無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 <   2017年 07月 ( 63 )   > この月の画像一覧   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 田の神   

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田の神/品川道(世田谷区大蔵4)
田の神でしょうか??
にっこりと微笑んで・・・
ありがたいですね~。


by Twalking | 2017-07-31 20:38 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 さんぽみち   

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ロケット公園/多摩市愛宕
暑いですね~・・・
夏が戻って来た感じ
木陰が一番です。


by Twalking | 2017-07-31 15:12 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 九品仏駅   

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大井町線九品仏駅/世田谷区
なんだか雲行きが怪しいですね、
降る前にゴールしないと・・・、
あとちょっとだからよろしく~。


九品仏駅
世田谷区奥沢七丁目にある東急電鉄大井町線の駅である。島式ホーム12線を有する地上駅。駅舎はプラットホームの自由が丘側に連続し上下線に挟まれた場所にある。駅の両端に踏切があるため、ホーム有効長は4両編成分しか確保されていない。そのため二子玉川寄り1両のドアを開けることが出来ず、ドアカットが行われる。当駅でドアの開かない大井町線所属編成の5号車にはステッカー等で案内がされているほか、当駅到着前にアナウンスが行われている。東急で唯一のドアカット駅となった。当駅の駅名は九品仏浄真寺にちなんだものである。なお、大井町線の開業前にあたる1927年(昭和2年)から1929年での間は東横線の現・自由が丘駅が九品仏前駅を名乗っていた。(Wikipedia


by Twalking | 2017-07-30 19:42 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 乙女像-狛江駅   

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乙女像/狛江駅北口
ちょっとうつむきかげんで
可愛いですね~・・・
狛江のシンボルとしてし親しまれています。

by Twalking | 2017-07-30 16:46 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ハス   

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ハス
知行院/品川道(世田谷区喜多見)
鉢植えでしたので近くから
美しい花ですね・・・
ありがとう~。


ハス
(蓮)
インド原産のハス科多年性水生植物。古名「はちす」は花托の形状を蜂の巣に見立てたとするのを通説とする。「はす」はその転訛。ハスの花と睡蓮を指して「蓮華」といい仏教とともに伝来し古くから使われた名である。地下茎は「蓮根」(れんこん、はすね)といい野菜名として通用する。地中の地下茎から茎を伸ばし水面に葉を出す。草高は約1m、茎に通気のための穴が通っている。水面よりも高く出る葉もある(スイレンにはない)。葉は円形で葉柄が中央につき撥水性があって水玉ができる(ロータス効果)。花期は78月で白またはピンク色の花を咲かせる。 早朝に咲き昼には閉じる。Wikipedia

by Twalking | 2017-07-30 09:27 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛江駅   

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小田急線狛江駅/狛江市
くもりの予報なので出かけました。
少し蒸しますが、これくらいなら歩けそうです。


狛江駅

狛江市東和泉一丁目にある小田急電鉄小田原線の駅である。旧・小田原急行鉄道の路線計画時にはなかったが住民の要望で設置された。このため駅の開業は路線開業より2か月遅れている。狛江市の中心に位置するが駅周辺は住宅が密集していたため大規模商業施設やバスターミナルの設置が困難であった。路線の高架事業に伴い駅前再開発事業も行われ駅前施設「エコルマ」および北口ロータリーが完成した。駅名は百済国王が高麗人を日本に帰化させた地で「狛(高麗)の里」と呼ばれていたことを由来とした「狛江」という地名から。(Wikipedia


by Twalking | 2017-07-29 22:25 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 お地蔵さん-満願寺   

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満願寺/世田谷区等々力
ふ~
いい風、ありがと~。

by Twalking | 2017-07-29 20:38 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道(1)府中~狛江-03 狛江   

日時 2017.7.21(金)
天気 晴れ

多摩川団地の通りは抜け道としてよく通りましたが、
この道のハケ上が品川道だったんですね。
住宅地の中を狛江駅に通じています。

この一帯は古墳や伊豆美神社、泉龍寺など
由緒ある古刹が多く、見所が豊富です。
いい森が残り、散策路としては秀逸だと思います。


・・・国領町(調布市)

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街道の風景① この先の信号を右折しすぐの道が旧道です/多摩川住宅入口(品川通り)

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旧道は西側の狛江通りと並走し住宅街を狛江駅へ向かいます


・・・中和泉(狛江市)

