無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり蔵前~石浜04-橋場   

日時 2018.1130(金)
天気 晴れ


旧日光開街道と別れ隅田川添いの「橋場通り」を北へ向かいます。
この通りは古奥州街道の道筋、白髭橋辺りでで隅田川を渡っていたました。
後でしりましたが「石浜通り」は旧堤防に造られた道のようです。

ここは石浜から鳥越神社辺りまで微高地の丘が続いていたようですが、
現在はわずかに待乳山にその痕跡を見るのみです。
また、北側に山谷掘り(日本堤)の流路を確認できます。

江戸時代、この辺りの地形は改変されていますので、それ以前の
地形はいまひとつ捉えずらいところです。
すこしづつ辿りながら理解が深まれば・・・と思います。


・・・今戸

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街道の風景① 「石浜通り」後で調べたらこの通りはかつての「千束堤」(汐入土手)、全く面影はありませんが隅田川の堤防だったそうです/今戸2丁目

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砂尾堤と砂尾長者
南千住7丁目20番地付近から現在の隅田川に沿って台東区今戸に向かう道は、土手になっていて砂尾堤と呼ばれた。中世の石浜に砂尾長者とよばれる土豪が住み、この地を領していたことに因むという。石浜の地は古代から、武蔵国(東京都・埼玉県・神奈川県東部)と下総国(千葉県北部・茨城県南部・東京都東部)をつなぐ交通の要地であり、砂尾長者は15世紀半ば千葉氏が内紛により下総国を逃れ石浜に入った後、家臣としてこの地に住んだといわれる。台東区橋場にある砂尾不動院開基とも中興ともいわれる人物である。この一帯は昔から広範囲にわたりしばしば水害に見舞われた。汐入堤とも呼ばれたこの堤近くには昭和初期まで砂尾堤根という字が残っていた。(荒川区教育委員会)
(右岸の青線が堤防、石浜通りになります)

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本性寺山門/清川 法華宗本門流のお寺です



・・・橋場

橋場
は『義経記』『源平盛衰記』に浮き橋を架けたと記載がありそれが地名の由来とされる。1913年(大正2年)まで隅田川には最も古い渡しとして橋場の渡し(現在の橋場2丁目から隅田区堤通りを結ぶ)があった。1964年(昭和39年)の住居表示変更でそれ以前の浅草石浜町1丁目から3丁目の一部東側と浅草橋場町1丁目から3丁目全域から新町名として橋場と命名された。Wikipedia

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街道の風景③ 橋場通りの人権プラザ付近から今戸方向の景観です/橋戸

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保元寺(ほうげんじ)/橋戸 浄土宗の古刹です


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保元寺の縁起
保元寺は奈良時代の宝亀元年770年)に此の地に創建された都内でも数少ない古刹(古寺)である。当時都鳥鳴く隅田川に面した此の地は砂尾の石浜と云われ、保元寺も砂尾の石浜道場と呼ばれていた。とき移り平安時代の保元元年1156年)後白河天皇の勅許を得てときの年号寺名として保元寺と改称した。嘉元元年(1305年)には時宗の宗祖一遍上人もしばし保元寺にとまり修行している。南北朝時代足利尊氏が新田義興と此の地で合戦し敗走したと太平記巻31に「石浜の合戦」として記されている。その後、幾度もの戦いに保元寺はまったく荒廃し、ただ淒涼たる武蔵野の保元寺の歴史を惜しみ、芝の増上寺初代法主・西誉聖聡上人が弟子の聡誉西仰に保元寺を再興させた。この時から保元寺は浄土宗の寺となったが一時は法源寺と用字を変えたときもあった。

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境内には延文2年(1070)に亡じた鎌倉権太夫景通の古塔、木曽義仲とのいくさに白髪を黒く染めて奮戦した斉藤実盛の石仏、江戸時代の蘭学者で画師谷文晁の師でもあった日本最初の洋風画家の北山寒厳の墓と古碑、江戸幕府の医師で日本最初の天然痘予防接種をした桒田立斎の墓と古碑などがある。また歴代住職の古塔、寛文の頃より元禄その他の年号を刻された石仏など多数が現存する。保元寺は浄土宗別格であり正しくは帰命山薬王無量院保元寺と称する。此の碑は一代の書聖栖原家の志により建立した。先生は芝増上寺の林祖洞師の高弟にして、生涯一万冊の各蹟を発願し以来60年幾多の困難に耐え、遂に成満しこれを駒澤大学図書館に寄贈された。先生は此の浄業大成の後昭和4755日永眠され葬られた。行年80歳(石碑文)

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榎本家略史
榎本家は武州豊島郡石浜橋場の郷士で、平家一門の千葉氏の家人である。江戸時代の祖・榎本与兵衛武明は延享3年(174668歳で没し、千葉氏と縁のある石浜郷の古刹保元寺(法源寺とも称した)に葬られた。以来、榎本家の祖霊を祀る。4代武兵衛武由は一女「とみ」の婿養子に箱田良助を迎える。良助は備後国(広島県)箱田村の郷士の次男で、伊能忠敬が幕府の命で全国を測量する助手となり、後に榎本圓兵衛武規と称し徳川幕府の家人となる。5代圓兵衛武規の妻「とみ」が文政10年没したため「こと」を迎え武興・武揚兄弟を産み育てていく。6代榎本勇之助武興の弟が釜次郎武揚である。武揚は幕府によりオランダに留学し操船と海軍の知識を習得し帰国、徳川幕府の海軍長官となるも北海道五稜郭で敗戦し、刑死を免れ年余にわたり菩提寺謹慎となり保元寺に隠居したが、許されて明治新政府に仕え高位の身分となる。明治411027日に没し、先に保元寺に埋葬の夫人多津子と両名のみ改葬された。(碑文)

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福寿寺/橋場 曹洞宗のお寺です

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安藤東野墓(東京都師弟旧跡)
江戸時代中期の儒学者、名は煥図、字は東壁、佐左衛門と称し東野(とうや)と号していた。天和3年(1681128日下野那須郡黒羽に生まれた。父・大沼玄佐は医師として下野黒羽藩大関家に仕え、彼は次子であったが、幼くして父を失い江戸に移った。ここで太宰春台とともに中野撝謙(ぎけん)の門に学び、後に養われこれより安藤氏を称した。またたま将軍綱吉が柳沢邸に来る時、講義したという。正徳元年(171129歳の時に致仕し駒込白山に隠居した。内西代藩主本多忠統(ただむね)の賓師となったが、肺を病み享保4年(171941337歳で死去した。著書「東野遺稿」は没後友人が編集して刊行したものである。(東京都教育委員会)

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街道
の風景③ 右手は「石浜河岸」マンションが建ち並びますがかつては大名の別邸だったようです/橋場 

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砂尾山不動院山門/橋場

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砂尾山不動院
橋場不動尊の名で親しまれる当寺は正確には砂尾山橋場寺不動院といい、天平宝字4(760)寂昇上人によって開創された。当初は法相宗であったが、長寛元年(1163)に中興の祖といわれる教圓坊(一説には長圓)によって天台宗に改宗され浅草寺の末寺となったと『文政寺社書上』に記されているが、現在は浅草寺と本末関係はなく比叡山延暦寺末となっている。本堂は弘化2(1845)の建立で、その古色をおびたたたずまいはうるおいにみちている。本尊の不動明王像は『江戸名所図会』に『緑起に曰く、本尊不動明王は、良弁僧都相州大山寺にありし頃、彫刻ありし三体の一にして、かの寺の本尊と同木同作なり。僧都一時上足寂昇師に告げて云く、三体のうち一体はこの山にとどめ一体はみずから持念す。残るところの一体は、汝に附属すべしとなり。仍って僧都化寂の後(宝亀4年歳82にして寂せり)寂昇上人上総の方へ赴く道の次、適この地に至り霊告を得て有縁の地たることをしり、ここに安じ則ち村老野人にかたらひて草堂を営み、砂尾不動と号す云々。』とあり

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良弁僧都の御作であることがわかるが、このご本尊は秘仏となっており拝観することはできない。しかし、お前立のご本尊としての不動明王がありその偉容は周囲を圧している。だれの作かはわからないがおそらく鎌倉期のものと推察される。現在の本堂は1845年の建立。本堂の右前にある樹齢700年の大銀杏は、江戸時代、隅田川往来の目印になった。寂昇上人が浅茅の生い茂るこの地に当寺を開創したのは1200余年も昔のことで、奈良時代末期のことであるから文字通り橋場第一の古刹といえよう。(天台宗東京教区)

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江戸名所図会 総泉寺 砂尾不動 同薬師 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用) 奥が総泉寺(板橋区へ移転)手前が砂尾不動院です


・・・白髭橋(橋場の渡し)

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隅田川の風景① 白髭橋より下流側の景観 右手が「石浜河岸」です

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白鬚橋
白髭(しらひげ)の名は天暦5年(951)創建の縁起のある向島白髭神社に由来している。古来、梅若伝説で知られる渡船場もこの辺りにあり、のちには舟の浮橋などもかけられたという説もある。ここを「船場の渡し」といったのはこのゆかりの名であり、交通の要地であったことを示している。大正3年(1914)には地元の住民によって会社が設立され有料の木橋がかけられた。関東大震災(1923)を経て復興事業の一環として、昭和61931)に重量感溢れるアーチ橋としてかけかえられた。その後、東京大空襲などにも他の橋とともに多くの人を救う役割を果たした。現在も荒川区
・墨田区・台東区の3区を結ぶ重要な橋である。(東京都)
(構造形式: 下路式ブレースドリブドタイドアーチ橋 橋長: 168.8m 幅員: 22.1m)

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台東区側に
「明治天皇行幸対鷗荘跡」「白髭橋」碑が建ちます

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明治天皇行幸隅田川鷗荘跡
隅田川
畔の橋場一帯は風光明媚な地でありかつては著名人の屋敷が軒を連ねていたという。対鷗荘(対鴎荘)もその1つで、明治時代の政治家三条実美18371891)の別邸であった。「征韓論」をめぐって政府内に対立が続いていた明治6年(1873)の10月、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れこの別邸で静養していたが、明治6年(18731219明治天皇は病床の実美を気使いこの邸を訪れている。隣りの碑はこの事跡を顕彰して、のち対鷗荘(対鴎荘)の所有者となった一市民の尽力によって建立されたものである。高さ3m余。側面に「昭和6年(1931)歳次辛末5月建立石井久太郎」、裏面に「多摩聖蹟記念館顧問中島利一郎謹撰 上条修徳謹書」の碑文が刻まれている。対鷗荘(対鴎荘)は昭和3年(1928白髪橋架橋工事に伴い多摩聖蹟記念館(多摩市連光寺)に移築された。(台東区教育委員会)

三条実美

幕末の尊攘派の公卿。三条実万(さねつむ)の子。14代将軍徳川家茂に攘夷督促の朝命を伝えるなど尊攘派公卿の先鋒となり運動したが、1863年文久3818日の政変で失脚し七卿落の一人として長州、さらに大宰府に落ち王政復古を機に上京。明治政府の副総裁・輔相次いで1869年右大臣、1871年政府最高位の太政大臣となり1873年には岩倉使節団を派遣、1885年の内閣制まで同職。以後内大臣、臨時内閣総理大臣を歴任。(コトバンク)

多磨聖蹟記念館(多摩市連光寺)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/23374830/

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隅田川の風景② 白髭橋より上流側の景観この先で大きく湾曲していきます。荒川区側に説明板が立ちます

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橋場の渡し
対岸の墨田区
寺島とを結ぶ160の渡しで「白髭の渡し」ともいわれていた。『江戸名所図会』に依ると古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ、『伊勢物語』の在原業平が渡河した渡しであるとしている。しかし渡しの位置は幾度か移動したらしく はっきりしていない。大正3(1914)に白髭木橋が架けられるまで 多くの人々に利用された。(荒川区教育委員会)

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対鴎荘跡
対鴎荘は白鬚橋西詰の地に1873年、明治の元勲三条実美別邸として建設された。『いそがしき つとめのひまを ぬすみ来て 橋場の里の 月をみるかな』三条実美が京都風の優雅さをこの地に求め、橋場の地を愛して詠んだ歌である。橋場の地はその歴史も古く明治初年にいたるまで閑静な土地であった。この河岸から見渡す向島一帯はうっそうとした樹木の前面に土手の桜並木が見えて、情緒豊かな風景を楽しむことができたのである(荒川区教育委員会)

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橋場の渡し
現在の白髭橋付近にあった。「白鬚の渡し」とも呼ばれた。歴史的に位置や名称に変遷があったが、記録に残る隅田川の渡しとしては最も古い。律令時代の承和2年(835)の太政官符に「住田の渡し」と書かれたものが残っている。奥州総州への古道があり、伊勢物語で主人公が渡ったのもこの渡しとされている。また、源頼朝が挙兵してこの地に入る際に、歴史上隅田川に最初に架橋した「船橋」もこの場所とされ、「橋場」という名が残ったとも伝えられている。橋場は歴史の古い土地柄から江戸時代から風流な場所とされ、大名や豪商の別荘が隅田川河岸に並び、有名な料亭も多かった。明治期に入ってからも屋敷が建ち並んでおり、とりわけ著名な三条実美の別荘である「對鴎荘」が橋場の渡しの西岸にあった。歌川広重が錦絵「墨田河橋場の渡かわら竈」に描いた。白鬚橋の完成に伴い大正期に廃止されたといわれる。
Wikipedia

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江戸名所図会 思河 橋場渡 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
『うき旅のみちに流るるおもひ河泪の袖や水のみなかみ 道興准后』

橋戸・今戸
隅田川西岸の今戸橋から鐘ヶ淵あたりまでの一帯。橋場は『義経記』『源平盛衰記』に浮き橋を架けたと記載がありそれが地名の由来という。橋場の渡しは現在の橋場2丁目から隅田区堤通りを結んでいた。今戸は近くの石浜に古い港があったのに対し、新しく港を開いたので今津といったものが今戸と転訛したと考えられている。今戸焼(人形、瓦など)は江戸名物の一つで、錦絵には今戸焼を焼く窯と煙が描かれることが多い。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)


・・・南千住/荒川区

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石浜神社鳥居/南千住

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大鳥居
第一鳥居(参道入口手前)は安永8年(1780、麁香様の開帳の年に建立。笠木(横柱の上部のもの)のカマボコ型様式は神明造りには珍しいものです。第二鳥居(参道の奥・写真)は寛延2年(1749)の建立。柱に刻まれている山川、高木は橋場の名主の名。様式で額束(がくづか:横柱の中央にある短い支柱)のある型は神明造りでは珍しいとされます。(石浜神社HP)

