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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 田園都市線多摩川橋梁   

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田園都市線多摩川橋梁/兵庫島


田園都市線多摩川橋梁 
東急田園都市線の二子玉川駅
~二子新地駅間に位置し、世田谷区玉川一丁目地先と川崎市高津区瀬田地先の間を結んでいる。二子橋側の桁には「田園都市線二子橋梁」の表記があり、ボルトが落下した際の東急電鉄プレスリリースにも「二子橋梁」と記載されている。橋長440.4m・複複線・ボックス型プレートガーダー橋で1996年完成。二子玉川駅のホームの約半分は鉄橋の上にある。Wikipedia

by Twalking | 2015-06-30 23:01 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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パルテノン大通り/多摩センター
なかなか晴れませんね~、梅雨時だからなぁ~・・・。

by Twalking | 2015-06-30 11:22 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 お月さん   

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あ、お月さん、なんだかお久振り~!かなぁ~。。。
多摩丘陵/多摩市
2015.6.29(月)19:24

by Twalking | 2015-06-29 19:37 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 府中駅   

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京王線府中駅
これから調布のカレー屋さんで昔の仲間と会食、お会いするのが楽しみで~す。


府中駅
当駅は地理的にも行政的にも府中市の中心部に位置しており、JR府中本町駅とともに府中市を代表する駅である。ただし、当駅と府中本町駅との距離は700mほどあり乗り換え案内は行われない。また、「都会的で現代的なミュージアムをイメージさせる駅」として、関東の駅百選にも選定されている。(Wikipedia


by Twalking | 2015-06-29 09:45 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道・上道(4)府中~西国分寺   

日時 2015.6.20(金)
天気 曇り

街道は現在の府中街道の西側を北へ向かいますが、
工場の敷地内ですので昔の面影はありません。
今回は逆コースで西国分寺の史跡を訪ねてみました。

何と言っても府中・国分寺は古代の武蔵国の中心、
発掘された東山道武蔵路や国分寺跡など史跡が一杯、
ロマンの香りと豊かな武蔵野の自然を楽しみました。


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街道は西国分寺から北へ向かいます/西国分寺駅前

国分寺市

大化の改新後武蔵国の国府が府中にあり、その府中宿より北上する官道(東山道武蔵路)で当地につながっていた。地名は741年に聖武天皇の命により建立された国分寺(武蔵国分寺)がこの地にあったことに由来する。(地理)市は東西約5.68km、南北約3.86kmにわたって広がり、大部分が武蔵野段丘の平坦面上である。市域の大部分を占める高台上の平坦地である武蔵野台地と国分寺崖線を境に一段低い立川台地、および高台を刻んで流れる野川上流の谷でできている。国分寺崖線は「ハケ」とも呼ばれ、大昔立川台地の形成期に多摩川が武蔵野台地を浸食してできた浸食崖である。上流は武蔵村山市残堀付近から始まり、市内西町5丁目(高さ約5m)、光町1丁目(高さ約11m) 、西元町(高さ約12m)及び東元町1丁目と南町の境(高さ約16m)へと続き、さらに野川の東岸に沿って大田区丸子橋付近まで伸びている。また、「お鷹の道・真姿の池湧水群」(名水百選)と言われる湧水群があり、ハケ下の野川に流れ込んでいる。海底時代、陸北時代、武蔵野台地形成時代、立川台地形成時代を経て現在の地盤ができ、表土から下へ関東ローム層、砂礫層、そして岩盤(連光寺互層)となる。Wikipedia


・・・姿見の池

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d0183387_18462368.jpg姿見の池/西恋ヶ窪

かつて付近の湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み清水を湛えていました。現在の府中街道とほぼ同じ道筋にあたる東山道武蔵野路や鎌倉上道の宿場町であった恋ヶ窪の遊女達が、朝な夕なに自らの姿を映して見ていたことから「姿見の池」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。恋ヶ窪という地名の由来の一つとも云われ、傾城・夙妻太夫が武将・畠山重忠を慕って 身を投げた池といわれています。「武蔵野夫人」(大岡昇平著)など文学作品にもよく登場する名所です。平成10年度東京都と国分寺市は、湿地、用水路、水辺林等を含めた池周辺地域を東京都指定「国分寺姿見の池緑地保全地域」として整備し、かつての武蔵野の里山風景を見ることができます。(国分寺市)


