無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 <   2017年 09月 ( 61 )   > この月の画像一覧   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道踏切   

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品川道踏切/大井町駅(品川区東大井)
大井三つ又から商店街を抜け南品川へ下るのが
品川道の推定ルートだったようです。
マイナーでも踏切に名残があると嬉しいですね。


by Twalking | 2017-09-30 22:13 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 河童像-品川神社   

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品川神社/品川区北品川
『屁の河童』じゃないよ、オイラは 
水難除け、無病息災の願いを込めて 
ちゃんとここに奉られたんだからね。


by Twalking | 2017-09-30 09:58 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

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東海寺大山墓地/品川区北品川
いいお天気だね、
ムギワラトンボさんかな??


シオカラトンボ
(塩辛蜻蛉)
湿地帯や田などに生息する中型のトンボである。体長50-55mm、後翅の長さは43mm前後の中型のトンボ。雌雄で大きさはあまり変わらないが老熟したものでは雄と雌とで体色が著しく異なっている。雄は老熟するにつれて体全体が黒色となり、胸部から腹部前方が灰白色の粉で覆われるようになってツートンカラーの色彩となる。この粉を塩に見立てたのが名前の由来である。雌や未成熟の雄では黄色に小さな黒い斑紋が散在するのでムギワラトンボ(麦藁蜻蛉)とも呼ばれる。稀に雌でも粉に覆われて"シオカラ型"になるものもあるが複眼は緑色で、複眼の青い雄と区別できるWikipedia



by Twalking | 2017-09-29 22:10 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狐さん-梶原稲荷神社   

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阿形


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吽形
梶原稲荷神社/品川区東大井
梶原伝説が伝わる「梶原塚」を護る狐さん、
へびだんだんを上った奥にひっそりと佇んでました。

by Twalking | 2017-09-28 22:17 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ユリ   

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愛宕下通り/多摩市愛宕
雑木林の隅にひっそりと
黄色のユリ一輪、鮮やかなこと。
石で囲ってるから移植したのかな。

by Twalking | 2017-09-28 18:37 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ムラサキシキブ   

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ムラサキシキブ
上之根公園/多摩市愛宕
おはよう~!
雨あがったねようだね。


ムラサキシキブ(紫式部)

シソ科の落葉低木である。日本各地の林などに自生しまた果実が紫色で美しいので観賞用に栽培される。高さ3m程度に成長する。小枝はやや水平に伸びる。葉は対生で長楕円形、鋭尖頭(先端が少し突き出すこと)、長さ6-13cm。細かい鋸歯がある。黄緑で洋紙質、薄くて表面につやはない。花は淡紫色の小花が散房花序をつくり葉腋から対になって出て6月頃咲く。秋に果実が熟すと紫色になる。果実は直径3mmで球形。栽培品種には白実のものもある。名前の由来は平安時代の女性作家「紫式部」だが、この植物にこの名が付けられたのはもともと「ムラサキシキミ」と呼ばれていたためと思われる。「シキミ」とは重る実=実がたくさんなるという意味。Wikipedia


by Twalking | 2017-09-28 13:57 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 乞田川の風景10-初秋   

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乞田川/多摩市落合
秋晴れの好日
そよぐ風が爽やかです
川辺の気配も変わっていきます。

by Twalking | 2017-09-27 22:19 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 花束-高輪   

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『花束』
SHIN HONGO-1971
品川区高輪
街角で出会ったモニュメント
なんだか不思議な感じ
でも、素敵ですね~、魅せられました。


本郷新

19051980 昭和時代の彫刻家。明治38129日生まれ。高村光太郎に師事。国画会をへて昭和14年新制作派協会彫刻部創設に参画。おおくのモニュメントを制作し、戦没学生記念像「わだつみのこえ」で28年日本平和文化賞受賞。昭和55213日死去。74歳。北海道出身。東京高等工芸(現千葉大)卒。作品はほかに「氷雪の門」など。(コトバンク)


by Twalking | 2017-09-27 12:25 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 二十歳の龍馬像-立会川   

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二十歳の龍馬像
立会川商店街通り/品川区東大井
京急を挟んで丘側には土佐高知藩山内家下屋敷、街道側河口には抱え屋敷がありました。嘉永6年(1853)高知藩は藩独自でここに浜川台場を構築し、防衛にあたります。『異国船処々来り候へば、軍も近き内と存じ奉り候、其節は異国の首を打取り…』と父宛にに書き送った坂本龍馬、江戸入りした若き龍馬の足跡が残ります。


by Twalking | 2017-09-26 23:12 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(蒲田~品川)03-東大井   

