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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 源平桃   

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源平桃
小金井市中町


モモ
バラ科モモ属の落葉小高木。また、その果実のこと。春には五弁または多重弁の花を咲かせ、夏には水分が多く甘い球形の果実を実らせる。中国原産。食用・観賞用として世界各地で栽培されている。3月下旬から4月上旬頃に薄桃色の花をつける。「桃の花」は春の季語。桃が咲き始める時期は七十二候において、中国では桃始華、日本は桃始笑と呼ばれ、それぞれ啓蟄(驚蟄)の初候、次候にあたる。淡い紅色であるものが多いが、白色から濃紅色まで様々な色のものがある。五弁または多重弁で、多くの雄しべを持つ。花柄は非常に短く、枝に直接着生しているように見える。観賞用の品種(花桃)は源平桃(げんぺいもも)・枝垂れ桃(しだれもも)など。庭木として、あるいは華道で切り花として用いられる。(Wikipedia)

by Twalking | 2013-03-31 21:18 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 さくら 08   

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桜並木
多磨霊園/小金井市
2013.3.30

by Twalking | 2013-03-31 12:50 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(12)箱根湯本~元箱根 02 下見・畑宿   

(その2)

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前方に文庫山、まずは腹ごしらえ/ 畑宿


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万丈の山 千尋の谷・・・、遠く小田原を望む/ 見晴茶屋先


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着いたぞぉ~、イエ~イ!/芦ノ湖・賽の河原


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資料ファイル

畑宿
畑宿は、郷土の伝統工芸箱根細工が生まれ育ったところです。畑宿で木地細工が作られた記録はかなり古く、小田原北條氏時代までさかのぼります。江戸時代、畑宿は箱根旧街道の間ノ村として栄え、沢山の茶屋が並び、名物のそば、鮎の塩焼、箱根細工が旅人の足をとめました。(箱根町)

箱根旧街道
江戸幕府は元和4年(1618)、十六夜日記でも知られる旧来の湯本から湯坂山-浅間山-鷹ノ巣山-芦ノ湯を経て、元箱根に至る湯坂路(現ハイキングコース)を廃し、湯本の三枚橋から須雲川に沿い畑宿を通り二子山の南側を経て、元箱根に至る古い山路をひろげ、世に箱根の八里越えと伝えられる街道を作った。この街道は、寛永12年(1635)参勤交代の制度ができて、一層交通が盛んとなり、そのありさまは詩歌、物語等にも多く歌われた。延宝8年(1680)幕府の手によりはじめてこの街道に石が敷かれたが、この石敷の道は現在も所々に存し、国の史跡に指定されている。現在、残っている石畳は、文久3年(1863)2月、孝明天皇の妹、和宮内親王が14代将軍、徳川家茂のもとに降嫁されるにあたり、幕府が時の代官に命じ、文久2年(1862)に改修工事を完成させたものだといわれている。平均、約3.6メートルの道幅の中央に約1.8メートル幅に石が敷きつめられていたという。(文化庁・箱根町)

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本陣跡                       旧茗荷屋庭園

畑宿の名主茗荷屋畑右衛門の庭は山間から流れる水を利用して滝を落し、池にはたくさんの鯉を遊ばせた立派な庭園で、当時街道の旅人たちの評判になりました。ハリスやヒュースケンなど幕末外交官の使者たちもこの庭を見て感嘆しています。(説明版)


d0183387_19253773.jpg駒形神社
勧請の年月は不詳であるが口碑によれば当村創立の頃早くも箱根奈禄山に奉斎する駒形大神を勧請して駒形大権現と崇めた。宝暦7丁丑六月高栄山神守源別当社殿を再建し、明治維新の際別当を廃され明治6年7月30日列した。(説明版)


d0183387_19343989.jpg畑宿一里塚
江戸時代旅人の目印として徳川幕府が作った、日本橋から数えて二十三里目にある塚です。箱根町の中では、湯本茶屋、畑宿、箱根の3か所にあった一里塚の中で、唯一その形態をとどめるものだそうです。標識樹として、塚の頂上に、畑宿から見て右側の塚には樅(もみ)の木を、左側の塚には槻(けやき)の木が植えられています。(箱根町)



d0183387_1952671.jpg西海子坂(箱根旧街道) 
江戸幕府は延宝8年(1680)箱根道を石畳道に改修しました。それ以前のこの道は雨や雪のあとは大変な悪路となり、旅人はひざまで没する泥道を歩かなくければならないため竹をひ敷いていましたが、毎年竹を調達するのに大変な労力と費用がかかってました。
(説明版)


