無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 <   2015年 10月 ( 67 )   > この月の画像一覧   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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相州大山/相模川・神川橋
大山街道、やってみようかなぁ~・・・。。。


by Twalking | 2015-10-31 21:45 | ○写真上達への道

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秋の日差し
う~ん、まぶしい、いいお天気。
前鳥神社参道/平塚市四之宮

by Twalking | 2015-10-31 10:14 | ○写真上達への道

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秋の夕暮れ
日が短くなりましたね~。。。
乞田川/多摩市落合

by Twalking | 2015-10-30 19:27 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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落葉
そろそろ、冬支度かなぁ~・・・。。。
乞田川/多摩市落合

by Twalking | 2015-10-30 11:23 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 寒川駅   

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JR相模線寒川駅/寒川町


寒川駅 
神奈川県高座郡寒川町
岡田にあるJR東日本相模線の駅である。寒川町の中心駅である。19843月までは、当駅から西寒川駅を経て四之宮駅(19446月廃止)までを結ぶ西寒川支線が分岐していた。寒川神社へは参道入口となる一之鳥居の最寄り駅であるが、本殿や拝殿は宮山駅下車の方が近い。(Wikipedia

by Twalking | 2015-10-29 10:42 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中原街道(6)寒川~平塚03 中原   

日時 2015.10.25(日)
天気 晴れ

中原街道の目的地、中原御殿にゴールしました。
現在、跡地は中原小学校、碑が建っているだけですが、
周辺を歩くと往時を偲ばせる寺社や遺跡などがあります。

虎ノ門から60km、脇往還ということで最初は躊躇しましたが、
どうして、どうして、古代・中世の漂いが色濃く残っています。
東海道とはまた違った趣き、面白さがありました。
歩いてよかったなぁ~、と思っています。


・・・真土(しんど)

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諏訪神社前に残る旧道/東真土 


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宮林交差点まで戻り左折        諏訪神社前の旧道を左折


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真土神社御由緒

創立年代 不詳 当神社の御祭神の数が多いのは真土地域内の各地に御鎮座する諏訪神社、白山神社、本宮神社、明神神社、八坂神社、稲荷神社、御嶽神社の各祭神を明治の年間に一社に合祀し真土の総鎮守としたのである。(説明板)


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宮鐘と鐘楼の由来

諏訪社 村鎮守なり、円隆寺 鐘楼 天保4年(1833)の鋳造(天明7年再鋳の鐘を再び鋳替しなり)を懸く白山社 是も鎮守なり、東光寺持 △鐘楼 鐘は元文4年(1739)鋳造なり 真土には江戸時代、村の鎮守が二社、諏訪社と白山社があり、それぞれに鐘楼があり鐘が懸けてあったと、天保12年(1841)に編纂された『新編相模国風土記稿』に記されています。白山社の鐘は安政34月(1856)国家急海防のために供出。諏訪神社(真土神社に明治八年合祀)の鐘は、第二次世界大戦中の昭和173月(1942)供出応召された。共に時代が大きく変貌するときに大砲、小銃、弾丸に変わって往った。現在の宮鐘は大正6年(1917)に鋳造された四代目です。この鐘楼は大正6年(1917)に諏訪神社(東真土4丁目139番ノ1)より宮鐘と共に移築されたものです。供出された宮鐘の銘文によれば、初代の宮鐘は安永7年(1788)に鋳造されておりしたがって、この鐘楼は江戸時代の中頃に造られたものと思われます。

蛙股の彫刻 
この鐘楼には、近隣ではあまり例を見ない四神を彫刻した蛙股が取り付けられています。四神とは、中国の周代に始まった四方を守護する神で、東方を青龍、西方を白虎、南方を朱雀(鳳凰)、北方を玄武(亀と蛇の合体)といいます。奈良県の高松塚古墳の壁画、明日香村・キトラ古墳の壁画、薬師寺の仏像台座、群馬県の前双子山古墳の須恵器にも四神が描かれています。東・青龍は、天から恵みの雨を降らせ、豊作をもたらし、家運を隆盛にさせます。西・白虎は、女性に子宮と安産を授けて、夫婦円満に導くとされています(この白虎おなかが大きい)。南・朱雀は、その翼で災厄を払いのけて、大いなる福を招くとされています。北・玄武は、長寿と福を招く亀と災厄を寄せ付けない蛇の霊力を合わせ持ち、長寿と繁栄をもたらすとされています。(真土神社)


