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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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せせらぎ緑道/八王子市別所
おおきな柳の木、ふわふわと風に揺れて、いいですね~。。。

by Twalking | 2016-10-31 17:26 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 浜街道(4)星川~関内01 芝生追分   

日時 2016.10.27(金)
天気 晴れ/曇り


浜街道もいよいよ終着の横浜になります。
開港に当たり街道筋を避けて横浜村に開港場を設け、
内海を埋め立てて横浜道を造りました。

浜街道との追分は芝生、河口には河岸があり
八王子方面へさまざまな物資を運ぶ拠点だったようです。
野毛山、馬車道など味わいながら歩いてみたいと思います。


・・・星川(保土ヶ谷区)

保土ケ谷区中部にあり北東端を帷子川が流れ、川の近くを相模鉄道が走っており1丁目に快速停車駅の星川駅が置かれ、3丁目は和田町駅に近い。また3丁目には横浜新道が通り新保土ヶ谷IC方面への入口専用の星川ICがある。
かつての橘樹郡下星川村で明治22年(1889)に和田村と合併、宮川村大字下星川となる。星川の地名は平安時代に記された和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)にも見られ、松や杉の木立で鬱蒼としており昼なお暗く、川の流れに星影を映したといわれたことに由来する説がある。Wikipedia

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帷子川の風景① 親水護岸になっていて堂々とした流れですね~/柳橋


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法性寺参道


d0183387_13552723.jpg法性寺(ほうしょうじ)

日蓮宗総本山身延山久遠寺の末寺。元和2 年(1616)の創建で、開山は法性院日在、開基は芝生村の斎藤忠兵衛という人です。文政13 年(18304 月、第25 世日義上人のとき、堂宇を再建し、現在の本堂の骨格、庫裏ができました。ただし、大正12年(1923)の関東大震災で大破したため、修復を加えて現在に至っています。なお、開山から370 年・380 年・390 年の記念奉納事業を檀信徒の協力を得て、現在寺観一新されています。本寺所蔵の平安時代末期から鎌倉時代初期に制作されたと考えられる経典『紺紙金字法華経』全八巻は平成8 年に横浜市の指定文化財になりました。なお、紺紙金字法華経とは、紺色に染めた料紙に金泥で経典を写したものです。(保土ヶ谷散策ガイド・横浜市)

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山門                 七面堂

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丘の風景① 眼下には星川、前方に横浜市街が望めます/法性寺裏


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星川杉山神社鳥居

d0183387_14431746.jpg御由緒
はるか上総の山々、西に霊峰富士山をのぞむ神丘に鎮まります当神社が初めて国史上にあらわれるのは「続日本後記」です。その承和5年(838)の2月 の条に「武蔵国都築枌(杉)山神が霊験あらたかなるをもって宮社に列せられた」とあり、同16年(8485月の条には「武蔵国旡位枌(杉)山名神」が従5位下を奉授されたとあります。さらに降って「江戸名所図会」に「新町より8丁あまり北の方下星川村にあり延喜式内の神社にして云々」とあるように「延喜式」神名帳に武蔵国44座の中「都築郡一座(小社)」と記載されており、多摩川以南都築、橘樹、久良岐三郡において唯一の式内社との伝承が古くより語り継がれております。御祭神日本武尊は三種の神器草薙剣の神話にもあるように強い意志と決断力の御神格がありこの剣が智慧のことをあらわすことから出世、開運祈願、厄除け及び商売繁盛、縁結び、交通安全、金運に恵まれるとのご神託が伝えられ、人々は幾世代にわたりその御神助を祈ってまいりました。

d0183387_14511408.jpg御神門の三本杉
古来より、神の御心は神託、神符などで人々に伝えられておりましたが、やがて神の御心は具体的な形でも伝えられるようになりました。それが神紋といわれるものです。当社の神紋は社名の通り天に高くそびえる杉の紋で、三本杉はうっそうとした神聖な森を表わしております。特に、杉の枝は安産の御守りや魔除にされたほか、杉の脂は火傷や吹出物などの塗り薬に使用され、杉の樹木そのものは屋敷の宅神、商売繁盛の福の神として広く信仰されております。また、屋久杉・神代杉に見られるように長寿のシンボルとして樹木の崇拝の中心的存在であり全国的に見ても杉を神木とする神社が数多くあります。

d0183387_14510687.jpg境内社-伏見稲荷
本社と同一境内に鎮座する伏見稲荷の御祭神倉稲魂神(うかみたまのかみ)の「うか」「うけ」は古くは食物を意味する言葉で、また稲荷は「稲生り」「稲成り」の意味で神像が稲を荷っていることから「稲荷」の字があてられたといわれます。稲荷の神はもともと農業の神ですから米粒が何倍にも殖えるように広く殖産の神としてあらゆる職業の人から信仰されています。(案内板)

