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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり目黒不動尊   

日時 2015.9.29(火)
天気 晴れ/曇り

目黒で降りて、五反田へ向かいました。
目黒雅叙園辺りは歩いたことがありますが、
お不動さんは初めて、お参りできてよかったです。


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権之助坂

江戸中期、中目黒・田道にいた名主・菅沼権之助が村人のために年貢の取立てを緩めてもらおうと訴え出たため、罪に問われて死罪となってしまいました。刑に処せられる権之助は、当時「新坂」と呼ばれていたこの坂の上から我が家を振り返り刑場に引かれていったそうです。村に尽くした功績をたたえてこの坂を「権之助坂」を呼ぶようになったと云われています。また一説では、当時の道路(目黒道)は江戸市中から白金を通り、行人坂を下って太鼓橋を渡り大鳥神社に抜けていましたが、行人坂があまりに険しく通行人が難儀していました。見かねた権之助が私財を投じて新しい坂を切り開きましたが、当時は江戸城を守る観点から勝手に道を作ることが禁じられており、権之助は事前に許可を取らなかったために、罪に問われて死罪に処せられたとも云われています。(港区)

目黒通り(東京都道312号白金台町等々力線)

江戸時代の古地図にすでにこの道路の姿を見て取ることができる。江戸から大鳥神社、目黒不動尊、さらには浄真寺(九品仏)に向かうための通りでもあった。起点は港区白金台一丁目(清正公前交差点)、終点は世田谷区玉堤二丁目。目黒川を横切る権之助坂は比較的勾配がきつい。等々力不動前交差点の先は、国分寺崖線の坂道になっており、急坂を下って多摩川の土手・多摩堤通りに突き当たり終点となる。Wikipedia


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行人坂 

「行人坂」の名前は坂の南側に位置する大円寺に由来しています。江戸初期・寛永年間(1624)、この付近で住民を苦しめていた悪人どもを放逐するため、江戸幕府は奥州(山形県)湯殿山より高僧行人・大海法印を勧請して寺を開きました。法師は悪者どもを一掃し、その功績で寺には「大円寺」の寺号が与えられました。寺には大日如来堂が建立され、多くの行人たちが周辺に住み修行するようになったため、「行人坂」と呼ばれるようになったと云われています。江戸時代の行人坂は、目黒不動と周辺地域とを結ぶ「目黒道」の一つで、江戸町中から目黒不動を参詣し、池上本門寺へ至る主要道路の途中に位置しています。(港区)


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江戸名所図会 富士見茶亭 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

江戸時代には江戸と目黒を結ぶ交通の要衝でもあり、富士見の名所としても知られ、また、明和の大火ばかりでなく八百屋お七の恋人とされる吉三の墓もあり江戸の大火に縁のある坂でもある。行人坂は坂の頂上からおおむね西南西に急勾配で下るため江戸時代には坂上からは富士山がよく見える富士見の名所として富士見茶屋が置かれ、『江戸名所図会』にも坂の全景と富士見茶屋、太鼓橋の三つが描かれている。
Wikipedia


d0183387_13362043.jpg目黒川架橋供養勢至菩薩石像/大円寺脇
下から台座97cm、連座20cm、頂上に宝瓶のついた宝冠をかぶり、両手合掌、半跏趺坐の勢至菩薩像52cm3段になっています。台座の前面と両側面に、江戸中期における目黒川架橋のことを語る銘文が刻まれています。 銘文によると、宝永元年(1704)に西運という僧が目黒不動龍泉寺と浅草観音(浅草寺)に毎日参詣し、往復の途中江戸市民の報謝を受け、両岸に石壁を築いて雁歯橋を架けたことがわかります。目黒川架橋の史実を物語る貴重な資料です。



