無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カテゴリ:浜街道(完)( 12 )   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 港の風景   

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横浜ランドマークタワー/汽車道

横浜ランドマークタワー

横浜みなとみらい21の中核を担っている超高層ビルで、オフィスのほかホテルやショッピングモールなどからなる複合施設。(三菱地所保有)。1990年着工、1993年に開業した。70階建て高さ296.33m。超高層ビルとしては大阪市のあべのハルカスに次いで日本で2番目に高く、構造物としては東京スカイツリー(634m)、東京タワー(332.6m)、あべのハルカス (300.0m)、明石海峡大橋(298.3m) に次ぐ5番目の高さである。Wikipedia


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大岡川河口北仲橋/汽車道

北仲橋

横浜市中区に位置し大岡川の河口部に架かる橋梁である。当橋梁の架設以前にはほぼ同じ場所に大岡橋梁が架かっていた。北仲通地区に当時存在した横浜生糸検査所までの専用(引き込み線)を通すために、北海道の夕張川橋梁と旧総武鉄道の江戸川橋梁(2連)を1928年(昭和3年)に移設し、3連のポニー形ワーレン・トラスとしたものである(平成6年に撤去となり、旧夕張川橋梁部分は汽車道の港三号橋梁として縮小移設され、旧江戸川橋梁部分は江戸川に人道橋として復元移設されている)。橋の北東側には開港当時に灯台が設置された旧灯台寮護岸(横浜市で最も古い河川護岸)が残っており横浜市認定歴史的建造物となっている。また、護岸付近には旧大岡橋梁台跡の石積み台も残る。Wikipedia


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赤煉瓦倉庫/象の鼻パーク

横浜みなとみらい21
横浜市の西区と中区にまたがり横浜港に面している地域である。ランドマークタワーや日産本社ビルなどがありオフィスビル開発を推進する「中央地区」と赤レンガ倉庫やコスモワールドなどがある「新港地区」、そごうやスカイビルがある68街区の「横浜駅東口地区」(出島地区)に分けられる。当地区全体の面積は約1.86km2(約186ha)そのうち埋立部は約0.76km²(約76ha)である。同地区は横浜都心部の一体化と強化をめざしたウオーターフロント都市再開発として建設されている街で、1980年代に再開発が行われる以前は、当地に三菱重工業横浜造船所、国鉄高島線(貨物支線)の東横浜駅および高島駅・高島ヤード(操車場)、高島埠頭、新港埠頭などがあった。Wikipedia


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大さん橋/象の鼻パーク

大さん橋

横浜市中区にある横浜港の港湾施設。1894年に完成した鉄桟橋を前身とし、税関桟橋、横浜桟橋山下町桟橋等のさまざまな名称があったが、その後大桟橋に落ち着いた。太平洋戦争後連合軍に接収されていた間はサウスピアと呼ばれ、明治の末頃から1970年頃まではメリケン波止場とも呼ばれていた。前身施設は名実ともに桟橋であったが、2002年に完成した現在の大さん橋は構造的には「桟橋」ではなく「岸壁」であり平仮名混じりの「大さん橋」が正式の表記である。Wikipedia

メリケン波止場

神戸市の神戸港にある波止場の一つ。1868に明治政府が兵庫港3波止場として開設。当時、波止場のすぐ近くに米国領事館があったことから、「アメリカン」の英語の原音発音から「メリケン」波止場と呼ばれるようになった。大正時代に中突堤と新港突堤が竣工するまでは高浜岸壁とともに神戸港を代表する波止場であった。神戸港と同じ時期に発展した横浜港の大さん橋も「メリケン波止場」と呼ばれていた。(Wikipedia

横浜山手の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/17004872/



by Twalking | 2016-11-10 19:49 | 浜街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 浜街道(4)星川~関内03 関内   

日時 2016.10.27(木)
天気 晴れ/曇り


浜街道の終着、像の鼻波止場に辿り着きました。
馬車道、本町通り、日本通り等駈け足でみて回りました。
横浜は見所が多いので、中までみると面白いでしょうね~。

開港場の横浜を目指して、これが動機であり目的でしたが、
やはり横浜は魅力のある街です、歴史的にも面白い所ですね。
また、機会を得て訪ねてみたいと思います。


・・・伊勢佐木町


地名としては伊勢佐木町字1丁目~7丁目からなり、伊勢佐木町通りに沿って北東-南西方向に約1.4km続く。北東端からは吉田橋を抜けると馬車道につなる。元々は入江を埋めた吉田新田の北一つ目沼地。沼地は寛文11年(1671)までには埋め立てられ耕地となっていた。明治2年(1869)には当地付近に港崎遊郭が移転し吉原町が起立、明治5年にはその遊郭も高島町に再移転し区画整理して明治7伊勢佐木町が起立した。
明治15年に遊郭が高島町から真金町へ再々移転すると関内から遊郭への通り道となり、伊勢佐木町通りを中心に繁華街へ発展。明治44年にはドイツ人貿易商・ヴェルダーマンが日本最初の洋画封切館であるオデオン座を開館、大正初期までには東京・浅草や大阪・千日前と並ぶ大繁華街となり「ザキブラ」「イセブラ」なる言葉も生まれた。Wikipedia

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街道風景① 伊勢佐木町入口を左折して吉田橋へ

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横浜道                伊勢佐木町


・・・関内

かつて関内周辺は海であった。現在の大岡川と中村川に囲まれた一帯は入り江であり、久良岐郡横浜村はこの入り江の先に突き出た宗閑(洲乾・洲干)と呼ばれた砂州上に形成された寒村であった。江戸時代にこの入り江は吉田新田として埋め立てられ現在のような陸地となり、更に海側の現在の関内地区に相当する場所には横浜新田や太田屋新田が埋め立てにより造成された。江戸幕府はアメリカに開港を要求され、当時「神奈川」の隣町であり寒村であった「横浜村」(神奈川のにあるに伸びた)を神奈川の一部と称しこの地を開港した。それは幕府が東海道の宿場町であり、栄えていた「神奈川宿」に外国人を入れたくなかったためである。神奈川宿から横浜村へ道が作られ(横浜道)、間にある大岡川の分流「派大岡川」に「吉田橋」を架け、その橋に関門という関所の様なものを置いた。その関門の内側、横浜側を「関内」と呼んだ。現在の地域名はこのことに由来する。神奈川運上所(今の県庁のある場所)の西側が日本人居住地、東側が外国人居留地であった。1860年に横浜村周辺は、今までの川に加えて掘割りを掘り、橋を架け、橋を通らなければ横浜(関内)には行けない様にし、全ての橋に関門を設けた。吉田橋から旧居留地に至る道が今の「馬車道」である。
Wikipedia

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街道風景② 吉田橋を渡ると関内、馬車道へ向かいます/吉田橋

吉田橋

江戸時代に吉田勘兵射衛により埋め立てられた吉田新田と太田敬明により埋め立てられた太田屋新田の間に流れる派大岡川には、1859年(安政6年)の横浜港開港の頃に仮橋が架けられ、東海道と横浜港を結ぶ横浜道が通された。3年後の1862年(文久2年)には仮橋から木造の本橋に架け替えられた。この橋は多くの橋脚を立てなければ耐えられないほどの簡易なもので、馬車の通行に支障をきたすと居留地の外国人らから苦情が寄せられ、1869年(明治2年)にお雇い外国人の灯台技師リチャード・ブラントンにより錬鉄製の無橋脚トラス橋に掛け替えられた。鉄材はイギリスに発注され橋長は約13間(約23.6m)、幅約5間(約9.1m)、トラスの高さは約6尺(約1.8m)で工費は当時の額で7000円であった。Wikipedia


d0183387_20022612.jpg吉田橋関門跡
 
横浜市地域史跡安政6年(185962日横浜が開港となって交易場、貿易港として栄えるにしたがい幕府は開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜路を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋を架け、その後本橋が吉田新田から架橋されたことより「吉田橋」と呼ばれました。吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心地となりその治安を図るため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入を取り締まりました。関門は当初港町側に設けられましたが、文久4年(18642月に吉田町側に移設されました。関内、関外という呼び名はこのとき以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢崎町側を指し、その関門は明治4年に廃止されました。(横浜市教育委員会)

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横浜鉄之橋図 貞秀画 1870

鉄の橋

明治2年(1869)英国人土木技師R.H.ブラントンにより架け替えられた吉田橋は橋長24m、幅員6mの日本最初のトラスト鉄橋であり、「鉄の橋」として市民に親しまれるなど大変人気を集めました。現在の高欄は「鉄の橋」をイメージして復元したものです。(案内板)

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横浜居留地地図 ブラントン実測 1870

ブラントンと横浜

明治元年(1868)政府の招聘により来日したブラントンは、開国にともない日本沿岸各地に灯台を建設する一方、8年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、日本大通りや横浜公園などの設計を行うなど、近代的なまちづくりに大きな足跡をのこしました。
横浜居留地測量(186870) 電信敷設(1869) 新橋・横浜間の鉄道意見書(1869) 吉田橋(鉄の橋)架設(1869) 居留地下水道整備・マカダム式道路舗装  街灯照明計画(186971) 水道計画(1870) 築港計画(18707374) 新埋立居留地造成設計・施工(1871)) 中村川拡張等設計・施工(1871) 日本大通り設計・施工(1871)修技校開設(1871) 横浜公園設計・施工(187172)(案内板)


・・・馬車道

関内の桜木町寄りに位置するこの道路は幕末に開港したことから始まる。幕府は神奈川(横浜)を開港させ「吉田橋」に関門を設けた。その初めにできた関門に開港場側から至る道が馬車道である。アメリカが江戸幕府に開国を要求し日米通商修交条約が結ばれ、これによって貿易のため横浜港が開かれ、関内に外国人居留地が置かれた。その関内地域と横浜港を結ぶ道路のうちの1つとしてこの道は開通した。外国人はこの道を馬車で往来しており、当時の人々にその姿は非常に珍しく「異人馬車」などと呼んでいたことからこの道は「馬車道」と呼ばれるようになった。さらに明治初年には東京行きの日本初の乗合馬車がこの付近から出るようになった。
Wikipedia

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馬車道入口

d0183387_22443509.jpg近代街路樹発祥之地/馬車道交差点
街路樹は、近代に入ってから人口過密な都市の景観的魅力を向上する為に発達したものであり、参道並木、街灯並木などいわゆる地方並木とは区別されている。日本における街路樹は明治以後、欧米都市の影響を受け樹種の選択、植栽手入法の改良などによって著しく進歩・普及した。1867年(慶応3年)開港場横浜の馬車道では、々の商店が競って柳と松を蓮植した。これが日本での近代的な街路樹の先駆となった。1872年(明治5年)になって馬車道に日本最初のガス灯が点灯されると、この街路樹はさらに美しく映え夜の涼を楽しむ人々で賑わった。(開港120周年記念)



d0183387_22462224.jpgイギリスからやってきたガス灯たち
「トラファルガー広場のガス灯」
1805年、ナポレオン率いるフランス・スペイン艦隊を、スペインのトラファルガー沖で撃沈してイギリスを救った英雄王、イギリス海軍ネルソン提督の活躍と栄誉を称えてつくられたのが、トラファルガー広場。高55mもの円柱(コラム)から町を見守るネルソン提督の像の台座には、彼の活躍した4つの海戦場所(トラファルガー・ナイル川・セントビンセント岬・コペンハーゲン沖)が描かれています。このガス灯は、このロンドンの中心的存在であるトラファルガー広場のガス灯と同じものです。1872年(明治5年)日本最初のガス灯が馬車道に灯されたことを記念して、東京ガスの協力により設置しました。(馬車道商店街協同組合)

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ハマの街灯点火の地          六堂の辻道碑

ハマの街灯点火の地(常磐町)
/勝烈庵
明治33101日、初めて横浜市内700の電灯と街灯が一斉につきました。この街灯は山下公園の門灯でした。同公園に埋もれていたのを、電力の産みの親、横浜共同電灯株式会社跡の常磐町に復活させました。古き良き時代をしのんで頂けたらと存じます。

d0183387_22503000.jpg太陽の母子
(製作者 本郷 新)
横浜沿革史に「明治26月馬車道通常磐町5丁目ニ於テ町田房造ナルモノ氷水店ヲ開業ス」と誌されています。日本のアイスクリームの誕生です。私達はこれを記念し、このゆかりの地にモニュメントを建て寄贈いたします。(社団日本アイスクリーム協会)

d0183387_22522789.jpg日本で最初のガス灯
安政6年(1859)に開港場となって以来、横浜は西洋文化の玄関口となりました。馬車道を起点にして全国に広まったものも数多くあります。ガス灯は明治5年(1872)に、高嶋嘉右衛門の「日本ガス社中」により馬車道・本町通り等に設置、点灯され、これが日本における最初のガス灯となりました。柱部は英国グラスゴー市から輸入し、灯具は日本人職人により製造されたと言われます。このたび、横浜市市民文化会館〔関内ホール〕新築完成を祝って、当時の型をモデルとしたガス灯を復元設置しました。壁面レリーフは、横浜開港資料館所蔵の絵葉書を転写したもので、明治末期の馬車道です。(馬車道商店街協同組合)

d0183387_22550834.jpg日本で最初のガス灯/
関内ホール
安政6年(1859)に開港場となって以来、横浜は西洋文化の玄関口となりました。馬車道を起点にして全国に広まったものも数多くあります。ガス灯は明治5年(1872)に、高嶋嘉右衛門の「日本ガス社中」により馬車道・本町通り等に設置、点灯され、これが日本における最初のガス灯となりました。柱部は英国グラスゴー市から輸入し、灯具は日本人職人により製造されたと言われます。このたび、横浜市市民文化会館〔関内ホール〕新築完成を祝って、当時の型をモデルとしたガス灯を復元設置しました。壁面レリーフは、横浜開港資料館所蔵の絵葉書を転写したもので、明治末期の馬車道です。(馬車道商店街協同組合)


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馬車道の風景


d0183387_23004019.jpg日本写真の開祖・写真師下岡蓮杖
伊豆下田に生まれる。嘉永元年(1843)オランダから長崎へダゲレオタイプ一式が渡来した。弘化2年(1845頃)狩野派の青年絵師が、銀板写真に遭遇し、そして絵筆を折り捨て写真技術習得の道へ歩みだした。この青年こそ、日本に写真史という職業を確立した日本写真の開祖・下岡蓮杖その人である。蓮杖は、来日の外国人から湿板写真の機材を入手し、筆舌に尽くしがたい辛苦の歳月を経て、文久2年(1862)野毛に初めての写真場を開業し、その後弁天通りに進出し、慶応3年(1867)太田町5丁目角地に「富士山」と「全楽堂」館を開き大繁盛をした。数多くの門下生を育て、我が国に於ける写真技術の先覚者として近代文化の発展に貢献した。その業績に敬意を表し、文明開花の地、馬車道通りに写真師発祥125五周年、日本写真の開祖 写真師下岡蓮枝顕彰碑を昭和62年(1987)建立をみたのである。(顕彰碑:下岡蓮枝顕彰碑実行委員会 碑文:横浜市写真師会設立百周年記念実行委員会)

d0183387_23031050.jpg牛馬の水飲み場


d0183387_23030671.jpg旧川崎銀行横浜支店(日本興亜馬車道ビル)
設計者の矢部又吉は横浜生まれでドイツに学んだ建築家で、隣の旧横浜正金銀行本店の設計者妻木頼黄の弟子。ファザード2面を残して機能更新を図った今の建物は、歴史的建造物の保存・再生の一手法を示した先駆的作品である。所在地:中区弁天通5-70 構造・規模:RC3階、地下1階/現建物SRC雑階 建築年代:大正111922)/現建物 平成元年(1989)指定・認定:横浜市認定歴史的建造物 平成元年(19893月 設計:矢部又吉/現建物 日建設計


d0183387_23111115.jpg旧横浜正金銀行本店
/県立歴史博物館
横浜正金銀行は、安政6年の開港以来、外国商人が主導していた貿易金融取引を改善するため明治13228日に設立されました。その後政府の保護を受けて外国貿易関係業務を専門的に担当する銀行として成長し、大正8年には世界3大為替銀行の一つに数えられるようになりました。この建物は明治37年に横浜正金銀行本店として建設され、ドイツの近代洋風建築の影響を受け、明治時代の貴重な建造物であることから、昭和44312日には国の重要文化財の指定を受けております。さらにこのたび、我が国の近代史の中でも、産業経済の発展に貢献した貿易金融機関のあり方を示す貴重な建造物およびその敷地であることから、国の史跡に指定されました。(神奈川県教育委員会)

d0183387_23193755.jpg旧東京海上火災保険ビル(馬車道大津ビル)
シンプルな外観ながら、壁面を覆うタイルの多様な張り方を主たる意匠するアール・デコ特有のスタイルを示す。特に壁面頂部の表現は典型的なものである。現在も民間のオフィス・ビルとして使用され、馬車道の歴史的景観を構成する貴重な建物である。所在地:中区南仲通4-43 構造・規模:RC4階、地下1階 建築年代 :昭和11年(1936) 指定・認定:横浜市認定歴史的建造物 平成12年(200011月 設計:不明(説明板)


d0183387_23212124.jpg旧富士銀行横浜支店

ルスティカ積みの外壁に、ドリス式オーダーの付柱と半円形窓が組み合わされて配されている。当初は安田銀行横浜支店として建てられた。安田銀行は大正末から昭和初期にかけて、ほぼ同じスタイルで各地に支店を建てているが、これはそのなかでも最大規模かつ、希少な現存例。所在地:中区本町4-45 構造・規模:RC2階 建築年代:昭和4年(1929)設 計:安田銀行営繕課(説明板)


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イギリスからやってきたガス灯たち「ビクトリア・タワーのガス灯」ビック・ベンとともに、英国国会議事堂のシンボルとして有名なビクトリア・タワー。1843年の火災で焼失したウェストミンスター宮殿を国会議事堂として再建させる際、建築家のオーガスタス・ピュージンは、ゴシック建築のロマンチックな風貌に、非対称のデザインのもつ力強さを生かそうと、南端の塔このビクトリア・タワーを大きく設計したのだといわれています。この後ストーンはビクトリア・タワー周辺に立つガス塔と同じものです。1872年(明治5年)日本最初のガス灯が馬車道にともさたことを記念して東京ガスの協力により設置しました。(馬車道商店街協同組合)

d0183387_23290486.jpg旧生糸検査所(横浜第2合同庁舎)/
本町四丁目交差点
「キーケン」の名で親しまれていた建物。耐震耐久性の問題から解体されたが極力創建当時の状態に復元し、新築、再生を図った。震災復興期の建築としては最大規模を誇り横浜ゆかりの建築家遠藤於菟の晩年の大作である。所在地:中区北仲通5-57 構造・規模:RC造4階、地下1階/現建物 RCSRC23階、地下3階 建築年代 :大正15年(1926)/現建物 平成5年(1993) 指定・認定:横浜市認定歴史的建造物 平成2年(19907月 設計:遠藤於菟/現建物 建設省関東地方建設局営繕課(説明板)

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馬車道案内図



・・・本町通り

本町
(ほんちょう)
江戸時代末期からの地名で当初は横浜町1878年に横浜区、1889年に横浜市、1947年からは横浜市中区の町名となる。町名は横浜村の目抜き通りを中心とする地域であり1859年(安政6年)の横浜港開港に際し建設された市街の中心をなすことから付けられた。1872本町通りにガス灯が10基灯された。1874年には石造2階建で時計台をもつ横浜町会所が作られ、1889年に横浜市役所となったが1911年には港町に移転、その跡には1917年に横浜市開港記念館が建てられた。Wikipedia
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ジャックの塔/横浜市開港記念会館


横浜市開港記念会館(
国指定重要文化財)
横浜市開港記念会館は、開港50周年を記念して大正3年(19149月に着工され大正671日の開港記念日に「開港記念横浜会館」として開館しました。建物は大正12年の関東大震災によって一部焼失したため、昭和2年と平成元年に復旧工事が行われ創建時の姿に復元されました。建物の外壁は腰石まで花崗岩積みで、12階は赤い化粧煉瓦と白い花崗岩を積み上げた辰野式フリークラシックスタイルで古典主義を自由にアレンジしています。東南隅には高塔(時計塔)、西南隅に八角ドーム、北東隅に角ドームさらに高塔を挟む位置にも角ドームを作り、屋根は寄棟造り・天然スレート葺で越屋根は銅板葺としています。また、建物内部の広間、中庭に面する窓にはステンドグラスが用いられるなど大正期の建物として華やかで優れた意匠が施されています。(横浜市教育委員会文化財課 (社)横浜国際観光協会)


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神奈川運上所跡/神奈川県庁交差点
開港にともない、関税と外交事務を扱う神奈川運上所が、今の神奈川県庁所在地に設けられ、神奈川奉行の支配に属していた。慶応2年(1866)類焼、翌年新築、横浜役所と称した。明治元年(1868)明治政府に移管され同5年(1872)横浜税関に改められた。(説明板)


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キングの塔/神奈川県庁

神奈川県庁本庁舎

外観の全体構成はクラシックであるが、細部は幾何学的な独自の意匠が用いられ、後の帝冠様式の先駆けでもある。スクラッチタイル貼りの外壁と中央の高塔が特徴的で、その塔は「キング」の愛称で親しまれている。所在地:中区日本大通1 構造・規模:SRC5階、地下1階 塔屋付 建築年代 :昭和3年(1928) 指定・認定:国登録有形文化財 平成8年(199612月 設計:小尾嘉郎(説明板)


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クイーンの塔/横浜税関

横浜税関

建物
は税関らしく表面を港に向けており、塔はイスラム寺院風のドームをいただきエキゾチックな雰囲気を醸しだしている。その塔は「クイーン」の愛称で親しまれている港横浜のシンボル。所在地:中区海岸通1-1 構造・規模:SRC造5階/現建物 SRC・S造7階 建築年代 :昭和9年(1934)/改修及び増築 平成15年(2003) 指定・認定:横浜市認定歴史的建造物 平成13年(20013月 設計:大蔵省営繕管財局工務部/改修及び増築 香山・アプル設計JV(説明板)

d0183387_17245581.jpg横浜三塔

横浜市中区の関内地区にある塔を持つ3つの建物の愛称である。キングの塔(神奈川県庁本庁舎 塔高:約49m 完成:1928年・昭和3年)クイーンの塔(横浜税関 塔高:約51m 完成:1934年・昭和9年)ジャックの塔(横浜開港記念館 塔高:約36m 完成1917年・大正6年))は、地元では「横浜三塔」と呼ばれ横浜港のシンボルとして長年市民に親しまれている。都市開発が進んだことによって周りにビルが建ち目立ちにくくなってしまったが、建った当時は他に目立つものはなく横浜港に入港してくる船の目印になっていた。塔の愛称は入港する船の外国人船員達がトランプのカードに例えて名づけたと言われている。Wikipedia



