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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ゲンペイカズラ   

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ゲンペイカズラ
多摩市グリーンライブセンター/多摩中央公園
白い萼と赤い花
すっと伸びた4本の雄蘂
目立ちますね~、美しい。


ゲンペイクサギ

シソ科の蔓性低木。花が美しいために栽培される。常緑、蔓性の低木で高さは4mまでになる。葉は対生して長卵形で先は尖り縁には鋸歯はない。葉の表面では主脈が窪んでいる。書架に枝先に円錐花序を出す。萼は白くて鐘状をなし、大きく5つに裂けるが先端は互いに寄り合って閉じる。花冠は濃赤色、花筒は萼から伸び出して長さ2cmほど、その先端で5裂して大きく開く。雄蘂は4本あり花柱と共に花冠から伸び出している。和名は花冠の赤と萼の白がひどく目立つ対称をなす事により、源平クサギと名付けられた。別名にゲンペイカズラもある。(Wikipedia


by Twalking | 2017-06-30 10:33 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 フクシア?   

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品川区高輪
フクシアでしょうか???
可愛い花ですね・・・
ありがとう~!

by Twalking | 2017-06-29 21:10 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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関屋の切通
布田道/町田市小野路町
いい切通ですね~
いつきてもわくわくする下り道です。

by Twalking | 2017-06-29 19:26 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ツキヌキニンドウ   

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愛宕下通り/多摩市愛宕
晴れたら
でかけよっと
ね、にんどうくん。

by Twalking | 2017-06-28 13:40 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 お地蔵さん-浄光明寺   

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浄光明寺/鎌倉市扇ヶ谷
やさしいお顔ですね・・・
「冷泉為相墓」への上り口に
たってってらっしゃいました。


by Twalking | 2017-06-27 19:19 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ドクダミ   

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ドクダミ
愛宕下通り/多摩市愛宕
かわいい花なんですが
臭気がちょっとね~・・・
でしょうか。


ドクダミ
(蕺草)
ドクダミ科ドクダミ属の多年草。古くは之布岐(シブキ)と呼ばれていた。どくだみの名称は「毒矯み」(毒を抑える)から来ている。住宅周辺や道ばたなどに自生し、特に半日陰地を好む。全草に強い臭気がある。開花期は57月頃。茎頂に4枚の白色の総苞(花弁に見える部分)のある棒状の花序に淡黄色の小花を密生させる(総苞は実質イミテーション)。本来の花には花弁も萼(がく)もなく雌蕊と雄蕊のみからなる。繁殖力が高くちぎれた地下茎からでも繁殖する。(Wikipedia

by Twalking | 2017-06-27 15:08 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-梶原御霊神社   

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阿形

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吽形

梶原御霊神社/鎌倉市梶原
「獅子に牡丹」でしょうか
年代は分かりませんが、比較的新しそうですね?


獅子に牡丹
堂々たる獅子の姿に、華麗な牡丹の花を配した図柄。取り合わせのよいもののたとえ。(コトバンク)

獅子身中の虫

獅子の体内に寄生して、ついには獅子を死に至らせる虫の意
1 仏徒でありながら仏法に害をなす者。
2組織などの内部にいながら害をなす者や、恩をあだで返す者。(コトバンク)



by Twalking | 2017-06-26 13:15 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷②   

日時 2017.6.20(火)
天気 晴れ

府中から鎌倉まで歩こうと思ったのは大分前です。
「歩く」ことが目的でしたが、段々と「歴史」や
「地形」「街」など、興味が広がっていきました。

歩き直しもありましたので時間がかかりましたが、
鎌倉の地を踏みましたので、一応、一区切りです。
まだ、もやもやと錯綜していますが、長い歴史、
少しづつ、といったところでしょうか。


・・・扇ヶ谷
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街道の風景① 扇ヶ谷ガードに戻り、街道を英勝寺へ向かいます

