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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 くちなしの花   

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荒川区町屋
いまでは指輪もまわるほど やせてやつれたおまえのうわさ
  くちなしの花の花のかおりが 旅路のはてまでついてくる
     くちなしの白い花 おまえのような花だった~♪♪



クチナシ
(梔子、巵子、支子)
アカネ科クチナシ属の常緑低木である。樹高1-3mほどの低木。葉は対生で時に三輪生となり、長楕円形、時にやや倒卵形を帯び長さ5-12cm、表面に強いつやがある。花期は6-7月で、葉腋から短い柄を出し一個ずつを咲かせる。花弁は基部が筒状で、先は大きく6弁に分かれ、開花当初は白色だが徐々に黄色に変わっていく。花には強い芳香があり、学名の種名jasminoides は「ジャスミンのような」という意味がある。Wikipedia


# by Twalking | 2019-06-19 11:59 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 梶原駅   

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梶原駅/北区上中里
上中里駅からちょっと歩くと
荒川線が通っています。
初めての場所、なんだかわくわくしますね。


梶原停留場
北区上中里三丁目にある都電荒川線(東京さくらトラム)の停留場。相対式ホーム22線を有する、互いのホームは明治通りをを挟んだ反対側にありやや離れている。1913年(大正2年) 開業。Wikipedia

# by Twalking | 2019-06-18 22:29 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ストロベリームーン   

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多摩丘陵/多摩市
雲の切れ間からやっとお月さんが見えました。
高い位置なので、普段の満月と同じかな・・・・、
赤味ががるのは出始めのようです。
2019.6.17(月)21:23


ストロベリームーン
strawberry moon
6月の満月を指す名称。アメリカ合衆国・五大湖の西側に暮らすオジブワ族は農耕や狩猟が困難な森林地帯を生活の場とし、野生の木の実や種子を採集する暮らしを送ってきたことから、その時に採集できるものを月の呼び名としてきた。その中の1つにストロベリームーンがある。イチゴの収穫時期に昇る月のことを指して呼んだ名称である。赤といってもイチゴのような鮮やかな赤やピンクに月が染まるわけではなく、あくまで赤みや黄色みがかって見えるという程度である。月が赤く見える原理は、夕日が赤く見えるのと同じである。月が地平線近くにあるときに月の光のうちの波長が長い赤い光が吸収されずに残ることで赤く見えるのである。夏至の頃には月が空の低い位置を通るため赤い月が観測しやすくなる。Wikipedia

# by Twalking | 2019-06-17 23:48 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 シモツケ   

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遺跡庭園・縄文の村/東京都埋蔵文化財センター(多摩市落合)
時々見かけるけどすぐ忘れちゃうなぁ~・・・、
可愛い花だこと、「シモツケのひと」か、
連想ゲームで覚えておくね~。


シモツケ(下野)

バラ科の落葉低木。茎は叢生(そうせい)し、高さ約1m。葉は互生し単葉で広披針(こうひしん)形から卵形で、先端はややとがり縁は二重鋸歯があり、裏面は淡緑色かやや白みを帯びる。58月、新枝の先に複散房花序をつくり、淡紅色で径約5mmの5弁花を開く。雄しべは多数、花弁よりはるかに長い。雌しべは5本。果実は袋果。山地に生え北海道から九州、および朝鮮半島、中国に分布する。名はこの植物が下野(しもつけ)(栃木県)で最初に発見されたからという。(コトバンク)


# by Twalking | 2019-06-17 18:49 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カルガモ   

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豊ヶ丘南公園/多摩市豊ヶ丘
ヨチヨチとよく動き回ること、
ちょっと一休みかな~、カルガモの雛さん、
かわいいね~!


カルガモ
(軽鴨)

カモ科マガモ属に分類される。日本では主に本州以南に周年生息(留鳥)する。和名は「軽の池」(橿原市・かしはらし大軽周辺とする説もあり)で夏季も含めて見られたカモであったことに由来すると考えられている。集団繁殖地(コロニー)を形成することもある。草本や枯草・ササなどを組み合わせた直径22-30cmに達する皿状の巣を作る。繁殖期前期(交尾から営巣地の探索程度まで)はつがいで行動するが、メスが抱卵・育雛を行っている間、オスは概ねオスだけの群れを形成する。繁殖期が終わるとまずメス親とヒナとの関係が消失する。その後は不透明であるが越冬期前には雌雄で構成される大群を形成する。(Wikipedia


# by Twalking | 2019-06-17 10:42 | ○Bird

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 あじさい   

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多摩市愛宕
お~、鮮やかなブルー、
雨上がりに輝いて・・・、
美しいこと。

# by Twalking | 2019-06-16 22:37 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 梅雨晴   

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落合けやき通り/多摩市落合
梅雨の晴れ間に
新緑が眩いばかり・・・、
気持ちい~い!最高です。


# by Twalking | 2019-06-16 19:54 | ○たま-2019

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-紀州神社   

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阿形

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吽形
紀州神社/北区豊島
どっしりとした狛犬さん、
この形はよく見かけますね、
昭和52年(1977)の奉納です。

隅田川-豊島・紀州神社の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27634087/

# by Twalking | 2019-06-15 19:47 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 トケイソウ   

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多摩市グリーンライブセンター/多摩中央公園(多摩市)
「いま何時かしら???」
「わたしを見てね!」
不思議な花ですね・・・、ありがとう~。


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トケイソウ(時計草)
トケイソウ科のつる性常緑多年草。ペルー・ブラジル原産で、日本へは享保(1716-36)の頃渡来し観賞用に栽培される。分枝しない巻きひげで他物にからみ、長さ4mぐらいになる。葉は有柄、掌状に深く五裂、裂片は披針形。夏、葉腋に径710cmの10花被をもつ花が咲く。5枚は萼片で白、淡紅または淡青色、花弁は淡紅か淡青色を帯びる。副花冠は糸状で平らに開き、先は青、中ほどは白、基部は紫色を帯びる。果実は長楕円形で黄色に熟す。花の形を時計に見立ててこの名がある。(コトバンク)



# by Twalking | 2019-06-13 17:30 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 グリーングリーン   

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中沢池公園/多摩市中沢
グリーングリーン
  青空にはそよ風吹いて
 グリーングリーン 
   丘の上にはララ 緑がゆれる♪♪


# by Twalking | 2019-06-13 15:15 | ○たま-2019

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カワラナデシコ   

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多摩市グリーンライブセンター/多摩中央公園
梅雨空に蝶の舞い、
気高く美しいですね~・・・。
ありがとう~!、撫子さん。


カワラナデシコ
(河原撫子)

ナデシコ科ナデシコ属の多年草。主に日当たりの良い草原や河原に生育するが路傍や山地の斜面、海岸の砂浜等でも生育する。高さ3050cm。茎は根から叢生し節が膨らむ。葉は対生、線形~線状披針形で長さ47cm、先端は鋭く尖り基部は茎を抱きこみ(抱茎)、無毛で粉白色を呈す。花期は69月。花は茎の頂端に付き、直径45cm、がく片は34cm、苞(ほう)は34対ある。花弁は5枚で先が糸状に細裂している。雄蕊は10本、雌蕊は花柱2本。色は淡紅色が一般的だが白色も多い。淡紅色と白色が混ざっている個体もある。栽培していると白色のものが淡紅色に変化したりもする。(Wikipedia


# by Twalking | 2019-06-12 11:11 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 土偶-多摩NTのヴィーナス   

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東京都埋蔵文化財センター/多摩市落合
多摩を代表するインターナショナルな「有名人」、
微笑を浮かべて、美しいですね~・・・、
久し振りに会ってきました。


多磨ニュータウンのヴィーナス

縄文時代中期前半の大形土偶の好例であることから、2009年にイギリスの大英博物館で開催された『土偶 The Power of the DOGU』でも展示されました。NO471遺跡/稲城市若葉台/説明板


# by Twalking | 2019-06-11 18:55 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狐面-装束稲荷神社   

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装束稲荷神社/北区王子
かつてこの辺りは一面の田畑でその中に榎の木がそびえていた。毎年大晦日の夜、関東各地から集まって来た狐たちがこの榎の下で、衣装を改めて王子稲荷神社に参詣したという。この榎は「装束榎」と呼ばれ、狐たちがともす狐火によって地元の人々は翌年の田畑の豊凶を占ったとか。この「王子の狐火」の民話を再現しようと地元の人々によって王子「狐の行列」が始められ、大晦日から元日にかけての深夜に、狐のお面をかぶった裃姿の人々が装束稲荷から王子稲荷神社までの道のりをお囃子と一緒に練り歩く光景が繰り広げられています。広重も描いた王子の狐火、一度見てみたいものですね。

装束稲荷神社の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27637937/)


# by Twalking | 2019-06-10 22:41 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 梅雨   

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乞田川/多摩市落合
本降り、水嵩が増して流れの速いこと。
ちょっと出てみましたが肌寒いですね・・・。
くれぐれもご自愛くださいませ。

# by Twalking | 2019-06-10 19:57 | ○たま-2019

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 隅田川 岩淵~王子02-豊島(2)   

日時 2019.5.30(木)
天気 晴れ


隅田川が大きく湾曲して流れる「天狗の鼻」を
現荒川沿いを走る中央環状線を望みながら
ぐるっと一回り、なかなかの景観です。

鼻の先は六阿弥陀道の渡船場があったようです。
この先、溝田橋手前で石神井川が合流しますが、
緑道に旧河道跡も確認することもできます。



・・・天狗の鼻/豊島

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隅田川の風景① 新豊橋から堤防沿いに「天狗の鼻」をひと廻り/隅田川テラス

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右に大きく蛇行してます              カーブすると隅田川防潮堤碑があります

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阿弥陀の渡船場跡
ここにはかって豊島村から沼田村(足立区)への渡船場がありました。この渡船場は豊島の渡六阿弥陀の渡・中の渡・原の渡とも呼ばれていました。旧荒川(現隅田川)の流路は現在の荒川まで大きく湾曲していてこの地形を天狗の鼻と呼んでいました。渡船場は湾曲の頂点より少し下流に位置していました。豊島清光の造仏伝承にまつわる六阿弥陀詣が江戸時代中期以降に盛んに行われるようになりました。この渡船場は六阿弥陀詣の一番西福寺 (北区豊島2-14-1)から二番延命寺(江北橋北詰辺にありましたが、明治9恵明寺(えみょうじ)に合併されました)への参詣路にあたっていたため、六阿弥陀詣の行われる春秋の彼岸の時には参詣客でとくに賑わいをみせました。

