無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 <   2017年 08月 ( 52 )   > この月の画像一覧   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-稲毛神社   

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阿形

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吽形
川崎稲毛神社/川崎市宮本町
青銅製の新しいものですが、
なかなかの威容、凄味があります。


『天地睨みの狛犬』

青銅像籔、内左斗司作。平成3年御大典記念として建立。施工現代彫刻センター。狛犬は左右が阿吽の呼吸をもって鋭い眼光でを厄災を祓うと伝えられています。この狛犬は平成の御大典記念として制作されました。右が天を祓い、左が地を祓うという意味が込められています。上半身についてお願いごとのある方は右の狛犬を、下半身についてお願いごとのある方は左の狛犬を撫でてからご参拝下さい(案内板)

by Twalking | 2017-08-31 14:51 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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愛宕下通り/多摩市
くらくらする
午後の陽ざし、ふ~・・・。

by Twalking | 2017-08-30 14:18 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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松が谷散歩道/八王子市松が谷
落葉一葉
なんと鮮やかなこと・・・
秋の訪れを感じる朝です。

by Twalking | 2017-08-30 11:30 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-六郷神社   

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阿形


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吽形
六郷神社/旧東海道(大田区東六郷)
久し振りに会えました
ユーモラスでついつい引き込まれまてしまします。


狛犬
この狛犬は貞享2年(1685年)に六郷中町の人々が願主となり奉納された。石工は三右衛門である。江戸中期(18世紀)以降造立願意は「現世利益」とするものが多くなるが、この狛犬は「二世安楽」を祈った中世的なものであり注目される。また造形的にも類例を見ない独創的なもので、素朴かつユーモラスな芸術性に富んでいる。狛犬としては区内最古のものであり、造立年代が古いにもかかわらず阿吽ともそろっているのも貴重である。(大田区教育委員会)


by Twalking | 2017-08-29 21:11 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 武蔵新田駅   


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武蔵新田駅/大田区矢口
駅前は踏切を挟んだ商店街、賑やかな商店街を西に行くと新田神社があります。旧跡が多いですからこの街道筋は面白いですよ。


武蔵新田駅
大田区矢口
一丁目にある東急多摩川線の駅である。相対式ホーム22線を有する地上駅。上下線で駅舎・改札が別となっており跨線橋はないため改札内でのホーム間の行き来はできない。「新田」の駅名は駅近くにある新田神社に由来する。しかし、他の地方にも新田と書いて「にった」や「しんでん」と呼ぶ駅が存在していることから、旧国名を冠して「武蔵新田」となった。Wikipedia

by Twalking | 2017-08-29 13:16 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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バスターミナル/多摩センター駅南口
夏の疲れに
ブルーが心地いい・・・。

by Twalking | 2017-08-28 21:19 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道(3)筏道05 矢口   

日時 2017.8.22(火)
天気 曇り


下丸子、矢口はかつての古多摩川の流路であり、
古東海道(平間道)や鎌倉街道が通る要衝の地、
歩いててみたいと思っていた所です。

新田義興にまつわる故事・古跡を訪ねましたが
面白いですね~、興味が尽きません。
また、道を変えて訪ねてみたいと思います。


・・・鵜の木/大田区


大田区の西部に位置し西辺は多摩川に隣接する。東部は環八通りに接し、これを境に東嶺町・南久が原、北部は田園調布南、北東部は西嶺町、南西部から南部にかけては下丸子にそれぞれ接している。
Wikipedia

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増明院山門/鵜の木


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増明院
真言宗智山派。寺伝では寛永2年(1625)長誉阿闍梨が高野山より下向し、青山因幡守(延宝7215日没)の信頼を得、その援助で当寺を開創したと伝えている。「新編武蔵風土記」には開創以前に修験者が住んでいたことを記している。(大田区の寺院)

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光明寺山門/鵜の木


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光明寺
寺伝では天平年間(729749)に行基(668749)が開創し、のち弘仁年間(810824)に空海(774835)が再興して、関東高野山宝幢院と称し真言宗の七堂伽藍が整っていたと伝えられている。その後、寛喜年間(12291232)になって浄土宗西山派の祖・善慧証空(11771247)が再興して浄土宗にかわり、関東弘通念仏最初の道場となり大金山宝幢院光明寺と称するようになった。3世行観覚融は空海の興した密教の道場が浄土宗にかわったため、消滅してしまうことを惜しみ別に高畑(西六郷)に真言宗の一寺を建立し、同じく金山宝幢院光明寺と命名し、前者は寺号を後者は院号を常時称することとした。なお高畑宝幢院はのちに大網山と改称した。延応元年(1239)に浄土宗鎮西派の第3祖然阿良忠(11991287)が中興し、このときから鎮西派にかわり現在に至っている。(大田区の寺院)