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智岸寺稲荷
稲荷神社について
世にお稲荷様と申上げている稲荷神社は倉稲魂神をお祭りしたもので今から約1300年の昔、和銅4年の2月の初午の日に京都の伏見に稲荷神社が鎮座したのが始まりです。この神は稲がなるイナリの別名が示すように五穀の生育やすべての産業を育成する広大な御神徳のある神ですから、あるゆる人々の信仰をうけ全国各地の神社や邸内に祭られています。鎌倉で由緒ある稲荷は隠里稲荷で、鎌倉風土記によると源頼朝が伊豆の蛭が島にいたとき病の床につき三晩続けて同じ白ひげの老人の夢を見ました。その老人の言うとおりに薬を飲みますと病はなおりこれが縁で幕府を開くことが出来たということです。この白ひげ老人が隠里稲荷の化身であったということです。お稲荷様は大切にお祭りしましょう。(英勝寺)

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阿仏尼卵塔

十六夜日記の作者・阿仏尼と伝えられる。もともと英勝寺境内だが、現在は英勝寺の塀を北鎌倉方面に越えた崖下のやぐらにある。なお、阿仏尼の息子である冷泉為相の墓も近隣の浄光明寺境内にある。(Wikipedia
卵塔:台座上に卵形の塔身をのせた墓石。禅僧の墓石に多く用いられる。無縫塔。

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阿仏尼(あぶつに)
鎌倉時代中期の女流歌人。桓武平氏大掾氏(だいじょうし・中世常陸国に勢力を持った一族で、常陸平氏の嫡流であり多くの緒家を輩出した)安嘉門院に仕え、出仕中10代で初恋の失恋の失意から出家を決意し尼となったが、その後も世俗との関わりを持ち続けた。30歳頃藤原為家の側室となり冷泉為相(ためすけ)らを産む。為家の没後、播磨国細川荘(現兵庫県三木市)の相続をめぐり、正妻の子二条為氏と争い1279年(弘安2年)幕府に訴えるため鎌倉へ下った。このときの紀行と鎌倉滞在のことを記したのが『十六夜日記』である。訴訟の結果がわかる前に鎌倉で没したという説と、京都へ帰った後に没したとの説がある。鎌倉市扇ヶ谷に伝・阿仏尼の墓が残る。(Wikipedia

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英勝寺の入口はこちらです

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英勝寺/扇ガ谷
英勝寺扇ガ谷にある浄土宗の寺院であり、現在鎌倉唯一の尼寺である。山号は東光山。寺域は開基英勝寺尼の祖先であり、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌邸跡地とされる。徳川家康側室大田道潅四代の大田康資・息女とされるお勝の方は、家康との間に生まれた市姫が幼くして亡くなった後、家康の命により後に初代水戸藩主となった徳川頼房の養母を務めた。家康の死後は落飾して英勝院と称したがその後、3代将軍家光より父祖の地である扇ガ谷の地を賜り英勝寺創建した。創建にあたっては徳川頼房娘・小良姫7歳の時に玉峯清因と名付け得度させこれを門主に迎え開山とした。英勝院尼は寛永19年(1642)没し、英勝寺裏山に葬られた。

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寛永14年(または15年)に寺領朱印地として池子村(現逗子市池子)420石を与えられたほか、裏山にあたる源氏山(旗立山)も与えられている。創建の経緯からその後も代々の住持水戸家の姫が務めこのため英勝寺は「水戸御殿」や「水戸の尼寺」とも呼ばれた。高貴な姫である住持は人前に出ることはなく、折々の法要は芝増上寺や鎌倉材木座光明寺の僧が勤めていたという。しかし明治維新を機に水戸家からの住持は絶え寺勢は衰えた。その後、明治28年(1895)に松平家より住持を迎え、さらに大正8年(1919)以降は東京青山善光寺より住職を招請し今日に至る。仏殿、山門、鐘楼は寛永20年(1643年)の建立。祠堂、祠堂門も同じ頃の建立と推定される。各建物は本格的な禅宗様になり、仏殿、山門、鐘楼は屋根を反りのない直線で構成する点に共通点がみられるWikipedia

