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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 都電雑司ヶ谷停留場   

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都電雑司ヶ谷駅/豊島区南池袋
道を探していたら駅に出ました。
方向は電車の後方かな~・・・、
折角なので記念に一枚撮っておこっと。


都電雑司ヶ谷停留場
豊島区南池袋三丁目にある都電荒川線(東京さくらトラム)の停車場である。相対式ホーム22線を有する。1925(大正14年)「雑司ヶ谷停留場」として開業、2008年(平成20年)東京メトロ副都心線雑司が谷駅の開業に伴い停留場の名称を「都電雑司ヶ谷」に改称した。Wikipedia

# by Twalking | 2019-04-25 22:23 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(東回り)(4)十条~川口02-岩淵   

日時 2019.4.18(木)
天気 晴れ


赤羽駅は賑わいがありますね~・・・、
ガードを潜り東口から商店街を宝幢院へ、
この門前で中道西回りと合流し岩淵宿に向かいます。

鉄道が出来て赤羽が中心となり、寺社も新しくなって
往時の雰囲気は失われつつありますが、それでも
細路地に面影を求めて歩いてみました。


・・・赤羽

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街道の風景① 道は消えているので東口にでて左折、宝幢院へ向かいます/赤羽

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赤羽駅東口              中道の西回りと合流します/宝幢院前

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太田道灌と稲付城
太田道灌は扇谷上杉家に属した15世紀の武将で、江戸城を築いたことで知られるように優れた築城技術家でした。また、道灌は城取りの名人で、地元豪族の豊島氏との争いでは石神井城練馬城を落城させ、滅亡に追い込みました。稲付城は道灌が岩槻城、川越城と江戸城の連絡のため築城したといわれており、現在では静勝寺の付近に城の跡を偲ぶことができます。静勝寺は道灌の死後、彼の師・雲岡(うんこう)和尚によって城跡に建てられた寺で、かつては道灌寺と号していたといわれ、寺の東側山門奥にある道灌堂には今も道灌の木像がいます。(歴史と文化の散歩道)

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宝幢院山門(ほうどういん)/赤羽


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宝幢院
宝幢院は医王山東光寺と号し真言宗智山派に属する寺院で本尊は薬師如来像です。寛正21461)宥鎮和尚によって開山され、約150年後に深承阿闍梨及び宥意和尚が中興しました。「新編武蔵風土記稿」には慶安2年(1649)に三代将軍家光から赤羽根村内に10石余の年貢・課役免除の朱印を付されたことが記されています。寺伝や浮間の古老の言い伝えによれば、かつてこの寺は浮間村西野(現在の浮間4丁目にほぼ相当)にありましたが、荒川の氾濫による洪水を避けて赤羽移転し、跡地は宝幢院屋敷と呼ばれたそうです。

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境内には区内最古の寛永161639)霜月18日銘の阿弥陀如来線刻庚申塔があります。板碑型の石塔本体正面には阿弥陀如来立像と2猿が線刻され「山王廿一社」の文字を見ることができます。「庚申」という文字が無く、本来は三猿のところがニ猿であるためにこの塔を庚申塔と呼ぶかは議論が分かれますが、区外には庚申信仰山王信仰の結び付きを表した類似のモチーフがあるところから、この塔も両者の信仰が結び付いて造立されたようです。その他に馬持講中(当時馬を飼っていた資力のある村民)の人名を刻んだ馬頭観音塔や、出羽三山供養塔などがありこの地の歴史を知る上で貴重なものとなっています。(北区教育委員会)

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宝幢院前の道標
門に向かって右側の道標は江戸時代の中期、元文5174012月に了運という僧侶によって造立されたものです。宝幢院の前は板橋道日光・岩槻道と合流する位置でしたので、銘文には「東 川口善光寺道日光岩槻道」・「西 西国富士道板橋道」・「南江戸道」と刻まれています。日光・岩槻道は岩淵宿から川口へとで渡り、鳩ヶ谷・大門・岩槻の宿場をへて幸手宿で日光街道に合流する道筋です。江戸幕府の歴代将軍が徳川家康・家光のある日光に社参するための専用の道としたので日光御成道とも呼ばれました。板橋道は西国へと向かう中山道や八王子から富士山北麓の登山口へと向かう富士道へ通じていました。道標は各々の方向からきた人々がまず自分の歩いてきた道を確認し、つぎにこれから訪ねようとする土地への道がどの道なのかということを確認できるように造られたものです。(北区の歴史と文化財)

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街道の風景② 中道(西回り)からの景観、門前で合流し岩淵宿へ向かいます

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環八(赤羽岩淵駅)を横断       右手の旧道を行きます


・・・岩淵(町)

かつて東京府北豊島郡に存在した町の一つ。
岩淵は古くからある地名である。現在の地名では赤羽、赤羽北、赤羽台、赤羽西、赤羽南、岩淵町、浮間、神谷、桐ヶ丘、志茂、西が丘に相当する。室町時代の『小田原衆所領役帳』には「太田新六朗知行江戸岩淵五ヶ村」とあり、すでに岩淵郷が複数に分かれていたことがわかる。五ヶ村の内訳は後の大字、すなわち岩淵宿稲付村赤羽根村袋村下村であろうと考えられている。江戸時代には赤羽の八幡神社がこの五ヶ村の総鎮守であった。また、江戸時代にはこの岩淵から新堀村(現在の荒川区西日暮里)下駒込村(現在の文京区本駒込)のあたりまで広く岩淵領が置かれていた。Wikipedia

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街道の風景③ すぐ右手に大満寺があります/岩淵

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大満寺山門 真言宗智山派のお寺さんです
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本堂                 不動堂

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幸福地蔵(通称手わらじ地蔵)
ここに安置されたいる地蔵菩薩は名前を幸福地蔵といいます。本来地蔵菩薩は菩薩でありながら他の菩薩のように煌びやかな装飾ではなく僧侶本来の姿をしています。菩薩とはお釈迦様の入滅から567千万後の弥勒菩薩が出現するまで、この世で人々の苦しみや悲しみを救済してくださる仏様の事をいいます。その力は六道輪廻の世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)に及びます。ここにいる幸福地蔵は手にわらじを持っております。その理由は我々人間界の一人一人の願い事や祈りをそのわらじに託して、自宅まで届けてくれます。それは常に私達の傍らにいてくれる存在でありたいと思う気持ちの現れです。どうぞ手を合わせてご自由にお祈りください。(案内板)

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街道の風景② 続いて
正光寺、梅王寺があります/正光寺門前

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正光寺
(しょうこうじ)山門

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正光寺
北区岩淵町にある浄土宗の寺院。当寺院の創建は鎌倉時代にまで遡る。良忠上人を開山として石渡民部少輔保親を開基とし創建した。当時、正光寺と隣接していた地に西光寺としてあった。その後衰退し荒廃したが、慶長71602)小田切将監重好と眞譽龍湛上人によって現在の地に寺を移転小田切将監重好法号によって正光寺となった。以来、岩淵町の中心的な寺院となり境内には植木市なども開かれていた。しかし1978年に本堂が焼失。以降再建されずしばらくは空き地のようになっていたが20117月に本堂その他が再建され、現在では本来の姿を取り戻しつつある。なお、寺伝によると本尊の阿弥陀如来は春日仏師の作で、また観音堂にある観音像は源頼朝公守本尊といわれ行基の作であると言われている。Wikipedia

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観音堂
頼朝公守本尊である世継観音をお祀りしております。日の作とも伝えられるこのお像は大変美しい容姿をしておられ、地域の人たちの信仰を集めています。周りには十二支の本地垂迹にあたる諸尊像が8体お祀りされております。(正光寺HP)

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岩淵大観音
昔から岩淵の町は水害に悩まされてきました。明治3、時の住職は人々をなんとか水害から守ってあげられるようにと願いを込め、銅や浄財を募り三丈三尺の正観音を建立したのでした。以来、岩淵大観音は地域の人々を静かに見守り続けています。(正光寺HP)

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梅王寺山門 浄土宗のお寺さんです

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街道の風景④ 一本左側の路地を行ってみました、突き当たりが八雲神社、左折が小山酒造の跡地です

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八雲神社鳥居


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八雲神社
八雲神社は岩槻街道東裏荒川堤防の南側近くに鎮座します。この神社は江戸時代に徳川将軍が日光東照宮に参詣する際に利用した日光御成道の第一の宿場として栄えた岩淵宿鎮守社でした。祭神には須佐之男尊(すさのおのみこと)が祀られています。創建年代は不詳ですが、江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」には『牛頭天王社 宿ノ鎮守トス、正光寺持』とありこれが「テンノウサマ」として親しまれていたことがわかります。また、神仏分離以前には正光寺別当寺でした。明治67月に村社に定められ、それ以来、赤羽八幡神社の兼務社となっています。境内には本殿、幣殿・拝殿、神楽殿、末社水神社が配置されています。

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水神社は舟運業者の信仰を集めた神社です。祠の右側には「寛政十二庚申正月吉日」の年紀が刻まれています。また、勝海舟が荒川で足止めされたときに書いたとされる大幟旗(おおのぼりはた)も所蔵します。現在、本祭は末社水神社の祭礼とともに隔年ごとの6月第一土曜・日曜に行われています。このとき氏子たちによって神輿が巡幸されます。参道の端に「岩淵町 町名存続之碑」があります。昭和375月に「住居表示に関する法律」が公布されると北区も住居表示の変更を進めました。由緒ある岩淵町の名を守るため岩淵町一丁目の住民は町名存続運動を展開しました。この石碑はそのときの記憶を未来へと刻むものです。(北区の歴史と文化財)

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町名存続之碑
『岩淵の歴史は古く、遠く古代社会より交通の要地として発達し、室町時代に宿駅制度が整備され岩淵宿と呼ばれるようになった。然しなんといっても岩淵が宿場町として発達したのは江戸時代であり日光街道の脇街道、つまり岩槻街道が出来てからのことである。特に将軍が日光往来にこの街道を利用したので別名を御成街道と呼ばれた頃である。然し明治になり鉄道が発達するにつれ岩淵宿も衰退の道を歩むようになっていった。だが地方行政が発達してゆく中で岩淵本宿として近隣町村の中心的存在となっていった。こうした時の流れの中で明治、大正と2回に亘り、岩淵を赤羽にしようとするとする行政機関の動きがあったがその都度我が先輩は岩淵の名を守り抜いてきた』(碑文抜粋)

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勝海舟安房守の筆になる八雲神社大幟の修復について
明治憲法は明治222月に発布されほぼ時を同うして町村制が施行された。ここに始めてわが国に民主的な政治と行政の制度が芽ばえたのであった。そこで旧岩渕本宿の先人はこの大典発布によって封建制度から開放されたことを祝福し、これを記念して守護神である八雲神社大幟を奉献したものであろう。しかし、この大幟奉献の計画が岩渕本宿の先人誰れびとによって発起されたかは証明する資料もないので今日に至っても定かではない。思うにその時代にしては日本一とも思はれるジャンボウサイズの幟を奉献した事実はわれわれの先人たちはよほど気宇の大きい、かつ経済的にも豊かな環境にあった人びとだったと推察せきる。またそれよりむしろこの人だちの協和の精神がいかに旺んであったかが想像できてまことにほほえましい限りでもある。さて、どうして勝安房守に筆をとらせたかと言うことであるが、その真実はどう研究してもはっきりしない。おそらく幕臣に身をおきながら明治革命に心血をそそぎ、しかも江戸城あけわたしの西郷との交渉で江戸八百余町の住民を戦災から救った俊傑として、先人脳裡に深くきざみこまれていたためだったと考えられる。

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ただ僅かに先代からの「言い伝え」として残ってゐるのは『当時の海舟の居所赤坂にたずねて岩渕の者だが是非にと頼んだこと』『海舟が一つ返事で引受けてくれたこと』『先人が墨をすりに通ったこと』『海舟がミゴボウキを握って立ちはだかって書かれたこと』そして愈々書きあがってののち『先人が御禮のしるしとして鯉魚を持参したこと』『玄関に立ってゐた海舟がどこでとれた鯉魚かと問はれたこと、先人が地元の荒川でとれたと答えたこと、海舟は急に不気嫌にになって奥へ消えてしまったこと』等々である。考えてみると海舟は維新前後、江戸や京阪を際々往復していたので『そのころ懇意にしてゐた東海道岩渕の人たちと錯覚していたのではなかったろうか』と先人はこのことを後日の物語りとして伝えている。ことの由来はともかくとして勝海舟の真筆になる大幟は世にまれな貴重な文化財ともいうべきであろう。我々氏子はここにこの大幟を八雲神社に奉献した先人の遺志を学び、これを後世に残すことは将来児孫のためにも大きな意義があることだと信じている。以上の趣旨で大幟の修復を発起してまづ氏子中に勝海舟遺墨保存委員会を組織した。そして文部省文化庁の指導のもとに、氏子総代や氏子多数の方々の熱烈な奉仕によってここに修復が完了したわけである。昭和4912月(碑文)


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岩淵宿
岩淵宿は日光御成街道第一の宿駅であり岩淵郷本村である。「元禄の改め」では岩淵本宿と記され「正保の改め」では岩淵町と記されている。明治に入り岩淵本宿町が正式な名称となった。稲付村、赤羽根村、袋村、下村は、元は岩淵郷のうちでありいつ頃分立したかは不明。岩淵宿、稲付村、赤羽根村は江戸時代には寺社領であった。袋村、下村は天領であったが後に天領と寺社領の入会となった。神谷村は旗本領であった。また、岩淵宿、稲付村、赤羽根村、下村は荒川の対岸に持添新田を持っていた。赤羽根村は明治に入り赤羽村に改称された。(Wikipedia)(写真:小山酒造跡地)

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街道の風景⑤ 現在の新河岸川・荒川を渡ります/新荒川大橋

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新河岸川対岸より岩淵宿方向の景観です/赤羽桜堤緑地

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岩淵渡船場跡/赤羽桜堤緑地
この辺りに岩淵宿から荒川を渡り、川口宿に向かうための渡船場(とせんば)がありました。江戸時代、ここが川口宿の飛地であったことから「川口の渡し」とも呼ばれていました。渡船場は奥州との交通上の拠点として古くから利用されており、鎌倉幕府を開いた源頼朝の挙兵に合わせて、弟の義経が奥州から参陣する途中、ここを渡ったといわれています。また室町時代には関所が設けられ、通行料は鎌倉にある社の造営や修理費などに寄進されました。

