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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-梶原御霊神社   

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阿形

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吽形

梶原御霊神社/鎌倉市梶原
「獅子に牡丹」でしょうか
年代は分かりませんが、比較的新しそうですね?


獅子に牡丹
堂々たる獅子の姿に、華麗な牡丹の花を配した図柄。取り合わせのよいもののたとえ。(コトバンク)

獅子身中の虫

獅子の体内に寄生して、ついには獅子を死に至らせる虫の意
1 仏徒でありながら仏法に害をなす者。
2組織などの内部にいながら害をなす者や、恩をあだで返す者。(コトバンク)



by Twalking | 2017-06-26 13:15 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷②   

日時 2017.6.20(火)
天気 晴れ

府中から鎌倉まで歩こうと思ったのは大分前です。
「歩く」ことが目的でしたが、段々と「歴史」や
「地形」「街」など、興味が広がっていきました。

歩き直しもありましたので時間がかかりましたが、
鎌倉の地を踏みましたので、一応、一区切りです。
まだ、もやもやと錯綜していますが、長い歴史、
少しづつ、といったところでしょうか。


・・・扇ヶ谷
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街道の風景① 扇ヶ谷ガードに戻り、街道を英勝寺へ向かいます

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智岸寺稲荷
稲荷神社について
世にお稲荷様と申上げている稲荷神社は倉稲魂神をお祭りしたもので今から約1300年の昔、和銅4年の2月の初午の日に京都の伏見に稲荷神社が鎮座したのが始まりです。この神は稲がなるイナリの別名が示すように五穀の生育やすべての産業を育成する広大な御神徳のある神ですから、あるゆる人々の信仰をうけ全国各地の神社や邸内に祭られています。鎌倉で由緒ある稲荷は隠里稲荷で、鎌倉風土記によると源頼朝が伊豆の蛭が島にいたとき病の床につき三晩続けて同じ白ひげの老人の夢を見ました。その老人の言うとおりに薬を飲みますと病はなおりこれが縁で幕府を開くことが出来たということです。この白ひげ老人が隠里稲荷の化身であったということです。お稲荷様は大切にお祭りしましょう。(英勝寺)

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阿仏尼卵塔

十六夜日記の作者・阿仏尼と伝えられる。もともと英勝寺境内だが、現在は英勝寺の塀を北鎌倉方面に越えた崖下のやぐらにある。なお、阿仏尼の息子である冷泉為相の墓も近隣の浄光明寺境内にある。(Wikipedia
卵塔:台座上に卵形の塔身をのせた墓石。禅僧の墓石に多く用いられる。無縫塔。

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阿仏尼(あぶつに)
鎌倉時代中期の女流歌人。桓武平氏大掾氏(だいじょうし・中世常陸国に勢力を持った一族で、常陸平氏の嫡流であり多くの緒家を輩出した)安嘉門院に仕え、出仕中10代で初恋の失恋の失意から出家を決意し尼となったが、その後も世俗との関わりを持ち続けた。30歳頃藤原為家の側室となり冷泉為相(ためすけ)らを産む。為家の没後、播磨国細川荘(現兵庫県三木市)の相続をめぐり、正妻の子二条為氏と争い1279年(弘安2年)幕府に訴えるため鎌倉へ下った。このときの紀行と鎌倉滞在のことを記したのが『十六夜日記』である。訴訟の結果がわかる前に鎌倉で没したという説と、京都へ帰った後に没したとの説がある。鎌倉市扇ヶ谷に伝・阿仏尼の墓が残る。(Wikipedia

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英勝寺の入口はこちらです

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英勝寺/扇ガ谷
英勝寺扇ガ谷にある浄土宗の寺院であり、現在鎌倉唯一の尼寺である。山号は東光山。寺域は開基英勝寺尼の祖先であり、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌邸跡地とされる。徳川家康側室大田道潅四代の大田康資・息女とされるお勝の方は、家康との間に生まれた市姫が幼くして亡くなった後、家康の命により後に初代水戸藩主となった徳川頼房の養母を務めた。家康の死後は落飾して英勝院と称したがその後、3代将軍家光より父祖の地である扇ガ谷の地を賜り英勝寺創建した。創建にあたっては徳川頼房娘・小良姫7歳の時に玉峯清因と名付け得度させこれを門主に迎え開山とした。英勝院尼は寛永19年(1642)没し、英勝寺裏山に葬られた。

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寛永14年(または15年)に寺領朱印地として池子村(現逗子市池子)420石を与えられたほか、裏山にあたる源氏山(旗立山)も与えられている。創建の経緯からその後も代々の住持水戸家の姫が務めこのため英勝寺は「水戸御殿」や「水戸の尼寺」とも呼ばれた。高貴な姫である住持は人前に出ることはなく、折々の法要は芝増上寺や鎌倉材木座光明寺の僧が勤めていたという。しかし明治維新を機に水戸家からの住持は絶え寺勢は衰えた。その後、明治28年(1895)に松平家より住持を迎え、さらに大正8年(1919)以降は東京青山善光寺より住職を招請し今日に至る。仏殿、山門、鐘楼は寛永20年(1643年)の建立。祠堂、祠堂門も同じ頃の建立と推定される。各建物は本格的な禅宗様になり、仏殿、山門、鐘楼は屋根を反りのない直線で構成する点に共通点がみられるWikipedia