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山門

三間一戸二重門。屋根は入母屋造、瓦棒銅板葺き。上層には釈迦如来と十六羅漢像を安置する。英勝院尼一周忌の直前に、水戸光圀の兄である高松藩主松平頼重により造営され、「奉敬立相州英勝寺山門 従四位下侍従源頼重朝臣」の棟札を持つ。関東大震災後売却され鎌倉市小町の私有地に移築されたが、2011年、旧部材を用いて復興された。国の重要文化財Wikipedia

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仏殿
方三間、裳階付の禅宗様仏堂。屋根は寄棟造、瓦棒銅板葺き。棟札には寛永13年(1636年)に英勝院が建立とあるが、殿内梁牌には「寛永208月 正三位権中納言源朝臣頼房敬立」の銘があり、当初英勝院が建立しこれを徳川頼房が現在の形に改築したものと考えられる。扁額は後陽成天皇の弟である曼殊院良恕法親王の揮毫。粽(ちまき)付きの円柱、貫(ぬき)の多用、詰組の組物、桟唐戸、花頭窓、石敷きの床など本格的な禅宗様になる。ただし、屋根の隅棟や軒先の線に反りがなく、屋根の形を直線のみで構成するのは独特の意匠である。軒下の蟇股は十二支の彫刻で飾る。堂内は身舎小壁に瑞鳥、天井に迦陵頻伽の彩絵を施すほか、水戸徳川家の三つ葉葵、太田家の桔梗などの装飾が施されている。国の重要文化財Wikipedia

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祠堂門(唐門)
平唐門、銅瓦葺き。祠堂に至る石段下の小門で、祠堂と共に建てられたと考えられる。欄間には精巧な牡丹等の透彫りが施されている。国の重要文化財Wikipedia


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鐘楼
入母屋造、瓦棒銅板葺き。近世の鎌倉では唯一とされる袴腰形式の鐘楼で、梵鐘は寛永20年の林羅山撰文の銘を持つ。国の重要文化財Wikipedia




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太田道灌邸旧蹟/英勝寺前
此の地は武略(軍略)文藻(文才)兼備へ忝(かたじけな)くも 武蔵野は萱原(かやはら)の野と聞きしかどかかる言葉の花もあるかな テフ(と言う)叡感(天皇の感歎)にさえ預りたる道 灌太田持資(もちすけ)江戸築城前邸址なり  寛永11(1634)今の英勝寺と為る 其の創立者水戸藩祖頼房(ともふさ)の准母(内親王)英勝院は道灌の嫡流太田康資の女なるより 晩年将軍家光より特に此の地を授りて之に住するに至れるなり  孤鞍(単騎)雨を衝()いて茅茨(ぼうし:茅葺家屋)を叩く少女為に遣()る花一枝 の詩趣ある逸話は道灌が壮年猶此に在りし日に於て演ぜられし所のものなり(鎌倉町青年会)

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街道の風景② 中央を横須賀線が通ります、左が英勝寺、右が扇ヶ谷上杉邸跡です


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庚申塔群/寿福寺入口


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源氏山/寿福寺入口
源氏山は初め「武庫山」と云ひ、亀ヶ谷の中央にある景勝の地なるをもってまた「亀谷山」とも称せり。源頼義・義家父子、奥州征伐の時、この山に旗を立てたるより、あるいは「旗立山」と名付く。山の麓、寿福寺境内付近は爾来、源氏世々の邸宅たりし地なりと云ふ。「源氏山」の名称はこれに起因せるか。旗竿を建てしと云ふ故址は今尚ほあり(鎌倉町青年団)

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寿福寺外門
/扇ガ谷

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寿福寺
扇ガ谷にある臨済宗建長寺派の寺院である。鎌倉五山3の寺院である。山号を亀谷山(きこくさん)と称し、寺号は詳しくは寿福金剛禅寺という。本尊は釈迦如来、開基は北条政子、開山(初代住職)は栄西である。境内は「寿福寺境内」として1966年(昭和41年)国の史跡に指定された。源頼朝が没した翌年の1200年(正治2年)妻の北条政子が葉上房栄西(明庵栄西)を開山に招いて創建した。もともと現在の寿福寺のある付近は奥州に向かう源頼義が勝利を祈願したといわれる源氏山を背にした、亀ヶ谷と呼ばれる源氏家父祖伝来の地であり、頼朝の父・源義朝旧邸もこの地にあった。

