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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 スズカケノキ   

スズカケノキ_d0183387_11202663.jpg

小石川植物園/文京区白山
うぉ~!、大きく背伸び、
白い肌が艶やかで美しいこと。
日本でもっとも古いスズカケノキのひとつです。


スズカケノキ

この木は明治9年に導入された日本でもっとも古いスズカケノキのひとつです。街路樹として現在広く使われているモミジバスズカケノキはこのスズカケノキとアメリカスズカケノキの雑種であることが知られています。(説明板)


# by Twalking | 2020-02-16 11:29 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夕景-多摩センター駅   

夕景-多摩センター駅_d0183387_22192060.jpg
小田急多摩センター駅/多摩市落合
綺麗な夕日だこと、
穏やかなのが一番ですね~・・・。
じっと我慢の子、ご自愛くださいませ。

# by Twalking | 2020-02-15 22:52 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 福寿草   

福寿草_d0183387_20115120.jpg

多摩市グリーンライブセンター/多摩中央公園(多摩市)
可愛らしい花だこと。
おいらにも福をわけておくれ!
よろしく宜しくお願いね。


福寿草

キンポウゲ科の多年草。日本・東シベリアなどに分布、多くの品種がある。葉は細裂してニンジンの葉に似る。花は頂生し黄色で多数の花弁があり、径約4cm。正月用の鉢植え・盆栽などにするが、野生のものは3月ごろ咲く。有毒で全草が強心・利尿薬となる。元日草。(コトバンク)


# by Twalking | 2020-02-14 22:00 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 京王線新宿駅   

京王線新宿駅_d0183387_22104621.jpg

京王線新宿駅
多摩センター発の急行に乗りましたが、
ちょっと出遅れて座れませんでした。
通勤帯前なので混雑はなしでスムーズでした。


京王線新宿駅/新宿区西新宿

小田急電鉄の西隣、京王百貨店新宿店の地下2階相当および新宿ルミネ1の地下3階相当に33線の頭端式ホームがある。南北に線路が延びており駅先端部で西へ折れている。東側から1 - 3番線で、1番線を除き両側にホームがある。3面のホームのうち中央のホームは降車専用である。当駅から発車するすべての列車が初台駅と幡ヶ谷駅を通過する。この2駅へはのりばが異なる場所にある京王新線を利用する。(Wikipedia


# by Twalking | 2020-02-12 22:16 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 谷端川(小石川)南大塚~水道橋03-小石川   

日時 2020.1.30(木)
天気 晴れ


小石川植物園前からは千川通りを流れていたようなので、
湯立坂をのぼり東側の丘にある伝通院一帯を散策しました。
ここは史蹟、古刹が多く見所が豊富です。

伝通院から善光寺坂を下り、千川通りから文京区役所へ、
この坂にある沢蔵司稲荷は都会とは思えない趣があります。
小石川は文京区役所辺りで東大下水と合わせていたようです。
今度は西側の白山神社界隈を訪ねてみたいと思います。



・・・小石川/文京区

文京区南西部の地区。旧小石川区で現文京区の西半部を占めていた。本郷台豊島台大塚台小日向台)の間を流れる川は礫川とも書き、小石の多い川であったことが地名の由来。いま川は暗渠となり存在さえはっきりしない。台地面は江戸時代には畑地が広く、武家屋敷、寺院、住宅がまばらにみられた。現在の小石川地区は明治以後、学園、住宅地として発展、また旧小石川の谷は出版・印刷業が集中している。伝通院のほか寺院が多い。(コトバンク)

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街道の風景① 小石川(谷端川)は千川通りに沿って流れていたようです/植物園入口

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坂の風景① 右側歩道を春日通りに上り、この桜並木を下ってきました/播磨坂

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播磨坂
この道路は終戦後の区画整理によって造られたもので一般にいわれる環三道路(環状3号線)である。かつてこのあたりは松平播磨守の広大な屋敷のあったところである。坂下の底地一帯を「播磨たんぼ」といい伝えており、この坂道もこの土地の人は播磨坂とよんでいる。昭和35年頃「全区を花でうずめる運動」が進められ、この道路も道の両側と中央に樹令15年位の桜の木約130本が植えられた。そして地元の婦人会の努力によって「環三のグリーンベルト」は 立派に育てられている。昭和43年から桜まつりが行われ文京区の新名所となった。(文京区教育委員会)(写真:坂下の千川通り植物園入口交差点)