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山門

三間一戸二重門。屋根は入母屋造、瓦棒銅板葺き。上層には釈迦如来と十六羅漢像を安置する。英勝院尼一周忌の直前に、水戸光圀の兄である高松藩主松平頼重により造営され、「奉敬立相州英勝寺山門 従四位下侍従源頼重朝臣」の棟札を持つ。関東大震災後売却され鎌倉市小町の私有地に移築されたが、2011年、旧部材を用いて復興された。国の重要文化財Wikipedia

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仏殿
方三間、裳階付の禅宗様仏堂。屋根は寄棟造、瓦棒銅板葺き。棟札には寛永13年(1636年)に英勝院が建立とあるが、殿内梁牌には「寛永208月 正三位権中納言源朝臣頼房敬立」の銘があり、当初英勝院が建立しこれを徳川頼房が現在の形に改築したものと考えられる。扁額は後陽成天皇の弟である曼殊院良恕法親王の揮毫。粽(ちまき)付きの円柱、貫(ぬき)の多用、詰組の組物、桟唐戸、花頭窓、石敷きの床など本格的な禅宗様になる。ただし、屋根の隅棟や軒先の線に反りがなく、屋根の形を直線のみで構成するのは独特の意匠である。軒下の蟇股は十二支の彫刻で飾る。堂内は身舎小壁に瑞鳥、天井に迦陵頻伽の彩絵を施すほか、水戸徳川家の三つ葉葵、太田家の桔梗などの装飾が施されている。国の重要文化財Wikipedia

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祠堂門(唐門)
平唐門、銅瓦葺き。祠堂に至る石段下の小門で、祠堂と共に建てられたと考えられる。欄間には精巧な牡丹等の透彫りが施されている。国の重要文化財Wikipedia


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鐘楼
入母屋造、瓦棒銅板葺き。近世の鎌倉では唯一とされる袴腰形式の鐘楼で、梵鐘は寛永20年の林羅山撰文の銘を持つ。国の重要文化財Wikipedia




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太田道灌邸旧蹟/英勝寺前
此の地は武略(軍略)文藻(文才)兼備へ忝(かたじけな)くも 武蔵野は萱原(かやはら)の野と聞きしかどかかる言葉の花もあるかな テフ(と言う)叡感(天皇の感歎)にさえ預りたる道 灌太田持資(もちすけ)江戸築城前邸址なり  寛永11(1634)今の英勝寺と為る 其の創立者水戸藩祖頼房(ともふさ)の准母(内親王)英勝院は道灌の嫡流太田康資の女なるより 晩年将軍家光より特に此の地を授りて之に住するに至れるなり  孤鞍(単騎)雨を衝()いて茅茨(ぼうし:茅葺家屋)を叩く少女為に遣()る花一枝 の詩趣ある逸話は道灌が壮年猶此に在りし日に於て演ぜられし所のものなり(鎌倉町青年会)

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街道の風景② 中央を横須賀線が通ります、左が英勝寺、右が扇ヶ谷上杉邸跡です


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庚申塔群/寿福寺入口


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源氏山/寿福寺入口
源氏山は初め「武庫山」と云ひ、亀ヶ谷の中央にある景勝の地なるをもってまた「亀谷山」とも称せり。源頼義・義家父子、奥州征伐の時、この山に旗を立てたるより、あるいは「旗立山」と名付く。山の麓、寿福寺境内付近は爾来、源氏世々の邸宅たりし地なりと云ふ。「源氏山」の名称はこれに起因せるか。旗竿を建てしと云ふ故址は今尚ほあり(鎌倉町青年団)

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寿福寺外門
/扇ガ谷

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寿福寺
扇ガ谷にある臨済宗建長寺派の寺院である。鎌倉五山3の寺院である。山号を亀谷山(きこくさん)と称し、寺号は詳しくは寿福金剛禅寺という。本尊は釈迦如来、開基は北条政子、開山(初代住職)は栄西である。境内は「寿福寺境内」として1966年(昭和41年)国の史跡に指定された。源頼朝が没した翌年の1200年(正治2年)妻の北条政子が葉上房栄西(明庵栄西)を開山に招いて創建した。もともと現在の寿福寺のある付近は奥州に向かう源頼義が勝利を祈願したといわれる源氏山を背にした、亀ヶ谷と呼ばれる源氏家父祖伝来の地であり、頼朝の父・源義朝旧邸もこの地にあった。

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1180年(治承4年)初めて鎌倉入りした頼朝は、ここに館(幕府)を構えようとしたが、すでに岡崎義実が堂宇を建て義朝の菩提を弔っていたことや、土地が狭かったため当初の計画を変更したといういきさつがある。創建当時は七堂伽藍を擁し14の塔頭を有する大寺院で、禅刹として体裁を整えたのは1278年(弘安元年)頃と推定されている。

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1247年(宝治3年)に火災にあい、1258年(正嘉2年)の火災では一宇を残さぬまで焼失している。これらの復興は伝実朝墓五輪塔などの存在からおそらく南北朝時代の頃と思われる。総門、中門、仏殿、庫裏、鐘楼などが建つ。仏殿は1664年(寛文4年)の再建である。境内裏手の墓地には陸奥宗光、高浜虚子、星野立子、大佛次郎などの墓があり、さらにその奥のやぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)には北条政子源実朝と伝わる五輪塔がある。なお、総門から中門までの参道と裏山の墓地は公開されているが、中門から内側の境内は一般公開されていない。Wikipedia
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国指定史跡寿福寺境内
亀谷山寿福金剛禅寺(臨済宗建長寺派)は正治2年(1200年)に頼朝夫人政子が明庵栄西禅師を開山として建てたもので、鎌倉五山の第3位の寺であります。この地はもと源頼朝の父義朝の館があったといわれ、鎌倉入りした源頼朝はここに館を造ろうとしましたが、岡崎義実が義朝の菩提を弔うお堂を建てていたのでやめたといもれています。墓地にあるやぐらには源実朝北条政子の墓と伝わる五輪塔2基あります。現在伽藍は外門、山門、仏殿、鐘楼、庫裡などですが、外門から山門に至る敷石道は静寂感が漂い、また仏殿前に四株の柏槙があり往時のおもかげを残しています。(神奈川県教育委員会)

