無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 <   2014年 11月 ( 64 )   > この月の画像一覧   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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秋の夕暮れ
多摩ニュータウン通り/多摩市

by Twalking | 2014-11-29 21:46 | ○写真上達への道

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畷道/東海道石薬師

石薬師宿から庄野宿まではわずか25町(2.7km)、東海道では御油~赤坂間(1.7km)に次いで短かい距離でした。こんな田圃の中の畷道を歩きます、気持ちいいいですよ~、もう、最高!。

by Twalking | 2014-11-29 16:42 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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晩秋の石薬師寺
東海道石薬師宿/三重県鈴鹿市

このお寺は東海道五十三次「石薬師・石薬師寺」として広重も描いている真言宗東寺派の古刹です。静かな佇まいのなか、ひときわ紅葉が見事でしたねぇ~・・・、記憶に残ります。

by Twalking | 2014-11-29 12:44 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 いざ西へ52 富田駅   

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近鉄富田駅/四日市市


三岐鉄道株式会社
(さんぎてつどう)
社名は、かつて三重県と岐阜県(関ヶ原)を結ぶことを目的としていたことに由来する。鉄道事業はかねてよりセメント輸送が主力であったが、現在では地域住民や行楽の足として旅客輸送の比重も上がって来ている。奈良県と三重県の私鉄は近畿日本鉄道(近鉄)の力が大変強く、三重県の私鉄は一時、三岐以外はすべて近鉄の経営下だった時代があったが、三岐鉄道は戦時中の統合の際も鉱山関係(小野田セメント)の企業であったため近鉄への合併をまぬがれている。現在でも三岐鉄道の筆頭株主は小野田セメントの後継企業である太平洋セメント株式会社である。営業路線は長らく三岐線および近鉄連絡線のみであったが、2003年(平成15年)に近鉄から北勢線を譲受し運行している。Wikipedia


by Twalking | 2014-11-28 19:38 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 いざ西へ51 桑名駅   

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近鉄桑名駅/桑名市


桑名駅
JR東海の関西本線、近鉄の名古屋線、養老鉄道の養老線の3路線が乗り入れている。養老線は当駅が起点である。また、三岐鉄道北勢線の西桑名駅が近接しており、乗り換えが可能である。Wikipedia


by Twalking | 2014-11-28 14:20 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(30)桑名宿~庄野宿 下見01 桑名宿   

日時 2014.11.18(水)~21(金)
天気 晴れ&曇り
桑名宿~庄野宿(1)桑名宿~冨田


・・・桑名宿

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桑名宿中心部(渡し場~歴史ふれあい公園まで直進)

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歴史ふれあい公園先を右折(曲手1)      京橋見附跡(マンション)を左折

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曲手2(勤労少年ホーム)右折/鍛治町     曲手を周りおもちゃ屋右折・直進/新町


・・・新町~矢田町へ直進

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伝馬町交差点(401号)横断・右折し先の公園へ(WC休憩)

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公園奥から天武天皇社へ(右へ直進)     矢田立場半鐘を左折・直進/矢田町


・・・矢田町~1号町屋橋(安永町)へ直進

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町屋橋南詰を左折し、すぐ先の旧道を左折・直進

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258号地下道を潜り直進/安永          二差路を左折・1号町屋橋へ


・・・町屋橋南詰・最初の道~66号(浄泉坊)

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浄泉先66号横断・直進(信号手前のサークルKで小休止)

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町屋橋先橋本橋を横断              近鉄朝日町駅踏切横断し左折(東芝工場)


・・・66号(浄泉坊)~冨田栄町・フレスポ

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朝明橋(あさけはし)先を右堤防下へ/四日市市松寺

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「東海度はこちら」左へカーブ/朝日町柿    1号BPを横断し朝明橋へ


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関西本線・三紀鉄道高架を潜る         すぐ先若宮八幡左折しフレスポへ


