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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 大晦日   

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大晦日
あ~、飾ってくれたんだぁ~、“万古焼の羊”と“ぬのあわせ”、ありがとう!


・・・・・・
静かな大晦日です。
東海道に明け暮れた年、楽しく充実した日々を
過ごさせて頂きました、感謝に堪えません。

また、つたないプログをご覧いただきまして、
ありがとうございました。
引き続きご愛顧いただけましたら嬉しいです。

みなさま、どうぞ、よいお年を!
                     TEIONE

by Twalking | 2014-12-31 12:04 | さんぽみち

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 南天   

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南天
多摩市愛宕



ナンテン
(南天)
メギ科ナンテン属の常緑低木和名の由来は、漢名の「南天燭」の略。南天の花は、仲夏の季語。実は三冬の季語。高さは2m位、高いもので45mほど。幹の先端にだけ葉が集まって付く独特の姿をしている。葉は互生し、三回羽状複葉で、小葉は広披針形で先端が少し突きだし、革質で深い緑色、ややつやがある。先端の葉の間から、花序を上に伸ばし、初夏に白い花が咲き、晩秋から初冬にかけて赤色(まれに白色)の小球形の果実をつける。音が「難を転ずる」に通ずることから、縁起の良い木とされ、鬼門または裏鬼門に植えると良いなどという俗信がある。福寿草とセットで、「災い転じて福となす」ともいわれる。(Wikipedia)


by Twalking | 2014-12-31 08:38 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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年の瀬02
センターツリーも正月バージョンなんだぁ~、いいね!
多摩センターイルミネーション2014/ココリア前

by Twalking | 2014-12-30 19:48 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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年の瀬
多摩市愛宕
元気だね、いいそぉ~。。。


by Twalking | 2014-12-30 14:42 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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小振りですが、凛として立つ姿が、印象的でした。
和田一里塚/東海道・亀山市和田

by Twalking | 2014-12-28 09:13 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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初冬の川辺02
乞田川/多摩市落合
静かな年の瀬、の~んびりしよっと。。。


by Twalking | 2014-12-27 11:35 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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大名行列02//東海道土山宿・伝馬館
ちょっとだけ、見せて頂けることになりました。ありがとうございます!新春を楽しみにさせて頂きま~す。。。


by Twalking | 2014-12-27 10:20 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 三日月 12月   

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三日月
多摩丘陵/多摩市
2014.12.26.17:43


地球照
(ちきゅうしょう)
月の欠けて暗くなっている部分が、地球に照らされて、うっすらと見える現象である。この現象は、地球で反射した太陽光が月にまで達し、その光がさらに月面で反射され、再度地球にまで戻ってくることによって生じる。肉眼での確認が容易な期間は、新月を挟む、月齢27から3(三日月)前後の、月の輪郭が小さな時である。これは月から見る地球が“満地球”に近い状態で、地球からの反射光が多くなるとともに、月の光っている面積が小さいので眩しくないためである。地球照は淡い光なので、空気が澄んでいて周囲が暗い場所で観察するとよい。(Wikipedia)



by Twalking | 2014-12-26 19:54 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(31)庄野宿~土山宿・下見03 土山宿   

日時 2014.12.17(水)~19(金)
天気 雪&曇り
庄野宿~土山宿(3)道の駅・あいの土山~大野

近江路に入りました。最初の宿は茶所・土山、近江盆地の扇の要辺りになりましょうか、旧道は落ち着いた佇まいの家並みが続きます。のんびりぶらりっとした街歩き、楽しめますよ~。。。

・・・道の駅土山先を右折し旧道を来見橋~大黒橋へ

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土山宿の町並み

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来見橋                        大黒橋


・・・土山南から歌声橋へ

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南土山信号を横断し先を右折、すぐ左折し1号・農協前へ


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農協前で1号横断                   鈴木製作所を左折、歌声橋へ


・・・歌声橋から大日川&松並木へ

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茶畑が広がる土山前野集落

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歌声橋                        大日川(堀川)&松並木


・・・松原から大野交差点へ

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大野の町並み

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大野公民館                     大野交差点で1号合流(G)


・・・・・・・・・・・・・・
資料ファイル

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道標&地蔵堂             お六櫛商・三日月屋   


d0183387_15004580.jpg句碑 
上地蔵堂島鬼貫は大阪の伊丹で生まれた俳人で、東の芭蕉、西の鬼貫とも言われ、独自の俳諧の境地を拓いた人である。この俳句は、上島鬼貫が貞享3年(1686)の秋に、東海道の旅の途中土山に寄り、お六櫛を買い求め鈴鹿の山へ向かう時に詠んだ句である。吹けばふけ 櫛を買いたり 秋乃風 伊丹鬼貫 (土山の町並みを愛する会)