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左への道が残っている旧道です


d0183387_19354030.jpg古道中原街道/
真土神社前
古来より真土を斜めに横断している古道があった。海ぎわの東海道が整備される以前から、この道は相模道・奥州道などと呼ばれ、大磯から中原を通り真土・用田・小杉を経て江戸に入り、更に奥州へ至る古道であった。家康は、関東移封のときやその後中原に御殿をつくり、たびたび宿泊をして鷹狩りを楽しむなど好んでこの道を用いた。その後、江戸が政治の中心になるにしたがい東海道が整備されたため、中原街道の公的な役割は薄れ脇街道となっていった。しかし、この道は起伏が少なく江戸への最短距離であったため、急ぎ旅の者や物産輸送におおいに利用された。いまでも中原街道の名称は各地に残っているが、最も良く昔の面影を残しているのは真土地区であるといわれている。この道で展開されたロマンや役割を大切に伝えていきたいものである。(真土連合会自治会 真土神社 平塚市観光協会)


d0183387_19415664.jpg真土大塚山/真土神社前 
神獣鏡の碑
真土神社の北西400mにあった真土大塚山はかつて古墳時代前期の古墳があり、昭和10年ごろから神獣鏡の出土した径22.1cm、青銅製の三角縁四神二獣鏡である。鏡の縁の断面が三角で、東王父や西王母など四体の神仙像と龍と虎の瑞獣二頭が彫られており、周囲に「陳是作鏡甚大好、上有王父母、左有倉竜右白虎、宜遠道相保」の文字が刻まれた銘帯がある。同笵鏡が京都や岡山などから四面出土しており、真土が大和王権と深い繋がりがあったことを示す貴重な史料である。私たち真土地域はここに碑を建立し、この郷土に宝を未来に伝える(代表 平井茂)


・・・中原

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交差点を直進、その先を左折して中原御殿へ/中原北


d0183387_20025464.jpg中原上宿遺跡/中原2北交差点右角
この道路は、昭和45年から昭和56年にかけて主要地方道平塚・伊勢原線の新道として建設されたものです。建設に際して附近一帯に遺跡のあることがわかり発掘調査が行われました。発掘にあたった「中原上宿遺跡調査団」の調査によりますと、沖積低地における古代集落の解明に役立つ弥生時代の住居址、奈良平安時代の住居跡群や、大型の井戸址の存在が確認されました。この発掘調査により、古代の相模国に住んだ人びとの生活がかなりわかるようになりましたので、この成果を後に伝えるために記念碑を建てたものです。(石碑)


d0183387_20030179.jpg中原街道一里塚跡
中原街道は別名「御酢街道」とも呼ばれ、成瀬酢(なるせず)を江戸城まで運ぶこの場所の両側に一里塚はありました。(標柱)






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日枝神社御由緒
日枝神社は、昔は山王社と言われた。文禄年間、徳川家康公が鷹野の遊殿を中原に建設の際、当社は御殿の鬼門にあたるので方徐鎮護のため再三にわたり修営をされた。寛永1712月(1640)に御社を現在の地に遷座された。徳川家代々崇敬の厚いお社であった。明治4223日雑社東照宮を合祀した。境内地八百九拾四坪現在の社殿は昭和3710月改築した。境内社八坂神社・稲荷神社・神明社(説明板)


d0183387_20032096.jpg得願寺の礎石

この石は山王社(現日枝神社)の別当寺だった得願寺の礎石(基壇)です。得願寺は日枝神社神楽殿の南側にありました。この寺は中原御殿が寛永17年(1640)に三代将軍家光によって大改修されたとき、御殿の鬼門鎮護として山王社が「御殿後」の地から現在地へ遷座されるに伴って創建されました。しかし、明治になって神仏分離政策によって廃寺となりました。この礎石は日枝神社の鐘楼を支える四柱として用いられていたもので、平成15年の改修工事で発掘されました。そして得願寺の存在を実証する貴重な歴史的遺産として、中原の歴史再発見事業活動委員会等によってこの地に据え置かれることになりました。得願寺は明治6528日、教育施設として崇広館が開設されました。これが現在の中原小学校の原点です。中原小学校が現在地の中原御殿跡地に売ったのは明治4277日のことです。(平塚市)