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御影堂                鐘楼


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光明寺荒塚古墳1号墳
光明寺本堂右手に残る上墓(ウワンバカ)地区に残存する。直径23.4m、高さ4mの円墳。墳丘に円筒埴輪が並べられていた。
光明寺荒塚古墳2号墳
すでに消滅しているが、発掘調査により「1号墳」の西から周溝が検出されて、直径16.5mの円墳であったことがわかっている。
これらは都道環状8号線の建設工事関連の発掘調査(19931994)により旧石器時代の生活跡、縄文時代の遺物の出土、弥生時代の方形周溝墓の発見に加えて「荒塚」が古墳として確認され、また近世にわたる火葬墓や集石墓も大量に発見され、2千年にわたる日本の墓制をたどる貴重な遺跡。台地斜面には「光明寺横穴墓群」(古墳~奈良時代)がある。(光明寺地区遺跡調査/大田区)


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光明寺池
『池。書院の前にあり。光明寺池と云。東西150間南北50間許。相傳ふこの池古の多摩川筋にて、矢口村の沼に続しと、近き頃までは池と沼との間に塘ありしに、今は古のさまを失ひ、沼も亦水田となれり』と新編武蔵風土記稿に記されています。現在フェンスで覆われていて中はみれません。
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江戸名所図会 光明寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

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鵜ノ木光明寺道
鵜ノ木光明寺道は現在の大田区鵜の木1丁目にある「光明寺」へ向かうための道でした。現在、光明寺道を示す道標は品川区内に1基、大田区内に1基しか残っていません。現存する品川区内の道標は荏原町商店街の中ほど、中延五丁目11番の庚申堂のすぐ脇にあります。高さ1.15m駒形の平たい石で、正面に「是より右 うの木光明寺道 左池かミ道」と刻印され左側面には「天明三 卯5月」と刻まれていることから天明3年(1783)に建てられたものとわかります。この光明寺への道ですが主な道筋は3つありました。その一つ目は東海道南品川宿から大井村を通り、池上道をさらに多摩川の平間の渡し方向に進む道、二つ目は中原街道を平塚橋でわかれ中通りを通って馬込村・上池上村・久ヶ原村を通る鵜ノ木新田道、この道は下丸子池上道合流して平間に至る道筋です。三つ目は東海道をさらに南下して六郷でわかれ多摩川沿いに北上し、新田神社から光明寺への「いかだ道」を利用する道筋などがありました。品川区内で唯一の中延五丁目にある光明寺道を示す道標は二つ目の鵜ノ木新田道の道筋に建てられた道標です。 (「江戸時代の道」7/品川区)
地図は『東京古道散歩』/萩窪圭氏著を参照しました。


・・・下丸子/大田区


大田区の南西部に位置する。北辺は大田区鵜の木に接する。北東部は概ね環八通りに接し、大田区千鳥に接する。南東部は大田区矢口に接する。南辺及び西辺は多摩川が流れ、これを境にして南側で川崎市幸区古市場、南西から西側で南から川崎市中原区上平間・中丸湖・下沼部と接する。町域内を多摩堤通りとガス橋通りが通っている。多摩川沿いには旧堤通りが通っている。また対岸の川崎市側の中原区上平間とはガス橋で繋がっている。
Wikipedia

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街道の風景① この道が平間の渡しへ向かう平間道でしょうか/下丸子駅

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蓮光院武家屋敷門/下丸子


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蓮光院
当院は寿福山蓮光院円満寺と号し、院号を公称している。本山直末寺院で開基は不詳であるが、中興開山源清は天正2年(157438日示寂。本尊大日如来を安置す。享保元年(1716)本堂類焼し同2年これを再建、更に明治45年(1912)改築、昭和14年(1939)現住職により本堂庫裡を増改築し山門を建立したが、昭和20年(1945415日戦災に罹り山門を残して灰燼に帰した。昭和31年(1956)から引続き本堂、庫裡、書院、山門を修復し現在に至る。また六阿弥陀第五番、玉川八十八ヶ所第五十九番の札所として古くから信仰され、村社六所神社および末社諏訪神天祖神社別当寺として村の行事一切をおこなっていた。境外仏堂に三体地蔵があるが討死した新田義興従臣3を祀ったものといわれる。(大田区の寺院)