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環三通り桜並木の由来
かつてこのあたりは常陸府中藩主松平播磨守上屋敷で、坂下には千川小石川)が流れ「播磨田圃」といわれた田圃があった。戦後できたこの坂は播磨屋敷の跡地を通り「播磨田圃」へ下る坂ということで「播磨坂」とよぶようになった。坂の桜並木は戦後間もない昭和22年(1947)地元の人たちが植えたのがはじまりである。昭和28年(1953)には小針平三氏他有志からの苗木寄贈により桜並木が生まれた。その後、並木植樹帯の整備がすすみ平成7年(1995)には装いを新たにした桜並木が完成した。昭和43年(1968)には「桜まつり」が地元町会・婦人会の協力で開始され今日まで桜の名所として区民に親しまれている。(文京区教育委員会)(写真:坂上の春日通り小石川5)

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石川啄木終焉の地歌碑/小石川
この地に石川啄木の住まいがありました。その家で啄木が最後に創作した歌がこの2首です。右に東京都指定旧跡「石川啄木終焉の地」の説明板、左の顕彰室に歌碑の解説等がありますのでご覧ください。北岩手郡渋民村(現在は盛岡市内)を故郷とし、この地でその生涯を閉じた石川啄木。ゆかりの深い文京区と盛岡市では平成19年より啄木の顕彰等を通じて交流を深めてきました。

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啄木の没後100年を迎えた平成24年、啄木を愛する方々による「啄木終焉の地に歌碑を」との声を受け、文京区は隣接する国有地の取得を発表。建碑に向けて検討を開始しました。平成25年、隣接地への高齢者施設の開設にあわせて啄木歌碑と顕彰室の設置を決定。文京区石川啄木基金を設けて広く寄附を呼びかけました。平成273月、多くの方々のご協力をいただきこの歌碑が誕生しました。碑材:姫神小桜(啄木のふるさとの山・姫神山産)揮毫(啄木直筆原稿の左):楢崎華祥氏

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高橋泥舟(18351903) 山岡鉄舟(18361888)旧居跡/小石川
下図の高橋・山岡はそれぞれ高橋泥舟・山岡鉄舟の屋敷である。高橋家は享保51720)、山岡家は文化81811)以降この地に移り住んだものと思われる。泥舟(でいしゅう)は槍術の大家山岡静山の弟で、母方の実家である高橋家を継ぎ25歳のとき幕府講武所師範となる。鉄舟は剣術を北辰一刀流の千葉道場に通い槍を静山に習った。鉄舟は旗本小野家の出身であるが、静山の妹英子(ふさこ)と結婚し山岡家を継いだ。二人は文久2年(186212月、清川八郎の呼びかけで近藤勇らが参加し結成された浪士隊の取締役を幕府から命ぜられ、上洛するが清河の攘夷尊王の策謀が発覚し江戸に帰府した。慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ官軍が江戸に迫ると、泥舟は前年に大政奉還した元15代将軍徳川慶喜に恭順を説き身辺警護に当った。鉄舟は勝海舟の使者として、駿府の官軍参謀の西郷隆盛に会い江戸城無血開城への道を開いた。海舟、泥舟、鉄舟を維新の三舟と呼び維新の重要な役割を担った。(文京区教育委員会)

高橋泥舟の墓(谷中)関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27145474/
山岡鉄舟の墓(谷中)関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27133161/


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旧久堅町(ひさかた)
もと小石川村の内で、元和年間(161524)以後町屋を開いた。明治2年橋戸町、久保町、宮下町飛地、門前町(宗慶寺善仁寺)、松平播磨守屋敷跡や旗本屋敷跡などを合併した。町名は永久の町の発展を願って久堅町とした。戦後造られた環状3号線の坂名はここに屋敷のあった松平播磨守(常陸府中・水戸家支藩)にちなんで播磨坂と名づけられた。町の人の努力で育てられた桜並木は花の名所となり毎年桜まつりが行われている。(昭和41年までの町名)(文京区)

