日時 2020.1.30(木)
天気 晴れ
小石川植物園前からは千川通りを流れていたようなので、
湯立坂をのぼり東側の丘にある伝通院一帯を散策しました。
ここは史蹟、古刹が多く見所が豊富です。
伝通院から善光寺坂を下り、千川通りから文京区役所へ、
この坂にある
沢蔵司稲荷は都会とは思えない趣があります。小石川は文京区役所辺りで東大下水と合わせていたようです。
今度は西側の白山神社界隈を訪ねてみたいと思います。
・・・小石川/文京区
文京区南西部の地区。旧小石川区で現文京区の西半部を占めていた。本郷台と豊島台(大塚台と小日向台)の間を流れる川は礫川とも書き、小石の多い川であったことが地名の由来。いま川は暗渠となり存在さえはっきりしない。台地面は江戸時代には畑地が広く、武家屋敷、寺院、住宅がまばらにみられた。現在の小石川地区は明治以後、学園、住宅地として発展、また旧小石川の谷は出版・印刷業が集中している。伝通院のほか寺院が多い。(コトバンク)
街道の風景① 小石川(谷端川)は千川通りに沿って流れていたようです/植物園入口
坂の風景① 右側歩道を春日通りに上り、この桜並木を下ってきました/播磨坂
播磨坂
この道路は
終戦後の区画整理によって造られたもので一般にいわれる
環三道路(環状
3号線
)である。かつてこのあたりは
松平播磨守の広大な屋敷のあったところである。坂下の底地一帯を「
播磨たんぼ」といい伝えており、この坂道もこの土地の人は播磨坂とよんでいる。昭和
35年頃「全区を花でうずめる運動」が進められ、この道路も道の両側と中央に樹令
15年位の桜の木約
130本が植えられた。そして地元の婦人会の努力によって「環三のグリーンベルト」は 立派に育てられている。昭和
43年から桜まつりが行われ文京区の新名所となった。(文京区教育委員会)(写真:坂下の千川通り植物園入口交差点)
環三通り桜並木の由来
かつてこのあたりは
常陸府中藩主松平播磨守の
上屋敷で、坂下には
千川(
小石川)が流れ「
播磨田圃」といわれた田圃があった。
戦後できたこの坂は播磨屋敷の跡地を通り「
播磨田圃」へ下る坂ということで「播磨坂」とよぶようになった。坂の桜並木は戦後間もない昭和
22年(
1947)地元の人たちが植えたのがはじまりである。昭和
28年(
1953)には小針平三氏他有志からの苗木寄贈により桜並木が生まれた。その後、並木植樹帯の整備がすすみ平成
7年(
1995)には装いを新たにした桜並木が完成した。昭和
43年(
1968)には「桜まつり」が地元町会・婦人会の協力で開始され今日まで桜の名所として区民に親しまれている。(文京区教育委員会)(写真:坂上の春日通り小石川5)
石川啄木終焉の地歌碑/小石川
この地に石川啄木の
住まいがありました。その家で啄木が最後に創作した歌がこの
2首です。右に東京都指定旧跡「石川啄木終焉の地」の説明板、左の顕彰室に歌碑の解説等がありますのでご覧ください。北岩手郡渋民村(現在は盛岡市内)を故郷とし、この地でその生涯を閉じた石川啄木。ゆかりの深い文京区と盛岡市では平成
19年より啄木の顕彰等を通じて交流を深めてきました。
啄木の没後
100年を迎えた平成
24年、啄木を愛する方々による「啄木終焉の地に歌碑を」との声を受け、文京区は隣接する国有地の取得を発表。建碑に向けて検討を開始しました。平成
25年、隣接地への高齢者施設の開設にあわせて啄木歌碑と顕彰室の設置を決定。文京区石川啄木基金を設けて広く寄附を呼びかけました。平成
27年