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難所の七曲り                   太閤道よくみえます


d0183387_2022286.jpg橿の木坂(かしのきさか)      
新編相模国風土記稿に「峭崖(高く険しい崖)に橿樹あり故に名を得」とあります。「東海道名所日記」にはけわしきこと道中一番の難所なり、おとこかくぞよみける。「橿の木のさかをこゆればくるしくてどんぐりほどの涙こぼれる」と書かれています。(説明版)


d0183387_23305542.jpg雲助とよばれた人たち/見晴茶屋先
「箱根の雲助」というと知らない人はいません。ところが雲助とよばれた人たちは、実はこの小田原の問屋場で働く人足たちだったのです。しかし雲助というとなにか悪者のように考えますが、それは一部の人で、問屋場では人足を登録させ仕事を割当てていましたので、わるさをした人などはいなかったといいます。日本交通史論という資料によると、雲助になるのは次の三つにパスしなければならなかったそうです。その内容をみると、なかなかむずかしく、誰でもすぐなれるという職業ではなかったようです。
一、 力がひじょうに強いこと。(これは仕事の性質上ぜひ必要です)
二、 荷物の荷造りがすぐれていること。(荷物を見ると、だれがつくったものかわかり、また箱根で一度荷造りした荷物は、京都まで決してこわれなかったそうです)
三、 歌をうたうのがじょうずでないと、一流の雲助とはいわれなかったそうです。こうした人足のほかに、馬をひく「馬子」、かごをかつぐ「かごかき」たちの雲助が、元箱根や湯本など箱根の各地に住み、通行や温泉遊覧のたすけをしていました。 (環境庁、神奈川県)


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山根橋                       甘酒橋


d0183387_0185549.jpg猿滑坂
「新編相模国風土記稿」には、「殊に危険、猿猴といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす」と、難所らしい坂の名の由来が書かれています。県道の横断歩道橋がかかっている辺りが、当時の坂でした。(説明版)


d0183387_0202638.jpg追込坂
「新編相模国風土記稿」のふりがな(万葉がな)とみると、フッコミ坂といったのかもしれません。甘酒茶屋までのゆるい坂道の名です。(説明版)


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甘酒茶屋                      無料休憩所

甘酒茶屋について
この甘酒茶屋の付近は江戸時代、赤穂浪士の一人、神崎与五郎が吉良邸討入りに向う途中、ここで馬子にいいがかりをつけられ、大事の前であったため、馬子に詫証文を書いたと忠臣蔵「甘酒茶屋」のくだりとして講談、戯曲で有名なところです。しかし、この話は残っている証文から、神崎与五郎でなく同じ浪士の一人、大高源吾で、その場所は三島宿だったといわれています。又、当時の諸大名は小田原城下入りをする際、この付近でひと休みし、小田原に下りました。江戸時代にはこの付近に茶屋があり、急坂な箱根路への休憩地点として賑わっていました。(神奈川県)