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武家屋敷門
備前池田家表門であったと伝えているが詳かではない。格式からすると小大名の武家屋敷表門としては格調の高い様式を備えており、構造、形式ともによく保存されている。家格に応ずる江戸時代各種武家屋敷門のうちでも、とくに遺存例の少ない15万石の小大名格の形式をよく伝えており希少な文化財として貴重である。建築者は不明であるが、建築年代は江戸時代末期と推定され、構造は一重、入母屋造、桟瓦葺、片番所格子付、片潜門。(東京都教育委員会)

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六所神社鳥居/下丸子


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六所神社
文暦元年(1234)に、荏原左衛門義宗が多摩川の下流に六柱の神を祀ったのが当社の始まりであると伝えられている。江戸期には下丸子村の鎮守であった。(大田区の神社)

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長福寺山門/下丸子


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長福寺
下丸子平川家所蔵の古文書中、慶長期の検地帳に長福寺所有地のことが見える。また「新編武蔵風土記稿」によれば新義真言宗西明寺の末、長明山と号し、歴代墳墓中に元禄10年(169723日に示寂した範宗のものがあるが、開山の年歴は不詳とある。寺伝によれば最明寺時頼の草創といわれる本寺、西明寺と同じ頃に建立され村民の観音信仰祈願所であったという。昭和9年(1934)の耕地整理の際、隣接の寺有畑地に移転し現在に至ったが、ために樹齢4500年の大銀杏が今は境内の外になった道路わきにある。(大田区の寺院)

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境外仏堂の三体地蔵尊

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妙連塚三体地蔵堂由来
土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎は新田義興公の家臣で難に当って公に殉じた忠烈の士である。即ち此に祀る。抑々義興公は新田義貞公第二子で、後醍醐天皇の御前に元服し賜名、叙位、任官の思栄に浴し、又明治天皇の特旨を以て従三位を賜られた南朝の忠臣である。一生を吉野朝興復に捧げ東征西伐勲功著しく特に鎌倉を攻略して関八州に号令した事もあった。稚国大いに恃まれたが正平131010日敵の奸謀に陥って矢口渡に於て従臣13士と倶に壮絶散斃した。是とき土肥等三士は潜水渡河して数百の敵中に斬込み奮闘時餘5人を討取り13人に傷を負はせたが如何せん裸身一剣、大敵の前に施す術なく遂に同じ枕に討死した。此地は其の古跡である。嗚呼忠勇義烈洵に鬼神をも泣かしめる。当寺村老等相謀って主従夫々縁由の地に篤く祀ってその霊を慰めた。而して後年妙蓮と称す尼僧があって特に三勇士の為に地蔵尊を建立して敬共懈らなかった。里人これよりその名を冠して呼び且つ安産子育息災繁昌を祈って詣寶今日に至った。時遷り世替り四囲亦昔日の俤を偲ぶべくもないが、雄士の遺烈は昭々として明らかに今なほ万人に景仰されるところである(地蔵堂石碑文)

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下丸子駅周辺地図(赤:筏道 橙:平間街道 紺:六郷用水)


・・・矢口/大田区


矢口は渡船で名が知られる。1358年(延文3年)新田義興がこの矢口渡で謀殺され、住民が義興を祀って新田神社を創建した。義興の頃の多摩川は現在よりも大きく東に湾曲しており渡船場は現在の新田神社付近にあったと思われる。その後の渡船場は流路の変遷と共に何度か位置を変え、江戸中期東八幡神社の南に落ち着いた。地域の南北を鎌倉街道が縦貫していた。現在の東八幡神社前から新田神社前の商店街を経て地域の北西端に至る道である。江戸時代の地名は荏原郡矢口村であった。
1889(明治22年)周辺8ヶ村を編入して村域を拡大、旧村域は大字矢口となった。1932年(昭和7年)矢口町は11ヶ村に分離し大字矢口が鎌田区矢口町となった。1949年(昭和24年)多摩川大橋が完成し中世以来続いた矢口の渡しは廃止された。地名は日本武がこの地で矢合わせをしたことによると伝えられるWikipedia)

