無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 <   2016年 01月 ( 57 )   > この月の画像一覧   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 相模大野駅   

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相模大野駅/相模原市南区


相模大野駅

相模原市南区相模大野三丁目にある小田急電鉄の駅である。相模大野管区として当駅 - 伊勢原駅間と東林間駅の計10駅を管理している。駅開業当時の「通信学校」は陸軍津通信学校が駅の近くにあったことから名づけられた。「相模大野」は駅所在地が「高座郡大野村」であったことによる。既存の大野駅との区別を図るため旧国名の相模を附した。相模原町(相模原市)となって以降も大野地域とされていたことから、相模原市近辺の住民および利用者からは「相模」を付けずに大野と呼称されることが多い。Wikipedia

by Twalking | 2016-01-31 10:41 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中央林間駅   

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田園都市線中央林間駅/大和市
田園都市線は地下の折り返し、小田急は高架駅なんですね~、はじめて降りました。


中央林間駅(田園都市線)

大和市中央林間三丁目・四丁目にある小田急・東急の駅、田園都市線の終着駅である。乗降は田園都市線内では第7位。駅長不在駅でのなかでは青葉台に次いで4番目に多く、駅長所在駅の二子玉川、鷺沼駅よりも乗降人員が多い。「林間都市計画区域」の中央地域であったことから「中央林間都市駅」として開業したが、1941年に「南林間駅」・「東林間駅」とともに「都市」の文字が駅名から外され、「中央林間駅」と改称した。Wikipedia

by Twalking | 2016-01-30 20:37 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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庚申塔
大山街道長津田宿/横浜市緑区

by Twalking | 2016-01-29 17:23 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 仁王像   

金剛力士
仏教の護法善神(守護神)である天部の一つ。サンスクリットではVajradhara(ヴァジュラダラ)と言い、「混合杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つもの」を意味する。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として寺院の表門などに安置することが多い。一般には仁王(におう、)の名で親しまれている。


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仁王像
日本では寺院の入口の門の左右に仁王像が立っているのをしばしば見かける。像容は上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにし、吽形像は怒りを内に秘めた表情に表すものが多い。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表している。寺門に安置された仁王像で日本最古のものは法隆寺中門に立つ塑像であるが、後世の補修が甚だしく、吽形像の体部はほとんど木造の後補に変わっている。
仁王像は仏堂内部に安置されることもある。奈良・興福寺の仁王像(鎌倉時代、国宝)は旧・西金堂堂内に安置されていたもので、当初から堂内安置用に造られたため、像高は小ぶりである。
仁王像は阿形・吽形の一対として造像するのが原則であるが、これを1体のみで表した、執金剛神(しゅこんごうしん)と呼ばれる像がある。東大寺法華堂(三月堂)の本尊の背後の厨子内に安置された塑造執金剛神立像(国宝)がその例で、形勢や表情は一般の仁王像と似ているが、裸形でなく甲冑を着けている点が異なる。
千手観音の眷属である二十八部衆の中にも仁王像があるが、この場合阿形像は「那羅延堅固王」(ならえんけんごおう)、吽形像は「密迹金剛力士」(みっしゃくこんごうりきし)と呼ばれる。現存する大作としては建仁3年(1203)造立の東大寺南大門金剛力士(仁王)像を挙げねばならない。


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阿吽(あうん、サンスクリット語: अहूँ a-hū
仏教の呪文(真言)の1つ。悉曇文字(梵字)において、阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされた。また、宇宙のほかにも、前者を真実や求道心に、後者を智慧や涅槃にたとえる場合もある。次いで、対となる物を表す用語としても使用された。特に狛犬や仁王、沖縄のシーサーなど、一対で存在する宗教的な像のモチーフとされた。口が開いている方を阿形(あぎょう)、閉じている方を吽形(うんぎょう)と言う。転じて、2人の人物が呼吸まで合わせるように共に行動しているさまを阿吽の呼吸、阿吽の仲などと呼ぶ。Wikipedia抜粋



by Twalking | 2016-01-29 14:44 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 大山街道(4)荏田~南町田02 長津田   

日時 2016.1.26(火)
天気 晴れ

長津田への道のりも住宅で道がとざえ、ちょっと苦労します。
ここかな、と思いながら坂を登ったり、下ったり・・・。
恩田川を越えて旧道に入るとほっとした気分になります。

長津田宿は見所が多くて面白いですね。
馬の背は夜景のスポットとか、夜の景色も良さそうです。
多摩丘陵を越えましたので、次回境川を越えると相模、楽しみです。



・・・しらとり台(青葉区)

青葉台に隣接し、環状4号線の西側に広がる町域である。かつては丘と雑木林だけの農村地区だったが、多摩田園都市開発構想によって当時の田園都市線沿線のニュータウン化が計画され、昭和40年代始めからは開墾が進み、都心方面への通勤者のベットタウンとして宅地化が進んだ。環状4号線および国道246号に隣接したしらとり台は小高い丘になっていると同時に戸建て住宅が多く、住宅街を形成している。南部地区は恩田川の流域に面している。
Wikipedia

