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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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旧多摩聖蹟記念館/多摩市連光寺
にわか雨の後、強い日差を浴びて、靄が立ち込めてま~す。。。

by Twalking | 2016-07-31 22:14 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 乞田川の風景05-木陰   

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木陰
乞田川/多摩市落合
外の方が涼しい感じ・・・、いい風、吹いてま~す。。。

by Twalking | 2016-07-31 09:36 | ○たま-2016

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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水飲み場
上之根公園/多摩市愛宕
コックン、おいし~い、生きかえったぁ~、ありがと~!

by Twalking | 2016-07-30 23:38 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩の寺社巡り(5) 一ノ宮   

日時 2016.7.28(木)
天気 晴れ


新大栗橋から小野神社へ向かいました。
途中で地元の方から「この道は昔の参道、渡し場跡に
神奈川県の標識がありますよ」と伺いました。

一ノ宮の渡しは明治の頃でしょうか、確かに
神奈川県の石碑が置いてありました。
渡し跡は知ってましたが、これははじめて、
話は伺っみるもんだな~、と思いました。


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駅裏の宮下通りを北へ向かいます/京王本線・聖蹟桜ヶ丘駅

聖蹟桜ヶ丘駅
駅開設当時の「関戸」は駅所在地の地名から。現在の「聖蹟桜ヶ丘」は駅周辺が桜の名所であることに由来する地名「桜ヶ丘」(当駅南部)と、明治天皇の御狩場が連光寺付近にあったことに由来する「聖蹟」(天皇が行幸なされた土地のこと)を合わせたものである。Wikipedia


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一ノ宮の渡し碑

d0183387_15140648.png神奈川県水量標識の由来
この水量標識は明治54月に神奈川県が設置したもので、当時この多摩市も三多摩の各市とともに100年前は神奈川県に属していた資料として貴重なものです。判読は不明な部分はありますが「水量標零点ヨリ」拾尺□□」「明治254月」神奈川県縣廳」と刻まれています。また「水量標零点ヨリ」と刻まている部分の前にも、さらに一行刻まれていたと思われます。当時、氾濫を繰り返していた多摩川の水位を測る目安としていたと考えられます。この水量標識がある場所は、当初設置されていた位置ではなく、多少移動しています。今回、三多摩地域が神奈川県から東京都(当時の東京府)に移管されてから100年を記念したTAMAらいぶ21事業の一環として、この水量標識をみなさんに知っていただき、親しんでいただくためこの由来板を設置しました。(説明板)鳥鳥居この付近は昔、「鳥鳥居」あるいは「鳥居道」という地名があったといわれ、その名のとおりここにある2本の大きなケヤキは小野神社の御神木で、以前はこの附近に一の鳥居があったと伝えられています。またこのあたりから日田の方向に「一ノ宮の渡し」があったと言われています。(説明板)

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鳥鳥居
この付近は昔、「鳥鳥居」あるいは「鳥居道」という地名があったといわれ、その名のとおりここにある2本の大きなケヤキは小野神社の御神木で、以前はこの附近に一の鳥居があったと伝えられています。またこのあたりから日田の方向に「一ノ宮の渡し」があったと言われています。(説明板)


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港南せせらぎ通り

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地蔵堂                   庚申塔

庚申塔の由来
此の庚申塔は庚申信仰に由来して、江戸時代中頃の寛延4年(1751)に造立された石塔です。村へ悪疫や災難が入ってこないようにとの願いを込めて旧一ノ宮一番地先(現一ノ宮1丁目28番地9号先)に建てられいたが、都道府中四谷線関連道路の新設により当地にお遷し申し上げお祀りする。正面:像浮き彫り 右側面:寛延4年奉造立庚申供□□ 左側面:武州多摩郡一ノ宮村(小野神社役員・地域有志一同)



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小野神社大鳥居

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拝殿

d0183387_15550575.jpg小野神社/一ノ宮

『延喜式神名帳』に記載されている式内社「武蔵国多磨郡小野神社」の論社の1つ。論社には他に府中市の小野神社がある。多摩川の氾濫にともない遷座を繰り返した結果2社になったとも、どちらかが本社でもう一方は分祠であるともいわれる。また、当社は武蔵国の一宮とされた。社殿、鳥居、隋神門、賽銭箱、神輿などには菊花紋章(十六菊の紋章)が取り付けられている。後北条氏、太田道灌らの崇敬を受けて栄えた。江戸時代には一宮大明神と称され、江戸幕府より朱印地15石を寄進されている。

主祭神は以下の8柱。天下春命(ウワハル・シタハル)・瀬織津比咩(せおりつひめ)・伊弉諾神(イザナギ)・素盞鳴尊・大己貴大神・彦火火出見尊・倉稲魂命。古くは小野氏祖の天押帯日子命(あめおしたらしひこのみこと)を祀っていたという説がある。

