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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鶴見川(3)市ヶ尾~小机01 川和   

日時 2016.5.19(木)
天気 晴れ


中原街道、大山開度と多摩丘陵を横断しましたが、
丘陵から伸びる舌状の尾根が幾重にもあって
いまいち地形的なものがピーンときませんでした。

そこで、谷を分かつ川から見てみることにしました。
鶴見川、前回で津久井道と大山街道に出合いましたが、
今回は中原街道、ここで恩田川を合わせます。

丘の上から眺めると蛇行しているのが分かります。
まだ上流域でしょうが、低地部は幅が広いですね。
夏日でしたが、いい風が吹いていたので助かりました。


・・・市ヶ尾(青葉区) 

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鶴見川の風景① 上流には田園都市線が鶴見川を渡ります/谷本橋


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朝光寺山門

d0183387_14281734.jpg朝光寺/市ヶ尾町
この寺は今より約450年前、相模国遠藤村宝泉寺の末寺として白王山土峰院と号し、多摩丘陵に連なる武蔵国市ヶ尾村の現在地に建立された。御本尊は薬師璃光如来で、後奈良天皇時代に御開山である。琴東全大和尚(天文61117日入滅)によって建立され、上原賀解由左エ門朝光公が開基された。上原公は天文1711月に逝去し、法名を朝光寺殿法山道念大居士と諡号されたので、この法名に因んで朝光寺と改められた。墓碑は当時の五輪の塔として墓地の一角に安置されている。慶安28月(徳川家光時代)に寺領65斗の御朱印を賜った。当時は西向きの由緒ある七堂伽藍であったが、明治32年不慮の火災によって悉く鳥有に帰し、その後は仮本堂として維持されてきたが昭和415月南向きに本堂を再建し現在に至る(曹洞宗白王山朝光寺の由緒碑文)


・・・北八朔町(緑区)

昭和14年の横浜市編入の際都筑郡中里村大字北八朔から新設した町。(古くは都筑郡北八朔村)新編武蔵風土記稿』の「北八朔村」に「八朔は仮借の字にて『倭名類聚鈔』の郷名にのせたる針折の地なるべきことは、既に郡の惣説の下に辨せし如くなり」とあり、「都筑郡総説」に「針折(罰佐久)此郷名も正しきことを傳へず、按するに今の八朔村もしくは遺名なるべし、八朔は郡の中央にあり、かの村の條にも出せし如く、後にいつの頃にや八朔と書き改めしならん、元亀永禄の頃も今の文字に書来たれば、古きことなるべし」の記録がある。東側を鶴見川が流れ、北西側を東名高速道路が通る。(緑区町名由来抜粋)

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鶴見川の風景② この辺りは伸びやかですね~/天神橋

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「河口から23km」の石柱       都筑区との境になります/天神橋


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鶴見川の風景③ 左岸の丘です、低地の幅は1.5km位、広いですね~/天神橋付近



・・・川和町


かつての都築郡川和町の中心地で郡役所と町役場が置かれていた。鶴見川の本流、谷本川が曲がったことから川和となったといわれている。集落は川の自然堤防にあった。かつては「河輪」「川輪」「川勾」とも書いた。古くは鎌倉街道中ノ道が通っており交通の要所だった。Wikipedia

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旧道入口の向かいに建つ瑞雲寺の山門

d0183387_15183202.jpg瑞雲寺

簡素で落ち着いた禅寺で「鷹薬師如来」と「筆塚」が知られている。徳川家康が鷹狩の時、寵愛していた鷹が戻らないので、この薬師如来に祈願したところ、たちまち手元に戻った霊感に帰依して鷹薬師如来を祀る。(都筑区水と緑の散策マップ)


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街道風景① かつての川和宿の旧道になります

川和宿

谷本川(鶴見川)沿い川和宿が営まれていた。現在も「わたや」「かじや」「こうや」「なべや」「さかなや」等の屋号で呼ばれている家がある。(都筑区水と緑の散策マップ)

d0183387_15024975.jpg宿の入口に建つ
双体立像の道祖神(寛政元年・1789


d0183387_15170677.jpg城所家(きどころけ)
川和宿の中央付近の東側に赤い屋根瓦をのせた大きな旧家が残っている。母屋は明治18年から4年の歳月をかけて建てられた。書院と正玄関がある格式のある造りになっている。(非公開・都筑区水と緑の散策マップ)


d0183387_15244500.jpg八坂神社天王様

川和宿の通りの中央に鎮守である天王さまがある。幕末の時代、官軍の江戸攻めによる戦乱から難を逃れるため、知人を通して大神輿を引き取り、御神体として祀っている。境内には二十三夜塔と力比べをした「天王様の石」といわれる24貫の力石がある。(都筑区水と緑の散策マップ)


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街道風景② 横浜と柿生を結ぶ「日野往還」(横浜上麻生線)を横断します/川和小

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お地蔵さん           道祖神(安政5年・1858)と庚申塔/宿上の入口


d0183387_15580333.jpg天宗寺

天文9年(1540)村民・岩澤伊左衛門の開山といわれている。観音菩薩は広島県尾道村法輪寺の本尊であったが、信者安丸が背負って勧請のため諸国を巡っている時、賊に襲われ菩薩に助けられた。身代わり観音として親しまれている。(都筑区水と緑の散策マップ)


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川和八幡神社拝殿

川和八幡神社

貞観17年(875)武蔵国河輪神社は従五位を授けられたといわれている。現在は川和八幡神社となり川和町の氏神として祀られている。長い参道や境内の桜は見事。昭和37年に枯れて切り倒されるまで関東一といわれた杉があった。(都筑区水と緑の散策マップ)

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参道入口               朱色の鳥居


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ゆうばえのみち/かりん公園先

ゆうばえのみち
鴨池公園、川和富士公園、月出松公園をむすぶ緑道がゆうばえのみちです。四季の変化を表す木立が続き、川和富士の夕映えが美しいみちです(案内板)

d0183387_17250743.jpg花見山遺跡
都筑区川和町近辺にあった約12000年前(縄文時代草創期)の遺跡である。鶴見川の中流北岸の標高53mの低台地上に位置(県立川和高校の東側の台地)する。発掘調査の結果、約1300片の土器、200の石器、堅穴住居の跡と推測される掘り込みが発見された。現在、遺跡は住宅街となっている。なお、遺跡名は「花見山」だが、地名は「見華山(みはなやま)」であり、注意が必要である。Wikipedia 写真:川和高校


d0183387_17341901.jpg川和富士/川和富士公園
江戸時代の末期に築かれた。元々は現在地より川和高校寄りの地点(現在の富士見が丘1714)にあったが、港北ニュータウン建設のため現在の場所に移転・再現された。標高は74m。都筑区にはいくつかの富士塚があるが、川和富士は最も規模が大きく本格的である。頂上は遠望が利き富士山をはじめ、みなとみらい21や新宿副都心の高層ビル群を見ることができる。Wikipedia

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丘の風景① 丹沢山塊&中央に富士が見えます(西方向)/川和富士公園 

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丘の風景②多摩丘陵を縫って鶴見川が流れます(西北方向)/川和富士公園 

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丘の風景③ 多摩丘陵は続きます(南方向)/川和富士公園


d0183387_17465138.jpg月出松公園
縄文中期の竪穴式住居や土器が発掘された加賀原遺跡の上に整備された公園で、緑陰が多い。川和富士公園、都田公園とはゆうばえのみちで続いている。昔「みかづき松」と呼ばれる松があったといわれ、四神のレリーフがある。(都筑区水と緑の散策マップ)


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加賀原遺跡
月出松公園とその一体の台地上は加賀原遺跡とよばれ、昭和45年の呼び調査を経て、昭和524月~8月に港北ニュータウン発掘調査団によって南端部(約16002)を対象として発掘調査が行われました。発掘調査によって、縄文時代早期の落とし穴7基、中期の竪穴住居跡17軒・土壙(貯蔵穴)9基・焼土跡1基・柱穴群1ヶ所などの遺構のほかに多量の縄文土器や石斧・石鏃などの石器が発見され、縄文時代中期(約4500年前)の集落跡を中心とした遺跡であることが明らかとなりました。特に、遺跡中央から予備調査で発見された小貝層を伴う平面が小判型をした長径10.5m・短径5.3mの大形の住居跡は類例が少なく、特異な住居として注目を集めました。遺跡の広さは約210002と推測されていますが、公園用地となっている範囲は、発掘されずに現況で保存されています。(横浜市教育委員会)


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ゆうばえのみちマップ(赤:歩行ルート 橙:鴨池公園へのルート)


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妙蓮寺山門

d0183387_17504797.jpg妙蓮寺
区内唯一の日蓮宗の寺院。本尊は久遠実成本師釈迦牟尼仏(くおんじつじょうしゃかむにぶつ)。開創は康永3年(1344)、元文年間(17361741)にすべて焼失したが、本堂は寛政5年(1793)に再建された。境内に古木が多く春の桜、秋の銀杏の黄葉は見事。(都筑区水と緑の散策マップ)


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川和宿の昔を偲び今を歩くコース(都筑区)
赤:歩行ルート 青:鶴見川 橙:日野往還(横浜上麻生線)


・・・・・・
資料ファイル

川和の歴史
・1977年川和高校の東側で花見山遺跡が発見され1300点もの遺物が見つかった。これにより1万年以上前から人々が生活していたことが判明した。
・中世は武蔵国都築郡の川和郷であった。戦国期にこの地を所領したのは北条綱成であるとされる。後北条氏はこの地に勢力を伸ばすと、小田原城を守り関東進出の拠点とするため、廃城と化していた小机城(今の港北区小机町)を修復。この城の支城として鶴見川沿いに川和城が整備された。川の合流する川和は交通において重要な地であった。
・江戸時代になると都築郡の川和村(川輪村)となった。土地は増上寺領。家数は133軒という記録がある。後期には神奈川宿の助郷村(人馬を提供する助郷を負担する村)となる。
Wikipedia抜粋)

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港北ニュータウン案内図/横浜市HP
(紫:246号・中原街道・横浜上麻生線 茶:東名・第三京浜)

港北ニュータウン
横浜市都筑区茅ヶ崎を中心とするニュータウンである。「港北」と名付けられ、かつては港北区・緑区に属していたが、行政区再編により現在は都筑区が中心となっている。横浜市都心部から北北西へ約12km、東京都心部から南西へ約25kmの地点に位置している。港北ニュータウンは計画推進の状況に応じて4つの地区設定がなされている。港北ニュータウンのメインとなる「公団施行地区」、地元の農家が農業を引き続き営むための「農業専用地区」、民間ディベロッパーが1965年以前に既に開発計画を持っていた「既開発地区」、横浜市が主体となって開発を実施する「中央地区」である。「公団施行地区」のみを指して「港北ニュータウン」という名称が使われているが、実際にはその他3地区を含めた形での計画設定がなされているため、すべてを含めて「港北ニュータウン」と呼ばれることが多い。特徴としては車歩分離の徹底であるといえる。都市計画道路中山北山田線と佐江戸北山田線が南北の軸を成しており、住宅地と車道は分離され、ペデストリアンデッキにより歩道の連続立体化が完成している。ライフラインは地下埋設になっているため、電線の有無が港北ニュータウンの範囲、境界を知る目安となる。保存緑地や緑道も多く残され、住環境に配慮がなされている。Wikipedia


by Twalking | 2016-05-20 21:43 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鶴見川(2)鶴川~市ヶ尾02 寺家   

日時 2016.5.13(金)
天気 晴れ


左岸の柿生は歩きましたが右岸は初めて。
両側には丘が迫り、青葉区へ進むにつれて
だんだんと低地部が広がっていきます。

岡上の丘は農地ですが、寺家は広い里山、
谷戸の奥の雑木林に散策路がついています。
「何もない、だから面白い」でしょうか、憩えます。

谷間を流れる鶴見川もゆったりしていて、
周囲の景観もいいし、歩き易い川辺が続きます。
ウオークやジョキングを楽しむにはいいですね。



・・・三輪町(町田市)

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鶴見川の風景③ 左岸の遊歩道を歩きます/子の神橋


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鳥居の扁額が「椙山」になっています

d0183387_11543526.jpg椙山神社/三輪町

当社は「古事記」「日本書紀」にも記されている有名な大和国の三輪の里(現奈良県磯城郡大三輪町)に鎮座する大神三輪神社の御神体である秀麗な三輪山に、この附近の山容がよく似ているところから元慶元年(877)当地に勧請されたとの伝承がある。御神体は不動明王が抽出されている御鏡であって裏面に下三輪総鎮守寛文4年(1664)大吉と刻まれている。特に社号「椙山」はめずらしく武相地区に72の「杉山社」があるが、当社の椙(國字)は唯一のものである。総氏子中により奉納された文政29月吉祥日の銘がある鰐口と嘉永4年(1851)建立の江戸時代で遺存しているものとしては近隣にあまり例のない石造大鳥居の奉額に「椙山大明神」と記されている等、まことに古い貴重な歴史を物語っている。昭和20年頃までは広い境内に樹齢5600年を経た杉山社の巨木の鬱蒼として椙山の社、鎮守の森そのもののたたずまいであった。明治末年下三輪大戸にあった大戸明神社が合祀された。(境内掲示板)


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高蔵寺別院地蔵尊/三輪町

地蔵堂は昔、高蔵寺の末寺・正善寺といい、1733年(享保18年)に旗本村上左衛門によって開山されました。ご本尊地蔵菩薩は三輪村の人々に深く信仰されていましたが、1868年(明治元年)正善寺が廃寺になるため、人々の願いを聞き入れ、高蔵寺に合寺され高蔵寺地蔵堂と名を改めました。1976年(昭和51年)に新堂を建立し、お地蔵さまを信仰する地蔵堂「鶴川地蔵尊」として、地域の人々に親しまれています。(高蔵寺HP)


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妙福寺鐘楼門

妙福寺鐘楼門は上層に鐘を釣った一間楼門で、棟札より1746年(延享3年)に建てられたことがわかる。この門の建立願主は当寺19世円利院日宏聖人で、また建立にあたっては上三輪村甲子講一結列衆9名と上麻生村甲子講一結列衆10名の助力があった。大工棟梁は岡上村惣助、細工頭領は相州津久井領四良兵衛であった。当門は市域でただ一つの鐘楼門である。絵様刳形の性質は江戸時代後期の性質を示し、この時代の建物としては全体の比例がよく整っている。なお、屋根はもと茅葺で、近年に高欄を修理したが当所の形式に倣っている。(町田市教育委員会)


d0183387_12045426.jpg妙福寺
当寺は見延山久遠寺を総本山とする日蓮宗で、明徳2年(1493)日億上人によって開かれ、山号を長祐山という。池上本門寺・鎌倉妙本寺両山の旧末寺である。旧三輪村は武相六ヶ村の一村で、池上本門寺宗祖の御服を献上する武相御召講などが存する信仰篤き地である。境内は約四千坪におよび、山門・鐘楼門・祖師堂など諸堂宇を今なおととのえている寺である。(掲示板)


d0183387_12080292.jpg妙福寺本堂

妙福寺本堂は様式上、江戸時代後期の改建とみられ、1786年(天明6年)の曼荼羅二面に、客殿改建に際し書き改めた旨が記されているから、この時の再建であろう。平面は正面に幅九尺、両側面に幅六尺の広縁を付し、サ字形に六間を配した方丈形式の堂である。障子は1845年(弘化2年)に新造されたものである。正面の向拝は後世の増築になり、また屋根はもと茅葺で、近年に銅板で葺替えた。全体に改造が少なく、保存状態も良好である。当本堂は市域の罰末期における方丈形式本堂の代表例で、内部は木割が太く、また室中間と仏間境の虹梁両端に施した絵様刳形も調子がよい。(町田市教育委員会)


d0183387_12114511.jpg妙福寺祖師堂
この祖師堂は、当寺の記録によると寛文12年(1672)に大田区の池上本門寺の祖師堂を移築してきたものといいます。天井や屋根は後補のものですが、軸部などは桃山時代の様式を伝え、また本門寺の古建築の遺構としても貴重です。平面は、正面一間を外陣とし、後ろの三間四方の逸失を内陣とします。内陣の奥に須弥壇を置き、その上に厨子を安置します。附指定の厨子は、間口一間、屋根は入母屋造唐破風付で板葺です。万治2年(1659)頃制作され、祖師堂とともに本門寺から譲り受けたものです。(東京都教育委員会)


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鶴見川の風景④ 真福寺川が合流します/水車橋

真福寺川
川崎市麻生区王禅寺西の百合ヶ丘カントリー倶楽部付近に源を発する。麻生区内を南に流れ麻生区下麻生で鶴見川(谷本川)に合流する。延長2.5kmのうち水源から1.45kmまでの区間は普通河川(河川法の準用・適用を受ていない)、そこから河口までの1.05kmは準用河川(市町村長が指定し管理する河川)に指定されている。Wikipedia


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マックで一休み/水車橋(横浜上麻生道路)

鉄町
(くろがねちょう)
横浜市青葉区東部にする鶴見川東岸の地域である。地域の中央に桐蔭学園、東部に横浜総合病院、南部に横浜市立鉄小学校があり、南部には横浜上麻生道路が横断し、環状4号入口交差点は環状4号線の北の起点となっている。地域の南端を鶴見川、東端を黒須田川が流れている。
Wikipedia

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三輪町案内図
(赤:歩行ルート 青:鶴見川 橙:世田谷通り・横浜上麻生線)



・・・寺家町(青葉区)

昭和14年の横浜市へ編入の際、都筑郡中里村大字寺家(じげ)から新設した町。古くは都筑郡寺家村であった。明治22年の市町村制施行の際、鴨志田村・成合村・上谷本村・下谷本村・鉄村・黒須田村・大場村・市ケ尾村・北八朔村・西八朔村・小山村・青砥村・下麻生村飛地と合併して中里村大字寺家となる。平成6年の行政区再編成に伴い、緑区から編入。町名は旧村名から採った。(青葉区)


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遊歩道を離れ一般道を寺家入口へ/水車橋先

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寺家ふるさと村の石標         ここを右折し居谷戸へ


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谷戸の風景① 奥に溜池があります/居谷戸


d0183387_14494672.jpg居谷戸遊水池

この池は水田の灌漑用水として利用していますが、大雨のときには雨水を一時貯留して下流へ少しずつ流し、河川の氾濫を防ぐ大切な役目をしています。(横浜市下水道局河川管理課)