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江戸時代、ここを通る道は日光御成道と呼ばれる将軍の日光東照宮参詣の専用道として整備されました。渡船場も将軍専用と一般用に分かれており、将軍が参詣のために通行する際は仮橋として船橋が架けられました。船橋は長さ65(117)、幅3(5.4)です。一般の渡船場は人用の船と馬用の船が一艘ずつ用意されていました。渡船の運営は岩淵宿と川口宿が隔日で勤めてきましたが、大名の通行などの際、近隣村で現在の北区内の下村・浮間村、埼玉県戸田市の早瀬村の三ヶ村も勤めることになっていました。また、対岸の河原にある川口善光寺が名所として参詣者で賑わうようになり、開帳中は船橋が架けられたほどだそうです。渡船場は明治以降も利用され、明治38(1905)3月からは常設の船橋が架けられました。しかし交通量が増大するにつれて船橋では対応できなくなり、昭和3(1928)9月少し下流に新荒川大橋が開通すると、その役割を終え船橋は撤去されました。(北区教育委員会)

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岩淵の渡船場周辺図
荒川河川改修以前の明治13年(1880)測量の地図「東京近傍北部」に、渡船船位置や日光御成街道などを加えました。(案内板)

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『名所江戸百景-川口のわたし 善光寺』
歌川広重 安政4年(1875
江戸時代に浮世絵師広重が描いた岩淵の渡船場の光景です。画面手前が岩淵宿側で、柳の木を目指して渡船が近づいてくる様子が描かれています。岸の上には船を待っている人の姿がみえます。対岸の川口側に描かれている朱塗りの建物が善光寺です。(案内板)

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渡船場付近から現在の荒川及び対岸の風景です

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岩淵周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)

鎌倉道中道(東)(4)01-赤羽の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27564826/

# by Twalking | 2019-04-25 19:54 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ハナミズキ   

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多摩市中沢
覗いてもいいわよ~、
わたしが花序なの、
もうすぐ咲くから待っててね~。


ハナミズキ(花水木)

ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属の落葉高木。別名アメリカヤマボウシ。ハナミズキの名はミズキの仲間で花が目立つことに由来する。樹皮は灰黒色、葉は楕円形となっている。花期は4月下旬から5月上旬で白色や薄いピンク色の花をつける。但し、花弁のように見えるのは総苞(ほう・つぼみを包んでいた葉)で中心の塊が花序である。実際の花は4弁の直径5mm程度の目立たない花が集合して順次開花する。秋につける果実は複合果(密集した花序が一つの果実のようになるもの)で、赤い。(Wikipedia


# by Twalking | 2019-04-24 16:16 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-滝野川八幡神社   

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阿形

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吽形

滝野川八幡神社/北区滝野川
よく吠え、よく気張って、
牙をむいていますが、
目パッチリさんで、可愛らいいこと。

滝野川周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/i39/

# by Twalking | 2019-04-23 21:55 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 クレマティス   

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多摩市愛宕
おや、クレマティスさん、
華やかですね~・・・、
いらっしゃ~い!


クレマチス

キンポウゲ科センニンソウ属のこと。クレマチス属ともいう。園芸用語としてはこのセンニンソウ属の蔓性多年草のうち、花が大きく観賞価値の高い品種の総称。修景用のつる植物として人気があり「蔓性植物の女王」と呼ばれている。花弁をもたず花弁のように変化した蕚を持つ点が特徴で、原種は花も小さく花色も限定される。種子(実際は果実)は先端に鞭状の突起がありその表面に多数の綿毛をはやす。葉は三出複葉か二回三出複葉で、つる性のものでは葉柄は他の植物の茎などにやや巻き付き掴むような感じになって茎を固定する。Wikipedia


# by Twalking | 2019-04-23 09:36 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(東回り)(4)十条~川口01-赤羽   

日時 2019.4.18(木)
天気 晴れ


十条台地を下り赤羽、岩淵宿へ向かいます。
右手は武蔵野台地、左手は荒川の低地になりますが、
国土地理院のデジタル地図を見ると複雑な地形です。

旧街道はその台地に沿って通っています。
丘の上には古刹があり、往時の様子が偲ばれます。
なかでも稲付城のあった静勝寺周辺は見応えがあります。
初めての所なのでじっくり見て歩きたいと思います。


・・・中十条


北区の南部に位置する。十条地区の中央部にあたることに由来する。北側は埼京線と京浜東北線に挟まれ三角形の形になっている。宅地が目立つ。(Wikipedia

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街道の風景① 十条台地の旧岩槻街道を北へ向かいます/中十条
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西音寺本堂 真言宗智山派寺院です、工事をされたましたので山門から

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鐘楼                   六面石塔(宝暦2年・1752)

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西園寺眺望図
『東ノ方ヲ望メハ近郷ノ田園ヲ見ワタシ又遠クハ筑波日光ノ山々ヲ望ミテ最佳景ト云ヘシ』(新編武蔵風土記稿)

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八雲神社鳥居/中十条 環七の角にあります

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八雲神社略由緒記
八雲神社は近世には真言宗智山派無量山龍谷院西音寺持ちであった。江戸時代、文化文政期編纂の新編武蔵風土記稿に「牛頭天王社 西音寺持」とある。その後、王子神社末社として旧宿町(中十条二、三、四丁目辺り)の村持ちの神社となったが、現在は「八雲講」組織の管理運営により祭礼が執り行われている。太平洋戦争以前は環状七号線の真ん中辺りにあったが、昭和167年頃現在の地に遷座となる。社地提供の高木家が代々講元を務める。

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八雲神社は牛頭天王・須佐之男尊を祭神とする祗園信仰の神社で、総本社は京都の八坂神社である。社名は須佐之男尊が詠んだ歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」に因む。江戸時代までは牛頭天王社と称していたが明治期の神仏分離令により現社名となる。この地でも昭和14年頃以前はテンノウサマ(天王様)として庶民の崇敬を集めていた。牛頭天王とは日本の神仏習合における神様であり、元々はインドの祇園精舎の守護神であると言われている。疫病避け、病気平癒、また内緒で賽銭をあげると縁が結ばれる縁結びの御利益あり。昔は諸願成就の丑三つ詣りが盛んに行われていた。北区岩淵町にも日光御成道第一の宿場、岩淵宿鎮守社の八雲神社がある。(講中一同)

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街道の風景② 清水坂を西赤羽へ下ります

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清水坂/中十条
十条の台地から稲付の低地に下る岩槻街道(旧日光御成街道)の坂である。昔はけわしく長い坂道だったので十条の長坂などとも呼ばれた。切り通しの崖からはたえず清水が湧き出ていたので清水坂の名が付けられた。現在は崖が削りとられてその跡に児童遊園が設けられているが、そこは貝塚遺跡でもあった。(北区の歴史と文化財)(写真:八幡山児童公園

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日光御成街道と将軍
日光御成街道は王子から岩槻を経て幸手で日光街道と合流する奥州(日光)道中の街道として重要な道でした。将軍の日光社参というのは将軍が417日の家康年回忌などに日光東照宮参詣することですが、その行列はとても華やかだったそうです。しかしその費用は莫大なもので、一度社参すると幕府の財政を圧迫するほどでした。また、将軍社参の年にあたると道中筋では代官の陣頭指揮のもと村民総動員の形で御用を勤めたため、これに対する沿道の名主や村人達の負担も大変なものでした。(歴史と文化の散歩道)絵図:日光御成道と北区の村々(弘化年間絵図)

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若宮八幡神社鳥居 児童公園の上、八幡山に鎮座します

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若宮八幡神社
祭神:誉田別命(ほむたわけのみこと・応神天皇)ここは八幡山と呼ばれております。古老から聞き伝えに依りますと、この八幡神社は享保年間(17161736)に鎌倉の鶴が岡八幡宮から分祀して創建したとのことです。(現存の記録は明治186月が最古のものです。)それで「若宮八幡神社」と言います。以来、地元の有志が代々お祀りをして参りましたが平成8年に新たに「八幡山の会」と云う組織に改め、この神社を「心のふるさと」としてその周辺を含めて護持、整備を行っております。多くの方々にご賛同戴いて当会への入会ご寄附等ご協力下さいますよう御願い申し上げます。平成166月吉日 八幡山の会代表世話人/説明板


・・・赤羽


北区の北部、荒川を隔てて埼玉県に接する地区。江戸時代は赤羽根と記し、この一帯に赤土が多く赤埴(あかはに)といわれたことが地名の由来ともいう。JR京浜東北線から以西は山手台地赤羽台といわれる。以東は荒川右岸の沖積低地で、江戸時代は岩槻街道(日光御成街道)寒村であったが、1887年(明治20)以降台地は軍用地となり工兵隊、被服本廠(ほんしょう)、火薬庫などがあった。現在はJR京浜東北線、埼京線の接点として赤羽駅付近は交通、ショッピングの一中心地をなし赤羽台には住宅団地がある。1991年(平成3)東京メトロ南北線赤羽岩淵(いわぶち)駅開業。(コトバンク)

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街道の風景③ 坂下は赤羽、この辺りに稲付川(暗渠)が流れたいたようです、左に登ると香取神社、法真寺があります/西赤羽

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稲付川(いなづけがわ)
稲付川は北耕地川とも呼ばれた水路で、石神井川の水を分けた潅漑用水でした。石神井川中流にある板橋の根村(現在の板橋区双葉町)の堰で分水されたので根村用水または中用水(なかようすい)とも呼ばれていました。江戸中期4代将軍家綱の時代に開削されたようですが詳しいことはわかっていません。北区内の流路はほとんどが暗渠となり下水溝になってしまいましたが、稲荷台(板橋区)の裾をめぐり、姥ヶ橋(うばがばし:環七通りの交差点名として残っています)をくぐって、現在の梅木小・清水小の脇を流れ、岩槻街道を過ぎたところで細分されて各村に導かれていました。その末はそれぞれ荒川隅田川)に放流されていましたが、現在では北本通り(国道122号)の東側神谷3丁目地内に残っており、隅田川に接続しています。(北区を流れる河川/北区HP)(写真:法真寺題目塔)

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香取神社鳥居/西赤羽

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香取神社本殿
香取神社本殿は境内東側に位置する拝殿の後ろに設けられた本殿覆屋の中に安置されています。朱塗りの三間社流造で屋根は杮葺きです。石の亀腹の上に土台が据えられ、その上に高さ約10尺、奥行約8.3尺の社殿が建てられています。香取神社は経津主神・大山咋神・建御名方神を祭神としています。「新編武蔵風土記稿」には『村の鎮守とす、長二尺六寸許の石を神体となせり』と記述され旧稲付村鎮守でした。稲付村17世紀半ばの郷帳(「武蔵田園簿」)に「御神領」と記され、東叡山寛永寺領に属していました。

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また、当社とも関係の深い法真寺(赤羽西二丁目)の開山證道院日寿は、東照宮の造営にも深く関与した南光坊天海の弟だったとも言われています。このため、香取神社の本殿はこの近辺に暮らす人びとに、上野東照宮本殿(内陣)を移築したものだと古くから信じられています。上野東照宮の本殿とは徳川将軍家が東叡山寛永寺を造営した際に藤堂高虎(津藩初代藩主)が建てたもので、その事業には徳川御三家が協力し寛永4年(1627)に落成したことが知られています。北区台帳登載文化財・有形文化財建造物。(北区教育委員会)

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稲付村の力石
ここにある七つの石はその一つに「さし石」と刻まれている力石です。江戸時代後期から明治時代にかけて稲付村では春の彼岸がすぎるころ少しの間農作業に暇ができましたので、村の鎮守である香取神社の境内に村内の力自慢の若者たちが集まって石の「サシアゲ」などして力くらべをしたといいます。七つある力石のうち五つの石に重さが刻まれています。軽いものでも19貫目(約71kg)重いものでは55貫目(約206kg)もあります。また、六つの石には「小川留五郎」と名前が刻まれています。

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留五郎さんは稲付村一里塚跡付近にある根古屋(ねこや)の小川家の人で、力が強く村相撲の大関を勤めたといいます。石鳥居の脇にある明治39年(1906)五月建立「日露戦役記念碑」の有志者連名中にもその名がみられます。明治40年(1907613日に51歳で亡くなりました。力石は小川家に保管されていましたが、昭和40年(1965)頃に香取神社へ奉納され現在に至っています。力石は鎮守の祭礼などでこれを持ち上げて神意をはかるための石占(いしうら)に用いられ、後には若者たちの力くらべをするための用具ともなっていきました。この力石は往時の稲付村の風俗・習慣を示す貴重な文化財です。(北区教育委員会)

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境内から十条方向の景観です

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法真寺山門/赤羽西

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法真寺
岩槻街道から法真寺に向かう入口には題目塔が建っていて、元禄11年(1698)銘で「伝教大師一刀三礼にて御彫刻、本門薬師如来」とあります。天正元年1537)慈眼大師(天海僧正)の弟・證導院日寿上人の開山で、開基は京都山科毘沙門堂跡守澄法親王と伝えられています。本堂、客殿、檀信徒会館の他、境内には三十番神堂・三蛇弁財天・咸得稲荷が奉納されています。手入れの行き届いた庭が素晴らしく、岩槻街道沿いであるにもかかわらず鳥のさえずりを聴きながら眺める枯山水は都内にいることを忘れさせてくれます。(北区の歴史と文化財)

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三十番堂               鐘楼

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鳳生寺坂
この坂は鳳生寺門前から西へ上る坂で坂上の十字路まで続き、坂上の旧家の屋号から六右衛門坂とも呼ばれます。坂上の十字路を右()に向かうと赤羽駅西口の弁天通り、左()へ向かうと十条仲原を経て環七通りへと至ります。名称の由来となった鳳生寺は太田道灌の開基と伝えられ、岩淵宿にあったものを移したので、現在も岩淵山と号しています。(北区教育委員会)

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鳳生寺山門/赤羽西 
曹洞宗のお寺、元は岩淵宿にあったそうです

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本堂                   「太田道灌公開基」の石塔

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街道の風景④ 拡幅工事中でしょうか、信号の先左手に普門院があります/西赤羽

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普門院参道 中国風の山門が建ちます、真言宗智山派寺院のお寺さんです

