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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 恩田川(4)長津田~合流地   

日時 2016.7.1(金)
天気 曇り/晴れ

川辺は景色はいいんですが、木陰が少ないので辛いですね。
寺社のこんもりと茂る森に入るとホット一息でした。

長津田、十日市場、中山、大山街道や中原街道で
歩きましたが、こうして川筋で繋いで歩いてみると、
また違った面白さがあって、いいですね。

これで、多磨丘陵の西側の流域を見てきましたので、
今度は相模原台地でしょうか、チャレンジしてたいですね。。。



・・・長津田(右岸)


横浜市緑区の地名である。多摩丘陵東縁部、鶴見川水系恩田川中流域右岸に位置する。地形は町域北側に恩田川段丘崖があり、武蔵野層・鶴川層・上倉田層などに分類される洪積台地と恩田川・岩川周辺の10数本の谷戸からなる沖積地で構成される。沖積地は主として水田稲作(近年では糯米が主流)、洪積台地は山林・畠作が多い。町域東南部「馬之背」から十日市場町にかけて断層線がある。近世には矢倉沢往還と神奈川道の結節地であった長津田宿が発展。戦国時代から江戸時代にかけての武将板部岡江雪斎の子孫の所領があった。
大辞林によれば「谷津田:やつだ」とは《「谷津:やつ」(低地。たに。また、低湿地。やち。やと)にある湿田。谷地田(やちだ)》とあり、『長津田』は「長い湿田」の意という。一般に、遷流する岩川上流部の集落を総称して「上長津田」、下流部を「下長津田」という。Wikipedia

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恩田川の風景① 沖積平野と右岸の洪積台地/堀之内橋付 

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こどもの国線             左から奈良川が合流します


・・・田奈(左岸)


青葉区の地名。東急田園都市線の田奈駅がある。国道246号線が通過する。「田奈」は「恩田・長津田」の「田」と「奈良」の「奈」を一字ずつとったものである。明治22年の市町村制施行に伴い「田奈村」としてできた地名。現在の田奈町一帯は元来は田奈村大字恩田であった。
Wikipedia

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恩田川の風景② 東急田園都市線・田奈駅です/田奈橋

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246号の恩田大橋           岩川が右岸から合流します/いぶき野

岩川
横浜市緑区長津田町の旭区との境界付近に源を発し北流。概ね国道246号と平行し、緑区いぶき野で恩田川に合流する。上流域は竹林などの自然が多く、中下流域は密集した住宅地の中を流れる。(Wikipedia
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合流点から4km            恩田川大橋

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恩田川の風景③ 東名高速を潜ります

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長津田周辺マップ
(青:恩田川 紺:奈良川・岩川 橙:大山道 茶:246号 緑:東名)

大山道・長津田宿の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22824481/



・・・十日市場町(右岸)


明治22年の市町村制施行の際、中山村、榎下村、久保村、寺山村、台村、上猿山村、下猿山村、鴨居村、本郷村、上菅田村、新井新田と合併して新治村大字十日市場となる。町名は旧村名を採った。ここには毎月10日に市が立ったという。北西側を東名高速道路、南東側を横浜線が通り十日市場駅がある。町内に横浜市緑図書館、市営十日市場団地がある。 (緑区)

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恩田川も風景④ 川辺からみる十日町市場の街


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d0183387_01354876.jpg寳袋寺/十日町

創立年代は慶長年間(1596年-1615年)で、顕堂長察大和尚が開山しました。宗派は曹洞宗、山号は八幡山とし、本尊の聖観世音菩薩は木造の坐像で高さは一尺ほど。鎌倉の仏師運慶の作と言われています。本堂正面の「古寳袋」の額は山岡鉄舟筆で寺宝としています。寺号「寳袋」は建立地から古い巾着が掘り出された事によるものです。巾着は金銭などを入れる袋、いわば「宝の袋」であり「寳袋寺」という寺号になったといわれます。(寳袋寺HP)

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恩田川の風景⑤ 
寳袋寺境内から見る低地と対岸の西八朔町
 


・・・西八朔町(緑区・左岸)


古くは都筑郡西八朔村といい、明治22年の市町村制施行の際、寺家村、鴨志田村、成合村、上谷本村、下谷本村、鉄村、黒須田村、大場村、市ヶ尾村、北八朔村、小山村、青砥村、下麻生村の飛地と合併して中里村大字西八朔となる。町名は旧村名を採った。北側を東名高速道路が通る。町内に横浜商科大学緑校舎がある。(緑区)

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恩田川の風景⑥ 青葉区との境、左岸が西八朔町、右岸が十日町市場町です/八十橋


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杉山神社参道


d0183387_12134673.jpg杉山神社

主祭神::五十猛命 配祀神:大日霊貴命・素戔嗚尊・大田命
横浜市緑区(旧武蔵国都築郡)西八朔町にある神社。横浜市内唯一かつ旧武蔵国の式内社である「杉山神社」の有力論者の一つとされる。また、武蔵国六宮として大國魂神社の「くらやみ祭」に参列しており、武州六大明神の一つともされている。『神道集』によると、当時は椙山大明神と称し本地仏を第聖不動明王としている。また『新編武蔵風土記稿』によると、江戸時代には神体が不動明王の立像であったという。1910年(明治43年)に付近の無格社神明社など4社を合祀している。創建時期は不明であるが、当社に残る棟札や別当寺である極楽寺(現在も隣地に所在)の墓碑年号より当社は延宝年間(1673 - 1681)に現地へ遷座したものと考えられており、これ以前には西北方300mの山麓に鎮座していた。『武蔵風土記』によると、慶安2年(16498月には徳川幕府より朱印状と朱印領56斗が与えられている。この他、当社は江戸時代に「六ノ宮」とも称されていた。明治612月に郷社に列格し、1910年(明治43年)には付近の無格社神明社など4社を合祀している。現在の社殿は昭和57年)11月に改築されたものである。Wikipedia

d0183387_12143604.jpg力石
江戸時代中期〜明治にかけて、当社の氏子である若者がこの力石を担ぐことで力を競い合ったという。また五穀豊穣を祈願するため大山阿夫利神社へ参拝した折に、相模川の河原から担がれ奉納されたとも伝えられている。Wikipedia


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極楽寺参道

d0183387_12172878.jpg別當極楽寺参道
新義真言宗、王禅寺村王禅寺末、顯弘山蓮花院と號す、中興開山元海天文二年に寂す、客殿九間に七間南向なり、本尊大日は坐像にて、長一尺許、慶安年中社領の御朱印を賜ふ、其文左にのす。
武蔵國都筑郡西八朔村、極楽寺杉山明神社領同村之内五石六斗事、任先規寄附之訖、全可収納、幵境内山林竹木諸役等、免除如有相違者也。慶安二年八月廿四日御朱印(新編武蔵風土記稿)


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圓光寺 
新治町(右岸)ある高野真言宗のお寺です


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観護寺 
小山町(右岸)にある高野山真言宗のお寺です

d0183387_13512583.jpg印融法印墓
印融法印(14351519)は中世の学僧で、現在の緑区三保町の生まれといわれる。『神奈川県史』(人物編)によれば、小机鳥山山会寺で伝法を受け、高野山で研鑽を積み、無量光院の院主となった。晩年にいたり関東における真言宗の衰退をなげき、長享2年(1488)頃より関東に帰り、三会寺や金沢光徳寺などに住して真言宗の復興に努めた。永正16年(1519815日観護寺で没したという。85歳。生来、書を好み、外出するときは鞍に小机をつけた小牛に乗りながら、仏典を読んだという。地輪に「永正十六己卯季 印融法印 八月十五日」とある。(横浜市教育委員会)

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十日町市場付近のマップ
(赤:歩行ルート 青:恩田川 緑:東名 赤丸:八十橋)



・・・三保町(緑区・右岸)


町名は旧村名を採れば「久保町」となるところ、横浜の旧市内に既に「久保町」があるため、久保村が3つの谷戸になっていて、その親睦互助の精神を表現し明朗発展を祝して「三谷戸」の「三」と「久保」の「保」を採り「三保町」と名付けた。町内に東洋英和女学院大学などの教育施設や公営の住宅が多数あり、舊城寺、三保市民の森がある。(緑区)


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舊城寺山門

山門由来記
この山門は明治26年、もと横浜の神奈川通りにありし浄土真宗本願寺派海見山長延寺11世雲居玄照法師の代に建立せられしものなり。幸にも関東大震災、横浜大空襲の難をまのがれたり。昭和41年第15雲居隆昌法師の代に長延寺は當三保町に遷山。佛縁によりてこの山門を舊城寺に復元す。之が復元に當り石井忠兵衛氏檀越となり工事費百五拾萬円を供養せらる。時に宗祖弘法大師御誕生1200年の記念すべき年に落成。久保山舊城寺住職野村全宏 識之(石碑文)


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舊城寺本堂

d0183387_14383808.jpg久保村舊城寺
除地、五段許、村の北の方にあり、是も同く三會寺の末、久保山と號す、客殿六間に七間南向なり、本尊大日坐像にして長六寸許、開山を詳にせず。薬師。客殿に向て右の方にあり、此本尊眼なきを以無限の薬師と云、行基の作なりと、立像にて長一尺許にして甚古佛なり、此堂もとは村の南今の薬師谷にありしを、いつの頃か寺内へ移せり。城址。境内にあり、此地は山田右京進と云ものの居城なりとて、二重にから堀あり、又一段高き處を本城跡と云、當寺の入口に、近き頃までも喰違の土手ありしなり、墓所に石碑を立、覺養院相傳浄雄居士、慶長十九年十一月十五日とあれば、城主右京進が家老蘆垣浄泉同大膳などの石碑なりや、近来まで榎下村に彼蘆垣が族残れり、かれが先祖なりと土人は云へり。(新編武蔵風土記稿 写真:薬師堂)

d0183387_14511228.png榎下城址

榎下城は上杉憲清が築いたと伝えられ、自然の丘陵地を利用し本丸は一段高いところに位置し、内外に空堀をめぐらし、さらに土を盛って土塁を築き、大手口には侵入者をまっすぐ城内に入れないために喰い違いの虎口という独特な土塁を築いています。また東側の堀は谷を利用して箱堀となっています。上杉憲清の子憲直が永享の乱(1438)に足利持氏に加担し、敗れて金沢称名寺で自決して以来、城主については不明ですが、小田原北条氏の時代にも小机衆の拠る小机城に対して出城の役目を果たしていたとも考えられます。その後、慶長年間(1596-1614)にこの地に旧城寺が開かれました。寺林は県指定天然記念物に指定されています。(横浜国際観光協会・横浜教育委員会文化財課)


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本丸跡                空堀跡

榎下城
榎下城は恩田川氾濫原に面した舌状に突き出した丘陵の先端に占地し、近辺の眺望に優れる。憲房系(宅間上杉家)の憲清により築かれたと伝わり、永享の乱の際には、憲清の子憲直が持氏方として拠った。幕府方に攻められた憲直は榎下城から退いたが、上杉憲実方に追われ称名寺において子の憲家と共に自害した。城域に佐藤小左衛門氏が隠居所を建て、更に慶長8年頃(1603)舊城寺を開基した。この為城域は比較的良く保存され、土塁上の寺林は県の天然記念物に指定されている。なお、城名は横浜市営バス停の名称(「榎下城址裏」)として現在も残っている。・永享年間、上杉憲清により築かれる。 ・永享の乱の際には、持氏方の上杉憲直が拠った。 ・北条氏時代には小机城の出城として利用された。 ・慶長8年頃(1603)佐藤氏が城域に旧城寺を開基した。Wikipedia


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三保杉山神社

祭神:日本武尊 相殿:天照大神、猿田彦命
杉山神社は、創建の時期は不詳ながら慶長9年(1604)まで近隣併せ八か村の総鎮守であり、その後久保村(三保町)の鎮守となる。明治維新後国家管理の下、明治6年(1873)村社に指定され、同41年(1908)村内5社を合祀、大正9年(1920)神饌幣帛料供進神社に列せられる等の経緯を辿るも、昭和21年緊急勅令に基づき神社本庁を包括団体とする自主団体として存続する事となり、同28年宗教法人杉山神社として設立され現在に至る。(境内石碑)


・・・中山町(緑区・右岸)


古くは都筑郡中山村といい、明治22年の市町村制施行の際、十日市場村、榎下村、久保村、寺山村、台村、上猿山村、下猿山村、鴨居村、本郷村、上菅田村、新井新田と合併して新治村大字中山となる。町名は旧村名を採った。村の中央部が丘陵になっているところから「中山」と呼ばれるようになったという。北側を恩田川が流れ、中央を横浜線が通り中山駅がある。町内に横浜市緑スポーツセンターがある。 (緑区)
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恩田川の風景⑦ 中山町の風景です/小山橋
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恩田川の風景⑧ 左岸は青砥町、尾根が尽ききます/中山大橋


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恩田川の風景⑨ 谷本川(鶴見川)と合流します 

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合流点                下流に架かる中原街道・落合橋

鶴見川合流地・青砥、中山の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23162729/


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中山付近のマップ
(赤:歩行ルート 青:恩田川・鶴見川 橙:中原街道 赤丸:合流点)

中原街道・佐江戸の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22283601/


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恩田川流域マップ  
青:鶴見川(上)&恩田川(下)


by Twalking | 2016-07-05 21:01 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 恩田川(3)成瀬尾根から長津田へ   

日時 2014.7.1(金)
天気 曇り/晴れ梅


雨晴れのようなので出かけました。
合流地までは7km位なので成瀬尾根などを組み込みました。
こどもの国の北側、県境の尾根ですが、ここはいいですね。

それに都橋から長津田の棒路、こちらの方が古道然としていて
成瀬ルートよりも面白いかな~、という感じがします。
前半は木陰が多いので、気持ちよく歩けました。


・・・奈良町(青葉区)

横浜市青葉区
の一地域。町田市および川崎市麻生区岡上に隣接している。現在のすみよし台の一部、緑山、奈良一丁目~五丁目および奈良町はかつての都築郡奈良村である。こどもの国などがあり市内では有数の緑多い地域。シラサギやチョウゲンボウ、野生のホタルも観察できるが、近年では宅地開発が進行している。Wikipedia

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谷戸の風景 玉川学園裏から谷戸へ、学園内が水源のようです/土橋

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「鎌倉古道」の階段を下ります     谷戸の下に降りてきました


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奈良川源流域 まだ小さな流れです/ことり橋

奈良川

横浜市が管理する準用河川。準用河川区間延長は3470m(大田平橋から下流)うち横浜市改修計画区間は1920m(神前橋から下流)、流域面積は6.51km2。玉川学園の敷地内にある奈良池(本山池・奈良町)を源とし、こどもの国駅とこどもの国の間を通り青葉区恩田町の日影橋の下流側で恩田川に合流する。源流域は土橋谷戸と呼ばれる小さな谷を形成している。「こどもの国」内に遊水池がある。Wikipedia)

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こどもの国 まだ子供達が小学生だった頃、よく遊びにいった公園です

こどもの国
横浜市青葉区奈良町(敷地の一部は町田市三輪町)に所在する、社会福祉法人こどもの国協会が運営する総合的な児童厚生施設。戦時中、当地は旧・日本軍最大規模の弾薬組み立て・格納などを目的とした弾薬製造貯蔵施設(東京陸軍兵器補給廠・田奈部隊填薬所)であり、敗戦後は田奈弾薬庫として米軍に接収されていた。後に返還を受けると1959年の当時の皇太子(今上天王)の成婚を記念して、主に国費と雪印乳業など民間からの寄贈により施設跡地を整備し、196555日(こどもの日)に開園した。約100haの広大な敷地に多摩丘陵の自然を生かした施設などがある。 園内の牧場で飼育している乳牛からとった牛乳を使って作ったソフトクリームと特別牛乳「サングリーン」がこどもの国の名物である。Wikipedia

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奈良山公園 憩いの場でしょうか、奥に散策路もあっていい公園です

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こどもの国駐車場からの景観      奈良町の街並 



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玉川学園周辺マップ           こどもの国周辺マップ
(赤:歩行ルート 橙:鎌倉古道 青:奈良川)

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・・・成瀬尾根

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住宅地を抜けると案内板があり、森に入ります

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道はよく整備されています       鉄塔の先に「風の広場」があります

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樹林が切れると畑があり、南に谷戸が広がります


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丘の風景① 北側は町田市、原町田の奥には丹沢が一望できます/展望広場


d0183387_00452831.jpg東雲寺上遺跡
2000年頃から始まった発掘調査で、今から20005000年程遡る縄文後期と弥生時代の住居跡がみつかりました。中でも東日本では珍しい石製矢じり(有孔磨製石鏃)がまとまって出土したことや、壺の内部に付着した鉄剣の一部と考えられる鉄製品が出土したことが特に注目されました。2006年の調査では外堀の一部(環壕の一部?)が見つかっており、環壕集落の可能性も指摘されました。この様な遺跡は道を隔てた横浜市側でも確認されており、この山吹緑地にも眠っていることも十分考えられます。近くの有名な「なすな原遺跡」(長津田東急車庫の一角から縄文・弥生の多数の住居跡や多量の出土品)を考え合わせると、当時かなりの人々がこのあたりで生活していたことが想像できます。発掘現場は北に向って780mです。(説明板)


