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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 イヌシデ   

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紅葉
多摩市愛宕
だいぶ散っちゃったけど、もうひと踏んばり、がんばれ~。。。

by Twalking | 2016-11-30 19:57 | ○たま-2016

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 紅葉   

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み~あげて、ごら~ん~・・・♪♪
多摩中央公園/多摩市落合
紅葉スポットの古民家を訪ねましたが、盛りを過ぎてました。あらら、と散策路をぶらりっとしてたら、この光景。温かな日差しにキラキラと・・・、どんぴしゃりですね~、お見事!

by Twalking | 2016-11-30 13:36 | ○たま-2016

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 府中通り大山道(2)古溝~磯部02 磯部01   

日時 2016.11、26(土)
天気 晴れ


大野台の林間を抜けると台地が開けますが、道は消えてます。
住宅地をジグザグに峯山霊園に向かうとやっと旧道が出てきます。
ここから坂道を3段下ると相模川河岸の磯部宿になります。

峯山からは眺めもいいし、変化があって面白いですよ。
磯部は見所が一杯なので、ひとまず渡し場まで行ってから、
磯部城の関連個所や勝坂の史跡などを散策することにしました。


・・・麻溝台/南区

「麻溝台」という地名はこの区域がかつて所属していた高座郡麻溝村に由来する。「麻溝村」という旧村名は同村の前身である当麻(たいま)村と下溝村からの合成地名である。相模川左岸に上・中・下3段の河岸段丘からなる相模原台地の「上段」に位置し、西側に南の磯部方面へ続く細長い谷戸が伸び、ほぼ中央部を目久尻川の源流につながる浅い谷が南北に貫通するほかはほとんど平坦な台地上に広がる。元は相模国高座郡下溝村(一部は当麻村)の一部。明治初期までは「相模野」と呼ばれた広大な原野の一部で、このことから明治15年には全国的な地図作成のための測量の起点となる一等三角点が設置された(相模野基線北端:現・麻溝台四丁目)。原野の開墾は明治17年の下溝村からの入植に始まるとされ、大正期には周辺地域での養蚕業の発展とともに桑畑と雑木林が交錯する土地利用となっていた。しかし、1937年(昭和12年)に陸軍士官学校の座間への移転に合わせて麻溝村から南隣の新磯村にかけての台地上の土地の大部分が陸軍に買収されて士官学校の演習場とされた。
Wikipedia

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街道の風景① 林間を抜けると台地が開け大山が顔を出しますが、道は消えてます/麻溝台


d0183387_16172540.jpg下溝の一里塚/
麻溝台2丁目交差点
『新編相模国風土記稿』高座郡下溝村の二ツ塚の項に「一里塚なり。高さ九尺。塚上に榎樹あり。元和3年、神柩日光遷御の御路なれば築きし所なりと云」と記載されている塚がありました。


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街道の風景② たまご街道の幟、今日のお土産にしよっと。。。

たまご街道
神奈川県相模原市の麻溝台地域は古くから養鶏が盛んで、現在は7戸が続けております。養鶏家全員で「麻溝畜産会」を結成。鶏舎や直売所が点在する市道を『たまご街道』と名付け、地域商業の活性化に取組んでいます。直売所では、第6次産業にも取組んでいて、洋菓子やカフェなどで賑わいを見せています。(麻溝畜産会)


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d0183387_16412462.jpg顕正寺/麻溝台

日蓮宗。ご本尊:久遠實成本師釈迦牟尼佛 諸仏:鬼子母神 (堂内)金龍弁財天(境内地)開山源吾上人は岐阜にて宮大工をしていたが、墨壺の墨が目に入り両眼が見えなくなり、当時の医学では治療が出来ず、代々伝わる観音様に手を合わせ病気平癒を祈った所、夢枕に観音様が立ち身延山の日朝堂にて修行をせよとのお告げがあり、21日間火の通した物は口にしないと誓い修行をした。その甲斐あり両眼が見えるようになり故郷へ帰ろうとした時、又観音様が夢枕に立ち、東の方へ千箇寺参りをせよとのお告げがあり、下溝の地に来た時に篤信の信者を得て留まることになり今に至る。(相模原仏教会)


