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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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大池/多摩中央公園(多摩市)
風の色がみえてきますよね~
夕暮れのひととき、いい時間です
どうぞ、ごゆるりと~。

by Twalking | 2017-05-31 20:36 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 フクシア   

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フクシア
多摩市グリーンライブセンター/多摩中央公園
「温室の花、なんでしょう?」
「あ~、フクシアですよ~」と教わりました。
美しいですね!ありがとうございました。


フクシア

アカバナ科の低木で花が美しいので鉢植えなどでよく栽培される。日本では訛ってホクシャなどとも呼ばれる。英語ではフューシャと読まれる。フクシアは属名(ドイツの植物学者レオンハルト・フォックスにちなむ)で100種ほどの原種からなる。栽培品種も雑種起源のものを中心にして多種多様である。南米の熱帯・亜熱帯原産で小低木が多いが、中には高さ10m以上の高木になるものもある。茎がしだれ花が下向きに咲くものが多いので吊り鉢に植えて高い所に飾ることが多い。細長いがくと幅広い花弁が4枚ずつあって、がくが鮮紅色で花弁が紫のものなど、様々な色のものがあり、フクシアの名を冠した色名(フクシャ)がある。(Wikipedia

by Twalking | 2017-05-31 10:42 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 なむなむ-信法寺   

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なむなむ
信法寺/大和市上和田
「なむなむだね」
「そう、なむなむだよ」
「うふふふ~」

by Twalking | 2017-05-30 22:17 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 マツバギク   

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マツバギク
乞田川/多摩市落合
風が気持ちいいね~
元気に咲いてました。


マツバギク
(松葉菊)
ハマミズナ科マツバギク属の多年草の種のひとつ。茎は木質化し、地上を横に這い先端が立ち上がる。茎は根本でよく分枝して、まばらなクッション状の群落になる。節があって葉を対生する。葉は多肉質で断面がやや三角になった棒状。花は一見キクにも似ている。花弁は細いものが多数並ぶ。花弁が柴色でやや光沢がある。朝に花が開き夕方に花が閉じる。春から夏にかけ長期間開花を繰り返す。Wikipedia


by Twalking | 2017-05-30 21:09 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 クジャクサボテン   

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クジャクサボテン
「ちょっと、見て~」と母。
ことしも沢山の花をつけてくれました。
世田谷から持ってきたサボテン、元気ですね!
ありがと~。


クジャクサボテン
中南米原産のいくつかの森林性着生サボテンを交配して作出されたサボテンの一群。1000をこえる品種がある。平たい多肉質の葉状茎に赤色や桃色、白色、黄色、紫紅色など多彩で色鮮かな美しい花を咲かせる。春に開花し夏に生育、冬の低温と乾燥で休眠する。休眠後に花芽分化するため、温室などで暖かすぎる状態で冬越しをさせると翌年の花がみられない。水はけのよい用土を使って鉢植えし、春と秋はよく日に当て夏は半日陰で管理。冬は軒下または暖房をしない室内などで05程度の低温に保つ。冬期は水を断ち生長期も過湿に注意する。(コトバンク)


by Twalking | 2017-05-29 20:15 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 キンシバイ   

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キンシバイ
愛宕下通り/多摩市
初夏の陽ざしをあびて
咲きだしたね~、
おはよう!


キンシバイ
(金糸梅)
オトギリソウ科オトギリソウ属の半落葉小低木。中国原産で江戸時代の宝暦10年(1760)に渡来したといわれる。花の形が良く梅に似ており色が黄色であることが名前の由来である。株立ち上に枝が出てゆるやかに枝垂れる。葉は対生で長い楕円形。初夏、枝先に濃い黄色で五弁の花を次から次に咲かせる。ビョウヤナギのようにオシベは長くない。(Wikipedia

by Twalking | 2017-05-29 11:19 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(5)お茶の水~柳橋03-柳橋&両国   