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1180年(治承4年)初めて鎌倉入りした頼朝は、ここに館(幕府)を構えようとしたが、すでに岡崎義実が堂宇を建て義朝の菩提を弔っていたことや、土地が狭かったため当初の計画を変更したといういきさつがある。創建当時は七堂伽藍を擁し14の塔頭を有する大寺院で、禅刹として体裁を整えたのは1278年(弘安元年)頃と推定されている。

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1247年(宝治3年)に火災にあい、1258年(正嘉2年)の火災では一宇を残さぬまで焼失している。これらの復興は伝実朝墓五輪塔などの存在からおそらく南北朝時代の頃と思われる。総門、中門、仏殿、庫裏、鐘楼などが建つ。仏殿は1664年(寛文4年)の再建である。境内裏手の墓地には陸奥宗光、高浜虚子、星野立子、大佛次郎などの墓があり、さらにその奥のやぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)には北条政子源実朝と伝わる五輪塔がある。なお、総門から中門までの参道と裏山の墓地は公開されているが、中門から内側の境内は一般公開されていない。Wikipedia
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国指定史跡寿福寺境内
亀谷山寿福金剛禅寺(臨済宗建長寺派)は正治2年(1200年)に頼朝夫人政子が明庵栄西禅師を開山として建てたもので、鎌倉五山の第3位の寺であります。この地はもと源頼朝の父義朝の館があったといわれ、鎌倉入りした源頼朝はここに館を造ろうとしましたが、岡崎義実が義朝の菩提を弔うお堂を建てていたのでやめたといもれています。墓地にあるやぐらには源実朝北条政子の墓と伝わる五輪塔2基あります。現在伽藍は外門、山門、仏殿、鐘楼、庫裡などですが、外門から山門に至る敷石道は静寂感が漂い、また仏殿前に四株の柏槙があり往時のおもかげを残しています。(神奈川県教育委員会)

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いい道ですが、現在は通れません、左から迂回して裏山の「やぐらへ」

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墓地の奥にある北条政子(左)と源実朝(右)のやぐらです

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伝北条政子の五輪塔          伝源実朝の五輪塔


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八坂大神

建久3相馬次郎師常、己が邸内に守護神として勧請して崇敬したのに始まる。その後現在の地に奉遷する。世に相馬天王と称するのはこの故である。神幸式は512日の両日に行われていたが、今では12日のみとなった。中世御神幸の神輿荒ぶるを以て師常館の岩窟に納め新たに調進したと傳へられる。独特の六角神輿は宗社である京都祇園八坂神社の形を伝承したものである。享和元年、慶應元年に社殿の改築が行われた。明治6年村社に列格される。(境内掲示板)


・・・雪ノ下


鎌倉市鎌倉地域にある大字。もともとは鶴岡八幡宮背後の地域を指していたが、次第に拡大し境内とその周辺を指すようになった。吾妻鏡によると、建久2年(1191217日に降雪が5寸になった雪見のため、鶴岡八幡宮を訪れた源頼朝が佐々木盛綱らに山辺の雪を長櫃に入れて夏に備えて貯蔵させたことが由来とされる。源実朝を暗殺した公暁は雪ノ下の本坊(別当坊)に逃れた。
応永24年(14171月に関東管領上杉禅秀は挙兵して鎌倉公方足利持氏を追放するが敗れて雪ノ下で自刃している(上杉禅秀の乱Wikipedia

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街道の風景③ 寿福寺前の踏切を渡り
岩窟小路(いわや)を鶴岡八幡宮へ向かいます

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岩窟不動尊
奥のやぐらに頼朝鎌倉入り前からあった古い神社だそうです

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街道の風景④
川喜多映画記念館を通り小町通りを左折して流鏑馬道へ