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左手はあかね台の樹宅地、この先から恩田川低地へ下ります


あかね台

青葉区西部に位置する東急不動産の分譲になる新興住宅街である。町名の由来は、現町域のほぼ半分を占めた字「西ケ谷」に多年生のつる植物アカネが群生しており、その根を健康増進の薬として煎じて飲んでいたことと、字名の「西」とアカネの漢字「茜」が似ていること。地名の新設にあたり地元の要望で「あかね台」と名付けられた。Wikipedia

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成瀬尾根マップ 
左下がこどもの国駅 尾根の上側が青葉区奈良町&あかね台、下側が町田市成瀬になります(黄緑:尾根道 紫:成瀬街道)



d0183387_00552626.png成瀬山吹特別緑地保全地区
名称の「山吹」は、昔からの地名である「山村」と「吹上」の両方の場所にまたがることに由来しています。区域は南北及び東側に伸びており、町田市と横浜市のを縦断する尾根道の南側の最終地点となっています。頂上部から西側に開けた平坦地を望むと町田市の中心市街地を一望することができ、遠くには、丹沢山塊や富士山まで見渡すことができます。また、斜面地にはコナラ、クヌギ、ヤマザクラなどのかつて薪や炭の材料とした二次林といった貴重なみどりが広い面積で残されています。町田市ではこの貴重な自然を将来にわたり保全するため、都市緑地法に基づき特別緑地保全地区として指定いたしました。特別緑地保全地区内については、都市緑地法第14条により工作物の新築、土地の造成等について行為の制限を受けます。指定面積:約4.5ha 所在地:町田市成瀬50002ほか地内 指定日:2013(平成25)118日(町田市公園緑地課)  (黄緑:成瀬尾根 紫:成瀬街道 青:恩田川)

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丘の風景② 北側 眼下の成瀬の街並&恩田川、対岸は成瀬台でしょうか

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丘の風景③ 南側 左は多摩丘陵、右は長津田の丘、この間を恩田川が流れます



・・・南成瀬

町田市の東部に位置する。東には横浜市緑区、南にはつくし野と小川と成瀬が丘がある。西には高ヶ坂、北には成瀬と横浜市青葉区がある。
成瀬との町境のすぐ北を恩田川が流れる。Wikipedia

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恩田川の風景① 桜並木が切れると青葉区ですが、右岸に古道があるのでそちらへ/都橋 


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長津田へ向かう古道 坂下に石仏群、坂上に梅稲荷神社があります/「成瀬クリーンセンター前(右岸)

長津田への旧道

都橋の南側から長津田(横浜市緑区)方向へ伸びる道も鎌倉道の枝道で、中道への連絡道であり初期の上道であったと見られている。畠山重忠が討たれる直前にここを通っている。Wikipedia

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d0183387_00201210.jpg地蔵尊の案内/南成瀬8

地蔵菩薩立像 丸彫り一猿 像高1480cm 台座正面中央に一猿台座 右の文字:奉供養 念仏庚申 左の文字:為二世安楽 建立:享保8年(1723)霜月吉日 武蔵多摩郡成瀬村東光寺
江戸時代中期の享保8年に建立された此の地蔵様は右手に錫杖を持ち、左手には宝珠を携えて蓮華台に立ち、台座正面には庚申(かのえさる)を表す猿が彫られ、二世安楽はこの世での幸せはもとより来世に渡っても安楽に暮らせるように祈っています。また「奉供養 念仏庚申」と彫りこんであるのは庚申講(庚申待ち)の満願を期して地蔵様の建立をしたものと想定されます。庚申講(庚申待ち)の伝承は次のような物語があります。人間の体に宿っている庚申(三尸・さんしの虫)という虫が60日ごとに廻ってくる庚申の日の夜、その人が寝ている間に体から抜け出し天に昇り、その人の命を縮めてしまうのです。そこで庚申の日には大勢の仲間と講を組んで一晩中寝ないで、経文を唱えたり飲食したり雑談しながら不眠の「庚申待ち」を行います。「三尸の虫」は7回「庚申待ち」を行えば死に絶えると言われてますので7回の講を行うのです。この7回の講が無事に終れる満願を期して庚申角塔を奉建したり、この地蔵様のような立像を村の入り口や辻に建立して日常的に参拝する信仰が行われていました。この地蔵様もそれらが類推できます。(案内板)

d0183387_00224057.jpg天狗童子立像

舟形光背H490・W310・L140 建立:武蔵成瀬村東光寺村惣氏子
完全な船形に近い天狗童子立像(鳥天狗)で、全国的にも類例を見ないとされる貴重なものである。しかも成瀬には三体あって(山村・西ノ久保にも現存している)大きさは違うがいずれも舟形の立像である。髪を高く結い、つり上がり気味の両眼を半眼に開いて翼を左右に拡げている。右手に七丈の八つ手を持って胸に当て、左の手には錫杖を握っている道祖神である。昔、中村には三間四方の薬師堂があり、此処を中心として修験者たちが祈祷を業としながら造塔、信仰を広めていったと云われている。村人と修験者との深い関わりの中から生まれた天狗童子の道祖神が村の守り神として建立されたものと推測されている。(伝承文製作・中里猪一)

d0183387_00221253.jpg地神塔
山形角塔 大きさ=H700・W320・L320 建立:武蔵多摩郡成瀬村東光寺 嘉永2年(18492
成瀬村の年表を見ると地神塔が建てられる4年前には大干ばつが起こり、終日「村中で水番を行う」との記録がある。川の水を水田に取り入れるために寝ずの番をして堰や畦道を監視し争いを避け、そして豊作を祈ったのであろう。この場所は柳谷戸を清流とする柳川(小川)が流れ、揚水するための「東光寺堰」の前であった。土地区画整理事業で川を移動させた堰跡付近で、かつては水田用水などの協議や作業の相談が行われた場所である。不作が続き不安な生活が村人の心に「稲作の豊かな稔りを祈る思い」を膨らまさせ、それが地神塔を建てさせたものと見える。(伝承文製作・中里猪一)


d0183387_00254927.jpg梅稲荷神社(正一位稲荷大明神)

「お稲荷さん」で親しまれている稲荷神は稲荷大明神とも呼ばれています。宇迦之魂神(うかのみたま)は別名「御饌津神」(みつけのかみ)と呼ばれています。狐の古い呼び方は「けつ」といい、「御饌津神」を「三狐神」(みつけのかみ)と理解して、狐を稲荷神の使いと信じて、中世の頃から狐に対する民間信仰が始まったとされています。伏見稲荷神社の祭神が降下されたのが和銅4年(7112月の始めの牛の日であったことからと云われています。ここに鎮座する東光寺の梅稲荷神社でも、これらの伝統的な行事を守って発牛祭の前日には宵宮祭が行われています。幟を立て、しめ縄を新しくして神社の埃を掃き掃除し、太鼓を叩き、そばや油揚げ目刺しなどを供え、五穀豊穣、防災開運等を願ってお祈りをします。(説明板)


d0183387_00281257.jpg名主・原嶋源右衛門の死刑執行の場所/南成瀬

享保元年(17161015日、通称「がけ山」と呼ばれるこの場所で村民の必死の嘆願もかなわず名主・原嶋源右衛門は15人ほどの役人の手により打ち首、一家断絶の厳しい処刑が行われた。今から293年前の出来事である。処刑役人たちは居並ぶ村民たちに「かたずけろ」と命令し引き上げたが、総出の村民は寝もららず一家の屍を焼き葬った。村民たちは3日間に渡り火を焚き続け、号泣と埃で顔の表裏も定かでなくなる姿でいつまでも手を合わせ、一身に罪を背負った原嶋源右衛門並びに一家の成仏を祈り念仏を唱え続けたのであった。その跡地にこの供養塔を建立、台座に指名が刻されている。筆は東雲寺住職8世「考山」である。なお、慰霊碑は元原嶋家の屋敷で少し離れた南成瀬8丁目5番地にある。

処刑の原因となった入会地「葦沼」の新田開発
台地の先に葦が群生する入会地があり沼の底から湧水が湧く湿地帯が広がり、それが成瀬村と長津田村にまたがっていた。無価値に等しい土地であったが、成瀬村の名主・原嶋源右衛門努力で暗渠排水などの新しい技術を取り入れた新田開発が成瀬東雲寺部落総員の参加で行われ、立派な水田が出来上がり不毛な地が一躍金を生み出す土地に変身した。そうなると垂涎の的、隣接の長津田村から境界問題が提起されてきた。協議を重ね紛争が解決、定かでなかった境界も合意の上で画定したが、これに奉行所が横やりを入れ「公儀をたぶらかした」として首謀者の名主・原嶋源右衛門を見せしめの罪人に仕立て上げたものである。(中里猪一)


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長津田が見えてきましたが、駅手前を恩田川へ下りました

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恩田川の風景② 合流地まで7kmの表示、左岸は青葉区、右岸は緑区です/柳橋



by Twalking | 2016-07-04 22:56 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 恩田川(2)高ヶ坂~成瀬   

日時 2016・6.26(日)
天気 晴れ


左岸は多摩丘陵、右岸は南成瀬の丘、その間を縫うよう流れています。
鎌倉道はこの丘陵に沿って進み、都橋から右岸の台地に向かいます。
今回も鎌倉道と恩田川を交互に歩いてみました。

だんだんと日差しが強くなりましたので、川辺の木陰は最高です。
高橋橋から都倍まで約2km続く桜並木、これは素晴らしいですね。
この先は横浜市緑区、のどかな田園風景が広がります、楽しみです。



・・・高ヶ坂
(こがさか)

町田市中部に位置する。東は西成瀬、成瀬、南成瀬、西は原町田、南は金森東、北は南大谷と接している。「こうが」は「コゲ」「コウゲ」(芝地のこと)から来ているので、高ヶ坂は芝地の坂を意味する、という説がある
Wikipedia


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恩田川の風景① 右岸はかしの木山自然公園、右岸は芦ケ谷公園になります/坂下橋


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恩田川の風景② 南成瀬の丘が見えてきます/旧高橋橋

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旧高橋橋                       左岸から「鎌倉古道」が下ってきます

旧高瀬橋
成瀬との境界で原町田と成瀬を結ぶ古道があった。横浜港開港後は八王子方面からの絹の運搬路となった。Wikipedia

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高ヶ坂周辺マップ(青:恩田川 橙:鎌倉古道 紫:成瀬街道 赤丸:旧高橋橋)

左岸の「鎌倉古道」(かしの木山緑地)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23214073/



・・・成瀬


町田市南部に位置し、東は横浜市青葉区奈良・あかね台、西は高ヶ坂・西成瀬、南は南成瀬、北は東玉川学園、成瀬台と接している。成瀬村および鶴間村・小川村・金森村・高ケ坂村が合併してできた南村の中心であったが、成瀬駅が設置されてからは中心はそちらに移っている。 主に1960年代以降の宅地開発により成瀬台、南成瀬、西成瀬、成瀬が丘、東玉川学園が誕生し分立した。
Wikipedia

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この辺りから成瀬の中心部になります/成瀬会館前(成瀬街道)


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恩田川の風景③ ここから鹿島橋にかけて左に大きくカーブしていきます/高橋橋 

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川辺に降りれます/高橋橋(成瀬街道)  鹿島橋

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恩田川の風景④ 桜並木に覆われて堂々とした流です/高橋橋・親水護岸


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恩田川の風景⑤ 高橋橋から都橋までの約2km、桜並木が続きます/弁天橋公園

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旧河川の名残です/弁天池        名の由来となる弁財天が祀られています


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恩田川の風景⑥ 上流左手は成瀬城址、奥に左岸の丘陵が望めます/会下山橋 

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「成瀬城址」の石碑/城山公園      会下山橋

会下山橋(えげやまばし)
上流側右岸の高台には城山公園があり、小机城の支城であったと言われる成瀬城の跡地である。会下山橋は高い土地である南成瀬と低い土地である都立成瀬高等学校方面とを結ぶ橋で、サイクリング道路や都営成瀬アパートの商店街をも跨いでいる。上流側左岸オーディオテクニカと恩田川の間にはかつて杉山神社があったが、東雲寺の隣へ移転している。Wikipedia

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恩田川の風景⑦ 下流左に県境の成瀬尾根、右は南成瀬の丘、奥に見える高層ビルは長津田でしょうか/会下山橋


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恩田川の風景⑧ 前方吹上橋を右に上ると町田街道・つきみ野方向です/向橋


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坂を上ると成瀬駅/成瀬中央橋      総合体育館前の向橋 


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恩田川の風景⑨ 谷本川(鶴見川)合流点から7.6kmの表示/都橋

都橋
この橋は古代から最近までの交通の要所であった。横浜市瀬谷区上瀬谷町・上瀬谷小学校入口信号付近(相模国鎌倉郡瀬谷郷)から本道と分離して、グランベリーモールの東側、町田街道・小川信号付近、町田市南つくし野・やなぎ公園付近を通り、小川に沿って北上し、都橋を渡り、成瀬街道の南側を西に進み、東雲寺を経て、恩田川左岸に沿って本町田で本道に再合流する、鎌倉道上道の枝道にあたるWikipedia

鎌倉街道成瀬Rの関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23253995/


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右岸から小川が合流します/都橋先

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桜並木を抜けると緑区です       管理境界の表示板

小川
かつては「柳川」や「柳渓川」と呼ばれていた。現在では「小川川」と呼ぶ場合もあるようだ。小川都市下水路の区間を除き普通河川である。全区間、町田市下水道部下水道管理課が管理する。町田市南つくし野二丁目の東急田園都市線の線路あたりを最上流とし、やなぎ公園を経て暗渠を北へ流れる。この先、小川1丁目・つくし野1丁目・つくし野2丁目の境にある交差点を越えたところで開渠になり、郵便局桜通りの西側を併走し、JR横浜線をくぐる流れがあるが、これは、上記の交差点直下で寸断されていて、本流は町田市南成瀬七丁目の南成瀬の南端まで桜通りの真下にある暗渠を流れ、地上に出たところで、寸断された流れと合流する。ここまでが、普通河川の区間だ。なお、南成瀬中学校の校歌にこの小川のことが歌われている。Wikipedia)


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成瀬付近のマップ
(青:恩田川 橙:鎌倉道・成瀬R 紫:成瀬街道 赤丸:旧高橋橋・成瀬城址・都橋)

鎌倉街道成瀬R(右岸)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23256636/


・・・・・・・・・
資料ファイル

町田市の地形
市域の大部分が多摩丘陵に属し、地形的には同丘陵の北部、相模原台地の北東のであり、ほとんどが丘陵地帯である。最高地点は西端にある草戸山(標高364m)。平地は町田駅付近や西および南を流れる境川・ほぼ中央を流れる鶴見川とその支流恩田川近辺など少ない。ほぼ町田街道分水嶺に北側が多摩川水系および鶴見川水系、南側が境川水系である。周囲は、東京都の他市に接しているのは北側のみで、神奈川県に接している部分のほうが多く、神奈川県側に半島状に付き出した特異な位置にある。また、大地沢あたりを銃口、三輪あたりを引き金と見立てると、市域は拳銃の形をしている。Wikipedia


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町田市の地形/「町田市景観計画」「町田市の景観の特徴-地形がつくる景観」を参照

地形が作る景観
町田市は中心市街地などがある相模原台地を除いて、ほぼ全域が関東山地から南東に向かって三浦半島へと続く多摩丘陵に属しています。さらに細かくみると、西側にある関東山地から段階的に丘陵地、台地、低地となり変化に富んだ地形に恵まれています。
①山地の景観 
町田市の西端付近には市内で最も標高の高い草戸山(364m)があり、関東山地から続く山地の景観が見られます。
②台地の景観 
丘陵地と境川沿いの低地でに挟まれるようにして帯状に台地が広がっています。
③低地の景観 
鶴見川、境川、恩田川など河川に沿って平坦な低地が細長く分布しています。特に丘陵地の中には河川に沿ってひだのように広がっている低地があります。そうした低地には昔ながらの道路(街道や旧道)がつくられ、農地も多くみられます。(「町田市景観計画」(2009年12月策定)より抜粋)


by Twalking | 2016-06-30 23:14 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 恩田川(1) 源流域   

日時 2016.6.17日(金)
天気 晴れ

予報が外れて久し振りの青空、誘われるように出かけました。
多摩丘陵の西側を流れる恩田川、それと平行する鎌倉街道上道の
成瀬ルート、都橋まではほぼ同じ道筋です。

この川と古道を絡めて歩こうと準備をしていたところです。
これからは暑くなるので距離を少し縮じめて・・・でしたが、
自宅から歩きましたので、結局は同じくらいでしたね~。。。


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丘の風景① 源流域の今井谷戸(左)と薬師池方面を望む/鎌倉街道・今井谷戸


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流域(青:恩田川 紺:鶴見川 赤丸:水源・合流地)

