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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(7) 藤沢宿~茅ヶ崎 01 下見   

時間もはやかったし、気分も乗っていましたので
茅ヶ崎まで足を延ばしました。

このコースは前半の藤沢宿、終点の茅ヶ崎近辺に
史跡などが集まっています。
途中は1号線に沿った道を歩くためちょっと単調ですが、
それでも随所に松原が残ってますのでウオーキング、
といった感じにはなりますよ。。


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白旗神社


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藤沢橋/境川
東京都および神奈川県を流れ相模湾に注ぐ河川。二級水系の本流である。武蔵国と相模国の国境とされたことからこの名があり、現在でも上流部は概ね東京都と神奈川県の都県境となっている。かつては相模国高座郡に由来する高座川(たかくらがわ)とも呼ばれていた。また、最下流部から河口にかけては片瀬川(かたせがわ)とも呼ばれる。(Wikipedia)


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引地橋/引地川
洪積台地の相模野台地中央部に当たる神奈川県大和市上草柳の泉の森に源を発し、洪積台地を浸食して谷底平野を形成しながら南流。藤沢市稲荷付近から湘南砂丘地帯へ流れ出て、藤沢市鵠沼海岸の湘南海岸公園から相模湾に注ぐ。全長21.3km、農業用水として利用されている。河川名の由来には諸説があるが、台地からの出口に当たる藤沢市稲荷付近で、砂丘を断ち切って河道を付け替えたことによるという説が有力である。かつては場所により長後川、大庭川、清水川、堀川などの名称で呼ばれていた。(Wikipedia)


・・・・・・
資料ファイル

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妙善寺

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常光寺                        庚申供養塔 
            
庚申供養塔(万治2年(1659) 寛文9年(1669)
庚申信仰は、十干・十二支の組合せによって、60日に一度めぐってくる「庚申の日」に、その夜を眠らずに過ごして無病・息災・長寿を願う信仰である。この源流は「人の体内にいる三尸の虫が、庚申の夜、天にのぼってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」とする中国の道教の教えに由来している。江戸時代、万治・寛文頃(1658~1672)には、仏教を背景に広く庶民に伝わり、「庚申講」が結ばれて庚申の夜は、講中の人々が当番の家に集まり、徹夜で酒食歓談して過ごす庚申待の行事や、供養塔の造立が盛んになった。常光寺にある万治2年庚申供養塔は笠塔婆型で、正面下方に一猿像と、一雌鶏を陽刻し、両側面に「南無阿弥陀佛」の文字が刻まれている。寛文9年庚申供養塔は笠塔婆型で、三猿像を前面および左右面に各一体ずつ配している。(藤沢市教育委員会)


d0183387_22131873.jpg伝 源義経首洗井戸
「吾妻鏡」という鎌倉幕府の記録によると兄頼朝に追われた義経は奥州(東北)でなくなり文治5年(1189)に藤原泰衡から義経の首が鎌倉に送られてきました。義経の首は首実検ののち腰越の浜へ捨てられました。それが潮に乗って境川をさかのぼりこの辺に漂着したのを里人がすくいあげ洗い清めた井戸と伝えられます。ここから北方40メートルに義経首塚と伝える遺跡もありました。(案内板)


d0183387_22142548.jpg白旗神社(御祭神 寒川比古命、源義経公)
古くは相模一の宮の寒川比古命の御分霊を祀って、寒川神社とよばれていた。しかし、創立年代はくわしくはわからない。鎌倉幕府によって記録された「吾妻鏡」によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治5年(1189)閏4月30日奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害された。その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は、腰越の宿に着き、そこで和田義盛・梶原景時によって首実検が行なわれたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗神社として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。(案内板)



d0183387_22155196.jpgおしゃれ地蔵
「女性の願い事なら何でもかなえて下さり、満願のあかつきには白粉を塗ってお礼をする」と伝えられており、今でも、お顔から白粉が絶えることがないという。そのような所から、誰からともなく「おしゃれ地蔵」と名付けられたとされる。形態的には「地蔵」ではなく、道祖神(双体道祖神)の表現が妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしていきたい。(藤沢市教育委員会)