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山谷庚申塔/中和泉
この庚申塔は狛江市に25基残っているもののひとつで、本尊は青面金剛といい右側が宝永元年(1704)、左側が文化元年(1804)に建立されたものです。宝永の塔の青面金剛は合掌し斧・矢・索(縄)を持っており、他の青面金剛が持っている矛・宝輪ではなくそのかわりに斧や索を持つ例は珍しいとされています。開墾・五穀豊穣を祈願したのかも知れません。上部左右には日月、青面金剛像の下には大きな三猿、基部には蓮の葉と蕾が掘られています。そして「奉造立庚申像一尊武州多麻郡和泉村 敬白/千時宝永元甲申天霜月良辰同行三十壱人」の銘があります。

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庚申とは干支の「かのえ・さる」を指し、60日ごとにめぐってくる庚申の日には夜を徹して庚申様に長寿を願う行事を行ってきました。これを庚申待ちまたは庚申講と言います。この行事は中国の道教に由来しており俗習として日本に伝わってきました。またこの地域は江戸時代より山谷(さんや)とよばれており、山谷庚申はその地名とともに今でも脈々と受けつがれています。銅板葺きの庚申堂が完成したのは平成5年です。現在は長寿・家内安全・商売繁盛・交通安全などを祈願する場所になっています。(山谷庚申講)


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右は万葉通り、左へ          その先が2ルートの分岐点

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街道の風景② 分岐を直進する道筋、前方に駅のビル群が見えます/和泉児童館西


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街道の風景③ 分岐に庚申塔があります、右折して伊豆美神社へ向かいます/中和泉

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中和泉4丁目の文字庚申塔
現在は品川道にそった駐車場の隅にありますが、以前は道を隔てた東側の角にありました。正面には「庚申塔」という文字が大きく彫られています。右側面に「右地蔵道/願主/栗山栄五良」左側面に「/江戸青山道/安政58月日」台座正面には横書きで「西府中道」とあります。地蔵道は泉竜寺子育地蔵参詣道ということです。この三叉路や十字路に立てられる庚申塔は道しるべが記されることがあります。(狛江市文化財)

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伊豆美神社大鳥居/中和泉

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伊豆美神社参道

伊豆美神社鳥居
この鳥居は高さ2.65mで、柱の刻銘により江戸時代の慶安4年(1651)に石谷貞清が建立したことが知られ、市内に残る最古の石造鳥居です。石谷貞清(15941672)は和泉の一部を領していた石谷清正で島原の乱、由井正雪の乱などに手柄があり江戸町奉行などを勤めた旗本です。(狛江市教育委員会)

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伊豆美神社
当神社は宇多天皇寛平元年920日北谷村字大塚山に六所宮として鎮座し奉る。天文19年多摩川洪水の為地陥欠し同21年現在の境内に遷座し奉る。明治元年伊豆美神社と改称す。徳川家康幕府を江戸に開きし後此の地を領せる井伊、石ヶ谷、松下の諸家より毎年920日恒例として金穀若干を奉奠せられたが明治維新の際廃藩置県の結果廃止となった。明治168月郷社に列せられ同429月供進神社に指定された。昭和20年大東亜戦争終結後神社制度に改革が行われ宗教法人伊豆美神社となった。大国魂大神は慈悲の心深く福の神、縁結び、医薬の神として御神徳高く昔から一般国民が深く崇敬致して居ります。(北多摩神道青年会)

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神楽殿                参集殿

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井伊直弼敬慕碑 
井伊直弼公敬慕碑は明治34年(1901)に建てられました。井伊直弼を顕彰する記念碑として最初に建てられたもので高さは約4mになります。この石碑は開国を成し遂げた井伊直弼の功績と井伊家に儒学者として仕えた小町雄八の遺徳を伝えるものです。伊豆美神社と和泉地域の人々が中心となり狛江村を挙げての運動によって建てられたと考えられます。石碑が建てられた背景には江戸時代に和泉村の一部が井伊家世田谷領だったこと、井伊家に儒学者として仕えた小町雄八和泉村出身だったことなどがあります。井伊直弼公敬慕碑は狛江村の村人たちが自らの村の歴史を顧みつつ、村の誇りとして井伊直弼と小町雄八の功績を広く伝えていくために建てられたものであり、狛江の歴史にとって重要な文化財になります。(狛江市教育委員会)



