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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(25)掛川宿~袋井宿~見附宿02 掛川宿   

日時 2014.5.27(火)~28(水)
天気 晴れ
東海道(25)掛川宿~袋井宿~見附宿(2)


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見付宿/見付大通り

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遠州鈴が森を富士見町へ            下ると見付宿の東木戸です


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中泉の丘をひと越え/中泉公民館前

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ジュビロ通りを右折して中泉へ          国道と合流してひたすら西へ/高砂香料前


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天竜川左岸、この先がゴールです

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国道から別れて森下へ              長森立場先を右折して池田の渡し跡へ


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資料フィル

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遠州鈴ヶ森刑場跡                 なみだ橋と呼ばれた三本松橋/富士見町

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愛宕山(この上に一里塚があります)   坂下の東木戸

見付宿と阿多古山一里塚
見付宿は江戸日本橋から数えて28番目、京都三条大橋から26番目を数えます。見付宿は中世に作られた狂言「磁石」に「見付は長い町」と紹介されています。江戸時代後期の資料によれば、東木戸から東坂町、馬場町、西坂町、横町と西木戸まで並び、ほぼ中央に南北両本陣や脇本陣が置かれました。西に天竜川を控え東海道各宿の中でも重要な宿の一つでした。この見付宿の入口に阿多古山一里塚があります。この塚は見付の町を見下ろす高台にあり、京へ向かう旅人はここから宿場を眺めてほっとしたことでしょう。一里塚は江戸時代初期に整備されました。阿多古山一里塚は江戸から62里目、京から64里目の位置にあります。一里塚が残っている場所は少なく、さらに阿多古山一里塚のように街道の両脇に塚が現存する例は極めて珍しく、昭和42年に磐田市の指定史跡になっています。(磐田市教育委員会)

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見付の文化財
見付の語源は“うみつけのち”が転訛した(なまった)ものとか、西から東へ向かう旅人が初めて富士を見た場所であるとか諸説ありますがはっきりしたことはわかりません。見付は平安時代に遠江国の国府が置かれ、その後遠江国の中心地としての役割を果たしました。江戸時代には東海道の宿場町として栄え、交通の要衝として多くの物資が集められた結果、多くの蔵が建てられました。寺院や神社が多く点在していることも特徴です。小路(しょうじ)に見られる名称からかつての面影をしのぶことができます。東西約1kmの宿場であった範囲には多くの文化財が点在しています。散策してみてはいかがでしょうか。(磐田市教育委員会)


d0183387_14511343.jpg矢奈比売天神社由緒(やなひめ)
延喜式内社・国史現在社として磐田の里々をはじめ、京の都にも名が知られ崇敬されていた。相殿の御祭神(菅原道真公)は一条天皇の正暦四年(1993)に筑前国大宰府天満宮より勧請される。慶長八年(1603)徳川家康より神領五十万石を寄進される。明治六年社格が県社に列せられる。延喜式内社とは、平安時代の延喜年間(十世紀前半)に著された延喜式神名帳に載せられている、古い格式のある神社。国史現在社とは、六国史(日本書紀・続日本紀・日本後記・続日本後記・文徳実録・三代実録)に記載のある神社。当社は続日本後記と文徳実録に記載されている。
御神徳 古より学業成就・安産・子育て・諸産業振興の神として「見付のお天神様」と崇敬され、天下の奇祭(裸祭り)人身御供伝説とともに世に知られている。(案内板)

d0183387_15341145.jpg見付天神裸祭(
国指定重要無形民族文化財)
矢奈比売天神社は、矢奈比売命・菅原道真を祭神とし、別名、見付天神とも言われています。矢奈比売命は六国史に「矢奈比売天神」と記載があり、また、菅原道真を祭神として祀ったのは正暦四年(993)八月十一日との記録があります。当神社に伝わる裸祭は旧暦八月十・十一日に行われていましたが、昭和三十六年(1961)からその直前の土・日曜日に行われるようになりました。この祭は当神社の御神霊が遠江国総社・淡海国玉神社へ渡御(とぎょ)する際に行われる祭で、渡御に先立ち裸の群衆が見付地区内を練り歩き、神社拝殿で乱舞することからこの名があります。大祭は一週間前の元宮天神社例祭(祭事始)から始まり、見付地区の清め(御斯葉おろし)、三日前の福田(ふくで)海岸における心身の清め(浜垢離)、前日の社殿・境内等の清め(御池の清祓)と続き、大祭では御神霊の渡御、翌日には御神霊の還御で一連の祭礼が終了します。この祭は、厳粛な物忌みと心身の清めにより、祭事を行うという、古代の祭儀の法を伝承しているものと推定されます。裸祭に参加する者は褌・草鞋・腰蓑を着けたいでたちをし、また、地区内の祭礼組織は古くからのしきたりが継承されています。(磐田市教育委員会文化財課)

猛犬悉平太郎伝説(しっぺいたろう)
その昔、毎年、家の棟に白羽の矢が立った家の娘は、8月10日の見付天神の祭りに人身御供(生きたまま神に供えること)として捧げられるしきたりがありました。村人たちは、祭りのたびに泣いて悲しみました。ある年、見付を訪れた旅の僧侶がこの話を聞き、このしきたりを無くせないものかと思案しました。そして、これが怪物の仕業であることを突き止め、怪物たちが「信濃の国の悉平太郎に知らせるな。」とささやくのを聞きました。そこで、悉平太郎が光前寺(長野県駒ヶ根市)で飼われている犬だということが分かり、この犬を借りてきました。次の年の8月、祭りの日に人身御供の身代わりに悉平太郎を柩に入れて、見付天神に供えました。そして、怪物が柩を開けた瞬間、悉平太郎は怪物に襲い掛かり、長い格闘の末、怪物を退治しました。その怪物は大きな年老いたヒヒでした。その後、人身御供のしきたりは無くなったということです。この闘いで傷ついた悉平太郎は、光前寺までたどり着き息絶えたとも、帰る途中で亡くなったとも言われます。磐田市と駒ケ根市は、この悉平太郎伝説が縁となり、友好都市となっています。駒ヶ根市では、悉平太郎は早太郎と呼ばれていて、光前寺には早太郎のお墓があります。(磐田市HP)