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旧道風景/青柿裏先を左折 

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246号高架手前を左折         二差路を右、ここを左折し青柿裏へ


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旧道風景/前方のタワーが長津田宿です


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青柿から宮川酒店を左折、すぐを右折  墓地角を左折し246号へ

宝篋印塔/左手の墓地内

元・寿光院墓地(明治10年廃寺)にある2基の供養塔。元亀4(1573)銘が在り、恩田郷に居住した後北條氏所縁の武士・糟屋清印が父母の13回忌供養に建立。2基同寸で総高180.5cm。傍らに風化した五輪塔地輪も。(みどころマップ・川崎国道)


d0183387_17010443.jpg恩田茶屋跡
天保2(1831)この道を歩いた渡辺崋山の「游相日記」にも登場、柿や栗を売っていたとされ、茶屋のスケッチが残されている。(みどころマップ・川崎国道)



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左手が長津田宿、右手奥が子どもの国、前方が成瀬方向でしょうか/恩田大橋


恩田川
町田市本町田の滝ノ沢地区、町田街道の町田三中西交差点の北東に源を発し、JR横浜線の北をほぼ平行に流れ、横浜市緑区青砥町と中山町の境界で鶴見川に合流する。武蔵国都築郡(現在の神奈川県の流域)では、郡内の恩田村(現在の恩田町・田奈町・しらとり台など)から流れてくる川として、古くから恩田川と呼ばれていた。一方、南多摩郡(現在の東京都の流域)では、郡内の町田村から流れてくる川として、町田川と呼ぶことが一般的であった。旧町田村は原町田村が分村したことにより本町田村と改名している。よって旧来の「町田」は現在の本町田(特に旧字名の宿から今井谷戸にかけて)であり、ちょうど恩田川の上流端となっている。Wikipedia

d0183387_17031151.jpg恩田大橋
『村の南の方相州道にて鶴見川(現在の恩田川)に架す、長さ八間幅八尺の橋なり』(新編武蔵風土記稿)




恩田町
古来は武蔵国都築郡恩田村であり、1889年の市町村制施行の際長津田村および奈良村と合併して田奈村大字恩田となる。恩田(おんだ)は日陰になる田を意味するという。

田奈
神奈川県都筑郡北部の村。現在の青葉区西部、緑区西部にあたる。旧恩田村・旧長津田村の「田」と、旧奈良村の「奈」を合わせて「田奈村」とした。Wikipedia


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恩田川を越えて緑区に入ります

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片町から旧道へ(長津田宿の標柱)   青山ガード(横浜線)を潜ります


・・・長津田(緑区)


多摩丘陵東縁部、鶴見川水系恩田側中流域右岸に位置する。近世には矢倉沢往還と神奈川道の結節地であった長津田宿
が発展。1843年(天保14年)153戸。1868年(慶応3年)176926人。1869年(明治2年)145950人。横浜開港後、上州・信州・甲州産の絹糸の集散地である八王子から横浜港へ輸送する中継地として発展。大辞林によれば『谷津田:やつだとは谷津:やつ(低地・たに:また、低湿地・やち・やと)にある湿田。谷地田(やちだ)』とあり、『長津田』は「長い湿田」の意という。一般に、遷流する岩川上流部の集落を総称して「上長津田」、下流部を「下長津田」という。
Wikipedia

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d0183387_10482631.png長津田宿
 
江戸初期から宿駅に指定され、江戸からの行程九里、荏田宿から二里、鶴間宿へ一里、宿場家数は幕末頃で約50軒、中心は元・長津田駅入り口附近にあたる中宿。渡辺崋山の「游相日記」に万屋新倉藤七(兎来)や河原松五郎(琴松・旅館業)とのやり取りが記されている。昭和28年の大火に往時の面影はないが幾つかの屋号等に名残を残す。(みどころマップ・川崎国道)

恩田茶屋跡
天保2(1831)この道を歩いた渡辺崋山の「游相日記」にも登場、柿や栗を売っていたとされ、茶屋のスケッチが残されている(みどころマップ・川崎国道)


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片町地蔵堂








d0183387_17365716.jpg古碑群
この古碑群は、古くは元禄(1690年代)より地域の信仰の場として庚申塔・道祖神・大山講・地神尊等を崇拝し、天下泰平、五穀豊穣、家内安全を願い、祈り代々引き継がれて今日に至っている。以前は田奈村長津田大字長津田字前沢1652番地に昭和94月国より窪田トヨ、河原一平、新倉金之助、久保田五平、河原藤太郎ら5名の共同名義で払下げを受け古碑を整備され、今回横浜市都市計画道路山下長津田線工事に伴い一部を復元し、本土地に移築整備したものである。(説明板)  
  

d0183387_17493884.jpg長津田宿常夜燈二基(
横浜市地域史跡)
県北を通る公道矢倉沢往還(大山街道)は、東海道の裏道にあたり大山参詣の信仰の道でもありました。長津田は江戸初期から荏田とともに宿駅に指定されていました。現在、上宿、下宿に常夜燈が残されています。当時の宿の繁栄を物語るものの一つです。上宿常夜燈:総高240cm天保14年(1843)宿中の秋葉山講中が建立したもの 下宿常夜燈(写真):総高210cm文化14年(1817)に宿中の大山講が建設したもの(横浜市教育委員会)