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資料ファイル

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七里の渡し場跡&蟠龍櫓

蟠龍櫓 
桑名城には、元禄大火後に再建された時点で51の櫓があったと記録されています。このなかでも、川口にある七里の渡に面して建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。蟠龍櫓がいつ建てられたかは定かではありませんが、現在知られているうちで最も古いとされる正保年間(164448)作成の絵図にも既にその姿が描かれています。蟠龍の名が文献に初めて表れるのは、享和2年(1802)刊の「久波奈名所図会」で七里の渡付近の様子を描いた場面です。この絵では、単層入母屋造の櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれており、櫓の形はともかく、この瓦の存在が人々に広く知られていたことを思わせます。「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟びょうなどの装飾モチーフとして広く用いられています。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられます。

d0183387_21140892.jpg七里の渡し跡 
江戸時代の東海道は桑名宿と宮宿(現在名古屋市熱田区)との間は、海路七里(約28キロ)の船渡しであった。桑名宿の船着場は伊勢国の東の入り口にあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年間(17811789)に建てられた。船着場付近は桑名宿の中心であり、船着場の西側には、船番所、高札場、脇本陣駿河屋、大塚本陣が並んでいた。船着場の南側には船会所、人馬問屋場や丹羽本陣があった。昭和33年(1958)には七里の渡し跡付近は県指定史跡となった。昭和34年(1959)の伊勢湾台風後の高瀬対策工事で、街道と船着場跡との間に防波堤が設けられた。

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東海道五十三次 桑名宿・七里渡口

桑名城の沿革 
戦国時代、この付近には伊藤氏が支配する東城と呼ばれる城がありました。戦国末期、桑名地方は織田信長に平定され、信長の家臣滝川一益かずますの支配を受けました。豊臣秀吉の時代には、一柳右近や氏家行広が治めました。桑名城に初めて天守閣が築かれたのは文禄4年(1595)で、伊勢神戸城(現在の鈴鹿市神戸)の天守閣を移したといわれています。桑名に本格的な城郭が築かれたのは慶長6年(1601)です。徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、徳川四天王の一人で腹心の本多忠勝を桑名に配置しました。忠勝は東城があった所を中心に縄張りを行い、近世城郭を造りました。同時に城下町の整備も行い、大山田川・町屋川の流れを変えて外堀に利用し町の守りとしました。忠勝の行ったまちづくりを「慶長の町割り」と呼びます。桑名城は揖斐川を利用した水城で、城内から船で川に出ることができました。天守閣は四重六層の勇壮なものでしたが、元禄14年(1701)の大火で焼失し、以後は再建されませんでした。門や櫓の数は多く、享和3年(1803))の記録には、本門や路地門などを合わせて63ヶ所、櫓は95ヶ所とあります。しかし、幕末戊辰の役(1868)の時、桑名藩は旧幕府方に付き、藩主松平定敬さだあきは東北地方を転戦し、最後は五稜郭で降伏しました。その間に国元は新政府軍に降伏し、無血開城して市内は兵火を免れました。新政府軍は天守閣の代わりとなっていた三重の辰巳櫓を焼き払い、桑名城落城のしるしとしました。その後桑名城の石垣は取り払われ、四日市築港の資材とされました。

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桑名城絵図

九華公園 
昭和3年(1928)、楽翁公(松平定信の隠居後の号)没後100年祭を記念して、当時の桑名町が桑名城跡の本丸・二之丸一帯を公園として整備しました。城にはよく地形や形から別の名前が付くことがありますが、桑名城はその形から「扇おうぎ城」と呼ばれました。桑名城跡には九華(きゅうか)公園という名前が付いていますが、「九華」は、「くわな」と読ませ、江戸時代から使用されていました。これは、中国に九華扇という扇があり、扇城の名と「くわな」の読みにかけて付けられたということです。現在の九華公園は8.65ヘクタールあり、桜・つつじ・花菖蒲はなしょうぶなどの名所として、市民の憩いの場所となっています。

