無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 <   2017年 04月 ( 59 )   > この月の画像一覧   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

d0183387_22090181.jpg

神田川遊歩道/豊島区関口
のっし、のっし
りくかめさん、お散歩中
伺ったら25歳だそうですよ~。

by Twalking | 2017-04-30 22:27 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 新宿駅   

d0183387_21360910.jpg

JR新宿駅/新宿区
山手線を待っていたら
総武線の下り電車が到着
いい車輛ですね~、ちょっと一枚。

by Twalking | 2017-04-30 21:42 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(3)高田馬場~江戸川橋02-早稲田   

日時 2017.4.25(火)
天気 晴れ


神田川の右岸早稲田界隈を歩いてみました。
ほんとに久し振りに訪ねた早稲田キャンパス、
全く時代が違いますがやはり学生街ですね。

やはり古い街、名所図会に描かれたスポットや
夏目漱石のゆかりの地などを見て廻りました。
ここは「裏路地」が面白いんでしょうね、きっと。
また、機会を作って散策してみたいと思います。


・・・早稲田


新宿区
の広域地名。早稲田の地域は古くは牛込村に属しており江戸牛込村字早稲田であったが、江戸時代初期には別村になり「早稲田村」と呼ばれるようになった。古くは水田が大部分を占める農村地帯であったが東京専門学校(後の早稲田大学)の開学に伴い学生街、文教地区へと発展していった。学生向けの下宿、飲食店、不動産屋、書店も多く店舗を構え早稲田通り沿いを中心とする古書街は都内有数の規模を持つ。(Wikipedia

d0183387_15012073.jpg
亮朝院山門/西早稲田

d0183387_15012570.jpg
亮朝院
日蓮宗・日暉上人は身延山の奥の院にあたる七面山で荒行を修めた後、現在の戸山付近に七面尊像をまつり明暦元年(1655)には将軍家祈祷所とされました。寛文11(1671)境内が尾張家の下屋敷となったため現在地に堂塔を移し、江戸時代後期には「江戸名所図会」に描かれているような大規模な寺となりました。正面の七面堂は当時のもので「高田の七面堂」や門の色から「赤門さん」とも呼ばれました。七面堂を護るようにして立つ『金剛力士像』一対(区指定文化財)は宝暦2(1752)作の珍しい石造りの仁王で大変迫力のある作品です。亮朝院の北の神田川にかかる面影橋のあたりは太田道灌の「山吹の里」の伝説が残されています。(新宿観光振興協会)

d0183387_15042367.jpg
亮朝院七面堂
亮朝院の七面堂は木造・正面5間・側面5間・入母屋造り・銅板葺きの建築で、天保5年(1834)に建築された。当初拝殿・幣殿・本殿の3棟からなる権現造りであったが、幕末頃に現在の形になったと推定される。縁側や屋根などに後代の改修や改変が多く見られるものの概ね当初の状態がよく維持されている。平成68年にかけて耐震補強などを目的とした改修が行われた。区内では希少な江戸時代寺院建築で、江戸後期に発行された「江戸名所図会」の挿絵にも描かれており、当時の亮朝院の院境内の様子を知ることができる建築物として貴重である。(新宿区教育委員会)

d0183387_15073905.jpg
亮朝院の金剛力士石造
宝永2年(1705329日に奉納された石造の金剛力士像で境内の七面堂前に阿吽一対で安置されている。総高234cm、像の背面には奉納年月日と造立施主として「尾州住大工加右衛門日匡代(にっきょうだい)」の名が刻まれている。尾張の大工・加右衛門は嘉右衛門とも書き、亮朝院の堂塔についても寄進したとする記録がある。日匡は亮朝院の第5代住職である。金剛力士像は一般に「仁王」と呼ばれ、仏を守護するものとして寺院の山門などに阿形と吽形の一対で安置される。大半が木彫りでありこのようなのものは珍しく、区内では唯一のものである。(新宿区教育委員会)

d0183387_15192270.jpg
梵鐘

江戸鋳物師の鋳造技術が極めて高かった元禄15年(1702)に造られた銅造の梵鐘。総高141.5cm。銘文により、浅草権兵衛が発起人となり市谷田町講・関口講などの講中のほか506名の武士や庶民が鋳造に寄与していることがわかる。(新宿区教育委員会)

d0183387_15205136.jpg
亮朝院本堂
亮朝院の本堂は木造・正面5間・側面5間・寄棟造り・本瓦葺きの建物で、嘉永3年(1850)に建築された。屋根などを中心に後代の改修や改変が見られるものの、全体として当初の状態がよく維持されている。内部は建具を入れれば細かく仕切ることができ修行道場としての本堂という性格を持っている。平成68年にかけて耐震補強などを目的とした改修が行われた。区内では希少な江戸時代寺院建築で、江戸後期に発行された「江戸名所図会」の挿絵にも描かれており、当時の院境内の様子を知ることができる建築物として貴重である。(新宿区教育委員会)

d0183387_15231554.jpg
江戸名所図会 高田 七面堂 朝日桜 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

d0183387_15292054.jpg

甘泉公園/西早稲田

甘泉公園(かんせん)という名は園内に湧き水があり清冽で常時枯れずまた茶に適したところから起こったものであり、その由来を書き記した石碑が園の南東に当る水稲荷神社社務所脇に存在している。この地は江戸中期の安永3年(1774)徳川御三卿の一つ清水下屋敷がおかれたところである。明治30年頃相馬家の所有にとなったが、昭和13早稲田大学に移譲された。戦後都がこの地を買収し改修の手を加えて昭和44年区へ移管した。神田川右岸を東西に走る台地の北面の傾斜とその低地にあって、段丘の高低差を利用し泉の水を引いた池を回遊する林泉になっている。池傍より見上げる雄大な常緑樹に囲まれ春のツツジ、秋の紅葉が水面に写り美事な景観を創り出している。「日本の歴史公園100選」にも選定された(東京都)


