無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 <   2017年 03月 ( 44 )   > この月の画像一覧   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 こぶし   

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辛夷
愛宕第4公園/多摩市愛宕
どんよりとして肌寒いですね
まだまだ早春の感じ。
3月弥生の〆はやはり君だね、おはよ~!


コブシ
(辛夷)
モクレン科モクレン属の落葉広葉樹の高木。早春に他の木々に先駆けて白い花を梢いっぱいに咲かせる。別名「田打ち桜」。果実は集合果であり、にぎりこぶし状のデコボコがある。この果実の形状がコブシの名前の由来である。3月から5月にかけて枝先に直径6-10cmの花を咲かせる。花は純白で基部は桃色を帯びる。花弁は6枚。枝は太いが折れやすい。枝を折ると芳香が湧出する。(Wikipedia

by Twalking | 2017-03-31 13:34 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 コヒガン   

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コヒガン
旧冨澤家住宅/多摩中央公園(多摩市落合)
高遠のコヒガン、見事ですね!
なんでも、公園開設の折に高頭町から
寄贈されたものだそうです、有難いですね。


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コヒガン (小彼岸)
バラ科サクラ属の植物。桜の品種の一つ。自生地が知られておらず長野県伊那市の高遠城址公園以外には群生が見られないため、この地で交配が行われた園芸種とされていた。コヒガンはエドヒガンとマメザクラの交雑種と考えられている。花期が早く、春の彼岸ごろには花が咲き始める。花は五枚一重で薄い紅色の花を咲かす。ただし、色はソメイヨシノよりも濃い。春の早くに咲くため、葉よりも先に花をつける。萼は細長いが根元が少し膨れている。また、毛が多い。これらの特徴は母種の特徴を継いでいると考えられる。なお、萼はエドヒガンよりも細長い。Wikipedia

by Twalking | 2017-03-30 15:53 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 トサミズキ&ヒュウガミズキ   

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トサミズキ/多摩市グリーンセンター

トサミズキ(土佐水木)

四国に分布する落葉性の低木~小高木です。高知(土佐)の蛇紋岩地に野生のものが多く見られるためこの名前があります。ミズキと名前が付きますがミズキ科ではなくマンサク科の植物です。これは葉の形がミズキ科の樹木と似てところにちなみます。早春から明るい黄色の花を咲かせ、レンギョウやマンサクと同様、江戸時代から庭木や盆栽、切り花として親しまれてきました。地際から太い枝を出して茂ります。葉はまるっこいタマゴ型で裏面は粉をふったように白っぽくなります。主な開花期は3月下旬~4月、葉が出る前に枝からぶら下がるように黄色い花を咲かせます。花穂は長く伸びて7輪前後の花を付けます。(ヤサシイエンゲイ)


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ヒュウガミズキ/多摩市グリーンライブセンター

ヒュウガミズキ
(日向水木)
マンサク科トサミズキ属の落葉低木。イヨミズキともいう。花期は34月頃で、薄黄色の花を咲かせる。2から3個の花が房になって無数に咲き、花弁の先から黄色の雄蕊の葯がのぞく。(Wikipedia


「トサミズキはたくさんの花が等間隔に連なってぶらさがり、しべ(雄しべと雌しべ・ずい)はえんじ色。ヒュウガミズキは23個の花が固まっていて花房は短く小ぶり。しべは黄色」だそうです。なるほど、並んでいるとよく分かりますね。ありがとうございました。



by Twalking | 2017-03-29 11:08 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩センター桜まつり   

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乞田川/多摩市落合
川辺にぼんぼりが灯りました。
こんどの日曜日は「多摩センター桜まつり」
乞田川のさくら、見頃かも知れませんね~。


『第29回多摩センター桜まつり』
開催日時:2017年4月2日(日)10:00〜16:00(小雨決行)
会場:多摩センター駅北側 長久保公園 (乞田川)
主催:多摩センター商店会


by Twalking | 2017-03-28 19:50 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 シャガ   

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シャガ
愛宕下通り/多摩市
おはよ~!、シャガくん
今日は温かいね~、ほっと一息かな。