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江戸名所図会 杉山明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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街道の風景① 16号と別れここを左折し芝生へ向かいます/宮町2交差点


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延命地蔵/宮田町2先

古東海道沿いにあるこの地蔵堂一帯には、中世の頃より埋葬所、あるいは投げ込み塚があったのではないかといわれ、境内からは文明12 年(1480)刻銘の板碑が数個出土しています。地蔵堂は旅の途中で亡くなった人々の霊を供養して建立されたものといわれています。(保土ヶ谷散策ガイド・横浜市)

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街道の風景②この先左に上ると稲荷神社があります/宮田町1


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街道の風景③ 芝生の追分です、/浅間町3

d0183387_15151146.jpg追分の標柱

八王子道はここより帷子川にそって伸び、町田・八王子へと続く道で、安政6年(1859)の横浜開港以降は八王子方面から横浜へと絹が運ばれるようになり「絹の道」とも呼ばれています。(保土ヶ谷区)



d0183387_15191152.jpg芝生の追分
追分とは一般に二つの道の分岐点を意味します。江戸時代、ここは保土ケ谷宿と芝生村(現浅間町・浅間台)の境に位置し、西に向かって右手の道は帷子川に沿って延び、町田・八王子へと続く八王子往還でした。安政6 年(1859)横浜開港によって、輸出用の生糸が八王子方面から横浜へと運ばれるようになり「絹の道」とも呼ばれました。左手の道は慶安元年(1648)頃に整備された旧東海道です。なお、洪福寺の前身である薬師堂が、江戸の初期頃まで旧東海道の北側に連なる袖摺山の西端部のこの近くにあったといわれています。(保土ヶ谷散策ガイド・横浜市)



・・・
浅間町

横浜市西区の町名。元は芝生(しぼう)と称したが、1901年(明治34年)の横浜市編入の際に域内にある浅間神社から浅間町と改称した。芝生が「死亡」に通じることを嫌った住民の懇願によるとされる。近世以前芝生村と称し、武蔵国橘樹郡に属した。村内を東海道が貫通し、神奈川宿と保土ヶ谷宿の中間の立場として栄えた。(Wikipedia


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街道の風景③ 旧東海道を東へ向かいます/浅間町3

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稲荷神社参道           稲荷神社祠/宮田町(西区境)


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丘の風景② 袖すり山から開港場(関内)方向の景観です/明神公園上付近


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浅間神社参道入口

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浅間神社境内

浅間神社由緒沿革

祭神:木花咲耶姫命 相殿:天照皇大神、武甕槌命 境内末社:小獄社、稲荷社、招魂社

d0183387_16285337.jpg神殿
本殿二階建浅間造にして社殿丹塗総金具付にて元官幣大社浅間大社(静岡県富士宮市)と同様 国宝建造物類似楼閣にて近隣に比類なき構造なり

由緒沿革
元神奈川区浅間町に鎮座し浅間町一円の氏神なり、創祀は承歴4年(1080)といわれ、源頼朝公文治元年平家討滅に依るべきを思い且つは戦勝奉賽のため関東一円の社寺修築神馬神田の寄進に及べり、然る処武蔵国橘樹群神奈川在芝生村に富士山の形状の山地あるを卜とし社殿の修築をなし、報賽の至誠を致せる由といふ。薾来九百余年威嚇灼として遠近を光被し万民均しく渇仰崇敬せり。


d0183387_16285825.jpg社殿・境内整備について

浅間神社は承暦4年の創祀より歴史ある古い社であります。明治の大火、関東大震災 により焼失復興と度重なりしが昭和3年御大典記念として御造営せる社殿は惜しくも昭和205月の戦災のために烏有に帰しましたが社殿復興 再建の議が起こり昭和33年起工式、同34年に社殿落成亦境内拡張整備工事に着手、従来の3倍に造成し現在に至りましたが昭和57年社殿前崖も急斜面崩壊危険区域に指定され、工事着手完成を見るに至り昭和58年に社殿及び境内整備の奉賛会が結成され社殿塗装、神輿庫新築、神輿修理、社殿前玉垣裏表参道玉垣工事をなし、県下でも類を見ぬ社殿となりました。

