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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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水緩む
であい橋/多摩市乞田


by Twalking | 2014-01-31 12:51 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ミツマタ   

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つぼみ
吉祥院/多摩市豊ヶ丘
2014.1.31

ミツマタ(三椏)
ジンチョウゲ科ミツマタ属の落葉低木。中国中南部、ヒマラヤ地方原産。ミツマタはその枝が必ず三叉、すなわち三つに分岐する特徴があるため、この名があり、三枝、三又とも書く。春の訪れを待ちかねたように咲く花の一つがミツマタである。春を告げるように一足先に、淡い黄色の花を一斉に開くのでサキサクと万葉歌人はよんだ(またはサキクサ:三枝[さいぐさ、さえぐさ]という姓の語源とされる)。(Wikipedia)

by Twalking | 2014-01-31 12:31 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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かげ
乞田川/多摩市落合


by Twalking | 2014-01-28 10:11 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夕日26   

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夕日
乞田川/多摩市落合

by Twalking | 2014-01-27 21:06 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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飛行機雲


by Twalking | 2014-01-26 11:26 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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ペーネン(アップル)


by Twalking | 2014-01-26 11:11 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(21)府中宿~丸子宿 02 下見・丸子宿   

日時 2014.1.21(火)
天気 晴れ
東海道(21)府中宿~丸子宿 02

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丸子宿


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吐月峰柴屋寺


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丁子屋

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東海道五十三次 丸子


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資料ファイル

d0183387_21590631.jpg少将井神社由緒
当神社の祭神は素盞鳴命(すさのうのみこと)で、建久4年(1193年)源頼朝が鎌倉幕府を開いた翌年に当たり、有名な富士の巻狩り、曽我兄弟の仇討ちがあった年である。その後、東海道の要衝安倍川の渡しの宿場町として繁栄した。手越の産土神として尊崇され、曽我物語にある工藤祐経の遊君少将君の名と共に往昔東海道を往来する旅人にもその名を知られ、当地の名社として今日に至ります。明治12年(1879年)村社に列し、明治22年(1889年)9月6日手越桜山鎮座の村社神明官の天照大神、手越向山鎮座の山王神社の大山咋神(おおやまくいのかみ)、手越水神鎮座の水神社の罔象女命(みずはめのみこと) 、三社を合祀し、同日手越藤木鎮座の左口神社の猿田彦命(さるたひこのみこと)を移し境内社とした。後に合祀して祭神は五社となりました。社殿は明治32年(1899年)7月、昭和33年(1958年)11月氏子の奉仕により改築されました。例祭は、古くは9月18日に行われていましたが、明治43年(1910年)より10月17日に改められました。例祭には、氏子一同服装を改めて参拝するを例とし、平素は出生児の初宮詣りや、病気平癒の祈願詣りなどがあり、神人和合の古い伝統が継承されています。(少将井神社)

d0183387_21591076.jpg謡曲「千手」と少将井神社
源平一の谷の敗戦で捕らえられ、鎌倉で憂愁の日々を過ごす副大将平重衝を慰めるようにと、源頼朝は白拍子千手の前を遣わしました。和歌・琴・書に秀でた千手の前の優に優しい世話に、重衝も心を通わせ、互いに想い合う仲になりました。先に、東大寺を焼いた重衝を、奈良の荘は思い仏罰だとして引渡しを強要し、再び京都へ護送する途次に殺してしまったのです。嘆き悲しんだ千手の前は、尼となって重衝の菩提を弔いつつ生涯を閉じました。少将井神社は、手越長者の館跡と推定され、重衝と千手の前との哀切の情愛を主題とする謡曲「千手」の生誕の地と伝えられています。(謡曲史跡保存会)

d0183387_22102272.jpg沢渡の子授地蔵尊
その昔、子供に恵まれない夫婦はこの地蔵一体を借りて信仰すれば子供が授かるといわれていました。子供が授かった人は新しい地蔵を一体つくりお礼参りをした。そのためこの地蔵堂には子宝に恵まれた人があげた地蔵がたくさん祀られています。(長田西自治会)



d0183387_21594519.jpg夢舞台東海道 丸子宿
この道筋は江戸時代の東海道です。府中宿を過ぎて川越人足によって安倍川を渡り、手越村を抜けて続く松並木を西へ進むと沢渡村です。(標柱)