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隋流院(火伏観音)
大林寺末。曹洞宗。本尊・卯年観音(岡野家守護仏)。もと天台宗・長蔦寺、慶長年間再興。(みどころマップ・川崎国道)


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大林寺

曹洞宗。本尊・釈迦如来。境内には旗本領主・岡野家累代の墓所がある。また墓地には幕末の歌人で教育者・関根範十郎信友墓、沢月堂兎来墓、初代・引田天功墓等がある。本堂には兎来作板絵が現存。(みどころマップ・川崎国道)

d0183387_21340211.jpg旗本岡野家歴代の墓所
江戸時代初期、小田原氏の重臣であった岡野融成(みちなり)の嫡子・房恒が天正19年(1591)長津田村を知行し、菩提寺として大林寺を建立しました。以後大林寺を歴代の墓所として幕末に及び、墓域には燈籠7基を含め33基を数えます。融成供養塔:寛永18年(1641)建立 房恒逆修墓:明暦2年(1656)建立(横浜市教育委員会)


d0183387_21361991.jpgお七稲荷
 
柳田家(先祖は岡野家4代・房勝・幕府盗賊追補使役の家来、八百屋お七の処刑に馬の手綱を引いた)の一角に祀り、その冥福を祈った。(みどころマップ・川崎国道)



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王子神社
天正18年(1590)徳川家康の江戸入城に伴い、その旗本岡野房恒公が長津田(千石)の領主として知行を許された。房恒公は菩提寺として大林寺を開基し、長津田村鎮守として国家安泰極楽平穏の霊験あらたかな神として、平安時代から全国の人々に尊崇され「伊勢へ七度、熊野へ三度」とか「蟻の熊野詣で」とかいわれる程信仰の厚かった熊野三山(本宮、新宮、那智)のうち新宮(速玉大社)より若一王子権現をこの地に勧請して慶長元年(1596年)に創建、別当寺(神社の護持仏)として福泉寺を開基して管理運営に当らせた。明治維新の神仏分離令によって権現をとり若一王子神社と改めて明治6年に長津田村の村社に列せられ村人の崇敬をあつめてきたが昭和33年の狩野川台風によって社殿が損壊し翌々年仮社殿を建てて、岡野家の造営になる立派な奥宮を保存してきたところ、時代の変遷と共に本殿再営の気運次第に高まり昭和61年全額、氏子並びに崇敬者の寄進によって台湾檜の良材を得、秋田の名工の技により権現造りの立派な社殿の完成をみたものである。(境内掲示)



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大石神社

当社の由緒については詳ではない。たヾ新編武蔵風土記に載る所によると、元長津田村大石権現社を称し、在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん)をまつったものとつたえられている。万有百科大事典によると、業平朝臣は平安朝前期の人(825880)平城天皇の孫にあたらせ、古今の和歌の先駆をなし、美男で放縦な性格を持つとされて居る。御神体はだ円形の自然石で、文字等の刻込は全くなく現在本殿に四角な台石に、下部をはめ込んで立ててある。台石の上に現れている部分の高さは2.35m、中央部の一番広い所の幅1.1m、上部は漸次細くなりて突起となる。正面から見ると円味をおびいかにも均衡の取れた、形のよい石を田奈郷土誌にも記されている。又、武蔵風土記に、神石は昔武相の国境にあつたが、武蔵、相模、両国の百姓己々其の帰属を主張して譲らず遂に争いとなったが神意により武蔵に鎮座したものと言われる、その神意とは、古老は語る、神石を積んだ車は曳けども押せども、相州方面には動かず、而して、武州方面には易々と動いたと言う。神石の在ったところと称する地点を元石と言い、今尚その地方が現在して居るのである。古老又曰く、業平朝臣は此の地で、その討手か、又賊かに取りかこまれ、周囲から火を放された。火勢ようやく、衰えたあとには、人影更になく、某所に残されたものは大きな丸石たヾ一個、以上が神石にまつわる伝説である。従ってその真疑については問う所ではない。下って、元禄75月、領主岡野平兵衛社殿を修復し、更に宝暦26月社殿を造営した旨、現存の棟札に記してある。大正125月、神明社、稲荷社を合し、同年91日関東大震災により石造本殿が崩壊したので、宮内省より御用材を賜りて再建したが、早急のため粗末であったので、後日現在の蔵造りに建替えをした。又、此の当時まで境内に業平竹と言う竹林があったが今はいずこもそれらしきものは見当たらない。昭和2181日宗教法人法により神社本庁の宗教法人を設立宗教法人をして届け出て今日に至る。尚 祭礼日は毎年1010日を定められている。本殿:土蔵造かわら葺9.542 拝殿:木造入母屋宮造トタン葺19.0m 境内面積:43082所在地 長津田町:2322番地 (大石神社奉賛会)


d0183387_11061471.jpg上宿常夜燈
大石神社参道女坂に。天保14(1843)宿内の秋葉講中が建立。地神塔は同13年の建立。昭和62年現在地に。総高240cm、天宝14年(1843)に宿中の秋葉山講中が建立したもの。下宿常夜燈(緑区長津田町5丁目16521) 総高210cm、文化14年(1817)に宿中の大山講中が建立したもの。(横浜市教育委員会)