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鉄の井
この井戸の水質は清らかで美味しく、真夏でも井戸の水が涸れることはなかった。昔、この井戸から高さ5尺(1.5m)余りの鉄観音(くろがね)の首を掘り出したことから、この井戸を鉄の井(くろがねのい)と名付けた。正嘉二年(1258)正月17日午前2時頃に安達泰盛の甘縄(あまなわ:長谷方面の昔の地名)の屋敷から出火し、折からの南風にあおられて火は薬師堂の裏山を越えて寿福寺に燃え広がり、総門・仏殿・庫裏・方丈など全てを焼き尽くし、さらに新清水寺・窟堂(いわやどう)とその周辺の民家、若宮の宝物殿及び別当坊などを焼失したと吾妻鏡に述べている。この井戸から掘出された観音像の首は、この火災のときに土中に埋めたのを、掘り出したもので、新清水寺の観音像と伝えられ、この井戸の西方の観音堂に安置された。明治に入り東京に移したと云われている。(鎌倉市青年団)

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街道の風景⑤「流鏑馬道」が街道の起点とありましたので、ここにゴールしました/鶴岡八幡宮

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鶴岡八幡宮に報告とお参りです

鶴岡八幡宮(若宮大路)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/18658364/

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ルート図(藤沢~鎌倉)
(赤:鎌倉街道上道(左)・中道(右) 紫:上道別路 橙:旧東海道)

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鎌倉街道上路ルート図(府中~鎌倉)
(左:上道 中:中道 右:下道)

by Twalking | 2017-06-25 23:20 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夕焼け   

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夕焼け
パルテノン大通り/多摩センター駅
どんよりした梅雨空に
燃えるような夕焼け雲
不思議ですね~、美しい。



by Twalking | 2017-06-25 23:19 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①   

日時 2017.6.20(火)
天気 晴れ

ここからは鎌倉の寺社、史跡めぐりです。
海臧寺、東勝寺、寿福寺は定番ですが
それだけではないですね~・・・。

寺社それぞれに由緒や歴史がありまし、
鎌倉、室町の史跡が豊富で面白いです。
整理するは大変ですが、少しづつでしょうか。


・・・扇ヶ谷
(おうぎがやつ)

鎌倉市鎌倉地域にある大字。扇ガ谷はJR横須賀線の鎌倉駅から北鎌倉間の線路沿いの山際一帯の地名である。東を雪ノ下、西を佐助、南を御成町・小町、北を山ノ内と接し、飯盛山、源氏山(初名は武庫山、このほか亀谷山とも呼ぶ)などの丘陵が周辺を囲み、中心部谷戸にある亀ヶ谷坂を経て北鎌倉方面とつながる。地名の由来は鎌倉十井の一つ「扇の井」(現在の扇ガ谷3丁目)に因んだもので、扇ヶ谷は関東管領上杉定正旧邸で、英勝寺の地で亀ヶ谷(かめがやつ)の地内の一地名とある(新編相模国風土記、新編鎌倉志)。もともとこの地は亀谷と呼ばれ鎌倉幕府の記録書である『吾妻鏡』には亀谷(亀ヶ谷)の地名のみ登場し扇ヶ谷は出てこない。亀ヶ谷は鶴ヶ岡に対する対語、もしくは谷戸の中心部にある亀ヶ谷坂(『亀がひっくり返るほど急な坂』の『亀返り坂』の転訛という説)に由来すると云われ、この地は源家父祖伝来の地であった。Wikipedia

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街道の風景① 葛原岡から扇ヶ谷方面の景観です

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海蔵寺山門
/扇ヶ谷


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扇谷山海蔵寺
海蔵寺は古都鎌倉の扇ヶ谷の北、風光明媚な渓間に佇む臨済宗建長寺派の古刹である。もと真言宗の寺跡であるこの渓に、建長5年(1253)宗尊親王の命によって従五位前能州太守藤原仲能が本願主となり七堂伽藍が再建された。しかし、元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡のおり鳥有に帰した後、応永元年(13944月、鎌倉御所足利氏満の命により上杉氏定が再建したのが海蔵禅寺である。氏定は源翁禅師を(心昭空外)を開山に招いて菩提寺とした。天正5年(1577)建長寺に属して今日に至っている。寛政3年(1791)の境内図によると、主な建物の配置は現在の姿とほとんど変わらず、塔頭7ヶ院と旧跡を図示している。(海蔵寺略縁起)