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普門院本堂                 納骨堂

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稲付の餅搗唄/道観山稲荷社地内
江戸時代、ここは稲付村と称されていましたが、この先右側の社地でうたわれる餅搗唄は住民が昔から餅を搗くときにうたった作業唄で、現在は毎年2月の初午祭のときに道観山稲荷講の人達によってうたい継がれています。餅は正月を祝って鏡餅として神棚にそなえるととも、これを雑煮にして食べたり、祝い事や保存食に使うためにも搗かれました。稲付の地域では餅を搗く際に臼にまわりに何人もの若者が集まり、唄をうたいながら小さい杵を次々と振りおろして餅を練ったり搗いたりします。餅を練るときにうたったのが稲付千本杵餅練唄、餅を搗くときにうたったのが稲付千本餅搗唄です。唄は大正12年(19239月の関東大震災の前後まではズシ(=辻子)と呼ばれる小地域共同体の若衆がモヤイ(=催合)と呼ばれる相互扶助的な慣行によって家々をまわり、一晩かけて餅搗の手伝いをするときにうたわれました。しかし米屋が餅の注文をとるようになると餅を搗く機会が次第に失われモヤイによる餅搗唄も姿を消していきました。昭和40年前後、赤羽西二丁目町会の役員が稲荷講の役員を兼ねていたのが契機となって、静勝寺の参道下から清水小学校までの街道沿いを氏子地域とする道観山稲荷講の人々が初午祭に際して餅搗唄を伝承するようになり今日に至っています。東京都北区指定無形民俗文化財。(説明板)

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街道の風景⑤ 旧道の左手の丘が稲付城址跡&静勝寺がある「道灌山」です

静勝院

江戸城を造ったことで知られる室町中期の武将・太田道灌が、砦として使用したといわれる稲付城。道灌の死後、稲付城を寺にしたのが静勝寺のはじまりです。稲付城跡はこの寺域から南へかけての丘陵一帯とされています。東側山門正面奥には、北区指定有形文化財の木造太田道灌坐像が安置された道灌堂があります。 また、北区指定有形文化財の静勝寺除地検地絵図・古文書を所蔵しています。(歩きたくなるまち北区)

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静勝寺山門

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静勝寺境内

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静勝寺
静勝寺の由来は太田道灌の死後、太田道灌の師・雲綱和尚が1504に城の一角に彼を弔う堂を建立して道灌寺とした事にはじまる。その後明暦元年1655)道灌の子孫の太田資宗が堂などを整備して中興、太田道灌とその父・大田資清の法号によって寺号を自得山静勝と改めたと言われている。江戸時代を通じて静勝寺は太田氏の菩提寺とされ、道灌堂(太田道灌像を祀るお堂。1715年建立)、旧本堂(現在の弁天堂。1694年建立)などを造営するなど深くかかわっていたWikipedia

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太田道灌挫像
正面の道灌堂の厨子内には太田道灌坐像が安置されています。像は道灌の命日である726日にちなんで26日に開扉されます。道灌堂は道灌の250回忌に当たる享保2017357月に建立され、厨子は350回忌に当たる天保618357月に製作されました。太田道灌(14321486)は室町時代の武将で、扇谷上杉家に仕えて30余度にも及ぶ合戦に参加したといわれていますが、長禄元年14574月に江戸城を築いたことで知られています。像は頭を丸めており道灌が剃髪した文明10年(14782月頃から同18年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振りが置かれています。正面を向き、右手で払子を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しています。像高は44.5cm、構造は檜材の寄せ木造りです。頭部は前後二材矧ぎで魚眼をかん入し差首としています。体内に納入されていた銘札によると元禄81695)静勝寺第6世の風全恵薫によって像立され、以後6回の修復が施されました。現在の彩色は昭和62年(19874月に行われた修復によるものです。像は道灌が没してから200年以上も後に像立されたものでありますが、その風貌を伝える唯一の木造として大変に貴重で平成元年1月に北区の指定有形文化財に指定されました。(北区教育委員会)

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静勝寺除地検地絵図・古文書
静勝寺文書は赤羽西にある静勝寺に伝存した文書群です。承応から昭和にいたる文書群のうち、近世文書68点が「静勝寺除地検地絵図・古文書」として平成5年に北区指定有形文化財に指定され、近代文書152点が「静勝寺近代文書」として平成4年に北区指定有形文化財に台帳搭載されています。静勝寺境内一帯は太田道灌が築城した戦国時代の砦「稲付城」跡でした。区指定有形文化財のうち貞享4年(1687)の静勝寺除地検地絵図城塁配置を知ることができる最も古い絵図で、境内や付近の地形、稲付城の空堀の遺構が描かれています。この他、絵図成立に関連したものや境内の堂舎普請や太田道灌顕彰のための活動、寺院財政の一端を示す文書なども伝存しており、当時の静勝寺の様子を知る上でも貴重な資料であるといえます。北区指定文化財。(北区の歴史と文化財)(写真:弁天堂)

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石段入口に「稲付城址跡」の石塔が立ちます、左右の坂道が空堀跡のようです

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稲付城跡
稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。昭和62年(1987)静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって、永禄年間15581569)末頃から天正10年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。また、静勝寺に伝存する貞享4年(1687)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代にはが設けられて街道上の主要地点をなしていました。稲付城はその街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。道灌の死後、この城には孫の資高が居城し後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷5ケ村を所領しました。明暦元年1655)に道灌の子孫太田資宗静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清(すけきよ)法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。東京都指定有形文化財。(北区教育委員会)

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右手の坂               左手の坂上は東門です

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稲付城跡/東門
稲付城跡は武蔵野台地島北端部の標高21程度の舌状台地先端上に立地する自然地形を利用した中世の城館跡です。文化・文政期の地誌「新編武蔵風土記稿」にも『堀蹟』として登場します。現在静勝寺が所在する平坦面に主郭があったと考えられています。北面と東西面は崖面で、南側は台地が続き平坦な地形になっています。

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周辺からは発掘調査によって幅約12深さ約6空堀跡等が検出され、その際に16世紀前半頃の遺物が出土しました。静勝寺には室町時代の武将・太田道灌の木造座像が所蔵されています。寺伝によれば城はこの道灌による築城とされています。今のところ築城した人物を特定する明確な根拠はありませんが、荒川を前面にひかえ北方防御を重視した城の構造と発掘調査の成果などから、南側に勢力をもった扇谷上杉氏に関わりのある城であったと推測されます。道灌が扇谷上杉氏の家宰であったことから道灌の築城の可能性も考えられます。(東京都教育委員会)

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江戸名所図会 静勝寺亀ヶ池 五葉松 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

旧岩槻街道西ヶ原・平塚城址跡の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27071692/

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亀ヶ池辨財天


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ご案内
亀ヶ池辨財天は弁天通り共栄会商店街振興組合をはじめとする地域住民で組織されている後援団体辨天講の皆様方のご協力に依って維持管理しております。亀ヶ池辨財天は教宗法人静勝寺の鎮守として同寺の辨天堂に安置されてある亀ヶ池辨財天勧請して祀っています。毎年41日の辨天大祭には静勝寺住職が祈願導師を勤め家内安全諸願成就の祈祷札を講中及奉納の皆様に配布してます。元旦、初詣、二月の節分会等地元の繁栄と平和のための諸行事を取り行います。昭和55年、静勝寺のご後援ご指導のもと辨天講々中地元の関係者の誠意溢れる信仰心により本寺静勝寺の辨天堂に安置しております。尊像を写した木彫の分体を斯道の大家「西山如拙翁」に依頼して昭和5641日辨天例大祭に御遷祀開眼の法要を営み地元地元繁栄と家内安全諸願成就御守護の神辨財天辨財天佛像を御堂に祀っています。地元の守り神様として皆々様の家内安全、商売繁盛、交通安全、良縁、安産息災、入試合格等ご参拝の上御祈祷・御祈願下さい。特に、昭和5810月吉日亀ヶ池の中には長寿の亀子宝安産亀辨天様を安置致しました。どうぞお願いが成就するよう御参拝下さい。辨天講は今後とも一層積極的に管理守護に務めて参る所存であります。皆様方の御理解とご支援御愛護宜しくお願い申し上げます。昭和五十八年十月吉日 辨天講

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街道の風景⑥ 道は駅で途切れますが、高架を潜り宝幢院門前へ続いています/赤羽駅

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街道の風景⑦ 新幹線に沿って西へ行くと赤羽神社があります/赤羽台

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師団坂
この坂は旧陸軍の近衛師団と第一師団に所属した二つの工兵大隊に向かう坂道でした。明治28(1887)8月から9月にかけてこれらの工兵大隊が現在の丸の内一丁目から赤羽台四丁目内に移ってきたので坂はつくられました。この坂は「工兵坂」とも呼ばれ、休日などの際は軍人や面会者の往来で賑わいました。当時の工兵隊の兵営は『赤羽の兵隊屋敷』と呼ばれ、工兵隊による浮間橋の架橋や花見時の兵営開放などにより付近の住民にも親しまれていました。現在、兵営の間にあった練兵場は住宅地となり第一師団工兵大隊兵営跡は学校法人星美学園の敷地となっています。(北区の歴史と文化財)

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赤羽神社参道鳥居

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石坂                 階段上鳥居

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赤羽八幡神社/赤羽台
赤羽八幡神社と俗称され、祭神は品陀和気命(応神天皇)、帯中津日子命(仲哀天皇、日本書紀によれば応神天皇の父)、息長帯比売命(神功皇后、日本書紀によれば、仲哀天皇の皇后、応神天皇の母)です。江戸時代、この神社は岩淵郷5ヶ村(赤羽根村・下村・袋村・稲付村・岩淵宿)の総鎮守であり、現在もその地域の総鎮守となっています。創建年代等は不詳ですが、伝説によれば延暦年中782-806坂上田村麻呂758-811、平安初期の武将。蝦夷地平定に大きな功績を残す。その一生は模範的武将として崇敬され、征夷大将軍の職名は永く部門の栄誉とされた)が東征の途次このあたりにを敷いてこの三神を勧請したのにはじまり、長徳年中995-9源頼光が社殿を再興し、久寿年間1154-56源頼政が修造を加え、応永(1394-1428)正長(1428-29)の頃、地頭であった太田資清(太田道灌の父)が社領として1貫文の地を寄進し、文明元年1469太田道灌が社殿を再建したといいます(岩淵町郷土誌)。

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これはさておき、ここには太田新六郎康資(太田道灌の曾孫)の天文201551)の寄進状が伝えられており、その文面は『岩淵之内赤場根八幡領之事、合壱貫文之所者。右為社領如前々聞之候、且々私之修理おも加可申候、萬一自分を為本無沙汰に付而は可放取者也、仍而如件天文廿年辛亥1228日 太田新六郎 康資 葉押八幡 禰衹 朝日興五右衛門殿』となっています。従ってこの神社は室町時代末期以前からあったことは確実です。また「新編武蔵風土記稿」に『赤羽根村・・・今ハ東叡山(寛永寺)及伝通院村内宝幢院八幡社領入曽ノ村ナリ』と記されており、慶安2年(1649)に七石余の朱印が付されていることから(岩淵町郷土誌)、江戸時代この神社は年貢・課役の免除を保証された領地を赤羽根村内に7石余有していたことも確実といえましょう。

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現在の社殿は昭和6改築されたものです。その向かって右側に神楽殿がありますがこれは絵馬堂を兼ね、絵馬が3枚納められています。この神社が祀られている台地は武蔵野台地東北端にあたり、東は荒川沿岸の沖積地に、西は八幡ノ谷に面しています。そして、この境内からは縄文式土器・弥生式土器・土師器が発見されており、縄文時代中期・弥生時代後期・歴史時代の遺跡とされ、八幡神社遺跡と呼ばれていますが、学術調査はまだ行われていないようであり詳細は不明です(東京都遺跡地図、東京都教育委員会)。

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この神社より星美学園敷地(旧陸軍第一四段工兵第一大隊兵舎跡)、国立王子病院敷地(旧陸軍近衛工兵大隊兵舎跡)およびその周辺にかけての台上一帯(旧陸軍兵器支廠赤羽火薬庫、作業場等跡)は八幡原と呼ばれ、坂上田村麻呂が陣を敷いたところという伝説があります。明治5年、稲付に旧陸軍の火薬庫が設けられ、同20年第一・近衛両工兵隊の移転があって以来、赤羽の台地には旧陸軍関係の施設の移転・拡張等が相次ぎ赤羽は陸軍の町となっていきました。この神社の境内にある工一記念碑や赤羽招魂社(旧工兵第一大隊兵舎内にあった招魂社。現在は赤羽町の戦歿者の霊も合祀)などはその当時の名残りです。また、ここから星美学園に至る坂は第一・近衛両工兵隊にちなんで工兵坂とも師団坂とも呼ばれています。(北区教育委員会)

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境内から赤羽駅方向の景観です 左に京浜東北線、右に埼京線&新幹線が通ります

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江戸名所図会 赤羽山八幡宮 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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デジタル標高地形図-武蔵野台地赤羽付近/国土地理院

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赤羽周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)(緑:旧岩槻街道 青:稲付川)

鎌倉道中道(東)(3)04-滝野川の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27555687/

# by Twalking | 2019-04-22 19:32 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 モニュメント-働く歓び   

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川口駅・キューポラ広場/川口市栄町

働く歓び/川口駅

この作品は(社)川口青年会議所創立100周年を記念して、昭和49年(1974)に宮田匠美氏のデザインで製作されました。川口を代表する「鋳物」と働くことの素晴らしさを表現したものです。鋳物を造る職人がキューポラと呼ばれる溶鉱炉で銑鉄を溶かし、「湯汲」(ゆくみ)と呼ばれる柄杓で受け、一気に鋳型に注ぎ込む注湯(ちゅうとう)作業を表しています。(説明板)


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キューポラ/川口駅・キューポラ広場(川口市栄町)


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キュポラ(Cupla furnace)
広くキューポラと呼ばれています。コークスの燃焼熱を利用して鉄を溶かす炉のことです。耐火物を内張りした筒状の炉体にコークスをある高さまで積み(ヘッドコークス)、その上に地金(銑鉄・鋼屑・戻り材・故銑)とコークスとを一定比率で順に装入し、下部の羽口から空気を送って燃焼させその熱によって地金を溶解します。各地金は炉の中央の溶解帯で溶解され溶滴となって、下部の高温のヘッドコークス層を滴下する間により高温度に加熱されます。溶けた湯(溶鉱炉で原材料を溶かしたもの)の温度は約1500℃になります。加熱された溶湯は最下部の出湯口から連続的に出湯し、前炉に溜め必要に応じて取鍋に受け出し、鋳型に流し込まれ製品となります。鋳物工場では屋根の上にキューポラの巨大な煙突部が見られます。(川口市制施行80周年記念/説明板)



# by Twalking | 2019-04-21 19:46 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 オオイヌフグリ   

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鶴巻西公園/多摩市鶴牧
コバルトブルーの小さな花、
雑草とはいうけれど、
可愛いですね~。


オオイヌノフグリ

オオバコ科クワガタソウ属の越年草。路傍や畑の畦道などに見られる雑草。和名はイヌフグリに似てそれより大きいために付けられた。フグリとは陰嚢のことで、イヌノフグリの果実の形が雄犬の陰嚢に似ていることからこの名前が付いた。秋に芽を出して他の植物が繁茂しない冬に横に広がって育ち、早春に多数の花をつけ、春の終わりには枯れてしまう。草丈1020cm。葉は12cmの卵円形で鋸葉がある。花弁は4枚。それぞれ大きさが少し異なるので花は左右対称である。色はコバルトブリーだが、まれに白い花をつけることがある。花は太陽の光によって開閉し、1日で落花するが、2日めにもう一度開くものもある。(Wikipedia


# by Twalking | 2019-04-21 11:07 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 小梅さん   

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鶴巻西公園/多摩市鶴牧
マルサイン、
出すね~!