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垂泉山上泉寺行宝院旧跡
伊豆見神社は古来六所宮(六所大明神)と号しその際礼を司った別当が行宝院である。行宝院の由緒は江戸時代に当社を再興した和泉村地頭石谷家の入部(1590)以前に㴑のぼる。行宝院本尊は不動明王。古く平安時代にこれを奉安して当院が開基されたと伝え、京都聖護院を本山として仰ぎ修験道本山派に属した。天文年中に伽藍を焼失、一説に水難流失しこの地に再建された。慶長年間の六郷用水開墾(1597-1609)に当たっては用水奉行小泉次大夫がここを宿所に充てた史実がある。寛文4年(1644)院宅残らず再焼失を見たが、不動明王は常に火生三昧に佳して無事であったといわれ、文政10年(1827)に台座宮殿再興が行われた。行宝院は代々世襲して修験道の修行を重ね、特に幕末期は和合再建に貢献し広範な信望を集め、明治初年の神仏分離の際会しやむなく行宝院を廃して復職した。爾来小町家は一筋に神社の繁栄を稀いつつ泉神社の宮司として現在に至る。本尊不動明王は明治9年以来、狛江市岩西南明静院に安置されて昔年の面影を伝えている。ここに行宝院往時の事蹟を記し留めてこの碑を建立する。(小町茂子撰 泉神社宮司小町守建立)


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兜塚古墳(東京都指定史跡)/中和泉
兜塚古墳は昭和62年(1987)と平成7年(1995)に行われた確認調査により墳丘の残存径約43m、周溝外端までの規模約70m、高さ約4mの円墳と考えられます。周溝の一部の状況から円墳ではなく帆立貝形の古墳の可能性も指摘されています。墳丘の本格的な調査を実施していないため主体部などは良くわかっていませんが土師器や円筒埴輪が出土しています。円筒埴輪の年代から6世紀前半の築造年代が考えられています。

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兜塚を含む狛江古墳群は南武蔵で最大規模の古墳群と推定されていますが、墳丘の形状を留めているのは僅かで本古墳は良好な状態で遺存している貴重な古墳といえます。狛江古墳群では二ヶ所の主体部が発掘調査され、神人歌舞画像鏡、鉄製刀身、玉類、金銅製馬具などが出土した亀塚古墳が有名です。亀塚古墳は5世紀後半から6世紀初頭ころの狛江古墳群の盟主墳と考えられますが、兜塚古墳は亀塚古墳の次世代の盟主墳と考えられています。(東京都教育委員会)



・・・元和泉

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多摩川にでてみました、いい眺めです/西河原公園

五本松/元和泉
多摩川のほとりに立つ五本松は狛江を代表する景観のひとつとして市民に親しまれ多摩川50景、新東京百景の一つに選ばれている名所です。映画やテレビの撮影にもよく利用されています。(狛江おすすめ散歩コース)

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六郷用水取り入れ口
六郷用水は徳川家康の命により慶長2年(1597)から16年にかけて代官小泉次大夫吉次によって作られた灌漑用水路で、次大夫堀とも呼ばれています。この用水は多摩川の水をこの辺りで取り入れ、市役所の裏で野川と合流し、世田谷区を経て大田区に至り全長約23kmに及びました。市内でも和泉、猪方、岩戸の水田に利用されてきましたがこの辺りは昭和40年に埋め立てられました。写真は多摩川から見た取り入れ口で、右側が現在地付近、左側が玉翠園で昭和初期のものです。(狛江市教育委員会)


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TO THE SKY '90/西河原公園
西河原公園このモニュメントは、大地から一粒の種子が地表の岩石を押しのけ、天空にむかって、たくましく成長する様を表現し、狛江市の将来を象徴したものです(狛江市教育委員会)

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水神社鳥居/元和泉

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水神社
水神とは水にまつわる神の総称で、祀られているのは灌漑用水の神とされる水速女命〈みづはのめのかみ〉になります。六郷用水と関わりがあり、祠は用水取水口の脇に位置し、用水工事に尽力した小泉次大夫が合祀されています。現在の水神の祠は、明治22年(1889)に六郷用水の恩恵を受けた和泉村外13か村によって奉納されました。また、昭和3年(1928)に六郷用水普通水利組合が奉納した幟石があります。(狛江市観光協会)


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万葉歌碑(玉川碑跡)/中和泉
『万葉集』巻14の東歌の一首「多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの児の ここだ愛しき」が刻まれた歌碑で、松平定信の揮毫になります。文化2年(1805)に猪方村字半縄(現在の猪方4丁目辺り)に建てられましたが洪水によって流失しました。大正時代に玉川史蹟猶予会が結成されると、松平定信を敬慕する渋沢栄一らと狛江村の有志らが協力して大正13年(1924)旧碑の拓本を模刻して新碑が建てられました。(狛江おすすめ散歩コース)

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街道の風景④ 街道に戻り、この道標のある二又を左へ向かいます/中和泉

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道標
文政10年(1827)の道標を兼ねた馬頭観音があります。その脇に「西 府中道 右地蔵尊 渡し場道 左 江戸青山 六郷道」を示す丸石が建っています。品川道は左、右は泉龍寺へ向かう地蔵道のようです。