3月、多くの方々のご協力をいただきこの歌碑が誕生しました。碑材:姫神小桜(啄木のふるさとの山・姫神山産)揮毫(啄木直筆原稿の左):楢崎華祥氏
高橋泥舟(1835~1903) 山岡鉄舟(1836~1888)旧居跡/小石川
下図の高橋・山岡はそれぞれ高橋泥舟・山岡鉄舟の屋敷である。高橋家は享保5年(1720)、山岡家は文化8年(1811)以降この地に移り住んだものと思われる。泥舟(でいしゅう)は槍術の大家山岡静山の弟で、母方の実家である高橋家を継ぎ25歳のとき幕府講武所師範となる。鉄舟は剣術を北辰一刀流の千葉道場に通い槍を静山に習った。鉄舟は旗本小野家の出身であるが、静山の妹英子(ふさこ)と結婚し山岡家を継いだ。二人は文久2年(1862)12月、清川八郎の呼びかけで近藤勇らが参加し結成された浪士隊の取締役を幕府から命ぜられ、上洛するが清河の攘夷尊王の策謀が発覚し江戸に帰府した。慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ官軍が江戸に迫ると、泥舟は前年に大政奉還した元15代将軍徳川慶喜に恭順を説き身辺警護に当った。鉄舟は勝海舟の使者として、駿府の官軍参謀の西郷隆盛に会い江戸城無血開城への道を開いた。海舟、泥舟、鉄舟を維新の三舟と呼び維新の重要な役割を担った。(文京区教育委員会)
高橋泥舟の墓(谷中)関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27145474/)
山岡鉄舟の墓(谷中)関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27133161/)
旧久堅町(ひさかた)
もと
小石川村の内で、元和年間(
1615~
24)以後町屋を開いた。明治
2年橋戸町、久保町、宮下町飛地、門前町(
宗慶寺・
善仁寺)、
松平播磨守屋敷跡や旗本屋敷跡などを合併した。町名は
永久の町の発展を願って久堅町とした。
戦後造られた
環状3号線の坂名はここに屋敷のあった
松平播磨守(常陸府中・水戸家支藩)にちなんで
播磨坂と名づけられた。町の人の努力で育てられた桜並木は花の名所となり毎年桜まつりが行われている。(昭和
41年までの町名)(文京区)
坂の風景② 坂上より小石川植物園方向の景観です、左手の木立が
極楽水跡になります/小石川
吹上坂
このあたりをかつて吹上村といった。この地名から名付けられたと思われる。『吹上坂は松平播磨守の屋敷の坂をいへり』(改選江戸志)。なお別名「禿(かむろ)坂」の禿は河童に通じ、都内6ヶ所あるがいずれもかつては近くに古池や川などがあって寂しい所とされている地域の坂名である。この坂も善仁寺前から宗慶寺・極楽水のそばへくだり、坂下は「播磨たんぼ」といわれた水田でありしかも小石川が流れていた。この水田や川は鷺の群がるよき場所であり大正時代でもそのおもかげを止めていた。『雑然と鷺は群れつつおのがじし あなやるせなき 姿なりけり』古家千樫 (1886~1927)(文京区教育委員会)
宗慶寺(そうけいじ)/小石川
宗慶寺
吉水山朝覺院宗慶寺。浄土宗鎮西派、伝通院末。本尊阿彌陀如来。當寺の開創は應永22年で、開山は酉蓮社了譽上人聖冏大和尚である。その由来は上人が高弟西譽上人(當時増上寺住)の請によつて常陸より江戸に来り、當地に草庵を結んだのが起りで、其草庵が精舎となり庭内の清水にちなんで吉水山傳法院と號した。慶長7年傳通院殿逝去の砌、當寺に入棺したが境内狭隘の爲め別に一宇を建立したのが今の伝通院で、由緒より云へば當寺が伝通院の本寺に當るわけである。元和7年松平忠輝公母堂茶阿局を當寺に埋葬してから、其法號朝覺院殿貞譽宗慶大禪定尼に因んで朝覺院宗慶寺と改稱した。