# by Twalking | 2019-04-20 18:44 | ○たま-2019

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狐さん-水稲荷神社   

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阿形

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吽形
拝殿前の大きな狐さん、
満開のサクラの下で白狐さんみたい・・・。


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こちらは拝殿奥の狐さん、
鎮守の森で飛び跳ねて、なんだか楽しそう・・・。

水稲荷神社/新宿区西早稲田
水稲荷神社の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27544994/

# by Twalking | 2019-04-19 18:53 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 赤羽駅   

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赤羽駅/北区赤羽
新宿へは埼京線の方が早いのでここで乗換え。
端から端なのでちょっと手間ですが・・・・、
高架駅になって綺麗になりましたね。


赤羽駅

北区にあるJR東日本の駅で、島式ホーム48線を有する高架駅である。田端駅-当駅-浦和駅経由の電車線である京浜東北線、武蔵浦和駅経由の埼京線が分岐している。JR東日本公式サイトでは赤羽駅の所属路線を「赤羽線京浜東北線 埼京線 高崎線 東北本線」と表記している。以前は地上駅で京浜東北線は盛土上にホームが設置され、東北本線と赤羽線は地平ホームの橋上駅舎などとなっていた。1990から約8年かけて駅や付近の線路の高架化工事および立体交差化工事を施工して完全高架化された後、各線相互の乗り換えは容易になった。ただし当駅は山手線の東西各方面への列車が合流する分岐駅でありホーム間移動する乗客が多い。駅舎は岩淵水門(通称・青水門)をイメージして造られている。(Wikipedia


# by Twalking | 2019-04-19 16:31 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ムラサキハナナ   

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静勝寺/北区西赤羽
清らかな紫だこと、
ふぅ~、ひと心地ついたな~・・・、
ありがとう~!ムラサキハナナさん。


ムラサキハナナ(紫花菜)

アブラナ科の一年草。中国原産で江戸時代に渡来した。オオアラセイトウ、ショカツサイ(緒葛菜)ともいう。根は白色の直根で、根出葉は羽裂してダイコンの葉に似る。茎は高さ3060cm、茎葉は長倒卵形で基部は茎を抱く。35月、茎の上にまばらな総状花序を出し、紫色の4弁花を開く。花がよく似ているので別属Hesperisのハナダイコンと混同されることが多い。(コトバンク)


# by Twalking | 2019-04-18 22:50 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 十条駅   

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十条駅/北区上十条
こちら方面はちんぷんかんぷん・・・。
東十条駅が近いですが、埼京線の方が
早いので十条駅へ、夕方のラッシュで混んでます。


十条駅

北区上十条一丁目にあるJR東日本の駅、線路名称上の当駅を通る路線は赤羽線であるが、運転系統上は埼京線として案内される。1905年(明治38年)日本鉄道の十条駅(初代・貨物駅)が開業、この駅は東京砲兵工廠(こうしょう)が発送・到着する貨物を取り扱っていた。1910(明治43年)鉄道院の駅として2代目の駅が開業、旅客営業のみで山手線所属であった。1972(昭和47年)赤羽線所属に変更、1985年(昭和60年)埼京線の運行を開始する。埼京線内で唯一相対ホーム22線を有する地上駅でそれぞれのホームに改札口が、またそれぞれのホームを連絡する跨線橋がある。(Wikipedia


# by Twalking | 2019-04-17 18:36 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ミツバツツジ   

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愛宕下通り/多摩市愛宕
「こっちかしら~?」
「うんにゃ、こっち」
なかよくね~!ミツバさん。


ミツバツツジ
(三葉躑躅)

ツツジ科ツツジ属の落葉低木、また近縁のミツバツツジ類の総称でもある。関東地方から近畿地方東部の太平洋側側に分布し、主にやせた尾根や岩場、里山の雑木林などに生育する。他のミツバツツジ類の多くは雄しべが10本なのに対し、本種は5本であることが大きな特徴。ミツバツツジ類は4-5月頃に咲く紅紫色の花が美しい。花が終わってから葉が出てくる。枝先に三枚の葉がつくことからこの名がついた。(Wikipedia


# by Twalking | 2019-04-17 13:03 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(東回り)(3)東新宿~十条04-滝野川   

日時 2019.4.4(木)
天気 晴れ


池袋から明治通りを北へ向かいます。
旧中山道、府中からの古道や谷端川と交差しますが、
気をつけていないと見逃しますね。

西巣鴨から石神井川低地へ下り道は味わいがあります。
蛇行して流れていた川筋に流路跡が残りますが、
ここは隅田川から府中へ向かう頼朝布陣の伝承地とか。
そう思うとなかなか感慨深いものがあります。



・・・上池袋/豊島区


北端は板橋区板橋、北東は旧矢端川暗渠で北区滝野川と、東は宮仲公園通りを境に西巣鴨と、南東は西巣鴨橋通りを境界に北大塚、南はJR山手線を挟んで東池袋、南西のJR及び東上線の線路上で西池袋及び東上線を跨いで池袋、西は池袋本町と接する。全体的に南側が池袋台地の北端にあたるので高く、旧谷端川に向かって北側になだらかに低くなっていく地形である。鎌倉時代鎌倉街道
中道(なかつみち)が整備される。現在の宮仲橋から上池袋二丁目交差点に続く道がそれとされる。1573年(天正元年)頃 子安稲荷神社再興される。江戸以前 朱引線(寺社奉行管轄地)・墨引線(江戸町奉行管轄地)外であり、当時は域内のほとんどが未開発の土地もしくは田畑だったと思われるWikipedia

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街道の風景① 明治通りを北へ向かいます/上池袋2

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谷端川(やばたがわ)跡/区界
この道路はむかし谷端川という川でした。谷端川は粟島神社(要町二十四)境内の湧泉(弁天池)を水源とし、周辺の湧き水を集めながら長崎村、池袋村、中丸村(板橋区)、滝野川村(北区)、巣鴨村を経て小石川村(文京区)に至り神田川に注ぐ、区内最大の流域をもつ川でした(全長約11km)。川の名称は豊島・北・板橋区内では谷端川文京区内では小石川礫川)と呼ばれ、元禄91696)年に千川上水が完成した後、上水の水を川に引き入れたため千川分水とも呼ばれました。(豊島区教育委員会・抜粋)

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千川上水分配堰碑/滝野川
正面に「千川上水分配堰」とあるこの碑は明治15(1882)7月に設置されました。右側面には上水の水源地、樋口(ひぐち)の大きさと利用者、左側面には設置年月日が刻まれ、裏面には明治423月として樋口の大きさと利用者、堰幅の長さ、千川上水公園内にあった溜池の水面の高さが刻まれています。これにより取水量が定められていたことがわかります。千川上水元禄9(1696)玉川上水から分水された上水で、左()側の道路が今は暗渠となってしまった水路です。堰はこの付近にあり、そこから西巣鴨交差点の方向に分水路が通されていました。この分水路は慶応元年(1865)11月、飛鳥山の西側(滝野川2-6付近)にあった江戸幕府の大砲製造所の建設に伴い、開鑿(かいさく)されたものです。明治時代になると分水路は石神井川とともに現在の北区・荒川区・台東区内の23ヶ村の灌漑用水、王子近辺の紡績工場・抄紙(しょうし)会社・大蔵省紙幣寮抄紙局(りょうしょうしきょく)の工業用水として利用されました。また、千川上水本流も東京市内への給水が再開され多方面に利用されることになりました。そのため千川上水の利用者は水利権を明確化し、互いに取水量を遵守するために碑をここに設置しました。(北区の歴史と文化財)

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旧中山道(庚申塚通り)と交差/掘割  左が旧道、西巣鴨交差点へ迂回します


・・・滝野川/北区


滝野川地区の西部に位置し豊島区(上池袋・西巣鴨)・板橋区(板橋)との区境にあたる。全体的に南側旧谷端川流域北側が石神井川流域でになっており、中山道を境に南北になだらかに低くなっていく地形である。滝野川は石神井川下流での別名でもある。かつて石神井川はこの付近で渓谷となって蛇行しており、流れも急なため「滝のような川」であることから滝野川と呼ばれるようになった。また周囲には滝もあるほか紅葉の名所として多くの絵画などにも描かれるほど有名であった(Wikipedia

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街道の風景② 白山通りを左折、すぐ先から石神井川流域へ向かいます/西巣鴨交差点

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府中からの古道が交差します      ひとまず八幡道通りへ

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豊島区と板橋区の区境には谷端川が流れそこに鎌倉橋があった。明治通りと中山道との交差点近くで旧街道は明治通りと分かれて北へ行く。この道は石神井川流域で消えている。交差点北は本道から直角に分かれて東行する旧街道である。その道は六阿弥陀仏とか千住道と呼ばれ、北区と豊島区との区境を通って岩槻街道に出て、豊島氏の居城・平塚城前を通り西日暮里駅北で大地を下り、三河島・三ノ輪を経て橋場へ続くようである。その道は中山道と下道の連絡道で、頼朝が千葉から武蔵国入りした時に功労者の豊島清光に感謝の表敬訪問をするためこの道を通って平塚城へ来た。(図:旧鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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街道の風景③ 鎌倉道ではありませんが、八幡神社へ緩やかなくだりです/八幡神社

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八幡神社鳥居


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八幡神社
八幡神社は旧滝野川村の鎮守で、地元では滝野川八幡と称されることもあるようです。神社の祭神は品陀和気命(応神天皇)で、創建は建仁21202)といわれていますが詳細は不明です。社殿の裏手からは縄文時代後期住居址が発見されており、社地は考古学的にも貴重な遺跡に立地しています。神仏分離以前は石神井川畔にある金剛寺別当寺でした。明治初年には大塚の天祖神社神職が祠掌を兼務していたようです。現在の本殿は明治17年(1884)に改築されており、拝殿は大正11年(1922)に修築されています。境内には富士・榛名・稲荷の三つの末社があります。このうち、特に榛名社については村民が農耕時の降雨を願い上州の榛名山より勧請したもののようです。神社の社務所は終戦直後まで、旧中山道に面した滝野川三軒家の種子問屋が中心となっていた東京種子同業組合の会合場所として利用されていました。組合ではここで野菜の種子相場(生産者からの引取価格)の協定をしたり、東京府農事試験場に試作を依頼していた原種審査会の表彰などを行いました。(北区教育委員会)

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街道の風景④ 道は観音橋に続き、袂に谷津大観音、その先に寿徳寺があります/観音橋

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石神井川               谷津大観音

谷津大観音 
唐金鋳造 仏高:4.5m 総高:石台共7.7m 唐金重量:5

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寿徳寺山門

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寿徳寺(じゅとくじ)
北区滝野川4丁目にある真言宗豊山派の寺院。住職は第25世の新井京誉(女性)寺伝によると鎌倉時代、当地を訪れた武士によって本尊の観世音菩薩を安置した事に始まると言われている。本尊は谷津子育観音として昔より親しまれた。その後、幕末になり新撰組・近藤勇他隊士達の菩提寺となり、近藤処刑後、境外墓地として現在板橋駅そばにある近藤の墓地の管理・及び命日における供養をしている。本尊の聖観音菩薩像は梶原氏の家臣が水中から拾い上げたものといわれている。本堂前にある大イショウは、皮をご飯に炊き込んで食べると母乳が出るといわれているため、母乳に恵まれない母親がよく参拝することから谷津子育観音としても知られている。新撰組の近藤勇局長と諸隊士の菩提寺でもある。(北区文化財案内)

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谷津子育観音
南照山観音院寿徳寺の本尊である谷津子育観音は木造観音菩薩坐像です。この観音像は谷津観音と通称され、江戸時代の地誌には子安観音ともまた聖観音とも記されています。寺伝では鎌倉時代の初期、早船・小宮の両氏が主家の梶原氏と争い追われて落ち延びる途中で水中から拾いあげ、これを石神井川の川沿いの堂山に安置したのだと伝えられています。像の姿は蓮華座に坐り両手で乳児を膝の上に抱えている姿で、指を阿弥陀如来と同じ弥陀の定印に結んでおり現在は秘仏となっています。寿徳寺は江戸時代から城北地域の江戸西国三十三観音札所(上野王子駒込三十三ヵ所観音霊場)の第12番目の巡礼地にあたり、近江国岩間寺の霊験と同じ功徳をもつものとして多くの人々が訪れています。境内に切株から芽吹いている銀杏があり、昔飛鳥山付近からも眺められたほどの巨木でした。この樹の皮をはいで本尊に供え、祈願した後に煎じて飲むと母乳が良く出るようになるという信仰もあります。こうした信仰は昭和の初期にも盛んだったようで、河東碧梧桐の俳句に「秋立つや子安詣の花の束」という句があり、また寺野守水老も「我妹子と子安に詣る小春かな」という句を詠んでいます。(北区教育委員会)

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新撰組隊長近藤勇菩提寺と肖像石板
近藤勇は新撰組を組織し幕府側から京都の守護に当たり、流山で官軍に捕まって慶応442535歳で板橋宿平尾にて斬首され、胴体がJR板橋駅東口の当山境外墓地に埋葬されたが、123回忌に当たる本年、本人所持の短刀発見をも記念してこの石碑を境内に、また本人肖像石板を境内及び境外墓地に建立し、菩提を弔うものである(碑文)

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谷津観音の坂/寿徳寺門前
この坂は石神井川にかかる観音橋の北から寿徳寺へ登る坂です。坂名は坂上にある寿徳寺に谷津観音(やつかんのん)の名で知られる観音像がまつられているからです。江戸時代には大門通とも呼ばれていました。谷津というのはこの辺りの小字(こあざ)名です。今でも谷津子育観音とも呼ばれる谷津観音へお参りに行く人々などに利用されています。(北区の歴史と文化財)