日時 2017.9.19(火)
天気 晴れ

名所図会にも描かれていますが街道は海岸線を
品川宿に向かいます、ここは猟師町ですね、
勝島運河にその名残を感じます。

江戸の頃は一帯の丘は大名の下屋敷がありました。
丘の上は平間街道、海べりは東海道、
時代は違いますが見比べると面白いですね。



・・・南大井/品川区


品川区の南東部に位置する。北部は立会川に接しこれを境に東大井に、東部は勝島に、南部は大田区大森北・大森本町に、西部は大井・大田区山王にそれぞれ接する
Wikipedia

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街道の風景① 旧道を立会川へ向かいます、右奥は現在品川区民公園です/南大井


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浜川神社/南大井


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浜川神社
当社の発祥は江戸期の修験である。天明頃(1781-1789)に福島三右衛門という者が富士山、高尾山そして出羽羽黒山で修行して羽黒修験となり、自宅に厄神大権現を祀ったのが当社の始まりであるといわれている。三右衛門はのちに教光院了善と称したが、江戸城大奥の女中や諸大名から篤い尊信を受けていた。天保13年(1842)に了善は町奉行鳥居甲斐神のために穽られて流罪となったが、嘉永3年(1850)放免され、嘉永5年(1852)に了善の孫大野良顕が再興した。明治維新の神仏分離の際に当社は神社となって浜川神社と称し、良顕が還俗して神職となって奉仕した。当社は江戸期には厄神と呼ばれて厄除けの神として尊崇されていたが、元来地元の鎮守でないため氏子がなく信徒が各地に散在しを結成している。信徒が特に多いのは東京湾を隔てた対岸の房総沿岸地域で、木更津から佐貫、鴨川にかけての漁村の人々の信仰を得ている。江戸期には祭日にこれらの人達が舟で東京湾を横断して当社の前に上陸し、その日当社に参籠して翌日高尾山に参拝登山したといわれている。(品川区の文化財)

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天祖神社鳥居/南大井

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天祖・諏訪神社
昭和40(1965)に旧東海道沿いに立会川を挟んで並んで鎮座していた天祖神社(南浜川鎮守)と諏訪神社(北浜川鎮守)が合祀してできたものである。天祖・諏訪神社のひとつであった天祖神社は、建久年間(1190 - 1199)の『大井郷之図』に神明社(天祖神社の旧名)としてその姿を確認することができるからそれ以前の創建と考えられる。元は別当寺である来福寺(正暦元年・990の創建)の境内にあったとも伝わっている。諏訪神社は、松平土佐守の下屋敷の海岸寄りにあり、寛永8年(1631)以前の言われている。その後、昭和40年(1965年)に天祖神社の改築に伴い、両神社が天祖神社のある場所に合祀された。同時に南大井二丁目にある浜川神社から東海七福神の福禄寿を移した。Wikipedia

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境内                 厳島神社

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川の風景① 立会川が勝島運河に注ぎます、河口には浜川砲台がありました/浜川橋

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立会川(たちあいがわ)
目黒区および品川区を流れ東京湾に注ぐ二級河川。全長7.4km。東京都目黒区にある碑文谷池清水池に源を発し、南東方向へ流れる。昭和20年代までは魚やザリガニが棲むきれいな小川であり、子供たちの絶好の遊び場であったが、現在では大部分が暗渠となり、道路(立会道路)や緑の豊富な遊歩道、公園などになっている。名は以下のように複数の説があるが定説となるものは無い。その昔、川を挟んで小競り合いがあったことから「太刀会川」とした。鈴ヶ森刑場へ送られる罪人をその親族や関係者が最後に見送る(立ち会う)場所であることから「立会川」となった。中延の滝間(たきあい)という地を流れていたので滝間川(たきあいがわ)と呼ばれ、それが現在の立会川に変わった。Wikipedia