・・・日本大通

1859
年(安政6年)の横浜港開港の際に外国人居留地となったが当初は町名が設けられなかった。1866(慶応2)の大火を契機に外国人側は居留地の拡張・拡充を要求、横浜居留地改造及競馬場墓地等約書が定められ、大規模な区画整理が行われた。1870年(明治3年)に横浜公園と像の鼻波止場を結ぶ街路が完成、この通りは「日本大通り」と名付けられる。イギリス人建築家リチャード・ブラントンの設計により日本初の西洋式街路としてほぼ完成、当時は歩道3m・植樹帯9mを含む36mの幅員を持ち、横浜のメインストリートの役割を果たした。Wikipedia

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日本大通り

d0183387_18291797.jpg旧英国総領事館(
横浜開港資料館旧館
この建物は昭和6年(1931)に英国総領事館として建てられ、昭和56年(1981)から横浜開港資料館として使われている。英国工務局によって設計され、18世紀のジョージアン・スタイルの都市邸宅を思わせるデザインである。その特色は玄関周りによく現れている。敷地はかつて日米和親条約が結ばれた由緒がある土地である。所在地:中区日本大通3 構造・規模:RC3階、地下1階 建築年代 :昭和6年(1931) 指定・認定:横浜市指定有形文化財 平成12年(200011月 設計:英国工務局(説明板)

d0183387_18523601.jpg旧横浜地方裁判所(横浜地方・簡易裁判所)
旧建物は県庁と並ぶ戦前横浜の官庁建築の代表作。左右対称の日の字形の平面やスクラッチスタイルの外壁など、昭和初期における公共建築の典型的な意匠をもつ。新庁舎の建設に伴い、低層部に旧建物を復元した。所在地:中区日本大通9 構造・規模:RC3階(一部4階)/現建物 RCSRC・S造13階、地下2階 建築年代 :昭和5年(1930)/現建物 平成13年(2001) 指定・認定:横浜市認定歴史的建造物 平成11年(19993月 設計:大蔵省営繕管財局/現建物 国土交通省 関東地方整備局営繕課(説明板)

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横浜公園・日本庭園

d0183387_19005721.png横浜公園の歴史
横浜公園の誕生のきっかけは幕末の1866(慶應2)年11月に横浜を襲った大火でした。開港場のおよそ3分の1を焼失した火災を受けて、幕府と諸外国との間で「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」が結ばれ、大火で全焼した旧太田屋新田の港崎(みよざき)遊郭の跡地に、外国人と日本人の双方が利用できる「公の遊園を設置することが定められました。公園は外国人居留地と日本人市街地を隔てる防火道路(日本大通り)と一体的に計画され、イギリス人技師ブラントン(R.H.Brrunton)による原設計をもとに、神奈川県が実施設計を担当して造営されました。1876(明治9)年2月に開園し、居留外国人と日本人の双方が利用できる公園として「彼我(ひが)公園」と呼ばれるようになりました。

d0183387_19132529.jpgその後の横浜公園は、園域全体が横浜市の管理となった明治末期、関東大震災からの復興を遂げた昭和初期、そして終戦後の接収を経て、現在の横浜スタジアムが建設された昭和50年代と、3度にわたる大きな改造を経て現在に至っています。現在も園内には、震災復興時の遺産として公園中央の噴水池や縦溝入りのスクラッチスタイルを貼った外周の腰壁、震災時に横浜公園に避難した市民による謝恩植樹記念碑などが現存しております。2007(平成19)年2月には日本大通り・山下公園と合わせて国の登録記念物(名勝地)となりました。(監修:横浜市発展記念館 平成23年 横浜市環境創造局)



d0183387_19071650.jpgブラントンと横浜
明治元年(1868)政府の招聘により来日した英国人土木技師R・Hブラントンは、開国に伴い日本沿岸各地に灯台を建設する一方、8年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、日本大通りや横浜公園の設計を行うなど近代的なまちづくりに大きな足跡を残しました。(説明板)


d0183387_19111028.jpg岩亀楼の石灯籠
横浜公園一帯は江戸時代の末期までは入海で安政3年(1856)に埋め立てられ太田屋新田といった。横浜開港に伴い新田の沼地約15000坪が更に埋め立てられ港崎町(みよざきちょう)と命名され、その中に岩亀楼などが開業し国際社交場として栄えた。港崎町一帯は慶應2年(1866)の大火(通称豚屋火事)で焼失し、跡地は当時在留の外国人の要望で公園として再生することに決まり、明治9年(1876)日本最初の洋式公園(横浜公園)が誕生した。当初、彼我(ひが)公園と俗称され、明治32年(1899)神奈川県の所管から横浜市の管理に移り市民に公開され今日に至った。この灯籠は、妙音寺(南区三春台)から横浜市(横浜開港資料館)寄贈されたもので、石に刻んである「岩亀楼」の文字から岩亀楼にちなむものであることが分かる。岩亀楼は始め港崎町に建てられ、慶應2年の大火で類焼、以来二転三転して明治16年(1883)永楽町に移り明治17年に廃業した。この灯籠は明治初年頃のものと思われるが、いつ妙音寺に移されたかも判明してない。震災、戦災によって多くの文明開花期の遺物を失った横浜にとっては貴重な文化財の一つといえよう。(横浜市)


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海岸通り

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海岸通り

横浜市中心部の関内地区にあり、大さん橋や横浜税関など横浜港の主要な港湾施設が位置する。1859年(安政6年)横浜港が開港。幕府により東波止場(イギリス波止場、のちの像の鼻波止場)と西波止場(税関波止場)の2本の突堤が幕府によって建設された。1870年(明治3年)に海辺通地先の埋立地に町名としての海岸通を新設。海辺通は元浜町に改称した。1894年に大さん橋が完成。1934年にはクイーンの塔の愛称を持つ横浜税関本関庁舎が完成した。Wikipedia

山下公園の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/17110638/


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関内周辺マップ


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浜街道ルート図
(赤:浜街道 紫:甲州街道・旧東海道 緑:大山道 橙:中原街道) 



・・・・・
資料ファイル

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横浜開港資料館旧館


横浜開港資料館
1981年元英国領事館(1931年建築、1972年まで領事館として利用された)に開館した。閲覧室に明治から昭和時代までの日本に出版された外国語と日本語の新聞など数々、展示場もある。中庭に植えられているタマクスの木はマシュー・ペリー来航時の記録画にも描かれており(当時の木は1866年の大火や関東大震災にて焼失したが、その度に根元から再び芽を出して元の美しい樹木に育っていった)横浜開港のシンボルとして知られており、開国博Y150のマスコットキャラクター「たねまる」もタマクスの木の精という設定となっている。Wikipedia

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ペリー提督横浜に上陸

日米和親条約締結の地

安政元年(1854年)2月から3月にかけて日米代表が横浜村の海岸で会見、和親条約を結んだ。これは神奈川条約ともいわれ、日本の開国を促し本市の誕生の遠因ともなった。歴史的舞台をなった応接所のあとは現在の神奈川県庁の付近である。(開港広場)

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貿易でにぎわう波止場 開港資料館の前面の海に波止場ができました。現在、明治時代中頃の姿に復元されています。

横浜開港とまちづくり 
幕府は1858年アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと通商条約を結び、翌年横浜、長崎、函館を開港しました。横浜には外国人と日本商人が住むための開港場がつくられ、国内外の商品を売り買いする貿易が始まりました。小さな村であった横浜村はたちまち大きな国際都市へと変わっていきました。(説明板)

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横浜開港資料館蔵 3代広重「横浜海岸通之図」

横浜から広がった西洋文化
日本大通りと横浜税関
近くを通る日本大通りには西洋風の建物が立ち並ぶようになり、1885年に建てられた横浜税関も赤レンガづくりでした。横浜にやってきた西洋人(イギリス人やアメリカ人等)は西洋の知識や文化を日本人に伝えました。アイスクリームやビールなどの食品、せっけんやマッチなどの日用品、汽車や汽船などの乗り物、テニスや野球などのスポーツ、いりいりなものが横浜を通じて全国に広まっていきました。この中庭に展示してあるガス灯や近代的な水道も西洋から伝わったものです。(説明板)
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1935年震災復興事業の完成を記念して開催された会場の山下公園は、震災の瓦礫を埋めてつくられた日本初の臨海公園でした。

開港記念横浜大博覧会の会場図

192391日に発生した関東大震災でこのあたりは大きな被害を受けました。また1945529日のアメリカ軍による大空襲によって横浜の中心部は焼け野原となり、多くの住民が亡くなりました。しかし、繰り返された打撃を乗り越えた横浜は、現在360万人を越える人口を持つ日本有数の大都市になりました。(説明板)

d0183387_22291883.jpg日米和親条約締結の地に残るタブノキ  
横浜市地域史跡(昭和63111日登)中庭にある玉楠の木は、江戸時代から同地にあり、日米和親条約の締結(安政元年、1854)は、この玉楠の木近くで行われたといわれている。この玉楠の木は、大正12年の関東大震災によって幹の部分を焼失したが、残った根から新たに芽が出て現在のものとなった。いわば横浜の歴史をみつめた生き証人ともいえる。(説明板)

d0183387_22292407.jpg獅子頭共用栓とブラフ溝
この共用栓は、日本最初の近代水道となった横浜水道(明治1820年)創設時市内各所に配置されていたものである。当時家屋内に蛇口を引く例は少なく、路頭の共用栓から水の供給を受けるのが一般的で、創設期600基がイギリス・グレンフィールド社から輸入された。また、水受石は、山手の坂道など居留地時代の道路側溝に使用されていた石材を再利用した。(説明板)




・・・

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象の鼻パーク

d0183387_22554364.png象の鼻地区の変遷
嘉永6年(1853)開国を求めるアメリカ大統領の国書を携えたペリー率いる黒船が浦賀に来航しました。安政元年(1854)再度の来航の際にペリー一行は横浜に上陸し、開国に向けての条約締結交渉が行われました。戸数数百戸の半農半漁の村であった横浜村が歴史の表舞台に初めて登場したのはこの時です。当地の横浜村は大岡川の河口部に突き出た砂州に位置していました。ペリーが上陸した地点はこの砂州のほぼ中間で、現在の横浜開港資料館の前面のあたりです。幕府はここに横浜応接所を設けペリーを迎えました。この地で日米和親条約が締結され、後に安政5年(1858)のアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシアの5カ国との通商条約の締結によって、わが国の200年余り続いた鎖国政策に終始符が打たれたのです。条約によって神奈川の開港が決められましたが、幕府はにぎやかな東海道の宿場であった神奈川宿の近くに外国人が居留することを避けるために、神奈川の一部であるとして横浜での開港を進めました。開港に伴い波止場と神奈川運上所の建設、その背後の外国人居留地と日本人街の整備が行われました。波止場の位置はペリーが上陸した地点とほぼ重なっています。

d0183387_22565431.png安政6年(1859)の開港以来、横浜は開港場として急速に発展し慶応21866)の横浜大火を契機に本格的な市街地整備が行われました。彼我(ひが)公園(現在の横浜公園)や中央大通り(現在の日本大通り)などの都市の骨格が整備され、鉄橋やガス灯、鉄道などの近代技術が導入されました。この時期、市街地は関内地区をはじめ関外、山手地区に広がりました。貿易量の増大に伴い現在の山下公園中央付近に新たに波止場が作られ、象の鼻地区の波止場では2本の突起が直線上から水域を囲む形に変更されましたが、港としての機能はまた脆弱でした。鉄桟橋(現在の大さん橋)が整備される明治時代中期までの間、大型船が直接接岸することができる港の施設はなく、沖合に停泊した本船とこれらの波止場の間を艀(はしけ)などを使って人や荷物を運んでいました。(説明板)


d0183387_23382903.png象の鼻堤防

安政6年(1859)の横浜開港に伴い、幕府は開港場の中央部に波止場を建設し、その中心地点に運上所(税関)を設置しました。この波止場は2本の突起が岸からまっすぐに海に向かって突き出た簡素なもので、東側の突起は外国貨物の、西側の突起は国内貨物の積卸に使用されました。突起には外国の大きな船舶が直接横付けできないため、沖に停泊している船舶から小船に荷物を移し替えて運んできましたが、強風による高波の影響で小船の荷役作業はしばしば妨げられました。慶応21866)の横浜大火により被害を受けた税関施設などの復興と共に、慶応3年(1867)、幕府は東側の突起を延長して象の鼻のように弓なりになった防波堤を築造しました。これが「象の鼻」のはじまりで、この防波堤によって囲われた水域で行う荷役作業は一気に効率が上がりました。象の鼻パークの整備工事においては、残されている写真や工事記録などを参考にして、全体の姿が明治中期頃のものになるように復元工事を行いました。工事中に大正12年(1923)の関東大震災で沈下したと思われる象の鼻防波堤の石積みと舗装の石材が発見されたため一部をそのままの形で保存・展示するとともに、復元した石積みにも利用しています。

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再改横浜風景(部分)五雲亭貞秀/横浜開港資料館蔵

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横浜桟橋風景(部分)/横浜開港資料館蔵


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江戸名所図会 横浜弁財天 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

厳島神社
横浜村の鎮守で、宗像三女神(市杵島姫尊、多紀理姫尊、多岐都姫尊)を祭神とする。元来は洲干島(しゅうかんじま)とも呼ばれる入江の砂州上の寒村であった横浜村の更に先端にあり、洲干弁天社と称した。 創建は治承年間で、源頼朝が伊豆国土肥(現・静岡県伊豆市)から勧進したと伝えられる。足利氏満は般若心経を奉納、太田道灌は社殿を再建、徳川家光は朱印地を与えている。浜辺の松林で覆われた境内は対岸の神奈川宿台町からの眺望十五景の一つ(「洲干雪」)にも数えられるほどの景勝地であった。また境内には瓢箪池があり、清水が湧き出たため「清水弁天」とも、また所在地から「横浜弁天」とも呼ばれた。開港後、門前が弁天通として整備された。秀閑寺という別当寺を有したが廃絶、慶安年間以降は元町1丁目の増徳院が別当になった。1869年に街区拡張のため現在地の羽衣町に移転して厳島神社と改称。Wikipedia



by Twalking | 2016-11-04 10:49 | 浜街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 浜街道(4)星川~関内02 野毛山(横浜道)   

日時 2016.10.27(木)
天気 晴れ/曇り


浅間下交差点が横浜道の起点になります。
東海道を歩いている時に確認はしてますが、
開港場への道、いつか歩きたいと思っていました。

また野毛山は近代水道の供給地、これも興味ありです。
何れも住宅地ですが、それでも道筋や川、説明板などを
読み返すとなんとなく当時の感じがつかめます。
野毛の展望台からの景観はいいですね~。。。



・・・浅間下追分(西区)

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街道の風景① 右手先が「横浜道」の起点になります/浅間下交差点

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浅間下公園              薬局先が起点です

西区歴史街道
(西区は道の交差点、すべての道は開港場へ)

西区は昭和1941日に中区から独立して誕生しました。今から250年ほど前までは現在の西区の区域は芝生村(しぼうむら)と平野部が東海道の景勝地である「袖ヶ浦」という三角形の内海をはさんで成り立っていました。神奈川宿台町から見た景色は大変美しく、「武蔵国第一の景」と言われるほどでした。宝永41707)年の富士山大噴火による降灰の影響で海が浅くなり湿地帯になっていくと、18世紀以降埋立による新田開発が進められ「宝暦新田」「平沼新田」「岡野新田」などが造成されました。その結果、100年ほど前の「袖ヶ浦」は畑と塩田の風景に変わりました。なお「横浜道」ができるまでは、神奈川から開港場へは洲崎神社前から渡し船によっていました。

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江戸名所図会 神奈川総図三 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


d0183387_17552488.png西区は「東海道」「横浜道」「保土ヶ谷道」という3つの古道が通っていました。江戸時代の大動脈であった「東海道」は江戸方からは袖ヶ浦の海岸に沿って神奈川台(現神奈川区台町)の坂を下り、大通り(環状1号)に出て勧行寺の前を通り浅間下交差点を横切って浅間下公園の中を抜け浅間神社へと続いていました。そして追分、現在の松原商店街を通り天王町、帷子町を経て保土ヶ谷宿へつながっていました。


d0183387_17581326.jpgわが国は安政61859)年に開港し、横浜村(現在の関内地区)に開港場が築かれました。そのとき東海道と開港場を結ぶために造られたのが「横浜道」で、初めは「しんみち」と呼ばれていました。浅間下交差点先の薬局横が起点で、岡野、平沼新田の埋立地と海面の境に盛土して道とし、帷子川、石崎川の河川に「新田間橋」「平沼橋」「石崎橋」(現敷島橋)が架けられました。戸部からは野毛山に切通しを開き都橋吉田橋関門を経て開港場に重なっていました。

また「保土ヶ谷道」は保土ヶ谷宿と戸部村を結ぶ古道で、現在の保土ヶ谷区岩間町大門通り交差点から左折、藤棚商店街を通り願成寺の下の道を通り「暗闇坂」を抜け伊勢町商店街から「横浜道」に合流していました。開港場を目指して全国から集まる人々や物資はこの西区内の3つの古道を頻繁に行き交いました。それにともないわが国に入ってきたさまざまな文化もこれらの道を通って全国に伝えられていきました。重要な役割を果たしてきた3つの古道の周辺にはさまざまな歴史資源が残っています。(西区・西区観光協会)

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街道の風景② 新田間川橋を渡ります

d0183387_18182794.jpg新田間川
(あらたまがわ)
横浜市
を流れる二級河川で、帷子川の派川にあたる。江戸時代に新田の開発が行なわれた際に、石崎川とともに用水路として整備された。1859年(安政6年)に東海道と横浜港を結ぶ横浜道(現在の新横浜通り)の橋が架けられ、芝生新田(現在の浅間町)と岡野新田(現在の岡野)の新田の間を結ぶ橋であることから新田間橋と名付けられた。当時は南幸・北幸付近は入り江でありこの橋付近が河口であった。Wikipedia)帷子川 

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街道の風景③ 帷子川は元平沼橋を渡たりますが、ちょっと間違えました/平沼橋

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平沼橋                京急ガード先から商店街へ

平沼

西区にある地区で、ほぼ帷子川とその派流・石崎川にはさまれた地域に当たる。この地域を開発した江戸時代の豪商平沼家の名にちなむ。この周辺は古くは袖ヶ浦と呼ばれた入江が現保土ヶ谷区東端部まで湾入していた。この入江は景勝地として知られたが、帷子川河口に位置していたため土砂が堆積し遠浅の海となっていた。このため18世紀初頭に湾奥部から埋立てと新田開発が始まった。19世紀の天保年間になると保土ヶ谷宿の豪商であった平沼家と岡野家が大規模な埋め立てを行い(5代目平沼九兵衛が1839年開始)、それぞれ平沼新田とその北隣の岡野新田(現・西区岡野)を造成した。これにより平沼橋駅付近までが陸地になり、さらに幕末には横浜開港に伴い当時の海岸沿い(現・横浜通り西側)に「横浜新道」が設けられ東海道と横浜港が結ばれた。明治に入ると高島嘉右右衛門によって袖ヶ浦の入口(現在の横浜駅付近、高島)が鉄道建設のために埋め立てられた。残りの水域は沼となりこれも通称「平沼」と呼ばれた。そのうちで平沼新田の地先(現・平沼一丁目東部)もまもなく平沼家によって埋め立てられ、さらに平沼新田には東海道本線が敷設された。「平沼」の残り(現・北幸、南幸、鶴屋町)も大正年に埋め立てが完了した。(Wikipedia

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街道の風景④ 石崎橋(現敷島橋)を渡ります


d0183387_18353809.jpg石崎川

横浜市を流れる二級河川で帷子川の派川にあたる。江戸時代に新田の開発が行なわれた際に、新田間川とともに用水路として整備された。当時は横浜道の東側は入り江であり、現在の高島町交差点付近で直接海にそそいでいた。明治に入り入り江の一部を埋め立てて鉄道が建設された。Wikipedia


・・・戸部町
(とべちょう)

旧町域に戸部民部というものが居住していたことに由来すると伝えられる。武蔵国久良岐郡に属し、戦国時代は戸部郷、江戸時代は戸部村と呼ばれ、江戸幕府直轄領であった。文政年間(18181829)に村内の野毛浦が野毛村(現・野毛町)として分立する。1859年(安政6年)横浜港が開港すると横浜道が村内に開削され、横浜港を管轄するための神奈川奉行所、役宅、監獄(横浜刑務所の起源)など官庁機構が集中。また、戸部村内にも町屋が形成され戸部町と改称した。
Wikipedia)


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岩亀横丁/戸部4

横浜開港後、関内にあった「岩亀楼」という遊郭が明治6年(1873)年高島町に移転しましたが、その寮がこの地にあったといわれ、いつしか岩亀横丁と呼ばれるようになりました。明治時代に現在の「みなとみらい」の地に横浜船渠(横浜ドック)ができてからは、そこで働く人々の飲食や買い物で賑わいました。この横丁のなかほどに静養に来た遊女のお参りしたといわれる岩亀稲荷があって今も大切にされています。(西区)

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幟があるからこの路地みたいですね~・・・、面白そう/岩亀稲荷

d0183387_18560152.jpg岩亀稲荷の由来
横浜の開港は安政6年(1859)、開港当時の横浜の歓楽街は港崎町(横浜スタジアム辺りで隣接する日本庭園に岩亀楼と刻まれた石灯篭が保存されている)から高島町に移り、一二を争う大楼・岩亀楼があった。三層櫓式の楼閣がその偉大さを誇り夜目にも美しく人々の話題となった。当主は佐吉といって埼玉県岩槻の人で、その音読みで「がんき」と呼ばれていた。この岩亀楼一番の売れっ子・喜遊大夫(亀遊説もある)がペリー艦隊の軍人に言い寄られたがこれを拒み、有名な辞世「露をだにいとう倭(ヤマト)の女郎花(オミナエシ)ふるあめりかに袖はぬらさじ」を残して自害した。この句から幕末の遊女気質が十分伺える。遊女達が病の時、静養する寮が今の岩亀横丁にあり、遊女達が信仰していたお稲荷様が寮内にあったので岩亀稲荷と呼ばれ、現在も信仰が受け継がれている。このお稲荷様を粗末にすると必ず近状のご婦人に災いがおこると言い伝えられ、毎年525日には盛大に例祭が行われている。有吉佐和子著「ふるあめりかに袖はぬらさじ」の舞台も喜遊大夫がモデルである。(岩亀稲荷講)