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街道の風景⑤ 八幡通りの東側の道、こちらの方が鎌倉道に近いかもしれません/四本木稲荷前(しほんぎいなり)

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四本木稲荷鳥居

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四本木稲荷
七軒町(シチケンチョウ)」と呼ばれた地域に、明治38(1905)4月に陸軍火工兵器廠ができる以前にすでにあった王子稲荷神社の古い分社である。その地の居住者二族は高木駒崎でその家系はかなり古い。高木の本家は鎌倉時代以前と言われ、その分家であった七軒町の高木は確実に江戸期にさかのぼる。四本木稲荷の創建を示すものは見い出せていないが火工兵器廠ができる以前にすでにあったことは判明している。北区の前身、東京都王子区と地名がなったもっと前の明治384月に四本木稲荷の置かれていた七軒町の地は陸軍に買い取られて火工兵器廠がつくられた。それで隣接地の「稲荷公園」に移された。兵器廠は戦後アメリカ軍に接収され、のち自衛隊十条駐屯地となってからも「稲荷公園」にあったが、昭和30年頃に滝野川3丁目アパートの一角に移転しなおされた。(Wikipedia

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直進すると滝野川橋、右折して遊歩道を行きます、ちょっと幻想的な風景です

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滝野川橋の手前の川岸遊歩道を東行する。南側の空地は川が南へ蛇行していた所を埋め立てた所である。往時は南岸中腹松橋弁天洞窟があった。松橋というのは弘法大師が木を切って橋を架けたことから起こったこの地方一帯の地名である。室町時代の豊島一族滝野川氏志村氏と名乗る者があり、その一族から板橋・志村両氏が出ている。その滝野川氏は金剛寺に居館を構えその地名を氏名にしたのだろうといわれている。紅葉橋を渡り、公園で左折、自衛隊正門を北進する。この道が旧街道の続きで岩槻街道に続く。(図:旧鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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街道の風景⑥ 滝野川橋の下流の旧流路跡に作られた公園です、奥が金剛寺になります/音無もみじ緑地公園

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松橋弁財天洞窟跡/音無もみじ緑地公園
もともとこの辺りは石神井川蛇行して流れていた場所でした。上の絵は「江戸名所図会」に描かれた「松橋弁財天窟」ですが、ここでは『この地は石神井河の流れに臨み、自然の山水あり。両岸高く桜楓の二樹枝を交へ、春秋ともにながめあるの一勝地なり』とこの辺りの景色を紹介しており、春の桜、秋の紅葉、殊に紅葉の名所として知られていたことがわかります。画面を見ると岩屋の前に鳥居があり、その横に松橋が描かれています。水遊びをする人や茶店も描かれ、行楽客が景色などを楽しんでいる様子が見て取れます。崖下の岩屋の中には弘法大師の作と伝えられる弁財天像がまつられていました。このため松橋弁財天は岩屋弁天とも呼ばれていました。

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『新編武蔵風土記稿』によるとこの弁財天に源頼朝が太刀一振を奉納したと伝えられていますが、すでに太刀も弁財天像も失われています。また、現在都営住宅が建っている付近の崖にがあり弁天の滝と呼ばれていました。旧滝野川村付近には滝が多く、夏のこの辺りの滝で水遊びをして涼をとることが江戸っ子の格好の避暑となっていて、こうした様子は広重の「名所江戸百景』や『東都名所』をはじめ多くの錦絵に描かれました。松橋弁財天の辺りは四季を通して多くの人で賑わっていたのです。滝は昭和初期には枯れていたようですが、像を納めていた岩屋は昭和501975)前後に石神井川の護岸工事が行われるまで残っていました。金剛寺境内をはじめ区内には松橋弁財天へ行くための道標がいくつか残っており、当時の名所であったことをうかがわせます。(北区の歴史と文化財)(錦絵:東都名所-王子滝野川/広重)

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江戸名所図会 松橋弁財天窟(いわや) 石神井川 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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金剛寺山門

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金剛寺
真言宗豊山派。瀧河山松橋院金剛寺と号し本尊は不動明王像です。縁起によればこの地は弘法大師遊歴の古蹟で、大師自ら不動明王像を彫り石の上に安置した、これが同寺の本尊であるといい、また治承年中1177-81源頼朝松橋弁天を信仰し堂舎を建立、あわせて田園を寄進したがその後兵火に焼かれ、強盗に田園を掠奪され宗門すら定かでなかったのを、天文(1532-55)のころ阿闍梨宥印という僧がこれを歎いて北条氏康に訴え、真言宗の道場にしたということです。

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松橋弁天というのはこの寺院の西側崖下にある洞窟(現在は石神井川護岸の裏側になっています)に祀られていた弁財天のことで、岩屋弁天とも呼ばれていました。江戸時代かなり広く知られていたようで、現在も区内に何ヶ所かその名を彫った道標が残っています。「源平盛衰記」に源頼朝が隅田川を渡って府中に向かう途中「武蔵国豊島の上滝野川、松橋という所に陣を取る」と記されております。また、この寺院の一帯は豊島氏の支族滝野川氏の居館滝野川城跡といわれています。境内には鹿島万平翁の碑などがあります。(北区文化財案内)

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源頼朝の布陣伝承地
治承411808月鎌倉幕府初代将軍の源頼朝は配流先の伊豆で挙兵し、石橋山の合戦で敗れて安房に逃れましたが、上総・下総を経て隅田川を渡り滝野川・板橋から府中六所明神に向かいここから鎌倉に入って政権を樹立します。この途次の10月、頼朝は軍勢を率いて滝野川松橋に陣をとったといわれます。松橋とは当時の金剛寺寺域を中心とする地名で、ここから見る石神井川の流域は両岸に岩が切り立って松や楓があり、深山幽谷の趣をもっていました。崖下の洞窟には弘法大師の作と伝えられる石の弁財天が祀られていましたが、頼朝は弁財天に祈願して金剛寺の寺域に弁天堂を建立し、所領の田地を寄進したと伝えられます。金剛寺は紅葉寺とも称されますが、これはこの地域が弁天の滝や紅葉の名所として知られていたことに由来するからです。(北区教育委員会)

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滝野川周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)

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・・・十条

北区にある地名であり旧上十条村下十条村の範囲にあたる上十条・中十条・十条仲原・東十条・十条台を指す汎称地名である。
由来は新編武蔵風土記による豊島清元が熊野権現を勧請した際紀州十条峠に因んでつけたとする説と、新修北区史による古代条里制に基づくという説がある。王子方面から岩淵を経て埼玉県へ抜ける旧岩槻街道日光御成道鎌倉街道とも呼ばれる。現在の都道460号中十条赤羽線)が通り、元々はこの街道を中心に集落が広がっていた。南から、街道沿いにある地福寺は「十條村のお地蔵様」と昔から信仰を集めた。毎年71日の富士山の山開きの日には富士神社(十条富士塚)では大きな縁日が催される。陸・海・空の兵站中枢として十条駐屯地(海上自衛隊では十条基地)補給本部が存在する。Wikipedia

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街道の風景⑦ 紅葉橋を渡り十条へ向かいます/十条台紅葉橋

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紅葉橋(石神井川)          中央図書館先公園

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街道の風景⑧ 本郷通り交差点付近から旧道を岩槻街道へ向かいます/中十条

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地福寺山門/中十条


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地福寺
当山は詳しくは十條山(古くは醫王山)地福寺東光院と号し、真言宗智山派に属しています。総本山は京都市東山区の智積院です。康平年間10581064)京都の御室御所仁和寺の僧・経邦上人が伊豫公の護持僧として奥州征伐に同道した折、討伐後も一人東国に残り十條山を開き、御所の秘仏(太子作、薬師如来像と伝える)をこの地に奉安したのが当山の始まりです。以来、北条家から五貫文の公田を受け、寛政年間(17891800)には徳川家から12石の御朱印を賜りました。そして山門前を南北に走る日光御成道を通り将軍が日光に社参する折りには、当山はしばしば休憩所の指定を受けました。江戸時代には当山では武士の子弟を教育する寺子屋を開いていましたが、明治5年頃より一般の子弟にたいしても広く教育の門戸を開放しました。昭和20413日の東京大空襲で当山はことごとく灰燼に帰し、一家は境外の字大道にあった「松壽庵」に身を寄せました。昭和283月第69世三輪照宗大僧正が本堂再建の発願と、焼けてしまった真言宗必備の経典の復興を願って発眼した写経行の開白、同時に家族による本堂再建費積み立てのための節倹の生活が始まりました。そして昭和31年仮本堂兼庫裡が落成し、家族は松壽庵を後に勇躍庫裡に移転しました。(地福寺ブックレット)

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六地蔵尊
門前の六地蔵尊の中、左端のお地蔵様が「王子の三地蔵尊」の中の一尊。(かっては鎌倉街道のお地蔵様とも呼ばれていた)台座に三猿を施した庚申地蔵の形式をとり、その造顕は正徳4年(1714)・享保5年(1720)作の地蔵尊と共に江戸時代中期のものと推定される。お地蔵様は六道(六つの苦しみの世界)の衆生の苦しみを自ら代って引き受け、衆生に安らぎと悦びとをお与え下さる「代受苦」のご誓願を発された大慈大悲の菩薩様である。そのご誓願を各自の心に感得し帰依・隋順するところに広大無辺のご利益はあらわれる。御真言オン・カカカビサンマエイ・ソワカ(地福寺)

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真光寺山門/中十条

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真光寺
真光寺は新義真言宗、稲付普門院末で中十条二丁目(下十条字大道)にある。隆照山桂徳院と号し、本尊は勢至菩薩。境内約三百坪、開基その他は明治30年の火災に記録を焼失したので、一切不明である。(北区史)


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おびんずる様
正式には賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)。お釈迦様の弟子。十六羅漢の一人で神通力がとても強い人だったといわれています。俗に「撫仏」とも呼ばれ、おびんずる様の身体に触ってその手で体をなでると病気が治り、頭もよくなり節々の痛みも軽くなるといわれております。どうぞ触ってお参りください。(案内板)

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十条富士神社/中十条

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十条冨士塚
十条冨士塚は十条地域の人々が江戸時代以来、冨士信仰にもとづく祭儀を行ってきた場です。現在もこれを信仰対象として毎年630日・71日に十条冨士神社伊藤元講が大祭を主催し、参詣者は頂上の石祠を参詣するに先だち線香を焚きますが、これは冨士講の信仰習俗の特徴のひとつです。塚には伊藤元講などの建てた石造物が三十数基あります。銘文によれば遅くとも天保11184010月には冨士塚として利用されていたと推定されます。

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これらのうち鳥居や頂上の石祠など16基は明治14年(1881)に造立されています。この年は冨士講中興の祖といわれた食行身禄、本名伊藤伊兵衛の150回忌に当りました。石造物の中に「冨士山遥拝所再建紀年碑」もあるのでこの年、伊藤元講を中心に塚の整備が行われその記念に建てたのがこれらと思われます。形状は古墳と推定される塚に実際の富士山を模すように溶岩を配し、半円球の塚の頂上を兵平坦に削って、富士山の神体の分霊を祀る石祠を置き、中腹にも富士山の5合目近くの小御岳神社の石祠を置いています。また、石段の左右には登山路の跡も残されており、人々が登頂して富士山を遥拝し、講の祭儀を行うために造られたことが知られます。(北区教育委員会)

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街道の風景⑨ 赤羽までひと駅ですが見所が多いのでここまで、十条駅へ向かいます/十条富士前

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日光御成道/中十条公園
岩槻街道は江戸時代には日光御成道と呼ばれていました。歴代の将軍が家康を祀る日光東照宮に参詣し、年忌法要を営むために通る専用の道でしたのでこのように呼ばれました。また、江戸と城下町岩槻(埼玉県)とを結ぶ街道であったので岩槻街道とも呼ばれていました。本郷追分(文京区)で中山道と別れ、北区を縦断し岩淵から川口へは船でわたります。将軍の通行の時には荒川に仮橋が架けられこの渡り初めを岩淵の子供たちがおこなったといいます。街道は川口・鳩ヶ谷・大門・岩槻を経て幸手日光道中と合流しました。江戸から幸手まで1230町(約51km)でした。将軍の通行は大名行列で、将軍に直接供奉する者たちだけでも2千人を超え、沿道の村々ではこれらの荷物を運ぶため大量の人馬を負担させられました。(歴史と文化の散歩道)

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十条周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)(緑:鎌倉道 橙:岩槻街道)

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鎌倉道中道(東)東新宿~十条コース図
(緑:鎌倉道 紫:古東海道 橙:岩槻街道 赤:中山道 青点:石神井川)

鎌倉道中道(3)03-雑司ヶ谷の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27549824/

# by Twalking | 2019-04-16 21:35 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 スズラン   

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乞田川/多摩市落合
おや、ススランさんかな、
早いね~・・・、おほよ~!
季節はめぐる、ですね。


すずらん(鈴蘭)
北海道、本州、九州(まれ)の高原の草原にはえるユリ科の多年草。キミカゲソウ(君影草)とも。葉は2枚、相接して細長い根茎につき長楕円形で長さ15cm内外となり粉緑色を帯びる。春、長さ2035cmの花茎を出し上半に穂状に10数個の花をつける。花は壺形でかおりが高く、白色で長さ68mm、下垂して咲く。おしべは6本、黄色の葯(やく)がある。液果は球形で赤熟。なお、近縁のヨーロッパ産のドイツスズランは花が大きく、葉の幅が広く栽培しやすくて切花、鉢植にする。(コトバンク)


# by Twalking | 2019-04-16 13:04 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 からたちの花   

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多摩市愛宕
からたちの花が咲いたよ 
 白い白い花が咲いたよ。

からたちのとげはいたいよ 
 青い青い針のとげだよ。
(北原白秋作詞 山田 耕筰作曲 1925年・大正14年)



カラタチ
(枳殻、枸橘)
ミカン科カラタチ属の落葉低木。原産地は長江上流域。日本には8世紀頃には伝わっていたとされる。カラタチの名は唐橘(からたちばな)が詰まったもの。樹高は24m程。枝に稜角があり3cmにもなる鋭い刺が互生する。葉は互生で3小葉の複葉。小葉は46cm程の楕円形または倒卵形で周囲に細かい鋸状歯があり葉柄には翼がある。春に葉が出る前に34cm程の5弁の白い花を咲かせる。花のあとには球形で緑色の実をつけ、秋には熟して黄色くなる。(Wikipedia

# by Twalking | 2019-04-15 13:19 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 シバザクラ   

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多摩市愛宕
わたしもサクラ、
これからですよ~!
足元をみてね、よろしく~。


シバザクラ
(芝桜)

ハナシノブ科の多年草。別名ハナツメクサ(花詰草、花爪草)。英名は「モスフロックス」(「苔状のフロックス」の意味)といい、同属をまとめてフロックスと呼ぶ。45月頃にサクラに似た形の淡桃、赤、薄紫、あるいは白色の花を咲かせる。葉形やその匍匐性などから芝桜と名付けられた。葉は1cm程度と小さく披針形で硬い。よく枝分かれし地面を覆い尽くすように密生する。また寒暑や乾燥に強く常緑のため芝生代わりに植えられていることもある。(Wikipedia


# by Twalking | 2019-04-14 18:33 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-稲荷鬼王神社   

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阿形

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吽形
うぉ~・・・、遠吠えしてるのかな~???
頭が小さく、体はがっちり、八頭身美人だね、
鳥居前の狛犬さんです。


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阿形

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吽形
こちらは拝殿前の親子狛犬、
重厚で微笑ましいですね~、見応え十分です。

稲荷鬼王神社の狛犬
明治35年(1902)につくられたこの狛犬は全国でも非常に珍しい型をしています。向かって右の阿像は親子の情愛を表わしています。何より特色があるのは向かって左の吽像で、子獅子がしっかりと玉を加えてつかまえています。その為、その玉を吽[うん]の獅子の玉という事から運を与えてくれる玉といわれ、子獅子がしっかりと持っている事から子孫に福徳を与える玉ともいわれています。(説明板)

稲荷鬼王神社(新宿区歌舞伎町)に関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27541910/

# by Twalking | 2019-04-13 22:21 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ダッシュ   

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乞田川/多摩市落合
身軽になったから
ダッシュだ~い!