恩田川
町田市
および横浜市を流れる一級河川であり鶴見川水系の大きな支流である。
(地理)
東京都町田市本町田の滝ノ沢地区、町田街道の町田三中西交差点の北東に源を発し、JR横浜線の北をほぼ平行に流れ、横浜市緑区青砥町と中山町の境界で鶴見川に合流する。一級河川としての上流端端は鶴川街道カルバートである。恩田川という名称としての上流端は、水源からのわさび沢川と今井川が合流する地点である。

(名称の由来)
武蔵国都築郡(
現在の神奈川県の流域)では、郡内の恩田村(現在の恩田町・田奈町・しらとり台など)から流れてくる川として古くから恩田川と呼ばれていた。一方、南多摩郡(現在の東京都の流域)では、郡内の町田村から流れてくる川として町田川と呼ぶことが一般的であった。現在「町田」というと町田駅周辺の原町田をイメージすることが多いだろうが、旧町田村は原町田村が分村したことにより本町田町と改名している。旧来の「町田」は現在の本町田(特に旧字名の宿から今井谷戸にかけて)であり、ちょうど恩田川の上流端となっている。(Wikipedia


・・・今井川(源流)

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鎌倉街道脇の小公園に案内板があります/今井川(今井谷戸)


d0183387_16411509.png今井川
町田市下水道部下水道管理課が管理する普通河川。(本町田2号雨水幹線)源流部はいくつかの流れに分かれているが、水源は鎌倉街道以北の七国山から薬師池にかけての町田市本町田と山崎町の境にほぼ集約される。今井谷戸交差点東側から本町田東小学校南西端までは暗渠を通り、暗渠の上は「なかよし散歩道」として雨水や湧水を利用したせせらぎ水路が流れる親水施設になっている。「なかよし散歩道」の下流側には「ひなた村」と称するレクリエーション施設やデイキャンプ場などを備えた、町田市子ども生活部が管理する公園がある。右岸側からワサビ沢川、左岸側から今井川が合流する地点より下流側を恩田川と称する。Wikipedia(源流域 橙:今井川 緑:わさび沢川 青:恩田川)


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この上流が水源            この伏流水(公園下)も水源です


d0183387_15113914.pngなかよし散歩道

この「なかよし散歩道」の地下には大雨による「湧水」から地域を守る公共下水道本町田2号雨水幹線を備え、地上の約600m区間はひなた村から薬師池公園へと散策できる「親水」緑道の二層構造になっています。(案内板)


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てづくり郷土賞(平成1911月)
     トンボ池



・・・ひなた村

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ひなた村カリヨンホール前/本町田

d0183387_15403487.jpgひなた村

ひなた村は、町田市のほぼ中央に位置する緑豊かな小高い丘(標高105.8m)にあり、公園(野球場、テニスコート、本町田遺跡)、博物館、住宅、団地に囲まれ、面積は67千m2、林の中の広場やホール、レクレーションルームなどを備えた青少年施設です。ここでは、自分たちで考え作り、思いっきり遊ぶところです。自然の中でカレー作りやお餅つきをしたり、チャレンジ教室などに応募してさまざまな体験ができます。(町田市)

d0183387_15412062.jpgカリヨンホール
「カリヨンホール」のカリヨンとは、フランス語で3から4つを1組とする鐘を意味します。ひなた村には、このカリヨンがあり毎日午前10時・正午・午後1時・3時・5時にそれぞれ異なる綺麗なメロディを奏でています。(町田市)

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丘の風景② いい谷戸ですね~、この上は藤の台団地になります/ひなた村


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丘の風景③ 北側が切れた小高い丘の上にあります/本那町田遺跡公園(本町田)


本町田遺跡
本町田遺跡は昭和42年(1967)藤の台段地の建設にともない調査された。この調査によりおよそ27002の範囲から縄文時代前期の住居跡が4軒、弥生時代中期の住居跡が7軒検出された。かつてこの地は北側の斜面に湧き水が見られたことから、当時の集落もこれに依存していたと考えられる。本遺跡は多摩丘陵における縄文・弥生時代の典型的な集落形態をなしており、その重要性から保存された。その後遺跡公園として整備され、縄文時代の住居と弥生時代の住居が検出された位置で復元されている。(東京都教育委員会)

d0183387_15474660.jpg弥生時代の復元住居
弥生時代に入ると、日本に大陸から金属の道具が伝わってきました。金属器を使うことで石器よりも細かい作業ができるようになり、原木ではなく加工された住居の柱が登場します。木材を加工することで縄文時代に比べてより強度を増した住居を建てることが出来るようになりました。この復元住居も柱に加工材を用いています。本遺構は大小二つの遺構が重なっており、本住居が拡張されたことを物語っています。ただし、縄文住居と異なり同じ柱穴を使うなど前野住居の痕跡をうまく利用しています。(説明板)

 
d0183387_15474955.jpg縄文時代の復元住 
居竪穴住居は地面を約10cmほど掘り下げて床面とした住まいです。柱は掘立式で柱上に梁や桁を組み、その周囲に垂木や棟木(むなぎ)を架け渡して屋根の骨組みを作り、植物(芽)の茎や葉あるいは土などを葺きます。縄文時代の住居は柱や梁などに木材を丸太のまま使用することが一般的で、材種は栗が多かったようです。この復元模型の住居は二股に分かれた栗丸太を4本用い、梁や桁も栗丸太材を用いています。木材同士は植物のつるで結んでいます。(説明板)



・・・わさび沢川(源流)

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わさび沢川の源流/滝の沢源流公園(町田街道)

わさび沢川

町田市下水道部下水道管理課が管理する普通河川。水源(町田市本町田の滝ノ沢地区)から今井川が左岸から合流する地点(町田市本町田の日向台地区)までの恩田川源流部における名称である。水源付近は住宅地の中にぽっかりとある荒地である。この荒地には最近まで民家が数軒あったが、現在では町田市都市づくり部公園緑地課により滝の沢源流公園が整備された。(Wikipedia

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源流                 住宅を流れます

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丘の風景④ 左手が市民病院、右手に浄水場、この谷を流れます/本町田



・・・日向台

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恩田川の風景① わさび沢川(右)と今井川の合流地/日向台


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恩田川の風景② 改修前の旧流路も残ります/日向台


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恩田川の風景③「恩田川上流端」の看板がかかります/鶴川街道

鶴川街道カルバート
(上流端)/日向台
一級河川に指定されている区間は鶴川街道カルバートを含みここから鶴見川合流点までである。町田市が設置したサイクリング道路が左岸に、稲荷坂橋からは右岸にもサイクリング道路がある。Wikipedia


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恩田川の風景④ 前方左岸に玉川学園の台地が見えてきます/桜橋(南大谷)
 
桜橋の右岸下流側には休憩施設があります。桜橋から梅の橋のサイクリン道路(右岸)は水面近くまで低い所を通る浸水広場になっています。

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恩田川の風景⑤ 小田急線高架、石洗橋を左折して玉川学園前駅へ


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みんなの恩田川/桜橋ポイント 
恩田川は七国山周辺、および滝の沢に源を発し、町田市の市街地を流れ、横浜市緑区中山町付近で鶴見川本流に合流する都市河川です。一級河川で、稲荷坂橋上流から都橋下流の横浜市との境界までが、東京都の東京都の管理する区間です。(東京都多摩東部建設事務所)(青:恩田川 紺:鶴見川 緑:鎌倉街道・鶴川街道・246号)

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本町田周辺マップ
(赤:歩行ルート 青:恩田川 橙:成瀬ルート 黄:本路 紫:鶴川街道)


by Twalking | 2016-06-18 23:06 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鶴見川(5)末吉~河口03 鶴見   

日時 2016.6.3(金)
天気 晴れ

東海道を歩いている時「台地」をみたいな~と思いました。
また、中原街道、大山街道でもこの丘を横断しましたが、
「ここのことかな?」と、いまひとつ曖昧でした。

そんなこともあり、今回周辺の丘陵もプランに入れて
鶴見川を源流から河口へと歩いみました。
かなり入り組んだ地形なんですね、少し進んだかな・・・。

川と丘、緑も豊かで歴史・文化もあり、面白い旅でした。


・・・鶴見

鶴見町
神奈川県橘樹郡中部の町、現在の横浜市鶴見区の南部にあたる。明治~大正の頃は生見尾村と称した。(うみおむら・旧生麦村の「生」、旧鶴見村の「見」、旧東寺尾村の「尾」を合わせた名称)
鶴見川を境に東側(左岸)は旧潮田町の区域であり、西側(右岸)が当初の生見尾村の区域であった。東海道が通過し、文久2年(1862)の生麦事件の現場としても知られる生麦は著名な漁村であった。明治5年に官設鉄道(現東海道本線)が開業し鶴見駅が設置されると鶴見が中心集落として成長、明治44年に曹洞宗大本山の総持寺が下末吉台地末端の高台に移転してくると鶴見は門前町の性格も持つようになった。大正14年に潮田町を編入、昭和2年に横浜市に編入され鶴見区の一部となった。Wikipedia

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鶴見川の風景④ 懐かしいですね~、旧東海道です/鶴見川橋


d0183387_13502859.jpg江戸を出て最初に渡った名勝鶴見橋
鶴見橋(現鶴見川橋)は家康が東海道を整備した慶長年間に架けられた橋である。六郷川の橋は元禄年間の洪水で流失し明治初年まで渡し船になっていたため、鶴見橋は江戸を出て京都へ向かう旅人が最初に渡る大きな橋だった。鶴見橋界わいは葦の原にツルやミズドリが生息し、河口付近には帆かけ舟が浮かび、富士山も眺めることのできる景勝の地であった。初代広重の絵をはじめ多くの文人墨客がその美しさを旅日記や歌に残している。(鶴見区)


d0183387_13345262.jpg鶴見橋
初代の鶴見橋は
徳川家康が東海道を整備した慶長6年(1601)ごろ架けられたといわれている。(長さ25間・45.5m、幅は3間・5.5m)。昭和28年に鉄橋(112m×8m)、平成8年に現在の橋(119.6m×12m)に架け替えられた。


d0183387_13581763.jpg鶴見橋関門旧跡

鶴見橋の名称は第一京浜国道に架けられたコンクリート橋の方に取られ、今は鶴見川橋と変わりました。安政6年の横浜開港以来、外国人に対する殺傷事件が度々発生したため、不審な浪士や旅人を取り締まるため、鶴見橋の袂に関門が設けられました。その跡地に「鶴見橋関門旧蹟」の碑が明治15年に建てられました。市の登録文化財になっています。(鶴見みどころ80

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江戸名所図会 鶴見橋 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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すぐ上流側には東海道本線       下流側は京浜急行が走ります


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第一京浜を渡ります/鶴見橋

d0183387_14533782.jpg国道15
東京都中央区の日本橋から横浜市神奈川区の青木通交差点へ至る一般国道である。京浜地区においては「第一京浜」あるいは「一国(いちこく)」などと呼ばれる。五街道の一つである東海道の日本橋-神奈川間とほぼ同じ位置にある国道であり、明治1號國道の日本橋-神奈川間にも相当する。Wikipedia

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鶴見川の風景⑤ 大きく右にカーブして流れます/鶴見橋



・・・潮田町(左岸)

神奈川県橘樹郡中部の町、現在の鶴見区の東部にあたる(鶴見川以東)。元は鶴見川と多摩川の沖積低地上に広がる農村であったが、大正期に臨海部の埋め立てが着手され、1920年代以降京浜工業地帯の中核として工業の集積が進んだ。これに合わせて南部臨海部の潮田地区を中心に急速な工業都市化が進む中、大正14年に鶴見川対岸の鶴見町に編入され、さらに昭和2年には鶴見町が横浜市に編入された。
Wikipedia

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鶴見川の風景⑥ 芦穂橋

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潮鶴橋                潮見の渡し&潮見橋



d0183387_16352592.jpg鶴見線
鶴見から横浜・川崎市内の京浜工業地帯へ向かう短い路線である。鶴見駅から川崎区の扇町駅までの本線、浅野駅から分岐して海芝浦駅までの支線、武蔵白石駅から分岐して大川駅までの支線の3線で構成。鶴見臨港鉄道の開業当時、この路線は埋立地上にあり沿線には地名が存在しなかった。このため鶴見線の駅の多くに実業家や土地所有者から取られた名前が付けられている。鶴見小野は地元大地主の小野信行、浅野は浅野財閥創設者で鶴見臨港鉄道の設立者でもある浅野総一郎、安善は安田財閥の安田善次郎、武蔵白石は日本鋼管の白石元治郎、大川は製紙王の大川平三郎から取ったものである。扇町も浅野家の家紋が扇であったことに由来する等。Wikipedia


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鶴見川起点
(富士の眺望)
河川の起点(0.0km)に当たる鶴見川河口干潟対岸のこの地点は、川沿いから富士山と河口を眺望できるスポットです。階段護岸や水辺の散策路も整備され、釣り船等が行き交い釣り人や水鳥も見られ、多くの人々が河口の風景を楽しむことができるようになりました。平成17年には「関東の富士見百景」の「鶴見川からの富士」の一つに選定されました。(鶴見みどころ80


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鶴見川の風景⑦ 鶴見大橋

産業道路
都道・県道6号東京大師横浜線大田区と鶴見区を結ぶ主要地方道。通称で「産業道路」と呼ばれるようにトラックの往来が多い。神奈川県内では首都高速1号横羽線が平行している。起点は大田区大森東二丁目(大森警察署前交差点)、終点は鶴見区生麦(大黒町入口交差点)。Wikipedia

d0183387_16530657.jpg京浜工業地帯

東京都大田区、神奈川県川崎市、横浜市を中心に、東京都、神奈川県、埼玉県に広がる工業地帯である。四大工業地帯(中京工業地帯・阪神工業地帯・北九州工業地帯)のひとつで太平洋ベルトの中核であり、日本有数の工業地帯である。横浜・川崎の埋め立ては明治期、横浜の鶴見区に京浜工業地帯の生みの親と言われる浅野総一郎らが「鶴見埋立組合」(後の東亜建設工業)を設立し事業を開始した。大正から昭和初期にかけて今の神奈川区千若町・新浦島町・守屋町、鶴見区生麦・末広町・安善町、川崎市川崎区白石町・浅野町など横浜・川崎地区に人工島が造成され、同時に運河が掘られた。(現在は陸続き)その後も土地の不足により神奈川区出田町・恵比須町・宝町、鶴見区大黒町・末広町が埋め立てられる。Wikipedia

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・・・生麦

古来は武蔵国橘樹郡貴志(岸)村と称した。江戸時代に生麦村に改称。「御菜八ヶ浦」の一つとされ漁業が盛んであった。地名は江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の行列がこの地を通る際、道に水が溜まって通行ができなかった。そこで、村の人たちが街道の脇の生麦を刈り取り道に敷き、その上を行列に通らせた。秀忠は感謝としてこの一帯に生麦という地名を与え、村人に漁業を営むに関して特別な権利を与えた。文久2821日(18629.14)に起こった生麦事件が有名で、生麦駅近くに事件の石碑が残っている。
Wikipedia

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生麦魚通り/旧東海道

生麦魚河岸通り

生麦魚介商組合加盟の専門鮮魚店が旧東海道沿いに建ち並ぶ。一般消費者も気軽に利用できる「朝市」の街として有名だが、本来は小口卸売を専業としている店が多いため、正午以降は殆ど営業していない。Wikipedia


d0183387_17043802.jpg御菜浦(おさいうら)
領主のための御菜(おかず)の原材料となる海産物を献上していた漁村のこと。特に著名なのは、徳川将軍家のために江戸城に海産物を献上していた芝金杉浦(現在の芝)・本芝浦(現在の芝浦)・品川浦(現在の品川)・大井御林浦(現在の大井・東大井)・羽田浦(現在の羽田)・生麦浦(現在の生麦)・子安新宿浦(現在の子安)・神奈川浦(現在の神奈川)の8つの御菜浦で、いずれも現在の東京湾に存在して御菜八ケ浦と称された。これらの漁村は幕府に海産物を献上する代わりに東京湾における漁業における特権を有していた。Wikipedia

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国道駅/生麦5丁目

京浜第一国道と交差させて昭和5年(1930)に開設した駅、駅名「国道」の由来です。駅舎はアールヌーボー風の建物です。開設当時はホーム下に「臨港デパート」があり、食品、雑貨、医薬品が販売されていました。旧東海道生麦魚河岸、花月園利用のお客や、駅周辺には映画館もあり賑やかな盛り場でした。現在は「魚河岸通り」が当時の名残りをとどめています。(鶴見みどころ80)