中世には近在に武蔵国府が存在し、武蔵国一宮であったとされている。武州六大明神の一つとされ、これらを祀る武蔵国総社大國魂神社(六所宮)には「一宮」として祀られている。なお、祀られているのは当社のみで府中市の方は外れている。ただし、室町時代以降の武蔵国の一宮に関してはさいたま市大宮区の氷川神社であるとする説もある。
Wikipedia

住吉小野神社の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23066531/


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境内

木造随身椅像(東京都指定有形文化財)

小野神社の起こりは旧く8世紀中頃とも言われ、中世には武蔵国衙に近在する筆頭の神社、武蔵一宮であった。武蔵一宮小野神社については現存する史料が極めて乏しい中で、昭和49年にこの随身椅像に墨書銘があることが発見された。墨書銘によれば、この二躰のうち古い方の随身像は元応元年(1319)因幡法橋応円・権律師丞源らにより奉納されたもので、その後、寛永5年(1628)に相州鎌倉の仏師大弐宗慶法印によって彩色などの補修が行われ、その際新しい方の像が新調されたことを伝えている。どちらも檜材、寄木造、胡粉地に菜色が施され、頭部は挿首、玉眼。都内では室町時代以前の随身像は数少なく、また武蔵一宮小野神社の歴史を伝える数少ない資料の一つとして貴重な文化財である。(東京都教育委員会)

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隋神門                南門

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江戸名所図会 一宮大明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

小野神社の関連記事(パルテノン歴史ミュージアム)はコチラヘ(http://teione.exblog.jp/13044113/




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真明寺山門

d0183387_16141015.jpg真明寺(真言宗智山派)/一ノ宮

山号は冠木山、院号は蓮華院。一ノ宮村にあり、朱印地は五石。本尊は十一面観音で、境内には十王堂がある。明治13年(1880)の「寺禄明細帳」に檀家34戸。(多摩市史)



d0183387_16153976.jpg多摩十三仏霊場10-阿弥陀如来

阿弥陀如来

大乗仏教の仏。西方の極楽浄土の教主で生あるものすべてをすくう仏。日本には7世紀初めごろつたわる。念仏により浄土に往生できるという阿弥陀信仰が鎌倉時代にさかんになり浄土宗、浄土真宗、時宗などの浄土教宗派が成立した。無量寿仏、無量光仏ともいう。(コトバンク)




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六地蔵                   石仏


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多摩川の風景① 下流はの関戸橋辺りが「関戸の渡し」、右は多摩丘陵です

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多摩川の風景②この辺りは四ツ谷と結ぶ「一ノ宮の渡し」、上流に四谷大橋が望めます


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関戸/九頭龍公園入口

「関戸」の町名はかつて関所が設置されていた所からこの名がついたといわれています。この関は一般に「霞ノ関」といい、吾妻鏡によれば建暦3年(1213)「武蔵国に新しい関を置く」とあります。現在熊野神社内に南木戸柵跡があります。当地は元弘3年(1333)に新田義貞軍と北条軍が戦った古戦場として有名であり、江戸時代中頃まで宿場として大いに賑わっていました。明和5年(1768)には大火もあり、時代とともにその賑わいを失ってしまいました。しかし、今でも屋号等に名残が見受けられます。また、多摩川の渡船や鵜飼などでも親しまれていました。なお、この彫刻は九頭龍公園に因んで龍を龍の持つ珠(願いごとがなんでも叶うという)をテーマに建てたものです。(多摩市)

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大栗川の風景 夕映えに静かな佇まいを見せています


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一ノ宮周辺マップ
(赤:歩行ルート 橙:現鎌倉街道 紫:川崎街道 赤丸:小野神社・一ノ宮の渡し跡 黄角:聖蹟桜ヶ丘駅)


by Twalking | 2016-07-30 20:42 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 アガパンサス   

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アガパンサス
愛宕下通り/多摩市愛宕
う~ん、夏の日差しを浴びて、元気だね~!


アガパンサス
ユリ科アガパンサス属の常緑多年草。南アフリカが原産です。わが国へは明治時代の中頃に渡来しました。6月から8月ごろ花茎を伸ばして球状花序に淡い柴色の花をいっぱい咲かせます。名前はギリシア語の愛(Agape)と花(Anthos)に由来します。和名では「紫君子蘭」と呼ばれます。園芸品種も多く濃紫色や淡青色、白色などがあります。(Weblio辞書)



by Twalking | 2016-07-30 14:46 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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夏の宵
多摩ニュータウン通り/多摩市落合
梅雨明けの夕暮れ、やっと夏らしくなりましたね~。。。


by Twalking | 2016-07-30 11:19 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩の寺社巡り(4) 関戸   