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さわたりの てごに行き逢ひ 
赤駒が あがきを速み こと問はず来ぬ

                       
佐渡に住む美しい少女と道で行き会ったが、私の乗っている赤馬の足が速いので、ろくに言葉も交わさずに来てしまった。この歌は、わが国最古の歌集「万葉集」に収められ東国農民に愛唱された歌謡である。「佐渡」はその頃からこの辺の地名で、その歴史は誠に古い。昭和52年(1977)「丸子一丁目」と改称され「佐渡」という地名が地図の上から、永久にを消すこととなった事を惜しみ地元町民とともにこの碑を建てる。(昭和57年3月さわたりの名を惜しむ会代表・春田鉄雄 同発起人代表・文学博士 南 信一)


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丸子一里塚                  丸子宿江戸方見附跡

江戸幕府は東海道の両側に松を植え、その松並木は終戦後まで、東海道のシンボルでした。丸子宿と佐渡(さわたり)の間大曲は、松並木に笹が茂り、寂しい所でした。現在では、手越原に4本、赤目ヶ谷西部給食センターの所に2本残っているだけになりました。この一里塚は日本橋から数えて、46里、12番目の一里塚になります。この塚本宅は「一里山」という屋号で呼ばれていました。次の一里塚は逆川入り口付近にあったが道路改修のため消滅してしまった。(案内版)


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丸子下宿                      
此処は、東の見付けを通り、丸子宿に入ってきたところです。ここ丸子宿は、文治5年(1189)源頼朝が、奥州平定の功績により、手越平太家継という駿河の武士に丸子一帯を与えて、駅家を設けたのが起源といわれている。今の元宿と言われているところです。江戸時代になり、徳川家康によって、東海道の整備が行なわれ、品川から数えて20番目の宿場町に制定された。小さな宿場町だったので、周囲の村々から人足や馬を供給していた。これを助郷制度と言います。この上の土手に水神社があった。(案内版)丸子宿


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脇本陣跡                    問屋場跡


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本陣跡                           お七里役所跡
お七里役所とは、江戸時代初期、紀州 徳川頼宣が、江戸屋敷と領国の間の146里に沿って、7里間隔の宿場に、独自の連絡機関として23ヶ所に中継ぎ役所を設けた。県内では、<沼津><由比><丸子><金谷><見付><新居>に設けられ、5人一組の飛脚を配置した。(標柱)

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丁子屋は慶長元年(1596年)創業。松尾芭蕉の俳句や十返舍一九の『東海道中膝栗毛』、安藤広重の『東海道五十三次』にも出てくる歴史に名を残す名店だけに美味しかったですね。

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梅わかな丸子の宿のとろろ汁/芭蕉句碑    十返舎一九東海道中膝栗毛の碑

十返舎一九東海道中膝栗毛の碑
けんくはする夫婦は口をとがらして   鳶にとろゝにすべりこそすれ
北八「((ここ)はとろゝ汁が名物だの」弥二「そふよ。モシ御ていしゅ、とろゝ汁はありやすか」ていしゅ「ハイ今できず」 弥二「ナニできねへか、しまつた」
ていしゅ「ハレじつきにこしらえずに、ちいとまちなさろ」 亭主は芋の皮も剥かないで擂り始める。この地方では「できず」は「できる」「食べず」は「食べる」のだ。この後すりこ木で殴ったりの夫婦けんかで、果ては仲裁役もとろゝ汁まみれ。呆れた北八が「いっしゅよみやした」と。