d0183387_22174325.jpg四谷不動(大山道標)
東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられていた道標で、大山不動尊の下、正面に「大山道」、両側面に「これより大山みち」とあります。延宝4年(1676)に江戸横山町の講中が建てたものです。堂外の道標が初代のもので、万治4年(1661)に江戸浅草蔵前の講中によって建てられたものです。江戸時代を通じて、江戸町人の大山参詣が盛んでした。四谷辻には多くの茶屋が立ち並び参詣客を誘いました。今でも7月1日の大山開きには、四谷町内会の年中行事として、辻堂元町の宝珠寺の住職のもと護摩供養が行なわれています。(藤沢市教育委員会)

田村通り大山道
大山道の中で最も主要とされ、起点の藤沢四ツ谷には「一の鳥居」が置かれた。「御花講大山道」や「御花講道」とも呼ばれ、東海道と藤沢宿で接続し、藤沢宿を挟み対面の江の島道にも通じるため、最もにぎわいをみせた経路である。神奈川県道44号伊勢原藤沢線や神奈川県道611号大山板戸線が近似したルートを辿っている。経路:東海道藤沢宿四ツ谷(神奈川県藤沢市) - 一ノ宮(高座郡寒川町) - 田村の渡し(相模川) - 横内(平塚市) - 下谷(以降、伊勢原市) - 伊勢原 - 〆引 - 石倉 - 子易 - 大山


藤沢宿
慶長6年(1601年)に東海道の宿場となった。後に戸塚宿、川崎宿が追加され東海道6番目の宿場となる。東海道五十三次整備以前から遊行寺の門前町として栄え、後北条時代は小田原城と支城の江戸城、八王子城をつなぐ小田原街道の分岐点だった。遊行寺の東側に江戸側の見附(江戸方見附)があり、現在の小田急江ノ島線を越えた西側あたりに京都側の見附(上方見附)があった。この範囲が藤沢宿である。境川に架かる大鋸(だいぎり)橋(現遊行寺橋)を境に、江戸側(左岸)の大鋸町(後に西富町が分立)は相模国鎌倉郡、京都側(右岸)の大久保町、坂戸町は同国高座郡に属した。浮世絵に見られるように大鋸橋西詰には江島神社の一の鳥居があり、ここから江の島道が江の島に通じていた。江の島までは約1里(約4km)の距離であり、幕末には70軒以上の旅籠があった。

藤沢市
住宅・観光・産業・文教都市。全国的に有名な江の島(江ノ島)、片瀬・鵠沼・辻堂海岸を有し観光都市としての性格も併せ持つ「湘南」の中心都市。江戸時代には鎌倉仏教の一つである時宗総本山である清浄光寺(遊行寺)の門前町として、東海道の6番目の宿場町・藤沢宿、また江ノ島詣の足場として栄え、その姿は歌川広重の東海道五十三次にも描かれている。明治時代-第二次世界大戦の間、気候も温暖であることから、南部の鵠沼・片瀬地区は明治時代中期より日本初の計画別荘地として開発され、大正期以降、皇族や政治家、数多くの学者や文化人などが居を構えた事で、別荘地・保養地・避暑地として発達し、芥川龍之介、武者小路実篤、岸田劉生ら多くの文化人の創作活動の場となった。神奈川県のほぼ中央南に所在し、相模湾に面している。旧東海道より南側は湘南砂丘地帯と呼ばれる海岸平野で、北側は相模野台地及び高座丘陵となっているが境川および引地川からの起伏は大きくない。南東部には片瀬山と呼ばれる三浦丘陵の西端部となり、その一部は孤立して江の島となる。江の島は市の最南部。(Wikipedia)

大庭御厨(おおばみくりや)
相模国高座郡の南部(現在の茅ヶ崎市、藤沢市)にあった、寄進型荘園の一つ。鎌倉時代末期には13の郷が存在した相模国最大の御厨(伊勢神宮領)である。大庭御厨は鎌倉景政によって開発された。伊勢神宮に寄進されたが、源義朝の乱入を防ぐことは出来なかった。大庭氏は保元の乱以降、源氏の配下となった。大庭氏は和田合戦で滅亡したが、大庭御厨は三浦氏や北条得宗家の所領として存続した。(Wikipedia)