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・・・總持寺


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總持寺/鶴見

鶴見区鶴見二丁目にある曹洞宗大本山の寺院、山号は諸嶽山(しょがくさん)。本尊は薬師如来。能登国櫛比庄(現在の石川県輪島市)の真言律宗の教院「諸嶽観音堂」が「總持寺」の前身である。元亨元年(1321)曹洞宗4世の瑩山紹瑾(けいざん じょうきん)は「諸嶽観音堂」への入院を住職の定賢から請われる。また同年に定賢より「諸嶽観音堂」を寄進され寺号を「總持寺」、山号は「諸嶽観音堂」にちなみ「諸嶽山」と改名し禅院とする。元亨2年(1322)後醍醐天皇より「曹洞賜紫出世第一の道場」の綸旨を受けて官寺、大本山となり曹洞宗を公称する。元和元年(1615)徳川幕府より法度が出され、永平寺と並んで大本山となる。明治31年(1898)火災で焼失、明治44年(1911現在地に移転。現在、旧地に總持寺祖院(輪島市門前町)がある。永平寺派の「有道会」と並ぶ「總和会」(總持寺派)の中心寺。

伽藍
境内には仏殿、太祖堂をはじめ多くの堂宇があり、鶴見大学などの学校施設もある。本尊釈迦如来像を安置する仏殿よりも、道元、瑩山紹瑾など歴代の祖師を祀る大祖堂の方が規模が大きいのが特色である。總持寺は明治44年に石川県から神奈川県に移転してきた寺院であるため、堂宇の大部分は近代の建立であるが、他所から總持寺へ移築された建物のうちには近世末期のものも若干ある。Wikipedia


d0183387_17300360.jpg三松関

總持寺の総門。扁額には「三樹松関(さんじゅしょうかん)」と書かれている。總持寺中興の祖とされる石川素童禅師が揮毫した。建築様式は高麗門で禅院の総門としては特異である。



d0183387_17313440.jpg三門

昭和44年落成で、鉄筋コンクリート造りでは日本一の大きさを誇る。三門の左右には金剛力士(仁王)像が置かれ、元横綱・北の海の15歳の姿をモデルにしたと伝えられる。


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仏殿
大正
4年に竣工。本尊釈迦如来像を安置する。
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大祖堂
昭和40年竣工。仏殿の向かって右に位置する。高さ36m、内部は千畳敷きの大建築。本山開祖・太祖瑩山禅師と高祖道元禅師、二祖・峨山禅師(かさん)をはじめとして歴代の諸禅師の頂相を安置し、あわせて諸尊牌をも奉祀する霊場。


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成願寺の歴史・由来

成願寺は天正3 (1575)聲庵守聞大和尚の開創にして、寺尾に一字を建立し本尊釈迦牟尼佛を安置したことから始まります。その後、元和(16151623)の頃薬師堂の別当として鶴見の二見台に堂宇を移設しました。また、江戸時代初期の当時、寺領拾石の朱印状を付與されていたことが古記録により明らになっております。後に、第20世加藤海応和尚の明治39 2 月、境内地を大本山總持寺移転再建地に献納し、大正元年に再度鶴見豊岡に移転しました。旧本堂は二見台より移建当時の建物が老朽化したため、昭和12 年再建して現在に至ります。

d0183387_17484210.jpg旧成願寺

大本山總持寺が明治31 4 13 日の火災全焼を機に、当地へ移転を企画し、明治40 年に実現されました。その際、成願寺が境内及び所有地の大半を寄附してその達成となり、比地は旧成願寺の中央となっております。また、この度、御本山のご厚意により、旧跡地碑の建設をいただきました(成願寺)


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江戸名所図会 成願寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


・・・・・・・・
資料ファイル

横浜の地形

横浜市域の地形は丘陵地、台地・段丘、低地、埋立地に分けられる。
(1)丘陵地
市域中央部よりやや西よりに分布し市域を南北に縦断する。この丘陵地は保土ヶ谷区・旭区などを流れる帷子川付近を境に北側と南側で性質を異にする。北側の丘陵地は多摩丘陵の南端に位置し標高は60mから100mで北に向かって高くなっている。南側の丘陵地は三浦半島に続く三浦丘陵の北端部を占め標高は80mから160mで南に向かって高くなっている。南側の丘陵地の方が起伏も激しく、標高も高い。鎌倉市に山頂部を置く大平山をはじめとする通称「鎌倉アルプス」に続く峠部分が市内最高点(栄区上郷町、標高159.4m)であり、市内最高峰の大丸山(金沢区釜利谷町、標高156.8m)や円海山(磯子区峰町、標高153.3m)もこの南側の丘陵地に位置する。

1-1.多摩丘陵

西は高尾山東麓から、南は円海山緑地、東は多摩川、北は浅川付近までにかけて広がる丘陵。多摩丘陵は旧武蔵国にあるが、南側の旧相模国の三浦半島に位置する三浦丘陵と地形的につながっているため武相丘陵と呼ぶ人もいる。この丘陵は地質学的には砂層、泥岩層、砂礫層などからなる上総層群あるいは三浦層群と呼ばれる新生代第三紀末から第四洪積世に形成された地層からなる。また北部は古相模川により堆積した御殿峠礫層に覆われている。東は多摩川低地を挟んで武蔵野台地に、西は境川付近で相模原台地に、北西は南高尾山稜・草戸山付近を挟んで関東山地に、北側は浅川を挟んで日野台地に接する。南側は東京湾に接している。最も高い場所は標高220m程度(八王子市南部)である。

1-2.三浦丘陵
三浦半島を南北に連なる丘陵である。北側で多摩丘陵と地形的につながっている。最高標高は241m(大楠山)


(2)台地・段丘
丘陵地の東西にある。東側の台地は鶴見区の地名を取って下末吉台地と呼ばれ標高は40mから60mで鶴見川付近まで続く。瀬谷区、泉区、戸塚区など西側の台地は相模野台地の東にあたり標高は30mから70mで南に向かって低くなっている。本牧付近で台地が海に突き出し、その南側は根岸湾と呼ばれる。横浜駅周辺も幕末まで袖ヶ浦と呼ばれる入り江だった。

2-1.下末吉台地
神奈川県北東部の川崎市高津区、横浜市都筑区・鶴見区・港北区・神奈川区・西区・保土ヶ谷区・中区などに広がる海抜40-60mほどの台地である。鶴見川、帷子川、大岡川などによって開析が進み、多数の台地に分断されている。北側は多摩川沿いの沖積平野に接し、西側は多摩丘陵に連なる。横浜市中心部では海に迫っており、野毛山、山手や本牧など坂や傾斜地の多い地形を作っている。

2-2.
相模野台地
多摩丘陵と相模川に挟まれた地域に広がる台地である。相模川中下流部の左岸に位置し、主に相模川の堆積作用によって形成された扇状地に由来する河岸段丘である。大きく分けて35段、詳細には十数段の段丘面に区分される。


(3)低地
低地には丘陵地や台地を刻む河川の谷底低地と沿岸部の海岸低地とがある。谷底低地は鶴見川に沿って広がり、平坦な三角州性低地を形成する。また、海岸部には埋立地が造成され海岸線はほとんどが人工化されている。金沢区の小さな入り江平潟湾は鎌倉幕府が江戸湾側の海の玄関口とした天然の良港であった。島としては金沢区の野島(扇島・八景島は人工島)があり、野島海岸が横浜で唯一の自然海浜となった。
Wikipedia

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横浜市の地形区分(青:鶴見川 赤丸:源流方向・河口を着色)
(よこはま里山研究所NORAさんの「横浜型エコシティ研究報告所2002」を参照させて頂きました)


鶴見川の地形

鶴見川流域の地形は流域の約7割が丘陵・台地地域となっており、残り約3割が沖積低地である。さらに丘陵・台地地域の過半数は波状に大きく起伏する標高60m以上の多摩丘陵と標高4060mの下末吉台地で構成される。河床勾配は源流から恩田川合流点付近までの上流区間は約1/250であり、沖積低地の中・下流区間では約1/1000の緩勾配となる。(東京都建設局)


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鶴見川流域図/バクの案内板(青:鶴見川 黄:源流・河口)


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鶴見川ルート図(青:鶴見川 赤&紫:周辺丘陵・台地)


by Twalking | 2016-06-08 13:56 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鶴見川(5)末吉~河口02 下末吉   

日時 2016.6.3(金)
天気 晴れ

二つ池から三つ池公園へひと登り、周りは住宅地です。
三つ池公園は豊かな森と大きな池、ここはオアシスですね。
「歴史と緑の散歩道」を下末吉に下りました。

丘の上から鶴見川の流れをみたいと思っていましたが、
住宅がびっしりなので、“感じ”だけ味わいました。
ここから川辺を河口へ向かいます。


・・・
三ツ池公園

神奈川県立三ツ池公園
鶴見区にある総合公園で、名前のとおり園内には3つの池(上の池、中の池、下の池)がある。園内には35品種1000本を超える桜が植えられており「日本さくら名所100選」の一つに選定されている。また神奈川県が選定した「かながわ探鳥地50選」にも選ばれており、林間の小鳥や池の水鳥も多くの種類が見られる。園内には軟式野球場やプール、テニスコートなどが整備されているほかテレビ神奈川の送信塔もある。園内にある3つの池は江戸時代の1787年(天明7年)に農業用水のため池として浚渫・整備された。面積:29.7ヘクタールWikipedia

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中の池
二つの池に挟まれた園内で一番大きな池です。下の池とともに冬には多くの水鳥が北から渡ってきて羽を休めています。


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下の池
園内の北側に位置する池で、「しものいけ」と呼びます。正門から園内に入ると最初に来園者を迎えてくれる池です。この池は、他の二つの池とともに、江戸時代に灌漑用水池として利用されていました。



d0183387_22151092.jpg水辺の散策

三つの池を周遊するコースです。散策路中には里の広場やいこいの広場など、お弁当を広げてゆっくり出来る場所や子ども達が遊べる広場などが点在します。ジョギングにもぴったりなコースです。


d0183387_22165389.jpg森の散策

起伏のある散策コースです。春は若葉や草木の花を楽しみながら、秋は紅や黄色に色づいた森を楽しみながら、ゆっくり歩いてみましょう。(以上「三つ池公園」HP)

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三ッ池公園園内マップ
(緑:尾根・歴史と緑の散歩道 赤丸:西門・中継塔)



・・・歴史と緑の散歩道

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途中道を間違えましたが、ここが起点です/歴史と緑の散歩道入口(上末吉小脇)

鶴見川から尾根道

ここから三ッ池公園の脇を通り獅子ヶ谷市民の森へかけて、丘陵をのぼりおりしながらそのたびに新しい風景をくりひろげてくれる尾根道が続いています。今わたしたちが立っているところは、その一方の入口になります。道標の上のこんもりとした緑の中に、浅間神社と兜塚があります。古墳からは縄文・弥生式土器や、竪穴住居址が発見されています。また、兜塚という名には伝説があります。江戸城を築いた太田道灌は、ある夜、白鷲が彼の兜をさらっていった夢をみたため、その時泊まった加瀬での築城を思いとどまりました。その夢の中で白鷲が兜を落とした場所が兜塚と呼ばれるようになりました。

d0183387_22315918.jpg兜塚にあがると、鶴見・川崎の街並みがひらけてきます。そこには鶴見川がゆるやかに流れています。この川はわたしたちの瀬勝に深いかかわりをもってきました。豊かな水の流れは、昔は両岸にひろがっていた田畑をうるおし、今はわたしたちの心をやわらげてくれます。水面にはねる魚や、空を舞い岸をつたう野鳥が目を楽しませてくれます。兜塚から続く雑木林の下には駒岡八幡神社があり、そこから緑にそって歩くと正行寺があります。(歴史と緑の散歩道案内板)



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五輪供養碑              四辻の地蔵 


五輪供養碑の由来/あそびの森先

仏教で宇宙萬象を生成する地水火風空五種の要素で五大を現した供養碑である。この五輪供養碑は旧上末吉村字梶山の住人山田弥衛門の建立した供養碑で、旧鎌倉街道ぞいに残る数少ない遺跡のひとつで、鶴見区役所の行った歴史と緑の散歩道の整備の一環として鶴見土木事務所の御協力により整備完成したものである。(施主山田樹造)

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丘の風景④ 末吉橋へ下ります、前方は川崎市街でしょうか/梶山橋(環状2号)

環状2号線

横浜市の中心部を取り巻き、市内の高速道路や放射状の幹線道路をつなぐとともに、市の拠点となる地域を連絡する重要な役割を果たす道路である。磯子(森3丁目)から新横浜(鶴見区上末吉5丁目)までの区間では大半が片側3車線となっている上、線形もよく立体交差も至る所にある。Wikipedia


d0183387_23094400.jpg石の仏たち

道のかたわらにひっそりと立つ石の仏たち。見すごしがちな石仏たちもよく見るとさまざまな表情をしています。やさしい顔、おだやかな顔、ほほえんでいる顔、怒った顔。ひとびとはどんな思いをこめてこうした石仏をたてたのでしょうか。今も、ひとびとの思いを石仏たちが静かに語りかけてくるかのようです。わたしたちがよく見かける石仏には地蔵尊、庚申塔、馬頭観音などがあります。地蔵尊は死者を供養するため、また、苦しみから救われることを祈願してたてられたものです。昔は、村のはずれは街道のかたわらに立って村人や旅人を静かに見守っていました。庚申塔は病魔を掃い除くといわれています。本尊は青面金剛といいます。ほとんどは足下に三猿が刻まれています。馬頭観音は頭上に馬の頭をいただいています。馬の保護神として特に農村で信仰されました。散歩道の近くには今もいくつかの石仏たちがたっています。長い年月、風雨にさらされてすりへってしまった地蔵。胸に子供を抱いてしっかりと立っている地蔵。草むらの中で足を組んで静かにすわっている阿弥陀像。石仏たちの前には季節の花が供えられ、心やさしいひとびとの手で今も守りつづけられています。(歴史と緑の散歩道案内板)

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兜塚古墳跡
兜塚は外形が兜の形をした古墳で、高さ5.8m、直径30mあり、副葬品などから古墳時代後期6世紀)頃のものといわれています。昭和6年(1931)頃、長慶天皇(13681383)の陵墓だという説がおこり、県当局よりの指示で石野瑛、山田寅元、池谷健治らが発掘を試みたところ礫床を発見し、瑪瑙の勾玉・水晶の切子玉・青銅渡金の金環など数点が発見されました。その後、昭和26年と40年にも調査をしています。(鶴見区役所)

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兜塚伝説
長禄元年(1457太田道灌が江戸城を築き、江戸を中心とした支城を構築するため各地をみて回った時、加瀬の台(川崎市幸区)にも城を築こうとして一夜を過ごしました。その夜、夢の中でどこからともなく飛んできた鷲が、道灌の兜をさらって飛び去りこの丘の上に落として行きました。道灌はこれを不吉として加瀬の台に城を築くのをあきらめ、後にこの地を夢見ヶ崎と名づけました。鷲が兜を落とした丘に兜を埋めたので、兜塚といわれるようになったと伝えられています。(鶴見区役所)

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駒岡・梶山緑地保全地区について

当地区は下末吉台地に位置する丘陵地で、市街地の中に遺された貴重な緑として平成8年に約2.9haが「緑地保全地区」に指定されました。兜塚古墳など歴史的文化遺産も豊かであり、市ではこの樹林を地域のみなさんのふれあいの場として活用していただくため「ふれあいの樹林」としても指定しました。みんなで美しい樹林に育てていきましょう。(横浜市)

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歴史と緑の散歩道マップ
(緑:尾根 紫:環状2号 青:鶴見川)



・・・上末吉町

鶴見の地形② 鶴見川流域の低地

今から6000年ほど前、台地を除くこの辺り一帯は海におおわれていた(古多摩湾)。そのため海底には砂や泥が堆積し、その後海退によって陸化すると平坦な土地となった。この一帯を多摩川と鶴見川が流れ、川崎市の鹿島田付近より下流に三角州平野をつくった。この低地を南北に鶴見溝ノ口線(県道14号)と呼ばれる広い幹線道路が通っており、道路をはさんで事務所・商店・住宅が立ち並び丘陵地帯とは異なる景観を示している。(鶴見区)


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鶴見川の風景① 下末吉台地を下ってきました。左手は川崎市幸区です/末吉橋

県道14号・鶴見溝ノ口線

横浜市鶴見区と川崎市高津区を結ぶ主要地方道である。起点は鶴見区鶴見中央(鶴見警察署前交差点)、終点は高津区溝口(高津交差点)である。Wikipedia

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d0183387_23442209.jpg末吉神社
/上末吉 
祭神は天照大神、大山祇命、誉田別命、日本武命。当社はもと上末吉、下末吉両村の氏神であったが、現在上末吉町のみの鎮守となり諸施設を完備した。明治612月村社に列格。もと村社三島神社へ昭和324月無格社梶山神社及び八幡神社を合併、社名を末吉神社と改称し、境内地を上末吉町918番地より1109番地に移転した。神社諸施設工作物、各種記録口碑より考慮するも極めて由緒深い神社である。(神奈川県神社誌)

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下末吉台地の風景① まるで「急傾斜地」のようですね、凄い/末吉神社


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真福寺・末吉不動

天台宗、本尊は不動明王。慈覚大師円仁が貞観年中(859864)に開創したといわれています。本堂の背後にある不動塚は慈覚大師による手植えの松の遺跡といわれ、松は天保のころ枯れてしまい、その跡に不動明王降臨霊跡の碑が建てられています。この不動尊の開帳は60年に一度とされています。また、山門を入った左には不動の滝があります。(鶴見みどころ80