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街道の風景⑤ この辺りから登りになります、左手が掃部山公園です/戸部3

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日本庭園

d0183387_19193534.jpg掃部山公園

現在掃部山公園になっている土地は、明治初期の新橋横浜間の鉄道敷設に携わったエドモンド=モレルなどの鉄道技師の官舎が建てられていたほか、ここの地下から湧く水を蒸気機関車の給水に利用していたことから、鉄道山と呼ばれていました。その後、明治17年に本市の開港にゆかりの深い井伊直弼の記念碑建立の際に、横浜正金銀行松井十三郎ら旧彦根藩士により買い取られ井伊家の所有となりました。掃部山公園内の日本庭園などは井伊家所有の時代に築造されたものと考えることができます。その後、大正3年にこの土地が井伊家より本市に寄附され掃部山公園として公開されました。公園の南西側の一角にある能楽堂は、平成83月に完成したもので、横浜市の有形文化財に指定されている旧染井能舞台を館内において移築・復元しているものです。この染井能舞台は、もともと明治初期に加賀藩主だった前田斉泰公が東京根岸の自邸に建てたもので、後に東京駒込の染井に移築され、戦後には能楽再興の本拠地となっていたものです。このように明治以来の長い歴史と文化的要素を有する掃部山公園では、地域の人達が中心となってこれらの歴史とゆかりの深い薪能や虫の音を聞く会などのお祭りが催されるなど、地域の人々に親しまれています。(案内板)

d0183387_19170811.jpg井伊掃部頭守ゆかりの地

明治427月横浜開港50年記念に際して旧彦根藩有志が藩主の開港功績の顕彰のため、大老・井伊掃部頭守直弼の銅像を戸部の丘に建立し、その地を掃部山と名付けて記念しました。銅像の左側にある水飲み施設はその時に子爵井伊直安より寄付されたものです。当時の銅像は藤田文蔵、岡崎雪声によって制作され、その姿は「正四位上左近近衛権中将」の正装で、高さは3.6mを測りました。しかし当初の銅像は昭和18年に金属回収によって撤去され、現銅像は昭和29年横浜市の依頼により慶寺丹長が製作したものです。その重量は約4tあります。台座は妻木頼黄(よりなか)の設計で高さは約6.7mあり、創建当初のものが残っています。(横浜市教育委員会)


・・・紅葉ケ丘

昭和3年に伊勢町・戸部町の一部から成立。紅葉坂上の丘陵地で、神奈川奉行所跡の神奈川県立青少年センター、県立音楽堂、掃部山公園内の横浜能楽堂がある文教エリアとなっている。
Wikipedia)

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みなとみらい21へまっしぐら、いい坂ですね~/紅葉坂

横浜紅葉坂

国道16紅葉橋交差点と横浜根岸道路とを結ぶなだらかな坂。歩道から車道まで横浜でも珍しい総石畳の風情のある道で全長は約300m程。昔は楓の木が多かったため紅葉坂と呼ばれるようになった。起点の紅葉橋交差点は横浜ランドマークタワーから西側に約300m進んだ場所にあり、横浜みなとみらい21のビル群などが間近に見られる絶景ポイントである。Wikipedia 


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保土ヶ谷道と合流、左が紅葉坂です   左青少年センターが神奈川奉行所跡です

神奈川奉行

神奈川奉行は横浜港が開港された安政6年(1859)に設置された役職である。設置当初の神奈川奉行は、青木町(神奈川区青木町)に会所、戸部村宮ヶ崎(同西区紅葉ヶ丘、現・神奈川県立青少年センター)に奉行役所を置き、また、横浜村(同中区日本大通、現・神奈川県庁付近)の波止場近傍に運上所を置いて事務を執った。奉行役所は戸部役所と呼ばれて内国司法・行政の事務を取り扱い、運上所では関税及び外務全般の事務を取り扱った(Wikipedia


・・・宮崎町

明治3年に成立。旧来の地名の宮ケ崎と当地に創建された伊勢山皇大神宮に因んで命名された。宗教施設が多く、皇大神宮のほか成田山横浜別院延命院、曹洞宗萬徳寺、日本基督教団紅葉坂教会がある。Wikipedia

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伊勢山皇大神宮拝殿

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伊勢山皇大神宮/宮崎町

宮司龍山庸道。祭神天照皇大神。もと戸部村東部の伊勢山(現在の掃部山公園東北端あたり)にあった大神宮(「武蔵風土記稿、戸部村」)を、明治3年神奈川県権知事井関盛艮の告諭により、野毛山に遷して伊勢山皇大神宮と称え横浜の総鎮守と定めた。翌4415日神殿造営の工が成り、正遷宮式執行。これより所在地は伊勢山と呼ばれた。社殿は大正12年の関東大震災で倒壊焼失したが、昭和3年再建復興した。境内社、本殿左側に杵築宮・子の大神(子神社はもと野毛の鎮守で旧所在地野毛町)。裏参道に水神宮。神殿唯一神明造、鋼板茸。境内3955坪。例祭日515日。境内には明治10年西征陣亡軍人之碑(明治12年建立)、以徳報怨・蒋公領徳碑(昭和61年)、万葉歌碑(犬養孝書・昭和63年)などがある。(横浜西区史)

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成田山横浜別院延命院(真言宗智山派)/宮崎町

住職鶴見照碩。本尊不動明王。明治3年本山成田山新勝寺より分霊を勧請して、太田村(現南区西中町)普門院境内に遥拝所を設立。同9年高島嘉右衛門から敷地の施入を得て現在地に移り成田山教会と改めた。その後、明治26年本山塔頭より寺号を転じて延命院と号した。通称野毛不動と呼ばれている。(横浜西区史)

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d0183387_21073351.jpg穐葉山万徳寺/宮崎町

(曹洞宗、本山福井県永平寺、鶴見総持寺)
住職横山正彦。本尊如意輪観音。脇立秋葉三尺坊大権現、道了大薩垂。明治11年当所に曹洞宗布教所が設けられ、明治26年、静岡県山名郡久努村(現静岡県袋井市)より退転に及んでいた万徳寺を移し、福井県総持寺より(西有)穆山瑾英を請じて伝法開山とした。開基太田治兵衛。(横浜西区史)


・・・野毛町


江戸時代末期
に東海道と横浜港を結ぶ横浜道がひらかれ、野毛山の中腹に切り通しで道が作られたことで同地区は交通の要所となった。その後明治時代の陸蒸気の開通により桜木町駅の開業、三菱重工業横浜造船所の開設などで繁華街として栄えてきた。古くは武蔵国久良岐郡戸部村の字で野毛浦と呼ばれていた。町名の「野毛」は、「ノツケ」(「突端」または「崖」を意味)から転じたとされる(Wikipedia
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街道の風景⑥ 野毛の切通を下ります

戸部・野毛の丘
開港間もない頃の戸部・野毛の丘には、横浜の行政事務や地域の取締りを行う神奈川奉行所や官舎などが置かれていたほか横浜道、保土ヶ谷道に沿って関門や番所が設けられるなど官庁街が形成されていました。また現在の野毛山公園辺りは原善三郎、茂木惣兵衛といった有力な横浜商人たちが別邸を建てた土地でもあり、山手・根岸の丘の上にあった英仏領事館や外国人の西洋館に対抗したといわれています。山手・根岸の丘に対して開港場を挟み反対側の戸部・野毛の丘は開港期横浜の発展を支える日本人の拠点となっていました。(標柱・西区)

d0183387_21223821.png野毛の切通し
寛政61859)年東海道と開港場を陸路でつなぐ横浜道を通すため野毛の山が切り開かれ、この辺りは野毛の切通しと呼ばれ、直角に曲がって野毛、吉田橋へと続く道になりました。開港場を目指して全国から集まる人々や物資が行きかい、輸入された文物もまた切通しを通り全国に伝えられました。現在の切通しは昭和31928に市電長者町線の整備の際に道路を拡幅・切り下してできたもので、東側の石垣はその頃に築造されたものです。西側の野毛山住宅亀甲積擁壁(旧平沼専蔵別邸 石積み擁壁及び煉瓦塀・市指定歴史建造物)と共に往時の壮観を今に伝えています。(西区)

亀甲積み
石材を六角形に加工して積み上げる切込み接ぎの石垣の一種である。亀の甲羅の模様ように見えるためこう呼ばれる。力が均等に分散するため崩れにくいが、江戸後期に低い石垣に用いられた例のみである。Wikipedia)

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街道の風景⑦ ここから直角にまがり吉田町へ下ります/野毛坂

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野毛3丁目               野毛山ノーエ節

野毛節
野毛山節、あるいはノーエ節などとも呼ばれる。幕末に始まったお座敷歌で関内の外国人や兵隊の(当時の日本人から見ると珍奇な)様子を野毛山から眺めた歌詞となっている。作者不詳で、曲調は行進曲を摸したものとも言われる。旋律や「ノーエ」の掛け声を同じくする民謡は全国にあり、中でも三島市の「農兵節」が有名である。野毛節がこれらの元祖とも言われているが定かではない。Wikipedia

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街道の風景⑧ 大岡川を渡ります、下流側の景観です/都橋

大岡川

横浜市内を流れ横浜港に注ぐ二級河川。江戸時代に今の南区~中区域に及ぶ吉田新田の干拓事業による埋め立てが行われるまで(今の横浜市南区堀之内の寶生寺辺りまで入り江)は、下流域の大半が大岡湾或いは蒔田湾と呼ばれる入り江だった。大岡湾(蒔田湾)部分を除いた上流部では本来の大岡川の名称では呼ばれず、旧久良岐郡松本村の小字で関之下と呼ばれた地域の日野川と笹下川の合流地点より下流の名称として大岡川と呼ばれる。Wikipedia

d0183387_23102125.jpg都橋

中区の大岡川に架かる橋である。初代の橋は、東海道と横浜港を結ぶ横浜道の一部として1859年(安政6年)に架けられた。当時は「野毛橋」と呼ばれる木造橋であった。1868年(明治元年)に大雨で流失、橋の下に船を通せるよう半円形の反りを持たせた木造橋に架け替えられた。1872年には増加する馬車の往来に耐えられるよう、幅の広い橋に架け替えられた。この時に橋の位置を上手に5mほど移され、橋台を新製した。近くに柳橋と桜橋があり、古今和歌集の「見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」の歌から「都橋」に名を改めたのもこの時であるWikipedia


・・・吉田町/中区

伊勢佐木町と野毛町の間の横浜市の中心街に位置する。現在の吉田町を含む一帯は江戸時代初期までは大岡川河口の入り江で、1656年(明暦2年)より吉田勘兵易衛によって開墾され、のちに吉田新田と呼ばれるようになった。吉田町はその東北端に位置する。1859年(安政6年)に横浜港が開港すると、東海道から平沼橋、野毛坂、野毛橋(現:都橋)を経て吉田町を通り太田橋(現 吉田橋)を渡って横浜港へ通じる横浜道が設けられた。開港後、浪士らによる外国人襲撃事件が相次ぎ、駐日イギリス総領事のラザフォード・オールコックスの直談判を受け幕府は吉田橋ほか6ヶ所に関門を設けた。これ以降、馬車道など関門の内側にあたる地区を関内、関門外側の吉田町や伊勢佐木町などを関外と呼ぶようになった。吉田町は1862年(元治元年)に元町とともに関外で初めてできた街である。Wikipedia

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街道の風景⑨ この先が伊勢佐木町になります/吉田町


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西区歴史街道-横浜道マップ(180°回転させてあります)
(赤:横浜道 橙:旧東海道 緑:保土ヶ谷道)


・・・・
資料ファイル

野毛山公園

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野毛山公園散策路

d0183387_20364656.png野毛山公園の歴史

野毛山区園は日本の公園発祥の地である横浜で、横浜公園や掃部山公園に次いで長い歴史を持つ公園です。明治時代の野毛山は豪商たちの屋敷が立ち並ぶ住宅地でした。現在の散策地区には生糸貿易で財を築いた原善三郎の邸宅が、現在の野毛山動物園の区域は茂木惣兵衛の別荘がありました。1923年(大正12年)91日、関東大震災の際に野毛山も大きな被害を受けました。震災後、被災地復興事業の一環で都市防災の要地、また市民の憩いの場として野毛山に公園を建設することになりました。横浜市が買収した民有地、復興局が買収した茂木別邸跡地と市水道浄水場、市長公舎を含む市所有地を合わせ公園利用地を取得し1925年(大正14年)に着工、翌1926年に一般公開されました。開園当時は回遊式庭園(現野毛山動物園)西洋庭園(現配水池地区)折衷公園(現散策地区)の三つの様式を持っていました。

d0183387_20411704.jpgその後第二次大戦中は陸軍が使用し、戦後は昭和32年まで米軍に接収され公園として利用できない時期が続きました。米軍の接収解除後、昭和24年に横浜で日本貿易博覧会が開催されました。第1会場に野毛山公園、第2会場に反町公園を利用して開催された博覧会は、野毛山公園を現在の形に整備する契機ともなりました。日本庭園だった部分は動物園になり、洋式庭園部分に噴水池がもうけられました。噴水池は博覧会終了後競泳用プールになり、同年開催された第4回国民体育大会夏季水泳大会の会場となりました。さらに昭和26年には様式庭園だった部分に児童公園が造られ動物園と合わせて「野毛山遊園地」として開園しました。昭和39年明治時代に作られた野毛山配水池の老朽化により、配水池整備工事によって配水池を地下に新設することになり、児童公園を閉鎖して整備することになりました。地か配水池整備後は自上部を公園とし、動物広場、子供広場が設けられました。2002年に動物園の再整備に着手し、2014年現在の野毛山公園の形になりました。


d0183387_20431552.jpg佐久間象山碑

ペリーから敬礼を受けたただ一人の日本人と言われました。
佐久間象山は信州松代藩に1811年(文化8年)に生まれました。松代藩の藩主・真田幸貫は若年期に様々な学問を修めた象山を洋学研究の担当者に任じました。その後象山は兵学を学び大砲やガラスの製造を手掛けるなど西洋の技術、学問を説教的に取り入れました。1852年(嘉永5年)江戸に赴いた象山は幕府に戦略上の視点から開港場に選ばれた下田ではなく、横浜に開港場を提言しました。その後1864年(文治元年)開国派であった象山は京都に赴きましたが、攘夷派の前田伊衛門、川上彦斎らによって暗殺されてしまいました。象山の門弟には勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰など開国派の中心人物が名前を連ねています。まさに日本の近代化を支えた立役者といえるでしょう。公園内に顕彰碑が立っています。


d0183387_20433136.jpg汀女はこの野毛山で俳句をつくりました。

中村汀女は昭和の著名な女流俳人で、日常を題材にしながらも抒情性に富む句によって知られています。汀女は本名を破魔子といい、1900年(明治33年)熊本に生まれました18歳のとき「ホトトギス」に投句を始めました。1920年(大正9年)に結婚、夫の転勤によって日本各地を転々とし子育てにも追われ、その間は創作活動を中断せざるをえませんでした。その後創作活動を再開したのは1930年(昭和5年)夫が横浜税関長となって横浜(西戸部町)に移り住んだ時からでした。高浜虚子に師事し1934年(昭和9)「ホトトギス」の同人となって頭角を現します。戦後「風花」を創刊主宰、後の女流俳人に多大な影響を与えました。汀女は生涯を通じて郷里の実家近くの江津湖を愛したといい、1979年(昭和54年)には熊本名誉市民となりました。又郷里に残した母を想って詠んだ句も多数あります。1988年(昭和63年)9月その生涯を閉じました。散策路には句碑があります。


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ヘンリー・スペンサー・パーマー
横浜にきれいなミスを届けてくれた恩人です。
港後の横浜は海や沼を埋め立てて市街地を造成したため、水質が悪く衛生的な生活用水の供給が強く求められていました。1883年(明治16年)3月、イギリス工兵中佐のパーマーに水道建設を一任しました。1885年(明治18年)4月に水源を相模川支流道志川に定め、野毛山配水池に至る48kmの水道建設工事に取り掛かりました。1887年(明治20年)9月に完成し、1017日より市内への給水を開始しました。これが日本初の近代水道の始まりとなったのです。今もパーマーが築いた道志川から西谷浄水場を通り野毛山へと続く上水道は「水道道」となってその道筋を追うことができます。旧野毛の配水池に胸像が立っています。

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横浜水道マップ


d0183387_23163732.jpg日本最初のガス灯は花咲町から始まりました。
1872年(明治5年)929日、花咲町から送られたガスによって大江橋から馬車道、本町通りにかけてガス燈が灯りました。これは日本初のガス灯の一般事業化であり、日本近代化の歴史的瞬間となったのです。ガス灯は開国当初の1867年(慶応3年)にアメリカ人によりガス灯建設の提案が出されたのをはじめとして、横浜の外国人を中心に建設申請が出されるなど強い要望がありました。神奈川県知事井関盛良と大参事内海忠勝はガス灯の利権を外国人に独占されるのを嫌い、日本人とドイツ商社との共同経営を提案しました。しかし明治の実業家高島嘉右衛門は、横浜の有力者8名と「日本社中」という会社を作り日本人によるガス事業を目指しました。日本社中はフランス人技師アンリ―・オーキュスト・ベルグランを上海から招き、花咲町の伊勢山下石炭蔵跡(現本町小学校)にガス工場を建設し点灯に成功したのです。(案内板)


・・・展望台から見える風景

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野毛山展望①(北)みなとみらい21(左)・神奈川県警(右奥)右奥ベイブリッチ

d0183387_23434462.jpg横浜のまちづくり

1859年(安政6)横浜港が日本の玄関として開港されてから開港場を中心に、貿易に必要な施設や外国人が住む居留地、日本人の商人が店を構える町並みなど建設が急速に進められました。開港場は海と山に囲まれた土地で、入口には関門が置かれました。この関門の海側にある町を関内、伊勢佐木町側を関外と呼びました。明治時代を迎えると、関内を中心に西洋風の煉瓦造りの建物が次々と建てられました・貿易が盛んになるにつれ、西洋の文明が次々と横浜港から入ってきて、横浜は日本でも最もハイカラな町に成長していきました。(案内板)

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開港前の横浜              開港後の横浜

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明治はじめの横浜            明治半ばにかけての横浜(左:居留地 右:日本人町)


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野毛山展望②(東)根岸方面の展望です


d0183387_00391389.png吉田新田ができるまで
今の横浜の中心地・関内駅のあたりは約350年前までは内海でした。そこを江戸の木材・石材将商であった吉田勘兵衛らが中心になって埋め立て、新田(田んぼや畑)をつくり新田と呼ばれるようになりました。吉田新田という名前は勘兵衛の苗字からつけられています。吉田新田は大岡川と中村川、JR京浜東北線によって囲まれた釣鐘の形をした範囲で、今は中区と南区に含まれるます。広さは約57万坪(18810002 横浜スタジアム72個分)で、このうち3/5が田んぼや畑・宅地などで、残り2/5が道路や河川等になっていました。新田開発工事は明暦2年(1656)に始まり、翌年の大雨で潮除堤が流されて失敗しましたが、万治2年(1659)に工事を再開し寛文71667)に完成しました。その後海側の部分が埋め立てられ建物がたくさん立てられました。そして横浜の中心部として発展していきました。開港後横浜に住む人の数はどんどん増えていき、湊には外国の船がたくさん訪れました。(案内板)

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吉田新田ができる前(約400年前)      完成した吉田新田(約350年前)

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野毛山展望③(南)ぴ~んとは来ませんが南区になるのでしょうか

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野毛公園マップ

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昭和30年代              現在(「温故知新の道」マップ/西区)


・・・
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西区「歴史さんぽみち」マップ

旧東海道

昔、現在の横浜駅の一帯から久保町方面にかけては袖ヶ浦とよばれた内湾であった。旧東海道は神奈川宿から海に沿って(現在の楠町から浅間町)保土ケ谷宿へ通じていた。あたりは静かな入り江に白帆が浮かぶなど、大変景色のよい所として有名であった。江戸時代、街道沿いの宿と宿の間には人足や馬の休憩場所としての立場(たてば)があった。神奈川宿と保土ケ谷宿の間の芝生村(しぼうむら・現浅間町)はこの立場として発展した村で、農場のほかに飯屋や酒、わらじの販売など商業も営まれていた。

横浜道

安政5年(18586月の日米修好通商条約調印によって開国に踏み切った幕府は神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定めた。しかし、ミナト横浜の街づくりは開港3ヶ月前の3月になってやっと工事が始まるという状況であった。当時は東海道筋から横浜への交通は非常に不便であったため、幕府は東海道筋の芝生村(しぼうむら・現浅間町交差点付近)から横浜(関内)にいたる「横浜道」と呼ばれる道路を開いた。(当時、東海道と連絡するには保土ケ谷から井土ケ谷、蒔田を通るか、神奈川からの舟運しかなかった。)この道は芝生村から湿地帯だった岡野・平沼の各新田を経て戸部村まで一直線に通じる道路を築くとともに、新田間(あらたま)、平沼、石崎の三つの橋を架け、併せて戸部坂、野毛の切り通しを開き、野毛橋(現都橋)、太田橋(現吉田橋)を架けたものだ。記録によると、当時の橋の幅は3間(約6m弱)で道路もおそらくこれと同等の幅員であったと考えられる。工期3ヶ月の突貫工事で橋材は欄干には杉を、杭には松を使用した。新開地横浜への主要道路として大いににぎわい栄えたこの道筋も、時代の移り変わりとともに大きく変わり今では住時の面影をわずかにとどめるのみである。

保土ヶ谷道

戸部村と保土ケ谷宿との往来に使われたのが保土ケ谷道である。この道は戸部町の稲荷神社の庚申塔からくらやみ坂を通り、西前町交差点で左折して願成寺門前へ出たあと藤棚地区商店街を通り過ぎて、JR東海道線を越え保土ケ谷区岩間町大門通りで東海道に合流する。また、戸部町の稲荷神社から東へは、野毛切り通しを通って野毛坂を下り野毛浦に達していた。(西区HP)



by Twalking | 2016-11-02 11:46 | 浜街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 浜街道(4)星川~関内01 芝生追分   

日時 2016.10.27(金)
天気 晴れ/曇り


浜街道もいよいよ終着の横浜になります。
開港に当たり街道筋を避けて横浜村に開港場を設け、
内海を埋め立てて横浜道を造りました。

浜街道との追分は芝生、河口には河岸があり
八王子方面へさまざまな物資を運ぶ拠点だったようです。
野毛山、馬車道など味わいながら歩いてみたいと思います。


・・・星川(保土ヶ谷区)