箱根道のうつりかわり
〇〈碓氷道〉御殿場から乙女峠を越え、仙石原と宮城野の境の碓氷峠を経て、明神岳の頂上から今の大雄山最乗寺に下って関本に出る古道。この道は、日本武尊が東征の帰り碓氷峠で愛妻の弟橘姫命をしのんで「わが妻よ」と嘆き悲しんだ地点と推定されている古道です。
〇〈足柄道〉碓氷峠は、外輪山を2回越えていかなければならない嶮し道だったことから、これに代わるべきものとして開かれたのが足柄道で、御殿場から竹ノ下を通り、足柄峠を越えて関本に下るものである。北方外輪山の主峰金時山の外側と、矢倉嶽との間に生じた鞍部を通過するので比較的歩き易く、鎌倉時代以降、東海道のメインストリートが箱根越えになっても、永く東西をつなぐ道として使われていた。
〇〈湯坂道〉湯本から湯坂山に登り、尾根伝いに浅間山、鷹ノ巣山を経て芦之湯温泉に出、元箱根に至り、三島へ下る道。鎌倉時代、将軍 源頼朝はこの道を通って箱根権現へ詣で、その足で伊豆山権現へ向うという二所詣をさかんに行った。またこの道は同時代の官道として多くの人々が往き交った道であり、阿仏尼も鎌倉へ下る途上この道を通ったことが「十六夜日記」に詳しく記されている。
〇〈旧街道〉江戸時代、徳川幕府が新設した東海道の官道で、湯本三枚橋から須雲川に沿って畑宿に至り、元箱根・箱根関所・箱根宿を経て三島宿へと向う道である。参勤交代の大名の華やかな行列が往復したのはこの道で、小田原~三島間が丁度8里(32km)の道程で、健脚一日の行程であり、これが世に言う「箱根八里」である。
〇〈新道〉現在の国道1号線(東海道)で、湯本・塔之沢・宮ノ下・底倉・小涌谷・芦之湯など主要な温泉地帯を連結し、箱根峠から三島へ下る道。今は全長舗装され、立派なドライブウェイとなっている。


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白水坂                       天ヶ石坂


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箱根馬子唄の歌碑

箱根八里は 馬でも越すが こすに越されぬ 大井川
旧東海道
この地点は江戸時代の東海道で、鎌倉時代の東海道と交わるところです。鎌倉時代の東海道は別名湯坂道と呼ばれて、平安時代、富士山の爆発によりそれまで利用されていた足柄道の代わりに利用されるようになったもので、ここから箱根峠、三島方面と畑宿、湯本、小田原方面へと続いています。江戸時代の東海道は有名な東海道五十三次の一部で、当時の人々は皆この道を通って箱根を越えていました。(神奈川県)

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お玉観音堂                     二子山

二子山について
前方に見えるコブのような山は二子山と呼ばれ、向かって左が上二子(1,090m)、右が下二子(1,064m)です。この二子山は、駒ヶ岳、神山、台ヶ岳などとともに中央火口丘の一つで、箱根の火山活動のうち一番最後に出来たものです。頂上付近にはハコネコメツツジと呼ばれる富士火山帯特有のツツジ類を始め、サンショウイバラやキワザクラ、ヒメイワカガミなどが育成していて自然状態が良く残されています。現在は保護のため入山を禁止しております。(神奈川県)


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権現坂                       ケンペル・バーニー碑

権現坂
小田原から箱根路をのぼる旅人が、いくつかの急所難所をあえいでたどりつき、一息つくのがこの場所です。目前に芦ノ湖を展望し、箱根山に来たという旅の実感が、体に伝わってくるところです。 (箱根町)


d0183387_12283194.jpg賽の河原
この地は地蔵信仰の霊地として江戸時代東海道を旅する人々の信仰を集めたところです。その規模は大きく多数の石仏や石塔が湖畔に並んでいました。しかし明治時代に入ると仏教の排斥から多くの石仏が失われ、また芦ノ湖開発の中でだんだんとその規模を縮小し現在のようになりました。現存する石仏・石塔の中にも鎌倉後期と推定される艘塔を始め貴重なものがあります。(箱根町)

by Twalking | 2013-03-31 12:36 | 東海道(完)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○walk 88   

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天下の険
東海道・箱根東坂
「橿の木のさかをこゆればくるしくてどんぐりほどの涙こぼれる」と記されています。確かにこういう所もありますが、なんてったって“やったぁ~!”の方が遥かにでかいですね。。。うん、面白かった!

by Twalking | 2013-03-30 09:08 | ○walk

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乞田川
2013.3.28

by Twalking | 2013-03-29 21:20 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 馬酔木   