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文化11(1814)頃に当地を訪れた十方庵敬順(じゅっぽうあんけいじゅん)はこの渡船場付近の川端の様子を『荒川の長流にそひて、左右の渚の景望はいふもさらに、弓手は渺茫たる耕地を見わたし、心眼ともに打はれて、実に賞すべきの景地たり』と記し、こうした土地に住んで花鳥風月になぐさめられて暮らしたならば寿命も延びるであろうと賞賛しています。明治44(1911)から荒川の河川改修工事が始まり、次いでこの付帯事業として大正12(1923)4荒川放水路(現荒川)江北橋が、同14年荒川(現隅田川)豊島橋が架橋されこの渡船場も姿を消していきました。(北区の歴史と文化財)

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江戸名所図会 六阿弥陀廻  (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
『春秋二度の彼岸には六阿弥陀回(めぐ)りとて、日かげの麗(うら)らかなるに催され、都下の貴賤、老いたる若き、打ち群れつつ朝とくに宅居(いえい)を出づるといへども、行程(みちのり)遠ければ、遅々たる春の日も長からず、秋にはことさら暮れやすうおもはるべし』


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隅田川の風景② 下流に架かる豊島橋です、テラスはここで途切れます

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隅田川の風景③ 上流側の景観です、右岸に船着場、左岸は宮城ゆうゆう公園になります/豊島橋

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豊島橋
都道307号王子金町江戸川線を通す。北岸は足立区宮城2丁目、南岸は北区豊島5丁目。橋名は北区の地名にちなむ。もともと現在の橋の上流300ほどの隅田川が大きく蛇行する「天狗の鼻」とよばれる場所に鎌倉時代から続くとされる「六阿弥陀の渡し」(豊島の渡しとも)があり、六阿弥陀詣の人々で賑わったと伝わる。1925(大正14年)この場所に最初の豊島橋が木橋として架けられた。初代の豊島橋は荒川を渡る同じく木橋の旧江北橋と結ばれていたが、老朽化によって1960(昭和35年)に下流の現在の位置に両橋ともどもゲルバー式鋼製桁橋として改架された。 橋長:106.7m 幅員:15.0 m 形式:単純下路式鋼ローゼ桁橋 竣工:2001年(平成13年)(Wikipedia

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五色桜大橋
足立区の荒川(荒川放水路)に架かる首都高速中央環状線の橋である。江北ジャンクションと王子北出入口の間に位置する。荒川の河口から16.5 kmの地点に架かる世界初の2層構造のダブルデッキニールセンローゼ橋で、上層部が内回り(板橋方面、下層部が外回り(江北方面)となっている。右岸は豊島5丁目宮城2丁目を分かち、左岸は足立区江北2丁目に至る。日没から22時まで橋の白色LED照明を使用したライトアップが行なわれている。この付近の荒川堤一帯がかつて五色の桜が咲く名所だったことからこの名が付けられた。全長:146.207m 支間長:142.241m 有効幅員:14.993 m16.0 m(上層) 開通:2002年(Wikipedia

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隅田川の風景④ 首都高が隅田川を横断する辺りが石神井川の河口になります/豊島橋

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街道の風景① 少し離れてますが川沿いの道を西福寺へ。途中に地蔵堂があります/豊島
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下道(しもみち)地蔵尊

下道のお地蔵さんはこの辺りを本拠地とした中世の豪族・豊島氏に因んだ「六阿弥陀伝説のお地蔵さん」と言われて、豊島村の人々の信仰を受けていました。真中の一番大きな石仏が本尊様だそうです。時代と共に近くにあった石仏がだんだん集められて今のように18体もまとまりました。下道とは昔この辺りから「」=志茂(現在の北区志茂)へ向かう道が分かれていたので地名としてこのように呼ばれていたのです。(説明板)


・・・石神井川河口

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石神井川の風景① この先で石神井川が隅田川に合流します/新堀橋

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新堀橋                中央環状線が隅田川を横断してます

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新堀橋左岸に石神井川の旧流路が残ります/船堀緑地

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石神井井川の風景② 上流の豊石橋を渡ると西福寺です

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石神井川
石神井川の水源は小平市のはずれの湧水ですが、現在は宅地に埋まりはっきりしなくなっています。この水源の小さな流れにところどころの湧水が集まって小川となり、練馬区の三宝寺池の豊かな湧水が加わり、板橋区から北区内に流れ込み、滝野川・王子本町・王子・豊島・堀船地先を貫流し、隅田川に流れ込んでいます。この三宝寺池から昔、石剣が出たので石神(しゃくじ)のを祭り、池からの流れを石神井と呼んだのが石神井川の名前の由来とされています。武蔵野台地をえぐる流れは石神井川の渓谷と言われる渓流となり、この谷の美しさは絵にも描かれ詩歌にもうたわれてきました。また、王子神社(王子本町1-1)の付近では音無川(おとなしがわ)とも呼ばれてきました。石神井川は遠く昔からたくさんの人々がこの水を求めて生活を営み、この流れに沿って繁栄してきました。徳川幕府の反射炉を築く計画では、準備のために石神井川を拡張する工事などが行われ、荒川(現在の隅田川)からの舟運の便に活用され、明治に入ると工業用水としての使命を持つようになり、現在の王子製紙国立印刷局王子工場などが建設されました。(北区を流れる河川/北区HP)

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街道の風景② 住宅地の中に続いていますが、古い道のようです/西福寺門前

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西福寺参道/豊島

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西福寺仁王門

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西福寺
西福寺は六阿弥陀第一番の寺として知られています。江戸の人々は春秋のお彼岸に六阿弥陀詣を盛んに行いました。花見と紅葉の時期を楽しむ目的もあったようです。区内には西福寺のほか無量寺が第三、與楽寺が第四番阿弥陀とされています。境内には「よさこい節」に登場するお坊さんがかんざしをあげたという土佐のお馬さんの供養塔があります。また明治維新の際に起こった上野戦争で敗走中に王子付近で戦死した彰義隊士6名を供養したことが記されている六士銘記の碑があります。山門内には昭和46年のサイパン慰霊祭の折、参謀本部跡より収集された血染めの土砂と遺骨を納めた「彩帆観音」が祀られています。中庭に面して鎮座している極彩色の仏像は阿弥陀如来露座大仏です。(あるきたくなるまち北区)

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奉石橋
他に六部夫婦(巡礼)のお地蔵さんがあります。享保年間この近くの奉石橋(現在の豊石橋)が土橋であったのを石橋に作り変えた豊島町の恩人です。なおこの石橋は滝野川に反射炉を築くときにとりこわし、石は豊島町10ヶ所の用水の橋となりました。この用水の橋は現在でもこの西福寺に2だけ残っています』(北区の歴史と文化財)

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お馬塚由来記 
土佐の高知の播磨屋橋で 坊さんかんざし買うを見た
全国的に知られる民謡よさこい節は今から120年前の安政元年、四国八十八ヶ所第31番の札所高知所在の五台山竹林寺の僧で36歳になった純信と近所に住む鋳かけ屋の娘で16歳になったお馬との年齢座を超えた恋愛事件に端を発し、当時の土佐藩の若侍たちが岡焼半分も手伝って色々な詞を作り、面白おかしく歌い出したのが流行の始まりと言われている。その後、お馬は明治18年の夏高知を離れて上京し、当山近くの豊島2丁目2577番地、現在の北区豊島2丁目10番地あたりに移り住んだが、明治36121566歳の波乱に富んだ生涯を閉じた。今日までお馬の詳しい消息は不明のままであったが、先年当山墓地内の寺崎家の墓に合祀されていることが当山過去帳によって確認され、一躍世の脚光を浴びるに至った。悲恋に泣き苦しみに耐えながら数奇の運命を辿ったお馬さんの菩提を弔うため新たに一基を建立してお馬塚と銘し、仏縁深い参詣者の便に供するものである。(石碑文)

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門前の身代地蔵菩薩          境内のお地蔵さん

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江戸名所図会 西福寺 梶原塚 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用) 『六阿弥陀かけてなくらむほととぎす』其角

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街道の風景③ 307号を左折して明治通りへ向かいます、左手に豊島ドッグ跡碑があります/豊島2

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産業考古学探索路-豊島ドッグ跡
昔、この場所には明治~大正期につくられた豊島ドッグと呼ばれる堀割がありましたが、軍の施設でもあったため、陸軍が荒川(現隅田川)の水運を利用するために掘ったといわれているだけで詳細な資料は残されていません。しかし、現在でも石積みの護岸が地価に残っておりかなりしっかりした構造のものであったことがうかがわれます。このドッグは現在の豊島2丁目から王子6丁目に至る堀割で、石神井川の新河口を経て隅田川と連絡しており、板橋火薬製造所王子工場で製造された弾薬などをこの堀割を通して隅田川まで運び出していたようです。水路の幅などからみて小型の船舶が現存の豊島中学校付近にあった船溜まりで方向転換しながら往来していたものと思われます。現在の豊島公園はこのドッグを埋め立てた土地の上につくられたものです。(説明板)

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左手に庚申塔             左折すると溝田橋です

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石神井川の風景③ 上流・前方に飛鳥山が見えます、王子駅方向から流れてきます/溝田橋


・・・王子

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装束稲荷神社鳥居/王子


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装束稲荷神社
」今から約千年の昔この附近一帯は野原田畑ばかりでその中に榎の大木があり、そこにを建てて王子稲荷神社摂社として祭られたのがこの装束稲荷であります。この社名の興りとして今に伝えられるところによれば毎年12月の晦日の夜、関東八ヶ国の稲荷のお使いがこの村に集まり、ここで装束を整えて関東総司の王子稲荷神社にお参りするのが例になっていて、当時の農民はその行列の時に燃える狐火の多少によって翌年の作物の豊凶を占ったと語り伝えられています。江戸時代の画聖安藤広重がその装束稲荷を浮世絵として残しています。

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その後明治中期に榎の大木は枯れ、土地発展に伴いその佐置も現在の王子二丁目停留所となり社はその東部に移されました。昭和20413日の大空襲の際猛烈な勢いで東南より延焼して来た火災を、ここで完全に食い止めて西北一帯の住民を火難から救った事は有名な事実です。この霊験あらたかな社が余りにも粗末であったので、社殿を造営せんものご地元有志の発起により多数の信者各位の御協力を得て現在の社伝を見え至りました。この装束稲荷は商売繁昌の守護神のみならず信心篤き者は衣装に不自由することなく、又火防の神としても前に述べた通りで信者の尊栄を高めています。(境内掲示板)