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浜川橋 
立会川がに注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられたこの橋は、またの名を「涙橋」ともいいます。この橋が架けられたのは徳川家康が江戸入府後の1600年頃と思われます。現在の橋は昭和9年(1934)に架け替えられたものです。
涙橋の由来
慶安4年(1651)品川にお仕置場(鈴ヶ森刑場)が設けられました。ここで処刑される罪人は裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。この時、親族らがひそかに見送りにきてこの橋で共に涙を流しながら別れたということから「涙橋」と呼ばれるようになりました。(品川区教育委員会)


・・・東大井

品川区の南東部に位置する。北辺は都道420号鮫洲大山線に接しこれを境に南品川・東品川に、東辺は京浜運河に接しこれを境に八潮に、南東は勝島運河に接しこれを境に勝島に接し、南辺は立会川に接しこれを境に南大井に、西辺は東海道本線などの線路に接しこれを境に広町・大井にそれぞれ接する。京急本線が第一京浜と平行して走っており、鮫洲駅と立会川駅が設置されている。両駅付近には旧東海道が通っている(Wikipedia

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川の風景② 勝島運河に沿って「しながわ花街道」の散策路がついてます/立会川河口

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浜川砲台の大砲/新浜川公園
嘉永6年(18536月、アメリカ合衆国はペリー提督の率いる4艘の艦隊を日本に派遣して開国を迫った。国書を幕府に渡すと来春、再来航するとしてペリーは去った。日本側は、次回は戦争になると想定して江戸湾の防備に力を入れることになる。土佐藩はここに鮫洲抱屋敷を持っていたので、砲台を造ることを幕府に願い出た。嘉永7年(18541月ペリー艦隊が再来航した時、急遽、土佐藩が造ったのが浜川砲台である。六貫目ホーイッスル砲一門(復元)・一貫目ホーイッスル砲二門・鉄製五貫目砲五門計八門を配備した砲台だった。ここに復元したのは六貫目ホーイッスル砲である。実物のない他藩では丸太を大砲らしく見せた偽物もあった中で土佐藩の装備は江戸っ子の評判も上々で、次のような狂歌も作られている。「品川の固めの出しのよくきくは下地もうまくなれし土佐武士」(品川の固め場(守備陣地)の良く効果的であったのは、準備もうまい熟練の土佐のサムライだからだ)。これは土佐の鰹節にかけた狂歌で堅目のダシの良く効くは、料理の下ごしらえも上手くできる土佐ぶし(鰹節)だからだという意味である。この浜川砲台に佐久間象山塾で大砲操練を学んだ20歳の坂本龍馬がいたのである。(説明板)

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街道の風景② 鮫洲までわずかなので丘側の大名屋敷跡に寄り道します/浜川橋先

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龍馬が世界と出会ったまち品川/北浜川児童遊園

ペリーが初めて来航した嘉永6年(185319歳の坂本龍馬は藩からの許可を得て江戸で剣術修業中でした。土佐藩は立会川河口付近にあった下屋敷(今の品川区東大井)警備のため江戸詰めの武士を動員し龍馬もその中に加わりました。同年9月には「異国船処々来り候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候、其節は異国の首を打取り」と父親に手紙を書いています。品川での黒船警固から龍馬の幕末は出発したのです(案内標柱)

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立会川二十歳の龍馬像
嘉永6年(1853)黒船4隻によるペリー艦隊来航の折、坂本龍馬(1835-1867)は土佐藩品川下屋敷の近くにあった浜川砲台の警護にあたります。当地は後に海運貿易の亀山社中の設立・薩長同盟の斡旋など、近代を切り拓いた龍馬が志を立てたゆかりの地と言えます。地元有志、品川龍馬会の人々のはたらきで、桂浜にあるものと同じ姿の龍馬像が高知市の寄贈により設置されていましたが、近頃の時代の閉塞感とあいまって、龍馬の事績に思いを致す人々の、ブロンズ像であればとの強い願いを受けて、東京京浜ロータリークラブは関係者と密に語らい議って、二十歳の龍馬像としてこれをここに建立したものです。なお、この像には、平成11年修復時の高知県桂浜の像の金属片が溶かし込んであります。(説明板)

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仲町稲荷神社
この公園は北浜川の鎮守・諏訪神社があった場所です。諏訪神社は天祖神社に移されましたが、この稲荷は残されたそうです。

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街道の風景③ 第一京浜の左手丘は大名屋敷跡が立ち並んでいました/立会川駅

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浜川中               下屋敷の範囲/案内板