寛永年中、傳通院第四世叡譽聞悦上人が中興してから
伝通院末となり、江戸時代には
氷川明神社の
別當を兼ね、境内古跡地
3230坪を擁し大いに榮えた。その境内の清水は氷川明神より開山了譽上人に賜はつたといひ傳へて
極楽水(幕末には松平播磨守邸内に入る)と稱せられ、それが附近一帯の地名ともなつた。現本堂は
大正9年の改築にかかり、茶阿坪局の墓は境内に現存して史蹟愛好者の参詣するものが多い。當寺は小石川屈指の古刹であるから『江戸名所記』『江戸名所圖會』『江戸砂子』を始め江戸時代の諸書にその記載が多い。(小石川區史)
茶阿局墓碑
この墓碑は元和7年(1621)の年紀をもつ古い宝篋印塔である。太平洋戦争により宗慶寺は大きな被害を受けたが、当寺と檀信徒の絶大な協力でこの墓碑は旧観を今に残している。葵の紋が鮮やかである。阿茶局は駿河(現静岡県)の人で家康の没後、髪をおろして朝覚院と称し、飛騨高山に流謫の忠輝を案じながら元和7年6月12日没した。法名「朝覚院殿貞誉宗慶大禅定尼」にちなんで寺は宗慶寺と称するようになった。この寺の創建は古く応永22年(1415)と伝えられ、家康の生母伝通院(於大の方)の墓所のある伝通院とゆかりの深い寺である。(文京区教育委員会)
極楽水
ここは了誉聖冏上人が応永22年(1415)伝通院の元ともなった庵を結んだ所で、後に吉水山宗慶寺の境内となった。現在の宗慶寺はすぐ下にある。「江戸名所記」に『小石川吉水の極楽の井は そのかみ 伝通院の開山了誉上人よし水の寺に おわせし時に竜女形をあらわして 上人にまみえ奉り 仏法の深き旨を求めしかば上人はすなわち 弥陀の本願、他力の実義を ねんごろにしめし賜うに その報恩としてこの名水を出して奉りけり』とある。現在の極楽水は小石川パークタワーの手によって近代風に整備されたものである。(文京区教育委員会)
江戸名所図会 宗慶寺 極楽水 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
善仁寺山門/小石川
善仁寺
石川山福住院善仁寺。眞宗大谷派、東本願寺末。本尊阿彌陀如来。當寺の開創は『文政書上』によれば冷泉天皇の
安和2年で當時は
福住院と號し真言宗であつたが、のち親鸞聖人東國巡錫の途次、當寺に錫を止められし際、極楽水の奇蹟に感じて住職釋賢徴が改宗して浄土眞宗になつたと云ふ(年月不詳)。爾来小石川屈指の古刹として法燈をかかげ江戸時代には法嚴寺、観應寺の寺中が存し、文政には境内古跡地
3639坪、内門前町屋を有し大いに榮えた。(「小石川區史)
街道の風景② 裏道が分からなかったので春日通りから伝通院に向かいます
旧竹早町(たけはやちょう)
もと
小石川村の内であった。寛永年中(
1624~
44)
幕府箪笥玉薬同心(たんすたまやくどうしん・武具弾薬を取扱う幕府の役人)の屋敷となり、後に町屋が設けられて
箪笥町と称した。明治
2年同心町の一部、鷹匠町、安房殿町を併せて竹早町とした。同
5年、智光寺門前、光岳寺門前、宮下町飛地などと武家地を併せた。町名の由来は旧町名の一つ箪笥町の
箪の字を
分解して上下に分けて竹早のよい名としたといわれる。また昔は竹の多い土地であったからともいわれる。(昭和
41年までの町名)(文京区)
福聚院(ふくじゅいん)大国天/小石川
福聚院
浄土宗鎮西派、
伝通院末。
本尊大黒天、阿彌陀如来。江戸時代には伝通院の末院で