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Uターンし、ここを右折           天空の城ラビタだ~



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ウエルカムセンター・四季の家でマップをもらいました


寺家ふるさと村

横浜市青葉区寺家町にある「横浜ふるさと村」のひとつ。寺家ふるさと村四季の家管理運営委員会が横浜市からの委託を受け、管理している。昔ながらの田園風景が色濃く残っているところで、水田と雑木林が織りなす景観に恵まれた地域となっている。また季節によっては横浜市内では数少ないホタルを見られる地域でもある。寺家町の面積86.1haのうち12.3haの土地が緑地保全地域に指定されている。1983年に横浜ふるさと村の指定を受け1987年に開村した。Wikipedia


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鳥居から急階段をひと登り



d0183387_15343758.jpg熊野神社
祭神:伊弉諾命(いざなぎのみこと)伊弉冉命(いざなみのみこと)大日霊貴命(おおひるのむちのみこと)
由来記
熊野神社の総研は記録には不明であるが、武蔵風土記には九尺二間の社(熊野社)が寺家村熊野野谷にあると記録されている。当地では昔から御熊様と言われ、口伝により何時の時代か火災によりここに移転されたと伝えられている。この度罹災した社は慶応3年に当地大工・野路文之丞により建立されたと棟札により判明する。その後大正14年に当地大工・萩原七之助により拝殿、浜縁を増築し、社殿が完成。昭和45年に屋根を茅葺より銅板茅葺に改築する。今回の再建には旧社殿の復原をする趣旨で建設する(熊野神社建設記念碑)



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熊の池はへら鮒釣り専門の池です

へら鮒は魚の習性を利用して一定の場所に魚を寄せておき、水深や餌の硬さや粘り具合などを魚に合わせ調整しながら釣っていきます。一般の鯉釣りとは釣り方が異なりますので、初心者、釣り方がわからない方は事務所までお問い合わせ下さい。尚、水深が2.5mと深いため10歳未満の子供は事故防止のため入場できませんので予めご了承ください。へら鮒釣りのルールを守り楽しく釣りましょう。(寺家ふるさと村 熊の池)


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尾根の道 

寺家ふるさとの森
所在地 横浜市青葉区寺家町834外 面積: 11.7ha 標高: 3065m
寺家ふるさとの森は土地所有者の方のご協力により豊かな自然を保全し、市民の皆様に憩いの場を提供しているものです。 利用にあたっては下記のことに注意してご利用ください。
・散策路、休憩所以外のところには入らないでください。
・草花や生物を捕ったりしないでください。
・ゴミは持ち帰りましょう。
・犬のフンは飼い主が片づけ、持ち帰ってください。
(横浜市緑政局北部農政事務所、緑政局緑政課)



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途中ベンチもあります            大池へ下ります


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谷戸の風景② 大きな谷戸ですね、歩きがいがあります/山田谷戸

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谷戸の風景③ 鶴見川よりふるさと村の景観、この奥が子供の国になります。



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寺家ふるさと村案内板(赤:歩行ルート 青:鶴見川 橙:横浜上麻生線)

鶴見川左岸の早野&王禅寺関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22769484/


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甲神社(かぶと)/鴨志田町

祭神 日本武尊
創立年代不詳であるが戦国時代と伝えられ、新編武蔵風土記稿に記載されている。境内地後方続きに土手数丁あり、此地を腰巻といわれ、此所より種々の土器が出土し、往古の城跡であると古老の伝説がある。御神体は石剣に似ているので祭神日本武尊、社名甲神社と称したのも武士の尊崇が篤かったことが推察出来る。爾来鴨志田町の産土神として篤く崇敬されている。(甲神社社殿造営記念碑)


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鶴見川の風景⑤左岸に柿生から続く丘、ここで鴨志田川を合わせます/たちばな台

鴨志田川
横浜市青葉区鴨志田町の日本体育大学健志台キャンパス付近に源を発し、青葉区内を東に流れ鶴見川に注ぐ普通河川(河川法の準用・適用を受ていない)である。源流から河口付近までは水路の様になっており、環状4号線をくぐる付近で川の様になる。Wikipedia


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鶴見川の風景⑥ なだらかに蛇行する流れに沿って遊歩道が続きます/常盤橋先


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鶴見川の風景⑦ 左岸にあざみ野の丘が見えています/上谷本町

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黒須田川を合わせます/市ヶ尾高校   大山街道の川間橋です

黒須田川
川崎市麻生区王禅寺に源を発し南へ流れ、横浜市青葉区市ヶ尾町の県立市ヶ尾高校付近で鶴見川(谷本川)に合流する準用河川(市町村長の管理)である。Wikipedia

大山街道・市ヶ尾付近の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22820760/


・・・市ヶ尾町


横浜市青葉区東部に位置する。青葉区の行政上の中心地域となっており青葉区総合庁舎(青葉区役所、福祉保健センター)、青葉公会堂、青葉スポーツセンターなど区内にある県、市、区に関連した施設のほとんどが集まる。古墳が多く見つかっており、地域内は鶴見川流域が田園地帯になっているほかは概ね住宅地となっている。昔は「市郷」と呼ばれていたが、音が変化して現在の「市ケ尾」になったと言われる。
Wikipedia



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鶴見川の風景⑧246号&東名青葉ICが見えてきました/市ヶ尾町

横浜青葉インターチェンジ

横浜市青葉区にある東名高速道路のインターチェンジで、国道246号に連絡している。現在事業中の横浜環状北西線が接続し横浜青葉ジャンクション(仮称)が併設される予定である。横浜市北西部地域の交通の利便性向上と横浜町田インターチェンジの渋滞緩和のために開設された。Wikipedia


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上谷本町周辺地図
(赤:歩行ルート 青:鶴見川 紫:大山街道 橙:横浜上麻生線)



by Twalking | 2016-05-16 15:24 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鶴見川(2)鶴川~市ヶ尾01 岡上   

日時 2016.5.13(金)
天気 晴れ


久し振りの鶴見川です。夏日ですが風は爽やか。
鶴川から市ヶ尾まで右岸の丘も織り交ぜて
歩いてみました。

いつも小田急線から見える岡上の丘、
登ってみると広い農場が広がり、景色は抜群です。
東側には古刹も多く、見応えがありました。


・・岡上
(おかがみ)/麻生区

岡上は川崎市麻生区の大字で南側を横浜市青葉区に、三方を町田市に挟まれた飛地である。周辺は1970-80年代に宅地化が進んだが、岡上は大部分が市街化調整区域と農業振興地域に指定されたため現在でも農村的風景が残っている。Wikipedia

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鶴見川の風景① 鶴川駅の右岸(南)の岡上の丘を目指します/かわいだ人道橋


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丘の風景① 鶴川団地方向、左奥がよこやまの道でしょうか

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急坂を上ります            外周道路を廻ります


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丘の風景②三輪町方向、南側の風景です

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右手に和光大学の校舎         ここを左折すると営農団地です


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丘の風景③ 森に囲まれて農場が広がります/岡上営農団地

岡上営農団地

都市化の波が押し寄せる中でも岡上の人たちは営農意欲が強かった。昭和47年(1972年)に営農団地推進協議会が組織され、翌年に起工式が行われ、昭和59年(1984年)に完工した。面積は35.6ha。温室での野菜栽培、露地野菜、柿、リンゴ、さつまいも、落花生掘りなど、都市近郊型の観光農業も行われている。平成19年(2007年)6月、国の登録記念物に指定された禅寺丸柿の古木が随所に見られる。「ふるさと麻生八景」にも選ばれている。(川崎市農業振興センター)


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丘の風景④ ぐるーと営農団地を一周して岡上神社へ

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名産の柿・次郎丸の木         谷戸にはたんぼ


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岡上神社鳥居

d0183387_11504051.jpg岡上神社

祭神は日本武尊、健御名方命、大山昨神、稲倉魂命。明治42年(1909年)3月、岡上村中にあった五つの神社(諏訪神社、剣神社、日枝神社、宝殿稲荷社、開戸神社)が合祀された。敷地は村の中央にある諏訪神社に決まり、村民融和のため村名を取り岡上神社として祀られている。また、境内には金勢大明神がある。高さ95cmの石碑で、子孫繁栄の御利益があると言われている。嘉永4年(1851年)建立。(川崎市農業振興センター)


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境内には水神塔(水天宮、嘉永3年、1850年)、金勢大明神(嘉永4年、1851年)、青面金剛(安政2年・1855年)、堅牢地神碑(安政2年)などがあります。(麻生観光協会)

堅牢地神
(けんろうじしん)
仏教における天部の神の1柱で大地を司る。通常は女神であるが密教では男神と一対とする。十二天の一である地天と同一視される向きもある。堅牢地天堅牢地祇あるいは単に堅牢と呼ばれる場合もある。大地女神として地の堅牢と神の不壊とに解釈される。つまり大地を堅固ならしめる神である。また仏法が流布される処に赴いて、その仏・如来の法座の下にあって警護するという。Wikipedia


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東光院宝積寺境内

東光院
東光院の創建の時期についてはわかっていませんが、江戸時代につくられた『新編武蔵風土記稿』には「開山開基は詳らかにせずといえど、天正の頃(15731592)までに11代に及ぶ」と記されています。当寺には江戸時代に建築された本堂(18世紀頃)、位牌堂(享保3年、1718)、仁王門(18世紀頃)、庫裏、書院などの建造物の他、市重要歴史記念物に指定されている木造兜跋毘沙門天立像(とばつびしゃもんてんりゅうぞう)が伝えられています。兜跋毘沙門天像は多くの場合、西洋風の鎧を身につけ、頭には兜を付け地天の上に立ち、左右に邪鬼を配する姿に造られています。また、この像の多くは平安時代につくられており、関東では、東光院と南足柄の朝日観音堂だけにしか伝えられていません。当寺像は、髻(もとどり)を結い、左手は屈臂(くっぴ)して宝塔を掲げ、右手は屈臂して腹前で戟(げき)を取り、身に鎧を着、地天の上に立つ姿につくられています。構造は、頭・体躯・地天を一木から彫出し、背部に内刳(うちぐり)を施しています。面部は丸く、釣り上がった眼に太い眉や高い頬骨、腹や腰を太くつくり、足を開いて立つ姿に守護神の力強さがうかがわれますが、全体に素朴な印象を受けます。制作年代は平安時代と考えられています。なお、東光院の近くの阿部原と呼ばれている地区から、軒丸瓦・軒平瓦・鬼瓦・「荏」「国」と書かれた文字瓦などが発見されており、岡上廃寺の跡と考えられていますので、当地には古くから仏教文化が伝えられていたとおもわれます。(川崎市教育委員会)


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東光院仁王門



d0183387_12233351.jpg木造阿弥陀如来坐像

当院は、『新編武蔵風土記稿』(江戸時代後期の地誌)によれば、新義真言宗に属していましたが、現在は単立寺院になっています。当院所属の木造・兜跋毘沙門天立像は、一木造、彫眼で、髻を結い、左手に宝塔を掲げ、右手に戟を取り、甲冑をつけて地天(女性神)の上に立っています。その作風は腰太で、あたりを圧する威風を備えており、平安時代後期の制作と考えられています。川崎市教育委員会は、この仏像を昭和49219日、川崎市重要歴史記念物に指定しました。(川崎市教育委員会)

d0183387_13541642.jpg境内にある
蚕影山跡碑
昔はここに祠堂が建っていたんですね~。

蚕影山祠堂(こかげさんしどう)
この建物は川崎市麻生区の東光院境内にあったもので、養蚕の神「蚕影山大権現(こかげさんだいごんげん)」を祭った宮殿(くうでん)と、その覆堂(さやどう)から成っています。覆堂の茅葺屋根は、頂上を土と草で固める芝棟(しばむね)で、春にはイチハツが咲き誇ります。宮殿は正面に唐破風を設けた春日造風の社で、浮き彫りの彫刻を施しているのが特徴です。中でも注目に値するのは、金色姫(こんじきひめ)伝説を表現した側面の彫刻です。金色姫は天竺(てんじく、現在のインド)に生まれ、四度の大苦難ののち、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)の化身として日本に養蚕を伝えたといいます。この彫刻は養蚕の起源を説くもので、四度の大苦難は蚕の四回の休眠(食事をせず動かなくなる脱皮前の時期)を象徴しています。(川崎市立日本文化園)


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鎌倉街道・早の道だそうです。緩やかな勾配でいい道ですね/麻生区岡上

鎌倉街道・早の道
岡上には鎌倉街道“早の道”と呼ぶ道が通っていたといわれます。早の道とは近道という意味で、この道の場合は鎌倉街道“中の道”の青砥(現横浜市緑区中山)から青葉区の奈良、岡上、そして町田市の広袴、真光寺、黒川を経て現多摩市の蓮光寺、関戸に通じる“上の道”の貝取を結ぶ中間道で、その道筋には様々な伝承、逸話が残されています。岡上の東光院は平安時代創建の古刹ですが、その山門と本堂は寺院としては珍しい東向きです。これには寺の東を通る鎌倉道に向け再建したので東向(光)院としたとの逸話があり、今でも古道の面影が残るところがあります。古老の話ではこのあたりを”ヘイミチバ”と呼んだそうで、それは”ハヤノミチ”の詰まった言葉といわれています。(タウンニュース麻生区版「麻生の歴史を探る」)



・・・三輪町

沢谷戸自然公園の裏あたりにはかつて沢山城という城があったと伝わる。三輪城ともいう。北条氏照が豊臣秀吉の小田原征伐に備え、沢山城の兵糧米を小田原に移送するよう指示したという書簡が残っている。江戸時代より上三輪、下三輪の2つの集落が存在した。椙山神社の笠をかぶせたような形が奈良県の三輪山に似ているから、という説がある。(Wikipedia


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三輪熊野神社/町田市三輪

元慶元年(877)大和の国城上郡三輪の里よりの勧請との伝承がある。明和4年(176711月別当高蔵寺法印亮恰により社殿造営され、鎮守の神、そして氏子の崇敬の的となり、嘉永7年(18508月石像の三尊仏を造立して再建を図る。その後昭和4年大きく増改築が施され、現社殿は昭和489月氏子の総意により造営される。(境内板)

d0183387_13120780.jpg熊野神社本殿(町田市指定有形文化財)

当、熊野神社覆屋の内にあり、桁行二尺七寸五分(91cm)、梁行二尺四寸五分(81cm)向拝の出二尺六分(68cm)の流見世棚造りの社殿で正面に三級の階をつけている。屋根は板葺で、葺替えにより一部変形している。正面に千鳥破風をつけ縁は前面のみである。縁長押、内法長押、頭貫で身舎を固め、大斗上に実肘木を組み桁を受けている。向拝はエビ虹梁でつなぎ、向拝柱上は実肘木付三斗を組み、中備は蟇股とする。享保7年(1723528日の棟札及び本殿内の幣の台裏銘明和4年(1767)があるが、絵様・刳型及び細部の造りから考え17世紀末から18世紀頃の特徴を示しているものと思われる。(町田市教育委員会)

d0183387_13140392.jpgご神木のアカガシ
樹高15m、幹周り5.2m。参道に大木がありましたが、相次ぐ台風と落雷により今は根株を残すのみとなり、樹齢300余年のご神木であるアカガシ一樹が聖域を守っています。(案内板)


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この先左手の七面山が沢山城址(たくさんじょう)です/熊野神社


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七面山の南側の尾根に沿って造られています/沢谷戸自然公園

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芝生広場               調整池


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鶴見川の風景② 城址には寄りませんでしたが左が七面山です/子の神橋先


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岡上営農団地付近マップ
(赤:歩行ルート 青:鶴見川・麻生川 橙:津久井道 紫:鶴川駅)

源流の泉~鶴川まではこちらへ(http://teione.exblog.jp/20626978/


by Twalking | 2016-05-14 20:19 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 野川&国分寺崖線をゆく06 二子玉川   

日時 2016.4.26(火)
天気 晴れ

野川はよく自転車で走りましたが、これは新野川なんですね。
ということで今回は旧野川と六郷用水の跡を追ってみました。
緑も多くきれいに整備された緑道は気持ちよく歩けます。

一応、通しで野川を歩きましたが、その良さが分かります。
国分寺崖線の湧水や雑木林、よく整備された緑道、そして
関連する歴史など非常に味わいがあり、面白かったです。
手頃なコースなので、季節を変えてまた歩きたいですね~!