日時 2016.7.28(木)
天気 晴れ


梅雨明け宣言、やっと出ましたね。
まだ、少し弱いけど「記念日」なので外出することに。
ついでに市役所に寄って「期日前投票」も済ませました。

愛宕坂から鎌倉古道を関戸へ、寺社を中心に歩き直し。
ここは大栗川へ延びる一続きの尾根筋に当たりますが、
霞ノ関はじめ中世の史跡が多く残されています。



・・・乞田(こった)

乞田という地名は昔、干ばつで住民が領主に「田を乞うた」ことに由来している。幹線道路の多摩ニュータウン通りと桜並木の名所となる乞田川に沿った多摩土地区画整理事業区域で、地名は旧乞田の名残りである。
Wikipedia


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街道風景① ここからスタート、関戸へ向かいます/乞田五差路バス停

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現鎌倉街道は左折します/乞田新大橋     前方が愛宕坂です/乞田五差路


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街道風景② 役所脇に建つ古市場の標柱/旧道

古市場

北条氏が関戸郷に送った当時の掟書によれば、1ヶ月のうち6回市が開かれる日があり(六斎市)、それは3日、9日、19日、23日、29日と定められていたり、伝馬の数や免税などについて定められています。(標柱・多摩市教育委員会)


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街道風景③ 市役所東庁舎先から沓切坂を下ります


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鎌倉古道の標識/坂上              左手に馬頭観音/坂上


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大六天祠/坂上
建立年代不詳ナルモ古老ノ言ニ依レバ霞ヶ関関聯アル祠トモ言フ 代々我家祭祀ス 昭和478月修復 大六天父祖より 亨けし 夏小立 笙々(滋)(左・碑文)  
滴りに 間というものの ありにけり 政々()(右・碑文)

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丘の風景① 東側、連光寺方面の景観です/多摩市役所東庁舎先


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谷戸の風景① 市役所の奥に谷戸が残ります、原峰公園(右)へ続きます/狼谷戸



・・・関戸


多摩市北部に位置し、多くの部分が多摩川南岸にあたる。当地は落合と並ぶ多摩市の中心である。中河原と関戸を結ぶ関戸の渡しがあったが現在では廃止されている。武蔵府中に近く、関所と鎌倉街道があったため鎌倉時代以降宿場町として栄えていた。霞ノ関を、鎌倉幕府が和田合戦を契機に、北条一族が多摩川を盾に、北関東からの防衛上の要衝として関所を設置した。また1333516日に起きた関戸の戦いの後、新田義貞軍の監視のために関戸城が築城されている。室町時代には鶴岡八幡宮領であったが、後に後北条氏の直轄領となって松田盛秀(左馬助)が代官に任じられた。関戸宿の有力者であった有山氏が商人・道者の問屋に任ぜられるとともに関銭徴収を任されたが、後に松田氏の代官と対立し1586年に他の有力百姓5名とともに代官の追放と代わりに550貫余りの年貢請負で合意している。なお、1564年に後北条氏から2年間の期限付きで関戸宿の伝馬役が減免された際の文書には関戸にて毎月39のつく日に六斎市が開かれて濁酒役と塩合物役が免除されていたことが知られている。
Wikipedia


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街道風景④ 坂下から熊野神社へ/坂下バス停(関戸6丁目)

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霞ノ関南木戸柵跡/熊野神社前

この付近は鎌倉時代の建暦3年(1213)鎌倉街道に置かれた関所跡で、熊野神社参道に沿って関所南側の木戸と柵跡が発見された。数少ない中世の関所跡として貴重である。(多摩市教育委員会・標柱)



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地蔵堂                   都史跡・
霞ノ関南木戸柵跡の碑


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霞ノ関南木戸柵跡
鎌倉時代の建歴3年(1213)に鎌倉街道に設けられた木柵で、街道沿いに設置された監視所跡と考えられる。なお中世の関所跡として既に地名にも関戸と称され歴史上貴重な史跡である。柵跡地は熊野神社境内参道に平行し、地表3045cmのところにおよそ45cmの間隔に丸柱(直径25cm)の痕跡16が」あり、道路東側にも67ヶ所丸柱の跡が認められる。(東京都教育委員会)