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皇太子殿下御野立之跡 

       
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長津田小脇から長坂を下る

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坂下の南長津田団地を右折       二又を左折


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坂上の246号長津田を右折 


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フィールドアスレチックを見ながらつつくし野(信号・歩道橋)へ


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長津田歴史探訪マップ
(赤:旧道 青:恩田大橋 橙:田奈駅・長津田駅・つくし野駅・すずかけ台駅)



・・・つくし野(町田市)

町田市の南東部に位置する。東には横浜市緑区がある。南には南つくし野三丁目がある。


馬の背
「馬の背」はこの辺りの小名地名。地形が馬の背に似ていて、左右に低く、尾根に大山道が通っていたことによる。見晴らしが良く、町田や北西方面を眺望できる。(みどころマップ・川崎国道)

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つくし野信号先を右手の細道へ上ると馬の背です

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馬の背からの町田方面の景観、左下はすずかけ台駅になりますす

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すずかけ台駅&馬の背を振り返りました/馬の背橋


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南つくし野こうま公園


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町田街道と交差します(信号横断)/町田市辻

町田街道

八王子市東浅川町の町田街道入口交差点(国道20号交点)から町田市鶴間の町田市辻交差点(国道246号交点)までを結ぶ道路の通称である。町田市内の全区間が東京湾(鶴見川水系)と相模湾(境川水系)の分水界で、武蔵国と相模国の国境となっていた境川に沿ったルートとなっている。町田市を北西から南にほぼ縦断する主要道路で、江戸後期から明治期にかけて多摩・甲州・上州などと横浜との交易に用いられた絹の道八王子街道(神奈川往還)の一部である。町田街道とは別に浜街道と呼ばれる絹の道のルートも存在する(浜街道は現在の国道16号の旧道に相当する。町田街道が旧来の道幅を広げ発展したのに対し、浜街道は軍都計画のため明治期以降全くの新しい道に姿を変えてしまった。Wikipedia

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セブン角を左折            16号BPを横断(目黒交差点へ迂回)


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グランベリーモール/南町田駅
町田市鶴間にある東京急行電鉄が開発したショッピングモールである。田園都市線南町田駅グランベリーモール口(南口)はグランベリーモール内に設置され、駅からのアクセスは0分であり、準急が終日停車するほか、土曜休日ダイヤでは急行停車駅となる。国道16号と国道246号の交点すぐそばで、東名横浜町田ICにも近く、車でのアクセスにも良い立地条件にある。Wikipedia



・・・資料ファイル

長津田十景

横浜市では歴史的財産に富み、かつ自然が多く残り、景勝地としての良さをも併せ持つ長津田の見どころを選び、中国湖南省瀟湘八景(しょうしょうはっけい)をモデルに「長津田十景」を定めた。
大林晩鐘 ②御野立落雁(おのたち)③大石観桜 ④王子秋月(しゅうげつ)⑤高尾暮雪(ぼせつ)天王鶯林(てんのうおうりん)⑦下宿晴嵐 ⑧長坂夜雨 ⑨長月飛蛍(つひけい)⑩住撰夕照(じゅうせんせきしょう)


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長津田十景
大林晩鐘
大林寺は江戸時代に旗本岡野家の菩提寺として建立された。本堂は昭和30年に再建されている。晩鐘は夕靄に包まれた鐘の音を表現している。大林寺に来て見逃してはならないものが二つあり、門を入って左側には緑色の大板碑(嘉元元年・1303年)があり、裏の墓地には領主岡野家の殿様墓があります。領主岡野家のお墓は横浜市の地域史跡にも登録されています。(長津田の見どころ紹介)


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長津田十景②-
御野立落雁
大正10年の陸軍大演習で、当時の皇太子殿下(昭和天皇)が演習をご覧になった場所である。眼下に恩田川とその周辺の地を一望できる場所、落雁は雁が空から舞い下りる様子。このとき皇太子殿下が記念に松を一本植えられました。これを記念して約7mの記念塔「皇太子殿下御野立之跡」が立てられています。(長津田の見どころ紹介)