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仁王門                不動尊&本堂

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江戸名所図会 末吉不動堂 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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丘陵下の参道を一段上ると伽藍があって、その奥に三つ池の森、下りは急坂・・・、なんとなく感じが伝わってきますね~。


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下末吉台地の風景② 坂道を上ると川崎市街が一望できます/真福寺上


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下末吉台地の風景③ 台地下のこの通りが鶴見に続いています/真福寺門前


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鶴見川の風景② 国道1号線(通称は第二京浜国道)です/新鶴見橋

d0183387_10105275.jpg国道1号(第二京浜国道)

東京都中央区から大阪府大阪市北区へ至る一般国道である。ルートは旧東海道をほぼ踏襲した現代の東海道となっている。国道1号の起源は東海道の「東京(江戸)-京都」および京街道の「京都-大阪(大坂)」で、現在でもほぼその経路を踏襲している。ただし東京-横浜、静岡県内、京都市内等においてはその当時とは大きく異なっている。Wikipedia


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鶴見川の風景③ 斜張橋ですね、なかなか~/森永橋(市道下末吉第217号線)


d0183387_10231597.jpg森永製菓(株)
鶴見工場
森永製菓の主力工場で、82年前の大正14年(1925)にできました。第一次世界大戦後、お菓子の需要が急速に伸びたことから、既存の2工場では生産が間に合わず、兵庫県塚口と鶴見に新鋭の製菓工場を建設しました。工場完成後、同工場では工場緑化を心がけ、敷地内及び工場周辺に植樹を進めました。月曜・火曜・木曜・金曜日に工場見学ができます。(鶴見みどころ80



・・・・・・・・・
資料ファイル

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下末吉台地 台地上にある三つ池公園の無線塔が見えます/下末吉公園(川岸)


下末吉台地
神奈川県北東部の川崎市高津区、横浜市都筑区・鶴見区・港北区・神奈川区・西区・保土ヶ谷区・中区などに広がる海抜40-60ほどの台地である。鶴見川、帷子川、大岡川などによって開析が進み、多数の台地に分断されている。北側は多摩川沿いの沖積平野に接し、西側は多摩丘陵に連なる。横浜市中心部では海に迫っており、野毛山、山手や本牧など坂や傾斜地の多い地形を作っている。
横浜市鶴見区下末吉に由来するが、元は関東地方の台地形成に関する下末吉面という地質学用語である。これは下末吉を模式地とし、東京の淀橋台や荏原台、高座台地(相模野台地の南西部)なども含み、武蔵野面(武蔵野台地の多くの部分)の上位面に当たる台地面をいう。125千年ほど前の間氷期における海進(下須澄住吉海進)時に形成された海成面と考えられている。これが特定の台地だけを指す名に転用されたのが「下末吉台地」である。Wikipedia


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6000年前の神奈川の大地/「神奈川県立生命の星・地球博物館」

下末吉海進
125000年前の地球の温暖化によって起きた大規模な海進のこと。その規模の大きさから縄文海進が起きた6000年前よりも下末吉海進が起きた時期(下末吉期)は温暖な気候であったとされている。下末吉海進の結果、現在の関東平野の大部分はとなった。その結果、現在の関東平野部分には古東京湾と呼ばれる比較的浅い海が広がった。その海に周辺の関東山地などから流入した土砂が堆積し、また箱根火山などから噴出した火山噴出物も堆積した。間氷期が終了してヴュルム氷期が始まると、下末吉海進で海となった地域は海退によって再び陸となった。その結果、下末吉海進期に現在の関東平野に堆積した堆積物は、比較的平坦な台地状の土地として関東平野に広がることになった。これが下住吉面と呼ばれる台地の成因である。現在、下末吉海進によって形作られた下末吉面は、関東造盆地運動によってその一部が地中に没しているが、現在も多くの部分が台地として残っている。下末吉海進期には関東平野がほぼ水没した状態であり、その後の堆積、そして海退や隆起、沈降といった変動を経て現在の関東平野が形作られていったため、下末吉面は現在の関東平野の原型ということができる。(「神奈川県立生命の星・地球博物館」HPを参照させて頂きました)

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縄文時代前期(6000~5000年頃)の貝塚分布と海岸線(「海老名市・温古館」HPを参照させて頂きました)

海老名市「温故館」の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22881590/



d0183387_12190536.png縄文海進
縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことである。海面が今より2-3高かったと言われ、縄文時代前期の6,000年前にピークを迎えたとされている。気候は現在より温暖・湿潤で年平均で1-2℃気温が高かった。最終氷河期の最寒冷期後、約19000年前から始まった海面上昇は沖積層の堆積より速かったので、日本では最終氷期に大河によって海岸から奥深くまで浸食された河谷には海が入り込み、関東平野では古鬼怒湾(鬼怒川)や奥東京湾(利根川、渡良瀬川)を形成した。その後は沖積層の堆積が追いついたので現在の低地平野となった。(「神奈川県立生命の星・地球博物館」HPを参照させて頂きました)


by Twalking | 2016-06-06 15:27 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鶴見川(5)末吉~河口01 獅子ヶ谷   

日時 2016.6.3(金)
天気 晴れ


下末吉台地、街道を歩いているとよく耳にする名前です。
多摩丘陵に続く台地ですが、造られた年代が違いますので
ここはどっち?と、こんがらがってしまいます。

歩いてみるのが一番なので、台地を散策してみました。
獅子ヶ谷市民の森、二つ池、三つ池公園と続く台地、
確かに尾根が続いていることが実感できます。

初めてなので地形など細かには分かりませんが
ここに道をつけたんのかな~?などと想像してみると、
面白いものだな~と思います。



・・・菊名(港北区)

港北区の南東部に位置する。昔は、葛名という名前であったが、菊が咲く地であったことから名菊と改名した。しかし「嘆く」に語感が似ているため菊名となった(新編武蔵風土記稿による)。 櫻井澄夫は、キクナはククナであり谷戸の形状を表す(「ナ」は地名語尾にみられる「場所」を表す語)としている。(『横浜の町名』初版)
Wikipedia

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丘の風景① 坂下が菊名駅、台地の上ですが周りは丘です/篠原北



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本乗寺/大豆戸町 日蓮宗のお寺です。


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裏山には「大豆戸城」があったと伝わりますが史跡はないようです/八杉神社


d0183387_19170826.jpg八杉神社/大豆戸町
大豆戸町には古くより、字安山の八王子神社と字大西の杉山神社が鎮座していました。神社制度の改革に伴い、神社の尊厳保持、祭祀の厳修を計るため昭和22年、八王子神社に杉山神社を合併し八杉神社を創立した。以後も当町氏神様として五穀豊穣、家運隆盛、商売繁盛、無病息災、厄難消除等の神として御霊験あらたかにましまし、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられ文化の生みの親神であられます。(境内説明板)

大豆戸町(まめとちょう)
町内は菊名七丁目に分断されており飛び地となっている。地名は師岡熊野神社に大豆を奉納していたからだとされる。Wikipedia


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蓮勝寺/菊名
毘沙門堂/菊名
正和4年浄土宗第5祖蓮正上人により創建されました。神像は運慶の作「日本三毘沙門」の一つと伝えられています。毘沙門天は財宝の守護神です。(港北区)

d0183387_19291716.jpg蓮勝寺毘沙門大王

横浜七福神の蓮勝寺毘沙門大王は、仏師運慶作の「日本三毘沙門」と伝えられ、また、巷間に「左キッチョの毘沙門天」と称されています。この毘沙門大王は、六百有余年前の昔から諸々の厄難を除き、財を豊かならしめ、霊験あらたかな、厄除け、開運の守り神として信仰されています。御開扉の日正月松の内の7日間(初詣)1月、5月、9月の初寅の日(縁日)(案内板)


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菊名神社/菊名
ここ菊名の地には昭和の初期まで神明社(天照皇大神)、杉山神社(日本武尊)、浅間神社(木花咲耶姫命)、八幡神社(譽田別命)、阿府神社(武内宿禰命)5社が村社として地域の人々の信仰を集めて参りました。中でも記録に残るものとして最も古くからあるのが阿府(あぶ)神社であり、その歴史は仁和元年(885)に遡るといわれております。時の天皇、光孝天皇が師岡に勅使を遣わされ熊野神社を創建なされた時、勅使がその途上、馬具の鎧をお納めになったことからその名が付いたと史書には書かれております。この5社が昭和10年、現在は菊名町公園となっている杉山神社の地に合祀され名も「菊名神社」と改められました。その後、太平洋戦争の戦火を逃れてからは同所を保健所建設用地として提供するため、当時の八幡神社の地(現菊名神社の地)に社殿を移設、以降この地で菊名の総鎮守として地域の人々とともに歩み、またその生活を見守り続けて参りました。(菊名神社HP)


d0183387_19312506.jpg茅の輪

茅の輪の由来は「備前風土記」の蘇民将来の伝承によります。善行をした蘇民将来が武塔神(むとうのかみ・素戔嗚命)より「もしも疫病が流行したら悪疫除去のしるしとして、茅の輪を腰につけると免れることができる」といわれ、疫病から免れることができたという伝承です。茅の旺盛な生命力が神秘的な防災の力を有すると考えられてきたことから、体調を崩しやすい暑い夏を前に茅の輪をくぐって悪疫を除去し、無病息災を願う神事です。(案内板)


・・・鶴見区


鶴見川が区内を南に蛇行して流れ東京湾に注ぐ。北東部は鶴見川と多摩川に挟まれた平地(川のまち)で、北西部は下末吉台地の東端から続く丘陵地(丘のまち)。湾岸部は埋立地が広がり市境は京浜運河を越えて扇島で東京湾に接する(海のまち)。「鶴見」の名は鎌倉時代から現れ、源頼朝がここで鶴を放ったことから命名されたという伝説もある。また一説には「ツル」は鶴とは関わりなく「水路や河川の周辺地」を意味し「ミ」は「周り・巡り」を意味する語で、合わせて「ツルミ」は蛇行する鶴見川の地形を表すとされる。Wikipedia

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丘の風景② 区境の尾根から北側の風景、眼下が菊名その先は新横浜です/菊名小


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宗泉寺/上の宮
浄土宗。開山は正保年間。下って寛文年中に、北寺尾村名主市右衛門が21世を迎えて再興しました。境内には念仏供養塔、無縁供養塔、地蔵菩薩、庚申塔、馬頭観音があります。また、春にはエビネ、しだれ桜、サツキ、ボタンなど四季折々の花が楽しめる庭園があり、さまざまな姿をした五百羅漢も見事です。(鶴見みどころ80

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本堂                 庭園


鶴見区の地形
鶴見区は横浜市の北東部に位置し、北と東が川崎市、西が神奈川区、北西が港北区に隣接している。区内には横浜市内唯一の一級河川鶴見川が、北から南に蛇行しながら流れ東京湾に注いでいる。地形的には北西部の丘陵地、鶴見川流域の低地臨海部の埋立地3地域に分けられる。(鶴見区)

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丘の風景③ 丘の上が獅子ヶ谷市民の森です/宗泉寺

鶴見の地形① 北西部の丘陵
鶴見駅からJR線に乗り横浜方面へ向かう途中右側を眺めると目の前に台地が広がっている。この台地は高さ4050mあり、北西部の獅子ケ谷市民の森まで続いている。区内の高台に登り周囲を見渡すと、台地はたいへん起伏に富み小さな谷戸がいくつも尾根に向かって入り込んでいることがわかる。昭和の中ごろまで谷戸は水田、丘陵地は森林や畑の農村地帯であったが、今では一部を除いて宅地として開発され坂の多い住宅地となっている。北部の獅子ケ谷市民の森や県立三ツ池公園、西部の東寺尾ふれあい樹林、南部にある総持などは今も緑におおわれ区民の憩いの場となっている。(鶴見区) 


・・・獅子ケ谷


d0183387_21472248.jpg獅子ヶ谷村の地名

ふるくは師岡郷(もろおか)といい、文禄3年(1594)の文書に「師岡の内鹿ヶ谷」とみえ、獅子ヶ谷村は師岡村から分村したように記録されています。この「鹿ヶ谷」から現在の「獅子ヶ谷」の文字に変わった時期は明らかではありませんが、数年後の慶長2年(15972月の小田切光猶(こうゆう)宛知行宛行状に「小机郷獅子ヶ谷内百五拾五石余事」とあります。(横溝屋敷パネル)


d0183387_21390025.jpg獅子ケ谷市民の森
面積18.5ha、昭和50年に横浜市が減少する緑を守り、自然をそのままの形で後世に残すため、地権者約40名の協力を得て開設しました。樹木は常緑、落葉、植栽の針葉樹、樹齢100年以上のヤマザクラ等、野草ではスミレ、ヒトリシズカ等、豊富な植物類が、虫や鳥を育み森の散策を一層楽しいものにしてくれます。(鶴見みどころ80

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西谷広場
獅子ヶ谷市民の森にある5つの広場(灰ヶ窪・旭台・新池・西谷・下谷)のうちの1つ。褐色の水で噴水のある池として親しまれている。せせらぎの小径の水源でもある。(獅子ヶ谷の里散策マップ)

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散策路                氷池

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車地蔵

この地蔵は享保3年(1718)に建立されたもので(高さ1.6mもある等身大の石の地蔵)、お堂の中で道行く人たちを見守り、人々から「子育て地蔵」とか「車地蔵」として親しまれてきました。お堂の左側の柱には小さな木製の車が取り付けられています。昔からこの峠道を通る人たちはこの車を回す習慣が在りましたので「車地蔵」の名が生まれたのでしょう。この車は「地蔵車」または「後生車」とも呼ばれ、これを回すことによって六道の苦難から救われると信じられ、後生安楽に成仏するといわれてきました。伝説によると時折人々の寝静まった夜半にこの車がひとりで回るのだと、久しい間村人たちは信じてきました。この車地蔵が建っている峠道は江戸時代、鶴見から師岡、綱島方面に至る唯一の街道でした。(横浜市)


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光明寺

天台宗。創建は貞治元年(1362)本尊の薬師如来は、昔、村の働き者の若者が畑を耕している時に掘り当てたという言伝えがある。また金の仏像が明るく光ったことから光明寺と命名し、檀家は昼間姓を名乗ったという。(獅子ヶ谷の里散策マップ)

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獅子ヶ谷神明社

獅子ヶ谷神明社当社は、新編武蔵風土記稿に「相伝う古は村の総鎮守なりしが、後上村に神明を勧請して鎮守とせしより当社は下村のみの鎮守となれり、社は二間に参間、前に木の鳥居あり、例祭812日、光明寺持」と記されている。本社殿は、平成228八月(2010)御造営する際、本殿の中から古い棟札を発見、総鎮守である師岡の熊野神社の石川宮司に解読を依頼した。それによると、旧社殿は貞治元年(1362)に創建、文政3年(1820)足かけ459年を経て再建されたことが判明、爾来、屋根や社殿の内外の修理・補修を経て、昭和28年(1953)宗教法人神明社が設立された。(境内石碑)


・・・旧横溝家住宅(みその公園)

獅子ケ谷横溝屋敷

横溝屋敷は表門(長屋門)主屋などの屋敷構えが江戸時代の農村生活の原風景を残している貴重な文化遺産です。古民家の保存と活用を図る横浜市最初の施設で、昭和63年横浜市指定文化財になりました。2階の展示室には明和の村絵図や農村文化、行事等々の資料が展示されています。また、四季折々に、七草粥、雛まつり、七夕まつり等の行事も行われます。(鶴見みどころ80

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表門(長屋門 寄棟茅葺平屋建 文化4年・1847)

鶴見の歴史
江戸時代の政治は幕藩体制と呼ばれ、徳川幕府の支配下にありながら独立の領地をもつ藩主(大名)がその領地から年貢米を徴収した。もともと徳川家の所領内にあった鶴見区域の大部分が幕府の直轄領となり、代官が治めていた。獅子ケ谷は小田切氏、駒岡は久志本氏の旗本領であった。獅子ケ谷の横溝家は旗本領を管理してきた名主で、横溝屋敷は小田切氏の館跡に建てられたものである。駒岡の常倫寺には久志本氏歴代の墓が残っている。代官の支配下で村内の民政をつかさどっていた名主は,村内のあらゆることについて責任があったので,村における権勢は強大であった。農村の暮らしは楽ではなかった。(鶴見区)

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横溝家と獅子ヶ谷村
横溝家は、16世紀末の慶長年間から獅子ヶ谷村の名主をつとめてきた家です。名主の身分は百姓で、名主という名は関東地方の呼び方です。関西では庄屋、北陸・東北では肝いりといいましたが、横溝文書には「きも入り」の名も見えます。横溝家の初代の名前は五郎兵衛といい、代々この名前を継ぐ慣習がありました。江戸時代には、村人と力を合わせて鶴見川の周辺を開墾して水田にしたり、谷間にため池をつくったりしました。明治になると横浜港から輸出される生糸やお茶の生産をはじめました。主屋の二階ではさかんに養蚕が行われました。獅子ヶ谷の地名は熊野権現の獅子舞を受け持ったことに由来すると伝えています。(案内板)