浅間神社境内横穴古墳群

古墳(今から1700年前頃から1000年前頃まで600700年の間につくられた古いおはか)には盛り土をした高塚と自然の丘に横に穴をうがった横穴とが有ります。この横穴古墳は宮谷や軽井沢にわたって群在しているもので、神社の境内だけでも十幾つがありましたので標記の名をつけました。その内部は羨門、羨道中のへやを玄室といいますが、このたび神社境内の拡張・整地にあたり玄室から須恵器の瓶、平瓶などが出ました。横穴やそこから出たそれらの物でこの社地は少なくとも千年あまり前、このあたりを開いた有力者が葬られた古いゆかりの地であることを知ることができます。(神奈川県文化財専門委員)


d0183387_23530654.jpg浅間神社と富士の人穴
創建は承歴41080)年、富士浅間神社の分霊を祭ったものと伝えられています。旧芝生村(しぼうむら)鎮守。本殿のある丘は袖すり山と呼ばれ、昔は山の下がすぐ波打ち際であったといいます。境内西側の崖には富士山に通じていると伝えられる「富士の人穴(ひとあな)」と呼ばれる古代の横穴墓があり、東海道を往還する人々が見物する名所となっていました。しかし今は、周辺の開発によって見ることもできなくなってしまいました。(標柱・西区歴史街道)

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江戸名所図会 浅間社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)



・・・・・・・・・
資料ファイル

旧東海道保土ヶ谷宿(追分~帷子橋)

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歴史の道東海道保土ヶ谷宿周辺散策案内図

保土ヶ谷宿は慶長6年(1601)に宿駅・伝馬制度が定められると同時に設置され、東海道五十三次江戸から4番目の宿場町(1601年発足当時は川崎宿と戸塚宿は未整備)として栄えました。また、慶安元年(1648)を境に大改修がされ、道筋が変わりました。初代歌川広重の浮世絵で有名な帷子橋(新町橋)もこの時架けられましたが、現在、古道の正確な道筋に関して諸説があり特定されていません。この案内図では、本陣跡や寺社、石碑等当時の面影を伝えている史蹟を中心に散策できるようご案内しています。保土ヶ谷と保土ヶ谷宿の歴史を感じてみてください。(保土ヶ谷区)

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街道の風景④ 朝から活気があつて元気な商店街、いいですね~/松原商店街


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街道の風景⑤ 保土ヶ谷宿の江戸方入口になります


d0183387_12575226.png江戸方見附跡

「東海道分間延絵図」によれば、芝生の追分から国道16号を越え天王町にいたる途中に保土ヶ谷宿の江戸方見附がありました。保土ヶ谷区郷土史では天王町391393番地(現在の天王町1丁目11-3付近)にあったとされています。江戸方見附は各宿場の江戸側の出入口に設置されているもので、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしています(このため「土居」とも呼ばれています)。こうした構造から見附は本来簡単な防御施設として設置されたことがうかがえますが、同時にまた宿場の範囲を視覚的に示す効果を合わせ持っていたと考えられます。ここ江戸方見附から京都(上方)側の出入口に設置された上方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれ、保土ヶ谷宿では外川神社付近の上方見附まで19町(約2km)になります。 大名行列が来ると、宿役人が見附で出迎え、威儀を正して進みました。(保土ヶ谷区役所)