保土ケ谷区中部にあり北東端を帷子川が流れ、川の近くを相模鉄道が走っており1丁目に快速停車駅の星川駅が置かれ、3丁目は和田町駅に近い。また3丁目には横浜新道が通り新保土ヶ谷IC方面への入口専用の星川ICがある。
かつての橘樹郡下星川村で明治22年(1889)に和田村と合併、宮川村大字下星川となる。星川の地名は平安時代に記された和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)にも見られ、松や杉の木立で鬱蒼としており昼なお暗く、川の流れに星影を映したといわれたことに由来する説がある。Wikipedia

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帷子川の風景① 親水護岸になっていて堂々とした流れですね~/柳橋


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法性寺参道


d0183387_13552723.jpg法性寺(ほうしょうじ)

日蓮宗総本山身延山久遠寺の末寺。元和2 年(1616)の創建で、開山は法性院日在、開基は芝生村の斎藤忠兵衛という人です。文政13 年(18304 月、第25 世日義上人のとき、堂宇を再建し、現在の本堂の骨格、庫裏ができました。ただし、大正12年(1923)の関東大震災で大破したため、修復を加えて現在に至っています。なお、開山から370 年・380 年・390 年の記念奉納事業を檀信徒の協力を得て、現在寺観一新されています。本寺所蔵の平安時代末期から鎌倉時代初期に制作されたと考えられる経典『紺紙金字法華経』全八巻は平成8 年に横浜市の指定文化財になりました。なお、紺紙金字法華経とは、紺色に染めた料紙に金泥で経典を写したものです。(保土ヶ谷散策ガイド・横浜市)

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山門                 七面堂

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丘の風景① 眼下には星川、前方に横浜市街が望めます/法性寺裏


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星川杉山神社鳥居

d0183387_14431746.jpg御由緒
はるか上総の山々、西に霊峰富士山をのぞむ神丘に鎮まります当神社が初めて国史上にあらわれるのは「続日本後記」です。その承和5年(838)の2月 の条に「武蔵国都築枌(杉)山神が霊験あらたかなるをもって宮社に列せられた」とあり、同16年(8485月の条には「武蔵国旡位枌(杉)山名神」が従5位下を奉授されたとあります。さらに降って「江戸名所図会」に「新町より8丁あまり北の方下星川村にあり延喜式内の神社にして云々」とあるように「延喜式」神名帳に武蔵国44座の中「都築郡一座(小社)」と記載されており、多摩川以南都築、橘樹、久良岐三郡において唯一の式内社との伝承が古くより語り継がれております。御祭神日本武尊は三種の神器草薙剣の神話にもあるように強い意志と決断力の御神格がありこの剣が智慧のことをあらわすことから出世、開運祈願、厄除け及び商売繁盛、縁結び、交通安全、金運に恵まれるとのご神託が伝えられ、人々は幾世代にわたりその御神助を祈ってまいりました。

d0183387_14511408.jpg御神門の三本杉
古来より、神の御心は神託、神符などで人々に伝えられておりましたが、やがて神の御心は具体的な形でも伝えられるようになりました。それが神紋といわれるものです。当社の神紋は社名の通り天に高くそびえる杉の紋で、三本杉はうっそうとした神聖な森を表わしております。特に、杉の枝は安産の御守りや魔除にされたほか、杉の脂は火傷や吹出物などの塗り薬に使用され、杉の樹木そのものは屋敷の宅神、商売繁盛の福の神として広く信仰されております。また、屋久杉・神代杉に見られるように長寿のシンボルとして樹木の崇拝の中心的存在であり全国的に見ても杉を神木とする神社が数多くあります。

d0183387_14510687.jpg境内社-伏見稲荷
本社と同一境内に鎮座する伏見稲荷の御祭神倉稲魂神(うかみたまのかみ)の「うか」「うけ」は古くは食物を意味する言葉で、また稲荷は「稲生り」「稲成り」の意味で神像が稲を荷っていることから「稲荷」の字があてられたといわれます。稲荷の神はもともと農業の神ですから米粒が何倍にも殖えるように広く殖産の神としてあらゆる職業の人から信仰されています。(案内板)

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江戸名所図会 杉山明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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街道の風景① 16号と別れここを左折し芝生へ向かいます/宮町2交差点


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延命地蔵/宮田町2先

古東海道沿いにあるこの地蔵堂一帯には、中世の頃より埋葬所、あるいは投げ込み塚があったのではないかといわれ、境内からは文明12 年(1480)刻銘の板碑が数個出土しています。地蔵堂は旅の途中で亡くなった人々の霊を供養して建立されたものといわれています。(保土ヶ谷散策ガイド・横浜市)

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街道の風景②この先左に上ると稲荷神社があります/宮田町1


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街道の風景③ 芝生の追分です、/浅間町3

d0183387_15151146.jpg追分の標柱

八王子道はここより帷子川にそって伸び、町田・八王子へと続く道で、安政6年(1859)の横浜開港以降は八王子方面から横浜へと絹が運ばれるようになり「絹の道」とも呼ばれています。(保土ヶ谷区)



d0183387_15191152.jpg芝生の追分
追分とは一般に二つの道の分岐点を意味します。江戸時代、ここは保土ケ谷宿と芝生村(現浅間町・浅間台)の境に位置し、西に向かって右手の道は帷子川に沿って延び、町田・八王子へと続く八王子往還でした。安政6 年(1859)横浜開港によって、輸出用の生糸が八王子方面から横浜へと運ばれるようになり「絹の道」とも呼ばれました。左手の道は慶安元年(1648)頃に整備された旧東海道です。なお、洪福寺の前身である薬師堂が、江戸の初期頃まで旧東海道の北側に連なる袖摺山の西端部のこの近くにあったといわれています。(保土ヶ谷散策ガイド・横浜市)



・・・
浅間町

横浜市西区の町名。元は芝生(しぼう)と称したが、1901年(明治34年)の横浜市編入の際に域内にある浅間神社から浅間町と改称した。芝生が「死亡」に通じることを嫌った住民の懇願によるとされる。近世以前芝生村と称し、武蔵国橘樹郡に属した。村内を東海道が貫通し、神奈川宿と保土ヶ谷宿の中間の立場として栄えた。(Wikipedia


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街道の風景③ 旧東海道を東へ向かいます/浅間町3

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稲荷神社参道           稲荷神社祠/宮田町(西区境)


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丘の風景② 袖すり山から開港場(関内)方向の景観です/明神公園上付近


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浅間神社参道入口

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浅間神社境内

浅間神社由緒沿革

祭神:木花咲耶姫命 相殿:天照皇大神、武甕槌命 境内末社:小獄社、稲荷社、招魂社

d0183387_16285337.jpg神殿
本殿二階建浅間造にして社殿丹塗総金具付にて元官幣大社浅間大社(静岡県富士宮市)と同様 国宝建造物類似楼閣にて近隣に比類なき構造なり

由緒沿革
元神奈川区浅間町に鎮座し浅間町一円の氏神なり、創祀は承歴4年(1080)といわれ、源頼朝公文治元年平家討滅に依るべきを思い且つは戦勝奉賽のため関東一円の社寺修築神馬神田の寄進に及べり、然る処武蔵国橘樹群神奈川在芝生村に富士山の形状の山地あるを卜とし社殿の修築をなし、報賽の至誠を致せる由といふ。薾来九百余年威嚇灼として遠近を光被し万民均しく渇仰崇敬せり。


d0183387_16285825.jpg社殿・境内整備について

浅間神社は承暦4年の創祀より歴史ある古い社であります。明治の大火、関東大震災 により焼失復興と度重なりしが昭和3年御大典記念として御造営せる社殿は惜しくも昭和205月の戦災のために烏有に帰しましたが社殿復興 再建の議が起こり昭和33年起工式、同34年に社殿落成亦境内拡張整備工事に着手、従来の3倍に造成し現在に至りましたが昭和57年社殿前崖も急斜面崩壊危険区域に指定され、工事着手完成を見るに至り昭和58年に社殿及び境内整備の奉賛会が結成され社殿塗装、神輿庫新築、神輿修理、社殿前玉垣裏表参道玉垣工事をなし、県下でも類を見ぬ社殿となりました。

浅間神社境内横穴古墳群

古墳(今から1700年前頃から1000年前頃まで600700年の間につくられた古いおはか)には盛り土をした高塚と自然の丘に横に穴をうがった横穴とが有ります。この横穴古墳は宮谷や軽井沢にわたって群在しているもので、神社の境内だけでも十幾つがありましたので標記の名をつけました。その内部は羨門、羨道中のへやを玄室といいますが、このたび神社境内の拡張・整地にあたり玄室から須恵器の瓶、平瓶などが出ました。横穴やそこから出たそれらの物でこの社地は少なくとも千年あまり前、このあたりを開いた有力者が葬られた古いゆかりの地であることを知ることができます。(神奈川県文化財専門委員)


d0183387_23530654.jpg浅間神社と富士の人穴
創建は承歴41080)年、富士浅間神社の分霊を祭ったものと伝えられています。旧芝生村(しぼうむら)鎮守。本殿のある丘は袖すり山と呼ばれ、昔は山の下がすぐ波打ち際であったといいます。境内西側の崖には富士山に通じていると伝えられる「富士の人穴(ひとあな)」と呼ばれる古代の横穴墓があり、東海道を往還する人々が見物する名所となっていました。しかし今は、周辺の開発によって見ることもできなくなってしまいました。(標柱・西区歴史街道)

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江戸名所図会 浅間社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)



・・・・・・・・・
資料ファイル

旧東海道保土ヶ谷宿(追分~帷子橋)

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歴史の道東海道保土ヶ谷宿周辺散策案内図

保土ヶ谷宿は慶長6年(1601)に宿駅・伝馬制度が定められると同時に設置され、東海道五十三次江戸から4番目の宿場町(1601年発足当時は川崎宿と戸塚宿は未整備)として栄えました。また、慶安元年(1648)を境に大改修がされ、道筋が変わりました。初代歌川広重の浮世絵で有名な帷子橋(新町橋)もこの時架けられましたが、現在、古道の正確な道筋に関して諸説があり特定されていません。この案内図では、本陣跡や寺社、石碑等当時の面影を伝えている史蹟を中心に散策できるようご案内しています。保土ヶ谷と保土ヶ谷宿の歴史を感じてみてください。(保土ヶ谷区)

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街道の風景④ 朝から活気があつて元気な商店街、いいですね~/松原商店街


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街道の風景⑤ 保土ヶ谷宿の江戸方入口になります


d0183387_12575226.png江戸方見附跡

「東海道分間延絵図」によれば、芝生の追分から国道16号を越え天王町にいたる途中に保土ヶ谷宿の江戸方見附がありました。保土ヶ谷区郷土史では天王町391393番地(現在の天王町1丁目11-3付近)にあったとされています。江戸方見附は各宿場の江戸側の出入口に設置されているもので、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしています(このため「土居」とも呼ばれています)。こうした構造から見附は本来簡単な防御施設として設置されたことがうかがえますが、同時にまた宿場の範囲を視覚的に示す効果を合わせ持っていたと考えられます。ここ江戸方見附から京都(上方)側の出入口に設置された上方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれ、保土ヶ谷宿では外川神社付近の上方見附まで19町(約2km)になります。 大名行列が来ると、宿役人が見附で出迎え、威儀を正して進みました。(保土ヶ谷区役所)


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橘樹神社鳥居

d0183387_13235256.jpg橘樹神社

鎌倉時代初期の文治2 年(1186)源頼朝の天下平定を祝い、また厄除歳寿・子孫繁栄を祈願して京都祇園社(現在の八坂神社)の分霊を勧請して創建したと伝えられています。古くは祇園社と称し江戸時代には牛頭王社、明治初年に橘樹社と改称され、大正10 年(1921)に現在の橘樹神社となりました。当初は旧道(古東海道)の古町通りにありましたが、新道(旧東海道)ができたのち万治3 年(1660)頃に現在地に遷座したといわれています。本殿裏手には神田不動尊と横浜最古といわれる寛文9 年(1669)記銘の青面金剛庚申塔があります。その他天和2 年(1682)、明和元年(1764)の2基の庚申塔もあります。(保土ヶ谷散策ガイド・横浜市)


d0183387_13275333.jpg青面金剛

寛文9年・16692月合掌六手青面観音。青面金剛としては横浜市最古であり、また六手青面金剛としては県内でも最古の像と思われる。青面金剛像は寛文の始め頃から江戸の石工を中心に作られるようになり、やがて地方にも普及した。青面金剛は下二手に弓と矢を持つのが普通であるが、この像は弓矢の代わりに羂索と棒を持っている。青面金剛はもと流行病を流行られる悪鬼であったが、のち改心して病を駆逐する善神になったとされている。儀軌に示された青面金剛は三叉戟、輪、羂索、棒を持った四手の青鬼であるが、この像はこれに合掌二手を付け加えて、善神に変わったあとの姿を表現しようとしたもので、青面金剛像の成立道程を示す貴重な像である。青面金剛は必ず炎髪で作られるものであるが、この像は円い髪である。円髪、後頭部の光輪、太く短い棒などは同じ時代に京都土産として各地に持ち帰られた大津絵の影響を示すもので他に類例を見ない。青面金剛は江戸時代の代表的な像である。(橘樹神社宮司謹書、区内桜ヶ丘在住郷土史家著「保土ヶ谷の謎と謎解き」による)

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神田不動尊              力石


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帷子川の風景② 河川改修によって直線化された帷子川/
帷子橋


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旧帷子橋のモニュメントが設置されています/天王寺駅前


d0183387_13513458.png旧帷子橋跡

江戸時代、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた帷子橋は、絵画に描かれたり歌や俳句に詠まれるなど、保土ヶ谷宿を代表する風景として知られていました。中でも初代広重の「東海道五十三次之内保土ヶ谷」は特に有名です。大橋や新町橋などとも呼ばれた帷子橋について「新編武蔵風土記稿」の帷子町(保土ヶ谷宿のうち)の項には「帷子橋 帷子川ニ架ス板橋ニテ高欄ツキナリ、長十五間、幅三間、御普請所ナリ」という記載がみられます。昭和39年(19647月に、帷子川の流れがそれまでの相鉄線天王町駅南側から北側に付け替えられたのに伴い帷子橋の位置も変わりました。かつての帷子橋の跡地は、現在の天王町駅前公園の一部にあたります。(横浜市教育委員会)

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江戸名所図会 帷子川 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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初代広重の「東海道五十三次之内保土ヶ谷」




by Twalking | 2016-10-31 09:59 | 浜街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 浜街道(3)鶴ヶ峰~星川02 星川   

日時 2016.10.21(金)
天気 曇り

今回は畠山重忠の遺跡ともうひとつ陣ヶ下渓谷を入れました。
陣ヶ下は環状2号が通ってはいますが、いい渓谷ですね、
丘の上からの横浜の街を確認できました。

どうしようかな?と思いましたが横浜水道記念館にも寄ってみました。
横浜水道の歴史が分かりますし、多摩丘陵のジオラマ、いいですね!
こういうのは地形が分かって面白いです、寄って正解でした。


・・・下白根

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街道の風景①下白根の二又を前方の猪子山(緑地)方向へ/下白根バス停
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帷子川分水路前取水口             トンネル入口

帷子川分水路
帷子川分水路は大雨が降った時帷子川の水を分水し、直接横浜港に放流して洪水を防ぎます。ここは帷子川分水路全長7560mの内、延長5320mのトンネルの入り口です。(分水路看板)



・・・西谷(保土ヶ谷区)

神奈川県都筑郡南部の村。現在の横浜市保土ヶ谷区西部、旭区東部のおおむね相模鉄道沿線にあたる。上星川駅近くにある「両郡橋」は橘樹郡矢崎村(のちに保土ヶ谷町)との境にあった。Wikipedia

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街道の風景② 合流すると保土ヶ谷区になります/西谷

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横断歩道を渡り踏切へ         新幹線高架を潜り西谷商店街へ

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西谷商店街を進みます         二又を左へ、相鉄ガードを潜り16号へ

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妙福寺山門と題目碑


d0183387_19215449.jpg妙福寺

慶長(1596-1615)年間の創建である。開山は隨泉院日意。延宝2415日(1674)寂。開基は第4世長昌院日解。元禄6521日(1693)寂。厚木妙純寺の末寺。元禄の頃、第6世養泉院日脱(元禄12216日(1699)寂)が住して堂宇を再興した。山上に堂宇があったのを第37世立法院日壽(明治341013日(1901)寂)の代の明治1012月本堂、同17年庫裡を現山門内側に再建した。その後42世取要院日芳(平成557日(1993)寂)が三門を再建し、本堂(昭和47年落成)、客殿、庫裡等を以前堂宇があった現在の地に再興した。山門の脇左側に題目碑(宝塔)が在る。第16世啓運院日量(享保181018日(1733)寂)が、享保10816日に建立したもので、本堂に向かって右側の山の中腹に在ったものを嘉永22月(1849)第33世日忍が今の地に移した。高さ9尺余りのみごとなものである。また、現住職第43世泰然院日暁が、山門右側に立教開宗750年を慶讃して寺号碑を建立した。(妙福寺HP)

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街道の風景③ 妙福寺先を左手旧道へ入ります/西谷妙福寺前

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旧道入口に庚申塔           その先に堅牢地神塔と道祖神


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正観寺山門

d0183387_19493080.jpg正観寺
当山は曹洞宗補陀山正観寺と称し福井の永平寺鶴見の総持寺を両本山とし小机の雲松院を本寺とする。後北条家家臣小机衆として勢力のあった矢上城、現在の日吉城主中田加賀守の菩提の為その子中田藤左衛門が父の守本尊であった聖観世音菩薩立像・弘法大師作一寸八分純金製を奉納し、雲松院11世龍山遵朔大和尚を請し開山とし創建した。後に旧小机領33三観音霊場第五番の札所となる。この霊場は小机城主・笠原越前守の奥方と息女の死亡が重なり、更に鶴見川の氾濫等による被害の甚大さが加わった為、小机の領地鶴見辺から町田に地域の中から特に観音様に御縁が深い33所を指定して冥福と安全を祈願したのに始まる。享保17年壬子の年(1732)浄土宗泉谷寺住職転譽上人が旧小机領33観音霊場の開設を徳川幕府に願い出て許可され、こゝに正式に霊場として発足した。その年が子の年であった為子の年毎に開帳をし今日に至っている。藤左衛門は寛永12627日没、戒名を空山永尊禅定門と云い正観寺開基として祀る。爾来法灯不断、中田家の菩提寺となっていたが明治時代に無住となり廃寺同様のところ、大正10年天徳院27世中島俊明が兼務住職となり法地開山す。昭和3年中武14代当主中田要作並びに総代中田復四郎が講中と相計り、仮本堂を建立善浪俊明を住職に迎え中興す。無禄無檀家の当寺を復興することは困難を極めたが次第に檀信徒が集まり今日の正観寺の基礎を築いた。開創380年、中興70周年を記念し之を建立する。補陀山正観寺3世寿耕鐡心(顕彰碑)


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観音堂                石仏群

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丘の風景①西側に環状2号線と陣ヶ下渓谷が望めます/正観寺


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旧八王子道標を右折/環状2号手前    すぐ左折、カード潜り環状線を越える



・・・上星川


相鉄線と国道16号が並行し、町の南部に上星川駅が設けられている。南西から北東に貨物専用の東海道貨物線が走り、上星川駅北側で相鉄線と交差するが貨物線に駅は設けられていない。古くは都築郡上星川村で、明治22年(1889)に川島村と合併し西谷村大字西谷となった。
Wikipedia

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街道の風景④ 杉山神社信号を左折し旧道へ



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上星川杉山社鳥居/杉山神社信号先


d0183387_23443353.jpg上星川杉山社
創建年代は不詳ですが、史料によると当社は天保年間(1830 44)の少し前、武蔵国都筑郡上星川村に鎮座し、明治6 年(1873)村社に指定されました。なお、昭和36 年(1961)には当社の祭神を分霊し西谷町に富士山神社を創建しました。社殿は関東大震災で倒壊し、現社殿は大正13年(1924)の再建です。(保土ヶ谷散策ガイド・横浜市)

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d0183387_23573822.jpg東光寺

創建は正保元年(1644)です。しかし、開創から明治のなかばまではほとんど無住に近い状態で、たまに雲水が滞在したり近隣の寺の隠居が住んだりしていました。創建時の本堂は昭和30 年(1955)失火により全焼しその後再建されました。また、関東大震災のとき富士瓦斯紡績保土ケ谷工場で多くの犠牲者が出てその供養にあたりました。境内墓地にはそのときの供養碑があります。「武南十二薬師霊場第3 番札所」でもあり、寅年には御本尊が開帳されます。(保土ヶ谷散策ガイド・横浜市)

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街道の風景⑤ 16号に合流し東海道貨物線先を潜ります/上星川商店街入口手前



・・・陣ヶ下渓谷へ

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帷子川の風景① 上星川の西口側、川沿いに上流方向に戻ります/両郡橋

d0183387_00225634.jpg両郡橋

明治20 年(1887)わが国最初の近代水道の創設に伴い津久井郡三井村から横浜村まで水道管が敷設されました。その後、この水道管に沿って人馬の往来ができるようになり(現水道道)この橋もかけられました。橋の名前は都筑郡上星川村と橘樹郡坂本村との境にあるということで「両郡橋」とつけられました。橋の上流には堰がつくられ仏向、下星川(現星川)、神戸三村の水田用用水路が掘られその近くには水車もあったと伝えられています。(保土ヶ谷散策ガイド・横浜市)

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随流院山門


d0183387_00351545.jpg随流院
川島山随流院は禅宗の中の曹洞宗に属し本尊は聖観世音菩薩です。嘉吉元年(1441)に臨済宗建長寺派の利庵栄叟和尚が開いた寺であり、最初は「観音寺」という名の一小庵でした。その後約20 代続きましたが、途中建物が火災に遭い、ほとんど廃絶したのを小机雲松院の第八世栄岩宗茂大和尚の尽力により曹洞宗に改められ、境内地を今の場所に変えて堂宇を建立し「随流院」という名に改めました。そのため宗茂大和尚を御開山と仰いでいます。

d0183387_00351169.jpg慶安元年(1648)には徳川家三代将軍家光公より観音堂領3 石余の朱印地を下付されました。現在も当時の朱印証箱、朱印札及び住職が江戸城への年賀登城の際に使用した駕籠が本堂に保管されています。また、宝暦6 年(1756)旧小机領33観音霊場の第6番札所になりました。なお、川島小学校(川島学舎)発祥の地(写真)です。(保土ヶ谷散策ガイド・横浜市)