日時 2017.5.20(土)
天気 晴れ


やっと隅田川に会えました、いい風景ですね。
折角なので両国へ、ここは初めての場所ですので、
ひとまず回向院、吉良邸などを訪ねました。

時間があればじっくりと歩きたいところですが、
最後に江戸東京博物館へ寄ってみました。
随分と大掛かりな展示物、見応え十分でした。

時間かかりましたが、面白いですね~、神田川。
以外と地形的な変化もありますし、さまざまと
江戸の街づくりの歴史を感じ取ることが出来ました。



・・・柳橋
/台東区

江戸時代には奥州街道旅館街として神田川対岸の両国(現在の東日本橋周辺)と共に江戸最大の繁華街として繁栄を築き上げてきた。
旧浅草区に属していたことから「浅草柳橋」と呼ばれている。1630年の江戸時代に徳川幕府が設置した米蔵「浅草御蔵」の一部として指定されており、現在の柳橋2丁目には三河岡崎藩邸信濃植田藩邸などの武家屋敷が置かれており官有地となっていた。浅草御蔵は隅田川の西岸、神田川北側の一画に、南は現在の柳橋2丁目より北は蔵前3丁目にかけて位置していた。幕府の米蔵であり地租が金納となったのちは米廩(べいりん)または米蔵と呼ばれ、1878年(明治11年)以降は大蔵省内において大阪など全国の米蔵を掌握し、米価の調節など貯蓄米にかかわる事務を行った常平局が管理し浅草御蔵の地に本局をおいた。柳橋1丁目は浅草旅籠町などが中心に江戸前の料亭が軒を連ね、特に柳橋芸妓で知られた。Wikipedia

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神田川の風景① 昔ながらの船宿風景が残っていて風情があります/柳橋

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旧浅草柳橋
いくつかの町が整理統合され昭和9年(1934)に誕生した。町名の由来は神田川の隅田川合流点近くに「柳橋」と称する橋があったのにちなんだ。柳橋の名は江戸中期の頃から花街として人によく知られ、橋のほとりには船宿が並んで賑わっていた。ひところは料亭および芸者衆も多く隆盛を誇ったものである。「柳橋」は元禄11年(1698)に初めて架けられた。神田川が大川にそそぐところにあったことから、その当時は川口出口之橋と呼ばれていたが、橋のほとりに柳が植えられていたことからいつしか柳橋と呼ばれた。現在の橋は昭和4年に架けられたものでローゼ形式の橋である。(旧町名由来案内板)

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篠塚稲荷社鳥居

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篠塚稲荷社/柳橋
御祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと)御神徳:商売繁盛 火伏せ
当社の創建は非常に古くて確かな事は図りませんが、神社に伝わる古文書や伝記などに依れば、正中年間(1325頃)に新田義貞の四天王の一人であった篠塚伊賀守重宏が足利尊氏軍との四国での最後の戦いに敗れた後ひそかに東国へ逃れ、現在地近辺の茅原の里にあったという当稲荷の祠の傍らにて仏門に入り、日夜主家の再興を祈願していた事からいつしか里人が篠塚稲荷神社と称する様になったと言われています。古来諸大名や高家及び庶民の崇敬厚く右の図は天保7年版(1836)「江戸名所図会」に記載されている稲荷社の絵図ですが『篠原稲荷社。当地の旧社なり。昔、新田(義貞)の家臣篠塚伊賀守、当社を信仰し晩年に入道して社の側に庵室を結びて住す。別当玉蔵院はその裔孫(えいそん)なりと言えり』と記してります。当時は神仏混合の時代で篠塚伊賀守の子孫は京都醍醐寺から篠塚山玉蔵院宗林寺の山号お受けた真言宗の修験僧で稲荷社の別当を務め、かつ江戸期から大正末期まで神社境内に寺子屋(後に篠原小学校)を運営し、また福井県にも分校を設けていましたが明治維新の際の廃仏稀釈により玉蔵院を廃止し、大正11年に篠原小学校も廃止いたしました。(篠塚稲荷社)
江戸名所図会 第六天篠塚稲荷 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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石塚稲荷神社鳥居/柳橋

石塚稲荷神社
祭神:倉稲魂命。
往古、稲荷大神の夢想の告げにより掘井戸より宝石出現したるにつき、浅草御蔵前元旅籠町の居住者有志、これを勧請して本社を創建した。元禄元年(1688)浅草御蔵御火除御用地として召上げられたので、その代地として現在の地に奉遷され今日に至っている。火伏せの神として霊験灼かで広く衆庶の信仰を集めている。古来、氏神榊神社の兼勤の社として祭事怠ることなく奉仕し現在に至っている。(東京都神社名鑑)