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大円寺

この寺は「松林山大円寺」といいます。寛永のはじめ、湯殿山の大海法印が寺の前の坂(行人坂)を切り開き、大日金輪を祀って祈願の道場を開いたのがその始まりであると伝えられています。本寺には”生身の釈迦如来”と言われている木造「清涼寺式釈迦如来立像」(国指定文化財)、「木造十一面観音立像」(区指定文化財)、徳川家の繁栄と江戸発展守護のための「三面大黒天像」(山手七福神の一つ)などが安置されています。明和92月(1772)本堂から出火、江戸六百余町を焼き多くの死者を出しましたが、その供養のために造られた釈迦三尊・十六大弟子、五百羅漢の像等の「大円寺石仏群」(都指定文化財)が建てられています。また阿弥陀堂には「木造阿弥陀如来三尊像」(区指定文化財)や八百やお七の火事にまつわる西運上人の木像、お七地蔵などが祀られています。境内には「行人坂敷石石造道供養碑」(区指定文化財)、「目黒川架橋供養勢至菩薩石像」(区指定文化財)、西運の墓、などがあります。江戸の面影を残している行人坂の景観や老樹古木のしげる境内は緑の自然と古い歴史が薫る静かな美しい浄域を守っています。(目黒区教育委員会)


d0183387_12202431.jpg大円寺石仏群 
大円寺石仏群明和9年(1772)江戸市中を焼く大火があり、火元とみられるたのが大円寺であった。この火事は「行人坂の火事」と呼ばれ、明暦3年(1657)の振袖火事、文化3年(1806)の車町の火事と並び江戸三大火事の一つに火事に数えられている。「新編武蔵風土記稿」には大円寺境内の五百羅漢は行人坂の火事で亡くなった人々を供養するために建立されたと記されている。大円寺境内の北東側斜面に520躯の石仏群が安置されている。左右に文殊菩薩、普賢菩薩を配した釈迦三尊像を十大弟子と16羅漢が囲み、背後に491基の羅漢像が並ぶ。造立年代は五百羅漢の中に宝暦13年(1763)の刻銘もあるが、多くは釈迦如来の刻銘天明元年(1848)の造立と思われる。嘉永元年(1848)大円寺の再興された時、これらの石仏もここに安置されたと考えられる。像高は釈迦三尊が147115cm、十大弟子が55126cm、16羅漢が95cm、五百羅漢が37cm前後。判読できる銘文によると行人坂の火事以外の供養も含まれているようである。また広く勧進を募り、時間をかけて今の石仏群が作られたとも読み取れる。江戸災害史の貴重な史料である。(東京都教育委員会)


d0183387_13221037.jpg行人坂敷石造道供養碑
この供養碑は、高さ164cm。碑の上部に種子(梵字)キリーク(阿弥陀)サ(観音)サク(勢至)が刻まれています。下部の碑文によって、この坂を利用する念仏行者たちが悪路に苦しむ人々を救うため、目黒不動尊や浅草寺に参詣し、通りがかりの人々から報謝を受け、これを資金として行人坂に敷石の道を造り、この成就と往来の安全とを供養祈願したことがわかります。施主は西運で元禄16年(1703)の紀年があり、江戸と目黒の社寺を結ぶ重要な参詣路であった行人坂開発の歴史を知るうえに貴重な歴史資料です。(目黒区教育委員会)

d0183387_12202822.jpg目黒川の太鼓橋に使用された石材

八百屋お七の恋人吉三は、その後名を西運と改めお七の菩提を弔うため江戸市民から寄進された浄財を基に行人坂の石畳、太鼓橋を石の橋にした。(標柱)


d0183387_14003343.jpg目黒雅叙園
行人坂の下部、左側は結婚式場・ホテル・レストランなどで知られる目黒雅叙園がある。江戸時代には大円寺の下には明王院という寺があった。吉三のちの西運上人は明王院の僧であった。明治に廃寺になり、吉三の墓を含め大円寺に移されている。明王院の敷地は現在の目黒雅叙園の敷地の一部となっている。Wikipedia


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お七の井戸
八百屋の娘お七は恋いこがれた寺小姓吉三あいたさに自宅に放火し、鈴ヶ森で火刑にされた。吉三はお七の火刑後僧侶となり名を西運に改め、明王院に入り目黒不動と浅草寺観音の間、約十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行を成し遂げた。明王院という寺院は現在の目黒雅叙園エントランス付近から庭園にかけ明治13年頃まであった。この明王院内の井戸で西運が念仏行に出かける前にお七の菩提を念じながら水垢離をとったとことから「お七の井戸」と言い伝えられている。(案内板)



