尊として有名である。なおここには武蔵野文化の生みの親ともいうべき吉祥寺村8代の名主松井仙露翁の碑と明治、大正の50年にわたり本市のこどもたちの教育につくされた須藤先生父子の墓がある。(武蔵野市教育委員会)


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月窓寺山門/吉祥寺本町


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月窓寺
万治2(1659)開山。曹洞宗。吉祥寺の開村とともに開かれる。本堂左脇にある観音堂に安置されている白衣観音坐像は、武蔵野市内最古の銘(元禄二年)を持ち、近世作例としては珍しい乾漆づくりである。(武蔵野市観光機構)


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月窓寺観音堂の乾漆造白衣観音坐像
月窓寺観音堂の白衣観音坐像は元禄年間(1688-1704)につくられたものである。尊像は京都の大仏師によってつくられ光背、台座は江戸でつくられたものである。坐像は37cm、光背の高さ62cm、台座高37cm、総高は99cm乾漆造金色彩である。また台座内部の骨組枠に「元禄2年成就叶」の墨書がある。この白衣観音坐像は馬頭観音信仰と結びついて村民に信仰されたものと推定される。(武蔵野市教育委員会)

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玄装三蔵法師

西紀602664。一般には西遊記で知られておりますが、中国の僧で求法の熱意強くあらゆる苦難の末印度に渡り、多くの仏典を持ち帰りその訳経に生涯専念精進しました。尚この像は当山の吉祥閣落慶を記念して、名栗の鳥居観音願主平沼弥太郎氏の御好意により、同氏作像の元型より鋳造させて頂きました(説明板)



・・・井の頭池

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池の風景① さすがに人出は多いですが、いつ来ても癒されますね

井の頭恩賜公園

武蔵野市と三鷹市にまたがる都立公園である。1917年(大正6年)開園。三宝寺池(石神井公園)・善福寺池と並び武蔵野三大湧水池として知られる井の頭池を中心とした公園である。また、井の頭池の西側には御殿山の雑木林があり、吉祥寺通りを挟んで井の頭自然文化園が位置している。雑木林の南側には玉川上水が東南方向に流れ、そのさらに南には「西園」が位置している。この西園には400mトラックと三鷹の森ジブリ美術館がある。Wikipedia

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神田川の水源のひとつです

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お茶の水
井の頭池は豊富な湧き水に恵まれ、かつては三宝寺池、善福寺池とともに「武蔵野三大湧水池」と呼ばれていました。徳川家康がこの湧水を関東随一の名水とほめてお茶を入れたという伝説からお茶の水という名がつけられたともいわれています。現在では湧水減少のため地下水をポンプでくみあげています。(説明板・御茶ノ水橋)


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井の頭弁財天
井の頭弁財天堂は『井之頭略縁起』によれば平安時代の天慶年間(938-947)源経基が創建したものと伝えられ、その後源頼朝が1197年(建久8年)に再建し別当となる坊舎が立てられたと伝えられる。1333年(元弘3年)新田義貞が鎌倉を攻めた際に焼失し衰退していたが江戸時代に入り3代将軍徳川家光によってようやく再興されたという。1923年(大正12年)の関東大震災で被害を受け現在の堂舎は昭和初期に再建されたものである。縁起によれば本尊の弁財天像は789年(延暦8年)平安時代の僧で最澄の作と伝えられている。

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甲州街道を高井戸から分け入り久我山・牟礼村を経て参道に至る道筋には要所に「井のかしら弁天道」などの道標が建てられている。特に参道入り口・黒い参門の横にある1745年(延享2年)の「神田御用水源井頭弁財天」と刻まれた棹石は長さ2.4mと堂々としたものである。
弁天堂の周囲には「我こそ弁天の化身だ」と申して池に入水し白蛇になった松原の3枚鱗が首にある娘を偲んで供養のために作られたと伝えられる宇賀神像(年代不詳)1771年(明和8年)の狛犬、鳥居、手水鉢、1817年(文化14年)の石橋 (一番組・湯屋講寄進)1833年(天保4年)石燈篭(伊勢屋伊兵衛=現・にんべんら寄進)など多くの寄進物が見られ弁天信仰の盛んであったことが感じられる。(Wikipedia)

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歌川広重「名所雪月花・井の頭の池 弁財天の社雪の景」



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池の風景② 弁財天の左手奥が御殿山になります

御殿山
御殿山の地名は家光が鷹狩りに訪れた際の休息のため、井の頭池を見渡す場所に御殿を造営したことに由来する。この一帯の武蔵野は三鷹という地名にも残るように徳川歴代将軍が鷹狩りを楽しんだ鷹場であった。Wikipedia


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明静山大盛寺(たいせいじ)/井の頭

神田川の水源・井の頭の池に朱塗りの姿を映す弁天堂、その本坊が大盛寺です。江戸時代神田上水の清涼で豊富な水は弁天様の御水として江戸城内の飲料水に供されるとともに、神田・日本橋・芝神明さらには水船と称される運搬船によって墨田川を渡り本所・深川界隈にまで生活用水として供給されておりました。御水の恩恵を戴いていた将軍家や江戸下町庶民の篤い弁才天信仰もあって寺勢大いに盛んであったようです。それは、将軍家光の弁天堂(大正13年焼失)の造営であり池辺の石造文化財10数点は総て江戸下町の人びとが弁天様へ寄進したものであることからも窺い知ることができます。また弁天様が技芸、音曲をも司るといわれておりますので中村勘三郎、瀬川菊之丞ほか大勢の江戸歌舞伎役者の信仰も集めました。浮世絵師・広重も度々参詣に訪れては四季折々の弁天堂を描いております。(天台宗東京教区)


