無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 <   2017年 05月 ( 50 )   > この月の画像一覧   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 バラ   

d0183387_22092049.jpg

多摩市愛宕
惹きつけられますね~
黄色いバラ
元気に咲いてます、ありがと~。

by Twalking | 2017-05-25 22:19 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(5)お茶の水~柳橋02-浅草橋   

日時 2017.5.20(土)
天気 晴れ

昔は筋違い御門から浅草橋にかけて
右岸は柳の土手、左岸は河岸だったそうです。
面影はありませんが、裏路地は面白はいですね。

岩本町は以前、龍馬ウオークで訪ねたところ、
浅草橋は日光街道で歩きました。
そんな懐かしさもあってついつい寄り道、
街道とはまた違った出会いもあってよかったです。


・・・岩本町(右岸)

千代田区の北東部に位置する。岩本町と神田岩本町を含めた町域の北側は神田川を挟んで千代田区神田佐久間町・神田佐久間河岸に接し、東は千代田区東神田、南は中央区日本橋小伝馬町・日本橋本町、西は千代田区神田須田町・神田松下町・神田東紺屋町・神田紺屋町・神田西福田町・神田美倉町にそれぞれ接している。岩本町と神田岩本町の間を昭和通りが通っている。(Wikipedia

d0183387_00105723.jpg
神田川の風景① 左岸は神田佐久間町、右岸は岩本町になります/和泉橋

d0183387_00140829.jpg
和泉橋/昭和通り
この橋を和泉橋といいます。『御符内備考』には藤堂和泉守屋敷前の通りに架かるゆえに呼名にしたとあります。橋を渡った右側が和泉守の屋敷跡で神田和泉町の町名が残っています。神田川の南岸沿いには柳を植えた土手が築かれていたのでこの辺りを柳原といい、橋の北側一帯を向柳原(むこうやなぎはら)といいましたが、明治初年頃に柳は枯れたり取り除かれ、また関東大震災後の区画整理で土手も平になりました。橋はたびたびの火災で焼けましたが明治25(1892)に鉄橋となり欄干の唐草模様の中に神田和泉の文字が崩し模様になっていました。大正5(1916)に鋼橋に架け替え、さらに昭和2(1927)帝都復興事業の一環で拡張されました。長さ35.8m、幅44m、鋼橋。(千代田区教育委員会)

d0183387_00163069.jpg
昭和通り
1京浜・銀座中央通り(国道15号)とが交差する港区新橋交差点から明治通りが交わる台東区大関横丁交差点に至る道路の東京都通称道路名である。昭和通りは関東大震災の復興事業として計画、建設された道路である。当時東京市長だった後藤新平の原案では道幅を108mとするものであったが、広い道路の重要性が当時は受け入れられず結果現在の道幅に狭められ1928年(昭和3年)に完成した。(Wikipedia

d0183387_00192741.jpg
柳原土手跡/和泉橋
「江戸名勝志」に『柳原土手西は筋違橋(元の万世橋・よろずよばし)より東は浅草橋迄の間、長さ10丁余(1.1km)つづけり。柳樹多くあり』とあり昔このあたりは土手で柳の並木がありました。「柳森神社記」によると長禄2(1458)太田道灌が江戸城の鬼門よけに柳を植えさせたとあります。また享保(171635)のはじめ将軍吉宗が昔の柳が枯れて柳原土手の名だけになっていたので植えさせたものだともいいます。昔は町屋が土手の南側下まで並んでいたので、土手上を人は通行していました。寛政6年(1794)幕府は土手沿いの人家を取り払い火除け地とし、この明地(あきち)にその後老中松平定信は凶災に備えてお救い米を貯蔵する籾蔵(もみぐら)を建てました。安政3年(1856)この籾倉は葛飾郡小菅村に移されたため翌年夏よりこの跡地にまた町家ができました。柳森稲荷(柳森神社)は土手下にあって元禄八年(1695)はじめて社が完成し繁盛したといいます。故に稲荷河岸とも呼ばれていました。関東大震災(1923)で社殿は焼失しましたが再建され境内に力石などが残っています。また土手は昔、葦簀張(よしずばり)の古着屋、古道具屋が店を並べていたそうです。明治6年(1873)土手は崩されました。(千代田区教育委員会)

d0183387_00314379.png
柳原土手(緑:柳原土手 青:神田川 橙:中山道・日光街道 赤丸:筋違見附・浅草見附)

d0183387_00420293.jpg
江戸名所図会 柳原堤 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


d0183387_18083545.png
岩本町3丁目/和泉橋
江戸時代この界隈を流れる神田の土手は柳並木があったことから「柳原土手」と呼ばれていました。岩本町周辺は江戸城から見れば鬼門(北東方向)にあたります。柳森神社(現・神田須田町2丁目)の社伝によれば、太田道灌鬼門除け稲荷を祀り、を植えたのが始まりといわれています。そんな柳原土手に沿った地域に最初に住んだのは大名旗本などの武士たちでした。江戸時代の後半になると商人職人で町も栄えはじめます。さらに土手の周辺では古着を扱う露店が集まるようになりました。その伝統は明治維新後も引き継がれました。明治14年(1881)、現在の岩本町3丁目の一部から神田岩本町の一部にまたがる大市場が開設されます。「岩本町古着市場」と呼ばれたこの市場には、多いときには400軒もの古着屋が軒を連ねていたと伝わっています。さらに昭和に入ると町内には4階建てのビルまで登場し「和泉橋ダンスホール」が併設されました。このように洒落て小粋な雰囲気を醸していた戦前の岩本町ですが、太平洋戦争末期には空襲によって跡形もなく焼き尽くされてしまいました。それでも戦後この地は「服の町」としてよみがえります。紳士服や婦人服の製造を手がける繊維メーカーが集まってきて、この町でつくられた洋服が全国のデパートのショーウインドーを飾るようになりました。現在、数こそ減ってきましたが岩本町3丁目をささえ町の礎を築いてきたのはこうした繊維業者です。日本の繊維産業とともに発展してきた町それが岩本町3丁目なのです。(千代田区町名由来板)

d0183387_11482926.jpg
お玉ヶ池種痘所
お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さであったのが、安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけです。一時は池のほとりに梁川星巌の玉池吟社、市川寛斎の江湖詩社、大窪詩仏の詩聖堂、東條一堂の瑶池塾、佐久間象山の象山書院、剣士千葉周作の道場玄武館、磯又右衛門の柔道道場、永坂宅、清元太左衛門宅など文武の華が咲きほこりました。この標柱の場所は勘定奉行川路聖謨の屋敷内に設けられたお玉ヶ池種痘所があったところで、東京大学医学部発祥の地です。同学部は昭和33年に迎えた創立百年の記念に昭和36年文化の日お玉ヶ池種痘所記念碑と同時にこゝに元標を立てられました。(お玉ヶ池史蹟保存会)

d0183387_15261551.jpg
繁栄お玉稲荷神社/岩本町
桜ヶ池」と呼ばれた巨大な池に身投げしたお玉の霊を祀る社として「江戸砂子」「江戸惣鹿子名所大全」や「江戸名所図会」などに取り上げられている神社。隣接する小祠は弁天財を祀っている。『新撰東京名所図会』には古くからお玉ヶ池稲荷神社に龍神社と市杵島比売之命が合殿されていると記し、龍神の伝承も記されている。(千代田区観光協会)

d0183387_16101015.jpg
千葉周作玄武館跡・東條一堂の瑶池塾跡/東松下町
『千葉周作はここに玄武館を開いて北辰一刀流の剣術を指南し、その西隣に文政4年(1821)東條一堂は瑶池塾を開いて諸生に儒学と詩文を教授した(千代田区)』の案内板があったんですが、マンションになっていて見当たりませんでした。

d0183387_15441492.jpg
江戸名所図会於玉ヶ池の故事 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用