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馬酔木
東海道畑宿


アセビ(馬酔木 Pieris japonica subsp. japonica、異名:Andromeda japonica Thunb.)
ツツジ科の低木で日本に自生し、観賞用に植栽もされる。別名あしび、あせぼ。本州、四国、九州の山地に自生する常緑樹。やや乾燥した環境を好み、樹高は1.5mから4mほどである。葉は楕円形で深緑、表面につやがあり、枝先に束生する。早春になると枝先に複総状の花序を垂らし、多くの白くつぼ状の花をつける。果実は扇球状になる。しかしこの種は有毒植物であり、葉を煎じて殺虫剤に利用される。有毒成分はグラヤノトキシン(旧名アセボトキシン)。馬酔木の名は、馬が葉を食べれば毒に当たり、酔うが如くにふらつくようになる木という所からついた名前であるとされる。 多くの草食哺乳類は食べるのを避け、食べ残される。(Wikipedia)

by Twalking | 2013-03-29 21:03 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(12)箱根湯本~元箱根 01 下見・湯本   

下見日時 2013.3.26(火)
天気  晴れ

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早川/箱根湯本

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二子山、あそこを目指します          あじさいばし(旧ほまればし)


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早雲寺惣門


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初花堂


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資料ファイル

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箱根旧街道案内図

江戸幕府は元和4年(1618)に旧来の湯坂道を廃止して小田原三島の間、箱根山中の芦ノ湖畔に箱根宿を置き、関所を新たに設けて湯本の三枚橋から須雲川に沿い畑宿から急坂を二子山南麓に上り元箱根に至る古い山路をひろげて街道をつくった。この道は江戸時代を通じて世に箱根八里ごえといわれ、東海道中屈指の難路であり、その有様は詩歌・物語などで多く歌われている。


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白山神社
江戸時代まで「白山権現(はくさんごんげん)」と呼ばれ、地元の人々に温泉の守護神として崇められていました。石川県の「白山さん」と親しまれている白山神社総本宮の白山比咩(しらやまひめ)神社の御祭神を勧請したお社です。境内には、伏見稲荷大社から勧請した稲荷社や水神社があり、手水舎には「白山水」と呼ばれる御神水が湧き出ています。(箱根町観光協会)


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中門                         本堂


早雲寺
小田原城主・北条氏の菩提寺。2代氏綱(うじつな)が初代早雲(そううん)の遺言によって1521年(大永元)に建立した臨済宗大徳寺派の名刹です。箱根湯本の町は、もともと早雲寺の門前町として始まったと言われています。1590年(天正18)の豊臣秀吉の小田原攻めで一度消失。1627年(寛永4)僧侶・菊径により再興されました。山門の左側の鐘楼に大きな古い梵鐘があり、これは豊臣秀吉が北條氏を攻めて小田原に押し寄せたとき、石垣山の一夜城に使われたといわれています。

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鐘楼                         枯山水庭園 

現在、早雲寺には、戦国時代を代表する文化人として名高かった北条長綱(幻庵:早雲の三男)の作といわれる枯山水庭園が残るほか、北条五代の墓、「北条早雲像」(国指定重要文化財)などの文化財が保存されています。また、裏手には常緑広葉樹林(神奈川県天然記念物)が自然林の形で残っており、初夏には箱根町指定天然記念物ヒメハルゼミ(神奈川県下ではここ早雲寺林にしか生息しない)の大合唱を聞くことができます。それに合わせたイベントも企画されています。(箱根町観光協会)