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街道の風景③ 横浜水道道、また出会いましたね~/消防署入口



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街道の風景④ 街道は住宅地の右手を峯山霊園に向かっていたようです

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消防署入口を右折           峯山霊園入口付近に出てきたようです

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街道の風景⑤ 勝坂歴史公園と自然散策の森の間のみねん坂を下ります/勝坂

みねん坂
「峰の坂(みねのさか)」の意味で、東側に広がる峰へつづいていました。(標柱)

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勝坂歴史公園の景観

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勝坂歴史公園 
公園に入る方向が座間・厚木への道のようです。道は勝坂地区の「史跡・勝坂史蹟公園」に続いています。
(赤:大山道 橙:座間への道 赤丸:勝坂歴史公園・勝坂史跡公園・磯部の渡し)



・・・新磯

新磯地区は、西側に相模川が流れ、東側は河岸段丘の斜面緑地に面しており、磯部・新戸周辺には水田地帯が広がるなど、緑の多い豊かな自然に恵まれています。地区内には「勝坂式土器」の名で全国的に知られる「勝坂遺跡」や国の登録文化財「中村家住宅」が存在しており、さらに「相模の大凧まつり」や「芝ざくらまつり」などの文化・観光行事には、県内外から多くの見学者が訪れています。一方、地区内には在日米陸軍キャンプ座間があり、ヘリコプター騒音などの基地を取り巻く諸問題の解決が大きな課題となっています。(南区)

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街道の風景⑥ 勝坂からの下り坂、前方に磯部の町と大山が見えてきました


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鳩川先を右折             右角に石像群/磯部八幡宮前

新磯村
1889
年(明治22年)から1941年(昭和16年)にかけて神奈川県高座郡に存在した町村制による自治体、現在は相模原市南区の一部である。村名は旧村名の戸、からの合成地名Wikipedia

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街道の風景⑦ 相模線新磯踏切を渡り八幡坂の坂下を直進します

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右手に厳島神社            坂下の標柱
 

八幡坂

八幡宮のそばにある坂なのでこの名があります。(標柱)


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磯部八幡宮鳥居


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拝殿

d0183387_16174249.jpg八幡宮由緒碑
御祭神:応神天皇 境内社:三社神 金比羅神社 山神社 疱瘡神社 境外社:厳島神社 社外地不動堂
八幡神社はもともと源氏の氏神でありますがこの社は古く創立年月日は不詳であります。延文元年(1356)以前より磯部村の鎮守として信仰厚く、御神像として仏弥佗を奉斎しております。この社を開いたのは鎌倉から来訪した山伏・祐圓(延文2922日歿)で、別当は小田原玉瀧坊(本山派の修験寺院・松原神社の別当觸下の佛像院磯部山宮神宮寺でありました。又、文明103月(1478大田道灌勢により陥落するまで磯部地内には城主長尾景春)がありました。記録によると文禄3年(1594)当時には八幡宮は幕府から社領10石を与えられておりました。

d0183387_19033580.jpg享保18年(1733715日別当磯幡山神宮寺2世・仏像院快省法印、再建し毎年815日に角行(かくぎょう)を興業にしておりました。当時の地頭は大津新右衛門で、上下村勝坂氏子中と棟札に記されております。江戸初期の不動尊と寺社奉行宛て宛古文書等推定樹齢500年の銀杏が現存しております。当社では山伏の修験が行われ、江戸時代には沢山の家業繁昌、厄除けの護摩が炊かれ、またこの地域には大山詣での宿場のため境内は非常に賑ったと伝えられます。当時は対岸の依知、山際等からも参拝あり特に火渡り護摩が有名でありました。

d0183387_16470992.jpg明治2年神仏混合の禁止令により別当職が解かれ八幡大神と称しました。明治6年太政官布告により官有地第1種に編入され、同年12磯部村村社に指定されました。明治26年の神社明細書には氏子数(上磯部、下磯部勝坂)で229と記されております。明治40年境外地(山林)は神社風致林として宮内庁御料局より払下げを受けました。大正123月老朽化に伴い氏子の奉賛により社殿を新改築いたしました。昭和10927新磯村の総鎮守として指定村社に列せられ、法律の施行により昭和287月宗教法人となりました。昭和5710月東京電力()の送電線神社用地上空通過に伴う補償料にて御社殿、末社、鳥居石段、手水舎等の改築整備を建設委員を設置して行い、昭和604月竣工いたしました。先人の築いた長い由緒を持つ地域の氏神様として、郷土の繁栄と健康で遠永に平和で豊かな生活ができますよう厚い御加護があるものと祈願いたします。(石碑文)