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野川の風景① 左は成城、右は喜多見ですが、Uターンして旧野川跡へ/谷戸橋



・・・旧野川の川筋を訪ねて(野川緑地公園/狛江市)

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野川緑地公園の入口です/小金橋

野川緑地公園
旧野川の川筋に造られた公園で、西野川1丁目の調布市境から岩戸北1丁目の小田急線線路付近まで約2.2kmにわたって市北部を縦断しています。約4500本の樹木や草花を植えた花壇が整備されており、サクラ、ツツジ、キンモクセイなど多種多様な植物が色とりどりの風景や雰囲気を作り出し、目を楽しませてくれます。また、散歩道や憩いの場、子どもの遊び場として広く親しまれています。(狛江市)

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旧野川の風景① 木陰が多くて歩き易いですね/東野川


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周りは畑です             大橋跡


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旧野川の風景② 緑のトンネル、あれ、紅葉してますね~/西野川


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御台橋
/西野川2丁目

江戸時代の寛政年間(17891801)の史料に「五大橋」という名称が見られ、この頃には「五大橋」が架かっていたことが確認できます。また、明治時代初めの史料から、当時は長さ約3.6m、幅約1.5mの石造の橋だったことがわかります。「御台橋」という字をあてるようになったのは、昭和36年(1961)の架け替えの時のようです。現在、緑道内には最後に架けられていた橋の親柱がモニュメントとして残されています。(狛江市)

d0183387_09420796.jpg残ったおじいちゃんの榎

旧野川跡地は野川緑道公園として昭和52年に開園しました。今は緑道として散歩道やジョキングコースとして市民に親しまれています。ここは旧野川付近に辺り、個人の所有地でしたが相続の際、故人が生前に大切にしていたことから狛江市に寄付され現在に至ったものです。「狛江のまち-魅力百選」に選定されています。(案内板)

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旧野川の風景③ 緑地公園の入口、小田急線がみえてきます/和泉本町

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野川緑地公園周辺マップ
(緑:野川緑地公園 黄:六郷用水跡 紫:世田谷通り)



・・・六郷用水跡①(世田谷通り

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旧野川は六郷用水に取り込まれ喜多見方向へ流れていたようです/新二の橋(世田谷通り)


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一の橋                二の橋


・・・六郷用水跡②(滝下橋緑道・世田谷区喜多見)

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300m程ですが用水の跡です/滝下橋緑道

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緑道入口                案内板


d0183387_10111340.jpg次大夫堀(六郷用水)の由来
慶長2年(1597)から15年もの歳月をかけて慶長16年(1611)に完成した次大夫堀は、多摩川の水を和泉村(現狛江市)で取り、野川・仙川などの小河川と合流し多摩川沿いの武蔵国荏原郡世田谷領14ヶ村(和泉・猪方・岩戸・喜多見・大蔵・鎌田・岡本・瀬田・上野毛・下野毛・等々力・小山・上沼部・下沼部)を通り、下流の六郷領(現大田区)に注いでいました。次大夫堀は江戸時代の初め江戸奉行・小泉次大夫吉次の指揮・監督によって開削された世田谷地方における最初の農業用灌漑用水路です。主に六郷35ヶ村の水田開発を目的とした水利事業「六郷用水」と命名されましたが、婦女子の労働力に頼っていたといわれる工事のため俗に「女堀」とも呼ばれていました。一方世田谷地方の人たちは、小泉次大夫の功績を称え六郷用水とは呼ばずに独自に「次大夫堀」と呼んでいました。全長23km、川崎側の二ヶ領用水との童子平行工事のため、長期にわたる難工事となり沿岸農民の扶養も相当過重だったようです。しかし、世田谷領、六郷領併せて49ヶ村は神殿の造成等により大幅に村高が増加し大きな恩恵を受けました。このような由緒ある歴史を持ち、玉川八景などにも謳われた美しい環境の中に流れていた次大夫堀も、戦後の急激な都市化によってその役割を終え、一部が「丸子川」と改称されて僅かに往時の面影を残すのみです。(世田谷区教育委員会)


・・・六郷用水跡③ 次大夫堀公園(世田谷区喜多見)

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水田に鯉のぼりが泳いでいました/次大夫堀公園

次大夫堀公園
次大夫堀は江戸時代初期、小泉次大夫の指導で開作さた農業用水(六郷用水)の別名です。喜多見辺りでは半ば埋められごみ捨て場のようになっていましたが、野川から取水して昔ながらのきれいな流水を復元しました。その水路に沿って、当時の古民家や水田(14002)を配置しています。水路や池にはコイ・メダカ・アメンボもたくさん生息しています。民家園では名主屋敷(主屋1棟・土蔵1棟)民家2棟、表門、消防小屋などを復元し、公園内の次大夫堀や水田とあわせて江戸時代後期から明治時代初期にかけての農村風景を再現しています。農村で行われる行事なども行っており、昔ながらの生活や風習を体験することができます。園内の水田では毎年稲作が行われ、近所の保育園や小学生達による田植えや稲刈りがJA東京中央の協力のもと行われています。自然体験園では農作業体験等を通じて土とふれあい、都市農業に関心をもってもらうため講習会が開かれています。(案内板)

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先月は桜、これからは新緑ですね、竹の子が伸びてました。

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喜多見4・5丁目農の風景育成地区マップ
(赤:歩行ルート 青:野川・清水川 紫:登戸道 橙:筏道)

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・・・野川緑道を二子玉川へ

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野川の風景② 左岸には国分寺崖線・成城3丁目緑地が見えます/雁追橋(喜多見)

成城4丁目・3丁目緑地の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22946812/


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野川の風景③ 振り返ってみる東名高速の景色/荒井橋(多磨堤通り)


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野川の風景④ 二子玉川が見えてきました。先は天神森橋です/町田橋(宇名根)


d0183387_12565426.jpg天神森橋の由来
この野川は国分寺の恋ヶ窪の湧水を源流とし、国分寺崖線に沿って二子玉川の多摩川に注ぐ全長約22kmの川である。当初の橋は昭和363月に完成し、その頃の鎌田周辺は水田や畑に恵まれ西側には宇奈根川、東側の堀川には洗い場や水車小屋などがあった。近くの鎌田天神にはスギ、ケヤキなどの木立がで囲われた森となっていたので、この橋の名前を「天神森橋」と名付けられた。(案内板)


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野川の風景⑤ 左から仙川が合流します/鎌田橋(多摩堤通り)


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野川と野川水道橋の由来
野川は国分市東恋ヶ窪に源を発し国分寺崖線に沿って幾多の湧水を取り込み小金井、三鷹、調布、狛江を経て世田谷区に入り、二子玉川付近で多摩川に合流する全長約20km、流域面積約70万km2に及ぶ一級河川です。かつては現野川より西側を流れ、宇奈根2丁目あたりで多摩川に合流していたようですが、約400年前に開削された「次代夫堀」による水田開発やその後の大規模自炊事業により現在の位置に姿を大きく変えました。また、都区内の河川としては自然環境も多く残されコイやギンブナなどの魚類、カワセミやマガモなどの鳥類が生息し、地域住民をはじめ多くの方々の潤いの場となっています。

d0183387_22103617.jpg「野川水道橋」の由来は、大正12年当時渋谷町・町営水道が砧下浄水場を造り、多摩川より取水した水を渋谷方面に給水したことから始まります。水を送るための水道本管は初め野川の水底に埋設されていましたが、昭和35年に野川が改修された際水道本管が一旦地上に出て川の上を通ることになり、鉄管を支える目的で「野川水道橋」が架けられ、平成18年までの46年間、「水道管のある歩道橋」として地域の方々に親しまれ生活を支えてきました。兵営18年の野川改修工事で再び川底を通るようになりましたが、「野川水道橋」の46年間の歴史を残しておくために、新しい橋も「小川水道橋」とすることになりました。(案内板 写真:駒沢給水塔・世田谷区地域資産)



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玉電と吉沢橋/鎌田
この橋は関東大震災直後1924年(大正13年)に架け替えられました。玉電砧線の開通に合わせて架けられた鉄道橋でした。砧線は現在の二子玉川駅と砧本村を結ぶ約2.2kmの路面電車で、人の通勤、通学手段としてだけではなく、関東大震災復興のため多摩川の砂利を都心方面へ運搬するため大きな貢献をしました。しかし、その後車社会の到来とともに路面電車は姿を消すことになり、1969(昭和44)年玉電は世田谷線を除き全線廃止となりました。廃止後は道路橋として世田谷区に移管され今日に至っています。この度、野川の河川改修に合わせて上流の吉澤橋と新吉澤橋を統合し、新しい吉澤橋に架け替えになりました。(案内板)


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野川の風景⑥この堤防、綺麗になりましたね/吉沢橋先


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野川の風景⑦ 二子橋&田園都市線を潜って多摩川へ/兵庫島公園


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野川の風景⑧ いい眺めはいいですね~、この先で合流します/旧二子の渡し

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・・・・・・・
資料ファイル

【野川の流路変更】
六郷用水開削による流路変更
かつての野川は、小金橋あたりから野川緑地公園に近い流路で現在の狛江市中心部を流れ、そのまま南流し岩戸川(現在の岩戸川緑地公園)及び町田川に接続し、宇奈根付近で多摩川に注いでいた。慶長2年(1597)から15年かけて六郷用水(次大夫堀)が開削され、これに伴い世田谷通りの新一の橋付近で六郷領用水と合流し流れを東に変え、世田谷通りと滝下橋緑道を流れ入間川と合流するようになった。次太夫堀公園を流れた後用水から分流し現在の野川下流に近い流路を通っていた。

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野川の流路改修(地図は大正6年)/調布市郷土博物館
(青:現野川 青点線:旧野川・入間川・六郷用水 橙:甲州街道・世田谷通り)

昭和の流路変更
昭和42年(1967)になって六郷用水も川の流路を失わない、範囲で大部分が埋められ(一部が野川緑地公園と滝下橋緑道に整備)、野川の流路をに寄らせる改修が行われた。野川は狛江市街に入らずに調布市と狛江市の市境付近に新たに開削された。それより下流の野川も入間川との合流点を作り、さらに少し下流のきたみふれあい広場(小田急喜多見車両基地)付近では旧入間川より数百メートルほど東に野川が開削され(西側の従前の入間川は埋められた。狛江ハイタウン前からきたみふれあい広場までは道路及び遊歩道になっている)、さらに下流でも次大夫堀開削以前の入間川に近い流路がとられた。また、この開削した川も全区間野川と称した。Wikipedia)

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野川と野川水道橋
(紺:旧野川 青:現野川 赤:六郷用水 薄青:仙川・谷戸川 緑:世田谷通り・玉川通り 黄:品川道・登戸道 茶:水道道路)


by Twalking | 2016-04-29 19:32 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 野川&国分寺崖線をゆく05 若葉町   

日時 2016.4.26(火)
天気 晴れ

夏日ですね、日差しが強いけど、いい風吹いてます。
今回は若葉町のハケと新・旧の野川を訪ねましたが、
ハケ&野川公園緑地は緑一杯、気持ちよく歩けました。

実篤公園&若葉町の斜面に残された雑木林、
都会とは思えない、野趣で濃い緑に包まれています。
これは、貴重な自然資産、すばらしいと思います。
ありがとう~!楽しませていただきました。


・・・柴崎(調布市)

の名の由来としては武蔵野特有の柴山から起こったとか、牛馬の放牧地を指した言葉あるいは突端(崎)の船着き場(チバ)という意味のアイヌ語がなまったものなどといわれますが、この他、江戸氏の一族である柴崎氏が居住したことにちなむとする説もあります
。(「調布の地名」/調布市郷土博物館解説シート)

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野川の風景① いつも電車から見える景色、今日は逆からです/車橋(菊野台)

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野川の風景② 入間川(分水路)が左岸から合流します/小金橋(神代団地)


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常楽院/西つつじヶ丘

ここに、もと福僧山延命院蓮蔵寺があり江戸後期の地誌『新編武蔵風土記稿』に深大寺の末寺として載っています。のちに廃寺となり、字名として蓮蔵寺村の名が残りました。道路の南にある墓地には慈覚大師(円仁)廟があり、大師一千一百年遠忌記念の宝塔です。その横の大きな庚申塔(元禄4)や地蔵尊(安永8)筆子中塔(天保10)に蓮蔵寺村銘があります。関東大震災で焼失した上野広小路の六阿弥陀第5番の寺が、昭和8年に当地に移転してきました。これが現在の常楽院です。(調布市)

d0183387_16091298.jpg思い出のアルバム歌碑
当山第52世本多慈祐(鉄麿)は作曲家として讃仏歌、仏教保育関係の歌、各地の幼稚園、保育園、学校等の園歌校歌を数多く作曲した。現在、仏教系に限らず全国の幼稚園、保育園で卒園歌のように歌われている「思い出のアバム」(増子トシ作詩、本多鉄麿作曲)の歌碑が常楽院境内に建てられている。これは戦後、慈祐住職が地域の青少年文化活動として俳句会、読書会、合唱団等を組織し又、神代幼稚園を創設しその中で育てられた有志の方々により平成8年に慈祐没後30年を記念して建てられたものである。(常楽院)


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金子稲荷/西つつじが丘
旧金子村蓮蔵寺にある稲荷社で、創建の由緒は不詳ですが江戸後期の地誌に「社地除一畝(100平方メートル)村の東南蓮蔵寺の辺ニ小社アリ」とあります。境内の明治41年の「稲荷神社再建碑」の裏面の碑記によると、明治434月に村社の厳島神社に合祀したことを記しています。この碑は神社跡を後の人々に伝えるため氏子中が建てた記念碑です。その後、地元の人々の強い要望により昭和11年に再び稲荷神社が戻り再建されました。(調布市)


・・・
雑木林の道 調布若葉町コース

仙川(せんがわ)
三鷹市新川の勝淵神社近くの湧水地から流れる仙川の名をとって地名としています。湧水源のことを俗に「釜」といいますが、たくさんの釜(千釜)があるというところから、これがなまって仙川となったといいます。またそのあたりにかって住んでいたといわれる仙人にちなむとする俗説もあります
。(「調布の地名」/調布市郷土博物館解説シート)

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ハケの道/実篤公園下

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神明坂             坂上の滝坂皇大神宮/若葉町


調布八景・実篤公園と記念館
白樺派の作家、また野菜などの絵で知られる武者小路実篤が晩年の20年を過ごした地が公園となり1500坪の敷地の中に、武蔵野の面影を残しています。実篤公園に隣接して直筆原稿や書画、愛蔵美術品などを展示する記念館があります。晩年をすごした書斎が保存されており、月ごとに展示替えも行われています。(調布市)

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実篤公園入口


d0183387_17353234.jpg実篤公園と記念館/若葉町
武者小路実篤記念館/若葉町 水のある所に住みたいという願いを子供の頃から持ち続けた武者小路実篤は、昭和30年の暮れにその念願がかなって、武蔵野の自然と豊富な清水をたたえたここ仙川の地を仕事場兼自己完成の場として選びました。「僕は朝は原稿を書き、原稿を書かない時は画をかくことを心がけ、少しでも進歩出来れば喜んでいる・・・」と「一人の男」の中に当時の生活を記している実篤は、昭和514月に90歳の生涯を閉じるまで、此の地で数多くの著作と書画の制作に励みました。晩年の20年間を過ごしたその旧宅跡は、故安子夫人の意志によって多くの遺品、所蔵品とともに遺族から調布市に寄贈されましたが、昭和535月から実篤がこよなく愛した自然をとどめる「実篤公園」として一般公開され今日に至っています。実篤公園とトンネルで結ばれる武者小路実篤記念館は、実篤の生涯と人間像をたどるため関係資料の展示、収集、保存等積極的に進めることを目的に、実篤生誕100年に当る昭和6010月に調布市が設置したものです。平成65月には閲覧室や収蔵庫などを持つ資料館が増設されました。(調布市)


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旧邸入口               庭側から 

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にじます池

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竹林と木道                ヒカリモ

光藻(ヒカリモ)

ヒカリモは豊かな湧き水やうっそうと茂った樹木がないと生息が難しく、都心に近い場所で発見されるのはきわめて珍しく、豊かな自然環境が残されている証拠です。(案内板)  

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下るともう一つ池があります

d0183387_16555431.jpg武者小路実篤記念館/若葉町

明治から昭和にかけて文学、美術、思想、演劇と幅広い分野で業績を残した武者小路実篤は、水のある所に住みたいという子どもの頃からの願いどおり、昭和3070歳の時に調布市仙川に移り住み、昭和51年に90歳で亡くなるまで20年間をこの地で過ごしました。死後、邸宅と数々の貴重な資料がご遺族より調布市へ寄贈され、これを受けて実篤の生涯と業績を紹介するために昭和60年に記念館を開館しました。邸宅を公開した実篤公園とは地下道で結ばれています。(調布市)


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街道風景 滝坂道/桐朋学園前(若葉町)

滝坂道・仙川付近の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22903611/


仙川の寺町

若葉町1丁目の都立神代高校の周辺に浄土真宗の6つのお寺があります。大正12年の関東大震災で罹災し、のちにいずれも都内中央区築地から当地に移ってきました。昭和2年には正善寺、明西寺続いて昭和3年には西照寺、光西寺、光徳寺が移り、昭和4年には安養寺が移り仙川の寺町が出現しました。その他に市内には、関東大震災後に都内から移ってきたお寺が7つあります。(調布市)


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西照寺                光西寺

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安養寺                光徳寺


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若葉町の斜面林
国分寺崖線に残る樹林で、実篤公園から連続して南へと延びています。この崖線の斜面は比較的緩く、宅地化が進んでいますが、このあたりはかなりの幅で残っています。(東京都環境局)

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d0183387_20101904.png若葉町3丁目第1緑地
本緑地の土地所有者のご厚意により平成133月にご寄附をいただきました。近年私たちが親しんできた樹林地が失われています。樹林地の多くが民有地であり、相続の発生などにより宅地化されています。市でも昭和62年に「調布市緑の保全基金」を設け、緑地を保全し緑を守ることに努めてきました。この基金は市民の方々の寄付金も寄せられています。みんなで寄付された方々のご意思を引き継ぎ自然を守り、緑を大切にしていきましょう。(調布市環境部)


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d0183387_21182858.png若葉町3丁目第3緑地

3緑地がある斜面地は国分寺崖線の一部です。国分寺崖線とは多摩川が10万年以上かけて武蔵野台地を削り取って出来た段丘で、立川市から国分寺、調布市を経て世田谷区・大田区へと続く約30kmの崖の連なりとなっています。調布市にあるこの崖線は野川と入間川に沿って約5.7km続き、高さ約1020mの斜面となっています。緑の帯が連なり樹林や湧水など自然環境に恵まれた崖線は調布市の貴重な自然資産です。(調布市環境部)

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国分寺崖線について(黄:若葉町3丁目緑地 青:野川・仙川)


・・・入間(いりま)

武蔵野歴史地理によると本来、渓谷の入り込んだ場所を指すといいます
。(「調布の地名」/調布市郷土博物館解説シート)

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ハケ下の道/入間町


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調布八景・糟嶺神社と明照院/入間町

入間町にある陵山(みささぎやま)と呼ばれる小高い丘の石段を登ると、この丘を二分するように糟嶺神社と明照院が建っています。糟嶺神社は糟嶺大神を祀るかつての村社であり、鳥居近くにそびえるクロマツの古木は推定樹齢500年前後と考えられています。(調布市)

d0183387_22565772.jpg糟嶺神社/入間町

旧入間村(いりまむら)の鎮守社で、陵山(みささぎやま)と呼ばれ、高さ22尺、周り76間余の墳丘上に糟嶺大神(かすみねのおおかみ)を祀った神社です。昔は墳丘の下に社殿があり、宝暦8(1758)に移りました。御神体は衣冠を付けた男神像で、像内の墨書銘札から宝永元年(1704)に造られ、文久元年(1861)に修理されたことがわかります。社殿は関東大震災で倒壊し、大正14年に改築されました。末社は二つの稲荷社と天満天神社の3社を祀ります。社前に大国魂神社宮司の猿渡盛厚撰「糟嶺神社の碑」がたち、神社の由来を記します。本堂左手高台に位置する糟嶺神社は農業の神糟嶺大神を祀るかつての村社であり、社殿は多摩郡の墳陵のひとつといわれる高さ3.81m、根廻り127m墳陵の上に建っています。境内約352は解放され、社屋の一部は集会所として利用されています。社前の鳥居近くにそびえるクロマツの古木は推定樹齢500年前後と考えられています。(調布市)