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長津田十景
③-大石観桜
王子神社とともに長津田の鎮守である。境内に続く坂の途中には上宿常夜燈があり、宿の名残を感じさせる。市指定の名木とともに桜があり、春には美しく花開く。大石神社は長津田宿の西方の小高い丘の上にあり、南が正面で大山街道に接しています。ご神体は石神で、この大石には業平(なりひら)の伝説などいくつかの伝説があります。(長津田の見どころ紹介)


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長津田十景④-
王子秋月
大石神社とともにこの地の鎮守である王子神社は、境内に市の指定した名木もあり、良好な環境を保っているエリアである。空に輝く円月を想い起こさせる。熊野信仰が盛んな頃には、全国各地に若一王子神社が祭られました。この長津田の王子神社もその一つです。若一王子神社とは、熊野三山(本宮、新宮、那智)のうち新宮速玉大社にまつられている「熊野十二所権現」の一つです。(長津田の見どころ紹介)


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長津田十景
⑦-下宿晴嵐 
宵闇のなか旅人を迎えてきた常夜燈はまさに長津田の宿場町の歴史を象徴する歴史的資産である。晴嵐はかつての宿場町を表わす。宿場の入口には常夜燈があり、灯火を灯して道を照らし、宿場の安全と暗い夜道を行く旅人のための道しるべでありました。下宿常夜燈とともに上宿常夜燈も横浜市の地域史跡に登録されています。(長津田の見どころ紹介)


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長津田十景
長坂夜雨 
大山街道は次第にその道筋を変え、長坂は現在の国道から取り残された。坂に通じる長津田小学校脇から森村学園脇の旧道には、昔の矢倉沢往還の雰囲気を今に僅かなりとも伝える場所も一部残る。蓑笠をつけた旅人が雨の中を歩く様子を連想させる。(長津田の見どころ紹介)


遊相日記
江戸時代の学者で南画家の渡辺崋山は天保2年(1831)が江戸から大山街道を厚木まで歩き、藤沢を通って浦賀まで旅をしました。その旅の連れずれに書きとめられたものが「遊相日記」であり、日記の中にも長津田のことが書かれています。長津田に到着した崋山は兎来(とらい)なる人物を訪ねました。兎来とは俳句の号であり、通称は萬屋藤七といいます。崋山はここで弟子の梧庵とやはり俳句をたしなむ農夫松五郎(号は琴松)と四人で句を詠み書画を残しています。(長津田の見どころ紹介)


by Twalking | 2016-01-29 12:33 | 大山街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 大山街道(4)荏田~南町田01 市ヶ尾   

日時 2016.1.26(火)
天気 晴れ

多摩丘陵を横断する中原街道、大山街道、津久井道、
縦断する道として鎌倉街道上道、中道などがあります。
関連性がありますので整理しながら歩くことにしました。

今年初めての大山道はその多摩丘陵を越えていきます。
丘は住宅でびっしりなので旧道は途中で消えています。
道を確かめながらの道中、時間がかかりました。

それでも、冠雪した富士や丹沢が綺麗にみえましたし、
郡衙跡や史蹟公園など折角ですから寄り道してきました。
ちょっと単調ですが、ポイントを絞ると面白いと思います。


・・・
荏田

尾根道を下り、早淵川を渡ると荏田宿となります。横浜市域の大山道には荏田宿と、更に2里の距離をおいて長津田宿との二つの宿場が置かれ、それぞれに問屋の他に旅篭屋や商家が並び、馬継場の機能を有していました。道中の道幅は市が尾村付近で89尺、(2.5m程度)とされ、川間橋(三文橋)で鶴見川(谷本川)を渡り、景色の良い現在の柿の木台に茶店が二軒、また恩田川の手前にも茶屋があったことが知られています。また、現在の藤が丘駅や青葉台駅周辺の賑わいからは想像も出来ませんが、藤が丘附近からしらとり台附近の間は「谷本原」と呼ばれる寂しい林の中の山道で、昼間から追いはぎが出没したとも伝えられています。恩田川を渡り、長津田宿を過ぎると、大山道は曲折しながら丹沢山塊や町田市を一望できる「馬の背」を過ぎ、やがて東京都町田市鶴間となります。(
みどころマップ・川崎国道