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ここで直進の道と合流         狛江通りから駅に向かいます


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泉龍寺三門/元和泉


安政6年(1859)に再建されたものです。再建時は切妻造の瓦葺屋根でした。建築を請け負ったのは和泉村の大工で、部材は境内の樹木が用いられました。

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泉龍寺鐘楼門

鐘楼門
天保15年(1844)に牟礼村(三鷹市)の眉山金毛和尚をはじめとして檀家各家や近隣寺院、周辺宿村、江戸市中、泉龍寺に祀られているまわり地蔵を信仰する講中からの寄進によって再建されたものです。再建時は茅葺屋根でした。石積または袴腰の基壇部がなく4本の柱で門の形態をとった珍しい鐘楼門です。


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泉龍寺本堂・開山堂・鐘楼門・山門
江戸時代初期の縁起によると雲松山泉龍寺は、奈良東大寺の別当として名高い良弁僧正が天平神護元年(765)にこの地を訪れ、法相宗の奥義を広めたことに始まるとされています。天暦3年(949)には増賀聖(ぞうがひじり)が廻国の折、天台宗に改め境内をひらき堂宇を建立しました。しかし中世の戦乱期に寺は荒廃し草庵だけになっていました。ここに曹洞宗通幻派の桂破泉祝和尚が行脚中に訪れ、堂宇を建立して寺を復興し多くの僧人が参集しました。その後曹洞宗大源派の鉄叟瑞牛和尚が居住し天正18年(1590)の徳川家康の関東入国後、和泉村の領主となった石谷清定(いしがや)は端牛和尚に帰依しともに諸堂を整備しました。泉龍寺は良弁僧正を開闢(かいじゃく)初祖、鉄叟瑞牛和尚を中興開山、石谷清定を中興開基としています。江戸時代には徳川将軍家から朱印地20石を拝領し境内は約16900坪に及びました。三明龍寅(りゅういん)和尚の代(万治から元禄頃)に諸堂が残らず焼失しましたが、以後は現在に至るまで罹災した記録はありません。伽藍は南北の中心軸上に本堂、鐘楼門、山門が配置されています。こうした中軸を基調とする伽藍配置は曹洞宗寺院の特徴を示しており、また境内の各所に江戸時代の佇まいを残しています。(狛江市教育委員会)


宝永3年(1706)に再建されたものです。再建時は寄棟造の瓦葺屋根でした。昭和30年代に改修・増築がなされましたが本堂内部は江戸時代の遺構を残しています。

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開山堂
弘化4年(1847)に建立されたものです。建立時は茅葺屋根でした。昭和30年代に増築工事がなされましたが堂内の格天井(ごう)などは江戸時代の遺構と考えられます。

泉龍寺建造物の再建及び建立は領主の石谷家や地域の檀家各家のみならず周辺宿村や江戸市中、多摩地域周辺に広がるまわり地蔵を信仰する講中などからの寄進をもとに進められました。造作は狛江周辺や地元の職人の手によってなされており、地域にとって貴重な文化財です。(狛江市教育委員会)

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延命子安地蔵             お地蔵さん

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江戸名所図会 泉龍寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用


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泉龍寺別院/元和泉
南の参道・大門通りに面する旧龍法寺跡には平成6年(1994年)地蔵菩薩を本尊とした泉龍寺別院が建立されました。檀信徒をはじめ広く市民の物心両面の支援を得て完成し、手入れの行き届いた斎場として定評がありまた市内や地域の文化活動の拠点としても活用されています。(泉龍寺HP)

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耳切地蔵
背中に「明暦3年(1657108日、檀那の菩提のために地蔵菩薩を造立し奉る。龍法寺西源の代」という文字が刻まれています。龍法寺は泉龍寺の塔頭として旅人を泊めたりする村の中の憩いの場でした。ほぼ泉龍寺別院の位置にありましたが明治維新の頃に廃寺となりました。昔、このお地蔵様が道の辻に立っていた頃のこと。村人が追いはぎに襲われて刀で斬り付けられやっと逃げ帰りました。翌日になってみたら何の傷もありません。不思議に思って辻のところに行ってみると、なんとお地蔵様の耳に刀傷がありました。お地蔵様が身代わりになってくれたのでした。(泉龍寺HP)