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明照院/入間町
陵山(みささぎやま)の丘を二分して老樹に囲まれた高所に糟嶺神社、低所に明照院があります。開山は法印秀海(16世紀中頃)。第8世盛珊の代に深大寺末となり、第9世義円が享保3年(1718)に本堂を改築。昭和10年に改修しました。観音堂は安永年間(177280)に補修。堂内の弁財天は第6世・良慶法印が近江の国竹生島弁財天の分影を勧請し境外の弁天山宇賀神堂に祀っていましたが、明治17年堂内に移しました。近年閻魔堂が新築され、境内には江戸時代の六地蔵、巡拝塔、石坂供養塔などがあります。(調布市)

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観音堂                えんま堂

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野川の風景③ この先で入間川が合流します、前方は成城4丁目緑地です/小足立橋(狛江市)

成城4丁目・3丁目緑地の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22946812/


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調布ふるさとの散歩・寺町と文学の道マップ
(赤:コース 橙:歩行ルート 青:入間川 紫:瀧坂道・甲州街道)


・・・・・・
資料ファイル

入間川

主に調布市を流れる多摩川水系野川支流の一級河川。上流は大部分が暗渠である。三鷹市内では「中仙川」と呼ばれ、暗渠の上に「中仙川遊歩道」が整備されている。下流の開渠部分もとても細く住宅街の中を流れている。概ね南へ流れ調布市入間町と狛江市との境界で野川に合流するする。

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京王線築堤付近の入間川/調布市東つつじが丘

六郷用水(次太夫堀)の開削等
江戸時代の六郷用水(俗称:次太夫堀/多摩川を水源としていた用水路)の開削以前は、野川が現在より西の狛江市中心部を流れていて、当時現在の野川との合流点より下流の入間川は現在の野川の流路とほぼ同じ流路をとって、現在の世田谷区玉川付近で直接多摩川に合流していたと考えられる。しかし六郷用水の開削により、野川や入間川の水はほぼ全てが用水に取り入れられるようになった。しかも、旧入間川の流路の内、世田谷区喜多見付近はほとんどの区間が用水の水路に転用されたと考えられている。そして、現在の世田谷区大蔵付近で用水の水を旧入間川下流に一部放流し、その放水路(現在の世田谷区大蔵付近〜同区玉川付近)その部分をも野川と称した。

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糟嶺神社からみる入間川/入間町


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分水路の合流地/小金橋        入間町付近

昭和(1967年)の河川改修
昭和になって六郷用水も川の流路を失わない範囲で大部分が埋められ、野川の流路を東に寄らせる改修が行われた。野川は狛江市街に入らずに調布市と狛江市の市境付近に新たに開削された。それより下流の野川も、入間川との合流点をつくり、さらに下流の現在の小田急電鉄喜多見車両基地付近では、旧入間川より数百メートル程東に野川が開削され、さらに下流でも次太夫堀開削以前の入間川に近い流路がとられた。しかし、この開削した川も全区間野川と称したため、現在では「入間川」とは野川支流の短い極小河川のみを指す名となってしまった。Wikipedia

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現野川との合流地/小足立橋先(狛江・調布境)


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旧入間川の流路跡/狛江ハイタウン(狛江市東野川)


by Twalking | 2016-04-28 10:19 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 野川&国分寺崖線をゆく04 佐須   

日時 2016.4.20(水)
天気 晴れ

午後から調布で集まりがありましたので、
その前に前回寄れなかった佐須界隈を訪ねました。

瀧坂道の終点は甲州街道の瀧坂ですが、それ以前は
国分寺崖線を北に進み人見街道から府中へだったようです。
佐須の虎狛神社祇園寺、狛江入道館跡など見どころ一杯、
ハケ下の深大寺自然広場もいいですよ~。。。


・・・調布


万葉集(巻143373・武蔵国歌)に「多摩川にさらす手(た)づくりさらさらに 何ぞこの児のここだ愛(かな)しき」と布を晒(さら)すかわいい乙女に恋焦がれる様子をうたった詩があります。多摩川に近いこの地域では、古代にその土地の生産物を納める税(調=「みつき」ともいう、調とは税金のこと)として、布を晒(さら)して朝廷に納めたと考えられ、これが調布の名の由来とされています。「たづくり会館」はこの詩から取ったものです。「たづくり」とは手作りのことです。(「調布の地名」/調布市郷土博物館解説シート)

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布田天神へ続く参道、ここは楽しいですね/天神通り商店街



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常行院大正寺/調布ヶ丘
開山は奈良時代と言われている。古くは上布田宿境にあった三栄山不動院寿福寺、下布田の紫雲山寶性寺、上布田の広福山常行院栄法寺の三寺を大正4年に合併し、開山時の年号に因み、三栄山常行院大正寺として創設された。栄法寺は、明治初年神仏分離のときまで布田天神の別当であった。本堂は(旧)山門とともに栄法寺より移築せるものにして文政10年の建築である。(調布七福神)

d0183387_12590484.jpg布田郷学校跡
郷学校とは、江戸時代中期ごろから明治時代前期にかけての教育機関のことで、寺子屋や私塾より公共性が高く、近郷でも数校を数えるにすぎない特色ある教育施設であった。布田郷学校はそのなかの一つで、上布田の住人原豊穣の設立した育英学校を、明治4年(1871)栄法寺を校舎として開設された。栄法寺は大正4年、町内の他2ヶ寺と合併して現在の大正寺と改名されたが、山門、本堂は寺域の北にあった栄法寺のものを今の位置に移築したものである。布田郷学校は、発足するにあたり原豊穣等五宿の有力者たちが中心となって、近郷の村々の協力を得て開校したものであるが、この郷学校は養豚所を経営することによって得た収益を学校の運営費にあて、授業料を一切とらなかったという特色のある学校であった。養豚所の経営不振から明治7年閉鎖し、公立布田学校(現在の第一小学校の前身)となるまで、公立学校に代わる重要な役割を果たしてきた。(調布市教育委員会)


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d0183387_13100095.jpg布多天神社/調布ヶ丘

当神社は延喜式神明帳「第60代醍醐天皇の延長5年(927)につくられた書物」にも記されている。多摩郡でも有数の古社である。もと多摩川畔の布天神というところにあったが、文明(1469-87)年間多摩川の洪水を避けて現在地に遷座された。そのとき祭神少彦名命に菅原道真公を配祀したと伝えている。また往古、広福長者という人が当社に77日参詣して神のお告げをうけ、布を多摩川にさらし調えて朝廷に献った。これが本朝における木綿の初めという。帝この布を調布と名づけられ以来、この辺りを調布の里とよぶようになったといわれる。ちなみに本殿宝永3年(1706)、覆殿昭和40年、幣殿拝殿向拝は昭和60年の造営にかかる。(社殿約170m方米)725五日の例祭日には奉納神楽があり境内は市がたち参拝者で賑わう。末社に大鳥神社、金刀比羅神社、祓戸神社、御嶽神社、厳島神社、稲荷神社、疱瘡神社がある。(説明板)

d0183387_13100566.jpg布田天神社本殿一棟、附棟札一枚

本殿は覆屋内にあり、外から見ることはできないが一間社流造で桁行一間、梁間一間の身舎の前に向拝の付く小社である。向碑の柱頭に象鼻や獅子頭を飾る。軒は二軒、本繁垂木。屋根はこけら葺きである。当本殿は、小社ながら装飾等に江戸時代中期の特色が見られ、社蔵する宝永3年(1706)の棟札から建立年代が明らかであることも貴重である。(調布市教育委員会)

太閤の制札

布田天神社所蔵の制札は、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻略したおり、当地方の人心を安堵させるため天正18年(15904月、郷中に下したものである。近世以前には布田の地名を補陀と書いたことなどがわかり、本市域における近世以前の唯一の制札として貴重な資料である。大きさは縦39cm、横68cm、厚さ1.5cm材質はけやきである。禁制 武蔵国多東郡補陀郷 1.軍勢甲乙人等濫妨狼藉之事 1.放火之事1.対地下人百姓非分之儀申懸事  右、条々堅令停止乞若於違犯輩者速可被処厳科者也天正184月日 御朱印(調布市教育委員会)


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いい道ですね~/電通大裏        桜並木/調布ヶ丘


大寒桜/調布ヶ丘3
昭和37年、(株)ハリウッド化粧品が工場を設立する際に植えられたもので、市保存樹に指定されてます。(調布市観光マップ)


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野川の風景① 上流側に中央高速が走ります/又住橋(深大寺元町)



・・・佐須(さず)

この地名の起こりについては、佐須村の名主・温井三郎左衛門の先祖で、鎮守、虎狛神社の謝辞であった佐須豊後の姓にちなんだという説、また佐須は滞水地域の中の砂州であるといったり、枝から新しい芽が出るのをサスということから親村に対する分村の意味だという説、さらに、佐須は焼畑を意味する言葉だとする説などがあります。この辺りを柏の里というのは、深大寺縁起に柏江という所が出てくることから来ていますが、柏は狛の誤りで古(いにしえ)の狛江郷のことであろうともいわれています。(「調布の地名」/調布市郷土博物館解説シート)

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虎狛神社/佐須町

虎狛神社は、今から1425年前の崇峻天皇2年(589年)8月に創建され、農業の神様である大歳御祖神(オオトシミオヤノカミ)がお祀りされて祭事が始まったと伝えられています。爾来、地元住民に崇敬され、地域の団結と発展、心の拠り所として佐須の中心となっております。後に穀物の神様である倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)も合祀され、江戸末までは虎狛山祇園寺の別当が神事を司っておりました。尚地域内には祇園寺東に位置し、天照皇大神をお祀りする「神明宮」、晃華学園南西角には「里の稲荷」別名「樫ノ木稲荷」があり、これらも神社の氏子によって守られてきました。建長5年(927)の『延喜式神名帳』には武蔵国の式内社44座、多摩郡8座の一つとしての記録があります。現在の社殿は天和3年(1683)に再建され、調布・狛江両市にあって最も古い建造物です。このため平成24年には社殿並びにその小屋裏に残されていた三枚の棟札が調布市文化財の指定を受けました。(説明板)

d0183387_14241817.jpg虎狛神社本殿附棟札三枚(市指定有形文化財)

拝殿の奥に位置する本殿は、天和3年(1683)に建立されたもので、市内では深大寺の深沙大王堂内宮殿に次いで古い建造物です。建築形式は一間社流造りの見世棚造りと呼ばれるもので、正面と側面に疑宝珠高欄付の切目縁をめぐらせ、向拝には五段の木階と浜縁が設けられています。屋根は銅板葺ですが、当初は茅葺であったことが棟札から明らかになりました。江戸時代初期の建築技法をよくとどめた建造物で、極めて高度な技量がうかがえます。小屋裏に収蔵された棟札から、願主貫井三良右衛門、新右衛門、牛込の大工柏崎佐太郎などにより建立され、文化12年(1815)に地元の大工によって修復されたことが判り、地域の歴史を知るうえでも重要な建造物です。(調布市教育委員会)

d0183387_14302327.jpg虎狛神社の「狛江郷佐須邨虎狛神社の碑」

拝殿前に建つ「狛江郷佐須邨虎狛神社之碑」には当社の歴史が記されています。文政11年(1828)、佐須の名主・温井義邦が文章を、深大寺住職79世堯偏が筆をとり、氏子の人々が建てたものです。碑文は難解な漢文体ですが、古い神社であることを後世に伝えたいと記しています。碑裏には温井義邦と桑田重定の和歌が二首刻まれています。境内にはその他に日清戦争の「征清従軍碑」や「講社登山記念碑」(大正10年)があります。(調布市)



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街道風景① 佐須街道、崖線の下に農地が広がります/佐須信号辺り



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祇園寺縁起/佐須町
天平年間(西暦729749年)深大寺と同じ満功上人の創建であり、誕生の地であります。昔、この地に住んでいた郷長の右近の長者という豪族とその妻の虎女の間に、ひとりの美しい娘が産まれました。娘が年頃になったころ、福満童子という若者が現れ二人は相思相愛の仲になりました。しかし、両親はどこの馬の骨ともわからない若者と一緒にさせるわけにはいかないと、娘を池の中の小島に閉じ込めてしまいました。困った福満が水神・深沙大王(じんじゃだいおう)に祈ったところ、池から大きな霊亀が現れ、彼を背中に乗せて娘の住む小島へ渡してくれました。この奇跡に、両親はふたりの結婚を許しふたりは男の子を授かりました。この子は満功(まんく)と名付けられ、成長すると両親の教えにより深く仏教に帰依し唐に渡りました。そして法相の教えを学び、この地に戻りこの島のあとに祇園寺を建てたということです。(祇園寺HP)

d0183387_14495594.jpg本堂
昭和53年再建され、ご本尊の阿弥陀如来像は故澤田政廣先生が文化勲章授章の記念として制作・寄贈されたものです。また、調布七福神の一つ福禄寿が、幸福・金運・長寿の神として本堂に祀られ、正月7日間は健康・商売繁盛を願う人で大変賑わっています。


d0183387_14500017.jpg薬師堂
薬師堂は享保年間と推定される建造物でありましたが、損傷が激しく平成17年に再建されました。秘仏薬師三尊は行基菩薩の作一木三体の作で、下野日光社の薬師如来もその一体だと伝えられています。通称「佐須のお薬師さん」と親しまれ、眼病をはじめ諸病平癒に霊験あらたかであり、他にも厄除け、家内安全、縁結び等を願う人も多く訪れます。御前立ちの薬師三尊は、往生要集を記し日本浄土教の祖、恵心僧都の作と伝えられ、江戸から明治時代にかけて毎月12日の縁日には、生姜市で大変賑わったといいます。

d0183387_14500348.jpg閻魔堂
桃山時代の遺構を残す建造物でありましたが、平成22年に再建されました。中央坐像の閻魔大王は、新宿大宗寺と兄弟閻魔と伝えられ、両脇には十王が向き合った形で祀られています。


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江戸名所図会 
狛江入道の旧跡 祇園寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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佐須神明宮/佐須町

佐須神明宮は佐須街道沿いに位置する虎狛神社(佐須町1-14)とともに昔から農に携ってきた地域の人々の深い信仰を受けてきた神社です。虎狛神社は崇峻天皇2年(589年)に大歳御祖神(おおとしみおやのかみ)・農業の神様おして信仰されている)を祀り、以来佐須の鎮守として地域の安全、安心と団結や発展の中心的役割を果たしてきました。「延喜式神名帳」に武蔵国の式内44座、多摩郡八座の一つとして記されています。なお、佐須神明宮も虎狛神社と同様に明治の神仏分離令までは、隣接する祇園寺の別当が神事を司ってきましたが、それ以降も豊作を願う地域の鎮守の杜として地域の人々にとって欠かせない存在でした。(調布市環境部)


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農の風景① カニ山方向を望みます/佐須神明宮前


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野川の風景② 桜並木の下、気持いいですよ~/大橋・祇園通り(佐須町)



・・・ハケ上の風景

深大寺
湧水の豊富なこの地にまつられた水神、深沙大王(じんじゃだいおう)にちなむといわれる深大寺の寺名より起こり、戦国期には地名として出てきますが、寺名が地名となった時期ははっきりしていません。(「調布の地名」/調布市郷土博物館解説シート)


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指定日に一般公開されてます/都立農業高校神代農場正門

d0183387_16360523.jpg神代農場のあゆみ/深大寺南町
昭和23年(1948年)に青年学校射撃用地から、都立農業高等学校の付属農場として譲渡されたのが始まりです。このときの面積は54.470㎡ありました。その後、農場中央部と中央高速道路が横断することになり、その為、4708㎡を道路公団に、続いて24.928㎡を東京都建設局に譲渡したため現在の面積は24.834㎡になりました。昭和29年(1954年)には働く青少年のための農業自営者教育を目標に、農業科1学級が本校の分教場として設置されましたが、6年後には本校に吸収され分教場はなくなりました。その後はワサビやシイタケ、モチ米の栽培、ニジマスの養殖、落ち葉はき、雑木林や竹林の利用、山野草の観察など農場の自然環境を生かした生徒の実習地として、また、ホームルームやクラブ活動の合宿場として活用し現在に至っています。(都立農業高校HP)

d0183387_16405104.jpg都立農業高校神代農場は国分寺崖線から入り込んだ谷戸地形の最奥部にあたり、谷戸頭の形状となっている。農場には湧水を利用した水路や池が点在し、斜面には竹林を含む樹林地となっており、住宅地の中にあるにもかかわらず水と緑の豊富な谷の景観を保っています。(調布市環境基本計画)



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農の風景② 農場外周路を抜けると畑が広がります/深大寺南町


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裏がすぐ中央道です          中央道の橋を渡り自然園へ下ります

池ノ上神社/深大寺南町

絵堂(旧字名)の鎮守社で創建は不詳です。明治406月に里の稲荷社と池ノ上の稲荷社を合祀して、池ノ上神社となりました。祭神は池ノ上大神と倉稲魂命(うがのみたまのみこと)の二柱です。社前には大ケヤキ(幹囲3.3m余り)やヤブツバキの大木があります。中央高速道路が社地にかかり、多くの大木が姿を消しました。(調布市)



・・・ハケ下の風景

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深大寺自然広場
深大寺地区の、通称カニ山といわれている小高い山を含めて、都有地約3ヘクタールの土地を、調布市が借り受けてつくられた公園です。多摩地域に自生していた野草を中心とした野草園や、カタクリの自生地があり、武蔵野の面影を残しています。(東京都環境局)


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深大寺自然広場

もともと神代農場の谷戸地につながった谷戸底とその周辺の斜面林からなる地形でしたが、中央道建設と谷戸底の盛土化によって、現在は東部の斜面臨林と開けた平地及び南西部の谷戸の出口にあたる広場から構成された地形となっています。神代農場からの水路は一部暗渠化されているものの佐須地域を流れる用水に繋がっています。広場内の雑木林は通称カニ山とも呼ばれ、まとまった樹林が残り良好な状態で自然環境が保たれています。(調布市環境基本計画)

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用水路暗渠部             同開渠部/柏野小付近



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深大寺自然広場・野草園

緑豊かな深大寺地区の通称かに山を含めて、都有地32千㎡を東京都から借り受けています。 キャンプ場、休憩広場、ホタルの小川などをはじめ、失われつつある調布の自然を守るための野草園やカタクリの自生地があります。(調布市)