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いい道ですが、現在は通れません、左から迂回して裏山の「やぐらへ」

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墓地の奥にある北条政子(左)と源実朝(右)のやぐらです

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伝北条政子の五輪塔          伝源実朝の五輪塔


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八坂大神

建久3相馬次郎師常、己が邸内に守護神として勧請して崇敬したのに始まる。その後現在の地に奉遷する。世に相馬天王と称するのはこの故である。神幸式は512日の両日に行われていたが、今では12日のみとなった。中世御神幸の神輿荒ぶるを以て師常館の岩窟に納め新たに調進したと傳へられる。独特の六角神輿は宗社である京都祇園八坂神社の形を伝承したものである。享和元年、慶應元年に社殿の改築が行われた。明治6年村社に列格される。(境内掲示板)


・・・雪ノ下


鎌倉市鎌倉地域にある大字。もともとは鶴岡八幡宮背後の地域を指していたが、次第に拡大し境内とその周辺を指すようになった。吾妻鏡によると、建久2年(1191217日に降雪が5寸になった雪見のため、鶴岡八幡宮を訪れた源頼朝が佐々木盛綱らに山辺の雪を長櫃に入れて夏に備えて貯蔵させたことが由来とされる。源実朝を暗殺した公暁は雪ノ下の本坊(別当坊)に逃れた。
応永24年(14171月に関東管領上杉禅秀は挙兵して鎌倉公方足利持氏を追放するが敗れて雪ノ下で自刃している(上杉禅秀の乱Wikipedia

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街道の風景③ 寿福寺前の踏切を渡り
岩窟小路(いわや)を鶴岡八幡宮へ向かいます

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岩窟不動尊
奥のやぐらに頼朝鎌倉入り前からあった古い神社だそうです

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街道の風景④
川喜多映画記念館を通り小町通りを左折して流鏑馬道へ

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鉄の井
この井戸の水質は清らかで美味しく、真夏でも井戸の水が涸れることはなかった。昔、この井戸から高さ5尺(1.5m)余りの鉄観音(くろがね)の首を掘り出したことから、この井戸を鉄の井(くろがねのい)と名付けた。正嘉二年(1258)正月17日午前2時頃に安達泰盛の甘縄(あまなわ:長谷方面の昔の地名)の屋敷から出火し、折からの南風にあおられて火は薬師堂の裏山を越えて寿福寺に燃え広がり、総門・仏殿・庫裏・方丈など全てを焼き尽くし、さらに新清水寺・窟堂(いわやどう)とその周辺の民家、若宮の宝物殿及び別当坊などを焼失したと吾妻鏡に述べている。この井戸から掘出された観音像の首は、この火災のときに土中に埋めたのを、掘り出したもので、新清水寺の観音像と伝えられ、この井戸の西方の観音堂に安置された。明治に入り東京に移したと云われている。(鎌倉市青年団)

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街道の風景⑤「流鏑馬道」が街道の起点とありましたので、ここにゴールしました/鶴岡八幡宮

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鶴岡八幡宮に報告とお参りです

鶴岡八幡宮(若宮大路)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/18658364/

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ルート図(藤沢~鎌倉)
(赤:鎌倉街道上道(左)・中道(右) 紫:上道別路 橙:旧東海道)

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鎌倉街道上路ルート図(府中~鎌倉)
(左:上道 中:中道 右:下道)

by Twalking | 2017-06-25 23:20 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夕焼け   

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夕焼け
パルテノン大通り/多摩センター駅
どんよりした梅雨空に
燃えるような夕焼け雲
不思議ですね~、美しい。



by Twalking | 2017-06-25 23:19 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①   

日時 2017.6.20(火)
天気 晴れ

ここからは鎌倉の寺社、史跡めぐりです。
海臧寺、東勝寺、寿福寺は定番ですが
それだけではないですね~・・・。

寺社それぞれに由緒や歴史がありまし、
鎌倉、室町の史跡が豊富で面白いです。
整理するは大変ですが、少しづつでしょうか。


・・・扇ヶ谷
(おうぎがやつ)

鎌倉市鎌倉地域にある大字。扇ガ谷はJR横須賀線の鎌倉駅から北鎌倉間の線路沿いの山際一帯の地名である。東を雪ノ下、西を佐助、南を御成町・小町、北を山ノ内と接し、飯盛山、源氏山(初名は武庫山、このほか亀谷山とも呼ぶ)などの丘陵が周辺を囲み、中心部谷戸にある亀ヶ谷坂を経て北鎌倉方面とつながる。地名の由来は鎌倉十井の一つ「扇の井」(現在の扇ガ谷3丁目)に因んだもので、扇ヶ谷は関東管領上杉定正旧邸で、英勝寺の地で亀ヶ谷(かめがやつ)の地内の一地名とある(新編相模国風土記、新編鎌倉志)。もともとこの地は亀谷と呼ばれ鎌倉幕府の記録書である『吾妻鏡』には亀谷(亀ヶ谷)の地名のみ登場し扇ヶ谷は出てこない。亀ヶ谷は鶴ヶ岡に対する対語、もしくは谷戸の中心部にある亀ヶ谷坂(『亀がひっくり返るほど急な坂』の『亀返り坂』の転訛という説)に由来すると云われ、この地は源家父祖伝来の地であった。Wikipedia