旧土佐高知藩山内家下屋敷跡/浜川中
第1京浜国道付近の立会川沿いの高知藩山内家は下屋敷16800坪の敷地を抱え、往事の東海道を挟んで河口には抱屋敷の揚場869坪を1658(万治元年)に拝領されたもので、両屋敷は表門通り(現立会川商店街通り)で結ばれていました。抱屋敷には1853(嘉永6)頃に浜川砲台が築かれました。なお、山内家下屋敷は大井村の他に木挽町築地(現中央区築地)にもありました。山内家の上屋敷鍛冶橋御門内大名小路(現千代田区丸の内)にあり、1855(安政2)頃の高知藩主の山内土佐守豊信の家禄は242千石でした。山内豊信は松永慶永 (よしなが)、島津斉彬 (なりあきら)、伊達宗城(むねなり)らとともに国政の方向について論議建策し幕末四賢候と称されました。1858(安政5)の頃江戸幕府が日米通商条約に調印し、徳川家茂を将軍継嗣に決定したことなどに反対した大名・公卿・志士ら100人以上を弾圧する事件が起き、この処罰を安政の大獄と云います。この弾圧により山内豊信は隠居・謹慎を命ぜられ蟄居したのがこの下屋敷でした(品川教育委員会)


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来福寺参道/東大井


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来福寺
当寺は正暦元年(990)藤原兼家が摂政の時、智弁という僧が開かれたものである。それから60年余りして世の中の乱れと共に当寺も衰微した。文亀元年梅巌という僧が、昔右大将頼朝が戦没諸兵追善のために写経を埋めたといわれてる納経塚(大井1丁目庚申堂)の傍らを通られ、その塚の中から読経の声をきかれて仏像を掘出し、この寺に安置したのである。その為にこの御本尊を別名経読地蔵を云われるようになった。この寺は古くは山号を海上山、海照山と云い、又境内に天満宮があったので天神山と呼ばれていた。

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当寺の古い特別信者に梶原一門があり、境内に権五郎景政や平三郎景時の嫡子源太景季の寄進された梶原松、或いは延命桜等があった。当時より桜の名所として知られ、現在も境内に雪中庵蓼太の「世の中は三日見ぬ間の桜かな」という句碑が残っている。(品川区の文化財)


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右側の小山、赤鳥居を上ると聖天堂があります

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阿波藍商人墓標群(外面確認墓標 三十五基)
藍はタデ科の植物で藍染めの染料として、江戸時代になり木綿の普及とともに需要が高まりました。阿波徳島藩(現在の徳島県)の蜂須賀家では藩の財政を支える特産品として藍の栽培を保護奨励し、阿波藍の名声は全国的なものとなります。この墓標群は阿波藍商人として江戸に進出した大坂屋庄三郎(江戸での町人名、本名は久次米兵次郎)家関係者のものです。大坂屋は本八丁堀(現在の中央区八丁堀)に店を構え、藍のほかに材木も取り扱う大店となりました。大坂屋の江戸における菩提寺が来福寺です。墓標は来福寺境外の地蔵堂墓域に建てられていましたが、道路拡張工事のため、昭和2年(1927)に現在の場所に移され合葬されました。 阿波藍の江戸への進出と品川地域との関わりを示す歴史資料として貴重なものです。品川区指定有形文化財(品川区教育委員会)

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宝篋印塔
お経「宝篋印陀羅尼経」の納められた石塔、上から三印目には蓮花の上に佛菩薩の種=梵字が描かれている。享保19年申寅歳9月吉日 願主主□□大覚 現住法印實□の銘が刻まれている(来福寺)

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江戸名所図会 来福寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

来福寺は鎌倉時代の武将梶原景季(かげすえ)に縁があると伝えられ、一族の墓所と伝える「梶原塚」(現在の梶原稲荷神社)や「梶原松」といった名が残っています。本尊は大井1丁目44番の経塚(現在の庚申堂)の土の中から読経が聞こえ掘り起こしたとされる延命地蔵で、別名経読地蔵と呼ばれています。また、江戸時代には桜の名所として知られ、本尊に因んだ「延命桜」が有名でした。来福寺の挿絵には桜の名所らしく、雪中庵蓼太(りょうた)の句「世の中は 三日みぬ間に さくら哉」が添えられています。(大井村の名所/品川区)