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石浜神社境内

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石浜神社
祭神:天照大神 豊受姫神
当社は聖武天皇の神亀元年724911日勅願によって鎮座され、以来1294年の歴史を持っています。文治51189源頼朝の奥州征討に際しての社殿の寄進、弘安41281)蒙古襲来の折、必勝を祈念しての鎌倉将軍家お取り次ぎによる官幣(かんぺい:天皇から神に捧げる礼物)のご奉納などを経て中世初めには大社としての発展を見ました。殊に千葉氏宇都宮氏などの関東武将の信仰は篤く関八州より多くの参詣者を集めたと伝えられています。東に隅田の大川、西に霊峰富士、北に名山筑波といった名勝に恵まれ、江戸近世における社運はさらに隆昌、『江戸名所図会』などにも大きく納められるところとなり、「神明さん」の通称のもと市民の間にその名を馳せました。明治5年(1872)、郷社に格付けされ以後、時の流れと共に名称などに変化はあったもののご神徳・社運の輝きはいよいよ高く今日に及んでおります。(石浜神社HP)

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真先稲荷神社
御祭神は豊受姫神(とようけひめのかみ)、天文年間に石浜城城主となった千葉之介守胤がここに一族一党の隆昌を祈って宮柱を築き、先祖伝来の武運守護の尊い宝珠を奉納安置申して以来、真先かける武功という意味にちなみ真先稲荷として世に知られました。大正15年(1926)、石浜神社に併合されました。(石浜神社HP)

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真先稲荷と田楽茶屋
真先(崎)稲荷は天文年間(15321554)、石浜城主・千葉守胤によって祀られたと伝える。もと隅田川沿岸にありその門前は景勝地として知られていた。また、奥宮の狐穴から出現する「お出狐」は対岸の三囲稲荷の狐と並んで有名であったという。江戸中期から参詣する人が多くなり、宝暦7年(1757)ころには、吉原豆腐で作った田楽を売る甲子屋・川口屋などの茶屋がたち並んでおおいに繁昌した。吉原の遊客もよく当地を訪れ、『田楽で帰るがほんの信者なり』など当時の川柳に真先稲荷・田楽・吉原を取り合わせた句が詠まれている。(荒川区教育委員会)

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招来稲荷神社
ご祭神は豊受姫神、真先稲荷の奥宮としてまつられました。(石浜神社HP)




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富士遥拝所
宝暦8年(1758)の建立。当時普及を見た富士信仰・講の記念の一つです。(石浜神社HP)



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亀田鵬斎詩碑
第二鳥居をくぐり参道拝殿寄りの左手にあります。碑面には江戸は下町の名物儒学者鵬斎73歳の折の作、隅田川の詩2が刻まれています。石浜城や頼朝、道灌の歴史のあとを切々と偲ぶ名詩です。作者は宝暦2年(1752)神田の生まれ、博識多才、書画に秀でた江戸後期異色の文人墨客で、浅草周辺、当社付近の隅田川とその岸の詩情を限りなく愛した人。墓碑は今戸の称福寺境内にあります。(石浜神社HP)

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都鳥歌碑
正面には平安初期の名門貴族、漂泊の歌人業平(なりひら)が京の都を捨てはるばる大川のほとりに流れ来て、川面の都鳥を目にした時の望郷の思いを綴ったという『伊勢物語 東下り』の一節が記されています。建立は文化2年(1805)です。『名にし負はば いさこととはん 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと』(石浜神社HP)

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麁香神社関係資料
麁香神社(あらかじんじゃ)は石浜神社
摂社で本殿西の中庭内にある。祭神は手置帆負命と彦狭知命。この二神は工匠守護祖神で江戸時代には建築関係者の信仰を広く集めた。ここに立つ天保51834)銘の麁香神社建立の碑、安政4年(1857)銘の日本大工祖神の碑は、幕府御用職大工方・屋根方等の工匠が建てたものである。このほか安永3年(1774)銘の由来を記した板、安政(18541860)の銘の扁額がある。

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神社の東側の景観です大鳥居先に「石浜城址」の説明板あります

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石浜城址(石浜神社)
石浜城は室町時代の中頃、武蔵千葉氏居城となり戦乱の世に100年あまり続いた城である。天正年間(15731591)城主・千葉胤村(北条氏繁3男)を最後に後北条氏の滅亡の後、廃城となったと思われる。石浜城の位置には諸説あるが、石浜神社付近は有力な推定値の一つとされる。石浜神社は聖武天皇の時代、神亀元年(724)の創建と伝える神社で源頼朝、千葉氏、宇都宮氏らの崇敬を受けたという。江戸時代の夏越しの祓(はらえ・630日)はその壮麗さにおいて名高く、天保9年(1838)刊行の「東京歳時記」の挿絵に夏の風物詩として紹介されている。(荒川区教育委員会)

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石浜神社と隅田の渡し
ここより北方に石浜神社がある。亀元元年(724)に創祀され中世においては千葉氏などの崇敬を集めて大いに栄えたと伝えられている。また、朝日明神宮とも称し伊勢詣でのかわりに参詣する人々が絶えなかったという。隅田の渡しは平安時代の編纂物「類聚三代格」(るいじゅうさんだいきゃく)や歌物語「伊勢物語」にも記される渡しで、この辺りは古くからの交通の要衝の地として賑わいをみせていた。石浜神社境内には隅田の渡しを背景にした歴史と光景を偲ばせる「伊勢物語の歌碑」や「亀田鵬斎の詩碑」が残る。(荒川区教育委員会)


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石浜城
中世
の浅草付近にあった日本の城。石浜は浅草の北側にある古利根川(現在の隅田川)右岸地域呼称であり、この付近に武蔵国と下総国の境目をつなぐ「隅田の渡し」があったとされている。築城年次は不明であるが、中世には江戸氏一族石浜氏が本拠を構え、文和元年(1352)には新田義興の追撃を受けた足利尊氏がこの地で武蔵平一揆に迎えられて追撃を退けている。室町時代中期の享徳の乱に伴って発生した千葉氏の内紛では、宗家の生き残りである千葉実胤(千葉兼胤の孫)が下総国を追われて扇谷上杉家の庇護下に入り、石浜城を拠点とした(武蔵千葉氏)。この際、弟の自胤も赤塚城に逃れている。だが、下総回復は達成できず、扇谷上杉家の没落後は後北条氏に従って同氏一族の千葉胤村を当主に迎え、豊臣政権の小田原征伐によって没落、石浜城も廃城となった。城の所在地については、関東大震災以前に台東区橋場にあった総泉寺が武蔵千葉氏の菩提寺で、石浜城もその側にあったとされているが、荒川区南千住の石浜神社付近にあったとする説と、台東区浅草の本龍院(待乳山聖天)付近にあったとする説に分かれており、江戸時代以後の古利根川→隅田川の流路の変化や都市化の進展によって付近の地形も大きく変わっており遺構なども見つかっていない。「新修荒川区史」は石浜神社の神官が千葉氏の一族である鏑木氏によって世襲されていることから前者の説を主張している。「東京市史稿」は「石浜城の跡今の金龍山にて、聖天宮なり」として本龍院説をとり「大日本地名辞書」「望海毎伝」も後者の説を載せている。中世を通じて同一の場所に石浜城があったのか、また城そのものの規模についても不明のままである。Wikipedia

待乳山聖天(本龍院)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27262253/

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江戸名所図会 石濱神明宮 (
わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
手前が真先稲荷、奥が石濱神明宮です

真先(まさき)

橋場の渡しよりの隅田川西岸一帯。真崎稲荷神社(現真先稲荷神社)、石浜神明宮(現石浜神社)があり、隅田川の眺望を楽しむ場所としても知られた。真先稲荷神社は大正151926)年に石浜神社に併合。錦絵には対岸やや北の「水神の森」と向かい合う形で描かれることが多い。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)


・・・橋場

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街道の風景④ 明治通りを左折すると「平賀源内墓」があります、かつては思川が流れていました

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平賀源内墓/橋場

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平賀源内墓(国指定史跡)
平賀源内は享保13年(1728讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる(生年には諸説ある)。高松藩士白石良房の三男で名は国倫。源内は通称である。寛延2年(1749)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を用いた。本草学・医学・儒学・絵画を学び、事業面では成功しなかったが物産開発に尽力した。物産会の主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などをおこないエレキテル(摩擦起電機)、火浣布(石綿の耐火布)を発明した。一方で風来山人・福内鬼外などの号名をもち「風流志道軒伝」などの滑稽本や、浄瑠璃「神霊矢口渡」などの作品を残している。安永8年(177911月に誤って殺傷事件を起こし、小伝馬町内で1218日に病死、遺体は橋場総泉寺(曹洞宗)に葬られた。墓は角塔状で笠付、上段角石に「安永八己亥十二月十八日 智見霊雄居士 平賀源内墓」と刻む。後方に従僕福助の墓がある。総泉寺は昭和3年(1928板橋区小豆沢移転したが、源内墓当地に保存された。昭和4年(1929)に東京府史蹟に仮指定され、昭和6年(1931)には松平頼壽が(旧高松藩当主)により築地塀が整備される。昭和18年(1943)に国指定史跡となった。(台東区教育委員会)

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総泉寺(そうせんじ)
板橋区にある曹洞宗系の単立寺院。山号は妙亀山。本尊は釈迦如来。
この寺は当初浅草橋場(現在の台東区橋場)にあり、京都の吉田惟房の子・梅若丸が橋場の地で亡くなり、梅若丸の母が出家して妙亀尼と称して梅若丸の菩提を弔うためを結んだのに始まるという。その後、武蔵千葉氏の帰依を得、弘治年間(1555-1558千葉氏によって中興されたとされる。佐竹義宣によって再興され、江戸時代には青松寺・泉岳寺とともに曹洞宗の江戸三箇寺(えどさんかじ)のひとつであった。1923年(大正12年)の関東大震災で罹災したため、昭和3に現在地にあった古刹・大善寺に間借りする形で移転。その後合併して現在に至る。台東区橋場2丁目の旧寺地には平賀源内の墓が残るがなぜ移転しなかったのかは不明(Wikipedia

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かつてこの辺りは総泉寺の境内・参道だった場所でしょうか

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旧参道入口付近に「お化け地蔵」が建ちます

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橋場のお化け地蔵(松吟寺)
「お化け地蔵」の名にはかつて大きな笠をかぶりその笠が向きをかえたから、あるいは高さ3m余の並はずれて大きいからなどいくつかの伝承がある。この辺りは室町時代以来、禅宗の名刹総泉寺境内地であった。門前一帯浅茅ヶ原といい、明治40年(1907)刊「東京名所図会」には『浅茅ヶ原の松並木の道の傍らに大いなる石地蔵ありしを維新の際並木の松を伐りとり、石地蔵は総泉寺入口に移したり』とあり『当寺入口に常夜灯あり、東畔に大地蔵安置す』とも記している。お化け地蔵の台石によればこの石仏は享保61721)の建立。関東大震災で2つに折れたが、補修し現在にいたっており頭部も取りかえられている。常夜灯は寛政2年(1790)に建てられた。総泉寺は昭和4年(1929板橋区へ移転した。「お化け地蔵」近くにある「元総泉寺境内諸仏供養の為」の碑は移転に際し建てられたものと思われる。(台東区教育委員会)

妙亀塚(
東京都指定旧跡)
この妙亀塚のある地はかつて浅茅ヶ原と呼ばれた原野で、近くを奥州街道が通じていた。妙亀塚は「梅若伝説」にちなんだ名称である。「梅若伝説」とは平安時代、吉田少将惟房の子梅若が信夫藤太という人買いにさらわれ、奥州へつれて行かれる途中、重い病にかかりこの地に捨てられ世を去った。我が子を探し求めてこの地まできた母親は、隅田川岸で里人から梅若の死を知らされ、髪をおろして妙亀尼と称し庵をむすんだという説話である。謡曲「隅田川」はこの伝説をもとにしている。塚の上には板碑が祀られている。この板碑には「弘安11年(1288)戌子522日孝子敬白」と刻まれており、区内でも古いものである。しかし、妙亀塚と板碑との関係は明らかではない。なお墨田川の対岸、木母寺(墨田区堤樋)境内には梅若にちなむ梅若塚(都旧跡)がありこの妙亀塚と相対するものと考えられている。(台東区教育委員会)


・・・清川

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街道の風景⑤ アサヒ会通りを西にむかいます/清川

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玉姫稲荷神社鳥居/清川

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玉姫稲荷神社
祭神:宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)
社伝に天平宝宇四庚(760)の創建とあり、享保年間に出版された『江戸砂子』に「新田義貞朝臣、鎌倉の高時を追討のみぎり、弘法大師の筆の稲荷の像を襟掛にしたまひしを、瑠璃の宝塔にこめて当所におさめまつり給ふ。故に御玉ひめの稲荷と申のよし」(東京都神社庁)

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江戸名所図会 妙亀明神社 浅茅が原 玉姫稲荷 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
(中央が妙亀明神社 奥が玉姫稲荷、右手が浅茅が原でしょうか)


・・・日本堤/台東区


台東区の北部に位置する。町域東部は台東区清川に南部は日の出会通りに接しこれを境に台東区東浅草に、西部は土手通りに接しこれを境に千束・竜泉・三ノ輪一丁目に、北部は明治通りに接しこれを境に荒川区南千住・台東区三ノ輪二丁目に接する。東部には大阪市の釜ヶ崎、横浜市の寿町と並んで称される日本の三大人足寄場のひとつとして日雇い両道者が集まる山谷の一画を含んでいる。いろは会商店街は漫画『あしたのジョー』の舞台が泪橋であることから同作品を利用した街おこしを行っている。
Wikipedia

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街道の風景⑥ 日暮れてしましましたが旧日光街道です(この先が「涙橋」)、土手通りから三ノ輪に向かいます/東浅草2


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土手の伊勢屋/日本堤
台東区日本堤にある昭和初期に建てられた木造の2階建ての飲食店舗である。1889年(明治22年)、若林家により天麩羅屋土手の伊勢屋を創業した。

伊勢屋店舗兼主屋

木造2階建、瓦葺、建築面積44㎡。
土手通りに西面して店を開き、東と南も街路に面する。間口4.6m奥行10mの木造2階建、入母屋造妻入桟瓦葺。外壁は下見板張、軒下と妻面は漆喰仕上げとする。1階を店舗、2階を住居とする。正面のカウンターなど、往時の天麩羅屋の佇まいを残す。(国指定文化財データベース)

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あしたのジョー像/土手通り    吉原北入口/竜泉

新吉原・竜泉の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27244125/

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今昔マップ/歴史的農業環境閲覧システム
(黄:歩行ルート 青:旧日光街道 橙:橋場通り 紺:「千束堤」青:山谷堀)

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ルート図(蔵前~石浜~三ノ輪)
(赤:歩行ルート 緑:旧日光街道 橙:橋場通り 紫:古代官道 黄:堤 青:山谷掘)

# by Twalking | 2018-12-17 14:39 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 上町駅   

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世田谷線上町駅/世田谷区世田谷
通学や通勤でお世話になった、懐かしい駅です。
車輛はカラフルになって沿線の風景になじみます。
乗り心地もいいし、専用軌道ですから早いので便利です。

上町駅

世田谷区世田谷3丁目にある東急世田谷線の駅である。(開業:1925年・大正14年)相対式ホーム22線だが、両ホームは踏切を挟んで斜向かいに設置されている。かつては上り線ホームの向かい側に下り線ホームがあったが、車両基地(雪が谷検車区上町班)を設置した際に現行の様式に変更された。(Wikipedia


# by Twalking | 2018-12-16 23:59 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 モニュメント-サザエさん   

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桜新町駅/サザエさん通り(世田谷区桜新町)
半蔵門線の階段を登ると、大きなフラワー、
このシルエットは・・・、サザエさんだ~。
街が華やいで、いいですね!