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隅田川の風景① いい眺め、やっと会えました~、感激です/隅田川テラス(上流側)

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総武線橋梁              両国橋(下流側)

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隅田川テラス周辺案内図


・・・神田川河口

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神田川の風景② 神田川河口です、右手に両国橋を望みます/柳橋

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柳橋
柳橋の下を流れる神田川は三鷹市井之頭池を水源とし都心部を流れて隅田川へと注ぐ全長約25kmの都市河川です。柳橋は神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁です。その起源は江戸時代の中頃で、当時は下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡舟で往き来していましたが、不便なので元禄10(1697)に南町奉行所に架橋を願い出て許可され翌11年に完成しました。その頃の柳橋辺りは隅田川の舟遊び客の船宿が多く『柳橋川へ蒲団をほうり込み』と川柳に見られる様な賑わいぶりでした。この位置に初めて橋が架かったのは元禄11(1698)のことで『川口出口之橋』あるいは近くに幕府の矢の倉があったことから『矢の倉橋』と呼ばれていました。『柳橋』の由来については(1)矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になりさらに柳橋となる。(2)柳原堤の末にあったことに由来する。(3)橋の袂に柳の樹があったことに由来する。このように諸説ありますが真説は不明です。

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明治維新後、柳橋は新橋とともに花街として東京を代表するような場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まる場所であったようです。明治20(1887)に鋼鉄橋になり、その柳橋は大正12(1923)の関東大震災で落ちてしまいました。復興局は支流河口部の第一橋梁には船頭の帰港の便を考えて各々デザインを変化させる工夫をしています。柳橋はドイツ・ライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを採り入れ昭和4(1929)に完成しました。

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柳橋の諸元 
所在地:中央区東日本橋2丁目=台東区柳橋1丁目 (神田川) 形式:タイド・アーチ橋 橋長:37.9m 有効幅員:11.0m(車道6.0m 歩道2.5×2) 建設年次:昭和412月(復興局施行) 完成から70余年、現在区内では復興橋梁も少なくなり柳橋は貴重な近代の土木遺産として、区では平成3年に優美な形をしたこの橋を後世に伝えるため傷んだ親柱を復元し、欄干は花街に因んで「かんざし」を飾り歩道には御影石を貼って再生しました。また夕暮れより照明の演出をして、神田川河口に架かる「柳橋」の存在感をもたせました。平成3年に整備し同11年に区民有形文化財に登録されています。(中央区・中央区教育委員会)

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柳橋ぶらりマップ


・・・東日本橋/中央区

日本橋地域の北東に位置し台東区(浅草橋・柳橋)・墨田区(両国)との区境にあたる。清州橋通りを挟み西側は問屋街、東側は商業地と住宅地が混在する区域である。現在の東日本橋にあたる区域は江戸開府以来交通の要所として栄え歓楽街であった。史跡も数多く残る。明治時代までは薬研堀がありその大川口には元柳橋が架けられていた。近世以前の「両国」は隅田川西岸大橋西詰にあたるこの付近を指していた。かつては両国広小路が置かれていた地であり現在は記念碑が設置されている。

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両国広小路
両国広小路は両国橋西詰めの現在の中央区東日本橋に設けられた火除地(広場)である。明暦の大火の教訓を元に整備され、江戸三大広小路のひとつにあげられる。見世物などの小屋が立ち並んで賑わった。現在、両国橋西交差点付近に「両国広小路記念碑」が設けられている。(Wikipedia

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旧蹟・両国広小路
隅田川は当時武蔵下総両国の境をなしていた。明暦の大火(1657)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その際このあたりで逃げ場を失って焼死するものが多数出た。このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。また延焼防止のため橋に向う沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。やがてこれが広小路となり江戸三大広小路の一つとして上野浅草に並び称せられる盛り場に発展した。明治維新のころ、ここには新柳町・元柳町・横山町・吉川町・米沢町・薬研堀町・若松町があったが昭和7年合併して日本橋両国町となり現在に及んだ。維新後百年を経た今日、まちの近代化はめざましく広小路や両国の名も過去のものとして忘れ去られようとしているが300年前火除け地が設定され、これが広小路に発展して行った事跡のなかには先人の英知と努力が偲ばれてまことに意義深いものがある。ここに由緒ある両国広小路の旧跡を永く保存するため町会の総意によりこの碑を建てた。昭和44113日(中央区日本橋両国町会 建碑・施工 青山石勝ガーデン)