・・・佐久間河岸(左岸)

d0183387_15561215.jpg
神田川の風景② 蔵地だったようです、橋詰に蔵をあしらったWCがあります/美倉橋

d0183387_15560832.jpg
美倉橋
神田川に架かり左衛門橋から約250m上流にあります。東神田13丁目と神田佐久間町4丁目の間を結び、清洲橋通り上にあります。江戸図を見ると正保年間(16441650)に記載はなく、承応年間(16531655)に「くわんはし」とあり、寛文年間(1670)以降には「あたらしばし」として出ています。神田美倉町はもと佐柄木町・本銀町・紺屋町の蔵地からなり三倉地と呼ばれ、橋の営繕は町の費用で行われていました。明治2年(1869)に三を美に改め町名・橋名にしました。現在の橋は昭和4年(19292月の架設、長さ35.35m、幅23.31mの鋼橋です。別名として、「くわんしんはし」・「あたらしばし」があります。(千代田区観光協会)

d0183387_16203326.png
神田佐久間町
佐久間町の町名は佐久間平八という材木商が住んでいたことに由来すると伝わっています。実際この地域は江戸でも早い時期から商人や職人が集まる町でした。一方でこの地域は火事が多かったことも古文書に記されています。享保3年(1718年)には火災で焼け落ちた町の一部が防火のための火除地に定められ、そこに住んでいた人々は元誓願寺前(現在の神田東松下町周辺)に移動するように命じられます。しかし、町の人々にとって河岸(船荷を上げ下ろしする場所)に隣接したこの地から離れるのは好ましいことではなかったようです。そこで奉行所に願い出てたき火をしないことや建物の間を空けるといった条件つきで火除地の一部の使用許可を得ました。その結果、この界隈は商人や職人たちの町として発展を続け明治維新を迎えています。明治2年(1869)神田佐久間町4丁目元地、神田佐久間町4丁目裏町、そして神田富松町元地が合併し神田佐久間町4丁目となり、明治5年(1872年)には隣接していた武家地を編入しました。明治44年(1911)の町名変更でいったん佐久間町4丁目となりますが昭和22年(1947年)、神田区と麹町区が合併して千代田区となるとふたたび神田佐久間町4丁目となりました。(旧町名案内板)


・・・東神田

d0183387_16080707.jpg
神田川の風景③ 左岸は台東区、なんとなく川の雰囲気が変わってきました/左衛門橋

d0183387_16043415.jpg
左衛門橋
神田川に架かり東神田2丁目と同3丁目の間を結んでいます。もと橋の北側に酒井左衛門尉の屋敷があったことからこの橋名がつきました。明治4年(1871)の「東京大絵図」には記載がなく、明治33年(1900)発行の『新撰東京名所図会』には「長十四間幅三間なり。明治8年(1875)換架(経費1881円)したりしが、爾来25星霜を経、朽損せしを以て目下新設工事中にて……」とあります。現在の橋は昭和5年(19305月の架設、長さ35.5m、幅15.6mの鋼橋です。(千代田区観光協会)

d0183387_16060607.png
東神田3丁目
南に神田川をのぞむ東神田3丁目はかつて神田八名川町(やながわちょう)、神田元久右衛門町、神田餌鳥町(えとりまち)、神田向柳原町一丁目に分かれていました。このうち八名川町という名は江戸時代初期の元和2年(1616年)駿府在城時の徳川家康に奉仕した三河国八名川村出身の旗本22名がこの地に屋敷を与えられたことから付けられました。隣の神田元久右衛門町は同じく元和2年久右衛門という人物が町屋を草創したことに由来するとされています。このあたりは河岸地で材木商、薪炭(しんたん)商が多く住んでいました。一時、火事で深川に移転し、荷揚げに便利なこの地に願い出て戻り焼け跡を蔵地として復興しました。神田餌鳥町は鷹狩の鷹の餌となる小鳥などを飼う仕事を請け負っていた役人の屋敷が、神田餌鳥屋敷と呼ばれていたことからこの名が付きました。また、神田向柳原町は神田川南岸の柳原から見て川向こうであることにちなむ名前です。江戸時代からのこれらの町の名は明治5年(1872年)に正式な町名となりました。向柳原町は浅草区へ編入したのちに一部神田区へ戻り、神田向柳原町一丁目となります。昭和42年(1967)住居表示の実施により町名が大きく変わることになりました。このとき案として出された「秋葉原」や「秋葉」の名前に満足できなかった町の人たちは要望書を提出して「神田」の二文字を残すことにしました。こうして江戸時代から続いていた町名は東神田3丁目という名前に生まれ変わったのです。(町名案内板)


・・・
日本橋馬喰町/中央区(右岸)

日本橋地域の最北端に位置し千代田区(東神田)、台東区(浅草橋)との区境にあたる。日本橋横山町と共に東京都内屈指の問屋街である。(Wikipedia

d0183387_19525845.jpg
街道の風景① 懐かしいですね、日光・奥州街道の見附になります/浅草橋南交差点

江戸通り(6号)

千代田区大手町2丁目から台東区花川戸2丁目に至る道路の通称である。浅草橋交差点より先は隅田川とほぼ平行している。(Wikipedia


d0183387_19545925.jpg
郡代屋敷跡/浅草橋南詰
江戸時代に、主として関東の幕府直轄領年貢の徴収治水領民紛争の処理などを管理した関東郡代役宅があった場所です。関東郡代は天正18年(1590)徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永19年(1642)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(1688-1704)には関東郡代という名称が正式に成立し代々伊奈氏世襲しました。その役宅は初め江戸城の常盤橋門内にありましたが明暦の大火(1657)による焼失後、この地に移り馬喰町郡代屋敷と称されました。寛政4年(1792)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は勘定奉行が関東郡代を兼ねることとなりこの地に居住しました。文化3年(1806)に関東郡代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した後には代官の拝領地となって馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。(中央区教育委員会神田川の風景④ いい風景ですね、柳橋の先に隅田川が覗いてます/浅草橋(江戸通り)