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・・・

桑名宿 
東海道五十三次
42番目の宿場である。脇往還佐屋街道もここから分岐していた。徳川四天王の本多家のほか、各松平家の大名が藩主を務めた桑名藩の城下町でもある。江戸時代後期の調査では、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠屋120軒を擁し、家数2,544軒、人口8,848人(男4,390人、女4,458人)であったと記録されている。東海道では旅籠屋数で宮宿に次ぐ2番目の規模を誇った。宮宿とは、東海道で唯一の海上路である七里の渡しで結ばれ、伊勢国、および伊勢参りの玄関口となっていた。(Wikipedia)

d0183387_21312875.jpg舟津屋(大塚本陣)
大塚本陣は桑名宿で最大かつ最高の格式をもった本陣で、裏庭から直接乗船できた。建物は変わっているが、明治時代から料理旅館「船津屋」として営業。(案内板)



d0183387_21325515.jpg歌行灯句碑(船津屋)
明治42年、泉鏡花は伊勢参宮途次桑名を訪れ「船津屋」に一泊した。ここを舞台に「歌行燈」を書き上げた。「歌行燈」をのちに戯曲化した久保田万太郎が「かわをそに 火をぬすまれて あけやすき」と詠んだ句碑が船津屋の表塀に建てられている。(案内板)



d0183387_21381861.jpg脇本陣 
駿河屋跡脇本陣は桑名宿に4軒あったが、そのうちもっとも格式の高いのが駿河屋であった。建物は変わっているが、現在は料理旅館の「山月」の一部となっている。(案内板)


d0183387_23231154.jpg船会所跡・屋場跡
船会所は宮、および佐屋へ渡る旅人のために、渡船の手配をする事務所であった。旅人はこの船会所に乗船の申込をして料金を支払い乗船した。現在は跡地は定かでない。(案内板)



d0183387_21384249.jpg通り井跡 
桑名は地下水に海水が混じるため、寛永3年(1626)に町屋川から水を引いた。水道とつくり、町内の主要道路の地下に筒を埋めところどころの道路に正方形の枡を開けて一般の人々が利用した。これを「通り井」という。昭和37年(1962)工事のため、道路を掘っていて「通り井」跡のひとつが発見された。現在は道路面に「井」と書いた石がはめ込まれている。(案内板)



d0183387_23261874.jpg柿安精肉本店


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桑名宗社(くわなそうじゃ) 
桑名神社(三崎大明神)と中臣神社(春日大明神)の両社から成り、桑名の総鎮守社として篤く崇敬されている。正式名称の桑名宗社より、「春日神社」、「春日さん」の通称がより多く用いられ、親しまれている。また、7月末の石採御神事は天下の奇祭としても有名である。(Wikipedia)


d0183387_21502690.jpg春日社の青銅鳥居 
慶長7年(1602)初代桑名藩主本多忠勝によって寄進された鳥居(木造)が亜大風によって倒壊したため、寛文7年(1667)七代桑名藩主松平定重によって、慶長金250両を費やして再建されたのがこの鳥居です。楼門(随神門)は1833年(天保4年)15代藩主松平定永が建立したものがあったが、1945年(昭和20年)空襲により焼失。現在建っているのは1995年(平成7年)に再建されたもの。

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春日神社のしるべ石 
「しるべいし」は「迷児石」とも言われ、人の大勢集まる所に立てられました。東京浅草観音のしるべいしは有名です。自分の子どもが迷子になると左側面の「たづぬるかた」に子どもの特徴や服装などを書いて貼ります。この子どもに心当たりのある人は右側面の「おしへるかた」へ子どもが居た場所などを書いて貼ります。(桑名市教育委員会)


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桑名城城壁跡/歴史を語る公園 
正面の堀川東岸(三の丸地内)の城壁は、桑名城城壁の一部で、川口町揖斐川に面する川口樋門から南大手町橋に至る延長約500メートルが現存し、市の文化財に指定されている。積石の状態は乱積で、野面はぎ、打込みはぎの2方法によっており、また、刻印を刻んだ積石も多く見かけられる。片町に面したところには、出隅、入隅があった。各所に堀川に向かって狭い道路が設けられているのは、明治以後の廃城になってから 便宜上つけられたものであろう。戦前までは南大手町橋から京橋裏、それに三の丸立教小学校橋まで、堀川は続いていたが、終戦直後瞬く間に埋め立てられた。この城壁には、追い松が並木を作り、枝は堀へたれ、川水は満々と美しく、行き交う荷船で賑わった。


d0183387_22463754.jpg道標/桑名博物館前
「右京いせ道」「左江戸道」江戸時代 旧東海道筋(場所不詳)に建てられていたものを移設しました。(桑名市博物館)