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両国
中央区・墨田区両区の両国橋周辺一帯。また、墨田区の町名のひとつである。本来、両国とは隅田川西側武蔵国側である。元禄時代1688)からの本所深川開発以降、現在の両国である旧下総国側(墨田区側)を東両国向両国・むこうりょうごくとも)と呼ぶようになった。江戸期には後の東日本橋地区に留まらず近隣の日本橋馬喰町、日本橋横山町、日本橋久松町なども含めて隅田川西側地区が両国の名称を使用し、または両国を冠称していた。本所、深川は旧来の下町(神田、日本橋、京橋)からは「川向こう」であり西側が本家の両国、川向こうは東両国(向両国)だった。路面電車の「両国停留所」「両国郵便局」など西岸にあるものに「両国」の名称が使用されるのもその名残である。(Wikipedia
写真は日本橋北 内神田 両国 浜町明細絵図/案内板
(青:神田川 丸:浅草御門・柳橋・両国広小路 両国橋)


・・・両国橋

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隅田川の風景② 神田川川河口の様子がよく分かります/両国橋

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両国橋
隅田川にかかる橋で国道14号(靖国通り・京葉道路)を通す。西岸の中央区東日本橋2丁目と東岸の墨田区両国1丁目を結ぶ。橋のすぐ近くには神田川と隅田川の合流点がある。現在は武蔵国内にあるが1686年(貞享3年)に国境が変更されるまでは下総国との国境にあったことから両国橋と呼ばれる。両国橋の創架年は2説あり1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)である。千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。長さ94間(約200m)幅4(8)。名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい。(Wikipedia)

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隅田川の風景② 船で川下りもいいですね~、いい風景です/両国橋(下流側)

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江戸名所図会 両国橋 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
手前左が柳橋、右が両国広小路、川向うに見えるのは竪川でしょうか、華やかな賑わい振りです。

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両国花火
1732年(享保17年)に起こった全国的な大飢饉(いわゆる享保の大飢饉)や江戸におけるコレラの流行を受けて、八代将軍徳川吉宗が死者の弔いと悪病退散を願って両国にて水神祭と施餓鬼を行った。この際に花火を打ち上げて川開きを同時に行ったことが両国花火大会の始まりといわれている。1733年(享保18年)5月のことであった。担当した花火師が両国の篠原弥兵衛、有名な「鍵屋」6代目である。後にこの鍵屋から暖簾分けした「玉屋」が加わりそれぞれ両国を挟んで上流側・下流側を担当した。花火を打ち上げるたびに「たまやーかぎやー」という掛け声がかかるのはこの競演に由来する。両国花火大会は何度かの中断があったものの、現在も続いている日本で最も歴史の長い花火大会である。1978年(昭和53年)に15年ぶりの復活を遂げた際、現在の「隅田川花火大会」へと名を変えた。(Wikipedia
(写真『両国橋西詰』模型/江戸東京博物館)


・・・両国/墨田区

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街道の風景 初めて両国橋をわたりましたが、なんだかドキドキしますね/両国橋(京葉道路)

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両国(墨田区)
現在の両国は旧本所区にあたる本所地域内江戸期には「向両国」と呼ばれた地区である。本所区時代の1929年には東両国の町名が成立した。住居表示実施の1967年には従来の両国(中央区側の両国)は日本橋両国となっていて、単なる「両国」という町名があいていたためこの地域の町名を両国とした。吉良邸に赤穂浪士が討ち入った赤穂事件の舞台として知られている。現在そのごく一部が吉良邸跡として保存され区立本所松坂町公園となっている。近代、墨田区側の両国が全国に知られているのは両国国技館によるところが大きいと思われる。1909年に完成し1944年まで使用された旧両国国技館は両国2丁目の回向院の旧境内にあった。その後、蔵前国技館への移転を経て1985年に新しく完成した現・両国国技館は両国駅の北側、墨田区横網に位置している。(Wikipedia

