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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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小田原城天守閣

by Twalking | 2013-02-27 10:41 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり小田原・石橋山古戦場   

《相模灘三景》

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小田原市早川


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小田原市石橋


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小田原市根府川
早川・片浦ウオーキングトレイル


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資料ファイル

小田原ふるさと原風景百選・石橋山古戦場と佐奈田霊社
「石橋山の合戦」(米神・石橋)は治承4年(1180)、以仁王の命令を受けて挙兵した源頼朝が平家方の大庭景親、伊東祐親らと戦ったところ。佐奈田霊社は頼朝方の先陣佐奈田与一義忠の遺骸を葬ってある与一塚の傍らに建っている。与一の戦死の故事にせき・ぜんそくなどに霊験があるといわれている。(案内板)

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佐奈田霊社

神奈川県指定史蹟・石橋山古戦場のうち与一塚および文三堂
石橋山古戦場は治承4年(1180)8月23日に源頼朝が以仁王の命令(令旨)を受けて挙兵した所です。ここで頼朝の軍が平家方の大庭景親、伊東(伊藤)祐親らと戦い敗れましたが、箱根外輪山の複雑な地形と土肥一族や源氏方の人々によって助けられ落ち延びました。その後勢力を盛り返して平家を打倒し鎌倉幕府を開くに至りました。与一塚と文三堂は、この合戦の際頼朝方の先陣を命じられて戦死した佐奈田(真田)与一義忠とその家臣文三(豊三)を祀ってあるところです。

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佐奈田霊社                    与一塚

佐奈田与一はこの戦いで大庭景親の弟・俣野五郎景久と一騎打ちになり、景久を組み伏せましたが刀が抜けず(この前に敵将を討ち取った際刀を拭かずに鞘に差したため)敵方の加勢により討ち取られました。その討ち取られた場所が「ねじり畑」と呼ばれています。また、家臣の文三家康は主人の討死後、敵陣に切り込み8人を討ちとって壮烈な戦死を遂げました。「吾妻鏡」には石橋山合戦後の建久元年(1190)に頼朝が伊豆山権現参詣の帰り佐奈田与一と文三家康の墓を訪れ落涙したと記されているので、戦後まもなく墓が築かたようです。その後佐奈田与一は神霊として佐奈田霊社に祀られ、現在も信仰を集めています。(小田原市教育委員会)

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ねじり畑                       文三堂


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石橋山合戦関係図



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寺山神社                      小田原根府川の道祖神(市重要文化財)

神社の草創は不明であり、古くは寺山権現といわれていたが明治初年寺山神社と改称した。祭神は甕槌命であり浅間神社と山神社の2社を鎮座している。往古からこの地根府川は通称「根府川石」の産地として知られており、これに関連する業として石船(石材運搬船)があり、これにかかわる人達が多いことから海や船、公開に関係ある鹿島信仰が定着し、鹿島踊りも伝えられ伝承されてきた。(案内板)


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大島&真鶴半島/早川
《早川・片浦ウオーキングトレイル》
早川駅から根府川駅までの起伏に富んだ丘陵地域約12kmを回る、子どもから大人まで気楽に健康づくりに取り組むことができるウォーキングコースです。緑豊かな自然の景観美や丘陵地から一望できる相模湾の眺望を楽しむことができます。また、この地域はみかんの産地であり、夏にはみかんの花の香り、秋にはオレンジ色に染まるみかん畑の風景を満喫でき、さらに春にはおかめ桜が花開くなど、四季折々の見どころがあるのも魅力の一つです。(小田原市)

by Twalking | 2013-02-26 16:18 | 鎌倉散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 いざ、西へ 06 根府川駅   

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東海道本線根府川駅


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根府川駅                      上り小田原方面

by Twalking | 2013-02-26 10:18 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 番外 ぶらり小田原・石垣山一夜城   

《石垣山望景》

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小田原城下&西湘


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小田原城                       早川港・相模灘&三浦半島


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国府津丘陵&丹沢山系


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箱根連山&東海道・入生田

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二子山     駒ヶ岳  神山   早雲山  明星ヶ岳     明神ヶ岳(東海道入生田)



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資料ファイル

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《国指定史跡 石垣山一夜城》
史蹟石垣山はJR早川駅の西方約2.5km、国道1号線から東へ約1kmのところにあります。また小田原城まで僅3kmのところにあり、標高257mの本丸からは小田原城や城下の様子が一望できます。秀吉はこの城に滞在していた100日余りの間、天皇の勅使を迎えたり千利休や能役者、猿楽師などを呼び寄せ、また淀君など側室も呼び参陣の大名にもこれにならうよう勧めたといわれています。この城は単に小田原攻めの本営であるというだけではなく、太閤秀吉の威信を示すと共に長期戦に備えた本格的な城構えであったといえます。(小田原市)