d0183387_16102578.jpg
水稲荷神社参道/西早稲田

d0183387_16110571.jpg
水稲荷神社(みずいなりじんじゃ)
旧称「冨塚稲荷」と命名されたが元禄15年(1702)に霊水が湧き出し現社名の「水稲荷神社」と改名された。眼病のほか水商売および消防の神様として有名である。また甘泉園公園に隣接しており、境内にある「高田富士」(戸塚富士あるいは富塚富士とも)は早稲田大学拡張工事の際に同大学の構内にあった江戸中最古の富士塚移築したものである。普段は登拝できないが7月の海の日とその前日に催される「高田富士まつり」の際に一般の登拝が可能となっている。Wikipedia

d0183387_16103532.jpg
堀部武庸加功遺跡之碑
この記念碑は「忠臣蔵」における代表的な論話であり、地域の伝承として知られる「高田馬場の決闘」(元禄7)における赤穂浪士・堀部安兵衛の事績を顕彰する記念碑である。江戸時代に高田馬場の管理を委託されていた甲州屋の子孫・行田久蔵が明治43年(1910)に建立した。篆額は西園寺公望、撰文は信夫恕軒、書は日下部東昨、鐫(せん)は堀部忠蔵の手になる。また賛助者は頭山満、犬養毅、大隈重信、三田村鳶魚(えんぎょ)など当時の名士が名をつらねている。当初は茶屋通りにある九蔵の植木園に建てられたが、昭和46年に現在地へ移された。総高は350cmである。この記念碑が建てられて当時は日露戦争の国家主義の高揚を背景とし「忠臣蔵」の再評価が高まった時代であった。また、明治から大正にかけて全国的に建碑ブームが巻き起こり歴史上の事象や人物に関する顕彰運動が盛んな時代でもあった。(新宿区教育委員会)

d0183387_16171022.jpg
江戸名所図会 高田稲荷 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

高田稲荷『江戸名所図会』

水稲荷神社は『江戸名所図会』に描かれた当時「高田稲荷」とよばれていました。中央付近の小高い丘の上にあるのが水稲荷神社(高田稲荷)で、ここは現在の早稲田大学9号館裏のあたりです。右上の山は高田富士で、水稲荷神社(高田稲荷)とともに昭和38(1963)に西早稲田3丁目の現在地に移転しました。(早稲田水稲荷神社HP)


・・・高田馬場跡

d0183387_14330392.jpg
街道の風景① 向かいの角から奥が「馬場」だったようです/西早稲田交差点(早稲田通り)

d0183387_16314410.jpg
高田馬場跡
西早稲田3丁目121214番を含む長方形の土地が江戸時代の高田馬場跡である。馬場は寛永13年(1636)に造られたもので旗本たちの馬術の練習場であった。また、穴八幡神社に奉納するため催された流鏑馬などが行われ将軍の供覧に入れたところでもある。享保年間(17161753)には馬場の北側に松並木がつくられ8軒の茶屋があったとされている。土地の農民が人出の多いところを見て茶屋を開いたものと思われる。また、馬場の一角、茶屋町通面したところは堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところで、水稲荷神社の境内には「堀部武庸加功遺跡の碑」が建っている。(東京都新宿区教育委員会)

d0183387_16334425.jpg
江戸名所図会 高田馬場 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


・・・馬場下町

d0183387_17055022.jpg
街道の風景② 穴八幡宮の入り口、左へ行くと放生寺です/馬場下町(早稲田通り)

d0183387_16481545.jpg
穴八幡宮鳥居/西早稲田

d0183387_16484821.jpg
穴八幡宮
康平5年(1062)奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が凱旋の折り、日本武尊命の先蹤にならってこの地に兜と太刀を納めて氏神八幡宮を勧進し永く東北鎮護の社として祀られました。寛永18年(1641)宮守の庵を造るために南側の山裾を切り開いたところ神穴が出現し、この時期から穴八幡宮と唱えられるようになりました。同年この地に居住していた幕府の祐筆大橋龍慶が方百間の地を献じ社殿を壮大に造営しました。この頃神木の松から瑞光を放ち色々奇瑞のあったことが3家光将軍の上聞に達し、当社を江戸城北総鎮護として総営繕を命ぜられました。慶安元年(1648)社殿再興の折りに幕府から氏子として牛込郷36ヶ町が定められ、翌年の慶安2年(1649)社殿を始め数々の殿舎が竣工し、8800余坪の境内地に壮麗な建物が櫛比して将軍家祈願所としての規模も整い以後江戸屈指の大社として重んぜられました。

d0183387_16512246.jpg
その後も幕府により数次にわたって造営・営繕が行われましたが、特に元禄16年(1703)の造営は江戸権現造り社殿として壮麗を極めました。安政元年(1854)青山火事のために類焼し、幕府より造営料などが奉納されましたが幕末の多事と物価高騰のため仮社殿のまま明治維新を迎えました。

d0183387_16553684.jpg
その後、昭和初年に旧事の盛観に復しましたが今次大戦により社殿はことごとく罹災しました。しかし戦後はいち早く仮社殿により再興し、その後崇敬者の御芳志等により平成元年から慶安・元禄の江戸権現造りの当社設計絵図を基に御本殿御社殿の造営をはじめ、平成10年の随神門竣工をもちまして往時を偲ぶ姿に復し、引き続きその他の再建また境内地の整備に着手し今日に至っています。(境内由緒書)

d0183387_16573760.jpg
高田馬場の流鏑馬
享保13年(1728)德川将軍吉宗が世継の疱瘡平癒祈願のため、穴八幡神社へ奉納した流鏑馬を起源とし、以来将軍家の厄除けや若君誕生の祝いに高田馬場で流鏑馬が奉納された。明治維新以降中断し、昭和9年に皇太子(現天皇)誕生祝いのため再興され、数回行われたが戦争のため中断された。昭和39年流鏑馬の古式を保存するため水稲荷神社境内で復活し、昭和54年からは都立戸山公園内に会場を移し毎年1010日高田馬場流鏑馬保存会により公開されている。古式豊かで勇壮な高田馬場の流鏑馬は小笠原流によって現在に伝えられており貴重な伝統行事である。(宿区教育委員会)