# by Twalking | 2019-04-13 17:12 | ○たま-2019

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(東回り)(3)東新宿~東十条03-雑司ヶ谷   

日時 2019.4.4(木)
天気 晴れ


面影橋から宿坂を上り、鬼子母神へ向かいます。
数年前、家内とぶらりと歩きましたが趣のある街です。
名物の「おせんだんご」をお土産にもとめました。

寄り忘れた法明寺に参拝し、「豊島一族の墓」を
探しましたが分からず、花屋さんに聞いてやっとみつけました。
この先、池袋へ下りますが、道は消えています。
学生時代に通った池袋ですが、すっかり様変わりしてまいました。


・・・高田/豊島区


JR高田馬場駅
の北東側にあたる。北側に学習院大学(豊島区目白)と雑司が谷がある。東側に新宿区早稲田に文京区目白台、南側に新宿区高田馬場、西側に新宿区下落合と接しており豊島区の境界にあたる(新宿区との境界は神田川)。神田川沿いの低地と関口台地(目白台地とも)の境目となるため坂が多く、中でものぞき坂は都内でも有数の急坂として知られる。Wikipedia

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街道の風景① 神田川面影橋から宿坂を上り雑司ケ谷へ向かいます/南蔵院門前

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氷川神社門前             緩やかに曲がる旧道

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高田氷川神社鳥居


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高田氷川神社
氷川神社の創建は武蔵国一の宮氷川神社を当地に分霊したことに始まるといわれる。祭神は素盞嗚命・奇稲田姫命・大巳貴命(大国主命)の三柱で平安時代の歌人・在原業平(六歌仙の一人)も参拝したと伝えられる。「江戸名所図会」(天保51834年刊)などの地誌によれば、当神社は江戸時代には氷川大明神と呼ばれ下高田村(豊島区高田・雑司ヶ谷・目白・文京区目白台)の総鎮守として信仰を集めていた。また、当神社の主神が素盞嗚命であることから俗に「男体の宮」といわれ、奇稲田姫命を主神とする落合村(新宿区下落合)の下落合氷川神社の「女体の宮」と合わせて「夫婦の宮」と呼ばれていたという。明治時代には氷川神社と改称し第2次世界大戦中には昭和20413日の空襲により境内の建物と宝物の大半が焼失した。現在の社殿は昭和29年に再建されたもので、境内には神明神社・高田姫稲荷神社・道祖神社も祀られている。毎年正月には弓矢で的を射って災難除けを祈願する「御奉射祭(おびしゃさい)」が江戸時代より行われ、現在は成人の日に執行している。なお寛政2年(1790)に鳥羽藩主稲垣対馬守が寄進した鳥居・狛犬(文化41807年奉納)石燈籠(明治111878年奉納)玉垣が平成3年(1991)に豊島区登録文化財となった。(豊島区教育委員会)

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南蔵院山門

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南蔵院
真言宗豊山派に属し大鏡山薬師寺南蔵院という。寺伝では開山は室町時代の円成比丘(永和21376年寂)とされる。本尊の薬師如来は木造の立像で、奥州藤原氏持仏といわれ円成比丘が諸国遊化のとき彼の地の農家で入手し、奉持して当地に草庵を建て安置したのが開創であると伝えられる。正徳6年(1716)の「高田村絵図」(東京都公文書館蔵)には境内部分に「薬師堂」・「南蔵院」の文字の他、山門、薬師堂と思われる建物、および樹木三本が描かれている。

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また江戸時代の地誌にも紹介されており「江戸名所図会」や「新編武蔵風土記稿」では、徳川三代将軍家光がしばしば訪れたと記している。現在の境内には元禄9年(1696)に神保長賢により寄進された山吹の里弁財天石碑と手水鉢や、庚申塔、六地蔵、彰義隊九士の首塚などの石造物があるほか、墓地内には相撲年寄である片男波、粂川、雷、音羽山、二子山、花籠などの墓がある。また三遊亭円朝作の「怪談乳房榎」にゆかりの寺でもある。(豊島区教育委員会)


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江戸名所図会 南蔵院・鶯宿梅 氷川社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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江戸時代の高田村
天保5年(1834)に刊行された「江戸名所図会」では、高田村付近の様子が長谷川雪旦による三枚の挿絵付きで紹介されている。「高田」と題された挿絵の中央に南蔵院が配され境内に薬師堂と鶯宿梅が描かれている。鶯宿梅は江戸幕府三代将軍徳川家光が自ら植えたといわれ、このときすでに枯れていたとされるが「新編武蔵風土記稿」では鶯宿梅の実から育った木が院内にあると記している。南蔵院の前には右橋、付近には高札場や茶店、道には籠・馬などが描かれている。道を隔てたところには高田氷川神社がある。これらの位置関係や道の曲がり方などは現在もほとんど変わっておらず、江戸時代の名残りをとどめている。(豊島区教育委員会)

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街道の風景② 宿坂、急ですがいい坂です。左が金乗院、右に行くと根生院です/金乗院門前

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宿坂道
中世の頃「宿坂の関」と呼ばれるところがこのあたりにあった。この坂の名が宿坂道と残っているのはおそらくそれにちなむものと思われる。「宿坂の関」は鎌倉街道の道筋にあったものといわれ、したがってここ宿坂はその街道上の地名と考えられる。古地図によると鎌倉街道は現在のこの道よりやや東寄りに位置していたが一応ここも鎌倉街道の名残といえよう。今から300年ほど前このあたりには樹木が生い茂り昼なお暗くくらやみの坂道として狐狸の類がとびはねて通行人を化かしたなどという話もいまに伝わっている。(豊島区教育委員会)

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金乗院山門


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金乗院
金乗院は真言宗豊山派の寺院で、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが草創とされています。永順の没年は文禄3年(15946月であることからそれより以前、天正年間1573-92)の創建と考えられます。当所は蓮花山金乗院と称し中野宝仙寺の末寺でしたが、のちに神霊山金乗院慈眼寺と改め、護国寺の末寺となりました。江戸時代には近辺の此花咲耶姫社などの別当でしたが、昭和204月の戦災で本堂等の建物や、水戸光圀の手になるという此花咲耶姫の額などの宝物は焼失しました。現在の本堂は昭和46年に再建され、平成15年に全面改修されました。

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目白不動堂(東豊山浄滝院新長谷寺)は元和41618)大和長谷寺代世小池坊秀算が中興し、関口駒井町(文京区)にありましたが、昭和205月の戦災により焼失したため金乗院に合併し、本尊の目白不動明王像を移しました。目白不動明王は江戸守護の江戸五色不動(青・黄・赤・白・黒)の随一として名高く、目白の号は寛永年間(1624-44)に三代将軍徳川家光の命によるといわれています。墓地には槍術の達人丸はし忠弥、青柳文庫を創設した青柳文蔵などの墓があり、境内には寛文6年(1666)造立の倶利伽羅不動庚申塔をはじめ、寛政12年(1800)造立の鍔塚など多くの石造物があります。(豊島区教育委員会)

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倶梨伽羅不動庚申
人間を罪過から守る青面金剛の化身。三猿は天の神に人間の犯す罪を伝えない様子をあらわしている」(説明板)
境内にある庚申塚。寛文6年(1666)建立。倶梨伽羅明王を主尊とする点で貴重なものといわれている。(Wikipedia

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丸橋忠弥の墓
江戸時代の武士で、由井正雪と共に慶安の変(江戸時代初期に起きた幕府転覆事件)に加担したとして処刑された。(Wikipedia

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根生院山門

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根生院(こんしょういん)
豊島区高田にある寺院。本尊は薬師瑠璃光如来(秘仏)。創建は寛永131636)、三代将軍徳川家光公がその乳母・春日局の発願により、大和の国(奈良県)小池坊(長谷寺)より栄誉を招き開山とし、神田白壁町に堂宇を建立し、薬師瑠璃光如来像を本尊とし号を「金剛寶山延壽寺根生院」と称したのがその歴史の始まりである。正保2年(1645)第二世栄専の時、下谷二長町に移り江戸城西の丸祈願所として寺領250石を賜った。明治36年(1903)市区改正で東京府北多摩郡豊島大字高田(現地)に移転し、昭和10年代までは真言宗豊山派の加行道場であった。この地はもと尾張候下屋敷であったものを田安家に譲り渡され、文政のころは一つ橋屋敷となったと伝えられている。下屋敷跡であり池あり丘あり樹木あり、また清泉涌き出た幽境の地であり、宿坂より山門までの参道は欅の並木があり、山門の奥には満々たる水を湛えた池があり四季折々を楽しませた。殊に菖蒲の頃は散策と参詣の人で賑わったと伝えられている。(Wikipedia

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江戸名所図会 宿坂の関旧跡 金乗院 観音堂 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


『旧街道のこの横(
宿坂という)を台地に上る。江戸名所図会には次のようにある。『この地は昔の奥州街道にして、その頃関所のありし跡なりといへり。「或人云ふ。この地に関守の八兵衛という者ありて、家に突棒・指股及び日記等を持ち伝えるといふ」』(旧鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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・・・雑司ヶ谷


護国寺の西にあたる。地名の由来は南北朝時代に宮中の雑色(下級役人)の職にあった者がこの地に土着したからなど諸説あり。法明寺の境外仏堂である鬼子母神堂が出産・育児の神として信仰を集めた。錦絵には鬼子母神門前の料理屋や境内で売られていた玩具のすすきみみずくを持つ人物が描かれる。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)

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街道の風景③ 坂上の目白通りを渡り表参道を鬼子母神へ向かいます

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鬼子母神表参道入口          都電荒川線を渡ります

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街道の風景④ 参道のケヤキ並木、情緒がありますね

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鬼母神大門ケヤキ並木
ケヤキ(欅)はニレ科の落葉大高木で日本の代表的広葉樹の一つである。古名をツキ(槻)という。家具や建築用材、特に社寺の構造材や大黒柱によく使われている。『地誌御調書上』によると天正15731591)の頃、雑司谷村の住人長島内匠が鬼子母神へ奉納のため植え付けたものと言う。鬼子母神鳥居先の町屋大門ともいっていた。江戸時代には並木の伐採をめぐって訴訟がしばしば起こった。効果元年(1844)の訴訟は江戸城本丸普請のため伐採しようとした村役人等に対して、寺川が御用木の名を借りた伐採は村役人の私欲によるものと訴えて伐採を中止させた争いである。昭和12年(1937)頃には18本あったが、現在は4本を残すのみである。目通り幹囲56m、樹齢約400年以上といわれる大樹である。秋田雨雀・兜木正亨らによって結成された「大門欅並木保存会」が保存に尽力した結果、東京府の「天然記念物」となった。(東京都教育委員会)

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雑司ヶ谷鬼子母神境内

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雑司が谷の鬼子母神
雑司が谷の鬼子母神は永禄41561)に清土(せいど・現在の文京区目白台)で掘り出された鬼子母神像を天正61598)に現在の場所に堂を建てて安置したことにはじまる。寛永2年(1625)には社殿の造営が始まり正保3年(1646)には宮殿が寄進された。江戸時代前期から将軍の御成りがあるなど武家から庶民まで、子育て安産の神として広く信仰され現在でも多くの参詣者が訪れている。

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現在の鬼子母神堂は手前から「拝殿」「相の間」「本殿」の3つの建物から構成される「権現造り」。本殿の開堂供養は寛文6年(1666)に行われたことが記録にあるが、屋根裏の束に書かれた墨書から寛文4年に上棟されたことが判明している。拝殿相の間は元禄13年(1700)広島藩2代目藩主浅野光晟(みつあきら)の正室・満姫の寄進により建てられ、その建築には広島から呼び寄せた大工が従事している。拝殿は江戸中期の華やかな建物ではあるものの、装飾を簡素に変えるなど幕府による建築制限令への対応を示す事例であり、本殿と拝殿とで異なる特徴を持つ建築物であることから歴史的、意匠的に価値が高いと評価され、平成287月重要文化財に指定された。(豊島区教育委員会)

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武芳稲荷堂(たけよしいなりどう)
武芳稲荷堂は倉稲魂命(ウケノミタマノミコト)を祀った堂宇です。「日本書記」では「ウケ」は穀物・食物を意味し稲魂命は「穀物に神」といわれています。昔、このあたりで農耕が盛んに行なわれていたことが伺えます。創建の年代は不明ですが、雑司が谷鬼子母神縁起によれば天正6(1578)に「稲荷の森」と呼ばれていた当地に堂宇を建立して鬼子母神像を安置したと記されていますので、武芳稲荷堂はこれよりも以前に建立され、天正6年当時は既にこの地の地主神として多くの人々に知られていました。もとは一坪にも満たない木造の堂宇でしたが昭和42年に現在の堂が建立され、昭和46年には鳥居25基、昭和49年には正面に神狐像2体が奉納されました。武芳稲荷尊天はまた古来より「出世稲荷」とも称され、商売繁盛・開運隆昌とともにその霊験あらたかなることを慕う大勢の信徒に尊崇されています。毎年、節分後の午の日に初午大祭・518日に夏季大祭・918日には秋季大祭がそれぞれ修され皆様の開運出世、除厄得幸の祈願が行われています。(境内石碑)