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《石垣山一夜城の構造》
石垣山の一夜城は最高地点の天守台の標高が261.5mあります。小田原城の本丸より227m高くまた小田原城までの距離わずか3kmと近く、眼下に小田原城やその城下はもとより、足柄平野や相模灘、遠くは三浦半島をも望むことができます。小田原城包囲軍の指揮をとるには最も適した場所といえます。この城が石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは築城にあたり山頂の林の中に塀や橋の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ一夜のうちに周囲の樹木を伐採したためと言われています。しかし、実際には約4万人が動員され天正18年の4月初めから6月下旬までの80日間が費やされました。

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最高部にある天守台跡             本丸跡

城の縄張りは南北方向に走る尾根を軸にしてその最高地点に本丸と天守台を設け、南には西曲輪と大堀切を隔てて出城が、また北には二の丸や北曲輪、井戸曲輪などが配置されています。このほか本丸の東には南曲輪などの小規模な曲輪群があります。こうした曲輪の配置については享保5年(1720)に小田原藩によって作られた絵図等でも知ることができます。

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南曲輪跡                     西曲輪跡

城道は井戸曲輪の北方から二の丸を通って本丸へ至るルートと南曲輪から本丸へと至る東口ルートの二筋があり、いずれの城道も関白道へ通じていました。城内に入ると通路には桝形と呼ばれる屈曲した構造を持ついくつかの門がありました。門には瓦が用いられており豪壮な門構えは秀吉の威信を示していました。(小田原市)


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二の丸(馬屋曲輪)
石垣山はもと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏の本拠小田原城を水陸合わせて22万の大軍を率いて包囲した小田原合戦の時、その本営として総石垣の城を築いて石垣山と呼ばれるようになりました。ここ二の丸(馬屋曲輪)は本丸(本城曲輪)と並んで最も広い曲輪で、中心部分・北へ長方形に張り出した部分及び東の腰曲輪部分これら三つの部分からなっています。「新編相模風土記稿」では二の丸として紹介されているが、伝承によれば馬屋が置かれ、本丸よりには「馬洗い場」と呼ばれた湧水もあったようです。井戸曲輪に行く道のすぐ横には「櫓台跡」がの残っており、他の曲輪にも「櫓台跡」が確認されています。小田原合戦の当初に豊臣秀吉の本営が置かれた箱根湯本の早雲寺には、一夜城で使用した神奈川県指定重要文化財の「梵鐘」が残っており、どこかの櫓で使用されていたとみられますが現時点では詳細は不明です。(説明版)


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国指定・井戸曲輪
井戸曲輪は石垣山一夜城二の丸(厩曲輪)北東側にあり、もともと沢のようになっていた地形を利用し北と東側に石垣の壁で囲むようにして造られている場所です。井戸は二の丸から25m下ったところにあり、今でも涌き出る水を確認することができます。この井戸は「淀君化粧井戸」または「さざゑの井戸」とも呼ばれています。石垣山一夜城は高い石垣で築かれた東国で最初の近世城郭です。石垣はあまり加工されていない石を用いた野面積み(のづらづみ)で、築城に際して西国から穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石工集団が派遣されていたことが文書に記されています。井戸曲輪の石垣は石垣山一夜城の中でも特に当時の姿をよく留めている部分でその石垣の特徴を知るうえで貴重な遺構といえましょう。(小田原市教育委員会)


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小田原合戦攻防図


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小田原城・八幡山古郭


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海蔵寺                       ビラン樹

嘉吉元年(1414)の創建で、寺内には堀秀政の供養塔がある。秀政は織田信長、豊臣秀吉に重用され小田原合戦にも参戦したがこの地で病死した。曹洞宗小田原三寺の一寺として550年余りの歴史を持つ。

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東善寺                       魚籃大観音(ぎょらん)

東善寺の本尊である薬師如来の脇仏として昭和57年(1982)に建立。海土安全、大魚満足、魚介類への謝恩感謝等を祈願している。(像高約10m)

by Twalking | 2013-02-25 18:22 | 東海道(完)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○Bird   