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街道の風景② 駅前交差点から南西に向かいます/屯兵衛地蔵前

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次の交差点を右折/駅前交差点      ガス橋通りを横断

ガス橋
多摩川河口から10.5km上流の位置にあり大田区下丸子と川崎市中原区上平間の間に架けられている。名称は東京ガスが鶴見製造所で製造した大量のガスを東京に供給するために作られたことに由来する。1931年(昭和6年)に「瓦斯人道橋」として開通、1936年(昭和11年)ガス管が増設された。戦後は周辺の橋が増大する交通量に対応しきれなくなり1960年(昭和35年)に現在のガス橋が完成、車両の通行が可能となった。Wikipedia


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地蔵菩薩立像(俗称頓兵衛地蔵)
頓兵衛はこの付近で起きた新田義興の謀殺事件をもとに江戸時代に作られた浄瑠璃「神霊矢口渡」(平賀源内作)の話に船頭役で登場する人物の名である。この地蔵はいつしか頓兵衛が謀殺に加担したことを悔いて、その冥福を祈って建てたものと伝えられ、新田義興に関わる伝説のひとつとなった。
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義興の事件とは南北朝時代に活躍した南朝方の勇将新田義貞の子義興が、延文
3年(南朝)、正平13年(北朝)(1358)、北朝の足利方にねがえった旧臣竹沢右京亮や江戸遠江守らに謀られ、矢口の渡しで船を沈められて悲惨な最期を遂げたというものである。(大田区教育委員会)

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街道の風景③ 矢口の渡しへの古道、鎌倉街道下見道のルートです/新田神社前

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武蔵新田駅              二差路を右折して新田神社へ

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新田神社鳥居/矢口


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新田神社の由来
昔、日本中で戦いが続いていた「室町時代」。新田義興公というとても強くて勇敢な武将がいました。義興公は新田義貞公の次男として生まれ子供のころの名前を徳寿丸といいました。青年になった徳寿丸の勇敢な姿を見た後醍醐天皇が武士の位と義興という新しい名前を授けて下さいました。その頃日本は国が南と北に別れ、争いを繰り返していました。義興公は天皇を守るために戦いました。そして、勇気と知恵でどんな大軍にも打ち勝ったので、武将として有名になりました。大勢の敵が襲ってきても義興公が負けることはありませんでした。敵の武士たちは、義興公のことが怖くてたまりませんでした。そこでいくさでは義興公に勝てないので卑怯な作戦を立てました。敵の竹沢江戸という武士が見方の降りをして義興公に鎌倉で戦うことを進めました。それを信じた義興公は鎌倉へ行くために多摩川の矢口の渡というところから船に乗りました。ところが義興公の乗った船は敵に襲われて沈んでしまったのです。(13581010)

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義興公が敵に騙されて死んでしまった矢口では、不思議なことが起こりはじめました。夜になると、ぽうっと怪しい光が現れるようになり雷がたびたび落ちるようになりました。それから、もっと不思議なことに義興公を裏切った人は次々と義興公の怨霊に悩まされ狂死しました。それを見た村人たちは義興公の祟りを鎮めるために義興公の墳墓の前に神社を作ることにしました。こうして村人たちは新田神社を作り、義興公を「新田大明神」としてあがめたのです。やがて義興公は村人や旅人の「運を開き守り、幸せに導く霊験あらたかな神様」として人々から広く崇敬されるようになりました。義興公の物語は江戸時代には平賀源内によって歌舞伎・浄瑠璃「神霊矢口渡」というお芝居にもなり、其の壮絶な生涯は今も語り継がれています。(説明板)

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御神木
この樹齢700年に及ぶ欅は過去において落雷や戦災によって幹が大きく裂けているが、毎年新緑の季節には青々とした葉を繁らせる。また、古木上部にはとても珍しい「寄生木(植物)」が寄生しており、早春淡黄色の小花が咲く。このためこのご神木に触れると「健康長寿」「病気平癒」「若返り」の霊験があるという古老の言伝えがある。(説明板)