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王子の狐火と装束榎
かつてこの辺りは一面の田畑でその中に榎の木がそびえていました。毎年大晦日の夜、関東各地から集まってきた狐たちがこの榎の下で衣装を改めて王子稲荷神社に参詣したといういいつたえがあることから、木は装束榎と呼ばれていました。狐たちがともす狐火によって、地元の人々は翌年の田畑の豊凶を占ったそうです。江戸の人々は、商売繁昌の神様として稲荷を厚く信仰しており、王子稲荷神社への参詣も盛んになっていました。やがて、王子稲荷神社の名とともに王子の狐火装束榎のいいつたえも広く知られるようになり、広重が描いた絵のように錦絵の題材にもなりました。昭和4年(1929)装束榎は道路拡張に際して切り倒され、装束榎の碑が現在地に移されました。後にこの榎を記念して装束稲荷神社が設けられました。平成5年(1993)からは王子の狐火の話を再現しようと、地元の人々によって王子「狐の行列」が始められました。毎年大晦日から元日にかけての深夜に、狐のお面をかぶった裃姿の人々が、装束稲荷から王子稲荷神社までの道のりをお囃子と一緒に練り歩く光景が繰り広げられます。(北区教育委員会)

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江戸名所図会 
装束畠 衣装榎 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

『毎歳十二月晦日の夜、諸方の狐夥しくここに集まり来ること恒例にして、いまにしかり。その灯せる火影(ほかげ)によりて、土民明くる年の豊凶を卜(うらな)ふとぞ。このこと宵にあり、また暁にありて、時刻定まることなし』

王子稲荷神社の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27077284/


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豊島周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照

隅田川(岩淵~王子)01-豊島の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27634087/

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隅田川(岩淵~王子)ルート図
(赤点線:歩行ルート 緑:鎌倉道 赤:中山道 青点線:石神井川)

# by Twalking | 2019-06-10 13:30 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 池袋駅   

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池袋駅・埼京線ホーム/豊島区
山手線は通学でお世話になりましたが、
今は埼京線の次駅が新宿ですから、
こちらの方が早いですね。


池袋駅

山の手エリア3大副都心の一つ・池袋に位置するターミナル駅、現在は合わせて8路線が当駅に乗り入れており東京都西部や埼玉県南西部からの利用客が多い。全体の1日平均の利用者数は約264万人、各社内の駅の中ではJR東日本は新宿駅に次ぐ第2位、東武・西武・東京地下鉄は第1位の乗客数を誇る。元々池袋は農村地帯であり1885年に今の赤羽線・山手線となっている赤羽-品川間が開業した際も池袋に駅は設けられなかった。その後、1903(明治36)に田端への支線を分岐させるにあたり当初は目白での分岐が想定されていたが、地形の都合や住民の反対運動などがあり池袋に変更されたため当駅が設けられた。島式ホーム48線を有する地上駅。山手線・埼京線・湘南新宿ラインの3路線が乗り入れており、東側の24線を埼京線・湘南新宿ラインに、西側の24線を山手線にそれぞれ割り当てている。Wikipedia


# by Twalking | 2019-06-08 23:03 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 アジサイ   

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乞田川/多摩市落合
やっぱり君には雨がお似合い、
凛として清らか、魅せられます。
どうやら梅雨入りの様子、しばらく我慢でしょうか。


アジサイ
観賞用として広く庭園などに栽植されているユキノシタ科の落葉低木。梅雨時の象徴的な花である。漢字では慣用として紫陽花を当てることが多い。幹は群生して高さ1.5mくらいになりよく枝分れする。葉は対生して托葉はなく有柄、葉身は大きく質が厚く、表に光沢がありほとんど毛がない。形は倒卵形で先は鋭くとがりふちに鋸歯がある。67月、枝の先に珠状に多くの花をつける。花は大部分が萼片が大きくなり花弁状に変化した装飾花で、一般に美しい青紫色であるが白色や淡紅色などの品種もある。(コトバンク)

# by Twalking | 2019-06-08 15:44 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 隅田川 岩淵~王子01-豊島(1)   

日時 2019.5.30(木)
天気 晴れ


志茂まで来たので、隅田川を下ってみました。
川沿いにも道はありますが、堤防で景観は望めません。
橋から見ることにし、古刹を中心に訪ねました。

岩淵、志茂、神谷と右岸に集落が点在し、それを
繋ぐ道が残っています。豊島は往時の中心地、
豊島清光由来の古刹清光寺があり、訪ねて見たかった所です。



・・・岩淵/北区

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隅田川の風景① 荒川(旧荒川放水路)の分岐点、赤門の右手が青門です/岩淵水門

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岩淵水門
北区志茂において現在の荒川と隅田川とを仕切る水門。かつて「荒川放水路」と呼ばれた人工河川を現在は荒川と呼び、かつての荒川を「隅田川」と呼ぶ。この水門はこれらの分岐点にある。新旧2つの水門がある。旧水門の通称は赤水門、新水門の通称は青水門。赤水門は1924年(大正13年)に竣工しすでに運用を終了した。青水門は1982年(昭和57年)竣工し運用中である。(Wikipedia

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赤門                          青門

岩淵水門(荒川知水博物館)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27574102/

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新河岸川
昔の新河岸川は川越郊外の伊佐沼を水源とし、荒川とほぼ並行に流れて新倉(埼玉県和光市)で荒川と合流していたため、北区内を流れる川ではありませんでした。明治末から大正初めにかけて荒川大改修が行われると、新河岸川の改修の声もあがりましたが沿岸の問屋衆の「改修すると舟運が衰退する」という理由による反対で、改修工事は見送られました。新河岸川は「九十九まがり」と言われるほど屈曲部が多く、洪水の原因にもなっていたため、結局、大正9から昭和6にかけて改修工事が行われました。この工事により、新倉で荒川に合流していた流路を切り離し、板橋区の北辺を通り北区に入って浮間・赤羽北・赤羽地内を流れ、岩淵水門付近隅田川に合流する新水路が開削されました。この新水路が現在の新河岸川となっており人工の川であるため「新河岸運河」とも呼ばれていました。(北区を流れる河川/北区HP)

鎌倉道-岩淵の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27569378/



・・・志茂

『武蔵田園簿』による村高は415石余であるが江戸期を通じた新田開発の結果、天保郷帳による村高は846石余に及んだ。小名に上・下・大荒久などがあった。正保期に天領となりその後小石川伝通院・浅草幡随院・谷中南泉寺等にも分け与えられた。代官手代の八官七兵衛により荒川沿岸の新田開発が行われ、1675年(延宝3年)八官新田と号した。また、荒川対岸の岩淵宿内に梛野原新田が飛地として存在した。(Wikipedia


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街道の風景① 熊野神社から志茂駅への旧道風景です/西蓮寺付近

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庚申堂                板橋戸の子育地蔵尊

鎌倉道-志茂の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27630959/



・・・神谷

北は志茂、西は赤羽南および東十条、南は東十条および王子とそして東は隅田川を挟んで足立区新田と接している。隅田川沿岸低地に位置しており、目立った坂道はなくほぼ平坦である。以前は工場が隅田川沿いの土地を占めていたが、現在では1社を除いて撤退し跡地には警察署や商業施設、企業の流通拠点が入っている。元々「かみや」ではなく「かにわ(は)」と呼ばれる地域だった。旗本文書には「賀仁和村」「加仁波之郷」と表記されており、江戸時代には「神谷」で「かにわ」と読ませることが多かった。隅田川あるいは荒川で蟹が捕れたことから蟹庭(かにわ)と呼ばれていたというのが通説である。(Wikipedia

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街道の風景② 直進が王子、環七を右折が東十条、左折が新神谷橋になります/宮堀

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専福寺/神谷 真言宗智山派、豊島八十八ヶ所霊場39番札所です

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自性院/神谷 真言宗智山派、豊島八十八ヶ所霊場40番札所です

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隅田川の風景② 上流側の景観、堤防沿いにもこれますが川は見えません、岩淵水門から堤防上を行くといいかもしれません/新神谷橋(環七)

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隅田川の風景③ 下流側の景観、右岸右手の公園辺りが「宮越の渡し」でしょうか/新神谷橋(環七)

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新神谷橋
足立区の隅田川にかかる環状七号(都道318号・環七通り)の橋(水道道路併用橋)である。橋長153.0m、3径間の鋼鈑桁橋の1等橋(TL-20)である。橋の右岸側には延長139.1mで幅員10.0m、左岸側は延長444.3mで幅員10.0mの取り付け道路を有している。岩淵水門の管理橋を別とすれば隅田川最上流の橋となる。もともと「宮堀の渡し(神谷の渡し)」があったところである。(Wikipedia

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宮堀の渡し(現在工事中)
神谷の渡し」とも称された。現在の新神谷橋付近にあったもので、江戸期においては主に西新井大師への参拝客や荒川堤への花見客などを乗せていたようである。1924(大正13年)6月に荒川放水路が開削されると、一帯は放水路と隅田川にはさまれて中州のように孤立した地域となったために野新田の渡しと共に整備が進んだ。1962年(昭和37年)に新神谷橋の架設工事が着工され, 1965年(昭和40年)に片側車線が開通することになり、宮堀の渡しはその役目を終え、昭和35の冬に廃止された。北区の宮堀児童遊園内に案内板が設置され、王子神谷駅付近の北本通り沿いの「産業考古学探索路」碑においても記載が残る。(Wikipedia

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新田(左岸)
足立区の西部最西端に位置し、周囲を荒川と隅田川に囲まれている。江戸時代中期にこの区域の近辺に開拓が入って「鹿浜新田」が成立しこれが現在の新田につながっている。古くからこの区域は野新田(やしんでん)と呼ばれていた。鹿浜新田は正保から元禄の間に武蔵国吉見の庄左衛門・三郎兵衛らによって開拓されたと伝えられている。武蔵国吉見から材木を筏にして荒川(現隅田川)を利用して江戸に運搬していたが、途中の休憩場所として新田が使われていた。現在の新田は旧来の鹿浜新田以外にも、荒川放水路の開削によって分断された鹿島の一部区域(字が道明塚耕地・萱野耕地・仲道耕地・古道耕地の地域で、足立区成立時に南鹿浜町とされる)と堀之内の一部区域(字が堤外一-四の地域で、足立区成立時に南堀内町とされ後に南堀之内町となる)に加えて、沼田の飛地だった地域(字川端耕地、足立区成立時に沼田川端町とされる)を含んでいる。(Wikipedia