シャガ
(射干、著莪、胡蝶花)
アヤメ科アヤメ属の多年草である。人家近くの森林周辺の木陰などのやや湿ったところに群生する。開花期は45月ごろで白っぽい紫のアヤメに似た花をつける。花弁に濃い紫と黄色の模様がある。根茎は短く横に這い群落を形成する。草丈は、高さは50-60cm程度までになり、葉はつやのある緑色、左右から扁平になっている。(Wikipedia


by Twalking | 2017-03-28 09:42 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ハナニラ   

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ハナニラ
多摩市愛宕
寒いですね、春の雨は。
ぶり返しですからなおさら堪えます。
どうぞ、ご用心くださいね~。


ハナニラ
(花韮)
ネギ亜科ハナニラ属に属する多年草。葉にはニラやネギのような匂いがありこのことからハナニラの名がある。鱗茎から10-25cmのニラに似た葉を数枚出しさらに数本の花茎を出す。開花期は春で花径約3cmの白から淡紫色の6弁の花を花茎の頂上に1つ付ける。地上部が見られるのは開花期を含め春だけである。(Wikipedia

by Twalking | 2017-03-27 09:51 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 サンシュユ   

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サンシュユ
愛川町三増(関東ふれあいの道)
三増の原に群生して咲いていました。
まとまると豪華ですね~。


サンシュユ
(山茱萸)
ミズキ科の落葉小高木。中国及び朝鮮半島の原産地に分布する。江戸時代享保年間に朝鮮経由で漢種の種子が日本に持ち込まれ、薬用植物として栽培されるようになった。樹皮は薄茶色で、葉は互生し長さ4-10 cmほどの楕円形で両面に毛がある。3月から5月にかけ若葉に先立って4枚の苞葉に包まれた、花弁が4枚ある鮮黄色の小花を木一面に集めてつける。花弁は4個で反り返り雄しべは4個。(Wikipedia


by Twalking | 2017-03-26 15:40 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 サクラ   

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サクラ
愛宕下通り/多摩市愛宕
咲いたね
まってたよ~、いらっしゃ~い!
2017.3.25(土)


ソメイヨシノ(染井吉野)
エドヒガン系の桜と日本固有種のオオシマザクラの雑種の交配で生まれた日本産の園芸品種。江戸末期から明治初期に、江戸の染井村に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成された。初めサクラの名所として古来名高く西行法師の和歌にもたびたび詠まれた大和の吉野山(奈良県山岳部)にちなんで「吉野」「吉野桜」として売られ、広まったが、藤野寄命による上野公園のサクラの調査によってヤマザクラとは異なる種の桜であることが分かり(1900年)、この名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、「日本園芸雑誌」において染井村の名を取り「染井吉野」と命名したという。(Wikipedia

by Twalking | 2017-03-25 11:35 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「三増峠合戦の道」02-三増   

日時 2017.3.17(金)
天気 晴れ


志田峠をくだり三増合戦跡の周辺を散策しました。
陣立図をみると逆のような気もしますが、
素早く反転して高位を確保したんでしね?

それを追う形で戦った北条勢ですが、別働隊に背後を
つかれて総崩れしたと解説されています。
詳しくは分かりませんが感慨深いものがありました。
違うルートでいつかまた訪ねてみたいと思います。



・・・志田峠

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峠の風景① 南から志田峠を振り返ります

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街道の風景① 左の谷を志田川が流れています。静かないい道です

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相模原側は舗装されてます           ケート辺りが境、愛川町に戻ります