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木造不動明王坐像
本像は檜の寄木造で漆箔を施し、玉眼を入れています。手には願主の名を刻んだ鉄賢剣と後補の剣索を持ち、光背は朱塗りの火焔光背です。台座は岩座、受座、上框座、下框座の四座からなりそれぞれには細部にわたって技巧的・装飾的な彫刻が施されています。本像は昔から八幡宮の別当・仏像院の護摩堂に安置されていたと伝えられ、明治時代の神仏分離状況に際しても失われることなく現在に至っているものです。本像には製作者、制作年代が知れる銘文等はありませんが江戸時代の作と考えられます。像高57.5cm 台座高69cm。 (相模原市教育委員会)


d0183387_17144391.jpg稲荷神社

この稲荷大神は推定室町時代から過去数百年に亙り信仰厚い溝呂木本講中の原点で、心のよりごころとして護持されてまいりました。明治初期の講中名簿現存す。開山八幡宮別当(神宮)の鬼門の位置として伏見稲荷大社から奉祀されたと思われます。五穀豊穣と地域の繁栄を祈願してまいりました。又かつて溝呂木家の墓地は八幡宮に隣接してありました。子々祖先からの継承されてきた絆は今もまた将来も続くものと確信いたします。ここに溝呂木講中拾七戸の浄財をもって改築いたしました。この守護神のご加護により健康で永遠に幸あらんことを祈願いたします。(説明板)

d0183387_17145297.jpg三社神社

この三社神の由来は東京赤坂山王日枝神社、東京湯島天満宮、大山阿夫利神社の神霊を祀ってあります。(説明板)



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街道の風景⑧ 大山道は上磯部から下嘘辺の集落の中央を通っています

d0183387_18594158.jpg磯部の道標/左折角
中央に道祖神、右は不動明王像、左は「不動尊」の文字と道しるべ「東 木曽・南 大山・北 八王子」と刻まれています。




d0183387_16472179.jpg磯部八幡宮参道の鳥居








d0183387_19264170.jpgもんや稲荷

バス折返し所の一角ににあり、この場所にあった大家の屋敷稲荷という。(相模原散策マップ)





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磯部民俗資料館
相模原市磯部民俗資料保存会が運営する施設で、地域に残されてきた民具をはじめ行事などの古写真を保管・展示する。(相模原散策マップ)(残念ながら閉まってましたので外からの写真だけです)

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街道の風景⑨ 街道の面影がほのかに残ります、この先を右折して磯部の渡しへ


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「右 大山道」の道標         左手に石仏群


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「磯部の渡し」の標柱が立っています/磯部頭首工公園(相模川散策路)

d0183387_22105638.jpg磯部の渡し

このあたりには対岸の猿が島とを結ぶ渡し場がありました。そのため「猿が島の渡し」とも呼ばれていましたが、大山参りの人々にもよく利用されていました。(標柱)

新編相模国風土記稿によると「渡船場あり 矢倉澤道の係る所なり 対岸猿ヶ島村にて進退す」とあります。



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街道の風景⑩ 渡し場付近から相州大山を望む


d0183387_22480245.jpg望月珪治翁顕彰碑

望月翁は昭和5年近郷7か町村を結合して相模川左岸普通水利組合を設立、管理者となり10数年にわたるかんがい用排水改良事業の完成に尽力しました。この事業により延長20km余りの水路、排水施設が完成し、2200haの耕地が水害と干ばつから救われました。明治165月海老名村に生まれ、29歳の時、同村助役となり更に村長を歴任すること20有余年におよび、その間、県町村会長、高座郡農会長等を兼ね声望ほかに比肩するものがありませんでした。(農林水産省HP)



d0183387_22480946.jpg「五ヶ村用水」「豊受水神社」
「相模川左岸用排水路改良事業完成記念碑」


五ヶ村用水
この用水は、江戸時代後半に磯部村、新戸村など五ヶ村の水田に水を引くためにつくられました。また、その用水の取水口があるこのあたりは「すいどうくち」と呼ばれています。(標柱)



d0183387_22545534.jpg磯部頭首工

頭首工(とうしゅこう)