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霞ノ関木戸柵烈想定図(黄:旧鎌倉街道 青:旧乞田川流路)


d0183387_13293666.png霞ノ関/関戸

霞ノ関は鎌倉幕府が現在の旧鎌倉街道(上ノ道)沿いに設けた関所で、霞ノ関の北側には多摩川があり、和田合戦1213年)を契機に北条一族が多摩川を盾に北関東からの防衛上の要衝として、この関所を設置したと考えられている。多摩市にある熊野神社の参道に霞ノ関南木戸柵跡(東京都指定文化財)が残っており、中世の数少ない関所跡として貴重な史跡である。この霞ノ関付近は鎌倉時代までは「吉富」と呼ばれていたが、室町時代には「関戸」と呼ばれており、この関所が由来とされている。関戸は鎌倉時代から宿場町として栄えている。熊野神社の参道に霞ノ関南木戸柵跡があるが旧鎌倉街道の東側でも柵跡が発見されており、旧鎌倉街道を遮るように整備前の乞田川 (現在の鎌倉街道と乞田川)まで柵があったと考えられている。霞ノ関南木戸柵跡から北、約230m先(観音寺付近)には北木戸柵(未調査)があったと考えられ、現在の観音寺〜熊野神社までが関所だったと考えられている。観音寺の裏手には関所破りで処刑された者達か、戦いで討死した者達の供養のためと思われる板碑が複数残されている。現在、熊野神社の参道に沿って木戸柵の木柱が一部、復元されている。霞ノ関がある山林(城山)の頂上には天守台(のちの関戸城)があったとされ、霞ノ関の監視、守備などの役目を持っていたと考えられており、多摩川の対岸(武蔵野台地)が一望できる。霞ノ関は歌にも詠まれているが「霞ノ関」と言う呼称は各地で何ヶ所か候補があげられている。しかし鎌倉時代の街道の地名を詠んだ歌謡本「宴曲抄」では地名の順番から見て、関戸を「霞ノ関」と呼んでいる事がほぼ確実である。Wikipedia

霞ノ関跡(パルテノン歴史ミュージアム)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/13044113/


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熊野神社/関戸字霞ヶ関
延徳元年(149899日、和歌山県の熊野三社神社を勧請したものである。なお参道脇には東京都史蹟、霞ヶ関南ノ木戸柵跡がある。(東京都神社名鑑)

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丘の風景② 境内より南方面、連光寺・聖ヶ丘の景観です/熊野神社


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街道風景⑤ 右手に馬頭観音が立ってます/関戸5丁目


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d0183387_16204875.jpgせきど観音-観音寺

慈眼山唐仏院観音寺の創建は、建久3年(1192)後鳥羽天皇の御代、唐僧が聖観世音菩薩を草庵に安置したのがはじまり。古くは『関戸観音堂』と云われ観音さまのお寺として信仰を集め、武相観音霊場第7番・多摩川観音霊場第12番・多摩八十八ヶ所霊場第16番・多摩十三仏霊場第5番・京王観音霊場第23番の各霊場の札所となる。寺の近くを通る旧鎌倉街道沿いは「関戸古戦場跡」と云われる。分倍河原の合戦に敗れ、鎌倉街道を敗走する幕府北条軍を討幕新田軍が追撃し、幕府方の横溝八郎や阿保入道父子らの忠臣が、関戸の地に踏みとどまって防衛したものの敗北をきっする。(元弘3年・1333516日)北条軍敗北の地、関戸の戦跡に近いこともあり、観音寺では関戸合戦有縁無縁精霊・阿保入道父子精霊・横溝八郎朝臣精霊の位牌を大切にお祀りしている。(観音寺HP)

d0183387_16252607.jpg地蔵菩薩
天明5年(1785)観音寺本堂前に安置 相沢五流の父・了栄によって奉納




d0183387_13581713.jpg三界萬霊等 
安永2年(1773)般若石経、相沢了栄によって建立








d0183387_16254396.jpg観音菩薩石佛・六観音

天明元年(17817月吉日建立。相澤五流の父・相澤了榮、井上与市によって奉納される。多摩市唯一の六観音像。六道世界に輪廻する衆生を救う仏さま。聖観音(しょう):地獄道の救済に当られる 馬頭観音:畜生道の救済に当られる千手観音(せんじゅ):餓鬼道の救済に当られる 十一面観音:修羅道の救済に当られる 准胝観音(じゅんでい):人道の救済に当られる 如意輪観音:天道の救済に当られる具一切功徳 義眼視衆生 福聚無量 是故應頂禮(義眼山 唐仏院 観音寺)


d0183387_16304301.jpg多摩十三仏霊場5-地蔵菩薩


地蔵菩薩

釈迦の没後、弥勒仏が出現するまでの無仏の期間、六道で苦しむ衆生を教化・救済する菩薩。日本では平安時代から広く信仰されるようになった。密教などでは菩薩形をとるが、一般には左手に宝珠、右手に錫杖しやくじようを持ち、頭を丸めた僧形の像で親しまれる。六道の救済に当たることから六地蔵の信仰が生まれた。また子供を守り、幼くして死んで賽さいの河原で苦しむ子供を救済すると信じられて、子守地蔵・子育地蔵などが生じた。地蔵尊。地蔵。(コトバンク)


d0183387_16315561.jpg相澤五流・伴主父子の墓
江戸時代関戸村の旧家であった相澤家は、文化人としてしられた五流(ごりゅう)・伴主(ともぬし)父子を輩出した。五流(1746-1822)じゃ多摩郡(三多摩)初の法眼位を獲得した狩野派の絵師として、伴主(1768-1849)は生花「允中流」(いんちゅうりゅう)の創始者として、当時の住まいの変化による床の間や襖の出現と相まって共に多摩郡及び周辺の広い地域を活動の場とした。