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池の風景③ 桜は七分くらいですが人出は沢山、人気のスポットです


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井の頭恩賜公園案内図
(赤:歩行ルート 紫:井の頭通り・吉祥寺通り 青:神田川・玉川上水)




・・・井の頭(三鷹市)

三鷹市の北部に位置する。「井の頭公園」の名で知られる井の頭恩賜公園が地域内にあり、地域の多くは閑静な住宅街からなる。歴史的には、井の頭の池を中心に古くから集落の形成が見られ、江戸時代は鷹狩場もあった。地域内を神田川と玉川上水が流れている。井の頭の名は徳川家光が鷹狩りに訪れ、湧水がほとばしるように出ているのを見て「井の頭」と命名したとされている。神田川の源泉であり江戸市民の行楽地として親しまれてきた井の頭池の歴史にちなんでいる。Wikipedia

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神田川の風景① 井の頭池の南端から川の流れにかわります/水道橋


水門橋
ここが神田川の源流です。神田川は善福寺川、妙正寺川を合流して隅田川に注いでいます(説明板)

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水道橋                神田川源流の碑


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神田川の風景② ここはかっこうの遊び場、おもしろいでしょうね/夕やけ橋

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井の頭公園駅             夕やけ橋


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神田川の風景③ 両岸に遊歩道が整備されています/あしはら橋


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井の頭線に沿って流れます       丸山橋/三鷹台駅

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神田川マップ(緑:遊歩道 茶:橋)

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吉祥寺駅周辺マップ
(赤:歩行ルート 紫:五日市街道・井の頭通り 青:神田川・玉川上水)




・・・・・・・

資料ファイル

神田川

東京都を流れる一級河川。荒川水系の支流である。
(地理)
三鷹市井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発し東へ流れ台東区、中央区と墨田区の境界にある両国橋脇で隅田川に合流する。流路延長24.6km、流域面積105.0km2と東京都内における中小河川としては最大規模で、都心を流れているにも拘らず全区間にわたり開渠であることは極めて稀である。かつては「神田上水」を取水し江戸の水道として利用されていた。

(歴史)
神田川の元の名前は「平川」といい、現在の日本橋川の分流点付近から南流し現在の丸の内・日比谷に入り込んでいた日比谷入江に注ぎ込む川であった。当時はこの平川が豊嶋郡と荏原郡の境界となっていた。1590年(天正18年)に江戸に入府した徳川家康は、海辺で井戸によって真水を満足に得ることができない江戸の飲料水を確保するために平川を改修し、井の頭池善福寺池妙正寺池を水源とする神田上水を整備した。この改修により井の頭池を出て善福寺川、妙正寺川と合流する上流部分は現在の姿となり、神田上水は川の本流から目白で分流して小石川、本郷に水を供給した。また、後に水害対策として平川下流の流路を隅田川に通じる道三堀と新たに開削した江戸前島を貫通する流路(外濠)に流れるよう改修した。この内、明治以後に道三堀の西半分と外濠が埋められ、現在の日本橋川の河道が成立した。Wikipedia

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江戸名所図会 井乃頭池弁財天社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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吉祥寺(歴史)
明暦の大火によって江戸本郷元町(現文京区本郷1丁目、水道橋駅付近)に存在した諏訪山吉祥寺の門前町が焼失した際、幕府は都市計画に基づき同地を大名屋敷として再建することにした。そのため吉祥寺門前の住人を始めとする居住地・農地を大幅に失った者達に対し「札野」「牟礼野」と呼ばれた幕府御用の萱場を代地とし、5年期限で扶持米を与え家屋の建築費用も貸与するという条件で希望者を募った。吉祥寺の浪士の佐藤定右衛門と宮崎甚右衛門が土着の百姓・松井十郎左衛門と協力してこれに応じ、現在の武蔵野市東部を開墾して住人達を移住させた。折しも玉川上水の開通に伴い、かつては水利が悪く無人だった武蔵野台地が新田開発によって広大な農地へと変わっていく過程で五日市街道(現在の都道7号杉並あきる野線)沿いに整然と区画された短冊状の土地が形成された。しかし土壌はさほど良いものではなく農地はすべて畑地であり水田はなかった。吉祥寺に愛着を持っていた住人たちにより、新田は吉祥寺村と名付けられた。地名は吉祥寺門前の住人が五日市街道沿いを開発・移住したことによる。当地に吉祥寺という名の寺院が所在したことはない。Wikipedia)


諏訪山吉祥寺(本郷通り)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/20891042/



by Twalking | 2017-04-06 23:29 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 大栗川(8)和田&河口域   

日時 2016.9.17(土)
天気 薄曇り


秋の長雨が続きましたが、久し振りの晴れ間、
中途半端なので残りの下流域を歩いてみました。
和田の寺社と大曲する宝蔵橋辺りが面白いですね。

倉沢緑地、普段は入れないのですが、たまたま
作業日で、お願いして中を見せて頂きました。
いい杜ですね~、奥にある万蔵院台の庚申塔も見れました。
ありがとうございました。

御殿峠から河口まで距離は16km程度ですが、
流域に広がる谷戸や寺社・史跡などを見て歩きましたので
時間がかかりましたが、散策するには面白い流域だと思います。



・・・和田(多摩市)