湖沼、河川などから用水を取り入れる農業水利施設の総称。おもに取水堰と取り入れ口(取水口) から成る。取水堰は用水取り入れに必要な水位を確保するためのもので土砂吐き、魚道、流木路、いかだ道などをつける。(コトバンク)
      


d0183387_22551278.jpg磯部堰の沿革
明治の初め以来旧5箇村と新田の用水取り入れ口であった磯部に、昭和10年県営相模川左岸用排水改良事業によって堰が築造され、毎秒6.853の農業用水が相模原市から茅ヶ崎市に至る左岸2000ha余の耕地を潤してきた。しかし同19年相模川河水統制事業による相模ダムが上流に建設されて土砂の流下が減少し、また戦後急激な砂利類の採掘により河床が低下して以来災害対策と取水とに悩まされた。さらに同32年には県営相模川右岸農業水利改良事業によって毎秒5m3が取水され厚木市から平塚市に至る右岸2000ha余の耕地をも潤した。このため災害復旧と維持管理の経費は年々増大するに至ったので、同39年県営用水障害対策事業が農林省に採択され、5箇年の歳月と39800万円の巨費をもって今年3月改修工事が完成したのである。かくてこの堰の取水は末永く相模野の沃田を潤すことであろう。昭和445月(相模川磯辺堰土地改良区連合)


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相模川散策路案内図
(赤:大山道 赤丸:磯部の渡し)

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磯部村絵図(江戸時代 正徳年間頃)/相模原市博物館


by Twalking | 2016-11-30 10:35 | 大山街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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黄葉
旧冨澤家住宅/多摩中央公園(多摩市)
「紅葉」は盛りをすぎてましたが、「黄葉」が見事でした~。。。

by Twalking | 2016-11-29 18:36 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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紅葉
豊ヶ丘北公園/多摩市豊ヶ丘
たまには、足元をみつめて、歩るこっと。。。


by Twalking | 2016-11-29 09:42 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ツバキ   

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椿
相模原市緑区橋本
橋本商店街入口のお宅に咲いてました、よく手入れされて、見事ですね~。。。

by Twalking | 2016-11-28 15:38 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 愛宕第4公園   

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愛宕第4公園/多摩市愛宕
晴れてきました・・・。偏西風に雲がたなびき、木々の葉が舞う頃ですね~。。。

by Twalking | 2016-11-28 14:09 | ○たま-2016

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 府中通り大山道(2)古溝~磯部01 古淵   

日時 2016.11.26(土)
天気 晴れ


相模台地を歩いてみたいと思っていました。
八王子通りで相模川までたどり着きましたので、
木曽宿からの続き、府中通りを磯部までぶらりっと。

境川左岸の旧道を一回りして境橋からスタート。
木れびの森に寄りましたが、やっと「林間の径」
に会えた感じがしました、いい森ですね~。



・・・古淵
(こぶち)/相模原市南区

区域内を神奈川往還およびJR横浜線が貫通し小淵駅が設けられている。当区域の大部分に当たる段丘崖南西側はほとんど平坦な相模原台地の一部となる。古くからの集落は段丘崖付近に分布し、また神奈川往還沿いに路村形態の集落が形成されていた。境川沿いの低地に水田が開かれることもあったがごく狭く、台地上の大部分は畑として利用された。元は相模国高座郡淵野辺村の一部。明治22年の町村制施行のための明治の大合併で淵野辺村が鵜野森村ほか3村と合併して高座郡大野村となると、大野村の大字淵野辺の一部となった。神奈川往還に沿って並ぶ旧村のちょうど真ん中に位置することから下長久保(現・古淵三丁目)に村役場が置かれ、村の行政中心となった。
Wikipedia

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境川の風景① 下流側(相模原市)に河岸段丘が続きます/境川橋