・・・東山道武蔵路

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東山道武蔵路遺構/泉町


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遺構レプリカ展示場

古代官道東海道武蔵路とは
大化の改新(645)後、日本は政治の仕組みを整えるため唐の制度を積極的に取り入れ、天皇の居所に都(藤原京・平城京など)を造営し、律(刑法)や令(行政法)に基づく中央集権国家を成立させました。この過程で、国の支配体制を全国に及ぼすために都周辺には「畿内」その他の地域には東海・東山・北陸・海南・山陽・山陰・西海道の「七道」を設定し、語畿七道と呼ばれる地方行政区分を施行しました。七道は地方の領域を示すとともに、都から各地の国府に向かう幹線道路(官道)の名称でもありました。古代の官道は目的地までを最短距離で結ぶために極力直線を志向して経路が設定されていることが特徴です。また、約16kmごとに駅家(うまや)を起き、都の役人が往来するために駅馬(はゆま)が配備されていました。これを駅制と呼んでいます。平安時代に編纂された「延喜式」には当時の駅路が記載されていますが、そこから古代の道路網を復元するとその総延長は約6300kmにも及んでいたことが明らかになっています。


d0183387_19422376.jpg現在東京都・埼玉県・神奈川県の一部を包括する武蔵国は当初、七道のうち東山道諸国に含まれていました。東山道は都から東へ山伝いに続く道で、近江・美濃・信濃国から碓氷峠を越えて上野国に入り、下野国を経て陸奥・出羽国へと通じています。このうち、武蔵国は上野・下野国を通る東山道の本道から南へ大きく外れた位置にあるため、上野国の新田駅付近から5つの駅家を経て武蔵国府に南下する枝道が存在したことが、奈良時代に編纂された「続日本記」に記されたいます。その後、宝亀2(771)年に武蔵国は都との往来が東山道では不便であるという理由で、相模国を経由する東海道諸国に配属替えされました。これにより東山道武蔵路は公的な駅路としての役割を終えることになりますが、その後も武蔵国内の重要な南北交通路として機能していたことが様々な資料からうかがえます。(説明板)


d0183387_20095131.png武蔵国分寺と東山道武蔵路 
奈良・平安時代の武蔵国の中心で、国府・国分寺が置かれていた現在の府中市、国分寺市域では、開発工事に先だって数多くの発掘調査が行われています。昭和50年代以降、約12m幅で並走する複数の遺構がほぼ一直線上に並んで点々と検出される状況が明らかになり、国分寺市内ではこれらの遺構を「SF1道路跡」と名付けて調査を行ってきました。この後、全国的に古代の道路遺構に対する関心が高まる中で、これらの遺構の延長線上にあたる各地で構造が類似する遺構や硬化面の発見が相次ぎ、府中・国分寺市を南北に縦貫する道路遺跡が北関東と武蔵国府をつなぐ「東山道武蔵路」であるという見解が定着していきました。また、国分寺市では昭和50~60年代に実施した武蔵国分僧尼跡の範囲確認調査によって、東山道武蔵路を挟んで東側に僧寺、西側に尼寺を配する伽藍域を形成していたことや、東山道武蔵路が僧寺寺院を囲む区画で西辺としての機能を兼ねていることが明らかになりました。市内で東山道武蔵路は、北側から東戸倉1丁目、東恋ヶ窪6・4・3丁目、西恋ヶ窪1丁目、泉町1丁目、西元町2・3丁目を通り、その延長は約3kmに及ぶことが想定されます。平成26年3月現在、約60ヶ所の発掘調査地点から道路の痕跡が発見されています。(説明板)


・・・武蔵国分寺公園

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円形広場


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こもれび広場


d0183387_20260854.jpg都立武蔵国分寺公園

この公園は旧国鉄の「中央鉄道学園」などの跡地を利用して造られました。公園北側・泉地区は外周500mの「円形広場」や扇の滝が流れる「武蔵の池」など開放感のある空間が特徴です。南側・西元地区は木々に囲まれた「こもれび広場」や国分寺崖線につながる「野鳥の森」など武蔵野の自然が感じられます。周囲は「武蔵国分寺跡」や「お鷹の道」「真姿の池」など名所・旧跡があります。(案内板)