・・・豊島


北区の俗に言う「天狗の鼻」の部分にあたる。王子・神谷・堀船、足立区新田・宮城と隣接する。町内には荒川、隅田川が流れる。武蔵国豊島郡中心部であった地であり、平安時代頃より当時この地を治めていた豊島氏発祥の地とされている。現在の豊島七丁目の清光寺には豊島氏の武将の一人である豊島清元がある。 1871年(明治4年)に浦和県(現埼玉県)から東京府に編入された。1889年(明治22年)の町村制施行時点では北豊島郡王子村大字豊島であった。大字の時代の小字には砂田、勢至前(せしまえ)、西、馬場(ばんば)、中豊島、須賀(すか)、宮ノ前、原、下道(しもみち)、領家、築地(つきじ、築紫とも)、飛地(とびち)があった。(Wikipedia

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街道の風景③ 手前を右折すると新田橋、先が清光寺になります/神谷橋庚申通り

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豊島馬場遺跡/馬場遺跡公園(豊島)


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豊島馬場遺跡
豊島馬場遺跡は古墳時代はじまりの頃(およそ1700年前)に隅田川(旧荒川)沿いに人々が残した遺跡です。平成3年(1991)から約6年間に及び発掘調査で、壺や甕などのおびただしい数の土器や沓、鍬、舟のミニチュアなどの木製品が発見されました。なかでも日本最古のガラス小玉鋳型はガラス製品の製作技術などを考えるうえで貴重な出土品です。こうした遺物を使い豊穣や繁栄などを祈る祭が行われていたとみられます。(北区教育委員会)

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豊島馬場遺跡公園
豊島馬場遺跡公園はその名前のとおり遺跡でもあります。畿内で大きな前方後円墳が作られた古墳時代の始め頃、北区の隅田川沿い方形周溝墓群が作られました。それが豊島馬場遺跡で日本フェルトの工場跡地から発見されたものです。100基以上もの古墳時代前期の方形周溝墓が確認されています。おそらく高台全体にある集落の共同墓地のようなものであったと考えられています。方形周溝墓の数基からは日本最古のガラス小玉鋳型が出土しています。このことからここへ葬られた人たちがガラス小玉の製作に携わっていたことが分かります。子供たちが走り回れるくらいの比較的広い広場もあり、隅田川のすぐ側にあるので見晴らしのよい気持ちのいい公園です。(歩きたくなるまち北区)

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豊八稲荷大明神/豊島8丁目会館
御祭神は旧地主下川よし氏が明治43年(19104月京都伏見稲荷神社に勧請し倉髙稲荷大明神の称号を承け丑寅の方位に社殿を奉献鎮座す。家内安全商売繁盛の願意極めて霊験灼かにして特に子育稲荷として信仰厚く、毎年初午の前夜には町中の子供が社前に集まり焚火を囲んで太鼓を打ち鳴らし夜を徹して宵宮の祭事を奉納した時代が昭和の初期迠続いていた。終戦後町会が維持管理を継承し昭和39年(196410月青少年センターを建設するに当り称号を豊八稲荷大明神と改め現在地に移築遷座す。その後地盤沈下の影響により境内の損傷甚だしく此のたび町内有志相図り浄財を集めて社殿を新築し荘厳な神域を竣工す。鳥居及び石碑は前町会長下川喜太郎氏の寄進によるものである。町会の守護神として豊八稲荷大明神の御加護により町内各位の繁栄を祈念し筆を措く。豊島八丁目町会13代目町会長・長島新太郎謹書。
(由緒説明板)

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隅田川の風景④ 右岸の右手が清光寺になります/新田橋

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新田橋(しんでんばし)
北岸は足立区新田(しんでん)3丁目、南岸は北区豊島8丁目。橋名は足立区の地名にちなむ。もともと「野新田の渡し・やしんでん」(馬場の渡しとも)という農業渡船があり、荒川放水路開削に伴って中洲状孤立した付近の交通路として利用されていた。1939(昭和14年)に最初の木橋が木造下路ハウトラス橋として架けられた後、トラス部分の改装を経て1961(昭和36年)に現在の橋に架け替えられた。珍しいA字型をした橋脚は木橋時代の橋脚を模したものである。橋長:114.0m 幅員:9.0m 形式:5径間単純鋼桁橋 竣工:1961年(昭和36年)(Wikipedia

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清光寺参道/豊島


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清光寺
清光寺は医王山と号し新義真言宗に属する寺院です。「新篇式武蔵風土記稿」はこの寺は豊島清光開基で寺号もそのによること、小田原衆所領役帳(永禄2年〔1559〕)に島津孫四郎知行十四貫文豊島の内清光寺分とあって当時大寺であったと推定されること、本尊の不動明王は行基の作で豊島の七仏の一つであること、境内に正安3年(1301)、文治2年(1186)、文明元年(1469)、永福5年(不明〔私年号〕)の4古碑があることを伝えています。

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また、ある旧家に伝わるこの寺の縁起(豊島重源の作、元和4年・1618)によれば、山号は常康山、保元2年・1157豊島康家(清光の父)の開基で七堂伽合い藍が建立されたこと、實正年中14601465)、応仁年中(14671468)山賊悪徒等により寺宝・寺領などを掠奪されて寺が荒廃したこと、文明91477)豊島泰経と大田道灌との戦いに際しこの寺の衆僧も共に戦ったが豊島勢の敗北とともに寺も没落してしまったこと、天正151546)府河城主・豊島頼継(泰経の孫)が中興開基したが、永禄6年(1563)上杉等の残党が府河城を攻めた際、豊島にも押寄せて放火したため再び焼失したこと、この後豊島明重が再興したということです。

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この寺には豊島清光木像が安置されています。この銘によれば寛保21742)の作で、願主は祐具、施主は長谷川弥兵衛とあり、祐具は当時清光寺内にあった釈迦堂住僧であろうといわれ、長谷川弥兵衛は新田村(現足立区新田)の豪農であったということです。豊島清光はその子・葛西清重らとともに源頼朝幕府創業に参加し、豊島氏一族のなかでもっとも名の知られた人で「吾妻鏡」などにもその名が見えます。また、この地に豊島氏の居館があり、その持仏堂が清光寺であったという説や「続日本記」「延喜式」などに見える豊島駅がこの地にあったという説もあります。なお、この寺は豊島清光が家庭的に不幸であったため菩提寺として建立したという説もあります。(北区教育委員会)(写真:豊島清光供養塔)

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木造豊島清光坐像/説明板
清光寺は平安時代末期から鎌倉時代初期豊島郡を中心に活躍した豪族豊島康家・清光が開基した寺院と伝えられ、江戸時代に制作された豊島清光の坐像が安置されています。檜材を使った寄木造りで目には水晶の玉眼が嵌められ、全体に彩色が施されています。像の姿は剃髪して衣と袈裟を着けた合掌姿の座像です。襟の高さが頭頂にまでおよぶ立襟をつけていますが、これは僧綱襟(そうごうえり)といい、僧侶としての高い地位を示しています。像の胎内には「奉造立御影 寛保二戌龍集十月十六日 願主釈迦堂祐貞 施主新田長谷川彌右衛門」との墨書があり、寛保217421016日 清光寺釈迦堂の祐貞という僧侶が願主となり、檀家で鹿浜新田(足立区新田3丁目)の長谷川弥右衛門が施主となって造立したことが分ります。豊島清光は源頼朝が鎌倉幕府を樹立する際、子の葛西清重と共に源頼朝の軍に積極的に参陣し、鎌倉幕府の御家人として重用されるに至りました。没年を含めて詳らでない点が多いのですが「六阿弥陀縁起」や「豊島七仏」といった豊島清光に関わる伝説が現在も伝わっています。木像豊島清光座像は豊島清光という人物を偲ばせる現在唯一の肖像であり、清光をめぐる伝承や縁起を考えるうえからも貴重な文化財といえます。(北区教育委員会)

豊島氏・平塚城址跡の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27071692/


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街道の風景④ 紀州通りに出て紀州神社へ、信号を左折すると新豊橋です/新豊橋南

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紀州神社鳥居/豊島

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紀州神社
祭神は現在、五十猛命、大屋津姫命、柧津姫命ですが「新編武蔵風土記稿」にはこのほかに須佐之男命の名が記されています。元亨年中1321-24)紀州熊野の鈴木重尚が王子村にきて豊島氏とはかり、紀州五十太祗神社を同村に勧請したのに始まり、天正年中1573-92)豊島村と王子村との間に争論が起こった際、豊島村の産土神を王子村に置くのは本意ではないと小名・宮ノ前に移し、更に小名馬場に移し、後に現在地に移したものといわれます(新編武蔵風土記稿)ここでいう豊島氏は豊島景村のことと推定されます。(北区文化財案内)

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江戸名所図会 紀州明神社 清光寺 若宮八幡宮 豊島川地蔵堂 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
左上が清光寺、中央が紀州明神社でしょうか

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隅田川の風景⑤ 下流は「天狗の鼻」と言われる所、大きく蛇行しています/新豊橋

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新豊橋(しんとよはし)
隅田川にかかる橋。北岸は足立区新田(しんでん)、南岸は北区豊島。橋名は両岸の地名にちなむ。 2007年(平成19年)に開通、供用開始した。橋長:105.0m 支間:102.7m 幅員:車道9.0m + 歩道3.75m×2(両側) 構造:単純箱桁・アーチ複合橋(Wikipedia

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志茂周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照

# by Twalking | 2019-06-08 11:26 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 栗の花   

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八王子市鹿島
大栗川の河岸段丘の一画の栗林に
栗の花が風にそよいでいました。
柔らかなブラシのような穂状の白い花です。


クリ
(栗)
ブナ科クリ属の木の一種。落葉性高木で高さ17m、幹の直径は80cm、あるいはそれ以上になる。樹皮は灰色で厚く、縦に深い裂け目を生じる。葉楕円形か長楕円状披針形、やや薄くてぱりぱりしている。雌雄異花でいずれも5月から6月に開花する。雄花は穂状で斜めに立ち上がり、全体にクリーム色を帯びた白で、個々の花は小さいものの、白い花穂が束になって咲くので葉の緑を背景によく目立つ。香りも強く、あたり一帯に漂う。(Wikipedia


# by Twalking | 2019-06-06 17:05 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-志茂熊野神社   

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阿形

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吽形

志茂熊野神社/北区志茂
うぅぅ~、立ち合いが勝負。
阿吽とも獅子山に子獅子がいます。
平成11年に置き換えたものですが、
なかなかユーモラスでいいですね。

志茂熊野神社の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27630959/

# by Twalking | 2019-06-05 22:40 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ユリ   

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多摩市愛宕
黄色のユリさん、鮮やかなこと。
パット気持ちが明るくなりますね・・・、
ありがとう~!