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しも坂                うとう坂

しも坂・うとう坂

東側の坂は「しも坂」といい、この付近の集落を「しも」というためこの名があります。西側の坂は「うとう坂(おと坂)」と呼ばれています。(標柱)


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大日堂
このお堂はもともとは南側の崖下にあったものを江戸時代にこの地点に移したものと伝えられています。このお堂の由来については、地域の人々によって口々に唱えられてきた和賛(わさん)の中に伝えられています。これによると、南北朝時代にここで合戦があり、その戦死者を供養するために建てられたお堂であることがうかがえます。この合戦とは北条時行と足利直義による建武2年(1335年)の「井出の沢の合戦」のことと考えられます。「井出の沢」とはお堂の西側をながれていた小沢のことです。また、お堂の中の大日如来で、秘仏として信仰されています。(相模原市・相模原市観光協会)

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「いでのさわ」標柱と石仏群      後ろ側に祠があります

いでのさわ
この付近にあった沢を「いでのさわ」といい、南北朝時代(14世紀)の「井出の沢」の合戦は、ここ行われたと伝えられています。(標柱)


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古淵鹿島神社鳥居

古淵鹿島神社/古淵 
祭神
この神社はいつ創建されたかは不明ですが、新田義貞が鎌倉攻めのおり祈願のために建立した言い伝えがあり、また、渡辺義博の子、義喬が建立した言い伝えもあります。古文書によりますと、文禄2年(1593年)に奉再建鹿嶋大明神一社一宮御修復とあり、その後、慶安3年、寛延2年、文政2年に再建した記録があり、明治34522日に焼失し同36年に再建され現在に至っています。毎年522日を『焼日祭』と言って祈願しています。境内の大ケヤキは千年を経ていると言われ、根元にある石は「カナメ石」と呼ばれ、境川のほとりにあった「田の神」とも言われています。祭神は「武甕槌神」で本殿右は「香取神社」、大ケヤキの横は「稲荷神社」を祭っています。遠い昔より村の鎮守様として守り今日に至っています。(相模原市・相模原市観光協会)

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赤鳥居                拝殿

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街道の風景① 境川左岸に続く古道、いい道です

神奈川往還

八王子市周辺と横浜市を結んだ道。別称として浜街道、武蔵道、絹の道、横浜側では八王子街道とも呼ばれる。現在の町田市相原町字坂下付近と町田市鶴間字大ヶ谷戸付近までの間で二通りの経路に分かれており、ひとつは主流であった現在の町田街道の経路である。もうひとつの経路として、相原村(現在の相原坂下交差点付近)で分岐して境川を渡って相模野国高座郡橋本村に入り、同郡の淵野辺村上鶴間村(相模原市)、下鶴間村(大和市)などを経由した後に再び境川を渡って武蔵国多摩郡の鶴間村に入ったところで上記の経路と合流する現在の国道16号に相当する経路がある。但し、上記の原町田を抜ける経路のほうが発展していたことや距離が近かったことなどから、もっぱら裏街道のような存在であった。こちらは後に国道16号(東京環状)として発展することになる。Wikipedia

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かわしま坂をくだります        古淵1丁目市民緑地

かわしま坂

このあたりは昔、島のような地形だったのでこの名があります。(標柱)


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境川の風景② 大山道に架かる境橋、ここからスタートです/境橋

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木曽宿から下ってきました/境橋     右岸の旧流路跡


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龍像寺山門


d0183387_15582951.jpg龍像寺/南区東淵野辺

JR横浜線古淵駅より北西へ700m、境川沿いにある曹洞宗の寺院です。『風土記稿』によると、弘沢寺(厚木市七沢)の末寺で、山号を浄源山(現在は淵源山)といい釈迦如来を本尊としています。また、開山は弘沢寺2世の巨海(弘治3年(1557)没)で、6世萬州の時に再建をし慶安元年(1648)に12石の朱印地を与えられています。同書所収の寺伝では、淵辺伊賀守が毒蛇(龍)を退治し、その蛇身を面巳って龍頭・龍像・龍尾の3寺を建立したとしています。後に3寺とも廃寺となり唯一再建されたのが当寺であるというわけです。ちなみに龍の骨片矢じりと伝えられるものが寺宝として保管されています。また、淵辺伊賀守とは南北朝時代に当地の地頭であったとされる淵辺義博のことで、護良親王を奉殺した人物としても知られています(地域では親王を助けた人物として伝えられている)。当寺の墓地には、江戸時代に当地を所領していた旗本岡野氏歴代の墓碑があります。明治時代、本寺でも寺小屋を継いで「淵博学舎」が開かれましたが、その最初の教鞭をとったのは岡野氏の末裔にあたる18世初白でした。(平成さがみはら風土記稿)