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街道の風景① 葛原岡から扇ヶ谷方面の景観です

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海蔵寺山門
/扇ヶ谷


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扇谷山海蔵寺
海蔵寺は古都鎌倉の扇ヶ谷の北、風光明媚な渓間に佇む臨済宗建長寺派の古刹である。もと真言宗の寺跡であるこの渓に、建長5年(1253)宗尊親王の命によって従五位前能州太守藤原仲能が本願主となり七堂伽藍が再建された。しかし、元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡のおり鳥有に帰した後、応永元年(13944月、鎌倉御所足利氏満の命により上杉氏定が再建したのが海蔵禅寺である。氏定は源翁禅師を(心昭空外)を開山に招いて菩提寺とした。天正5年(1577)建長寺に属して今日に至っている。寛政3年(1791)の境内図によると、主な建物の配置は現在の姿とほとんど変わらず、塔頭7ヶ院と旧跡を図示している。(海蔵寺略縁起)

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本堂(龍護殿)
大正12年(1923)の震災で倒壊した後同14年の再建。内殿欄間の雲龍彫は文化9年(1812)、額は延宝9年(1681)霊芝の筆。間切戸の雲龍・山水の絵は狩野探信の筆なり、正面4枚戸の牡丹唐獅子の絵は藤原義信の筆。(海蔵寺略縁起)


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仏殿(薬師堂)
安永5年(1776)浄智寺から移築し翌年入仏供養を行った。薬師三尊像(市指定文化財)・十二神将像・伽藍神像などを安置する。(海蔵寺略縁起)

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十六の井
薬師堂裏手の岩窟内にある。岩窟の床面に縦横各4列、計16の丸穴があり水が湧き出している。井戸ではなく納骨穴とも、十六菩薩になぞらえたものとも言うが正確なことは不詳である。岩窟の正面奥壁には観音菩薩像と弘法大師像を祀る。他に嘉元4年(1306年)銘の阿弥陀三尊像板碑が壁面に安置されていたが鎌倉国宝館に寄託されている(Wikipedia

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底脱の井
この井戸は鎌倉十井の一つです。中世の武将の安達泰盛の娘・千代能がここに水を汲みに来た時、水桶の底がすっぽり抜けたため「千代能が いただく桶の底脱けて 水たまらねば 月もやどらず」とうたったことからこの名がついたといわれています。井戸の底ではなく、心の底が抜けてわだかまりが解け、悟りが開けたという投機(解脱)の歌です(鎌倉市青年会議所)
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本堂裏の庭園、非公開ですが見事です

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街道の風景② 街道は直進ですが、ガードの東側に寄り道/扇ヶ谷ガード

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岩船地蔵堂/亀ヶ谷辻
亀ヶ谷辻に建つこの堂は、古くから頼朝娘大姫を供養する地蔵堂と言い伝えられてきました。木造地蔵尊の胎内の銘札にも『大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公御皇女之守本尊也』 との記述があり、続けて元禄3年に堂を再建しあらたに本像を像立した旨が記されています。「北条九代記」にも許婚との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々がこの谷に野辺送りしたことが記されています。このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に今なおほのかに紅をさす木造地蔵尊を前立像として安置し供養いたしました。心ある方はどうぞご供養の合掌をなさってお通りください。(海蔵寺)

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薬王寺山門/扇ヶ谷


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薬王寺
もとは真言宗梅領山夜光寺と称していました。日像上人(日蓮の孫弟子)が住職と論難の末日蓮宗に改宗させ、薬王寺に改称したと伝えられています。徳川3代将軍家光の弟、駿河大納言忠長公供養塔や松山城主蒲生忠知公(家康の孫)の正室と息女の墓所があり、徳川、蒲生家と縁が深く寺門に三葉葵が用いられるなど格式の高い寺でした明治初期の廃仏稀釈により荒廃しましたが、後に日振、日照が再興に尽力し現山容を整えました。本堂正面の日蓮座像は第11代将軍家斉の命により幕府が建立、説法形の口を開けた珍しい像です。(鎌倉市)

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駿河大納言忠長公供養塔
駿河大納言忠長公(3代将軍家光公弟)は粗暴な性格を理由に高崎に幽閉されたのち、28歳で自刃せられ所領も没収された。悲嘆やるかたない奥方松孝院殿(織田信長次男信雄の息女)は。時の当山3世恵眼院日垙上人に懇願し、悲惨な最期を遂げた夫君忠長公の供養を法華経により営み、追善供養のため当供養塔を建立した(説明板)

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釈迦堂                やぐら群
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薬王寺の高台から扇ヶ谷&鎌倉市中方向の景観、右手が源氏山になります

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街道の風景③ 鎌倉七口の一つ「亀ヶ谷坂」越えると山ノ内です

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国指定史跡 亀ヶ谷坂
この道は亀ガ谷山ノ内を結ぶ亀ヶ谷坂と呼ばれる切通です。切通しとは山を開いて造られて道のことで、交通を容易にするとともに防御の拠点ともなっていました。亀ヶ谷坂が造られた正確な時期はわかりませんが、13世紀の中頃には整備されていたようです。「吾妻鏡」によれば幕府が鎌倉市内の7箇所の商業区域の一つとして「亀ヶ谷辻」を指定しており、建長寺や円覚寺などの大寺院が建立された山ノ内と鎌倉市中を結ぶ亀ヶ谷坂は経済的にも軍事的にも重要な場所だったことがわかります。江戸時代には「鎌倉七口」の一つに数えられるようになり、現在も生活道路として利用されています。(鎌倉市教育委員会)