・・・旗立ての松


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玄関にお地蔵さん/志田山ホーム        旗立松の案内板を左折

d0183387_11423038.jpg三増合戦場旗立ての松の由来/東名厚木CC
永禄12年(1569106日三増の山野で甲斐の武田信玄と小田原の北条氏康とが戦った。旗立て松はこの三増合戦のおり、信玄が大将旗を立てた跡である。北から西へ連なる三増の山並みを越えて甲州に通ずる道には、三増・中・志田の三峠があるがそのうちで最も高く嶮しいのが中峠であった。信玄は相模の原を一望するこの高台を中心にして鶴翼の陣を張り追撃する北条軍に備えた。中峠近く高く聳える松に旗を翻し、自らは麓の桶尻本陣を置き合戦の指揮をとったのである。往時を知らす緑の松は小学生が56人でとり囲むほどの太さであった。惜しいかな大正12年の失火により枯れて今はなく、ただ記念碑と旗立て松二世に戦の跡をしのぶのみである。(愛川町教育委員会)

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ここから更に登ると中峠になります

d0183387_11470015.jpg武田信玄立松の趾碑の解説文

右手に立っている「武田信玄旗立松之趾碑」文は日本紋章学の権威沼田頼輔氏によるもので、概略次のようなことが書かれています。高峰村が津久井と接する北の境の山脈は延々と東西に広がっています。その中で最も険しいものを「中峠」と呼んでいます。くっきりと四方の展望が開け、麓の村に行き来する人馬は豆粒ほどにしか見えません。山の峰に一本の老いた松が青々と茂り天に伸びています。里の人はこれを「武田信玄旗立松」と呼んでいます。言い伝えでは永禄12108日信玄が北条氏政の軍と当地で戦った折、本陣をこの峰に張り旗をこの松の上に掲げたという由来により、こうした名称になったということです。つまりこの地こそは信玄が足跡を印した所であって松の樹もまた信玄の心に触れたものということができます。

d0183387_14503867.pngそれから350余年を経て、松に吹く風は今なおその余韻を伝え人々にその当時を偲ばせていたのですが、近年の火災により惜しいことに昔からある老松をもう一度見ることはできなくなりました。高峰村青年団諸君はここに一見の価値のある史跡が空しく消えてしまうことを惜しみ、石碑をたてて何時までも伝えようと考えその碑文を私(沼田頼輔)に依頼してきました。この地は私が以前からよく遊んでいた所です。老いた松の姿もなお心に刻まれています。これまでのことを聞いて感慨も更に切なるものがありよって拙さをも顧みずこの文を作りました。昭和39月中旬 沼田頼輔撰、高梨貞義書 (愛川町教育委員会)

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峠の風景② 相模川(左)と中津川(右)に挟まれた中津台地、南に3段で下っています。/中峠

中津原
神奈川県中央部、相模川とその支流の中津川にはさまれた台地で北半は愛甲郡愛川町、南半は厚木市に属する。台地の東西両側が2河川に臨むところは急崖であるが、表面はおおむね平たんで高度は北端部で約180南端部では約50である。相模川東岸の相模原台地と同じ地質で表面は厚さ1014mの関東ローム層におおわれその下に段丘礫層があり地下水面は深い。台地は一面が桑園であったが第2次大戦末期に中央部の中津に陸軍飛行場が設けられ、その跡地に1966年神奈川県企業庁によって内陸工業団地が造成された。(コトバンク)



・・・三増合戦場跡


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麓へ下ります             右折して合戦碑へ/中原


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史跡三増合戦場跡

d0183387_15353021.jpg三増合戦のあらまし
永禄12年(156910月、甲斐(今の山梨県)の武田信玄は2万の将兵を従えて小田原城の北条氏康らを攻めその帰り道に三増峠をえらんだ。これを察した氏康は息子の氏照氏那、娘の夫綱成らを初めとする2万の将兵で三増峠で迎え討つことにした。ところが武田軍の近づくのをみた北条軍は半原の台地上に移り態勢をととのえようとした。信玄はその間に三増峠のふもと桶尻の高地に自分から進み出てその左右に有力な将兵を手配りし、家来の小幡信定を津久井の長竹へ行かせて津久井城にいる北条方の動きを押さえ、また山県昌景の一隊を韮尾根に置いていつでも参戦できるようにした。北条方はそれに方々から攻めかけたのでたちまち激戦となった。そのとき山県の一隊は志田峠を越え北条軍の後ろから挟み討ちをかけたので北条軍は総崩れとなって負けてしまった。この合戦中、武田方の大将浅利信種は北条軍の鉄砲にうたれて戦死した。北条氏康、氏政の親子は助けの兵を連れて萩野まで駆けつけてきたがすでに味方が負けてしまったことを知り空しく帰っていった。信玄は勝ち戦となるやすぐ兵をまとめ反畑(今の相模湖町)まで引き揚げ、勝利を祝うとともに敵味方の戦死者の霊をなぐさめる式をとりおこない甲府へ引きあげたという。(愛川町教育委員会)