大山道(桜新町R)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22644711/

# by Twalking | 2018-12-15 23:02 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 モニュメント-大山詣の旅人   

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青山通り大山道/世田谷区弦巻
世田谷区内を通る「大山道」は三軒茶屋の追分から世田谷通り、ボロ市通りを通り、弦巻から用賀・二子玉川へ向かっていました。今も旧道が残るこの界隈、蛇崩川の源流域にあたります。格好の水場でしたのできっとこうしてひと休みしたんでしょうね・・・、往時の面影を伝えています。

大山道(ボロ市通り)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22619327/

# by Twalking | 2018-12-15 22:54 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 もみじ   

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鶴牧通り/多摩市鶴牧
母のマンション前のもみじ、
名残の一枚でしたね・・・、
楽しませてくれて、ありがとう~!

# by Twalking | 2018-12-14 16:36 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 噴水   

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大池/多摩中央公園(多摩市落合)
木枯らし、ビュ~ン!
いいお天気なんですが・・・・。

# by Twalking | 2018-12-14 15:44 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 街の風景-「顔のトイレ」   

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厩橋/隅田川(春日通り・台東区蔵前)
女性2人にお髭の男性が2人、何だろうと???と足を止めますよね。
よく見ると「公衆トイレ」、お隣は「KOBAN」です。
なんと奇抜なデザインだこと、面白いですね!
台東区の「まちかど賞」(平成4年度)を受賞しているそうですよ。

# by Twalking | 2018-12-13 23:21 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-第六天榊神社   

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阿形


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吽形第

六天榊神社/台東区蔵前
均整のとれたスッキリした狛犬さん、
昭和15年の奉納だそうです。

第六天榊神社(蔵前)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27254079/


# by Twalking | 2018-12-13 22:30 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 乙女椿   

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乞田川/多摩市落合
どんよりとして、寒いですね。
すっかり葉を落した川辺に一株の乙女椿、
ほっとしますね~・・・、美しい。

# by Twalking | 2018-12-13 18:09 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 紅葉   

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上之根公園/多摩市愛宕
う~ん、鮮やかなこと・・・、
美しいね~、ヒュウガミズキさん、
ありがとう~!

# by Twalking | 2018-12-12 19:23 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 干支   

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乞田川/多摩市落合
「おいらの出番まだかな~??、むずむず」
おや、下見かな~・・・、イノシシさん。
まだちょっと早いんじゃな~い。

# by Twalking | 2018-12-12 12:14 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 隅田川橋梁   

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東武伊勢崎線/隅田川テラス(台東区浅草)
東武の特急列車がゆっくりと隅田川を渡ります、
絵になる風景なる風景ですね~・・・、
テラスから見ているとなんだか旅情に誘われます。


隅田川橋梁
隅田川に架かる鉄道経で東武鉄道伊勢崎線(東武スカイツリーライン)を通している。形式は中路カンチレバーワーレントラス、鋼材重量910(重量トン)、橋長166mの鉄道橋梁である。(竣工:昭和6年)この橋は、東武が浅草駅まで延長するために隅田川に架けた橋で、隅田川の景観に配慮するためと車窓からの隅田川の景観を考慮して高いトラス橋にせず架線柱に曲線のデザインが取り入れられた。また、計画の際には隅田公園を通る路線が計画されていたが、隅田公園の景観を損なわないよう公園を避けるようにルートの設定がなされた。1931年から1943年まで橋のすぐ東側に隅田川公園駅が設けられていた。浅草駅入線に際する運転の制約上この橋梁付近での制限速度は15km/hとなるほか両渡り線が設置されている。列車がゆっくりとこの鉄橋を渡る風景は非常におだやかで、鉄橋のつくりもあいまって現在は浅草の情緒を引き立てる役ともなっている。(Wikipedia

# by Twalking | 2018-12-11 17:03 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり蔵前~石浜03-今戸   

日時 2018.11.30(金)
天気 晴れ


隅田川から少し離れ街道筋を待乳山、今戸へぶらり。
小高い丘の上にある待乳山聖天は趣がありますし、
山谷掘公園は山谷堀の流路跡、地形がよくはわります。

招き猫で知られる今戸神社は縁結びの神社、境内には
錦絵でも描かれた今戸焼発祥の地碑が建ちます。
周辺の寺社に寄り道しながら橋戸へ向かいます。


・・・・
待乳山(まつちやま)

待乳山聖天
周囲を指す地名。台東区浅草七丁目付近にあたり、元来小高い丘を成していた。待乳山聖天:聖観音集待乳山本龍院。台東区に所在する聖天、関東三聖天の一つ、単に「待乳山」とも通称するWikipedia

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街道の風景① 寄り道しながら川沿いの「橋場通り」を散策します/待乳山聖天前

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都道314号言問大谷田線
台東区と足立区を結ぶ特例主要地方道。隅田川や荒川を横断し浅草と綾瀬周辺を繋いでいる。2013
年に発足した「東京都通称道路名検討委員会」により当初は「堀切通り」との通称が検討されたが、台東区側が「橋場通り以外の名称設定には強く反対する」と難色を示した事から、台東区域を通称の設定区間から除き、起点を白鬚橋西交差点に変更した上で「川の手通り」と名付けられた。
Wikipedia

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旧浅草聖天町・浅草聖天横町
本町の起立年代は不詳である。寛文図に「聖天丁」と記載があるのでかなり古く開かれた町である。町名は町内に待乳山聖天宮があるのにちなんだ。聖天宮の正式な名称は本龍院といい聖天宮は聖天を安置していることによる。金龍山あいは待乳山と号し浅草寺子院である。待乳山は隅田川西側小丘で、江戸時代から文人墨客に愛された景勝の地であった。聖天宮はこの待乳山の上にある。「浅草聖天町」昭和23(1948)に浅草山川町、同金龍山下瓦町、同山ノ宿町の北隅を合して誕生した。「浅草聖天横町」浅草聖天町の西側続地であり、町の地形から横町とつけられた。起立年代はわからないが浅草聖天町よりやや遅れてできたのであろう明治5(1872)浅草寺子院の遍照院を合併して町域を広げた。(下町まちしるべ/台東区)
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聖天堂は「待乳山」の山上にあります

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待乳山山門/浅草

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待乳山聖天
待乳山聖天(まつちやましょうでん)は金龍山浅草寺支院で正しくは待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇9年(601)夏、早魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため「聖天さま」として祀ったといわれる。ここは隅田川に臨みかつての竹屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作『哀れとは夕越えて行く人も見よ 待乳の山に残す言の葉』の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和30年・1955再建)のほか石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は当寺の御利益を示すもので大根健康一家和合巾着商売繁盛を表すという。17日大般若講大根祭には多くの信者で賑わう。なお、震災・戦災により本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和36年(1961)に再建されたものである。(台東区教育委員会)

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待乳山と歓喜天鎮座のいわれ
当山は推古天皇の3、地中から忽然と湧き出た霊山で、その時金龍が天より降って山を廻り守護したと伝えられています。それから6年後の夏、この地方が大旱魃に見舞われた時、十一面観音菩薩はその慈悲の眼をお開きになり即時の救済をはかって大聖歓喜尊天の姿となって現れたまい、これがこの山に尊天が鎮座ましました起源であるといわれています。その後、文徳天皇天安元年(857)天台宗中興の祖・慈覚大師円仁東国巡行の折り、当山に参籠して21日間の浴油の修法を行い国家鎮護の祈願をされ、さらに供養法にのっとり赤栴檀を用いて十一面観音菩薩の尊容を彫刻されたと伝えられています。開山以来長い歴史の中で多くの人々の篤い信仰を集めてきた当山は、現在に至ってもまさに霊山と呼ぶにふさわしい雰囲気を有し続けております。そもそも「大聖歓喜天(聖天様)」とは密教における普遍の尊格「大日如来」の究極の方便の姿、また観音菩薩化身として我々の智慧浅き求願を世のならいに従って成就に向かわしめ、ついに正道へ導こうというご誓願をお持ちになっておられる尊天であります。夫婦抱立のお姿は真俗の二義和合を表し、自他調和の尊さを知らしめ、すべての衆生を洩れなく救おうというご慈悲のあらわれであります。(パンフレット)

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待乳山聖天・本龍院について
待乳山聖天・本龍院は浅草寺一山支院のひとつです。寺院でありながら本堂正面には「聖天宮」の扁額が掲げられており神仏習合的な信仰が今も生きています。(パンフレット)



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大根と巾着
境内各所に印されております大根や巾着は聖天様の大きなご利益を端的に表したものです。大根は深い迷いの心、瞋(いかり)の毒を表し、大根をお供えすることによって聖天様が心の毒を清めてくださいます。その功徳によって心神を健康にしていただき良縁を成就し、夫婦仲良く末長く一家の和合をご加護いただけます。巾着は財宝を表し、商売繁盛、事業繁栄のご利益を示しています。(パンフレット)



当山は古くから聖天様の篤い信仰を集めるとともに地域の象徴としても人々に親しまれてきました。周辺江戸湊入り江近くであった頃は、入港する船舶の目印としての役割を果たしていたといわれております。江戸時代に江戸湊の埋め立てが進むと、隅田川を望む絶好な景勝地となり多くの歌人、絵師によって待乳山を題材にした作品が描かれ江戸の名所のひとつとして有名になりました。東都名所真乳山之図/歌川広重画文政~天保年間(18181844向島から待乳山を望んだ風景。河畔に聳える小山がひときわ目立つ存在であったことが伺える。(パンフレット)

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東都名所真乳山之図/歌川広重画
文政~天保年間(18181844向島から待乳山を望んだ風景。河畔に聳える小山がひときわ目立つ存在であったことが伺える。

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東都名所真乳山上見晴之図/歌川広重画
文政~天保年間(18181844待乳山から猿若町を見下ろした風景。大根を持った当時の信徒の姿が描かれている。

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銅造宝篋印塔(台東区有形文化財)
宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づいて造立された塔である。本塔は江戸時代中期以降に流行した、屋根型の笠をもつ宝篋印塔で時代性をよく表している。基礎に刻まれた銘文から天明元年1781)に鋳物師・西村和泉守が製作し、蔵前の札差等16名が奉納したものであることが分かる。西村和泉守は江戸時代から大正時代にかけて11代にわたり鋳物師を務めた家で、本塔の作者は五代・西村政平にあたると考えられる。銅造の宝篋印塔は全国的にも類例が少なく、特に区内では造立当初からほぼ完全な形で遺された唯一の事例である。各部の装飾は優れており鋳物師の高い技能を知ることができる。また、蔵前の札差の奉納物としても貴重な歴史資料である。平成14年(2002)に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。(台東区教育委員会)

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歓喜地蔵尊
数度の火災に遭いその尊容とどめていないが、古来より子育地蔵として伝承され、霊顕あらたかな尊として信仰されている。(案内板)




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リー・デ・フォーレスト博士の碑
(トーキー渡来の碑)
リー・デ・フォーレスト博士は明治6年(1873)米国アイオワ州に生れ無線電信電話の開拓者として三百有余の特許権を得ラジオの父と仰がる。大正12年(1923)更にトーキーを発明。紐育市に於て上映世人を驚かせ在り。大正13年(1924)故高峰譲吉博士令息エヴエン氏来朝の際、余親しくその詳細を聴きて将来に着目す。翌年渡来、博士の行為により東洋におけるトーキーの製作及び配給権を獲得したり。依て米人技師を帯同帰国、大正14年(192579日宮中に於て天皇皇后両陛下の天覧に供し各宮電化の御覧を仰ぎたる後一般に公開せり。トーキーの我が国に招来されたる之を以て初めとす。以来余、我国におけるトーキーの製作を企図し、日本人技師をフォーレスト博士の許に派して技術を習得せしめ余の渡米もまた前後9回に及べり。大正15年(1926)大森撮影所において撮影を開始し、ミナトーキーの名を冠して黎明、素襖落、大尉の娘等の劇映画を完成す。これ我国におけるトーキー製作の濫鬺なり。雨来トーキーは日進月歩、昭和3年(1928)の衆議院議員普通選挙には時の田中首相及び三土、山本、小川の各閣僚が自ら画中の人となりて政見を発表する等の普及発達をみたる外ミナトーキーは上海を始め東洋各地にも大いに進出するに至れり。今やトーキー我国に渡来してより30年を閲するもフォーレスト博士の発明形式は依然として世界各国に踏襲さる。博士の業蹟偉大なりというべし。加うるに我国テレビジョンの発足もまた実に博士の力に依れり。昭和23年(1948)、フォーレスト博士は極東軍総司令官マッカーサー元帥を介して日本におけるテレビジョンの創設を慫慂したり余正力松太郎氏にその意を伝う。正力氏夙にテレビジョンの創設に意あり。フォーレスト博士の勧奨を機とし、氏独自の構想の下にテレビジョンの実現に努力し遂に昭和27年(1952)テレビジョン電波許可第一号を受け、日本テレビ放送網株式会社を創立し余もまた役員に加わる。翌昭和28年(1953830日日本における最初の電波を出せり。これ偏に正力氏の業蹟に依ると雖もまたフォーレスト博士の日本への友情に基くものというべく吾人の感謝措く能わざるところなり。今日トーキーの普及発達は実に目覚しく、テレビジョンの普及もまた瞠目に値す。フォーレスト博士の文化に貢献する処絶大なりというべし、茲に余の旧縁の地待乳山の名蹟をトして碑を建てトーキー渡来の由来とテレビジョン早世の縁由を刻して博士の功績を讃え併せて報恩の微意を表す。昭和31年(19565月吉日 建碑者 皆川芳造(碑文)

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待乳山境内図/パンフレット

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江戸名所図会 真土山聖天宮 隅田川西岸 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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池波正太郎生誕の地 
池波正太郎(1928-1990)は大正12年旧東京都浅草区聖天町6番地に生まれました。この年関東大震災が起こり生家は焼失してしましましたがその後も少年期、青年期を台東区で暮らしました。「大川と待乳山聖天宮」というエッセイでは「生家は跡形もないが、大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は私の心のふるさとのようなものだ」と記しています。(台東区)