d0183387_20032870.jpg庚申供養塔
 
この庚申供養塔は、平塚市中原1丁目17番(旧平塚市中原下宿169番地)の一角にあったものですが、昭和26年から始まった旧大野町土地改良区事業の一環として大山道(通称豊田道)の一部(平塚江南高校東側道路と平塚~伊勢原線旧県道の現在のT字路を更に北へ直進し、慈眼寺の東角へ向う道路の内約40m)が整理消滅したため、ここ日枝神社境内に移されたものです。この塔の正面から左側に「平塚ステーション道」と刻まれていますのは、明治20年に東海道本線平塚駅が開設されて駅に直接通じる道が整備され、それを記念して設置されたものです。そしてこの塔は、いろいろなところで紹介されていますが、現在ではかなり表面が剥落して昔の面影を失いつつあり、これを元の位置周辺に戻すには崩壊の恐れがありますので、この地に安置しています。(施主原興平 撰文 小川治良 中原の歴史再発見活動委員会)


d0183387_22262242.jpg谷川と谷川橋の跡
現在のこの道はかって谷川(やがわ)といった排水路だった。谷川は谷川堀ともいい平塚の沖積地を東西に列する平塚砂丘のうち第2砂丘列(日枝神社境内・伊勢山・大塚山等の標高12mから17mの丘)の南側の低列地にある。字谷川の舟窪の凹地の池から発源して砂丘低列の畑地の排水を集め西流し、先行流が渋田川に合した。現在は度々の改修によりその全容を失い、ついに道路敷となり消滅した。谷川は明治8年の中原上宿村誌によると幅平均2間(約3.6m)長さ1.115間(約2.007m)深さ最も深き処1丈(約3m)浅き処4尺(約1.2m)とある。またこの谷川には中原往来の石造の谷川橋が架けられていた。村誌には文政8年(1825)に再設とあるから江戸時代からあったと思われる。谷川が昔、単なる排水路でないことは諸文献などから、近世初頭の関東鷹野御殿の一つである中原御殿と中原代官陣屋に深い係わり合いがあることが散見される。それは谷川に、かって水門が設けられ上流の舟窪の池の余水と畑地の排水を貯水して、中原御殿の空堀引水と代官陣屋・屋敷堀用水を供給したが後年中原御殿引き払い、そして中原代官陣屋廃止により谷川からの堀水は必要はなくなり、水門は棄却され谷川は再び低列畑地の排水路と化して現在に至り、昔日の面影を失ったのである。(中原地区町内会・自治会連合会記)



d0183387_22262580.jpg中原宿高札場跡/御殿入口角

中原宿の高札場は、徳川家康の築いた中原御殿に向う大手道と中原街道の交わる位置に設けられていました。高札場とは、幕府などから出された禁令を木の札に書き掲示した場所のことです。「中原御宮記」(長谷川雪堤画)を見ると土台を石垣で固めて柵を結い、高札が掲げられる部分には屋根がついていました。(平塚市)


・・・中原御殿跡

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中原小学校、御殿跡です

中原御殿

江戸時代初期、現在の平塚市御殿2丁目にあった徳川将軍家の御殿(別荘)である。1596年(文禄5年)に徳川家康の命により、江戸・駿府間の往復や鷹狩りの際の宿舎として建てられた。「御鷹野御殿」「東照宮御旅館」「雲雀野御殿」ともいったが当時の呼称は「御旅館」。神奈川県内には他に、神奈川御殿(横浜市神奈川区)、小杉御殿(川崎市中原区)、藤沢御殿(藤沢市)があった。規模は東西約140m、南北約100mで約7100坪の広大な敷地を持っていた。現在跡地には平塚市立中原小学校があり、御殿跡碑が設置されるのみである。周囲に約10m幅の堀をめぐらしていたといわれ、中原小学校の北側道路が堀跡といわれる。1640年(寛永17年)に一度修理をしているが明暦の大火のあった1657年(明暦3年)、取り払いとなる。平塚市内にある茅葺きの善徳寺三門は、この御殿の裏門である冠木門を遷したものと伝えられている。中原街道はその名をこの御殿に由来するが、街道そのものはすでに後北条氏の時代には整備されていたものであり、もともとの起点は大磯宿外れの化粧坂である。また、御殿造営の頃よりこの地や平塚宿などに黒松を中心とした植林がなされた。合計127町歩に及んだ松林は中原御林(なかはらおはやし)と呼ばれ厳重に保護された。(Wikipedia