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弘化2年(1845)伴主は自らの下絵をもとに、江戸の絵師は長谷川雪堤に描かせた「調布玉川惣畫図」を刊行した。大菩薩峠を遠景とした上流部から河口の羽田までを、幅30cm、長さ13mあまりの巻物に仕立てたもので、限られた紙面の中に流域の景観を描ききっている。この父子を含めた相澤家の墓は観音寺内にある。(標柱)


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谷戸の風景② 観音寺の奥にも谷戸が残ります、前方は連光寺です/観音寺奥


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無縁仏(無名兵士の墓)       馬頭観音/関戸5丁目


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街道風景⑥ 旧川崎街道との追分付近、この酒屋さんは有名です

d0183387_17115281.jpg地蔵堂
永代融通念仏盟約塔(右 寛政元年・178910月建立)
鎌倉を目指した新田義貞軍は、元弘3年(1333)に最後の得宗北条高時(1303-1333;14代執権)の弟の左近大夫将監入道恵性(北条泰家:鎌倉幕府滅亡後に北条氏残党を率いる)と分倍河原と多摩川を挟んだ対岸の関戸で激突。ここで多くの鎌倉北条軍の武士達が命を落とした。

d0183387_17431388.jpg関戸古戦場跡

最初の武士政権である鎌倉幕府は、元弘31333)年新田義貞によって滅ぼされた。新田軍は鎌倉に向かう途中、交通の要所である分倍河原と関戸で幕府軍と合戦となり、516日此の地で勝利を収めた新田軍は勢いに乗り、6日後に首都鎌倉を征圧した。(多摩市教育委員会)

関戸の戦い

鎌倉時代後期の1333年(元弘3年)516日に霞ノ関(現在の多摩市関戸)一帯で、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である。関戸合戦とも言う。元弘3516日、新田義貞は鎌倉幕府倒幕の際に分倍河原の戦いで勝利し、同日に多摩川を越えた。一方、分倍河原から退いた北条泰家(鎌倉幕府第14代執権・北条高時の弟)は鎌倉幕府の関所である霞ノ関一帯で防衛戦を行った。この戦いでは新田軍側が勝利を収め、北条泰家は家臣の横溝八郎や安保入道父子の奮戦によって一命を取り止め鎌倉に逃走したが、横溝八郎、安保入道父子は関戸で討死をしている。霞ノ関跡の周辺には横溝八郎、安保入道父子の墓と伝えられる塚や無縁仏(無名戦士の墓)が残っており、旧鎌倉街道沿いにある地蔵堂の前には関戸古戦場跡の標柱が建っている。現在でも多摩市にある観音寺では毎月16日に戦いで亡くなった兵士のために供養を行っている。この関戸の戦いから6日後の1333522日、鎌倉幕府は滅亡した。Wikipedia

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d0183387_22033105.jpg東京都指定旧跡・分倍河原古戦場/新田川分梅公園 
文永(1274)、弘安(1281)の役を経験した頃、北條執権政治は根底からゆるぎ御家人救済の方法として徳政令を発布したが、これがかえって政権破滅の速度を早めた。元弘3年(13335月、新田義貞は執権北條高時を鎌倉に攻めるため、上野・武蔵・越後の兵を率いて上野国新田庄から一路南下し、所沢地方の小手指ヶ原で北條方の副将長崎高重・桜田貞国を破り(511日)、さらに久米川の戦で優勢に立った。北條方は分倍に陣を敷き、北條泰家を総帥として新田勢を迎撃した。新田勢は敗れて所沢方面に逃れたが、この時武蔵国分寺は新田勢のために焼失させられたという。その夜(525日)、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力し、16日未明再び分倍の北條勢を急襲し、これを破って一路鎌倉を攻め22日に鎌倉幕府は滅亡した。(東京都教育委員会)