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京町見附跡/京町公園角 
京町の西端の東海道上に京町門があり、その南側に番所があって、ここを京町見附と言い、旅人を監視していた。また北側には舛方役所(のちの市役所跡)があった。門の西は外郭堀で橋はなく、東海道は南に曲り、さらに東へ曲り、もう一度南へ曲がる升形道路となっていた。現在は門も番所も役所も升形道路も廃止されている。なお、外郭堀には明治時代に京橋がかけられた。(案内板)


d0183387_23564681.jpg吉津屋見付跡/勤労青少年ホーム前
慶長6年(1601)江戸と京との間に東海道の制度が設置された後に桑名城下を通る東海道の見付として吉津屋門が建てられ、門の南側に桑名藩の役人が詰めている番所が建てられていた。この村道は江戸時代以前は七ツ屋と称されていたが、江戸時代初期には吉津屋町に属することになった。しかし、鍛冶を業とする人が多く住むようになった為、吉津屋町から分離して鍛冶町と称するようになった。その為、吉津屋門は、別名を七ツ屋門とも鍛冶町門とも呼ばれていた。東海道はこの門をめぐり、四角形の三辺を回り、いわゆる枡形道路となっている。諸大名の行列はこの門の前後から本行列に整えて、桑名城下を通っていた。(案内板)


d0183387_00320775.jpg泡洲崎八幡社  
江戸時代以前、桑野の町中は、町屋川の流れにより自凝(おのころ)洲崎、加良洲崎、泡洲崎の三洲に分かれており、この付近一帯を泡洲崎と称し當社は、往古より泡洲崎一洲の鎮守であった。慶長年中(15961614)町割の時、旧地今の一色町より光徳寺門内北側に鎮守され郷司出雲守を神主として奉仕されていた。明治11年に合祀令が下り桑名総社に合祀されていたが、昭和251010日、新町の産土神として現在地に分祀遷御された。境内に天保13年(1842)新町北端に建立された導石(しるべいし)「右きゃういせみち」左ふなばみち」がある。(案内板)



d0183387_00214638.jpg光徳寺 
古くは泡州崎念仏場と称した。明治71874)年進善学校(旧進小学校の前進)が当寺で開かれていた。県指定史跡の沼波弄山墓がある。沼波弄山(171877)は桑名船場町の商人で万古焼の創始者また、大阪の市岡新田を開発した市岡宗栄(16641714)や万古焼継承者 加賀月華(18881937)の墓がある。(案内板)


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十念寺 
古くは朝明郡切畑にあったが、室町時代に桑名へ移り、慶長町割りの際に現在地へ移った。県指定文化財として祭礼図屏風(江戸時代初期の作と思われる)市指定文化財として、当麻受茶羅図、森陳明の墓がある。森陳明とは(182669)明治維新の際に、桑名藩が敗北した責任をとり、藩を代表して切腹した。(案内板)


d0183387_00135522.jpg寿量寺 
元は今一色付近にあったが、慶長の町割りの際に現在地に移る。市指定文化財として狩野光信墓、同磐、日蓮聖人御本尊がある。狩野氏は江戸城の障壁面を描いて京都へ帰る途中、慶長13年(160864日に桑名で没した。参道入口のすぐ南側の小さな五輪塔が狩野氏の墓である。(案内板)

・・・伝馬町から公園へ

d0183387_00145981.jpg天武天皇社 
壬申の乱(672)の際に大海人皇子(のちの天武)が桑名に駐泊されたことにちなみ、建立された大神社。古くは新屋敷の地にあったと言われるが、寛永12年(1635)新屋敷を武家屋敷としたため、鍋屋町南側に移転。のち鍋屋町北側の現在地へ移る。市指定文化財として、固山備前介藤原宗次銘の刀がある。天武天皇を祀る全国唯一の神社。(案内板)


d0183387_00461856.jpg本願寺(梅花仏塔) 
梅花仏塔は偉人の各務支与の分骨塔であり、本願寺境内にある。享保16年(17311)に支与は美濃北部で亡くなったが、不便な土地であるため、支与の門人であった雲裡坊杉天(当本願寺に住んでいた)が、分骨をもらい受けて、東海道筋の本願寺に分骨塔を建てた各務の名にちなんで、墓は丸い鏡の形をしている。(案内板)