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弁財天池

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泉龍寺弁財天池(狛江市史跡)
この池は市民に「しみず」という名で親しまれています。「和泉」という地名もこの池からうまれたものと推定されます。伝説によると、今から約1200年以上も前の奈良時代に全国的な大旱魃があり、東大寺開山として有名な良弁僧正がこの地において雨乞いを行ったところ、竜神が現れて雨を降らしその時に水が湧き出したということです。旧「和泉村」の雨乞いの行事をする霊泉として信仰を集めてきました。池の中島には元禄6年(1693)にできた石の祠があり弁財天がまつられています。いつの旱魃にも涸れることなく、その豊富な水量で下流の水田の灌漑用水に利用されてきましたが、昭和4711月に涸れつきてしまいました。昭和48312日に狛江市史跡第1号に指定され、復元工事が行われました。(説明板)

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江戸名所図会 和泉村霊泉 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

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亀塚古墳/元和泉

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亀塚古墳
狛江市南部を中心に分布する狛江古墳群は南武蔵でも屈指の古墳群として知られています。これらは「狛江百塚」ともよばれ、総数70基あまりの古墳があったとされています。そのなかでも亀塚古墳は全長40mと狛江古墳群中屈指の規模を誇り、唯一の帆立貝型前方後円5世紀末~6世紀初頭に造られたと考えられています。昭和2628年に発掘調査が行われ、古墳の周囲には周溝があり、墳丘には円筒埴輪列が廻らされ、前方部には人物や馬をかたどった形象埴輪が置かれていることがわかりました。人物を埋葬した施設は後円部から2基(木炭槨)、前方部から1基(石棺)が発見され、木炭槨からは鏡、金銅製毛彫飾板、馬具、鉄製武器(直刀、鉄鏃など)、鈴釧や玉類などの多数の副葬品が出土しました。特に銅鏡は中国の後漢時代(25220年)につくられた「神人歌舞画像鏡」で、これと同じ鋳型でつくられたものが大阪府の古墳から2面見つかっていることから、この古墳に埋葬された人物が畿内王と深く結びついていた豪族であったと考えられています。また、金銅製毛彫飾板には竜、人物、キリンが描かれていて高句麗の古墳壁画との関係が注目されました。現在は前方部の一部が残るのみですが、多彩な副葬品や古墳の規模・墳形などからみて多摩川流域の古墳時代中期を代表する狛江地域首長墳として位置づけられます。(狛江市教育委員会)


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狛江市地図
(赤:品川道 橙:品川道別路 青:野川 緑:旧野川・野川緑地公園)

野川&野川緑地公園の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23104580/

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品川道(府中~狛江)ルート図(赤:品川道 紫:旧甲州街道)

by Twalking | 2017-07-28 19:31 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 飛田給駅   

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京王線飛田給駅/調布市
味の素スタジアムが出来て変わりましたね。駅周辺は綺麗に整備されています。


飛田給駅

調布市飛田給1丁目にある京王電鉄京王線の駅である。副名称は味の素スタジアム前で同スタジアムの最寄駅である。駅名は駅所在地にちなむ。荘園制度が盛んな頃この地は「飛田某(とびたなにがし)」という荘園領主から給された「給田地」であり「飛田給」と名付けられた。また別の伝承では武蔵国の比悲田院の給田地であることから、悲田給(ひでんきゅう)という地名になりそれが転じて飛田給となり、さらに読み方が現在の「とびたきゅう」となったという説がある。(Wikipedia

by Twalking | 2017-07-27 20:20 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道(1)府中~狛江02-調布   

日時 2017.7.21(金)
天気 晴れ

調布境辺りは住宅地で農地も残っていますが、
武蔵台から府中崖線沿いのハケの道へ寄ってみました。
ここは「いきき道」「筏道」と呼ばれた古道のようです。

段差は6m位、大きな樹木の下を歩きましたが
ほのかに古道の香りが残る、いい道です。
調布駅付近では2ケ所旧道があり、標識で確認できました。


・・・白糸台

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街道の風景① 品川道は直進ですが、右折して本願寺へ寄り道します/武蔵台駅北

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車返
車返は現在の白糸台二・四・五丁目の一部(旧甲州街道いききの道沿い)に集落の中心があった村落です。幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』には「家数総て89件、西を上とし、中央を中といひ、東方を下といふ」とあります。古名白糸村と称します。地名の起こりは本願寺の縁起によると源頼朝が奥州藤原氏との戦いの折り、秀衡の持仏であった薬師如来を畠山重忠に命じて鎌倉へ移送中に当地で野営したところ、夢告によってこの地に草庵を結んで仏像を安置し、車はもとへ返したことに由来するといわれます。旧境内跡地(市立第四小学校西側)には彦四郎塚・首塚と呼ばれる古塚が現存し往古をしのばせています。(説明板)