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深大寺自然広場園内マップ


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狛江入道の館跡と伝わりますが「里の稲荷」が建っていました/晃華学園

狛江入道の碑/晃華学園
佐須町のマリア修道院晃華学園の構内にある石碑です。鎌倉期の『吾妻鏡』に「狛江入道増西が、承元2年(1208)に50余人の悪党を率いて、武蔵国威光寺の寺領に乱入し苅田狼藉に及び訴えられた」記録があります。その狛江入道の館跡の伝承地とされ、江戸後期の『新編風土記稿』に狛江入道館跡の説ありとして、古舘の規模、堀を繞(めぐ)らした跡や櫓台跡などを記しています。大正10年ごろ別荘工事の折、入道穴と呼ぶ所から石敷上に遺骨が出土し里人が壺に収め、その上に石碑をたてたといいます。実際には、この骨は古墳時代末の横穴墓が工事の時に壊され人骨が出土したものと思われます。(調布市)

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ハケ下とハケ上の様子ですが、碑は構内にあるので確認できませんでした。

悪党

日本の歴史において中世に既存支配体系へ対抗した者・階層を指す。この場合の悪とは、剽悍(ひょうかん・すばしこく、しかも荒々しく強いこと)さや力強さを表す言葉。あるいは、「命令・規則に従わないもの」に対する価値評価を指す。Wikipedia


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野川の風景③ ベンチで一休みしたくなりますね~/細田橋付近


・・・国領(こくりょう)

古代から中世にかけての国衙領(律令制下の諸国の政庁)がこの地にあったことに由来するとされたり、周辺にトビタ給、アゲ給、給田(きゅうでん・世田谷区内)という地名が残っていることから、これらは中世の給分(鎌倉幕府や荘園領主が御家人や荘官に給与した土地、米、銭などをいう)と関係のある地名とする説があります。また地元ではコクリュウとよぶ人もいます。(「調布の地名」/調布市郷土博物館解説シート)

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街道風景② 甲州街道はこの先で左の旧道へ入ります/馬橋・調布警察前


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野川の風景④ 京王線を越えてハケ下を蛇行しながら狛江へ流れます/馬橋(国領町)


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「深大寺・自然と歴史コース」案内マップ
(赤:コース 橙:歩行ルート 紫:佐須街道・甲州街道・品川道 青:中央道 黄:調布・国領駅)

周辺には屋敷林や田園風景が広がり、今では残り少ない武蔵野の面影が偲ばれます。深大寺の門前では江戸時代からの名物「深大寺そば」を味わい、おみあげを探すのも楽しみです。(調布市観光マップ)

深大寺の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23058175/



・・・・・・・・・
資料ファイル

「品川道」を準備しようと思い、調布市の郷土博物館へ寄ってみました。
ここに「解説シート」というものが置いてありますが、調布市のことや
多摩川、野川、深大寺城などコンパクトに解説されている資料です。
これは初心の者には貴重ですね、有難く読ませて頂きます。

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調布市郷土博物館/調布市小島町
郷土博物館は、郷土の歴史や文化・自然に関するさまざまな資料、情報を展示や講演会・講座、月見だんご作り・深大寺赤駒作りなどの体験学習会を通して市民に提供しています。収蔵品は、市内の遺跡出土の土器や石器などの考古資料、江戸時代の村絵図や古文書、明治時代以降の教科書、古写真、太平洋戦争関係資料などの歴史資料、多摩川に生息する魚類のはく製など自然その他の資料、郷土ゆかりの美術資料があります。そのほか、調布の信仰行事、職人の手仕事を記録したビデオもご覧になることができます。(調布市)

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展示風景① 古代

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展示風景② 中世・近世

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展示風景③ 近藤勇生家(宮川家)復元模型
近藤勇は天保5年(1834)武州多摩郡上石原村、宮川久次郎三男として生まれた。幼名勝五郎といい、嘉永2年(1849)に天延理心流近藤周助の養子となり、江戸の試衛館に移った。15歳であった。生家宮川家は昭和18年調布飛行場の飛行機の離陸に危険との軍の命令により取り壊されました。現在は勇の産湯として使った井戸が残っている。昭和52年に「近藤勇生家跡」として調布史跡に指定された。(説明板)

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近藤勇像               調布市内の近藤勇関連地

「近藤勇生家跡」の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23052802/


屋外展示


d0183387_17140962.jpg享保12年銘庚申塔
この庚申塔の塔身の高さは130cm、幅は53cmで、市内の庚申塔では珍しい大型の石塔です。書面に邪気を踏みつけた六臂(ぴ・6本の腕)の青面金剛尊が、上部には日月と流雲、下部には鶏や三猿が浮き彫りにされています。碑銘には享保12年(1727)の造立年が、台座正面と左側面には旧金子村の庚申講14名の名前が刻まれています。甲州街道の拡幅などにより昭和7年と同37年の2度の移転を経て、甲州街道沿いの敷地(菊野台1-32-2)に置かれていましたが、平成26年土地の整理に伴い郷土博物館内に移転されました。(説明板)


d0183387_17141236.jpg庚申塔
庚申の晩に寝ると体から三尸の虫がめけ出して、その人の罪を天帝に告げに行くという道教の信仰に基づいた供養塔。この塔は青面金剛を主とし足元に二羽のニワトリと三猿を陽刻したものである。もと国領の小山稲荷境内に祀られていた。(説明板)


d0183387_17141484.jpg石橋元文4年銘

この石橋は深大寺東町6丁目24番地付近の大川(入間川)に架けられていました。その頃は川沿いの低地は一面水田でしたが、昭和30年代後半から急速に開発が進み瞬く間に住宅地に変貌し、大川すら現在の野ヶ谷通りになりました。橋を造る4本の角柱状の石材はほぼ同じ大きさで、石材は真鶴半島の安山岩です。向って右側の側面に「元文4年巳末11月吉日」と年号が刻まれています。この年号が石橋が架かられた年代を記すものかどうかの確証はありませんが、元文4年は深大寺東町56丁目付近が開発された時期に近く、村内の通行のために取り付けた可能性が考えられます。(説明板)




by Twalking | 2016-04-22 22:44 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 野川&国分寺崖線をゆく03 深大寺   

日時 2016.4.6(水)
天気 晴れ

深大寺は毎年、初詣でお参りする神社です。
いつもは車ですから境内周辺だけでしたので、
今回は周辺をじっくり歩いてみました。

青渭神社、深大寺城址は訪ねてみたかったところ、
武蔵野の面影が残るいい道がついていました。
野川の川辺と丘陵を組み合わせると面白いと思います。


・・・三鷹

武者小路実篤、三木露風、山本有三、太宰治など多くの作家たちが住んだ街として知られる。北東に位置する井の頭地区には井の頭恩賜公園および井の頭池があり、東南方向に流れる神田川は井の頭池を源流とする。武蔵野市との境界を東南方向に流れる玉川上水は、万介橋から井の頭公園を横切り、牟礼地区を流れる。大沢地区の南側には野川が流れ、流れの北側に国分寺崖線という河岸段丘が存在する。また、上連雀地区・下連雀地区から新川地区を横断する仙川がある。
三鷹の名は、かつて徳川将軍家および御三家が鷹狩を行った鷹場の村々が集まっていたことと、世田谷領・府中領・野方領にまたがっていたことに由来する(三領の鷹場)といわれている。旧三鷹村役場火災による資料焼失のため詳細は定かではない。Wikipedia


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野川の風景⑧ 水車の風景、和みます。近くの農家で本物を見れるそうです/飛橋


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出山横穴墓群第八号墓/大沢(ホタルの里)

三鷹市から国分寺の地域は東京都内でも横穴墓が数多く存在している地域です。三鷹市南西部には、国分寺市崖線およびその開折谷の一部に650基ほどの横穴墓が確認されています。本横穴墓群もこの6群中の一つで、野川左岸の浅い谷に面した国分寺崖線の西側斜面上部に占地しており、10基の横穴墓が確認されています。第八号墓は平成5年に三鷹市教育委員会によって確認調査が実施され、大型の石を入口部にアーチ状に積み上げるという特徴を持つ横穴墓であることが明らかにされました。第八号墓は、墓前域、石積み構造の羨門、羨道、前・後室の玄室からなります。玄室には礫が敷き詰められ4体の人骨が確認されました。7世紀中頃の須恵器の平瓶も出土しています。羨門部の大型の川原石をアーチ状に石積みした入口構造は珍しいもので、その中を川原石の礫で閉塞しています。玄室の残りも良く人骨も良好な遺存状態であったことなどから、保存して公開する施設となりました。(東京都文化財情報データベース)

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ハケの散歩みち-野川・深大寺コース(延長5.2km)

「雑木林」という言葉は、なんとなく心になごむ“ふるさと”につながるような味わいを持っています。国木田独歩があの「武蔵野」で賞楊した武蔵野の風景は、コナラやクヌギなどの樹種からなる雑木林や畑、水田、屋敷林が野の道や用水、崖線の緑によってつづられて構成された“農”の風景でした。しかし都市化の進展により、広く都民に親しまれてきたこのような景色は現在ではほんの一部の地域に残っているだけです。東京都では多摩東部地域に残る雑木林を保全し、この雑木林を中心として「雑木林の道」事業を進めています。「雑木林の道」は10コースで構成され、どのコースも半日あればゆっくり散策できる長さです。このコースは「野川・深大寺コース」で、野川の流れと深大寺周辺の崖線に残る雑木林を訪ね、古代多摩川によって形成された国分寺崖線に残る林で、ところどころに湧水があり、それと結びついた“農”の風景が今も見られます。(東京都環境局)
(青:野川 橙:人見街道 赤:深大寺・深大寺城)

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野川の風景⑨ 桜と菜の花の競演、華やかです/八幡橋手前


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古八幡社

祭神、応神天皇。祭礼日911日。創建年代は不詳であるが、現在の大沢八幡神社のもとになった地に、慶長3年(1598)長久寺境内に遷座後改めて奉祀したものと推測され、そこに現在の八幡神社に対して古八幡社と呼ばれるゆえんであろう。(三鷹市史)



・・・深大寺(調布市)

深大寺と神代植物公園(調布八景)
深大寺は天台宗の古刹です。江戸時代に書かれた縁起によると、天平5年(733年)に満功上人が開山したとなっています。神代植物公園は広さ47万平方メートル余りの中にバラやウメ、ツツジなどの花園と大温室や植物会館があり、植物は4,50010万株にのぼります。(調布市)

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深大寺
調布市深大寺元町五丁目にある天台宗別格本山の仏教寺院である。山号は浮岳山。日本三大だるま市の1つ「深大寺だるま市」で知られている。隣接する都立深大植物園は旧寺領であった。「深大寺」の名称は、仏法を求めて天竺(インド)を旅した中国僧玄奘三蔵を守護したとされる水神「深沙大王」(じんじゃだいおう)に由来していると伝えられている。天平5年(733)満功上人が法相宗の寺院として開創したと伝える。859年、天台宗に改宗する。1646年と1865年に火災に遭っており、堂宇の大半を失っている。現在の本堂は大正年間の再建である。本尊は本堂に安置の阿弥陀三尊像。東京都では浅草の浅草寺に次ぐ古刹である。Wikipedia


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元三大師堂

慈恵大師(元三大師)像を安置しているのがこの大師堂です。江戸時代の大師堂は本堂の西南(新しい手水屋の在る辺り)に東向きに建っていましたが、幕末の火災で類焼したので本堂西の崖地を削って造成した敷地に位置を移して再建されました。被災直後の慶応3年(1867)に本堂をさしおいて復興されたことは、厄除元三大師がいかに多くの信者を集めていたかを物語っています。大きさはもとのお堂と同じくらいで、正面柱間は三間、側面四面、周囲に縁をめぐらしています。内部はもとは奥一間が仏壇で、その中央に火災を免れた厨子に慈恵大師像が安置されていました。現在、天蓋風の荘厳があるところがもとの厨子のあった位置です。昭和49年の改造では、内部を広くするために仏壇を後退させ、厨子の部分は堂の背後に突出する建物として新築しましたが、厨子の正面は江戸時代のものをそのまま用いています。また平成元年までの数回の改造増築で、両側の政所、縁の張り出しが行われました。(深大寺HP)


d0183387_21595017.jpg深大寺山門
桁行3.55m 梁間2.32m 建物は一間薬医門、切妻造、茅葺である。主柱、控柱ともに丸柱、上下粽付、下に礎盤を履き、薬医門特有の前寄り屋根を構成する。この門は和様を主調とするが、禅宗様(唐様)を併用し、一部に大仏様(天竺様)も巧みに取り入れた意匠的にも優れた建物である。深大寺は、慶応元年(1865)の大火によって建物の大半を失った。この山門はその時の災禍を免れた建物の一つであって、寺で保管する元禄8(1695)の棟札によって建立年代が明らかである。(調布市教育委員会)


d0183387_21595862.jpg梵鐘(国宝)
永和2年(1376)山城守宗光なる人物が鋳造した旨の銘があり、都内では3番目に古い。総高125.5cm、口径68.8cm、銅製。ひび割れなどの影響から平成13815日に新しい梵鐘が新鋳され、現在は釈迦堂に保管されている。Wikipedia



d0183387_22110044.jpg深沙堂
恵みの水神として祀られる本尊、深沙大王像は当山開基満功上人の作で、縁結びの神としてもあがめられています。(案内板)






d0183387_22132931.jpg不動堂

明治17年再建の堂宇で、本尊の不動明王ならびに二童子像は幕末の深大寺炎上の際にその難を逃れ、以来深大寺の仮本堂に安置されていたことが深大寺所蔵の『不動堂再建願』なる文書の記載から判明しています。幕末の頃より不動堂には独自の信徒講中が組織されていたようで、堂宇の再建も信徒の力によるところが大きかったようです。不動堂境域には東京都の名湧水57選にも入る「不動の滝」など見どころも多く、毎月28日には深大寺僧侶によって不動護摩供が修されます。(深大寺HP)


d0183387_22134520.jpg開山堂
この開山堂は、昭和58年(1983)の深大寺開創1250年記念事業として新築され、遙か天平の開創に思いを馳せる奈良時代様式のお堂です。ご本尊は薬師瑠璃光如来。脇侍に弥勒簿菩薩と十一面観音を奉安し、深大寺を開いた満功上人像と、宗派を天台宗に改めた大楽大師恵亮和尚像をそれぞれお祀りしています。毎月15日の午前9時より開山忌法要が執行されます。 深大寺の隆盛に因んで出世開運のご利益があります。(案内板)

d0183387_22134951.jpg延命観音
格子奥の大石に延命観音の御影が彫られています。これは昭和41年、秋田県像潟港の工事に際し海底の大石を引き上げたところ、表面に延命観音が彫られていることが判明しました。これは第3代天台座主の慈覚大師円仁が自ら刻まれたと伝えられるもので、縁あって発見の翌年深大寺に寄進され、当地に奉安されることになりました。毎月18日午後1時から厳修される延命観音供は多くの参詣者で賑わいます。(説明板)

d0183387_22141191.jpg大黒天・恵比寿像

深沙堂参道に七福神の恵比寿尊と大黒天の、まさに丈六仏を思わす大石像があります。この尊像は当山篤信総代であった故御林清一氏の邸宅の入り口に祀られていたものですが、平成18年に縁あって当地に遷座されました。(深大寺HP)



d0183387_22212337.jpg金銅釈迦如来倚像
飛鳥・白鳳・天平の三期の中で白鳳の仏像文化は飛鳥期と共に重要視されており、飛鳥仏の神秘的ながらややかたい美しさに対し、白鳳仏は豊満で清楚な流動美をたたえています。当山奉安の尊像は白鳳期の代表作と称され、殊に関東に伝わった経緯は不明ながら天平5年の当山開創の頃の本尊仏と推定されています。(案内板)




d0183387_22240430.jpg深大寺元三大師参詣の道標
深大寺の元三大師堂(がんざんだいしどう)にお参りに来る人たちのために、道しるべとして、元禄161703)年に常花講の人たちが建てたものです。元三大師とは、天台座主の慈恵大師(じえだいし)のことで大師には悪魔調伏(じょうぶく)の力があると信じられていました。毎年33日・4日には、厄除け・諸願成就の護摩供養が行われています。この道標は、もとは仙川町2丁目の甲州街道沿いにありましたが、道路拡幅により、深大寺の境内に移されました。(調布市)

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深大寺門前の風景 左が鬼太郎茶屋になります

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江戸名所図会 深大寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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深大寺地区案内図



・・・青渭神社

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はけの道⑥ 左手に坂を上ると青渭神社になります/多聞院坂(右)

d0183387_10070830.jpg深大寺小学校発祥の地
深大寺小学校は明治5年の学制令に基づき、深大寺村戸長・富沢松之助と浅田種蔵など村内有志がはかり、深大寺の末寺であった多聞院の建物を借りて、明治6年(1873)に設立された。このあたりが多聞院のあった場所であり、深大寺小学校発祥の地である。この地つづきに建つのが現在の深大寺小学校である。開校当時は「弘道学舎」と称し、その後「階梯学舎」と改称され「深大寺小学校」という名に改められたのは明治8年のことである。開校当時の生徒数は男子43名、女子16名で職員は3名であった。深大寺、佐須、柴崎の三村を学区としたという。(標柱)


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d0183387_23080776.jpg青渭神社(あおいじんじゃ)/深大寺元町
(主祭神名)青渭大神(水神様) 
(由緒)創立年月日は不詳であるが、往古(三千年~四千年以前)先住民が水をもとめ居住した際、その生活に欠くことの出来ない水を尊び、祠を建て水神を祀ったものと伝えられている。御祭神は水波能売大神・青渭押比売命、又一説には社前大池に棲む蛇を祀ったとも云われている。神社明細帳等によれば、当社は延喜式神明帳所載武蔵国多摩郡八座の内にて、官祭の社で重き御社であったと伝えられている。往古は社前におよそ五町歩余の境内地があり、大池に混々と湧水あり、音波をたたえていた所から、青波天神杜とも称された。旧深大寺町の総鎮守である。尚杜前に槻の老樹がそびえ、市内随一の巨木で、調布市文化財天然記念物に指定されている。(北多摩神道青年会)


d0183387_23072231.jpg青渭神社のケヤキ
神社の境内、拝殿の右前方道路に近く鳥居の横にある。幹は目通りおよそ5.5m、高さ34m。樹齢数100年の老樹であるが現在なお樹勢旺盛である。ケヤキは古名では槻(ツキ)といい『新編武蔵風土記稿』に「社ノ傍ニ囲一丈五尺アマリノ槻の老樹アリ」と、また『江戸名所図会』にも「社前槻の老樹あり、数百余霜を経たるものなり」などと見えて、文化文政の頃からすでに目立つ巨木であった。なおケヤキは武蔵野の防風林として特色を持っている。また社前を「池の谷戸」とよばれ昔は青波をたたえていたという。この附近から主として縄文時代中期の土器が発見され、殊に打製石斧が多量に出土したのでその製造所があったと推定されるなど、古代人の住居跡である。(調布市教育委員会)