d0183387_14035766.jpg太鼓橋 

目黒川の橋であり行人橋の西端である。1769年(明和6年)に完成した。建設された当時としては珍しい石造りであった。長さ83尺(約15.3m)、幅2間(約3.6m)であり、名前の通りいわゆる「太鼓橋」の形状をしていた。斎藤月岑が『江戸名所図会』に選び、歌川広重が『江戸名所百景』にも描いた。太鼓橋を造った人物には諸説あり、お七火事の放火犯お七の恋人だった僧侶の吉三(西運)だったという伝説がある。修行中に江戸の民衆から寄進を集めて太鼓橋を造ったという。橋の東側にあった大円寺には吉三の伝説が書かれた標識があったほか、旧太鼓橋に使用された石材が置かれてある。ほかにも、木喰上人(木喰養阿)が1700年代の始めに作り始め、江戸・八丁堀の町人が資金を出し合い、完成させたという説がある。Wikipedia


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目黒川 
水源は武蔵野台地(世田谷区)。世田谷区、目黒区および品川区を流れ東京湾に注ぐ河川。河口付近では古くは「品川」(しながわ)といい、湾岸開発が進む以前は河口付近で流れが湾曲していて流れが緩やかであったため、古くは港として使われ、の行き交っていたであった。これが「品川」の起こりとされる。江戸時代の絵図などでは、その上流の下目黒付近では「こりとり川」と記され、江戸時代に目黒川と記した絵図はない。「こりとり」は「垢離取り」の意味でこの川で身を清めてから目黒不動尊に詣でたのである。
Wikipedia

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江戸時代の太鼓橋(歌川広重『江戸名所百景』




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目黒不動(瀧泉寺)

天台宗泰叡山龍泉寺は、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、通称「目黒不動尊」と呼び親しまれています。江戸時代には3代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の厚い保護を受けました。また、江戸五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)の一つとして広く人々の信仰を集め、江戸近郊における有名な行楽地になり、門前町とともに大いに賑わいました。さらに江戸時代後期には富くじが行われるようになり、湯島天神と谷中感応寺(現天王寺)と並んで「江戸の三富」と称されました。境内の古い建物は、戦災でその大半が焼失しましたが、「前不動堂」(都指定文化財)と「勢至堂」(区指定文化財)は災厄を免れ、江戸時代の仏堂建築の貴重な姿を今日に伝えています。その昔、境内には「銅造役の行者倚像」、「銅造大日如来坐像」(ともに区指定文化財)があり、仁王門左手の池近くには「山手七福神」の一つの恵比寿神が祀られています。裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡が確認され、墓地には甘藷先生として知られる青木昆陽の墓(国指定史跡)があります。(目黒区教育委員会)

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江戸名所図会 目黒不動尊 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


d0183387_14480674.jpg仁王門 
三間一戸の朱塗りの楼門で、昭和37年(1962年)再建の鉄筋コンクリート造である。





d0183387_14481723.jpg大本堂 
急な石段を登った先の一段高い土地に建つ。入母屋造に千鳥破風をもつ大規模な仏堂で、昭和56年(1981年)再建の鉄筋コンクリート造建築。傾斜地に建っており、室生寺金堂や石山寺本堂のような懸造(かけづくり)風のつくりになっている。天井には日本画家川端龍子の「波涛龍図」が描かれている。


d0183387_14522307.jpg大日如来像 
大本堂の背後にある露座の銅製仏像。膝前で印を結ぶ胎蔵界大日如来像で、天和3年(1683年)の作。




d0183387_14490055.jpg独鈷の滝 
本堂へと登る石段下の左手に池があり、2体の龍の口から水が吐き出されている。伝承では、円仁が寺地を定めようとして
独鈷(とっこ、古代インドの武器に由来する仏具の一種)を投げたところ、その落下した地から霊泉が涌き出し、今日まで枯れることはないという。。Wikipedia


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目黒不動尊境内案内図



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かむろさか/品川区西五反田

「江戸時代、辻斬り強盗を重ねていた元鳥取藩士平井(白井)権八が鈴が森で処刑され、なじみの遊女小紫は悲しんで自害した。この時、帰りが遅い小紫を探しに来たお付のかむろが、帰り道でならず者に襲われ、逃げ道を失い桐ヶ谷の二つ池に身を投げたという。これを哀れんだ近くの人が亡骸を傍らの丘に葬り、その後この一帯の丘陵をかむろ山、これに通じるこの坂をかむろ坂と呼ぶようになった」。(標柱)