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相馬師常墓やぐら/扇ヶ谷

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史跡相馬師常墓やぐら
このやぐらは古くから相馬師常(もろつね)の墓と伝えられ、地元の人々に厚く保護されてきました。玄室(げんしつ)の平面形は矩形で、羨道(せんどう)を有し奥壁の中央部には切石で塞がれた大きな龕(がん・仏像を納めるため岩壁を掘りくぼめた場所)があります。龕の前に宝篋印塔が立ち、奥壁左隅の小龕の中には一石五輪塔が置かれています。相馬師常は鎌倉幕府草創期の有力御家人の千葉常胤(つねたね)の次男で、相馬氏、治承4年(1180)父・常胤とともに源頼朝の挙兵に加わり、文治5年(1189)に欧州征伐に随うなど多くの戦功をあげています。本やぐらは閉塞された大形の龕を持つ特色のある形態であり、保存状態も良好で当初の姿を良く伝えているとともに被葬者が知られることが極めて稀な「やぐら」にあって、有力御家人の墓と伝えられるなど資料的にも価値の高いものです。(鎌倉市教育委員会)

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相馬次郎師常之墓
師常は千葉介常胤の第二子にして相馬氏の跡を継ぎ、巽荒神のあたりに邸宅を構えていたが、元久2年(12051115日に67歳で正座し、合掌して決定往生を遂げ、その結縁を求めて僧俗あらゆる人々が集まったという。岩窟の中の宝篋印塔は師常の墓である(鎌倉町青年団)

相馬師常
(もろつね)
千葉氏の庶流。相馬氏初代当主。千葉常胤の子。伝承によると師常は平将門の子孫である信田師国の養子となりその遺領を相続したと伝わる。父と共に源頼朝挙兵に参加し頼朝の弟・源範頼の軍勢に従って各地を転戦した。文治5年(1189)には奥州合戦に参加しその功により頼朝から「八幡大菩薩」の旗を賜ったという。建仁元年(1201)父・常胤が亡くなったために出家し、家督を嫡男の相馬義胤に譲る。出家後は法然の弟子になったと言われている。元久2年(1205年)鎌倉相馬邸の屋敷で端座し、念仏を唱えながら臨終したという。その信心厚い性格から信望の厚かった師常の最期は鎌倉の民衆たちから見取られたと言われている。1879年師常を祀る「相馬神社」が福島県相馬市に建立されたWikipedia


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藤谷黄門遺跡 (ふじがやつこうもん)/ 浄光明寺入口
冷泉為相卿は為家の子なり 従二位中納言となる 和歌所の事に由り 兄為氏と争論の末 その母阿仏尼と共に鎌倉に来たり幕府に訴ふ 遂に藤谷に寓し 藤谷殿と称せらる 藤谷百首と呼び世に伝承せらるる和歌は 此地にて詠出せられし者なり 網引地蔵は其の建立に係ると云う 卿の墓は其の山の頂に在り 五輪塔にして 月巌寺殿玄国昌久の八字を刻せんと謂うも 今は漫滅(摩滅)して字体を弁ぜず(鎌倉町青年団)

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浄光明寺山門/扇ヶ谷

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浄光明寺
扇ガ谷にある真言宗泉涌寺派の寺院。山号は泉谷山(せんこくざん)。本尊は阿弥陀如来である。北条氏や足利氏とゆかりの深い寺院で足利尊氏は後醍醐天皇に対し挙兵する直前、当寺に籠っていたと伝える。新四国東国88ヶ所霊場の第82番。鎌倉七口のうちの亀ヶ谷坂(かめがやつさか)と化粧坂(けわいざか)にはさまれた扇ヶ谷の支谷・泉ヶ谷に位置する。山号の泉谷山はこの谷戸の名にちなむ。

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寺伝によれば建長3年(1251年)頃、第5代執権北条時頼、第6代執権北条長時が開基となって創建したもので、開山(初代住持)は真阿(真聖国師)であった。それ以前、源頼朝の命により文覚上人の建てた草庵があったともいうが定かでない。長時は鎌倉幕府6代執権で、文永元年(1264年)36歳で死去し浄光明寺に葬られ以後、この寺は長時に始まる赤橋流北条氏菩提寺と位置づけられた。

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山門を入ると客殿、庫裏、不動堂などがありその裏手の一段高くなった敷地に阿弥陀堂と収蔵庫(阿弥陀三尊像等)がある。さらに裏手狭い階段を上った先の山上には岩壁をうがった「やぐら」があり、内部に石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵)が安置されている。そこからさらに登ったところには国の史跡に指定されている冷泉為相(れいぜいためすけ、鎌倉時代の歌人)の墓がある。境内は谷戸を雛壇状に造成した中世寺院の景観がよく保存されている。(Wikipedia


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阿弥陀堂               やぐら群

赤橋流北条氏
鎌倉時代の北条氏の一族。赤橋家ともいう。始祖は北条重時(極楽寺流)の次男北条長時。極楽寺流のなかでは嫡流に当たる。長時が第6代執権となったほか、最後の執権(第16代)守時をも出すなど、北条氏の一族では、得宗家に次ぐ高い家格を有しており、得宗家の当主以外では赤橋流北条氏の当主だけが元服時に将軍を烏帽子親としてその一字を与えられる特権を許されていた。屋敷が赤橋(現在の太鼓橋)にあったため「赤橋」を名乗ったと言われている。Wikipedia