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本願寺山門/白糸台5

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浄土宗八幡山廣徳院本願寺
當山の起源はその昔源頼朝の奥州征伐の折彼地よりもたらされた藤原秀衡守本尊と伝えられる薬師如来をまつったことに始まる。その後、総州の人大久保彦四良兵火に焼かれたお堂を再建し、永正13年(15165)鎌倉光明寺の僧・教譽良懐上人を迎えて中興開山となし一寺の形態を定む。(彦四良塚今なお東部出張所南に現存す)徳川家康の家臣宮崎泰重、當地の領主となり當山4世真譽圓良上人に帰依し、天正2年(1574)境内および堂宇を寄進し寺を現在地に移転させ、この時はじめて當寺を八幡山本願寺と呼称する。

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また将軍家より代々114斗の朱印状下附され、併せて葵紋の使用も許され、以後周囲の発展と歩調を共にし現在に至る。現本堂は昭和475月落慶し、中に本尊阿弥陀如来をまつる。境内の薬師堂には旧地より移された車返開運薬師如来が安置され、御名のごとく旧車返の地名の由来と深い因縁に結ばれている。(境内掲示板)

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車返八幡神社鳥居/白糸台

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車返八幡神社
創立年月不詳であるが、伝えによると天正年中(1573-92)当字本願寺守護神として、同寺境内除地に勧請して、村民あげて産土神と崇敬した。(東京都神社名鑑)


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街道の風景② 府中崖線際を飛田給へ向かう道、古道のようです/本願寺門前

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いきき道
はるか昔、多摩川によって削られてできた高さ6の段丘崖で通称「ハケ」呼ばれる道です。段丘崖の上に続くこの道は府中市内を北の台地部と南の低地部に二分し、江戸時代に整備された甲州街道以前の甲州古道であり、東海道の大井から府中を経て甲州の国府へと続いていました。「いききの道」と呼ばれる道は調布市とのあたりから始まり競馬場の辺りまでを言い、昔奥多摩で切り出された材木は筏に組まれて多摩川を下り東京湾まで運ばれていました。そのときの「筏師」たちが「行き来した道」であることから名づけられた道です。古い街道の面影を今なお残していて春になると「やぶづばき」の赤い花が咲く道として知られています。(府中観光協会)

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府中崖線の坂⑤-おっぽり坂
この坂名は大雨の折に野水の流れによって自然に掘られた大堀に由来するといわれます。この坂の道筋は昔からあふれた野水の流路になっていたそうです。この坂は最初「おおぼり坂」と呼ばれていましたがいつからか「おっぽり坂」とつまった呼び名になったようです。この道を下ったあたりは、一昔まえまで美しい田園が広がっており旅の杖を休めた文化人も少なくありません。はけ道を西へしばらく行くと浄土宗本願寺があります(府中市)

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府中崖線の坂⑥-はけた道/白糸台
この坂ははけた道ともいいます。地元ではこのあたりを昔から「はけた」と呼んでおり、坂名もその呼び名をとっています。これは府中崖線を俗にハケと呼ぶことに由来するといわれています。府中崖線上には古い街道がありますが、これは通称いったりきたりする意味で「いさきの道」と呼び親しまれています。この坂を南に下ると江戸時代に武蔵野新田開発に貢献し代官を務めた川崎平右衛門定孝の出身地押立へ出ます(府中市)

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はけた道の坂上には車返諏訪神社が鎮座しています/白糸台

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案内板等はありませんが、諏訪神社の西側一帯が浅野長政の屋敷跡のようです。


浅野長政隠棲の跡/府中白糸台幼稚園

白糸台5丁目に位置する五奉行筆頭としても辣腕を振るった浅野長政の屋敷跡。長政は、秀吉の死の翌年である慶長49月に前田利長・大野治長等と共に徳川家康暗殺を企んだとして罪状をデッチあげられ、長男の幸長に家督を譲って府中在住の旧家臣平田家の屋敷へ隠居した。但し、翌9月の関ヶ原合戦では東軍に組したため罪を許され家康に近侍するようになり、慶長11年には紀伊国和歌山370000石の幸長の所領とは別に常陸国真壁50000石を隠居料として与えられている。現在は府中白糸台幼稚園となっている。Wikipedia


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飛田給(とびたきゅう)/調布市

良時代以降、荘園を管理する役人であった飛田氏が領主からこの土地を給田として支給されたことに由来するという説と、天長10年(833)多摩・入間両郡の境に置かれたといわれる悲田所(古代の貧窮者、孤児の救済施設)の給地(所有地)にちなむという説があります。江戸時代には上飛田給村と下飛田給村に分かれていました。(「調布の地名」/調布市郷土博物館解説シート)