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本堂(龍護殿)
大正12年(1923)の震災で倒壊した後同14年の再建。内殿欄間の雲龍彫は文化9年(1812)、額は延宝9年(1681)霊芝の筆。間切戸の雲龍・山水の絵は狩野探信の筆なり、正面4枚戸の牡丹唐獅子の絵は藤原義信の筆。(海蔵寺略縁起)


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仏殿(薬師堂)
安永5年(1776)浄智寺から移築し翌年入仏供養を行った。薬師三尊像(市指定文化財)・十二神将像・伽藍神像などを安置する。(海蔵寺略縁起)

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十六の井
薬師堂裏手の岩窟内にある。岩窟の床面に縦横各4列、計16の丸穴があり水が湧き出している。井戸ではなく納骨穴とも、十六菩薩になぞらえたものとも言うが正確なことは不詳である。岩窟の正面奥壁には観音菩薩像と弘法大師像を祀る。他に嘉元4年(1306年)銘の阿弥陀三尊像板碑が壁面に安置されていたが鎌倉国宝館に寄託されている(Wikipedia

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底脱の井
この井戸は鎌倉十井の一つです。中世の武将の安達泰盛の娘・千代能がここに水を汲みに来た時、水桶の底がすっぽり抜けたため「千代能が いただく桶の底脱けて 水たまらねば 月もやどらず」とうたったことからこの名がついたといわれています。井戸の底ではなく、心の底が抜けてわだかまりが解け、悟りが開けたという投機(解脱)の歌です(鎌倉市青年会議所)
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本堂裏の庭園、非公開ですが見事です

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街道の風景② 街道は直進ですが、ガードの東側に寄り道/扇ヶ谷ガード

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岩船地蔵堂/亀ヶ谷辻
亀ヶ谷辻に建つこの堂は、古くから頼朝娘大姫を供養する地蔵堂と言い伝えられてきました。木造地蔵尊の胎内の銘札にも『大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公御皇女之守本尊也』 との記述があり、続けて元禄3年に堂を再建しあらたに本像を像立した旨が記されています。「北条九代記」にも許婚との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々がこの谷に野辺送りしたことが記されています。このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に今なおほのかに紅をさす木造地蔵尊を前立像として安置し供養いたしました。心ある方はどうぞご供養の合掌をなさってお通りください。(海蔵寺)

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薬王寺山門/扇ヶ谷


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薬王寺
もとは真言宗梅領山夜光寺と称していました。日像上人(日蓮の孫弟子)が住職と論難の末日蓮宗に改宗させ、薬王寺に改称したと伝えられています。徳川3代将軍家光の弟、駿河大納言忠長公供養塔や松山城主蒲生忠知公(家康の孫)の正室と息女の墓所があり、徳川、蒲生家と縁が深く寺門に三葉葵が用いられるなど格式の高い寺でした明治初期の廃仏稀釈により荒廃しましたが、後に日振、日照が再興に尽力し現山容を整えました。本堂正面の日蓮座像は第11代将軍家斉の命により幕府が建立、説法形の口を開けた珍しい像です。(鎌倉市)

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駿河大納言忠長公供養塔
駿河大納言忠長公(3代将軍家光公弟)は粗暴な性格を理由に高崎に幽閉されたのち、28歳で自刃せられ所領も没収された。悲嘆やるかたない奥方松孝院殿(織田信長次男信雄の息女)は。時の当山3世恵眼院日垙上人に懇願し、悲惨な最期を遂げた夫君忠長公の供養を法華経により営み、追善供養のため当供養塔を建立した(説明板)