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見付宿案内板                   天神の木 東坂梅塚

d0183387_15463588.jpg見付端城と大見寺
見付の中央、大見寺から磐田北小学校にかけて中世の城館である見付端城がありました。大見寺に伝わる絵図には土塁と堀が描かれています。その土塁の一部は大見寺の西側に残っています。大見寺には徳川家光上洛のための休息場、お茶屋御殿が造られました。後陽成天皇の皇子である良純親王、グライダーに似た飛行機で世界で初めて空を飛んだ浮田幸吉の墓があります。(いわたふるさと散歩道)

d0183387_16053712.jpg遠州見付天神粟餅の由来
その昔(延慶年間)遠州見付宿には人身供養の悲しい習わしがありました。それを救った猛犬早太郎のお話は余りにも有名で今でも語り継がれております。その人身供養の長持ちには必ず粟餅を入れたといわれております。その後氏子の無病息災、五穀豊穣を祈り天神社大祭に粟餅は神前に献上されてきました。供物を頂くことにより悪霊におかされないと云う古くからの民間信仰の伝承に今日粟餅はお祭りに欠かせないものとなりました。江戸時代の終わり頃、天神社大祭の時神供の新粟で作られたものを土産として売り出したのが商品の初めと云われております。(磐田菓子粟餅組合)

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問屋場跡                      脇本陣跡

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旧見付学校
「旧見付学校」は、学制発布後まもない明治八年((1875)に落成した現存する日本最古の洋風木造小学校校舎です。当時は四階建てでしたが、明治十六年に増築されて今の五階建てとなりました。記録によると明治十四年の見付学校の生徒数は、男300名・女182名の482名で、就学率(学校に行った人の割合)は66%でした。この建物は大正十一年まで小学校として、その後は中学校、裁縫女学校、教員養成所、病院等として使用されました。現在は学校関係の資料等が展示されています。昭和四十四年、国指定史跡となっています。(磐田市教育委員会)


d0183387_16384228.jpg淡海国玉神社(おうみくにたまじんじゃ)
創立年は不詳であるが平安時代に書かれた「延喜式」にはその名が見られる。遠江国の総社である。社殿ば本殿・幣殿・拝殿からなる。幣殿・拝殿は宮大工立川昌敬によって再建され、特に拝殿向背の子持ち龍並びに見返り獅子・欄間の干支の彫刻にその手法が顕著に表されている。本殿は木鼻・虹梁などの装飾が豊であり和様・禅宗様折衷様式の造りである。本殿:三間社流造 (間口5m・奥行5.14m)明暦年間再建  幣殿:三棟入母屋造(問口4.54m・奥行4054m)文久年間再建  拝殿:三棟入母屋造向拝付(間口10m・奥行6.36m)文久年間再建  例祭日は7月13・14・15日の前の(金)・(土)・(日)。(磐田市教育委員会文化財課)


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旧見付宿脇本陣大三河屋門           西坂の梅塚
西坂の梅塚
見付の東坂町、西坂町にそれぞれ1本の梅の木があり、通称東坂の梅の木・西坂の梅の木という。これを梅塚という。この梅塚は昔、陰暦8月初め一筋の白羽の矢が町家の棟高く突き刺され、この家を年番と申し娘を怪物の犠牲に備えた家の前にそのしるしとして植えたものだと云い伝えている。そして西坂畝塚は最後のものであったという。矢奈比売(やなひめ)神社例大祭の神事「御斯葉下し」(みしばおろし)には町内13箇所に榊立を行い、洗米を献じ神官が祝詞を奏上するが、東坂・西坂もこの13箇所内にあり同じように神事をおこなっている。(案内板)     

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姫街道入口                        西木戸(モニュメント)/加茂川
姫街道(池田近道)
見付宿から西に向かう小道があります。この道は天竜川の池田の渡しで東海道と呼ばれていました。また、この道が浜名湖を迂回する本坂街道(姫街道)に通じることから、いつのころか姫街道と呼ばれるようになりました。江戸時代には多くの旅人がこの近道を利用しました。(いわたふるさと散歩道)

d0183387_19194259.jpg西光寺の表門
加茂川をわたりまず目を引くのがこの表門です。これは徳川家康公が別荘として中泉村(現在駅南側 御殿・二之宮周辺)に築かせた中泉御殿(後に中泉代官所)の表門を移築したものと伝えられています。薬医門(桃山時代に始まったもともとは城門の一種)造りで、素朴な建築美をたたえ市内に残る代表的な江戸時代の門として市の文化財に指定されました。(東福山西光寺)

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遠江国分寺跡
磐田市内には、古代の寺院や役所の遺跡が分布しています。特に奈良時代には大之浦に臨む台地上に、遠江国府や遠江国分寺、遠江国分尼寺、大宝院廃寺などが建てられました。国分寺は国府の北方に建立され、その東側には府八幡宮、さらにその東には天御子神社が、国分寺の北方には国分尼寺が造られました。天平13年(741年)、諸国に国分寺と国分尼寺を建立するよう詔が出され、遠江国分寺の建立が始まりました。国分寺は金堂を中心に七重塔・講堂・中門・回廊などの伽藍が配置されていました。伽藍は築地塀などによって区画されていたようです。 遠江国分寺は昭和26年に発掘調査がされ、七重塔跡をはじめ主要な伽藍が発見されました。 昭和27年に国の特別史跡に指定されています。遠江国分寺は金堂を中心に、北側に講堂が、南側に中門が配置され、金堂と中門には回廊が巡っていました。 伽藍の範囲は東西180m、南北250mにも及び、その周囲にも関連した施設が点在して いたものと考えられます。七重塔の跡には礎石が残っています。 国分寺の建立や維持には、莫大な労力と経費を必要としました。 中世になると国分寺は衰退し廃寺となりますが、国分寺の一隅に堂が建てられました。(磐田市HP)

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府八幡宮
府八幡宮は、天平年間(729~748年)に遠江国司であった桜井王が、 国府の守護として勧請(かんじょう)したと伝えられています。境内の建物の多くが、江戸時代に建造されたものです。 寛永12年(1635年)に建立された楼門(ろうもん)は静岡県の文化財に、中門・本殿・拝殿および 幣殿は市の文化財に指定されています。また、明治元年(1868年)に廃止された神宮寺の築地塀も一部残っています。 社宝として瑞花鳳鸞八稜鏡(ずいかほうらんはちりょうきょう)や、平安時代の作である僧形八幡像(そうぎょうはちまんぞう)、女神像(にょしんぞう)があります。(磐田市HP)

d0183387_21264410.jpg善導寺大クス
磐田駅前に生えるクスは、目通り周囲約9m、樹高約28mを測る大樹です。この場所にはかつて善導寺があり、墓所の目印として植えられたものだと伝えられています。 中泉駅開設以来、駅前の賑わいを見守りつづけてきた木です。昭和34年に県の天然記念物に指定されています。(磐田市HP)