d0183387_13381421.jpg歴史の道東海道のご案内
この道筋は江戸時代の東海道です。丸子宿の西の見付と高札場がありました。分岐する道を川沿いに西北へ進むと、諸大名や幕府役人、文人などが東海道を往来の際立ち寄った名所、連歌師宗長(そうちょう)ゆかりの吐月峯柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)があります。道沿いには明和元(1764)年に建立された道標がありますが、元は別の場所に建てられていたものと考えられます。(静岡市)


d0183387_14421693.jpg細川幽斎 丸子川の碑 
人数にはたれをするかの丸子川
   けわたす波は 音はかりして 
              細川幽斎








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吐月峰柴屋寺
吐月峰柴屋寺は、今川六代当主義忠と七代当主氏親に仕えた連歌師・宗長が、永正元年(1504)55歳で草庵を結び余生をおくったところである。この頃は、禅宗の影響で孤独閑寂の生活を楽しむことが流行し、宗長自身もここに京都銀閣寺を模した庭園を築き、四季の風物を眺めて暮らしていたという。風雅な庭園は、本堂の正面はるか南方にある「丸子富士」や、庭から西方にそびえる「天柱山」などの美しい自然をたくみに取り入れた借景園と、庵の背景となる枯山水の庭園は国の名勝・史跡に指定されている。庭の前庭には、北斗七星をかたちどって配置した。「七曜石」や宗長が月の出るのを座って待ったという「月見石」などがある。その月見石の背後に師の宗祇と並んで宗長の墓がある。当寺は、京都の嵯峨から移植したという竹林に囲まれ、宗長の手工に始まるという竹細工が今も民芸品として即売されている。なお、寺宝に後水尾天皇御真筆の短冊、足利義政から賜った芦屋釜(文福茶釜)、頓阿法師作柿本人麿像及び一節切の笛などの文化財が保存され、公開されている。(静岡市)

吐月峰柴屋寺由来来
静岡市丸子泉ヶ谷にある柴屋寺は室町時代の中期永正元年(1504)連歌師柴屋軒宗長が草庵を結んで閑居した所であって吐月峰の名によって天下に知られた名勝であります。この泉ヶ谷の地は慶仁戦乱の頃持舟・宇津山・賤機山などと共に駿府の外域として丸子城があり今川氏親は今川の内訌の難をこの丸子城にさけて十余年を過ごしたのであります。現在の柴屋寺は当時の丸子城内の一部であり青年連歌師宗長は氏親ともに暫くこの城内にあって自然の風詠に戦塵を忘れたと伝えられています。氏親は駿府城に帰って(長享元年1487)国守となった後も屡々犀屋軒をたずね、なお公財を捨てて堂宇を建て始めて柴屋寺と称えたのであります。徳川家康はこの寺に朱印地を賜い堂宇の朽ちるを惜しんで懇ろに修理りたのであります。その庭園は宗長が自ら禅味と詩魂を打ち込んで築いたものといわれ、本堂の西に小池を造り東北方から湧出する岩清水を引いてこれに注ぎ池畔には樹石を配して西方にそびえる天柱山を巧に取り入れた借景庭園であります。