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矢口新田神君之碑(大田区指定文化財)
延享3年(1746)に石城国(福島県)守山藩主・松平頼寛が造立した碑で、新田神社の祭神・新田義興公の事社創建の由来を記している。篆額の字は頼寛の自筆で、撰文は儒者服部南郭、書は松下烏石(葛辰)である。本区に数少ない江戸期の記念碑として注目される。(大田区教育委員会)

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宝物殿                末社稲荷神社

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古矢口の渡し
現在の矢口の渡しは多摩川大橋付近に区内最後の渡し船として残っておりましたが、昭和24年に多摩川大橋が完成すると廃止になりました。多摩川の流路の変遷は著しく、現在の下丸子の地も江戸時代中期までは上丸子・中丸子と同様に河南(神奈川県側)でした。そこで「武蔵演路」「新編武蔵風土記稿」等の様々な古文書や史跡跡の位置などから推測すると、義興公が渡られた当時(1358年)の多摩川は光明寺池から現在の新田神社のすぐ裏手を流れており、古矢口の渡しは「妙連塚三体地蔵尊」と「屯兵衛地蔵」を結んだ辺りではないかと思われます。(新田神社史跡紹介)

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江戸名所図会 新田神社 真福寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

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諏訪神社鳥居/矢口


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諏訪神社
新田神社からほど近いところに鎮座する氷川神社。御祭神は、嵐や疫病を司り災いから人々を守るとされる素盞鳴尊(すさのおのみこと)。拝殿前には一対の狛犬、すぐ横には柵に囲まれた「三社稲荷」が並ぶ。隔年8月に行われる例大祭では広い境内が大勢の人々で埋め尽くされるが、日常は静かな境内に整備され遊具で遊びまわる子どもだちの声が響く(多摩川七福神)

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花光院山門/矢口


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花光院
「新編武蔵風土記稿」によれば古くは福田山蓮花寺と称し、六郷宝幢院末で開山快智は延宝2年(1674)示寂すとある。矢口新田神社別当・同宗真福寺が大正末年に廃寺となり当寺に合併された。再三無住時代があり、長年住職をする者がなかった様子で資料等皆無に等しく、また今次戦災で全焼したため沿革を詳かにしえない。(大田区の寺院)

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今泉神社鳥居/矢口


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今泉神社
御祭神:誉田別命 御由緒:不詳
『八幡宮 境内にあり、村の惣鎮守なり、勧請の年代を傳へず、社は四間四方、前に鳥居をたつ、両柱の間七尺、祭礼年々八月十五日なり』(新編武蔵風土記稿)

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街道の風景④ 新田商店街の外れ、信号先が十寄神社になります 

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阿弥陀如来と庚申塔          新田神社の道標

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十寄神社(とよせ)鳥居/矢口

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十寄神社
御祭神:新田義興命・世良田右馬助義周命・井伊弾正左衛門直秀命・大嶋周防守義遠命・由良兵庫助命・由良新左衛門命・新藤孫六左衛門命・堺壱岐権守命・土肥三郎左衛門命・南瀬口六郎命・市河五郎命
正平7215日(1352)足利尊氏追討のため宗良親王を奉じ挙兵した新田義興公に祭神らも従って人見原(府中市)金井原(小金井市)小手指原、高麗原(埼玉県)で戦い遂に鎌倉を占領、一時は東国八州を治めた。世にこの戦を武蔵野合戦と云う。正平13年(1358420日足利尊氏の死により足利基氏は新田義興公の勢力を恐れ北武蔵の安定化のため義興公の謀殺を図った。足利幕府執事の畠山国清は、武蔵野合戦で義興公に従った竹沢右京亮江戸遠江守江戸下野守と奸計をめぐらし、それぞれの所領没収の罪科に処されたと偽称せしめ義興公に救援挙兵を求めさせた。

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義興公はこの謀略にかかり竹沢・江戸らと合流して足利基氏・畠山国清を討つべく正平131010日その支族および近習の将兵十数名とひそかに鎌倉に向うため多摩河矢口の渡し舟に乗った。江戸遠江戸守らは予めこの舟に穴をあけていたため、義興公らは河中において進退谷まり遂に壮烈な自刃或は渡岸し江戸・竹沢の軍勢と奮戦したが悉く憤死した。(矢口渡・津の戦)その後、祭神らの忠烈を崇め村老らが墳墓を築き、社祠を興し一社の神として合祀して十騎神社と名付け南朝につくした功績を称讃した。(境内掲示板)