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江戸時代に中泉地図


d0183387_22064523.jpg大乗院坂界隈
旧東海道のこの坂「大乗院坂」という。この坂の途中に山伏の寺「大乗院」があった。そこに祀られていた地蔵菩薩、阿弥陀如来像とも現存する。大乗院の台地一帯は「御林」と呼ばれ明治22年に開通した中泉駅のホームは、この地(現千寿酒造)に設置された工場で作られた赤煉瓦をもって築造された。磐田の「煉瓦発祥の地」である。この北側の道(細江線)は開通した中泉駅から豊田町池田まで「中泉軌道」跡である。
くろん坊様
黒坊大権現は旧東海道筋で現在地の西約100m(現磐田化学正門)の田んぼの中にあった祠を移設したもので、咳や熱病の神様とされています。インド人の旅僧が手にかけられて金品を奪われてしまったので、土地の人々が手厚く葬ったとされています。毎年11月3日が縁日とされています。(大松の会)

d0183387_22423387.jpg宮之一色一里塚 
東海道の起点である江戸日本橋から数えて63番目の一里塚です。現在の一里塚は昭和46年に復元されたものです。(案内板)

d0183387_22423582.jpg宮之一色秋葉常夜燈
この常夜燈は平成8年部分改修しました。その棟札から文化11年(1828)に建てられたものとわかりました。竜の彫り物があるので「竜燈」とも呼ばれ数ある燈の中でも大変貴重なものです。(案内板)


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若宮八幡宮                      長森立場

長森立場
江戸時代、宿場と宿場をつなぐ街道筋の主な村(間村)には、立場という旅人や人足、駕籠かき、伝馬などの休憩所が設けられていました。明治時代以後は人力車や馬車などの発着所、またその乗客・従業員の休憩所となりました。 ここから数十メートル東へいった所に、立野村字長森の立場があったと伝えられています。立場は、掛茶屋、立場茶屋などと呼ばれる茶屋を兼ね、旅人たちは、お茶を飲んだり、名物の餅などを食べて休憩しました。また、馬もここで湯や麦などを補給しました。
長森かうやく
「長森かうやく」は、江戸時代の前期万治年間(1658~1660)から、山田与左衛門家で作り始められた家伝薬で、冬期にできる「あかぎれ」や切り傷などに抜群の効能があるとして、近隣の村人は元より、参勤交替の大名行列の一行や東海道を上下する旅人たちの土産品として大変な人気を博しました。 山田家には今でも江戸時代に作られた桜の木の一枚板の大看板があります。この看板は高さ1.4m、幅73cm、厚さ3.5cmという立派なもので、これには「御免 御むそう 長もり かうやく 本家 山田与左衛門」と刻まれており、中央の上には十六弁の菊の紋章も刻まれています。 こうやくの製法は、当時の主人山田与左衛門が夢枕にたった神様のお告げによって始めたと伝えられ、当主が代々受け継いできましたが、現在は作られていません。製法は極秘中の極秘とされ、たとえ妻であっても明らかにされることは許されませんでした。 昔の歌に 「諸人のよき評判や長森の 諸病に菊の五もんかうやく」と詠まれています。(磐田市教育委員会)


d0183387_23264769.jpg行興寺
当寺は、今より八百年の昔、延久元年の創建にて、謡曲で有名な、熊野(ゆや)御前の旧跡であります。 当寺には、熊野御前の守本尊厄除十一面観世音(恵心僧都御作)、熊野御前とその母、侍女朝顔の墓墳がそのまま昔を物語っております。 毎年四月二十九日より五月五日まで熊野御前の例祭をとり行います。 境内には、その昔、熊野御前が堂側に植えて愛育された藤であると称される紫房五尺以上に垂るる五百坪に余る藤があり、昭和七年文化庁より「熊野の長藤」として天然記念物に指定されました。 見頃は、年により相違があるが平年四月下旬から5月上旬であります。 謡曲「熊野」奉納の方には、寺則により謡曲奉納の証印を押印いたします。(案内板)

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熊野(ゆや)の長フジ
毎年4月下旬から5月上旬に、池田の行興寺では花の房の長さが1m以上にもなる熊野の長フジが見事に咲き誇ります。熊野の長フジとは、平安時代末期に池田宿に生まれ育ち、当時の権力者平宗盛(たいらのむねもり)に仕え、寵愛を受けた熊野御前にゆかりのフジのことです。行興寺内の長フジのうち1本は国・5本が県指定の天然記念物に指定されています。(磐田市HP)


d0183387_20574064.jpg謡曲「熊野」と行興寺
遠江国池田の宿の長 熊野は平宗盛(清盛の三男)の寵愛を受け京都清水の桜見物に出掛けます。熊野は病母から届いた手紙で見舞いに赴きたいと思い、宗盛に暇を乞いましたが聞き入れられず、やむなく宗盛に同行しました。花の下の祝宴が始まり舞を舞った熊野は、にわかの村雨に散る花に寄せて故郷の病母を気づかい いかにせん 都の春も惜しけれど 馴れし東の花や散るらん と和歌を詠んだのを見て、宗盛も哀れに思い暇を与えたのです。熊野はこれも清水観音のご利益と喜んで故郷へ帰って行きました。熊野は藤の花をこよなく愛し、行興寺本堂側に熊野が植えたと伝えられる老木があり「熊野の長フジ」と称されている。(謡曲史跡保存会)


d0183387_00143589.jpg天竜川の渡船場は、池田村と対岸の中野町村にありましたが、江戸時代の初めの渡船場は少し下流の方でした。それを上流に移転したために、見付宿方面と結ぶには東海道とは別に、いわゆる「池田近道」ができました。池田の渡船場は上・中・下の三ヶ所があり、通常は最も下流に設けられた「下の乗船場」利用しました。増水して流れが速くなると「中の乗船場」を利用し、さらに急流になると「上の乗船場」へ移して天竜川を斜めに横断しました。「下の乗船場」には、正徳元年(1711)5月に建てられた渡船高札がありました。渡船場には川会所が付設されていましたが、乗船場が移動するとその川会所も一緒に移しました。(案内板)

                  

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東海道五十三次 見付・天竜川図

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磐田市の地形
天竜川扇状地の低地、太田川の三角州性低地・磐田原台地・海岸砂堆地からなる。台地面には浅い広い谷が発達し東部の鶴ヶ池、樋ヶ谷沼は閉塞による湖である。今之浦低地は市街地化したが、大沼とともに潟湖の残象で三角州性の低地である。(静岡県)

磐田原
いわたがはら、いわたばらともよみ、磐田原台地ともいう。静岡県西部、磐田市北部の台地。天竜川と太田川にはさまれる洪積台地で、東海地方に典型的な隆起扇状地である。北部の磐田郡豊岡村神増(かんぞ)原(標高130m)から南に傾斜し、磐田市街地南部で今之浦や大池低湿地の下にもぐる。天竜川西岸の三方原とほぼ同時代に形成されたひとつづきの台地であったが、天竜川によって切断されたと考えられる。表面こう配は西岸の三方原に比べて急であり、表面の浸食も西岸に比べて進んでいる。(世界大百科事典)


by Twalking | 2014-05-31 22:26 | 東海道(完)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 風に吹かれて   