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あいかわ景勝10選三増合戦碑と志田峠(左鞍部が志田峠 中央奥が中峠・旗立松)

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三増合戦場陣立図

d0183387_15270577.jpg志田南遺跡出土遺物について
平成10年正月5日、ここから東へ130m程の桑畑の中「塚場」と呼ばれる地点で人骨及び六道銭が発見されました。この周辺は武田・北条の二大戦国大名が戦った三増合戦主戦場ということもあり戦死者の骨である可能性があります。鑑定の結果、骨の主は筋肉が良く発達した壮年後半の男性であることが分りました。また、一緒に出土した銭は全て中世の渡来銭でした。地元では相模国風土記稿に見える北条氏の家臣間宮善十郎の墓であるとののあり三増合戦場碑の傍らに埋葬することにいたしました。(愛川町教育委員会)


d0183387_16021694.jpg首塚

不動明王を祀る小高い所を首塚という。 宝永3年(1706)建立の供養塔がある。このあたりは三増合戦(1569)のおり、志田沢沿いに下ってきた武田方の山県遊軍が北条軍の虚をつき背後から討って出て、それまで敗色の濃かった武田方を一挙に勝利に導くきっかけをつくったところという。この戦いのあと戦死者の首を葬ったといわれるのが首塚であり、道をへだてた森の中には胴を葬ったという胴塚がある。なお、三増合戦での戦死者は北条方3269人、武田方900人と伝えられる。(愛川町教育委員会)

d0183387_16034498.jpg胴塚
永禄12年(156910月当町三増の原で行われた「三増合戦」は甲州の武田、小田原の北条両軍が力を尽くしての戦いだったようでともに多くの戦死者が出た。そのおり、討ち取られた首級はここから150mほど上手の土手のうえに葬られ「首塚」としてまつられているが、首級を除いた遺骸はすぐ下の志田沢の右岸わきに埋葬され塚を築いてそのしるしとした。この地ではそれを「胴塚」と呼び、三増合戦にゆかりのひとつとして今に伝えている。(愛川町教育委員会)


・・・田代上原

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街道の風景② 田代へ下る甲州みちです。陣立図にある志田沢が横断しています/上志田バス停

d0183387_16251544.jpg上原の庚申塔

田代上原の庚申塔は数ある町内の庚申塔の中でも最も古く寛文8年(1668)の造立である。碑面には神像とも仏像ともいわれる珍しい異形像が浮き彫りされており、初期庚申塔の一形態を示している。下部には三猿が刻まれ「相州愛光郡上川入田代村」とある。庚申とは干支のうち庚(かなえ)と申(さる)の組合さった日で、この日を特別な日として信仰行事が行われていた。これを庚申待ちといい塔を建てる習慣があっつた。(愛川町)

d0183387_16251967.jpg田代上原道標

この道はかつての甲州みちであった。厚木市上荻野の打越から当町の海底(おぞこ)を経て中津川を渡り関場坂からここに至り、それから志田峠を越え津久井の鼠坂(ねんざか)の関所を過ぎて吉野宿へと通じる小田原から甲州への通路であった。道標には「甲州道中」「左吉野ねんさか」とあり江戸中期ころの建立とされている。また近世には領主の使臣が村々を巡視する道筋であったことから「巡見道」よも呼ばれ、ほかに「津久井道」「志田道」の名もあった。(愛川町教育委員会)