d0183387_19102769.jpg
放生寺
(ほうじょうじ)山門/西早稲田

d0183387_19104729.jpg
放生寺
新宿区西早稲田2丁目にある高野山真言宗準別格本山の寺院である。山号は光松山(こうしょうざん)。本尊は聖観音菩薩で「江戸33ヶ所」の第15番「御府内88ヶ所」の第30番である。1641年(寛永18年)に穴八幡宮(高田八幡)の別当寺として同神社の隣に創建された。寺号が示す通り「放生会」(ほうじょうえ)で知られ虫封じの利益もあるとされる。創建当時は穴八幡の境内に放生池があったが明治期の神仏分離により池は放生寺の管轄となり、その後1920年代に埋め立てられてしまった。現在は本堂脇の池が放生会に使われる。穴八幡宮とは元々不可分であったため神仏習合の江戸時代に始まった「一陽来復」の札の授与は穴八幡と放生寺の双方で行われている。ただし放生寺の札は「一陽来」と1文字異なるが観音経偈文の「聚海無量(ふくじゅかいむりょう)」に因んでいる。(Wikipedia

d0183387_19260165.jpg
放生会
(ほうじょうえ)捕獲した魚や鳥獣を野に放し殺生を戒める宗教儀式である。仏教の戒律である「殺生戒」を元とし日本では神仏習合によって神道にも取り入れられた。収穫祭・感謝祭の意味も含めて春または秋に全国の寺院や宇佐神宮(大分県宇佐市)を初めとする全国の八幡宮で催される。

東京早稲田にある放生寺は寺号に「放生」の名を持つ。この寺号は開創当時より徳川将軍家より厚い崇信を受け、慶安2年(1649)徳川3代目将軍家光より「威盛院光松山放生会寺」という寺号を受けたものである(寺紋に葵の御紋を使用することも許されている)。放生会法要はその開創当時から行われていたと伝えられ、現在は毎年体育の日に日々食事で魚介、鳥、動物などの命をいただくことに感謝をする「放生供養法要」を厳修し境内の放生池に魚を放流する。(Wikipedia


d0183387_00033451.jpg
江戸名所図会 高田八幡宮 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用


・・・夏目通り/馬場下町

低地に位置する北の早稲田通りと高台に位置する南の大久保通りや抜弁天通りを結び、東側は住宅街が広がる原町が西側は寺院や墓地が広がる喜久井町がある。坂の中腹には平坦な道が続きこの付近では明治年間創業の看板を掲げる料亭も多い。Wikipedia

d0183387_19490458.jpg
街道の風景③ 漱石のゆかりの地と知りましたので寄り道してみました/夏目坂


夏目坂

夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正4年)によると、漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が自分の姓を名づけて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ地図にものるようになった。(標柱)

d0183387_19532506.jpg
夏目漱石誕生の地/喜久井町(坂下) 
文豪夏目漱石(18671916)は夏目小兵衛直克と千枝夫妻の五男三女の末子としてこの地に生れた。夏目家は牛込馬場下横町周辺の11ヶ町をまとめる名主でその勢力は大きく、喜久井町の名は夏目家の家紋「井桁に菊」に因み、また夏目坂は直克が命名したものだという。漱石は生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されたがすぐに生家にもどり、2歳の11月に再び内藤新宿の名主塩原昌之助の養子となり、22歳のときに夏目家に復籍している。なお、この地での幼少時代のことは大正4年に書かれた随筆「硝子戸の中」に詳述されている。またこの記念碑は昭和41年に漱石生誕百年を記念して建立されたもので、文字は漱石の弟子安倍能成の筆になる。(新宿区教育委員会)

d0183387_20004495.jpg
来迎寺山門/喜久井町

d0183387_20005393.jpg
来迎寺
浄土宗。寺の入り口から境内に入ってすぐ左手に、立派な板碑型の『庚申塔』が残されています。これは、区指定文化財とされています。延宝4(1676)に建てられたもので、区内でも比較的古いものです。塔の端には「武州湯原郡牛込馬場下町」としるされています。「湯原郡」とは「荏原郡」のことだろうとされており、隣の誓閑寺の『梵鐘』はこの『庚申塔』から6年後につくられたことが確認でき、これにも「荏原郡」と記されており、すでに豊島郡になっていたこの地もまた旧郡名の「荏原郡」とよばれていたことがわかります。『庚申塔』特有の青面金剛神の姿は表現されていませんが、日月・三猿・二鶏が刻まれています。(新宿観光振興協会)

d0183387_20035848.jpg
来迎寺の庚申塔
延宝4年(1676)に造立された板碑型の庚申塔である。石質は極めて固い玄武岩で高さは120cm、上部左右に日月を配し、中央岩座に三猿、下部に対面した雌雄の鶏が浮彫され、江戸時代前半の庚申塔の特色を示している。また向って右側に「武州湯原郡牛込馬場下町」の陰刻があり、江戸時代になっても中世当時の古地名を記した史料として極めて価値が高い。(新宿区教育委員会)



d0183387_21214924.jpg
漱石公園(漱石終焉の地)
漱石が晩年の9年間を暮した「漱石山房」があった敷地の一部は新宿区立漱石公園として整備されています。園内には富永直樹製作の漱石胸像や「猫塚」があります。また「道草庵」では漱石や漱石山房に関する資料を展示しています。新宿区立漱石山房記念館の建設に伴い平成2936日から923日(予定)まで全面休園します。(新宿区)

d0183387_21245372.jpg
宗参寺山門
/弁天町

d0183387_21251942.jpg
宗参寺
新宿区弁天町にある曹洞宗の寺院。同寺は天文12年(1543)に没した牛込重行(法号:宗参)の墓所を息子の牛込勝行が造ったことに始まる。牛込は、元は上野国(現在の群馬県)の領主で室町時代に後北条氏の家臣となって現在の牛込地域を領した。その後、徳川家康に仕えて幕末まで旗本として続いたという。宗参寺は江戸時代には朱印地として寺領10石を拝領した。同寺内には牛込氏累代の墓があり東京都史跡に指定されている(1924年指定)また、江戸時代の兵学者・儒学者の山鹿素行の墓もありこちらは国の史跡になっている(1943年指定)Wikipedia