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風に吹かれて
多摩丘陵/多摩市

by Twalking | 2014-05-31 17:59 | ○雲

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(25)掛川宿~袋井宿~見附宿01 袋井宿   

日時 2014.5.27(火)~28(水)
天気 晴れ
東海道(25)掛川宿~袋井宿~見附宿(1)


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原川松並木/間の宿原川

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逆川はこの先で原野谷川に合流します    同心橋を渡ると名栗の立場です


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東海道どまん中茶屋/袋井宿

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どまん中東小学校                  袋井市総合センター


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夢舞台・木原松橋/袋井市木原

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国道分岐・木原入口                国道合流して掛川へ


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太田川を渡り三ヶ野台地へひと登り/掛川市三ヶ野

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磐田グランドホテルが目標です          初日のゴール・遠州鈴ヶ森です


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資料ファイル

d0183387_15530890.jpg旧東海道松並木岡津~原川
官道として東海道が開かれたのは1200年位前で、鎌倉幕府開設以後、京都・鎌倉間の交通頻繁化に伴い急速に発展し、国内第一の幹路となり駅なども整備されました。その後江戸時代には、街道の駅路を修理し両畔に松樹を植え一里塚を設け、東海道五十三次を定めました。このうち掛川には掛川宿と日坂宿の二宿があり、ともに明治維新まで栄えました。現在では国道1号線、東名高速道路、東海道本線、新幹線が通り東西交通の要路として重要な位置をしめしております。松並木は近年松食い虫の被害で枯れ、岡津・原川間に僅かに残っているだけです。(案内板)

d0183387_15533032.jpg間の宿原川 /金西寺
宿と宿の間の街道に沿った小集落を間の宿と呼びます。間の宿では、旅人の休息の場を提供することはできますが、旅籠すなわち宿泊業を営むことは許可されていませんでした。
原川は掛川宿まで一里十八町(約6Km)、袋井宿まで三十三町(約3.6Km)の位置にあり、戸数は、文化・文政年間に編纂された「掛川誌稿」には四十六軒という記録があります。原川には、原川薬師と呼ばれていた金西寺阿弥陀仏、その薬師に供える薬師餅を売る茶店、酒屋などが軒を連ね、街道を行き交う旅人で賑わいました。(案内板)


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名栗花茣蓙公園                     従是西東海道御本可睡三尺坊大権現
名栗の立場 
東海道中膝栗毛の一節に次のようにあります。「はやくもなくりのたてばにつく こヽは花ござをおりてあきなふ道ばたにひらくさくらの 枝ならでみなめいめいにおれる花ござ」 江戸時代には、旅人が休息する場所(立場)として知られ特に花茣蓙は有名でした。北西一帯に広がる坂尻遺跡には、奈良時代郡家(ぐうけ)(郡役所)や駅家(うまや)が置かれていたらしく、古くから東西交通の要衝の地であったことがわかります。(案内板)

d0183387_16105189.jpg名栗の花茣蓙 
文化・文政の頃、十返舎一九の「道中膝栗毛」の一節に「掛川城下を西へ一里十丁 原川薬師に参詣し、軒を連ねた通りをすぎ、瀬川を渡れば早名栗、松並木を西に見て立場茶屋に着く。名代の甘酒に舌鼓、ここは布井の宿までの間の宿、旅籠屋のあり、名物の花ござを売る店が軒を連ね、上り下りの旅人が珍しいと買って行く。」 
旅人の 見えかくれする 並木道 瀬川のほとり 花ござの里

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東海道松並木 
江戸時代の東海道沿線の村々を記録した「東海道宿村大概帳」には「(掛川)宿より袋井宿迄之間往還通並木」と記され、街道の両側には旅人を強い日差しから守っていた松並木が、名栗から久津部の間に残されています。
東海道の松並木は、慶長九年(1604)に徳川秀忠が「街道の左右に松を植しめらる」と「徳川実紀」は記しています。その後、幕府は並木の維持管理に関する法令をたびたび出しています。明治維新以後は道路拡幅工事などによってその数を減らしてしまいました。(案内板)

d0183387_16430861.jpg浅間神社赤鳥居
赤鳥居と呼ばれ親しまれているこの鳥居は、東海道分間延絵図にもその姿が描かれ、重要文化財で木花開耶姫命を祀る富士浅間宮本殿までの参道の入口に建っています。現在は鳥居と社殿の間に国道1号や東名高速道路が通り、周辺には多くの工場が立ち並んでいるために、鳥居だけが取り残されたように見えますが、江戸時代には東海道から木々の間に社殿を見渡すことが出来たようです。


d0183387_16520113.jpg貫名山妙日寺
妙日寺は、正慶元年(1332)身延山久遠寺の日善によって開かれた日蓮宗の古刹です。日蓮宗を開いた日蓮の父の法名を寺名とし、境内は一族である貫名氏代々の邸宅跡と伝えられています。正面本堂には一塔両尊四士をご本尊として祀り、本堂東側の思親殿には日蓮聖人と、その両親の木像が安置されています。日蓮の父貫名重忠は、源平の合戦において平氏に味方したため鎌倉幕府から安房句に小湊へ流され、その地で貞応元年(1222)に日蓮が生まれ、父重忠は正嘉二年(1258)にそのまま生涯を閉じました。日蓮の両親を顕彰する為の「妙日尊儀、妙蓮尊儀供養塔」(市指定文化財)は、形をよく残した五輪塔です。この塔の南側には、貫名氏の歴代の墓所と伝えられていた石野の正覚寺(現在廃寺)から明治時代になって、村人の手によって初代政直、二代行直、三代重実の供養塔も移されました。境内には、遠州七不思議のひとつ『方葉の葦』が東国に旅だった重忠を惜しむように東側に葉を付け茂っています。(案内板)

d0183387_16520403.jpg妙日尊儀・妙蓮尊儀供養塔
伝承によると日蓮宗の開祖日蓮上人の両親の供養塔で、正保3年(1646)に柳生但馬守宗矩(むねのり・大和柳生藩主)が寄進した五輪塔です。日蓮上人の父は貫名重忠(ぬきなしげただ・戒名妙日尊儀)といい、源平の争乱において平家に組していたと伝えられています。平家滅亡後に所領を追われ安房国(千葉県)に移り、日蓮上人はそこで生まれました。供養塔の建つ妙日寺は袋井市内では数少ない日蓮宗の古刹で、歴代の貫名氏の館跡に正慶元年(1332)に久遠寺の日善上人が開きました。重忠夫婦の供養塔の隣には初代貫名正直、二代行直、三代重実(しげよし)の宝篋塔が祀られています。(袋井市教育委員会)

d0183387_17425032.jpg久津部一里塚跡碑/袋井東小学校創立百年記念
徳川幕府は慶長九年二月(昭和四十七年より三百六十八年前)東海・東山・北陸三道に一里塚を築かしめて旅人の便をはかった。その当時本村久津部の地は江戸日本橋より六十里の地点であったから道をはさんで両側に高く土を盛り松を植えて一里塚を築いた。その北側のものは袋井東小学校前の石川金平氏宅で国道より三間ばかり北へ入ったところであった。南側にあったものは現在地である。明治十年に伐るまでは老松がそびえていて旅人のよい目じるしになっていたとのことであるが袋井東小学校創立百年を記念に復元をした次第である。(案内板)