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江戸名所図会 青渭社・虎狛社(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


・・・深大寺城(深大水生植物園)

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第二郭には発掘された建物跡が残ります
(建物跡) 
この石柱は発見された堀立柱、建物のうち2棟の柱穴の位置を示しています。建物は武士の屋舎であろうと考えられています。一般に戦国時代の城の建物は丸柱、板葺屋根で、床の中心的な屋形のみにあったといわれています。(説明板)


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第一郭入口には「都旧跡 深大寺城址」の石柱が建っています

深大寺城
深大寺城跡は、関東平野南部に広がる武蔵野台地の南縁辺部の標高約50mを測る舌状台地の一角に所在する、3つの郭からなる戦国時代の城跡である。台地の東側には開析谷によって形成された90m幅に及ぶ湿地帯が広がり、西側にも湧水を集めた支谷があり、南側は比高約15mを測る国分寺崖線によって画され、南方に多摩川とその対岸を望見することができる。城跡の北側の谷を挟んで古刹・深大寺が所在する。深大寺城跡は、戦国時代、関東の覇権を争う小田原北条氏と扇谷上杉氏の攻防のなかで、扇谷上杉氏方が造営した城跡である。文献に深大寺城の名が見えるのは戦記物『河越記』が初見とされ、『相州兵乱記』『北条記』『北条五代記』『鎌倉九代後記』にも記述がみえる。それらによると、深大寺城は大永4年(1524)北条氏綱によって重要拠点の江戸城を奪取された扇谷上杉朝興の息子朝定が、家臣の難波田弾正に命じて、天文6年(1537)多摩川を挟んで北条氏方の拠点の一つであった小沢城跡に対抗する位置に所在する「深大寺のふるき郭」を再興したものとされる。しかし北条氏綱は深大寺城を攻めずに同年7月、直接扇谷上杉氏方の河越城を攻め、朝定は松山城跡に敗走した。これによって一気に勢力図は塗り替えられ、深大寺城の軍事的意義は喪失、そのまま廃城となったと考えられる。
(小沢城関連記事はこちらへ http://teione.exblog.jp/22733570/


深大寺城跡に考古学的調査が入ったのは昭和33年以降であり、昭和44年まで深大寺城跡調査団によって発掘調査・測量調査が断続的に実施され、その後、平成67年に東京都教育委員会により、平成1718年度には調布市教育委員会によって発掘調査が行われた。それらによれば、城の縄張りは南北方向の堀と土塁により遮断された直線連郭式で、舌状台地最東端の土塁に囲まれた第1郭が主郭と考えられ、その西側の郭の2郭、さらに3郭が続く。

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(第一郭跡) 
この第一郭は江戸時代の「本丸」に当たる部分で、その構造がよく残っており周りに見える土塁(土を持った所)と右に見える空堀は外敵の侵入を防ぐ施設でした。深大寺城は半島状の台地の先端に位置しており、当時は南(左方向)が一望できる場所でした。(説明板)


1郭は郭のほぼ全周に土塁を廻らし、北東から南東にかけて自然の崖を障壁とし、北西から南西までの第2郭との間に堀を設ける。堀は北端と南端で崖に掘り落としてあり、その深さは78mに及ぶ。郭内部の規模は東西約50m、南北約90mを測る。土塁は北西付近で屈曲し、この屈曲部は西側にやや張り出した構造となっており、櫓台とも考えられる。土塁北側中央部に虎口が開く。東側土塁の斜面中腹には細長く延びる腰郭が付く。郭内で掘立柱建物4棟が検出されている。

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土橋                 空堀

土橋・空堀 
この土橋は空堀を渡り第一郭と第二郭を結ぶ道路に使われた土手を復元したものです。当時の空堀はもっと深く斜面は急傾斜であり、土橋は今より幅の狭いものでした(下図)が、埋設保存のためこのような形で復元しています。(説明板)

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d0183387_11471068.jpg2郭は、第1郭との間の空堀と約50m西側に掘られている堀との間に位置し、北東から南西まで約120m、東西間は約50mの規模である。土塁・堀を伴い、郭南辺の土塁中央部に虎口が開く。掘立柱建物9棟を検出した。第2郭では2時期の堀跡が確認された。第3郭は、東西幅約100m、南北幅は土地の改変があり不明である。土塁・堀が確認され、南西付近に虎口があったものと考えられる。

城跡から出土遺物は多くはないが、1500年以前、下っても16世紀前半代の青磁碗、瀬戸・美濃系天目茶碗、擂鉢などが出土し、2時期検出した堀跡の存在なども合わせると、第1期堀の構築時期に相当すると考えられる。文献に知られる「ふるき郭」が15世紀代に築造され、第2期堀や建物など現存する城郭遺構が構築されたと判断できる16世紀前半期の段階が、扇谷上杉朝定の築造した段階に相当するものと思われる。また武蔵国内の多くの城館が小田原北条氏の勢力下で改変されている中、深大寺城では改変は認められず、扇谷上杉氏系の築城技術を残すものと考えられよう。
このように、深大寺城跡は、16世紀前半、南関東を舞台に繰り広げられた小田原北条氏・扇谷上杉氏攻防のなか扇谷上杉氏が築造した城跡であり、小田原北条氏による改変を受けず扇谷上杉氏系の築城技術を残す16世紀前半期までの希少な城館と考えられ、関東における戦国大名及び城郭の変遷を知る上で貴重なものであることから、東西約230m、南北約250mの範囲を史跡に指定して保護を図ろうとするものである。
(文化遺跡オンライン

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深大水生植物園の風景 左手台地上が城址になります


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園内マップ



・・・榎木橋から布田・調布へ

布田(ふだ)

和名鈔(平安時代に成立した分類体百科事典)に新田「爾布多(にふだ)」とあったのを、のちに爾を略して布多と書き、さらに「多」を「田」に改めました(新編武蔵風土記稿)が、「府田」「捕陀」と書かれたこともあります。室町時代に、深大寺の住僧・長弁によって書かれた「私案抄」の中には「布田郷(ふだのごう)」として出てきます。多摩川の対岸にも布田という地名が今でもあります。(「調布の地名」/調布市郷土博物館解説シート)


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野川の風景⑩ 夕暮れの野川も静かで趣があります/橋場橋付近(深大寺元町)


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中央道と東電富士見橋         榎木橋から布田へ


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國領神社

創建年月は不詳であるが、元国領町百四十八番地に鎮座し、『新編武蔵風土記稿』に「第六天社小社当宿の鎮守なり、除地の内北方にあり本堂(常照寺)を距ること凡そ二町」とある。御社殿は六尺に四尺の小社で、国領の鎮守社として崇敬されてきた。現在地に鎮座する神明社は、もとは多摩川の畔羽毛田、杉森の地に荻窪、小川、小林等の一族が鎌倉より移住し、この社に国土安定、五穀豊穣を祈願し、一族を挙げて敬神の念深く、たびたびの多摩川の洪水のためこの社とともに樹木のうっそうとして、特に藤の大木の茂い繁る現在地に奉祀したといい伝えられている。(北多摩神道青年会)

d0183387_13184706.jpg国領神社の千年富士 
神社の大木の藤は毎年初夏5月には華麗な花を咲かせる「ちょうふ八景」のひとつで、千年藤といわれています。本社はもと八雲台小学校北裏にあった国領神社と現在地にあった神明社を合祀して、昭和38年に新社殿を造営し遷座しました。(案内板)



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調布不動尊・常性寺/国領町

常性寺は正式には「医王山長楽院常性寺」と称し、鎌倉時代に創建された由緒ある寺院です。往古は多摩川沿いに壮麗な諸堂が建立されていましたが、安土桃山時代を経て江戸時代に入ったころ、旧甲州街道沿いの現在地に移築させられました。その後、中興の法印祐仙が、上総国成田山新勝寺より成田不動尊を勧請したのが始まりとされています。以来、「調布不動尊」と称され広く皆様に親しまれています。(常性寺HP)

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不動堂                地蔵堂


d0183387_14060862.jpg小橋馬頭観音塔

馬頭観音は六観音の一つで、破邪顕正、人々の煩悩を断つなどの功徳をもつ仏とされるが、頭上に馬頭をいただくことから、民間では馬の守護神として江戸時代中期以降広く信仰されるようになった。馬頭観音塔は、念仏供養、道供養として建立されるが馬の供養のため建てられることが多い。この塔は甲州街道の小橋(現馬橋から西50m)の「すてば」にあったものを、甲州街道の拡幅で再度にわたり移動し現在地に安置された。(すてばとは馬などの埋葬地である)この塔は、文政7年(1824)市域および近隣の19か村のほか、八王子の嶌(縞)買中などが協力して造立したものである。馬頭観音の像を彫った供養塔は市内でも珍しく、また商人を含む多数の村民が造立したことも知られる貴重な像塔である。(調布市教育委員会)


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蓮慶寺本堂

蓮慶寺/調布市布田
当山蓮慶寺は、日蓮宗大本山池上本門寺の直末で、山号を惺誉山と云う。開山は池上本門寺第十二世佛乗院日惺聖人(遷化慶長376日、1573年)その法号を正天院日誉と云う。開山と開基の法号にちなみ惺誉山と称する。過去帳史料によると、もと真言宗閻魔寺を中将出羽守が永禄年中改宗し草創と伝える。今開山日惺聖人筆慶長3年の御曼荼羅本尊を寺宝としている。江戸時代に入り、徳川三代家光将軍家より慶安4年御朱印地が下賜され、以降歴代将軍家の菩提を回向する御朱印寺として、赤門設立と住職の乗駕が許されてきた。今歴代将軍葵紋付き位牌と香炉を現存し法灯現住職第49代を経てきた。草創以来三世紀の間、当山檀信徒の護寺丹精は永く伝統を継承してきたが、歴史の風雪は本堂、山門を老朽化させた。ために今日の当山檀信徒は異体同心、結願して昭和42年本堂の大改修を完成させ、更に宗祖第七百年遠忌の報恩事業として赤門復興の浄願を発起して全檀信徒による勧募浄財によって昭和54415日祥当七百年を前にして完成をみた。復興とはいえ伝統と檀信徒先祖の威霊を宿す四脚門の旧赤門を取り毀すにあたり、惜別の情迫るものがありここに冠水門部分のみを保存し後世への遺産とした。(説明板)

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現山門                旧赤門


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街道風景 旧甲州街道を調布駅へ/布田宿(布田駅入口)

by Twalking | 2016-04-11 21:59 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 野川&国分寺崖線をゆく02 小金井(2)   

日時 2016.4.6(水)
天気 晴れ


小金井の後半は「はけの道」の坂を登り下りしながら
周辺にある寺社や緑地など見て回りました。
崖線周辺には緑が保存され野川の旧跡などが残ります。

野川公園は三鷹に住んでいた頃よく遊びに行きました。
近くに近藤勇の生家跡がありますが、甲州・日光・東海道など
で新撰組の足跡が必ず出てきますので、立ち寄りました。


・・・武蔵野公園へ

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はけの道③ 少し野川から離れますがのどかな道が続きます/金蔵院前


d0183387_00243114.jpg西念寺・
小金井三郎の墓/前原町
関東に3千人の子分を持ったといわれる侠客。三宅島へ流された際「小次郎井戸」を掘り島民に尽くしました。墓碑銘は親交のあった山岡鉄舟の筆です。(小金井てくてくマップ)



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金蔵院山門

d0183387_00305030.jpg金蔵院/前原町

新義真言宗豊山派。永禄9年(1566)中興といわれます。本尊は十一面観音。明治には公立小学校、大正では村役場として使われたこともあります。白い萩が見事です。(小金井てくてくマップ)


d0183387_00311038.jpg金蔵院のケヤキとムクノキ

金蔵院境内のケヤキ(左側)とムクノキ(右側)は樹形や樹皮の特徴からそれぞれ樹齢300年以上を経たものと思われ、幹囲・樹高とも市内では有数のものです。ケヤキはニレ科の落葉高木で、古くから防風・建築用材として屋敷の周りに植えられました。ムクノキはニレ科の落葉高木で、屋敷林によく見られます。秋には卵状球形の実を結び、熟すと黒く甘くなります。葉の表面がザラザラしており漆器や鼈甲(べっこう)等の表面研磨にも使われました。(小金井市教育委員会)


d0183387_10302134.jpg坂-⑧金蔵院の坂




d0183387_00350918.jpg旧谷口家のオニイタヤ/前原町

オニイタヤはカエデ科の一種、イタヤカエデの亜種で羽が大きく、裏面全体に毛があるのが特徴です。この種は関東地方では海抜1000mくらいの山地に分布し、斜面下部の湿潤な立地を好んで生育します。旧谷口家のオニイタヤは樹高14m、幹廻り4.2mの個体で、一部に腐朽が見られますが樹勢の衰えは見られず旺盛な育成をしています。国分寺崖線には山地から下降したこの種が稀に見られますが、ここに生育する個体もその例で、分布の希少性、その大きさから貴重です。(小金井市教育委員会)


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小金井神社参道

d0183387_00390357.jpg天満宮・小金井神社/前原町

主祭神 菅原道真 創立は元久2年(1205)武蔵国開拓の当時、里人が菅原道真公の鴻徳を敬慕し社殿を造り神霊を奉祀、天満宮と称したと伝えられる。宝暦元年(1751)本殿を改築、拝殿は明治22年に工事を始め5年の歳月をかけて明治279月に竣工。明治維新に天満天神と改称、更に明治312月に小金井の里の総鎮守として小金井神社と改称する。氏子区域は前原町、中町、緑町、桜町、本町の広い範囲に及ぶ。近年は学問の神様として篤く崇敬されている。(北多摩神道青年会)


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はけの道④ 緑地や果樹園などもあって静かな趣があります/中町



d0183387_00435222.jpg坂-⑨車屋の坂
(連雀通り・第一小学校南西~はけの道)

かつてここは2台の水車があった。西側には豊かな自然を残しており風情がある。(坂とはけの道めぐり)



d0183387_00455612.jpg坂-⑩白伝坊の坂
(連雀通り・第一小学校南東~はけの道)
万延の頃(1860ごろ)から明治初めにかけこの坂の中段、西側にある墓地に「白伝」という僧が住み着いており、農家を托鉢に回ったのが由来といわれています。(小金井てくてくマップ)


d0183387_00492341.jpg坂-⑪おお坂

江戸時代、国分寺へ通じる薬師道の起点となった坂。この坂の途中に美術の森と美術館へ通じる入口がある。(坂とはけの道めぐり)




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竹林の階段を下ると湧水の池があります/美術の森

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美術の森

この場所は、大岡昇平の小説「武蔵野夫人」のモデルになった場所で、小説にも描かれた当時の情景を今も変わりなく伝えています。国分寺崖線という武蔵野から沖積層低地へ移る斜面地で、ハケと呼ばれる崖下の砂礫層からは豊かな地下水が湧きだしています。たくさんの種類の動植物のすむ、この貴重な自然を末永く保存するため平成2年東京都市町村樹林地公有化資金の適用を受け保全した緑地です。芸術院会員でもあった洋画家・中村研一が後半生を過ごした屋敷跡を建築家佐藤秀三の設計による山荘風の旧宅「花侵庵」と名付けられた茶室がありました。一つ一つの草や木、石にも故人の愛情と思い入れがしみこんでいる場所です。(小金井市)


d0183387_00582505.jpgはけの小路
森の美術館から流れ出る湧水が敷石を連ねた「はけの小路」のせせらぎに流れ込み野川へ注がれてます。(小金井てくてくマップ)





・・・武蔵野公園

野川に沿って残る草原や雑木林を配した野趣に富んだ公園。東京都の各公園や街路に植える苗木を育てる苗圃をもち、散歩しながら木々の育成の様子を観察することができます。4月中旬には、園路沿いのサトザクラが見事な花のトンネルをつくります。また、浅間山公園・多磨霊園・野川公園、神代植物公園、深大寺、国立天文台などと一体になって武蔵野の森をつくっています。(むさしの都立公園HP)

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野川の風景④ 武蔵野公園
園内を貫流する野川はたくさんの魚や生き物によい環境を与えています。一部分は親水護岸となっており水遊びを楽しめるようになっています。また両岸には、春にはハナミズキ、秋には紅葉が楽しめ、バーベキュー広場や第一調節池にある「どじょう池」という名称のビオトープなど野川は訪れる人々の憩いの場となっています。(むさしの都立公園HP)

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くじら山

公園の一画にある小さな丘で、その形が鯨の背に似ているところからこの名がつけられました。野川の向こうに「ハケ」と呼ばれる崖線が見渡せます。北側には、「はらっぱ広場」として開放されている草地が広がります。何も無い広いはらっぱが、かえっていろいろなイベントに利用するのに好都合で、訪れる人にも広い空間がなによりの開放感を与えてくれます。毎年、夏休みには、はらっぱ広場と河川敷を使って地元の人達が「わんぱく祭」を催しています。 (むさしの都立公園HP)

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はけの道⑤ レンギョウの咲く径、大きな桜の木の下でお花見、最高ですね
 

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野川の風景⑤ 西部多摩川線の高架先から野川公園になります/二枚橋

二枚橋

その昔、小金井の東南の淋しい山道を流れる野川に調布や染谷を結ぶ一本の丸木橋がかかっていた。染谷の庄屋の息子は小金井の山守の娘と恋仲になり、夜毎この橋のたもとで逢瀬を重ねていた。やがて村中の評判となり頑固な庄屋の怒りを買うことになった。二人は実らぬ恋とあきらめ渦巻く野川に身を投げてしまった。暫くしてその娘の怨念が大蛇になって住みつき、もう一本の幻の丸木橋に化けて村人を惑わし通る人を川の中に落した。庄屋は若い二人の魂を哀れんで二人の供養にと、大木を二枚に挽き割って立派な橋を作りねんごろに霊を慰めた。以来、村人はこの橋を二枚橋と呼ぶ(案内板)