和田(わだ)
和田の地名、旧小字。場所不詳ながら、現在の和田中学校付近ではないかという。この地の小地名が村名になったようだ。なお和田の由来は諸説有り、川の屈曲した場所や開けた平地に見られる地名であるというのが有力な説であるらしい。(「谷戸めぐり」さんの解説より)
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大栗川の風景① 上流左は鹿島・松が谷の丘、右は帝京の丘になります/久保下橋

d0183387_16285044.jpg久保ヶ下(くぼがした)

和田の地名、通称。大栗川の湾曲と和田堀という用水路に挟まれた小地域。窪地のような場所だったのだろうか。久保ヶ下橋に名を残す。(「谷戸めぐり」さんの解説より)



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中和田天満宮鳥居/中和田(左岸)


d0183387_13251838.jpg中和田天満宮 祭神:菅原道真公。

太古よりの段丘の中腹に伏流水が湧き出で「おみたらし」状を呈していた処に、旧北野村より移り住んだ人が故郷の天満宮を村人と計り勧請したと和田村旧記は伝えている。神と水は不可分であるが、この条件を満す社は近郷で当社のみである。一段と高い所にある社殿は寛永3年の創建である。新編武蔵風土記稿に寛永9年とあるが誤読で赤外線写真での確認である。旧中和田村は江戸時代末期まで戸数は15軒ほどの村であったが、明治初年頃より人口も増加し現在の活況を呈する様になった。平成の初めの頃か古棟札は失われてしまったが、各所に大木の切株や都道改修の際まで旧参道に埋めの老大木が緑のトンネルの如く茂り古社の雰囲気であったが、その姿も今は失われ古来の産土神とし、また学問の神天地の神五穀豊穣、身体安全の守り神として広く崇敬を集め、今は鳥居を結界として石段より上方が神域となった。平成18年御鎮座380年を記念して社殿の再建と覆屋の改修も完了し、何時までも平和で安穏な日の続くことを希い、当社の由緒を識しおく。(石碑)


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旧道風景① 神社先から左手に旧道が残っています/中和田

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旧道は山側を行きます         大谷戸から支流が流れます

大谷戸(おおやと)
和田の地名、通称。字谷戸を構成する中央の谷戸の名。現在は道が走るが北の尾根が残され、谷間の雰囲気が残る。(「谷戸めぐり」さんの解説より)

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大栗川の風景② 野猿街道の左を大きく蛇行して流れます/殿田橋(左岸)

d0183387_16324310.jpg小字-殿田(とのだ)

和田の地名、旧小字。昔和田を支配した者の直轄田があった地だという。現在は橋梁名「殿田橋」に名を残す。。(「谷戸めぐり」さんの解説より)





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大乗寺/和田 日蓮宗
当山は明治16年(1883216日浅草猿屋町に『本化正統経王会』として、自我偈院日也上人(浜松・妙恩寺49世)により創立されたものであり、開基檀越は兼子伝五衛門です。爾来127年、関東大震災、昭和20年の戦災を経て、昭和2773日『宗教法人大乗寺』として成立しました。経王会創立以来、初代自我偈院日也上人、二世自中院日勇上人、三世自浄院日澄法尼、四世自得院日正上人、五世本行院日壽上人即ち大乗寺開山上人であります。本行院日壽上人(兼子惠順)は昭和9年以来その任に就き、昭和20年の戦災で猿屋町の経王会が焼失、戦後駒込に再建し、大乗寺と改称。ここに大乗寺開山本行院日壽上人として、離散した檀信徒に布教を再開。当時檀信徒の墓地は巣鴨の染井霊園に存在し、昭和46年(1971)寺院と墓地を共にと考え、駒込より現在地(多摩市和田)に移転し、本行院日壽上人と兼子京令室が幾多の困難を乗り越えて大乗寺の基礎を築かれたのであります。(説明板)


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十二所権現社鳥居


d0183387_13560013.jpg十二所権現社/和田

中和田村(『風土記稿』では上和田村)の北の山麓にあり、除地およそ一町歩。例祭は912日で、同村高蔵印持ち。中世三田氏によって勧請された(『風土記稿』)とも、応永ごろ(13941427)金山・保田両者によって建立されたとも伝えられる。天保6年(1835)にほ社殿を再建、寛政・天保・安政の3度にわたり鳥居を修復している。(新編武蔵風土記稿)


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大栗川の風景③ 百草丘陵に沿って蛇行して流れます。前方は桜ヶ丘/新道橋

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新道橋                百草丘陵の谷戸から支流が合流

新堂(しんどう)

和田の地名、通称。古くは字だと思われる。この地は大栗川の湾曲の中にあったが恐らくこの湾曲がなかった頃、日野の百草村新堂と繋がった地であり、この名が残ったのだろうと思われる。ちなみに百草村の字新堂は古刹真慈悲寺があったのではとされている地であり、名もこれに因むのだろう。(「谷戸めぐり」さんの解説より)


・・・倉沢(日野市)

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谷戸の風景① 百草園への上り道、倉沢川が谷戸を流れます/倉沢

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倉沢川                田圃が黄金色です

倉沢(くらさわ)
和田の地名、旧字名。隣接地は日野の倉沢で有り、この地が和田に入った辺りを言う。(「谷戸めぐり」さんの解説より)


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月に一度の作業日だったそうで、会の方の了解を頂いて中を見せて頂きました。奥に万蔵院台の庚申塔がありました。素晴らしい森ですね!ありがとうございました。

倉沢緑地
この緑地は公園ではありません。動・植物を保護・育成しています。許可なく入ってはいけません。(倉沢里山を愛する会)