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犬坂(俗称:へびだんだん)/大井東
坂の頂上付近が急勾配なため、階段とスロープが設置されており、階段より下側は曲がりくねった坂となっています。犬坂の由来は不明ですが、俗称の「へびだんだん」はその曲がりくねった様子からきているそうです。また、坂の頂上付近の急斜面地には元芝公園がありこの公園は遊戯施設中心の公園となっています。(品川区)

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梶原稲荷鳥居神社/東大井

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梶原稲荷神社
このあたりに鎌倉の武将梶原景時によって建てられた(1190年頃)といわれる万福寺があったが、元応2年(1320)の火災で寺の本堂が焼け、境内にあった稲荷社だけが焼け残った。後に万福寺は馬込村(現大田区)に再建されたが、稲荷社はそのまま残り来福寺所属した。現在は来福寺との間に民家が建ったため、梶原稲荷神社として独立、地元の講中によって祀られている。社殿の後ろにある小高い場所は梶原塚と呼ばれ、梶原氏一門の古墳とも伝えられている。梶原氏は関東平氏の一門で平良茂が初代。源頼朝の挙兵に際し手柄のあった景時の時に梶原姓を名乗った。大井・馬込周辺には梶原景時や景季にまつわる話が多く伝えられているが、一説によるとこの梶原氏は景時らの一族とは別で小田原北条氏家人でこの地域を支配した梶原氏だともいわれている。(品川観光協会)

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山内豊信(容堂)墓/大井公園
山内豊信は容堂と号した。文政10年(1827)に分家の山内豊著の長子として生まれ、嘉永元年(1848)に宗家を継いで第15代の土佐国高知藩主となり、人材を登用して藩政の刷新に努めた。一方、国政についてもいろいろと論議し策を建てて多難な幕末期の幕政に大きな影響を与えた。進歩的で強力な言動は幕閣に恐れを抱かれ、一時大井村の下屋敷に蟄居させられたが、文久2年(1862)に再び政治の場に復し大政奉還をはじめ幕府と朝廷の間の斡旋に力を尽くした。明治元年(1868)に維新後の新政府の内国事務総長となったが、翌年引退し、明治5年に45歳の若さで亡くなった。遺言によって大井村の下総山(土佐山)と呼ばれていた現地に葬られた。品川区指定史跡(品川区教育委員会)

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元仙台藩伊達家下屋敷跡/大井公園

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旧・越前鯖江藩間部家下屋敷跡(元:陸奥仙台藩伊達家下屋敷跡)/大井公園
この地より高台に向かう一帯には、越前国(現・福井県間部下総守下屋敷があった。もともとは、万治元年(1658)に仙台藩伊達家が麻布(現・港区)下屋敷を返上して、新に大井村に拝領した下屋敷であった。その屋敷内には高尾太夫の器を埋めたという塚があり、その上にはひと株の枝垂梅があったと伝えられている。元文2年(1737)に、鯖江藩間部家大崎屋敷と伊達家品川屋敷の一部を交換し、間部家の下屋敷となった。その後、一部は再び伊達家の所有になった。安政2年(1855)頃の鯖江藩主間部下総守詮勝(あきかつ)は5万石の家禄があり、上屋敷は常盤橋御門内(現・千代田区大手町)にあった。(品川区教育委員会)

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旧仙台坂(くらやみ坂)/東大井
江戸時代に、この坂の中程から上にかけて仙台藩伊達陸奥守の下屋敷があったことから、東大井4丁目と南品川5丁目の間のこの坂は仙台坂と呼ばれていました。しかし、現在は青物横丁に抜ける坂道が拡幅され交通量が増加したために、その坂の方を一般的には仙台坂と呼ぶようになり、こちらは旧仙台坂と言われるようになりました。(標柱)

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仙台味噌醸造所
当社所在地(品川区東大井、昔は荏原郡大井村)は江戸時代、仙台・伊達江戸下屋敷であった。伊達藩では備蓄食料確保の観点から寛永2年以来味噌蔵をもち醸造を始めた。江戸在勤の士卒は当時3千名を数えたといわれそれらの人々に与えるためにも味噌は必需品であった。当時の江戸の味噌は江戸甘であり東北武士の口に合わなかったからである。江戸時代も下って末期になると自給自足のためばかりではなく、余ったものを一般にも販売するようになり半ば商売としての性格も持つようになった。江戸市民は仙台の殿様のお屋敷で出来る味噌というので、仙台味噌と呼ぶようになった。安政年間に出た江戸切絵図の『品川、白金、目黒辺之絵図』の中にも『仙台味噌屋敷』と記載されている(東京都味噌協同組合)