・・・真姿の池湧水群

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真姿の池

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湧水                 弁財天

真姿の池湧水群(ますがた)

真姿の池は、東京都内では青梅市の御岳渓流と共に環境庁の「名水百選」に指定された「お鷹の道・真姿の池湧水群」の一部であり、東京都の国分寺崖線緑地保全地域にも指定されている。真姿の池の由来は、嘉祥元年(848)不治の病に苦しんだ玉造小町が、病気平癒祈願のため国分寺を訪れて21日間参詣すると、一人の童子が現れ小町をこの池に案内し、この池の水で身を清めるようにと言って姿を消したので、そのとおりにしたところたちどころに病は萎え、元の美しい姿に戻った。それから人々はこの池を「真姿の池」と呼ぶようになったという伝説からきている。真姿の池は「新編武蔵風土記稿」に「広さ2間四方許、池中(ちちゅう)の狐嶼(こしょう)に弁天の祠宇(しう)を置、この池水も田地へそそく」とある。周辺の雑木林は下草の刈り払いが行われ管理が行き届いており国分寺崖線の雑木林景観が良く保存されている。国分寺から小金井・三鷹・調布・狛江を経て世田谷の等々力渓谷に至る標高差約15mほどの崖線で「ハケ」と呼ばれている。東京を代表する湧泉の価値を文化財として評価された最初の自然地理的名勝である。(東京都教育委員会)

d0183387_22284533.png国分寺市から世田谷まで続く武蔵野段丘南側の国分寺崖線は、古多摩川の流路によってつくられた地形で、通称「ハケ」と呼ばれています。関東ローム層の下には砂利の混ざっている武蔵野礫層があり、大地に降った水が地下水として流れています。国分寺崖線の下ではここから水が湧きだしています。真姿の池湧水群を含めたこの付近の湧水は野川の最源流となっています。(案内板)


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お鷹の道
江戸時代の寛延元年(1748)に国分寺市内の村々は、尾張徳川家の御鷹場に指定され、慶応3年(1867)に廃止されるまで村人の生活に多くの影響を与えていました。崖線下の湧水を集めて野川にそそぐ清流沿いの小道はいつのころから「お鷹の道」と呼ばれ、昭和4748年に国分寺市が遊歩道として整備しました。(案内板)


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武蔵国分寺 
国分寺市にある真言宗豊山派の寺院。山号は医王山。本尊は薬師如来。奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、武蔵国国分寺の後継寺院にあたる。『医王山国分寺縁起』によれば、武蔵国の国分寺は、元弘3年(1333)の分倍河原の戦いで焼失し、建武2年(1335年)新田義貞により薬師堂が再建されたという。その後衰退し、宝暦6年(1756)頃に薬師堂が再建された。薬師堂は、建武2年(1335)に新田義貞が旧国分寺の金堂跡に建てたことに始まると伝える。現在の建物は宝暦年間(1751-1763年)の再建。安置する薬師如来坐像は国の重要文化財である。仁王門は宝暦年間(1751-1763年)の建立で、入母屋造の八脚門。楼門は米津寺(東久留米市)の楼門を明治28年に移築したもの。これら薬師堂・仁王門・楼門は、市の文化財に指定されている。また境内には「万葉植物園」として、元国分寺住職が昭和25-38年(1950 - 1963年)の間に万葉集に歌われた植物160種を集めて造った植物園がある。(Wikipedia