d0183387_21354391.jpg
山鹿素行の墓(国指定史跡)
山鹿素行は江戸時代前期の儒学者・兵学者で、素行は号である。元和8年(1622)に会津 に生まれ、江戸へ出て9歳で林羅山に儒学、15歳で小幡景憲・北条氏長に兵学を学んだ。承応元年(165231歳のとき赤穂藩主浅野長直に仕えて家禄千石を賜わった。その間、当時の官学であった朱子学の抽象性を批判し、古代の聖賢の教えにかえることを主張し、また古学を唱えて家塾をおこし多くの門弟をそだてた。明暦2年(1656)に「武教要録」などの3部作を著わし実学を重視する考えを主張した。寛文5年(1665)にはかれの語録「山鹿語類」が集大成された。また「聖教要録」で朱子学を批判したため翌年、赤穂藩へ流された。晩年には許されて江戸に帰り、積徳望を開き儒学や兵学を教えたが貞享11年(168564歳で没した。著書が多く「山鹿素行全集」にまとめられている。(新宿区の文化財)

d0183387_21372644.jpg
牛込氏墓(東京都史跡)
曹洞宗・宗参寺は天文12年(1543)に没した牛込垂行(法号、宗参)の廟所としてその子勝行が創建した寺である。牛込氏はもと大胡姓を名のり上野国赤城山南麓(現在の群馬県勢多郡大胡町)の領主であった。武蔵国守護の上杉氏の家臣であったが、大永4年(1524)に北条氏綱が江戸城を攻略させたときから、小田原北条氏の家臣となって牛込地域の領主になった。牛込城(袋町・光照寺付近)にいて北条氏の江戸衆の主要メンバーであった。領地は牛込郷ほか4ヵ村で177貫余であった。重行-勝行-勝重と北条氏に仕え天正18年(1590)の北条氏の滅亡により江戸に入城した徳川家康にしたがい、のち旗本となって幕末に至った。宗参寺の牛込氏墓地には寛文4年(1664)に、勝正が先祖である重行と勝行とを供養して建てた供養塔を中心に歴代の墓がある。(新宿区の文化財)

牛込氏
武蔵に移った牛込氏(大胡重行の子孫)は後北条氏の配下となった。牛込氏は故郷にあった赤城神社を勧請し牛込の地に赤城神社を創建している。勝行の子・勝重の代に小田原征伐に遭いのち徳川氏に仕えて旗本となった。牛込俊重は徳川忠長に配されその処罰後一時的に他家預かりの身になっている。赦免後、俊重は500石の旗本となったが、次の勝正のとき無嗣断絶で改易された。勝正の弟・重恭は分家し300俵のち500石を知行、その子・重義のとき1100石となりこの系統が幕末まで続いた。牛込氏は大胡成家からの系譜を『寛政譜』などで伝えているが、鎌倉時代など中世にみえる大胡一族の名とは全く異なるため『大胡町誌』では、牛込氏の伝えていた先祖を尊碑分脈の系譜(大胡重俊-成家まで)に繋げただけではないかとしている。Wikipedia


d0183387_22420398.jpg
宝泉寺山門/西早稲田


d0183387_22423999.jpg
宝泉寺
新宿区西早稲田にある天台宗の寺院。山号は禅英山。院号は了心院。本尊は薬師如来。西暦810年草創。かつて早稲田大学の敷地の大部分が寺領であった。「早稲田てらこや」と銘打って地域の住民や早稲田大学の学生と様々な企画や行事、清掃活動などを通して憩いの場や学びの場を作り上げている。Wikipedia

d0183387_22423232.jpg
宝泉寺梵鐘
宝泉寺第6世玄海の発願で正徳元年(17117月に江戸鋳物師西嶋伊賀守藤原正重により鋳造された銅造の梵鐘。総高136cm、口径79cm。龍頭は両頭式、乳(突起)は108個を配し撞座は二か所設けられている。江戸鋳物師の技術が頂点に達した正徳年間に鋳造されたもので仏像が表現されるなど入念かつ斬新な仕上がりとなっている。銘文からは宝泉寺の歴史や梵鐘鋳造の経緯がわかり史料的価値が高い。それによると宝泉寺は承平年中(931-38)平将門の乱を平定した藤原秀郷が草創。南北朝の動乱で荒廃したものを文亀元年(1501扇谷上杉朝良が復興するが再度戦国の動乱で荒廃、天文19年(1550牛込氏が再興したが梵鐘は鋳造されなかった。そのため玄海は住職就任当初から梵鐘再興に努めたがなかなか実現せず、住職を辞した宝永7年(1710)私財を投じて梵鐘を鋳造させたという。江戸時代の梵鐘は太平洋戦争中の供出により現存数が少なく、技術的にも史料的にも価値の高い梵鐘として貴重である。(新宿区教育委員会)


・・・戸塚

この地区の町名はもともと新宿区戸塚町(まち)1丁目~4丁目のみであったが住居表示実施により現在は戸塚町1丁目のみが残る。早大南門通りの東沿いに位置し概ね早大通りを境に南北に分断されている。北側町域は大部分が大隈庭園とリーガロイヤルホテル東京により占められ、南側町域は早稲田キャンパスと早稲田中高の間の住宅街である。Wikipedia

d0183387_00290261.jpg
キャンパス風景 時代が違いますが、久し振りに訪ねてみました/早稲田大学

d0183387_00310002.jpg
大隈重信銅像
早稲田大学の前身東京専門学校の創立者で早稲田大学の初代総長をつとめた大隈重信(18381922)の銅像である。早稲田大学創立50周年を記念して昭和7年(193210月に完成したもので鋳造・彫塑は朝倉文夫(18831964)の作、桜花崗岩製の台石は桐山均一の手になるものである。像高は2.89m・台石の高さは2.12mで角帽にガウンを着た早稲田大学総長の姿をした、晩年の大隈重信を見事に表現している。なお、朝倉は都合3回(芝公園・大正5年・1916、国会議事堂内中央広場・昭和13年・1938)大隈重信像を製作しており、この早稲田大学の像は2回目にあたるものである。(新宿区教育委員会)