d0183387_20303767.jpg
初音森神社由緒/中央区東日本橋
当神社は元弘年間(1330年頃)に創祀され豊受比売命(宇迦之魂神)を祀る。文明年中太田道灌公により大社殿が建てられた。当時初音之里と呼ばれ奥州街道添い樟木等の生い茂った森、すなわち後の初音の森が現在の馬喰町靖国通り交差点の辺りであった。尚この処を初音の里と称え日本橋四之部、馬喰町、横山町はその中心に位置し、社殿建立によって付近の産土神として信仰をあつめた。天文20年(1551)社前に馬場が出来、初午祭には馬追いの催し等が行われ、天正日記に初音の馬場を当時の博労(馬喰)高木源兵衛預りの記録がある。徳川幕府の入府後、この所が見附番所(浅草見附門)建設にあたり境内地の半分程が削られ、更に明暦3年の大火後、その別当地(神社をお守りする寺:西光寺)も関東郡代屋敷地となり、現在本社(初音森神社)のある墨田区千歳替え地を拝領し遷宮、今日に及ぶ。昭和23年旧蹟の一部であるこの所(現地)に神社を建立し、昭和4812月新殿及び儀式殿を近代建築とした。(説明板)

d0183387_14325873.png
名井三日月の井戸由緒
慶長5年(1600)関が原の戦起るや徳川家康は下野国の小山にいたが急遽引返し、初音の馬場に勢揃し木村常陸之介を代参として初音森神社に戦勝祈願。神井の水にて一息、乗馬にもその水を呑ませて出発、大勝してかえった。後その縁故を以て神井に三日月(みかづき)と命名したと伝えられている。明暦3年(1657)の大火後、神社寺院の境内が幕府の用地に指定され移転する事となり、初音森神社も当時下総国葛飾郡たる現在本社のある墨田区遷宮した。旧跡は一部郡代屋敷、他は町家となり三日月の井戸も町家の庭内となった。江戸時代飲料水は順次水道になったが勿論充分ではなく、用水として井戸を掘っても飲料には不適であるため良水の井戸は有名となり古老の話には三日月の井戸の水は水売り商人が諸々に運んで売ったものだと云う。此の井戸のあった家に、浮世絵師喜多川歌麿紫廼家と名乗り住んでいたが、ある問題で歌麿が罰せられ遂に病死した。その後住んだ染物屋が有名な歌麿の屋号をつけてむらさきやとした。むらさきやは三日月の井戸を使用するにあたり、側に神祠を建て初水を供えて使用したと云う。明治にいたり水道の発達により20年頃井戸は埋められたが井桁に組まれた石の井戸枠は昭和3年の区割整理迄保存されむらさきやが移転に際し先祖よりの伝承を説明し、神祠の神鏡を当社に納めた。その神鏡は今も初音森神社に祀られている。(説明板)

d0183387_18005894.jpg
神田川の風景④ 柳橋の先に隅田川がのぞいています/浅草橋(江戸通り)

d0183387_20072418.jpg
浅草橋
神田川にかかる橋で国道6号(江戸通り)を通す国管理の橋である。その名の通り旧江戸郭内の日本橋と浅草を結ぶ橋であり、かつては浅草寺門前橋浅草橋御門)であった。五街道日光・奥州街道として非常に往来の多い橋梁であった。現在も浅草橋を通る道路は国道6号に指定されており、古今を通じて交通の要所を担っている。Wikipedia

d0183387_20131968.jpg
浅草見附跡碑
浅草見附は江戸36門の中外郭門に配する12見附の一つであり、奥羽への街道口として寛永13年に設営された。慶長年間すでに浅草橋の名があり、見附が廃されたのは明治以前のことである。これに因んで昭和961日現在の浅草橋123丁目の町名が生れた。昭和31101日開都500年大東京祭記念浅草南部有志観光協会之を建てる(碑文)

江戸城三十六見附

江戸城門に置かれた見附(見張り番所)のうちの目ぼしい36か所を挙げたもの。見附とは本来、街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所に由来する言葉で、城門を警護する番兵が通行人を見張る場所のことを言い、とくに枡形をもつ城門の監視場所を指した。俗に江戸城には36見付があったといわれ(江戸城36見附)現在も四谷見附・赤坂見附など地名として残っている。実際には江戸の城門の見張り場所自体はもっと多数あったようだが(6690など諸説あり)枡形門を持つ見附は幕府作事方の資料によると外曲輪に26門あり、内曲輪にいくつあったかは明らかになっていない。語呂の関係から枡形の26門に目ぼしい10門を足して「三十六見附」とし江戸の名所として喧伝されたようである。Wikipedia


・・・浅草橋


台東区の地名で旧浅草区にあたる浅草地域内である。浅草橋1丁目から5丁目まで設けられている。人形やビーズアクセサリー、雑貨、店舗用品等を取り扱う会社・店舗が多く建ち並んでいる。(Wikipedia

d0183387_22393630.jpg
街道の風景② 浅草寺へ向かう江戸通り、賑やかですね/浅草橋駅前

d0183387_22421670.png
旧浅草橋
浅草橋という町は昭和9年(1934)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。江戸幕府は主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永13年(1636)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。(旧町名由来案内板/台東区)

d0183387_23011927.jpg
銀杏岡八幡神社鳥居/浅草橋


d0183387_23015633.jpg
銀杏岡八幡神社
後冷泉天皇の御代
源頼義公、八幡太郎義家公は、朝廷の命に依り奥州の安倍貞任、宗任を平定する為に奥州街道を下向の砌当地に至りました。当時このところは小高い丘で隅田川の流れを一望出来る絶景の地であった。一休止のため陣をとりました時、川上より流れくるものを拾い上げてみますと銀杏の枝でありました。その枝をこの丘の上に差し立て都の氏神を遥かに拝み「朝敵退治のあかつきには枝葉栄ふべし」と祈願し旅立ち安倍一族を平定の後、再びこの地に帰り至りました時丘の上に差した銀杏の枝は大きく繁茂しておりましたので、義家公は御神恩に感謝し、この処に大刀一振を捧げ八幡宮を勧請いたしましたのが、康平5年(1062)当社の始と伝へられています。そしてこの銀杏は大樹となりまして、隅田川を上り下りする舟や街道を行き交う人々のよい目標となりましたが、時代は下り徳川家江戸入府後、元和4年(1618)この地は福井藩松平家の屋敷となり、邸内社として尊崇されてまいりましたが、享保10年(1725)この地が公収され屋敷の跡地は町屋となり同15年、時の町奉行大岡越前守様に依り福井町と命名され願いにより当社は地域の産土神として崇敬されてまいりました。大銀杏は延享2年(1745)9月14日台風のため中程より折れましたが、高さ6m位を残して繁茂しておりましたが、文化3年(1806)江戸大火の折焼失しました。御祭礼は、江戸時代8月15日に執り行われていましたが、明治の中頃より6月15日にかわり、現在は原則として6月第1土曜、日曜に執り行っています。(説明板)