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雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ
イチョウ(銀杏・公孫樹)は一属一種のイチョウ科に属する裸子植物の落葉高木である。耐寒、耐暑性があり社寺の境内樹、公園樹、街路樹などに広く植えられている。中国原産といわれ日本へは遣唐使の帰国によってもたらせられたという説もある。雌雄異株で4月に開花し10月に種子(銀杏)は成熟し黄葉する。樹高30m、幹周8mの雄株で、都内のイチョウでは麻布善福寺のイチョウに次ぐ巨樹であり、樹勢は盛んである。応永年間(13941428)に僧日宥が植えたと伝えられている。古来「子授け銀杏」ともいわれ戸張苗竪の「櫨楓」によると婦人がこのイチョウを抱く光景がみられ、注連縄を張るようになったのは文政年間(181829)の頃という。(東京都教育委員会)

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鬼子母神像
当山の鬼子母神像は、鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけ、吉祥果を持ち幼児を抱いた菩薩形の美しいお姿をしているので、とくに角(つの)のつかない鬼の字を用い雑司ヶ谷鬼子母神と尊称しております。(鬼子母神HP)





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法不動堂(のりふどうどう)      妙見堂

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上川口屋               大黒堂

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法明寺山門/南池袋


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法明寺(ほうみょうじ)
豊島区南池袋にある日蓮宗の寺。威光山と号する。本尊は鬼子母尊神(寺では 子母と書く)。子供の守り神で、雑司ヶ谷の鬼子母神とよばれ名高い。810(弘仁1真言宗威光寺として開創。1312年(正和1)日蓮の弟子日源日蓮宗に改宗して以来、威光山法明寺と寺号を改めた。

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本堂から300mほど離れた地にある
鬼子母神堂1666年(寛文6)の建立で、徳川家光より御朱印を受けた。江戸時代以来、堂内に奉納されている絵馬のうち「大森彦七之図」「三人歌舞図」は都重要文化財。また境内にある樹齢500年の大イチョウは古くから「子授けイチョウ」「子育てイチョウ」とよばれ都天然記念物に指定されている。1016日から18日の鬼子母神会式(えしき)に万燈練供養(まんとうねりくよう)が行われる。付近で売られている「すすきみみずく」は東京の民芸品の一つである。(コトバンク)

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安国堂                鐘楼

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豊島氏の墓
豊島氏は平安朝の末期から、鎌倉、室町時代にかけてこの辺り武蔵の地一帯にかけて勢力をもっていた一族であるが、文明101478太田道灌に攻め落とされた。その生き残りの一族の中で後、徳川氏に仕えて八丈島の代官になった豊島忠次1643年没)を中心にその一族の墓である。(豊島区教育委員会)

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江戸名所図会 鬼子母神・法明寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)(左が鬼子母神堂、右上が法名寺になります)

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・・・南池袋

南池袋は北側は東池袋、東側は雑司が谷・文京区大塚、南側は目白、西側は西池袋に接しており、池袋駅東南側及びグリーン大通りの南側を占める。雑司が谷霊園南側を除いて旧弦巻川暗渠よりほぼ北側にあたる。雑司ヶ谷霊園は南池袋四丁目の大半を占めるためそれに関連する寺社も多く存在する。もともと南池袋一丁目は雑司が谷六丁目であり、南池袋二丁目から南池袋四丁目は雑司が谷四丁目であった。(Wikipedia

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街道の風景④ 鬼子母神入口の東側の路地を北へ、東京音楽大で道は消えています

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弦巻川
豊島区と文京区との間を流れていた河川。昭和71932)に当時の北豊島郡高田町により暗渠化工事が行われ、現在では川の流路はまったく残っていない。豊島区立元池袋史跡公園の西に接する池袋デュープレックスタワーの敷地内にあった丸池が源泉。丸池-ホテルメトロポリタン駐車場南西側-オリナスふくろうの杜(旧雑司が谷小学校)南側- (法明寺本堂- 法明寺鬼子母神堂間)- コープとうきょう南側-日本女子大学体育館北側-本浄寺南側-護国寺西交差点-筑波大学付属視覚特別支援学校東側-講談社西側-目白坂下南交差点西側-江戸川橋の西側で神田川に合流。(Wikipedia)(図:
旧鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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東京音楽大学
豊島区南池袋3-4-5に本部を置く私立大学である。1963に設置された。創設者は鈴木米次郎。日本の私立音楽大学の中では音楽学校としての時代を含めると最も古い歴史を持つ。国内の私立音楽大学として唯一創立から100年以上経過している。東京都千代田区神田猿楽町1-7に「東京音楽大学発祥の地」の石碑が建てられている。(Wikipedia

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本教寺山門/南池袋


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本教寺
慶長16年(1611)創立、東纏山本染寺と号す。明治401122日浅草区南松山町45本立寺を合併し、妙学山本教寺と改む。大正144月水久保大火により本堂焼失。昭和16年再建。戦災で焼失。昭和4211月再建。(豊島の寺院)


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服部嵐雪墓
江戸時代の中期の俳人で雪門の祖である。幼名は久馬之助、江戸湯島に生まれたといわれるが、出生地については異説が多い。通称を彦兵衛と称した。新庄隠岐守、井上相模守に仕えたがのちに仕を辞し、済雲和尚に従って禅を学び松尾芭蕉の門に入り黄落庵、石中堂、寒寥堂、雪中庵、不白軒、玄峰堂などの号がある。彼は芭蕉門十哲の一人で、榎本其角と並び称せられ名は広く知られた。芭蕉の死後、其角と江戸俳壇を二分し、門下に有名な俳人を多く輩出している。著書には「其袋」「或時集」「若水」などがある。宝永4年(1707101354歳で没した。初め本郷駒込の常験寺に葬り大正8年に改葬された。東京都指定文化財。(東京都教育委員会)


・・・東池袋

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江戸時代には豊島郡池袋村及び雑司ヶ谷村の一部であった。地名は池袋駅の東側に位置することに由来する。元々は大半が北豊島郡雑司ヶ谷村に属しており、本来の池袋村とは関係が薄い。かつては雑司ヶ谷の名の通り雑木林に覆われた土地であった。この現在の東池袋及び南池袋一帯は、江戸時代には旗本三千石中西公の拝領地であったために「中西の森」と呼ばれ、明治時代に根津嘉一郎が土地を買収すると「根津山」と呼ばれるようになった。「根津山」とは現在の豊島岡女子学園中学校・高等学校あたりにあった小さな丘のことだが、この周辺一帯の地名として使われた。(Wikipedia(図:旧鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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街道の風景⑤ サンシャインから平成帝京大脇へ旧道は続いていたようです/春日通り

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国道254号(春日通り)
文京区から埼玉県・群馬県を経由し松本市へ至る一般国道である。東京都心と埼玉県西部を結ぶ道路という事もあり渋滞が激しいこの道は、古くから川越街道-児玉街道-信州街道-富岡街道として「江戸道」「川越道」などとも呼ばれた。中山道より行程距離も短く通行者も多かったため五街道にに準ずる脇往還1つであった。山手線内側では春日通り(本郷三丁目交差点- 池袋六ツ又交差点)山手線外側や埼玉県では川越街道、群馬県内では信州街道などと呼ばれている。(Wikipedia

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池袋六ツ又子育地蔵尊/平成帝京大前
旧鎌倉街道の道筋にあり徳川時代から信仰の対象になっていたそうですが、詳細は分りません。道路拡張工事のためこちらに移されたそうです。


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豊島区立時習小学校跡地
時習小学校は、明治34年(1901510日に時習尋常高等小学校としてこの地に創立されました。校名は論語の「学而編」の一節「学びて時に之を習う」から引用されたものです。以来、平成15年(2003)に閉校となるまで100年以上にわたって多くの卒業生を送り出してきました。長年にわたり培われてきた伝統と校風は、統合後の朋有小学校(東池袋4丁目)に受継がれています。
旧西巣鴨町役場跡地
時習小学校の敷地南側の一角には、旧西巣鴨町役場が建っていました。この位置に役場が建てられたのは巣鴨村時代の大正2年(1913)で、昭和7年(1938)の豊島区の誕生までの約20年間にわたり使用されました。昭和13年(1938)には豊島区で最初の公会堂がこの地に建設されましたが、昭和20年(1945)戦災により焼失しました。(碑文)

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街道の風景⑥ 山手線の跨線橋(宮仲橋)を渡ります

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旧道風景               明治通りに合流します

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雑司が谷七福神おもてなしマップ(緑:鎌倉道 茶:目白通り・明治通り 赤:都営荒川線)

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雑司が谷周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(緑:鎌倉道 黄:目白通り・日出通り・明治通り 青:神田川・弦巻川)

鎌倉道中道(3)02-西早稲田の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27544994/

# by Twalking | 2019-04-13 09:41 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鬼王神社の水鉢   

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稲荷鬼王神社/新宿区歌舞伎町
「すっとこうだよ・・・」
重たいだろうね~、しかめ面も分かるよ。
がんばっておくれ~、鬼さん。


鬼王神社の水鉢

文政年間1818-1829)の頃制作されたもので、うずくまった姿の鬼の頭上に水鉢を乗せた珍しい様式で区内に存在する水鉢の中でも特筆すべきものである。水鉢の左脇には区内の旗本屋敷にまつわる伝説を記した石碑があり、これによると「この水鉢は文政の頃より加賀美某の邸内にあったが、毎夜井戸で水を浴びるような音がするのである夜刀で切りつけた。その後家人に病災が頻繁に起こったので天保年間(1833)当社に寄進された。台石の鬼の肩辺にはその時の刀の痕跡が残っている・・・」とある。この水鉢は高さ1m余、安山岩でできている。(新宿区教育委員会)

稲荷鬼王神社の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27541910/


# by Twalking | 2019-04-11 21:52 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 緑が恋しき頃   

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上之根公園/多摩市愛宕
そろそろ緑が恋しき頃、
ツツジが咲き始めました。
いいお天気、気持いいですね!

# by Twalking | 2019-04-11 16:13 | ○たま-2019

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 江戸六地蔵-大宗寺   

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太宗寺/内藤新宿(新宿区新宿)
銅造で高さは267cm、正徳2年(1712)「江戸六地蔵」の三番目として甲州街道沿いに造立されたもので、制作者は神田鍋町の鋳物師・大田駿河守正儀です。「江戸六地蔵」は江戸深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの寄進者を得て造立したもので、他は東海道の品川寺(品川・1708造立)、奥州街道の東禅寺(東浅草・1710造立)、中山道の真性寺(巣鴨・1714造立)、水戸街道の霊厳寺(白河・1717造立)、千葉街道の永代寺(富岡・1720造立・現存せず)です。現在も街道を往来する旅人の道中の安全を優しく見守ってくれています。有り難いことですね・・・、合掌。

大宗寺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27533117/


# by Twalking | 2019-04-10 23:07 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 春の雨   

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乞田川/多摩市落合
冷たい雨だこと・・・、
めげずずにがんばれ~!
愛しきさくらさん。

# by Twalking | 2019-04-10 19:19 | ○たま-2019

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 散るさくら   

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乞田川/多摩市落合
まだらになってきちゃったね・・・、
散る桜 残る桜も散るさくら、
この頃の桜も味わいがあります。

# by Twalking | 2019-04-09 23:31 | ○たま-2019

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉道中道(東回り)(3)東新宿~東十条02-西早稲田   

日時 2019.4.4(木)
天気 晴れ


早稲田周辺は神田川で訪れてことがあります。
箱根山(築山)北鹿の学習院女子前から
面影橋を渡り雑司ヶ谷へと旧道が残っています。

ここは「山吹伝説」が伝わる古地、道筋には
関連する寺社や史蹟などがあり楽しめます。
人気のコース、じっくり味わいたいと思います。



・・・西早稲田

(旧)戸塚町
東京府多摩郡にかつて存在した町の一つで、現在の新宿区高田馬場西早稲田などに当たる地域である。町域の北端をなぞるように神田川が流れ谷底平野を形成しているが、大半は武蔵野台地を構成する豊島台上にある。東京市編入時に大字下戸塚は戸塚町一丁目になり、大字源兵衛は戸塚町二丁目、大字戸塚は戸塚町三丁目、大字諏訪は諏訪町になったが、1975年に住居表示のためその大部分が明治通りを境に東部西早稲田、西部が高田馬場にそれぞれ編入された。ただし戸塚町一丁目の一部が現在もリーガロイヤルホテルや早稲田中学校・高等学校の場所等に点在して残置する。(Wikipedia

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街道の風景① 学習院女子中・高の向かいから旧道を神田川へ向かいます/諏訪通り早稲田通り

この道について江戸砂子には次のようにある。『高田馬場南手、尾州の御殿屋敷へ行く道、畑の間に幅45尺ばかりの道あり、里の古老伝、往古板橋よりかまくらへ往還の所也と伝えたり』(旧鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)

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早稲田通りに出ます          左手信号の茶屋通り入口へ迂回

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街道の風景② 鎌倉道は左折ですが、茶屋通り一帯が「高田馬場」があった所です

高田馬場

寛永131636)年に築造された馬場。名前の由来は慶長年間(1596-1615)に徳川家康の6男・松平忠輝(ただてる)の母・高田殿が遊覧したことによるとの説がある。堀部安兵衛が伯父の仇を討った地として有名。時代が下るとともに娯楽の場となり賭け的等の催物が行われた。雑司が谷の鬼子母神に参拝する人びとにとって、途中の馬場での遊びは欠かせないものであった。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)


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茶屋町通り
江戸時代、この付近には旗本の馬術練習場があり、見物客等が多かったことから地元の農家が茶屋を開いた。(標柱)

高田馬場跡
西早稲田3丁目121214番を含む長方形の土地が江戸時代の馬場跡である。馬場は寛永131636)に造られたもので、旗本たちの馬術の練習場であった。また、穴八幡神社に奉納するため催された流鏑馬などが行われ、将軍の供覧に入れたところでもある。享保年間(17161753)には馬場の北側に松並木がつくられ、8軒の茶屋があったとされている。土地の農民が人出の多いところを見て茶屋を開いたものと思われる。また、馬場の一角、茶屋町通りに面したところは堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところで、水稲稲荷社の境内には「堀部武庸加功遺跡
の碑」が建っている。(東京都新宿区教育委員会)
 