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油山道標(大正4年久津部青年会建立)     秋葉山常夜灯(昭和28年建立)

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用行義塾跡
用行義塾は、 「学制」が発布される一年前、明治五年(1872)に民間の有志が共同出資して設立した、袋井で最初の近代教育を行う郷学校と言われた学校です。袋井東小学校に残る用行義塾版木に刻まれた設立趣意書には、福沢諭吉の「学問ノススメ」に強く影響され、広く世界に目を見開き、教育の重要性を認識していたことが記されてい ます。(袋井市教育委員会)

d0183387_18053001.jpg七ツ森神社
七ツ森神社七ツ森は 田圃(たんぼ)の真中に残る七つの塚として、尾張藩(愛知県)藩主高力猿猴庵が天明六年(1786)に、東海道を自ら旅して記した「東街便覧図略」に描かれてい ます。その中で一番大きな塚の上に描かれているのが現在の七ツ森神社です。この七つの塚(森)には悲しい伝説が伝わっています。伝説では桓武天皇の頃、日坂宿に出没していた怪鳥を退治するために朝廷から派遣された七人の武士は、退治出来ずに返り討ちにあい命を落としてしま いました。哀れんだ村人が墓を造り彼らを葬りました。その墓が七つ森だと伝えられています。 神社には古墳時代にこの地方を治めていたと考えられる久努国造が祭神として祀られ、周辺には久努、久野、久能そして国本などの地名が見られます。久努国造の名を記した扁額が納められていたり、七つの森(塚)は古墳とも考えられることなどからも、この場所は久努国造にゆかりの深い場所であったと考えられます。

d0183387_18130702.jpg新屋秋葉山常夜灯
火伏の神である秋葉山三尺坊大権現に対する庶民の信仰は、江戸時代に盛んになりなした。秋葉山詣のために上方や関東、東海では秋葉講が組織され、秋葉山へ参詣する人々が多くな りました。袋井市域でも秋葉信仰がさかんとなり、各地区に常夜灯が建てられました。常夜灯は秋葉山に参詣するための秋葉道や東海道沿いにあるものばかりでなく、その地区の人々が火伏の神への信仰から建てられたものもあ りました。市内には石で作られた灯籠形と、木造の屋形の常夜灯が合計で十四基現存しています。新屋の常夜灯は木造屋形で、作者は不明ながら見事な彫物がみられ、保存状況の たいへん良い常夜灯です。かつては、東海道を行き来する旅人のよい目印となったことでしょう。(袋井市教育委員会)

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d0183387_18245429.jpg袋井宿と天橋
袋井宿は元和2年(1616)に設置されました。いわゆる「東海道五十三次」でいえば品川宿から数えて27番目の宿駅にあたります。天橋(阿麻橋)は袋井宿の入口にかかっていた土橋で、有名な広重の版画「出茶屋ノ図」にその姿が描かれています。天保14年(1843)の調査によれば、宿内の町並みは西境の中川まで五町十五間、人口843人、家数は本陣3軒、旅籠屋の50軒を含め195軒でした。(案内板)



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東海道五十三次 袋井・出茶屋ノ図

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東海道400年祭を記念して袋井市が作成した巻物風の今昔マップ、第3回「街歩きマップコンテスト」で日本経済新聞社賞を受賞しマップです。

d0183387_19145474.jpg袋井宿東本陣跡/東本陣公園
袋井宿には三軒の本陣が置かれていました。その場所から東・中・西本陣と呼ばれていました。三軒の本陣は東海道往還通りに面して北側に建てられていました。三本陣の内東本陣は「壱番御本陣」とも呼ばれ、代々八左衛門と名乗っていた田代家が営んでいました。田代家は本陣のの運営とともに宿役人として書状、荷物の継立を行った問屋場の最高責任者である問屋をも勤めています。本陣の構造上の特色は門構えと玄関にあり、また内部に「上段の間」が設けられていたことです。東本陣の場合、敷地全体の坪数が1068坪、塀を除いた建坪288坪、間口13間半、奥行き31間もあり。どの規模の大きさがうかがえしれます。(袋井市教育委員会)


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歴史の道 東海道-袋井宿/本陣宿場公園

袋井の宿が初めて歴史資料にあらわれるのは、約700年前につくられた「遺塵和歌集」の次の一節です。
「…なくふくろふの もろこゑは かけてもきかし かけ河の…」これは京都から鎌倉までの宿や名所を詠みこんだもので、おそらく「ふくろい」を梟にひっかけて表現したのでしょう。池田宿(豊田町)と掛川宿の間に記されていることから、袋井は鎌倉時代の後半には、ある程度宿としての設備を整えていたものと思われます。鎌倉・室町・安土桃山時代を通じて、東海道は国内最大の幹線でした。武士や貴族・僧侶の他、多くの人々が往来し、特に戦国大名達にとって、交通路と宿駅の整備は最も重要な課題の一つでした。徳川家康は江戸に幕府を開く二年も前、慶長六年(1601)に、いわゆる「東海道五十三次」のほとんどの宿駅を設置しています。袋井宿は比較的距離のある掛川宿と見付宿の中間の宿駅として、元和二年(1616)に開かれました。「五十三次」でいえば、品川宿(東京)から数えて二十七番目、ちょうど東海道の真ん中に位置しています。