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川島町杉山神社鳥居


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川島杉山神社 
日本武尊
 五十猛命・保土ヶ谷区川島町にある神社。川島町の鎮守で、横浜市内唯一かつ旧武蔵国の式内社である「杉山神社」の論者の一つとされる。また、川島杉山神社とも呼称される。天文年間(1532- 1555)、北条氏康がこの地に陣を張った際、祠を建てて武運長久を祈ったのが始まりとされる。当社は延長5年(927)の『延喜式神名帳』において「武蔵国都築郡唯一の式内社」と記されている「杉山神社」の論社の一つとなっている。杉山神社は河川沿いにある場合が多いが、当社は陣ヶ下渓谷を流れる市沢川(帷子川支流)沿いの高台に鎮座している。この他、当社の南西方約100mには妻恋稲荷が鎮座している。(Wikipedia

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丘の風景② 環状2号線と上星川方面の景観です/
川島町杉山神社


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散策路から川辺に降りられます

陣ヶ下渓谷(じんがしたけいこく)
横浜で唯一「渓谷」と呼ばれている谷。帷子川の支流にあたる市沢川の渓谷。鎌倉時代に源頼朝の御家人である和田義盛が狩り狩りの陣を張ったのでこの名が付けられたとされる。環状2号線が通るのに伴い、都市公園として整備され平成16年、陣ヶ下渓谷公園として公開された。林のなかではいたるところで湧き水がわき、横浜という都市部にもかかわらず、ある程度きれいな流れを保っている。明確な源頭といいうる地点は知られておらず、周辺の民有地や住宅地からの雨水、横浜市水道局西谷浄水場から出る雨水等の濾過水、保土ヶ谷高校遊水池からの流入水などを水源としており、周辺が住宅地や環状2号線として開発される以前は地下水からの湧出を水源としていたと考えられているWikipedia

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杉山神社側入口            環状2号の下に散策路がつきます

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なかなかの渓谷ですね、川を歩けたら最高なんですが~
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環状2号線の左側が渓谷です、歩道を西谷浄水場(右手)に向かいます

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陣ヶ下公園案内図

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丘の風景③ 横浜方面の景観です、もう近いですね~/西谷浄水場付近

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西谷浄水場              神奈川坂を上星川へ下ります


d0183387_16021439.jpg蔵王高根神社・薬師堂 
創建年月は不詳ですが、古くから坂本村に蔵王社と高根社の2 社があり村民に崇敬されていました。明治43 年(1910)政府の「一村一社」の政策により、2 社とも矢崎村(明治22 年仏向村と坂本村が合併)の杉山社に合祀されました。しかし、その後も村民は社殿を残して遥拝し、昭和24 年(1949)には氏子の強い要望により再び御神体を移して「蔵王高根神社」として独立したという歴史を持っています。神社に上がる階段の下には明治39 年(1906)建立の馬頭観世音の石塔があり、隣の薬師堂敷地内には庚申塔(元禄9 年・1696)、地神塔(文化11 年・1814)念仏塔とともに、めずらしい指さし道標もあります。(保土ヶ谷散策ガイド・横浜市)


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緑の軸散策案内図(赤:歩行ルート 紫:浜街道)



・・・和田


かつての橘樹郡和田村で、1889年(明治22年)に下星川村と合併し宮川村となった。その後宮川村は明治42年保土ヶ谷町に編入。町名は平安時代末期から鎌倉時代の武将、和田義盛が由来となった和田稲荷神社に由来。(Wikipedia

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街道の風景⑥ 16号に戻り和田へ


和田村道橋改修碑
/釜台歩道橋
この碑は、江戸中期、八王子往還和田村地先の難路改修の由緒を記したものです。江戸の住人櫻井茂左衛門が資金を提供し、和田村及び隣村の川島村民の協力を得て、道を改修し、橋を架け、往来の難儀を救ったとあります。元文211月(1737)の建立です。八王子往還は、芝生(しぼう)(現在の西区浅間町)で東海道から分岐し町田、八王子へと通じている街道です。(横浜市教育委員会)

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和田町二差路を左折          旧道の風景



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真福寺山門

d0183387_16361286.jpg真福寺

高野山真言宗に属し、関東36不動霊場の第4 番札所。開創は明らかではありませんが、和田義盛の建立と伝えられています。その後、しばらく廃寺となっていましたが、元和元年(1615)、地元の豪族・田口兵衛重勝により再建されました。現在の本堂は昭和20 年(1945)に戦災で焼失したあと、昭和35 年(1960)に完成したものです。境内には横浜市の名木古木の指定を受けている樹齢300 年以上のツバキと、樹齢400 年以上のイチョウが見られます。また、門前にある地蔵尊は和田町駅近くの山崎台にあった幻の寺、浅間宝寺跡に祀られていた「満願地蔵尊」です。明治初年(1868)、浅間宝寺跡が星川小学校の建設用地になったため、真福寺門前に移されました。この地蔵の体をなでると願いごとがかなうといわれています。(保土ヶ谷散策ガイド・横浜市)


d0183387_16374912.jpg満願地蔵尊/山門脇

この満願地蔵尊は元和田町駅裏手の台地にあったものです。その大地には昔、浅間宝寺という寺がありましたが、平家の残党を隠したというので焼き討ちに合い、焼け跡から沢山の遺骨が出てきました。亡きその霊を慰めるため真福寺を建てた田口重勝の弟の重信が地蔵堂を建立して祀ったものです。明治初年星川小学校の最初の校舎を建てるのに支障をきたし、この山門のそばに移されました。全身に石で叩いて祈った窪みが残っています。こころからお祈ください(説明板)


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d0183387_16444876.jpg和田稲荷

言い伝えによると、治承4年(1180)、源頼朝の家臣和田義盛は戦勝祈願のため、当地に祀られていた十一面観世音菩薩の礼拝に訪れました。そのとき、「稲荷の霊社を信心すれば、志は必ず成就する」との観世音菩薩のお告げがあり、義盛は早速、この地に稲荷社を建立しました。のちに人々は、この稲荷社を「和田稲荷」と呼ぶようになり、和田という地名の起こりにもなったと伝えられています。(保土ヶ谷散策ガイド・横浜市)

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和田杉山神社鳥居


d0183387_16563822.jpg和田杉山神社

祀年代は不詳。祭神は日本武尊。『新編武蔵風土記稿』和田村の条には「村の西よりにあり、当所の鎮守なり」とあり、明治に村社に指定されました。昭和39 年(1964)、現在地に遷座されました。本殿右脇には天明3 年(1783)銘の八王子・大山道の道標、青面金剛邪気・三猿彫の庚申塔が祀られています。(保土ヶ谷散策ガイド・横浜市)



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街道の風景⑦ 横浜新道の先旧道へ/和田町商店街

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旧道を左折              16号にでて星川駅へ


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帷子川の風景② 暮れるのが早くなりました、帷子川の夕景です/下星川橋



・・・・・・・・・
資料ファイル


d0183387_17261984.jpg横浜水道記念館・水道技術資料館/西谷浄水場(保土ヶ谷区)

この記念館は、昭和62 年(1987)横浜水道創設百周年を記念して水道技術資料館とあわせて開設し、一般公開されています。水道記念館では水道の歴史や仕組みを楽しく分かり易く解説し、水道技術資料館では水道技術の移り変わりを展示しています。建物は、西谷浄水場旧管理棟を記念館に、工事部事務所を資料館に利用したものです。水道記念館は、横浜市のほぼ中心地の標高72mの高台に位置し、横浜ベイブリッジ、ランドマークタワーや、晴れた日には新宿副都心の高層ビル群も望め、遠くは丹沢の山並みの先に富士山も眺めることができる見晴らしの良い展望室が自慢の一つです。また、春先には桜が大変美しく、市民と水道とのふれあいの場として親しまれています。(保土ヶ谷散策ガイド・横浜市)

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日本で最初の近代水道が横浜で生まれた

人びとも増え続けますます水や伝染病に苦しんでいたため、ヨーロッパやアメリカで当時使われ始めてきた新しいやり方の水道をつくってほしいという要望が高まりました。県庁もそれに動かされて新しい水道を計画していましたが、丁度その頃日本に来たイギリス人パーマーに計画・調査を頼みました。パーマー案をもとに国から資金を借りて1885年(明治18年)工事が始められ、1887年(明治20年)1017日日本で初めての近代水道が給水されはじめました。(説明板)

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世界の力が握手した横浜創設水道


d0183387_17411983.jpgヘンリー・スペンサー・パーマー(Henry Spencer Palmer
日本初の近代的水道である横浜水道を完成させたイギリス陸軍の工兵少将。1883年に中佐として来日、神奈川県より横浜上水道建設計画の依頼を受け、3ヵ月で実地測量から計画まで完成させて多摩川取水計画と相模川取水計画の2案を県に提出して帰国する。翌年神奈川県から招聘され、1885年に大佐として再来日。水道工事の全てを任されると、水源を相模川支流の道志川とし野毛山配水池に至る総延長48kmの横浜水道建設を着工、顧問工師長として指揮にあたる。翌年1887年少将に昇進、翌年に定年退職し、2年に及ぶ工事を完了、日本初の近代水道を完成させた。Wikipedia


d0183387_17440763.jpg用水取水所
この取水所は相模川と道志川の合流点に造られた最初の取水施設(旧津久井郡三井村、現在の相模原市緑区)で、蒸気ポンプを使って川から水を汲み上げました。この汲み上げられた水は山を越え谷を渡りはるばる44km離れた野毛山の浄水場まで鉄管やトンネルによって運ばれました。この鉄管はイギリスから輸入された直径18インチ(46cm)と15インチ(39cm)のものでした。その後、この用水施設は明治30年(1897)に水の取水所が道志川に変更されたため廃止され、現在は昭和40年(1985)に完成した津久井湖の湖底に沈んでいます。(説明板)

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創設当時の野毛山貯水場

この模型は昭和20年(1887)に完成した創設横浜水道の野毛山貯水場で、日本最初の浄水場です。この浄水場は当時の市域であった中区一帯を対象として給水人口7万人、1日排水量57203の能力を持っていました。その後、大正12年(1923)の関東大震災で全壊し、野毛山配水池として再建され現在に至っています。

d0183387_17492020.png横浜創設水道の心臓部=浄水場は野毛山に創られました。野毛は標高50.5mで関内・関外の当時の給水地域を見下ろす位置にあります。野毛山貯水場は大正12年(1923)の関東大震災で大被害をうけ、浄水場は配水池に創り変えられましたが、横浜の水道の創設から現在に至るまで扇の要の働きを続けています。(説明板)


d0183387_18115687.jpg日本で最初の大型水漉し装置

明治28年、京都岡崎で開かれた第4回国勧業博覧会場に設置されたもので、当時開削されたばかりの琵琶湖疏水の水をろ過したものです。(説明板)


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横浜村他六ヶ村之図

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横浜村近傍之図

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稲毛川崎二ヶ領水路概略之図

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明治時代の横浜馬車道通り



・・・
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木樋水道

開港以来横浜は沼や海を埋め立て町造りが行われたため、飲み水の確保に苦しんでいました。そこで横浜商人の有志は私費を投じて木樋水道を建設したいと県に願い出て水道会社を設立した。弘治は明治4年着手し、6年にほぼ完成した。多摩川から引いている二ヶ領用水の鹿島田(川崎市)から分水し桜坂(桜木町)まで概ね60cm四方の木樋により約16km導水して市内の水道用井戸に給水した。この工事は河川横断や当時建設中の鉄道線路との競合により難航し、予期しえない出費がかさんで半年で神奈川県に引き継がれた。その後、時がたつにつれて破損もひどくなり県では修理をくり返したが、明治15年頃には抜本的に修復するか、新式水道を敷設するか検討しなければならない状況となり、近代水道の実現を早める結果となった。近代水道完成後には廃止されたが、その工事費は創設時約29万円の他、改修費が10数万円を要し、約3万人が使ったといわれている。(説明板)


d0183387_18064931.jpg洗浄水槽
構造:鋼製構造(総水量13523) 有効貯水量:10003 完成:昭和489
この洗浄水槽はろ過池を洗浄するための水をためている水槽です。ろ過池は砂や砂利を使い、水の汚れを取り除く施設です。23日に1回を目安にこの水槽の水を使って洗浄します。ろ過の水の流れとは逆の方向から水を送り洗浄するため逆流洗浄と呼ばれています。

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42
インチ仕切り弁           ∮1500mm逆止弁

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横浜水道導水路ジオラマ
(赤:浜街道 橙:東海道 緑:中原街道 紫:大山街道を勘で着色してみました)



by Twalking | 2016-10-26 10:05 | 浜街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 浜街道(3)鶴ヶ峰~星川01 鶴ヶ峰   

日時 2016.10.21(金)
天気 曇り


晴れの予報でしたが曇り空、でも爽やかです。
鶴ヶ峰は畠山重忠終焉の地、行ってみたかった所です。
史蹟マップに従ってじっくりと散策してみました。

また、尾根の道や中堀川は中原街道で気になったコース、
部分的ですがついでにルートに加えてみました。
歩きたいと思っている鎌倉街道中道にも会えましたし、
尾根の上からの風景は格別、記憶に残る旅路となりました。



・・・鶴ケ峰/旭区


二俣川ともに横浜市の副都心を形成する。かつての都築郡今宿村の一部で、1889年(明治22年)に周辺の村と合併、都岡村大字今宿となる。町名の由来は「ツル」が水流を表し「川の流れるところにある山」という説と、この地に鶴が飛来したという説がある。この地域は二俣川と共に鎌倉時代初期の武将・畠山重忠が討たれた場所に近いことから、畠山重忠や古戦場に関する史跡が複数残されているWikipedia

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街道の風景① 旧道はこの二又を左に、白根へ続きます/薬王院入口手前

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鶴ヶ峰坂               標柱


鶴ヶ峰坂/白根

長さ二町(2-8m)の急坂で旧八王子街道の難所であった。馬の蹄鉄を造った鍛冶屋が坂の両側にあった。(旭区誕生40周年記念事業実行委員会 旭区観光協会)

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白根を横断して旧道へ         白根不動入口で16号に合流します




・・・帷子川親水緑道

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旧流路に整備された緑道ですが、魅力的な道です/白根

帷子川親水緑道
この緑道は、帷子川の河川改修により生じた旧河川敷とその周辺に残っている豊かで貴重な自然景観を最大限活用し、市民が親しめる憩いの空間として市が整備しました。園内は「池・庭園ゾーン」「せせらぎゾーン」「広場ゾーン」に分かれており、季節や地形の変化が相俟って、表情豊かで回遊性ある空間を創出しています。また、鶴ケ峰駅に近接し市街地の中心に位置していながらも、落ち着きと美しさとやすらぎに溢れ、都市のオアシスを感じることができます。(旭区)

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帷子川親水緑道 都市景観大賞受賞記念
帷子川親水緑道は河川改修後、もとの河川敷を活用して昭和63年に整備されました。豊かな自然と季節の変化が楽しめる散策路として親しまれています。平成20年にその景観だけでなく地域の自主的な取組(清掃、草木の管理、区民まつりなどのイベント)が評価され、 国が主催する「都市景観大賞」を受賞しました。(帷子川親水緑道 鶴ヶ峰地区愛護会、白根地区愛護会、家敷愛護会、ホタルの会、横浜市)

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帷子川の風景①上流鶴舞橋方向の景観です。左が緑道右が16号になります/白根橋

d0183387_18084440.png鶴舞橋の橋名の由来

鶴ヶ峰という地名は「鶴舞い田」よりきたものだという。田んぼで囲まれた広さ約600坪、高さが2m位の舟型をした島があり田畑になっていた。これらの田畑を擁する帷子川は蛇のように曲がりくねっていた。国道16号よりの土手には見上げるような樹木が生い茂っていた。そして川は流れこむ清水でいつも満ち満ちていたのである。この田んぼには多数のツルが飛来して生息していたという。好物のサワガニ、ザリガニ、ドジョウなどを腹いっぱい詰め込んだツルは現在の国道16号付近の高い峰で休息をとる。腹が減ると2回でも3回でも餌をあさって田んぼに舞い降りたという。このようにツルが舞った田んぼが「鶴舞い田であり、ツルが峰で休息したということから「鶴ヶ峰」となったわけである。(旭区 「ふるさと鶴ヶ峰」より)

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帷子川親水緑道案内図



・・・あさひ散歩・鶴ヶ峰の史跡を訪ねて

畠山重忠と史跡(二俣川古戦場)
畠山重忠は、鎌倉時代の武蔵国男衾郡(おぶすまぐん・現:深谷市)の武士で、源頼朝の忠臣であった人物。1205年、重忠のことを疎ましく思っていた北条時政は、重忠を討つために「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」と偽りの手紙を重忠に送り、鎌倉に呼び寄せる。重忠は家臣たちを連れて埼玉の居城から出発し、二俣川付近まで来たときに、北条の軍が牧ヶ原(現:万騎が原)に大挙しているとの報を受けるが、退かずに鶴ヶ峰に布陣した。畠山軍(134騎)は北条軍(1万騎以上)と激戦を繰り広げるも、戦力の差が大きく、戦には敗れ、重忠は討死してしまう。二俣川駅南口から南方方向に程なく行った所にある県営万騎が原団地の一角には、地元の有志により1892年(明治25年)に建立された「畠山重忠公遺烈碑」がある。また、1955年(昭和30年)622日には没後750年を記念して、鶴ケ峰と埼玉県川本村の有志が「畠山重忠公碑」を鶴ヶ峰に建立している。他にも二俣川古戦場周辺(鶴ヶ峰)には、「重忠首塚」「すずり石水」「六ッ塚」「駕籠塚」「首洗いの井戸」など重忠に纏わるものが多く残る。(Wikipedia

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この先が鎧橋、左手に鎧橋緑道が付けられてます/鶴ヶ峰商店街


d0183387_18511206.png「鎧橋」と「帷子川」 
鶴ヶ峰公園のこのあたりは、古くは帷子川として流水をたたえたところですが、河川改修により埋め立てられ誕生しました。鎧橋は、明治時代に横浜水道敷設のために造られた水道みちと帷子川が交差していたこの場所に架けられました。当初、木で造られていた橋は、時代とともに架け替えられながら永く親しまれてきましたが、平成15年の道路改修工事によりはずされました。鎧橋という名の由来は定かではありませんが、一般には、やや上流の旭区役所付近に「鎧の渡し」と呼ばれた渡し場があったことから名づけられたといわれています。(旭区役所)
写真:「
鎧橋から鶴ヶ峰駅方向を望む(昭和30年頃)」/案内板

d0183387_18531415.jpg水道みち「トロッコ」の歴史

この水道みちは、津久井郡三井村(現:相模原市津久井)から横浜村の野毛山浄水場(横浜市西区)まで約44kmを、1887年(明治20年)わが国最初の近代水道として創設されました。運搬手段のなかった当時、鉄管や資機材の運搬用としてレールを敷き、トロッコを使用し水道管を敷設しました。横浜市民への給水の一歩と近代消防の一歩を共に歩んだ道です。(案内板)

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鎧の渡し緑道

d0183387_09093458.png鎧の渡し緑道
「鎧の渡し緑道」とよばれる広場と鎧橋の下は、平成18年頃までは帷子川が流れていました。昔の絵図を見ると、「鎧の渡し」(別名、越っ場=こしっぱ)当時は川幅も広く、渡し舟がありましたが、先を急ぐ武士達は、鎧を頭に乗せて渡ったところからこの名がついたようです。「矢竹が渕」「屏風が渕」「鎧が渕」という三古淵がこの辺りにありました。それだけ帷子川が蛇行していたということです。この緑道は、平成18年に完成公開されましたが、改修前の帷子川の流れは現在の駐輪場付近を半円状に周回し、鎧橋の下を通過して親水緑道方面に蛇行していました。明治20年完成した日本最初の近代水道の水路管が帷子川を通過するときに設置されたのが鎧橋で、平成15年の道路改修時に現在のモニュメントになりました。 鎧橋から2.5km先に西谷浄水場があります。(旭ガイドボランティアの会)


d0183387_19030293.jpg首洗い井戸
畠山重忠公は鎌倉時代の智・仁・勇を供えた武将でした。しかし幕府の実権を巡る争いに巻き込まれ、鎌倉に至急参上せよという北条時政からの命に接して、鶴ヶ峰にさしかかったところ北条勢の大軍に待ち伏せされました。熱戦を繰り広げましたが“弓の名”手愛甲三郎季隆の放った矢に当たり、42歳の生涯をこの地に閉じました。元久2年(1205622日のことです。ここは重忠公の首を洗い清めたといわれる井戸がありました。以前は帷子川の河原に直径1m程の穴があり、水が湧いていたといいますが川の流れが変わって失われてしまいました。(旭区誕生40周年記念事業実行委員会 旭区観光協会)


d0183387_00505026.jpg首塚
 
畠山重忠公は鎌倉時代の武将で、源頼朝の忠臣として幕府の創設にも力を尽くし、智・仁・勇を兼ね備えた武将として名声をはせていました。しかし幕府の実権を巡る争いに巻き込まれ、旭区の二俣川付近で戦死しました。ここは重忠公の首が祭られたところといわれています。現在は西向きに建っていますが、以前は南を向いていたそうです。(旭区誕生40周年記念事業実行委員会 旭区観光協会)


d0183387_00545847.jpg畠山重忠公碑
/鶴ヶ峰駅入口交差点
鎌倉時代の武将・畠山重忠公は、元久2年(12056月にこの地で戦死しました。この碑は、重忠公没後750年を迎えた昭和30年(19556月に、地元・鶴ヶ峰と埼玉県川本村(現・深谷市)の有志により建立されたものです。(旭区制25周年記念施設 旭区誕生40周年記念事業実行委員会)


d0183387_00534954.jpgさかさ矢竹の由来
鎌倉武士の鑑、畠山重忠公は、この地で僅かの軍兵で北條勢の大軍と戦って敗れた。公は戦死の直前に「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と、矢箆(やの)二筋を地に突きさした。やがてこの矢が自然に根付き年々2本ずつ生えて茂り続けて「さかさ矢竹」と呼ばれるようになったと伝えられる。このさかさ矢竹も昭和40年代の中頃までは現在の旭区役所北東側の土手一面に繁っていたが、その後すべて消滅してしまった。この度畠山重忠公没後800年にあたりここにさかさ矢竹を植えて再びその繁茂を期待いたします。(横浜旭ロータリークラブ)


d0183387_00535835.jpg矢畑・越巻

北条勢から射た矢が一面に突き刺さり矢の畑のようになったということから「矢畑」と呼ばれています。この辺りで重忠公が敵軍に取り囲まれたという説と矢が腰巻のようにぐるりと取り巻いたという説があります。(あさひ散歩)



d0183387_01012017.jpgすずり石水跡

重忠が陣を張った時、ここの水で墨をすったと伝えられています。谷戸の奥にあたる場所で、昭和初期までは崖からきれいな湧き水が流れていました。重忠は妻への手紙に辞世の歌でも書き送ったのでしょうか? 埼玉県の地元川本町に辞世の歌を想わせるようなこんな歌があるとか? 「頼みがたきは世の常か、誠一途が謀反とは、恨みも深く二俣に、武士(もののふ)の意地花と散る」(旭ガイドボランティアの会)