d0183387_00463337.jpg矢田立場・福江町
江戸時代の矢田町は、東海道の立場であった。「久波奈名所図会」には「此立場は、食物自由にして河海の魚鱗、山部の蕗菜四時無きし」とある。福江町へ曲がる角には、火のみ櫓(現在の火のみは平成3年に再建したもの)もあった。現在でも馬を繋ぎ止めた鉄環のある家や、連子格子のある家も見られる。福江町も矢田立場の続きで、茶店や宿屋が多くあった。福江町の南端は、桑名宿の入口に当たるので、旅人を引き止めるために宿屋の人達が集まっている宿引小屋があった。また西国からの大名などが通行の際には桑名藩からの役人が出迎えて、ここから案内した。(案内板)


d0183387_01051074.jpg 了順寺
浄土真宗本願寺派の寺院 山門は桑名城の遺物と伝えられる。


d0183387_01051934.jpg江場松原跡 
七里の渡し場から大福までの東海道は両側とも家が立ち並んでいたが、江場から安永にかけての192間(約345m)は、両側とも家がなく松並木となっていた。眺望が良く、西には鈴鹿の山脈が遠望され、東は伊勢の海が見られた。昭和34年(1959)の伊勢湾台風頃までは松並木も残っていたが、現在は家が並び、一本の松も残っていない。(案内板)


d0183387_01122232.jpg城南神社・
伊勢両宮常夜燈・石造里程標(右側の石積の上)
東海道の灯標として伊勢神宮の祈願を込め桑名、岐阜の材木商により文化元年(1818)に寄進されたもの。その前に、明治26年に建立された石造里程標が建っている。『正面に従町屋川 中央・北桑名郡 左面・ 距三重県県庁舎拾一里口町余』と刻まれている。(伊勢神宮に天照大神と豊受大御神が鎮座する前、この地に仮座したことから式年遷宮後の鳥居と建物の一部が下賜されるという。伊勢神宮の一の鳥居は、桑名宿の七里の渡しの鳥居になり、その後この神社の鳥居になる(案内板)


d0183387_01123171.jpg安永の藤 
ここは安永の里 玉喜亭のふじは樹齢約二百数十年を経ており、春は近在の人々の花見で賑わい、根の張ったふじの幹は地震の時、住人の集結場所であったと伝えられている。この地は、東海道の往還にあるので、人馬の休息所とされていた。常時使用された「お馬口御洗水」の高札が向かいの母家に残されている。(江戸時代の東海道筋の地面は現在よりも低い位置にあり、この母家を見れば推測できる)母家は文政元年1818年戌寅年の建物で、昭和18年頃まで使用され、名物安永餅を作った「かまど」と「板」が今も唯一現存する。(安永ふじの里・玉喜亭
 


d0183387_01123607.jpg安永の常夜燈
この安永の常夜灯前の道路は東海道筋にあたり、七里の渡しから約1里。戦災まで堤から町屋橋が繋がり川向こう縄生には、一里塚があった。このところは町屋川の清流に望み上流からの船運の筏と旅人の小憩する茶店などで賑わったという。


d0183387_01124038.jpg町屋橋跡 
江戸時代、ここ安永は桑名入口の立場であり、また町屋川の舟運の船着場でもあったので、大いに賑わい、茶店では街道名物の安永餅を売っていた。この地点から対岸の縄生の間に町屋橋が架かっていた。寛文12年(1635)に初めて架橋され、川の中州を利用した大小二本の板橋であったり、一本の板橋であったり、しばしば変わっている。下図の橋は江戸時代中期のもので、中央は馬が待避できるように、幅がやや広くなっていた。昭和8年(1933)国道一号線の橋が架けられ、旧東海道の町屋橋は廃止された。(案内板)