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橘樹神社鳥居

d0183387_13235256.jpg橘樹神社

鎌倉時代初期の文治2 年(1186)源頼朝の天下平定を祝い、また厄除歳寿・子孫繁栄を祈願して京都祇園社(現在の八坂神社)の分霊を勧請して創建したと伝えられています。古くは祇園社と称し江戸時代には牛頭王社、明治初年に橘樹社と改称され、大正10 年(1921)に現在の橘樹神社となりました。当初は旧道(古東海道)の古町通りにありましたが、新道(旧東海道)ができたのち万治3 年(1660)頃に現在地に遷座したといわれています。本殿裏手には神田不動尊と横浜最古といわれる寛文9 年(1669)記銘の青面金剛庚申塔があります。その他天和2 年(1682)、明和元年(1764)の2基の庚申塔もあります。(保土ヶ谷散策ガイド・横浜市)


d0183387_13275333.jpg青面金剛

寛文9年・16692月合掌六手青面観音。青面金剛としては横浜市最古であり、また六手青面金剛としては県内でも最古の像と思われる。青面金剛像は寛文の始め頃から江戸の石工を中心に作られるようになり、やがて地方にも普及した。青面金剛は下二手に弓と矢を持つのが普通であるが、この像は弓矢の代わりに羂索と棒を持っている。青面金剛はもと流行病を流行られる悪鬼であったが、のち改心して病を駆逐する善神になったとされている。儀軌に示された青面金剛は三叉戟、輪、羂索、棒を持った四手の青鬼であるが、この像はこれに合掌二手を付け加えて、善神に変わったあとの姿を表現しようとしたもので、青面金剛像の成立道程を示す貴重な像である。青面金剛は必ず炎髪で作られるものであるが、この像は円い髪である。円髪、後頭部の光輪、太く短い棒などは同じ時代に京都土産として各地に持ち帰られた大津絵の影響を示すもので他に類例を見ない。青面金剛は江戸時代の代表的な像である。(橘樹神社宮司謹書、区内桜ヶ丘在住郷土史家著「保土ヶ谷の謎と謎解き」による)

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神田不動尊              力石


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帷子川の風景② 河川改修によって直線化された帷子川/
帷子橋


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旧帷子橋のモニュメントが設置されています/天王寺駅前


d0183387_13513458.png旧帷子橋跡

江戸時代、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた帷子橋は、絵画に描かれたり歌や俳句に詠まれるなど、保土ヶ谷宿を代表する風景として知られていました。中でも初代広重の「東海道五十三次之内保土ヶ谷」は特に有名です。大橋や新町橋などとも呼ばれた帷子橋について「新編武蔵風土記稿」の帷子町(保土ヶ谷宿のうち)の項には「帷子橋 帷子川ニ架ス板橋ニテ高欄ツキナリ、長十五間、幅三間、御普請所ナリ」という記載がみられます。昭和39年(19647月に、帷子川の流れがそれまでの相鉄線天王町駅南側から北側に付け替えられたのに伴い帷子橋の位置も変わりました。かつての帷子橋の跡地は、現在の天王町駅前公園の一部にあたります。(横浜市教育委員会)

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江戸名所図会 帷子川 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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初代広重の「東海道五十三次之内保土ヶ谷」




by Twalking | 2016-10-31 09:59 | 浜街道(完)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 築池   

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池の風景-築池
長池公園/八王子市別所
長池公園にある3つの池のまんなかにあります。もともとは灌漑用のため池、谷戸の田圃に水を供給していました。みる場所によっていろいろな表情を見せてくれますね~・・・。。。

by Twalking | 2016-10-30 11:37 | ○たま-2016

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 せせらぎ緑道   

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せせらぎ緑道/八王子市別所
秋の日差しを浴びて川面がきらきらと輝いてます。かつての谷戸に造られた人工のせせらぎですが、水源はすぐ上流にある「姿池」、堀之内駅まで約1.7kmの緑道が続きます。途中には大きな柳の並木がありますが、周囲の住宅と調和してなかなかの風情、この緑道の特徴になっています。散歩にはお手頃なコースですね~。。。

by Twalking | 2016-10-29 13:32 | ○たま-2016

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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星川杉山神社
保土ヶ谷区星川

by Twalking | 2016-10-29 12:29 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり別所(蓮生寺公園~長池公園)   