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坂の風景② 坂上より小石川植物園方向の景観です、左手の木立が極楽水跡になります/小石川

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吹上坂
このあたりをかつて吹上村といった。この地名から名付けられたと思われる。『吹上坂は松平播磨守の屋敷の坂をいへり』(改選江戸志)。なお別名「禿(かむろ)」の禿は河童に通じ、都内6ヶ所あるがいずれもかつては近くに古池や川などがあって寂しい所とされている地域の坂名である。この坂も善仁寺前から宗慶寺・極楽水のそばへくだり、坂下は「播磨たんぼ」といわれた水田でありしかも小石川が流れていた。この水田や川は鷺の群がるよき場所であり大正時代でもそのおもかげを止めていた。『雑然と鷺は群れつつおのがじし あなやるせなき 姿なりけり』古家千樫 (18861927)(文京区教育委員会)

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宗慶寺(そうけいじ)/小石川


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宗慶寺
吉水山朝覺院宗慶寺。浄土宗鎮西派、伝通院末。本尊阿彌陀如来。當寺の開創は應永22で、開山は酉蓮社了譽上人聖冏大和尚である。その由来は上人が高弟西譽上人(當時増上寺住)の請によつて常陸より江戸に来り、當地に草庵を結んだのが起りで、其草庵が精舎となり庭内の清水にちなんで吉水山傳法院と號した。慶長7年傳通院殿逝去の砌、當寺に入棺したが境内狭隘の爲め別に一宇を建立したのが今の伝通院で、由緒より云へば當寺が伝通院の本寺に當るわけである。元和7年松平忠輝公母堂茶阿局を當寺に埋葬してから、其法號朝覺院殿貞譽宗慶大禪定尼に因んで朝覺院宗慶寺改稱した。

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寛永年中、傳通院第四世叡譽聞悦上人が中興してから伝通院末となり、江戸時代には氷川明神社別當を兼ね、境内古跡地3230坪を擁し大いに榮えた。その境内の清水は氷川明神より開山了譽上人に賜はつたといひ傳へて極楽水(幕末には松平播磨守邸内に入る)と稱せられ、それが附近一帯の地名ともなつた。現本堂は大正9の改築にかかり、茶阿坪局の墓は境内に現存して史蹟愛好者の参詣するものが多い。當寺は小石川屈指の古刹であるから『江戸名所記』『江戸名所圖會』『江戸砂子』を始め江戸時代の諸書にその記載が多い。(小石川區史)

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茶阿局墓碑
この墓碑は元和7年(1621)の年紀をもつ古い宝篋印塔である。太平洋戦争により宗慶寺は大きな被害を受けたが、当寺と檀信徒の絶大な協力でこの墓碑は旧観を今に残している。葵の紋が鮮やかである。阿茶局は駿河(現静岡県)の人で家康の没後、髪をおろして朝覚院と称し、飛騨高山に流謫の忠輝を案じながら元和7612日没した。法名「朝覚院殿貞誉宗慶大禅定尼」にちなんで寺は宗慶寺と称するようになった。この寺の創建は古く応永221415)と伝えられ、家康の生母伝通院(於大の方)の墓所のある伝通院とゆかりの深い寺である。(文京区教育委員会)

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極楽水
ここは了誉聖冏上人が応永221415伝通院の元ともなったを結んだ所で、後に吉水山宗慶寺境内となった。現在の宗慶寺はすぐ下にある。「江戸名所記」に『小石川吉水の極楽の井は そのかみ 伝通院の開山了誉上人よし水の寺に おわせし時に竜女形をあらわして 上人にまみえ奉り 仏法の深き旨を求めしかば上人はすなわち 弥陀の本願、他力の実義を ねんごろにしめし賜うに その報恩としてこの名水を出して奉りけり』とある。現在の極楽水は小石川パークタワーの手によって近代風に整備されたものである。(文京区教育委員会)

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江戸名所図会 
宗慶寺 極楽水 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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善仁寺山門/小石川