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大伴神主家墓所
大伴家は鎌倉時代以来明治維新に至るまで鶴岡八幡宮神主を代々務め、その墓は室町時代の文明年間以降、当寺に営まれるようになりました。墓所は鳥居を浮彫にした江戸時代の(しゃく)型墓碑3基あり、神道特有の墓として貴重です。市史跡(浄光明寺)

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石造地蔵菩薩坐像(網引地蔵)
鎌倉屈指の石仏で、漁師の網に懸かり海から引き上げられたとの伝承から網引地蔵と呼ばれています。背中の銘文に当寺第三世長老性正和尚が正和2年(1313)に供養した事が記され、冷泉為相によって造立されたとも伝えられています。(浄光明寺)

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国指定冷泉為相墓
冷泉為相(ためすけ)は藤原定家で、は「十六夜日記」の作者阿仏尼である。為相は歌学・連歌の道の造詣が深く、歌風は広く世に知られている。永仁3年(1295)鎌倉に下り、嘉歴3年(1328)この地に没した。この宝篋印塔は相輪が欠けているが、南北朝のころの形式をよく伝えている。なお、玉垣は德川(水戸)光圀が寄進したものである。(文部省・神奈川県教育委員会)
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冷泉為相墓より泉ヶ谷&鎌倉市中の景観 

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扇ヶ谷周辺マップ
(赤:鎌倉街道上道 紫:鎌倉街道中路 橙:亀ヶ谷坂 黄:段葛)

by Twalking | 2017-06-25 23:13 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 キョウチクトウ   

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夾竹桃
乞田川/多摩市落合
鮮やかなピンクですね~
「美しい花には毒がある」と
いいますから、ちょっとご注意を。


キョウチクトウ(夾竹桃)

キョウチクトウ科キョウチクトウ属の落葉低木もしくは常緑小高木。和名は葉がタケに似ていること、花がモモに似ていることから。インド原産。日本へは中国を経て江戸時代中期に伝来したという。葉は長楕円形で両端がとがった形。やや薄くて固い。花は、およそ6月より残暑の頃である9月まで開花する。花弁は基部が状、その先端で平らに開いて五弁に分かれ、それぞれがややプロペラ状に曲がる。ピンク黄色など多数の園芸品種があり八重崎の種もある。Wikipedia

by Twalking | 2017-06-25 14:54 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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やぐら
海蔵寺/鎌倉市扇ヶ谷
微妙なバランス
大丈夫かな・・・
魅力的ではありますが。

by Twalking | 2017-06-24 12:29 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02   

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海臧寺/鎌倉市扇ヶ谷
これから夏本番だというのに
なんと早いこと、秋の七草さん
涼しげでかわいい花ですね。


ハギ
(萩)
マメ科ハギ属の総称。落葉低木。秋の七草のひとつで花期は7月から10月。背の低い落葉低木ではあるが木本とは言い難い面もある。茎は木質化して固くなるが、年々太くなって伸びるようなことはなく、根本から新しい芽が毎年出る。直立せず、先端はややしだれる。葉は3出複葉、秋に枝の先端から多数の花枝を出し、赤紫の花の房をつける。果実は種子を1つだけ含み楕円形で扁平。(Wikipedia



by Twalking | 2017-06-24 09:43 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 京王堀之内駅   

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京王堀之内駅/八王子市堀之内
『ひと駅、電車で』も
なかなか味なもの、面白いですね~。



by Twalking | 2017-06-23 21:06 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉01-源氏山   

日時 2017.6.20(火)
天気 晴れ


余り日を置くのもと思い出かけました。
住宅地の長い坂を登り源氏山へ、
途中、半夏生を見に鎌倉中央公園へ寄りました。

葛原岡・源氏山は来たことがありますが、
梶原谷への別路を確認しながら散策しました。
化粧坂を下り中心部へ、この切通はいいですね。
海臧寺・英勝院は初めてなので楽しみです。



・・・梶原

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街道の風景① 藤沢からぶらりっとひと歩き、今日はここからスタートです/湘南モノレール深沢駅

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新川沿いに深沢小へ                源氏山への別路の分岐です/坂下

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街道の風景② 梶原の丘を登ります/深沢中学角

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由来/深沢中正門前
この辺りは寺分大工谷といわれていた。鎌倉時代この付近に建てられた関東十刹の一つであった大慶寺などを修復した工匠が住んでいたと伝えられる。昭和585月の住居表示施行により梶原1丁目に編入された。(鎌倉市)
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街道の風景③ 長い坂ですが、振り返って見るといい景色です/坂上 

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右折してた山の上ロータリーへ     山の上通りを行きますがちょっと寄り道


・・・鎌倉中央公園/山崎

山崎

鎌倉市深沢地域にある大字。旧名は洲崎(風土記稿)で鎌倉の戦いにおける「洲崎古戦場」はこの地を指す。地名の由来は山丘の先端に基づく(風土記稿)ほか、京都の山崎を擬えたものとされる。後北条氏の時代には東郡に属したが江戸時代には鎌倉郡に属し正保元年(1644)の正保国絵図にも「山嵜村」と記録されている。江戸時代は幕府領であった。明治22年の町村制施行により深沢村の大字に、鎌倉市との合併で鎌倉市の大字となる。Wikipedia