大庭城
平安時代の末期、この地は大庭御厨と呼ばれる伊勢神宮の荘園であった。この荘園は、桓武平氏の流れをくむ鎌倉景政(権五郎、景正とも表記)によって開拓され、伊勢神宮に寄進されたもので、のち子孫は大庭氏に改姓し、代々治めていた。城を築城したのは大庭景親の父にあたる大庭景宗と言われている。「大庭の舘(たて)」とも呼ばれ、景親らの軍事拠点として重要な役割を果たしたと想定される。石橋山の戦いで源頼朝に勝ったものの、一族のほとんどは筑前(現在の福岡県)に渡ってしまうが景親は最後まで抵抗し、捕らえられ斬首される。その後兄の大庭景義の子である大庭景兼(小次郎景兼)が和田合戦にまきこまれ大庭氏は滅亡したとされていたが、現在では、筑後(現在の福岡)に逃れたという説が有力とされている。
扇谷上杉氏の時代:扇谷上杉氏の家臣であり江戸城を築城した築城の名手太田道灌が鎌倉と糟屋館の中間地点のこの地に最新の技術と取り入れ築城工事をおこなったと言われている。しかしこの後相模を侵攻してきた北条早雲によって大庭城は落城してしまう。なおこの戦には「舟地蔵伝説」が残っている。
後北条氏の時代:東相模を制圧した早雲は大庭城を大改修したが、玉縄城を築城したので利用価値は低くくなり後北条氏が滅ぶと廃城になった。(Wikipedia)

by Twalking | 2012-07-31 18:22 | 東海道(完)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 おお、わが母校   

池袋まで出掛けたので、ぶらりっと立教に寄ってみました。
卒業以来ですから四十数年ぶりになるのかなぁ~。。
正門から学食までの風景は昔と変わっていませんね。

クラブ関係の部室が集まってた場所に7号館が建ってましたが、
ここと第一食堂、ここ等ありによくたむろしてましたねぇ~。。
懐かしといえば、やっぱりそうかなぁ~・・・・、母校ですから、一応は。


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本館(モリス館)


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中庭


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第一食堂                    7号館


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鈴懸の径

by Twalking | 2012-07-30 15:52 | さんぽみち

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 朝の多摩丘陵   

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多摩市愛宕

by Twalking | 2012-07-30 13:07 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 sun   

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多摩市愛宕

by Twalking | 2012-07-30 12:30 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夕日 14   

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パルテノン大通り/多摩センター駅

by Twalking | 2012-07-29 19:08 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 星宙展   

連日の真夏日、いゃ~へたっちゃいそうですね。。

“大丈夫かなぁ~?”
“大丈夫よ”
ということで、連れだって子供の作品をみに出掛けてきました。

それにしても“母親”二人、物凄い応援団だと思いますよ、
ほんとに。。


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あ~ら、あそこみたいねぇ~。。/池袋駅西口


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なに、話してるんでしょうねぇ~。でも、楽しそうだから、いいか。。



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空へ


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星宙展(ほしぞらてん)
都立片倉高校造形美術コース20周年記念展示会
会場:オレンジギャラリー
期間:2012.7.26~7.29

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by Twalking | 2012-07-29 16:33 | さんぽみち

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東京都ノルディック・ウォーク連盟・神宮外苑体験会(7)   

日時 2012.7.28(土) 
天気 晴れ

千駄ヶ谷の銀杏並木から明治神宮の杜・外周コースを歩きました。
夕方になってもまだまだ熱が籠ったように暑いですねぇ~。。
でも、明治神宮の杜はさすがに違います。

西日に木々が煌めき、いい風吹いてましたぁ~。。
ほんと気持ちよかっ​たです!
ありがとうございました。

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明治神宮・北口参道入口

《ノルディック・ウオーク体験会in神宮外苑》
日時 2012.7.28(土) 16:00~18:00
場所 千駄ヶ谷駅及び神宮外苑周辺
主催 東京都ノルディック・ウォーク連盟(JNWL-TOKYO)
参加者 15名
参加費 500円(受講料、ポールレンタル料、保険含む)

by Twalking | 2012-07-29 11:38 | ○ノルディックウオーク

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夕日 13   

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千駄ヶ谷・津田塾前

by Twalking | 2012-07-28 23:22 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(6) 戸塚宿~藤沢宿 02 下見・藤沢   