・・・

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延命寺山門

d0183387_17215969.jpg延命寺(時宗)/関戸5丁目 

山号は関門山、院号は地蔵院。関戸村の東の方本村にあり、藤沢清浄光寺の直末。当寺は本山住持普国が隠居寺に定めたといわれ、第四世春登は文化14年(1817)に語学書「万葉用字格」を著わす一方、地域文化の興隆に影響を及ぼした。(多摩市史)


d0183387_17230813.jpg六地蔵

万物を産み、すべての種を育み、動かざる台地の中から無尽蔵の功徳を衆生に与えるので地蔵といいます。釈迦が入滅してから未来仏の弥勒菩薩が出現するまで法を継ぐ仏です。慈愛の表情をたやすことなく、六道の苦しみに悩む衆生のために救いの手をさしのべて下さいます。(石文)


d0183387_17220902.jpg多摩十三仏霊場2-釈迦如来

釈迦如来
仏教の開祖。ネパール南部の釈迦族の王子として紀元前6-5世紀に生まれる29歳で出家し苦行ののち悟りをひらき、インド各地で布教して80歳で没したとされる。別称に釈迦牟尼 (むに)、釈尊。仏の十号のひとつ如来とは真理をさとった者の意で、仏や仏陀と同義。はじめ実在の釈迦をさしたが、入滅後超人化・神格化されて信仰・崇拝の対象となる。日本には6世紀、百済)(朝鮮)からその教えがつたわった。(コトバンク)



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大栗川の風景 夕日に川面が映えて、美しい風景でした/大栗橋

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大栗橋                観音多号塔/大栗橋北詰


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旧鎌倉街道散歩道マップ
(赤:歩行ルート 橙:現鎌倉街道 青:乞田川・大栗川)

旧鎌倉街道散歩道
鎌倉街道散歩道は永山駅から府中駅まで約6.5kmのみちのりです。「いざ、鎌倉」で知られる鎌倉街道は中世の軍路。北条氏と新田氏の合戦の舞台となった関戸・分倍河原古戦場跡をはじめ、鎌倉街道沿いの史跡・旧跡を巡る散歩道です。


d0183387_20103377.png鎌倉街道

「いざ、鎌倉」で有名な鎌倉街道は鎌倉往還、鎌倉みちなどと呼ばれ、源頼朝が鎌倉に幕府を開き関東及び周辺諸国の武士団が鎌倉目指して馳せ参じた道であるといわれている。幾筋かある鎌倉街道の中で多摩・府中・国分寺・小平を通り上州(上野国)へ至るルートは、鎌倉と諸国を結ぶ最も重要な道であった。そして多摩市内の関戸は位置的にその要地とされ、建暦3年(1213)に木柵の関が設けられた。現在その関所の跡といわれる都指定史跡の霞ノ関南大木戸柵の跡が残っている。また実質的に鎌倉幕府崩壊につながる元弘3年(1333)の「分倍河原」「関戸」の両合戦はこの地の鎌倉街道を中心に展開された(案内板)



by Twalking | 2016-07-29 22:05 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 青春ポスト   

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青春ポスト
聖蹟桜ヶ丘駅/多摩市関戸

「郵便ポストではありません『青春を見守るポスト』です。配達はされませんが、代わりに耳を澄まして、あなたの努力を見守ります。夢を叶えたらその報告を綴って再び出してください・・・」う~ん、年齢制限、あるのかな~・・・???。。。

by Twalking | 2016-07-29 12:22 | ○たま-2016

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 梅雨明け宣言   

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梅雨明け宣言
愛宕東公園/多摩市愛宕
夏だぁ~、祭だぁ~、梅雨明けだ~い!


by Twalking | 2016-07-28 22:48 | ○たま-2016

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩の寺社巡り(3) 東寺方&桜ヶ丘   

日時 2016.7.25(月)
天気 曇り


桜ヶ丘というと、なんといっても「耳をすませば」、
閑静な住宅地をいろは坂通りが通っています。
あのカントリロードが聞こえてくる街です。

丘の南に本路の上道、北側に裏道が府中に向かいますが、
北側の低地は農地もあり、関戸とはまた違った
昔ながらの里山風景が残っていて、楽しめます。


・・・東寺方

17住区の北東端のわずか2haの部分を構成。寺方という地名は付近に寺が多いことに由来し、八王子市恩方地区に同じく寺方があることから東がついた。区域にはわずか団地6棟が立っている。東寺方団地と呼ばれている。
Wikipedia


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大栗川への下坂/宝泉院前

お化け坂
東寺方地区の宝泉院の下の坂はおばけがでるといいおばけ坂とよんだ。また、この坂はもともとグミの坂といったが、坂の下にすむ老婆が若者を脅したため、おばけ坂とよばれるようになったという。この老婆は身の丈六尺もあり、口が耳まで裂けており、いつも笊に小豆をいれてといでおり、人が通ると笊を頭からかぶせて捕らえ食べてしまったという。それでこの坂は「山の婆坂」とよんだという。(多摩市史民俗編)