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万蔵院台の庚申塔(4基)

庚申信仰は「庚申の晩に眠ると、身中の三戸の虫が昇天して天帝にその人の過失を告げる」という中国の信仰と日本の日待ち、月待ちの信仰が融合したものとされる。江戸時代に庶民の間に浸透し、庚申の晩に人々が集まり、眠らずに一晩を過ごす庚申講が行われた。この講を何度か行った節目に建てたのが庚申塔で、人々の祈願の対象にもなっていた。万蔵院台の庚申塔は、宝永7(1710)に当時この地の領主であった小林正利が建立した一基と、この地の住民が元文3(1738 文化2年再建)と明和6(1769)に建立した2基、建立年代は不明だが昭和52年に再建された1基がある。このうち宝永7年のものは、近年まで節分の豆撒きや初牛に供物を供えるなどの行事が行われていた。これらの庚申塔は領主と住民が建立したものが一体に祀られ両者の関係を示す好資料となっている。また近年まで信仰行事を伴っており、民間信仰を理解する上でも貴重である。(日野市教育委員会)

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谷戸の風景② 百草丘陵尾南下に緑道がついています、いい道です/倉沢川緑地


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谷戸の風景③ こちらも自然保護・育成の緑地、普段は入れません/真堂が谷戸

d0183387_15093729.jpg水辺のある風景日野50-47 真堂が谷戸

クヌギ、コナラなどの雑木林と湧水があり、この付近には市内では珍しくなった蛍が生息しており、エビネなどの貴重植物も自生しています。20 年以上前に蛍が生息していることが確認され、調査が続けられてきました。この地域においても、開発の波が押し寄せてきたことから、市民を中心に雑木林と蛍を保全する活動が起こりました。現在では「真堂が谷戸蛍の会」が結成され、維持保全活動の一環で、昔ながらの水田も復元されました。これにより蛍の棲みやすい生態系豊かな自然環境が保たれています。(日野市)

大栗(おおくり)
和田の地名、旧小字。大栗川に由来する地名だという。しかしここより上流は「柚木川」と言い、この地より下流を「大栗川」と言ったようで、そもそもこの辺りに新堂にあったと言われる真慈悲寺の庫裏が有り、付近流れる柚木川を「大庫裡川」と呼んだことを由来とする説も有り、逆にこの地の地名が川名の由来となったと見た方が良いのかもしれない。(「谷戸めぐり」さんの解説より)

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乞田川の風景④ 上流の宝蔵橋、90度大きく湾曲して関戸へ流れます/明神橋


宝蔵(ほうぞう)
和田の地名、通称。これも古くは字名だったのだろう。隣接の東寺方に同名の字が有り、そもそもは繋がった地であったのだろう。現百草園のある地にあった松蓮寺の宝蔵があったのではないかと言われている。(「谷戸めぐり」さんの解説より)



・・・合流域へ

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大栗川の風景⑤ 右手に桜ヶ丘の丘、左岸に遊歩道がついています/東寺方橋

d0183387_19361203.jpg山の婆坂(やまのばばさか)右岸
東寺方の地名、坂名。グミガ下に降りる坂の名であることから本来「グミガ坂」と言うのだが、この近くに山姥が出ると言われこの名が定着した。ある種の危険地名か。(「谷戸めぐり」さんの解説より)


d0183387_19361798.jpg有山(ありやま)左岸

東寺方の地名、旧字名。このあたりはもともと関戸分であり、有山の呼称はこの付近を指す旧小名、通称であった。有山家という名家が有り、この付近は多摩村内でもある種の自治が認められており、有山村と言われたようだ。後東寺方がこの地を併せた模様。(「谷戸めぐり」さんの解説より)


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丘の風景① 北側百草丘陵方向の景観です/いろは坂さくら公園

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丘の風景② 東南側の聖桜ヶ丘駅方向の景観です/いろは坂さくら公園


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聖蹟桜ヶ丘駅前         関戸の碑/九頭龍公園

古茂川(こもがわ)

関戸の地名、字名。聖蹟桜ヶ丘駅前東一帯の字名。この地には同名の川があり、ねぎ山付近で大栗川に合わさっている。これはそもそも日野市の程久保川から堰上げされた一の宮関戸連合用水の一派で有り、一の宮の小野神社前で間ノ川と分かれて流れて来ている。今でも聖蹟桜ヶ丘駅付近にひょっこり開渠になって顔を出している他、実は京王ストアーの地下を暗渠で流れていると知るものは少ないかもしれない。由来にはこの小さな用水堀が大雨であふれると天井返しという作業を行い、この時に薦を多く使ったことからこの名になったという説があるが、定かではないという。(「谷戸めぐり」さんの解説より)

東寺方・桜ヶ丘の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23338341/


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大栗川の風景⑥ 旧鎌倉街道・現鎌倉街道を横断します/関戸

旧鎌倉街道関戸の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23341738/
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大栗川の風景⑦ 左手から乞田川が合流します、多摩川まで1km/向ノ岡大橋(川崎街道)


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大栗川の風景⑧ 合流地の交通公園まで緑道が続きます(左岸)/報恩橋


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大栗川の風景⑨「0km」の標柱が立ちます。左岸は府中郷土の森、右岸は多摩丘陵東端です/交通公園

右岸の連光寺の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23374830/



・・・
資料ファイル

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多摩市ジオラマ(昭和37年頃)/パルテノン多摩歴史ミュージアム 