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バス停に田代城の案内板        愛川中学校

田代城址/愛川中学
田代城は室町時代の山城で自然の地形をそのまま要害とした武士の居館であった。築城の年月は不詳。城域は230002ほどの広さをもち南の方を表口としていた。城主は小田原北条氏の幕下にあった内藤氏下野守秀勝とその子三郎兵衛秀行2代が在城し、田代・半原・小曽郷(海底)・隅田(角田)・箕輪下村・坂本・五坊(北原)・磯辺を領地としていた。永禄12年(156910月、武田信玄小田原攻めのおりにこの城は落城したと伝えられる。城址には石塁跡と守護の八幡社があり位置場、うまやなどの地名を残している。(愛川町教育委員会)

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愛川中裏側に八幡神社がありますが、遺跡らしきものはないようです
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街道の風景③ 経ヶ岳でしょうか、下ると田代ですが戻ります/愛川中学バス停

経ヶ岳
丹沢山地の東部にある標高633mの山。厚木市、清川村、愛川町の境界に位置し、神奈川県立丹沢大山自然公園に属する。郷土富士のひとつで荻野富士ともいう。(Wikipedia



・・・三増

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街道の風景④ 「三増合戦みち」の名がついてます。平だと思ったら意外とアップダウンがあります

d0183387_20252595.jpg三増中原辻の神仏/中原
辻(岐路)はそれぞれの地域への分かれ道であるため村や集落(最寄)の境界となっていることが多い。そのうえこの境い目は民間信仰において季節ごとに訪れる神々を迎える場所でもあり、村落へ入ってくる悪霊や邪鬼を追い払うところでもあった。そのためいつしか祭の場所として特殊な考え方が生じ、いろいろな神仏をここへ祀るようになった。この辻にあるのは「馬頭観音像」「如意輪観音像」「観音地蔵供養塔」「聖徳太子講供養塔」「庚申供養塔」「弁財天浮彫座像」「舟形浮彫地蔵像」等である。(愛川町教育委員会)

d0183387_20261765.jpg深堀沢

三増桶尻の奥を水源とし南に流れる沢。戸倉地区で志田沢と合流し中津川に注いでいます。三増合戦の記録にも見られます。(標柱)


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三増諏訪神社鳥居祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)です

d0183387_22191167.jpg三増の獅子舞(神奈川県指定無形民俗文化財)
三増は甲州街道宿場として中世から知られているところで、伝統の獅子舞はこの宿場の諏訪神社(伝1235年創建)の摂社である八坂神社のお祭に行われます。これは一人立ち三頭獅子舞で関東一円に分布するものと同じ系統に属し、約300年の星霜を舞い継いできています。またこの獅子舞は古くから諏訪神社を中心に一町(約110m)以外の土地に踏み出さない掟がありました。獅子がしらは父・母・子の三頭で父を老獅子、母を玉獅子、子を剣獅子といい祭り当番の家から「道行きの渡り拍子」で神社まで行進し、忌竹をめぐらせた舞場の中で舞います。この他、天狗、教導役としてバンバささら摺り役などがつきその舞ぶりは大きく優雅で他に類のないものといわれています。(愛川町教育委員会)


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街道の風景⑤ 三増の町並みです、ここを左折して三増峠に向かいます/三増バス停

県道65号厚木愛川津久井線
厚木市(129号山際交差点)相模原市(大沢交差点)に至る県道(主要地方道)である。日赤前交差-大沢交差点は旧津久井街道で国道413号(津久井-橋本)の前身である県道55号(国道昇格で現在は欠番扱い)の旧道である。Wikipedia


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軒岩院山門


d0183387_22302020.jpg軒岩院(とうがんいん)

曹洞宗。本尊の薬師如来は今から410年前(1597)に祀られたものである。慶長年間(1596-1615)に入る頃流行病に悩む者が溢れ、時の本寺である勝楽寺四世棟岩宗梁禅師がこの三増地区に寺を作り本尊として薬師如来を祀りこの地の人々を病から救ったことが棟岩院の縁起。(いいお墓)