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清水塚口から入り谷戸を抜けて梶原口までのんびり歩きました/上池

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鎌倉中央公園
鎌倉市の中心に位置した公園で、豊かな自然に恵まれた環境の中にあります。この公園は緑化意識の高揚を目的とした「都市緑化植物園ゾーン」と、現存する田畑などの景観を保ちながら多様な余暇活動の場として利用していただくための「自然活用ゾーン」、樹林地や湿地に棲む小動物や鳥類、野草などを保護し、景観や生態系に配慮した「保全ゾーン」に分かれています。また、災害時の広域避難場所として指定され、非常用飲料水や資機材等が備蓄されている防災公園としての機能もあります。(鎌倉市HP)

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湿生花園               下池

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田んぼと湿地の広がる東谷戸、憩える散策路がついています

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鎌倉中央公園案内図
(赤:散策ルート 右手の梶原口から山の上通りへでます)


・・・

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街道の風景④ この先を左折してもうひと上りです/日当公園

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山ノ内配水池を右折          左カーブの細道を右折して葛原岡へ

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街道の風景⑤ 源氏山から梶原谷へ下る道(別路)はこの下に出てきます/S字カーブ

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梶原(住宅)周辺マップ
(赤:鎌倉街道 緑:梶原谷別路 黄:鎌倉中央公園・S字カーブ) 


・・・葛原岡

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源氏山(公園)
標高93の源氏山周辺に1956年都市計画決定し1966年に開園した。「源氏山」の名は麓に源氏の屋敷があったからとする説が有力である。後三年の役で八幡太郎義家が出陣する際に山上に源氏の白旗を立てて戦勝を祈ったところから「旗立山」の別名がある。1980年には源頼朝の鎌倉入り800年を記念して頼朝像が建立された。源氏山北西一帯は葛原岡と呼ばれ鎌倉幕府の倒幕に関わった日野俊基はこの地で処刑された。俊基の霊を祀る葛原岡神社と墓所は園内にある。同神社は大黒天も祀っており縁結びの祈願も行う。公園南側鎌倉駅方面に下りる途中には銭洗弁天宇賀福神社があり、北側は化粧坂の切り通しに通じる。北鎌倉と鎌倉大仏を結ぶハイキングコースでは本園が中間地点になるWikipedia

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街道の風景⑥ 尾根上の葛原岡・大仏ハイキングコースにでます/葛原岡神社前

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葛原岡神社/山ノ内東瓜ヶ谷

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葛原岡神社
本社祭神:日野俊基朝臣 文章博士従三位蔵人右少辨
建武の中興(1333年・元弘3年)を計画し、不幸にも1331年鎌倉幕府の北条高時に捉えられ、其の完成に会はず中途で悲愴な最期をこの葛原が岡で遂げられた忠臣である。社殿は明治天皇の思召により、地元有志の方々の骨折で全国の崇敬者の協力を得て明治21年に創建された。例大祭は御命日の63日神前祭・墓前祭が行われる。この63日に近い土曜日に氏子地域になっている由比ガ浜で宵宮祭が行はれ、日曜日には大神輿、子供神輿が氏子区域を巡るお渡り神事が行われる。御祭神は学業成就、除災招福、交通安全などの神として崇められて居る。摂社祭神:報徳豆大黒天、福福恵比寿神(石碑 写真:縁結び石)

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日野俊基卿終焉之地碑
鎌倉幕府に捕えられた日野俊基卿は元弘2年(133263日この地で悲しい最期を遂げられる(説明板)


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藤原仲能之墓
此処は道智塚或は阿古耶尼(あこやに)の塚と伝へられしも 海蔵寺伝に拠り 藤原仲能墓所と考察せらる 仲能は従五位下前能州大守にして鎌倉幕府評定衆たりしが 後年 海蔵寺中興の大檀越(檀家長)となり 建長8(1256)129日寂し  道智禅師と称(たた)へられしものの如く 其位牌同寺に現存す(鎌倉町青年団)


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日野俊基墓
日野俊基は鎌倉時代末期の朝臣後醍醐天皇につかえ倒幕計画に参加した。正中の変(1324)に捕えられ許されたが、元弘の乱(1331)の時再び捕えられ鎌倉に送られて、翌年ここ葛原岡で処刑された。国史跡(鎌倉市教育委員会)


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日野俊基
鎌倉時代末期の廷臣。刑部卿・日野種範の子。子に俊業・俊孝がいる。文保2年(1318)に即位した後醍醐天皇の親政に参加し蔵人となる。後醍醐の朱子学(宋学)志向に影響を受け、鎌倉幕府討幕のための謀議に加わる。諸国を巡り、反幕府勢力を募るが六波羅探題に察知され、正中元年(1324)の正中の変で同族の日野資朝らと逮捕されるが処罰は逃れる。京都へ戻るが元徳3/元弘元年(1331)に発覚した2度目の討幕計画である元弘の乱で再び捕らえられ、得宗被官・諏訪左衛門尉に預けられたあと、鎌倉の葛原岡処刑された。辞世の歌は「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらん」。明治維新後、南朝(吉野朝廷)が正統とされると俊基は倒幕の功労者として評価されるようになり、1887年(明治20年)には俊基を主祭神とする葛原岡神社が鎌倉市梶原に創建され、俊基自身にも従三位が追贈された。墓所:葛原岡神社の南にあるWikipedia
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街道の風景⑦ 左折が化粧坂、右折が梶原谷への別慮&銭洗弁天への道です/源氏山公園入口

