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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 大晦日   

2012年も静かに暮れていきます。
何事もなく大晦日を迎えることができましたので、
“うん、いい年だった”ということにしましょう・・・。。。

家族に支えられ、沢山のみなさんから元気を頂きました。
ほんと嬉しいですねぇ~、ありがとうございました。
そしてつたないブログ、お付き合いいただき感謝の一語です。

いいことも、また悪いこともともども、きれいに水に流して、
さらな気持ちで新しい年を迎えたいと思います。
どうもありがとうございました!
                               TEIONE


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大晦日/多摩市唐木田

by Twalking | 2012-12-31 22:02 | さんぽみち

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 暮れる富士   

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多摩市唐木田

by Twalking | 2012-12-31 21:21 | ○富士

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 相州大山   

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多摩市唐木田

by Twalking | 2012-12-31 21:07 | ○山

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(10) 国府津~小田原宿 01 下見・酒匂   

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酒匂の松並木


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酒匂橋

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下流側・西湘大橋                上流側・東海道本線


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八幡神社


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資料ファイル

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国府津駅開業100周年記念           東華軒 

東華軒
1888年(明治21年)7月1日 足柄下郡国府津村(現:小田原市)で旅館を営んでいた飯沼ヒデが東海道本線国府津駅構内で竹の皮に包んだ握り飯を販売。これが東海道本線最初の駅弁とされる。

  
   
d0183387_19201757.jpg真楽寺
浄土真宗(古くは聖徳太子の開基による天台宗のお寺だった)のお寺で、親鸞聖人の霊場ともいわれ「真楽寺」という寺号も聖人に命名してもらったといわれています。境内には市の天然記念物のボダイジュがあります。(説明版)



d0183387_19361836.jpg小八幡の一里塚
小八幡の一里塚(江戸から19番目)について天保年中の相模国風土記稿に「東海道中の東にあり、左右相対せり。高二間、幅六十七間、塚上に松樹あり。上は小田原宿入口、下は淘綾郡山西村小名梅沢の一里塚に続けり」とある。(説明版)


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大見寺
d0183387_1946657.jpgd0183387_19464667.jpg宝篋印塔(左右)               
五輪塔(中央) 

小嶋家の宝篋印塔(ほうきょういんとう)・五輪塔
小嶋家は鎌倉時代から家名が現われた酒匂の旧家で、北条時代には酒匂郷の小代官を勤め、江戸時代に入っても名主・組頭役を勤めました。右側小振りの宝篋印塔は徳治3年(1308)銘の墓石で小嶋家の祖先の左右衛門入道の墓、左は天文21年(1552)銘の墓石で小嶋家の中興の祖小嶋行西の墓です。また右側墓地にある大きな五輪塔が天正2年(1574)銘の墓石で小嶋行西の子左右衛門太郎正吉の墓と考えられます。(小田原市教育委員会)

宝篋印塔(ほうきょういんとう)
墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。名称は、宝篋印陀羅尼(宝篋印心咒経/ほうきょういんしんじゅきょう)を納めたことによる。ただし、他のものを納めていても同形のものは、すべて宝篋印塔と呼ぶ。本来的には、基礎に宝篋印心咒経の文字を刻む。 五輪塔と同じく密教系の塔で、鎌倉期以降宗派を問わず造立されるようになった。最上部の棒状の部分は相輪と呼ばれる。相輪は、頂上に宝珠をのせ、その下に請花(うけばな)、九輪(宝輪)、伏鉢などと呼ばれる部分がある。相輪は宝篋印塔以外にも、宝塔、多宝塔、層塔などにも見られるもので、単なる飾りではなく、釈迦の遺骨を祀る「ストゥーパ」の原型を残した部分である。相輪の下には笠があり、この笠の四隅には隅飾(すみかざり)と呼ばれる突起がある。笠の下の方形の部分は、塔身(とうしん)、さらにその下の方形部分は基礎と呼ばれる。(Wikipedia)