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目黒区みどりの散歩道 不動コース


by Twalking | 2015-09-30 15:42 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02   

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「ギャオ~!」
「キャ~!」かな。

多摩丘陵/多摩市

by Twalking | 2015-09-30 10:38 | ○雲

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 戸越銀座駅   

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池上線戸越銀座駅/品川区


戸越銀座駅 
品川区平塚
二丁目にある東京急行電鉄池上線の駅である。駅名は駅からすぐの戸越銀座商店街に由来する。所在地は「平塚」であることから当初は「平塚駅」になる予定だったが、既に同名の駅が東海道本線にあったため知名度の高い「戸越」が仮駅名として選ばれたが、地元商店街からの要望で現在の「戸越銀座」と命名された。Wikipedia

by Twalking | 2015-09-29 23:38 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 荏原町駅   

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東急荏原町駅/品川区


荏原町駅 
品川区中延
五丁目にある、東京急行電鉄大井町線の駅である。192776日に開業した。駅名は開業時、江原郡荏原町大字中延に立地しており、町名を採用したもの。Wikipedia

by Twalking | 2015-09-29 22:33 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 スーパームーン   

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スーパームーン
赤いまんまるお月さん、美しいですね~、うっとり。。。

多摩丘陵/多摩市
2015.9.28(月)18:29

by Twalking | 2015-09-28 19:37 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夕暮れ   

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夕暮れ
パルテノン大通り/多摩センター

by Twalking | 2015-09-28 19:14 | ○雲

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中秋の名月   

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雲間にお月さん、嬉しいな~、しあわせ。。。

鶴牧東公園/多摩市鶴牧
2015.9.27(金)19:32

by Twalking | 2015-09-27 22:02 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中原街道(1)虎ノ門~五反田 02高輪   

日時 2015.9.21(金)
天気 晴れ

中原街道は桜田通りに重なりますが、
旧道は慶応の先で聖坂を上り旧三田台町~高輪へと向かいます。
台地の下(海側)が東海道、北側が古川の低地(中原街道)で、
丘の上は昔の面影の残るなかなか趣がある道です。


・・・三田台

三田台町
三田丘陵の最も高い場所にあることからその名のとおり三田台町となりました。江戸の初めにたくさんの寺がこの地に移り、それに伴い街道沿いに町がつくられました。今もこのあたりは加賀千代女の句「朝顔に つるべとられて もらい水」で知られる薬師寺、フランス公使館が置かれた済海寺な由緒ある寺社が数多くあります。(港区旧地名由来)

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亀塚公園/旧中原街道

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亀塚公園 
縄文時代の住居跡が発掘されている。江戸時代は上野沼田藩土岐伊勢守下屋敷で明治維新後は皇族華頂宮家が日本橋浜町の元諏訪藩邸跡から本所に移る。大正13年同宮家断絶後は一時期内大臣邸となったが昭和8年建物は壊され、昭和20年には空襲により庭園は破壊される。

d0183387_12302298.jpg亀塚 
古くから坪井正五郎博士等によって古墳と指摘され広く知られていましたが、詳細な学術調査が行なわれず、古墳であると決めることはできませんでした。昭和4546年港区教育委員会が主体となり、慶応義塾大学が測量調査および発掘調査を実施した結果、この塚が古墳時代以後に築造されたことが明らかとなりました。さらに平成141718年に港区教育委員会が亀塚と周辺の調査を実施し、亀塚の構築状況を明らかにしました。しかし、埋葬施設や周濠の存在は明確ではなく、依然として古墳と断定することはできていませんがその可能性は高いと考えられます。また、平安時代に書かれた『更級日記』に見える竹芝寺の伝説地とも伝えられ、文明年間(146987)には、太田道灌が斥候を置いたと伝えられています。江戸時代にはこの地を屋敷地としていた沼田城主土岐頼熈(ときよりおき)が、これらの旨を記した「亀山碑」を頂上に建て、現在に伝えています。(港区教育委員会)