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宝泉院山門


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本堂                 境内

宝泉院
真言宗智山派・創建年代は不詳だが、墓石に寛永年間(1642年~1643年)のものがあるところから、江戸時代初期に開創されたと思われます。また当寺院旧本尊も、江戸時代初期に創られたものです。別格本山・高幡不動金剛寺の末寺であり、弘法大師多摩の札所94番所、多摩十三仏第3番札所にもなっています。

d0183387_17021734.jpg地蔵菩薩/門前
慈愛ふかく人々の苦しみ、迷いを取り去り願いをかなえて下さる仏さまです。このお地蔵様は通称「百地蔵」と呼ばれ、旅の道中安全、子育て、足の病を直すためお百度参りをする人がたくさんあります。(説明板)


d0183387_17041596.jpg薬師如来(ぼけ封じ薬師)
当山薬師如来は本堂にお祀りされておりましたが、近年高齢化が進んで病気やぼけ症状が出る人も多くなり、それらの人々をお救いになるため此処に移されました。左手の薬つぼは病気や心の病を取り除き安楽を与えて下さるおしるしです。(説明板)

d0183387_17042908.jpg南無まごころ地蔵尊

こころが病んでいた時、迷った時、このまごころ寄贈を心静かに拝んでください。あなたの中にすんだ心、あたたかい心、豊かな心が必ずめばえることでしょう。(説明板)



d0183387_17102402.jpg摩十三仏第3-文殊菩薩

「文殊の智慧」と云われるように智慧の最も優れた仏様で、私たちの日常生活に広大な「生きる力」の智慧と心豊かな幸福をお授けになります。右手の智慧の利剣は「悟り」をめざし悪い欲望や執着を断ち切り、左手にもつ経典は般若心経の「空」の教えを説く誓願を示しています。(説明板)


d0183387_17194584.jpg仏足石

仏足石はお釈迦様の足裏の相で、昔からお釈迦様の象徴として多くの人々に拝まれてきました。足跡に刻まれている線輻輪をはじめひとつひとつの紋様に深い慈悲の心と尊い教えが込められています。合掌


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大栗川の風景① 前方は関戸城があった桜ヶ丘の丘です/明神橋

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明神橋/大栗川             桜ヶ丘駅へ続く明神橋通り

大栗川

アニメ映画「耳をすませば」にはモデル地として大栗川と近くの聖蹟桜ヶ丘駅周辺の街並みが描かれている。八王子市鑓水付近を水源とし野猿街道に沿って大きく蛇行しながら概ね北東に向って流れ、八王子市松木付近で支流の太田川を合わせる。多摩市に入り和田の宝蔵橋付近で大きく東へ向きを変える。この地点の左岸の旧字は「大栗」でありこれが川名の由来となっている。その後多連光寺付近で乞田川を合わせて1 kmほど流れ稲城市との境界付近で多摩川に合流する。Wikipedia)

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丘の風景① 「おばけ坂」の坂下です/東寺方橋

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記念碑                くるまぼり公園緑道

くるまぼり公園

大栗川の岩堰から取水し東寺方坂下耕地に流れる用水路は、昔この辺りにあった水車小屋にちなんで「くるまぼり」と呼ばれていました。区画整理事業にともない造られた公園にその昔ながらの呼び名を使い「くるまぼり公園」と命名しました。(多摩市東寺方坂下耕地区画整理組合)


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この辺りに
関戸宿の支配役の有山源右衛門の屋敷があった云われます/明神橋通り



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観蔵院山門


d0183387_23445533.jpg瑠璃光山観蔵禅院
1255
年(建長7年)鎌倉時代後深草天皇の頃、鎌倉従関戸号、家親、有山修理太夫によって開闢し、守り本尊は薬師瑠璃光三尊如来の立像で左右の脇侍、日光菩薩、月光菩薩であり作者は行基菩薩の作である。薬師如来は十二の大願を発して、病気を除き諸根を具足させて解脱を導くために、古くから信仰が盛んになり十二神将が祀られている。開基は有山左衛門1578八年(天正6年)に開基となる。開山は含室傳秀大和尚が開山として1625年(寛永2年)に開山となる。(説明板)


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鐘楼                境内より桜ヶ丘を望む


d0183387_23451531.jpg多摩十三仏霊場1-不動明王

不動明王
サンスクリットアチャラナータAcalanāthaの漢訳で、発音に従い阿遮羅囊他と記す場合もあるが不動金剛明王、不動尊、無動尊、不動使者、無動使者とも訳す。もとはインド教のシバ神の異名で、仏教はこれを大日如来の使者としてとり入れた。如来の命を受けて忿怒の相を表し、密教の修行者を守護し助けて諸種の障害を除き、魔衆を滅ぼして修行を成就させる尊像とした。形像は右手に剣、左手に羂索(けんさく)を持ち青黒色の全身に火焰を負う姿が一般的である。(コトバンク)