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仙台坂タブノキ
本樹は幹廻り4.6m、樹高20mで推定樹齢約300年、樹勢旺盛で美しい樹容を見せている。(品川区教育委員会)

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鮫洲八幡神社鳥居/東大井   

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鮫洲八幡社 
品川区東大井にする神社(八幡宮)。法人名は「八幡神社」。誉田別尊(八幡神)、気長足姫尊、伊弉諾神、伊弉冉神を祀る。当地は古くは御林町(おはやしまち)と呼ばれた漁師町だった。当神社は古くは御林八幡宮と称せられた。創建に関しては明らかになっていないが、寛文8年(1668)の書上帳に記載されている事から御林町草創より建立されていたものと推定される。昭和4年(1929)には白山神社(伊弉諾神、伊弉冉神)が合祀されている。現在の社殿は昭和47年(1972)に造営されたものWikipedia

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富士浅間大神の塚           厳島神社

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土佐藩邸と山内家墓所の位置関係図/品川歴史館
(藩邸の位置はいずれも推定で正確なものではありません。また藩邸位置に建てられている解説版の示す範囲とは異なります)
(同図に着色しました 赤:東海道 緑:平間街道・池上道 紫:品川街道 青:立会川)

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東大井周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:東海道 緑:平間街道 紫:品川道 青:立会川)

平間街道・大井の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25624982/


・・・・・
資料ファイル江戸

鮫洲海岸
南品川宿南端から北浜川にかけての地、東側の海に面した地域を鮫洲と称した。名前の由来は「干潮時に海中や浜辺の砂の中から清水が出るため(砂水(さみず)」、「この海で建長31251)年に死んだ大鮫が揚がり、その腹から観音像が出て来たので「鮫洲」」、「左の方の海辺に出水があったので「左水(さみず)」」など諸説ある。漁業が盛んであるとともに秋から春にかけては海苔の養殖も行われ、浅草海苔は品川からこの一帯で採取された生海苔が使用された。(国立国会図書館)

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名所百景-品川鮫洲海岸/広重

大井御林浦

大井御林浦(御林猟師町)は大井村に属し、同村名主(櫻井・大野両氏)の管轄下にあった。品川浦同様に猟師頭がいて猟師たちを統括していた。元治元年(1864)に金杉・本芝両村が江戸町奉行に提出した『浦方起立書上』には御林浦成立の由来が記されている。「万治2年(1659)に芝金杉東の海辺より約3町ほどの土地が御用地となり、因幡鳥取藩主池田光沖(松平相模守)が屋敷を拝領することになったため、先住の猟師6が大井村の御林町代地を与えられ移転し、漁業を営んだので御林猟師町と呼ぶになったのである。また「因州組」と唱えている猟師たちが御林浦成立以来の旧家芝金杉浦から分かれたものであり、この地の猟師たちが移転したことで御采肴を献上するようになった」と記されている。御林浦は、南品川と浜川の間の鮫洲付近にあり、鎮守は御林八幡社(現鮫洲八幡神社)である。(品川歴史館解説シートより抜粋)



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御菜肴八ヶ浦図/品川歴史館

御菜浦
(おさいうら)

領主のための御菜(おかず)の原材料となる海産物を献上していた漁村のこと。前近代においては城下近郊にある漁村などを指定して海産物を献上させたり、その他海上における夫役を負担させる代わりに、漁業などに関する特権を付与することが行われていた。その指定された漁村が御菜浦である。特に著名なのは徳川将軍家のために江戸城に海産物を献上していた芝金杉浦(現在の芝)・本芝浦(現在の芝浦)・品川浦(現在の品川)・大井御林浦(現在の大井・東大井)・羽田浦(現在の羽田)・生麦浦(現在の生麦)・子安新宿浦(現在の子安)・神奈川浦(現在の神奈川)の8つの御菜浦で、いずれも現在の東京湾に存在して御菜八ケ浦と称された。これらの漁村は後北条氏以前から御用を勤めていた漁村と上方方面から招き入れられて新たに漁村として開拓されたものに分けられるWikipedia

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by Twalking | 2017-09-26 21:08 | 東京散歩(新規)