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多摩市ジオラマ(平成年11年頃)/パルテノン多摩歴史ミュージアム
(橙:野猿街道 紫:川崎街道 青:大栗川 橙角:聖蹟桜ヶ丘駅)


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調布玉川惣畫図(そうがず)/九頭龍公園


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大栗川流域図(青:大栗川・乞田川)

水系:一級水系多摩川 延長:15.5km 流域面積:42.6km2 
水源:御殿峠(八王子市鑓水) 河口・合流先:多摩川(多摩市連光寺先)



by Twalking | 2016-09-19 17:34 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 大栗川(7)鑓水(源流域)   

日時 2016.9.10(土)
天気 晴れ


やっと源流域の鑓水にきました。
ここは「鑓水商人」「絹の道」でよく知られた郷です。
源流の3つの谷戸と御殿峠をぐるりっと一回りしました。

小泉家屋敷で鎌倉古道の話を伺うと、本を出してこられたので
???と、みせて頂き、購入しました。
「浜街道」という本ですが、鑓水のことが詳しく書いてあります。

歩いてはいますが、知らないことが一杯・・・、う~ん、です。
この本と一緒に歩き直したいな~と、感じました。
面白い出会いですね~、ありがとうございました。



・・・鑓水


市の東南部、由木地区の西端に位置する。1964年(昭和39)由木村の八王子市への合併により同村内の旧大字鑓水が八王子市鑓水となった。江戸期の鑓水村は大栗川の源流部をしめ、多くの支流が谷戸地形をつくっている。中央部を由木街道が東西に横断、西端を国道16号線が南北に走り、同八王子バイパスも開通し鑓水IC・御殿山料金所ができた。東寄りを旧浜街道が南北に抜けており、北半部は「絹の道」として整備されつつあり、北端の道了堂跡は大塚山公園として整備されて文化庁によって「日本の歴史の道百選」に選ばれた。南半の地域は多摩ニュータウン建設地域となり、その整備の進行にともない1994年(平成611月に鑓水2丁目となった。多摩美術大学、絹の道資料館、永泉寺・正山寺・大法寺・まや霊園、諏訪神社、小泉家屋敷がある。(Web八王子辞典)

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乞田川の風景① 左手が右岸の板木緑地、正面は左岸の子の神でしょうか/境橋先

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旧流路跡でしょうか?         柚木街道を潜ります/谷戸入口

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前を絹の道が通ります/小泉屋敷(右岸)

小泉家の主屋は明治11年(1878)に再建されたものであるが、木造平屋建・入母屋造・茅葺・田の字形四間の間取りで、この地方に旧来からみられる典型的な民家建築を示している。(東京都)

d0183387_19430952.jpg鑓水小泉家住宅(1/50模型)
小泉家住宅は入母屋造、茅葺きでこの地域の典型的な養蚕農家です。明治11年(1878)に再建され、屋敷地とともに昭和47年に東京都の有形文化財に指定されました。(絹の道資料館)



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鑓水商人・大塚五郎吉の屋敷跡、裏山に鎌倉古道跡が残ります/鑓水板木の杜緑地


d0183387_12261262.jpg鑓水板木の杜緑地名前由来

この一帯は岩盤の層があり、山の中腹は槍状の先のとがった道具で突くと地下水が湧き出てくる。この水を節を抜いた竹で導き瓶などに貯え飲料水として利用した。これを筧(かけひ)と言い、さらにこの瓶から水を流れるようにしたものを『鑓り水』と言うが、こらが鑓水の由来と考えられる。また板木という名は古文書のある古絵図に記された「伊丹木」に由来する。これはアイヌ語で「きれいな清水が湧き出る所」という意味として伝わっているが、この地は古くはアイヌ民族が住んでいたと思われる。というのはこの地域から発掘された縄文土器の紋様とよく似ているのがなによりの証拠と考えられているからである。そしてこの「伊丹木」が後に「板木」に変化したのではないかと考えられている。なお、この緑地内の尾根道は旧鎌倉街道と呼ばれ、相模を通り甲州・秩父方面へと通じ浜街道と共に重要な街道であった(案内板)

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鑓水板木の杜緑地案内マップ(橙:絹の道 紫:鎌倉古道 茶:柚木街道 青:大栗川)

伊丹木谷戸
鑓水の旧小名・小字、板木谷とも書いた。由木街通のバス停鑓水から南へ入る谷戸を言う。小泉家屋敷がある。(Web八王子辞典)

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丘の風景① 北側、鉄塔の右手が大塚山(鑓水峠)になります/板木の杜緑地前


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大栗川の風景② この奥が嫁入り谷戸、谷戸から支流が注ぎます/嫁入り橋(右岸)

嫁入り谷戸

この地に昔、夜な夜な現れて舞いを踊る巫女が現れ、村の若者が皆魅了されてしまった。これは魔性の類だと言うことになって、屈強なものが弓を射かけるとたちまちに姿は消え、次の日、弓に射貫かれ田に横たわる狐が発見された。この巫女伝説に由来し「弓射谷戸」となり転訛して「嫁入谷戸」となったという説がそれだ。大栗川を挟んだ対岸には「巫女の沢」という名前もありこの伝説に因む名はこの地の特徴の一つとなっている。(「谷戸めぐり」さんの解説より)