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東隆山薬王寺/鶴ヶ峰本町
本尊:薬師瑠璃光如来 以前は今宿南町にあり福泉寺の末寺であったが、明治39年の火災によりすべてを焼失しました。昭和2年当地で畠山重忠の慰霊祭が行われたのを契機に昭和5年薬王寺を移設するということで霊堂が完成し、重忠公の金箔の霊位が祀られています。また、鎌倉北条の陰謀によってここ鶴ヶ峰で戦死した重忠公以下一族郎党134騎が祀られている六つ塚があることで有名です。命日の622日には全国各地から縁のある人々が式典に参列し500人からの賑わいとなります。(旭ガイドボランティアの会)


d0183387_10262135.jpg六ツ塚
 
おおよそ乱世には学問道義は衰えるが、畠山重忠公は智仁勇の三徳を兼備えた武将で、今なお親み慕われている。その時、鎌倉北条時政から急ぎ鎌倉に出頭せよとの命に接した公は、菅谷の館(現埼玉県比企郡)を619日発し、鶴ヶ峰にさしかかるや雲霞の如き数万騎はここ霊堂の前方帷子川を越えた彼方の台地(万騎が原)方面から突然攻め寄った。公は策にかかったとは知ったが、武士としてここに決戦を覚悟した。この時公の重臣らは一度菅谷の館に引き返し、軍を整えて鎌倉方を待たるるよう進言したが、公は毅然としてしかすれば我に陰謀があったと無実が事実となり、永久に汚名を着ると論した上、午の刻(正午より数時間にわたる激戦のはて)愛甲三郎季隆の矢に当り、遂に一族郎党134騎とともに玉砕した。時は、元久2622日(1205年今より768年前)公は42才。この地に主従一同と6ヶ所に葬り、代々伝えて六ツ塚と言う。(旭区役所 旭区観光協会)


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畠山重忠公霊位祥月命日供養塔      
畠山重忠公一族郎党精霊供養塔

重忠の墓(六つ塚)
重忠公のお墓は何処に?この六つ塚は正式な墓ではありません。重忠公の墓は、生誕地の川本町の重忠公史跡公園内にある五輪塔様式の墓があります。菩提寺として埼玉に萬福寺があり、寺内には位牌が安置されている。鎌倉釜利谷の東光禅寺には墓ではないが五輪塔があり、薬王寺には重忠公の位牌と菊の前の位牌が有ります。(旭ガイドボランティアの会)

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畠山霊堂創建記念碑
武州鶴ヶ峰は智仁勇名将秩父庄司畠山重忠公及び重保重秀一族郎党従百二十有名が北條氏の奸計により冤死せる古戦場なり。時に元久2年6月22日。六ッ塚はその自刃せる一族を埋めし塚なり。霊堂は重忠公一族を祭祀し広く公の精神を顕彰し、史蹟保存の為に陸軍大佐栗原勇殿発願により十方各位の協力を得て創建せられたるものなり(由来碑文)


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丘の風景① 西側対岸の万騎ヶ原方面を望みます/鶴ヶ峰神社

d0183387_13542183.jpg鶴ヶ峰神社
この神社は明治39年、政府が小さな神社の合併を推奨した際、今宿村の神明社に吸収されましたが、昭和39年氏子会の努力が実ってこの場所に返還され鶴ヶ峰神社となりました。(旭ガイドボランティアの会)



d0183387_13582105.jpg駕篭塚/鶴ヶ峰浄水場
重忠公の内室「菊の前」はこの地で重忠公戦死を聞いて自害し、駕籠ごと埋葬されたと伝えられています(あさひ散歩)




d0183387_13582577.jpg武州鶴ヶ峰駕籠塚碑文
元文2622日畠山重忠公ハ岳父北條時政ノ策謀ニ因リ冤罪ヲ被ムル 北條義時大軍ヲモッテ之ヲ迎撃セントス  重忠公一族134士悉ク死ヲ決スルノ悲報秩父・菅谷ノ館ニ達ス  内室急遽北條ニ至ラントスルモ公既ニ戦死ス 悲嘆慟哭シ乗駕中殉ズ 駕籠塚ハ長永ク其ノ霊ヲ弔ウテ今日ニ至ル(碑文)


・・・ふるさと尾根道緑道/今宿東町

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開けた尾根道がスーララシアへ続いています、いい眺めです/ふるさと尾根道緑道

d0183387_15293640.pngふるさと尾根道緑道
旭区の背骨に当たる稜線にそって、導水路敷きを中心に整備された緑道。全長約1.6kmの長さがあり、旭区グリーンロードのルートとしても親しまれています。鶴ケ峰側の入口は、鶴ケ峰中学校近くにありここから桜並木が続きます。すぐ左に今宿東公園が隣接し寄り道して楽しめます。少し歩いて疲れたら右側の白根寺下第二公園で一休みできます。この緑道の見所はなんといっても街を見下ろす風景。旭区の高い部分を通っているため眺望には不自由しません。また、部分部分や季節ごとに違った表情を見せるのも魅力です。ここを通ると、鶴ケ峰駅からズーラシアまで45分前後で歩いて行くことができます。ズーラシアってこんなに近かったの?と思うことでしょう。なお、この尾根道は、平成12年度に国の「都市景観大賞」を受賞しました。旭区の新しい顔として、ぜひ歩いてその魅力を味わってみてください(旭区)

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尾根の左手、いい森ですね~/今宿東公園

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丘の風景② 東側中白根方向の景観です/ふるさと尾根道緑道

白根

旭区の北東に位置し、北西から南東にかけて約方の凹型の地域で、中白根を挟んだ北側に白根町があり、その北は緑区と接している。地形としては地区の南の境界をに西川東へ流れる帷子川に北西の上白根方面から合流する支流の中堀川の谷戸を中心に、その両側の丘陵地、さらにその東側を中堀川に並行して流れ保土ケ谷区との境界をなす新井川の谷戸にまで及ぶ。もともと南の境界は帷子川に沿っていたが、帷子川が河川改修により直線化された結果、白根は河川によって分断されることになった。Wikipedia


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尾根を東へ下り中堀川緑道へ      真直ぐの道が鎌倉道(中道)です/白根小前


d0183387_15244705.jpg真宗白根山正円寺/白根
古くは浄土真宗の寺として400年。江戸時代は白根地頭の菩提所として護持されてきたと考えられる。しかし、文久2年(186215世住職の没後は無住となって荒廃し、明治20年頃には火災に遭って全てを焼失、檀信徒も四散し、文字通り廃寺状態で50年間放置された。昭和9年に少数の檀信徒により仮本堂と庫裡が造立され、前住職が入寺再興された。昭和55年現在の姿になりました。(旭ガイドボランティアの会)

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ふるさと尾根ルートマップ
(緑:尾根ルート 赤:浜街道 橙:中原街道 青:帷子川・中堀川)


・・・白根公園

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白根公園

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白糸の滝
白根神社の境内を流れる中堀川の大滝が白糸の滝です。白糸の滝は幅9.1m、落差5.5mの市内最大の滝と云われていましたが、今は幅7m、落差3.2mと当時よりやや小さくなりました。

d0183387_15565849.jpg万葉の歌碑
この歌は「万葉集」巻21に採録された防人の歌です。天平勝宝7年(755)、防人として都筑郡から九州沿岸の警備に出発しなければならなかった服部於由は「我が行の息衝くしかば足柄の峠延ほ雲と見とと偲ばぬ」 (私の旅が長いためにため息がでるように恋しく思うことは分かるが、あまり心配して身をこわすより心を慰めながら無事に私の帰るのを待ちなさい)と、残して行く妻が気がかりで歌をよんでいます。妻の呰女は「わが夫を筑紫へ遣りてうつくしみ帯は解かななあやにかも寝も」(私の夫を筑紫へ送り出すが、それが心配で心配でたまらないので夜も帯を解かずに、夢にも離れないようにと思いながら寝るようです)と歌を返したものです。防人は大宰府に派遣され、体外的な警備に当たり任期は3年でした。東国の兵士が当てられ彼等の旅費や装備は基本的に自前で、任期が終わっても楽に帰ることができず道端で餓死する者も多くいたようです。当時、兵部省の役人として防人の管轄に当っていた大伴家持は、東国各地からやってきた防人たちから歌を集め 「万葉集」に収めました。旭区の昔を偲び、都筑郡(旭区は当時の都筑郡の一部でした)のゆかりの地であるこの地に歌碑を建立しました。(旭区観光協会、旭区役所)

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白根神社
八幡太郎義家(武勇で知られた源氏の棟梁・弓の達人と云われた源義家、源頼朝の4代前)が、前9年の役(1051年~1062年)で、父頼家とともに東北地方の安倍一族を討伐した。その時、弘法大師作とされる(一寸七分=約5cm)を兜に入れて戦って勝利を納めたことに感謝して、康平6年(1063)この地に伽藍を建立し、不動明王坐像を祀った。これが、白根のお不動さんの始まりです。明治に入り「神仏分離令」によって正願寺は廃寺となり白根神社(日本武尊)となった。(白根神社の祭礼928日はお不動さんの縁日と同じ)今は、山の上に社は移り「日本武尊」が祀られ、その山の下の平地には不動堂があり不動明王が祀られています。(旭ガイドボランティアの会)

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鳥居「白根神社」の扁額が掛ります      参道(通れません)



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鳥居、こちらには「白根不動」の扁額が掛ります

d0183387_16292206.jpg白根不動・白糸の滝
社伝によると『前九年の役(10531062)の際、八幡太郎源義家は兜の内に不動明王坐像(坐長17分伝弘法大師作)を納め、奥州に向い勝利を上げたことにより、康平6年(1063)鎌倉権五郎景政に命じて社殿を造立しこの坐像を祀った。これが不動堂の起源である。建久2年(1191)堂宇を再び造立したが、正慶年間(13321333)新田義貞の鎌倉攻めの折、この辺りの社寺はすべて烏有に帰した。その後、元禄7年(1694)に社殿を再建したが大正8年(1919)火災で焼失し、即建立されたのが現在の社殿であるといいます。不動堂の別当職白瀧山正願寺は明治初年廃寺となり白根神社となりましたが、神仏混合時代の仏教の影響が強く残り「白根のお不動さん」として近郊近在の人々から親しまれています。戦前は雛市や幟市が開かれにぎわいました。境内には、巾7m、落差3.2mの「白糸の滝」があります。(横浜国際観光協会、横浜市教育委員会文化財課)

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中堀川に沿って道が付けられ、左岸に小滝がありあります

小滝
中堀川の大滝が白糸の滝で、小滝が昔、行者の修行に使われたことから行者の滝と云われています。

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白瀧龍神               不動明王でしょうか


d0183387_16515486.jpg蛇塚
二俣川の大池には、昔、池の主として蛇が住み着いていました。この蛇は、田畑を水害から守る水神様として村人から崇拝されていました。水神の信仰に厚かった村人たちは、池の主の子孫を手厚く葬り、ここに、蛇塚を建てたと云われています。上白根にも当時、大池があり蛇の民話が伝わっていますが何故か、この蛇塚は二俣川の大池の民話のようです。(旭ガイドボランティアの会)

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谷戸の風景 神社南側から谷道を下って街道へ戻ります/白根不動入口(16号)


d0183387_17012544.jpg不動道入口

八王子街道より白根不動尊への参道入口。道しるべの不動像は寛政9年(1797)にたてられた。






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白根村道橋改修碑/愛宕交差点      道祖神

白根村道橋改修碑 
横浜市地域史跡この碑は、江戸中期、八王子往還白根村地先の難路改修の由来を記したものです。江戸の住人櫻井茂左衛門が供養のため、田畑を買収し、破損した橋を改修し、往来の難儀を救ったとあります。元文4年(173911月に建立されたものです。八王子往還は、芝生(現在の西区浅間町)で東海道から分岐し、町田、八王子へと通じている街道です。(横浜市教育委員会)

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街道の風景② 左手に旧道の面影が残ります/愛宕(16号)



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あさひ散歩・鶴ヶ峰の史跡を訪ねてマッツプ/旭ガイドボランティアの会
(青:コース 赤:浜街道を着色しました)



・・・・・・・・・・
資料ファイル

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旭区の古道を辿れば(旭ガイドボランティアの会)

旭区の古道

古代の律令国家では、都を中心にして各国々を結ぶ官道が整備されていた。その当時の東海道は相模の国走水(現横須賀市)から現在の東京湾を渡って上総国に至るのが正規の道筋だった。10世紀の平安時代からは、相模国大住(平塚あたり)から相模川を渡り都筑に入り多摩川を渡る官道が東海道になった。その後の「矢倉沢街道」に沿ったルートであったと考えられる。それに並行して相模から武蔵にかけて直線的に走っている道が、後の「中原街道」であり、昔から官道として機能していたのではないかといわれている。また近世になっても江戸を中心に相模の国に通じる道は、広く「相州道」と呼ばれていたらしい。「中原街道」も大山道も厚木街道もすべて「相州道」の一つだった頃があった。(旭ガイドボランティアの会 村田啓輔氏の解説より)

by Twalking | 2016-10-24 10:45 | 浜街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 浜街道(2)淵野辺~鶴ヶ峰03 川井   

日時 2016.10.14(土)
天気 晴れ

川井は初めて訪ねますが、町名変更等で入り組んでますね~。
多磨丘陵の谷間を帷子川が流れますが、ここは源流域です。
今までは境川、これからは帷子川に沿って歩きます。

すぐ16号が走ってますが、旧道は静かな佇まいです。
里山の長閑な風景とお寺さん、これからいいでしょうね~。
次回は鶴ヶ峰、畠山重忠の史跡などじっくりと訪ねたいと思います。


・・・上川井町(旭区)


旭区の北部に位置し町の西側は瀬谷区、北側は緑区に接する。町内を保土ヶ谷BPと国道16号が通り上川井ICで交差する。
古くは都築郡上川井村であった。地名の「カワイ」は川の合流地点の意味があり『新編武蔵風土記稿』に川井村の地名がみられる。明治22年に今宿・下川井・川井・上白根・下白根・今宿の各村と合併、都岡村となる。(Wikipedia

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街道の風景① 坂を下ると16号、左手に平行して旧道がついてます

市坂(いちさか)
上川井町の地名、字名。大和バイパス付近の丘陵部の地名。この地の坂を言ったものを代表字としたのだろう。市の立つ場所であったか。
(「谷戸めぐり」さんの解説より)

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亀甲山バス停             横浜身代わり不動尊(真言宗醍醐派)

亀甲山(かめのこうやま)
上川井町の地名、山名。字市坂の山の名。その形状を亀の甲羅に例えたもの。
(「谷戸めぐり」さんの解説より)

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これはでかい水路橋ですね~、下を帷子川が流れます/若葉台団地入口

大貫谷戸水路橋/(
かながわの橋百選)
昭和27年に建設されたトレッスル橋脚を有する鋼水路橋で、橋長は306m。普通は橋が川を渡るのであるが、水路橋は橋の中を川が流れているようなものである。相模湖系原水の導水路として、流量148万立万メートルの水路橋で、鋼桁がそのまま水路となっている。長大水路橋として全国的にも珍しく、水道界での貴重な存在となっている。(神奈川県)


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帷子川の風景① 水源の清流を利用して散策路が付けられてます/上川井町小川アメニティー(若葉台)

帷子川の水源
帷子川は旭区の西北端に源を発し、東京湾に注ぎこむ区内の代表的な河川です。水源は上川井町東根谷と呼ばれる大貫台地の麓から湧き出ていましたが、源流付近は若葉台団地の造成により地形が変わり今はここが源流地とされています。(あさひ散歩コース)

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水源はこの谷戸の奥でしょうか     水管橋の下は小川になってます

大貫谷(おおぬきやと)
若葉台、上川井町の地名、字名。若葉台の西を北に北部斎場を超えて進む谷の名。大きく貫くような谷という名称は地形から来たものと思われる。大貫谷公園がその名を残す。
(「谷戸めぐり」さんの解説より)


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街道の風景② 帷子川の流れる谷間を南へ向かいます/長源寺前


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長源寺山門/上川井町


d0183387_19312179.jpg長源寺 

当山は弘法大師を宗祖と仰ぐ高野山真言宗で、川井山観音院長源寺と号し天平11年に行基菩薩によって開創されました。行基菩薩がご活躍されたのは奈良時代であり、本来は南都六宗のうちの華厳宗の本山、奈良東大寺の末寺々院でありましたが、永長年中に東国の武士団の頭領・源氏の八幡太郎義家公奥州征伐の折に当寺を参拝され、荒廃していた諸堂や伽藍を整備補修し、行基菩薩の彫刻された十一面観世音菩薩に武運長久と戦勝祈願されたと伝えられます。その後に無住の荒れ寺であった当寺を、永世年中に印融法印により中興開基された折に高野山真言宗となった次第です。本尊の大日如来(金剛界)は、永世十年に印融法印の入佛・御開眼されたものであり、平成7年には横浜市文化財保護の指定をうけました。境内の観音堂は旧小机領三十三所霊場の第27番礼所です。(長源寺HP)

d0183387_19360615.png木造大日如来坐像(
横浜市指定有形文化財彫刻)
時代:室町時代 構造及び形式:技法 寄木造、玉眼、肉身部金泥、着衣部漆箔 寸法:像高33cm 員数:一軀このお像は長源寺の本尊で、頭髪を高く結い上げて銅造の宝冠をかぶり、胸の前で智拳印を結ぶ金剛界の大日如来坐像です。張りの強い面部や下半身の装飾的な衣の皺の刻出などに鎌倉時代の作風を受け継ぎ、丁寧にまとめられており、像底部の銘文から、東国仏教界に強い影響を与えた高僧の印融(いんゆう)が、永正10年(1513)に寄付したことがわかります。印融は、永享7年(1435)に、現在の緑区三保町に生まれ、港北区鳥山町の三会寺や鶴岡八幡宮で学んだあと、高野山で修行し、のちに関東に戻り三会寺を拠点に、真言密教の復興に努めました。このお像は、当代の佳例であるうえ、印融のおこなった真言密教の復興運動の一相を示してくれるなど、資料的価値も高いといえます。(横浜市教育委員会)

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丘の風景① 南側の風景です、多摩丘陵の谷を鶴ヶ峰に向かいます/
長源寺


堂谷(どうやと)
上川井町の地名、字名。長源寺前のバス停から北に入る谷戸を言った。開発で大分姿が変わったが、おそらくこの寺の堂に因む地名だろう。(「谷戸めぐり」さんの解説より)


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街道の風景③ 16号に合流しますが、すぐを左折して神社裏の旧道へ/宮の下


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上川井神明社鳥居


d0183387_19510734.jpg上川井神明社
祭神:國常立尊(くにのとこたちのみこと)
創建は不詳であるが、今からおよそ7800年まえの中古の時代から江戸時代に至るまで、旧誌小机川井郷の総社として鎮座し、地域の総鎮守であったと思われる。その後明治612月のに、上川井村の村社に列せられ地域の守護神として氏子の尊崇する神明社として今日に至つている。祭神は國常立尊でこの神は国土形成の根源神。国土の守護神といわれ宇宙が誕生し国土がまだ混沌としてどろどろした状態のとき登場し、泥土を集められ、生命力が宿る大地を形成した神とされている。(案内板)


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街道の風景④ 丘の上を右に巻きながら道なりに進みます/神明社先丘の
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丘の風景② 多摩丘陵の景観です。右手は保土ヶ谷CCでしょうか/旧道


d0183387_20004020.jpgお地蔵様の由来/下り坂途中

当地のお地蔵様は岩船地蔵尊と云われ今から280余年前の享保年間(享保10年・1725)に建立されました。当時、全国的に享保の飢饉と云われた、農作物の不作、疫病の蔓延等で人心は動揺し社会は不安定となりました。このため疫病等の進入を防ぎ、老人や幼稚を守るためにお地蔵様は建立されたものと伝えられております。以来280余年間、この地に建って人々の信仰を受け、川井の地を見守ってこられました、今でも子育地蔵として多くの参拝者が訪れています。このお地蔵様を川井地区の貴重な文化財として、これからも人の心の拠り所として宗教、宗派をこえて広く信仰し永く保存してまいりたいと考えております。(川井地区岩船地蔵世話人)



・・・下川井町

古くは都築郡下川井村で明治22年(1889)に周辺5ヶ村と合併し都岡村大字下川井となった。旭区のやや北部に位置する。町の南部を中原街道、北西部を保土ヶ谷BPが通る。
Wikipedia


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街道の風景⑤ この辺りが中心でしょうか「川井宿」バス停があります

宿(しゅく)
川井宿町の地名、旧下川井町の地名、字名。八王子街道の横切る中央付近。川井宿の中心地であった。(「谷戸めぐり」さんの解説より)

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街道の風景⑥ その先が「下宿」バス停、そして中原街道と交差します

下宿(しもしゅく)
川井宿町、都岡町の地名、旧下川井町の地名、字名。川井宿の下にあたる場所の意味だろう。


・・・都岡町
(つおかちょう)

元の都築郡都岡村一部、広域地名の一種。本来は「都筑村」を名乗る予定であったが、のちの川和町も「都筑村」を名乗るべく準備していたため村名を巡る争いになった。結局、丘陵地帯であった本村が都岡村(「都筑の岡」の意)、田園地帯であったのちの川和町が都田村(「都筑の田」の意)を名乗ることで収拾した。Wikipedia


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街道の風景⑦ 中原街道を横断します/
都岡の辻

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水道道も横断             こちらは16号です