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釈迦堂                やぐら群
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薬王寺の高台から扇ヶ谷&鎌倉市中方向の景観、右手が源氏山になります

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街道の風景③ 鎌倉七口の一つ「亀ヶ谷坂」越えると山ノ内です

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国指定史跡 亀ヶ谷坂
この道は亀ガ谷山ノ内を結ぶ亀ヶ谷坂と呼ばれる切通です。切通しとは山を開いて造られて道のことで、交通を容易にするとともに防御の拠点ともなっていました。亀ヶ谷坂が造られた正確な時期はわかりませんが、13世紀の中頃には整備されていたようです。「吾妻鏡」によれば幕府が鎌倉市内の7箇所の商業区域の一つとして「亀ヶ谷辻」を指定しており、建長寺や円覚寺などの大寺院が建立された山ノ内と鎌倉市中を結ぶ亀ヶ谷坂は経済的にも軍事的にも重要な場所だったことがわかります。江戸時代には「鎌倉七口」の一つに数えられるようになり、現在も生活道路として利用されています。(鎌倉市教育委員会)

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相馬師常墓やぐら/扇ヶ谷

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史跡相馬師常墓やぐら
このやぐらは古くから相馬師常(もろつね)の墓と伝えられ、地元の人々に厚く保護されてきました。玄室(げんしつ)の平面形は矩形で、羨道(せんどう)を有し奥壁の中央部には切石で塞がれた大きな龕(がん・仏像を納めるため岩壁を掘りくぼめた場所)があります。龕の前に宝篋印塔が立ち、奥壁左隅の小龕の中には一石五輪塔が置かれています。相馬師常は鎌倉幕府草創期の有力御家人の千葉常胤(つねたね)の次男で、相馬氏、治承4年(1180)父・常胤とともに源頼朝の挙兵に加わり、文治5年(1189)に欧州征伐に随うなど多くの戦功をあげています。本やぐらは閉塞された大形の龕を持つ特色のある形態であり、保存状態も良好で当初の姿を良く伝えているとともに被葬者が知られることが極めて稀な「やぐら」にあって、有力御家人の墓と伝えられるなど資料的にも価値の高いものです。(鎌倉市教育委員会)

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相馬次郎師常之墓
師常は千葉介常胤の第二子にして相馬氏の跡を継ぎ、巽荒神のあたりに邸宅を構えていたが、元久2年(12051115日に67歳で正座し、合掌して決定往生を遂げ、その結縁を求めて僧俗あらゆる人々が集まったという。岩窟の中の宝篋印塔は師常の墓である(鎌倉町青年団)

相馬師常
(もろつね)
千葉氏の庶流。相馬氏初代当主。千葉常胤の子。伝承によると師常は平将門の子孫である信田師国の養子となりその遺領を相続したと伝わる。父と共に源頼朝挙兵に参加し頼朝の弟・源範頼の軍勢に従って各地を転戦した。文治5年(1189)には奥州合戦に参加しその功により頼朝から「八幡大菩薩」の旗を賜ったという。建仁元年(1201)父・常胤が亡くなったために出家し、家督を嫡男の相馬義胤に譲る。出家後は法然の弟子になったと言われている。元久2年(1205年)鎌倉相馬邸の屋敷で端座し、念仏を唱えながら臨終したという。その信心厚い性格から信望の厚かった師常の最期は鎌倉の民衆たちから見取られたと言われている。1879年師常を祀る「相馬神社」が福島県相馬市に建立されたWikipedia


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藤谷黄門遺跡 (ふじがやつこうもん)/ 浄光明寺入口
冷泉為相卿は為家の子なり 従二位中納言となる 和歌所の事に由り 兄為氏と争論の末 その母阿仏尼と共に鎌倉に来たり幕府に訴ふ 遂に藤谷に寓し 藤谷殿と称せらる 藤谷百首と呼び世に伝承せらるる和歌は 此地にて詠出せられし者なり 網引地蔵は其の建立に係ると云う 卿の墓は其の山の頂に在り 五輪塔にして 月巌寺殿玄国昌久の八字を刻せんと謂うも 今は漫滅(摩滅)して字体を弁ぜず(鎌倉町青年団)