・・・桜ケ丘

戦後、当時の京王帝都電鉄(現・京王電鉄)が当地区の宅地開発をおこない「桜ヶ丘住宅地」として販売し正式な地名となった。桜ヶ丘住宅地の開発以前、この地域の旧区画では関戸、東寺方、落川の各一部で人家は殆どなかった。大きな樹木は少なく丈の低い雑木林が大部分で、これは炭焼きやシイタケ栽培などのほだ木にするため樹齢10年ほどで刈り取っていたからだった。そのなかで金毘羅宮神社を囲む数本の大木だけがひときわ目立っていた。そのひとつに「祈り松」と呼ばれる木があり、鎌倉時代末期の元弘の乱のとき、鎌倉方は遠めのきく兵士をこの松の上に登らせて府中、中河原、部倍方面の戦況を知ったという。この松の下に、江戸時代になって関戸村の紺屋の林蔵という物持ちが四国の金毘羅様にお参りして、その分霊を頂いてきて祀ったのが金毘羅宮神社である。
Wikipedia

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昭和37年頃の桜ヶ丘(黄丸)/ジオラマ 桜ヶ丘住宅地図

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大蔵川の風景②右手が桜ヶ丘、この先で鎌倉道と合流します/霞ヶ関橋

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いろは坂を上ります         下流側の景観/霞が関橋

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いろは坂

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金比羅宮鳥居


d0183387_00344406.jpg金比羅宮/
桜ケ丘一丁目
鎮座地は金比羅山と呼ばれている。大物主命を祀る。中世には鎮座地に砦があり、新田義貞と北条泰家の軍勢が戦った場所である(関戸の戦い)。文政年間(18181830)中期に関田村の紺屋である井上林蔵が四国の金毘羅宮から神体を持ち帰り、社を建てたのが金比羅宮の始まりであると『多摩町誌』に記載されている。一方、文化1011月に明王太郎が井上林蔵から金比羅宮の普請を請け負ったという「請負状」が存在する。

d0183387_00324433.jpg当時は周辺地域の信仰が篤く、神社は大いに繁栄した。昭和33612日の夜間に火災に見舞われ社殿を焼失してしまうが、神体は無事であった。昭和41年、桜ヶ丘住宅地の建設に伴い現社地に再建された。関戸にある熊野神社が管理と祭祀を担う。現存しないが、境内には「物見の松」と呼ばれる老木があった。かつて男性に捨てられた美しい娘が怨念を抱いて夜叉となり、物見の松に藁人形を打ちつける丑の刻参りを続けたところ、男性は発狂して死んだという伝説がある。平成7年公開の映画『耳をすませば』には金比羅宮にそっくりな情景が登場する。主人公の月島雫が野球部員の杉村から告白を受けるシーンで参考にされたといわれている。境内にはこれにちなんだ「恋みくじ」がある。
Wikipedia


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関戸城址 階段の上に標柱が立っています


d0183387_00472763.jpg天守台(関戸城跡)
桜ヶ丘1丁目の金比羅宮(琴平社)付近と「天守台」などといい、一帯の山を「城山」ともいう。多摩川に面し、武蔵野台地を一望できる絶勝の地であることから、鎌倉幕府以来の物見的城砦として敵を察知したり、急変を狼煙などで知らせる通信拠点であったとも考えられる。一帯は関戸城跡とされているが、今はわずかにその一部を留めるのみで、山頂は削られ地形も変わっている。(多摩市教育委員会)


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丘の風景② 坂を下ると関戸になりま/天王台(関戸城址)

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江戸名所図会 関戸天守台 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

江戸名所図会の3(全7巻20冊)天幾之部より
『天守台同じ山続き、西の方にあり、城山の半腹より屈折して山頂に至るまで老松繁茂す。このところより四望するに最も絶景なり(近頃、山頂に金毘羅権現の宮を設営せり)』/金毘羅宮案内板抜粋丘の


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丘の風景③ いろは坂通りより望む多摩丘陵(南側)の景観/天守台先


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丘の風景④ 七生丘陵(北側)の景観/桜ヶ丘1丁目


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丘の風景⑤ 「カントリーロード」が聞こえててきます/桜ヶ丘ロータリー


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ロータリーの南下は原峰公園、森の中に歴史古街道団の標識があります/関戸

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鎌倉古道・関戸城址の標識      関戸砦(塁)の標識


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桜ヶ丘周辺マップ
(赤:歩行ルート 緑:鎌倉街道上道 橙:現鎌倉街道 青:乞田川・大栗川)

鎌倉街道上道(貝取山緑地)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23307489/


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聖蹟桜ヶ丘散策マップ
聖蹟桜ヶ丘へようこそ!聖蹟桜ヶ丘は、スタジオジブリのアニメーション映画「耳をすませば」のモデルとされた街です。豊かな自然と歴史のある素敵な街をぜひ散策してみてください。素敵な猫に出会えるかも?青春の物語が始まるかも。(散策マップ)


by Twalking | 2016-07-28 22:33 | たまのさんぽ道(新規)