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真福寺本堂

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荏田真福寺の奉納絵馬および奉納額等

青葉区荏田町に所在する真福寺に奉納され、堂屋内にかけられていた大小の絵馬および奉納額等である。荏田は近世において大山街道の宿場として賑わいを見せていた所であり、また近在の農村の物資集散地でもあった。真福寺という名称は大正年間に改めて付けられたもので、それ以前は単に観音堂と呼ばれていたという。観音堂は荏田の住民だけでなく、近在の農村からも信仰を集め、その結果多くの絵馬が奉納されることになった。大山街道沿いには数多くの堂や社があるが、このように多くの絵馬の残存が見られるところは少なく、貴重である。現在残されている絵馬で最古の紀年銘をもつのは寛政121800)年のもので、同年の絵馬が3枚ある。これを含め、近世の年号を有する絵馬が12枚、明治以降の年号を記す絵馬が16枚あり、そのなかには昭和631988)年奉納の絵馬が2枚あり、地域の民俗信仰として現代にも生きていることを示している。絵馬は大絵馬と小絵馬に大きく区分できる。大絵馬には、美術作品としても注目できるものを含むが、民俗資料としては115枚に及ぶ小絵馬が注目される。小絵馬は個人が切実な願望を実現するために奉納したものと考えられ、村人が仏の前で拝む姿を描いた絵馬、馬そのものを描いた絵馬などが目立つ。真福寺に奉納され飾られていたものとして、絵馬以外に、宝暦101760)年の紀年銘を含む奉納額、扁額、算額、平成81996)年奉納の写経もあり、また珍しい奉納物として藁蛇が含まれている。現在、大絵馬を中心に74点が、真福寺本堂内に飾られ、残りは横浜市歴史博物館に収蔵されている。(青葉区)


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田園都市線に沿って市ヶ尾に向かいます/江田駅方向の風景駅

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先のガードを右折           二又を右へ


・・・市ヶ尾

青葉区の行政上の中心地域、古墳が多く見つかっており地域内は鶴見川流域が田園地帯になっているほかは概ね住宅地となっている。地域の北部には東急田園都市線が通っており、市が尾駅がある。昔は「市郷」と呼ばれていたが、音が変化して現在の「市ケ尾」になったと言われる。
Wikipedia

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市ヶ尾竹下地蔵堂/
地蔵堂下信号の右側
本尊・延命地蔵尊(木造・酉年開帳、都筑・橘樹酉歳地蔵2番礼所)。江戸中期頃の建立。毎年1130日江戸中期からの念仏行「お十夜」(市無形文化財)を行う(本尊開帳も)。統誉上人(宝暦元・1751年墓碑銘)即身仏の伝承がある。(みどころマップ・川崎国道

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門前のお地蔵さん           境内右手の石碑群


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猿田坂を下り川間橋へ 

猿田坂

現在地蔵堂にある庚申塔等が所在していたために名付けられ、猿は去るに通じるとし、嫁入行列はこの坂の通行を避けたとされる。(みどころマップ・川崎国道

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八雲神社               この左のお宅でしょうか?/上市ヶ尾 

旅籠綿屋/上市ヶ尾
旧大山道(猿田坂下)と日野往還道の交差点地点に在り、明治15年頃の建築、二階が客室。客を綿のように暖かくの意で、明治末迄営業。斜め前の角に茶や県旅篭石橋屋及び小石橋屋(共に明治15年焼失)も在った。(みどころマップ・川崎国道


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恩田川との合流点から上流の鶴見川はかつては谷本川と呼ばれていました/鶴見川


d0183387_14481478.jpg川間橋
鶴見川に架かる長さ10(18m)・幅8(2.4m)。利用者より3(1文は約25)の渡り賃(橋銭)をとったことから「三文橋」とも。現在よりやや下流にあり、北斎の浮世絵・大山道にも描かれ、渡辺崋山の「游相日記」にも。(みどころマップ・川崎国道)

・・・
上谷本

d0183387_01362970.png昭和
14年の横浜市へ編入の際、都筑郡中里村大字上谷本から新設した町。古くは都筑郡上谷本村であった。明治22年の市町村制施行の際、寺家村・鴨志田村・成合村・下谷本村・鉄村・黒須田村・大場村・市ケ尾村・北八朔村・西八朔村・小山村・青砥村・下麻生村飛地と合併して中里村大字上谷本となる。平成6年の行政区再編成に伴い、緑区から編入。町名は旧村名から採った。(青葉区)


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途中で途切れますが、旧道は医楽神社への登る坂だったでしょうか/大難の辻

大難の辻(おおな)
急な坂道で雨の難所からの地名。大雨が降ると現・医薬神社方面から土砂崩れが起こり、現・NTTの周辺の田畑も土砂に埋没した。(みどころマップ・川崎国道)

d0183387_15235864.jpg田中屋
三代将軍・徳川家光を治療したと伝えるマムシ治療薬を販売。(みどころマップ・川崎国道)





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里榎/次の十字路右角の民家の庭 
一里毎に置かれた道標、樹齢600年、横浜市指定銘木古木、幹の空洞は明治3年の火災に。昭和47年区画整理にて現在地に移植(みどころマップ・川崎国道)




・・・
柿の木台

横浜市青葉区西部に位置する。地域内は全域が東急によって開発された東急多摩田園都市の住宅街となっており、横浜柿の木台郵便局がある。周辺に柿の木が多かったことから「柿の木台」と名づけられた。Wikipedia


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突き当り(テニスクラブ)を左折、すぐを右折して坂を登る/柿の木台

