無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ペチュニア   

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多摩市愛宕
う~ん、艶やかなこと、
ペチュニアさんかな??
ひとまずそうしておくね~・・・。


ペチュニア

南米原産のナス科ペチュニア属に属する草木の総称。属名のPetuniaはブラジル先住民の言語で「たばこ」の意味。日本には「ツクバネアサガオ」の名称で渡来し寒さに弱いため専ら一年草として扱われた。雨で育成不良や枯れる事が多々あることから人気は今ひとつだったが、サントリーが日本の気候に適応できるよう品種改良した「サフィニア」を出してから人気が高まった。種まきは4月~5月、開花期は4月~10月である。Wikipedia

# by Twalking | 2018-09-21 23:20 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり『ひぐらしの里』01-道灌山   

日時 2018.9.18(火)
天気 晴れ


不安定な天気が続いていますが、
なんとか晴れそうなので日暮里周辺
に歩きに出かけました。

武蔵野台地北側の続きでになりますが、
全く知らない所、土地勘もないので
「散策マップ」等を参考にしました。
いい所ですね~!見所一杯です。


・・・西日暮里

日暮里(町)
1918年(大正7年)に町制施行して誕生、元の武蔵国豊島郡日暮里村(にっぽりむら)。歴史的には武蔵野台地と荒川沿岸の低地(氾濫原)の境にあり起伏が激しい。奈良時代にはこの周辺は「武蔵国豊島郡荒墓郷」と呼ばれていた。この荒墓郷は現在の台東区・荒川区・北区南部あたりを占めるかなり広大な地域であった。日暮里はかつて新堀(にいほり)という地名だったが、享保のころから「一日中過ごしても飽きない里」という意味を重ねて「日暮里(日暮らしの里)」の字が当てられ、1749年(寛延2年)に正式な地名となった。Wikipedia抜粋)

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街道の風景① 道灌山通りの右が道灌山、左が諏訪台です/西日暮里駅歩道橋

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東京都道457号駒込宮地線
文京区と荒川区を結ぶ一般都道。(通称道灌山通り全線が環状4号線に属している。起点:文京区千駄木3丁目(道灌山下交差点)終点:荒川区西日暮里1丁目(宮地交差点)経由地:千代田線・西日暮里駅・JR東日本西日暮里駅)千代田線西日暮里駅は同道路の地下に建設され、JR東日本の西日暮里駅は同道路をまたぐ跨線橋の上にホームがある(Wikipedia


・・・道灌山

荒川区西日暮里四丁目にある高台である。上野田端王子へ連なる台地の一際狭く少し高い場所にある。名称の由来は江戸城を築いた室町時代後期の武将・太田道灌出城址という説、鎌倉時代の豪族・関道閑(せきどうかん)の屋敷址という説がある。明治
時代にはこの台地を訪れた正岡子規が「山も無き 武蔵野の原を ながめけり 車立てたる 道灌山の上」とここからの眺望を短歌に残している。Wikipedia


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街道の風景② 開成高校に沿って坂を上ります/ひぐらし坂下

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ひぐらし坂
荒川区西日暮里四丁目にある延長約180mの坂である。都道457号駒込宮地線(通称・道灌山通り)に面する開成高校の正門脇から途中左方に曲がり、開成学園グラウンド脇に上る。坂のある台地道灌山と呼ばれる高台であり、この坂は道路を通すために道灌山を削り道灌山通りと田端方面とを接続させるために作られた。1990年(平成2年)に地元から要望によって「ひぐらしの里」に因んで「ひぐらし坂」と名づけられた。Wikipedia

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佐竹邸と渡辺町/坂下
この付近一帯は
秋田藩主
・佐竹右京太夫の広大な抱屋敷であった。約2万坪(約660002)に及ぶ敷地内には「衆楽園」と名づけられた山荘があり当時、城北屈指の名園として知られていた。明治以降、笹や竹が生い茂り「佐竹っ原」と呼ばれるようになったが、大正5年に27銀行(後の東京渡辺銀行)頭取・渡辺治右衛門が入手し、近代的田園都市を目指した高級住宅地を建設・分譲した。渡辺町と呼ばれ、石井柏亭ら多くの芸術家・文化人が住んだ。昭和7年の区制施行時に日暮里渡辺町が正式地名に採用された。(荒川区教育委員会)