五輪塔
密教で説く五大を表す五つの形から成る塔。地輪(四角)・水輪(円)・火輪(三角)・風輪(半月形)・空輪(宝珠形)の順に積み上げる。各面に五大の種子(しゆじ)を刻む。平安中期以後,供養塔として用い,鎌倉以後,墓標として広く用いられた。五輪。五輪の塔。五輪卒塔婆。法界塔(ほつかいとう)。(大辞林)

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上輩寺の乳イチョウ            川辺氏の屋敷(現社会福祉法人「ゆりかご園」)
 
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酒匂川の渡し
酒匂川の渡しは東海道五十三次道中の難所の一つで、古くは船渡しが行われていたが延宝2年(1674)船渡しが禁止されて徒渉(かちわたり)制が施行された。冬の時期を冬川といい仮橋を架けて往来したが、夏の時期は夏川と称し橋を架けないで必ず手引、肩車、輦台(れんだい)など有料で川越人足の力を借りて渡らなければならなかった。この制度は明治4年(18719に廃止された。(説明版)



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新田義貞の首塚碑                  新田神社の祠/八幡神社

新田義貞の首塚
建武の中興の柱石であった新田義貞は北陸を転戦中延元3年81338)越前国(福島県)藤島で討死し、足利尊氏によってその首級を晒されていた。義貞が家臣宇都宮泰藤(小田原城主大久保氏の先祖)は主君義貞の晒首を奮い返して領国三河に往き妻子に暇を告げ、主君義貞の本国上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。しかし酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき病にかかり再起できなくなっていたという。そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して自身もこの地で洵したと伝えられる。その後新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。しかし近年地元有志によって復興整備され新田義貞の首塚の碑も建立された。なお、八幡神社境内に新田神社の祠がある。(説明版)


d0183387_23352374.jpg上杉龍若丸墓
関東管領平井城城主・山の内上杉憲政(のりまさ)の嫡男龍若丸(たつわかまる 11歳または13歳)は天文20年(1551)平井城落城前、北条氏康(3代)の攻撃を止めさせ所領を安堵するため、降伏の使いとして従臣6人とともに小田原に出向いてきた。氏康は龍若丸が幼稚であったが大敵の嫡男のため家臣の神尾治郎右衛門に首をはねることを命じ龍若と従臣は一色の松原で磔にかけられた。龍若丸を惨殺した神尾治郎右衛門は癩病にかかりまもなく死亡した。これを知った小田原町民は龍若に深く同情し五輪塔を建てて祀り供養をしました。(五輪塔六基中、中央最大が龍若丸の墓、他は従臣の墓)
(群馬県藤岡市西平井平井城址保存会 領主古谷 登)

平井城
永享10年(1438年)、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の間に確執が生じ、身の危険を感じた上杉憲実は平井城に逃れた。通説ではこの時に憲実が家臣の長尾忠房に築城させたといわれている。この後、持氏と憲実+幕府の連合軍の間で永享の乱が起きたが、憲実方が勝利した。文正元年(1466年)に関東管領になった上杉顕定によって拡張されたという。天文21年(1552年)、北条氏康に攻め落とされ、時の平井城主の関東管領上杉憲政は越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとに逃れた。既に周辺の上野国人勢力や憲政の馬廻まで北条に寝返っていたためである。永禄3年(1560年)に長尾景虎によって奪回されたが、同年に景虎は関東における拠点を厩橋城(後の前橋城)に移したため、平井城は廃城になった。奪回されて再び上杉本拠地となることを恐れた北条氏が、落城前に城郭を破却していたのではないかとも指摘されている。(Wikipedia)

by Twalking | 2012-12-30 19:16 | 東海道(完)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 番外 ぶらり御幸ノ浜   

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大磯~平塚の海岸線


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伊豆・箱根の山並み


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真鶴半島
相模湾夕景
御幸ノ浜/東海道小田原宿

御幸ノ浜
明治6年夏、明治天皇は皇后宮とおそろいで箱根宮ノ下に避暑に赴かれたが、その際当地にお立ち寄りになり、8月3日清水本陣にご宿泊になった。翌4日は天気清朗、宿をお立ちになった陛下は当浜において漁夫の地引網をご覧になった。以来、この浜は明治天皇の行幸を記念して「御幸ノ浜」と称されている。(説明版)