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永泉寺山門

d0183387_13052482.jpg永泉寺由緒
永泉寺の開創は弘治元年(1555)甲斐武田族・永野和泉(武田信玄の叔父に当たるとか)が時の党族争い等の醜さから逃れて諸家臣と共に鑓水に移住し、一宇を建て家宝の正観音像を奉安し(現在武相観音14番札所)由木永林寺開山住持に就いて剃髪し、覚峰文公と改名し一宇を高雲山永泉庵と称して其の基を開き、当寺開基位となり永禄2年(155999日寂す。その後永林寺三世住職・岳應義堅大和尚が天正元年(1573)当寺を法治寺院として開山し、諸堂山門・七棟を建立する。天正15(15871010日寂す。曹洞宗大本山永平寺・總持寺に属す現在の本堂は、明治18年火災全焼したため鑓水絹商人・八木下要右ヱ門の寄進をえて移築し、以後奥の間養蚕室・茅葺き屋根を改築し現在に至る(説明板)

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不動明王:天明8年(1788)造   六地蔵:明和4年(1767)建立

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芭蕉像                先ずたのむ椎の木もあり夏木立/芭蕉

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丘の風景② 南側「浜見場」方向の景観です、先方の丘を越えます/永泉寺墓地

浜出しの 荷駄を送り出す 糸商の 夜明けの庭の いななき」(小泉栄一)
小泉さんが詠まれたこんな朝立ちの光景が紹介されていました。浜出しですから向かうのは「浜見場」、絹の道は多摩丘陵の二つの峠を越えていきます、鑓水峠と浜見場、本を読んで改めて再認識した次第です。


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大栗川の風景③ 源流域は3つ谷戸、ここで合わせます/御殿橋(絹の道)

d0183387_19544300.jpg八王子道標
この道標は輸出品の花形であった生糸を横浜港へ運ぶ時の道しるべとして、慶応元年(1865)に建てられました。当時、この道筋には家屋敷が立ち並び外国人も往来し大変な賑わいをみせていました。生糸の仲買人として活躍したこの地の商人達は鑓水商人として、後世にその名を残します。その姿は道標の正面に描かれています。なお、この道標は御殿橋南側にあった旧鑓水公会堂に建てられていましたが、大栗川の改修工事に伴い昭和63年に現在の場所に移されました。(八王子市教育委員会)



・・・源流域①大芦谷戸

大芦
鑓水の旧小字。同町の西端、大栗川の源流部一帯の地をいう。南の丘に多摩美術大学がある。旧小名大鷲谷はこの地を指すか。Web八王子辞典)

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御殿橋のすぐ上流           民家の間を流れます

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多摩美のキャンパス下に流れがあります/多摩美入口

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源流の風景① 昔は池があったそうですが、こんな感じになっています/多摩美先

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16号鑓水交差点

d0183387_01124544.jpg大法寺 
寳祐山 大法寺は天正10年(1582年・安土桃山時代)に開かれました。開山上人は、後に日蓮宗の総本山である身延山久遠寺第17世になられる、慈雲院日新上人です。大法寺開山にまつわる資料は非常に少なく詳細は不明ですが、江戸時代直前の混乱期にお寺の歴史は始まっています。所在は当初、滝山城城下にありましたが、城主である北條氏が新に八王子城を築城それに伴い八王子城城下へ移転。しかし、八王子城は完成する以前に、1590年豊臣軍に敗れ落城し、上野町に移転します。その377年後、先代住職第26世觀照院日慧上人の代、1968年(昭和43年)現在の地に移転しまや霊園を開園します。(大法寺HP)

d0183387_01131572.jpg斎藤茂吉直筆の書から転写の歌碑
うつし身の 苦しみ歎く 心さへ はや淡々し 山のみ寺に
昭和2年 福井県永平寺にて詠む。歌集「ともしび」所載。昭和27427日、八王子アララギ会が大法寺境内に建設。昭和42年、上野町より移転。当山25世、26世住職は、短歌結社「アララギ会」に所属しておりその縁あって境内へ建設された。(大法寺HP)






・・・源流域②子の神谷戸

子の神谷戸
鑓水の旧小名・小字。同町の西寄り諏訪神社のある谷をいう。(Web八王子辞典)

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御殿橋すぐを左折した道沿いです    諏訪神社前

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まや霊園下まで行けそうですが、またの機会に/諏訪神社先


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源流の風景② 霊園からみた子の神谷戸、右側に流れがあります/大法寺まや霊園


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諏訪神社の権現鳥居(両部鳥居)


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拝殿 
奥の本殿は覆い屋で保護され、諏訪神社(元は日陰谷戸)・子の権現(子の神谷戸)・八幡神社(元は片倉村の山中)の神殿が鎮座しています

諏訪神社の神殿

①子の権現旧本殿 江戸時代中期に建立(推定)子の神社本殿 寛政4年(1792)建立(文書) ③諏訪神社本殿 寛政10年(1885)建立(棟札)八幡神社本殿  
明治18年(1885)建立(造立者銘板)
諏訪人神社は明治10年に諏訪・子の権現・八幡の3社を合せたものである。これら4棟の本殿からは江戸時代中頃から明治時代にかけての江戸の建築様式が八王子周辺に伝わった様子をうかがうことができる。これらの本殿の建立には横浜の輸出用生糸の交易を行った「鑓水商人」がかかわり、子の権現・諏訪・八幡の各本殿の彫刻は鑓水における幕末から明治にかけての経済的高まりを表している。(八王子市教育委員会)

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古宮(子の権現旧本殿)        寄せ宮




・・・源流域③厳耕地谷戸

厳耕地谷戸
絹の道・鑓水峠への登り口、鑓水三叉路から分かれ御殿峠へ続く谷戸です

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直進は鑓水峠(絹の道)、左手が御殿峠になります/鑓水三叉路


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絹の道の西を流れます         谷に沿って流れます

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耕作地が広がります

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道に沿って流れます          この上流辺りでしょうか?