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町屋川
員弁川(いなべがわ)
鈴鹿山脈の御池岳北麓に発し、いなべ・東員町・桑名市などを概ね南東に流れ伊勢湾に注ぐ。員弁川水系全の河川数は34河川におよぶ。河口付近の桑名市・川辺町周辺では「町屋川」と俗称される、かつては現在の近鉄益生駅周辺の町中を流れていた名残だと言われている。川の付け替えによって現在の場所に流れるようになった。(Wikipedia)

・・・町屋橋南詰を右折し旧道を橋本橋へ


d0183387_09440947.jpg縄尾の一里塚/タバコ屋看板前



d0183387_09441710.jpg古萬古発祥の地・朝日町/朝日町駅ポケットパーク
三重県でも北部に位置する朝日町は、北は町屋川(員弁川)を挟んで桑名市へ、南は朝明川を隔てて四日市市へ、東は川越町を経て伊勢湾に達します。西には標高50m前後の朝日丘陵があり、その東麓には旧東海道がほぼ南北にはしり、それを境に丘陵地帯と田園地帯に分れる5.99k㎡の小さな町です。朝日町には弥生時代以降の遺跡が西部丘陵を中心に点在しています。なかでも、昭和61年の発掘調査によってその塔跡が明らかになった縄生廃寺跡は、白鳳時代創建と考えられる寺院跡で、全国的に注目を集めました。塔心礎から一括出土した舎利容器は、平成元年に国重要文化財に指定されました。この町は、『日本書紀』に「朝明駅」(縄生付近と考えられている)と記述され、壬申の乱(672年)の時には、大海人皇子らが美濃国へたどった道筋にあたります。また、江戸時代には東海道筋として栄えたところでもあります。この町からは、著名な国学者橘守部、萬古焼を再興した森有節、日本画家栗田真秀・水谷立仙らが生まれました。(案内板)


d0183387_09443962.jpg橘守部出生地 
香川景樹・平田篤・伴信友と共に、天保の国学四大家といわれた守部はここで生まれた。父は当寺近郷の大庄屋をつとめていたが寛政4年家座が叛いたので十二歳の折り江戸に下り、国学者としての道を歩きはじめた。故郷を離れる時、ふるさとの母木のもとにありもせで 身はちりぢりになるぞかなしき の一首を残したといわれる。朝日町教育委員会



d0183387_09450020.jpg浄泉坊 
浄土真宗本願寺派。山号を小向山という。慶長8年(1603)に伊勢慶昭が小向にあった正治寺を再興し、小向山浄泉坊と改称したことにはじまります。寛永15年(1638)に西本願寺より寺号の公称を許された。徳川家ゆかりののある桑名藩主の奥方の菩提寺になっていたことがあるといわれ、山門や瓦に徳川家の定紋三つ葉葵が入っている。そのため参勤交代の大名はこの寺の門前では駕籠から降りて一礼したと伝えられる。(案内板)


・・・柿交差点コンビニで小休止

d0183387_12202615.jpg西光寺 
真宗大谷派、朝日山と号する。当寺は確実な證跡はないが、現存する絵像御本尊の裏書に「明應5年丙辰年62日 願主釋念正 本願寺釋実如(第9世)判」とあり、この時(1496)をもって開基とし、その後貞享2年(1685)大谷派に転じ現在に至っている。現在の建物は明治1023年にかけて建立され、街道に面する松も風雪に耐え松並木の面影をとどめている。(案内板)

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朝明川
(あさけがわ)
鈴鹿山脈の釈迦ヶ岳に源を発し、鈴鹿国定公園に含まれる朝明渓谷を刻みつつ丘陵地に出る。上流部には明治期にオランダ人技師、ヨハニス・デ・レーゲの指導のもと築かれた「オランダ堰堤」や「なわだるみ堰堤」と呼ばれる砂防堰堤群があり、国の登録有形文化財に登録されている。また1907年(明治40年)開設と県内の発電所では最古の中部電力千草水力発電所がある。中流域の多くが砂底。菰野町北部を北東流しながら田光川などの支流を併せ、四日市市に入ってからは概ね東流。下流部で川越町を流れ伊勢湾へ注ぐ。河口一帯は工業地帯で、河口左岸に中部電力川越火力発電所がある。「朝明」の名は『和名抄』伊勢国の項に「朝明郡」として見える。東征中の日本武尊が当地で夜明けを迎え、朝明川の水で口をすすいだことから川の名が付いた、とする伝承もある。下流部の「川越町」(かつては川越村)は、明治期の町村制施行にあたり、朝明川を挟んだ南北の村々が川を越えて合併したことに因む。(Wikipedia)