観福寺・へそ寺
東海道どまん中へそ寺由緒(キーワードは絆)と縁起
 當山は山号を袋井山、字号を観福寺と云います。延暦十二年(793)桓武天皇代、天台法華宗寺院として、この地に建立され袋井地名の発祥のお寺です。本尊は聖観世音菩薩で遠州三観音に数えられていました。脇本尊は建久元年(1190)十月源頼朝上洛の無事を祈り、御母御前の持佛を奉安された延命地蔵菩薩です。現在の東海道、袋井宿の基となった鎌倉街道六十二宿「袋井駅次」が設けられた「此地に井有仁(いありてなさけに)に焉(あつし)」と人の情と母と子の縁、絆でもあり観音様のお膝元でもありました。天正十五年徳川家の存亡にかかわる大難を救った旗本、坂部正定がこの寺で亡くなり、天正十七年(1589)可睡斎の称号を戴いた仙麟等膳和尚を迎え、正定の供養と、曹洞宗観福寺初代住職として葵の紋を拝領し東海道を往来する公家、大小名の参詣を受けました。江戸から数えて二十七番目、東海道どまん中のお寺です。境内には、元和二年(1616)近郷に悪戯する白狐を懲らしめ、戒心、服従せしめた豊川稲荷の御姉上茶吉尼神天様が祀られ、以来、この白狐が茶吉尼神天様を背に乗せ信仰、信心の厚い家々を巡り家内安全、商売繁盛、五穀豊穣の願いを能く叶えると伝えられています。延享四年(1747)人形浄瑠璃、歌舞伎三大傑作の一つに「義経千本桜」が有り袋井宿歌舞伎、浮世絵に狐、忠信」が描かれています。義経、吉野落ちの折り「初音の鼓」を抱いて義経を追う静とその鼓の皮を母親と慕う子キツネの化身「忠信」との道行の物語り、子キツネにまでもやさしい観音様茶吉尼神天様、縁と絆、母と子のお寺の縁起です。(袋井市教育委員会)

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問屋場跡                       中本陣跡

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西本陣跡                       高札場跡

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d0183387_20143905.jpg旧澤野医院 
旧澤野医院は、澤野家が江戸時代末期から昭和初期までに建築し、使用してきた建物群です。病棟、住居、渡り廊下、洋館の4棟は地域医療を担ってきた建物であり、貴重な文化遺産として平成11年4月23日に袋井市指定文化財に指定されました。澤野家は享保12年(1727)に作られた「山名郡川井村差出明細帳」に内科医としてその名が記され、すでに地域医療を担っていたと考えられます。旧澤野医院は、旧東海道に面する敷地幅(間口)10.5間を有し、間口幅としては大きな部類に属します。奥行きも29間あり、さらに西側に12.5間、9間の矩形敷地が設けられていたと考えられます。この敷地内に、街道に接して病棟(洋風二階建て)が建ち、これに接続して居宅(和風建築平屋)、さらに東側に突出した生活空間の建物(炊事場、風呂場など)、西側には渡り廊下によって繋がれている洋館が建てられています。各建物の特徴は居宅が純和風に対して、病棟と渡り廊下、洋館は洋風となっています。澤野医院の最盛期にはさらに多くの建物があったと考えられます。また、内庭及び南面の築庭についても同時期のもので、その後者若干の変更が見られます。各建物の建築時期は明らかではありませんが、構造、形式から見ると、居宅は幕末から明治期、洋館と病棟については昭和初期の建築と考えられます。これらの建物と敷地は旧東海道に面する医療建築として、その類例が少なく、近代の医療行政や制度、医業の流を知る上では貴重な存在と言っても過言ではありません。(袋井市教育委員会)

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木原一里塚(左が元位置 右が復元したもの)
木原一里塚は、江戸から数えて六一里目の一里塚です。『東海道宿村大概帳』(逓信総合博物館蔵)には「(袋井)宿より見附迄之間壱里塚壱ヶ所。壱ヶ所、木立松。但、左右之塚共木原村地内」と記され、『東海道分間延絵図』(東京国立博物館蔵)や『東海道分間絵図』(東京国立博物館蔵)などには、塚の上に松や榎が描かれています。本来の一里塚はこの場所から約60m東にありましたが、現存していません。一里塚とは、一里(約4km)ごとに街道両側の土を盛り上げ、目印にした塚のことです。中国で榎と銅表を立てて里数を記した堠塊や奈良時代の国界の標識などが、その起源と考えられます。古くから里程については一里が六町や三九町、四八町、五〇町、六〇町などとさまざまでしたが、『本朝世事談碁綺』に天正年間(1573~92)織田信長が三六町ごとに一里塚を築き、榎をその塚の上に植えたと記しています。信長の跡を継いだ豊臣秀吉も、新たに定めた度量衡制の全国的普及をも意図して、三六町を一里として、五間四方の一里塚を築造しています。それを受け継ぎ主要な街道すべてに一里塚を整備したのは徳川家康です。慶長九年(1604)家康は秀忠に命じ、江戸日本橋を起点として東海道、中山道に榎を植えた一里塚を築かせ、全国に普及しました。榎を一里塚に採用したのは、榎の根が深く広がって塚を固め、塚を崩れにくくするためでしたが、この採用にあたっても家康伝説が伝わっています。また榎の代わりに松などを植えていた地方も見られます。東海道の一里塚の築造に際しては、大久保長安を総督として永井白元と本多光重が奉行となり、江戸町年寄の樽屋藤左衛門や奈良屋市右衛門らが請け負いました。(袋井市教育委員会)

d0183387_21400391.jpg許禰神社(木原権現社) 遠江では平治元年(1159)以後、しばしば熊野新宮を造営する費用をまかなうための国に指定されたので、多数の熊野神社が建てられました。袋井市域でも、土橋で熊野権現社、松袋井で熊野十二社神社が現在でも祭られていることから、古代末期より和歌山県の熊野山とはたいへん深い関係があったことが分かっています。
木原の許禰神社は、かつては木原権現社と呼ばれ、古代末期に創建されたと考えられています。許禰神社は、古代の神社名帳(式内社)のなかに見られる神社で、一説には古代の許禰神社が木原権現社になったともいわれています。木原権現社の神代を代々つとめた木原家には、『木原権現由来記』という全長17mもある巻物が残されています。由来記には、ある日、木原の子供に熊野の神がのり移り、この地に熊野の神を祭れば、洪水を防ぎ、穀物の実りを豊かにするお告げがありました。天災に苦しんでいた村人は、早速に熊野の神を祭った。これが木原権現社の由来だと記されています。当時の民衆が神様に対して切なる願いを記録した貴重な資料となっています。

d0183387_21411158.jpg古戦場 木原畷
元亀三年(1572)、兵三万五千を率いて甲府を出発した武田信玄は犬居城、飯田城を落として久野城へ向かった。しかし久野宗能(むねよし)の激しい抵抗にあったため東海道を西に向かい、ここ木原・西島に陣をはった。これを知った徳川家康の兵とこの付近でこぜり合いを繰り返した信玄はやがて二股城を攻略し、東三河へ向かうべく三方ヶ原を通過しようとした。これに対して家康は兵一万で迎え撃ったが信玄の大軍の前に一蹴され浜松城へ逃げ帰った。これが世にいう三方ヶ原の合戦で、木原での戦いはこの前哨戦ともいうべきものであった。

d0183387_21480786.jpg古戦場 木原畷
元亀三年(1572)、鷲巣の久能城を攻めた武田信玄は、ここ木原に陣をはり、浜松城を守る徳川家康の偵察隊と衝突しました。この戦いが世にいう木原畷の戦いです。六年たった天正六年八月、高天神城(大東町)から徳川軍の様子を探りにきた武田の家臣笹田源吾はこの地で村人たちに討ち取られてしまいました。木原念仏(市指定無形民族文化財)は笹田源吾を供養するため始まったと伝えられています。(袋井市教育委員会)