d0183387_00331678.jpg
早稲田大学大隈記念講堂
早稲田大学大隈記念講堂は創立者である大隈重信に対する記念事業として計画され、同大建築学科の佐藤功一教授と佐藤武夫助教授が設計し、同教授の内藤多仲が構造を担当し、昭和21015日に竣工した。大隈記念講堂は早稲田のシンボル的存在であり、ロマネスク様式を基調としてゴシック様式を加味した我が国近代の折衷主義建築の優品として高い価値がある。また早稲田大学建築学科で永く教鞭をとり、多くの建築家を育てた佐藤功一の代表作としても重要である。(国指定等文化財データベース)

d0183387_00332334.jpg
大隈庭園

この庭園一帯は井伊掃部頭・松平差讃岐守の下屋敷にあった和様四条家風の名園を、本学創設者の大隈重信が文人風に改造したものです。没後邸宅とともに大学に寄贈されました。昭和205月の空襲で庭園は廃墟となりましたが、多くの人々の努力によりほぼ昔の景観どおり復元され今日に至っております。(早稲田大学)

d0183387_10471651.jpg
街道の風景④ 右手が大隈庭園になります、神田川右岸の関口へ向かいます/新目白通り・都電早稲田駅 

d0183387_00541572.png
早稲田周辺マップ
(赤:歩行ルート 青:神田川 茶:新目白通り・早稲田通り)


・・・・・・・・
資料ファイル
『漱石の散歩道』

d0183387_17065525.jpg

漱石の散歩道
明治の文豪夏目漱石は現在の喜久井町で生まれ、早稲田南町で亡くなりました。漱石の作品には早稲田・神楽坂界隈が数多く登場します。漱石はときには一人で、ときには弟子たちとこの周辺を散策し、買い物や食事を楽しみました。漱石を身近に感じながら歩いてみてはいかがですか?(新宿区)

by Twalking | 2017-04-30 08:51 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 金剛力士石造-亮朝院   

d0183387_15250407.jpg
阿形

d0183387_15244668.jpg
形吽

金剛力士石造
亮朝院七面堂/新宿区西早稲田
石造りの金剛力士像は珍しいとありましたが、
力強い仁王様ですね~・・・、宝永2年に奉納されたものです。


by Twalking | 2017-04-29 15:37 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 早稲田駅   

d0183387_12405406.jpg

都電荒川線早稲田駅
新宿区西早稲田
新目白通りのど真ん中にどっしりと、
なかなか風格がある構えで、いいですね!


早稲田停留場

新宿区西早稲田1丁目の新目白通り上にある都電荒川線の停車場で、同線の終点でもある。頭鍛式ホーム21線を有する地上駅で、線路を挟むように南北にホームがあり北側が降車専用、南側が乗車専用である。新目白通りが拡張されるまでは家並みに囲まれた専用軌道上にあったが、道路拡張時に家屋の移転と共に都電の線路も道路中央に軌道が位置するように移設されて現在の位置になっている。かつての軌道は高戸橋方面に向かう車道に変わった。Wikipedia

by Twalking | 2017-04-28 13:02 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ハルジオン   

d0183387_12014379.jpg

愛宕下通り/多摩市愛宕
ハルくんかな・・・?
おはよ~!、いい朝だね。


ハルジオン
(春紫
キク科ムカシヨモギ属の植物。北アメリカ原産で日本では帰化植物となっている。ヒメジオンと共に道端でよく見かける。花言葉は「追想の愛」。多年草で背の高さが30 - 80センチくらいになる。根元には篦型の根出葉があり花の時期にも残ることが多い。葉と茎は黄緑色でまばらに毛が生える。茎はあまり枝分かれせずに伸び、先の方で何回か枝分かれして花をつける。花はヒメジョオンと同じく細い舌状花を持つヒマワリのような花だが白とピンクのものがある。また、ヒメジョオンより一回り花が大きい。Wikipedia

by Twalking | 2017-04-28 12:04 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(3)高田馬場~江戸川橋01-高田   

日時 2017.4.25(火)
天気 晴れ

高田馬場一帯はじっくりと歩いてみたい所です。
左岸は目白、右岸は早稲田、見所が一杯あります。
川辺も桜並木の遊歩道がついていて憩えます。

ひとまず面影橋から左岸の高田を散策。
ここは鎌倉道が通り江戸名所図会にも描かれた旧地、
閑静な住宅地ですが昔の面影が残っていい雰囲気でした。



・・・高田馬場/新宿区


高田馬場1丁目から4丁目までがある。ただし、本来の高田馬場とは西早稲田3丁目にあった馬場の名で、江戸時代に「高田馬場の決闘」が戦われたのもその地である。地名としては付近一帯(北の豊島区高田や西の中野区上高田に至る)を「高田」と呼んだ。
通称「馬場(ばば)」Wikipedia

d0183387_14021889.jpg
街道の風景① ガード下に「鉄腕アトム」の大きな壁画、夢があって楽しいですね/早稲田通り

d0183387_14120566.jpg
高田馬場再開発記念碑/高田馬場駅
高田馬場とは寛永13年(1636)この東方約1km戸塚町の中央に設けられた江戸時代旗本たちの馬術練習や流鏑馬などを行う馬場から起った名称である。歴史に残る忠臣蔵の堀部安兵衛の助太刀の馬場としても著名である。明治15年(1882早稲田大学の前身東京専門学校が早稲田の森に建設され、明治35年(1902)早稲田大学と改称、学生の往来ようやく繁くなり高田馬場駅が開設されたのは明治43年(19109月で、駅前が発展してきたのは大正初期で、名実共に早稲田大学の玄関口となり学生の町となって賑わいをみせたのは昭和になってからである。