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丸子城鳥瞰図
駿河国(現在の静岡県静岡市駿河区丸子)にかつてあった山城である。北城と南城があり、北城を指すと見られる宇津谷城、鞠子城、南城を指すと見られる三角城(みかど - )赤目ヶ谷砦の別名がある。南北とも最高所の標高は136メートル、比高100メートルであり、城域は東西800メートル、南北350メートルに及ぶ。して北東へ伸びる主軸北城は南から屈折尾根上に、西から東へ一線に一の曲輪・二の曲輪・三の曲輪が段状を成して造られ、各曲輪は土塁で囲まれており、郭間は空堀で仕切られている。北城は応永年間、駿河国守護今川氏の家臣、斎藤安元歴代の居城として築城され、北城の北側山麓には斎藤氏の居館が設けられていたと見られている。今川義忠が、文明8年(1476年に戦死し、龍王丸(後の今川氏親)と、小鹿範満との間で家督争いが起きた際、龍王丸は一時丸子城で暮らしていた。家督相続した氏親が西進を目指すに当たり、駿河府中の防御を固めるため斎藤氏の居城を接収して、南の三角山方面に城域を拡大したのが南城であるが、氏親以降氏真までの城主や歴史は不明である。永禄11年(1568年)、武田信玄が駿河に侵攻すると、西駿河に残る今川方への押さえとして山県昌景が丸子城に置かれた。永禄13年(1570年)、信玄は駿河全域を制圧して、丸子城は諸賀兵部大輔・関甚五兵衛を在番とし、天正6年(1578年)頃には屋代勝永に替えた。この間、西方面の大規模な増築や各所の改修が行われた。天正9年(1581年)3月の高天神城落城を前に、武田方は徳川方に丸子城を明け渡して退去し、徳川家康は松平備後守を置いたが、天正18年(1590年)の関東移封に伴い廃城となった。(Wikipedia)


 


by Twalking | 2014-01-25 12:02 | 東海道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(21)府中宿~丸子宿 01 下見・府中宿   

日時 2014.1.21(火)
天気 晴れ

東海道(21)府中宿~丸子宿 01
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駿府城公園&静岡県庁

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呉服通り

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蒲菊本店                        竹茗堂

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安倍川橋西詰

d0183387_16042844.jpgd0183387_16042552.jpg下流側                          上流側

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東海道五十三次 府中安倍川


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資料ファイル

江川町
江川町は江戸時代から昭和20年までの町名で、伊豆国韮山の代官を勤めた江川家の先祖が、天正年間にこの地に住まいしたことに由来する、といわれています。駿府城の南東隅近くに位置し、町の中を東海道が通っています。城に面した一隅には駿府用水に架けられていた石橋「くまたか橋」の碑が建っています。この町には駿府の有力商人が多く住み江戸時代の文化~天保年間に地誌「駿河国新風土記」を著した町人学者新庄道夫が江川町の郷宿三階屋に生まれています。江川町の名は交差点や通りの呼称として今に伝えられています。(案内板)

呉服町の歴史
今川氏の時代、呉服町は駿府の本町といわれ、当時から城下の主要地城であったことが知られています。現在のように呉服町の名が使われるようになったのは、駿府へ引退した徳川家康が慶長14年(1609)に行った町割りにおいて 駿府96ケ町が定められた時からです。浅間神社に近い北から南に向かって順に1丁目から6丁目までの6ケ町からなっていました。その名は、この地に今川時代末期(1560年代)から徳川時代初期(1620年代)にかけて絹庄、木綿 庄の長であった伴野家春(友野宗全)が住んでいたためつけられたと言われています。宗春は町職を勤め、駿府町割 の際には奉行を補佐し、駿府のまちづくりに活躍した人でもあります。また、呉服町には、その名のとおり、戦前ま では十数件の呉服店が通りに軒を連ねていたことが伝えられています。その後、戦前までは、この名は変わることなく○○されていました。戦後の区画整理に伴い、旧1、2、3丁目が現在の1丁目に、旧4、5、6丁目が現在の2丁目になって現在に至っています。また、呉服町は江戸時代の交通の大動脈『東海道』に面しており、多くの碑とが 行き交う『憩いの場』、『交流の場』でありました。東海道は、七間町を通り札の辻を見てから呉服町4丁目に入り 6丁目まで進んだ後、伝馬町方向へと曲がるコースがとられていましたが、最初は、七間町ではなく、本通りを通っ て呉服町1丁目へと入るコースがとられていたようです。その時代から、呉服町は東海道沿いの駿府の中心商店街 だったのです。その後、呉服町は、明治、大正時代を経て、昭和15年の静岡大火や、戦争による空襲という壊滅的 な被害を経験しながら、江戸時代から続く老舗商店やその時代時代の新しい商店が互いに競争しつつ、常に商都静岡 市の顔となる商店街の歴史を刻み続けてきたのです。(案内板)