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江戸名所図会 十騎社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

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延命寺山門/矢口

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延命寺
開山は鎌倉光明寺2世白籏寂恵良暁(嘉暦3年歿)で、村民の請願により弘安年中念仏宣布の道場として蓮花寺を開創したが、延文年中(135660)雷火のために堂字を焼失した。永緑年間に至って中興2世芳誉により、火難をのがれた延命地蔵を奉安して、現在の地に堂字を建造し延命寺と称した。文化4年(180719世法誉が改修。明治初期には4面五百羅漢彫刻の地蔵堂が23世戒誉により建立された。本堂、庫裡は大正12年(1923)の震災により破損し、昭和7年(1932)明誉徳賢代に修復したが、今次大戦の空襲によって昭和24年(19494月灰燼に帰した。現在の本堂は昭和33年(1958)、庫裡は昭和31年(1956)再建したものである。当寺には年中行事の夕に双盤念仏会があり十夜法会、春秋彼岸会または孟蘭盆会などに鐘、太鼓を打ちつつ1廻り約1時間念仏を称える集りがあり、11234日の両日には夜を徹して行われる。(大田区の寺院)



・・・・・
資料ファイル

新田義興
南北朝時代の武将。新田義貞の次男1337年(建武4)奥州の畠山顕家が西上する。これに呼応して上野で挙兵し、顕家の奥州軍に加わる。吉野で後醍醐天皇に謁見し、元服。父義貞の戦死後、越後に潜伏したと見られる。観応の擾乱(じょうらん・将軍足利尊氏と弟直義の間に起った争い)が起こると鎌倉の奪還を目指して上野国で北条時行らとともに挙兵する。正平一統が破綻すると1352年(正平7/観応3年)に宗良親王を奉じて弟義宗、従兄弟脇屋義治と挙兵し(武蔵野合戦)、鎌倉を一時占拠するが尊氏の反撃にあって鎌倉を追われる。尊氏が没した半年後の1358年(正中13/延文3年)義興は尊氏が亡くなったことを時期到来とばかりに鎌倉奪還のため挙兵、鎌倉をめざした。これに対し尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と関東管領の畠山国清は、竹沢右京亮と江戸遠江守にこの迎撃を命じた。はじめ竹沢は少将局という美女を義興に与えて巧みにとり入り、謀殺の機会を狙ったが果せず、江戸遠江守とその甥江戸下野守の協力を求め、江戸遠江守は甥の下野守とともに三百余騎を率い『太平記』によると一族の蒲田忠武も首謀者のひとりとして参加していたとされる。1010日(1111日)義興と主従13人は多摩川の矢口の渡しで謀殺された。享年28その後江戸遠江守、竹沢右京亮らは入間川御陣の足利基氏のもとへ馳せ参じ、忠功抜群として関東管領の畠山国清に褒賞され、それぞれ数カ所の恩賞地を拝領したが、江戸某が義興の怨霊により狂死したため、現地の住民が義興の霊を慰めるために神として祭ったという記述が『太平記』にある。後に新田大明神として尊崇される。人形浄瑠璃の『神霊矢口渡』はこの事件を扱ったものである。東急多摩川線の武蔵新田駅の「新田」は、新田大明神を祭った新田神社に由来する。義興は出自が低い側室の子であり、父の義貞からは疎まれていたようである。また、北畠顕家の軍勢に同行していたことが顕家に対抗意識を抱いていた義貞の不興を買った。1352年(正平7/観応3年)長楽寺に対して義興が発給した狼藉を禁止する趣旨の文書が残っている。Wikipedia

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江戸名所図会 矢口故事 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用



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武蔵野合戦
南北朝時代の観応の擾乱における合戦の一つ。1352年(正平7/文和元年)閏2月から3月にかけて武蔵国・相模国の各地において、足利尊氏ら北朝方の軍勢と新田義興・新田義宗ら南朝方の軍勢との間で行われた一連の合戦である。

(
背景) 観応の擾乱により北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂し、激しい戦いを繰り返した。尊氏は南朝と和睦し、鎌倉の足利直義を攻撃する。年末に駿河で行われた両軍による薩埵峠の戦に勝利した尊氏は翌1352年直義を降伏させ、鎌倉に入った。直義は2月に急死したが、『太平記』ではこの急死に関して「毒物を口にして亡くなったという変死(もしくは毒殺)のうわさ話」があったと記している。