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資料ファイル

d0183387_168784.jpg西海子小路 
西海子小路の名は、この地にサイカチの木が植えられていたためといわれています。
この地名は、小田原藩主稲葉氏の「永代日記(承応2年(1853))」の記載に見られます。江戸時代の後期には、中堅藩士の武家屋敷地となり、江戸時代末期には、17軒ほどが道の両側に並んでいました。この周辺には、明治から昭和にかけて多くの文学者が居を構え、文学活動が行われていました。(小田原市)       


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小田原文学館                   白秋童謡館

小田原文学館・白秋童謡館
この小田原文学館の建物は昭和12年建築の洋館で、土佐出身の幕末の志士で元宮内大臣でもある田中光顕伯爵が別邸として建てたものです。別棟の白秋童謡館は大正13年田中光顕伯爵が洋館と対をなすように建てた大正ロマン調の和風建築で、現在は白秋が創作した童謡関係の資料や「土兎の家」(みみづく)の模型が展示してあります。大正13年には童謡「からたちの花」なども生まれています。「白秋童謡散歩道」(北原白秋が小田原時代に創作した童謡詩をたどる散策コース)は白秋童謡館から小田原駅西口まで続くおよそ4kmにわたるみちです。(小田原市教育委員会)

d0183387_1613115.jpg北村透谷碑
この碑は昭和4年市内城山3丁目の大久保神社境内に建立されましたが昭和29年5月に挙行された透谷没後60年祭のとき城址公園内の馬屋曲輪に移され、平成22年に史跡小田原城址馬屋曲輪整備事業に伴い小田原文学館敷地内に移設されました。北村透谷は本名を北村門太郎といって明治元年11月16日小田原藩士北村玄快の孫として誕生し、近代浪漫主義文学の先駆者として大きな功績をあげましたが明治27年5月16日27歳の若さで亡くなりました。墓は東京都港区の瑞聖寺にありましたが、透谷没後60年祭のとき市内城山1丁目の高長寺に移されました。(小田原文学館)




d0183387_16183237.jpg小田原の滄浪閣
伊藤博文は、初代内閣総理大臣、初代枢密院議長等の要職を重ねてきたが、大日本帝国憲法の草案が一段落した1889年(明治22年)に、父・十蔵の隠居地として小田原町緑1丁目8番地(現:小田原市栄町)に居宅を建設し、自身も枢密院議長辞任の意志を表明して小田原への永住を決めていたとみられている。同年10月に海岸の御幸の浜に面した小田原町十字643番地(現:小田原市本町)に別邸建設を開始した。1890年(明治23年)10月にその別邸が完成し、「滄浪閣」と命名された。小田原の地に本格的に腰を据えようとした伊藤の意に反して、同年伊藤は貴族院議長に就任、1892年(明治25年)には第2次伊藤内閣を組閣することになり、その間には日清戦争もあるなど、静観の日々を送ることができない状況にあった。伊藤がこの滄浪閣にきている時には、政府の要人たちが次々と東京・小田原間を往来し、日清戦争に関する重要問題も滄浪閣で処理したことがあるほどであった。その1893年(明治26年)に、伊藤は法典調査会を設置し、自らその総裁となって民法改正に着手する。起草委員に選ばれた穂積陳重、富井雅章、梅謙次郎の3名の法学博士は、1894年(明治27年)の5月から秋まで滄浪閣の一室に閉じこもり、民法典原案の立案執筆を行った。こうして1898年(明治31年)7月に「民法」全五編が施行され、この地は「民法発祥の地」とされることになった。しかし、伊藤は民法施行を待たずに、1897年(明治30年)、滄浪閣の名と共に大磯町へ移っていった。建物は「養生館」として西村圭二の手でリゾート旅館として再開されることになったが、1902年(明治35年)に小田原町沿岸を襲った小田原大海嘯により大破し、その残部も1923年(大正12年)の関東大震災で壊滅した。現在、その跡地には、伊藤の胸像と滄浪閣跡の碑が建っている