お六櫛
(おろくぐし) 
長野県木曽郡木祖村薮原で生産される長野県知事指定の伝統工芸品。元禄年間持病の頭痛に悩んでいた村娘お六が、治癒を祈って御嶽山に願いをかけたところ、ミネバリで櫛を作り、髪をとかしなさいというお告げを受けた。お告げのとおりに櫛を作り髪を梳いたところ、これが治った。ミネバリ(峰棒・カバノキ科の落葉高木)の櫛の名は広まり作り続けられることになった。(Wikipedia)



d0183387_15033539.jpg土山一里塚跡 
土山町内設置場所は山中地先、土山地先、大野市場地先であったが、現在その跡はほとんど残っていない。塚の規模は、およそ高さ2.5m、円周12mの大きさであったと伝えられている。土山地先の一里塚は土山町北土山大森慶司宅付近にあったと伝えられ、この付近の字名は一里山と名づけられている。(土山町教育委員会)


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白川神社/(左側) 
祭神は速須佐之男尊、天照大神御神、豊受大御神。創祀は不詳で、古くは牛頭大王社・祇園社などと呼ばれていた。寛文5年(1665211日の火災により延焼し現在の場所に遷座する。本殿は、文久3年(1863)に改造された。7月第3日曜日行われる「土山祇園祭花笠神事」は祇園祭の前宮祭と呼ばれ、大字南土山14組ごとに奉納された花笠から花を奪い合う「花奪い行事」が行われる。これは、承応3年(1654)に復興されたと伝えられ、滋賀県選択無形民族文化財になっている。天明7年(1787)に光格天皇の嘉永元年(1868)に、孝明天皇の両大嘗祭に当社拝殿が悠紀斎田抜穂調整所となった。また、明治元年(1868)旧暦922日、明治天皇御東幸御駐輦の時に当社境内が内待所奉安所にあてられた。本殿の前には願かけ神石があり、この神石をなでると健康長寿・祈願成就がかなうと伝えられている。(土山町教育委員会)


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土山宿案内板

d0183387_15570077.jpg森白仙終焉の地(井筒屋跡)
 
文豪森鴎外の祖父白仙は、文久元年(1861117日、この井筒屋で没した。鴎外が明治33年に記した「小倉日記」で明らかなように、森家は代々津和野藩亀井家の典医として仕えた家柄である。白仙は長崎と江戸で漢学・蘭医学を修めた篤学家であった。参勤交代に従って江戸の藩邸より旅を続けるうち、この井筒屋で病のため息をひきとったのである。のちに白仙の妻清子、一女峰子の遺灰も、白仙の眠る常明寺に葬られた。(土山町教育委員会)



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森鴎外が泊まった平野屋        民芸茶房うかい屋

・・・
東海道・伝馬館 
古くより交通の要衝であり東海道49番目の宿場町でもあった土山は、人と物資の交流により経済や文化の発展を遂げてきました。伝馬館は、街道や宿場、宿駅伝馬制を再考し、今後の発展に寄与していくために平成13年にオープンしました。建物は江戸後期に造られた土山の民家を改装。建物自体が貴重な展示品となっており、土山まつりのメイン会場として、また地域のイベントやボランティア活動の会場として活用されています。(伝馬館HP)


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東海道伝馬館


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東海道名物                     大名行列(京人形)

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土山宿ジオラマ

・・・

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二階屋本陣跡/左           問屋場宅跡
土山宿問屋場跡
 
問屋場とは、即ち問屋馬の管理を行う機関で問屋場には、人馬継立の主宰である問屋とその補佐役である年寄、下役の肝煎・馬指帳付などの宿役人が定められ、これらの宿役人によって助郷人馬の触出しや人馬の継立が行われていた。問屋は宿中の豪商で人馬継立の実務実権をもっていた。明治5年(18721月、土山宿廃止の際その屋舎は壊されている。(案内板)