d0183387_15003583.jpg
須賀神社鳥居/浅草橋

d0183387_15005331.jpg
須賀神社
巻子本仕立のものと天正塚碑文というものとあるが内容はだいたい同じである。すなわち推古天皇九辛酉年(601)このあたり(武蔵国豊島郡)に疫病が流行した折、郷人等が牛頭天王に病難平癒を願ったところ、ことごとく快気を得たのでこの所にをたてたのが創始とされる。68日と伝えられる。『求涼雑記』『江戸名所図会』等にも村上天皇の天暦年中(94757)神祠があったことを記している。江戸時代将軍家光の時、松平伊豆守信網公銭を与え賜わり、時の奉行神尾備前守元勝、朝倉石見守在重に命じて造替せしめ寛永16年(1639)りっぱに竣工せりと記している。当社所在地である蔵前は江戸時代「札差」が軒を並べていたところで、当社の氏子にもその札差が多かった。札差とは旗本や御家人の代理として禄米を受けることを業とした、いわば米商人で吉宗将軍のころには109名もが公認されていたといわれている。彼らは武士への金貸しなども行なって富を得、次第に江戸の経済を動かすほどの勢力を持つようになった。それが大の祭り好きで6月の祭礼もその財力を背景にして大いに賑わった。その有様は『江戸名所図会』には4頁にわたって描かれている。また文政の頃(181830)両国吉川町大黒屋平吉の板による新版御祭双六にも出ている。明治以降、天台宗東叡山寛永寺末真鏡山宝現院大円寺から分離して須賀神社と改称した。大正12年関東大震災・昭和20年の戦災被害をうけたが、昭和36年社殿・社務所等建物はことごとく完成した。(東京都神社名鑑)

d0183387_17472730.png
浅草橋周辺マップ
(青:神田川・隅田川 橙:日光・奥州街道 茶:江戸通り・靖国通り)


by Twalking | 2017-05-25 20:47 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-銀杏岡八幡神社   

d0183387_19114080.jpg
阿形

d0183387_19114411.jpg
吽形
新しく奉納(平成4年)されものですが、かなかな愛嬌がありますね。


d0183387_19151315.jpg
その先に一対だけの狛犬、古い方でしょうか。
文化11年(1814年)の奉納??、さすがにどっしりとして重厚です。

銀杏岡八幡神社/台東区浅草橋


by Twalking | 2017-05-24 19:40 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

d0183387_08560144.jpg
アジサイ
愛宕下通り/多摩市愛宕
ひと雨、ほしいね・・・、
ふ~ぅ。

by Twalking | 2017-05-24 09:10 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(5)お茶の水~柳橋01-神田   

日時 2017.5.20(土)
天気 晴れ

暑くなりそうですね~、
いよいよゴールの柳橋を目指します。
駿河台、神田、浅草橋等見所は一杯あります。

距離はありませんが下町はよく知りませんので
ひとまずさわりだけでもと、思っています。
暑いのであまり無理せず歩きます。


・・・御茶ノ水


文京区湯島から千代田区神田に至る千代田区神田駿河台を中心とした一帯の地名(通称)。台地上にあり、中央部を東西に走る掘割に神田川(両区の境界にあたる)が流れ、またJR東日本御茶ノ水駅がある。江戸時代は付近一帯が大名屋敷地であった。現在では地区内と周辺に明治大学、東京医科歯科大学、順天堂大学などの大学や専門学校、予備校が集る日本国内最大の学生街として知られ、また、江戸の総鎮守・神田明神湯島聖堂ニコライ堂等を始めとする宗教施設、有名病院等が多数存在。
古くは北側の本郷台(湯島台)と南側の駿河台が一続きで「神田山」と呼ばれていたが、2代将軍秀忠の時代に水害防止用の神田川放水路と江戸城の外堀を兼ねて東西方向に掘割が作られ、現在のような渓谷風の地形が形成された。同じ頃、その北側にあった高林寺から泉が出て、この水を将軍のお茶用の水として献上したことからこの地が御茶ノ水と呼ばれるようになったといわれる。Wikipedia

d0183387_20072249.jpg
神田川の風景① 神田山を崩して壕割った渓谷です、右が淡路坂、左が相生坂になります/聖橋

d0183387_20165827.jpg
聖橋/本郷通り
神田川に架けられた橋の1つ。千代田区駿河台と文京区湯島にまたがり本郷通り(都道403号)を結んでいる。御茶ノ水駅の東端にある。放物線を描くアーチ橋で形式は鉄筋コンクリートアーチ橋。関東大震災後の震災復興橋梁の1つで昭和21927)に完成した。設計・デザインは山田守、成瀬勝武。名前は東京市(現:東京都)が公募し、両岸に位置する2つの聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことから「聖橋」と命名された。橋は船から見上げた時に最も美しく見えるようにデザインされており御茶ノ水駅のホームからはややそれに近い視点で見ることができる。長さ92.0m、幅22.0m(Wikipedia

d0183387_20173600.jpg
近代教育発祥の地/湯島
江戸時代このあたりは学問(儒学)の府であった聖堂(孔子廟)の一部、昌平坂学問所(昌平黌:しょうへいこう)があったところである。寛政9(1797)学問所の学寮、宿舎が建てられ、旗本や藩士の子弟を対象とした教育が施された。明治維新後、学問所は新政府に引き継がれ昌平学校、大学校、東京大学と発展していった。明治4(1871)に文部省が設置され我が国の近代教育の原点となる施策が展開されることになった。当地には明治5(1872)師範学校(翌年東京師範学校と改称)が開校し、その後隣接地に東京女子師範学校が置かれた。東京高等師範学校は明治36年に大塚窪町に移転し後に東京教育大学(現筑波大学)となり、東京高等女子師範学校は昭和7年に大塚に移転し後に新制大学として発足の折、この場所の地名を冠しお茶ノ水女子大学と称し現在に至っている。(文京区教育委員会)

d0183387_22514318.jpg
駿河台交差点から坂上方向の景観です/本郷通り

本郷通り

千代田区神田錦町および内神田の神田橋交差点から北区滝野川の飛鳥山交差点に至る道路の通称である。文京区本郷を通ることからこの名が付けられた。国道17号線内は中山道、都道455号線内は日光御成街道(岩槻街道)の道筋である。(Wikipedia

d0183387_22462418.jpg
太田姫神社(旧地)/淡路坂上
太田姫神社は江戸城外濠(神田川)を作るにあたり 伊達家と徳川家が神田山を開削した時 江戸城の結界また鬼門の護り神として江戸城内よりこの地に移された 昭和6年(1931)総武線開通に伴い 現在の駿河台下に移る。なお、鉄道(「甲武線」中央線の前身)は堀の中にあり、開通時天皇家との間に「堀幅を減じない」「中で商業を営まない環境を守る」との約束がある(明治期鉄道史より)