d0183387_15465551.jpg史跡北條五代の墓
天正十八年(1590)四月五日、豊臣秀吉軍は箱根山を越え早雲寺に入り本陣とした。六月下旬一夜城が完成すると火を放ち、当時関東屈指の禅刹として威容を誇った早雲寺の伽藍、塔頭寺院は尽く灰燼に帰したのである。七月五日北條氏が降伏し、同十一日氏政・氏照は切腹、氏直は高野山に追放され、翌天正十九年十一月四日逝去した。なお北條一門では、伊豆韮山城主であった氏規(氏政の弟)が秀吉より大阪河内内狭山に約一万石を許され(狭山北条氏)、鎌倉玉縄城主北條氏勝が家康の傘下に入り、下総岩富に一万石を与えられて(玉縄北條氏)、その家系は江戸時代を通じて存続している。早雲寺の再建は、元和・寛永期に当山十七世菊径宗存によって着手されるが、その復興に北條両家の外講は欠かせないものであった。こうして、北條五代の墓は寛文十二年(1672)八月十五日狭山北條家五代当主氏冶によって、早雲公(伊勢新九朗長氏)の命日に竣工したのである。小田原北条氏滅亡から八十二年後のことであった。
〇北條早雲 (1432~1519) 俗名、伊勢新九郎長氏。備前生、戦国時代初期を代表する武将。京都から駿河今川家に身を寄せ伊豆・相模を攻略、戦国時代の幕を開いた。伊豆韮山で没。享年八十八歳。
〇北條氏綱(1486~1541) 父早雲の遺志を継ぎ武蔵・下総へ進出、小田原北條氏の領国を拡大した。 享年五十六歳。
〇北條氏康(1515~1571) 扇谷上杉を滅ぼし関東の覇権を握る。領国経営にすぐれた手腕を発揮した。享年五十七歳。
〇北條氏政(1538~1590) 夫人は信玄の娘黄梅院。信玄の西上を後援、その没後は信長と連携して武田勝頼討伐に加担。やがて秀吉に敗れ切腹。享年五十三歳。
〇北條氏直(1562~1591) 夫人は家康の娘督姫。下野宇都宮氏を降し後北條氏最大の領国を形成。上野真田昌幸の名胡桃城を奪取して秀吉と対立して破れる。家康の助命で高野山に流される。享年三十歳。(説明版)


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地蔵像                       曽我堂

正眼寺(しょうがんじ)の史跡・文化財案内
正眼寺は、鎌倉時代、箱根山に広まっていった地蔵信仰の中で生まれた寺です。創建年代は定かではありませんが、この寺の前身である湯本地蔵堂の別当寺として鎌倉前期には存在し、その頃は勝源寺と呼ばれていました。戦国時代には一時衰微しましたが、江戸時代になりますと、江戸屈指の材木問屋冬木やの援助により諸堂が再建され、また、小田原城主大久保氏より境内地・地蔵田が安堵され、復興されました。再興開基には早雲寺17世菊径宗存を招請し、この時より当寺は臨済宗大徳寺派に属す禅寺となり、今日に至っています。
《曽我堂》 曽我仇討で有名な曽我五郎・十郎兄弟の菩薩供養のため建立された堂宇、堂内には、俗称曽我五郎地蔵菩薩立像(県重文)、同十郎地蔵菩薩立像(町重文)が安置されています。
〈曽我五郎の槍突石〉 曽我五郎が病回復の証に、槍で突いたと言い伝えの残る石で、江戸時代までは、箱根旧街道筋の槍突沢にありました。
〈曽我兄弟の供養塔〉 江戸前期、冬木屋上田家が建立した供養塔。


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仲睦まじい道祖神                日本橋から22里目の一里塚趾

江戸時代、この辺りは「湯本茶屋村」といい、その村境の道祖神です。男女の神が頬を寄せ手を取り合い、その睦まじきことを示すことによって、悪霊が村に入ってこないよう念じ立てたものです。(湯本茶屋自治会)


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石畳/箱根旧街道入口             馬の飲み水樋

江戸幕府は延宝8年(1680)に箱根旧街道に石を敷き舗装した。この先から約255mはその面影を残しており国の史跡に指定されている。(箱根町)


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湯坂山を見ながら葛原坂へ          正面に二子山/箱根新道・須雲川IC

「新編相模国風土記稿」には「海道中(東海道)須雲川村境にあり、登り一丁ばかり」としか書かれていません。地名がクズはなでこの辺りは今もクズの葉が生い茂っています。(説明版)


d0183387_17153898.jpg須雲川
この周辺の集落を須雲川といいます。、むかしは川端とも呼ばれていました。この場所に集落ができたのは江戸の初め寛永のころです。(説明版)


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鎖雲寺・初花堂                  勝五郎・初花の墓

鎖雲寺は江戸時代初め当時早雲寺の山内にあった一庵を引いて建立された禅寺です。この寺には「箱根霊験記」で有名な勝五郎と初花の墓があります。(説明版)