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中原御殿跡を描いた「中原御宮記」(天保1018399月)平塚市博物館蔵(説明板の写真)


d0183387_22262979.jpg中原御殿/中原小学校前
徳川家康が鷹狩りなどの折に宿泊所とした中原御殿が、中原小学校を含む一帯にありました。御殿の規模は東西78間(約141m)南北56間(約101m)で、四方に幅六間(約10m)の堀をめぐらし東側を表としていました。御殿が造られたのは慶長元年(1596)ともいわれますが、諸説がります。寛永19年(1642)に修復されますが明暦3年(1657)には引き払われました。その後、跡地には松や檜が植えられ、その中に東照宮が祀られました。その様子は「中原御宮記」(平塚市指定重要文化財)の巻頭に長谷川雪堤の筆によって描かれています。(平塚市)


d0183387_22265337.jpg相州中原御殿之碑(
徳川崇敬 題額)
この地は 慶長年間 江戸に幕府を開いた徳川家康公が 旅のやどりとして造営した相模国大住郡 中原御殿の跡である。御殿は またの名を雲雀野御殿ともいい 家康公が鷹狩り 江戸と駿府往来の途次に宿泊した   文献によると文禄元年 肥前国名護屋陣に赴くさい 中原に止宿したのを始めとし 係わりは深いものがある中原は 御殿の勝地にとどまらず この地方に与えた影響は大きい 江戸時代初期の大住郡の行政 中原御林 中原街道など 皆この地より発したという 明暦360有余の歳月を経た御殿は 惜しくもお引き払いとなり中原を去ったここに 近世初頭の光彩を放つ著名史跡を末永く顕彰するため 建碑したのである (平塚市長石川京一 撰 平塚市文化財保護委員 高瀬慎吾書)


・・・御殿周辺

d0183387_23275904.jpg船に乗ったお地蔵さん/南原








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善徳寺と三門/
舟地蔵先(右)
善徳寺は浄土宗に属し南原山永琳院という。開山の善徳徹巌は俗名を大館玄誉といい、久しくここに庵室を構えていたが、のち一宇を建立し天正2年(1574)正月没したと言われている。この寺の三門は、徳川家康の御旅館中原宿の雲雀野御殿の裏門を移建したものであると、昔からいい伝えているが、如何にも由緒あり気な風格と雅趣を兼備した建造物である。(案内板)

絹本着色法然上人像一幅

善徳寺は善徳徹厳(1574年没)によって開創されたと伝えられる浄土宗の寺院です。法然上人(源空11331212)は浄土宗の開祖であり、その肖像画は数多く描かれております。本図もその1つで左を向いて礼盤(らいばん)の上に座し、数珠をつまぐっています。法然像の形式としては最も一般的なもので、京都の二尊院が所蔵する「足曳御影(あしびきのみえい)」の像容を踏襲しています。上部の賛(画に書き添えた文)は、弟子の勝法房が法然の肖像画を描いたときに、法然自身が書いて授けた賛を引用したもので「首楞厳経(しゅりょうごんきょう)」にみえる勢至菩薩の悟りの強さを説いたものです。本像の制作された場所や善徳寺に伝来した経緯はよくわかりませんが、制作年代は、全体の描法や用いられた絹の特徴などから室町時代前期と推定されます。本像のように中世にまで遡る法然上人像は神奈川県下では極めて珍しいものです。(平塚市教育委員会)
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旅の終わりは高麗山の美しい夕景でした/国道1号線