d0183387_23090510.jpg
軍艦山/ソラシティ
大正12年(1923)の関東大震災では神田駿河台周辺においても火災により多くの建物が焼失しました。震災後の復興区画整理事業により本郷通りと聖橋が整理され、本郷通りと霊南坂の交差部分には石垣による鋭角の角地ができました。石垣をよく見ると幽霊坂側と本郷通り側では石種や石組が異なるのが分かります。この辺りは「軍艦山」と呼ばれ、特に昭和10年代には子供たちの遊び場となっていました。軍艦山先端の石垣とクスノキは往時のまま残され、岩崎彌之助邸擁壁の煉瓦を再利用したこの歴史案内板や広場のベンチと共に神田駿河台の歴史ある風景を継承しています。(案内板)岩崎彌之助邸跡/ソラシティ

d0183387_23172607.jpg
蜀山人終焉の地/ソラシティ
太田蜀山人は、名は覃(ふかし)、通称直次郎・七左衛門、南畝・四方山人などの号を称しました。寛延2(1749)に江戸の牛込に生まれ、勘定所の役人として支配勘定まで登用され、大坂銅座、長崎奉行所への赴任などの役目を歴任しました。また幼少期から学問を好み、文筆に優れた才能を発揮しました。明和4(1767)に狂詩集「寝惚先生文集」が評判となり、寛政初年までは「万載狂歌集」、洒落本「甲駅新話」を発表し、のちに随筆「半日閑話」、「一話一言」を執筆しました。文化9(1812)に当地に移り住み、文政6(1823)に没するまで過ごしています。(説明板)

d0183387_23181942.jpg
岩崎彌之助は嘉永4(1851)に土佐国で生まれ、明治7(1874)後藤象二郎の長女早苗との結婚を機に、当地の洋館に住みました。明治18(1885)に三菱2代社長に就任し、三菱社を設立して本社を当地に置きました。彌之助は、鉱業、造船を中心に、銀行、保険、倉庫業にも力を注ぎ、経営の多角化を行いました。また丸の内や三崎町の官有地を買い取り、それぞれにオフィス街や繁華街を計画しました。彌之助は文化・芸術を好み、収集した図書を母体として静嘉堂文庫を当地に設立し、東洋固有の文化財の収集を行いました。(説明板)

d0183387_23202940.jpg
幽霊坂
この坂を幽霊坂といいます。もとは紅梅坂と続いていましたが、大正13年(1924)の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれた坂になりました。「東京名所図会」には「紅梅坂は」「往時樹木陰鬱にして、昼尚凄寂たりしを以って俗に幽霊坂と唱えたりしを、今は改めて紅梅坂と称す」とかかれています。また古くは光感寺坂とも埃坂などとも呼ばれていたこともあるようですが一般には幽霊坂の名でとおっています(千代田区)

d0183387_23530584.jpg
ニコライ堂/神田駿河台
このすばらしい聖堂は高さ約34.5m、鐘楼の高さは約37.7m、建坪は約105002あります。ニコライ堂とはこの堂を建てたニコライ大主教の名前をとった呼称で、正しくは日本ハリストス正教会教団東京復活大聖堂といいます。建築の様式はビザンチン式が基本で、壁が厚く窓が小さく中央にドームがあり外からみると壮大で堅牢です。細かい部分にイギリスのロマネスク風やルネッサンス式が巧みに取り入れられているのは、イギリス人のジョサイア・コンドルが工事監督にあたったからでしょうか。そもそもこの大聖堂が建てられた駿河台の場所は、江戸時代は定火消屋敷跡で火の見櫓が高くそびえており、ニコライがはじめて明治5(1872)に東京に来たい際、この地に大聖堂と心に決めた所でロシア国公使館の付属地でもありました。最初の大聖堂はロシア人・シュチュールボフの基本設計、コンドルの監督設計、長野泰輔の工事責任で、明治17(1884)に工事が始まり約7年かかって明治24年(1891)に完成しました。(千代田区観光協会)

d0183387_23552639.jpg
太田姫稲荷神社鳥居/駿河台道灌通り

d0183387_23562419.jpg
太田姫稲荷神社
千代田区にある神社である。旧社格は村社。社伝によると室町時代中期に太田道灌の娘が天然痘(疱瘡)に罹って生死の境をさまよい、京都の一口稲荷神社(いもあらいいなり)が小野篁にまつわる縁起により天然痘に霊験があると聞いた道灌が一口稲荷神社に娘の回復を祈願したところ、天然痘が治癒したという。道灌はこのことに感謝し、長禄元年(1457)に一口稲荷神社を勧請して旧江戸城内に稲荷神社を築いたとされる。後に城内鬼門に祀られた。徳川家康江戸入府後、慶長11年(1606)に江戸城の改築により、城外鬼門にあたる神田川のほとり(南側・右岸)(現在の千代田区神田駿河台4丁目、後に架けられた聖橋南詰の東側)に遷座した。明治5年(1872)村社に定められ名も太田姫稲荷神社と改めた。大正12年(1923)の関東大震災では社殿が焼失、湯島天神に避難したが昭和3年(1928)に再建された。昭和6年(1931)に御茶ノ水駅の総武線拡張により現在地遷座した。淡路坂上の旧社所在地で御茶ノ水駅臨時改札口脇に残された椋の木には元宮を示す木札と神札が貼られている。Wikipedia


・・・神田

1947
年に神田区が麹町区と合併し千代田区が発足する際、神田区内の町名にはすべて「神田」を冠称する町名変更がなされた.元は現在の大手町の平将門首塚付近から神田山(駿河台)にかけての一帯を指したが、江戸城・城下下町整備後には常盤橋から浅草橋にかけての奥州往還沿いに成立した本町通り北側地域を指すようになった。江戸時代後期には幕府が武芸修練所として現在の小川町に設置した講武所や、北辰一刀流の玄武館などの剣術道場があった。伝馬町牢屋敷も置かれ安政の大獄では多くの人物が処刑された。Wikipedia

d0183387_00144760.jpg
今回は淡路坂(右岸)を昌平橋へ下ってみました/駿河台

d0183387_00172710.jpg
淡路坂
この坂を淡路坂といいます。この坂には相生坂、大坂、一口坂(いもあらいざか)などの別名もあります。坂上に太田姫稲荷、道をはさんで鈴木淡路守の屋敷がありこれが町名・坂名の由来といわれます。一口坂太田姫稲荷が一口稲荷(いもあらいいなり)と称したためです(標柱)

神田淡路町(右岸)

代田区の北部に位置し神田地域に属する。主に商業地として利用される。江戸時代は武家地だった。1872年(明治5年)神田淡路町12丁目が起立する。1911年(明治44年)に神田の冠称を外したが1947年(昭和22年)に神田区が千代田区に合併すると同時に冠称を復した。地名は淡路坂に由来する。淡路坂は江戸前期に坂上西側に鈴木淡路守の屋敷が存在したことに由来し一口坂(いもあらいざか)相生坂とも呼ばれた。一口坂は坂上東側にあった太田姫稲荷神社旧称に由来する。相生坂とは本来神田川を挟んで並行する坂との総称だが、現在ではそちらの坂のみを相生坂と称する。(Wikipedia

d0183387_12085592.jpg
街道の風景① 昌平橋を挟み昌平橋架道橋(手前)松住町架道橋と歴代の鉄道橋が架かります/淡路坂下(外濠通り)