d0183387_14172730.jpg
昭和2年(1927)西武鉄道の開通後駅前周辺は急速に繁華街として発展し、第2次世界大戦後、昭和24年(1949)都電が早稲田終点より駅前まで延長、昭和27年(1952)には西武線の新宿まで延長、地下鉄東西線は昭和39年(1964)に開通し、一方戦災を受けた駅前を近代的な都市に再開発するため昭和23年(19483月東京都から戦災復興事業として区画整理の指定を受け、改めて昭和37年(19623月高田馬場防災建築街区造成組合が設立され家屋の移転、取毀、整理を開始やがて駅前周辺に高層近代ビルが次々と建設されるに至って有志相謀り據出して駅前広場に噴水、花壇を建設、池の中央に東京芸術大学名誉教授山本豊市先生の特志の寄進による平和の女神像を安置して道行く人々に悲話と緑の憩いの場を与え往時と全く面目を一新された。ここに高田馬場沿革史上特記すべき都市再開発並びに広場修景の完成を祝して永く後世に伝えるためこの記念碑を建立するものである。(元早稲田大学総長 大浜信泉撰)

d0183387_15452369.jpg
田川の風景① 西が牛込台、東が関口台、神田川は下町低地を蛇行して流れます/神高橋

d0183387_16305195.jpg
戸田平橋
豊島区高田3丁目にある神田川に架かる橋。1999年に作られたがこれは護岸工事の際に再建されたもので、元の戸田平橋は1919年に作られた。名前の由来は新宿区の戸塚と豊島区の高田(現在はこの橋は全部豊島区に入っている)に、この橋の建設に関係した淀橋区議会議員平野与三吉から。この橋の新宿区方面のたもとに戸塚新道と戸田平橋完成の記念碑がある。この記念碑の書の書き手は北条時敬(教育者・数学者・第12代学習院院長)(Wikipedia


d0183387_16310379.jpg

記念碑/戸田平橋(右岸)
大正8年12月竣工 
戸田平橋 戸塚新道 記念碑 
従三位 北條時敬書


d0183387_16350969.jpg
源水橋
豊島区高田3丁目の神田川に架かるである。1993年に造られたがこの橋は神田川の護岸工事等の際に作り替えられたので元の橋とは違う。元の橋はいつできたか不明。

d0183387_16351389.jpg
名前の由来はかつてこの橋の付近にあった源兵衛村と水車のはじめのを取ったという説もある。この橋の欄干には水車の絵が描かれており明治時代にこの水車はこの付近に存在していた。昔、このあたりの神田川は現在より南側に流れており、現在の神高橋付近から用水路が神田川と平行して流れ、その用水路が神田川へ合流していたのがこの源水橋付近でありそこに水車がありそれを動力源にしていた工場が存在していた。Wikipedia


・・・高戸橋交差点

d0183387_16484439.jpg
神田川の風景② ここで神田川(左)に妙正寺川(高田馬場分水路)が合流します/高田橋

d0183387_17165995.jpg
街道の風景② 左右が新目白通り、前後が明治通り、その右手が都電荒川線です/高戸橋交差点

d0183387_17083801.jpg
高田橋/新目白通り
下流側にある高戸橋の間に妙正寺川合流している(正式には下落合)。名前の由来は下流側の高戸橋は豊島区高田と新宿区戸塚を合わせて高戸橋だが、それなら高戸橋とほぼ同じ場所にある高田橋も高田から戸塚に架かっているから高戸橋と記名できるのではと考える人がいると思うが、このあたりは豊島区と新宿区との区界がとても複雑になっており、高田橋は所在地としては橋全体が豊島区高田3丁目に位置するので高田橋となった。(Wikipedia

d0183387_16571674.jpg
高戸橋/明治通り
名前の由来は旧町名の豊島区「高田」と新宿区「戸塚」の両町名合成したものと考えられている。場所は新宿区と豊島区の境にあり新目白通りと明治通り(環状5号)との交差点(高戸橋交差点)の北側である。高戸橋交差点の西側、新目白通りの谷原方面に高田橋がある。(Wikipedia

d0183387_17244175.jpg
d0183387_23321574.jpg
明治通りと平行して都電荒川線が通ります/神田川橋梁


・・・面影橋

面影橋停留場そばにある単純なコンクリート橋だが、太田道灌の逸話にある山吹の里の地とされ江戸時代・明治時代には名所のひとつであった。関連する名称に「姿見の橋」の名があるがこれは面影橋の別名であるとも、神田川よりやや北の小川に架かっていた橋の名であるとも言う。そのほか歌川広重の『高田姿見のはし俤の橋砂利場』(名所江戸は百景)では逆に手前の神田川をまたぐ橋が「姿見の橋」、奥の小川に架かる橋が「俤(おもかげ)の橋」と呼ばれるなどやや混乱を来している。(Wikipedia


d0183387_22002549.jpg
神田川の風景③ 桜並木の葉陰を川面に映して美しい景観です/面影橋

d0183387_22514433.jpg
江戸名所図会 姿見橋 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


d0183387_23031445.jpg
面影橋の由来
目白台から続く鎌倉街道沿いにあり姿見橋ともいわれていました。橋名の由来には諸説あり、高名な歌人である在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説、鷹狩りの鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けたという説、近くにいた和田靭負(ゆきえ)の娘であった於戸姫が数々の起こった悲劇を嘆き水面に身を投げた時に歌った和歌から名付けたという説などが知られています。なお、姿見の橋は面影橋(俤橋)の北側にあるもので別の橋だという説もあります。(説明板)

d0183387_22575399.jpg
「山吹の里」の碑(左岸) 
新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋一帯は通称「山吹の里」といわれています。これは大田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日「七重八重花は咲けども 山吹の みのひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられ道灌が無学を恥じそれ以来和歌の勉強に励んだという伝承で『和漢三才図会』(聖徳2年、1712年)などの文献から江戸時代中期の18世紀前半には成立していたようです。「山吹の里」の場所についてはこの地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などとする説があって定かではありません。ただ、神田川対岸の新宿区一帯は昭和63年(1988)の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や鎌倉街道の伝承地などが集中しており中世の交通の要衝地であったことは注目されます。この碑は神田川の改修工事が行われる以前は面影橋のたもとにありましたが、碑面をよく見ると「山吹之里」の文字周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享3年(1686)に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。(豊島区教育委員会)