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奥座敷                 2階展示室

主屋
建築年代:明治29年(1896)頃 梁行5間 桁行9間 2階建 屋根:寄棟萱葺 櫓付(瓦葺)1階の間取りは庭、台所、広間(10畳)、仏間(7.5畳)、奥座敷(10畳)茶の間(15畳)部屋(6畳)納戸(6畳)となっています。2階は蚕室として造られました。中門、仏間、奥座敷の造りに名主についていた当家の家格がうかがわれます。(案内板)

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獅子ヶ谷村地形模型/横溝屋敷
(赤:みその公園・横溝屋敷 黄:鶴見区最高点 標高約45m 青:二つ池)


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獅子ヶ谷の里散策マップ
(赤:歩行ルート 黄:尾根 青丸:二つ池 赤丸:最高点 赤角:横溝屋敷)


・・・二つ池

獅子ヶ谷村と駒岡のにあり、古くから灌漑用ため池として両村の田畑を潤してきた。駒岡村からの願いにより、宝永4年(1707)行けの中心部に堤を築き現在の二つ池がたんじょうした。「堤」を舞台とした竜が登場した伝説が語り伝えられている。この池の周囲には草木が生い茂り、多くの鳥や魚が棲み自然性の高い池として評価されている。(獅子ヶ谷の里散策マップ)


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獅子ヶ池

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駒岡池&龍の道(右)


d0183387_10123856.png二ッ池公園の歴史
二ッ池公園は慶長の頃(15961614)に造られたと伝えられており、元々は一つの池で「大溜池」と呼ばれた農業用のため池でした。池が二つに分かれたのは宝永4年(1707)のことで、下流の水田に流れる水量を村ごとに調整することが目的で、現在の池の形になりました。昭和45年にため池の役割を終えた二つ池が、その後も池の形態に大きな変化はなく池の外周が土で出来ていたこともあって、市内では稀にみる貴重な自然環境が息づく池となっております。横浜市では二つ池の自然的、歴史的に優れた景観と環境に注目し、平成21年に都市公園の一つである「風致公園」の決定を行いました。良好な風致(景観、環境等)を活かして自然環境を保全するとともに身近な水と親しめる公園として整備を行い、平成27年一部開園しました。(案内板)

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獅子ヶ谷の里マップ
(緑:丘陵上の尾根道 赤:歩行ルート)


by Twalking | 2016-06-05 13:49 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鶴見川(4)小机~末吉02 大倉山   

日時 2016.5.28(土)
天気 曇り


「大倉山」は名前だけは東急の駅と聞いていましたが、
低地に突き出した地形や記念館や熊野神社などに引かれて
足を延ばして散策してみました。

商店街に「新幹線が通る街」なんですね、ちょっとビックリ。
それでも明るくてとてもお洒落な街、いいですね~!
大倉記念館と梅林の“さんぽみち”これも面白いですよ。

大曲した鶴見川の左右岸の街も魅力があります。
新羽や綱島の丘も行きたかったんですが別の機会に。
夕陽の鶴見川に見送られて帰途に着きました。



・・・師岡町(もろおかちょう・港北区)


町名は旧村名を採った。『倭名類聚鈔』の武藏国久良岐郡(くらきぐん)師岡郷はこの地と考えられている。嘉吉元年(1441)の「鶴岡八幡宮文書」に「武藏國師岡保(もろおかほ)」の記録がある。地名研究で「モロ」は「丘の並んだ様を形容したもの」と推測されている。(港北区)

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いの池

d0183387_22114401.jpgいの池(い・の・ちの池の一つ)
池の中央に水神社がまつられており例年8月水神祭が行われている。また、毎年正月に苗代田の祭である水口祭が行われるなど「いの池」と熊野神社には農耕にちなんだ儀礼がいくつか伝えられている。この池は古くから利用されてきた灌漑用の溜池であったと思われる。熊野神社のある丘陵の南側には、沖積低地が広がりこの池の周辺には早くから水田が開けていた。「市の坪」などの地名は条里制の存在を示すものである。また「いの池」には片目の鯉の伝説も伝えられている。熊野神社社殿の裏に「のの池」があり、神社の神事の際にその水が使用される。さらに「いの池」の西方約500mところに「ちの池」と呼ばれる溜池があった。今は埋め立てられて大曽根第三公園となっている。この三つを「いのちの池」と呼んでいるのは、かつての時代の人々の水に対するかかわりの深さをよくあらわしている。(横浜市教育委員会)


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師岡熊野神社参道

d0183387_22155295.jpg師岡熊野神社/師岡町
当神社に伝わる熊野山略縁起によると、この神社は第45代聖武天皇の神亀元甲子年(西暦724)に全寿仙人によって創建され和歌山県熊野三社の御祭神と一体である。全寿はこの地に不思議な霊威を感じ御神木欅の大木のうろに住み日夜祈り続けた。ある暁、夢枕に熊野大神が立たれ、お告げに従って大和国春日明神に参籠、神霊を感得してこの地に帰り、熊野大神を祀ったのである。仁和元年7月には光孝天皇の勅使六条中納言藤原有房卿が此地に下向され「関東随一大霊験所熊野宮」の勅額を賜りそれ以来宇多、醍醐、朱雀、村上天皇の勅願所として社僧17坊が附せられた。数多くの古神事の中に現在続行されて居る筒粥神事は天暦3年より一千数十回にもなる。観応2617日雷火のため社殿は焼失したが神体、社宝は無事であり特に貞治3年記の熊野山縁起は現存して神社の故事を伝えて居る。例えば勅使着用の大口袴は大口の地名に残り、供奉者の足を洗った子安足洗川、顔を清めた西寺尾字面滝、馬の鐙を納めた鐙宮(阿府神社)参向儀式の行われた式坂、更にいの池、のの池、ちの池の伝説等枚挙にいとまがない。室町期に北条早雲公、慶長4年徳川家康公、寛永19年家光公、寛文5年家綱公より御朱印地を戴いたのを始め代々の将軍家の崇敬極めて篤く、神社への御朱印は幕末まで続けられた。明治元年神仏分離の際、熊野神社と法華寺とに分割され、明治3年縣社に列格したが氏子の陳情する所あって、明治633ヶ村の郷社に列した。当社は、関東地方における熊野信仰の根拠地として又、横浜北部の総鎮守の宮として古代より現代に至るまで広く篤い崇敬を受けている。(掲示板)


d0183387_22214449.jpg師岡熊野神社の筒粥(つつがゆ)

筒粥とは稲作民族の間で行われる粥占(かゆうら)・粥だめしの一種で、竹筒や芦の筒を入れて粥を煮、筒の中に入った米粒の數で作柄・豊凶や天候を占う年占です。師岡熊野神社では毎年114日に行い、粥粒の量により農作物の作柄などをそれぞれ五種に分け占札に記入し、氏子区域に配布します。農家ではこれを参考にして種蒔きをしました。また、粥は参詣者に供せられこれを頂くと風邪をひかぬといわれています。社伝によれば、この行事は村上天皇の天暦3年(949)以来一千余年継続しているとされ、由緒も古く、農作にまつわる重要な民俗行事です。(横浜市教育委員会)


d0183387_22153870.jpg稲荷社

祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)。神社の石段の右側に鎮座している表谷戸上講中の稲荷社。この稲荷社は大変古く「江戸名所図会」や「新編武蔵風土記稿」にもこの位置に出ているので少なくとも江戸中期には存在していた社である。京都伏見に鎮座する伏見稲荷大社を本社と仰ぎ五穀豊穣、商売繁盛の神様として広く信仰されている(案内板)


d0183387_22244911.jpg「の」の池

当神社の草創の地である。この池の水は禅定水と呼ばれ、どんな干天でも涸れることもなく大雨でも水が溢れることもないといわれています。南北朝期の落雷による災害で社殿も焼失した時、神宝、神体等この池に投げ入れ焼失を免れたと伝わっています。(案内板)


d0183387_22273218.jpg師岡貝塚
横浜市指定史跡)/権現山
師岡貝塚(別称 師岡熊野神社山内或は権現山貝塚)は鶴見川中流の右岸丘陵上にあり、北西へ張出す半島状台地の基部から北東に分岐した舌状台地南半部に所在し、標高は約43mです。貝塚の規模は東西約20m、南北約15m以上と推測され、ハイガイは主体を占め、他にハマグリ・アサリ・シオフキ・オキシジミ・アカニシなどからなる海水性のものから構成されています。本貝塚は縄文海進によって形成された古鶴見湾岸に分布する縄文時代前期貝塚群のうちで保存状態が良好な貝塚として、さらに市域での類例の少ない中期前半の貝塚として貴重です。(横浜市教育委員会)

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江戸名所図会 師岡熊野権現社(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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法華寺山門

d0183387_22355674.jpg法華寺/師岡町
当山は熊野山全寿院法華寺と号す。伝承として記せし貞治3年の縁起によれば、神亀元年、全寿と云う僧何処より来たりて当山に居住し、専ら法華経を読誦、年かさね、ある晩、夢の中に熊野証誠権現の告をうけ阿弥陀の像を大和春日明神より負い、当所に小祠を造り安置したこの尊像が当山のご本尊なり。その後仁和元年、光孝天皇の御后妃御願成就に依って創草せらると云われる。歴史的には熊野詣に顕われた阿弥陀信仰が熊野修験者により勧請されたものと思われる。江戸期末までは熊野権現・法華寺が一体の信仰でありしが、明治の廃仏毀釈により熊野権現の名称が熊野神社に、中身の信仰も新しいものとなりました。そのとき法華寺は廃寺同然になりましたが、その後多くの檀信徒の力により復興されました。とにもかくにも開山より、法華の梵音と弥陀の称名は絶え間なく響き渡っています。(掲示板)

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熊野神社市民の森
住宅地に囲まれた森は2つの地区に分かれており、異なる雰囲気を感じることができます。天神山と呼ばれる台地にある天神広場では春になるとソメイヨシノが美しく咲き誇ります。師岡熊野神社の上にある権現山広場では静閑な雰囲気を感じることができます。(横浜市)



・・・大倉山(港北区)

駅から北西側に登る大倉山公園にはプレヘレニック(前ギリシャ)様式として設計された大倉山記念館が建ち、この地域のシンボルとなっている。地名は実業家であり、東洋大学学長も務めた大倉邦彦1932年、現在の大倉山公園に創設した大倉精神文化研究所(その後建物を横浜市に移管し大倉山記念館として運営)に由来する。研究所創設以前、この地の丘は観音山と呼ばれていたが、研究所創設に伴って通称大倉山と呼ばれるようになった。
Wikipedia


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明るくてお洒落な商店街、いい感じですね/大倉山駅前エルム通

d0183387_22562973.jpg新幹線も通りる街ですよ~!

大倉山商店街

大倉山駅前の商店街通りは東の綱島街道に向けて「レモンロード」西の新羽方面に向け「エルム通」「オリーブ通」「つつみ通」と続く。「エルム通」は1988年に港北区役所の移転を機に整備され、大倉山記念館のギリシャ建築のイメージをコンセプトに白い壁と装飾柱のデザインで商店の建物が統一されている。電柱、電線が地中化された歩道には花のプラントが置かれ、白い外壁に街路樹の緑が映える、明るい街並みを見せている。美容室が多いことでも知られており駅徒歩圏に20軒以上が店を構えている。Wikipedia


d0183387_23001098.jpg当時は『ふとお』と呼び名され、古くは宇佐市国橘樹郡太尾村上太尾・中太尾・下太尾と称した。明治22年市町村制によって大綱村字太尾となり、昭和2年横浜市に編入に際し太尾町とされてきました。大正15年東急線は太尾駅として開通、昭和7年大倉精神文化研究所(通称大倉図書館・現在の記念館)の創立を契機に大倉山と改訂され、戦後の都市開発、人口の流入増加に伴い広く周辺地域は駅名のままに『大倉山』との呼称が定着するに至りました。右は県下初の商店街近代化事業での街並み一新、当地への総合庁舎移設、壁面線後退での歩道・駐輪場の新設、無電線化、ギリシャアテネ市との姉妹都市提携、梅林の整備、すず風舗装等に大倉山は明るく潚酒(しょうしゃ)な街との評価が地域への好感、愛着、誇りともなった証左であります。

d0183387_01352882.jpgその節から商店街は大倉山への改称を提唱して来たことであり、住居表示の施行に伴って連合町会もこれを協議、住民の総意を図って小学校、公園、神社等々に『太尾』の名残を留め『大倉山』と決定、1丁目から順次に3年の歳月を要して町名変更のすべてが果たされました。折しも横浜開港150周年、港北区政70周年、右地名呼称の変遷を誌して時勢の推移、往古の懐古のよすがに供します。(太尾地区連合会・大倉山商店街振興組合)



・・・大倉山記念館

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横浜市大倉山記念館

大倉山記念館は洋紙業界で活躍した実業家・大倉邦彦が大倉精神文化研究所の本館として昭和7年に建築したので、その容姿はギリシャの神殿を彷彿させ、ひときわ異彩を放つ様式意匠は迫力に満ちています。設計は建築家・長井宇平治で、日本の古典主義建築の設計者として全国的に銀行建築を手がけ、格調の高い様式建築の設計を行いました。建物は鉄筋コンクリート造、2階建で地階と二層の塔屋をもち、中央部に吹ぬけのある大階段と殿堂があり、両翼部に各室を配し背面には中庭を囲んで回廊が廻る複雑な空間から成り立っています。意匠も西洋建築の源流であるギリシャ建築創生期のクレータ文明に由来するプレ・ヘレニズムの様式を取り入れ、頭部が太く下部が細くなる独特な形の門注を用いています。内部の殿堂はこの建物の中心的役割を持つ講堂で、その意匠はクノックス宮殿の様式を使いながら、柱の上部に日本建築の斗根を思わせる組み物を用いた和様折衷ともいえる独特な空間を示しています。以上のように2つの建物は、それまでの正統的な古典建築様式を越えた独特な雰囲気を持つ建築物として、その近代対照近代建築史上に占める地位は注目すべきものがあります。(横浜市教育委員会)

大倉邦彦(
18821971
大正-昭和時代の実業家、社会思想家。明治1549日生まれ。大倉文二の養子となり大正9年大倉洋紙店社長。昭和7年大倉精神文化研究所を設立。東洋大学長もつとめた。昭和46725日死去。89歳。佐賀県出身。東亜同文書院卒。旧姓は江原。著作に「日本産業道」「日本文化講義」など。(コトバンク)


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丘の風景① 南側、鶴見方向でしょうか、丘が続きます/記念館付近  


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丘の風景② 大倉山(観音山)が半島のように東に突き出すしてます/散策路


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花木園                梅林



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大倉山公園
港北区にある都市公園 (地区公園)。敷地6.9万平方メートル。うち1.1万平方メートルの梅林には約20150本の梅が植えられ、観梅の時期には多くの人出がある。


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龍松院
曹洞宗
寺院虎石山と号します。小机城主・笠原能登守(法名・休徹金罷居士)が開基となり、永禄3年(1560)に文殊堂と称して創建、万治4年(1661)頃に寺となり、慶安元年(1648)には寺領9石余の朱印状(所領安堵の公文書)を拝領しています。


旧町名(太尾町)

太尾の地名は1352年の「鶴岡脇堂供僧次第」に見ることができる。その後、橘樹郡太尾村となり村内を三分して東から上太尾(現在の駅前付近)、中太尾、下太尾(鶴見川沿い)と呼ばれた。1889年の市町村制施行により大綱村太尾、1927年には横浜市に編入され神奈川区太尾町となり、1939年に港北区太尾町となった。縄文時代の頃には海岸線がこの辺りまで来ており、大倉山が岬のように海へ突き出していた。その形が動物の太い尾のように見えたことから太尾と名付けられたといわれているWikipedia


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太尾神社

大倉山町総鎮守八幡神社は明治612月村社に列格、同所無格社神明社、同杉山神社、同阿府神社を合併し、昭和10822日社名を太尾神社と改称、その後氏字区域の発展に伴ない、社殿を修築、社務所、神楽殿その他の施設を完備した。(神奈川県神社誌)


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歓成院
高野山真言宗のお寺です


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丘の風景③ 先端なんので展望を期待してましたがこんな感じ/太尾見晴の丘公園

太尾見晴らしの丘公園

太尾見晴らしの丘公園は案内板の前方にある丘の上にあります。公園内には鶴見川を見下ろしながら日吉方向を眺められる場所や健康増進を目的とした器具類を設置した広場があり、快適な散歩ができます。大倉山さんぽみちのルートにもなっています。(バクの案内板)


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大倉山さんぽみち
(赤:歩行ルート 青:鶴見川 緑:太尾堤緑道 紫:綱島街道)


・・・綱島(港北区)