ユリ(百合)
ユリ科ユリ属の総称。北半球の温帯を中心に約100種あり、日本には15種が自生。観賞用に栽培されるものも多く、また多数の園芸品種が作出されている。多年生で地下には鱗茎があり茎は直立する。葉は線状披針形で互生しときに輪生。花はふつう大型で漏斗状または鐘形、花色は白、淡紅、紅、黄などさまざま。花被片6枚、おしべは6本で、葯(やく)は花糸にT字状につく。ユリはふつうテッポウユリ類(テッポウユリ、ササユリなど)、ヤマユリ類(ヤマユリなど)、スカシユリ類(スカシユリ、ヒメユリなど)、カノコユリ類(カノコユリ、オニユリ、クルマユリ、タケシマユリなど)の四つに大別される。(コトバンク)


# by Twalking | 2019-06-04 22:19 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(西回り)(3)西板橋~岩淵02-赤羽台   

日時 2019.5.30(木)
天気 晴れ


北区に入ると大きな団地群になります。
街道の面影はありませんが、この一帯は古墳があり、
また、緑道に「軍都・赤羽」の歴史が垣間見れます。

基本的には平坦な台地ですが所々にスリバチ地形が
見られ、地形的には面白いと思います。
宝幢院前で東回りとの合流を確認し、志茂へ寄ってみました。



・・・桐が丘/北区


北区の北西部に位置し、北は赤羽北、東は赤羽台、南は赤羽西、西は板橋区小豆沢と接している。桐ヶ丘の大半に都営住宅が建設されており「マンモス団地」の様相を呈している(Wikipedia

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街道の風景① 北区に入ります、環七先で消えた道はここに出てくるようです/赤羽西

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直進が「板橋街道」のようです     福寿通り都道445号)に合流します

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広稲荷鳥居/桐が丘

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末廣稲荷大明神の歴史
末廣稲荷大明神は明治中期の頃より旧陸軍の用地であった当地に鎮座され、火薬庫の火防稲荷として敬われ、戦後引揚者、戦災者の皆さんが寮として改造された赤羽郷に入居、愈々住民が敬神の念を集めて毎年春、秋2回有志の人達が祭事を行っており、たまたま都の住宅局の用地計画に伴いその境内を狭められました。昭和489月都議会議員のあびこ清水先生のご協力を得て、都から助成金を頂き当時E地区自治会や地元の皆さんのご協力に依り現在の地に鎮座されました。(石碑文)

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街道の風景② 改良された道ですが緩やかに上っています/福寿通り

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富士見坂標柱             団地群/善徳寺前

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富士見坂
この坂を富士見坂という。このあたり昔は人家のない台地で、富士山の眺望がよかったところからこの名がついた。江戸時代の「遊暦雑記」には『左右只渺茫(ただびょうぼう)たる高みの耕地にして折しも夕陽西にかたぶきぬれば全景の芙嶽を程近く見る、比景望又いうべき様なし』と記されている。かつてこの近くに周囲500余mといわれる大塚古墳(円墳)があったがいまは見られない。(案内板)(写真:案内版にある大塚古墳のスケッチですが、古墳の詳細は分りません)

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大恩寺山門/赤羽西

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大恩寺
寛永61629)に現在の文京区向丘に創建されましたが、関東大震災による被害のため大正145月、現在の場所に移りました。境内は石造りを基調として屋内に墓所を設けるなど整然とした造りの都市型寺院です。中国の自然石で作られた三十三観音、山門の仁王像、自動車供養ができる人動車観音、日本最大の木彫水子観音や琵琶を持った美しいブロンズ製の弁財天など数多くの仏像がきれいにまつられています。北区景観百選にも選定されています。(歩きたくなるまち-北区)

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善徳寺山門/赤羽西

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善徳寺
善徳寺は関東大震災のあと浅草よりこの地に移転してきました。この寺には「お竹如来」の墓があります。この墓は江戸大伝馬町の佐久間家のお屋敷にいた「お竹さん」という女中さんを供養したものです。「お竹さん」は大変情に厚い人で人々から「生き仏様」といわれていました。

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ある日、一人の行者が夢のお告げを受けて「生身の大日如来にあいたい」とお竹さんのもとを訪ね拝んだところ、お竹さんから後光がさしました。佐久間家ではお竹さんに庵を造り庵主にすえました。徳川五代将軍綱吉の母がこの話に感動し女性の鑑(かがみ)としてほめたたえたということです。また、江戸時代、御伝馬役を代々引き継いだ馬込家の墓もあります。(歩きたくなるまち-北区)

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馬込家墓
善徳寺の墓域内には江戸時代、大伝馬町御伝馬役名主として活躍した馬込家の墓があります。御伝馬役とは江戸伝馬役と呼ばれるもので、大小の伝馬町と南伝馬町・四谷伝馬町が5街道と江戸府内近郊へ人馬を継ぎ立てる夫役をいいます。町名主の馬込家は代々この運営にあたりました。また、他の町で同様の役職にあたる名主家とともに名字・帯刀を許可され、町名主の筆頭として年頭に将軍の御目見が許されていました。馬込家は遠江国敷地郡馬込村(浜松市)の出身といわれ、本名を平八、当主になると勘解由と称していました。馬込という家名は元和元年(16155月、大坂落城の後、浜松宿馬込橋まで徳川家康を迎えた時500人の人足を引き連れて迎えたことを喜んだ家康から与えられたと伝えています。最初、菩提寺は増上寺でしたが、その後、増上寺開山聖聡の弟子の楽誉聡林が開基した善徳寺の檀家となりました。墓地は善徳寺が数度の火災を受けて、日本橋馬喰町・浅草松葉町へと移転したのに伴って移されましたが、関東大震災によって罹災したため昭和219274月に赤羽へ移転した善徳寺とともに現在地へと移りました。(北区教育委員会)

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街道の風景③ 地元では「トロッコ道」と呼んでいるそうですが、貨物線跡の緑道です/赤羽緑道公園

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赤羽緑道公園
赤羽駅西口方面から赤羽自然観察公園方面へと続く細長い公園です。廃線となった軍用貨物の線路跡を利用して作られました。線路にちなみ赤羽保健所通りに架かる橋の欄干には車輪のデザインがほどこされています。(北区HP)

貨物線(
陸軍兵器補給廠専用線)
軍用貨物を赤羽駅に運ぶための貨物線があった。現在、赤羽自然観察公園から赤羽駅の近くまでの間は、赤羽緑道公園として、線路の柄のタイルを敷き詰めて維持されている。(Wikipedia

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東京兵器補給廠(TOD
東京都北部(北区・板橋区)の板橋・十条・王子・赤羽近辺のアメリカ軍によって接収された旧軍用地である。東京兵器補給廠地区及び東京造兵廠地区、また各地区はさらに複数の地区に分かれる。東京兵器補給廠地区は1958陸上自衛隊十条駐屯地に、東京造兵廠地区は1971年に返還された。TOD 3地区:赤羽ハイツ(米軍住宅)が設置された。戦前の陸軍被服本返還後、公団赤羽台団地、赤羽台中学校、赤羽台西小、赤羽台東小となった。(Wikipedia


・・・赤羽台


北区の北西部に位置する。北で赤羽北、東で赤羽、南で赤羽西、西で桐ヶ丘と接する。北区北部を流れる新河岸川の河岸段丘上に位置しており、町域の北部と南部とで高低差がある。東辺をJRの鉄道路線が南北に走り、赤羽台三・四丁目付近で宇都宮線・高崎線・京浜東北線と埼京線・上越・東北新幹線の路線が分岐している(Wikipedia


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街道の風景④ バス通りは八幡神社へ出ますので、信号を右折し団地内道路へ向かいます

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法善寺山門/赤羽台

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法善寺
浄土真宗東本願寺派赤羽山法善寺。法善寺の由来は佐々木六角刑部少輔久綱3世の孫・野村越中守高勝の2男・次郎高就慶長41599)に三河の国の真宗有力寺院であった佐々木上宮寺の弟子となり了賢と称し、同14年江戸に出府し法善寺の前身寛慶山常福寺を建立したことに始まる。寛永10年(1633)には了賢師の嫡子浄賢師が本願寺より法善寺の寺号を授かり神田に寺所を定める。明暦31657)通称ふりそで大火で類焼。同じく類焼した神田明神下にあった本願寺別院が幕府より浅草の土地を寄進され再建されたのに伴い同敷地内に法善寺を移転。明和9年類焼。文化3年類焼。文化9年(1812)大火災を避けるため本願寺から離れ寺所を浅草清島町(現東上野6丁目、龍飛山法善寺の現在地)に移転する。

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16世理賢師(当山開基)の時、東京市(当時)の市区改正計画のため浅草からの移転を余儀なくされ大正10年(1921)に赤羽に土地を求めた(現北中学校の一部)ところ、同12年の関東大震災で市区改正計画は変更され浅草法善寺はその地に残ることとなる。赤羽の寺所は昭和3年(1928)に陸軍弾薬庫の拡張のため陸軍被服廠の土地であった現在地に再度移転。仮本堂を設け赤羽法善寺が始まる。昭和34年真宗大谷派に加盟。昭和47年現本堂落成。昭和58年真宗大谷派から独立。昭和63年東京本願寺を本寺とする浄土真宗東本願寺派設立に伴い同派に加盟。現在に至る。(境内掲示板)

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街道の風景⑤ 赤羽団地内に「道合遺跡」の説明板があります