d0183387_15583577.jpg龍像寺の岡野氏墓地

江戸時代の淵野辺村領主、旗本岡野氏一族の墓地です。墓地は龍像寺の本堂に向かって左手の崖の中腹にあります。岡野氏の祖は板部岡融成(おかとおなり)(号江雪)という人物で、融成は小田原北条氏に仕え評定衆となり、北条氏滅亡後は岡野と姓を改め豊臣・徳川両氏に仕えました。その後、寛永31626)年に融成の次男房次の子・英明が淵野辺村の地頭となり1500石を領有しました。英明の跡を継いだ次男貞明(さだあきら)は寛文31663)年に弟の友明(ともあきら)に淵野辺村の一部を分知し、幕末にいたりました。(相模原市)

d0183387_15583864.jpg淵野辺龍像寺の徳本念仏塔(左)
徳本は宝暦8(1758)年に紀州に生まれ、江戸時代後期に伊豆や関東の各地に念仏を広めた僧です。徳本が近隣を訪れた際に、各村々の念仏講中がその特徴ある書体で書かれた名号(六字名号ともいう「南無阿弥陀仏」、念仏のこと)を求め、それをもとに念仏塔を建てたとされます。側面に「文政元年」(1818年)と「相州渕野辺邑徳本念仏講中」の銘が側面にあります。主体部の高さ75cm、幅29cm、奥行き24cmです。地域の念仏講や村の生活史を知る上で貴重な資料です。(相模原市)

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「淵辺義博の伝承」板         門前の石仏群

淵辺義博の伝承(龍像寺)
境川沿いにあった龍池に住み、人を困らせていた大蛇を地頭の淵辺義博が矢を放って退治し、頭、銅、尾の3つに分けてそれぞれ葬りました。頭部は龍頭寺、銅は龍像寺、尾部は龍尾寺として3つの寺を建立しましたが、後にこの二寺は廃寺となり、龍像寺が弘治2年(1556)に再興され今日に至っています。(大野北公民館)

「木曽宿」「淵辺義博の居館跡」関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23557764/


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街道の風景② 坂下に龍像寺参道の道標と龍像寺坂の標柱が建ちます/参道入口

龍像寺坂

龍像寺の山門につづいているのでこの名があります。また昔は「おお坂」とも呼ばれていました。

d0183387_18353541.jpg古淵一本松跡

古淵一本松は古淵と嶽之内との間で龍像寺表参道入口の門柱がある所の坂上にあり、武州から来る木曽街道(別名磯部街道)のかたわらに高くそびえ立っていました。(大野北公民館)


当麻道

当麻道の主な道筋は二筋あった。その一筋は多摩方面から無量光寺をめざすもので、木曾村(町田市)で境川を渡り、龍像寺坂で「同者みち(磯部道)」と分かれ台地上に出、當麻村に向かう道筋である。「当麻道(境道)」あるいは「大道(おおみち)」ともいった。もう一筋は津久井方面から無量光寺をめざすもので、大島村の古清水集落、田名村の四ッ谷集落から広い原野を通り抜け当麻村に向かう道筋である。「当麻道久保沢路」ともいった。(シニアネット相模原)


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街道の風景③ 古淵駅東側の住宅地を16号に向かいます/坂上

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横浜線津久井踏切           16号を横断します/古淵駅入口



・・・大野台

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街道の風景④ 16号先にわずかに旧道がのこります/東大沼

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旧道入口               この先の大野中南を右折


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街道の風景④ 旧道に近い道だと思いますがこの先で大沼へ左折します


(木れびの森)

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大野小入口から直進しましたがわくわくするようないい森ですね~