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清浄光寺(しょうじょうこうじ・遊行寺)本堂


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冠木門&参道(いろは坂・四十八段)       遊行寺橋(大鋸橋・だいぎり)/境川



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大鋸(だいぎり)広小路説明版

日本三大広小路
広小路とはもともと火除地を意味する。江戸ではたびたびの火災で多くの人家が焼失したので、幕府は1657年の大火前から火除地を計画していたが、護持院の焼失を契機に八代将軍吉宗は、この地を火消地とし、さらに各所に設定した。この頃江戸には、中橋広小路、長崎町広小路、大工町広小路、両国広小路などができたが、その後各地の重要社寺等の門前に設けられた。上野広小路 現在の上野公園全域が寛永寺境内であり歴代将軍の廟所だった。その門前町としては賑やかであった。アメ横あたりまでをいう。名古屋広小路 名古屋城正門前。現在広小路通り。三島広小路 三島大社門前。現在広小路町。伊豆箱根鉄道の駅名に残る。高山広小路 高山陣屋前。現在広小路通り。
藤沢広小路 遊行寺前。東海道五十三次の中でここは3曲がりとして有名であった。(藤沢橋は関東大震災後つくられた)調べればまだまだあるだろう。広小路は類焼を防ぐとともに被災者の避難所にもあてた。なお町火消の発達とともに廃止された広小路もあった。藤沢の広小路の名は江戸時代の文書にたびたびでてくるが、おおよそ現在の大鋸「小字大鋸」の範囲を広小路としている。かつて日本三大広小路と呼ばれていたのは、実際に広かったことにもよるが、時宗総本山遊行寺の繁栄時代、門前町として商家が櫛比し、人の往来繁く、各地に知れ渡っていたためと思う。大鋸広小路の範囲は古絵図を参照すると、ほぼイイジマ薬局から旧労働基準監督署の一帯と考えられる。古絵図から見ると道巾も現在よりかなり広かった様に思える。これは江戸時代中期までのことである。(大鋸広小路会)

黒門と「いろは坂」
遊行寺の総門の冠木門で、日本三大黒門のひとつといわれます。参道の石段は四十八段あることから、「いろは坂」と呼ばれています。


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資料ファイル

文化財コース案内板
藤沢地区は、鎌倉時代に遊行四代上人呑海によって「清浄光院」(遊行寺)が創建され、以後大鋸周辺を中心に門前町として栄えました。江戸時代になると、徳川家康は関東各地に将軍宿泊用のために御殿を設置しました。現在の藤沢公民館辺りから妙善寺辺りまでの間に藤沢御殿があったといわれています。その後参勤交代が始まると御殿は廃止され、宿場として本陣・脇本陣・問屋が置かれ東海道五十三次の六番目として藤沢宿ができ、門前町に加えて宿場町として発展してゆきました。また、江の島・鎌倉・大山などへの参詣や観光客も多くなり、旅籠屋や商家も繁昌してにぎわいました。明治時代になると宿場制度が廃止され、問屋街として発展しました。ことに、藤沢宿出身の医者、小川泰堂が、藤沢全町で一斉大安売りを行う現金元値市等を提唱して市場振興に努め、その影響は三浦から伊勢原あたりまで及んで活気を集めました。しかし明治20年、鉄道が藤沢に通ると、やがて商業の中心も駅周辺に移ってゆきました。さらに度重なる大火、震災や戦災も続き、昔を語る資料もわずかに残るばかりです。このように藤沢地区は、門前町・宿場町として発展し、藤沢の歴史と文化に大きな役割を担ってきたといえます。(藤沢市教育委員会)