猿若町・山谷堀の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27233046/


・・・山谷掘公園

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吉野通り(旧日光街道)から今戸橋までぶらりと歩いてみました

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吉野橋(旧日光街道)         聖天橋

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山谷堀公園
山谷堀
がいつ頃掘られたかははっきりしないが、江戸の遊里吉原との関係からみてもおそらく江戸初期にできたものであろう。都下水道局ポンプ場のところから隅田川へと注ぐ700におよぶ山谷堀は、北区の音無川とし、飛鳥山の北側、王子権現の下を経て通じていた。当時、この堀は吉原への通路の一つであった。山谷堀を通るので吉原通いを別名・山谷通いともいった。猪牙船などを仕立ててこのコースを通う遊興はぜいたくとされまさに「おだいじん」遊びだった。堀の上流から日本堤橋、地方橋、地方新橋、紙洗橋、山谷堀橋、正法寺橋、吉野橋、聖天橋、今戸橋と九つの橋がかけられていたが、埋立に伴いすべて取り除かれており橋台のみが昔の面影を残している。現在は水と緑の憩いの公園として整備されている。(説明板)

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山谷堀
かつては「よろず吉原、山谷堀」と歌にも歌われ、江戸名所のひとつに挙げられる風情ある場所で、船の出入りが多くなる夏の夕方などは絵のように美しかったという。河口岸には有明楼などの料亭があり芸者遊びなどもできた。江戸三座があった猿若町(現在の浅草6丁目辺り)に近いため山谷堀芸妓(堀の芸者)は「櫓下」とも呼ばれた。紙洗橋の名前は、この付近で作られていた浅草紙に由来する。浅草紙は古紙や紙くずを原料にした
漉返紙(すきがえしがみ・使用済みの和紙)を漉き直して作った中古の和紙)で、吉原の遊女が手紙の代用や後始末に使い大量の需要があった。山谷堀にも多くの作業所があり、職人たちが紙くずを紙舟に入れて堀の流れに曝しておくことを「冷やかす」とよんだ。この2時間ばかりの作業中は暇をもてあまして吉原の遊郭を見にでかけ、しかし時間がなくて登楼せずに帰ってしまうことから、買う気のない客を表す隠語として「冷やかし」という言葉が生まれたという。

錦絵:広重『江戸名所百景』より「真乳山山谷堀夜景」
画面奥から手前の隅田川に注ぎ込む水路が山谷堀。今戸橋(現・今戸橋交差点付近)の橋脚が見え、左右には当時の著名な船宿であった竹屋と有明楼の窓が灯っている。背後の森は待乳山聖天である。
Wikipedia

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街道の風景② 山谷掘に架かる今戸橋です/橋場通り

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山谷堀公園入口            隅田川に注いでいました

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慶養寺は曹洞宗のお寺、山門に仁王像があります/今戸

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本堂                 鐘楼


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江戸名所図会 山谷堀 今戸橋 慶養寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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真土山聖天宮・今戸橋
待乳山は現在の隅田公園内にある小さい丘で東に筑波山、西に富士山をのぞむことができた。本所・深川などが埋立てられる以前はこの山を入津の目標にしていたといわれ、付近の土を採って日本堤を築いたという言伝えもある。山上には聖天(しょうでん)宮が祀られ商店・花柳界の信仰が厚かった。山の下にある今戸橋山谷堀の最下流にかかっており、現在の浅草7丁目と今戸1丁目を結ぶ。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)

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・・・今戸

現在ではほとんど見られなくなったが、かつて当地は今戸焼きといった焼き物が盛んであったことでも知られていた。今戸焼の起源は天正年間(安土桃山時代)にまでさかのぼる事ができ、今戸焼の招き猫は江戸時代では浅草界隈の名物のひとつとしても知られていた。(Wikipedia
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街道の風景③ 清川へ向かうバス通り沿いに鳥居が建ちます/今戸神社前

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本龍寺山門/今戸


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本龍寺
台東区にある真宗大谷派の寺院。山号は臨川山。本尊は阿弥陀如来。元和2年(1616)創建。開基は龍賢。境内に豊原国周(くにちか・幕末から明治にかけての浮世絵師)の墓がある。

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今戸神社鳥居/今戸

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今戸神社
台東区今戸一丁目にある神社である。祭神として応神天皇・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)・福六寿を祀っている。今戸神社は康平6(1063)源頼義義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりであるといわれている。また永保元年(1081)にも清原武衡・家衡討伐の際に当地を通り戦勝祈願をしたといわれている。大正12年(192391日の関東大震災や太平洋戦争の際、米軍の爆撃機B-29が昭和20年(1945310日に焼夷弾を投下したり(東京大空襲)など数々の戦乱や火災に見舞われたがその都度再建され、現在の社殿は1971(昭和46年)に再建されたものである。1937年(昭和12年)には隣接していた白山神社を合祀し、今戸八幡と呼ばれていた当神社が現在の今戸神社と呼ばれるようになった。また現在では浅草七福神のひとつ福禄寿も祀っている。(Wikipedia

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今戸焼発祥之地碑
今戸焼とは現在の台東区今戸の地で焼かれてきた日用品の土器類土人形のことで、かつては江戸を代表する焼き物として繁栄していた。地元の今戸神社にある狛犬台座には宝暦2年(1752)に奉納した42名の陶工らの名前が刻まれており数多く軒を並べていたことがうかがえる。今戸焼の起源は定かではないが、伝承では天正年間15731591)に千葉氏の家臣が今戸辺りで焼き物を始めたとか、徳川家康入府後三河の陶工が今戸に移って来たともいわれる。「今戸焼」の名としては18世紀末頃から明らかに見られ18世紀前半頃に本格的な土器生産が始まったと思われる。隅田川沿岸はかつてを含めた土製品の生産が盛んであったようで、瓦町の名や瓦焼が早くから知られていた。

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江戸時代の文献である『江戸名所図会』には瓦つくりの挿絵がみられ「隅田川長流図巻」(大英博物館所蔵)には今戸焼の窯が描かれている。近年の江戸遺跡の調査に依って施釉土器、土人形や瓦等が多く出土し、そのなかには今戸焼職人の名が刻印されている土器・土人形、今戸の地名を印した瓦も見られ、隅田川沿岸の窯業との関連が注目されている。関東大震災や東京大空襲により職人が次々に区外へ移り、現在今戸には1軒のみが残り伝統を伝える「口入れ狐」や「招き猫」などの人形が今でも製作されている。(台東区教育委員会)
江戸名所図会 今戸焼 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)「この辺甄者(かわらし)・陶器匠(やきものし)ありて、これを産業(なりわい)とする家多し。世に今戸焼と称す。元禄2(1687)73日『隅田河紀行』土をこね瓦をつくりならべてほしければ『やかぬまは 露やいとはむ下瓦』杉風」

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沖田総司終焉の地
沖田総司は当地に居住していた御典医松本良順の治療にも拘わらず、その甲斐なく当地にて歿したと伝えられている。碑字橘右近書(案内板)

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江戸名所図会 今戸神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景④ 今戸2丁目の景観/熱田神社前


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熱田神社鳥居/今戸


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熱田神社
創建は元亀5末(15716月と伝えられているが『御府内寺社帳』によれば「元鳥越と同年なり」と書かれている。その昔、元鳥越には熱田大明神鳥越大明神(鳥声神社)・第六天(第六天榊神社)の三社が鎮祭されていた。正保年間(16447)に元鳥越一帯の地は幕府御用地に指定され当社は武蔵国豊島郡三谷村に移ることになった。正保2乙酉年(16456月社殿が新築され、元鳥越の氏子数十戸とともにこの地に遷座され、町名も新鳥越と改められた。社殿は宝永(1708)・文政(1824)・文久(1861)、明治年間に修理・改築を重ねたが、大正12年の関東大震災のため焼失した。同136月仮社殿を再建したが、区画整理のため昭和211月に現社地に遷座された。町名も明治の末には吉野町となり、その後今戸と変わった。先年の火災を考慮して本殿を鉄筋コンクリート造にしたため、昭和20310日の東京大空襲にも本殿だけは炎上をまぬかれた。(東京都神社名鑑)

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熱田神社と大太刀
本社は江戸時代初期以来、当地の鎮守であった。かつて元鳥越町にあったが(現在の鳥越二丁目あたり)正保2年当地に浅草新鳥越町が成立したことにともない移転して当地の鎮守となった。新鳥越町山谷堀北側千住街道(現在の吉野通り)に沿った町である。(後の浅草吉野町)本社は町の北端に位置していたが(現在の清川一丁目七番・八番付近)、関東大震災後の区画整理のため、昭和2年(192711現在地に移転した。本社が所蔵する大太刀「陰陽丸」は全長368.5cmの長大なものである。弘化4年(1847)江戸小石川に住居する刀工・川井久幸が制作し熱田神社に奉納した。宝刀として保存されるだけでなく、安政5年(1858)コレラ流行の時には疫病を祓うため本大太刀が町内を巡行している。当時江戸町々では鎮守の神輿や獅子頭が町内を巡行するなどそれぞれに疫病除け行事を行っていた。当地では鎮守の宝刀「陰陽丸」が疫病除けに最もふさわしかったのであろう。故老は「オンヨウマル」と発音していたという。平成22年台東区有形民俗文化財に登載された。(台東区教育委員会)


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江戸名所図会 山谷熱田明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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称福寺/今戸 浄土真宗本願寺派の寺です

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亀田鵬斎墓(東京都指定文化財)
亀田鵬斎は江戸時代後期の著名な儒学者である。宝暦2年(1752)江戸・神田に生まれた。名は翼といいのち長興。字は穉龍、通称文左衛門、鵬斎、善身堂と号した。折衷学者井上金峨(墓地は港区青松寺・東京都指定旧跡)に学び、山本北山とともに荻生徂徠(墓地は港区長松寺・国指定史跡)の古文辞学と排撃し、朱子学を批判したために寛政異学の禁では異端の筆頭と目されていた。書をよくし草書は近世を通じての名手といわれている。著書に「論語撮解」「善身堂詩鈔」などがある。文政9年(182675歳で没した。墓石には「鵬斎亀田先生之墓」と刻している。(東京都教育委員会)

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今戸周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(緑:旧日光街道 橙:橋戸通り 青:隅田川・山谷堀 赤:橋 赤角:猿若町)

# by Twalking | 2018-12-11 09:27 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 冬空   

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多摩市愛宕
シュルシュルシュル~、パ~ン!
冬空に花火、何の合図かな~?、天狗さん。
それにしても寒いですね~、お気おつけくださいませ。

# by Twalking | 2018-12-10 18:20 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 木枯らし   

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多摩市愛宕
北風がびゅ~んの寒い朝、
きみを見てるとあったかいなぁ~・・・、
元気に育ってね!ハクモクレンさん。

# by Twalking | 2018-12-09 16:22 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「小田急多摩センター駅」リニューアル   

小田急多摩センター駅が新しくなりました。
前より明るくなって、よくなりましたね!
サンリオキャラクターで街の活性化に一役でしょうか。

なんてったってキティーちゃんは「多摩センター」の親善大使。
『多摩センターイルミーション』もいいですよ~!
みなさ~ん、どうぞ多摩センターへ、おいでくだ~い。


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サンリオカラーでリニューアル、構内がぐっと明るくなりましたね!


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入口改札から出るとこんな景色になります


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パルテノン大通り方向です、サンリオキャラクターがお出迎えです


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駅構内から改札口をみるとこんな感じです

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駅員室です                        お絵かき中ですよ~

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ホームへのエスカレターはこちら、エレベータ-もありますよ~!

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みなさ~ん、多摩センターへ遊びに来てね~!


『多摩センターイルミネーション2018』の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27250059/

# by Twalking | 2018-12-09 10:46 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり蔵前~石浜02-駒形   

日時 2018.11.30(金)
天気 晴れ


蔵前から駒形、浅草へは隅田川を眺めながらのぶらりです。
街道筋には老舗が並びますし、隅田川の景観も味があります。
裏路地も静かでいいですね~。

仲見世や六区の盛り場は面白いところだと思いますが、
なにせ人が多いいので疲れます。
喧騒を離れて隅田川テラスや墨田公園にでるとホットします。
いろんな表情を持つ浅草、目的を決めて歩くのがよさそうです。


・・・駒形

台東区の東部に位置し、墨田区(東駒形)との区境にあたる。付近には隅田川とそれに架かる駒形橋厩橋がある。駒形(こまかた)の名は浅草寺に属する駒形堂に由来する。この堂は天慶5年(942年)平公雅によって建立され、円仁作の馬頭観音を祀るために建てられたのが起りであると伝わるが、古くは浅草寺総門があった場所であるともいわれる(ただし駒形堂は関東大震災の後に場所を現在地に移動している)ここは古来交通の要地で駒形の渡しのあったところである。
Wikipedia


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街道の風景① 手前に諏訪神社、左手に「駒形どぜう」があります/駒形2(江戸通り)

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旧浅草駒形一.・二丁目
本町は昭和9(1934)浅草黒船町の一部、同新猿屋町、同諏訪町、同新福富町、同寿町の無番地、同駒形町の大部、同三間町の一部を合併し一・二丁目にわけられて誕生した。このうち駒形町の起立時代は古く、寛文図(1671年頃)には既に「こまがた丁」と書かれている。町名の由来については馬頭観音の堂すなわち駒形堂があったのにちなんだ。駒形堂は雷門二丁目ちょうど駒形橋西詰北側に現存している。関東大震災で駒形橋西詰南側にあったものが移されたためである。では駒形堂の命名の由来は何なのか。幾つかの説を記す。隅田川を船で上下しながらこの堂を見るとまるで白駒が馳せているようなので「駒がけ」といった。それが「駒がた」に転化した。(江戸名所記説) 観音様へ寄進する絵馬を掛けたので駒掛け堂と名付けたのが訛った。(燕石雑誌説)駒形神を相州箱根山から観請したのにちなむ。(大日本地名辞書説) 昭和39(1964)年、住居表示の実施で国道6号の西側が駒形一丁目、東側隅田川沿いが駒形二丁目になった。(下町まちしるべ/台東区)

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諏訪神社鳥居/駒形


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諏訪神社
当社の創祀は定かなことを知る事は出来ませんが、口碑に依りますと「後冷泉天皇の御世である」と云われ、又一説には「承久の乱(1221)の後信濃国諏訪郡小日村の神主が諏訪大社の御分霊を当地に奉斎したのに始まる」と云われております。諏訪信仰が関東に広まるのは鎌倉時代中頃で、当時諏訪大社は鎌倉幕府より箱根権現や伊豆山権現或いは三島大社と共に特別の尊崇を受けていたのです。それは「諏訪大社の大祝家が源頼朝の旗上げに最初から協力し祈祷の効を積んだからである」と云われています。したがって頼朝も諏訪大社を「武家守護之神」(吾妻鏡)として崇敬しています。又後白河法皇の「染塵秘抄」にも「関より東の王神として鹿島大社、香取大社と並んで三番目に諏訪大社が挙げられています」。その後、時の執権となった北条氏は信濃国の守護職となり、諏訪郡を得宗領とし諏訪大社の神主を得宗被官としたのです。