d0183387_12203494.jpg松寺の立場跡 
東海道末寺の立場跡には昔は大きな榎があり、街道を往来する旅人や人足などが籠や荷物を降ろして杖を立て一休みしたところをいう。茶屋があり立場茶屋と呼んでいた。当時桑名宿と四日市宿の間には5ヶ所の立場があり、北は小向の立場南は富田の立場があった。(大矢知歴史研究会)


d0183387_12204336.jpg東海道五十三次 
東海道は江戸日本橋から京都三条大橋まで126里(495km)で、江戸時代は1314日、一日9里(36km)で歩いておりました。宿は三重県内には42・桑名宿(38町)43・四日市宿(227町)44・石薬師宿(25町)45・庄野宿(2里)46・亀山宿(18町)47・関宿(124町)48・坂下宿がありました。また一里塚がああり、四日市石薬師間には100・日永一里塚(江戸より100里)101・采女一里塚102石薬師一里塚がありました。(案内板)


d0183387_12210028.jpg鏡ヶ池(笠取池) 
「続日本記」によると天武天皇は奈良時代の天平12年(740)に伊勢国に行幸になり、11月に一志郡河口を立ち鈴鹿郡赤坂の頓宮を経て23日に朝日郡の頓宮に着かれたとある。その場所の所在は不明であるが当地近辺であり、松原町のもと松原姓を名乗っていた旧家田村氏宅に伝えられる話では、聖武天皇が行幸の際に松原を通られると一陣の風が吹き天皇の笠が池の中に落ちた。丁度その時傍らに洗濯をしていた娘がその笠を拾って差し上げたため、これが縁となって天皇はこの田村家に宿をとられたという。あくる朝、旅たちの日は風もなく空は真っ青に澄んで、馬上の天皇の姿と見送る娘の姿とが鏡のような池の上にともに映えて、一幅の絵を見るような光景になった。以来この池を「鏡ヶ池」と呼ぶようになったといわれる。(案内板)

by Twalking | 2014-11-28 12:50 | 東海道(完)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 トウカエデ02   

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トウカエデ02
愛宕通り/多摩市愛宕

by Twalking | 2014-11-27 19:49 | ○たま-2014

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 トウカエデ   

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トウカエデ
愛宕通り/多摩市愛宕


トウカエデ(唐楓)
カエデ科の落葉高木である。 原産 中国 用途 街路樹・庭園樹 葉 対生で薄く光沢がある。3浅裂し裏面に白粉がある。 性質 紅葉が美しい。 花 淡黄色5弁で、散房状につけ春に咲く。 果実 2枚の翼果で平行又は鋭角に開き秋に結実する。(Wikipedia)


by Twalking | 2014-11-27 11:36 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 『ドッグウオーキング』のご案内   

ウオーキングの究極の目標は『QOL』の向上、
つまり『いつまでも健康で、若々しく』ですよね。
これはワンちゃんだって同じ。

ヒューマン・ドック・ウオーキングは、人と犬がよきパートナーとして、
お互いの『QOL』を高めよう!、そんな目的を持つ
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愛犬家のみなさん、ご一緒にそのメソッドを学んでみませんか?!
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ペット長寿国プロジェクトのサイトはこちら
http://www.iams.jp/longerlifeproject





by Twalking | 2014-11-26 21:02 | DogWarkig&セミナー(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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揖斐川/東海道桑名宿

揖斐川河口に入った船は桑名城を左に見ながら船着場に入りました。渡し口を上ると伊勢神宮の一の鳥居が建っています。右手の蟠龍櫓は七里の渡しに面して建てられ、桑名宿のラウンドマーク的なもの、広重もこの櫓を描いています。「蟠龍」とは天に昇る前にうずくまった龍のこと、航海を守護するものと考えられています。非常に印象的な風景ですねぇ~、気持いい。。。

by Twalking | 2014-11-26 16:23 | ○写真上達への道