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《メジロ》
全長約12 cmで、スズメよりも小さい。。翼開長は約18 cm。緑がかった背と暗褐色の羽を持ち、雌雄同色。目の周りの白い輪が特徴であり、名前の由来ともなっている(なおメジロ科に属する鳥は英名でも "White-eye" と呼ばれ、また中国語名では「繡眼鳥」と呼ばれ、やはり名前の由来となっている)。室町時代からメジロの名で知られている。昔は「繡眼児」という漢字が用いられていた。花の蜜を大変好むため花期に合わせて行動し、春には好物の花の蜜を求めて南から北へと移動するものもいる。特に早春は梅の花に群がる様子がよく観察され、「チー、チー」という地鳴きで鳴き交わす様子がよく観察される。花の蜜を好むことから「はなすい」、「はなつゆ」などの地方名がある。(Wikipedia)

by Twalking | 2013-02-24 22:38 | ○Bird

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 2月の雲   

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石垣山/小田原市早川

by Twalking | 2013-02-24 22:19 | ○雲

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 番外 ぶらり小田原・早川港   

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箱根連山/早川橋


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小田原ブルーウェイブリッジ/西湘バイパス



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小田原漁港(早川港)


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ブルーウェイブリッジ               東海道線早川駅



《早川駅》
東海道本線の開通以前は、人車鉄道・軽便鉄道の豆相人車鉄道(のちの熱海鉄道)も1896年 - 1922年にかけて存在し、この付近に「早川駅」が置かれていた。(Wikipedia)

《西湘バイパス》(せいしょうバイパス)
神奈川県中郡大磯町から小田原市を結ぶ自動車専用道路であり、国道1号のバイパスである。西湘二宮ICから箱根口ICおよび石橋ICまでの区間は中日本高速道路管理の一般有料道路である。途中の早川で分岐し、神奈川県小田原市石橋に至る石橋支線がある。(Wikipedia)

《小田原漁港》
神奈川県の南西に位置し、相模湾を望み、背後に箱根、西に湯河原、熱海があり、県西地区の産業・文化の中心、交通の要衝として知られる小田原市の西部にあります。二級河川早川河口に位置し、南西の海岸は岩礁で、東側の海岸は弧状をなした砂浜となっています。相模湾や伊豆近海の好漁場が近くにあり、交通の便とあいまって漁業発展の好条件に恵まれていて、県西地区水産物の流通拠点となっています。漁港内にある市場では、小田原漁港からの陸揚と全国から陸送される水産物が、年間約2万4千トン取り引きされ、県西・湘南地域3市9町、約55万人に出荷されています。(神奈川県HP)

《早川》
神奈川県足柄下郡箱根町の芦ノ湖に源を発し東に流れ、小田原市南町と小田原市早川の境界から相模湾に注ぐ。箱根外輪山からの水が芦ノ湖に集まり、芦ノ湖北端の湖尻より流下する川が本流の早川と呼ばれる。早川水系は、源流域の芦ノ湖に注ぐ大涌谷ほか多くの沢と、芦ノ湖から流れる早川および須雲川などの支流から成る。(Wikipedia)

《須雲川》(すくもがわ)
大観山(たいかんざん、標高1015.2m、かつての箱根外輪山のひとつ)を水源とし、箱根湯本で早川に合流する本流と、二子山を源流とする支流などからなる、早川水系の二級河川。ほぼ流路に沿って箱根新道が通っている。旧東海道(県道732号)も畑宿付近までは須雲川に沿って造られており、須雲川が流れる谷は箱根越えの要衝となっている。飛龍ノ滝(神奈川県最大級の滝)は、須雲川の支流に属する。(Wikipedia)

by Twalking | 2013-02-24 21:55 | 東海道(完)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 moon 2月   

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多摩センター・丘の上プラザ

by Twalking | 2013-02-22 19:27 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 2月の空   

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多摩市愛宕

by Twalking | 2013-02-22 19:02 | ○雲

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(11)小田原宿~箱根湯本 03 下見   

下見日時 2013.2.19(火)
天気 雨/みぞれ  

みぞれ交じりの天候での下見となりました。
今回は“箱根八里”の起点・箱根湯本まで、
ステージの一区切りにはちょうどいいですね。。

4月からはいよいよ第2ステージ、
季節もだんだんとよくなってきますから楽しみです。
みなさん、ご一緒に如何ですかぁ~?!
面白いですよ、東海道。。。


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霙まじり、寒~い/板橋旧道


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松永記念館・日本庭園


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早川/箱根湯本三枚橋

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ほっと一息、ロマンスカーで帰ろっと。。。 006.gif


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資料ファイル

d0183387_20295858.jpg小田原駅跡
明治29年3月熱海方面への陸上輸送路として豆相人車鉄道が開設され早川口が小田原駅となった。明治41年に軽便鉄道として小田原電鉄からの乗り換え駅としてこの地方の交通に恩恵を与えた。大正11年国鉄熱海線が開通したことによってその任務を全うした。(説明標柱)