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善仁寺
石川山福住院善仁寺。眞宗大谷派、東本願寺末。本尊阿彌陀如来。當寺の開創は『文政書上』によれば冷泉天皇の安和2で當時は福住院と號し真言宗であつたが、のち親鸞聖人東國巡錫の途次、當寺に錫を止められし際、極楽水の奇蹟に感じて住職釋賢徴が改宗して浄土眞宗になつたと云ふ(年月不詳)。爾来小石川屈指の古刹として法燈をかかげ江戸時代には法嚴寺、観應寺の寺中が存し、文政には境内古跡地3639坪、内門前町屋を有し大いに榮えた。(「小石川區史)

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街道の風景② 裏道が分からなかったので春日通りから伝通院に向かいます

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旧竹早町(たけはやちょう)
もと小石川村の内であった。寛永年中(162444幕府箪笥玉薬同心(たんすたまやくどうしん・武具弾薬を取扱う幕府の役人)の屋敷となり、後に町屋が設けられて箪笥町と称した。明治2年同心町の一部、鷹匠町、安房殿町を併せて竹早町とした。同5年、智光寺門前、光岳寺門前、宮下町飛地などと武家地を併せた。町名の由来は旧町名の一つ箪笥町のの字を分解して上下に分けて竹早のよい名としたといわれる。また昔は竹の多い土地であったからともいわれる。(昭和41年までの町名)(文京区)

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福聚院(ふくじゅいん)大国天/小石川

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福聚院
浄土宗鎮西派、伝通院末本尊大黒天、阿彌陀如来。江戸時代には伝通院の末院で安永4の開創と云ふ。本尊大黒天は江戸時代より有名で『江戸名所圖會』所載の縁起に依れば三國傳来の靈佛で大黒、多聞、辨天、三神一體の尊影で有る。孝徳天皇の御宇、高麗國の大臣録来の土古が我國に携へ来つたものを、明和年間伝通院の豊譽靈應聖人が感得して此處に安置したのだといふ。江戸時代以来、甲子の日は参詣者が特に群衆し今も甚だ盛んである。維新の後本寺より獨立して一寺となつた。(小石川區史)(写真:境内のとうがらし地蔵(せきどめ地蔵)と大黒天さま)

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木造・大黒天坐像一軀
像高(右足下より)47.2cm、ヒノキ材、漆箔、彩色。小像ながら簡素な彫法により彫刻的量感がよくあらわれて見るべきものがある木造彫刻といえる。特に数少ない古式武装神スタイルを整えていることと、その製作年代を鎌倉時代に遡ることなどを含め貴重な文化財である。大黒天信仰は8世紀にわが国に伝わり、以来大国主命伝説と習合して寺院の食堂に祀ると繁栄を招くといわれている。江戸時代になって民間信仰として広まり農神として祀られ七福神の仲間に数えられるようになった。しかし本来は仏法護持の戦闘神として憤怒形をしているものであることを考えるとこの大黒天像は本来のスタイルを尊重している坐像であるといえる。伝通院山内福聚院大黒天(文京区教育委員会)

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伝通院山門/小石川

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浪士隊結成の処静院跡の石柱/山門脇 
この石柱は伝通院の塔頭の一つで伝通院前の福聚院(ふくじゅいん)北側にあった処静院(しょじょういん)の前に建っていたものである。石柱の文字は修行と戒律の厳しさを伝えている。処静院はその後廃寺となった。文久3186324日、幕末の治安維持を目的とした組織「浪士隊」の結成大会が処静院で行われた。山岡鉄舟、鵜殿鳩翁、伝通院に眠る清河八郎を中心に総勢250人、その後浪士隊を離れて新選組として名をはせた近藤勇、土方歳三、沖田総司などが平隊員として加わっていた。一行は文久328日京都へと発った。年号が明治と改まる5年前のことだった。(文京区教育委員会)

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新選組の前身・新徴組発会の処静院跡
幕末の歴史に1頁を残した新選組の前身・新徴組は、江戸市中から応募した浪士隊として清河八郎山岡鉄舟らの呼びかけで芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らが参加し、文久324伝通院山内処静院で発会したと記録されている。処静院はその後火災に遭い消失したが、この碑建立の一帯が処静院で大黒天に隣接しておりました。幕末時、処静院住職・琳瑞和尚は清河八郎らを支援したとして佐幕派浪士と見られた武士らに暗殺された、今なお伝通院内に墓碑が建立され供養されている。(文京歴史研究会)