「此らあたりは 山家ゆえ 紅葉のあるのに 雪が降る」とはご存じ歌舞伎狂言に名高い浄瑠璃の一句で、初花の夫勝五郎を恋うる名台詞であります。父の仇敵を追って箱根山中に差しかかりましたが、不図したことから勝五郎の病は募るばかりに、大望を抱く見の勝五郎の病状を案じた初花は夜毎に夫の眠るのを待って、向山の滝で身を清め、箱根権現へ夫の病気平癒と仇討成就の願をかけ、ひまさえあれば山中に深く分け入り、天来の薬餌で名高い自然薯を堀り集め、夫に薦めるのでした。初花の一念天に通じ、慶長4年8月、遂に仇敵の佐藤兄弟にめぐり合い、見事に本懐を遂げさせたと言う。貞女初花の伝説は400年後の今日でも、何か私達の心にひしひしと深い感銘を覚えさせるものがあります。二人の眠る墓は、この寺の境内の墓地に誰か建てたか、哀惜の比翼塚として葬られております。どうか皆様もご供養のつもりで香華を手向けて戴きたいと存じます。 (はつ花そば店主 小宮吉晴)


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須雲川自然探勝路入口             須雲川の丸木橋(迂回路あり)


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割石坂入口                    正面に文庫山が見えてきました

曽我五郎が富士の裾野に仇討に向かう時、腰の刀の切れ味を試そうと路傍の巨石を真っ二つに切り割ったところと伝えられています。(説明版)

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接待茶屋                     これを抜けると畑宿です/大澤坂

江戸時代後期、箱根権現の別当如実は箱根八里を往還する旅人や馬に湯茶や飼葉を施し大変喜ばれていましたが、資金が続かず行き詰まっていました。如実は江戸呉服町の加勢屋与兵衛らの協力を得て施工の継続を幕府に願い出、文政7年(1824)ようやく許可がおりました。再開にあたって新しく設置する施工場所を畑宿と須雲川に希望していましたが2ヶ所とも立場があるため許可されず、東坂は割石坂のこの辺り、西坂は施行平に設置されました。(説明版)


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箱根路のうつりかわり

碓氷峠(碓氷道 神奈川県足柄下郡箱根町宮城野)
「臼井峠」「碓井峠」「碓日峠」など、時代や文献により峠名の表記が異なるが、全て同じ峠を指す。国道138号(箱根裏街道)の北の山中を走り、宮城野集落と仙石原集落を結ぶ細い峠道上に存在する。山深いところに位置するが、峠のある場所は北にある明神ヶ岳から続く箱根山の古期外輪山の山裾と中央火口丘の一部が重なった部分にあたるほか、道自体が急勾配を避けて標高650メートルの附近の山腹に当たる部分を南東から北西に横切っており、峠自体は比較的緩やかである。周囲は箱根の山中であり、碓氷梅林以外に取り立てて観光地などはないが、峠附近には休憩用の東屋と、ヤマトタケル伝説(後述)に基づいて大正6(1917)年に立てられた「吾妻はや」の記念碑がある。なおこの峠を通る道は「碓氷道」と呼ばれる箱根越えの古道であり、国道が通じる前は両集落を結ぶ主要道でもあった。また古くは南足柄市方面から御殿場市方面を結ぶ幹線道であり、一部では古代の東海道そのものかもしくはそれに関係する街道とされることもあるがつまびらかでない。
〈ヤマトタケル伝説との関係〉
上述の通り、この峠は『古事記』『日本書紀』に登場する英雄・ヤマトタケルの伝説の地とされている。東征の途中で荒れ狂った海の神を鎮めるために入水した弟橘媛(おとたちばなひめ)を偲んで、「吾妻はや」(あづまはや、「吾(我)が妻や」という意味)と3回嘆いたという伝説がそれである。これは現地に当初からあった伝説ではなく、近代の歴史学者・久米邦武が明治時代に唱えた説によって結びつけられたものである。この説は、この伝説の地が『古事記』では「足柄坂」、『日本書紀』では「碓日嶺」と場所が異なることについての考察から生じたものである。(Wikipedia)