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清徳寺山門

d0183387_22333436.jpg清徳寺

真言宗大師派。石段を登ると入母屋造り銅葺、間口9間、堂々とした本堂がある。本尊は弘法大師作と伝える大日如来(秘仏)、脇士に僧・行基作の十一面観世音と弘法大師(融通大師)が奉安されている。応徳元年(1084)高野山の僧・真海によって開創され、文亀2(1502)僧・珍算により再興された。かつては古義真言宗の関東法談所36院の一つに数えられ別格本山である。この寺は一般に「融通大師」で知られ、お大師さんがどんな願い事でも融通して必ず叶えてくださることから庶民が信仰することになった。(関東88ヶ所霊場)


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街道の風景⑥ 前方の鞍部が三増峠でしょうか/上三増

d0183387_23411725.jpg勝負谷戸(庄兵衛谷戸)

この道を北に進むと現在は開発されているが昔は狭い谷戸道であった。三増には三栗山系を越え津久井郡の葉山島に通じる古道が三筋ある。そのうち最も上手に位置したのがこの谷戸道で、道沿いのあたり一帯を「勝負谷戸」または「庄兵衛谷戸」と呼んでいる。勝負谷戸の名の由来は永禄12年(1569)の三増合戦のときこの谷戸でも戦闘があって武田勢を勝利に終わったという伝承からである。また別の説ではむかし庄兵衛という人がこの谷戸を開墾したので庄兵衛谷戸の名が起こったのだとも伝えられる。(愛川町教育委員会)

d0183387_23453544.jpg三増峠

三増峠は志田山塊の東端「下の峰」にかかる峠路で、三増峠越えまたは三増通りの名がある。中世の頃は信濃(長野)・甲斐(山梨)から鎌倉へ向かう古街道であった。永禄12年(1569)北条・武田両軍が戦った三増合戦の折、武田方小荷駄隊が通行したといわれる道で信玄道の名を残している。皇国地誌殘稿に「松ヶ平より西北へ上ること5673尺(約1km)にして嶺上に達し是より津久井郡根古屋村に連なる険にして近便なり」とある。(愛川町教育委員会)

d0183387_23531120.jpg三増トンネル(トンネル上の左手が峠)

愛川町三増と相模原市緑区根小屋を結ぶ県道65号愛川津久井線のトンネルである。トンネルが貫通する山塊には三増峠があり戦国時代、武田信玄軍と北条氏康軍が激戦を繰り広げた三増す峠の戦いの古戦場でもある。1992年(平成4年)竣工。全長462m。元々、古道・歩道しか存在しない僻地であったが津久井方面と愛川方面を繋げる道路として開発された。周囲に神奈川県愛甲郡愛川町三増新宿、上宿、下宿といった大字が残っているとおり中世から江戸時代に亘って甲斐国より相模国小田原大山への街道として宿場が設けられた地方であり古く交通の要衝であったということができる。(Wikipedia

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街道の風景⑦ 林道がありますが通行止めになっていました/三増峠 

d0183387_00130521.jpg三増峠登り口
この峠は三増合戦のおり武田勢が帰陣に用いたと伝えられるなど愛甲と津久井・山梨方面とを結ぶ道筋の要衝であった。(標柱)




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つづらに上ります           峠のお地蔵さん

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愛川町イラストマップ

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津久井地域の古道/津久井湖城山公園パークセンター
(赤:津久井道 橙八王子道 茶:津久井往還 紫:甲州街道 緑:矢倉沢往還)

津久井城址の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23941501/


by Twalking | 2017-03-24 14:15 | たまのさんぽ道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「三増峠合戦の道」01-半原   