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幕末の傑僧琳瑞上人
幕末の傑物と称せられている琳瑞は幼時、細谷房蔵と称し天保元年10月出羽の国 ( 山形県 ) に生まれた。「幼時より秀才の誉れ高く伝通院山内・処静院住職・福田行誡のもとに学んだ。その才は見る見る内外に評価され30有歳にして士々の間においても認められる所となり高橋泥舟山岡鉄舟等皆彼のよき理解者であった。彼は公武合体論を主張し水戸烈公の支持を取り付け大いに政治的動きをなした。しかしながらこれは誤解を生む原因となり慶応31018日深夜、彼は高橋泥舟宅の帰り広井求馬、松岡丙九郎なる人物らに三百坂で刺殺された。時に38歳と記されている。(文京歴史研究会)

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傳通院本堂

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傳通院
文京区小石川三丁目の高台にある浄土宗の寺。正式名称は無量山傳通院寿経寺(じゅきょうじ)徳川将軍家菩提寺。江戸三十三箇所観音札所の第12番札所。室町時代の応永221415)秋に、浄土宗第七祖の聖冏(しょうげい)が江戸の小石川極楽水(現在の小石川4丁目)の草庵で開創し、山号を無量山、寺号を寿経寺とした(現在、この場所には徳川家康の側室茶阿の局の菩提寺・吉水山宗慶寺がある)。開山は弟子である聖聡(しょうそう)(増上寺の開山上人)の切望によるものという。本尊は平安時代の僧・源信(恵心僧都)作とされる阿弥陀如来像。

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慶長7年(16028月に徳川家康の生母・於大の方が京都伏見城で死去し、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び大塚町の智香寺(智光寺)で火葬した。位牌は久松俊勝菩提寺の安楽寺(愛知県蒲郡市)に置かれ、光岳寺(千葉県関宿町→野田市)など各地に菩提寺を建立した。慶長81603)に家康は母の遺骨を現在の墓地に埋葬し、寿経寺をここに移転して堂宇(堂の建物)を建て、安楽寺住職から受けた彼女の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院とした。家康は当初は菩提寺である芝の増上寺に母を埋葬するつもりであったが「増上寺を開山した聖聡上人の師である了譽上人が庵を開いた故地に新たに寺を建立されるように」との、増上寺12世観智国師(慈昌)の言上を受けて伝通院の建立を決めたという。慶長13年(1608915日に堂宇が竣工。観智国師門下の学僧廓山(後に増上寺13世)が家康から住職に指名された。(Wikipedia

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傳通院の墓所
当山は応永221415)、浄土宗第七祖・了譽聖冏上人が開山されました。当時は小石川極楽水(小石川4丁目)の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創されました。それから約200年後の慶長71602829日、徳川家康公の生母於代の方75歳、伏見城で逝去。その法名を「傳通院殿」と号しこの寿経寺を菩提寺としたことから「傳通院」と呼ばれるようになり、以来千姫(天樹院殿―2代将軍徳川秀忠公・於江の方の長女)や孝子の方3代将軍徳川家光公の正室)、於奈津の方、初姫など多くの徳川家の子女達が埋葬されるようになりました。当山には開創600年におよぶ長い歴史の側面を物語る著名な方々のお墓が現存しております。(案内板)
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於大の墓

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於大の墓(区指定史跡)
享禄元年~慶長7年(15281602)、徳川家康の生母。三河(愛知県)刈谷の城主・水野忠政。天文10年(1541)岡崎城主・松平広忠と結婚、翌年に家康を生む。後に離婚して阿古屋城主・久松俊勝に再婚するも人質として織田方や今川方を転々とするわが子家康を慰め、音信を断たなかったという。法名・伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼にちなみこの寺の通り名を「伝通院」とした。(文京区教育委員会)