・・・武蔵国分寺跡

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武蔵国分寺跡資料館

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武蔵国分寺イメージ図/武蔵国分寺跡資料館


d0183387_00213919.png武蔵国分寺の建立
国分寺の造立にあたっては、詔にあるように好所を選ぶことが命じられていました。当時は帰国した遣唐使から中国の四神相応思想が伝えられ、都のみならず国府や国分寺もこの思想が基本となって造営されたと考えられます。武蔵国では①北に東西に連なる国分寺崖線と麓の清らかな湧水②南に広がる広大な平地③西に南北を通る東山道武蔵路④東に川が流れているなどの条件を備えたこの地一帯が適地として選ばれました。昭和49年(1974)史跡整備に関わる寺地・寺域確認を目的とした第1期調査が開始され、以降の継続的な発掘調査によって武蔵国分寺の主な建物は、詔からおよそ20年前後の757765年の間に完成したものと推定され、国分寺の規模は全国でも最大といわれる壮大な伽藍であったことが明らかになりました。そして武蔵国分寺に関連する遺跡は僧・尼寺の周辺に群集する住居群などを含めると東西約1.5km、南北1.0kmもの範囲に及び、また僧寺では3種の区画変遷があったことがわかりました。(武蔵国分寺跡資料館)


d0183387_00221547.jpg鎌倉・室町時代 
源頼朝が鎌倉に幕府を開くと関東を中心に政治がおこなわれるようになりました。鎌倉と関東各地を結ぶ交通路が整い、市内には「鎌倉上道」が通過していたと思われます。恋ヶ窪に残る一松伝説は源頼朝の平家追討に参加した秩父の武将・畠山重光と遊女・夙妻太夫(あさづまだゆう)の悲恋物語です。現国分寺に残る「医王院縁起」によれば、元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの戦いに巻き込まれて国分寺は消失しますが、翌年の新田義貞の寄進によって建武2年(1335)に薬師堂が再建されました。室町時代、深大寺(調布市内)の僧が書いた「長弁私案杪」に応永7年(1400)国分寺の薬師如来の脇持日光菩薩と月光菩薩造立の勧請文が載っていて、国分寺が地方寺院として人々の信仰を集めていたことがわかります。(武蔵国分寺跡資料館)

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金堂跡
金堂は本尊仏を安置する建物です。桁行き7間(約36m)×梁行き4間(約17m)の礎石建物として建てられました。現在も多くの礎石が残されています。武蔵国分寺の金堂は諸国国分寺中最大級の規模となります。(国分寺市)


d0183387_10353506.jpg講堂跡

講堂は経典の講義などが行われる建物です。桁行き5間(約29m)×梁行き4間(約17m)の礎石建物として創建され、後に金堂と同規模の桁行き7間(約36m)×梁行き4間(約17m)に増設して再建されたことが明らかになっています。(国分寺市)


d0183387_10372704.jpg七重塔跡

七重塔跡は金堂・講堂跡から東方200mのところに位置します。塔は「金字金光明最勝王経(きんじこんこうみょうさいしょうおうきょう)」を安置する国分寺の重要な施設でした。3間(約10m)四方の礎石建物で、高さは約60mほどあったと推定されます。現在、中央にほぞ穴(心柱を受ける穴)がある心礎を含め7個の礎石が残っています。国史である「続日本後紀」に、承和2年(835年)に七重塔が雷火で焼失し、復旧ができなかったのを前の男衾郡(おぶすまぐん・現在の埼玉県比企郡付近)の大領(長官)である壬生吉志福正(みぶのきっしふくしょう)が再興を願い出て許されたと記されています。発掘調査では塔が創建期とその後の2回この位置で建てられたことを確認しています。また、平成15年度の地下レーダー探査により礎石の残る塔跡(塔跡1)の西方約55mの地点で、もう一つの塔跡(塔跡2)が発見されました。塔跡2には大規模な地盤固めの跡(版築・はんちく)があるのみで礎石は残っていません。塔跡2と塔跡1の建て替えとの明確な関係は把握できていません。(国分寺市)


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武蔵国分寺跡/国分寺市教育委員会発行



・・・国分尼寺跡 

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金堂前面に建てられた幢竿跡 
のぼり旗を懸け吊るした高竿の跡と考えられる堀立柱式の柱穴。旗を「幢幡」(どうばん)あるいは「幡」といい、高竿を「憧竿」あるいは「憧」という。尼寺中枢部では金堂基盤の南端より12m離れてた位置に東西4本の柱穴が並んで発見された。中央は参道のため5mほど開いている。柱を埋めた穴は1辺1.2m~1.5m、深さ0.6mほどの長方形で柱径は25cm。柱の高さは6mあまりとなる金堂の軒先の高さを超えていたものと想像できる。金堂前面が重要な儀式の場となり、様々な法会が開かれていたことが実際の遺構から確認された例は全国的にも珍しい。(説明板)