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d0183387_22011769.jpg旧東海道松並木
 
東海道は、奈良時代から平城宮と地方を結ぶ交通路として主要な役割を果たしていた。特に鎌倉時代以降になって整備されてきたが、江戸時代に幕府は、江戸を中心とした五街道を制度化し、道中奉行をおき宿駅を設置し、道路の改修・並木の植樹・一里塚の築造などの整備をした。特に、東海道には力を入れた。
東海道は、それぞれの時代によってうつり変っているが、見付宿の東はずれから三ヶ野地区までは、この道路が江戸時代の東海道々筋であった。松並木は、後世補植されて、現在に続いている。(磐田市教育委員会文化財課)

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三ヶ野坂の七つ道(江戸の道)
南北朝時代に宗良親王がその心境を三ヶ野橋に託して、ここを通ったときの歌が残されているように、この辺りは歴史や地形上からも東西交通の要衝であった。また武田軍の遠州侵攻のときは古戦場となった。旧東海道の松並木・車井戸跡・鎌田薬師道道標・立場茶屋跡等を見て隣接の桶ヶ谷沼・鶴ヶ池を廻る家族向けのハイキングコースとして好評を博している。東から三ヶ野橋を西進すると、標高38mある大日山の急斜面を、這うように江戸時代の旧東海道と交差する。そこを200m西進して、北向きに明治27年築造のなだらかな坂道を降りる。ここは大正6年築造の道路と交差していて、その横は昭和30年築造の国道一号線となる。交通量の増加で磐田バイパスが計画されて、立体交差の跨道橋が平成2年に完成した。国道の地下道を抜けると、北側は桶ヶ谷沼に続く。ここから見付に抜ける間道は俗に言う質屋通いの隠れ道であった。時代別に順次作られた七つ道が、1ヵ所にまとまって見られるのは珍しい。(案内板)


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古戦場 大日堂
戦国時代の始めごろは、遠江地方は駿河の今川氏の支配下におさめられていたが、今川氏滅亡後は今川氏に代って家康によって治められた。 ところが、元亀三年(1572年)上洛を目指す甲斐の武田信玄が遠江へ進出し、木原に陣を布いた。 これを迎え撃つため徳川勢は浜松城を出て、三ヶ野・見付宿・一言坂と戦った。 この大日堂の高台には、本田平八郎物見の松と伝えられる大松が存在していた。 この丘陵に立てば、太田川から遠く袋井まで一望でき、本多平八郎の物見もさぞやとうなずける戦国ロマンがただよう。(案内板)

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掛川市の地形
北部は原野谷川や倉真川流域の山地、溜池の多い掛川丘陵地からなり水系密度が高い。低地は原野谷川や逆川にそって発達する。南部の小笠山丘陵には崩壊地、河谷の土石流堆積物も多く、山麓には扇状地が発達し、河川は天井川状に流出する。(静岡県)

袋井市の地形
低地は太田川・宇刈川・原野谷川・弁財天川ぞいに発達し、三角州性低地・谷底低地・後背湿地と地域差は大きい。磐田原台地や袋井台地と周辺丘陵、宇刈・可睡丘陵および小笠山丘陵と分散して分布する。小笠沢川は扇状地性堆積物で埋積されている。(静岡県)

by Twalking | 2014-05-30 21:47 | 東海道(完)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 掛川の空   

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愛野駅/東海道・下見

by Twalking | 2014-05-29 21:04 | ○雲

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ブラシの花   

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ブラシの花/袋井市久津部・東海道
2014.5.27


ブラシノキ
フトモモ科ブラシノキ属の常緑小高木。オーストリア原産で、観賞用に栽培される。5-6月頃に開花し花弁は緑で小さくて目立たないが、赤(ときに白)の長い花糸が目立つ。穂状花序をなし花序全体がブラシのように見える。花序の先から枝が伸びるという珍しい特徴を持つ。(Wikipedia)


by Twalking | 2014-05-29 19:52 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 番外 ぶらり遠州三山03 法多山   

日時 2014.5.28(水)
天気 晴れ

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仁王門


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本坊


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本堂

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参道


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資料ファイル

法多山尊永寺(はったさん そんえいじ)
静岡県袋井市にある高野山真言宗別格本山の寺院。寺号の「尊永寺」よりも山号の「法多山」の名で広く知られている。本尊は聖観音(正観世音菩薩、厄除観世音)。厄除け観音として知られ、厄除だんごが名物となっている。寺伝によれば、神亀2年(725)聖武天皇の命により「大悲観音応臨の聖地」を捜し求めた行基によって建立されたという。中世以降、守護大名今川氏の庇護を受けた。天正18年(1590)豊臣秀吉は当寺の寺領として205石を安堵。この205石は歴代徳川将軍によっても安堵され幕末まで維持された。最盛期には60余の子院を有し近世にも12の子院が残っていたが、これらは明治時代までにすべて廃絶している。江戸時代後期の火災で伽藍を焼失し、現在の本堂は1983年に再建されたものである。(Wikipedia)

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境内案内図


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仁王門
寛永17年(1640)建立。国指定重要文化財。江戸時代初期の建立でありながら桃山時代の遺風もよく残しており、播州二見(兵庫県)より移築されたとの伝もある。 垂木も太く、肘木や斗拱も大きくおおらかで、法多山の総門に相応しい雄大かつ豪壮な三間一戸の楼門である。(法多山HP)



d0183387_14055567.jpg黒門
宝永8年(1711)建立。市指定文化財。旧塔頭寺院正法院の山門で、全体が黒塗りであることから黒門と呼ばれる。 江戸時代中期の建築様式を伝える桧皮葺の四脚門である。柱の建ちも高く屋根勾配も強いため、簡素でありながら趣きあふれる優美な姿の門である。(法多山HP)



d0183387_14225304.jpg本堂
昭和58年落慶。自伝に残る間口10間、奥行15間の大伽藍を現代建築技法の粋を集めて、建立当時の姿に再建したもの。本尊に東海随一の厄除正観世音菩薩を安置する。長い石段の先に広がるパノラマに鳳が舞い降りたようなその姿は、まさしく法多山のシンボルといえるだろう。(法多山HP)