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両国橋と百本杭
両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに百本杭があります。昭和5年(1930)に荒川不水路が完成するまで隅田川には荒川中川綾瀬川が合流していました。そのため隅田川は水量が多く湾曲部ではその勢いが増して川岸が浸食されました。両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には数多くのが打たれました。水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ川岸を保護するためです。夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになりその光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。

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江戸時代の歌舞伎では多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場します。「十六夜清心」でも冒頭に「稲瀬川百本杭の場」がおかれています。稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。観客は「百本杭」という言葉からこの場面が実は隅田川を舞台としていることに気づくのです。百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。また明治17年(1884)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれそれが百本杭を示しています。明治35年(1902)に幸田露伴は『水の東京』を発表し「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出たるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。このほか本所向島に親しんだ多くの文人が百本杭と往時の記憶について書き留めています。しかし明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの杭は抜かれ百本杭と隅田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。(墨田区教育委員会)

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回向院山門/両国

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回向院
墨田区両国2丁目にある浄土宗の寺院、および過去にその別院であった荒川区南千住5丁目にある寺院。両国2丁目にある寺の山号は諸宗山。正称は諸宗山(一時期、国豊山と称す)無縁寺回向院。墨田区本所地域内に所在していることから「本所回向院」とも呼ばれている。振袖火事と呼ばれる明暦の大火1657・明暦3年)の焼死者108千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まり。のちに安政の大地震をはじめ水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬する。1733(寛永5)老中・松平定信の命によって造立された「水子塚」は水子供養の発祥とされている。2月第1土曜日14時から水子塚の前にて水子総供養をその他は隔月毎に本堂にて水子供養を行っている。著名人の墓として山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉など。(Wikipedia

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相撲関係石碑群〈力塚〉
墨田区と相撲の関わりは明和5年(17689月の回向院における初めての興行にさかのぼります。以後、幾つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。天保4年(183310月からは回向院境内掛け小屋で相撲の定場所として年に2度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。明治時代に入っても相撲興行は回向院境内で続いていましたが欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治17年(1884)に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し多くの名力士が生まれました。そして明治42年(1909)に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。力塚は昭和11年(1936)に歴代相撲年寄慰霊のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ大正5年(1916)に建てられた角力記と法界万霊塔もこの中に移動しました。現在は、相撲興行自体は新国技館に移りましたが力塚を中心としたこの一画は相撲の歴史が76年にわたり刻まれ、現在もなお相撲の街として両国の姿を象徴しています。(墨田区教育委員会)

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鼠小僧供養塔
墓石の高さ100cm 幅710cm 奥行き55cm 台石の高さ35cm 幅116cm 奥行き78cm 石組の墓壇の高さ65cm 幅150cm 奥行き130cmを測る(安山岩製)碑の正面には「天保2年(1831818日」「俗名中村次郎吉之墓」「教覚速善居士」「道一書」裏面には「大正15年(19261215日建立」左側には「永代法養料金五拾園也 細川仁三」と刻まれている。

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鼠小僧は寛政9年(1797)生まれの実在の盗賊であり「武江年表」によると天保3年(1832819日に浅草で処刑されている。「甲子夜話」によれば武家屋敷にのみ押し入ったため庶民からは義賊扱いされていると記されている。後に幕末の戯作者河竹黙阿弥が、権力者である大名家に自在に侵入し被権力者側である庶民に盗んだ金を配るという虚構の鼠小僧を主人公とした作品を世に送り出したことから人気に火がつき、演劇界においては現在まで続く当り狂言の一つとなった。明治12年(18791月の「朝野新聞」によると歌舞伎の市川一門の一人である市川団升が、狂言が当った礼として碑と永代供養料10円の寄付を行うほどの熱の入れようであったと伝えており、施主として刻まれ墓の横にも石灯籠を寄進している。細川仁三とは市川団升のことであるとみる説もある。文学界においても芥川龍之介が「戯作三昧」・「鼠小僧次郎吉」・「復習」と3度題材に取り上げるなどとしており虚構の鼠小僧の人気は高い。江戸時代犯罪者には墓を作ることが禁止されていた。しかし歌舞伎や狂言での成功によって祈願対象物としての墓の必要性が生じ、この供養碑が作られたと思われる。他方、供養墓の前にある小さな供養碑は正面に供養墓同様「教覚速善居士」と刻まれているが、別名「欠き石」とも呼ばれるものである。鼠小僧の墓石を欠き財布や袂に入れておけば、金回りが良くなるあるいは持病が治るとも言われ、成就した人々の奉納した欠き石は数年ごとに建て替えられ続け現在までに数百基にも及んでいるという。発生時期は不明であるが、明治18年(1885)に初演された河竹木阿弥の「四千両小判梅集」には台詞の中でこの信仰の事が触れられている「この供養碑は変貌著しい墨田区と歌舞伎とのかかわりを示す資料でもあり、ここにはまた庶民のささやかな幸福追求の対象物としての価値も含まれる」(墨田区史より/説明板)