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こうした北条氏の支援によって諏訪大社の御分社が数多く関東に広まっていったものと考えられています。更に執権北条氏は支配する所領地に諏訪大社の御分社を奉斎すると共に得宗被官である諏訪氏の神主を招き神事祭事を執り行っていったと伝えられています。当社は諏訪大社と同じ諏訪梶の御神紋を使用し天正年間以前には神主が数代にわたって奉仕して来たと社史に見え、かつては諏訪大社最大の祭である御射山祭と関連する八剣の祭(風祭り神事)が行われていたと云われていますが定かではありません。当社の別当寺は浅草寺の十二衆徒の一院であった修善院で「江戸時代は別当として奉仕して来た」と「浅草寺史」に記され当社に関する史料が「修善院呈書」にわずかながら残されています。当社の所在地は「御府内備考」に「諏訪神社が鎮座してあったので諏訪丁とした」と記され、江戸切り絵図寛文11年板(版)の浅草絵図に「スワ大明神」と著されています。そして「丙訂江戸鹿子」には「近年度その回禄により社頭は形の如くなれども神徳は社の捐凶によらず唯霊験の灼をもって崇め祀る」と見えます。(説明板)


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駒形どぜう
台東区駒形にある飲食店舗、どぜう鍋で知られる。1801(享和元年)武蔵国の越後谷助七が江戸に奉公に出て来て、浅草駒形でめし屋を開きどぜうなべやどぜう汁を売り出したのが始まり。その後、江戸の大火、関東大震災や第二次大戦により店が焼失したが再建した。本来「どぢやう」と表記すべきところを、縁起のいい奇数文字の「どぜう」としたのも初代の発案である。江戸通りに面した本店は江戸の商家風の総檜造りで、大名行列を見下ろすことのないよう、2階は黒漆喰で目隠しされている。「柳の下に二匹目のドジョウがいる」の縁起から店の横には柳の木が植えられているWikipedia

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久保田万太郎句碑
神輿まつまのどぜう汁すすりけり
久保田万太郎先生は 市井のひとを愛し ときにまたふるさとをおなじくする浅草っ子を愛した ここに駒形どぜう 越後屋 五代助七 その生前の厚誼をしのんで 先生をしたう情はまことに泪ぐるしいものがあるが 昭和41
年夏 この句にゆかりの三社祭の吉日に いま先生の句碑を立てる 旧田原町三丁目なる先生の生家にもっともちかく この碑の立てられたことは さだめし先生も よろこばれていることと思われる ここにつつしんでこれをしるす者は 同じく浅草っ子のひとり 昭和41517日 安藤鶴夫(碑文)

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江戸名所図会 三島明神 諏訪明神社
 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


・・・駒形橋


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街道の風景② 左が雷門、右が浅草駅方向、右角が駒形堂です/駒形橋西詰(浅草通り)

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隅田川の風景① 駒形橋より下流厩橋を望みます

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駒形橋
駒形(こまかた)の名は浅草寺に属する駒形堂によれば、コマカタは清く発音してコマガタと濁らないと伝えている。ここは古来、交通の要地で「駒形の渡し」があった所である。江戸の巷説に有名な『君はいま 駒形あたり ほととぎす』の句は文芸・美術などの上で駒形堂とともにこの辺りの雰囲気を伝えるものである。関東大震災(1923)の後、復興事業の一環としてこの地に新しく優美なアーチ橋が設計さら昭和2年(1927)に完成した。歌人正岡子規の和歌にも『浅草の 林もわかず 暮れそめて 三日月低し 駒形の上に』というのがあり、当時の状況が偲ばれる(東京都)

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竹町(たけちょう)の渡し
駒形の渡し」とも称される。現在の吾妻橋と駒形橋のほぼ中間の場所にあった渡しで、江戸期に吾妻橋が架橋されたことによって利用者は減ったものの1876年(明治9年)まで運行されていた記録が残っている。Wikipedia


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隅田川の風景② 隅田川テラスの橋下より上流側を望みます

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橋詰のオブジェ
「御柱」-安達裕







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都営地下鉄構築物河底横過標識(昭和3512月完成)
都営地下鉄は隅田川の下を横断しいるんですね、矢印の下が構築物の中心位置だそうです

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駒形橋
駒形の名は浅草寺に属する駒形堂に由来します。土地の人によればコマカタは清く発音してコマガタと濁らないと伝えています。ここは古来より交通の要地で「駒形の渡し」のあったところです。江戸の巷説に有名な『君はいま 駒形あたり ほととぎす』の句は文芸・美術などの上で駒形堂とともにこの辺りの雰囲気を伝えるものです。関東大震災の後、復興事業の一環としてこの地に新しく優美なアーチ橋が設計され昭和21927)に完成しました。橋長:149.6m 幅員:22m 構造:中央径間 中路式ソリッドリブタイドアーチ橋 側径間 上路式ソリッドリブアーチ橋(隅田川テラス/東京都建設局)
(錦絵:江戸名所百景「駒形堂吾嬬橋」歌川広重/Wikipedia


高尾(仙台高尾)
江戸時代前期の遊女。初代,または2代とされる。仙台藩主伊達綱宗に身うけされたが、意にしたがわず,隅田川の中洲でつるしぎりにされたとも、隠居した綱宗につかえてお椙の方とよばれ享保元年(1716)78歳で没したともつたえられる。「君はいま駒形あたりほととぎす」の句がある。(コトバンク)

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駒形堂

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駒形堂
『浅草寺縁起』によると創建年代は朱雀天皇の天慶5942)で、建立者は安房守平公雅。名称由来には①隅田川を舟で通りながらこの堂を見ると、まるで白駒が馳けているようなので「駒馳け」の転訛(『江戸名所図会』)②観音様へ寄進する絵馬を掛けたので『駒掛け堂』と呼んだのが訛る(『燕石雑誌』)③駒形神を相州箱根山から勧請したのにちなむ(『大日本地名辞典』)これらの説がある。本尊は馬頭観世音菩薩。葛飾北斎・安藤広重らによって堂は絵に描かれた。小さくとも江戸で名高い堂だった。当時の堂の位置は現駒形橋西詰道路中央付近。堂は関東大震災で焼けた。(台東区教育委員会)

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駒形堂
駒形堂は浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩さまがおよそ1400年前隅田川よりご示現なされ、はじめて奉安された地に建つお堂。昔、この辺りは船着場渡しや船宿もあり大変な賑わいをみせ、船で浅草寺参詣に訪れた人々はまずこの地に上陸して駒形堂をお参りして観音堂へと向かった。このお堂のご本尊さまは馬頭観音さまで、今も昔もこの地を行き交う人々をお守り下さっている。現在のお堂は平成15年に再建されたもの。今もこの地はご本尊示現聖地として人々の篤い信仰に支えられ、毎月の19日の馬頭観音さまのご縁日には多くの参詣者で賑わう。(金龍山浅草寺)


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浅草観音戒殺碑
駒形堂は浅草寺の伽藍の一つで、浅草寺本尊の聖観音菩薩隅田川から発見された霊地である。このため元禄51692)当地を魚鳥殺生禁断の地とする法度が出された。これを記念して翌年(元禄6年)浅草寺第4世権僧正宣在が願主となり戒殺碑が建てられている。禁断の範囲は駒形堂を中心に南は諏訪町より北は聖天岸に至る十町余の川筋だった。「御府内備考」によると諏訪町、聖天町にも高札が建てられという。戒殺碑が建てられた駒型堂の堂宇は江戸時代に何度も焼失している。戒殺碑も倒壊し宝暦9年(1759)に堂宇とともに再建された。現在の碑は関東大震災後の昭和21972)に土中より発見され、8の駒形堂再建と同時に修補されたものである。元禄の当初の碑か宝暦再建のものかは定かではない。碑身は石造(安山岩)で長方形円頭板状、正面及び両側面を研磨し背面は野面のままである。台石は昭和8年修補時のもので上面・正面・両側面・背面の五面を研磨してある。総高183.5cm、正面幅61cm、銘文は「浅草寺誌」や「江戸名所図会」にも収載されている。元禄期当時の信仰及びその周辺の状況を明らかにする貴重な資料である。(東京都教育委員会)

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江戸名所図会 
駒形堂 清水稲荷 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

駒形堂

現在の駒形橋の西側にある堂。浅草寺の本尊が隅田川から見つかった場所に建立されたとも、かつてはここに浅草寺の総門があったとも言われている。馬頭観音を祀る。現在は少し北に位置している。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)

浅草寺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27223834/


・・・浅草

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街道の風景③ 中央が馬道通り、右が江戸通り、交差するのが雷門通りです/吾妻橋

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神谷バー
台東区浅草1丁目にある日本最初のバー。神谷商事株式会社が運営する。電気ブランで有名。浅草の文豪たちにも愛された。1880年(明治13年)東京市浅草区浅草花川戸町(現:台東区浅草)に神谷伝兵衛が郷里の三河に因んだ「みかはや銘酒店」を開業、当初は濁り酒を売っていた。1881年(明治14年)に輸入葡萄酒の販売を行う。1882年(明治15年)には速成ブランデー(現在の電気ブラン)の製造販売を始める。1912年(明治45年)店舗内部を西洋風にして屋号を「神谷バー」と改めた。1921年(大正10年)現在も使用している建物が建てられた。本館の建物は2011年に国の登録有形文化財に登録された。浅草で最古の鉄筋コンクリート造の建造物である
Wikipedia

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松屋
1869年に横浜で創業された呉服店「鶴屋」の流れを汲む百貨店。中央区銀座三丁目に本店、台東区花川戸一丁目に浅草店を置く。浅草店は1931東武鉄道浅草雷門駅(現浅草駅)開業に際して駅ビルテナントとして「松屋浅草支店」の名で開店した。東京スカイツリー開業に合わせて外装材を撤去、外壁を修復して1931年開店当時のアール・デコ調の外観を復活させたWikipedia抜粋)


・・・吾嬬橋

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隅田川テラスより吾嬬橋を望みます

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吾嬬橋(あずまばし)
隅田川にかかる橋で都道463
号上野月島線吾妻橋支線(雷門通り)を通す。西岸は台東区雷門二丁目、および花川戸一丁目を分かち、東岸は墨田区吾妻橋一丁目。この橋の西岸の交叉点には浅草一丁目がかかり神谷バーなどいわゆる浅草中心に近い橋である。また、東岸にはアサヒビール本社などが入る墨田リバーサイド地区がある。サクラの名所として著名な隅田公園はこの橋がほぼ南端にあたる。橋長:150m 幅員:20m 構造形式:3径間鋼ソリッドリブタイドアーチ橋
Wikipedia


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歴史
創架は1774(安永3年)1017日のことで、それまでは「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった場所であった。江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋のうち最後の橋であり、1769年(明和6年)4月に浅草花川戸の町人伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され着工後5年で完成したものである。 長さ84(約150m)、幅3間半(約6.5m)の橋で、武士以外の全ての通行者から2文ずつ通行料を取ったと記録に残る。1786年(天明6年)718日の洪水の際に永代橋、新大橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中で無傷で残り、架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったという。

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その後幾度かの架け替えが行われたようである。橋名ははじめ「大川橋」と呼ばれた。これは近辺で隅田川が「大川」と呼称されていたことにちなむ。しかしながら、俗に江戸の東にあるために町民たちには「東橋」と呼ばれており、後に慶賀名として「吾妻」とされた説と、東岸方面の向島にある「吾嬬神社」へと通ずる道であったことから転じて「吾妻」となった説がある。いずれにしても1876年(明治9年)2月に木橋として最後の架け替えが行われた際に正式に現在の橋名である「吾妻橋」と命名された。この最後の木橋は1885年(明治18年)7月の大洪水で初めて流出した千住大橋の橋桁が上流から流されてきて橋脚に衝突、一緒に流失してしまう。そのために1887(明治20年)129日に隅田川最初の鉄橋として再架橋された。鋼製プラットトラス橋で、人道橋、鉄道(東京市電)橋、車道橋の3本が平行して架けられていた。1923年(大正12年)91日の関東大震災によって木製だった橋板が焼け落ちてしまい1931(昭和6年)に現在の橋に架け替えられたWikipedia

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橋の下はトンネルです         隅田川テラス(上流側)

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浅草界隈の歴史
浅草寺を中心として東は隅田川、西は国際通り、北は言問通り、南は浅草通りとこの周辺は浅草でも最も賑やかはところです。四季折々に繰り広げられる江戸時代からの伝統行事、浅草神社の祭礼である5月の三社祭はなんといっても江戸っ子の心意気を伝える神輿祭りとして全国的にも有名です。浅草は江戸時代から浅草寺を中心として栄えた門前町です。浅草寺は「観音様」として多くの人々に親しまれ、参拝客で年中賑わいを見せています。また、江戸庶民文化発祥の地として栄えてきた浅草には数多くの史蹟や古くからの伝統的なお店もたくさんあります。東京都内でも有数の盛り場となっています。(隅田川テラス/東京都建設局)

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隅田川テラス
隅田川では河川テラスを順次整備しています。この河川テラスを歩くと勝鬨橋から白髭橋まで隅田川を眺めながら散策することができます。川沿いには江戸東京の歴史や文化を今になお残している町があり、テラスを歩くと今まで知らなかった隅田川のすばらしさ、なつかしい面影と出会うことができるかもしれません。この付近には雷門浅草寺花やしき浅草公会堂などがあります。(隅田川テラス/東京都建設局)

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江戸名所図会 大川橋
 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

吾妻橋

現在も同じ場所に吾妻橋が掛かる。安永31774)年6名の町人が江戸幕府の承認を得て架橋。江戸時代の隅田川には両国永代吾妻新大橋の四橋があったが、吾妻橋を除く三橋はいずれも幕府で架設されたものであった。名前の由来は江戸から東へ通じる、または江戸の東にあるという意味の「東橋」からで、みやびな表記「吾妻橋」が好まれた。正式に「吾妻橋」となったのは明治91876)年。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)


・・・墨田公園

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隅田川の風景④ 墨田川テラスの風景、テラスでも公園の緑道を歩くのでもお好み次第です

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隅田公園
隅田川沿いにある公園で右岸の台東区浅草、花川戸、今戸と左岸の墨田区向島にまたがる。この公園は1923年に発生した関東大震災により、壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として後藤新平の主導により浜町公園(中央区)、錦糸町公園 (墨田区)と並んで計画・整備された。Wikipedia