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正恩寺の鐘楼門                 蓮昌寺

by Twalking | 2012-12-28 11:32 | 東海道(完)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 番外 ぶらり国府津海岸02   

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伊豆~箱根連山


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相模灘


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真鶴半島
国府津海岸/西湘BP・酒匂IC付近

by Twalking | 2012-12-28 09:56 | 東海道(完)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 番外 ぶらり国府津海岸   

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相模湾


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伊豆大島


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国府津~大磯の海岸線
朝の国府津海岸/西湘BP・国府津IC付近


《国府津》
この地に相模国府の港があったことに由来する。1887年(明治20年)に東海道本線国府津駅が開業、1888年(明治21年)に小田原、湯本への小田原馬車鉄道が開業すると、国府津駅は東京から箱根方面への乗換駅となった。駅前には割烹旅館や商店が並び、箱根の旅館の中には国府津駅前に案内所を設けるものもあった。さらに1889年(明治22年)に東海道本線が御殿場経由で全通すると、国府津駅に急勾配を越えるのための増結機関車の機関庫が設置され、国府津駅には増結作業のため優等列車が停車し、交通の要衝として発展することになった。また、海に臨む温暖な国府津は、避暑避寒の地として大隈重信や大鳥圭介、加藤泰秋等、華族や政財界要人が別荘を構えた。徳川慶喜は大鳥別荘を、西園寺公望は加藤別荘に滞在するなどの人的交流もあった。(Wikipedia)

by Twalking | 2012-12-27 21:37 | 東海道(完)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夕暮れ14   

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多摩丘陵/多摩市愛宕

by Twalking | 2012-12-26 20:29 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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木枯らし
愛宕通り/多摩市愛宕

by Twalking | 2012-12-26 18:21 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(9) 大磯宿~国府津 02 下見・二宮   

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東海道の松原


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大磯城山公園展望台
公園内からは縄文時代の遺跡や、横穴墓、鎌倉古道などの文化遺産が発見されています。また、中世には小磯城が建てられていました。1898年(明治31年)、この地が三井財閥本家の別荘地となり、中心的建築物「城山荘」や展望室「降鶴亭」、国宝の茶室「如庵」などが建てられました。財閥解体後はほとんどの土地が三井家の手を離れ残った土地も放置されていましたが、その後、三井別荘跡地の再利用案として公園化計画が持ち上がり、県立都市公園整備工事が開始され1987年(昭和62年)に部分開園、1990年(平成2年)に神奈川県立大磯城山(じょうやま)公園として正式に開園しました。(パンフ)


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所神社


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資料ファイル

d0183387_1774423.jpg大磯照ヶ崎海水浴場発祥の地碑
海水浴は医療として始まりました。海水浴の効用を蘭書で知った元軍医総監松本順が大磯に宿泊し折に大磯海岸を訪れ、海水浴の条件に合致することを確認しました。1886年東海道線の横浜-国府津間延長が決まってから、松本は伊藤博文に海水浴と国民の健康を力説し、大磯に停車場を説置するよう働きかけ、また旅館と病院を兼ね備えて「祷龍館」(とうりゅうかん)を建設し、建設資金の不足は会員を募り、渋沢栄一や安田善次郎らの東京・横浜の明司が名を連ねました。京浜からの名士の来訪により海水浴場は繁栄し医療行為から娯楽へ転じますます発展していきました。(大磯町)



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伊藤博文邸・滄浪閣跡               旧吉田茂邸裏門(現在公園整備中)