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江戸名所図会 高田馬場 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

『追廻しと称して二筋あり、竪ハ東西へ六町に横の幅ハ南北へ三十余間あり。相伝ふ、昔右大将頼朝卿、隅田川より此地に至里(いたり)軍の勢揃ありし旧蹟なりといへり。土人の説に慶長年間越後少将忠輝卿の御母堂・高田の君、遊望の儲として開かせらるゝ所の芝生なりしか』(江戸名所図会)

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街道の風景③ 街道は神田川低地へ向かって緩い下りになっています/亮朝院門前

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亮朝院(りょうちょういん)山門

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亮朝院
新宿区西早稲田にある日蓮宗の寺院。如意山栄亮寺。旧本山は身延山久遠寺、通師法縁。通称、高田の七面堂。徳川将軍家の祈祷所として栄えた。牛込和田富山荒井山五明村(現在の新宿区)に日暉が祀った七面堂が起源。明暦元年(1655)徳川家綱(江戸幕府4代)から祈祷所に指定され御筆を賜る。明暦3年(1657)五明村に寺地を拝領。寛文111671現在地へ移転した。(Wikipedia

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亮朝院本堂
亮朝院の本堂は木造、正面五間、側面五間、寄棟造り、本瓦葺きの建物で、嘉永31850)に建築された。屋根などを中心に後代の改修や改変が多く見られるものの、全体として当初の状態がよく維持されている。内部は建具を入れれば細かく仕切ることができ、修行僧が籠る場として使用されたものと推定され、修行道場としての本堂という性格も持っている。平成6年(1994)から8年(1996)にかけて耐震補強等を目的とした改修工事が行われた。区内では希少な江戸時代の寺院建築で、江戸時代後期に発行された『江戸名所図会』の挿絵にも描かれており、当時の亮朝院境内の様子を知ることができる建造物として貴重である。(新宿区教育委員会)

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梵鐘
江戸鋳物師の鋳造技術が極めて高かった元禄151702)に造られた銅造の梵鐘。総高141.5cm。銘文により浅草権兵衛が発起人となり市谷田町講・関口講などの講中のほか506名の武士や庶民が鋳造に寄与していることがわかる。

亮朝院文書

如意山亮朝院に伝来する古文書類で、亮朝院の開基である能勢の局の書状など年代不明のものを除くと、寛永2年(1625)の日閑筆「疫神遠離秘法」を最古とし、昭和15年の「福寿海無量」まで約400件に及ぶ区内最大規模の寺院文書である。内容は江戸後期から明治時代のものが多く、亮朝院の由緒や経営、建物や境内の普請工事などに関するものが中心である。亮朝院は江戸前期に徳川家の庇護のもと、その祈祷所として成立したが、明治以後は一般檀徒の寺となった。文書からはこのような寺の歴史的変遷を知ることができる。戸塚地区に残る数少ない古文書として貴重である。(新宿区教育委員会)

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七面堂山門

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亮朝院七面堂
亮朝院の七面堂は木造・正面5間・側面5間・入母屋造り・銅板葺きの建築で、天保5年(1834)に建築された。当初拝殿・幣殿・本殿の3棟からなる権現造りであったが、幕末頃に現在の形になったと推定される。縁側や屋根などに後代の改修や改変が多く見られるものの概ね当初の状態がよく維持されている。平成68年にかけて耐震補強などを目的とした改修が行われた。区内では希少な江戸時代寺院建築で、江戸後期に発行された「江戸名所図会」の挿絵にも描かれており、当時の亮朝院の院境内の様子を知ることができる建築物として貴重である。(新宿区教育委員会)

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亮朝院の金剛力士石造
宝永21705329日に奉納された石造の金剛力士像で境内の七面堂前に阿吽一対で安置されている。総高234cm、像の背面には奉納年月日と造立施主として「尾州住大工加右衛門日匡代(にっきょう)」の名が刻まれている。尾張の大工・加右衛門は嘉右衛門とも書き、亮朝院の堂塔についても寄進したとする記録がある。日匡は亮朝院の5代住職である。金剛力士像は一般に「仁王」と呼ばれ、仏を守護するものとして寺院の山門などに阿形と吽形の一対で安置される。大半が木彫りでありこのような石造のものは珍しく区内では唯一のものである。(新宿区教育委員会)

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江戸名所図会 高田 七面堂 朝日桜 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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西早稲田天祖神社鳥居

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西早稲田天祖神社
新宿区西早稲田に鎮座している神社。大坂夏の陣後、豊臣秀吉の遺臣・小泉源兵衛らが江戸に逃れ、当時荒地だった源兵衛村付近を開墾源兵衛村を作った。小泉源兵衛は伊勢の内宮外宮に参籠して霊感を受け、1645年(正保2)に当社を創建したとされる。1867年(慶応3年)までは豊島郡高田村・真言宗豊山派神霊山金乗寺別当寺となっていた。長らく「神明宮」「神明神社」と称していたが1870年(明治3)の大教宣布により天祖神社に改称する。以降、豊島郡源兵衛村、戸塚町大字源兵衛、淀橋区→新宿区戸塚町二丁目の鎮守となる。1894年(明治27年)本社普請の際にそれまで境内にあった四祭神(諏訪神社・須賀神社・稲荷神社・厳島神社)を合祀。(Wikipedia

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甘泉公園下池街道の東側(亮朝院の向かい)にあります

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甘泉公園/西早稲田
甘泉公園(かんせん)という名は園内に湧き水があり、清冽で常時枯れずまたに適したところから起こったものであり、その由来を書き記した石碑が園の南東に当る水稲荷神社務所脇に存在している。この地は江戸中期の安永31774)徳川御三卿の一つ清水家下屋敷がおかれたところである。明治30年頃相馬家の所有にとなったが、昭和13早稲田大学に移譲された。戦後都がこの地を買収し改修の手を加えて昭和44年区へ移管した。神田川右岸を東西に走る台地の北面の傾斜とその低地にあって、段丘の高低差を利用し泉の水を引いた池を回遊する林泉になっている。池傍より見上げる雄大な常緑樹に囲まれ春のツツジ、秋の紅葉が水面に写り美事な景観を創り出している。「日本の歴史公園100選」にも選定された(東京都)

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上池                 緑豊かで、滝もあります

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江戸名所図会 山吹の井 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


甘泉園公園内の水稲荷神社社務所横の古木が繁る山を三島山といい三島神社跡地であり、その北側の清水(現在は水道)の出る所を甘泉という。これについて同書は次のようにある。
『相伝ふ。右大将頼朝卿、此の高田に地軍兵勢揃いありし頃、此の御神を勧請せし給う云々。この山岸に少し計りの甘泉あり、これを山吹の井と呼べり、土人或いは三島明神の御手洗、又は頼朝卿の馬の冷し場なりともいひ伝えり』(旧鎌倉街道探索の旅/芳賀善次郎著)


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水稲荷神社
(みずいなりじんじゃ)参道

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堀部武庸加功遺跡之碑
この記念碑は「忠臣蔵」における代表的な論話であり、地域の伝承として知られる「高田馬場の決闘(元禄7)における赤穂浪士・堀部安兵衛の事績を顕彰する記念碑である。江戸時代に高田馬場の管理を委託されていた甲州屋の子孫・行田久蔵が明治43年(1910)に建立した。篆額は西園寺公望、撰文は信夫恕軒、書は日下部東昨、鐫(せん)は堀部忠蔵の手になる。また賛助者は頭山満、犬養毅、大隈重信、三田村鳶魚(えんぎょ)など当時の名士が名をつらねている。当初は茶屋通りにある九蔵の植木園に建てられたが、昭和46年に現在地へ移された。総高は350cmである。この記念碑が建てられて当時は日露戦争の国家主義の高揚を背景とし「忠臣蔵」の再評価が高まった時代であった。また、明治から大正にかけて全国的に建碑ブームが巻き起こり歴史上の事象や人物に関する顕彰運動が盛んな時代でもあった。(新宿区教育委員会)
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歌川国芳「忠孝義勇 伯父の復習」/説明板

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水稲荷神社鳥居

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水稲荷神社
天慶4941)鎮守府将軍・俵藤太秀郷朝臣がはじめて旧社地(現境内地南方およそ300m)の富塚の上に稲荷大神を勧請された。はじめ富塚稲荷または将軍稲荷と呼ばれた。文亀元年1501)川越管領・上杉治部少輔朝良朝臣が夢に一老翁を見た。老翁は「我此所を守護し民をして太平の化を蒙らしめ所を繁栄ならしめんとす汝必ず民を虐ぐる事勿れ」といわれたので、朝臣が「翁は如何なる人にましますぞ」と問えば「天の戸を開きて江戸に稲荷なる富塚の里にいくよへにけり」と答えて夢がさめた。時に庭前に一老狐がおり朝臣を顧みて江戸の方に飛び去った。朝臣はただちに家臣をして江戸・戸塚のあたりを探させたところ戸塚音信山に稲荷の古社があり、その傍の古塚に白狐が年久しく住んでいることがわかった。朝臣はただちに社殿を造営し戸塚一円を社領にした。天文19年(1550牛込主繕正時国が社殿を造営した。天和2年(1682)佐藤駿河守信次が社殿を造営した。

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元禄15年(17024月神主の夢想により大椋の下に霊水が湧出、時に江戸市中眼病を患うもの多く諸人困難したが、この霊水によって治った者がたくさんあった。またその節の御神託に「我を信仰する者には火難をまぬかれむべし」とあり、このことから世に水稲荷と称し奉れ消防関係者、水商売の人たちは特に参詣した。当時は信仰範囲甚だ広く、現に伊勢国飯高郡の人の納めた石燈寵が残っている。天明8年(1788)京都大火皇居炎上の際しきりに防火につとめる老翁があり、遂に天眼に留り名を問われた時「江戸の水稲荷」と奉答して姿を消した。この時の恩賞に関東稲荷惣領職を賜わったと伝えている。(東京都神社名鑑)

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富塚古墳

社殿の真裏の小高い丘は戸塚町名起源ともいわれている「冨塚古墳」です。元々早稲田大学9号館裏にあったものがここに移されました。(水稲荷神社HP)

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江戸名所図会 高田稲荷 毘沙門堂 富士山 神泉 守宮の池 宝泉寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用


水稲荷神社は『江戸名所図会』に描かれた当時「高田稲荷」とよばれていました。中央付近の小高い丘の上にあるのが水稲荷神社(高田稲荷)で、ここは現在の早稲田大学9号館裏のあたりです。右上の山は高田富士で、水稲荷神社(高田稲荷)とともに昭和38(1963)に西早稲田3丁目の現在地に移転しました。(水稲荷神社HP)

神田川-早稲田周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/24131657/

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街道の風景④ 面影橋を渡ります、神田川は豊島郡と江原郡の郡境でした

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桜が満開、最高のお花見日和です

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面影橋の由来
目白台から続く鎌倉街道沿いにあり姿見橋ともいわれていました。橋名の由来には諸説あり高名な歌人である在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説、鷹狩りの鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けたという説、近くにいた和田靭負(ゆきえ)の娘であった於戸姫が数々の起こった悲劇を嘆き水面に身を投げた時に歌った和歌から名付けたという説などが知られています。なお、姿見の橋は面影橋(俤橋)の北側にあるもので別の橋だという説もあります。(説明板)

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江戸名所図会 姿見橋 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


『昔はこの橋の左右に池ありて、その水淀んで流れず、故に行人覗き見れば鏡の表に相対するが如き、水面端然たる故に名とするも、或いは寛永の頃、大樹(将軍)御放鷹のとき、お鷹それけるが此の橋の辺りにて見出し給ひしかば、台命(将軍の命令)によりて此の名を呼ぶばせられし由、俚諺に言う』(江戸名所図会)

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街道の風景⑤ 橋を渡ると豊島区です、すぐ右手に「山吹の里の碑」があります

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山吹の里の碑
新宿区山吹町から西方の甘泉園面影橋一帯は通称「山吹の里」といわれています。これは大田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日「七重八重花は咲けども 山吹の みのひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられ道灌が無学を恥じそれ以来和歌の勉強に励んだという伝承で『和漢三才図会』(聖徳2年・1712年)などの文献から江戸時代中期の18世紀前半には成立していたようです。「山吹の里」の場所についてはこの地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などとする説があって定かではありません。ただ、神田川対岸の新宿区一帯は昭和63年(1988)の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や鎌倉街道の伝承地などが集中しており中世の交通の要衝地であったことは注目されます。この碑は神田川の改修工事が行われる以前は面影橋のたもとにありましたが、碑面をよく見ると「山吹之里」の文字周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享31686)に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。(豊島区教育委員会)

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江戸名所図会 山吹の里 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

『山吹の里は高田馬場より北の方、民家の辺をいふ。昔太田持資、江城にありし頃、一日(あるひ)この戸塚の金川の辺に放鷹す。急雨に遇ふて傍らの農家に入り簑をからんことを乞ふ。ときに内より小女出でて、詞はなく盛んなる山吹の花一枝をもて持資に捧ぐ。こは『後拾遺集』に「七重八重花はさけども山吹のみのひとつだになきぞかなしき」とある兼明親王の和歌によりて答へたるにて、いまもその才覚を賞し世に伝へて美談とせり』(江戸名所図会)

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西早稲田周辺マップ(緑:鎌倉道 黄:諏訪通り・早稲田通り・新目白通り・明治通り 青:神田川)

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西早稲田周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)(緑:鎌倉道 青:蟹川・神田川 赤丸:箱根山)

鎌倉道・中道(3)01-戸山の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27541910/

# by Twalking | 2019-04-09 19:59 | 鎌倉街道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 龍-抜弁天   

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抜弁天(厳島神社)/新宿区余丁町
狛犬さんはいないみただけど・・・、
替わりにお護りしてるのかな??
鋭いね~!、龍さん、迫力満点。

抜弁天(厳島神社)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27533117/

# by Twalking | 2019-04-08 18:39 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 もみじ   

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鹿島公園/八王子市鹿島
さくらの頃、
君も小さな花を咲かすのかな・・・、
可愛いね!もみじさん。

# by Twalking | 2019-04-08 17:26 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夜桜   

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乞田川/多摩市落合
あれ、サクラさんかな~???
撮った画像で気がつきました。
狙いは違うけど「夜桜」にしよっと。

# by Twalking | 2019-04-07 22:12 | ○たま-2019