d0183387_19152280.jpg時宗総本山 遊行寺(ゆぎょうじ)
清浄光寺が公式の寺名であすが、遊行上人の寺ということから広く一般に遊行寺と呼ばれます。宗祖は一遍上人(1239~1289)で南無阿弥陀仏のお札をくばって各地を回り、修行された(遊行といいます)念仏の宗門です。この遊行寺は正中2年(1325)遊行四代呑海上人によって藤沢の地に開かれ、時宗の総本山となっています。宝物として、国宝「一遍聖絵」、国重要文化財「時衆過去帳」など多数があります。境内には日本三黒門の一つである総門、銀杏の巨木、中雀門、市指定文化財の梵鐘、国指定の藤沢敵御方供養塔、小栗判官と照手姫の墓、板割浅太郎の墓、有名歌人の歌碑などもあります。また、桜・ふじ・花しょうぶの名所で、観光百選の一つにもなっています。(案内板)



d0183387_191624.jpg中雀門
安政年間(1854~60)に建造されました。清浄光寺(遊行寺は通称)は創建以来たびたび火災にあっていますが、この中雀門は明治13年(1880)の大火の際にも焼失を免れた、現在境内で一番古い建物です。大正12年(1923)の関東大震災でも焼失はのがれましたが倒壊したものを、そのまま復元して今にいたっています。向唐門づくりで、高さ6m、幅は3.7mです。側面の大棟に菊の御紋、屋根の下に徳川家の葵の紋が刻まれています。普段は閉じられていますが、春と秋の開山忌やお正月などには開門されます。 (藤沢市教育委員会)



d0183387_19171227.jpg放生池(ほうじょういけ)
この池は一名放生の池とも称し、江戸幕府の記録である「徳川実紀」元禄7年10月の日記によれば、金魚、銀魚等を放生せんと思わば清浄光寺(遊行寺)道場の池へと命され、かつ放生の際は、その員数をしるし目付へ届出づべし と記録されている。古来より由緒あるこの池に金魚、鯉等を放生すれば、その功徳により家内の繁栄は勿論のこと長寿を保つとされている。(案内板)



d0183387_19183389.jpg遊行寺の宇賀神
遊行寺の宇賀神は、徳川家の祖先、有親公の守り本尊といわれています。有親公は、遊行十二代尊観法親王の弟子となり、名を徳阿弥と改めました。応永3年(1396)徳阿弥は、宇賀神に子孫繁栄を請い自筆の願文を添えて当山に勧請しました。宇賀神は、天女の様で頭上には白玉と白蛇を刻した宝冠をのせていました。のちに、徳川幕府により神殿を奉納されましたが、明治13年遊行寺が類焼にあった時に焼失し、現在の神殿はのちに再建されたものであります。宇賀神には賊施の意味があり、この宇賀神を供養尊信する者は、金・衣・食・住・田畑・豊饒の福を授かり、徳に金福の徳を授かると伝えられています。寛政6年(1794)11月に当山が焼失した際に宇賀神も類焼し、徳川幕府より白銀参拾枚を再建費としていただいております。(案内板)



d0183387_22355165.jpg大イチョウ(樹高約21m  幹回り710cm 市指定天然記念物)
ひときわ大きなイチョウで、遊行寺境内のシンボルとなっています。境内最大の巨木は、市内で一番太い木でもあります。かつては高さが31mありましたが、昭和57年(1982)8月の台風で地上6mの辺りで幹が折れてしまいました。今、樹木全体がずんぐりとした形に見えるのは、この時の損傷のためです。折れた幹の中は空洞で炭が入っていたので、過去に火災に遭ったことがあるようです。雨で腐らないよう折れた部分にトタン板を張って防いだところ、樹勢が回復しました。平成4年(1992)の調査で686cmだった幹回りは、平成20年の計測では710cmと太くなっていました。樹齢については、指定時の調査では幹の太さから約650~700年と推定されました。その後、台風で幹が折れた際に行われた折損部材の年輪測定では250年だったので、それ以上の樹齢であることは確かです。ただし、イチョウの古木は根元の外周から生えた若木が育ち、元の木が枯れて中心が空洞になることがあるので、元来の樹齢は不明とせざるをえまえん。イチョウは中国原産で、日本への渡来は早くても12世紀以降のこと、遊行寺の創建は正中2年(1325)なので、何れにせよこれをさかのぼることはないでしょう。雄株なのでギンナンはなりませんが、晩秋の黄葉はみごとです。例年11月下旬から12月上旬に色づきます。(藤沢市教育委員会)