土山宿問屋宅跡  
近世の宿場で、人馬の継立や公用旅行者の休泊施設の差配などの宿駅業務を行うのが宿役人である。問屋はその管理運営を取りしきった宿役人の責任者のことで、宿に1名から数名程度おり庄屋などを兼務するものもあった。宿役人には、問屋のほかに年寄・帳付・馬指・人足指などがあり問屋場で業務を行っていた。土山宿は、東海道をはさんで北土山村、南土山村の二村が並立する二つの行政組織が存在した。土山宿の問屋は、この両村をまとめて宿駅業務を運営していく重要な役割を果たした(土山町教育委員会)

d0183387_20010430.jpg土山宿本陣跡
 
土山宿は、東海道の起点である江戸日本橋より、106里32町、終点京都三条大橋まで15里17町余の位置にある。土山宿本陣は、寛永11年(1634)三代将軍徳川家光が上洛の際設けられた。土山氏文書の「本陣職之事」によってわかるように、甲賀武士・土山鹿之助の末裔土山喜左衛門を初代として之を勤めた。本陣は当時の大名、旗本、公家、勅使等が宿泊したもので、屋内には現在でも当時使用されていたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。明治時代になると、皇室の東京・京都間の往来も頻繁となり土山宿にご宿泊されることもしばしばであった。なかでも明治元年9月、天皇行幸の際にはこの本陣で誕生日を迎えられて、第1回天長節が行われ、土山の住民に対し神酒・鯣が下賜され、今なお土山の誇りとして語りつがれている。本陣は、明治維新で大名の保護を失い、明治3年(1870)宿駅制度の廃止に伴いなくなった。(土山町教育委員会)


d0183387_20130510.jpg(漢詩の読み) 
鈴鹿山の西に、古よりの駅亭あり。 秋風の一夜、鳳輿(ほうよ)停る。 維新の正に是、天長節なり。恩賜の酒肴を今賀(いわい)に当てる。 土山駅先帝行在所即吟 井上圓了道人
(解説)この漢詩は、大正3年、佛教哲学者で有名なる井上圓了博士がたまたま、土山本陣跡に来られた時、第10代の本陣職であった土山盛美氏が、この本陣について説明された中に、この本陣に明治天皇が明治元年922日の夜に一泊なされ、その日が偶然にも天皇即位最初の誕生日に当たり、次の日この本陣で祝賀式が挙行され、祝として土山の住民全戸へ酒・肴を御下賜あった事を述べると、井上博士は非常に感激して、即座にこの漢詩を書置かれたものである。(土山の町並みを愛する会)


d0183387_20131022.jpg林羅山の漢詩の解読と解説
(
解読)行李(あんり)東西 久しく旅居す 風光 日夜郷閭(きょうりょ)を憶ふ 梅花に馬を繋ぐ 土山の上 知んぬ是崔嵬(さいかい)か 知んぬ是岨(しょ)か
(意味)東から西、西から東へと長く旅していると、途中のいろんな景色を目にする度に、故郷のことを想い起こす。さて、今、梅花に馬を繋ぎとめているのは土山というところである。いったい、土山は、土の山に石がごろごろしているのだろうか、石の山に土がかぶさっているのだろうか。
(解説) 作者、林羅山は、徳川幕府に仕えた江戸前期の儒学者。号を道春という。家康没後の元和2年(1616)、羅山34歳のとき、江戸を出発し、東海道を経て故郷の京都へ向かう。この詩は、途中の土山で詠んだもので、この間の紀行記『丙辰紀行』に掲載されており、その前文に「『釋詁毛傳』などに石山を土の山とよみ、土山を石の山とよむことを思いて」この詩を詠んだとある。(土山の町並みを愛する会)



d0183387_20015091.jpg大黒屋本陣/
右側 
土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣職之事」によって、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と、土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことがわかる。土山本陣は、寛永11年(1634)三代将軍徳川家光が上洛の際設けたのがそのはじまりであるが、参勤交代の施行以来諸大名の休泊者が増加し、土山本陣のみでは収容しきれなくなり、土山宿の豪商大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。大黒屋本陣の設立年代についてははっきりと分からないが、江戸中期以降旅籠屋として繁盛した大黒屋が土山宿の補佐本陣となっている。古地図によると、当本陣の規模は土山本陣のように門玄関・大広間・上段間をはじめ多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であったことが想像される。(土山町教育委員会)

d0183387_21075411.jpg土山や唄にもうたふはつしぐれ』 闌更 
高桑闌更は1726年に加賀国(石川県)金沢の商家に生まれ、江戸時代中期頃に活躍した俳人。俳諧を和田希因に学び、蕉風の復興に努め、与謝蕪村らとともに、俳諧中興に貢献。後年、医を業としながら京都東山双林寺内に芭蕉像を安置する芭蕉堂を営んだ。