d0183387_12221741.jpg亀山碑
亀山碑はここ亀塚の頂部にある幅2.2m、高さ1.4mの石碑で、上野国沼田城主土岐頼熈によって寛延3(1750)に建てられたものです。土岐家は明暦3(1657)にこの地を下屋敷として拝領しました。詩文に秀でた大名といわれた頼熈は、この地が『更級日記』の竹芝寺伝説の地であることや塚の頂部に酒壷があり、ここに出入りする亀を神と崇めていたが一夜の風雨で酒壷の亀が石になったという伝説に興味を持ち、そうした由来を伝えるためにこの碑を建立したと考えられています。大名屋敷に建立された石碑としても貴重なものです。(港区教育委員会)


d0183387_12592639.jpg幽霊坂
坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしいが有礼坂の説もある。幽霊坂は東京中に多く七カ所ほどもある。(港区標柱)

三田台公園(伊皿子貝塚と竪穴住居の復元模型

この貝塚は一京浜国道の西側に連なる標高約11mの高輪台地上にありました。この土地は、戦前は三井家の敷地でしたが、昭和52年この地に電々公社(現NTT)の社屋が建設されることになり、昭和53年より約1年半をかけて発掘調査が行われました。遺跡からは、江戸時代の犬猫の供養墓、平安時代古墳時代の竪穴住居跡、弥生時代中期の方形周溝墓、縄文時代後期の貝塚と竪穴住居跡が、順番に重なり合って発見されました。貝塚は、従来縄文時代前期のものとされていましたが、調査の結果、後期(堀之内式期)のものであることが確認されました。遺跡からの出土品(港区指定文化財)と貝層断面は区立港郷土資料館に展示、保存されています。また、「三田台公園」には、住居跡と貝層の断面が復元、展示されています。(港区教育委員会)

(三田周辺の関連記事はコチラ http://teione.exblog.jp/22212946/


・・・高輪

高輪
現在の田町駅周辺から二本榎へ続く古道、奥州路の道沿いに広がる地域をいいます。この地は東京湾に面した高台で、江戸の町を一望できたといわれています。地名の由来は諸説ありますが、高台の縄手道であることから「高き縄手」の略で、後に高輪と書き改めたといわれています。この道は、江戸開府に伴い東海道が整備されるまで、旅人の往還として役割を担っていました。東は海、西は寺院や町屋のみられる古くからの片側道でした。(港区旧地名由来)

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伊皿子
へ/旧中原街道

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伊皿子坂(いさらごさか)
明国人伊皿子(いんべいす)が住んでいたと伝えられるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりとも、いいさらふ[意味不明]の変化ともいう。(港区標柱)
泉岳寺から上り坂に入り、頂上で魚籃坂に繋がる。江戸時代には、この坂から江戸湾が一望に見渡せた。付近には高輪皇族邸(旧高松宮邸)がある。明国人「伊皿子」(いんべいす)が住んでいたと伝えられるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりとも、いいさらふ〔意味不明〕の変化ともいう。

d0183387_13170030.jpg歯科医学教育発祥之地碑/
信号左角
高山紀斎は米国留学で得た理想を基にここ東京芝区伊皿子町七十番地に明治23(1890)1月、 わが国最初の歯科医学校として高山歯科医学院を設立した。この学院には後の世界的細菌学者野口英世も教壇に立っている。 その後血脇守之助がこれを継承し、 東京歯科医学院、 東京歯科医学専門学校、 東京歯科大学として現在に至っている。この地に端を発した近代歯科医学教育の精神は高山歯科医学院開設以来百有余年,脈々と今に引き継がれている。(学校法人東京歯科大学)

d0183387_13224388.jpg魚籃坂 
坂の中腹に魚籃観音を安置した寺があるために名づけられた。(港区標柱)


高松宮邸

高松宮邸は始め麹町区三年町(現在の内閣府庁舎付近)にあった有栖川宮邸を引き継いだが、昭和に入って同建物が外務大臣官邸に転用されることに伴い、港区高輪一丁目にあった高輪御殿に移転した。同地は江戸時代、大石良雄らの切腹地として知られる肥後細川家の下屋敷跡であり、大正時代には皇太子であった昭和天皇が一時期東宮御所としていたこともある。現在、宮邸敷地および邸宅は「高輪皇族邸」として無人のまま宮内庁の管理下におかれている。Wikipedia