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猫の恩返し(猫塚)
猫をたいへんかわいがっていた魚屋が、病気で商売できなくなり生活が困窮してしまいます。すると猫がどこからともなく2両のお金をくわえてき魚屋を助けます。ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で2両をくわえて逃げようとしたところを見つかり奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け魚屋とともにその遺体を回向院に葬りました。江戸時代のいくつかの本に紹介されている話ですが本によって人名や地名の設定が違っています。江戸っ子の間に広まった昔話ですが実在した猫の墓として貴重な文化財の一つに挙げられます。(墨田区)

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国技館(大鉄傘)跡
相撲はもともと神事であり礼儀作法が重んじられてきました。現代の大相撲は江戸時代の勧進相撲を始まりとします。回向院境内にある「回向院相撲記」には天保4年(1833)から国技館に開催場所が移されるまでの76年間、相撲興行本場所の地であった由来が記されています。国技館はこの回向院の境内に明治42年(1909)に建設されました。32本の柱をドーム状に集めた鉄骨の建物は大鉄傘とも呼ばれ13千人収容の当時最大規模の競技場でした。日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾が設計を監修しました。相撲興行は戦後もGHQに接収されていた国技館で行われました。しかし、メモリアルホールと改称された後は本場所の開催が許されず、明治神宮外苑や浜町公園の仮設国技館での実施を経て、台東区に新設された蔵前国技館における興行に至ります。一方、接収解除後のメモリアルホールは日本大学講堂となりますが、老朽化のため昭和58年(1983)に解体されました。そして昭和60年(1985)地元の誘致運動が実を結びJR両国駅北川の貨物操車場跡に新国技館が完成、「相撲の町両国」が復活しました。大鉄傘跡地は現在複合商業施設となっていますが中庭にはタイルの模様で土俵の位置が示されています。(墨田区教育委員会)

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江戸名所図会 回向院 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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吉良邸跡/本所松阪公園

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本所松坂町公園由来
この公園は「忠臣蔵」で広く知られる赤穂義士の討入があった吉良上野介義央の上屋敷跡です。その昔、吉良邸は松坂町12丁目(現両国23丁目)のうち約84002を占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならびいまではそのおもかげもありません。昭和9年(19343月地元町会の有志が遺跡を構成に伝えようと、旧邸跡の一角を購入し史跡公園として東京市に寄付したもので、昭和25年(19509月墨田区に移管されました。周囲の石壁は江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁長屋門を模した造りで、周囲には元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷社などの遺跡があり当時をしのばせております。また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されております。(墨田区)

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吉良邸跡
吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西73間、南北35間で面積は約2550坪(約84002)だったとされています。現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は当時の86分の1の大きさに過ぎません。吉良上野介が隠居したのは元禄14年(17013月の刃傷事件の数ヶ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ代わりにこの本所二ツ目に新邸を与えています。討入りは翌元禄151214日ですから1年半に満たない居住でした。園内には吉良上野介の首を洗った井戸を再現したり吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。(墨田区)

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吉良家臣二十士・みしるし洗い井戸   吉良上野介義央公座像

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松坂稲荷大明神由来
松坂稲荷は「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したものです。「兼春稲荷」は徳川氏入国後、現今の社地たる松坂町方面に御竹蔵を置かれし当時、其の水門内に鎮座せしもので元禄15年の赤穂浪士討入り後、吉良邸跡へ地所清めのために遷官され昭和10年に既存の「上野稲荷」と合祀され、当本所松坂町公園開園とともに当所に遷座されました。(墨田区文化観光協会)