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隅田川橋梁
隅田川に架かる鉄道橋で
東武鉄道伊勢崎線(東武スカイツリーライン)を通している。形式は中路カンチレバーワーレントラス、鋼材重量910(重量トン)、橋長166mの鉄道橋梁である。別名、花川戸鉄道橋とも呼ばれている。この橋は東武が浅草駅まで延長するために隅田川に架けた橋で、隅田川の景観に配慮するためと車窓からの隅田川の景観を考慮して高いトラス橋にせず架線柱に曲線のデザインが取り入れられた。また、計画の際には隅田公園を通る路線が計画されていたが、隅田公園の景観を損なわないよう公園を避けるようにルートの設定がなされた。なお1931年から1943年まで橋のすぐ東側に隅田公園駅が設けられていた。(Wikipedia


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山の宿の渡し跡
隅田川渡船の1
つに「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。明治40年(1907)発行の「東京市浅草区全図」は隅田川に渡船を描き「山ノ宿ノ渡、枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は吾妻橋上流約250。浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を「山ノ宿町」といった。渡しの名はその町名をとって命名。別称は東岸船着場が枕橋橋畔にあったのにちなむ。枕橋は墨田区内現存の北十間川架橋。北十間川の隅田川合流点近くに架設されている。渡船創設年代は不明。枕橋上流隅田河岸は江戸中期頃から墨堤と呼ばれ、行楽地として賑わった。桜の季節は特に人出が多く、山の宿の渡しはそれらの人を墨堤に運んだであろう。したがって江戸中期以降開設とみなせるが、天明元年(1781)作「隅田川両岸一覧図絵」はこの渡しを描いていない。(台東区教育委員会)

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公園に沿って言問通りまで続く「助六夢通り」、ここは静かで人気があるそうですよ

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街道の風景④ 左が日光・奥州街道(吉野通り)右が今戸方面、交わるのは言問通りです/言問橋西


・・・言問橋

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隅田川の風景⑤ 隅田川テラスより言問橋の景観、川面に映る姿が美しい橋です

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言問橋
国道6号・都道319号環状3号線(言問通り)を通す。西岸は台東区花川戸二丁目と浅草七丁目を分かち、東岸は墨田区向島一丁目と二丁目を分かつ。もともと「竹屋の渡し」という渡船場があった場所である。関東大震災の震災復興事業として計画された橋。両国橋や大阪の天満橋と並んで三大ゲルバー橋と呼ばれた長大な橋である。
橋長 238.7m 幅員 22.0m 構造形式 三径間ゲルバー鈑桁橋 竣工昭和3Wikipedia

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言問の由来
「言問」という名称は在原業平の詠んだ『名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと』という歌に因むが、実際にこの業平の故事があったとされている場所は現在の白髭橋付近にあった「橋場の渡し」でのことであり、言問橋近辺には地名としては存在していたわけではないため多くの説がある。有力な説としては1871年(明治4年)の創業でこの地に現在もある言問団子の主人が団子を売り出すにあたって、隅田川にちなむ在原業平をもちだして「言問団子」と名づけ、人気の店となったことからこの近辺が俗に「言問ケ岡」と呼ばれるようになりそれにあわせて業平を祀ったことに由来するというものがある。
Wikipedia

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桜橋(上流側)
台東区と墨田区の姉妹提携事業として1980年に創架が始まり、1985に完成した隅田川唯一の歩行者専用橋で、両岸の隅田公園を結ぶ園路の役割を持つ。形状は平面のX字形の特異な形をしている。花見のシーズンには両岸の桜を楽しむために多くの人がこの橋を渡る。総工費283000万円は台東区、墨田区の折半である。美しい橋で周辺との景観との調和を考慮して色彩や素材に工夫が見られる。
東岸(墨田区側)は背後に墨堤通りが走っている狭小地であり、通り上面に覆道を置きこれが橋と一体化している。隅田川花火大会開催時は付近が花火の打上場所(第1会場)となるため橋上や周辺が立入禁止区域となる。橋長:169.45m、幅員:中央部/20m・側径間/6m 構造形式: 連続鋼X形曲線箱桁橋(連続曲線鋼箱桁)竣工 昭和60年。Wikipedia

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墨田公園を通って待乳山聖天へ向かいます、川沿いに先へ行くと桜橋です

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戦災により亡くなられた方々の碑
隅田公園のこの一帯は昭和20310東京大空襲により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。亡くなられた方々の遺体は区内の公園などに仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。戦後40年、この不幸な出来事や忌まわしい記憶も年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。いま、本区は数少ない資料をたどり区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともにこの地に碑を建立した。(台東区)

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言問橋の縁石
ここに置かれているコンクリート塊は1992年、言問橋の欄干を改修した際にその基部を切り取ったものです。1945310東京大空襲のとき言問橋猛火に見舞われ大勢の人が犠牲になりました。この縁石は当時の痛ましい出来事の記念石としてここに保存するものです(説明板)

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花の碑
春のうららの隅田川 のぼりくだりの舟人が武島羽衣作詞滝廉太郎作曲」。本碑は羽衣自筆の歌詞を刻み、昭和31年(1956113日その教え子たちで結成された「武島羽衣先生歌碑建設会」によって建立された。武島羽衣は明治5年(1872)日本橋の木綿問屋に生まれ赤門派の詩人、美文家として知られる人物である。明治33年(1900)東京音楽学校(現、東京芸術大学)教授である武島羽衣と同校の助教授・滝廉太郎とともに「花」を完成した。羽衣28歳、滝廉太郎21歳の時であった。滝廉太郎は作曲者として有名な人物であるが、よく知られているものに「荒城の月」「鳩ぽっぽ」などがある。「花」完成の3年後、明治36年(1903629日、24歳の生涯を閉じた。武島羽衣はその後、明治43年(1910)から昭和36年(1961)退職するまでの長い期間、日本女子大学で教鞭をふるい昭和42年(196723日、94歳で没した。手漕ぎ舟の行き交う往時ののどかな隅田川。その情景は歌曲「花」により今なお多くの人々に親しまれ歌いつがれている。(台東区教育委員会)

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竹屋の渡し跡(墨田公園)
隅田川にあった渡し舟のひとつ。山谷堀口から向島三囲神社(墨田区向島2丁目)の前あたりを結んでいた。明治40年(1907)刊『東京案内』には「竹屋の渡」とあり、同年発行『東京市浅草全図』では山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き「待乳ノ渡、竹家ノ渡トモ云」と記しており「竹屋の渡」ともあるいは「待乳の渡」とも呼ばれたようである。「竹屋」とはこの付近に竹屋という船宿があったためといわれ、「待乳」とは待乳山にあたることに由来する。「渡し」の創設年代は不明だが文政年間(18181830)の地図には、山谷堀に架かる「今戸はし」のかたわらに「竹屋のわたし」の名が見える。江戸時代、隅田川をのぞむ今戸や橋場は風光明媚な地として知られ、さまざまな文学や絵画の題材となりその中には「竹屋の渡し」を描写したものも少なくない。昭和3年(1928言問橋の架設にともない渡し舟は廃止された。(台東区教育委員会)

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公園を後にして待乳山聖天に向かいます/314号線

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浅草周辺案内図

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浅草周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)

# by Twalking | 2018-12-08 22:32 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夕暮れの空   

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関戸公民館/ヴィータ7F(多摩市関戸)
不思議な夕暮れの空だこと、
金色の龍が舞っているみたい・・・・、
会場のの片付けで市民ホールからの一枚です。

『遊彩会水彩画展』も無事終了、
たくさんの方々にご来場いただいたみたいです。
みなさん、ありがとうございました。


# by Twalking | 2018-12-08 22:01 | さんぽみち

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-吉原神社   

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阿形

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吽形

吉原神社/台東区千束
ギョロメでジロっと睨まれた感じ・・・、
ちょっと変わった狛犬さんです。
昭和28年(1953)奉納、新しいんですね。

・・・・

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天燈鬼

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龍燈鬼

????、境内の奥に変わった石像がありました。
なんだろうと調べたてみたら天燈鬼と龍燈鬼のようです。
初めて見ました、興福寺のものを模したのでしょうか???。

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天燈鬼・龍燈鬼立像(興福寺)

康弁の代表作として知られる一対木彫像。国宝。興福寺西金堂に安置されていたもので、現在は同寺国宝館に展示されている。龍燈鬼像の胎内納入の紙片の記載からこの像が建保31215)、康弁により制作されたことが判明する。天燈鬼像には納入品はないが両像は1対で阿吽(あうん)形を示し、その出来栄えも共に非常に優れていることから天燈鬼・龍燈鬼とも康弁の作品と見るのが通説である。本来は四天王に踏みつけられる悪・仏敵の象徴であった邪鬼を独立した像としたもので、優れた写実性の中に滑稽味があふれる、それまでの仏教彫刻には無かった特徴があり康弁の豊かな才能と技術を示している。天燈鬼は像高約78cm、左肩に灯篭を担ぎ、上体を右に傾け右腕を伸ばして全体のバランスがよく取れている。眉に銅版を用いるなど工芸的な工夫も見られる。口は大きく開かれ阿形(あぎょう)を表す。龍燈鬼は像高約78cm、両足をやや開いた直立姿勢で、を体に巻き付け頭上に灯篭を乗せる。上目遣いの目、大きな団子鼻をした顔が面白い。口は一文字に閉じ吽形(うんぎょう)を表す。Wikipedia


# by Twalking | 2018-12-07 23:50 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩の秋-愛宕通り   

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愛宕通り/多摩市愛宕
もう少しで真赤かな~、ひとまず撮っておこうの一枚、
ちょっと見ぬ間に盛りを過ぎていました。
いいタイミングだったんですね・・・、ありがとう!トウカエデさん。

# by Twalking | 2018-12-07 19:37 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 人力車   

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待乳山聖天/台東区浅草
お~、絵になる風景、ゾクッときますね~。
指差す先には「池波正太郎の生誕地」の碑がたちます。
一枚、撮らせてくださいね、よろしく~!


人力車
客を乗せ人力で引張る2輪車。東京鉄砲洲の和泉要助と本銀町の高山幸助らが、舶来の馬車の形から案出したもの。明治2 (1869) 年に試運転し、翌年3月に「新造車」として開業を出願した。まず日本橋のたもとに3台おいたという。初期のものは車体に4本柱を立てて屋根をかけ幕などを張りめぐらした。翌4年に秋葉大助が車体を改良、蒔絵を散らした背板などをつくった。1873年頃までに大流行し全国に34200両も普及したと記録されている。後年タイヤ車に改良されさらに普及するとともに、中国、東南アジアにも洋車(ヤンチョ、東洋=日本車) として多く輸出され「ジンリキシャ」「リキシャ」の英語呼びまでできるほど普及した。(コトバンク)


# by Twalking | 2018-12-06 15:58 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 冬薔薇   

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多摩市愛宕
冷たい雨に
凛として、美しいこと・・・
バイオレットのバラさん、ありがと~!

# by Twalking | 2018-12-06 14:17 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり蔵前~石浜01-蔵前   

日時 2018.11.30(金)
天気 晴れ


浅草橋、蔵前、浅草、待乳山とくれば旧日光・奥州街道、
日本橋から千住大橋あたりが初回のコースで、
浅草御門から江戸通りを駒形堂、浅草寺と見ていきます。

時間の関係で、蔵前は米蔵の説明をしてだいたい通過ですね~。
この道筋は延喜式の古東海道であり鎌倉みちでもあります。
江戸時代以前から古い歴史をもったところなので、
今回は隅田川沿いを周辺の史蹟などを含め訪ねたいと思います。



・・・蔵前

台東区の南東部に位置する。町域東部は隅田川を境に墨田区本所・横綱に、南部は台東区柳橋に、南西部は台東区浅草橋に接する。西部は新堀通りに接しこれを境に三筋・鳥越に、北部は春日通りに接しこれを境に寿・駒形にそれぞれ接する。江戸通り沿い付近を中心におもちゃ問屋が並んでいることでも知られ、隣接する駒形には玩具大手のバンダイやエポック社が本社を構えている。付近には厩橋蔵前橋が隅田川に架かる。
Wikipedia

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街道の風景① 日本橋から3km、旧日光・奥州街道の道筋です。第六天榊神社辺りから大川沿いを歩きます/江戸通り

江戸通り

千代田区から台東区に至る道路の通称(東京都道路通称名)である。東京駅の北東側から浅草橋を経由し言問橋に至る。浅草橋交差点より先は隅田川の西側を並行する。Wikipedia

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旧浅草蔵前
本町は付近の九ヵ町を整理統合して
昭和9(1934)にできた。蔵前と言う町名が初めて付けられたのは元和7(1621)浅草御蔵前片町である。この付近に徳川幕府米蔵があったことから付けられた。米蔵は全国に散在した幕府直轄領地から送られた米を収納するために造られた倉庫で3ヶ所あった。大阪、京都二条の御蔵とあわせ三御蔵といわれた。その中でも特に浅草御蔵は重要であった。米蔵の用地は元和6年に鳥越の丘をけずりその土砂で隅田河岸整地し造成された。当時、67棟もの蔵があったことから約625千俵(375百トン)の米を収納することができた。この米は幕府の非常備蓄米としての役割と領地をもたない旗本・御家人に支給する給料米であった。(下町まちしるべ/台東区)

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第六天榊神社南側鳥居/蔵前


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第六天榊神社
台東区蔵前
に鎮座する神社。登来上の宗教法人名称は榊神社(さかきじんじゃ)。旧称を基に第六天神社ともいう。主祭神:榊皇大神(第六天榊大神/天神第六代坐榊皇大御神)景行天皇の時代、日本武尊が東夷征伐の折に創祀したという。古くから「第六天神宮」と呼ばれてきたが、明治61873)に社号を「榊神社」へ改称した。昭和31928東京高等工業学校(前進は東京職工学校、現:東京工業大学)の跡地に遷座(移転)し現在に至る。当社は「下町八福神の神社めぐりコース(巡礼札所)」のうちの一社に入っている。境内の南側(拝殿正面)および西側に鳥居(計2)があり、南側の鳥居横には社号標も設置されている。また南側の鳥居から入って拝殿の手前右側は手水舎となっている。さらに境内には境内社(七福稲荷神社 事比羅神社・豊受神社 繁盛稲荷社)が鎮座している他、神楽殿や宝物庫、井戸(現在は飲用不可)などが存在する。Wikipedia