須雲川(すくもがわ)
大観山(たいかんざん、標高1015.2m、かつての箱根外輪山のひとつ)を水源とし、箱根湯本で早川に合流する本流と、二子山を源流とする支流などからなる、早川水系の二級河川。延長3.97km、流域面積22.54km²。ほぼ流路に沿って箱根新道が通っている。旧東海道(県道732号)も畑宿付近までは須雲川に沿って造られており、須雲川が流れる谷は箱根越えの要衝となっている。飛龍ノ滝(神奈川県最大級の滝)は、須雲川の支流に属する。(Wikipedia)

by Twalking | 2013-03-29 18:13 | 東海道(完)

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花曇り
乞田川/多摩センター駅北口

by Twalking | 2013-03-29 09:11 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 春の空   

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春の空
多摩市愛宕

by Twalking | 2013-03-28 21:16 | ○雲

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 甲州街道(17)蔦木宿~金沢宿   

日時 2013.3.27(水)
天気 晴れ/曇り

はれ後くもりの予報でしたが新宿は小雨模様、アレレ~。。。
でも、中央道から南アルプス、八ヶ岳などうっすらと見え、
こらなら大丈夫と一安心しました。

何せ今日は最後の“峠越え”。
小仏・笹子程ではないにしても結構タフなコースです。
蔦木宿、瀬沢、原の茶屋と早春の里山を味わいながら
のんびりと、でもしっかりとみなさん歩かれてました。

やはりこれまで歩かれてこられた成果でしょうか、
いや、実に素晴らしいことだと思います。
みなさんお疲れさまでした!

さぁ、次回はいよいよエンディングの下諏訪です。
がんばりましょう!


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三光寺山門

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本堂                         代表して鐘ついていただきましたぁ~


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いざ、富士見峠へ/神代・諸水橋付近

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瀬沢の上りへ/机                 御射山神戸へ下ります/原の茶屋先


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この先から金沢宿へ下ります/ 御射山神戸一里塚  
ケヤキは樹齢390年余。甲州街道でこのように塚・ケヤキともに往時のものが保存されている例は他になく、とても貴重な存在です(富士見市) 


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記録
人数 22名
歩数 23200歩
時間 6時間

行程
新宿8:00⇒談合坂(WC)8:55⇒小淵沢IC9:55・・・道の駅蔦木宿(WC)10:10⇒
新国界橋(S)10:30・・・高座石・・・真福寺・・・応安の古・・・三光寺(小休)・・・
蔦木宿・本陣・・・川除碑・・・平岡一里塚・・・瀬沢追分・・・瀬沢合戦古戦場跡12:00⇒
道の駅(昼食)13:45⇒古戦場跡(S)14:00・・・尾片瀬神社・・・とちのき防風林・・・
塚平の一里塚・・・透関の馬頭観音・・・富士見公園15:00(WC)15:15・・・原の茶屋・・・
御射山神戸・・・御射山神戸一里塚15:55・・・泉長寺・・・金沢コミュニティー16:35
(S)16:45⇒諏訪南IC16:55⇒八ヶ岳PA(WC)17:25⇒石川PA(WC)⇒新宿19:25


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資料ファイル


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本陣表門                      本陣跡碑
甲州街道蔦木宿と本陣表門の沿革
蔦木宿は江戸幕府の宿駅制度のよって、慶長十六年(1611)ころ甲州道中第四十三番目の宿駅として設置された。街は街道に面して屋敷割をし、本陣・問屋などが位置づけられた。本陣の規模は広大で多くの座敷や板敷、土間のほか堂々とした門構えや広い玄関、書院造りの上段の間などを具備していた。この宿駅は、元禄十五年(1702)、延享三年(1746)、明和八年(1771)、寛政六年(1794)、文化六年(1809)、元治元年(1864)の計六回の大火にあい罹災戸数も知られているが本陣の類焼についての詳細は不明である。この宿場街は、明治維新による宿駅制度廃止と、さらに、鉄道がこの宿駅から離れたところに敷設されたため次第にさびれていった。本陣も主屋は、明治四十年(1907)に南原山に移築され、渡辺別荘(分水荘)として活用されていたが、老朽化したため昭和五十年代に取り壊された。本陣主屋は弘化三年(1846)五月の建築であり、甲州道中における、本陣建築の遺構として惜しまれる建造物であった。この表門は、構造手法、および使用材料よりみて、主屋より新しく江戸末期の元治元年の火災後の復興になるものと考えられる。明治三十八年(1905)池袋区の、平出武平氏がゆずり受け、同家の正門としていたが、平成二年(1990)本屋取りこわしに際して町の歴史民族資料館に保存された。かつての蔦木宿の面影をしのび、心のよりどころとの区民の強い要望から、平成四年(1992)七月本陣跡地に復元された。建物の造りは簡素であるが数少ない本陣表門として貴重な遺構である。(富士見市教育委員会)