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大石良雄外十六人忠烈の跡/都営高輪アパート奥

この地は、赤穂事件で大石内蔵助良雄ら17人が預けられた肥後熊本藩細川家の下屋敷一部です。赤穂事件とは、元禄14年(1701314日におこった殿中刃傷事件とその翌年1214日の夜から15日にかけての吉良邸討ち入り及びその処分など一連の事件をいいます。当時の藩主五代綱利は、1215日老中稲葉丹後守から大石内蔵助外16人御預けの命を受けると、大目付仙石伯耆守の屋敷に総勢875人の藩士と駕籠を送り引き渡しを受けます。この様な大部隊を送ったのは藩の威武を示すとともに上杉家の襲撃を警戒したためといわれています。細川家は大藩の威力と識見を以て優遇し、御預四家のうちで即日引見したのは細川家だけでした。元禄16六年(170324日午後2時、上使の御目付荒木十左衛門政羽と御使番久永内記信豊から切腹の申渡しを受け、大石内蔵助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合に存じ奉り候」と礼を述べました。家切腹の場所は大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、背後に池を負った位置でした。(東京都教育委員会)

泉岳寺関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24491381/


芝高輪台町
下高輪の台地にあることから明治2年(1869)台町と町名がつけられました。付近は細川家屋敷の前なので細川前とも俗称されていました。寺院が多くあり、明治34年京都の西本願寺から模範仏教中学校(高輪学園の前身)が移ってきて仏教色一色になりましたが、その後寺院が他所に移り住宅街に変わっていきました。(港区旧町名由来)

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東海大付近/旧中原街道

d0183387_13472869.jpg天神坂
むかし坂の南側に菅原道真の祠(ほこら)があったためにいう。葭原が見えるので葭見(よしみ)坂・吉見坂ともいったという説もある。(港区標柱)
港区白金1丁目の清正公前から桜田通りを横切り、南東方向に入る。坂を下ると、名光坂上に出る。坂の北東側に古壽老稲荷神社がある。

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承教寺/高輪二丁目郵便局先
日蓮宗の寺院、山号は長祐山。日蓮宗の信者であった英一蝶ゆかりの寺院である。一乗院日円により正安元年(1299)に開かれた。当初は西久保(現在の港区虎ノ門)にあったが、江戸時代初めの承応2年(1653)に現在の地に移転した。池上本門寺の末寺となる。江戸時代中期の大火に巻き込まれ本堂などを類焼したが山門、仁王門、鐘楼は焼失を逃れ現存している。本堂は天明元年(1781)に再建され現存している。Wikipedia

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二本榎の碑について
その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。誰いうとなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。それがそのまま「二本榎(にほえのき)」という地名となって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。戦後、地番変更で高輪何長眼などと地名が変わりましたが、昭和42年に黄梅院の境内に夫婦の榎を植樹し、石碑を立ててこの二本榎の町名をいつまでも忘れないようにしました。平成2年、碑をこの場所に移しましたが、二本の榎は黄梅院に大切に育てられています。この碑はこの町の住民にとって大切な象徴となっております。(高輪二本榎町会)

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江戸名所図会 覚心寺 承教寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


芝二本榎本町
町名になった2本の榎があったところで、この榎は旅人の目標になっていた一里塚とも伝えられています。かつて上行寺、上行寺門前・円真寺がありましたが、明治2年町屋の部分は二本榎1丁目ちなり、明治5年2つの寺地も加わりまいた。2年後一部が独立して芝二本榎本町となりました。(港区旧地名由来)