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醫薬神社由緒/
医薬神社前交差点(右)
戦国時代末期の天正年間(15731592)、真言宗関東三ケ寺の一つとして創建された醫王山薬師院東光寺の境内に山号の「醫」、寺号の「薬」を取り「醫薬神社」として祀られたのが始まりという。江戸時代末期、水戸藩主徳川済昭の庶子として生まれた東光寺住持諦恵が明治初年に新政府が神仏分離令を発布したとき水戸神道を奉じて僧侶から神職となり、近隣の上谷本・下谷本・上市ヶ尾・成合の四ケ村の檀家は神社神道に改宗し、東光寺を廃祀して醫薬神社を独立創祀した。諦恵はこのとき谷本の村名を姓として名乗り、こんこんと湧き出る境内の井戸に因み名を泉と称した。当所の社殿は、一尺五寸四方の小祠で昭和の初期に改造営したが、戦後に至って朽ち果てたため新社殿を再建し、昭和42321日遷座奉祝祭を斎行した。その後土地区画整理事業により街並みが一変したため、社殿の向きを南向きに変えた。御祭神大国主神が稲羽の素兎を助けた神話に因み、病気平癒・厄除・安産成就・無病息災・延命長寿のご利益のある神社として遍く崇敬されている。(説明板)


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市ヶ尾周辺地図
(緑:江田駅・市ヶ尾駅 橙:長者原遺跡・史跡公園 青:川間橋)


・・・藤が丘


青葉区の東急田園都市線の藤が丘駅を中心とした地域。国道246号が通過する。付近に「富士」塚(富士信仰)があることや、付近に藤が自生しておりそれが非常に美しかったために、昭和41年に藤と富士のダブルミーニングで「藤が丘」と名付けられた。
Wikipedia

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医楽神社を左折、突き当りを右折して藤が丘へ/藤が丘ゴルフ

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坂下前突き当り(和菓子屋)左折    すぐジョナソン右折


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ヤマだ電気裏を左折          入口の信号を左折し再勝橋へ


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再勝橋/246号
この橋から西側の青葉台の方へ下る大山街道の坂を昔はサイカチ坂といい、その名前をとった橋だそうです。

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正面に大山、右手が青葉、先の丘が長津田になります/再勝橋(246号)


・・・青葉台


青葉区西部に位置する。東はもえぎ野、西は榎が丘・松風台、南はしらとり台・つつじヶ丘、北は桜台と接している。田園都市線青葉台駅が置かれ、駅周辺は区内最大の商業地となっている。東京急行電鉄の多摩田園都市開発に関して、開発前の一帯が草木が生い茂る広々とした台地であったことから、田園都市のコンセプトでもある自然と人間の調和の末永きを願い「青葉台」と名づけられた。

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信号左折、右が駅です/青葉台

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すぐの信号右折サイカチ坂を下ります  ここを右折、246を潜って青葉台へ



・・・・
資料ファイル

都筑郡

神奈川県(武蔵国)にあった郡。古くから当地域は「つつき」と呼ばれており、その読みに字を当てた「都筑」が8世紀頃に郡名として定着したと考えられている(「つつき」の語源については定説がない)郡衙は長者原遺跡(現在の横浜市青葉区荏田西)に置かれていたと推定されている。
(鎌倉時代)各地に鎌倉街道が整備され、当郡を縦断し鶴川・柿生・黒川など各地を通って多摩郡へ抜け、首都である武蔵国の国府(府中市)へ至る様々な道が通る様に成ったと推定されている。
(室町時代)茅ヶ崎城(現在の横浜市都筑区)が築かれる。
(江戸時代)
足柄道に沿って矢倉沢往還が整備され、荏田宿(現在の横浜市青葉区)、長津田宿(現在の横浜市緑区)が置かれ、沿道が大山参詣者などで賑わった。近世には多摩丘陵の谷戸地形を利用した農業が盛んになり、旧柿生村・岡上村付近一帯で産した「黒川炭」「禅寺丸柿」などが江戸へ流通する。Wikipedia


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長者原遺跡/
荏田猿田公園
この荏田猿田公園と周辺の台地上は、土地区画整理事業にともなって行われた昭和5456年の発掘調査によって、かつて古代の武蔵国都筑郡の役所である郡衙が存在していたことが明らかとなりました。遺跡は東名高速道路をはさんで約200m四方の広範囲におよび、数10棟の掘立柱建物跡のほかに有礎式建物跡、溝、竪穴住居跡などが発見されました。西側の台地上では農民から徴収した稲穀などを収納した「正倉」、東側台地の中央は、正倉を管理し郡の政務をとった「郡庁」、その北東から南にかけての周辺は「正倉」や郡の役人(郡司)の宿舎である「館」がありました。また、遺跡内からは都筑郡を示す「都」の墨書土器のほかに様々な遺物が出土しました。北側の谷すそを通る国道246号は、8世紀後半の頃は相模から武蔵にいたる東海道であったとかんがえられており、都筑郡衙が当時の幹線道路ぞいに設けられていたことを示しています。(横浜市教育委員会)

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遺跡中央部の航空写真/説明板



市ヶ尾横穴古墳群/市ヶ尾史跡公園(市ヶ尾小裏)