・・・・・
資料ファイル

平塚市
神奈川県のほぼ中央、相模川右岸(西側)に位置し、南は相模湾に面する。相模川から金目川までの間は市域北端部まで平野となっており、南部には市街地が広がる。金目川より西側は大磯丘陵の一部となる丘陵地帯であり、緑も多い。(歴史)4世紀後半:真土大塚山古墳、塚越古墳(現在は消滅)が築造される。(奈良時代・8世紀ごろ)現在の平塚市四之宮周辺に下ノ郷廃寺が存在し、国厨・郡厨・大住厨と書かれた墨書土器が出土していることから、既にこの時期に相模国大住郡という行政組織が機能していたことが窺える。また相模国国府跡とも大住郡庁跡ともいわれている。(9世紀終~10世紀初頭)伝承によると、この頃平真砂子(高望王の妹)がこの地で没する。(11世紀から13世紀前半・和田合戦まで)高望王を祖と号する中村党の土屋宗遠が土屋周辺を、同じく高望王系である三浦党の岡崎義実(中村宗平の女婿)が岡崎周辺、その子佐奈田義忠が真田周辺を支配。1199年:相模川に架けた橋を源頼朝が馬で渡ろうとしたところ落馬し、これが頼朝の死去につながったという説があり、以降の相模川は馬入川の別名で呼ばれることになる。1416年:上杉禅秀の乱の功により中村党系の勢力は所領を失い大森氏の領するところとなる。1512年:北条早雲が三浦氏の岡崎城攻略。以降、小田原北条氏の領するところとなる。1596年徳川家康により中原御殿(現 平塚市立中原小学校 - 日枝神社)が造営される。現代の名阿原海道という街道名はこれに由来する。また、同時期に造営された小杉御殿は現在の川崎市中原区にあった。伝承ながら御殿裏門が市内南原の善徳寺三門に移築され遺構として残る。Wikipedia


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平塚の塚

平塚市にある、当地地名の由来となったとされる史跡である。新編相模風土記稿、或いは当地の伝承によると桓武天皇三世の孫、高見王の娘である平真砂子(眞砂子、政子との表記もある)が都より東国へ下向の途上、相模国の海辺の里で長旅の疲れからか急な病を得て亡くなった。土地の人々は幸薄い都の高貴な姫の死を悼み、遺体を里外れの松の大木の根元にねんごろに葬り、塚を築いて弔った。時を経ていつしかその塚は風化して平たくなり、周辺の地域は「平塚」と呼ばれるようになったとされる。真砂子は高見王の子で桓武平氏の祖といわれる高見王の妹、平国香(平氏着流、平清盛の祖) 平良将(平将門の父) 平良文(坂東八平氏の祖)等の叔母に当たる。故に「平氏の姫の墓(塚)」がある、ということで「平塚」となったとする説もある。高望王は寛平元年(889)宇多天皇の命により平姓を賜って臣籍に降り、平高望を名乗った。その後、昌泰元年(898)上総介に任じられた。当時上級地方官に任命された者は任地には赴かない遙任が多かったが、高望は子の国香等を伴って実際に上総に受領として赴任し、その子孫は東国に勢力を伸ばしていった。(Wikipedia


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平塚宿史跡絵地図


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東組問屋場跡             江戸方見附跡

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東海道五十三次 平塚 (広重)

東海道平塚宿
平塚の名は『吾妻鏡』に「範隆寺平塚」「黒部宮平塚」とあるのを初見とする。宿の形成は鎌倉期にさかのぼり、正和五年(1316)ごろ鎌倉に滞在していた益性法親王の上洛の際の書状に「平塚宿」と見えることから、そのころには宿としての機能を整えていたことがうかがえる。東海道の宿駅には慶長6年(1601)に指定される。慶安4年(1651)に平塚新宿を加宿に編入。明治4年(1871)廃藩置県により平塚宿および加宿平塚新宿村は足柄県に編入された。宿内は江戸方から十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町と続き、街道北側二十四軒町に脇本陣安兵衛、同じく西仲町に本陣加藤七郎兵衛、二十四軒町と東仲町の間に東組問屋、西仲町に西組問屋があった。宿場の長さは九町五間(約1km)、道幅四間一尺(約7m)から六間(約11m)であった。(東海道への誘い・国土交通省横浜国道工事事務所HPより)

東海道平塚宿はこちらへ(http://teione.exblog.jp/17193047/)


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中原街道コース図(起点:虎ノ門 終点:中原御殿跡)


by Twalking | 2015-10-29 10:32 | 中原街道(完)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 秋の色02   

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グリーンベルトの銀杏
多摩ニュータウン通り/多摩市落合

by Twalking | 2015-10-28 20:03 | ○たま-2015

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中原街道(6)寒川~平塚02 四之宮   

日時 2015.10.24(土)
天気 晴れ

平塚に入ると街道の道筋はわずかしか残されておりません。
でも、ここ四之宮は相模国府が置かれたとされる有力な地です。
前鳥神社の宮司さんから話を伺い、関連の箇所を訪ねてみました。