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右が梶原谷への別路(左は大仏HC)  銭洗弁天への下坂

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銭洗弁財天宇賀福神社/佐助
境内洞窟にある清水で硬貨などを洗うと増えると伝えられていることから銭洗弁財天(銭洗弁天)の名で知られる。源頼朝が巳年である1185年(文治元年)の巳の月(旧暦4月)巳の日に見た霊夢に従い、佐助ヶ谷の岩壁に湧く霊水を見つけそこに洞を穿ち、社を建てて宇賀神を祀ったと伝えられる。同じく巳年の1257年(正嘉元年)に北条時頼がこの霊水で銭を洗って一族繁栄を祈ったのが銭洗の始まりだといわれる。宇賀神と弁財天が神仏混合して弁財天と呼ばれ相馬天王(扇ヶ谷)の末社だった。明治時代の神仏分離により相馬天王は八坂大神と改称、当社も祭神を市杵島姫命とし1970年(昭和45年)には末社から独立した。(Wikipedia

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奥宮                 下之水神宮


・・・化粧坂

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化粧坂
化粧坂は鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける「鎌倉往還上ノ道」(武蔵路)の出入り口に当ります。鎌倉の交通の要衝であったことから、元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでも戦場となっています。「吾妻鏡」建長3年(1251123日条には、鎌倉の中で小町屋及び売買所を構えても良い場所の一つとして「気和飛坂山上(化粧坂の山上)」と書かれています。坂頂上部は葛原岡とも呼ばれ、元弘2年(1332)後醍醐天皇の倒幕計画に関わった日野俊基が斬首された刑場でもありました。指定区域内北側には地蔵像や五輪塔などの浮彫りをもつ特徴的なやぐら群(瓜ヶ谷やぐら群)があります。また周辺の発掘調査では多数の火葬跡が発見されており、化粧坂が交通の要衝であると同時に、都市鎌倉の境界に位置する葬送の地であることが明らかになっています。(鎌倉市教育委員会)

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化粧坂碑文/扇ガ谷
化粧坂又は形勢坂に作る 此名称は 往時平家の大将を討取り 其首を化粧して実験に備へしに拠り起ると言ひ 又一説には古此坂の麓に遊里ありしに拠り此名を負ふと相伝ふるも 東(吾妻)鑑には其名見えず此坂は所謂(いわゆる)鎌倉七口の一にして鎌倉攻防の要路に当り 元弘3(1333)5月 新田義貞軍の鎌倉討入り以来屡々戦場となれる所なり。昭和十五年三月建(鎌倉町青年団)


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化粧坂の道筋
「化粧坂」の鎌倉側の道筋について『鎌倉市史総説編』(高柳光寿)では化粧坂山頂から亀ヶ谷辻を通り、寿福寺前を曲がって現在の鶴岡八幡宮一の鳥居・太鼓橋(当時は赤橋)の前へ至る道を「鎌倉中の武蔵大路」としている。それらを総合すると、鎌倉の中心から武蔵国の中心(府中)へ向かう道の鎌倉の内と外の境界が「化粧坂」であり、建長3(1251)以前から坂上には武蔵国方面の物流の拠点として今でいう市場、商店街が開かれ賑わっていたと言うことになる。

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また鎌倉滅亡の2年前、元弘の乱(1331年)で捕らえられた日野俊基がこの坂上で首を切られ、明治時代になって日野俊基を祭る葛原岡神社が建てられている。現在は鎌倉の内側(鎌倉中)への下り坂が昭和44年(1969)に国の史跡に指定されているが、道の痕跡はいくつもあり鎌倉時代にどのルートであったのかは必ずしも明らかではない。その外側の道も不明であり明治15年の帝国陸軍のフランス式1/20000地図には梶原方面への道が一番太いが、その他に洲埼方面への尾根沿いの道、北鎌倉方面への数本の道、北条常盤亭方面への尾根道も記載されており、尾根道の交差点であるかのような姿となっているWikipedia

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街道の風景⑧ 扇ヶ谷へ下ります

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ルート地図(鎌倉市西北部)/旧鎌倉街道散策の旅(1)上道・山ノ道編/芳賀善次郎著(さきたま出版会)を参照
(赤:鎌倉街道上道 緑:上道別路 紫:鎌倉街道中道 橙:切通を着色)

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葛原岡・大仏ハイキングコースマップ(上下反転)
(赤:鎌倉街道上路 緑:別路 紫:鎌倉街道中道 橙:切通 点線:葛原岡・大仏HC)

葛原岡・大仏ハイキングコースの関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/20309722/


by Twalking | 2017-06-23 15:14 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ヤマユリ   

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ヤマユリ
海臧寺/鎌倉市扇ヶ谷
古都とはいえ、やはり山間なんですね
鎌倉にはお似合いだな~。


ヤマユリ(山百合)

ユリ科ユリ属の球根植物。日本特産のユリ。和名は山中に生えることからつけられた。草丈は1-1.5m、花期は7-8月頃。花は花弁が外に弧を描きながら広がって1-10個程度を咲かせる。その大きさは直径20cm以上でユリ科の中でも最大級でありその重みで全体が傾くほどである。花の色は白色で花弁の内側中心には黄色の筋、紅色の斑点がある。花の香りは日本自生の花の中では例外的ともいえるほど、甘く濃厚でとても強い。発芽から開花までには少なくとも5年以上かかり、また株が古いほど多くの花をつける。風貌が豪華で華麗であることから、『ユリの王様』と呼ばれる。(Wikipedia



by Twalking | 2017-06-22 17:57 | ○Flower