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国分尼寺跡

西元町四丁目のJR武蔵野線西側に武蔵国分尼寺跡が広がっており、国指定史跡武蔵国分寺跡に一括して指定されています。史跡指定地は公有地化と整備事業を終え、国分寺市最初の市立歴史公園として平成154月に開園しました。確認調査の成果に基づき尼寺伽藍の中枢部を構成する中門・金堂・尼坊など主要建物や区画施設である掘立柱塀を、埋没保存されているその位置で建物平面などを復元的に表示しています。尼坊は柱位置が判明しましたので新たに石を配置してあります。このほか、中門と金堂の間で発見された幢竿遺構(儀式などの際、周囲を荘厳するための旗などを掲げる柱跡)を表示しています。また、金堂では、版築という大陸伝来の工法で、周囲より一段と高く築かれた基壇の土層断面標本を観察できる施設があります。尼坊の北側一帯の平坦部には尼寺関連の遺構群が埋没していると考えられますが、保存したまま広場としてご利用いただいています。さらに北側の崖線には、伝鎌倉街道の切通しが貫通しが残りその西側に中世の伝祥応寺跡、東側に塚跡があります。(国分寺市)


・・・伝鎌倉街道/武蔵国分尼寺跡北

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伝鎌倉街道
鎌倉時代に幕府所在地である鎌倉と各地を結び、周辺諸国の武士団や物資を運ぶ幹線道路が整備されました。現在の「鎌倉街道」の名は、近世になって使用されたものであり鎌倉当時は武蔵国内を通過する主要道路は上の道、中の道、下の道と呼称されていました。鎌倉以前の幹線道路である東山道と道筋の重なる「上の道」が現在の鎌倉街道にあたります。鎌倉から町田・府中を経て国分寺市内の武蔵国分尼寺跡西側-泉町交差点付近-小平を通り、上野(群馬県)、信濃(長野県)方面にのびており、市立歴史公園(武蔵国分尼寺跡)の北側に約120mの道が「鎌倉上道」の名残と云われて保存されています。(国分寺市)


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伝祥応寺跡              塚跡 

伝祥応寺跡・塚跡
国分尼寺から伝鎌倉街道切通に入って約90mの所の西側の階段を上がると伝祥応寺跡、東側を上がると塚跡がありいずれも中世の遺跡です。伝祥応寺は本多4丁目の祥応寺の前身寺院であったといわれ、塚も伝祥応寺跡と関係する修法壇跡と推測されています。鎌倉街道沿いに中世の寺院と塚が残っている点でも貴重な遺跡です。(国分寺・歴史観光マップ)


・・・府中

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馬場大門のケヤキ並木 
日本国
指定天然記念物の並木であり、大國魂神社の参道でもある。約150本のケヤキが全長約500mの馬場大門に沿って並木を構成する。並木の起源は古く、平安時代の植樹から始まったともされ『武蔵名勝図会』に記された寛文74 (1667) 本所社頭の制札にも現れる。馬場の名前が示すとおり、安政年間ごろまで東馬場、西馬場で馬市が立っていた。東馬場、西馬場は馬を品評するための場所で、馬場中道と東馬場・西馬場それぞれの境に馬留の土手が存在した。また、馬場大門の北端には六所宮(現代の大國魂神社)の一の鳥居が、南端には二の鳥居(現代の大鳥居)が存在し「馬場中道」は六所宮の参道として機能した。(Wikipedia