日時 2017.3.17(金)
天気 晴れ


滝山城や津久井城などを歩いてみて
「志田峠」「三増峠」など三増合戦の現地を
実際に見て肌で感じてみたいと思っていました。

初めてなのでひとまず半原から志田峠越て三増原、
三増峠辺りを歩いてみました。
中津川や中津原台地からの景観は素晴らしいですね。


・・・半原

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街道の風景① この辺りが町の中心でしょうか/撚糸組合前

愛甲郡
愛川町、清川村。相模国に属し、元は同国最北部にあたる相模川・道志川流域の山間部も領域に含んだ。郡衙は厚木市内にあったとされるも不詳。古くは「あゆかは」と読んだ。この地名は後に「鮎川」「愛川」の地名が派生する源となった。中世、現在の厚木市付近に毛利荘が成立し、鎌倉時代初期に幕府の創立に貢献した大江広元の所領となった。彼の子孫は毛利氏を名乗り、後に安芸国に移転して戦国大名・近世大名に成長した。北部の山間部は「奥三保」と呼ばれていたが、鎌倉時代に三浦氏支族の津久井氏(津久井は三浦半島の地名、後に大江氏の血統に置換したとも言われる)が城山(相模原市緑区)に城郭(津久井城・築井城)を築いて以降「津久井」と呼ばれるようになった。戦国時代には小田原の後北条氏の支配下に入った。半支配と呼ばれる武田の飛び地を抱えたが、城代内藤氏以下の苦心の統治によって甲斐国の武田氏に対する前線となった。1569年(永禄12年)現在の愛川町で両軍による三増(みませ)合戦が起きている。Wikipedia

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半原神社鳥居

まず半原の鎮守にご挨拶、祭神は建御名方命 ( たけみなかたのみこと )です。

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二の鳥居               拝殿 

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仏果山登山道入口/宮沢川        鳥居坂

鳥居坂

馬坂から分かれて下ってきたこの坂のことで、沢向うにあった鳥居に由来する(標柱)


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顕妙寺は日蓮宗のお寺さんです

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中津台地と丹沢東麓の間を中津川が流れ、川沿いに県道54号(相模原愛川線・相模原市と愛川町を結ぶ県道)が通ります/顕妙寺

愛川町

町の中央を中津川が流れ西部は丹沢山地となっている。愛名・愛甲・鮎川・愛川といった地名を一連のものと考えると大化の改新以前の記録がある相模国最古の地名のひとつである。戦国時代最初期、長尾景春の乱では反乱軍の景春・豊島氏方の有力拠点であった小沢城(こさわ)が太田道灌によって攻略されている。武田信玄が小田原侵攻に関連して北条氏康と戦った三増の戦い(みませ)は愛川町の三増周辺だったと考えられており、史跡三増合戦場跡が存在する。西部の半原盆地を中心として、元来米の生産に向かない地形から養蚕、製糸・撚糸などの軽工業、宮大工などの出稼ぎ職人の本貫として知られていた。半原宮大工は江戸城修復にかかわるなど飛騨の大工と並びその腕を称えられていた。撚糸業では群馬県富岡の機械を模倣して水力を補助動力とした軽工業が盛んだった。Wikipedia


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若宮神社              八幡坂 

八幡坂
若宮神社のわきから和平の台地のはしに至る坂をいいます。(標柱)

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横須賀市水道局半原水源地

半原水源系統(旧軍港水道施設)は大正10年に完成し、これまで長い間横須賀市民の生活を支える貴重な水源として活躍してきました。しかし、水需要の減少、水源水質の悪化、施設の老朽化により平成19年度からは取水を休止していましたが 平成27228日をもって廃止しました。(横須賀市HP)

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中津川の風景① 日向橋を渡り向かいの鞍部に上ります/日向橋上流


d0183387_19243423.jpg撚り糸発祥の地半原

半原の撚糸業は江戸時代後期から始まり、撚糸機を作る大工の存在、中津川の水車動力によって発展しました。(標柱)

撚糸
漢字で書くと「撚糸(ねんし)」。糸に撚り(より)をかけること、または撚りをかけた糸のことです。「撚る(よる)」とはねじりあわせること。“腕によりをかける”とか、“よりを戻す”って言葉、ご存知ですよね。撚り(縒りとも書きます)は日常会話の中で使われていますが、「糸の撚り」を語源として出てきた言葉なんです。(日本撚糸工業組合連合)

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中津川の風景② 正面は高取山(705m)左は仏果山(半原富士・747m)、奥が宮沢湖になります/
日向橋