d0183387_21095534.jpg常明寺
 
臨済宗東福寺派の寺院。和銅年間の建立と伝えられ、貞和51349))年鈍翁了愚が九条経教の命を受け中興した。一時兵火により焼失したが、延宝年間(16731681)に再建された。当寺の住持であった松堂慧喬(号虚白)は俳人としても活躍し、地域の俳壇で指導的立場にあった。境内には芭蕉の句碑 
さみだれに 鳰(にお)のうき巣を 見にゆかむ がある。(「鳰」はカイツブリの古名)寺蔵の大般若波羅蜜多経は奈良時代のもので、長屋王願経として国宝に指定されている。また、墓地にはこの地で没した森鴎外の祖父森白仙の供養碑が建てられている。(土山町教育委員会)

d0183387_21102645.jpg東海道土山宿/南土山交差点右  
土山町は、平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠をこえる旧東海道筋を通るようになって以来、難所を控える宿駅として発達してきた。源頼朝が幕府を鎌倉に開くと従来の京都中心の交通路は、京都と鎌倉とを結ぶ東西交通路線が一層重要視されるようになり、武士の往来のみならず商人、庶民の通行も以前に増して盛んになった。とくに江戸幕府は、伝馬制度を整備し、宿駅を全国的規模で設け、土山宿は、東海道五十三次の第49番目の宿駅に指定されてから、宿場町として真に隆盛しはじめた。宿場の主体をなしたのは御役町で、そこには公用人馬の継立てなどをつかさどる問屋場、公用者の宿泊などのための本陣、脇本陣やそのほか公用にあたるものが住み、幕府は御役町の保護のために、地子の免除その他の特権を与えていた。この御役町を中心に一般の旅人のための旅籠や店、茶屋などがあり、全体が街道のわきに細長く宿場町を形成していた。(土山町教育委員会)

・・・前野・市場

d0183387_22114346.jpg道標 御代参街道起点/南土山交差点先右 
この道の左へ進む小路が旧御代参街道で、右斜めに進む道が旧東海道である。御代参街道は東海道土山宿のこの地点から笹尾峠を越え、鎌掛・八日市を経て中山道愛知川宿手前の小幡までの10里余りの脇往還である。この道は中世においても重要な間道であったが、正式な脇往還として整備されたのは17世紀のことである。寛永17年(1640)三代将軍家光の乳母の春日局が将軍の名代として多賀大社へ参拝し、この道を通って伊勢神宮へ参詣された際に、この道は整備・拡張されたといわれている。江戸稀代には皇族が毎年伊勢神宮と多賀大社へ名代を派遣する習わしがあり、京から伊勢神宮へ詣で、帰路土山宿から多賀大社へは子の道が利用されたことから御代参街道と呼ばれるようになった。ここに建つ2本の石造道標は、一つは天明8年(1788)に建立されたもので『たかのよつぎかんおんおんみち』と刻まれており、高野の世継観音(永源寺)への案内の意味である。もう一つの石柱には『右 北国たが街道 ひの八まんみち』文化4年(1807)と刻まれており、日野・八幡を経て多賀大社や北国街道へ続く道であることを意味している。(甲賀市教育委員会)



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戸時代の東海道と近辺地図(左が旧道・右明治時代の東海道)/24号手前・前野


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瀧樹神社(たぎじんじゃ)/前野 
この神社には次の二つの宮が祭祀されている。(瀧樹大明神宮)この宮の主祭主は速秋津比古之命(はやあきつひこ)と速秋津比咩之命(はやあきつめ)という神で、この神は水門(みなと)の神と云われている神様で、水害を守る神である。近くに二つの川が合流している落合があり、大昔から洪水が多くその度毎にこの近辺は大被害にあい困ったのでお祀りされた神である。(天満宮)この宮の主祭神は学問の神といわれている菅原道真をお祀りしている宮である。この神は室町時代の領主が信仰された神様で、氏子が学問に励み立派な村にすることを願って祀られたものである。(案内板)