これも今回の目的のひとつ、面白いですね、興味が尽きません。
ありがとうございました。


・・・四之宮

大住郡
(おおすみぐん)
相模国にあった郡。真土大塚山古墳から、弥生時代末~古墳時代初頭の土器片と、京都の椿井大塚山古墳のものと同じ鋳型の三角縁神獣鏡が出土している。『延喜式』では大住郡、『和妙抄』では「於保須美」とある。郡衙は平塚市四之宮付近にあったと見られている。相模国の国府が置かれていた可能性があり、『和名抄』および『拾芥抄』に記述があるほか、1979年(昭和54年)から行われた四之宮下郷遺跡群の発掘調査で、前鳥神社周辺から墨書土器、彩釉陶器、装身具などが出土した。さらに1990(平成2年)には、国厨と記した土器が発見されている。Wikipedia

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前鳥神社

御祭神 菟道椎郎子命(うちのわきいらつのみこと) 大山昨命(おおやまくいのみこと)日本武尊

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御由緒
神社の名の「さきとり」は平安以前の古い地名で、相模川河原に接する自然堤防の南端で、地形名からおこったと言われています。奈良時代の天平7735)年の「相模國封戸租交易帳」には「大住郡崎取郷」として記載されています。この「さきとり」の地に奈良時代以前、畿内から御祭神を「氏の上」とする氏人が移り住み、遺徳を偲び、清浄な地にお祀りしたのが「さきとり」神社と考えられます。延喜年間に編纂された「延喜式」という法制書の中で、全国の著名な神社が収録されている神名帳に、当社は「前鳥神社」と記され、相模国13座のひとつとして登載されています。また、四之宮の称は、養老年間(717724)の相模国の国府祭が始まったとされる頃に生じ、平安時代には四之宮郷として通称されるようになりました。鎌倉時代には幕府の崇敬をうけ、建久311928月、源頼朝公夫人政子の安産祈願にあたり神馬の奉献があり、建暦21212)に幕府は当社を将軍家祈願所と定めました。近世にはいると、関東八ヶ国の領主となった徳川家康公は天正19159111月、当社に武運長久のために朱印地10石を寄進、あわせて社地二千余坪を除地として加護しました。時代が近世になってからは寺社領の確定により、古義真言宗雪霜山鏡智院神光寺が別当寺として祭事のすべてを掌っておりました。そして明治維新の大改革の際に鏡智院家が復職が複飾、名を神代に改め、現在に至るまで神仕えの職に就いております。


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御神徳

前鳥大神(菟道椎郎子命)は第15代応神天皇の皇太子です。当時百済から来朝していた阿直岐(あちき)から帝王への道を学ばれた後、博上王仁(わに)を師として学問の道を開かれました。論語や千字文などの漢書をわが国で最初に学ばれた方でもあります。また、命は帰化した渡来人技術者を篤く庇護し、産業技術の導入を計られ、日本の農業・土木建築などの急速な発展をなされました。皇太子と定められましが、兄大鷦鷯命(後の仁徳天皇)と皇位を譲り合い、兄を立てて自らはお隠れになりました。(パンフレット)


d0183387_12114249.jpg平塚八景 森の前鳥神社

ケヤキの老樹など森にかこまれた四之宮に鎮座する前鳥神社は、平安時代の延喜式神名帳に相模第四之宮として載っている古社である。社号は大住郡サキトリの郷にあったため左喜登利、前鳥、前取の文字があてられている。祭神は莬道稚郎子命と大山昨命、そして日本武尊命でありこれらの祭神にちなむ前鳥神事がある。また、境内には奨学神社などがあって古い時代をしのばせる。(平塚市)




・・・宮司さんから教わった「巡礼道」の古刹を訪ねてみました

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大念寺

明暦の初め、代々後北条氏に仕えていた佐藤出雲守信辰が本蓮社源譽哲道を請じ、五十坪の堂宇を建立したのが初めと言われ、相模風土記には「相州四之宮村大念寺屋舗之儀、当時地は古地頭、伊丹播磨守康勝殿、大久保与一郎殿、服部兵吉殿、の寄進するところなり。三氏が寺基を献じ、源譽哲道を請じ開山した」と述べている。開基信辰は寛永14124日(1637)に歿して大念寺に葬るとすれば寛永年間、若しくはそれ以前の建立であると推測する。現在大念寺の過去張は元禄2年以後の物からしか現存せず、それ以前の過去張はなく確かな事は分からず。明治42年大野小学校の新校舎落成祝賀会で、盛んに花火を打ち上げたところ不発のまま大念寺の草葺き屋根に落ち大火事を引き起こし、当山の山門以外は全て全焼した。また、四之宮旧家のほとんどが全焼し由緒ある古資料のすべてが喪失してしまったと伝えられている。其の時に過去張は消失したかもしれない。その後、大念寺 第17代真常和尚が大正六年本堂再建した。(大念寺HP)