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街道の風景③ この辺りはまだ農地が残ります/白糸台

調布市内へ入ると飛田給駅方向へ直線の細い道が残るが前述の道とは直接接続していないように見える。この道の延長線上に駅南側からも細く直線的な道が残り、品川みちと看板が立っている。現在の品川通りとは太田塚交差点で合流する。これより東側では現在の品川通りとして拡幅されているため面影は見られない。だが、鶴川通り交差点付近、小島町三丁目交差点付近や調布駅南入口交差点付近から布田三丁目交差点付近にかけての区間などに旧道が残されている。
Wikipedia

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この先飛田給薬師堂で旧甲州街道と合流しますが、品川道はこの二差路を右折して飛田給駅に向かいます。すぐ先に「旧品川街道」の標識が建っています/市境

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街道の風景④ 踏切を渡り左折して道は続きます/京王線飛田給駅前

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旧品川道
品川道は今の府中に武蔵国府がおかれていたころ、国府から東海道に通じる脇街道であったという。その名称は大國魂神社(六社宮)の大祭に用いる清めの海水を品川の海から運んだことによるといわれ、もともとは道幅約1.2mの小道であった。近世になると筏乗りたちが多摩川の上流から河口まで木材を運び、その帰り道に利用していたのでいかだ道とも呼ばれている。このような由緒ある品川道も今では市内のところどころに残るのみである。(標柱)

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道生神社鳥居/飛田給

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道生神社
祭神:宇気母智命(ウケモチノミコト)明治17年に飛田神社(もと稲荷神社)と道生神社(もと山王社)を合祀して道生神社と改められました。旧社地が昭和18年調布飛行場用地となったため現在地に遷座されました。社殿は大正4年の建立。飛田給の鎮守社です。境内は飛田給児童遊園となっています。(調布市観光協会)


・・・上石原・下石原


原は文字通りこの辺りが石原であったということからつけれた地名という説があります。中世の記録に「下石原海老名分」とみえていますがこの下石原は調布の下石原のことと推定されています。多摩川は古代から南北に大きく蛇行して流れていたことが知られています。(「調布の地名」/調布市郷土博物館解説シート)

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街道の風景④ 中央道、西調布駅を通りここで「品川通り」に合流します/太田塚

品川通り

品川道に置き換わる新道としての位置付けで、西端は府中市内車返団地東交差点で押立公園通りから延伸する形でそのまま接続し、調布市内の京王線の南側を東西に走る通り(都市計画調布3410号線)東端は東つつじヶ丘二交差点で終わっているが、今後更に延伸がされ若葉町3丁目付近で都道114号線に接続する計画がある。Wikipedia

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若宮八幡神社鳥居


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若宮八幡神社
仁徳天皇は八幡社祭神応神天皇の皇子にあらせられるので當神社を若宮八幡神社と申す。武蔵風土記に宿の鎮守にて鎮座の年歴を傳へずと記されたように古社であるが遠い昔に祖先を遥かに霊峰富士を仰ぎ清き多摩の流れにうるおうこの里のしずめと豊かなみのりとを希い産業を興し仁慈を垂れられた御事績をたたえて此の処に仁徳天皇をお祀りした。相殿には四社明神が合祀されている。(説明板)

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上石原若宮八幡神社本殿
本殿は覆屋内に建ち一間舎流れ造り、総ケヤキ造りである。身舎の四方に腰組縁をめぐらし、正面に向拝を設け、軒は二軒、正面軒唐破風、屋根はこけら葺きである。板壁部等に説話を主題とした彫刻を一面に飾り付け、向拝柱や長押にも繊細な地文を刻み、極めて装飾性豊かな建物で、江戸時代後期を代表する神社建築として重要である。幣束収納箱の蓋裏に「文化四年 棟梁入間郡中藤沢村 杉田石見頭政永 同喜兵衛」と墨書されており再建年代及び作者も明らかである。(調布市教育委員会)

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上石原若宮八幡とはけの緑(調布八景)
若宮八幡の名は応神天皇の御子、仁徳天皇がお祀りされていることから付けられました。総檜造りの本殿は、こけらぶき一間社流造り、そして全体にわたる精巧な彫刻がみごとで、優美で拡張高いものであり、市の重宝に指定されています。神社の周辺は「はけの緑」に覆われ、上石原鎮守の森は、古くから里人が自慢したといわれる景観です。(調布市)

ちょうふ八景

市制30周年を記念して指定。布多天神と市、調布不動尊と国領神社の千年藤。糟嶺神社と明照院、神代植物公園と深大寺、近藤勇の史跡と野川公園、四季の多摩川と花火、実篤公園と記念館、上石原若宮八幡とはけの緑Wikipedia

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街道の風景⑤ この先の信号と調布駅入口の右手に旧道が残されています/小島町 