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勝海舟生誕の地/両国公園

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勝海舟生誕の地
勝海舟は文政6年(1823)正月30日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。父惟寅(小吉)は男谷忠恕(幕府勘定組頭)の三男で、文化5年(18087歳のとき勝元良に養子入りし、文政2年(1819)に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えました。海舟が男谷邸で生まれたのはこのためだと考えられます。海舟は7歳までの幼少期をこの地で過ごしました。その後は旗本天野左京の自宅2階(現亀沢2丁目3番)や代官山口鉄五郎の貸家(現亀沢3丁目6番)を転々とし、ようやく落ち着いたのは天保初年(1830)、旗本岡野融政の貸地(現緑4丁目25番)に転居してからのことでした。海舟は赤坂に転居する弘化3年(1846)までそこで暮らし、島田寅之助(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島の弘福寺に通い参禅していたと伝えられています。

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海舟が海外事情に関心を寄せはじめた時期は分かりませんが、天保14年(184321歳の時には師匠島田のすすめで蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事し、嘉永3年(1850)には「氷解塾」を開いて西洋兵学を教授しはじめました。米国使節マシュー・ペリーが浦賀に来航したのはまさにその頃、嘉永6年(185363日のことでした。海舟は幕府首脳部に独自の海防論を呈し、安政2年(1855)正月には目付大久保忠寛の推挙をうけて異国応接掛手附蘭書翻訳御用となり、安政3年(1856)に講武所砲術師範役、安政6年(1859)に軍艦操練所教授方頭取に就くなど活躍の場を広げていきました。そして、安政7年(1860)正月には日米修好通称条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断に成功しました。

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また、帰国後も軍艦操練所頭取や軍艦奉行などを務めるなど政局の混迷の中でますます重要な役割を担うようになったのです。慶応4年(18683月に行われた西郷隆盛との会見は徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の代表的な事績となりました。海舟は新政府で高官に任ぜられますが明治8年(187511月に元老院議官を辞した後は著述活動や旧幕臣の名誉回復、経済支援に尽力しました。明治19年(18865月には酬恩義会を創設して将軍家霊廟の保存を図るなど、最期まで旧幕臣としての意識を持ち続けていました。明治32年(1899119日海舟は77歳で病没。洗足池畔の墓で静かに眠っています。(墨田区教育委員会)

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竪川(たてかわ)/一之橋
墨田区及び江東区を流れる人工河川。江戸城に向かって西)に流れることからこの名称となった。竪川は1659年(万治2年)に起工された運河で日本橋横山町と逆井の2つの地点にのろしを上げてそれを目印に開削された。すぐ北側を千葉街道が並行していた(五之橋北詰に記念碑が建てられている)こともあり、かつては小名木川とともに隅田川中川を結ぶ直線航路として利用され、物資の輸送はもとより成田山、香取、鹿島神宮への参詣路としても親しまれた。竪川の開削後すぐ隅田川(大川)に近いほうから順に一之橋から六之橋まで単純に番号を振った橋が架けられた。Wikipedia

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一之橋
幕府は低湿地であった本所開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削し、掘り出した土を陸地の補強・嵩上げに利用しました。排水路は隅田川に対し縦・横に開削されました。万治2年(1659)縦の代表格、堅川の開削と同時に架けられ隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名されたのがこの一之橋で、長さ十三間、幅二間半ほどありました。堅川の両岸には全国から水運でもたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが立ち並び、橋を行き交う人々も多く大いに賑わいました。一之橋は赤穂浪士泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています。(案内板)
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両国駅周辺マップ

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神田川流域マップ
(赤:神田川 緑:善福寺川 橙:妙正寺川 紫:日本橋川 青:隅田川)



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資料ファイル

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東京都江戸東京博物館
墨田区横綱にある東京都立の博物館。JR両国駅から徒歩3分、国技館の隣に位置する。失われていく江戸、東京の歴史と文化に関わる資料を収集、保存、展示することを目的に「江戸と東京の歴史や文化を伝える博物館」として平成5年(1993)に開館した。1階に企画展示室、3階(屋外)に「江戸東京ひろば」、5階と6階に常設展示室があり、常設展示のほか年に45回の企画展示や催し物などが開催されている。