日時 2016.10.26(水)
天気 晴れ

いいお天気ですね~、どうやら夏日になりそうです。
青空に誘われてぶらりと散策にでかけました。

別所は鶴牧から続く尾根筋、別所川の源流域にあたります。
堀之内から連生寺公園、浄瑠璃緑地、長池公園、そして
せせらぎ緑道を下って堀之内へ戻りました。

豊かな緑と、浄瑠璃姫伝説の伝わる古刹など見どころは一杯、
丘の眺めも抜群ですし、3つの池やせせらぎもあって、
変化に富んだ楽しめるコースです。



・・・別所


江戸時代
は多摩郡柚木領の一部であり別所村とされた。当初は天領だったが寛文4年(1663)に旗本・土屋氏の知行地となった。その後、天和2年(1682)に土屋氏が転封されると天領に戻り、元禄11年(1698)に旗本・松平氏の知行地となり明治維新を迎えた。明治元年(1868)に神奈川県に別所村として組み込まれ、1878年(明治11年)から県内に南多摩郡が置かれるとその一部となった。1889年(明治22年)に町村制施行に伴って由木村が成立したため同村内の大字となる。1964年(昭和39年)に由木村が八王子市に編入されて八王子市別所となり現在に至る。地名は古代の日本では薬師堂などのある土地を別所と名付ける事が多く、当地には蓮生寺があった事からこの名が付いた。Wikipedia

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丘の風景① 東側の堀之内方向です、右手が別所、左手が松木になります/松木橋

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別所ふれあい公園           連生寺公園通り

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丘の風景② 西側の南大沢方向です、谷を挟んで首都大学の丘が望めます/松木橋



・・・蓮生寺公園

八王子市別所
にある市立公園。蓮生寺公園には造成以前の自然がそのまま残されており、公園の南側には蓮生寺という寺がある。めがね橋や公園内のさえずり橋が特徴的である。さえずり橋は湧水を集めた沢に架けられた吊橋である。沢の周辺にはまむしが出没する注意書きが書かれた看板があり、注意が必要。また、八王子八十八景に選ばれている。Wikipedia

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谷戸にはさえずり橋が架かり、深い森に散策路がついています/水辺の広場

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めがね橋               さえずり橋

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急坂をひと登りすると尾根の上にでます、残念ながら展望は望めません/展望広場

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いい道ですね~、ほれぼれします/蓮生寺への下り道

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蓮生寺公園案内図


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蓮生寺本堂


蓮生寺

1182年の創建といわれ本尊毘盧舎那佛も同時代の作と言われている。木造寄木造で身の丈二尺八寸、現在東京都の文化財に指定されているが公開していない。境内には薬師堂があり本尊薬師如来も相当に昔の作と推測されるが製作年代は詳らかでない。薬師如来の霊験はあらたかであるが先年建物が火災を被り現在は402位の建物になっている。本尊は一木造、立像で五尺六寸。薬師堂では毎年元朝のほか1012日に祈祷会を行い、国家安泰、万民富楽、家内安全、身体健全を祈っている。(八王子仏教会)

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別所薬師堂



d0183387_17533486.jpg蓮生寺と薬師堂

薬師堂は1588年(天正16年)の火災で焼け、1705年(宝永2年)に再建したもの。松平二郎左ヱ門寄進の薬師の木像は秘仏とされ戸帳を固く閉じ、住僧といえども簡単に見ることができなかった。山門は取り払われてあとかたもないが、護良親王筆の「由木山」の扁額がある。蓮生寺の草創は古く、吾妻鏡によると源頼朝が由良御前のお腹にいたとき、腹帯を持って上がった円浄が京都から来て創った寺だと言われており、頼朝は円浄を鎌倉に呼び、別所の田畑1町歩を与えてその面倒を見たという。Wikipedia

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門前の延命地蔵大菩薩            宝篋印塔



・・・浄瑠璃緑地

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蓮生寺を西に進むと住宅地に緑地の入口があります/
浄瑠璃緑地

遙か遠い昔、小山田城の町田市小山田に浄瑠璃姫という美しい姫様がいました。浄瑠璃姫の碑(長池)の説明によると『昔、大磯の海面に光薬師如来像を漁師が引き上げました。これを相模国の城主・岡崎四郎が譲り受け崇拝し、浄瑠璃姫が生まれました。彼女は武蔵国の城主・小山田太郎高家に輿入れする際、父から薬師如来像を譲り受けました。しかし、延元元年に高家が討ち死にした為に、彼女も後を追い薬師如来像を背負い侍女13人と共に長池に身を投じました。その後蓮生寺の住職が長池に光る薬師如来像を見つけ薬師堂を建てて供養したということです』蓮生寺公園と長池公園を訪ね遠い昔に思いを馳せてみましょう。(案内板)