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旧道/小島町              旧道入口/駅南入口

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街道の風景⑥ 駅北側に残る旧道、「旧品川道」の標識が建っいます/調布駅

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旧品川道の案内/布田4丁目交差点先
この掲示板の脇に東西につながる道はかつての品川道である。この道は府中にかつての武蔵国府がおかれた頃、相模国から国府に行き来する旅人たちの交通路であるとともに、東海道方面に通じる脇街道であったという。また、府中の大国魂神社(六社宮)の大祭に際してはきよめに用いる海水を品川の海から運ぶ重要な道であった。この品川道は府中から調布を通り、狛江・世田谷を経て品川の立合川付近東海道に結ばれていたという。近世になると筏乗たちが多摩川の上流から河口まで材木を運び、その帰り道に利用したので「いかだ道」とも呼ばれていた。このような由緒ある品川道も市内のところどころに残るのみである(調布市教区委員会)

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この交差点を右に行くと白山神社があります


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街道の風景⑥ 品川通りに合流し国領町へ、この先に椿地蔵があります/布田3

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椿地蔵尊/椿地蔵交差点(品川通り)

シロハナヤブツバキ
ツバキ科 ツバキ属 
昭和30年品川道拡張の際に現位置より約5m北の場所から現在地に移植された。根本から5本に分かれていたが現在は2本を残すのみになっている。品種はシロハナヤブツバキ、樹齢は約7800年と鑑定された。ヤブブバキの白花種をシロハナヤブツバキと呼び、自然状態ではまれに見られるもので観賞用として庭園などで栽培される。市指定天然記念(植物)(調布市教育委員会)

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調布ふるさと散歩道地図
(赤:品川道 橙:旧甲州街道 茶:甲州街道(20号) 青:多摩川・野川)

「調布ふるさと散歩道」の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23086367/


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資料ファイル

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調布市
都心へ約20kmの距離にある。地質学的に言うと調布市は武蔵野台地多摩川低地によって構成されており、武蔵野台地部分は更に武蔵野II面と立川I面に分けられる。武蔵野II面と立川I面の間には国分寺崖線が存在しており、立川I面と多摩川低地の間には府中崖線が存在している。国分寺崖線の比高はおよそ12mである。現在の市域に当たる区域は武蔵国多磨郡内の一部として属した。布田5宿があり甲州街道の国領宿(日本橋より4番目の宿場)・下布田宿・上布田宿・下石原宿と上石原宿(同8番目)がこの地にあった。本陣と脇本陣が無く旅籠だけの小さな宿場であったが布多天神社の市場は賑わった。(写真:ハケ下の府中用水/若宮神社)
調布という名称は昔の税金である租庸調の調(その土地の特産物を納める)で布を納めていたことに由来する。調布と書いて「たづくり」もしくは「てづくり」とも読んでいた。調布市内には布田(ふだ)、染地(そめち)など布にかかわる地名が存在する。江戸時代までは多摩川で布をさらしていた記録が残っている。「多摩川に さらすてづくりさらさらに 何ぞこの児の ここだ愛(かな)しき」という万葉集の歌が布多天神社に残っている。

(奈良時代)市域は武蔵国の多麻郡に属した。現在の府中市に置かれた国府から近かったこともあり、国府に勤務する官人の一部が市域に居住していたと考えられている。

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(平安時代)市域には武蔵七党のうち西党狛江氏村山党金子氏が進出していた。狛江氏の館は現在の晃華学園敷地内に存在したと考えられており平成6年の発掘では館の周囲を取り巻く空堀の跡と思われる遺構が見つかっている。一方、旧金子村(現在のつつじヶ丘1丁目、2丁目、3丁目)は金子氏の所領であったという説もあり、三鷹市新川にある島屋敷跡は金子時光の館跡ではないかと考えられている。鎌倉時代に入ると武蔵国は鎌倉幕府の直轄地「関東御分国」に含まれた。(写真:狛江氏の館跡)

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(戦国時代)1537年、後北条氏と対峙していた上杉朝定深大寺城(写真)を築く。しかし朝定はこの年のうちに後北条氏に本拠地を急襲されて敗れており、深大寺城での戦闘は無かったと考えられている。その後、市域は中条出羽守、太田康資(新六郎、太田道灌の曾孫)、太田大膳亮ら後北条氏の家臣団に分け与えられた。Wikipedia
深大寺城の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23058175/
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大正6年(1917)の地図/調布市郷土博物館
(橙:旧甲州街道 赤:品川道(推定)青:野川を着色しました)


by Twalking | 2017-07-27 13:31 | 東京散歩(新規)