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吹き抜け構造の56階に設けられた常設展示室は江戸ゾーンと東京ゾーンに分かれる。江戸ゾーンには絵図、浮世絵などの資料や日本橋(縮尺1/1)や中村座(縮尺1/1)の模型、長屋の大型模型、可動模型、持上げ可能な千両箱などの展示物が設置されており庶民の日常生活、火消し、食生活、文化など城下町としての江戸に関する展示が行われている。東京ゾーンでは明治維新、文明開化、関東大震災、東京大空襲などの展示がある。図書室(7階)、映像ホール(1階)や映像ライブラリー(7階)などの学習施設なども設置されている。(Wikipedia

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江戸府内上水使用分布図/展示資料
江戸の上水道は主に北部が神田上水(緑)南部が玉川上水(紺)の水を利用していた
(青:神田川 緑:神田上水を着色)

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玉川上水模型
(赤:玉川上水 青:神田川・神田上水 橙:甲州街道を着色)

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上水井戸               小金井橋と玉川上水


江戸の変遷/展示資料

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左:『関東入府後の様子』(初代家康の頃1590~・天正18年 
右:『外郭工事の進展』(2代秀忠の頃(1606・07)

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左:『神田川の疎通工事』(2代秀忠の頃1620・天和6年)
右:『外郭工事の完成』(3代家光の頃(1635・36・寛永12・13年)

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左:『江東運河の成立』4代家綱の頃(1659~1661・万治2年~寛文元年)
右:『隅田川架橋の完成』(5代綱吉の頃1688~1704・元禄年間)

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武家地表示図
(赤:五街道 青:隅田川・神田川を着色)


街道/展示資料

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五街道と脇往還/展示パネル
(橙:五街道 紫:脇往還を着色)


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江戸の玄関(四宿)
(赤角:四宿 橙:五街道 青:神田川・日本橋川 緑:外濠を着色)

by Twalking | 2017-05-28 10:24 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 両国駅   

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総武線両国駅/墨田区
初めて降りた駅です。
場所中なので大相撲ファンが大勢
なんだかわくわくしてくる街ですね~。


両国駅

墨田区横綱1丁目にあるJR東日本・都営地下鉄(大江戸線)の駅。接続駅となっているが一番近い出口同士でも300m余り離れている。JR駅の定期列車は緩行線を走る中央・総武線各駅停車のみが停車する。元来、両国とは両国橋を挟んだ隅田川の両岸を指す地名であった(隅田川西岸は旧日本橋両国)。しかし、総武鉄道は当初隅田川の東岸までの開通に留まったため両国橋の東、東両国に両国橋駅を開業し、後に両国駅と改称した。駅名の影響に両国国技館の開設も加わり現在では両国という地名は専ら両国橋の東の地域に対して用いられる。(Wikipedia


by Twalking | 2017-05-27 14:50 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 おたぬきさん-柳森神社   

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おたぬきさん
福寿稲荷神社(柳森神社に合祀)/千代田区神田須田町
『他を抜いて(たぬき)玉の輿に』
将軍家綱の生母桂昌院にあやかりたいと
お奥のお女中衆がこぞって崇拝したとか。
面白い顔ですね~、ねずみさん??かと思いました。


by Twalking | 2017-05-26 21:19 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 アカンサス   

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アカンサス
愛宕下通り/多摩市愛宕
にょっきりと顔出して
いつのまにか咲きだしね
おはよ~!おもしろい花だね。


アカンサス
南ヨーロッパ、南西アジア、北アフリカ原産のキツネノマゴ科の耐寒性多年草で約20種がある。葉がアザミに似るため和名をハアザミというがアザミの仲間ではない。属名のAcanthusはギリシア語のakantha(とげの意)に由来し葉縁にとげがあることによる。本属の代表種ハアザミA.mollis L.は長さ50cm以上で羽状深裂し、歯牙があって光沢のある大きい濃緑色葉を根生し、初夏のころ高さ1mこす花茎を抽出し白地に紫色脈のある大きい唇形花を長穂状に咲かせる。(コトバンク)

by Twalking | 2017-05-26 10:21 | ○Flower