昌平橋架道橋
千代田区神田須田町1丁目・神田淡路町2丁目にある鉄道経(架道橋)、JR東日本中央本線を通している。中央本線が昌平橋駅から万世橋駅まで延長された際、昌平橋駅-万世橋駅間(紅梅河岸高架橋-万世橋高架橋間)の一等道路第二類の道路(現在の外濠通り)に架けられた橋梁である。橋長:44.2m 線数:複線(3線)竣工:1908年(明治41年)(Wikipedia

d0183387_12312515.jpg
神田川の風景② 上流側にはお馴染みの総武線神田川橋梁が架かります/昌平橋


神田川橋梁

千代田区外神田1丁目・神田淡路町2丁目にある鉄道橋、JR総武線が御茶ノ水駅まで延長された際、御茶ノ水駅-秋葉原駅間の神田川に架けられた橋梁である。橋脚は八の字形のラーメン形式であるのが特徴である。本橋梁の御茶ノ水方はコンクリート製橋台が中央線上り線を跨ぐ形となっている。秋葉原方はコンクリート製橋台を挟んで松住架道橋へと繋がる。橋長:56.0m 線数:単線×2 竣工:1932年(昭和7年)(Wikipedia


d0183387_12375801.jpg
神田川の風景③ 下流側は万世橋&秋葉原、右岸は旧万世橋駅跡(現マーチエキュート神田万世橋)になります/昌平橋


d0183387_12422843.jpg
昌平橋
外濠通り上にあり上流側・下流側に歩行者用の橋が併設されている。橋の北は千代田区外神田1丁目・同2丁目、南は千代田区神田淡路町2丁目・神田須田町1丁目で、北側の総武本線松住町架道橋・南側の中央本線昌平橋架道橋(昌平橋ガード)に挟まれた場所にある。この地に最初に橋が架設されたのは寛永年間1624 -1645)と伝えられており、橋の南西にある淡路坂の坂上に一口稲荷社(いもあらいいなりしゃ、現在の太田姫稲荷神社)があったことから「一口橋」や「芋洗橋」(いずれも「いもあらいばし」と読む)と称した。また『新板江戸大絵図』(寛文五枚図)には「あたらし橋(新し橋)」、元禄初期の江戸図には「相生橋」とも記されている。1691年(元禄4年)に徳川綱吉が孔子廟である湯島聖堂を建設した際、孔子生誕地である魯国の昌平郷にちなんで同年22日(169131日)に「昌平橋」と命名された。Wikipedia

d0183387_13110493.jpg
神田川の風景④ この一帯がハつ小路、筋違い見付があった所です/神田須田町

神田須田町(右岸)

千代田区の北東部にある地区。かつては中央線の前身甲武鉄道の始発駅万世橋駅や青物市場があったところで、明治・大正期は一都心部を形成して繁栄。その後、1936年に万世橋駅は廃止となり、駅舎跡には交通博物館が建てられた。青物市場も関東大震災後は外神田、さらに大田区に移転。江戸時代の柳原土手の古着市の伝統を受継ぎ服地、洋服付属品の問屋が多く卸売えい商業が盛んである。(コトバンク)

d0183387_13194506.png
御成道/マーチエキュート神田万世橋
「御府内備考」に「御成道、筋違外(すじかいそと)広小路の東より上野広小路に至るの道をいう」とあります。筋違は筋違御門のあった所で、現在の昌平橋の下流50mの所あたりに見付橋が架かっていました。御成道の名は将軍が上野の寛永寺に参墓のため、江戸城から神田橋(神田御門)を渡りこの道を通って行ったからです。見附内の広場は八つ小路といって江戸で最も賑やかな場所で明治時代まで続きました。八つ小路といわれたのは筋違、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、小柳町(須田町)、柳原の各口に通じていたからだといわれます。また、御成道の道筋には武家屋敷が多くありました。江戸時代筋違の橋の北詰めに高砂屋という料理屋があり庭の松が評判であったといいます。明治時代には御成道の京屋の大時計は人の眼をひいたようです。また代々餅で売出した有名な店もありました。(千代田区)
(青:神田川 紫:御成道 橙:中山道 緑:八つ小路 赤:筋違い御門・筋違い橋・昌平橋)

d0183387_13595155.jpg
江戸名所図会 筋違ハツ小路 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
左が筋違い御門・筋違い橋、右手が昌平橋になります。万世橋が架けられたのは後の時代です。

中山道(湯島聖堂・神田明神)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/21114882/

d0183387_21520228.jpg

d0183387_23182865.jpg
旧万世橋駅(右)
かつて中央線の神田~御茶ノ水間に明治451912)年に開業した「万世橋駅」がありました。昭和18年に休止になりましたが、赤レンガの万世橋高架橋の中にホームや階段など駅の施設が一部残っていました。「旧万世橋駅」はこれら駅の遺構を再生し歴史的価値ある遺構を随所にご覧いただける施設です。開業当時の姿をほぼ留めた「1912階段」や交通博物館開館時に設けられた「1935階段」をはじめとする遺構を公開するほか、旧万世橋駅時代のプラットホームにデッキを設けた“2013プラットホームにはフリースペースやカフェがあります。このほかにも万世橋駅の足跡を今に伝える展示も実施しています。(東日本鉄道文化財団)


d0183387_13544161.png
万世橋と神田祭
外神田にある神田明神平将門を祀った江戸の総鎮守として、古代以来柴崎村(神田橋内)に鎮座していたが、江戸城築城にあたり慶長8年(1603)に神田駿河台、元和2年(1616)に現在地に移った。江戸時代の神田祭は山王権現の山王祭とともに「天下祭」と呼ばれ、将軍が上覧、神幸行列が江戸城内に入ることを許された祭礼である。山王祭と神田祭は隔年で執行され、各所が自前の山車と神輿を仕立てた行列が町を練り歩くので、祭礼番付とよばれたパンフレットが毎年作られるなど各所化されていった。神田祭は915日に庶民の祭礼として執り行われ雉子町の名主である斉藤月琴(げっしん)が著した「江戸名所図会」や「東都歳時記」によれば贅を尽くした練り物が町中に練り歩き、人々は桟敷を造って見物したとある。明治時代の「新撰東京名所図会」によれば明治17年神田祭は40余りの山車が八辻(筋違八小路)に集合し、万世橋を渡り聖堂前より師範学校前を経て神田神社に向ったとある。電線の設置など都市の近代化によって明治期以降、山車行列が難しくなり巡行が少なくなっていく。(説明板)