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高輪消防署前/旧中原街道

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江戸切絵図「芝三田 日本榎 高輪辺絵図」/東海大学前


d0183387_14200045.jpg高輪消防署二本榎出張所

高輪消防署二本榎出張所は、昭和8年(193312月に建てられ、近代建築の遺産(ドイツ表現主義)として、学術的、文化的にも貴重な建築物で、平成22年(20103月に東京都選定歴史的建造物に選定されました。この建物は、鉄筋コンクリート造り地上3階建からなり、3階に円形講堂、その上に望楼が構築され表面はクリーム色の磁器タイルで覆われています。また、アールヌーボー風のガス燈が当時のまま保存されています。この建物の場所は標高25mの位置にあり、新築当時は周囲に高い建物がなく、東京湾を眼下に眺望できたことから「岸壁上の灯台」とか「海原を行く軍艦」と評されていました。現在も消防署として使用されていますが建物を拝観することができます。(東京都地質技術業協会・技術ノート)


d0183387_14220447.jpg高野山東京別院 

宗派は高野山真言宗。本尊は弘法大師(1703年、本堂再建の際に造顕)。境内には不動堂・修行大師・お砂踏場等があり、お遍路の受入も万全。江戸時代における高野山学侶方の江戸在番所として慶長年間(1596年~1615年)に浅草日輪寺に寄留して開創された。明暦元年(1655)に幕府より芝二本榎に土地が下賜され、延宝元年(1673)高野山江戸在番所高野寺として完成した。御府内八十八箇所の1番札所になり、白金にあった文殊院が88番の結願所になった。(Wikipedia

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江戸名所図会 日本榎正覚寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

高野山宿寺
正覚院と号し真言宗古義の觸頭なり世俗高野寺と称せり同所南の方一丁斗小あり本尊弘法大師の像なり。門を入て本堂の右の方に丹生高野両神の祠あらむ堂前に三鈷松あり、毎歳三月廿一日影供を修行せり(江戸名所図会)


・・・高輪3右折、中原街道合流し五反田へ


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相生坂
相生坂の名勝は古く江戸時代から呼ばれていた。その由来は御殿山方面から宝塔寺(東五反田1丁目)前を通る道とこの坂のある中原街道が雉子神社(東五反田1丁目)の手前で合流していたことにもとづくとされる。昔は急坂が険しいものであったが、だんだんに道路整備がされて現在のようになった。別名を雉子ノ宮坂ともいう。(案内標柱)


d0183387_15303469.jpg雉子神社

創建は文明年間(14691487)と言われている。村民の霊夢により大鳥明神を祀っていた。江戸時代に入り、慶長年間になり三代将軍・徳川家光が鷹狩に来た時、一羽の白雉が社地に飛び入ったのを稀なめでたいしるしとして、家光から「以後雉子宮と称すべし」との言葉があり、「雉子ノ宮」と改称した。明治維新の際に雉子神社と改められる。明治時代以前は隣接してある宝塔寺が別当寺(神社を管理するために置かれた寺)であった。明治43年に上大崎村にあった三島神社を合祀して現在に至っている。Wikipedia

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江戸名所図会 雉の宮 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)



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三田台地(赤:旧中原街道 緑:現中原街道 紫:坂)


by Twalking | 2015-09-27 21:14 | 中原街道(完)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 三軒茶屋駅   

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東急三軒茶屋駅/世田谷区


三軒茶屋駅 
世田谷区太子堂
にある東京急行電鉄の駅である。三軒茶屋の名は江戸中期以降、社寺参詣ブームで賑わった大山道と登戸道の分岐(追分)付近に信楽(後に石橋楼)、角屋、田中屋の三軒の茶屋が並んでいたことに由来する。大山道は現在のほぼ国道246号にあたり、瀬田、二子橋を渡り大山へ向かう。登戸道は井伊家知行地の世田谷代官屋敷(ぼろ市通り沿い)や世田谷の上町(武家町)を通って登戸に向かう街道筋であり、現在の世田谷通りにあたる。旧・荏原郡中馬引沢村(なかうまひきさわむら)、下馬引沢村、太子堂村等の一部であった。三軒茶屋が正式な地名として定められたのは昭和7年の世田谷区成立時である。Wikipedia

by Twalking | 2015-09-27 10:34 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 駒沢大学駅   

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東急駒沢大学駅/世田谷区 


駒沢大学駅 
世田谷区上馬
四丁目3番にある東京急行電鉄田園都市線の駅である。当駅は、東急多摩川線(軌道線)時代にあった真中電停とほぼ同じ位置にある。駅名は近隣にある駒澤大学に由来する。ただし、「澤」の字が大学が「澤」に対し、駅は「沢」と異なる。Wikipedia

by Twalking | 2015-09-26 19:55 | ○station