d0183387_22555466.jpg藤沢敵御方(てき・みかた)供養塔
(国指定史跡 総高149.5cm  安山岩製)
この石塔は、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、応永25年(1418)に造立されたものです。基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ、塔身に銘文が刻まれています。銘文は、摩滅していて読みとりにくいのですが、次のように解読・解釈されています。 南無阿弥陀佛 自應永廿三年十月六日兵乱至同廿四年於在々所々敵御方為箭刀水火落命人畜亡魂皆悉往生浄土故也過此塔婆之前僧俗可有十念者也 応永廿五年十月六日  応永二十三年(一四一六)十月六日からの戦乱は同二十四年に至り、あちらこちらで敵方も御方も箭(矢)・刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が、皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過ぎる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい。 この戦乱は、足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏と、その補佐役との争いだったため、鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年一月に禅秀らの敗北自害で落着しました。銘文末の日付は塔の造立日で、乱が起きてからちょうど三回忌にあたります。時の遊行寺じゅうしょくは遊行十四代(藤沢八世)太空上人。文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は、持氏が発願主となって、太空上人を導師として造立したものと考えられています。敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては、慶長4年(1599)高野山奥の院(和歌山県)に、豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。時宗では、怨(敵)・親(味方)両者を区別せず平等に弔った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んでいます。(藤沢市教育委員会)


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長生院小栗堂

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照手姫之墓                    (伝)小栗満重公と十勇家臣の墓

小栗判官照手姫の墓
浄瑠璃で名高い小栗判官照手姫ゆかりの寺です。応永29年(1422)常陸小栗の城主、判官満重が足利持氏に攻められて落城、その子判官助重が家臣11人と三河に逃げのびる途中、この藤沢で横山太郎に毒殺されかけたことがあります。このとき妓照手が助重らをのがし、一行は遊行上人に助けられました。その後、助重は家名を再興し、照手を妻に迎えました。助重の死後、照手は髪をそり長生尼と名のり、助重と家臣11人の墓を守り、余生を長生院で終わったといいます。



d0183387_1925361.jpg諏訪神社
鎮座地 藤沢市大鋸3-7-2
祭神 建御名方富神(タケミナカタトミノカミ)、八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)
由緒 建御名方富神は大国主神(大黒さま)の御子にて兄神を事代主神(えびすさま)と申します。農耕の神とも蚕業の神とも言われ、祭神が出雲から農耕・機織・その他の文化をたずさえて洲羽に参られ、土民に教えられた伝説よりすれば、当然平和産業の神とも言うべきでしょう。(案内板)



d0183387_19314078.jpg一里塚跡
かつて、このあたりの道路の両側に一里塚がありました。一里塚は、主要な街道の一里(約4km)ごとに江戸幕府が設けたもので、旅程の目印として利用されていました。崖上の高さまであった江戸時代の東海道を掘削改修したのが現在の道路で、一里塚も崖上にありましたが、今は残っていません。左図は往時の面影を伝える資料の一つです。両面上部の道が東海道、くの字に曲がるところに遊行寺が描かれています。その右側に「一りづか榎三」と記され、街道の両側に植木のような描写があります。今の遊行寺坂より遥かに急な坂道で、その坂の上に遠くからでも分かりやすいように、盛土されて榎が植えられていた様子がうかがえます。急坂の上、榎が木かげで一休みする旅人の姿が浮かんでくるようです。 (藤沢市教育委員会)


by Twalking | 2012-07-27 22:19 | 東海道(完)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 コスモス   

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稲田堤/多摩川

by Twalking | 2012-07-27 13:08 | ○Flower