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地安寺「林丘寺宮御植栽の茶」/前野
御水尾法皇の御影・御位牌安置所建立の宝永年間(17041710)に林丘寺光子(普明院)が植栽されたという。当時、鐘桜門の参道両側は弘き宮所縁の茶畑で地安寺が管理し、茶畑で収穫された茶は毎年、正月、5月、10月に鈴渓茶、仁泉茶の銘にて京都音羽御所と、林丘寺宮へ献納されていた。この、宮ゆかりの茶畑は、昭和初期まで栽培されていたが、今は一樹を記念として残すのみとなった。しかし、林丘寺宮への茶の奉献は今も続けられている。(土山町教育委員会)



d0183387_23081496.jpg史跡・垂水斎王頓宮跡/市場
ここ垂水の頓宮建立跡地は、平安時代の初期から鎌倉時代の中期頃まで、約380年間、31人の斎王が伊勢参行の途上に宿泊された頓宮が建立された所である。斎王とは、天皇が即位される度毎に、天皇のご名大として、皇祖である天照大神の御神霊のみ杖代をつとめられる皇女・女王の方で、平安時代に新しく伊勢参道がつくられると、この道を斎王群行の形でご通行されることとなった。京都から伊勢の斎宮まで、当時は56日もかかり、その間、近江の国では勢多・甲賀・垂水の三ヶ所、伊勢の国では鈴鹿・一志の二ヵ所で、それぞれ一泊されて斎宮までいかれたのである。その宿泊された仮の宮を頓宮といい、現在明確に検証されている頓宮跡地は、5ヶ所のうち、ただこの垂水頓宮だけである。(滋賀県教育委員会)

世にふれば 又も越えけり 鈴鹿山 昔の今に なるにやあるらむ
 
右は醍醐天皇の第四皇子重明親王の長女斎王徽子女御の歌である。(注)徽子女御は斎王として天慶元年(938)に、僅か9才で伊勢へ下向された。この時、ここ垂水頓宮に御宿泊なされ、又貞元2年(977)に、斎王に卜定された娘である村上天皇の第四皇女規子内親王に母として付添い、49才の時に再び伊勢群行に同行され、ここ垂水頓宮に二回目の宿泊をなされた節にこの歌を詠ぜられた。(垂水頓宮史蹟保存会)


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長泉寺                市場一里塚/市場


・・・大野


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大日川(堀切川)堀割

往古頓宮山より流れ出る水は谷川を下り、平坦部に達すると自然に流れ広がり、このため一度大雨になると市場村、大野村方面の水害は甚だしかった。大野村は水害を防ぐ手段として、江戸時代の初期より市場村との境に堤を築き、このため、間にはさまった市場村は、洪水時甚大な被害を受けることになった。元禄12年(1699)、市場村は排水路を堀割りし、野洲川に流すことを計画し、領主堀田豊前守に願い出て許可を受け、頓宮村境より、延長504間、川幅4間の排水路工事に着工し、川敷地の提供から市場村民の総賦役により元禄16年(1703)に完成した。

d0183387_23152218.jpg東海道反野畷の石柱





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反野畷の松並木


d0183387_23324243.jpg布引山/大野公民館 
布引山は名山であり、また歴史舞台であった東西三里の間、布を引く如く。春はたなびく春がすみ、夏は松の緑に映え、秋は月にさえ積もる雪も美しき雪の朝、山の姿うるはしく、春夏秋冬それぞれ趣あり。平安の昔より阿須波道を行ききし斎王群行や、大宮人参宮の旅人によりて詩に歌によまれてきた。有名な歌人、鴨長明もこよなくこの布引山を愛し、詠まれた歌がある。『あらしふく 雲のはたてのぬきうすみ むらぎえ渡る布引の山』 水口大岡寺で得度された長明は歌よみの世界に枝を引く。江戸時代、東海道の大改修により道すじは変わるも東西布引にそったコースに変リなく、近世、明治天皇明治13年行幸の供奉・池原香採のよまれし歌に『吾が袖に 通ふも涼し布引の 山より下す夏の潮風』『みゆきます 道のとばりと見ゆる哉 布引はへし山の姿は』(土山町教育委員会)

d0183387_23310502.jpg三好赤甫旧跡
 
赤甫は待花園月坡と号し、通称才市と呼ばれ、生家は代々魚商であったが、少壮の頃より俳諧の道に入り、当初、嵯峨上田村の宍戸霞洲に就き、教えを請うたが、晩年、家業を子に譲り、京都に上り、東福寺の虚白につき、10年余り修業され、その間、京都大阪の諸大家と交わった。その後、郷里に帰り、後進の指導をなし、この地方の俳諧の基礎をきずかれている。俳著に「窓あかり」がある。碑銘『
ほととぎす 早苗に影を のこし行く』土山町教育委員会)

by Twalking | 2014-12-26 13:10 | 東海道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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初冬の川辺
乞田川/多摩市落合
気が付けば、年の瀬ですねぇ~・・・、なんだか夢のよう。それにしても、いいお天気、気持い~い!


by Twalking | 2014-12-26 13:01 | ○写真上達への道