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徳川家康の母・於大の方の生涯
於大の方は享禄元年(1528年)愛知県知多郡東浦町緒川城4代目城主・水野忠政の娘として生を受けました。於大の方が6歳の時父忠政は三河刈谷に城を築き家臣と共に移ったと伝えられています。天文10年(1541年)当時今川方であった岡崎城主・松平広忠に嫁ぎ竹千代(家康)が生まれました。その後、父忠政の死後、家督を継いだ兄信元は織田方に付いた為、於大の方は離縁され刈谷へ戻ってきました。その後、坂部城主・久松俊勝に再嫁し三男四女をもうけました。夫俊勝が天正15年に亡くなり翌年尼となり後に伝通院の号を授かりました。慶長71602年)於大の方は天下をとった家康の招きで訪れていた京都伏見城75歳の生涯を閉じました。戦国の世を生きた於大の方は争いの無い平和な世を願い続け、その波乱の生涯が時を超え今に語り継がれています。於大の方の故郷東浦には緒川城址水野家四代の墓所(菩提寺乾坤院)が残っています。一度是非足を運んでみては如何でしょうか。(東浦町観光協会)

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千姫の墓(区指定史跡)

慶長2年~寛文6年(15971666)。2代将軍秀忠。慶長8年(1603)幼少の身で豊臣秀頼に嫁し大阪城にはいる。元和元年(1615)城を出て翌年桑名城主・本多忠政の子・忠刻と再婚するも死別とともに天樹院と号して江戸に帰り竹橋に住む。(文京区教育委員会)

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孝子の墓(区指定史跡)
慶長7年~延宝2年(16021674)。孝子は3代将軍家光正室前関白鷹司信房の娘。元和9年(1623)京都から江戸に下り江戸城西の丸に入る。寛永2年(1625)家光と結婚するが、公家出身で武家の生活になじめないまま73歳で没す(文京区教育委員)

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江戸名所図会 伝通院其三 伝通院総門 大国天 念仏堂

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坂の風景③ 千川通りへ下ります。左手は慈眼院・沢蔵司稲荷、中程に善光寺があります/小石川

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善光寺坂(小石川2丁目と3丁目の境)
坂の途中に善光寺があるので寺の名をとって坂名とした。善光寺は慶長71602)の創建と伝えられ、伝通院院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭で、縁受院(えんじゅいん)と称した。明治171884)に善光寺と改称し信州の善光寺の分院となった。したがって明治時代の新しい坂名である。坂上の歩道のまん中に椋の老木がある。

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古来、この木には坂の北側にある稲荷に祀られている澤蔵司(たくぞうす)の魂が宿るといわれている。なお、坂上の慈眼院の境内には礫川(れきせん)や小石川の地名に因む松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。『一(ひと)しぐれ 礫(つぶて)や降りて 小石川』 はせを(芭蕉)また、この界隈には幸田露伴(18671947)、徳田秋声(18711943)や島木赤彦(18761926)、古泉千樫(18861927)ら文人、歌人が住み活躍した。(文京区教育委員会)

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善光寺坂のムクノキ/坂上
樹高約13m(主幹約5m)目通り幹周約5mを測る推定樹齢約400の古木である。第二次世界大戦中、昭和205月の空襲により樹木上部が焼けてしまったが、それ以前の大正時代の調査によると樹高は約23mもあった。ムクノキはニレ科ムクノキ属の落葉高木である。東アジアに広く分布し日当たりのよい場所を好む。成長が早く大木になるものがある。この場所は江戸時代、伝通院境内であった。その後、本樹は伝通院の鎮守であった澤蔵司(たくぞうす)稲荷神木として現在に至っている。樹幹上部が戦災により欠損し下部も幹に炭化した部分が見受けられるが、幹の南側約半分の良好な組織から展開した枝葉によって樹冠が構成されている。枝の伸び、葉の大きさ、葉色ともに良好であり空襲の被害を受けた樹木とは思えないほどの生育を示している。本樹は戦災をくぐりぬけ、地域住民と長い間生活を共にし親しまれてきたものであり貴重な樹木である。文京区指定天然記念物(文京区教育委員会)