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浄光明寺山門/扇ヶ谷

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浄光明寺
扇ガ谷にある真言宗泉涌寺派の寺院。山号は泉谷山(せんこくざん)。本尊は阿弥陀如来である。北条氏や足利氏とゆかりの深い寺院で足利尊氏は後醍醐天皇に対し挙兵する直前、当寺に籠っていたと伝える。新四国東国88ヶ所霊場の第82番。鎌倉七口のうちの亀ヶ谷坂(かめがやつさか)と化粧坂(けわいざか)にはさまれた扇ヶ谷の支谷・泉ヶ谷に位置する。山号の泉谷山はこの谷戸の名にちなむ。

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寺伝によれば建長3年(1251年)頃、第5代執権北条時頼、第6代執権北条長時が開基となって創建したもので、開山(初代住持)は真阿(真聖国師)であった。それ以前、源頼朝の命により文覚上人の建てた草庵があったともいうが定かでない。長時は鎌倉幕府6代執権で、文永元年(1264年)36歳で死去し浄光明寺に葬られ以後、この寺は長時に始まる赤橋流北条氏菩提寺と位置づけられた。

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山門を入ると客殿、庫裏、不動堂などがありその裏手の一段高くなった敷地に阿弥陀堂と収蔵庫(阿弥陀三尊像等)がある。さらに裏手狭い階段を上った先の山上には岩壁をうがった「やぐら」があり、内部に石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵)が安置されている。そこからさらに登ったところには国の史跡に指定されている冷泉為相(れいぜいためすけ、鎌倉時代の歌人)の墓がある。境内は谷戸を雛壇状に造成した中世寺院の景観がよく保存されている。(Wikipedia


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阿弥陀堂               やぐら群

赤橋流北条氏
鎌倉時代の北条氏の一族。赤橋家ともいう。始祖は北条重時(極楽寺流)の次男北条長時。極楽寺流のなかでは嫡流に当たる。長時が第6代執権となったほか、最後の執権(第16代)守時をも出すなど、北条氏の一族では、得宗家に次ぐ高い家格を有しており、得宗家の当主以外では赤橋流北条氏の当主だけが元服時に将軍を烏帽子親としてその一字を与えられる特権を許されていた。屋敷が赤橋(現在の太鼓橋)にあったため「赤橋」を名乗ったと言われている。Wikipedia

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大伴神主家墓所
大伴家は鎌倉時代以来明治維新に至るまで鶴岡八幡宮神主を代々務め、その墓は室町時代の文明年間以降、当寺に営まれるようになりました。墓所は鳥居を浮彫にした江戸時代の(しゃく)型墓碑3基あり、神道特有の墓として貴重です。市史跡(浄光明寺)

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石造地蔵菩薩坐像(網引地蔵)
鎌倉屈指の石仏で、漁師の網に懸かり海から引き上げられたとの伝承から網引地蔵と呼ばれています。背中の銘文に当寺第三世長老性正和尚が正和2年(1313)に供養した事が記され、冷泉為相によって造立されたとも伝えられています。(浄光明寺)

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国指定冷泉為相墓
冷泉為相(ためすけ)は藤原定家で、は「十六夜日記」の作者阿仏尼である。為相は歌学・連歌の道の造詣が深く、歌風は広く世に知られている。永仁3年(1295)鎌倉に下り、嘉歴3年(1328)この地に没した。この宝篋印塔は相輪が欠けているが、南北朝のころの形式をよく伝えている。なお、玉垣は德川(水戸)光圀が寄進したものである。(文部省・神奈川県教育委員会)
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冷泉為相墓より泉ヶ谷&鎌倉市中の景観 

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扇ヶ谷周辺マップ
(赤:鎌倉街道上道 紫:鎌倉街道中路 橙:亀ヶ谷坂 黄:段葛)

by Twalking | 2017-06-25 23:13 | 鎌倉街道(新規)