「ツナシマ」とは州の中の島、中州、湿地に浮かぶ島、津の島という意味であると言われる。これは地区が南側の鶴見川、東側の早渕川に挟まれている地域であること、あるいはかつて鶴見川または早渕川にあったある中州がツナシマと呼ばれていて、それが自然にその周辺地域をさす言葉になったことによるものとされる。また「ツナシマ」とは連なり島(つらなりしま)の意であり、かつて鶴見川が東京湾の奥深い入江となっていた時代に、現在の綱島公園、綱島神明社、綱島諏訪神社となっている高台が、複数の島となっていた様子から名付けられたとも言われている。神明社と諏訪神社の高台は綱島街道の開発によって分断されているが、かつては地続きで一つの丘陵となっていた。
Wikipedia

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鶴見川の風景⑤ 左手から早淵川が合流し、ゆったりと流れます/綱島橋手前

早渕川

横浜市青葉区美しが丘西に源を発し南東に流れる。横浜市都筑区、港北区を流れて横浜市港北区綱島西付近で鶴見川に合流するする。都筑区内では港北ニュータウンとして宅地化された丘陵地の間を抜けるが、一部では田畑が残っており農業も営まれている。約30万年前、多摩丘陵の成立とともに雨の浸食と湧水によってできたと考えられている。蛇行が比較的あるために早瀬や渕があり、そこから「はやぶちがわ」という名前が付けられたと推測されているが、確かな資料に名前の由来は記されていない。Wikipedia


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東急が渡ります            すぐに綱島街道・綱島大橋です

綱島街道(
東京都道・神奈川県道2号東京丸子横浜線)
起点:品川区西五反田(中原口交差点)終点:横浜市神奈川区浦島丘(浦島丘交差点)丸子橋交差点を境にして、五反田方面を中原街道、綱島方面を綱島街道と通称される。現在の洗足付近から丸子橋付近までと綱島付近から港北区篠原付近までは鎌倉時代に造られた鎌倉街道下の道の一部を原形としている。室町時代から江戸時代初期、後北条氏の本城である小田原城と支城である江戸城とを結ぶ中原街道が造られ、その後徳川家康により整備された。Wikipedia

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d0183387_16474011.png鶴見川流域はバクの形です
鶴見川の源流は東京都町田市上小山田のまだ豊かな自然が残る地に、日量1300tの湧水(源流の泉広場)があり、やがて多くの水を集め川となり多摩丘陵を下って東京湾に注ぐ、河口まで全長42.5kmになります。バクの形をしたエリアの広がりは235km2。鶴見川はすでに流域全体の約85%が市街化、人口は約184万人という典型的な都市河川です。流域とは降った雨が鶴見川に流れ込む地域のことで、分水嶺によって区切られています。日本の国土は必ずどこかの川の流域に属しており、それほど川と私たちの生活は切り離せないものだと言えます。ここはバクのお尻のあたりです。この看板の正面ではバリケン島(本来は南米のジャングルに住んでいる大型のカモ類で、ユーモラスな姿で人気があります)と呼ばれる自然のビオトープがあり、市民団体が生き物の調査、クリーンアップ、植生の管理等の活動をしています。(バクの案内板)

「源流の泉」の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/20626978/


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東海道新幹線             樽綱橋



・・・鶴見区/幸区

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鶴見川の風景⑥ 矢神川を合わせます。前方は川崎市街でしょうか/高野橋人道橋

d0183387_17304890.jpg矢上川

川崎市宮前区水沢(多摩丘陵)に源を発し南東に流れ、東名高速道路付近から下住吉台地を開削してほぼ東南東に流下、高津区野川付近で有馬川を合わせ子母口で多摩川低地に入り、以後下末吉台地北縁を南東に流れ、幸区矢上で慶應義塾大学理工学部の載る矢上台の縁を回り込むように90度近く向きを南に変え、矢上台加瀬山の間を抜けて、鷹野大橋で鶴見川に合流する。加瀬山より南の幸区南加瀬付近から鷹野大橋までは、矢上川の全行程中最も屈曲が激しかったことが明治時代や大正時代の地形図で明らかであり、三日月湖の存在も見て取れる。最終氷期最寒冷期に河川は深く下刻したが、このときの矢上川(古矢上川)は、ボーリング地質調査などから子母口で古多摩川と合流していたと推定される。従って、現在のように矢上で多摩川低地を離れ鶴見川支流となったのは、地質年代では比較的最近の縄文海進が海退に入り陸化した縄文時代後期以降のことと思われる。Wikipedia)

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鶴見川流域図/バクの案内板

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鶴見川の風景⑦ この先から左折して尻手駅に向かいます/末吉橋(幸区)



by Twalking | 2016-06-01 08:53 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鶴見川(4)小机~末吉01 小机   

日時 2016.5.28(土)
天気 曇り

曇り空、写真にはちょっとですが、歩くには丁度いいですね。
この一帯は広い沖積平野、右岸の丘に沿って町並みが続き、
やがて新横浜のビル群が見えてきます。

低地にせり出した丘に小机城がありますが、竹林が見事で
土塁・空堀など大事に保存されていて見応えがあります。
遊水地は広いですね~、ここからの景観は抜群です。


・・・小机(港北区)


古くは橘樹郡小机村。明治22年市町村制施行、小机村、鳥山村、岸根村、羽沢村、下菅田村、三枚橋村、片倉村、神大寺村、六角橋村の九か村を合併して小机村と称し、その後大字小机となった。明治25年「城のあった郷」すなわち城郷(しろさと)村と改称。昭和2年横浜市へ編入、橘樹郡城郷村大字小机から新設。(港北区)

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土曜日の早朝、まだ街はひっそりとしてますね~/小机駅前(横浜上麻生線)



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三会寺仁王門


d0183387_16390785.jpg三会寺(さんねじ)/ 鳥山町

高野山真言宗の寺院で山号は瑞雲山。承安年間(11711175)に源頼朝が佐々木高綱を奉行を命じ、鎌倉幕府の鬼門除けとして建立したと伝わる古刹、本尊は秘仏弥勒菩薩像です。旧小泉領33観音霊場第2番(子年開帳)。中興第7代住職・印隔法印の墓は横浜市地域文化財に登録されています。(小机緑と歴史を訪ねて・港北区)


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「臥龍山」の扁額ががかかる通用門


d0183387_09045616.jpg雲松院/小机町
関東管領山内上杉家の土豪矢野兵庫助の居城といわれている小机城は、文明10年(1478)に扇谷上杉家の家宰太田道灌に破られてから廃城となっていましたが、大永4年(1524)頃小田原北条氏の勢力圏に入り、南武蔵の軍事上や、経済上の重要起点として修築され、重臣笠原越前守信為を城代としました。信為は、父能登守信隆の追善のために、季雲を招いて開山とし自らが開基となり曹洞宗寺院・臥龍山雲松院を建立しました。その昔、この地に龍池という池があり、二世天叟がこの龍の住む池にちなみ山号を臥龍山とし、伽藍を建立したという説が「臥龍山雲松院起立記」にあります。山門横の通用門には月舟宗胡筆の「臥龍山」、本堂正面には東皐心越の「雲松院」の額があり、共に名僧の誉れ高い禅師の筆になるものです。墓地には笠原家代々の墓所ならびに池辺村の地頭門奈氏墓所があります。(横浜市国際観光協会・横浜市教育委員会)

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雲松院本堂

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雲松院本堂及び山門

雲松院は小机城主であった笠原越前守信為が亡父能登守信隆の菩提を弔うために建立したと伝えられ、寺名は開基信為の法名「乾徳寺殿雲松道慶庵主」に由来するとされています。本堂は正面九間、側面七間、方丈形式の堂々たる堂で、内部は八室からなり来迎柱二本と仏間と室中境の柱二本を除くすべてのはしらは角柱で、住宅風のしつらえとなっています。屋根は昭和30年代に茅葺を改めたものです。山門は本瓦葺の四脚門で、昭和30年代に茅葺から改められましたが、屋根以外はほとんど改変が認められません。本堂は関東大震災で大きな被害を受け改造された部分はありますが、全体としては旧状をよく留めており、建造年代も明確で緑に囲まれた優れた環境と相まった市内有数の貴重な遺構です。(横浜市教育委員会)


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江戸名所図会 小机城址・雲松院(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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本法寺楼門/小机町

d0183387_16473238.jpg本法寺

日蓮宗の寺院で山号は長秀山。天文8年(1539)綱島に開山し鶴見川河畔を経て江戸時代初期に現在へ移転した。見所は楼門、石造龍吐手水鉢、俳画塚です。(小机緑と歴史を訪ねて・港北区)


d0183387_16473581.jpg石造龍吐手水鉢(横浜市指定有形文化財)
手水鉢は水穴の底にわだかまる龍と、側面に胴体をからませて首をもたげる龍を鉢と一石彫成し、上方の龍の胴体に菅孔を通して龍口から水を吐く構造になっています。すべてを一石彫成したこの手水鉢は、巨石材を用いた大作であり、意匠性にすぐれ伝統的石彫技術を誇る近代石造物の優作として貴重です。(横浜市教育委員会)



・・・小机城址市民の森

港北区の南。本丸・二の丸・空堀・土塁などがほぼ原型で残された小高い丘。中世の城郭を利用した市民の森はここだけ。小さなアップダウンの多いうっそうとした雑木林や見事な竹林が、戦国の世を思い起こさせる。うずまき状の小山のてっぺんの富士仙元からは、ぐるりとあたりを見回せて、一国のあるじの気分。アプローチの家々も、さすがに古く趣があり、時代劇ファンならずとも雰囲気ばつぐん。面積:4.6ha 散策路延長:
1000(横浜市)

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丘陵下は横浜線のトンネルが潜り、背面には第三京浜が通ります/小机駅


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本丸跡

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城山踏切からの景観          市民の森入口

小机城について
築城の年代は明らかではありませんが、おそらくこのあたりがひらけた12世紀以降ではないかと思われます。その頃は、このあたりは上杉氏の勢力下にあり西方にはその支配下の榎下城があったことから、それとかかわりのある城と思われます。その後、山内上杉家の家臣長尾景春が家督争いに端を発して反乱を起した時、景春に見方した矢野兵庫助らが城にたてこもり、北方の亀之甲山(現在の新羽町亀ノ子橋付近)に帯陣した上杉方の大田道灌の率いる軍と戦いました。城は文明10年(1478年)に攻め落とされ、上杉氏もやがて北条早雲に追われ、小田原北条の領地となり、40余年間廃城となっていました。大永4年(1524年)一族の北条氏堯の城となり、笠原越前守信為を城代として再興しました。小机は地理的に江戸・玉縄・榎下などの諸城を結ぶ位置にあり、この地は以後軍事・経済の両面で極めて重要な役割を果すことになります。豊臣秀吉が小田原城を攻め落し、やがて小田原北条氏が亡び、4代目城主の弥次平衛重政が徳川家の家臣として二百名の知行を与えられ、近くの台村(緑区台村)に住むことになり、小机城は廃城、その歴史を閉じることになりました。(説明板)

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小机城想定図
(赤:歩行ルート 黄緑:第三京浜 紫:横浜上麻生線)

小机城の縄張
半島形の突出た丘陵の上部を大きく平に削り、一列に三つ程度の曲輪を置き、その並んでいる曲輪の側面に腰、帯曲輪を築きます。また、城郭全体を二重の土塁を空堀でぐるりと巡らす縄張で後北条氏特有の築城法といえます。類例より後北条、後半の築城方式で、東京都、埼玉県など戦国期の丘陵城郭の多くがこの型で県下では茅ヶ崎城も典型といえます。(説明板)

縄張と曲輪
縄張とは目的が定まった地が決定した後、その広さを決定し曲輪の位置、道のつけ方、門の開き方、水の便などを定めることであります。この地取と縄張を総称して「城取」といい、城取は武士がおこないました。曲輪とは城を構成する区画、即ち削平された地、それぞれ防備地帯、兵営の場、館の立地される場をいいます。(説明板)

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孟宗竹に包まれた散策路


中世の城について
中世(9世紀から15世紀)に築かれた城は天然の地形を利用し、小机城で理解できるように半島状に突き出た丘陵や台地の先端部を城地したものが多く、その設備も櫓、木柵などのほか小規模な土塁や空堀の伴う程度で、居館・住館は多くは城外にありました。横浜市内には小机城の他、青木城・榎下城・馬場城・荏田城などがあったと言われていますが、調査されたものは榎下城だけで、その他についてはかっての城の位置が推定される程度で、その実態は明らかではありません。また、中世の城郭は近世に築かれた大規模な「城」とはその機能・性格が異なるものと考えられ、城郭史の上でも比較的未開拓の分野と言われています。(説明板)


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空堀/本丸手前
堀は土塁とともに城の守備・攻撃のための重要な施設で、人工的に作られるものや地形を利用したものがあります。この堀は水をはらない堀で空堀と呼ばれ、水をはる為に堀勾配のゆるい水堀よりも堅固な施設と言えます。(説明板)


d0183387_23235158.jpg本丸
本丸は一城の中心になり主将のいる所で、合戦中には戦闘の指揮が置かれます。縄張りを行う時、最も防備に主点が注がれます。城祉の調査等実績の少ない小机城については、現在地が本丸跡とは断定できません。(説明板)


d0183387_23280056.jpg矢倉跡








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空堀/本丸先
本丸跡の防備と敵の攻撃に対抗するための堀で、この城址では堀上部の幅12.7m、堀底の幅5m、深さは12mからなる水をはらない空堀です。空堀の堀幅や深さはまちまちですが、調査によると中世の山城は3m、平山城は9~12mがその平均の堀幅になっています。(説明板)


d0183387_23523337.jpg土塁

土塁は堀と共に城の防備や攻撃に重要な施設で、堀を掘った土で築き上げた防備壁を言います。土塁の基底幅は5m、上底幅は2.5m、高さは2mです。一般に中世初期に築かれた城の土塁は塁線に屈曲がなく、塁の上もしくは外のりには、必要に応じて柵・塀・逆茂木を設けています。(説明板)


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櫓台

櫓は矢蔵すなわち兵庫や、高櫓・井楼と呼ばれる「火の見やぐら」のような見張台を言います。そして、近世初期(15世紀から16世紀)の城郭の天守閣の一源流とも考えられます。天守のない時代に展望を目的とした櫓台があったと思われます。(説明板)

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二の丸

現在地は二の丸と呼ばれていますが、資料不足のため明確に二の丸と断言できません。二の丸は本丸を直接守備する役割があり、縄張のとき本丸の守備や防備にも主点が注がれます。(説明板)
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散策路は左手から登り、一周して元の場所に戻ります



・・・新横浜公園/小机町


横浜市港北区にある都市公園(運動公園)である。横浜市内で最大の運動公園であり、約72,000人を収容できる横浜国際競技場(日産スタジアム)のほか、プール、野球場、テニスコートなど様々な運動施設が設置されている。また、鶴見川多目的遊水地を兼ねており、鶴見川が氾濫した場合は遊水地として機能する。
Wikipedia

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大昔は海だったそうですが、こんな風景だったんでしょうか/新横浜公園(遊水地)

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対岸には北線を建設中         亀之甲橋を渡ります 

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日産スタジアム


d0183387_11121023.png横浜国際総合競技場

建設省関東地方建設局が1984年(昭和59年)に事業着手した「鶴見川多目的遊水地整備事業」に、横浜市が共同事業者として「横浜総合運動公園(現・新横浜公園)整備事業」として参画し、その中核施設として建設された施設である。日本国内最大の72,327席(二層式)の観客収容能力を誇る屋外多目的競技場である。建物高さは最高51.96m、軒高43.86。日産自動車(横浜F・マリノスの親会社)が命名権(ネーミングライツ)を取得しており、2005年より「日産スタジアム」(略称「日産ス」)の呼称を使用している。Wikipedia

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鶴見川の風景① 広い遊水地と比べると可愛い流ですね/亀之甲橋


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新横浜公園案内図



・・・新横浜


港北区にある新横浜駅を中心とする地域及び地名である。広義には、新横浜北部地区・新横浜長島地区・新横浜南部地区、大豆戸(まめど)町の環状2号沿いも含む。新横浜区域は横浜市における都心(ツインコア)の一つである新横浜都心に指定されている。都心としての新横浜には、上記3地区に城郷地区(小机駅周辺地区)、羽沢地区(羽沢駅(仮称)周辺地区)、新羽地区(新羽・北新横浜駅周辺地区)が加わる。新幹線が開通する前は横浜市内最大の水田地帯で、鶴見川を中心に鴨居・川和方面から小机、新羽、岸根、大倉山方面に至るまで一面の田畑が広がっていた。
Wikipedia

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鶴見川の風景② 新横浜大橋、右岸の新横浜と左岸の新羽町を結びます/
亀之甲橋


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首都高速神奈川7号横浜北線

横浜市都筑区から鶴見区に至る首都高速道路の建設中の路線である(2016年度供用開始予定)。横浜市を環状につなぐ横浜市環状道路の一部。事業計画は横浜市道高速横浜環状北線Wikipedia


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鶴見川の風景③ 右から鳥山川を合わせ左に大曲します/新横浜大橋