・・・野川公園


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野川の風景⑥ 左手が自然観察園になります/野川公園

野川公園

調布市野水12丁目、小金井市東町1丁目、三鷹市大沢236丁目にまたがる都立公園。園を東西に東八道路が横切っており、その北側を野川が西から東に流れる。もとは国際基督教大学(ICU)所有のゴルフ場であり現在でもかなりの面積で芝生が広がる。園南西部にテニスコート、西部にデイキャンプ場、南部にバーベキュー、駐車場、中央部に児童遊具施設(わんぱく広場)とアスレチック場を備える。東八道路と野川に挟まれた区域や東八道路以南の各所には武蔵野の森が多く残存する。Wikipedia

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大芝生 

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わんぱく広場             散策路

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野川のあらまし
野川は国分寺をみなもとに小金井、府中、三鷹、調布、狛江、世田谷と流れて多摩川に注ぐ約20kmほどの河川です。その流域には国分寺崖線と呼ばれる多摩川の河岸段丘(「はけ」とも呼ばれます)が連なり、その崖下からは清らかな湧水が湧きだしています。野川の流域には縄文あるいはそれ以前の遺跡があり、昔から多くの人々が生活していたようです。また、最近まで豊かな水を利用し稲作が行なわれ、ワサビも栽培されていました。今でも野川のまわりにはたくさんの野鳥や植物が見られ、豊かな自然環境が残されています。武蔵野の面影が残る水と緑の一体となった自然をいつまでも大切に守り育てましょう。(野川流域おすすめスポット)

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野川公園自然観察園案内板(赤丸:入口 橙:東八道路)

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園内マップ
(赤:ルート 橙:人見街道 黄丸:龍源寺・近藤勇生家跡)



・・・新撰組ゆかりの地へ

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龍源寺/三鷹市大沢
曹洞宗、府内高安寺
末。箕輪将監の開基で箕輪家の墓所守であったという。創建年月は不明だが、開山の家山明伝の寂年は承応元年(1652)である。本堂うらの墓地には東京都旧跡・近藤勇の墓がある。(三鷹市史)


d0183387_11484203.jpg近藤勇の墓
天保5年(1834)武州多摩郡上石原村の宮川久次郎の三男として生まれ、15歳で天然理心流近藤周助に入門、近藤家の養子となって28歳で天然理心流四代目を襲名した。文久3年(1863)土方歳三らと京都に上り、慶応3年(1867)大政奉還までの4年間新選組として活躍した。京都、鳥羽伏見の戦いで敗れた後、甲陽鎮撫隊を組織し山梨県勝沼で官軍を迎え撃つが、大敗して千葉県流山で投降する。慶応4年(明治元年)425日板橋宿で処刑された。享年35歳。法名は貫天院殿純義誠忠大居士。(三鷹市教育委員会)

d0183387_11493476.jpg近藤勇と天然理心流

この地に生まれた近藤勇は、鹿島神道流を修行した近藤内蔵助長裕が創始した『天然理心流』の四代目を継いだ剣豪です。その真髄は「誠の剣」であり、「力の剣」であると言われています。古武道は日本人の心のふるさとであり貴重な歴史的文化遺産であります。『天然理心流』の木刀五本の形と柄砕三組の演武のフィルムが日本武道館の古武道協会に永久保存されています。三鷹市剣道連盟では、近藤勇先生慰霊剣道大会を毎年開催しています。(三鷹市剣道連盟会長 石川金次)



d0183387_14451144.jpg近藤神社/調布市小島町
近藤神社は徳川将軍家のために忠誠を貫いた近藤勇を尊び、昭和初期に東京一円の有志たちによって近藤勇の生家跡に建立された。その後、荒れるにまかせていた社を一時別の場所に移設していたが、昭和52年に生家跡が市の史跡に指定されたのを受けて、昭和54年に戻したものである。(調布市観光協会)

d0183387_14464959.jpg近藤勇生家跡/調布市小島町
この地は新選組局長近藤勇の生家跡である。近藤勇は天保5年(1834)宮川久次郎の三男(幼名勝五郎)としてこの地に生まれ育った。15歳の時天然理心流近藤周助に入門、翌年理心流の目録を得て周助の養子となり近藤姓を名乗った。当時、宮川家の屋敷は面積約70002の広さがあり、建物は母屋のほか蔵屋敷、文庫蔵、乾燥納屋、農具入納屋等があり、周囲はケヤキ、カシその他の大木や竹林が茂っていた。現在の跡地は屋敷の東南部に位置し、昭和18年に家がとりこわされるまで使用していた井戸を残すのみである。(調布市教育委員会)

d0183387_15581637.png新選組局長・近藤勇
近藤生家「宮川家」
天保5年
(1834 109日、武蔵国多摩郡上石原村辻(現在の調布市野水1丁目)の宮川家に3人目の男子が生まれ、勝五郎と名付けられた。 天保9年 (1838)の上石原村「宗門人別五人組帳」によれば、宮川家は多摩郡大沢村龍源寺の旦那(檀家)で、家族構成は百姓源次郎(宮川家の当主は代々「源次郎」を名乗った)67歳を筆頭に倅の久次郎、40歳(近藤勇の父)、娵(よめ)のみよ37歳(勇の母)、孫の音二郎9歳、粂蔵(くめぞう)7歳、勝五郎5歳の6人であった。宮川家は裕福な農民であったといわれているが「宗門人別五人組帳」の記載をみる限りでは、石高は七石一斗二合で上石原村では中間的な階層に属していた。(写真:生家の説明板)

d0183387_12045007.jpg天然理心流入門、近藤家養子に
龍源寺にある「神文血判帳」(近藤周助の門人帳)によれば、宮川家の三兄弟は嘉永元年
1848 1111日に揃って天然理心近藤周助の門人となっている。嘉永2年6月に周助が宮川勝五郎に与えた目録も龍源寺にある。同年1019日付けで周助から上石原村の源次郎(勝五郎の父)宛に養子縁組の書状が出され、勝五郎は入門後あまり時を経ずに天然理心流を継ぐため周助の養子となったことがわかる。養子になって周助の旧姓島崎を名乗り名前も勝太と改めた。安政4年(1857 )頃までには島崎勇となり、万延元年(18603月に松井ツネと結婚した。その後近藤勇を名乗り、文久元年(18618月、府中六所宮(大国魂神社)で天然理心流四代目の襲名の野試合を行い、翌年には一人娘の瓊(たま)が生まれた。
(写真:龍源寺入口の近藤勇像)

d0183387_15375507.jpg浪士組に参加して京へ、そして 新撰組結成
文久3年
(1863 2月、近藤勇は上洛する将軍・徳川家茂警護のために編成された浪士組に道場の門人たちと共に参加したが、浪士組が江戸へ戻ることになった時、京都残留の嘆願書を提出し京都守護職の任にあった会津藩預かりとなり、京都市中の見回りに当たることになった。以降、慶応4年(18681月、隊士と共に江戸に戻るまで当時政局の中心となっていた京都で新選組局長として活躍した。
(写真:東海道本宿・法蔵寺にある「近藤勇首塚」に建つ近藤勇像 関連記事は琴こちらへ「http://teione.exblog.jp/21175789/」)

d0183387_15010111.jpg近藤勇、板橋で死す
慶應4年
3月、甲陽鎮撫隊が甲州街道を甲府へ向かう途中、大久保剛と名を変えた勇は上石原の鎮守である上石原若宮八幡神社を遥拝して戦勝祈願、西光寺向かいの名主中村勘六家で歓待を受けたと伝えられている。甲州柏尾山で官軍に敗れ、その後、新たに隊士を募集して下総流山に陣をしいた。しかし、そこで官軍に包囲されて出頭、慶応4年425日に板橋において刑死した。勇の甥・宮川勇五郎は、板橋の刑場で肩の鉄砲傷(慶応年12月伏見墨染付近で負傷)を目印に首のない勇の遺体を掘り起こし、上石原村の生家近くにある龍源寺へ埋葬した。勇の無言の帰還を一族の人びとは野川にかかる相曽浦(あいそうら)橋で迎えたと伝えられている。龍源寺の近藤家墓所には、勇の一人娘瓊と結婚して近藤家を継いだ勇五郎やその息子の久太郎も眠っている。また、近くには勇のいとこで新選組隊士だった宮川信吉(勇の父久次郎の妹の子)の墓もある。(調布市教育委員会
(写真:中山道・板橋駅南口にある「近藤勇と新撰組隊士の供養塔」関連記事はこちらへ「http://teione.exblog.jp/21122165/」)


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近藤勇生家(宮川家)復元模型/調布市郷土資料館


d0183387_16280603.jpg近藤道場撥雲館/調布市小島町

豪農で篤農家でもあった近藤勇の父・宮川久次郎は、広い自分の屋敷内に寺小屋を開くとともに、幕末時盛んであった武術の一派「天然理心流」の道場を開き、勇兄弟をはじめ近在の子弟を集めて学問や武術を指導していた。天然理心流は近藤長祐を初代とする流派で、江戸に道場を持つかたわら多摩地方に広く出稽古していた。小技より気迫を重んじ、いかなる相手にも動じない極意必勝の実践を大事にする武道であった。三代目近藤周助は月に23回招かれた久次郎の道場に通っていたが、勇の度胸と技量を見込み、近藤家の養子として迎い入れた。勇16才の時であり、28歳で4代目を襲名した。勇が近藤家に入ってからは、高弟や後の理心流達人と云われた長兄の子・宮川勇五郎(勇の養子となり五代目を襲名)等が主となって多摩一円の門人を指導、その数三千人とも云われている。勇五郎は、父から分け与えられた屋敷内の納屋を道場としていた。この道場が「撥雲館」である。その名の由来は、ある時ここを訪れた山岡鉄舟が命名し看板に揮毫したと伝えられている。「撥」は「とりのぞく」という意味を持つが「撥雲」という館名は暗雲を取り除くと言う意味で、当時の世相からうなずけるものである。「撥雲館」はその後手狭になったため、門下生の協力で昭和7年北側空き地に改築し盛大な道場開きが行われた。しかし、勇五郎はその翌年83歳で亡くなった。その後も道場は門人たちの手で医事され、稽古は続けられた。太平洋戦争が始まり、調布飛行場の建設に伴う勇五郎宅取壊しの際にも、門人達の熱意によって、道場は勇五郎の娘の嫁ぎ先である東隣の峰岸家の土地に移築された。戦後になって人見街道の拡幅のため再移転する時、再び近藤家敷地内の現在地に移築され今日に至っている。(調布市教育委員会)


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人見街道/御狩野橋

人見街道

府中市と杉並区大宮の大宮八幡宮を結ぶ古くからの街道である。別名「大宮街道」「下総街道」。人見街道の名は「人見村」を通って府中へ至る道であった説、府中市の北東部の地名「人見」ないし、その地域の一族「人見氏」に由来すると言われるが、さらに人見の北にある浅間山の別名が人見山であってそれが由来であるとする説もある。Wikipedia


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野川の風景⑦ 左岸には深大寺の丘陵、右岸は調布飛行場になります/相曽浦橋


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野川公園周辺案内図
(青:野川 橙:東八道路・人見街道 紫:旧甲州街道 赤丸:源流・近藤勇生家)



by Twalking | 2016-04-09 17:37 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 野川&国分寺崖線をゆく01 小金井(1)   

日時 2016.4.6(水)
天気 晴れ


街道を歩いていて、多摩川左岸の野川&国分寺崖線を
一度じっくりと見てみたいと思っていたところです。
天気もいいし、桜も見頃、野川の源流から歩いてみました。

小金井は妻の実家ですし、東京2deyで歩いていますが、
今回は野川&国分寺崖線に的を絞ってみました。
野川リバーサイド、おもしろいですね~!いい所です。


・・・国分寺

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右手の研究所内に水源、一般公開は年2回とか/国分寺市本町


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野川の水源/国分寺市本町

ここ「日立中央研究所内」の湧水が野川の始まりです。この坂のあたりは国分寺崖線(通称ハケ)の一部です。ハケ下の周辺には湧き水がいたるところに見られ、「姿見の池」「真姿の池湧水群」などの水が集まって野川の流れとなっています。(中央線の下を潜ります)


d0183387_18201309.png国分寺崖線
国分寺崖線は通称“ハケ”と呼ばれています。この崖線は古多摩川の浸食によって出来た崖の連なりで、国分寺市の西町五丁目あたりから目立ち始め、世田谷区あたりまで続いています。国分寺市にいちばんはっきりあらわれているので「国分寺崖線」と呼ばれていました。
(青:野川 茶:国分寺崖線のイメージ 点線:野川導水路ルート)

湧水
ハケ上の台地に降った雨は水を通しやすい火山灰層(関東ローム層)を通り、下の砂利層(礫層)にたまります。その下には水を通しにくい地層があるため、たまった地下水は砂利層を横に流れ、崖線のすそからしみ出してきます。これが湧水です。野川の両岸では旧石器時代から縄文時代の遺跡が数多く発掘されています。野川は古代から豊かな実りをもたらす大切な川であったのだとされています。(説明板)

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周辺地図


d0183387_18330291.jpg姿見の池/西恋ヶ窪
かつて付近の湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み清水を湛えていました。現在の府中街道とほぼ同じ道筋にあたる東山道武蔵野路や鎌倉上道の宿場町であった恋ヶ窪の遊女達が、朝な夕なに自らの姿を映して見ていたことから「姿見の池」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。恋ヶ窪という地名の由来の一つとも云われ、傾城・夙妻太夫が武将・畠山重忠を慕って身を投げた池といわれています。「武蔵野夫人」(大岡昇平著)など文学作品にもよく登場する名所です。平成10年度東京都と国分寺市は、湿地、用水路、水辺林等を含めた池周辺地域を東京都指定「国分寺姿見の池緑地保全地域」として整備し、かつての武蔵野の里山風景を見ることができます。(国分寺市)


d0183387_18331779.jpg真姿の池湧水群(ますがた)
真姿の池は、東京都内では青梅市の御岳渓流と共に環境庁の「名水百選」に指定された「お鷹の道・真姿の池湧水群」の一部であり、東京都の国分寺崖線緑地保全地域にも指定されている。真姿の池の由来は、嘉祥元年(848)不治の病に苦しんだ玉造小町が、病気平癒祈願のため国分寺を訪れて21日間参詣すると、一人の童子が現れ小町をこの池に案内し、この池の水で身を清めるようにと言って姿を消したので、そのとおりにしたところたちどころに病は萎え、元の美しい姿に戻った。それから人々はこの池を「真姿の池」と呼ぶようになったという伝説からきている。真姿の池は「新編武蔵風土記稿」に「広さ2間四方許、池中(ちちゅう)の狐嶼(こしょう)に弁天の祠宇(しう)を置、この池水も田地へそそく」とある。周辺の雑木林は下草の刈り払いが行われ管理が行き届いており国分寺崖線の雑木林景観が良く保存されている。国分寺から小金井・三鷹・調布・狛江を経て世田谷の等々力渓谷に至る標高差約15mほどの崖線で「ハケ」と呼ばれている。東京を代表する湧泉の価値を文化財として評価された最初の自然地理的名勝である。(東京都教育委員会)

姿見の池・真姿の池などの関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/21908236/



・・・国分寺街道へ

東京都道133号小川山府中線

小平市(喜兵衛橋)と府中市(大國魂神社前)を結ぶ一般都道である。通称は国分寺街道(おおむね国分寺駅付近から府中駅付近まで)、欅並木通り(府中市街における別名)Wikipedia

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野川の風景① 先の不動橋で元町用水を合わせます/国分寺街道・一里塚橋手前

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不動橋                石橋供養塔

石橋供養塔の由来/国分寺街道・不動橋

石橋供養塔は天保3年(1831)に造立されました。不動橋は以前石橋でした。おそらくこの供養塔が造られたころ石橋になったのでしょう。石橋供養塔は常に人に踏まれている石橋を供養する意味と、石橋を渡って村内に疫病や災いが入り込むのを防ぐ意味があります。庚申塔は延享21745)年218日の記年銘があり、造立者として国分寺村講中と11人の個人名が刻まれています。延享2218日は庚申の日です。11人の人たちは3年間連続して庚申待を行い満願を迎えたのでしょう。「不動明王」と刻み込まれていますがいつ、誰が造立したのかは不明です。この石にちなみ現在の橋の名を不動橋としました。(国分寺市観光協会)


d0183387_18535586.jpg新次郎池/東京経済大学

池を取り囲むように5ヶ所から水が湧出しています。以前はわさび田として利用されていました。北澤新次郎学長(195767在任)の時代に池として整備され、新次郎池と呼ばれるようになりました。20031月、都内の名湧水の保全回復を目的として東京都より選定された「東京の名水57選」に選ばれました。湧水の良は季節によって変化します。(東京経済大学)

d0183387_19573023.png坂-①くらぼね坂

東経大東側、貫井神社の西。国分寺市との境界。今の貫井北町や小平、国分寺方面から府中方面に行くこの道は、急坂の東が切り立つような赤土の崖で、雨の降る時などは人も馬も滑って歩けなかったといわれます。鞍(馬)でも骨をおるとか「くらばね」断崖の連続した段丘崖を意味するともいわれ、諸説があります。(小金井てくてくマップ)
(赤:新次郎池 緑:くらぼね坂)






・・・・新小金井街道へ

小金井市
市のほぼ中央に位置する武蔵小金井駅を中心に、東西にJR中央線が、南北に小金井街道が走る。市内の殆どが住宅地であり企業が少ないベッドタウン型の市である。北に桜の名所として知られる小金井公園、南は崖の辺りの自然林、又武蔵野公園、野川公園、多磨霊園にも面しており周辺部には緑が多く残っている。市の南部を東西に走る国分寺崖線の「崖(がけ)」を地元では古くから「はけ」と呼んでいたが、その「はけ」と呼ばれる多摩川の河岸段丘の各所に湧水が見られる。段丘の北側は古来水の便が悪く、本格的に開発が始ったのは玉川上水の開削以降である。
Wikipedia

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野川の風景② ここから下流は両岸に遊歩道があり、川の中も歩けます/鞍尾根橋