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源流の風景③ 16号BPのトンネル、先が御殿峠です。ここが分水嶺でしょうか



・・・御殿峠

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右手が鑓水三叉路への下りになります/16号御殿峠

御殿峠

八王子市片倉町と町田市相原町の境に位置する国道16号の峠である。標高183m。 御殿峠の周囲が杉山だった時期もあったことから杉山峠ともいう。御殿山の麓に位置し、新道、旧道、古道が存在する。御殿山の東稜を切り開いて開通した新道は自動車交通の要衝である一方、古道は数少ない鎌倉街道の跡でもある。日本閣の私有地となり入れない場所もある。(Wikipedia


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旧道(鎌倉古道)の峠

旧御殿峠道
旧道は町田市相原町下坂より山中に分け入り御殿峠に至る道で、江戸時代には大山道としても賑わっていたが、1887 (明治20)ごろより東側(現在の国道16号付近)に大道が整備されてから廃道となっていった。伝承によると、御殿峠には平安時代末期の武将で藍原次郎 (太夫高野)の館があったといわれてる。古道の周囲には弘法のお水と呼ばれる湧水や、片倉城址、1616(元和277)に相原村と鑓水村の間でおきた山林境界の問題で、越訴の世話人である諏訪加賀が貼り付けの刑となった獄門場跡などの史跡が点在する。(Wikipedia


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絹の道周辺マップ
(橙:柚木街道 緑:絹の道 紫:16号 青:大栗川 橙角:南大沢・多摩境駅)



・・・・・
資料ファイル

大栗川源流

(1)大芦源流
由木街道に沿った16号付近(大芦谷戸)の鬱蒼とした 杉林の中に、かつて小さな池(時に湿地) があった。そこが水源とされる。御殿峠の「はっつけ場」伝承がある。現在は多摩美大あたりで川は消えている。

(2)岩耕地源流
御殿橋からすぐに二流に分岐する。一つは岩耕地谷戸を通り御殿峠の頂上付近が水源。かつての御料林(皇室の所有林)の中に弁天池が造られていた。現在もその面影を残す。東京湾のお台場作りに一役買った物語を秘めている。一つは子ノ神谷戸の山中が水源、ここには「子ノ権現」を祀った。鑓水商人の夢うたかたの物語が眠る。


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大栗川の支流図/「由木つむぎの会」さんの流域図を参照させて頂きました。ありがとうございました。

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村絵図/絹の道資料館(上との対比で180°回転しました)


絹の道資料館などの関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/19706470/




by Twalking | 2016-09-16 09:48 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 大栗川(6) 南大沢&上柚木   

日時 2016.9.10(土)
天気 晴れ


雨が続きましたが、晴れそうなので源流域へ出かけました。
前回寄れなかった南大沢八幡宮から首都大学を通り上柚木公園へ。
ここには緑道が通じていますし、公園からの眺めは抜群です。

大栗川の流れる流路や野猿峠、鑓水峠、御殿峠の位置を確認し、
広い公園の西から下流へ、そして左岸の旧道を西へ歩きました。
この辺りは蛇行し流れていたんでしょうね、旧流路跡が残ります。

上柚木の明神社、ネットでみても解説が少ないので謂れなどは
よく分かりませんでしたが、里の参道や社殿は落ち着きます。
この辺りは長閑でいい所ですね~。。。


・・・大田川

八王子市を流れる多摩川水系の一級河川である。町田市小山ヶ丘および八王子市南大沢の小山内裏公園内の調整池である大田切池を主な水源とし、都道158号小山乞田線(多摩ニュータウン通り)に沿って北東に向って流れ、八王子市松木付近で大栗川と合流する。現在は南大沢2丁目交差点近くで暗渠に入ってしまうため先は見られない。遊歩道である柚木緑道が整備され川沿いを歩けるようになっている。
Wikipedia

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大田川の風景① 合流地から多摩TN通りに沿って西へ/峯ヶ谷戸橋(松木)

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柚木緑道入口(左岸)         木陰は少ないですがいい道です

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大田川の風景② 前方に南大沢の駅が見えてきました/板橋

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坂を上ると富士見台公園です      左岸にえのき公園


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大田川の風景③ 柚木緑道の終点です

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お地蔵さんと馬頭観音が建ってます/おかんとう橋

小字-おかんとう
松木の旧小名。由来場所等詳しいことはわからないが南西にあった地名だという。現在「おかんどう橋」がかかるあたりか。(「谷戸めぐり」さんの解説より)

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大田川の風景④ この先は暗渠になります/大田橋


・・・南大沢


八王子市の南部に位置し、多数の新興住宅地と学校、商業施設を有する多摩ニュータウン西端部を構成する。町の中心には京王電鉄の南大沢駅があり、駅周辺には八王子市の行政施設や大学が立地する。多摩郡の現八王子市域にはかつて「大沢村」(柚木領および拝島領)という村が2つ存在していた。南大沢は南多摩郡内においてその旧拝島領大沢村(後の北大沢村→加住村→現・八王子市加住町二丁目)の南に位置していたことから「南大沢」と名付けられた。Wikipedia