豆相人車鉄道
国府津駅前から小田原町(現、小田原市)内まで小田原馬車鉄道(1900年に路面電車化し、1920年廃止)という馬車鉄道が開通していた。それと連絡する形で当初は普通の鉄道を敷設しようとしたが、資金が集まらなかったため事業家雨宮敬次郎の発案により人力で車両を押す人車軌道に規格を変更し、雨宮と地元有志が共同で豆相人車鉄道を設立して1895年から1900年にかけて漸次開通させた。これは営業的には高運賃(全線の運賃は工夫の賃金1日分だったといわれる)を取ったこともあって成功したが、原始的であり押し手の賃金も高額となることから、社名を熱海鉄道と改めて1907年に蒸気機関車牽引の軽便鉄道へ切り替えた。



d0183387_22474311.jpg板橋周辺
北部を丘陵に囲まれたこの地は古くは大窪(おおくぼ)と呼ばれ、鎌倉時代にはその地名が史料に現れます。東海道沿いに集落があり、その北側には城下を潤す小田原用水が流れ、この用水が東海道を横切る所に架けられた橋にちなみ板橋の地名が付けられたといいます。戦国時代以来の由緒を持つ紺屋や石切の棟梁をはじめ職人が数多く居住し、小田原城下の西の出入り口「板橋口」の西隣に続く村というより城下の延長のような地域でした。明治時代になると気候が穏やかで眺望のよい丘陵部に政財界の大御所達が競って別邸を構え優れた建築や庭園も残されています。(案内板)



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古希庵                       山月

古希庵
明治の元老山縣有朋が晩年を過ごした別邸。近代日本庭園の傑作とされる庭園が一部残る。

山月
大倉財閥を築いた大倉喜八郎男爵の元別邸。現在は割烹旅館。


d0183387_23222517.jpg日蓮聖人霊跡
文永11年(1274)日蓮聖人が鎌倉から身延山に赴むかれる途中、当地のこの先の巨石・像の鼻の上に登られ、遠く房総の諸岳を望んで故郷忘れがたく、両親を偲ばれて回向して冥福を祈られたと伝えられている。



d0183387_22311362.jpg郷の詩碑
「舟出して 港も近き 里の名は げに白浪の 風祭かな 行こか箱根、戻ろか板橋 ここが思案の 涙橋」とありました。


d0183387_15223137.jpg駒ノ爪橋跡
天保年間に書かれた『新編相模国風土記稿』の入生田村(小田原市)の項には、「駒留橋、東海道中湯元村界の清水に架す。石橋なり。長3尺(90cm)幅2間(3.6m)、両村の持。橋上に頼朝郷馬蹄の跡と云あり。旅人此橋に足痛の立願す。」と載っています。これには、往時源頼朝が富士の巻き狩りから帰る際、この橋まで来ると馬が暴れてしまい、その際に橋の上に馬のひづめの跡が残ってしまったという逸話が残っています。そこで、旅人は「石に足跡をつけた頼朝の馬の頑健な脚にあやかりたい」と、道中足が痛まないように祈願したということです。後に小田原市板橋の山県有朋公の別荘古希庵の庭園に使われていたようです。(箱根町)



d0183387_23543342.jpg日本初の有料道路
明治8年(1895)9月小田原の板橋から湯本まで全長4.1km、総幅員5mのわが国初の有料道路が開通しました。江戸時代の東海道を拡げ2ヶ所の急坂を人力車が通れる勾配の緩い道に付け替えました。碑が建っている道はその後に付け替えた道です。開通した日から5年間、道銭(通行料)を取りました。人力車は1銭、大八車7厘、小車3厘でした。この道路の開通で人力車はもちろん間もなく乗合馬車も入ってきました。かの福沢諭吉から「箱根山に人力車の通れる道を造れ」と提言され、二宮尊徳の高弟として知られる福住正兄(まさえ)が建設の先頭に立ちました。(箱根町)



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東海道五十三次 第2ステージ日程

4月   第12回   箱根湯本~箱根  
5月   第13回   箱根~三島    
6月   第14回   三島~沼津    
7月   第15回   沼津~原
9月   第16回   原~吉原
10月  第17回   吉原~蒲原
11月  第18回   蒲原~興津
12月  第19回   興津~江尻
1月   第20回   江尻~府中
2月   第21回   府中~丸子
3月   第22回   丸子~岡部

併せて第一ステージ(日本橋~箱根湯本)も4月からスタートします。
(日程、内容の詳細はパンフレット・HPなどご覧ください)

企画・催行: 株)読売旅行

by Twalking | 2013-02-22 09:40 | 東海道(完)