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貫井神社/貫井南町3
祭神:市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) 相殿:大貴己命おおなむちのみこと) 境内社:稲荷社、八雲神社、愛宕神社
はじめ弁財天と称したのを明治維新のとき、いまの社名に改称された。貫井発祥の地と伝えられる下弁天に鎮座してあった厳島神社(祭神市杵島姫命)に稲穂神社(祭神大貴己命)を合祀する。鎮座の年月日縁起など明らかでないが、古く創建されたものと推考される。社殿の彫刻など小金井市にはめずらしい建築であり、境内も市内有数の景勝地である。本社は間口、奥行とも5.46m、拝殿は間口5.46m、奥行3.64m。往昔は真明寺が累世別当職に任じ、祭紀の職を兼ねたが、明治2(1869) 1月、はじめて司掌をおいた。例祭は915日。『新編武蔵風土記稿』に「弁天社 除地八畝十歩、村の北にあり。その地に広さ二畝ばかりの池あり。その孤嶼に安んず。本社二間に一間半、拝殿三間に二間。前に木の鳥居を建つ。神体木の坐像三寸ばかり。弘法大師の作という」と記載しである。(「小金井市史」より)

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ひょうたん池
                貫井プール碑


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はけの道① 静かないい道ですね~/貫井南町

はけの道
金蔵院から二枚橋の崖線下約2kmをはけの道と呼ぶ、この付近は小説「武蔵の夫人」の舞台となった。(坂とはけの道めぐり)

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薬師道はけの道名所案内図
(黄:はけの道 青:野川 紫:新小金井街道・小金井街道 橙:連雀通り 緑:坂)


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坂-②さわらび坂            貫井トンネル/新小金井街道


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野川の風景③ 緑がいいですね~/貫井大橋(新小金井街道)

東京都道248号府中小平線
府中市と小平市を結ぶ一般都道である。全線で多摩南北道路2号線(府中清瀬線)に属する。小金井街道(都道15号府中清瀬線にほぼ並行して新たに建設されているため、新小金井街道と呼ばれる。Wikipedia


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滄浪泉園(そうろうせんえん)
浪泉園は 明治・大正期に三井銀行等の役員、 外交官、衆議院議員など歴任した波多野承五郎氏(雅号・古渓)により、武蔵野の特徴的な地形である「ハケ」とその湧水を取り入れた庭園を持つ別荘として利用されて来ました。その名の由来は大正8年、この庭に遊んだ犬養毅(雅号・木堂)元首相によって友人古渓ために名付けたのので、「手や足を洗い、口をそそぎ、俗塵に汚れた心を洗い清める、清々と豊かな水の湧き出る泉のある庭」との深い意味を持っています。入口付近の石の門は木堂翁自らの筆によるもので、波多野氏の雅遊の友であった篆刻家足立壔邨(ちゅとん)によって刻まれたもので、萬成と呼ばれる大きな赤御影石が使われています。昭和に入って三井鉱山の役員であった川嶋氏の手に移り、茅葺の大きな家や長屋門などが風雅なたたずまいを見せていましたが、昭和52年に買収される直前取り壊されてしまいました。(パンフ)


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滄浪泉園の池


d0183387_23490375.jpgおだんご地蔵

このお地蔵様は正徳3年(1713)今からおよそ266年前、念仏供養のためにまつられたものです。何を見、何を想っているのでしょうか。素朴で柔和なお顔立ちは、このお地蔵様がたどって来た長い年月を私たちに語りかけてくれるかのようです。お地蔵様の足元にはエビネが自生し、5月頃には花のじゅうたんを敷き詰めふくいくとした香りを届けます。(案内板)


d0183387_23492473.jpg鼻欠け地蔵様
この石仏は寛文6年(1666)今からおよぞ313年前に庚申さまとしてまつられたので、市内でももっとも古いお地蔵さまです。信仰のため何度も触れられたからでしょうか、目や鼻などが欠け落ち、昔の人々の厚い信心が伝わってくるようです。背後の椿は樹齢100年を悠に越すと見られ、季節には真紅の花を散らせお地蔵様を飾ります。(案内板)

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園内マップ



・・・小金井街道へ

東京都道15号府中清瀬線

府中市から清瀬市に至る主要地方道(東京都道)である。通称は小金井街道・新小金井街道。Wikipedia


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崖線上は連雀通り(134号)が東西に、昔は江戸道といったそうです/小金井工校前

東京都道134号恋ヶ窪新田三鷹線

国分寺市東恋ヶ窪(埼玉県道・都道17号所沢府中線)交点から、小金井市を経て、三鷹市牟礼(都道14号新宿国立線)交点に至る一般都道である。通称連雀通りWikipedia


d0183387_23583746.jpg坂-③平代坂(へいだいざか)
商工会館西側から薬師通り)
万延か文久(186064)のころ、坂の東側に住む梶平太夫が玉川上水の分水を使って水車を回したので、平太坂と呼んでいました。いつのころかこれが平代坂といわれるようになりました。(小金井てくてくマップ)

d0183387_23564813.png平代坂遺跡・前原千佳式横穴
この遺跡は平代坂(上小金井村名主・梶平太夫の名にちなむ)周辺の武蔵野段丘上に立地しています。昭和465月、宅地造成の赤土の中から焼け石が発見され、本格的な調査が行われました。関東ローム層から8層に及ぶ旧石器時代(約35000年~15000年前)の人々の生活の跡と590点に及ぶ石器類が発見されました。また付近のB地点から縄文時代(約4500年前)の住居跡2軒が見つかっています。前原地下式横穴は室町時代の墓跡又は祭祀場とみられ、瀬戸焼、常滑焼の陶器類が出土しています。また、付近から古墳時代末期の横穴古墳(墓)が発見されています。(小金井市教育委員会)


d0183387_00004797.jpgどんぐりの森公共緑地(坂途中)

この緑地は緑豊かな環境をいつまでも後世に残し伝えるため、崖(はけ)に残る雑木林を中心として保全されている緑地です。園内にはどんぐりの実をつけるコナラやクヌギなど武蔵野の面影を残した貴重な緑地です。(説明板)


d0183387_00503830.jpg坂-④念仏坂
梶家東側~薬師通り)
昔、江戸街道から薬師通りへ通じており、農民が便利にしていたこの道は、狭く両側から笹や樹木が生い茂っていました。坂の中段東側に墓地があり、人はいつしか念仏を唱えながら通ったのでこの名があります。(小金井てくてくマップ)


d0183387_01015511.jpg幡隨院
慶長8年(1603)徳川家康が浄土宗・幡隨意白和尚を神田の台(現在の駿河台)に招き、神田山新知恩寺の号を与えて開山し、徳川家の祈祷所と定めました。昭和15年(1940)現在地へ移転、広いお庭が素敵です。(小金井てくてくマップ)


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坂-⑤白伝坊の坂(
連雀通り~第一小学校南東)
万延の頃(1860ごろ)から明治初めにかけこの坂の中段、西側にある墓地に「白伝」という僧が住み着いており、農家を托鉢に回ったのが由来といわれています。(小金井てくてくマップ)


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坂-⑥質屋坂(
前原坂上より斜めに下ります)
志木市から府中へ商人が往来した志木街道の旧道で、この街道では最も険しい坂でした。この坂に沿って幕末から明治の初めにかけて、当時の下小金井村の星野家が開いた質屋があったのが由来です。また坂が鍵の形に似ているところからかま坂ともいわれています。(小金井てくてくマップ)


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はけの道② ガード先の妙貫坂を登ると「六道の辻」になります/小金井街道

坂-⑦妙貫坂/小金井街道右側

前原坂上交差点はその昔「六道の辻」と云って六本の道が交差していた。そのうちの一本がこの道で畑や水田耕作のための農道であった。急な坂の東側に墓地がありその南側、現在のカシの並木があるあたりに明治の中ごろから大正の初めごろまで「妙観(貫)」といわれる僧が「庵」を造り住んでいたので妙貫坂といわれるようになった。(標柱)


by Twalking | 2016-04-08 12:19 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鶴見川(1)源流の泉~鶴川(改定)   

日時 2014.4.27(日)
天気 晴れ


・・・よこやまの道

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よこやまのみち終点(唐木田給水塔)手前から下ります

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山王塚                          手製の標識に従い「源流広場」へ

鶴見川流域最高度三角点「山王塚」
この山上塚跡には鶴見川流域最高度三角点「山王塚」(168m)があります。鶴見川は流域面積235平方万kmで、多摩丘陵から下末吉台地を刻み横浜市鶴見区から東京湾に注ぎます。鶴見川の源流はここから南0.6km下った町田市上小山田の「鶴見川源流の泉」です。(案内板)


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田中谷戸の先を左折

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「よこやまのみち」案内板(赤:源流の泉へ 橙:給水塔 黄:唐木田駅)



・・・源流の泉

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源流の泉

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源流広場                     水田の脇を流れていきます

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鶴見川源流の泉
当地は鶴見川の最源流部・町田市上小山田田中谷戸に位置し、一日約1300tの地下水を湧出する「源流の泉」です。この安定した清流は源流の生きものたちの賑わいを支え、水田の用水としても大切に利用されつつ中下流の街にむけて多摩丘陵をかけております。
全長:源流の泉から生麦河口まで43.9km 
源流の泉から新橋まで1.4km 級河川上流端・新橋から鶴川(睦橋)まで10km 鴨居(鴨池人道橋)まで23km 新横浜駅(駅前広場)まで28.3km 生麦河口まで42.5km(町田市上下水部)

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上小山田みつやせせらぎ公園/上小山田町



・・・上小山田

町田市の北部に位置する。中世、坂東八平氏の一つ秩父氏の一族有重が武蔵国小山田荘に移り住み小山田氏を名乗る。1447年には長尾景春によって、小山田城が落城している。その後北条氏の支配下に入っているがその頃には上小山田村、下小山田村の名が見える。
(Wikipedia)

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「一級河川鶴見川上流端 東京都」の看板が設置されています/新橋(小山田小前)

鶴見川
鶴見川の源流は東京都町田市の北部、多摩市との境に近い上小山田町にある多摩丘陵の谷戸群(低湿地)の一角、田中谷戸(標高約170m)の湧泉である。源流周辺は「鶴見川源流泉のひろば」として整備されている。源流を発した鶴見川は町田市鶴川で真光寺川と、神奈川県川崎市麻生区で麻生川と合流し横浜市青葉区を縦断する。東名高速道路の下を抜けて横浜市緑区と都筑区の境界に沿い、下末吉台地に挟まれた沖積低地の入り口付近である緑区中山町で恩田川と合流する。このあたりまで鶴見川は谷本川(やもとがわ)とも呼ばれ、源流からおおむね南東に流れる。恩田川と合流した鶴見川は利水の基準地点とされる落合橋付近から東流し、港北区新横浜付近で鳥山川と合流すると蛇行して北へ向かう。再び蛇行して東流すると港北区綱島付近で早渕川と合流し、鶴見区駒岡付近で矢上川と合流する。鷹野大橋付近から左岸に川崎市幸区と接しながら南東へゆるやかに蛇行し始め、治水の基準地点とされる末吉橋付近から鶴見区を貫き、同区末広町・大黒町の河口から東京湾に注ぐ。
鶴見川流域は標高80mから170mの低い丘陵地帯が分水界をなし、河床勾配は源流から恩田川合流付近までの上流部で約1/250、沖積低地の中下流部で約1/1000の緩勾配となる。流域の大半が大きく起伏した丘陵・台地のため、かつては開発されることもなく自然豊かな環境・景観が形成されていた。しかし、1960年代(昭和30年代半ば)に始まる高度成長期から、流域周辺は人口が急増し、住宅地として急速に開発が進められた。1958年(昭和33年)には流域内の市街地率は約10%、人口は約45万人であったが、2003年(平成15年)には市街地率約85%、人口約188万人となっている。この市街地化の結果、谷戸や低平地の農地はほとんど姿を消し、自然主体の流域から都市主体の流域へと変貌した。(Wikipedia)
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鶴見川流域の概要

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左手は小山田緑地が迫ります/新橋(上小山田)              

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右手は尾根緑道、リサイクル文化センターの煙突が見えます/坂下橋(小山田桜台)

尾根緑道の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/19450838/


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町田フットパス(9)「図師から小山田桜台」案内板
(青:鶴見川 赤:小山田城址・大泉寺 白山神社 小山田神社 黄:小山田緑地)



・・・図師

町田市の北部に位置する。北西から南東に鶴見川が流れる。小野路町に跨る北部の丘陵地帯は「図師小野路歴史環境保全地域」に指定されており、全体として典型的なかつての多摩丘陵の景観を示している。武蔵国多摩郡小山田庄小山田郷の後、多摩郡柚木領に属した。地名は承久年間(12191221)時の領主の小山田二朗重義が半沢山にある「白山社」を修理しようとして別当の大蔵院長栄に社にある地形を尋ねたところ、長栄は図を画き重義がそれを誉め、長栄を図師法印半沢坊と称し領地の一部を社領として寄贈し「図師領」と称したと伝わる。(Wikipedia)

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ここから芝溝街道沿いに流れます        下流の景観/図師大橋


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右手は七国山です/鶴見橋(山崎町)

山崎町

町田市の中部に位置し、野津田町との町境付近を鶴見川が流れる。東には七国山があり東側の町境は薬師池公園に接する。旧日本住宅公団の大規模集合住宅である町田山崎団地・山崎第二団地が南部の大部分を占めるほか、北東部には都営山崎町アパート、シーアイハイツ町田などの集合住宅が多い。(Wikipedia)

七国山
(ななくにやま)
町田市山崎町にある標高128.5mの山である。鎌倉時代頃に鎌倉と上州方面を結んだ鎌倉上道の古道跡が現在も残っており、近隣の本町田や小野路は古くから宿場として栄えたとされる。昔は頂上付近から相模、甲斐、伊豆、駿河、信濃、上野、下野の7つの国を見ることができたためそのように呼ばれた。(Wikipedia)

鎌倉街道関連の記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/17960720/



・・・野津田

町田市の中北部に位置する。東西に鶴見川が流れ北東の町境には小野路川が流れる。北部と南東部と南西部は丘陵地帯となっている。「野津田郷」とも呼ばれた。江戸時代に、野津田村は最初、捉飼場(鷹を訓養する場所)になったが、後に留場(放鷹の地で水鳥などを生息、繁殖させるため漁猟禁止地域)に組み込まれた。その後、金沢藩前田家の鷹場になった。地名は蔦(ツタ)が茂っていたことに由来し「野蔦」と呼ばれた。(Wikipedia)

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鎧堰水辺の広場(鎧堰跡)/野津田町

「鎧堰の歴史」
鎧堰は、永禄8年(1565年)に八王子城主・北条氏照候の印版状を得て武藤半六郎が構築した。北条氏照は天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原城攻略による落城で秀吉から切腹を命ぜられた。しかし、この鎧堰はその後長い間地域の人々に守られ今日まで400年以上にわたって野津田地区で八町八反歩(約87000平方メートル)の水田に豊かな農業用水を供給して人々の生活を支え親しまれたきた。河川整備に伴う鎧堰の撤去に際し、歴史を記す。
北条氏照印判状  野蔦(野津田)之郷本堰口、川二崩、当年水不上之間、新堰可鑿歟之旨、得御意候、 以彼堰過分之田地可荒義如可候間、小分之年貢引候義者不苦候、 尤新堰可為鑿旨被仰出状如件、丑(永禄8年)三月廿日 一雲奉 武藤半六郎殿 専正軒 「町田市史資料集第四集」より

「鎧の名の由来」
元弘3年(1333)5月8日、上野国新田庄(群馬県新田郡)の武将新田義貞は後醍醐天皇側からの命を受け、鎌倉幕府を倒すための兵を挙げました。新田軍は上野国から武蔵国に入り、鎌倉街道上道に沿って兵を進めます。対する鎌倉幕府軍は5月9日に鎌倉を出発します。両軍は、小手指原(入間市)久米河(東村山市)にて衝突し、5月15日には武蔵国府の有る府中に至ります。15日16日の2日間にわたって分倍河原(府中市)では激しい戦いが繰り広げられました。多摩川を越えた関戸付近では敗走する幕府軍を追って激しい掃討戦(関戸合戦)がおこなわれました。 (「多摩川市関戸に残る中世の伝承とその背景」より) この関戸合戦の末端で戦い犠牲になった兵の屍が鶴見川を流れ折り重なって堰をなり、その状況を見て「鎧堰」 (当時は鎧ヶ淵)と呼ぶようになったろの伝承があります。また、堰の模様が鎧に見えたことから鎧堰を呼ぶ説もあります。この鎧堰の北側の小高い畑に兵の亡骸を手厚く葬り、神聖な場所と言われた「兜塚」がありました。また、並木前の畑にはヤバ(矢場)畑、ツカ(柄)畑の通称もあり、この地が合戦場であったことを思わせます。 平成21年の河川整備に伴いこの伝承を記す。(東京都南多摩東部建設事務所)


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左手は野津田公園、右手は民権の森になります/丸山橋(旧鎌倉道・野津田町)


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前方新袋橋(現鎌倉街道)、左手奥が鶴川団地になります/参道橋


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青:鶴見川 黄:田中谷戸 橙:大山寺 小野神社 赤:橋(源流~新袋橋)

鶴見川東京都管理区間/丸山橋
区間:新橋上流端から麻生橋上流(神奈川県内を除く)
鶴見川は町田市上小山田町に源を発し、多摩丘陵を流下して横浜市生麦付近で東京湾に注ぐ全長42.5km、流域面積235km2の一級河川です。その流域は町田市、稲城市及び川崎市、横浜市に拡がり流域市街化率は80%を超えますが、上流・源流域は谷戸とその背後地に広がる雑木林など現在も豊かな自然が残っています。
谷戸とは
丘陵地が浸食されてできた谷状の地形を持つ地域です。谷戸には斜面の雑木林や谷底の谷戸田・湿地・草地など多様な自然環境が見られ、人間が長い間、自然と共存した生活を営んでききました。(東京都南多摩東部建設事務所)



・・・大蔵

町田市の北部に位置する。東西に鶴見川、西の町境には小野路川が流れ鶴見川に合流する。東には能ヶ谷、東南で川崎市麻生区の飛び地である岡上に接し、
北には鶴川がある。(Wikipedia)

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大蔵橋の手前で左から小野路川が合流します/川島橋(大蔵町)


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小田急線&岡上の丘/下川戸橋(大蔵町)

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真光寺長津田線に架かる宝殿橋、手前の左手が鶴川駅になります


(以前の「鶴見川・源流の泉」の内容を組み替えて編集し直しました。2016.1.21)

by Twalking | 2016-01-21 23:46 | リバーサイドウオーク(新規)