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南側鳥居               手水舎

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浅草文庫跡碑
浅草文庫は明治718747月に創設された官立の図書館である。翌明治8年(1875)に開館し公私の閲覧に供した。当時の和・漢・洋の蔵書数は11万余冊ともいわれている。現在、その蔵書は国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館、東京国立博物館などに所蔵され、太政大臣三条実美の筆蹟と伝える「浅草文庫」の朱印が押されている。明治14年(18815月に閉鎖。跡地は翌明治15年(1882)に設立の東京職工学校(旧東京高等工業学校、現東京工業大学)の敷地の一部となった。関東大震災後の大正13年(1924)、当時の東京高等工業学校は目黒区大岡山に移転。昭和3年(1928)に現在地に移ってきた榊神社のあたりは、かつて浅草文庫が位置していたところである。高さ約4mの碑はこの文教の旧地を記念して昭和15年(194011月建立された。(台東区教育委員会)

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天文台跡/蔵前1(蔵前通り)
この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋3丁目21222324番地の全域及び192526番地の一部)には江戸時代後期に幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として天文台がおかれていた。天文台は司天台(してんだい)、浅草天文台などと呼ばれ、天明2年(1782)牛込藁店(わらだな)(現・新宿区袋町)から移転、新築された。正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。その名の通り本来は暦を作る役所「天文方」の施設であり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要であった。その規模は「司天台の記」という史料によると周囲約93.6m、高さ約9.3mの築山の上に約5.5m四方の天文台が築かれ43段の石段があった。また、別の史料「寛政暦書」では石段は二箇所に設けられ各50段あり、築山の高さは9mだったという。幕末に活躍した浮世絵師・葛飾北斎の「富獄百景」の内「鳥越の不二」には背景に富士山を、手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀(こんてんぎ)」を据えた浅草天文台が描かれている。

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ここ浅草の天文台は天文方・高橋至時(よしとき)らが寛政の改歴に際して観測した場所であり、至時の弟子には伊能忠敬がいる。忠敬は全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り井戸一分の長さを求めようとした。また、至時の死後、父の跡を継いだ景保の進言により文化8年(1811)天文方内に「蕃書和解御用」という外国語の翻訳局が設置された。これは後に洋学所、蕃書調所、開成所、開成学校、大学南校と変遷を経て現在の東京大学へ移っていった機関である。天文台は天保13(1842)九段坂上(現・千代田区九段北)にも建てられたが、両方とも明治2に新政府によって廃止された。(台東区教育委員会)

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・・・蔵前橋

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隅田川の風景① 蔵前橋より上流側を望みます。現在長寿命化工事が行われています/蔵前橋

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蔵前専用橋(下流側)
隅田川にかかる橋、NTT東日本蔵前通信ビルと対岸を結ぶ。西岸は台東区蔵前一丁目、東岸は墨田区横網一丁目。名称は「NTT蔵前専用橋」とも。当初は旧電電公社時代に作られたこともあり「電電蔵前専用橋」とも呼ばれた。蔵前橋の南側に近接した日本で初めての洞道(通信線トンネル)専用橋で、水道橋も兼ねる。特徴として洞道内部の夏期の高温時対策のために換気用の窓が設置されている。関係者専用のため橋上に立ち入ることはできない。橋長 155.4m 主径間 55.0m 3径間連続鋼箱桁橋(Wikipedia

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蔵前橋
蔵前の名は幕府の御米蔵がこの地にあったことに由来する。その蔵の前の地というのが地名にもなったのである。この御米蔵は元和年間大川端を埋立てて建てられたが、盛時には数十棟もの蔵が建ち並んでいたという。ここに関東各地から舟運によって米が集積されたのである。近代になって政府関係など倉庫となり、その中には浅草文庫地宇書庫などもあった。蔵前の地は札差たち江戸商人発展の地であり、いきや通(つう)のあふれた土地柄となってきた。近代においても大震災や戦災などの惨禍をのりこえて、種々の商品の問屋街として繁栄をつづけてきている。大震災復興事業の一環として新しい構造の橋が昭和21927)に完成して今日に至っている。(東京都)
(橋長:173.2m 幅員:22m 構造:3径間上路式ソリッドリブ2ヒンジアーチ及び上路式コンクリート固定アーチ橋)

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富士見の渡し
舟上から
富士山が良く見渡せたのでこの名がついたと言われている。江戸幕府の米蔵が付近にあったので「御蔵の渡し」とも称された。現在の蔵前橋の下流側にあたる場所にあった。関東大震災の発生前まで運行されていたが、震災発生により消滅。後に震災復興事業によって蔵前橋が架橋され渡しが再開されることはなかった。
Wikipedia

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首尾の松碑

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首尾の松
この碑から100m川下に当たる浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。その由来については次のような諸説がある。1.寛永年間(16241643)に隅田川が氾濫したとき、3代将軍家光の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が列中に伍している中から進み出て人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り、見事対岸に渡りつき家光がこれを賞して勘気を解いたのでかたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。2
吉原に遊びに行く通人たちは隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上り下りの舟が途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところかたの説。3.首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが訛って首尾となり近くにあった松を「首尾の松」と称したという。初代「首尾の松」は安永年間(17721780)風災に倒れ、更に植え継いだ松も安政年間(18541859)に枯れ、三度植え継いだ松も明治の末頃枯れてしまい、その後「河畔の蒼松」に改名したがこれも関東大震災、第二次大戦の戦災で全焼してしまった。昭和37年(196212月これを惜しんだ浅草南部商工観光協会が地元関係者とともにこの橋際に碑を建立した。現在の松は7代目といわれている。(台東区教育委員会)

『名所江戸百景 浅草川首尾の松 御厩河岸』/歌川広重

この絵の右に描かれているのが平戸新田藩の松浦氏の屋敷で、その先にある椎の木の森は「嬉の森(うれしのもり)」と呼ばれる(Wikipedia

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蔵前御蔵跡碑
浅草御蔵は江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫である。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。浅草御蔵はまた浅草御米蔵ともいい、ここの米は主として旗本、御家人の給米用に供され勘定奉行の支配下に置かれた。元和6年(1620浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い現在の柳橋2丁目、蔵前12丁目にかけての地域を埋め立てて造営した。このため、それ以前に江戸にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米蔵は享保(17161736)頃までに浅草御蔵に吸収された。江戸中期から幕末まで浅草御蔵の前側を「御蔵前」といい、蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。現在も使われている「蔵前」という長命が生まれたのは昭和9年(1934)のことである。碑は昭和31年(195661日浅草南部商工観光協会が建立したものである。(台東区教育委員会)

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蔵前国技館跡
両国国技館(2代目)が造られるまで東京での大相撲の本場所を開催していた場所です。二階建の建物の外観は純和風で独特の雰囲気のあるものでした。昭和24年(194810月より建設を開始、翌年「仮設」のまま開館し正式に完成したのは昭和299月のことで、昭和591984)まで30年間は蔵前の街は大相撲のメッカとしての役割を果たしていました。跡地は現在東京都下水道局の処理場と「蔵前水の館」になっています。(隅田川テラス案内板抜粋)

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揖取稲荷神社鳥居/蔵前

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揖取稲荷神社(かじとりいなり)
祭神:倉稲魂神(うかのみたまのかみ) 御年神(みとしかみ)豊受姫神
慶長年間(15961614)に江戸幕府が開府し、米蔵造営の石を遠く肥後熊本より運搬の途中、遠州灘に於いて海が荒れ船が度々遭難したが、ある時稲荷の示現を得てより後は航海の安全を得ることが出来た。その神徳に感謝し、称える為に稲荷の社を浅草御蔵の中に創建、爾来今日に至る。示現以来、既に400有余年祭事怠ることなく奉仕し、その神徳により「揖取稲荷神社」と呼ばれています。(説明板)

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街道の風景② 国際通りとの分岐点、西福寺へ寄り道します/蔵前2(江戸通り)

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法林寺は浄土宗のお寺です/蔵前

高嵩谷墓

高嵩谷は享保15年(1730)江戸に生まれる。江戸中期画家で名を一雄、号を屠竜翁、翠雲堂などと称した。画を英一蝶の門人佐脇嵩之に学んだ。英一蝶は市井の風俗を軽妙に描写し、英派という一派を開いた元禄期を代表する画家の一人である。嵩谷は一蝶風の風俗画を得意としたが、のちには武者絵に新境地を開いた。浅草寺に現存する大絵馬「源三位頼政鵺退治図」は天明7年(1787)の制作で嵩谷の代表作のひとつ。「平家物語」に記されている、源頼政が紫宸殿で猪ノ早太と共に怪獣鵺を射止めた武勇伝を描いたものである。また、根岸三丁目の永称寺には墨画竹虎図の屏風がある。文化元年(18048月、75歳で没し当寺に葬られた。なお、墓所は非公開である。(台東区教育委員会)


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松平西福寺山門/駒形

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松平西福寺
当寺は東光山良雲院松平西福寺と称し、開基は天正2徳川家康公によるものであります。開山上人は真蓮社貞誉素道房願故了伝大和尚と申され、上人は三河の国額田郡麻生村に生まれ、幼い頃同村の阿弥陀寺の弟子となり、後に下総国の大厳寺の安誉虎角上人に学び、諸国遍歴後故郷の岡崎の大樹寺に留まりました。時に永禄3年徳川家康公が今川義元の人質になっていた19歳の時、桶狭間の戦いで義元は織田信長の急襲で滅ぼされ、家康も敗戦の難を菩提寺の大樹寺に逃れ、時はこれまでと先祖の墓前にて切腹しょうとした時、大樹寺の住持登誉上人と了伝和尚に戒められ自害を留めたと言われています。以後了伝和尚は家康公にお付きし、信頼いよいよ厚く家康公は、天正2静岡市に了伝和尚の為に一寺を建立し西福寺と号し上人を迎えました。当時の西福寺は、三百石の石高を受け住職は大名待遇を成されていたと言われております。後に家康公の命を受け慶長132代将軍秀忠公江戸駿河台松平西福寺を創建し、次いで寛永15現在の地に移つりましたが、当時は境内地が約七千坪有り西福寺の末寺として7ヶ寺の別院、別寺があると共に学寮(僧侶を育成する為の学問所)などが有りました。大正年間に入り東京市都市計画により境内も今の如く狭くなり、また関東大震災及び大東亜戦争と二度の災禍に見舞われ本堂、庫裡他、悉く焼失しましたが、平成4年に新本堂が建立され現在に至っております。(西福寺HP)

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勝川春章墓
浮世絵師
宮川氏ともいい旭朗斎または西爾と号した。俗称は佑助。浮世絵を画きまた書を能した。はじめ嵩谷に学び、歌舞伎俳優の肖像および五人男の図をよくした。また武者絵に巧みではじめ人形町林屋七右衛門の家に寄食し、貧しいため名印がなく林屋の受領印をもって代えた。印文は壺の中に林の字があった。このために人々は彼を壺屋と呼んだという。寛政4年(1792128日没した。没後門人春好が二世春章となり、同じく壺形の印形を用いたため人々は彼を小壺と呼んだ。(東京都教育委員会)

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育英小学校発祥の地
明治2年(18693月明治新政府は幕府・藩による政治体制にかわる新しい日本の構築にあたって、国民全体の教育の推進をはかるため小学校の設置を定め明治318703月東京に6小学校を設立した。その1つが本寺境内に設立された「仮小学第4」で現在の育英小学校の前身である。開校日は明治3年(1870623日で現蔵前・鳥越・浅草橋・柳橋・三筋付近に居住していた旧大名・旗本及びその家臣の子弟たちが入学したといわれる。したがって、当地は明治5年(18728月の学制発布に先だつ東京で最も早い公立小学校発祥の地である。当校は明治7年(18744月中旬に医学館跡地(現浅草橋4丁目17番付近)へ移転、明治10年(18778月育英小学校と改称し、明治18年(188510月に現在地(浅草橋2丁目268号)に移った。(台東区教育委員会)

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江戸名所図会 西福寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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蔵前神社鳥居


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蔵前神社
御祭神 誉田別天皇、息長足姫命、姫大神、倉稲魂命、菅原道真公、塩土翁命
当矢代は徳川第五代将軍綱吉公が元禄6年(169385山城国(京都)男山の石清水八幡宮を当地に勧請したのが始まりです。以来、江戸城鬼門除の守護神ならびに徳川将軍家祈願所の一社として篤く尊崇せられ、御朱印社領二百石を寄進せられました。文政年間の「御府内備考続編」ならびに「寺社書上」には次のように記されています。『石清水八幡宮。御朱印社領二百石。当社、石清水八幡宮境内、拝領の儀は、元禄6酉年527日、高野山興山寺上り屋敷拝領つかまつり、同年8月、八幡宮社頭建立の節、御金子三百両拝領つかまつり、諸堂建立つかまつり候。其の節、境内坪数22716合拝領つかまつり候。其の後、享保17子年328日類焼つかまつり候に付、替地として元坪の通り、浅草三嶋町に遷し置かれ候ところ、延享元子年320日、寺社御奉行大岡越前守忠相殿、三嶋町の儀、御祈願所に不相応にして、別けても神前の向、宜しからず候に付、此の度、御上意を以て元地へ引き移し候よう仰せ付けられ候旨、申し渡され候』すなわち、創建39年後に類焼し浅草三嶋町に遷されていましたが、その12年後の延享元年(1744415日、元地である蔵前(八幡町)に還幸しました。

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当時は神仏習合思想に基づき全国の主要な神社には付属して別当寺が建立されていました。そして、当社石清水八幡宮の別当寺としては雄徳山大護院(新義真言宗)が営まれ、江戸の「切絵図」にも見られます。正式な社号は『石清水八幡宮』ですが一般には『蔵前八幡』または『東石清水宮』と唱えられ、庶民の崇敬者がはなはだ多く関東地方における名社の一つに数えられました。また、天保12年(184112月には日本橋の「成田不動」(成田山御旅宿)が幕府の方針に基づく寺社御奉行松平伊賀守忠優の達を受けて当社境内に遷されました。江戸時代も幕末の安政2年(1855102日江戸を襲った所謂「安政の大地震」では、儒学者藤田東湖を含む1万余人もの犠牲者を見てしまいましたが、幕府は安政4年(18577月当社境内に高さ15尺の「宝塔1基(大施餓鬼塔)を建立し、その10月には開眼供養を行わしめました。明治に入るとその3月に「神仏分離令」が布告され、別当寺である雄徳山大護院は廃寺となりました。そして、成田不動は明治2年(1869深川に遷され、大施餓鬼塔も明治3年(1870)練馬の東高野山に移されました。明治6年(18738月郷社に列格し、明治11年(187811月社号をそれまでの「石清水八幡宮」から「石清水神社」と改称、さらに明治19年(18864月再び『石清水八幡宮』と改称しました。其の後、大正12年(19239月の関東大震災および昭和20年(19453月の戦災により社殿を焼失、昭和22年(19479月隣接の稲荷神社と相殿・北野天満宮とを合併合祀し、昭和2619513月社号を『蔵前神社』と改称、平成7年(199510月創建当初から境内神社として鎮座の「塩竃神社」(陸前国宮城郡鎮座塩竃神社遥拝殿)を合祀して現在に至っています。