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丘の風景③ 尾根の南斜面に残された細長い緑地ですが、静かでいいですね。

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散策路                長池公園側入口


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浄瑠璃緑地と周辺公園案内



・・・長池公園

2000年に開園した別所2丁目にある多摩ニュータウン西部最大の地区公園である。1993年には四谷見附橋が移築復元されている。長池、築池(つくいけ)、姿池がある。浄瑠璃姫が薬師如来像を背負って長池に身を投げたという「長池伝説」が残っている。テレビドラマのロケ地としても有名である。Wikipedia

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池の風景① 文字通り長池見附橋を映し出すことから名づけられてとか/姿池


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姿池全景               長池見附橋

長池見附橋
1913年
に建設された四谷見附橋を移築復元した上路式鋼製アーチ橋。八王子八十八景のひとつである。

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池の風景② 左手からは田圃へ、右手には長池への散策路が付けられてます/築池

築池
(つくいけ)
長池公園の中心にあり、豊かな水田景観を見せる築池は本来灌漑用に造られたため池です。その建造は大正期以前にさかのぼります。姿池から下流に向けてはかつて水田が広がり、築池は別所一帯の水田の水を供給する大切な役割を担っていました。現在の築池の水位は見附橋を造る際に堤体がかさ上げされたため、当時より深くなっています。水際に立つ大きなヤマザクラや水中に立ち枯れた木々がそのことを物語っています。(案内板)

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池の風景③ この奥は特別保護区になっています/長池

長池
公園内には長池、築池、姿池の3つの池があります。長池、築池は農業用水として長くこの地にあり、中でも長池はもっとも古い時代にさかのぼる事ができ、八王子千人同心組頭・植田孟譜によりまとめられた「武蔵名勝図絵」1823(文政6)年には池に水草の生い茂る様子が記されています。(案内板)


d0183387_19311737.jpg長池伝説
相模国大磯で
光る薬師如来像を引き上げ、相模国の城主岡崎四郎に献上、崇拝し浄瑠璃姫が生まれたとされている。浄瑠璃姫は武蔵国の小山田高家に輿入れした。浄瑠璃姫は岡崎四郎から薬師如来像を譲り受けたものの1336年(延元元年、建武3年)の湊川の戦いで高家が討ち死にしたため、浄瑠璃姫も後を追い薬師如来像を背負って長池に入水した。その後蓮生寺の住職が光る薬師如来像を引き上げ、薬師堂を建てて供養したという伝説である。Wikipedia

小山田高家

小山田氏は平重弘(秩父太郎大夫)の次男有重を祖とする一族で、院政・鎌倉期に台頭した。有重の一族は治承・寿永の乱を経て鎌倉幕府の有力御家人となるが、元久2年(1205)には秩父一族の畠山重忠の乱に際して没落する。高家に関する記述は『太平記』巻16巻「小山田太郎高家青麦を刈る事」で、高家は建武3年(1336年)までに上野国の新田義貞に従い、播磨において兵糧の欠乏から刈田狼藉を行い軍令違反に問われる。義貞は高家を赦免し、同「新田殿湊川合戦の事」に拠れば、同年525日の湊川の戦いにおいて高家は義貞の身代わりとして討死したという。Wikipedia

湊川の戦い
南北朝時代の1336年(建武3525日)に、摂津国湊川(現・神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・直義兄弟らの軍とこれを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦である。Wikipedia

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長池公園マップ

小山田氏の関連記事(大泉寺)はこちらへ(http://teione.exblog.jp/18395904/



・・・せせらぎ緑道

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せせらぎ緑道、ここから堀之内へ下ります/長池公園姿池

せせらぎ緑道
せせらぎ緑道は姿池を水源とする人工的に整備された水路で、別所の中心を流れています。その造形はさまざまで里山が浮かぶ場所や渓流を想像させる場所、タイルを用いた現代的な遊歩道などが続きます。柳やコナラなどの高木(丈が3m以上になる樹木)オオムラサキツツジなどの低木の他、地域ボランティアの花壇が季節を演出しています。約150m流れを下ると西側には別所お月見公園があります。(案内板)