d0183387_17334171.jpg札の辻跡&七間町通り
札之辻町の町名は江戸時代、ここに高札場があったことに由来します。「元禄五年駿府町数井家人数覚帳」によると、札之辻町は11軒人数132人でした。
高札とは、幕府の法令を庶民に徹底させるため、各地域の要所に設置された掲示板です。札乃辻の高札場は現在の七間町通りと呉服通りが交差する駿府城寄りの道の中央に建てられていた。札乃辻界隈は当時から商家が軒を連ね多くの人々で賑わっていたようです。また、近世の東海道はこの四つ辻で直角に折れ、七間町と呉服町を結んでいました。昭和20年札之辻町は呉服町、両替町、七間町の一部となりましたが、「札之辻」の地名は今も市民に親しまれています。(案内板)


d0183387_17334849.jpgd0183387_17335253.jpg                                   
駿府銀座発祥の地          
慶長十七年(1612)駿府の銀座は江戸に移された今日の東京銀座のルーツは静岡にある。大御所四百年祭を記念し建立する。(寄贈 静岡ライオンズクラブ)


                                                                              十返舎一九生家跡伝承地 

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人宿町通り
かつては七間町通りにも接続する東海道で、縦七間通りと呼ばれた事もあり、東海道府中宿の主要路である。庶民の木貸宿の多い旅篭町として栄えたところである。なお、本陣をはじめ武士の泊まる所は紺屋町、伝馬町であったそうである。(案内板)





 
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梅屋町
町名の由来は旅篭「梅屋」からきており、人宿町と同様旅篭町であった。慶安4年倒幕を企む由比正雪ら一味はここ「梅屋」に立て籠もった。しかし計画は事前に幕府に知れ正雪は自害、クデターは失敗に終わった。世にいう慶安の変である。庶民の町に起きた歴史の舞台にのぼった出来事であった。




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一里塚跡/本町通り                田尻屋総本家/新町通り


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弥勒歩みの跡案内図
江戸時代の地誌「駿河志料」には、現在の弥勒町一帯は、古くは安倍川の河原で『正保年間に開かれ、江戸時代のはじめ慶長年間に、弥勒院という山伏が還俗(げんぞく)して安倍川の河原で餅を売るようになった。この餅を"安倍川餅"という。これが「弥勒町」の名の由来となった』と記されています。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」には、『ほどなく弥勒といへるにいたる ここは名におふ安べ川もちの名物にて 両側の茶屋いづれも奇麗に花やかなり』と著され"弥勒茶屋"と呼ばれた茶店の賑わい振りをうかがうことができます。 弥勒町は、駿府の城下町の西の見付けの前面に位置し、駿府96ヶ町に準じた扱いを受けていました。近世の安倍川は、歩行(かち)渡りの川として川越のための川会所が設けられていました。しかし、明治4年(1871年)の渡船と仮橋、明治7年の宮崎總五(そうご)の手になる安水(あんすい)橋の架橋からの安倍川の通行形態の移り変わりと共に、弥勒の町も大きく変化を遂げてきました。弥勒の町には、近世以降の歴史の中で、「由井正雪墓址碑」、昭和初めの小学4年生に教科書に載った「安倍川義夫の碑」、溺死や劔難者のための「慰霊碑」、幕末から明治にかけて広く社会に尽くした宮崎總五の篤行(とくこう)を称える「頌徳(しょうとく)の碑」と「安倍川架橋の碑」をはじめ、近世以降の弥勒を語る多くの歴史の跡が残されています。(静岡市) 