d0183387_14313223.jpg北谷寺
安政4年(1857)建立。遠江三十三観音第五番札所。旧本堂であった堂である。本尊、北谷観音のほか、十二支守本尊、西国三十三観音、出世大黒天、賓頭盧尊者などの諸尊をまつる。堂内には祈願のための扁額や千羽鶴などが奉納され、今も変わらぬ信仰の場であることを実感できる。(法多山HP)



d0183387_14313532.jpg大師堂
平成16年落慶。真言宗の宗祖、弘法大師をまつる。毎月21日の報恩日に開帳される弘法大師像は厄除け大師と呼ばれ、通常の弘法大師像には見られない峻厳さがみられる。また堂宇の主要部は法多山の杉材が用いられている。2月15~17日の星祭はこの大師堂で行われる。(法多山HP)



d0183387_14373895.jpg不動明王像
尊名を一意一願不動明王といい、心に願うただ一つの願い事を熟願すれば成就するといわれる。尊像の前には願い事を込めた絵馬が多数奉納されている。 また毎年4月28日の大祭には柴灯護摩の秘法が修され、大勢の善男善女が願いを込めて火渡りの行に参加をする。(法多山HP)



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団子茶屋
江戸時代より伝わる法多山名物の厄除だんごを製造・販売する。かつては同所に約20軒のだんご茶屋があったが、昭和41年の企業組合化とともに現在の形態になった。 商う形は変われども伝統の技法と素朴な味わいは今に受け継がれている。縁日には限定の茶だんごも販売される。(法多山HP)

法多山名物くし団子の由来
法多山はその山号にして寺号を尊永寺と称し、本尊には俗に厄除観音として下見まれる正観世音菩薩を奉安する。法多山はその昔、神亀2年(725)聖武天皇の勅により行基上人が開山した高野山真言宗別格本山であり、勅願定額寺の列に偶せられ朝廷、武家の篤信を授け信仰、文化の殿堂として栄えた。特に法多山では毎年正月江戸幕府の武運長久、天下泰平、五穀成就の祈祷を奉修し、祈祷ご符と当地名産品を献上する習わしがあった。13代将軍家定の頃(1854)門前に往す侍士八左ェ門の発案による観世音名物団子が登城の土産に添えられたを始めとする。将軍家より「くし団子」御命名賜り以来、一般参拝客の賞味するところととなり、俗に厄除団子と呼ばれ親しまれ今日に至る。(案内板)


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小笠山総合運動公園(おがさやまそうごううんどうこうえん)
静岡県掛川市と袋井市の市境に跨がって位置する、スポーツ施設群を有する総合公園。愛称エコパ(ECOPA)。面積は269.7ヘクタール。総工費は約800億円、2001年5月10日に供用開始。愛称「エコパ(ECOPA)」は、小笠山に近いことから「山彦」を意味する「Echo」と、友達・仲間、地域・自然との共生を図るという意味合いを込めて「友」を意味する「Pal」から合成した造語である。メインスタンドには、W杯開催スタジアムであることを示す「FIFA WORLD CUP/SHIZUOKA」と記されたレリーフが設けられている。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟する清水エスパルス、ジュピロ磐田、藤枝MYFCがホームゲームの一部を開催している。(Wikipedia)

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周辺地図(わかり易いのお借りしました)

小笠山
掛川市のほぼ中心に位置し、袋井市と連接する標高265メートルの小笠山からなる一連の山系は、南のゆるやかな傾斜と北側の急な斜面とが対照的な形をしています。赤松の群生のほか数多くの植物や野鳥の宝庫として有名です。山頂からの眺望も素晴らしく、1年を通して多くのハイカーでにぎわいます。四季折々に豊かな自然の中でたっぷりの森林浴を楽しみましょう。小笠山の山頂付近には小笠神社があります。参道には樹高が約20メートル、樹齢推定400年以上のスギがあり、市の天然記念物として文化財に指定されています。(掛川市HP)

by Twalking | 2014-05-29 15:44 | 東海道(完)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 いざ、西へ28 豊田町駅   

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東海道本線豊田町駅


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by Twalking | 2014-05-28 22:58 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 いざ、西へ27 愛野駅   

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東海道本線愛野駅


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愛野駅
2002FIFAワールドカップの開催に先立ち、会場の1つである静岡スタジアム エコパの最寄り駅として開業した。

by Twalking | 2014-05-28 22:36 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ヤマボウシ   

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ヤマボウシ/世田谷区駒沢
2014.5.25(日)


ヤマボウシ(山法師、山帽子 )
ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属の落葉高木。幹は灰褐色。葉は対生し楕円(だえん)形または卵円形で長さ4~12センチ、全縁でやや波打つ。花は6~7月に開き、淡黄色で小さく多数が球状に集合し、その外側に大形白色の総包片が4枚あり花弁のように見える。果実は集合果で9月頃に赤く熟し、直径1~3センチで球形、食用になる。種子は約3ミリで、大きい果実には3~4個、小さい果実では1個入っている。果肉はやわらかく黄色からオレンジ色でありマンゴーのような甘さがある。果皮も熟したものはとても甘く、シャリシャリして砂糖粒のような食感がある。加果実酒にも適する。山地に普通に生え、本州から九州、および朝鮮半島、中国に分布する。街路樹・庭園樹・公園樹としても用いられる。近縁にハナミズキ(アメリカヤマボウシ)があるが、こちらの果実は集合果にならず個々の果実が分離している。(Wikipedia)

by Twalking | 2014-05-26 20:21 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 『ドックウオーキングin駒沢』02   

28℃の予想、日差しが強くなくてよかったです。
新緑の駒沢公園内3kmをワンちゃん達と一緒にウオーク。
随所で専門家のアドバイスもあって、みなさん楽しそうでした。

ドック・ヘルス・ポールと多様なウオーキングが楽しめますし、
それぞれにコーチングが付いているイベントです。
広がっていけばいいなぁ~、と思います。
みなさん、ご参加ありがとうございました。。。


ドックウオーキング講習風景
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インストラクターの君塚さん&ヤマザキ学園石野先生から随所でアドバイスがありました。

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ウオーキング風景
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さわっていいですかぁ~                 いい姿勢ですよ!


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姿勢改善ウオーク講習風景

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ポールウオーキング講習風景

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『ドックウオーキングin駒沢』
日時: 2014.5.25(日)10:00~16:00
場所: 駒沢オリンピック公園&周辺
主催: 日本ヒューマン・ドッグウオーキング協会
     ( http://www.jhdwa.org/)
後援: 東京都、世田谷区、ヤマザキ学園
内容: ドックウオークング ヘルスウオーキング ポールウオーキング
    (各ウオークともウオーキング指導あり)


by Twalking | 2014-05-26 15:55 | DogWarkig&セミナー(新規)