安永4年の開創と云ふ。本尊大黒天は江戸時代より有名で『江戸名所圖會』所載の縁起に依れば
三國傳来の靈佛で大黒、多聞、辨天、三神一體の尊影で有る。孝徳天皇の御宇、高麗國の大臣録来の土古が我國に携へ来つたものを、明和年間伝通院の豊譽靈應聖人が感得して此處に安置したのだといふ。江戸時代以来、甲子の日は参詣者が特に群衆し今も甚だ盛んである。維新の後本寺より獨立して一寺となつた。(小石川區史)(写真:
境内のとうがらし地蔵(せきどめ地蔵)と大黒天さま)
木造・大黒天坐像一軀
像高(右足下より)47.2cm、ヒノキ材、漆箔、彩色。小像ながら簡素な彫法により彫刻的量感がよくあらわれて見るべきものがある木造彫刻といえる。特に数少ない古式武装神スタイルを整えていることと、その製作年代を鎌倉時代に遡ることなどを含め貴重な文化財である。大黒天信仰は8世紀にわが国に伝わり、以来大国主命伝説と習合して寺院の食堂に祀ると繁栄を招くといわれている。江戸時代になって民間信仰として広まり農神として祀られ七福神の仲間に数えられるようになった。しかし本来は仏法護持の戦闘神として憤怒形をしているものであることを考えるとこの大黒天像は本来のスタイルを尊重している坐像であるといえる。伝通院山内福聚院大黒天(文京区教育委員会)
伝通院山門/小石川
浪士隊結成の処静院跡の石柱/山門脇
この石柱は伝通院の塔頭の一つで伝通院前の福聚院(ふくじゅいん)北側にあった処静院(しょじょういん)の前に建っていたものである。石柱の文字は修行と戒律の厳しさを伝えている。処静院はその後廃寺となった。文久3年(1863)2月4日、幕末の治安維持を目的とした組織「浪士隊」の結成大会が処静院で行われた。山岡鉄舟、鵜殿鳩翁、伝通院に眠る清河八郎を中心に総勢250人、その後浪士隊を離れて新選組として名をはせた近藤勇、土方歳三、沖田総司などが平隊員として加わっていた。一行は文久3年2月8日京都へと発った。年号が明治と改まる5年前のことだった。(文京区教育委員会)
新選組の前身・新徴組発会の処静院跡
幕末の歴史に1頁を残した新選組の前身・
新徴組は、江戸市中から応募した浪士隊として
清河八郎、
山岡鉄舟らの呼びかけで芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らが参加し、文久
3年
2月
4日
伝通院山内処静院で発会したと記録されている。処静院はその後火災に遭い消失したが、この碑建立の一帯が処静院で大黒天に隣接しておりました。幕末時、
処静院住職・
琳瑞和尚は清河八郎らを支援したとして佐幕派浪士と見られた武士らに暗殺された、今なお伝通院内に墓碑が建立され供養されている。(文京歴史研究会)
幕末の傑僧琳瑞上人
幕末の傑物と称せられている琳瑞は幼時、細谷房蔵と称し天保元年10月出羽の国 ( 山形県 ) に生まれた。「幼時より秀才の誉れ高く伝通院山内・処静院住職・福田行誡のもとに学んだ。その才は見る見る内外に評価され30有歳にして士々の間においても認められる所となり高橋泥舟、山岡鉄舟等皆彼のよき理解者であった。彼は公武合体論を主張し水戸烈公の支持を取り付け大いに政治的動きをなした。しかしながらこれは誤解を生む原因となり慶応3年10月18日深夜、彼は高橋泥舟宅の帰り広井求馬、松岡丙九郎なる人物らに三百坂で刺殺された。時に38歳と記されている。(文京歴史研究会)
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傳通院本堂