d0183387_14512082.jpg
神田川の風景⑤ 上流側の昌平橋方向の景観です/万世橋

d0183387_14354189.jpg
万世橋
中央通り(国道17号)上にある。万世橋の歴史は1676年(延宝4年)に架けられた筋違橋に遡る。当橋は徳川将軍が寛永寺に詣でる時に渡る橋で、現在の昌平橋と万世橋との中間にあった。すぐ南に筋違見附があり、橋はその見附の付属物であった。1872年(明治5年)に筋違見附が取り壊され、翌1873年(明治6年)にその石材を再利用して、筋違橋の場所にアーチ2連の石造りの橋が完成した。当時の東京府知事大久保忠寛が萬世橋(よろずよばし)と命名したが、次第にまんせいばしという音読みが一般化した。眼鏡橋とも呼ばれた。上流の昌平橋1873年に洪水に流され1896年(明治29年)に復旧されるまでは、現在の万世橋の位置に仮木橋が架けられ、それが昌平橋と呼ばれた。この期間は万世橋の下流に昌平橋があったことになる。1903年(明治36年)一時昌平橋と呼ばれた仮木橋の場所(現在の位置)に新万世橋が架け直され、元万世橋と名を変えた上流の眼鏡橋は1906年(明治39年)に撤去された。新万世橋は1923年(大正12年)の関東大震災で被災したが、直ちに修復された。(Wikipedia

d0183387_14411396.png
震災復興と万世橋
明治5年(1872)に筋違見附が取り壊され、翌年その石材を再利用して筋違橋の場所にアーチ2連の石造りの橋が完成した。この橋は当時の東京府知事・大久保忠寛が萬世橋(よろずはし)と命名したが、次第に「まんせいばし」という音読みの方が一般化した。さらに明治29年(1896)に万世橋東側木橋を架けて馬場鉄道が開通する。明治361903)に現在の位置に新しい万世橋が架け直され、元万世橋と名前を変えた上流の眼鏡橋の方は後に撤去された。この元万世橋には路面電車が走るなど東京の名所となったが、大正12年(1923)の関東大震災で被災し、昭和5年(1930)に長さ26m、幅36m、石及びコンクリート混成のアイーチ橋に架け替えられた。現在神田川に架けられている橋の多くは震災復興橋梁と呼ばれる大正末年から昭和初期に架け替えられたもので、各橋は地域性を踏まえたデザインで造られたという。トラスドアーチ橋の聖橋、鋼ラーメンゲルバー桁橋のお茶の水橋、ヒンジアーチ橋の和泉橋と美倉橋など神田川にある震災復興橋梁は様々な構造で造られ、親柱や欄干にデザインに特徴を見出すことができる。(説明板)

d0183387_14473759.jpg
神田旅籠町/万世橋
この周辺はかつて神田旅籠町と呼ばれていました。昌平橋北側に当たるこの地は中山道の第一宿場である板橋宿日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として旅籠が数多く立ち並んでいたため「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。江戸幕府は五街道のなかでも遠く京都に通じる東海道と中山道の整備に特に力を入れていました。

d0183387_22025179.png
また、日光御成街道は将軍日光参拝の際必ず通った街道で現在の国道122号にほぼ相当します。こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。しかし、天和2(1682)に江戸で大火事が起こります。浄瑠璃や歌舞伎でも有名な「八百屋お七」の大樋です。もともとあった旅籠町はこの火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸跡地に替地を与えられました。そして元禄7(1694)には浅草御門の普請のため、馬喰町・柳原(やないはら)周辺の町が代地を与えられ移転しています。これを機に旅籠町にも1丁目と2丁目ができました。さらに明治2(1869)昌平橋と筋違橋の北側にあった幕府講武所付町屋敷が神田旅籠町3丁目と改称されました。さて、旅籠町の由来となった旅籠ですが幕末のころにはほとんど姿を消しています。『諸問屋名前帳』によれば嘉永(1848~1854)のころまで残っていた旅籠はわずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えていたことがわかります。街道筋の宿場町として誕生した旅籠町はその後、活気あふれる商人の町として生長をとげたのです。(千代田区町名由来板)

d0183387_14253794.jpg
街道の風景② 万世橋を渡ると秋葉原、賑やかな街です/万世橋(中央通り)

d0183387_15062955.jpg
秋葉原(左岸)
東京都の千代田区と台東区にまたがる地名。JR秋葉原駅周辺の外神田134丁目、神田佐久間町12丁目一帯を指す。1869(明治2)12月の火災以後、火よけ地を置き70年に秋葉神社をまつり秋葉ヶ原と称したことに由来する。かつては〈あきばはら〉と呼ばれていたが、駅名の〈あきはばら〉の方が一般化した。神田川北岸に位置し江戸時代から町屋(商店街)として発達してきた。JR山手・京浜東北両線と総武線が交差し、貨物駅もあり、また駅に隣接してあった東京中央卸売市場神田分場は1989年、大田区東海の東京卸売市場大田市場(386000m2)が開設されて移転した(コトバンク)

d0183387_15305743.jpg
神田川の風景⑥ 新幹線を潜ると柳森神社があります/神田ふれあい橋

d0183387_15321628.jpg
神田ふれあい橋
神田川に架かりJR東北新幹線のすぐ東側にあります。同新幹線の工事用の橋でしたが、地元の要望により工事完了後も撤去しないで平成元年(19894月から歩道橋として供用されています。神田須田町2丁目と神田佐久間町1丁目を結んでいます。それまで遠回りしなければ行き来できなかった両地区の住民が直接往来できることになったので親しみをこめて「神田ふれあい橋」と命名されました。長さ48.6m、幅2.6mの鋼橋です。(千代田区観光協会)

d0183387_15440585.jpg
柳森神社鳥居/神田須田町(右岸)

d0183387_15441758.jpg
柳森神社
祭神:倉稲魂大神 境内社:倉稲魂大神
今を去る500余年の昔、この東京が武蔵野の原と称し足利時代の頃長禄2年(1457太田道灌公江戸築城の時、その東北方即ち此所に城郭鎮護鬼門除けとして京都伏見稲荷大明神を勧請して御祀り申し上げ、神田川土堤一帯柳の木を多数植え繁茂したるに依り、柳原の名と共に柳森神社の起源となった。其の後、江戸城を中心に年を追って江戸八百八町は繁栄しこの柳森神社も商売繁盛の神として非常に賑わいを極めたのである。元禄と文政の頃には徳川家より社殿造営の寄進があり、其の造営物は大正129月の関東大震災にて惜しくも烏有に帰した。尚其頃迄には柳町・小柳町・元柳町向柳町・柳原河岸などと柳に因んだ町名のあったことも此の柳の森より起因したものである。昭和30年が当神社創建500年祭に相当するので、崇敬者の発願に依って祈念事業として此の神楽殿を建立し、同年515日楽慶大祭を執行した次第である。例大祭は毎年51415日。昭和365月吉日(境内説明板)

d0183387_15490798.jpg
d0183387_15492205.jpg
おたぬきさん・福寿神御由来
江戸開府以来、年と共に諸制度も完備して漸く泰平の世を迎えた5代将軍綱吉公の御代、将軍のご生母桂昌院によって江戸城内に福寿いなりとして創建された。桂昌院は京都堀川の生まれ、八百屋の娘が春日局に見込まれて3代将軍徳川家光の側室となり5代将軍徳川家綱吉の生母となる。大奥の御女中衆は他を抜いて(たぬき)玉の輿に乗った院の幸運にあやかりたいと、こぞって「おたぬきさま」を崇拝したという。後世、元倉前甚内橋際・向柳原の旗本・瓦林邸内に祠を移し祭祀される様になり、明治2年現在の柳森神社に合祀されました。開運、諸願成就の福寿神として殊に近年は他を抜いて受験、勝運、出世運、金運向上などにご利益があると信奉されております。なお当社において頒与する〝おたぬきさん〟と呼ばれる土製の親子狸のお守りは素朴で大変に愛されております。(説明板)