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道合遺跡
ここは平成191月から平成205月までの期間、既存棟物解体と平行して下図の全面発掘調査が行われました。「道合」の由来はこの場所の旧い小字名にちなんだものです。周辺にはこの遺跡以外にも「赤羽上ノ台」「ミタマ古墳」「天王塚古墳」「大六天」の遺跡があります。(写真:道合遺跡各時代の住居跡分布)

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縄文時代
前期前半(約6000年前)の住居跡10がみつかりました。覆土中の貝層ブロック、陥穴土杭(おとしあなどこう)、墓墳(ぼこう)等があります。遺物は早期~後期の土器・石器が出土、前期が主体です。(写真:縄文時代の前期貝塚)


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弥生時代
本遺構の主体となる時期です。後期~後半(約1800年前)の集落で、148住居跡がみつかっています。中葉期では楕円形で67mの大形のものと34m小形のものがあります。後半では偶丸方形で34mのものが主体となります。(写真:弥生時代の住居跡)

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古墳時代
後期(約1500年前)の住居跡が調査区東側に6みつかっています。住居跡は正方形で北側にカマド、南側に張り出しの貯蔵穴があります。一辺8mの大形のものが3軒みつかっています。遺物は貯蔵庵穴を中心に須恵器、土師器が出土しています。(写真:古墳時代の住居跡)

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街道の風景⑥ うつり坂を赤羽へ下ります、左手は東洋大赤羽台Cです

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うつり坂
赤羽台東小学校の北にあるこの坂は旧板橋街道の坂道の一つです。大正8(1919)旧陸軍被服本廠(ほんしょう)が赤羽に移転すると、被服本廠通用門への坂となり、関係者以外の通行は出来なくなってしまいましたが、戦後、被服本廠の跡地に赤羽台団地が出来たため、元の坂道となりました。かつて坂の上には道祖神(どうそじん)、庚申塔(こうしんとう)がありましたが、現在は団地内に移され、祀られています。(標柱)

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坂下の庚申堂              JRを潜ります

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街道の風景⑦宝幢院(ほうどういん)門前で中道・東回りと合流し、岩淵宿へ向かいます/赤羽

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宝幢院前の道標
門に向かって右側の道標は江戸時代の中期、元文5174012月に了運という僧侶によって造立されたものです。宝幢院の前は板橋道日光・岩槻道と合流する位置でしたので、銘文には「東 川口善光寺道日光岩槻道」・「西 西国富士道板橋道」・「南江戸道」と刻まれています。日光・岩槻道は岩淵宿から川口へと船で渡り鳩ヶ谷・大門・岩槻の宿場をへて幸手宿で日光街道に合流する道筋です。江戸幕府の歴代将軍が徳川家康・家光のある日光に社参するための専用の道としたので日光御成道とも呼ばれました。板橋道は西国へと向かう中山道や八王子から富士山北麓の登山口へと向かう富士道へ通じていました。道標は各々の方向からきた人々がまず自分の歩いてきた道を確認し、つぎにこれから訪ねようとする土地への道が、どの道なのかということを確認できるように造られたものです。(北区教育委員会)

鎌倉道中道(東)-岩淵の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27569378/


・・・志茂/北区

北区の北東部北東端にあたり隅田川西岸低地に位置する。町域北部に岩淵水門がありその付近で荒川から隅田川が分流し、また新河岸川が隅田川に合流する。町域の北は東京都・埼玉県境をなし、東は隅田川が北区・足立区の区境をなす。江戸時代は豊島郡岩淵領下村。(Wikipedia

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街道の風景⑧ 前回寄れなかったので、岩淵から隅田川沿いに志茂へ行ってみました/熊野神社前

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熊野神社鳥居/志茂

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熊野神社
御祭神:伊邪那岐神(いざなぎのかみ)伊邪那美神(いざなみのかみ)事解之男神(ことさかのおのかみ)
当社の創建については明らかではありませんが、別当寺である西蓮寺鐘銘に「正和壬子年八月先師淳慶阿闍梨従紀州奉勤請熊野三社権現為郷鎮守」とした旨が彫られています。当時の西蓮寺住職・淳慶阿闍梨(じゅんけいあじゃり)が紀州(和歌山県及び三重県の一部)より熊野三社権現を勧請して正和元年1312年)8月に下村(現在の志茂)の鎮守としたと記されています。

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毎年27日には全国でも珍しい白酒祭りが行われます。なお、現在の社殿は明治百年記念事業として昭和43年に改築竣工したものです。(末社)阿夫利神社 御祭神:大山津見神 (おおやまつみのかみ) 浅間神社 御祭神:木花之佐久夜毘賣神 (このはなのさくやびめのかみ) 大六天神社 御祭神:於母陀流神 (おもだるのかみ) 十二社神社 御祭神:速玉之男神 (はやたまのおのかみ)(境内掲示板)

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阿夫利神社社殿(熊野神社旧本殿)
今では阿夫利神社社として多くの人が参拝に訪れるこの社殿は、元は熊野神社本殿として使われていたものです。熊野神社は正和元年(1212)に和歌山の熊野からこの地に熊野三社権現を勧請したことが創建と伝わっています。昭和43(1968)に熊野神社の社殿が建て替えられる際に、本殿の社をここに移したもので、現在、この社殿には阿夫利神社の他、浅間神社・大六天神社・十二社神社が併せて祀られています。社殿の建築材には年輪の詰んだ良質の檜と欅とが用いられ、蟇股(かえるまた)や木鼻など、部材の各所の彫刻には江戸時代後期の様式の特徴もみられます。高欄の擬宝珠金物に「文政五年壬午歳五月」の印刻も確認できることから、成熟した規矩術に則って建立された近世社寺建築であることがわかります。

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阿夫利神社の由来は定かではありませんが、元は橋戸子育地蔵の裏手(現志茂三・四丁目の境)に祀られていたものが、昭和に入り熊野神社境内に移されたものです。かつてこの辺りでは、毎年57日に旧下村の若い衆が集まって万垢離あるいは祈祷垢離などと呼ばれる行事行していました。数百本もの御幣をした竹柱(ボンデンまたはボンゼンといわれました)を作り、これを担いで「阿夫利権現六根清浄」と唱えながら荒川で水垢離した後、村内を練り歩き、氏子挿してある御幣を配りました。『北豊島郡神社誌』(昭和六年)より熊野神社 北区有形文化財(北区教育委員会)


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熊野神社の白酒祭
熊野神社境内で行われる「白酒祭」は大きく「鬼」と書かれた的に弓矢を射てその年の厄を払う行事です。もともとは正月7
日の行事として行われていましたが、現在は毎年27日に行われています。祭りの名前はこの行事に合わせて白酒を造り祭礼日にふるまったことに由来します。弓を射るときは最初の一本を捨て矢として、わざと的からはずす慣わしになっています。以前は、行事で使う弓と矢は竹と桃の木で毎年自作し、終わった後に縁起物として持ち帰っていましたが、現在は既成のものを使っています。また、白酒ではなく甘酒などがふるまわれます。(北区の歴史と文化財)


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西蓮寺山門/志茂

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西蓮寺
新義真言宗川口錫杖寺末寺『武州豊島郡岩淵之内下村・・・岩淵之内下村之鎮守熊野権現に而御座候・・・別当西蓮寺本尊太子之御作之阿弥陀尊に毘沙門雲慶之作・・・』(岩淵町郷土誌)これは貞享元年に西蓮寺および下村の名主、年寄、組頭の連名で寺社奉行宛に提出した朱印下附願状の一部です。貞享元年は西暦1684年、5代将軍綱吉が在職していた時にあたります。西蓮寺は真言宗智山派、本尊は聖徳太子作と伝える阿弥陀如来像、ほかに運慶作と伝える毘沙門天像(寺宝)、熊野神社の神体であった三体仏、付近にあって廃寺となった末寺三ヶ寺の本尊が安置されています。廃寺となった末寺は地蔵院、満願寺、観音寺で、本尊はそれぞれ地蔵菩薩、薬師如来、観音菩薩、いずれも下村内にありました(岩淵町郷土誌)この寺の創建年代は不詳ですが、中興第2世長慶の墓碑に文明2928日とありますので(岩淵町郷土誌)それ以前の創建と推定されます。文明2年は西暦1470年、戦国時代のはじめ頃にあたり京都では応仁の大乱が続いていました。境内には十余基の板碑があり、その最古のものは弘安9の銘をもったものです。弘安9年は西暦1286年、鎌倉時代、2度目の蒙古来襲(弘安の役)の5年後にあたります。板碑というのは供養塔の一種です。弘安9年の板碑は前述の満願寺跡にあったものが(岩淵町郷土誌)後、この寺に移されたものです。この寺には文久2年(1862年)寺子屋が開かれました。この寺子屋は明治8年現在男子生徒42名、女子生徒18名で、明治35年明和小学校に合併しました。明和小学校は同37年岩淵尋常高等小学校(現在の岩淵小学校の前身)の下分教場となりました。(北区文化財案内)

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西蓮寺の木造阿弥陀如来坐像
西蓮寺は弘安10(1287)に没した法印淳慶が開基とされる中世期創建の古刹で、阿弥陀如来坐像を本尊として安置しています。阿弥陀如来とは西方極楽浄土にあって往生を願う人々を浄土へと迎え入れる仏です。西蓮寺の木造阿弥陀如来坐像は高さ53.5cm、光背・台座を含めると総高約1.3mです。材質は檜材で本格的な寄木造の工法がとられています。像全体は漆箔仕上げで、頭部は群青彩に塗られ、頭部にある肉髻珠や額にある白毫および玉眼は水晶製のものが嵌め込まれています。像は右足を上にした結跏趺坐の座り方で、両手は衆生を浄土へ迎え入れるための来迎印を結んでいます。均整のとれた体躯や浅く控えめな衣文には平安時代後期の「定朝様」と呼ばれる仏像彫刻の作風がみられますが、引きしまった顔立ちと胸や腹の厚みのある肉取りからは鎌倉時代初期の新しい様式が感じられます。このことから区内でも数少ない鎌倉時代初期に製作されたものといえます。本像は江戸時代と大正時代に修復がなされていましたが、平成8年(1996)に保存のための解体修復が行われ造立当時の姿をよみがえらせています。(北区の歴史と文化財)(写真は門前の石仏群です)