平塚市四之宮
にある浄土宗の寺院である。山号は見光山。院号は眼性院。本尊は阿弥陀如来。平成9年に開通した湘南銀河大橋は、平塚市四之宮から寒川町田端を結ぶ橋となり、その影響で大念寺墓地の半分が県道44号線となる。大念寺墓地並びに境内・本堂の大改修を致し、平成195月に本堂落成慶讃法要を行い今現在に至る。(Wikipedia

d0183387_13093226.jpg四之宮人形師匠墓所

江戸時代中期、庶民の娯楽として浄瑠璃と人形芝居が流行し相模川中流域にも多くの芝居の座がありました。ここ四之宮人形連中と呼ばれる座が結成され、前鳥神社の奉納行事として芝居を行いました。昭和初期には活動が中断されましたが、昭和32年に新たに「前鳥座」の座名を冠して活動が再開されました。四之宮人形芝居の発展では吉田朝右衛門が第一人者として大きな功績を残しました。彼は安政3年頃(1856)に師匠として四之宮に迎えられ、明治163月に89歳で没するまで、四之宮をはじめ相模川中流域の各地で全生涯にわたり弟子の指導を行いました。まら、吉田朝右衛門のほか吉田三十郎、ワカ夫婦も四之宮に定住し師匠として人形の遺い方を指導する傍ら、人形のカシラの修理なども行い四之宮人形芝居の伝承のため尽力した人物として称えられています。ここ大念寺には吉田朝右衛門の墓石・墓誌とともに吉田三十郎・ワカ夫婦の墓石も並んで建てられています。(平塚市)


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北向観音

お寺は円通山大会寺(だいえじ)と言います。相模国33ケ所霊場の第9番で、鎌倉時代源頼朝や徳川家康の祈願所でした。伝説ではこの寺を作ったのは聖徳太子だとされています。「太子は聖観音の身の丈3寸の三十三身の御分身の像を一刀三礼をもって彫り、安置する場所に大会御堂と名をつけ、また五大力尊も置いて国が栄えて国民が幸福になるように願った」ので五大堂ともいわれたとあります。ここは昔、牛頭天王が祀ってありましたが明治の初めに前鳥神社に移され、八坂神社になりました。境内の東側にある記念碑は日枝神社の跡です。明治43年に前鳥神社に移されました。(四之宮歴史再発見広報NO.3より)


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高林寺

木造大日如来坐像
もともとは四ノ宮明神社(現前鳥神社)別当鏡智院の本尊であった。明治初年に当院が廃絶されたのちは、大会寺(北向観音堂)に客仏として祀られていたが、昭和60年(1985)に高林寺の本尊に迎えられた。胸の前で左拳の人差指を右拳で握る智拳印(ちけんいん)を結ぶ金剛界大日如来。光背・宝冠・台座などは後世の補造である。胎内背面(墨書)と面部内(二字朱書・三字墨書)に梵字が書かれており、後頭部内に次の墨書銘がある。「康永3年甲申五陽 奉修復之者也 地頭兼神主藤原季□ 修造司周豪」 これにより、康永3年(1344)に修理されたことがわかり、造立はこれより遡る鎌倉時代後期と考えられる。張りのある顔立ちや量感に富む体躯に運慶風の写実性を示す一方、宝けいや腰部の波状に表した衣の皺などに宋元風の影響がみとめられる(平塚市HP)


d0183387_13260197.jpg江戸ケ崎供養塔

江戸時代後期、無敵と謳われた雷電為右衛門に最後の黒星を与えたのが相模国大住郡四之宮村出身の江戸ケ崎源弥です。江戸ケ崎は天明元年(1781)平野家で生まれました。安政73月に「大隅」のしこなで初土俵を踏み、後に「荒馬」と改名しました。同10月に入幕し文化元年3月に関脇に昇進しました。この間に久留米藩有馬家のお抱え力士になり、しこなを「江戸ケ崎」に改めました。幕内24場所在位し、12437負という好成績を残した江戸ケ崎でしたが、文化9年(1812710日京都へのぼる途中、東海道藤川宿で現役のまま亡くなりました。この供養塔は没後35年にあたる弘化4年(1847)に四之宮村で追善相撲が興行された際建立されたものです。(平塚市)