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帷子川の風景② 坂道を下り御殿橋を渡って登りになります/御殿場市(中原街道)


d0183387_00422140.jpg御殿橋・橋名の由来
旧中原街道の一部である『御殿橋』は、東海道の裏街道にかかる橋として歴史的な価値を持ったものである。道は虎ノ門に通じ、古くは徳川家康が江戸入城のとき(天正18年・1590)にこの橋を通行したといわれています。家康はその後この橋を改修し、鷹狩りや民情視察などでよく利用したとのこと。また、江戸時代初期(慶長181613)に家康が相州高座郡の中原御殿(平塚市)へ行く途中、この付近でお茶をたてたのでこのあたりを「御殿丸」という字名がついたという。橋の名称も徳川家康にちなんでつけられたものである。(『旭区内覧見』より 旭区水辺さわやか推進委員会ヨコハマさわやか運動旭区本部)

中原街道(都岡)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22306065/


・・・今宿西町

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街道の風景⑧ 高島町まで10km、ここを左折します/神明神社前(16号)

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立派な門構えのお宅ですね~      すぐ先に双胎道祖神


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今宿神明社鳥居

d0183387_12313701.jpg今宿神明社

今宿神明社は寛政8年に創建せられ、世に親しみ崇敬され郷土民は誠心を以って護持に努めてきたが、太平洋戦争後国民思想変動の影響を受けて、不断の留意にも不拘少なからず荒壞を見るに至った。有志の者之を憂い協力して浄財を寄せ神垣を造築し、神域奉護と森厳化を計画してここに完成を見たことは慶賀に堪えない。整備された神域は世の敬愛の念を新たにする感が深く、神徳が永遠に輝くよう念願する。ここに神明社奉護の趣旨を体し有志の持志を永に後世に伝えるためこの碑を建立する。(碑文)


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今宿本立寺山門

d0183387_12334481.jpg今宿本立寺(今宿学舎)
本立寺は享保年間に荏原郡峯村(現在の東京都大田区嶺町)から移転した池上本門寺の末寺です。元文2年(1737)今宿の地に本堂を建立、開眼供養の際には本門寺から20名の僧侶が出仕して法要を営んだと記録にあります。(永寿院HPより)街道の


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風景⑨ 旧道は静かな佇まいですので歩き易いですね~


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左の旧道へ/鶴ヶ峰本町         旧道は左手へ、直進して鶴ヶ峰駅へ

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街道の風景⑩ 交差するのは厚木街道です/鶴ヶ峰(16号)


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20m万分の1地図(1888年・明治21年)/馬場喜信著「浜街道」より
(赤:浜街道 橙:中原街道 緑:東海道 青:帷子川を着色しました)

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旭区の地形/旭区

旭区の地形

旭区は三浦半島へと続く多摩丘陵地帯の東部に位置し、関東ローム層からなる丘陵地帯と沖積層からなる低地が交錯して起伏に富んでいます。最高地点は海抜94.8m、最低地点は海抜9.8mで高低差は85.0mとなっています。また、上川井町に源流をもつ帷子川が区内を南北に二分するように流れ、支流である二俣川と鶴ケ峰本町で合流し東ヘと流れています。そして、南希望が丘から三ツ境・上川井町付近にかけての丘陵は帷子川と境川の分水嶺となリ、上川井町から上白根町にかけての丘陵は帷子川と鶴見川の分水嶺となっています。(旭区)



by Twalking | 2016-10-20 19:37 | 浜街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 浜街道(2)淵野辺~鶴ヶ峰02 原町田   

日時 2016.10.15(土)
天気 晴れ


原町田~246号の間は一部旧道を除き町田街道を歩きます。
鎌倉街道や大山街道が交差する要衝なので面白い所ですが、
何度か歩きましたので、街道等の確認をしながら先へ。

長津田辻から先は東名の工事で道は消滅していますので、
インターを迂回すのだけ・・・、落ち着かない道です。
旭区にはいると、やや静かな感じになってよくなってきます。



・・・森野(町田市)

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街道の風景① 左は新道、旧道の右に進みます/町田街道・滝の沢交差点



d0183387_15112421.jpg滝ノ沢
本町田の西端で、恩田川源流端の一部となるわさび沢川(滝ノ沢)の水源地(現在の町田市立町田第三中学校付近)である。

わさび沢川

町田市下水道部下水道管理課が管理する普通河川。水源(町田市本町田の滝ノ沢地区)から今井川が左岸から合流する地点(町田市本町田の日向台地区)までの恩田川源流部における名称である。
Wikipedia)

恩田川(源流域)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23231735/


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八坂神社鳥居/木曽東

d0183387_14584315.jpg八坂神社/木曽東
祭神:素戔嗚尊・櫛稲田姫命・八柱御子神 創建:寛政元年(1789)改築昭和42
由緒:京都八坂神社の社伝によれば、斉明天皇2年(656)高句麗より来日した調進福使・伊利之使主(しりしおみ)が新羅の牛頭山に祀られている素戔嗚尊(牛頭天王)を祀ったとされる。牛頭天王は釈迦の誕生地に因む祇園精舎の守護神ともされ、祇園天神(疫病消除の神)とも呼ばれる。また邪悪の八大岐蛇(やわたのおろち)を退治したとして厄除け、降魔招福、子孫繁栄、家運隆盛、家内安全の神として天王様として親しまれている。櫛稲田姫命は吉方(恵方)を司る歳徳神であり、八柱御子神はその子供とされる。当社は寛永元年(17899月に大谷家2代目八左右衛門(現大谷忠久師氏の祖先)により大谷家の守護神として京都八坂神社の御神霊を分祠を受け当地に勧請創建した。現在は境川・滝ノ沢・中原の三地区の守護神(産土神)として氏子及び崇敬者により守護されている。境内:本殿と拝殿は祇園造りという一体の造りになっている。社の側には武蔵国御岳神社と大谷家、中里家の稲荷大明神及び道祖神が祀られている。(案内板)

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街道の風景② この先で現鎌倉街道(相模原町田先)を横断、町田駅へ/森野3



・・・原町田


鎌倉時代頃より鎌倉街道が通っていたが、江戸時代半ば頃までは鎌倉時代に宿の置かれた本町田が中心で、この地域は農地や原野が広がっていた。江戸時代後期頃、八王子から横浜へ生糸を運ぶための絹の道や東海道・大山街道の脇往還がこの地を通り物資の中継地となったため、次第に生糸取引や宿場として栄えるようになり、製糸・織物・乾物を中心とした商業も盛んに行われた。
Wikipedia

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街道の風景③ 左から浜街道、右手から鎌倉道が合流します/三辻

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小田急線を渡ります          中央通り商店街を三辻へ
 


d0183387_15533699.jpg絹の道/東口駅前広場
黒船到来により永い鎖国が開かれ安政6年(1859)に横浜が開港されると、日本から欧米諸国への輸出品の花形になった生糸は、主産地である長野、山梨や八王子から町田を通って横浜へ運搬されました。新編武蔵風土記稿に「神奈川道」と記された原町田中央通は東西文化の交流を果たしました。中国の長安から地中海に至る古代シルク・ロードのように日本のシルク・ロードになりました。そして原町田は商業地形成の原点となった「二・六の市」を主軸として生糸をはじめ諸物資の集散地となり繁栄の基礎が築かれ今日に至りました。この碑は歴史と伝統を受け継ぐ原町田商人の証として、原町田誕生400年を記念し一番商店会が建立しました。(説明板)


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浄運寺                勝楽寺 

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d0183387_16173364.jpg原町田商店街発症の地
「二・六の市」の碑/商工会館前
原町田商店街の発祥は、もとは一村であった町田郷から原町田村が独立した後、天正15年(1587)にそれまでの市をわけて、「二の市」が原町田、「七の市」が本町田に開設されたのが始まりといわれます。本町田の「七の市」は次第に衰えていきましたが、原町町田の市は炭・薪・蚕糸(さんし)・畑作物のほか衣料や農具など多くの物産を取扱い、文政・天保年間の頃(18181742)には「二・六の市」となって、月に6回も開かれるようになりました。この「二・六の市」こそ今日の原町田商店街の礎を築いたといえるのです。幕末に横浜が開港すると、原町田は繭や生糸を運ぶ「絹の道」として、各地から生糸商人が多くが集まり、市の規模も大きくなっていきます。市の開かれた場所は川田横丁やあたりから勝楽寺門前まで、道の両側の家の軒先に「マゲ」と呼ばれる長い屋根が張られ、それを区切って市店が並びました。(案内板)


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浜街道は直進、鎌倉道は右へ      町田街道に合流/三塚

三塚(さづか)
金森の地名。原町田境の辺りで交差点名に残る。恐らく三つの塚があったのだろう。(「谷戸めぐり」さんの解説より)

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原町田地区マップ
(赤:浜街道 緑:鎌倉街道(上道) 橙:町田街道 青:境川)

原町町田(鎌倉道)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23295015/



・・・金森

町田市の中部に位置する。地名は金堂寺のある森の意、また焼き畑を「カナ」といい、神社を杜(モリ)ということから金森となったなど諸説ありはっきりしていない。
Wikipedia


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街道の風景④ JR横浜線を越えます/南橋

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街道の風景⑤ 町田街道と別れ右手旧道を小川へ/金森4

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旧道風景               小川で合流します

上ノ原(うえのはら)

町田市旧小川村の地名、旧字名。新字十一号を経て町田市小川の一部となっている。バス停小川の立つあたりでかつての村域西端地。上の原地の意味だろう。(「谷戸めぐり」さんの解説より)

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街道の風景⑥ 谷を鎌倉道成瀬Rが、丘を大山街道が向かってきます/小鶴橋(田園都市線)


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街道の風景⑦ 246号の手前辺りが辻でしょうか?浜街道は直進、大山道は右に向かいます/「長津田辻」バス停

辻(つじ)
町田市旧小川村の地名、地区名。村域南端の町田街道と厚木街道が交差する辺りのことを言った。(「谷戸めぐり」さんの解説より)

大山街道(鶴間)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22870200/



・・・横浜町田ICを迂回して16号へ

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街道の風景⑧ 道は消えてますが横浜・町田ICを迂回して先の16号へ渡ります/IC手前

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手前を右折              カルバートを2つ潜り左折

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道なりで東名を潜り左折します         先の16号を左折します

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街道の風景⑨ 環状4号先右手の小路へ登ります/卸売センター入口(16号)

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川井浄水場正門            歩道橋で16号横断し直進

川井浄水場

川井浄水場は近代水道創設の10年後、横浜の発展に伴い第1回拡張工事(明治30年~34年)で築造しました。現在、横浜市の3つの浄水場の中で、一番初めにできた浄水場です。当時の浄水能力は11,0003でした。その後、数次の施設の拡張・増改築工事が行われ、最終的には標準浄水能力1106,4003(横浜スタジアム1/3杯分)となり約50年にわたって給水を続けてきました。平成212009)年に再整備を行い、平成262014)年にセラミック膜を用いたろ過で日量172,8003の水道水を作る最新鋭の浄水場に生まれ変わりました。川井浄水場で造られた水は、主に横浜市の西部方面に給水しています。(横浜市水道局)


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街道の風景⑩ 旭区です、台地の上なので景色はいいですよ/川井浄水場入口先


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あれ、こんなものも・・・       橋に繋がる送水路ですね


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金森地区マップ
(赤:浜街道 紫:鎌倉道・上道&成瀬R)


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20万分の1地図 1888年(明治21年)/(馬場喜信著「浜街道」より)
(赤:浜街道 緑:府中通り大山道 橙:青山通り大山道 紫:鎌倉街道・上道 青:境川を着色しました)

鎌倉道成瀬R(つくし野)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23256636/



by Twalking | 2016-10-19 11:23 | 浜街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 浜街道(2)淵野辺~鶴ヶ峰01 木曽宿   

日時 2016.10.15(土)
天気 晴れ


やっと秋晴れになりました~、絶好の日和です。
今回の予定は鶴ヶ峰まで、ちょっと距離がありますので、
地図を片手に、しっかりと確認しながら歩きました。

境川の右岸、木曽宿、帷子川の源流、川井宿などを中心に、
そして鎌倉道や大山街道、中原街道等の交差を確認しました。
やはり天気がいいと、足取りも軽くなりますね~。。。


・・・
淵野辺/相模原市

全域が相模原台地上に位置する。元は現在の5丁目に宙水(地下水
の一形態)に由来する小凹地と沼(菖蒲沼)があったが1950年代後半に埋め立てられて現在は沼は存在せず、概ね平坦な地形である。古くからの集落は境川南岸の段丘崖の周辺(現・淵野辺本町)に分布する。中世には段丘崖付近の台地上を鎌倉街道のうちの一本が通過しており、現在もその古道が断片的に残存する。南北朝時代にはこの辺りを拠点とした淵辺義博の活動が伝えられており、現在の淵野辺本町三丁目には淵辺氏の居館跡(淵野辺)が残されている。江戸時代の淵野辺村は幕府、複数の旗本家のほか烏山藩との相給料とされていた。周辺農村入会地となっていた台地上の原野の開墾が始まるのは江戸時代後期のことである。Wikipedia

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相模原台地の上、東の境川に段丘をくだります/淵野辺駅

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青山学院大東門            天高坂


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皇武神社参道


d0183387_15355195.jpg皇武神社/
淵野辺本町4 
日本武尊
創建は定かではないが元和年間(1615年〜1624年)再建と伝えられています。延宝年間(16731681)に境川縁の御嶽神社が、この土地に遷座され明治5年(1872年)に皇武神社に改称されました。この地域の鎮守で祭神は日本武尊。境内には稲荷神社、八雲神社などがあります。本神社には養蚕にまつわる「おきぬさま信仰」が語り継がれています。(大野北公民館)

d0183387_15360890.jpg養蚕を支えた守り神 皇武神社

中央区淵野辺本町の住宅街にある皇武神社。そこは、養蚕の守り神「おきぬ様」の発祥の地だ。おきぬ様とはトウモロコシの皮などを材料に作った人形のことで、かつて神官が養蚕の守り神として信仰者に手渡していた。繁忙期に神様が娘に姿を変え、手伝いに来てくれるという言い伝えが残り、それが同神社のおきぬ様信仰につながった。相模原よりむしろ、埼玉や群馬方面に広まり、蚕の飼育時期には大勢の人々がこの神社を訪れた。現在でもお参りに来る人がいるという。境内の一角には「蚕守神大神」を祭る小さな祠があり、養蚕が盛んだった時代の面影を感じさせる。(相模原市)


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街道の風景① いい道です、古道でしょうか?根岸橋へくだります/
皇武神社先

d0183387_15403804.jpg八王子千人同心旧家

八王子千人同心は徳川家康の江戸入府後、武蔵・甲斐国境警護のため武田家の遺臣を中心に構成された。百人一組で十組、合計1000人の集団で、同心は平時には農耕に従事し兵農分離の幕府体制的な特殊な存在でありました。小川家は3代彦左衛門が寛政8年(1796)に加入しました。(大野北公民館)


・・・淵野辺城

南北朝時代に淵野辺村の地頭だった淵辺義弘の館である。
淵辺義博は足利尊氏の弟である足利義直配下の武将であった。1335年に北条時行による中先代の乱が起こると戦況が悪いと見た足利直義は義博に後醍醐天皇の皇子・護良親王を殺害するように命令する。義博は護良親王を殺害するとその首を藪のなかに捨てたと太平記には書かれている。その後義博は直義に従って駿河国で北条氏と戦うがそこで戦死してしまう。だが、一方で護良親王暗殺については義博が親王を匿ったために生存していたという伝承もある、鎌倉から奥州石巻港に落ち延びたとか、洞穴の中にかくまって奥州に落ち延びさせたといろいろある。また義博には境川にいた大蛇を退治して村の人々を救ったという伝説も残っており竜像寺には今も蛇の体の一部と退治した時の鏃が残っているという。現在の淵野辺城は石碑が建っているのみである。Wikipedia

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淵辺義博の居館跡に碑が立ちます


d0183387_15500302.jpg淵辺義博とその居館跡の碑

淵辺義博は淵野辺村の地頭で、足利尊氏の弟直義の家臣。建武2年(1335)、駿河国手越河原(静岡県安部川のほとり)で北条氏と合戦し、直義の身代わりになって討ち死にしたと伝えられている。屋敷跡といわれる地点は境川段丘上にあり、旧家天野氏の宅地にかけての一帯である。「碑」は昭和49年天野氏の敷地に建てられた。(大野北地区史跡マップ/相模原市)

d0183387_15483093.jpg渕辺義博は南北朝時代の武士で淵野辺村の地頭であった。義博は足利直義譜代の臣で史書によると建武2年主命によって大塔宮護良親王を弑し、のち駿河国手越河原で主の身代わりとなって討死した。伝承では親王を奥州石巻に逃し奉り、或は暦応年間村人のために境川の大蛇を退治したともいう。この地域における注目すべき人物である。然るに時代の推移に伴い義博の史実伝説も、忘却されんとしつつある。因ってその居碑跡に一碑を建て永く遺跡を留めんとするものである。相模原市文化財保護委員会 座間美都治撰(碑文)



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境川の風景 上流側の風景です/根岸橋

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右岸に道祖神             根岸橋を渡り淡島神社へ


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大野北地区史跡マップ/相模原市

大野北地区・矢部館跡の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23550016/



・・・根岸(町田市)

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淡島神社鳥居/町田市根岸

d0183387_15591323.jpg淡島神社創建の時代は明らかでない。もとは箭幹八幡の飛地にある境外の末社であったが、昭和42年(1967)に宗教法人として設立されたのである。和歌山市の加太町に鎮座している淡島明神を勧請したものであり、婦人病に霊験のある神として信仰され、婦人の守り神である。「淡島さま」と称する。祭神は少彦名命、天照大神、菅原道真を奉斎した。例祭日は毎年101日である。境内坪290坪。町田市根岸町四五七番地に鎮産している。(町田市史)

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淡島神社

御祭神:少彦名命(医薬の神)、天照大神(神社の総本神)、菅原道真(学問の神)
起源:不詳。享保の頃既に祀られた碑がある。更に文政年間に現祭神の他数体の神を祀って御神体とした奉納札が現存する。少彦名命を祭った淡嶋神社は和歌山市加太を本宮とするが全国的には少なく東京都には当根岸町のみである。 
後利益:縁結び、子宝、安産、病気平癒に霊験 あらたひと近郷の女性に親しまれさらに遠方からの参拝もある 祭:古くは旧暦33日雛祭りと伝えられる 変遷:明治の神仏分離で独立し、村の有志の寄進などで境内も広かった。昭和42年宗教法人となり平成の区画整理により整備された。(碑文)

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街道の風景② 下根岸から町田街道を南へ/忠生交差点

忠生(ただお)
町田市中部に位置する。1889年(明治22年)木曽村・上小山田村・下小山田村・図師村・山崎村・根岸村が合併し、南多摩郡忠生村が成立した。忠生とはこの地域が『太平記』に新田義貞の身代わりとして湊川の戦いで討ち死にしたという記述がある小山田高家に因んで、「忠義な人が生まれた所」であることから名づけられたという。Wikipedia



・・・木曽町(旧木曽宿)

町田市の中西部に位置する。
1183年(寿永2)源頼朝と木曽義仲の和解の手段として、義仲の息子・義高が人質として鎌倉入りする際、当地に逗留して八幡を造営したと伝わる(木曽八幡)。1617年(元和3年)には徳川家康の遺櫃が、駿河国久能山から下野国日光へ移される途上に木曽村を通過した。櫃が通過した道はその後大山街道として整備され、現在の町田市域では木曽町小野路町が宿場としての役割を果たすようになった。地名は矢部八幡社の鐘の銘によると、鎌倉時代に信州より木曾氏が移り住んだことから木曽という地名が起こったという。しかしその鐘は現存していない。Wikipedia

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街道の風景③ 先の信号を右折、左手から大山道が合流します/上宿バス停

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大山道が合流             秋葉神社前 


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秋葉神社鳥居

d0183387_22432654.jpg秋葉神社

町田市木曽町に鎮座いたしている当秋葉神社は貞享2年(1685)に秋葉山本宮、秋葉神社(静岡県周智郡春野町秋葉山)より火伏の神として勧請した神社であります。寛政4年(1792)神殿改築。御祭神は火之迦具土大神と申し上げ火の主宰神であらせられます。火は人間の活動の源であり、その光は人間の活動の範囲を広め、その熱は人間を寒さから守るとともにエネルギーの源ともなります。御神徳は火の幸を恵み悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除く火防関連の神として火災消徐、家内安全、厄除開運、商売繁盛、工業発展の御霊験あらかたなる神として全国津々浦々で信仰されております。4月に行われる例大祭には「湯花祭神事」を併せて執り行ないます(碑文)


d0183387_22462295.jpg地蔵尊奉安撰碑

この地蔵尊は上(かみ)の地蔵さんとして大方に親しまれた尊像で、町田市施行の忠生土地区画整理事業に伴い、地蔵尊の敷地が飛び換地により此の地に移設する。右に錫杖、左に薬壺を手にした御姿で、延宝元年(1673)丑10月日の刻銘がある。医療機関が当てにならない時代、村辻に安置されて庶民の疾病平癒祈願を通して疾病防災をしたものと思われる。移設に伴って新たに延命地蔵尊を併設奉安して参拝者各位の万病治癒と延寿を請い願う次第である。(碑文)



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お参りしたかったんですが、入れませんでした/福昌寺山門

福昌寺/木曽西
宗派:曹洞宗(神奈川県津久井郡根小屋功雲寺末)。山寺号:木曾山福昌寺。開山:仏光禅寺を開山として、永禄11年(15682月高洲快天和尚創立。本堂:間口五間半、奥行六間半、位牌堂二間に三間のものを付属している。入母屋亜鉛葺木造。明治401230日焼失。同451月再建のもの。本尊:釈迦、木座像、長一尺。子育地蔵:恵心作と伝えるものを置く。庫裡:本堂と同時建築、瓦葺木造平屋31坪。客殿:8坪 元和元年(16153月徳川家康の遺骸、久能山より日光移送のおりの休息所となった寺と伝える。庭樹公孫樹:樹齢推定400年の老樹がある。総門:石柱。(町田市史)

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羅漢像が並んでます          石仏群

檀那寺(だんなでら)

仏教用語。本来はある個人の寄進によって創設され、その一家のために法を施す寺を意味したが、日本では一般に信徒がその所属する寺を呼ぶときに用いられ,先祖の位牌を預けたり、そこで法事を行う。Wikipedia

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街道の風景④ 真直ぐに道が通っています

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街道の風景⑤ この辻で大山街道と交差します、辻にお地蔵さん/四辻

d0183387_23134746.jpg延命地蔵見張り地蔵菩薩
(
初代の地蔵尊は伝重寺に祀られています)