仏果山

丹沢山地の東部に位置する標高747mの山。愛川町と清川村の境界線上にあり、清川村側は神奈川県立丹沢大山自然公園に指定されている。郷土富士のひとつで半原富士ともいう。Wikipedia


d0183387_19305151.jpg日向橋

神奈川県愛甲郡愛川町の中津川に架かるトラス橋である。現在の橋は1930年(昭和5年)に開通したトラス橋で、河川内に橋脚を設けず洪水時の水流の妨げとならない構造とした。1991年(平成3年)には、同じ愛川町内の中津川の平山橋とともにかながわの橋100選に選定された。本橋開通以前の大正時代時代には吊り橋が架けられていた。Wikipedia

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街道の風景② 中津川左岸の山並み、手前が大峰、向山、富士居山と連なります/真名倉坂

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街道の風景③ こちらは右岸の山並み、仏果山&経ヶ岳になります/真名倉坂

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街道の風景④ 右手が大峰、半原川に深く谷が切り込んでいます/真名倉坂

d0183387_22004748.jpg真名倉坂
国道412号線愛川大橋北側信号辺りから津久井町韮尾根清正公入口近くまでの坂道をいう(標柱)

国道412

平塚市より相模原市へ至る一般国道であるが、始点より厚木市まで国道129号と重複しているため実質的には厚木市より相模原市への道路である。(Wikipedia


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桜沢
日々良野奥を発し中津川左岸に達するまでの沢をいう。真名倉沢は地名に瀬無し沢とは流れの姿による。(標柱)

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宮ケ瀬ダム下流行観光案内図



・・・志田峠へ

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街道の風景⑤ 中津原台地の上にでました。右手鞍部の志田峠へ向かいます/清正公入口(相模原市・長竹)

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「丹沢あんぱん」お勧めです      清正公大権現の石碑を右折


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街道の風景⑥ 正面に津久井城址が見えます。街道は緩やかに長竹へ下ります


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街道の風景⑦ 韮尾根(にろうね)へ下る「関東ふれあいの道」と合流します/東京農工大フィールドミュジアム


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「喜見梯」と書いてあるでしょうか、急階段の上りです/朝日寺参道

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参道                 小さな祠

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清正光
寺号:志田山朝日寺(ちょうにちじ) 正安元年(1299)鎌倉に実成庵として中老日実が開基、昭和9年鎌倉より移転し 旧号実成庵を志田山朝日寺と改める。昭和27年「清正光」として単独の宗教法人となる。本尊:清正光大菩薩  明治10年(1877)志田山に勧請する。その神体は天の三光(太陽・月・星)で、清正光の名は三光天子(日天子、月天子、明星天子)の教えを象徴して神格としたもので「清」は清らかな汚れない光ですべての物を平等に照らしてくれる太陽の教えを「正」は不正を破り正しい道を明らかにする明星の教えを「光」は優しく愛する月の光の教えを顕しています。(環境庁・神奈川県)

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本堂                 清正光別院


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街道の風景⑦ 緩やかないい道ですが林道のようですね、この先が峠です


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相模原市なんですね、右手は残土処分場、ちょっと残念ですね/志田峠

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峠の標識               馬頭観音

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三増へ下ります


d0183387_16542300.jpg志田峠

志田峠は志田山塊の峰上を三分した西端にかかる峠で、愛川町田代から志田沢に沿ってのぼり津久井町韮尾根にぬける道である。かつては切通し越え、志田峠越えの名があった。ここは永禄12年(1569)北条・武田両軍の古戦場で、武田方の山県三郎兵衛の 率いる遊軍がこの道を韮尾根から下志田へひそかにかけ下り、北条方の背後にでて武田方勝利の因をつくった由緒の地と伝えられる。江戸中期以降は厚木・津久井を結ぶ道として、志田山塊東端の三増峠越をしのぐ大街道となった。なお志田山の地名の起こりはこの山が芝山であったことによるという。(愛川町教育委員会)


by Twalking | 2017-03-23 17:12 | たまのさんぽ道(新規)