鳥山川
鶴見川水系の支流である。横浜市神奈川に源を発し北東に流れる。横浜市港北区を流れて大豆戸町で鶴見川に合流する。寛文年中、現在の太尾堤緑道の部分が掘削され太尾橋(太尾河岸)で鶴見川と合流。 昭和30年代大豆戸町で合流するように改修。跡地は太尾堤排水路となる。昭和47年太尾堤排水路を埋立てられ、公園として整備される。Wikipedia


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現合流地               旧流路(太尾堤緑道)

太尾堤緑道

太尾堤緑道は昔、太尾堤排水路(烏山川)でしたが下水道整備により埋め立てて緑道に整備されました。春には桜のトンネルが続きます。ここは平成元年に市制100周年事業として行われた彫刻展の8点の作品が展示されています。源流から29.7km、河口から12.8km(バクの案内板)


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鶴見川の風景④ 左岸に綱島台、右岸には太尾見晴の丘公園が見えます/新羽橋

新羽町(にっぱちょう)

東端から南端にかけて鶴見川が流れる沖積平野であるが、西端は多摩丘陵にかかっている。港北ニュータウンの開発以前から住宅・工場などが進出してきていた。史料に「新羽」の名が現れるものとして鎌倉時代の正応3年(1290)に「武州新羽郷」の所領の相続をめぐり相論となったことが残っている。また、道興准后が当地に立ち寄ったことが『廻国雑記』に残されている。江戸時代の当地は都築郡新羽村であり、天領や複数人の旗本領に分割されていた。「にっぱ」の「ハ」は「山の端」を意味すると考えられている。Wikipedia

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バクの案内板 源流から29.7km 河口から12.8km



by Twalking | 2016-05-30 20:59 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鶴見川(3)市ヶ尾~小机02 鴨居   

日時 2016.5.19(木)
天気 晴れ

新横浜から新幹線に乗るのにいつも車窓から眺める風景、
川辺を行けば早いのですが、折角なので鴨居周辺を散策しました。
この辺りはりは往古は海、右岸にすぐ丘陵が迫ります。

鶴見川右岸の丘に沿って町並みが続き、谷戸が入り組みます。
麓は平坦だと思ってましたが、ちょっとした峠越えでした。
以外と時間がかかり、予定していた小机城は次回になりました。


・・・緑区

区域は鶴見川流域に沿って東西に細長く、中央を鶴見川やJR横浜線が東西に縦走している。鶴見川流域は平地であるが、南側は丘陵地となり住宅地が多く旭区に隣接する。北側は都計道川崎町田線に沿って工業団地となっている。JR横浜線や都計道山下長津田線に沿って住宅地や団地が広がるが、南側丘陵部は近年宅地化された新興分譲地も多い。鶴見川と恩田川合流地点から上流は市内でも珍しい広大な農業用地となっており稲作や梨生産が見られる。
Wikipedia

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鶴見川の風景④ 鎌倉道はこの辺りを渡ったんでしょうか、対岸側へ/精進橋


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右岸の丘陵              左岸の丘陵


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十二神社鳥居


d0183387_20251486.jpg十二神社/北八朔町
祭神:伊邪那岐命。武蔵風土記によれば、十二神社は旧称十二天社と称し慶安2年(1447)久世大和守領地の時、武蔵国久良岐郡本牧の十二天社を当村に勧請せりと記されている。北八朔の十二神社(十二天社)の命名の元と思われる、本牧十二天社の天像が明治初年の神仏分離令により本牧十二天社の別当地であった多聞院に分けられ、十二天社は大日霊女命(別名・天照大御神)を祀り本牧神社と改称されております。現在本牧十二天社は中区本牧の和田山に本牧神社として御遍座されております。十二神社の祭神(木花咲耶姫命)と本牧神社の祭神(木花咲耶姫命)を祭っていることから、北八朔町の十二神社の名称も、同時期頃に十二天社から十二神社に改称されたものではないかと推定される。(案内板)


・・・
青砥町

地元では「青砥」の由来について鎌倉時代の武士、鎌倉幕府の評定頭、青砥左衛門藤綱が居住していたからだという。青砥藤綱のことは『弘長記』や『太平記』に記されているだけで『吾妻鏡』には記されておらず実在の人物であるかは不明。地名研究で「アオ・ト」は「川辺の地、湿地」を意味するという。東側を鶴見川が流れ、南側を恩田川が流れる。(緑区町名由来)

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鶴見川の風景⑤ 木陰があるとホットしますね~/千代橋手前


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蓮生寺
日蓮宗の寺院。永禄2年(1559年)明静院日領(-1575年没)を開山に創建された。寺内の青砥大明神は、鎌倉時代に領主であった青砥左衛門藤綱を祀るもので、享保17年(1732)池上林昌寺から日義を招き勧請したもの。Wikipedia

d0183387_20375318.jpg青砥大明神ご遷座の記 
鎌倉時代北条時頼に仕えた忠臣評定頭・青砥左衛門尉藤綱公が当地を所領し、善政をもって諸民を養われたことより当地地名が「青砥」と号されるようになり、その願望を慕う村人は公の歿後ここに墳墓を構えてお祀りしたのであります。享保17年(1732)の頃、当地に部落民がほとんど死に絶えてしまうほどの悪病が流行した際、神に祈願したところ青砥大明神が荒廃にまかされて顧みる者もないため神の怒りに触れたのだとのお告げがあったという。村人たちは大いに驚きお墓を清掃し池上林昌寺
より日義上人を招いて、大明神の勧請を行い、青砥村の守り神としてあがめ奉るようになりました。以前より青砥の領主であり、徳川家代々に仕えた勝部尚正公、勝部正房公以下歴代の殿様が当蓮正寺の中興維持に盡されたのでありますが、享和3年(1803・今より175年前)この勝部公のご子孫と村人有志により以前のお墓が修復されこの青砥大明神の建立菩提が行われたのであります。しかしその后の永い年月の経過でお墓の周囲は荒れ果てて僅か数坪の敷地内に青砥大明神の石碑だけが淋しく残ったのです。この石碑は、以前青砥町バス停留所の裏側にあり敷地内には雨水が流れ集るといったありさまで、時折心ある人々により墓標の建立・清掃等が行われましたが一般には忘れられがちとなり現在にいたりました。青砥大明神のこのお姿をこれ以上放置しておくことは真に申し訳ないことであり、今後は更に顧りみられなくなることも懸念されておりましたところ、この程当境内にご遷座申し上げることとなったのであります。勝部公の菩提寺である当寺内にご遷座奉るにあたり、希くは藤綱公の御靈、何とぞ安らかに永遠に当地にお鎮まり下さるようお祈りするものであります。(説明板)


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d0183387_20420214.jpg杉山神社
御祭神:五十猛命 ( いたけるのみこと ) 日本武尊 ( やまとたけるのみこと ) 応神天皇( おうじんてんのう ) 大日孁命 ( おおひるめむちのみこと ) 面足尊 ( おもだるのみこと )
御由緒:創建年代不詳だが徳川期初期と思われる。新編風土記稿に「青砥村鎮守」とある。明治149月再建の棟札あり。大正48月村内にあった無格社、御嶽社外4社を合祀。昭和53年氏子の寄進より現社殿を改修する。(神奈川県神社帳



・・・中山町

村の中央部が丘陵になっているところから「中山」と呼ばれるようになったという。北側を恩田川が流れ、中央を横浜線が通り、中山駅がある。町内に横浜市緑スポーツセンターがある。(緑区町名由来)

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大蔵寺
鎌倉期(
西暦1200年頃)小高い丘になっている「松原」(日本高周波のある一帯、鎌倉往還といわれた現在の中原街道より120m程入ったところに創られた当時としては割合に交通の便はよく、裏は小高い丘であり前は田畑に適し広地で鶴見川や恩田側を望む景勝の地と軍事的には要衝の地でもあった。その当時の大蔵寺の御開山様や宗派は不明創建者(御開基様)は鎌倉浪人「衛尉相原左近殿」(鎌倉将軍源頼朝の家臣・中山村の相原家一族の祖)であり、「源頼朝公の菩提提冥福の弔い」と「相原家の菩提寺」として大蔵寺を建立したと言い伝えらている400年後の慶長年間(1608年頃)大火災にて堂塔伽藍などすべて焼失、現在土中から屋根瓦の破片とか敷石が発見されるのみ大火災後10以上後、顕道長察大和尚禅師が当地に巡行の折り止錫(シシャク)せられ、村民の教化に当たられた。その時に一般檀信徒に働きかけて大藏寺の再建を計画し、相原左近の元屋敷で六十間四面(約1202)の土地(現在の場所)を境内地とした。この時から大藏寺は「曹洞宗」となり「顕道長察大和尚禅師」を御開山と仰ぐようになった。(大蔵寺)


d0183387_21121267.jpg稲荷大明神社
11世俊峯雲外大和尚の代、文化10年(18139月に山城国(京都府)伏見の本宮より大藏寺の鎮守様として奉勧遷した社。毎年211日に大藏寺初稲荷の大祭を勤修している。 (大蔵寺)



d0183387_21124320.jpg中山小学校創立之碑
明治2597日大藏寺内に「新治村立高等新冶小学校」設立。これが「中山小学校」の創立である。明治414月1日「新治村立尋常高等中山小学校」設立。(大蔵寺)





・・・恩田川合流地

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鶴見川の風景⑥ 恩田川と合流、ここから中流域でしょうか/落合橋(中原街道)


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鶴見川の風景⑦ 下流・落合橋方向の風景/恩田川


d0183387_00213161.png緑区の地形
横浜市の北部一帯は、なだらかな多摩丘陵と平坦な下末吉台地の2つの洪積台地から成り、その丘陵と台地を刻みながら鶴見川とその支流が流れ、流域に沖積平野をつくり出しています。そのような地形の中で緑区は、鶴見川とその支流の恩田川を北側の区境とし、分水嶺となる尾根を南側の区境とする東西に細長い区域となっています。区の地形は、鶴見川に流れ込む短い支流の流域にあたる丘陵地(丘陵・台地)と鶴見川が流れる低地から構成されています。鶴見川や尾根の連なりが東西方向であるのに対して、丘陵地には、現在の緑区あたりまで海(古鶴見湾)がせまっていた頃に海蝕によって形づくられた谷戸と呼ばれる谷や沢が南北方向にいくつも刻まれ、それら1つ1つの土地のかたまりが緑豊かな丘となっています。(緑区HP)

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谷本川・恩田川合流地付近マップ
(赤:歩行ルート 青:谷本川・恩田川 紫:中原街道 橙:青砥上星川線)

中原街道・佐江戸&中山の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22283601/



・・・鴨居町


鴨居一丁目から七丁目と鴨居町からなる。駅北側を鶴見川が流れ、対岸は都筑区となる。南側は保土ヶ谷区に、南東側は神奈川区に隣接する。

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鶴見川の風景⑧ 右手に鴨居の町が見えてきます/落合橋下流

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橋の風景① 堂々としたいい橋ですね/鴨池大橋


d0183387_21345612.jpg鴨池大橋

2003年に開通した緑区と都筑区の鶴見川に架かる橋梁。鴨居地区の中心部を突き抜けるJR横浜線、および沿線の道路と鶴見川をまたぎ、緑区鴨居町・竹山・神奈川区羽沢町方面と都筑区池部町方面を結ぶ自動車・歩行者用の橋である。全体の延長は約455m、幅員は約1832m。道路部分は片側二車線の車道、および歩道からなる。鶴見川をまたぐ部分はアーチ橋の構造となっており、この部分は延長約130m、高さ約20mこの鴨池橋からの景観は関東の富士見百景のひとつに選ばれているWikipedia

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橋の風景② 池辺町と鴨居駅を結ぶ歩道橋、これは便利ですね/鴨池橋

鴨池橋

JR横浜線鴨居駅から工業団地へ通じる人道橋で、ユニークな風見鶏の照明灯が通る人の心をなごませてくれる。鋼連続鈑桁橋で平成2年に竣工した。橋長107m 幅員8m(かながわの橋百選)


池辺町
(いこのべちょう/左岸)
横浜市都筑区の地名。かつては「池野辺」や「伊子野辺」とも書いた。捨馬台遺跡や池辺遺跡など、縄文時代の遺跡が多数発掘されている。須恵器や土師器も出土しており古くからこの地に人が住んでいたことが分かる。中世は武蔵国都築郡池辺郷、江戸時代から都筑郡池辺村と呼ばれた。農業が行われており、用水は鶴見川の支流から佐江戸村で分水して引いたとされる。町名の由来は宗忠寺の前に「赤池」があったからだといわれている。Wikipedia

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鶴見川の風景⑨ 左岸の丘が川から離れ、右岸に丘が迫ります/鴨池橋


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鴨居杉山神社参道

d0183387_00241054.jpg鴨居杉山神社

当神社は宝徳元年(皇紀2109年)の創建であり、爾来この場所に鎮座ましまし、神社明細帳には「明治812月村社(旧社格)に列せられたり、明治2455日神明社・稲荷社を合併せり」と記載されている。杉山神社は鶴見川水系(帷子川を含む)を中心として集中しており、「新編武蔵風土記稿」によれば72社あると云われているが、多摩川を越えた北側には全く分布を見ない。霊験あらたかな神社として往事この様に数多く建立された様である。延喜式の神名帳には唯一の延喜式内社として記載されているが、どの神社が該当するのか定かではない。当鴨居は数10年前迄、戸数90戸に満たない純農村であったが、創建の昔より大切にお護りして来た鎮守様であり、今後も心のよりどことろして尚一層、崇敬の念を新にしなければならない。側社として裏山の中腹に、大山阿夫利神社・榛名神社をお祀りしてある事を附記して御由緒とする。(境内掲示)


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d0183387_09412073.jpg林光寺/鴨居町
横浜市緑区にある高野山真言宗の仏教寺院。山号は鴨居山。関東88ヶ所第66番霊場。宝徳元年(1449)義慶が開創。慶長年間(1596)に誓順が再興。文政元年(1818)火災により焼失。明治27年(1894)火災により焼失。1974年から1995年にかけて整備を行い復興。Wikipedia)

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丘の風景④ 対岸の丘陵です、中原街道がとおります/林光寺境内


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d0183387_09515408.jpg東観寺/東本郷

古儀真言宗、瑞照山慈眼院東観寺。天平の頃行基菩薩が此の地を訪れ、聖観音を彫刻し精舎を建立したと伝えられる。寺宝として脇神像や梵字で線刻された文殊菩薩像などがある。俗体男女並坐像浮彫墓標は境内にある。

d0183387_09551309.jpg俗体男女並坐像浮彫墓標(横浜市指定有形文化財)

この墓標は、正面唐破風屋根付の位牌型墓標で、俗体の男女像が浮彫されています。刻銘によれば、男女は桓武天皇29代で三浦氏を名のる由緒ある家系の夫妻で、亡夫の墓標を造立するに当り、妻は逆修宇(生前に仏事を行うこと)して連理の契りをあらわしたものであることが知られます。墓標に俗体像を彫刻する例は非常に珍しく、石彫技術も秀逸で、江戸時代前期の特異な石造遺品として注目されます。(横浜市教育委員会)

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鴨居駅周辺マップ(赤:歩行ルート 橙:青砥上星川線・横浜上麻生線)


・・・港北区

昭和14年に都築郡下の各町村が横浜市に合併した際、神奈川区から分区する形で成立した。都筑郡下の各町村は都筑郡一体での行政区成立を望んだが、地理的条件などを勘案し神奈川区の旧大綱村(白幡除く)・日吉村・城郷村(小机・鳥山・岸根のみ)・旭村師岡の地域に、旧都岡村・二俣川村を除く都筑郡の各町村をもって一行政区とされた。成立当時の名前の候補として菊名区が挙げられたが、横浜港の北にあるということで港北区に決定した。
Wikipedia

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浄土宗のお寺です/泉谷寺参道

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山門                 本堂

板絵著色山桜図
泉谷寺は松亀山本覚院と号し、元享の頃(1321-24)草創の庵本覚院を、大永3年(1523)開基二宮織部正が父の菩提のため、見譽上人を招いて開山とし地名によって泉谷寺としたと伝えられています。第26世立譽了信上人の代(天保5年・1834〜天保11年・1840)に本堂内陣と下陣の間の杉戸に、左右4面づつ8面、山桜に小禽が画かれました。向かって左の図には「一立齋廣重畫」と署名し、下に「東海堂」と朱印されています。この杉戸は初代歌川広重の傑作であり、浮世絵史上稀に見る杉戸にえがく大作です。杉戸絵は、山内の杉を使用して作った板で、上下2枚に別々に画き、中央の横桟のところで接続しています。板には、胡粉を塗布した上に、墨線を以って画き、それに彩色を施しています。(横浜市教育委員会文化財課・横浜国際観光協会掲示より)

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江戸名所図会 泉谷寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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d0183387_10125051.jpg金剛寺

小机城址の麓にある曹洞宗のお寺さんです

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鶴見川の風景⑩ 左が小机城のあった市民の森、第三京浜が横断します/小机大橋



by Twalking | 2016-05-22 18:54 | リバーサイドウオーク(新規)