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覺圓坊山門/四辻

d0183387_23194682.jpg覺圓坊

木曽の観音様として古くから親しまれてきましたこの寺は、もと近江国園城寺(三井寺)621坊中の一寺で、康平6年(1063)園城寺第23代長吏覺圓僧正が、同寺中の金堂(現在国宝)裏に開基せられ本尊聖観世音菩薩(坐像三尺)は「僧行基60歳これを刻む」と伝えられています。縁あって観応2年(1351)武州多摩郡木曽の当地に移され、多摩郡の霞頭となり三井修験の教勢大いに振い武相観音霊場の第33番札所となり、多くの人々から尊崇せられ「ここぞ33菩薩心」と詠わるに至り、信心の男女礼拝を重ね、640余年の信仰を今日に伝えています。(説明板)


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木曽一里塚(
町田市指定史跡)/四辻の西側
徳川家康は秀忠に命じて慶長9年(1604)日本橋を基点に東海道、東山道、北陸道に一里塚を築かせ全国に普及させた。その後、付属の街道である脇往還なども整備された。一里塚は旅行者の目印として一里(約4km)の間隔で道の両側に築かれた塚で、木陰にて休憩がとれるように榎や松が植えられた。町田市内には、木曽町、小野路町に一里塚が残っている。元和3年(1617)に徳川家康の遺櫃が駿河の久能山から日光東照宮へ移されたとき、東海道の平塚から厚木、座間、木曽、小野路、府中と通過した。この道は、後に御尊櫃御成道(ごそんびつおなりみち)と呼ばれた。18世紀になると関東各地から相模国大山阿夫利神社へ参詣する大山講が盛んになり、この道も大山道として利用され木曽と小野路は宿場町として栄えた。木曽の一里塚も小野路と同じく道の両側にあったが、現在は西側のものだけが残り、塚の上には武蔵御嶽山の大口真神の小祠がある。(町田市教育委員会)

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一里塚碑               大口真神の小祠

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街道の風景⑥ 大山道は段丘を境川へ下ります/一里塚先

府中通り大山道

現在の春日部市から府中を経て大山へ向かうものである。1616年(元和2年)に死去した徳川家康の遺骸を翌年久能山(静岡市)から日光へ移すことになり、江戸幕府はその一行が通る小野路村(町田市)に道を整備するように命じた。この時、小野路に一里塚が築かれた。大山講が盛んになると、小野路は宿場として栄えるようになった。Wikipedia

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伝重寺山門/四辻の東側

d0183387_23451370.jpg伝重寺

宗派:浄土宗(八王子大善寺末)。山寺号:浄叡山伝重寺。開山:源貞(慶長元年(1596)に草創した)。本堂:間口六間、奥行五間半。(向拝間口二間、奥行一間、寄棟亜鉛葺木造)本尊:阿弥陀(長二尺五寸の木像)。庫裡:間口九間半、奥行六間、玄関とも合せて六〇坪。門:石門 天正年間(157392)に明前比丘開基創建とも伝えるが、創草期には鶴間円城寺のような小庵時代も経過したのであろう。(町田市史)


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初代の地蔵尊          六地蔵



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金刀比羅神社
文化5年(1808)に伝重寺14世の誉原浄の時、四国の金刀比羅宮よりの勧請である。昔は伝重寺の地内に奉斎していたものである。俗に「こんぴらさん」と称している。祭神は大物主神を奉斎しである。例祭日は毎年410日である。境内坪数98坪。町田市木曾町1439番地に鎮座している。(町田市史)

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街道の風景⑦ 振り返ってみる木曽宿、いい雰囲気です

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左手にお地蔵さん        町田街道に合流

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街道の風景⑧ 町田街道を町田へ向かいます/木曽交番前


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木曽町周辺マップ
(赤:浜街道 橙:町田街道 緑:府中通り大山道 紫:現鎌倉街道 青:境川)


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20万分の1地図1888年・明治21年((馬場喜信著「浜街道」より)
(赤:浜街道 緑:府中通り大山道 紫:鎌倉道 青:境川 赤丸:鑓水・木曽・原町田・町田辻を着色しました)


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by Twalking | 2016-10-17 19:38 | 浜街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 浜街道(1)八王子~矢部03 矢部   

日時 2016.10.7(金)
天気 曇り

境川沿いの町田街道は車では時々通りますが混雑します。
ここを歩くのかなと思ってましたが、旧道も残っています。
旧道沿いには古刹も多く、思ったよりもいい道でした。

地図も見ずに気持ちよく歩いてしまったので、
あれ、と思って途中後戻りしながらの道中となりました。
でも鎌倉道にも出会えたし、なんとか辿り着きました。



・・小山町(町田市)

古くからの集落は町田街道に沿った街村の形態をとり、境川沿いには水田が分布した。一方、北側の多摩丘陵南斜面は森林または畑地として利用されていた。16世紀末に境川が武蔵国と相模国の境界として確定するまで、一部地域は相模国高座郡に属していた。元は境川(高座川)をはさんだ広い区域全体が「小山」を称していたが、この分割によって境川の北側武蔵国多摩郡小山村となった。一方、相模国高座郡に残った境川南岸にも17世紀初めに同郡上相原村(相原村とも)から分立した相模国高座郡小山村が成立している。地名の由来は横山党小山氏の居館があったことから。隣接する小山田(上小山田町・下小山田町。小山田氏が居館を置いた)との関連性は不明である。境川をはさんで北側に位置することから「ヒナタオヤマ(日向小山)」とも呼ばれた。一方、南側(相模国側)の高座郡小山村は「ヒカゲオヤマ(日陰小山)」と呼ばれた。(Wikipedia

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街道の風景① 町田街道の東側、丘陵に沿って旧道が残ります/小山町

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京王線を潜ります           札次神社参道


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福生寺山門/小山町片所

d0183387_14011828.jpg福生寺
付近に畠山重忠陣所跡と伝えるところがある。宗派:新義真言宗。多摩郡(旧)寺方村宝生寺末であったが、現在は京都新義真言本山智積院末。山寺号:施弥山慈眼院福生寺。昭和1010月、相模原市淵野辺鈴木孫兵衛方より左の古文書が出た。相州東郡柚木領小山田郷小山村[虫聲]蝉山福生寺言伝者、84代四条天皇御世天福元年715日弥兵衛[虫聲]蝉声股々耳、其時山伏坊姿者、清彦願出、百姓聚上下、棄差別御先祖御寺祈願説御本尊観音祈願坊、孫兵衛鎌倉願出、執権北条泰時公社寺奉行言命、年号一字賜[虫聲]蝉山福生寺云 文暦15317日 寺社奉行多治見海基 開坊 玄良法師 開基天野孫兵衛清彦かくて施弥山([虫聲]蝉山福生寺の山寺号出づと寺院ではいっている)。開山:これも右文書によって玄良法師としている。天福元年(1233)開山。開基:天野孫兵衛清彦。本堂 間口八間半、奥行七間 。正面に二間半、間口九尺の玄関をつく。本尊 不動木立像、長三尺。庫裡 面積二八坪。木造平家瓦葺、昭和二八年新築。鐘楼九尺四方。昭和2612月鋳の梵鐘あり。朱印 一二石二斗。(町田市史)

d0183387_14014809.jpg福生寺木造菩薩立像(
市指定有形文化財)
現在観音堂の本尊に随時して安置されている。本尊と同様、檜材の丸彫像で、やはり素地(きじ)をしている。天衣(てんね)および台座蓮肉部まで本体と共木で、左脇侍は格肘より先、右脇侍は右手首が後補されている。50cmに満たない小像らしく童顔風とするところが個性的で、目鼻立ちや技法などは極めて本尊像に近いが、宝冠は無文で衣文も殆ど省略されているところなどが異なる。また、大きさからも本尊と元来一具であったとは認め難い。しかし、この二像は本尊像の作風を踏襲していること充分に認められる。制作年代も本尊よりはやや遅れて11世紀末から12世紀後半とするのが妥当であろう。(町田市教育委員会)

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丘の風景① 振り返って見る浜見場、右手は武蔵境駅です/福生寺


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街道の風景② 一旦町田街道に出ますがここから再び旧道へ/小山駐在所

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秋葉大権現・片所講中とあります    稲荷神社御岳堂


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街道の風景③ 「萩原家」の屋敷、重厚な長屋門が目を引きます


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御嶽神社参道/小山町


d0183387_14533704.jpg御嶽神社
創建の年代は詳らかでない。寛文61128日の検地の際には、御嶽社領として五升五合六勺の除地をあたえられたのである。また、境内地三反歩は朱印地である。宝暦年間(18世紀中ごろ)の棟札は社宝である。祭礼には湯花の神事を行なう。祭神は日本武尊を奉斎している。例祭日は毎年8月の末日である。境内坪数892坪。町田市小山町2112番地に鎮座している。(町田市史)


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街道の風景④ 尾根幹線を横断して中村地蔵尊へ/小山交差点付近

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石灯篭(慶応元年・1865)&馬頭観音  普門品供養塔(文政10年・1827)&太子塔(弘化3年・1846)

献燈修復之記
沼町内会は歴史あるこの献燈(慶応元年設立)を町民の総意によって永く後世に保存するため当時この献燈を建立されたかたがたの御子孫と沼町内会の尊い浄財によって修復を行う。昭和518月。(碑文)


d0183387_15445505.jpg長泉寺門前の道祖神




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長泉寺山門
/小山町


d0183387_14570644.jpg長泉寺
宗派曹洞宗。山寺号『風土記稿』には医王山とあるが、今は蒼竜山長泉寺。もと柚木永林寺末であったが、これも今は福井市永平寺末となった。開山 照室恵鑑。天正年間示寂と『風土記稿』は伝う。本堂 木造瓦葺平家。間口九間、奥行五間。向拝とも50余坪。向拝は唐破風を有し、昭和3527世一宗代新築した。本尊 釈迦。木座像。長一尺余り。朱印 寺領九石四斗あった。庫裡 48坪。元農家を慶応3年(1867)移築。現在にいたる。木造平屋。

d0183387_14591499.jpg鐘楼 木造欅造り九尺四方。梵鐘。昭和35年春東京浅草翠雲堂鋳造とあり。山門 入口九尺。袖左右とも九尺。境内1200坪。子育地蔵 境内にあり。地人の信仰篤し。慶安の舟形親子地蔵である。『風土記稿』には薬師堂、衆寮などもあげられているがいまはない。薬師は木座像、長八寸行基作と伝えられていた。(町田市史)


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街道の風景⑤ 町田街道合流地(右)に中村地蔵尊があります/小山郵便局前

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中村地蔵尊/小山郵便局
中村地蔵尊は宝暦6年(1756)に創立され明和4年(1767)一体、明和5年(17685体、安永9年(17802体、天明2年(17822体、天明3年(17832体と合計13体建立されています。史書に照合してみますと当時代は大飢饉・大洪水・悪疫等が続発しています。地蔵尊建立当時の人々の願望は一に在住民一般の平穏安寧と特に二世安楽を祈願しています。(案内板)


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中村不動/小山町
信号に中村不動とありましたので寄ってみましたが詳細は分かりませんでした。



小山町周辺マップ
(赤:浜街道 橙:町田街道 緑:尾根幹線 紫:ニュータウン通り 青:境川)


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街道の風景⑥ 町田街道のコープ先右手に旧道がのこります/常盤町



・・・矢部館跡(上矢部/相模原市)


北を流れる境川をはさんで町田市と隣接する。矢部という地名は元来、近隣の相原、小山、鶴間などと同様に境川の両岸にまたがって広がる地名であった。平安時代末期から鎌倉時代にかけてこの地域を拠点に活動した武士団に矢部氏を名乗るものがあり、上矢部五丁目には矢部氏の居館跡(矢部城)が残されている。1593年(文禄3年)の検地の際に境川が武蔵・相摸両国の国界として確定し、右岸(西側)側が相模国高座郡、左岸(東岸)側が武蔵国多摩郡に属するものとされて、相模国分を上矢部村、武蔵国分を下矢部村と呼ぶようになった。上矢部村は幕府直轄領(天領)とされたのち、享保13年)に下野化烏山藩領となり、明治4年の廃藩置県まで続いた。Wikipedia

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境川の風景① 旧道を右折し、矢部氏館関連遺跡に寄り道します/常矢橋


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上矢部御嶽神社鳥居/上矢部2

d0183387_00412670.jpg上矢部御嶽神社
 
旧矢部村の鎮守社で建久年間(1190年〜1199年)に矢部義兼によって「三嶽社」として勧請され、その後、建武年間(1334年〜1338年)に「御嶽大権現」として再建されたと伝えられている。祭神は日本武尊で九月の例祭には市内でも珍しい湯花神事が行われます。横山党矢部氏居館の鬼門にあたるといわれています。(大野北公民館)


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参道                 地神塔

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上矢部の土塁/上矢部2

d0183387_00523639.png上矢部の土塁

「横山党」と呼ばれる武士団は12世紀後半八王子から南に進み、境川流域の相原に館を構え粟飯原と名乗り、この兄弟の一族が勢力を広めて小山、矢部、田名氏などと名乗りました。上矢部の土塁は古くより矢部氏の館跡といわれ、近くには和田合戦(1213)で滅亡した矢部氏の供養のために建てられたといわれる板碑があります。現存する土塁の西側があったと考えられ、土塁の外側に箱薬研形の堀があったと発掘調査で確認されています。(相模原市教育委員会)

薬研堀 (やげんぼり)
底がV字形の尖った断面をもつ堀。薬研(漢方薬などをつくるとき薬効を持つ薬種を細粉にひくのに用いる器)の窪みに形状が似ていることに由来する。底部の通行が困難であるため、空堀に使われることが多い。Wikipedia


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道路側                西側

矢部城
矢部氏館
鎌倉時代に横山党の一員であった矢部義兼がつくったものとされる日本の城。矢部義兼は1213年の和田合戦で戦死してしまう。享年67といわれている。現在上矢部には板碑が残っている。板碑には本来の板碑は表に梵字や仏像が刻まれているがこの板碑には上部に阿弥陀如来の像があり下には左右に蓮の花が、中央には「乾元28月日」と書かれている。これは1303年に遺族や家臣が義兼の追悼のためにたてられた物だといわれている。相模原指定重要文化財に指定されている。Wikipedia


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d0183387_16342396.jpg板碑の鞘堂
上矢部乾元2年の画像板碑
指定板碑は上部に阿弥陀如来の像があり、その下の左右に蓮花の花瓶を刻み、中央に「上矢部乾元28月日」と記している。この板碑の由来について、土地の人々は鎌倉時代に居館をかまえた矢部義兼の供養碑だといっている。義兼は横山党の一族藍原三郎大夫孝遠の三男で野部三郎といった。横山氏の祖は遠く小野妹子から出ている。義兼は建暦3年(12135月の和田合戦で戦死したので90年後の乾元2年(13038月遺族や旧臣たちがその追善供養のためこの板碑を建てたのだという。(相模原市教育委員会)


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上矢部薬師堂/上矢部4

本寺を町田市図師町の長慶寺にもち本堂には安永9年(1780)と記された建立棟札があります。建立地は鎌倉時代の横山党の矢部氏居館の裏鬼門にあたるといわれ、魔除け、安産にご利益があると地元の振興を集めています。本開帳は33年毎に、中開帳は17年毎に行われています。(大野北公民館)

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境内の石造群             上矢部街道の標柱

水汲み街道
矢部新田を開拓した方々が境川まで水を汲みにいくために使ったため「水汲み街道」ともいわれたそうです。(標柱)

横山党の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22965590/


d0183387_22403544.jpg椿稲荷/上矢部4

江戸中期に開拓されたといわれる「四軒村」の守護神として祀られたもので、かつて境内にご神木の大椿があったと伝えられています。御神徳は家運隆盛、厄除削除等の諸願が叶うとされています。(大野北公民館)




・・・矢部町
(町田市)

町田市の西部に位置する。西から南へ都県境に沿って境川が流れる。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて武蔵国南西部から相模国北部で活動した横山党と呼ばれる武士団に「矢部氏」の名が見られ、相模原市側も含めた当区域の周辺を本拠としていたとされている。1594年(文禄3年)の検地(または元禄の改め)の際に境川(高座川)が武蔵国と相模国の境界として確定され、右岸の相模国側は高座郡上矢部村とされた。これに対して左岸の武蔵国側は下矢部と呼ばれるが江戸時代には単独の村とはされず、多摩郡木曽村の一部とされた。江戸時代後期の文化・文政年間に編纂された「新編武蔵風土記稿」には木曽村内の小名として「下矢部」の地名が記されている。地名は古くからの地名である「矢部」による。旧称の「下矢部」は境川右岸(相模国側)の「上矢部」(現相模原市中央区)に対するもの。Wikipedia)街道の風景⑤ 


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街道の風景⑦ 街道に戻り、その先右手に旧道があります/常盤駐在所北

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旧道出口のお地蔵さん         桜美林学園です


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箭幹八幡宮参道/矢部

d0183387_17374393.jpg箭幹八幡宮(やがらはちまんぐう)
推古24年(616)当社が勅令によって勧請されたと「八幡宮記」にある。また推古天皇病気平癒のため社殿を修造されたともいっている。康平5年(1062)には源義家が戦勝を祈願されたとの伝承がある。天明8年(178812月には当時の代官梁田隠岐守により社殿の再建あり。その後再々の火災にあう。現存する本殿および随身門は享保5年(1720)の建造になるものである。今次戦争で献納してしまったため現存していないが、古鐘は寛文5年(1665)従五位下高木伊勢守源守久が奉献したものであり。現在の鐘は昭和28年(1953)氏子一同にて奉納したものである。祭神は応神天皇を奉斎している。例祭日には、市無形文化財の獅子舞が奉納され、毎年915日である。境内坪数2999坪。町田市矢部2666番地に鎮座している。(町田市史)

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d0183387_10430134.jpg八幡宮由緒
康平五年、源義家阿部氏を討ち奥州より帰る途中、木曽に宿り、病にかかって毎夜悪鬼に責められる夢に見た。当社に祈願せしめられたところ、夢に神翁現れ、悪鬼を射倒すと見て病忽ち快癒した。ここに於て本宮末社に至るまで尽く再興して神思に報いたと言い、この時屋根に羽矢を挿し入し、又境内に矢竹繁茂せるを以って箭幹八幡宮と名づけこの地を矢部と称したと伝う。時代は下って、保元平治の乱に破れた源義賢は大蔵の館に拠り、これを迎撃した源義平は木曽仲三兼任、渋谷金王丸、鎌田正清を率いて図師原付近に於いて会戦した。勝負容易に決せず両軍乱戦死闘、義平軍が危うしと見えた時突如老翁と童子現れ、矢を拾って郷土軍に授けた。ここに於いて将兵等これを八幡宮の化身ならんと神意を恐れ、遂に和睦を誓った。この時甲冑の矢の根を埋めた所を根岸と名付けた。小山田有重所領17郷の総鎮守として尊信篤く、社地、建造物の寄進も多く、社参の道に今も鳥居坂の地名が残っている。寛文5年代官高木伊勢守大鐘を鋳し鐘楼に掛け、後の代官梁田隠岐守亦社殿を再建して奉建して領民と共に盛大な祭儀を奉行した。明治に至り宮号は廃止されたが、戦後再び古名に復した。祭神の神徳広大、学問、産業、災厄防除の守護神として広く尊信されている。(碑文・間違いヶ所あると思います)

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随身門

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箭幹八幡宮随身門 
特徴:入母屋造銅板葺、軒唐破風付 時期:江戸中期  随身門とは、神社外郭の門で武宮姿の随身像を左右に安置した門のことをいう。当、箭幹八幡宮の随身門は、桁行三間・梁行二間の入母屋造りのもんで、桁行中央の間を通りとして軒に唐破風付を設け、両脇間に神像を安置している。軸部は、腰貫・内法貫・頭貫・台輪で固められ桁行の内法は虹梁を用い、中央はかえる股で飾られている。桂上は実肘木付の三斗組とし、中備に撥束を配している。尚、妻飾り・懸魚・隅木等の一部に後補と思われる改造が見られる。制作年代は絵様、刳型及び細部の造りから考え十八世紀前半と思われる。(町田市教育委員会)


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箭幹八幡宮獅子舞
箭幹八幡宮獅子舞の獅子舞は、一説には元亀・天正のころ(1570年代の戦国乱世のころ)から始められたといわれる。獅子舞を関東に流布したのは小田原の北条氏であるともいわれるので、あるいはかなり古い伝統の流れを引くのかも知れない。この獅子舞は木曽や矢部の例祭や奥宮開扉の大祭などに行われる。舞は「道行」(みちゆき)と「御庭舞」とにわかれており、特徴は獅子宿から社前に向うときの「道行」と木曽町を神輿巡行のとき先導する役目をすることである。また獅子舞するものの腰にさした五色の御幣(ごへい)をもらった人は、その年は無病息災で家内安全であるといわれている。(町田市教育委員会)


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境川の風景② 鎌倉道のようですね、箭幹八幡宮を望みます/両国橋


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右に行くと六面地蔵           左へ行くと阿弥陀堂

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境川の風景③ 上流側、前方に多摩丘陵が望めます/両国橋



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戻って山王日枝神社に向かいます/淵野辺本町


d0183387_11202092.jpg山王日枝神社
祭神は大山咋命 飯綱大神 大鳥祖神。山王日枝神社は第94代後二條天皇徳治2年(西暦1307年今より693年前)、大将軍久明親王・執権北條貞時僧となり淵野辺に遊歴して官吏の善悪賞罰を正す。その時各所より溝流れ入り池となり大蛇あらわれ、人民を食せし故、貞時溝内の高山に山王大権現を祈願し、淵野辺伊賀守義博に命じて大蛇をうちころす。住民大いに喜こび、山王大権現を淵大水有主神として祈願、天文11827日北條氏康関東平定のため大友義家山王大権現を祈願所とする。其の悪病流行の時伊賀権現大酉明神のおつげにより知行岡野孫一郎の命を受け氏子一同827日及び11月の酉の日に五穀豊穣氏子安全福作永年を祈る。日枝神社社殿は元和2年、元禄12年、寛保元年、文化3年等度々の修復をして、現在の社殿は平成25年に再建したものです。(境内掲示)


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やまねの坂(山王坂)         延命地蔵尊/淵野辺本町

延命地蔵

本地蔵尊の起源は鎌倉時代にさかのぼるといわれています。新生児の生命を守るなそ諸願をかなえてくれることで信仰を集めています。(大野北公民館)


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街道の風景⑧ 町田街道に戻り少し行くと芝溝街道です/根岸西


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矢部町・常盤町マップ
(赤:浜街道 紫:芝溝街道 青:境川 緑:尾根緑道)


尾根緑道の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23515579/
  



by Twalking | 2016-10-14 09:42 | 浜街道(新規)