・・・高田/豊島区(左岸)

高田馬場
の北東側にあたる。北側に学習院大学(豊島区目白)と雑司が谷ある。東側に新宿区早稲田に文京区目白台、南側に新宿区高田馬場、西側に新宿区下落合と接しており豊島区の境界にあたる(境界は神田川)。都電荒川線が通っている。神田川沿いの低地と関口台地(目白台地とも)の境目となるため坂が多く、中でものぞき坂は都内でも有数の急坂として知られる。Wikipedia

d0183387_23204858.jpg

高田氷川神社/高田
氷川神社の創建は武蔵国一の宮氷川神社を当地に分霊したことに始まるといわれる。祭神は素盞嗚命・奇稲田姫命・大巳貴命(大国主命)の三柱で平安時代の歌人・在原業平(六歌仙の一人)も参拝したと伝えられる。「江戸名所図会」(天保51834年刊)などの地誌によれば、当神社は江戸時代には氷川大明神と呼ばれ下高田村(豊島区高田・雑司ヶ谷・目白・文京区目白台)の総鎮守として信仰を集めていた。また、当神社の主神が素盞嗚命であることから俗に「男体の宮」といわれ、奇稲田姫命を主神とする落合村(新宿区下落合)の下落合氷川神社の「女体の宮」と合わせて「夫婦の宮」と呼ばれていたという。明治時代には氷川神社と改称し第2次世界大戦中には昭和20413日の空襲により境内の建物と宝物の大半が焼失した。現在の社殿は昭和29年に再建されたもので境内には神明神社・高田姫稲荷神社・道祖神社も祀られている。毎年正月には弓矢で的を射って災難除けを祈願する「御奉射祭(おびしゃさい)」が江戸時代より行われ、現在は成人の日に執行している。なお寛政2年(1790)に鳥羽藩主稲垣対馬守が寄進した鳥居・狛犬(文化41807年奉納)石燈籠(明治111878年奉納)玉垣が平成3年(1991)に豊島区登録文化財となった。(豊島区教育委員会)


d0183387_23240410.jpg
南蔵院山門/高田
d0183387_23250502.jpg
南蔵院
真言宗豊山派に属し大鏡山薬師寺南蔵院という。寺伝では開山は室町時代の円成比丘(永和21376年寂)とされる。本尊の薬師如来は木造の立像で、奥州藤原氏の持仏といわれ円成比丘が諸国遊化のとき彼の地の農家で入手し、奉持して当地に草庵を建て安置したのが開創であると伝えられる。正徳6年(1716)の「高田村絵図」(東京都公文書館蔵)には境内部分に「薬師堂」・「南蔵院」の文字の他山門、薬師堂と思われる建物および樹木3本が描かれている。

d0183387_22353312.jpg
また、江戸時代の地誌にも紹介されており「江戸名所図会」や「新編武蔵風土記稿」では徳川3代将軍家光がしばしば訪れたと記している。現在の境内には元禄9年(1696)に神保長賢により寄進された山吹の里弁財天の石碑と手水鉢や庚申塔、六地蔵、彰義隊九士の首塚などの石造物があるほか、墓地内には相撲年寄である片男波、粂川、雷、音羽山、二子山、花籠などの墓がある。また三遊亭円朝作の「怪談乳房榎」にゆかりの寺でもある。(豊島区教育委員会)

d0183387_00202455.jpg
江戸名所図会 南蔵院・鶯宿梅 氷川社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

江戸時代の高田村
天保5年(1834)に刊行された「江戸名所図会」では、高田村付近の様子が長谷川雪旦による3枚の挿絵付きで紹介されている。「高田」と題された挿絵の中央に南蔵院が配され境内に薬師堂と鶯宿梅(おうしゅくばい)が描かれている。鶯宿梅は江戸幕府3代将軍徳川家光が自ら植えたといわれ、このときすでに枯れていたとされるが「新編武蔵風土記稿」では鶯宿梅の実から育った木が院内にあると記している。南蔵院の前には右橋、付近には高札場や茶店、道には籠・馬などが描かれている。道を隔てたところには高田氷川神社がある。これらの位置関係や道の曲がり方などは、現在もほとんど変わっておらず江戸時代の名残りをとどめている。(豊島区教育委員会)

d0183387_23284613.jpg
金乗院山門 山門の左手に「長谷寺」の石塔が立ちます/高田

d0183387_23293635.jpg
金乗院/高田金乗院 
金乗院は真言宗豊山派の寺院で、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが草創とされています。永順の没年は文禄3年(15946月であることからそれより以前天正年間(1573-92)の創建と考えられます。当所は蓮花山金乗院と称し中野宝仙寺の末寺でしたが,のちに神霊山金乗院慈眼寺と改め護国寺の末寺となりました。江戸時代には近辺の此花咲耶姫社などの別当でしたが、昭和204月の戦災で本堂等の建物や水戸光圀の手になるという此花咲耶姫の額などの宝物は焼失しました。現在の本堂は昭和46年に再建され平成15年に全面改修されました。

d0183387_23411836.jpg
目白不動堂(東豊山浄滝院新長谷寺)は元和4年(1618)大和長谷寺代世小池坊秀算が中興し関口駒井町(文京区)にありましたが昭和205月の戦災により焼失したため、金乗院に合併し本尊の目白不動明王像を移しました。目白不動明王は江戸守護の江戸五色不動(青・黄・赤・白・黒)の随一として名高く目白の号は寛永年間(1624-44)に3代将軍徳川家光の命によるといわれています。

d0183387_00113141.jpg
墓地には槍術の達人丸橋忠弥、青柳文庫を創設した青柳文蔵などの墓があり、境内には寛文6年(1666)造立の倶利伽羅不動庚申塔をはじめ寛政12年(1800)造立の鍔塚など多くの石造物があります。(豊島区教育委員会掲示)
d0183387_00482896.jpg
街道の風景③ 坂下から鬼子母神へ続く鎌倉街道、いい坂です/金乗院前 