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また、当社は相撲との深い関係があります。江戸時代のことですが当社境内で肝心大相撲
が開催されました。その回数は宝暦7年(175710月を始めとして安永・天明・寛政・享和・文化・文政と約70年の間に23回にも及び、その三大拠点の一つでした。とくに、天明年間には大関谷風や関脇小野川が、寛政年間には大関雷電などの名力士も等社境内を舞台に活躍していました。当社で開催された本場所では幾多の名勝負が見られましたが、なかでも天明2年(17822月場所7日目、安永7年(1778)以来実に63連勝の谷風が新進小野川に「渡し込み」で敗れた一番は江戸中大騒ぎとなりました。現在の『縦番付』は宝暦7年(175710月当社で開催された本場所から始められたものです。そして、当社で開催された宝暦11年(176110月場所より従来の勧進相撲が『勧進大相撲』となり、当場所以来の『全勝負付け』も現存しています。このように当社の境内は相撲熱で大いに賑わったものであり、明治時代には花相撲が行われたりもしていました。かヽる史実に基づいて財団法人大日本相撲協会(現・財団法人日本相撲協会)より現存の社号標や石玉垣が奉納されています。境内神社(末社)福徳稲荷神社:御祭神 倉稲魂命 御神徳 商売繁昌、五穀豊穣、家内安全 例 祭2月初午の日(蔵前神社社務所)

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榧寺山門/駒形

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榧寺(かやでら)
榧寺は浄土宗で本尊は阿弥陀如来坐像。天正年間(1575年ごろ)から草庵が現在の地にありましたが、芝増上寺中興の僧として著名な観智国師源誉存応が慶長4年(1599)に浄土宗として開山した寺院です。榧寺には下記の4点の縁起が伝わっています。「紙本墨書榧寺縁起」:第4世住職伝誉筆。明暦3年(1657)成立。縦29.3cm、横270.8cm。草書体の仮名交じり文で表記。「紙本墨書榧寺正覚寺由来及火防宝符之記」:第12世住職宅誉筆。安永2年(1773)までの成立。縦30.8cm、横317.1cm。行書体の仮名交じり文で表記。「紙本墨書榧寺縁起并防火宝符来由」第14世住職幽誉筆。寛政4年(1792)成立。縦29.0cm、横335.7cm。楷書体の漢文で表記。境内に榧寺縁起碑文が現存しています。「紙本着色榧寺縁起絵巻」詞書は石川雅望筆、絵は栗原信充画。文政4年(1821)までの成立。全体を七段に分け、各段を詞書→絵の順に表わす。詞書は草書体の仮名交じり文で表記。雅望(1753-1830)は、国学者・狂歌師として著名な人物。信充(1794-1840)は、古代以来の衣装・甲胄などの研究家で、絵もよくした人物です。この4点の縁起によれば、かつて境内に樹齢千年の榧の大木が立っていましたが、当地が火災に見舞われた際には榧の木から水を発し、たくさんの町民・本尊ほか多くの寺宝を火災から守ったとあり、現在、本尊の右に安置する秋葉権現像は300年程前この榧木で造像したもので、江戸の大火事から人々を守り火防せの信仰をうけていたと記されています。榧寺縁起4点は榧寺の歴史を知る上で欠くことができない資料であり、江戸時代の著名な文化人が制作にたずさわった絵巻を含むものとしても貴重な文化財です。(台東区教育委員会)

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石川雅望墓(都旧跡)
石川雅望(1753-1830)は江戸後期国学者狂歌師です。旅館糟屋七兵衛こと浮世絵師・石川豊信の子として生まれ、六樹園、五老斎などと号しました。国学を津村淙庵、狂歌を太田南畝らに学び、狂名を宿屋飯盛といいました。天明年間に狂歌檀に台頭し狂歌の四天王に数えられます。寛政3年宿屋経営に関連して江戸を一時離れますが、このころ国学に務め「源注余滴」や「雅言集覧」を著します。文化期には狂歌檀に復帰し文化文政時代の狂歌界を鹿津部真願と二分する勢力となります。真願の俳諧歌体に対して俗情俗語の狂歌の軽妙さを主張しました。「(百人一首)古今狂歌袋」など狂歌絵本や「万葉狂歌集」などの狂歌撰集の他「草まくら」などの紀行文もあります。(東京都教育委員会)

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江戸名所図会 正覚寺 八幡宮 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用


・・・厩橋

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街道の風景③ 春日通りを右折すると厩橋、この辺りまでが御米蔵でしょうか/厩橋(江戸通り)

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隅田川の風景② こちも工事中なのでテラスから上流を眺めます/蔵前

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厩橋
台東区蔵前と墨田区本所の間で春日通りが隅田川を渡る橋です。この橋の創架は明治7年(1874)で、それまでこの付近にあった「御厩(おんまい)の渡し」に代わって架設され、隅田川では6番目の橋となりました。厩橋の名称は御厩の渡しからきていますが、厩とは馬屋のことでこの一帯には幕府の御米蔵があり、専用の厩があったことから御厩の名称が使われるようになりました。現在の厩橋は昭和4年(1929)に震災復興橋梁として架設されたものです。親柱には馬をデザインしたステンドグラス風のガラス細工が組み込まれているほか橋の各緒に「厩」にまつわるオブジェが配されています。橋長:151.4m 幅員:22m 構造:3径間下路式タイドアーチ橋(東京都建設局)

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御厩の渡し(おうまや)
御厩河岸の渡し」とも称され現在の厩橋付近にあった。川岸に江戸幕府の「浅草御米蔵」があり、その北側に付随施設のがあったのでこの名がついた。元禄3年(1690)に渡しとして定められ渡し船8艘、船頭14人、番人が4人がいたという記録が残る。渡賃は12文で武士は無料。1874年(明治7年)の厩橋架橋に伴い廃された。歌川広重の錦絵「浅草川首尾の松御厩河岸」にも描かれている。(Wikipedia

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江戸名所図会 御厨河岸渡(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

御厨河岸(おんまいがし)

河岸の名称。幕府の馬小屋があったことに由来する。「御厩の渡し」という渡しが元禄31690)年に定められた。浅草寺界隈への入口にあたり、本所からも船で多くの人々が訪れた。明治71874)年、少し下流に厩橋が架けられて、渡しは廃止された。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)

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浅草南部イラストマップ
このあたりは江戸時代、幕府の旗本、御家人と米商人との間を取り次ぎ江戸の経済を左右した札差業者が店を構えたり、諸国から回送されて年貢米を収納する幕府の米蔵があった所です。今ではJR浅草橋駅から都営地下鉄蔵前駅に至る江戸通には人形、玩具、日用雑貨など各種の卸問屋が軒を連ねており、毎日全国各地からのお客で人通りが絶えません。近くには孝徳天皇の白雉2年(651)創建されたと伝えられる鳥越神社があります。(案内板)

鳥越神社の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27217982/

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蔵前周辺マップ 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(緑:旧日光・奥州街道 青:隅田川・神田川 赤角:両国橋・蔵前橋・厩橋)

両国橋(隅田川)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/24259906/


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資料ファイル


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蔵前(歴史)
蔵前という地名はこの地に江戸幕府の御米蔵浅草御蔵)があったことに由来する。この蔵は幕府が天領他から集めた米を収蔵するためのもので、元和6年(1620)に鳥越神社の丘(鳥越山)にあった三神社のうち二社を移転させ、丘の切り崩しによって隅田川を埋め立てて造られた。その総敷地面積は36646坪(ただし『御府内備考』は27900坪とする)東を隅田川、他の南北西の三方を堀で囲み67の蔵があった。隅田川の右岸に上流から一番、二番と数える8本の堀を作り、それに面した多くの米蔵が連なった。四番堀と五番堀の間には「首尾の松」という枝を川面に垂れた松の木があった。御蔵の随伴施設のが北側にあり、対岸には御米蔵に匹敵する広さの幕府の建築資材を貯蔵する御竹蔵が置かれ、御蔵から隅田川の対岸に渡る「御厩河岸の渡し」があった。また南側にも渡しがあり「御蔵の渡し」の名があったがこちらは富士山が見渡せたため「富士見の渡し」とも呼ばれた。絵図江戸切絵図」のうち「東都浅草図」より浅草御蔵の部分Wikipedia抜粋)


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隅田川の橋とその歴史
古くは千住より上流を「荒川」、浅草近辺を「浅草川」、駒形近くは「宮戸川」、両国より下流を「大川」と呼んでいたといいます。昭和51年(1976年)より北区岩淵水門で荒川と分岐したところから下流を「隅田川」と称しています。
江戸時代はわずか5だけが架けられていましたが、江戸幕府の軍事上の問題から橋の架設には積極的でなく、渡船がその役割をしていました。(1千住大橋:文禄3年(1594年)(2両国橋(大橋):万治2年(1659年)(3新大橋:元禄6年(1693年)(4永代橋:元禄11年(1698年)(5吾妻橋:安永3年(1774年)。
隅田川の渡しは昭和39年(1964年)「佃の渡し」を最後に全廃されてしまいました。明治40年(1907年)頃、隅田川には18ヶ所の渡し場があったといわれます。もっとも古いのは「橋場の渡し」で、承和2835年)太宰官符に「渡し船を2隻から4隻にふやせ」と記録にあるように、今の浅草北部は平安時代すでに水路と陸路の要衡の地であったことがしのばれます。(隅田川に架かる橋/台東区HP)(図:江戸の変遷/大江戸博物館)


# by Twalking | 2018-12-06 09:28 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 第7回『遊彩会』水彩画展   

日時 2018.12.4(火)
天気 晴れ


今日は母のお伴で作品の搬入と会場設営で桜ヶ丘へ。
いつも母が会員のみなさまによくして頂いているので、
ほんとうにありがたいことと思っています。
お手伝いくらいさせて頂かないと・・・、ですよね。


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午後から作品を持ち込み、会場の設営です

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みなさんの協力で3時間ほどで整いました、ご案内も手つくりです

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お疲れさまでした、ひと休みしましょ~!


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作品1 バラの季節


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作品2 水の都


3作描いたみたいですが、重たいから・・・と、出展は2作です。
ちょっと今までのものとは感じが違っています。
それにしても上手いもんですね・・・、凄いな~!、母さん。

みなさんそれぞれに丹精込めて描いた52作品を展示しています。
よろしかったらどうぞお運びくださ~い!


・・・・・

第7回『遊彩会』水彩画展

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日時 2018.12.5(水)~8日(土)
   AM10:00~PM6:00(最終日はPM4:00迄)
会場 多摩市立関戸公民館ギャラリー(ビータ7F)
   京王線聖蹟桜ヶ丘駅下車・西口 信号向かいの建物

# by Twalking | 2018-12-05 17:31 | さんぽみち

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 コミュニティーバス『めぐりん』   

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橋戸通り/台東区橋戸
台東区内でよく見かけるコミニティ-バズ『めぐりん』くん、「北めぐりん」「南めぐりん」「東西めぐりん」「ぐるーりめぐりん」の4コースが運行されています。北コースのこの車両「ポンと乗ってチョこっと行く」ことから愛称は『日野・ポンチョ』、ファンタスティックで面白そう・・・、乗ってみたいですね。


# by Twalking | 2018-12-04 23:22 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 『多摩センターイルミネーション2018』   

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「多摩センターへ、ようこそ~!」 


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大きなバルーンから身を乗り出してキティーちゃんがお出迎えです


・・・光の水族館

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少し長くなりましたよ~


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反対側から見ると感じが違います


・・・・パルテノン大通り

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メインストリートは「くすの木イルミネーション」です


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左サイト


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右サイト


・・・パルテノン十字路

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センターランドツリーです、ここでイベントが開催されます


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フォトスポット まだかな~・・・早く乗りたいな~!


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こちらは新設のフォトスポットです


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パルテノンの大階段は「きらめきの滝」に



多摩センターイルミネーション2018
期間:2018.11.10(土)~2019.1.6(日)
   16:30~22:30
場所:多摩センター駅 パルテノン大通り他
詳しくはこちらへ(http://www.tamacenter-cm.com/illumi/

# by Twalking | 2018-12-03 22:42 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 なでおかめ-鷲神社   

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鷲神社/台東区千束
拝殿の賽銭箱の上に大きなおかめさん、
「なでおかめ」というそうですよ。
触る場所でご利益がちがうとか、
さて、どこにしようかな~・・・・。



なでおかめ

おかめとは天宇津女命(アメノウズメノミコト)のことと言われております。天の岩戸神話の中で須佐之男命(スサノウノミコト)が高天原に天照大御神(アマテラスオオミカミ)を訪ねるが謀反を疑われ悪行の限りを尽くし、天照大御神の岩戸籠りの原因になってしまい、光を失ってしまった世に光を取り戻すため高御産巣日神(タカミムスヒ)は神々を召集して方策を練り、祭祀と神遊を催しました。その際に舞を舞い天照大御神を導き出し世に再び光を取り戻した立役者の神と言われているのが天宇津女命(アメノウズメノミコト)です。おかめはお多福とも言われ福が多く幸せを招く女性の象徴という事から縁起が良いとされ酉の市の縁起熊手にも江戸より飾り付けられています。

鷲神社「なでおかめ」の云われ
 
おでこをなでれば賢くなり 目をなでれば先見の明が効き 鼻をなでれば金運がつく 向かって右の頬をなでれば恋愛成就 左の頬をなでれば健康に 口をなでれば災いを防ぎ 顎(あご)から時計回りになでれば物事が丸く収まると云う(鷲神社)

鷲神社の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27244125/


# by Twalking | 2018-12-03 18:11 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ひと駅電車で   

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小田急線唐木田駅/多摩市
ひと駅電車で、母のもとへ、
あれ、誰も乗ってない・・・、
なんだか不思議な感じですね~。

# by Twalking | 2018-12-02 23:32 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-浅草神社   

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阿形

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吽形
拝殿前で境内を見守るブロンズ製の狛犬さん(昭和38年・1963)の奉納です


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こちらは相合傘の夫婦狛犬さん、仲睦まじいですね~!

浅草神社/台東区浅草

夫婦狛犬

狛犬は外部からの厄災を退ける役割があり一般的に一対が参道を挟み向き合って設置されるものです。この狛犬は江戸初期に作られ、形状が珍しく大変貴重なものであり、その寄り添って佇む様相から「良縁」「夫婦和合」「恋愛成就」のご利益があるとされています。(浅草神社)

浅草神社の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27228314/


# by Twalking | 2018-12-02 19:42 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多磨の秋-豊ヶ丘北公園   

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豊ヶ丘北公園/多摩市豊ヶ丘
お~、美しい紅葉だこと。
落葉を踏んで紅葉狩り・・・、
気持ちいいですね~、るんるんです。


# by Twalking | 2018-12-02 16:12 | ○たま-2018