滄浪閣
1890年(明治23年)頃、伊藤が小田原の滄浪閣へ行く途中、大磯に立ち寄り、その白砂松林の大磯が気に入り、梅子夫人の病気療養のためにも、この地に別荘を建築することに決めた。別荘が完成すると、小田原の滄浪閣を引き払い、大磯の別荘の方を「滄浪閣」と名づけた。1897年(明治30年)10月1日、伊藤は本籍を東京から大磯町に移したため、滄浪閣は伊藤の別荘ではなく本邸となった。敷地面積は18,150平方メートル(5,500坪)。伊藤が本宅を構えた当時の大磯には、山縣有朋や西園寺公望、大隈重信等の政財界要人が別荘を構え、滄浪閣への来訪者も絶えなかった。1907年(明治40年)頃の大磯には、150戸以上の別荘が存在したといわれる。「滄浪閣」の名の由来は、楚辞の漁父第七「滄浪之水清兮 可以濯吾纓 滄浪之水濁兮 可以濯吾足」(滄浪の水清まば、もってわが纓を濯うべく、滄浪の水濁らば、もってわが足を濯うべし)とされる。「滄浪」は「あおあおとした波」又は「漢水」の意味で、滄浪の水の流れが綺麗なときは冠の紐を洗い、濁っているときは足を洗う、という意味から、何事も自然の成り行きにまかせて身を処する意味を表している。

旧吉田茂邸
戦後日本の復興の基礎を築き、その後の保守・親米路線を決定づけた政治家・吉田茂(1878~1967年)が、晩年まで住んだ邸宅。明治時代に養父が神奈川県大磯町に建てた別荘を、戦後、和風住宅に建てかえたもの。没後、西武鉄道に買いとられ、大磯プリンスホテル別館として利用されていた。近年、西武は経営難から売却先を探していたが、地元住民から保存運動が広がり、2012年からは神奈川県の管理下、県立公園として一般公開されることが決まっていた。その矢先の09年3月22日、漏電が原因とみられる火災によって、総ひのき造りの本邸が全焼。数多くの歴史的調度品や家財道具も灰となった。 約3万3千平方メートルの広大な敷地には、焼失した本邸のほか、来賓用客室、お堂(七賢堂)などが建ち、美しい日本庭園が広がる。かつては、その威風から「吉田御殿」と呼ばれていた


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国府本郷の一里塚                手前にある標識

大磯宿付近には日本橋から16里目の一里塚が大磯宿地内に、17番目の一里塚が本郷村にありました。国府本郷の一里塚は実際にはこれより約200mほど江戸よりに位置していました。塚の規模は不明ですが東海道を挟んで左右に一対の塚の上にはそれぞれ榎が植えられていたようです。(大磯町)


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六所神社一の鳥居              北条家寄進の石垣

六所神社
718年に現鎮座地に遷座。櫛稲田姫命が祖神。その時より一之宮寒川神社(寒川)、二之宮川勾(かわわ)神社(二宮)、三之宮比々多神社(伊勢原)、四之宮前島神社(平塚)平塚八幡宮(平塚)の分霊を合わせ祀り、相模国総社六所神社と称されるようになりました。鎌倉時代には源頼朝より、戦国時代には小田原北条家より、江戸時代には徳川家康より崇敬を受ける。ご本殿は小田原北条家が造営したもので、当時は全体が朱色に塗られていました。相模国内の神社の本殿では大変大型で、相模の神々のための五つの御扉が特徴です。
六所神社を支える石垣は戦国時代小田原の北条家により築かれ、関東大震災や天災に揺るぐことなく四百数十年の永きに渡りて神社の礎になっています。(大磯町)


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二宮の一里塚                   松屋本陣の跡

ここ二宮の一里塚は、江戸日本橋から18番目の一里塚で、大磯宿と小田原宿の中間に位置しています。塚は街道を挟んで両側に築かれ北側の塚は高さ一丈二尺(約3.6m)上にはケヤキが植えられ、南側の塚は高さ一丈(約3.3m)上には榎が植えられていました。

この辺りは大磯宿と小田原宿の中間に位置し、大磯宿~小田原宿の距離が16kmと長いうえ、押切阪、酒匂川に控えていることから間の宿として休憩所が設けられ、大阪屋、蔦屋、釜成屋など多くの茶屋や商店が軒を並べ「梅沢の茶屋」と呼ばれて大変賑わっていました。その中心的存在となっていたのが「松屋本陣」であり、参勤交代の諸大名、宮家、幕府役人など特権階級にあたる人達の休憩所に指定されていました。(二宮町)

by Twalking | 2012-12-25 18:01 | 東海道(完)