d0183387_00293274.jpg
宿坂道
中世の頃「宿坂の関」と呼ばれるところがこのあたりにあった。この坂の名が宿坂道と残っているのはおそらくそれにちなむものと思われる。「宿坂の関」は鎌倉街道の道筋にあったものといわれ、したがってここ宿坂はその街道上の地名と考えられる。古地図によると鎌倉街道は現在のこの道よりやや東寄りに位置していたが一応ここも鎌倉街道の名残といえよう。今から300年ほど前このあたりには樹木が生い茂り昼なお暗くくらやみの坂道として狐狸の類がとびはねて通行人を化かしたなどという話もいまに伝わっている。(豊島区教育委員会)

d0183387_00144934.jpg
江戸名所図会 宿坂の関旧跡 金乗院 観音堂 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

d0183387_00562132.jpg
根生院山門/高田

d0183387_00562624.jpg
金剛寶山 延壽寺 根生院/高田
本尊は薬師瑠璃光如来(秘仏)。創建は寛永13年(16363代将軍徳川家光公がその乳母・春日局の発願により大和の国(奈良県)小池坊(長谷寺)より栄誉を招き開山とし、神田白壁町に堂宇を建立し薬師瑠璃光如来像を本尊とし号を「金剛寶山延壽寺根生院」と称したのがその歴史の始まりである。正保2年(1645)第2世栄専の時、下谷二長町に移り江戸城西の丸祈願所として寺領250石を賜った。貞享47月(1687)新義真言宗江戸四ヶ寺の一ヶ寺となった。同年8月仁和寺御堂光明院の院室を兼務して院家となり歴代の住職は幕府の命によって選ばれる寺となった。

d0183387_01004797.jpg
この地はもと尾張候下屋敷であったものを田安家に譲り渡され、文政のころは一つ橋屋敷となったと伝えられている。下屋敷跡であり池あり丘あり樹木ありまた清泉涌き出た幽境の地であり、宿坂より山門までの参道は欅の並木があり山門の奥には満々たる水を湛えた池があり四季折々を楽しませた。昭和20年付近一帯の戦火の犠牲となり山門を除いて焼失した。戦後、都市化が進み本堂跡は住宅地となり昭和28年境内地の一部に再建され平成14年現在の堂宇に改築された。
Wikipedia


d0183387_11482103.jpg
神田川の風景④ この辺りは川底に岩盤が見られます、遊歩道を戻ります/中之橋

d0183387_11584748.jpg
街道の風景④ 左岸の高田から右岸の早稲田へ向かいます/面影橋停車場

d0183387_12003095.png
高田馬場駅周辺マップ
(青:神田川・妙正寺川 緑:鎌倉街道 茶:早稲田通り・新目白通り・目白通り・昭和通り)


・・・・・・・・
資料ファイル

宿坂道
d0183387_19551380.jpg
d0183387_22434201.jpg
『鎌倉街道の面影を残す宿坂を訪ねる』
徳川家康によって江戸が開府される以前に武蔵野には鎌倉から東北にいたる「鎌倉街道」が通っていた。豊島区内では都電荒川線「鬼子母神前」駅から目白通りを渡り「面影橋」へ向かう道がその古い道の一本にあたるといわれている。その途中、カーブして南へ下る急坂「宿坂」はもっとも鎌倉街道の面影を残す道だ。 宿坂は由緒ある「金乗院(目白不動)」前の坂道。この裏には中世の頃「宿坂の関」と呼ばれる関所が設けられていた。「宿坂の関」は鎌倉街道の道筋にあったものと伝えられ宿坂はその街道上の地名と考えられるが、古地図によると、鎌倉街道は現在のこの道よりやや東よりに位置している。宿坂の地名の由来には、昔、練馬方面から江戸に来るときここで一泊しなければならなかったため、この名がついたという一説もある。「宿坂の関」廃止後はここに茶屋ができたという。往来の人の立て場であったところから「立丁場」と呼ばれた。また、今から300年ほど前のこのあたりは樹木が生い茂り昼間でも暗く寂しい場所だったらしい。したがって俗に「くらやみ坂」ともいわれ「狐狸がとびはねて、通行人を化かした」という話しも今に伝わっているほど。『江戸名所図会』雪旦画「宿坂関旧趾金乗院 観音像」によると菅笠に杖の人物二人が急坂をジグザグに上る姿が描かれている。その急坂は現在と同じようなカーブで描かれているのが興味深い。(豊島区HP)


雑司ヶ谷鬼子母神の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24149684/




by Twalking | 2017-04-28 08:36 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 倶利伽羅不動庚申塔-金乗院   

d0183387_18515242.jpg

倶利伽羅不動庚申塔
金乗院(豊島区高田)
迫力がありますね~・・・、
寛文6年(1666)の造立だそうです。


by Twalking | 2017-04-27 18:58 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 コクテール   

d0183387_10470116.jpg

コクテール
愛宕下通り/多摩市愛宕
咲いたね!おはよ~。

by Twalking | 2017-04-27 10:48 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 アイスランドポピー   

d0183387_13424896.jpg

アイスランドポピー
鶴牧西公園/多摩市鶴牧
これはまた鮮やかな
午後の陽ざしを浴びて輝いてます
華やかで、いいですね~!


シベリアヒナゲシ
(西比利亜雛罌粟)
ケシ科ケシ属の植物である。本来は短命な宿根草だが高温多湿に非常に弱いため秋まき一年草として扱われている。現在では和名のシベリアヒナゲシは全く用いられなくなり英名のアイスランドポピー(Icelandpoppy)で呼ばれている。草丈は30cm余りで茎はよく曲がりその頭頂に薄手の和紙のような花弁4枚から構成されるカップ型の花を付ける。野生種の花色は白もしくは黄色でケシと異なり花はほのかなよい香りがする。葉は羽状複葉で毛深く長さは 2.5-15cm 余りになる。(Wikipedia


by Twalking | 2017-04-26 13:53 | ○Flower