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西蓮寺板碑群
板碑とは石で造られた供養塔の一種で、鎌倉から戦国時化に祖先の追善供養や来世の安穏を願って建立されたものです。西蓮寺には合計11の板碑があり、2基が本堂内に保管され1基が墓地内、残りの8基が本堂の前に並んで建てられています。11基の板碑の内、造立年代のわかるものは5基あり、鎌倉時代2、室町時代3です。最も大きな弘安91286)正月晦日銘阿弥陀一尊種字板碑は、二つに割れてはいますが鎌倉時代の特徴を備えた区内でも二番目に古いものです。もとは旧末寺の満願寺にあったもので、明治8年(187511月西蓮寺に合寺されたときに移されたものと考えられます。この他の板碑も昔から西蓮寺にあったものと、比較的最近付近から移されたものとがあるようです。また、墓地の中にある文明庚子(12年・1480)九月廿八日銘の板碑は、主尊に大日如来の真言と大日経の偈を刻んだもので、当時の住職であった長慶が自分と自分の周囲の人々の来世安穏を願って生前に建てたものです。これらは皆、阿弥陀如来や密教にかかわる信仰を表現しており当時の人々の信仰のあり方の一端を示しています。(北区の歴史と文化財)


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板橋戸の子育地蔵尊/志茂
ここに安置されている四体の石造は向かって右側から①地蔵菩薩石像:江戸時代の元文3(1738)の銘があり下村の人々が建てたものです。②地蔵菩薩石像:同じく元禄13(1700)の銘があり庚申塔として下村の人々が建てたものです。③大霊(りょう:正式表記は旧漢字)権現石像:同じく元禄14(1701)の銘があり修行者が庚申塔として建てたものです。 ④地蔵菩薩石像:銘はありません。現在、志茂銀座商店会が管理しています。

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現在の志茂は江戸時代は下村でした。これは岩淵本宿川下の村の意味といわれています。また、ここは小字志茂に当たりますが、現在の志茂の文字はこの小字の文字をとったものです。土地の人々はここを橋戸と呼んでいます。子育て地蔵尊は向かって右から二番目のものをいう場合と、この4体全部をさす場合とがあります。志茂銀座商店会の道は旧奥州街道で由緒ある道です。土地の人々は子育地蔵尊を守り今日に伝えています。下村の人々は村の安全を願って建て、以来、村の人々は諸々の願い事をしいつの頃からか母親を中心に子育地蔵尊と呼ばれるようになったものと思われます。(北区の歴史と文化財)


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街道の風景⑨ 熊野神社前の道も古い道のようです、ここで122号に合流します/志茂駅付近

北本通り(国道122号)
新荒川大橋からは北本通りと呼ばれ、北区の王子駅前交差点で北東側から明治通りが合流し、終点の西巣鴨交差点まで明治通りとなる。王子駅前から飛鳥山交差点付近までは都電荒川線(東京さくらトラム)との併用軌道区間となる。飛鳥山交差点から終点までの一部は首位高中央環状線との2層構造となっている。終点の西巣鴨交差点では国道17号(白山通り・中山道)と交差し、明治通りは直進していく。(Wikipedia

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赤羽周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照(緑:鎌倉道 赤:
陸軍兵器補給廠専用線跡)

鎌倉道中道(3)01-蓮沼の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27627492/

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鎌倉道中道(西)中板橋~赤羽ルート図(緑:鎌倉道 赤:中山道 紺:石神井川)

# by Twalking | 2019-06-04 19:28 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-轡神社   

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阿形

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吽形

ちょっと破損してますね、
痛々しいけど、形はいいかな・・・。
がんばってね!狛犬さん。

轡神社(くつわじんじゃ)/板橋区仲町
轡神社の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27614727/


# by Twalking | 2019-06-03 20:14 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中板橋駅   

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東上線中板橋駅/板橋区中板橋
乗降は2度目なので少し様子が分かりました。
石神井川が右手から蛇行し流れこの先で横断します。
左方向が旧川越街道の上板橋宿、駅から近いですね。


中板橋駅

板橋区弥生町にある東武東上線の駅である。早朝・夜間と日中の一部の列車を除き多くの普通列車が当駅で待避を行う。(ダイヤ改正より日中時間帯に当駅で通過待避を行う列車は下り毎時2本のみ)。駅舎は池袋寄りの南北に設けられ、駅前の商店街など商業地域は駅東側に広がっている。駅のすぐ北には石神井川が流れており桜並木が美しい。また川越街道上板橋宿の中宿が駅のそばにある。駅名は川越街道の「上板橋宿」にある上板橋駅と中山道の「下板橋宿」にある下板橋駅の中間に位置することから「中板橋駅」と名付けられた。(Wikipedia


# by Twalking | 2019-06-02 19:40 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(西回り)(3)西板橋~岩淵01-蓮沼   

日時 2019.5.30(木)
天気 晴れ


カラッといい風吹いてますが、暑くなりそうです。
東回りとの合流地・赤羽へ向かいます。
ここは明治の地図でも既に道は消えています。

環七と赤羽台を結んで、近い所を歩いてみました。
蓮沼駅付近で中山道と交差し、氷川神社から北へ。
台地上ですが、地形は結構複雑です。
それらしき雰囲気はありますが、どうでしょうか???



・・・中板橋/板橋区


板橋区の南東部に位置する。北端で石神井川に接する。北で石神井川を隔てて二葉町、東で栄町、南で仲町、南西で弥生町、北西で石神井川を隔てて常盤台、西で石神井川を隔てて南常盤台と隣接する。南辺を東武東上線が通じている。主に商業地域で、中板橋駅周辺部を中心に商店街を形成しているが、近年はマンションの建設も進められている。武蔵野台地成増台の高台に属する。石神井川北側の双葉町は川に向かって緩い下り勾配をなしているのに対して、南側の中板橋はほぼ平坦である。(Wikipedia

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街道の風景① 福泉寺に寄ってここからスタートです/山中橋(石神井川)

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福泉寺/中板橋

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福泉寺
宗派は曹洞宗で、自保山福泉寺と号し本尊は釈迦牟尼仏です。即萬慧忍(そくまんえにん)大和尚が寛保年間(174144)に創建したとされますが詳細な沿革は明らかではありません。昭和17(1942)11月に埼玉県坂戸町関間新田より当地に移転して来ました。門前の地蔵堂には延享3(1746)に造立された延命子育地蔵が安置されています。このお地蔵さまは昭和20年代に一時期商店街に移転され、これをきっかけに縁日が始まるなど中板橋の復興にも大きな役割を果たしました。当寺が移転して来る前、この辺りには石神井川の水を利用したプール(遊泉園)があり、その利用者のために夏期には臨時の駅が開設されました。その後 昭和8(1933)に常設となり中板橋駅が誕生しました。(板橋区教育委員会)

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延命子育地蔵
錫杖と寶珠を持ったこの地蔵尊は江戸時代の延享310月に建立され、当時から子授け学問成就等の地蔵尊として親しまれていました。昭和1711月福泉寺移転と共に埼玉県坂戸から中板橋の当寺入口に移設安置されました。以来、近隣の人々から子授け安産育児受験祈願 及び街の繁栄祈願のお地蔵さまとして大いに親しまれ、以前は九の日には縁日が開かれていました。この由緒あるお地蔵様を街の地蔵尊として大切に保存したいと思います。高さ84cm。(説明板)

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石神井川縁を山中橋へ、木陰はいいですね~!/向屋敷橋


・・・双葉町

板橋区の南東部に位置し南端で石神井川と接する。武蔵野台地成増台の高台に属するが、石神井川へ向けておおむね北から南へ緩い下り勾配をなしている。町域の北辺を環七通りが東西に通じている。神社・小学校を除きほぼ全域が住宅地となっている。(Wikipedia

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街道の風景② 振り返ると石神井川へ向かって緩やかな下りです/坂上

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環七を横断/双葉町           この先から旧道は消えています


・・・泉町

板橋区の東部に位置する。北で大原町、東で蓮沼町、南東で清水町、南で宮本、西で前野町と隣接する。
Wikipedia

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街道の風景③ 直線路はないので住宅地の道を繋いで蓮沼駅へ向かいます/富士見町


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場所は分かりにくいですが出井の泉に寄り道、崖線のスリバチ地形になっています/
出井の泉公園

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出井の泉(でいのいずみ)
板橋区泉町24に所在する泉。現在全区間暗渠化されている出井川の最大の水源だった。武蔵野台地成増台の台地に属する。前野町から泉町にかけて形成されている志村地区崖線後背部谷戸地形の東端、頭部分に相当し、首都高速道路の高架橋は谷に沿って建設されている。志村・前野町地域では急峻な高低差が見られるが、当町域では谷が浅くゆるやかな勾配地形をなしていて、谷は中山道に突き当たる部分で台地に吸収される。出井の泉公園付近は窪地で急峻な高低差が見られる。出井の泉は江戸時代には薬師の泉(小豆沢村)、見次の泉(前野村)とともに志村の名泉と呼ばれ、茶の湯や大山詣講道中の禊ぎに用いられた(Wikipedia

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これが流路でしょうか??       首都高に出ました


・・・蓮沼町


板橋区の東部に位置する。北で小豆沢、東で北区西が丘、南で清水町、西で泉町および大原町と隣接する。東辺をもって板橋区-北区境を形成する。町域は狭小で、中小の工場と住宅が混在する。西辺で国道17号(中山道)が南北に通じている。武蔵野台地成増台の高台に属する。(Wikipedia)

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街道の風景④ 首都高沿いから中山道にでました/蓮沼駅

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南蔵院山門/蓮沼町

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南蔵院
真言宗、寶勝山蓮光寺と号する。本尊は十一面観音、弘法大師がお護摩の灰をもってご自作された自像、また行基菩薩作の阿弥陀像と伝えられる各像を安置する。当寺はもと荒川の近く志村坂下に創建され、開基を新井三郎盛久の一族が戦乱を避けてここに土着し建立したという。享保7年(17228代将軍吉宗戸田川(荒川)で鷹狩りを行った時、御膳所と定めた由緒ある寺であるが、度重なる荒川の氾濫のため寺宝の一切を失ってしまった。享保91724)この水禍を避けるため氏神と共に現地丘上に移った。神仏混交の時代、この寺が別当をしていた蓮沼氷川神社を俗に「十度の宮」と呼んでいた。出水の都度流失し社殿が移動した結果の呼称である。その後、隣寺金剛院を合併し現在に至る。(板橋区教育委員会)