(経過)1352年(正平7/文和元年)南朝方の畠山親房は、北朝方の不和をつき東西で呼応して京都と鎌倉の同時奪還を企てる。閏215日、新田義貞の遺児新田義興・義宗は鎌倉奪還を目指し、従兄弟の脇屋義治や南朝に降伏していた北条時行らとともに上野国で挙兵した。また同時に征夷大将軍に任じられた宗良親王信濃国で諏訪直頼らと挙兵した。新田義興ら南朝勢は、鎌倉街道を南下した。南朝勢には、尊氏に反発する直義派の武将も多く参加したと言われる。尊氏は鎌倉を出て武蔵国狩野川に布陣し、南朝勢を迎え撃つ構えを見せた。南朝勢は閏218日に鎌倉を占領したが、閏220金井原(小金井市)および人見原(府中市)にて足利勢と合戦(人見ヶ原の合戦)を行った。双方とも相当の損害を出したと言われる。尊氏は、武蔵国石浜(台東区・場所には諸説あり)に撤退し、勢力の回復を図る。新田義宗は笛吹峠(埼玉県鳩山町嵐山町境)に陣を敷き、宗良親王ら信濃勢や直義派であった上杉憲顕と合流した。閏228日、足利勢と新田勢は高麗原(埼玉県日高市)・入間河原(同狭山市)・小手指原(同所沢市)で合戦となったが、足利勢が勝利した。敗れた義宗は越後方面、宗良親王は信濃方面に落ち延びた。一方、新田義興・脇屋義治・北条時行は三浦氏の支援を受けて、足利基氏の軍を破って鎌倉を占領したが、義宗勢の敗北を知り持ちこたえられないと判断したため、32日鎌倉を脱出し、相模国河村城(神奈川県足柄上郡山北町)に立て籠もった。312日尊氏は鎌倉を奪還した。敗れた義興と義治は越後に逃亡するが、北条時行は鎌倉付近で足利基氏の手の者に捕らえられ、翌1353年に瀧ノ口にて処刑されたWikipedia

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by Twalking | 2017-08-28 16:35 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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乞田川/多摩市落合
強い西日に煌めく古木
なんだか不思議な感じ
夏もそろそろ終わりかな・・・。


by Twalking | 2017-08-27 21:33 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 下丸子駅   

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東急多摩川線下丸子駅/大田区
なかなかいい感じの駅ですね。
附近を古多摩川が流れ、鎌倉街道の下道の道筋にあたります。
いずれまた鎌倉道として歩きたいと思っています。


下丸子駅
大田区下丸子三丁目にある東急多摩川線の駅である。相対式ホーム22線を有する地上駅。多摩川方面ホーム、蒲田方面ホームにそれぞれ改札がある。かつては構内踏切があり、改札内での両ホームの往来が可能であったが、撤去されてからは改札を一旦出場しないと両ホームの往来は不可能である。駅名は駅所在地が丸子荘の一部(下部地域)であったことと、開業当時の所在地が荏原郡矢口村大字下丸子であったことに由来する。Wikipedia

by Twalking | 2017-08-27 19:13 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02   

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山王下緑地/多摩市山王下
厳しい残暑ですが
里山に秋の気配が漂い始めました。
もうちょっとの辛抱でしょうか。


クズ
(葛)
マメ科クズ属のつる性多年草である。日本では根を用いて食材の葛粉や漢方薬が作られ、万葉の昔から秋の七草の一つに数えられている。和名は、かつて大和国(現:奈良県)吉野川(紀の川)上流の国栖(くず)が葛粉の産地であったことに由来する。地面を這うつるは他のものに巻きついて10m以上に伸び、全体に褐色の細かい毛が生えている。葉は三出複葉、小葉は草質で幅広く大きい。花は8-9月の秋に咲き、穂状花序が立ち上がり、濃紺紫色の甘い芳香を発する花を咲かせる。花色には変異がみられ、白いものをシロバナクズ、淡桃色のものをトキイロクズと呼ぶ。花後に剛毛に被われた枝豆に似ている扁平な果実を結ぶ(Wikipedia

by Twalking | 2017-08-26 15:18 | ○Flower