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d0183387_17342599.jpg府中宿西見附跡付近                弥勒川会所跡
江戸時代、東海道で架橋を禁じられていた川に安倍川や大井川などがある。東海道を往来する旅人は川越人夫に渡してもらわなければならなかった。川越人夫による渡しでは、小型川越えの興津川、中型川越えの安倍川、大型川越えの大井川などが、いずれも代表的な存在であった。この川越人夫が人や荷物を渡すのを監督する所が川会所であった。安倍川のも両岸に川会所があった。ここには、毎日川役人が勤務して川越人夫を指示したり、川越え賃銭の取扱いをするほか、町奉行所からも川場係の同心二人が毎日出張して警備監督に当っていた。この川会所は、間口六間、奥行四間半であり、五人位の裃を着た役人が詰めていたといわれている。ちなみに。安倍川の川越え賃は、脇下から乳通りまでは一人64文、へそ上は55文、へそまでは48文、へそ下は46文、股までは28文、股下は18文、ひざ下は16文であったといわれている。(静岡市)

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安倍川架橋の碑
この石碑は宮崎総五氏が社会事業のためと、明治7年に多額の私財を投じ建設した安倍川橋の架橋の顛末を後世の人に伝えるため、明治41年に建てられたものです。(静岡市)





d0183387_17343121.jpg由比正雪墓址碑
慶安4年(1651年)、3代将軍徳川家光の死の直後、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義など浪人を集めて幕府転覆(慶安の変)を目論んだ。しかし、仲間の密告により事前に発覚したため、首謀者である正雪は駿府の旅籠で捕り方に包囲され自刃しました。 首は安倍川河原に晒されましたが、縁者が密かに持ち出し、菩提樹院(静岡市葵区沓谷1344-4)に預けたと伝えられています。(静岡市)



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安倍川餅・石部屋

d0183387_17345232.jpg安倍川義夫の碑
この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。元文3年(1738年)初秋の頃、紀州の漁夫が仲間と貯めた金150両の大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。しかし、着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、その近くにいた人夫の一人(川原町彦右衛門の息子の喜兵衛)が財布を拾い旅人のあとを追い、宇津の谷峠で引き返してくる旅人に出会って財布を渡した。旅人は喜んで礼金を払おうとしたが、「拾ったものを落し主に返すのは当たり前の事だ」といって、喜兵衛はどうしても受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。そこで、町奉行が喜兵衛を呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、その金を旅人に返し、代わりに奉行所からほうびの金を喜兵衛に渡したのである。昭和4年(1929年)、和歌山県と静岡県の学童や有志の人々の募金によって、安倍川橋の近くのこの地に碑が建てられたのである。(碑文)難に臨まずんば忠臣の志を知らず。財(たから)に臨まずんば義士の心を知らず。(静岡市)


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安倍川はその昔静岡市付近が湿地帯であった時代には、藁科川流路を異にし現静岡市中心部を流れて海に注ぎ、藁科川は安倍川の現流路を流れ海に注いでいた。静岡市街地は安倍川の氾濫で流失された土砂によって形成されたもので、登呂遺跡は、この微高地上に発達したものです。室町時代には今川氏が平野の高い部分に城を築こうとして、幾条にも流れていた安倍川を西へ追いやり現在の流向となりました。<薩摩土手>17世紀はじめに徳川家康が駿府に移り住む際に洪水から駿府の町を守るため、薩摩藩に命じ堤防(薩摩土手)を築かせました。その長さは4,100mにも及んでいます。薩摩土手の一部は現在も残っています。(案内板 )

 
 

by Twalking | 2014-01-24 16:02 | 東海道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 いざ、西へ 19 静岡駅   

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JR東海道本線静岡駅


by Twalking | 2014-01-20 23:28 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 いざ、西へ 18 草薙駅   

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JR東海道本線・草薙駅


by Twalking | 2014-01-20 23:24 | ○station