d0183387_12225743.jpg府中市
東京都のほぼ中央に位置する都市で、武蔵野・多摩地域の旧北多摩部に当たる。律令時代に武蔵国の国府が置かれた地である事から、武蔵国の国府という意味で府中と呼ぶようになった。当地以外の国府と区別するために「武蔵府中」とも呼ばれる。645年の大化の改新後に武蔵国の国府が置かれるなど古代から政治や経済と文化の中心地として栄えており、江戸時代は甲州街道の宿場の中でも大きな「府中宿」があった。鎌倉時代にも要衝地域となっており、戦後も多摩地域の主要都市として行政機関・病院等の公共機関が数多く集積する。交通網としては、上記の地理的、歴史的な観点から、現在でも東京都区部近郊の交通の要衝として東西南北(区部・東京郊外・神奈川県および埼玉県)を結ぶ。これは国府設置以来中心地にある大國魂神社を基点に発達していったことが影響している。(地理)市域全域が武蔵野台地上にある。多摩川中流左岸の河川段丘に広がっており、多摩川対岸に多摩丘陵を望む。市の中央やや南を府中崖線(別名は立川崖線)が、北辺に沿って国分寺崖線がそれぞれ東西に走っている。この崖線(ハケ)の前者の高さは10mから15m、後者は10mから20mである。国分寺市に近い当市武蔵台の一部はこの国分寺崖線上の武蔵野段丘上にある。府中崖線の南側を多摩川低地、両崖線に挟まれた部分を武蔵野台地の立川面、国分寺崖線の北を同じく武蔵野面と呼ぶ。この武蔵野面上の武蔵台3丁目が標高は82mと市内最高標高となっている。(Wikipedia



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東京都文化財めぐり 府中・国分寺散策コース/東京都教育委員会

国指定名勝・殿ヶ谷戸庭園の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23038018/


by Twalking | 2015-06-28 14:38 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 バショウ   

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バショウ
武蔵国分寺公園/国分寺市 


バショウ
(芭蕉)
バショウ科の多年草。英名をジャパニーズ・バナナと言うが、中国が原産といわれている。高さは23mで更に11.5m・幅50cm程の大きな葉をつける。花や果実はバナナとよく似ている。熱帯を中心に分布しているが耐寒性に富み、関東地方以南では露地植えも可能である。琉球諸島では昔から葉鞘の繊維で芭蕉布を織り、衣料などに利用していた。沖縄県では現在もバショウの繊維を利用した工芸品が作られている。(Wikipedia


by Twalking | 2015-06-27 11:01 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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国分寺崖線&真姿の池湧水群
武蔵国分寺跡資料館/国分寺市西元町

by Twalking | 2015-06-27 10:01 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 西国分寺駅   

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中央線西国分寺駅


西国分寺駅
 
国分寺市西恋ヶ窪二丁目にあるJR東日本の駅である。中央線と武蔵野線の2路線が乗り入れ中央本線を当駅の所属駅としている。元々中央線には西国分寺駅は設置されていなかったが、武蔵野線開通に伴い乗り換えの便を図るために設置された。東京 - 高尾間の中央線の駅では最も新しい駅である。(Wikipedia


by Twalking | 2015-06-26 20:57 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 朝の風景   

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ドック・ウオーキング
おはようございま~す、ドックウオーキング、気持いいですね~!
都立武蔵国分寺公園/国分寺市

by Twalking | 2015-06-26 18:28 | DogWarkig&セミナー(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 クチナシ   


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花のかおりが~ 
  旅路のはてまでついてくる~♪♪・・・。
大塚公園/八王子市松が谷


クチナシ
(梔子、巵子、支子)
アカネ科クチナシ属の常緑低木である。果実が漢方薬の原料(山梔子)となることをはじめ様々な利用がある。果実が熟しても割れないため「口無し」という和名の由来となっている説もある。他にはクチナワナシ(クチナワ=ヘビのこと、ナシ=果実のなる木、よってヘビくらいしか食べない果実をつける木という意味)からクチナシに変化したという説もある。樹高1-3 mほどの低木。葉は対生で時に三輪生となり、長楕円形、時にやや倒卵形を帯び、長さ5-12cm、表面に強いつやがある。筒状の托をもつ。花期は6-7月で、葉腋から短い柄を出し一個ずつ花を咲かせる。花弁は基部が筒状で、先は大きく6弁に分かれ、開花当初は白色だが徐々に黄色に変わっていく。花には強い芳香があり、学名の種名
jasminoides は「ジャスミンのような」という意味がある。(Wikipedia


by Twalking | 2015-06-25 13:48 | ○Flower