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不動堂
当院にお祀りする不動尊はもともとは当院の末寺であり近隣に建っていた「命王山金剛院」の本尊であった。この不動尊は蓮沼村ばかりでなく志村庄をも代表する不動尊であったことから「志村不動尊」と称され、広く人々の参詣を集めていた。昭和21927)にこの金剛院を当院が合併したときに、その御本尊を本堂ごと境内に移築したのが現在の当院の不動堂である。(南蔵院HP)

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地蔵堂
地蔵堂の御本尊は地蔵菩薩でございます。俗に歯の痛みが治る「はいた地蔵」と称されて今なお多くの信仰を集めております。地蔵菩薩は大地にまいた種が成長し収穫できるように、地中に色々なたからものを蔵し人々の役に立ち繁栄できるように、そして死んでいった後の世までも慈悲の手をたれて下さると言う人々を慈しむ心を無限にもっておられます。お地蔵様は生まれた子供を護り、寿命をのばし、若死、病難等を除いて下さるという功徳がお経に説かれております。また、当院の山門内右側にある六体のお地蔵さまは「六地蔵」と申し上げ六種に身をかえて、それぞれ六道の人々を救って下さるお地蔵様たちです。(南蔵院HP)

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南蔵院の庚申地蔵
当像は承応21653)に蓮沼村の庚申講中10人によって建立された板橋区内で現在確認されている203基の庚申塔の中でも2番目に古いものです。庚申信仰は奈良時代に日本に入ってきた中国の道教で説く「三尸(さんし)説」をもとに、仏教や神道、修験道、呪術的な医学などのさまざまな民間信仰や習俗などが融合してできあがったものです。平安時代に貴族の間で流行し、その後室町時代になると本尊を掲げて宗教儀礼を伴う庚申待が行われるようになりました。江戸時代には、庶民に広く普及し庚申塔が数多く造立されました。当像は江戸時代に地蔵が庚申信仰の礼拝対象であったことを示す代表的な例としても貴重です(板橋区HP)

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蓮沼氷川神社T鳥居/蓮沼町

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蓮沼氷川神社
当社は古来蓮沼村の鎮守で御祭神は須佐之男命と奇稲田姫命です。慶長年間1596-1615)に現さいたま市の氷川神社から蓮沼村字前沼(現在の浮間舟渡駅の西側一帯)に勧請されたのが創建と伝えられています。蓮沼村は享保年間1716-1736)に荒川氾濫の被害を受け、高台にある現在地に移動しました。その時に当社も新井三郎衛門が村人とともに、前沼から現在地に移転したといいます。また、当社の別当寺であった南蔵院も同様に移転したと伝えられています。明治7年には村社に指定されました。彼岸前の日曜日に行われる秋祭の際には湯花神楽が奉納されています。(板橋区教育委員会)

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稲荷神社               御嶽神社・榛名神社・阿夫利神社

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街道の風景⑤ 鎌倉道かは分かりませんが、区境へ通じています/氷川神社前

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二俣を左へ              区境に出ました/福寿通り手前

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いたばしまちあるきマップ(赤:歩行ルート 緑:鎌倉道・推定 橙:中山道 紫:板橋道)


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蓮沼町周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照(緑:鎌倉道・推定 橙:中山道・川越街道 青:石神井川)

鎌倉道中道(西)(2)03-上板橋の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27614727/



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資料ファイル

板橋郷

奈良時代にはこの周辺は「武蔵国豊島郡広岡郷」と呼ばれていた。広岡郷は現在の板橋区、練馬区あたりを占めるかなり広大な地域であった。歴史的な地名として平安時代末期にはすでに板橋と呼ばれる地域が武蔵国豊島郡に存在したことがわかっている。『源平盛衰記』によれば1180年(治承4年)源頼朝が下総国から武蔵国に入った際に、滝野川(石神井川)の「松橋」に陣を張ったことが記述されており、長門本『平家物語』では「たきの川いたはし」とされているため、これを板橋区は「板橋」の誤りとしている。しかし、北区ではこれを北区内にある「松橋」だと主張している。また、源義経が兄を追って挙兵した際にも足立郡小川口から板橋を経由している。さらに、戦国時代には上杉謙信が鎌倉街道(現在の東京大仏通り赤塚駅前通り)を進軍した際に通過している。これらのことから、板橋が古くから交通の要所であったことがわかる。板橋村の成立時期は不明だが、江戸時代初期にはすでに上板橋と下板橋村に分けられており、上板橋村が現在の板橋区の南西地域、下板橋村が南東地域に相当する。Wikipedia

鎌倉道中道-滝野川「松橋」の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27555687/


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板橋区
(地形)
武蔵野台地の北端と東京低地の境目にあたり、概ね北部は低地、南部は台地となっている。北で荒川、北西で白子川によって埼玉県と接する。荒川に近い北部では新河岸川が西から東に流れる。南部では石神井川が西から東に横切る。武蔵野台地荒川低地の境をなす崖線(崖地が連なる地形)が小豆沢-志村-中台-西台-赤塚にかけて区の中央部をほぼ東西に貫き、付近は高低差に富み坂道が多く作られている。前野町・中台・西台地区では若木通り尾根筋とする形ですりばち状の谷戸地形が見られ、かつては各所で地下水が湧き出ており薬師の泉(小豆沢3丁目)、出井の泉跡(泉町)などにその名残が見られる。また、見次公園(前野町4丁目)の池は自然の湧水によって形成されたものである。

地質)現在の板橋区に相当する地域はおよそ12万年前の間氷期には海面上昇により海の底にあったと考えられている。武蔵野(成増)礫層の下の東京層と言われる地層から貝化石が発掘されているが、これはおよそ15万年前のものでこの地域が当時海底であったことを物語っている。およそ10万年前から気候の寒冷化により海面が後退、陸地化が起こり武蔵野台地(成増台)の原型が形成された。その当時の武蔵野台地は古荒川や古多摩川、後に古利根川などが流れる氾濫原であったと考えられている。武蔵野(成増)礫層の砂利は当時の川が積み残した川砂利である。その後さらに寒冷化・海面後退が進行したことにより川の流れが氾濫原を掘り下げ、およそ10万年前から氷河期最盛のおよそ2万年前までの間に連続した崖地が形成された。およそ1万年前に氷河期が終わると海面がやや上昇し、崖地の下部では川から運ばれてきた堆積物が今日の荒川・新河岸川沿いの低地を形成。一方、崖地の上部には富士山などから飛来した火山灰(関東ローム層)が堆積し、今日の武蔵野台地辺縁高台地域を形成するに至ったと考えられている。(Wikipedia
(地図:デジタル標高地形図-武蔵野台地赤羽付近/国土地理院)

# by Twalking | 2019-06-02 15:44 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-葛谷御霊神社   

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阿形


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吽形

葛谷御霊神社/新宿区西落合


茂みに隠れちゃったね~・・・、
どっしりて重厚そうに見えますが、
新しいのかな~???

葛谷御霊神社の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27614727/

# by Twalking | 2019-06-01 22:40 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ザクロ   

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多摩市愛宕
咲きだしは撮れなかったけど、
また、咲いたね!
優美で美しいこと、ありがとう。


ザクロ
(石榴、柘榴、若榴)
ミソハギ科ザクロ属の1種の落葉小高木。庭木などの観賞用に栽培されるほか食用になる。葉は対生で楕円形、なめらかで光沢がある。初夏に鮮紅色の花をつける。花は子房下位で、蕚と花弁は6枚、雄蕊は多数ある。果実は花托の発達したもので、球状を呈し秋に熟すと赤く硬い外皮が不規則に裂け、赤く透明な多汁性の果肉の粒が無数に現れる。果肉1粒ずつの中心に種子が存在する。(Wikipedia

# by Twalking | 2019-06-01 14:01 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 京王ライナー   

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多摩センター駅/多摩市落合
お、京王ライナーだ、カッコい~い!
朝は6:29と8:58の2本があります。
急ぐ旅ではないけれど、乗ってみたいですね。


京王ライナー

京王電鉄が20182月より運行している有料座席指定列車である。京王では初の座席指定列車であり長距離区間の利用者の着席ニーズに対応する列車として、平日・土休日の夜間に新宿駅発京王八王子駅及び橋本駅行として、朝方は京王八王子駅及び橋本駅発新宿行として運行される。乗車には座席指定券が必要で座席指定券の料金は一律400円(大人小児同額)である。(Wikipedia


# by Twalking | 2019-05-31 21:50 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ビョウヤナゴ   

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多摩市愛宕
お、男の子!
にょきっと潜望鏡みたいだね・・・。
可愛らしい花ですね。


ビヨウヤナギ(美容柳)

オトギリソウ科の半落葉低木。別名マルバビヨウヤナギ。中国原産。約300年前に日本に渡来した。半常緑性の小低木でよく栽培されている。花期は5-7月頃で、直径5センチ程度の黄色の5枚の花弁のある花を咲かせる。キンシバイにも似るが、特に雄蕊が長く多数あり、よく目立つ。雄蕊の基部は5つの束になっている。葉は十字対生する。枝先がやや垂れ下がり葉がヤナギに似ているので、ビヨウヤナギと呼ばれるが、ヤナギの仲間ではない。Wikipedia


# by Twalking | 2019-05-31 15:41 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 お地蔵さん-上高田   

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鎌倉道/中野区上高田
かきねの かきねの まがりかど たきびだ たきびだおちばたき 
「あたろうか」「あたろうよ」 きたかぜ ぴいぷう ふいている
(作詞:巽聖歌、作曲:渡辺茂 1941・昭和16年)
ケヤキ屋敷と呼ばれるお屋敷の入口にそっと佇む小さなお地蔵さん。
なんと可愛らしいこと、思わず魅せられました。合掌。


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「たきび」の歌発祥の地
今も人々に愛唱されている「たきび」のうた。この童謡の作詩者巽聖歌(たつみせいか:本名:野村七蔵19051973)は岩手県に生まれ、北原白秋に師事した詩人で多くの優れた児童詩を残しました。聖歌はこの詩が作られた昭和56年頃から約13年の間、萬昌院のすぐ近く現在の上高田4丁目に家を借りて住んでいました。朝な夕なにこのあたりを散歩しながら「たきび」のうたの詩情をわかせたといわれています。歳月が流れ、武蔵野の景観が次第に消えていくなかで、けやきの大木がそびえ垣根の続くこの一角は、今もほのかに当時の面影をしのぶことができる場所といえましょう。(中野区教育委員会)



# by Twalking | 2019-05-29 22:30 | ○石像&モニュメント