d0183387_15514331.jpg
富士講関係石碑群
柳森神社は延宝8年(1680)に駿河富士宮浅間神社から分祠した富士浅間神社を相殿・合祠しました。また『東都歳時記』には天保期(18301844)頃の「富士参」の例として柳森神社が上げられています。これらのことから柳森神社は富士講に関わりが深い神社であり、富士塚なども境内に築かれていたと思われています。この塚が明治時代以降何らか理由で一度廃れてしまい、これに対して昭和5年に周辺の富士講によりあらたに富士塚が再建されました。本件の石碑群はこの時再建された富士塚の周辺に移設あるいは設置されたと思われます。しかし戦後には富士講そのものが廃れてしまい、昭和35年に富士塚は破却されました。この際、余った黒ぼくの石を境内の東南隅に積み上げて小山と築きこの周辺に富士講石碑群を設置し直しました。こうして石碑だけが富士講の信仰の痕跡として残されることとなりました。

d0183387_15541380.jpg
各石碑の名称/制作年代/寸法(高××厚、単位cm)/作製者は以下の通りです。①北富士分教会の碑/昭和5年(193011月改築/83.5×79.4×7.5/不詳 ②神田八講の碑/大正14年(19256月再建/141.5×67.5/13.4/神田八講③北口神田講社の碑/昭和5年(193061/139.5×64.2×12.7/山京講④小御嶽大神の碑/(年代不詳)/61.0×35.0×./不詳富士講とは浅間信仰の信者が組織した講であり、夏季に富士山に登山して祈願・修行をしました。江戸時代、特に町民・農民の間で流行し、江戸にあっては沢山の講社が組織され俗に「江戸八百八講」などとも称されます。これらの講社の内から、居ながらにして富士登山が出来る様に富士山とその山内の修行場などを模した塚を築くことが行われるようになりました。この様な塚が富士塚です。富士講の信仰は江戸時代においては幕府の度重なる禁令に抗うかのように隆盛しましたが、明治以降の交通の発達、特に東海道線の開通による登山道、登山方法の変化や、入山に際しての女人禁制の撤廃による登山のあり様そのものの変化の中で、徐々に富士講は数を減らし始め、第二次世界大戦前後には多くの講社が姿を消していきました。したがって富士塚の幾つかも徐々に破却されていきました。都内では現在50前後の富士塚が現存するばかりですが、台東区の「下谷坂本の富士塚」(台東区)豊島区の「豊島長崎の富士塚」練馬区の「江古田の富士塚」は国の有形民俗文化財に指定されているなど、幾つかは文化財として保護されはじめています。「富士講関係石碑群」は江戸時代以降、昭和初期まで当地域に存在した富士講に関わる記念碑であり、千代田区内とその周辺におけるこの時代の信仰の一端を示してくれる貴重な資料です。(千代田区教育委員会)

d0183387_15562920.jpg
力石
「力石」とは一定重量の大小の円形または楕円形の石で、若者達が力試しに用いたと記録されている。古来、わが国民間信仰では石にかかわる信仰は多い。また「力石」に於ける伝承の一つとして「道切」説もあるが、「巨人伝説の大草鞋」同様と考えられる。しかしこれらは石神等に関する伝承の変化であって、昔は村々に疫病の侵入を防ぐための神であり、呪い等であったようである。(疫病は道を伝って来ると信じられていた。)この境内にある「力石」は大正年間(19121926)、当時この道の力士として有名であった神田徳三こと飯田徳三とその一派が使っていた力石の一部と伝える。なお、江戸後期に素人の力持ち仲間で有名な者に、神田明神下の酒屋で内田屋金蔵、神田鎌倉河岸豊島屋の徳治()郎の二人が共に大関格であったとの記録がある。これ等「力石」は江戸・東京の若者たちの生活と娯楽等の一端を知るうえで貴重な資料である。(千代田区教育委員会)

d0183387_16131200.jpg
神田川の風景⑦ 昔は左岸が佐久間河岸、右岸は柳原堤が続いてました/神田ふれあい橋

d0183387_20032761.png
御茶ノ水駅周辺マップ(青:神田川 橙:中山道 紫:御成街道)

by Twalking | 2017-05-23 23:19 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 竹林の径   

d0183387_10231590.jpg

竹林の径
鶴牧西公園/多摩市鶴牧
竹林にす~と風が抜けて
心地いい午後のひと時
自然のすだれに感謝。

by Twalking | 2017-05-23 10:40 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 御茶ノ水駅   

d0183387_19500289.jpg

中央線御茶ノ水駅
千代田区神田駿河台
狭い渓谷にあるので神田川に構台を作り
全ての作業はここから行うとか、
長い工事ですね~、お疲れさまです。


御茶ノ水駅
千代田区と文京区にあるJR東日本・東京メトロ(丸ノ内線)の駅である。JR東日本の駅は当駅の所属線である中央本線と、当駅を終点とする総武本線(支線)との分岐駅となっている。中央本線の当駅以西(新宿方面)は急行線(快速線)と緩行線との複々線区間である。急行線には東京駅発着の中央線快速電車が、緩行線には総武本線(錦糸町駅方面)と直通運転を行っている中央・総武各駅停車が乗り入れる。(Wikipedia

by Twalking | 2017-05-22 20:26 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 黄菖蒲   

d0183387_09210875.jpg
黄菖蒲
谷戸の木陰に
涼しげに
目に優しいですね、ありがとう~。


キショウブ
(黄菖蒲)
アヤメ科アヤメ属の多年草。花茎の高さは60-100 cmになる。葉は幅2-3 cm、長さ60-100 cm、剣形で中脈が隆起し明瞭で縁は全縁。花期は5-6月でアヤメやハナショウブと同じ、外花被片が大型の広卵形で先が下に垂れ、内花被片が小型で直立した黄色の花を咲かせる。外花被片の中央に茶色がかった模様がある。和名は花が黄色であることに由来し、班入葉や八重咲きなどの園芸種がある。(Wikipedia

by Twalking | 2017-05-22 09:28 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夕陽   

d0183387_21184126.jpg
夕陽
鶴牧西公園/多摩市鶴牧
暑かったですね・・・
まだその余韻を残しつつ
静かに暮れていきます。

by Twalking | 2017-05-21 21:28 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狐さん-銀杏岡八幡神社   

d0183387_10415286.jpg

銀杏岡八幡神社
台東区浅草橋
「え~い」
「う~ん、まだまだ」
灯籠を挟んで力くらべかな・・・。

by Twalking | 2017-05-21 10:45 | ○石像&モニュメント