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南大沢八幡神社の赤鳥居/南大沢

南大沢八幡神社

創建年代は不明だが古くから南大沢の鎮守神としてまつられてきた。境内のオオツクバネガシの巨木は、樹齢推定600年である。Wikipedia

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拝殿                 入口のお地蔵さん

d0183387_16294534.jpg南大沢のオオツクバネガシ

この木は、明治13年正月の八幡神社の火災により災禍を受けて枯死してしまったと思われていたが、しばらくして再生したので地元では「不死身のアカガシ」として大切にされていた。樹幹はすっかり空洞化しているが今なお生気が盛んである。当初はアカガシと思われていたが、実際には高尾山中のものを標識樹としたオオツクバネガシで、アカガシとツクバネガシとの間種である。ツクバネガシ:「衝羽根樫」は正月遊戯の「追い羽根」に使用する羽根に似て、葉が小枝の先に四枚出ているところから名づけられたといわれている。(八王子市教育委員会)


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お隣には
末広稲荷大明神が祀られてます

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首都大学東京キャンパスの風景

首都大学東京
八王子市市南大沢に本部がある公立大学。東京都立大学・都立科学技術大学・都立保健科学大学・都立短期大学を統合して平成5年(1993)に発足。都市教養・都市環境・システムデザイン・健康福祉の4学部を持つ。教員の評価制、任期制、給与の年俸化を導入。平成17年(2005)公立大学法人となる。(コトバンク)


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ひょうたん池/松木日向緑

松木日向緑地

首都大学東京南大沢キャンパスの敷地(約43ha)は多摩丘陵を開発造成した起伏に富んだ地形となっており、その形状は東西約1500m、南北が最大約400mと東西に細長い台地となっています。南側に広がる緑地は武蔵野の面影を今に伝える貴重な樹林帯であり、かつての近隣の人々の生活に密着した薪炭林として、多摩ニュータウン開発時も保存緑地の一つとして残されたものです。緑地の広さは約13haあり、約800種類の植物、哺乳類、鳥類、昆虫などが生息していいます。この緑地は大学の教育研究フィールドとして活用しているほか、地域の憩いの場として提供しています。(説明板)

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谷戸の径               キャンパスの径

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松木日向緑地マップ


・・・大栗川右岸

上柚木

市の南東部由木地区の南西寄りにある。19644年(昭和39)由木村の八王子市への合併により、同村内の旧大字上柚木が八王子市上柚木になった。江戸期の上柚木村は大栗川の上流部両岸にひろがり、川沿いに都道が走る下柚木との間に土地が入り組み飛地も多い。南半部は多摩ニュータウン建設地域となっており市が総合運動公園として上柚木公園を建設した。西端の丘陵に大学セミナーハウスがある。桐朋学園運動場、西光寺、新明神社、愛宕神社がある。909月飛地の一部が南大沢1丁目に編入された。94年上柚木23丁目ができた。(Web八王子辞典)

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柳沢の池/柳沢の池公園

この池は江戸時代に大柚木村の領主(知行地)の柳沢氏によってため池として掘られたといわれています。要水位は伏樋・水路を通して大栗川沿いの水田へ引かれていました。大きさはおよそ35mに20m、深さは深い所で1.7mあります。灌漑用水としての使命は終わりましたが、現在でも絶えることなく湧き水が集まり、生き物たちの生息の場として、また人々の憩いの場として池は生き続けています。(説明板)

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柳沢の池公園             歩道橋を渡って上柚木公園へ

小字-長窪(ながくぼ)
上柚木の旧小名。このあたりは谷があり、池があったのだという。ニュータウン開発で埋められ、現在は南大沢方面への道が通っている。地名の名残は南大沢方面に「長久保」という交差点名として残るだけである。(「谷戸めぐり」さんの解説より)


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上由木公園(神戸地区)

愛宕山(あたごやま)

上柚木の山の名。麓に遷座した愛宕社が元々祀られていたことにちなむ。(「谷戸めぐり」さんの解説より)

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丘の風景① 「白山神社道」が中山へ、右手ピークが猿丸山(野猿峠)になります「/上柚木公園

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丘の風景② 上柚木の町並みがよく分かります/上柚木公園
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丘の風景③ 源流域方向、奥が御殿峠、その手前の尾根が鑓水峠(絹の道)でしょうか/上柚木公園

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上柚木公園マップ(青:大栗川 紫:柚木街道)


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陸上競技場から下った〆切橋の袂に鎮座します/上柚木八幡神社

d0183387_22072660.jpg愛宕神社
祭神は火産霊迦具土命(ほむすびかぐつちのみこと)。多摩ニュータウン事業により昭和6197日当地に還座。当社の創建年代については古く不詳。(案内板)


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大栗川の風景① 左坂上が上柚木公園、右は由木街道です/〆切橋



・・・大栗川右岸

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旧道の風景 この区間バスも山側の旧道を通っています。

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上柚木会館入口を右折         旧流路跡でしょうか、緑道があります


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上柚木神明神社参道

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上柚木神明神社鳥居

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拝殿
                     参道入口のお地蔵さん

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丘の風景④ 前方は上柚木公園、左手は南大沢駅、右手はベルコリーヌ南大沢です/境内 

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大栗川の風景② 上柚木公園の下段に沿って流れます/日陰橋

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旧流路跡でしょうか(右岸)      神明橋


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大栗川の風景③ 境橋から振り返る下流の風景です/堺橋 

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旧道にお洒落なレストラン       柚木街道合流地からみる旧道風景


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南大沢周辺マップ
(橙:柚木街道 緑:絹の道 紫:多摩NT通り 茶:町田街道 青:大栗川・大田川 橙角:南大沢駅)



by Twalking | 2016-09-13 12:31 | リバーサイドウオーク(新規)