・・・
資料ファイル

相模国府
国府所在地は未だ明らかでない。史料では、『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)および『拾芥抄』(しゅうがいしょう)において「大住郡」、『伊呂波字類抄』(いろはじるいしょう)では「淘綾郡」(ゆるぎぐん)と見えるが、いずれも国分寺の所在地(高座郡)と異なるため、最低でも3遷したと推測される。高座郡国府説:相模国分寺の地に初期国府の所在を求める説。推定地は現在の海老名市付近。江戸時代の『新編相模国風土記稿』に高座郡国分村と見える一帯に推定される。大住郡国府説:平安時代中期成立の『和名抄』の記載に基づく説。別地から移ったと見る説では、元慶2年(878)の関東大震災を契機として新たに建てられたと推測する。平塚市四宮において関連遺跡が発掘されている。餘綾郡国府説:平安時代末期成立の『伊呂波字類抄』の記載に基づく説。推定地は相模国総社の六所神社が鎮座する大磯町国府本郷付近。
Wikipedia

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湘南新道(伊勢原藤沢線)/四之宮・大念寺前


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湘南新道関連遺跡/大念寺交差点

湘南新道関連遺跡は、都市計画道路建設に伴って平成12年~17年にかけて発掘調査が行われました。遺跡名は坪ノ内遺跡、大会原遺跡と六ノ城遺跡の総称です。発掘調査の結果、坪ノ内遺跡と六ノ城遺跡から写真のような奈良時代の府付き大型立柱建物が東西86mの距離をおいて並列して発見されました。白線で囲んであるのが柱穴で、その規模が1m以上と大きく、建物の外側には塀が廻ることなどから、この大型建物は相模国の役所である国庁の脇殿と考えられます。これまで国庁の所在については諸説がありましたが、この発見によって四之宮の地が奈良時代における相模国の中心地であったことがわかりました。発見された大型立柱建物の一部は道路の下に保存されています。また、建物の場所については歩道上に舗装の色を変えて表示してあります。(神奈川県 平塚市教育委員会 財)かながわ考古学財団)


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見せていただいた四之宮付近のイメージ画(平塚市博物館刊行物だと思います)
赤:国庁 緑;前取神社 道は古東海道


市指定重用文化財「国厨」墨書土器他

ここ稲荷前A遺跡は平塚市四之宮から東八幡の砂州・砂丘域に立地する埋蔵文化財包蔵地として周知されています。本資料が出土した第一地点は、店舗建設に伴って平成元年4月に発掘調査されました。資料は、奈良時代後半の所産と見られる1号竪穴住居址から出土し、住居の成り立ちから廃絶後までの様相を示す一括資料です。土師器(はじき)、須恵器、灰釉陶器(かいゆうとうき)、黒色土器、瓦、鉄製品、石が含まれます。なかでも土師器と須恵器に「国厨(こくちゅう)」と墨書されたものを複数含む点が注目されます。「厨」を記した土器は、官衙内の諸施設に対する食膳の準備、食料の調達・管理等を担当する厨(くりや)・厨家(ちゅうけ)の備品であることを示したものと考えられます。つまり「国厨」墨書土器の出土は、周辺に厨家が存在したこと、ひいては厨家を含む官衙施設が存在したことを裏付けるもので、そこに国府があったという根拠となり得るものです。奈良時代において、相模国の国府が四之宮周辺に置かれていたという学説を裏付けることとなったこの墨書土器は、平塚の古代史には欠くことができない資料であるとともに、全国的にも古代地方官衙研究に寄与する貴重な資料の一つです。(平塚市教育委員会)


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相模国の駅路(国土交通省横浜国道工事事務所HPより)


by Twalking | 2015-10-28 18:54 | 中原街道(完)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 満月10月   

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満月
いいお月さん、そっちへ上るんだよね~。。。
多摩丘陵/多摩市
2015.10.27(火)18:38

by Twalking | 2015-10-27 18:44 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 秋の雲   

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多摩丘陵/多摩市
好天が続いていますが、どうやら下り坂の予報がでていますね~。

by Twalking | 2015-10-27 15:41 | ○雲