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木れびの森/相模原中央緑地(大野台)
コナラ、クヌギなどの雑木林が連なり相模野の面影を残す平地林(木もれびの森)の中に整備された緑地で、四季折々の自然の表情を満喫できる散策路や芝生広場があります。平坦地なのでお年寄りから子どもまで森林浴が楽しめます。また木もれびの森は、「かながわの美林50選」に選ばれています。(相模原市)






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畑地かんがい用水大野支線
畑地かんがい用水は、戦後、食糧難を補う食糧増産のため県営事業として昭和38年に完成しました。しかし、その後の食糧事情の好転や都市化により充分に機能しないうちに使われなくなってしまいました。「大野支線」は東幹線からの支線で、現在そのほとんどは相模緑道緑地として整備されていますが、ここは当時の様子を伝える貴重なものです。(相模原市教育委員会)

d0183387_19265186.jpg万葉集

万葉集は5世紀半ばから8世紀につくられた長歌や短歌など4500首余りが20巻におさめられたわが国最古の歌集です。万葉集とは「万の言を集めた」とも「万世(おろずよ)に伝えるべき集」ともいわれていますが、まさに日本古典文学の代表作品です。万葉集の歌は上の図のように内容によって基本的に3つに大別されています。「挽歌」(ばんか):柩を挽く時の歌という意味で、人の死に際してその悲しみを述べた歌。「相聞」(そうもん):互いの近況をたずね合い、たま意思を伝えかわすという意味ですが、ほとんどは恋の歌で占められています。「雑歌」(そうか)上の2種類以外のことを歌った歌でさまざまなことが歌われています。万葉集には山川草木をうたった歌がたくさんあります。とりわけ野の草や花木をよんだ歌は数多く1700首におよび、登場する植物は150種類にのぼるといわれています。相模原中央緑地内では、とりあえず12種の植物を万葉の歌で紹介しています。(案内板)


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相模原中央緑地案内図



・・・大沼


神奈川県高座郡相模原町および相模原市の旧大字名。現在の同市南区の北部を占める。「大沼」の名は当地域内にあった、およびその付近に開かれた江戸時代前期の新田集落(大沼新田)に由来する。全域が相模原台地の「上段」(相模原面)上にあり、ほとんど平坦であるが大沼神社(南区東大沼二丁目)付近がわずかな窪地となり「大沼」と呼ばれる沼があった。これは地下の宙水に由来するものであり、全般に地下水位が非常に深い台地上面にあってこの周辺は浅い位置で地下水が得られる。相模原台地上にはこのほかに「小沼」(南区若松二丁目)、「菖蒲沼」(中央区淵野辺五丁目)、「鹿沼」(中央区鹿沼台二丁目)など宙水に由来する大小の沼が散在していたが、公園内の池として整備された鹿沼以外はいずれも1970年代までに埋め立てられ消滅した。
Wikipedia


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街道の風景⑤ 旧道は右手を通っていたようです。「大沼」跡へ寄り道します/大沼4丁目先


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大沼神社鳥居

大沼神社/東大沼
御祭神:市杵島姫命 ( いちきしまひめのみこと )。大沼神社は、今から272年前の元文元年(1736)弁財天社として新田への入植者によって祀られたと記されています。(大沼公民館)

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拝殿                 お堀のような池

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境内付近の風景ですが、この付近一帯が大沼だったようです


d0183387_21342308.jpg大沼

ここには「大沼」と呼ばれる大きな沼がありました。また、弁財天がまつられているので「弁天沼」とも呼ばれています。(標柱)




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神社の西、観音堂でしょうか      境内の石仏


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古淵駅周辺文化財案内図
(赤:大山道 緑:散策ルート 青:境川 橙:16号)


by Twalking | 2016-11-28 12:19 | 大山街道(新規)

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木れびの森
相模原中央緑地/相模原市・大野台
「林間の径」を自転車で、いいね~。どこいくのかな~?!、おじょうちゃん。。。

by Twalking | 2016-11-27 15:43 | ○写真上達への道

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紅葉
豊ヶ丘北公園/多摩市豊ヶ丘
う~ん、うつくしい・・・。。。

by Twalking | 2016-11-27 12:11 | ○写真上達への道