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慈眼院・沢蔵司稲荷参道/小石川

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慈眼院・沢蔵司稲荷
伝通院学寮(栴談林.せんだんりんといって修行するところ)に沢蔵司(たくぞうす)という修行僧がいた。僅か3年で浄土宗の奥義を極めた。元和6162057日の夜、学寮長の極山和尚の夢枕に立った。『そもそも余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っていたが多年の希望をここに達した。今より元の神にかえるが、永く当山を守護して恩に報いようと告げて暁の雲にかくれたという』(江戸名所図会・江戸志)そこで伝通院の住職廓山上人沢蔵司稲荷を境内に祭り、慈眼院(じげんいん)を別当寺とした。

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江戸時代から参詣する人が多く繁栄した。「東京名所図会」には『東裏の崖下狐棲(狐の棲む)の洞穴あり』とある。今も霊窟と称する窪地があり奥に洞穴があって稲荷が祭られている。伝通院の門前のそば屋に沢蔵司はよくそばを食べに行った。沢蔵司が来たときは売り上げの中に必ず木の葉が入っていた。主人は沢蔵司は稲荷大明神であったのかと驚き、毎朝「お初」のそばを供えいなりそばと称したという。また、すぐ前の善光寺坂の老樹があるがこれには沢蔵司がやどっているといわれる。道路拡幅のとき道をふたまたにしてよけて通るようにした。『沢蔵司 てんぷらそばが お気に入り』(古川柳)(文京区教育委員会)
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沢蔵司稲荷

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沢蔵司稲荷
縁起によると元和4戌午年(16181月学寮主・極山和尚の門を澤蔵司と名乗る一僧が浄土教の修学したいと訪ね入門いたしました。大変に才識絶倫優秀にして僅か3年余りで浄土教の奥義を修得し、元和6庚申年57日の夜、方丈廓山和尚と学寮長極山和尚の夢枕に立ち『そもそも余は太田道潅公が千代田城内に勧請せる稲荷大明神なるが浄土の法味を受け多年の大望ここに達せり。今より元の神に帰りて長く当山を守護して法澤の荷恩に報い長く有縁の衆生を救い、諸願必ず満足せしめん。速く一社を建立して稲荷大明神を祀るべし』と残し暁の雲に隠れたと記されています。その為この慈眼院別当寺となり元和61620)澤蔵司稲荷が建立され現在に至っております。(沢蔵司稲荷HP)
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江戸名所図会 伝通院其二 沢蔵主稲荷社
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善光寺山門/小石川


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善光寺浄
土宗鎮西派
、本山傳通院末。本尊は阿彌陀如来。寺傳によれば當寺の本尊は家康公母堂傳通院殿守本尊で、傳通院殿を伝通院内に埋葬すると同時に一宇を建立し、右本尊を安置し善光寺如来堂と稱したのが當寺の起源であるといふ。即ち徳川時代に伝通院寺中の一院であつたが明治以後獨立して一寺となり、善光寺月参講を組織してより益榮え、引續き今日に至つた。現在前記善光寺月参講は精神修養と名勝参拝とを目的とし、此の外に精神修養、慈善事業を目的とする善光寺婦人會、日曜學校を主事業とする善光寺子供會等を創設し社會的にも相當の活躍を示してゐる。現本堂は明治40の建立である。(小石川區史)

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街道の風景② 小石川(谷端川)は千石通り沿いから右手路地方向に蛇行していたようです/小石川

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千川通り               善光寺坂下

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旧戸崎町
古くは小石川村の内。元和9年(1623伝通院領となりのち町屋が開かれ舳先町と称した。『御府内備考』によると名称の由来は次の通りである。この辺は小石川(千川)の流れこむ沼地であった。白山御殿(現・小石川植物園の地)の造営後もが通っていた。その船は白山御殿の方に舳先を並べて荷物の積みおろしをしていた。そのことから舳先町と呼ばれた。その後戸崎町と改められたが、それは千川に突き出た台地の先という意味からともいわれる。(昭和39年までの町名) (文京区)

谷端川(小石川)南大塚~水道橋03-小石川_d0183387_12434477.png旧柳町/千川通り
もと小石川村の内であった。「江戸砂子」には『小石川とは小石の多い小川幾筋も流れていたから』とある。元和9年(1623)に伝通院領となり承応3年(1654年)には百姓町屋が開かれた。続いて延享2年(1745)には町地となった。明治2伝通院裏門前町や下富坂町東側を併せ、同5年には近接の土地を併せた。町名の由来はよくわからない。おそらくは町内を流れていた千川(小石川)のほとりに生えていた柳の木によるものではなかろうか。(昭和39年までの町名)(文京区)