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南の桝形道趾             北の桝形道趾


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川除古木
釜無川の氾濫による水害から蔦木宿を守るために、宿の上の入口付近につくられた信玄堤とよばれる堤防がある。川除古木は、この信玄堤と共に水害から地域を守るために植えられた川除木の名残りの古木であり、現存しているものはキササゲ一株、サイカチ二株、ケヤキ一株である。明治三十一年(1898)の大水のときには、ここの大木を切り倒して集落内に向おうとする大水の向きをかえ、集落を水害から守ったといわれる。キササゲは胸高幹囲(きょうこうかんい)215センチ、主幹は地上3メートルより上は枯れ、分かれた枝が張っている。キササゲは中国原産で暖地に植栽され、また河岸などに逸出している。果実が肝臓病の薬に利用される。富士見町内では釜無河原に見られる。サイカチの一株は胸高幹囲335センチ、主幹は地上4メートルで大枝二本に分かれ、樹高16メートルに達する。サイカチは本州・四国・九州の温帯および暖帯に分布し、通常、樹高10~15メートル、胸高直径30~40センチに育つ。富士見町内では釜無および入笠地域に認められるが、株数は少ない。果実は洗濯に、葉は食用に、根皮および木の刺は薬用に、花は薬湯に利用される。ケヤキは国内の温帯及び暖帯に広く分布し、他の樹木に比べて大きく育って目立つので、けやけき木という意味からケヤキと名づけられた。また地方名「ツキ」は強木の略であり、防風のため植えられている例がある。(説明版)



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瀬沢古戦場跡                   吉見屋/瀬沢
瀬沢合戦跡
瀬沢合戦とは「甲陽軍艦」によれば、次のような合戦のことです。
天文十一年(1542)二月、信濃の小笠原・諏訪・村上・木曽の四大将は甲斐の武田晴信(信玄)を攻めようと、甲信境の瀬沢に陣取りました。これを察知していた晴信はひそかに軍勢を発し、三月九日朝、信濃勢の不意をつき、武田軍は大勝したが、味方にも多数の死傷者を出しました。(富士見市)

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とちのき風除林 
とちのきには、古くから樋口姓の者が住んでいた。しかし村は風当たりが強く、五穀は実らず、全戸が今の若宮地籍へ移り住み無人家の地となった。元和六年(1620)、樋口氏が木之間から今の塚平の地へ移住した。ここは周りが草原だったので、神戸から草刈に来た人達や甲州道中の通行人が時々失火して火災にあった。それで、やや南の方の今の地へ移った。このころ片瀬から小林氏が来て住むようになった。やはり北風は強く、内風除けを作ったが、なお稲はよく実らなかった。寛政年間(1789~1800)に村では高島藩へ願い出て、防風林として外風除けを村の上に仕立てた。そのアカマツが、樹齢およそ200年の立派な風除けとして今日に至っている。この風除けは甲州街道に直交し、かつ東西に100メートルずれるように設けられている。東側は村の北西、ソリの道地籍の崖縁に沿う延長160メートルの間に植えられている。樹高20メートル余り、いま胸高幹囲140~240センチのもの35本を数える。西側は延長45~50メートルに上端の幅10メートル余、高さ2メートル余の土盛りをして植えられ、いま胸高幹囲160~250センチのもの14本を数える。風除けと呼ばれる林は藩の許可を得て設けられるもので、富士見町内では30余りが数えられる。現存するものの中でこの風除林は、往時からの姿を伝える顕著なものである。(富士見市教育委員会)

by Twalking | 2013-03-28 16:53 | 甲州街道(完)