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横穴墓群 
鶴見川上流の市ヶ尾周辺には、丘陵の谷間の崖面に多くの横穴墓群がつくられています。市ヶ尾の横穴墓群はその代表的なもので、6世紀後半から7世紀後半にかけてつくられたA12基、B7基の計19基からなりたっています。これは横穴墓内部から発見された副葬品から、この地方の有力な農民たちの墓地と考えられています。この市ヶ尾横穴墓では前庭部と呼ばれる横穴入口にちかい墓道の部分からも刀・土器類などが発見されました。ここで死者をいたみ、祖先の霊を祭る儀式が行なわれていたのではないかと考えられています。また、19基の横穴の内部のつくりにいろいろな形式がみられ、時代とともにしだいに変化していったようすもうかがえます。昭和8年(1933)・31年(1956)に発掘調査が実施され昭和32年(1957)に神奈川県史跡になりました。(説明板)


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横穴墓と前庭部
 
昭和5758年(19821983)横穴群前面の広い前庭を発掘調査した結果、それぞれの横穴入口にいたる墓道(ぼどう)が発見され横穴の造られた順序なども推定できるようになりました。また、A-4号横穴の前庭部からは、須恵器(すえき)の甕(かめ)の破片が並べられたような状態で出土しました。この頃の須恵器は日常用品の土師器(はじき)とちがって、古墳に葬られる死者にそなえられたり墓前の儀式に使われる貴重な土器でした。古代の人たちは、どのような思いをこめてこの大切な須恵器を墓の前で割ったのでしょうか。(説明板)


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古代社会と横穴墓
 
古墳がさかんにつくられた時代を古墳時代(47紀)と呼んでいます。古墳は九州から東北地方にまで広く分布していますが、この時代の特徴は日本にも統一的な国のしくみができたことです。農耕社会が発展し、人びとの間には貧富の差や身分の差が生じ、各地に有力な豪族があらわれてきました。これらの豪族たちをさらにまとめて大和政権が誕生したのです。古墳は、こうした豪族たちの墳墓として彼らが支配する地域を見渡すような場所に、自然の地形を利用したり人工的に土を盛り上げたりしてつくられました。古墳時代後期(67世紀)になるとこうした豪族たちの下で、村の中にも貧富の差が広がり家父長を中心とする農民の家族が成長してきます。彼らは水田耕作に適した河川の中・下流域ばかりでなく、上流域の丘陵地帯にも耕地を開き、集落を営み、横穴墓や小さな円墳などの群集墳をつくりました。(説明板)

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市ヶ尾周辺の文化財
(赤:大山街道 紫:中原街道 青:恩田川・鶴見川・早淵川)


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丹沢山系&富士(正面)が望めます。先の丘は成瀬~町田方面でしょうか

古代の都筑
この谷は禅当寺谷と呼ばれています。横穴群この奥まった崖面に位置しています。ここからは谷本川の平地と富士山や丹沢連邦を望むことができます。かつてこの周辺にはいくつかの横穴墓がありました。市ヶ尾横穴群の北東には小黒谷横穴群、尾根を越えた北側には大場横穴群などが背中合わせに並び、北西には稲荷前横穴群がさらに川向うの谷奥には上谷本横穴群がありました。稲荷前には横穴群の他に前方後方墳を含む古墳群があります。さらに南方には朝光寺原古墳群が位置していたのです。また付近の川沿いの台地の上には鹿ヶ谷遺跡をはじめとする古代の集落跡が発見されています。そしてこれらの東方に大規模堀立柱建築跡が並ぶ長者原遺跡が発見されています。この遺跡は郡衙跡(律令時代の郡役所)かと考えられています。このように市ヶ尾と荏田地域は古代都筑の中心であったと考えられます。(説明板)


by Twalking | 2016-01-28 14:49 | 大山街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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街道風景
大山街道/長津田宿(横浜市緑区)
246号から別れ、旧道を青木ガート(横浜線)を潜り長津田宿に向かいます。凄く印象に残る坂の風景ででした。

by Twalking | 2016-01-27 13:16 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 市ヶ尾の富士   

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市ヶ尾の富士
雪が残る丹沢山塊から頭だけ顔を出してくれてます。
大山街道市ヶ尾史跡公園/青葉区

by Twalking | 2016-01-26 21:52 | ○富士

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 あざみ野駅   

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田園都市線あざみ野駅/青葉区


あざみ野駅

横浜市青葉区あざみ野二丁目にある東急横浜市営地下鉄の駅である。東急の田園都市線と横浜市営地下鉄のブルーラインが乗り入れ、接続駅となっている。ただし「ブルーライン」は営業上の路線呼称であり正式路線名は当駅から関内駅まで「3号線」である。中央林間方は谷で渋谷方が高架となっている。(Wikipedia)

by Twalking | 2016-01-26 20:09 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 お月さん   

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満月は昨日ですが、いいお月さん、でてます。
多摩丘陵/多摩市
2016.1.25(月)19:40

by Twalking | 2016-01-25 19:52 | ○sun&moon