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源覚寺
(げんかくじ)参道/小石川

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こんにゃく閻魔

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源覚寺
文京区小石川にある浄土宗の寺院。『こんにゃくえんま』(こんにゃくゑんま)で知られる。山号は常光山。当寺院は寛永元年(1624) に定誉随波上人(後に増上寺第18世)によって創建された。本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)。特に徳川秀忠、徳川家光から信仰を得ていた。江戸時代には4度ほど大火に見舞われ、特に天保15年(1848)の大火では本堂などがほとんど焼失したといわれている。しかしこんにゃくえんま像や本尊は難を逃れた。再建は明治時代になったが、その後は関東大震災や第二次世界大戦からの災害からも免れられた。しかし老朽化が進み現在の本堂は1979に再建されたものである。また当寺院は小石川七福神のひとつで毘沙門天も祀っている。また例年7月にはほうずき市が開かれ多くのものが訪れる。(近隣の伝通院の朝顔市とともに知られる)Wikipedia

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木像閻魔王坐像一体
源覚寺に伝わる閻魔像で閻魔堂に安置されている。右眼が黄色く濁っているが、閻魔王が信心深い老婆に己の右眼を与え、老婆は感謝のしるしとして「こんにゃく」を供えつづけたという言い伝えがある。像は高さ100.4cm。ヒノキ材の寄木造りで彩色を施し玉眼が嵌入してある。優れたできばえを示し運慶派の流れをくむ鎌倉時代の作と思われる。銘文によると寛文12年(1672)に仏師竹内浄正が修理している。この像は彫刻美術品として優れているとともに、本区所在の仏像のなかで古い製作年代に属するものとして貴重な文化財である。閻魔王は冥界にあって死者の生前の罪業を裁断する十王のうち最も良く知られている。わが国の閻魔信仰は平安時代後期にはじまり鎌倉時代に盛んになった。(文京区教育委員会)

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毘沙門天堂              塩地蔵尊

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坂の風景④ 文京区役所前から東へ上る坂です/春日通り

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富坂/春日
『とび坂は小石川水戸宰相光圀卿(みつくにきょう)の御屋敷のうしろ、えさし町より春日殿町へ下る坂、元は此処に鳶多して女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故とび坂と云』と「紫一本」にある。が多くいたので鳶坂、転じて富坂となった。また、春日町交差点の谷(ニヶ谷)をはさんで東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂ともいわれた。そして伝通院の方を西富坂、本郷の方を東富坂ともいう。都内に多くある坂名の一つである。この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し「アララギ」編集にあたっていた。「富坂の冬木の上の星月夜 いたくふけたりわれのかへりは」島木赤彦(本名 久保田俊彦 18761926)(文京区教育委員会)

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旧小石川町/春日通り
京都聖護院門跡道興准后が「廻国雑記」(文明18年・1486)に次のことを書いている。『ここ(上野忍岡)を過ぎて小石川と言へる所にまかりて、我方を思ひ深めて小石河いつをせにとかこひ渡るらん』また「江戸砂子」(享保17年・1732)に『小石多き小川が幾流もある故なり、わけて伝通院の後の流、ねこまた橋の川筋小石川の濫觴なり』とある。むかし千川(小石川)、江戸川(神田川)や周囲の高台から流れた細流が現在の後楽園一帯で合流していた。これらの川は砂や小石が多かったのでこの辺を小石川村と呼んだ。明治5年小石川町とした。(文京区)

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小石川周辺案内図/歴史と文化の散歩道(橙:千川通り 青:小石川 黄・春日通り・白山通り 紫:坂)

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小石川・谷中・本郷絵図/国立国会図書館デジタルコレクション

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小石川周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照

谷端川(小石川)南大塚~水道橋02-小石川植物園の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27962698/

# by Twalking | 2020-02-12 21:06 | リバーサイドウオーク(新規)