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人造とはいえ、西日を浴びてキラキラと煌めいてます

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造形に工夫がみられます        柳がこの緑道の特徴ですね


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別所日枝神社鳥居

d0183387_22343060.jpg別所日枝神社
祭神国は常立尊(くにのとこたちのみこと)、例祭827日、元はは蓮生寺の北側にありましたがニュータウン開発により現在地に遷されたそうです。

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日枝神社の隣には別所公園があります

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せせらぎ緑道マップ


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京王堀之内駅周辺マップ
(紫:多摩ニュータウン通り 橙:野猿街道 青:大栗川・大田川)



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資料ファイル

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四谷見附橋展示場

d0183387_00064622.png四谷見附橋の由来
四谷見附橋は1913年(大正2年)9月に都内四ツ谷駅直情に竣工した上路式鋼製アーチ橋です。この頃の日本の橋梁技術は近代橋梁技術の黎明期をすぎ、自らの力で歩み始めた時代で、周辺環境との調和に配慮した設計がなされ始めた頃でした。この当時で現存するものは数少なく、四谷見附橋は都内では日本橋と共に文明開化期の面影を偲ぶことのできる貴重な橋梁となっていました。高欄や橋灯及び橋名板などは隣接した迎賓館とデザイン的に対応させたネオ・バロック様式の装飾が施され、周辺環境との調和に配慮した設計で、文化財的価値の高い橋梁となっていました。技術的にも非常に高く評価でき、その当時の設計・施工技術は現在でも十分に使用に耐え得るほどで、我が国近代橋梁の道標となっていたものです。この様に橋梁の構造と造形が巧みに融合した歴史的名橋は長池見附橋と名前を変えてこの地に移設、再建されましたが、移設、再建出来なかった構造体の中の貴重な物についてはわが国の土木文化や近代技術を後世に永く伝えるために、ここに展示保存されることになりました。(説明板)


d0183387_00005801.jpg創建当時の床組構造

この展示物は創建当時の床板を再建したものです。当時は橋梁中央に路面電車が走っており、床面には道路橋としては珍しいバックルプレートが張られていて、鋼材はアメリカカーネギー社より購入したものです。形鋼には「CARNGI」のマークが付いていて、ここの紹介板の支柱にもその一部を使用しています。レールと路面の敷石及び展示場の敷石は当時の都電で使っていたものを使用しています。

d0183387_00010895.jpg高欄

この展示物は四谷見附橋の高欄で、高欄端部に設けられていたものです。四谷見附橋のデザインは迎賓館と対応させたネオ・バロック様式の装飾がなされていて、この高欄の柵の縦格子の鉾の形や花綱も迎賓館にある高欄の柵のデザインと一致するもものです。

d0183387_00042149.png橋台部角石と煉瓦積み

展示物は橋台の四隅に設けられていた角石と煉瓦積みの一部です。当時の橋台は花崗岩と煉瓦によって構築されていて、目地には現在では殆どつかわれていない覆輪目地が施されていました。

孔飾り石

この展示物は橋梁添架物の貫通孔を装飾した孔飾り石です。当時橋梁には下水道管が添架されていて、その管が橋台部を貫通するために孔が設けられていました。その孔周りに補強を兼ねて花崗岩で装飾されたものが、孔飾り石といわれるものです。周辺環境との調和に細部まで配慮していたことが感じられます。

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四谷見附橋全体図



by Twalking | 2016-10-29 09:46 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 『ニケと二コラ』/入船通り   

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彫刻-『ニケと二コラ』
入船通り/横浜市中区住吉町
いい感じ・・・、馬車道にはお似合いですね。調べたら朝倉響子さんの作品、町田駅前にある『Woman』もそうでした、記憶にのこりますね~。。。

by Twalking | 2016-10-28 11:55 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ひまわり   

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ひまわり
浅間神社/旧東海道(西区浅間町)
いまは~、もうあき~・・・、なんだけど、いや、お見事~!

by Twalking | 2016-10-28 10:02 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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朝の帷子川
柳橋/保土ヶ谷区星川
う~ん、気持いい!なかなかの曲線、美しいですね。。。


by Twalking | 2016-10-27 22:21 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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グリーン
長池公園/八王子市別所
午後の日差しに映えて青々と、元気だね~。。。

by Twalking | 2016-10-26 23:20 | ○写真上達への道