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道灌山遺跡
開成学園第2グランドを中心に広がり、縄文時代(およそ8000年前)から江戸時代にわたって営まれた集落址である。これまでの調査により縄文時代の住居址、弥生時代中期の住居址と溝(環濠)、平安時代の住居址、江戸時代の溝などが検出されている。グランド北側から検出された環濠は幅約1.6m、深さ1.3mで断面形がV字形を呈する。ほぼ東西に延び、台地上における弥生時代集落の居住区域の北限を示すものと思われる。(荒川区教育委員会)
第一号住居址(ここから西へ約10m)
開成学園第2グラウンド内から発見された弥生時代中期の住居址である。平面形は四隅が丸い長方形を呈し、長径約5.6m、短径約4.4m、深さ約20cmである。(荒川区教育委員会)

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開成高グランド先から田端方面を望みます/坂上

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道灌山
西日暮里四丁目の台地は道灌山と呼ばれている。地名の由来として太田道灌砦跡という伝承や、地元の土豪で善性寺(東日暮里五丁目)の開基とされる関道閑屋敷跡などの説がある。道灌山は眺望に優れ、秋田藩主佐竹右京大夫の抱屋敷や上覧場と呼ばれた見晴台などがあった。見晴台は庶民にも開放され茶屋が設けられていた。眼下には三河島や尾久の田園風景、筑波山や日光連山、下総国府台(千葉県市川市)などを望むことができた。道灌山は薬草摘みの場として知られ一年中、採取者が訪れていた。また、虫聞きの名所としても名高く、秋の風情を求めて江戸の人びとがここに集まった。虫聞きの様子が歌川広重の浮世絵などに描かれている。その後、田端の台地(北区)も道灌山と呼ばれるようになり、茶屋などが設けられ賑わいを見せるようになった。その一方でここ道灌山の物見台は寂れていったという。根岸(台東区)の正岡子規も道灌山をよく訪れ、紀行文「道灌山」を残したことで知られる。(荒川区教育委員会)


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向陵稲荷神社鳥居/西日暮里


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向陵稲荷神社/西日暮里
当社は向陵稲荷大明神(宇迦之御魂神)を主神とし祭祀を行い、祭神の神徳をひろめ本神社を信奉する人々を教化育成し、家内安全・商売繁盛及び学業成就の神であります。当社は江戸時代初期より佐竹右京太夫屋敷内に祀られておりましたが、大正の初期渡辺町(現西日暮里4丁目の一部)の開設されたときにひぐらし公園(現開成学園中学校の校庭)に祀られ町の鎮守と崇められていました。後当初に移転しましたが、昭和20年の大戦災で全町焼土と化しましたが当社は不思議にも戦火をまぬかれ神威赫々として現存し、昭和46年社殿を改築、社務所を新設し宗教法人向陵稲荷神社となりました。(説明板)

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街道の風景③ 開成学園の高校と中学の間を道灌山通りへ下ります/向陵稲荷坂


・・・西日暮里公園

西日暮里駅から坂を上がった高台にある西日暮里公園。すぐ近くには諏方神社があり、多くのお寺が点在しています。この辺りは江戸時代に「ひぐらしの里」として高台からの見晴らしや寺社巡り、虫の鳴き声を楽しむ虫聴きなどで親しまれていました。(荒川区HP)


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街道の風景④ 西日暮里駅から坂を上ると西日暮里公園があります/西日暮里駅

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素晴らしい森が残ります、景勝地だったんですね/西日暮里公園

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青雲寺境内と前田家墓地
かつてこの地には、太田道灌に荷を運んでいた舟人が目印にしたという舟繋松があり、荒川(隅田川)の雄大な流れ、筑波・日光山の山影を望むことができる景勝地として多くの人々が訪れた。花見寺の一つ青雲寺(西日暮里3丁目6番)の境内の一部で、金毘羅社なども祀られていた。明治7年この一帯が旧加賀藩前田家に売却くされ同家墓地となった。前田家12代当主・斉泰から4代にわたって神式の墓地として使われたが、昭和47年に国許に改葬され翌48年その跡地にこの西日暮里公園が開設された。なお、この地にあった日暮里舟繋の松の碑や滝沢馬琴筆塚の碑などは、現在の青雲寺本堂前に移されている。(荒川区教育委員会)

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道灌山
道灌山は上野から飛鳥山へと続く台地に位置します。安政3年(1856)の「根岸谷中日暮里豊島辺図」では、現在の西日暮里付近にその名が記されています。この公園を含む台地上に広がる寺町あたりはひぐらしの里と呼ばれていました。道灌山地名の由来として中世、新堀の(日暮里)の土豪・関道閑屋敷を構えたとか、江戸城を築いた太田道灌出城を造ったなどの伝承があります。ひぐらしの里は江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季おりおりの景色を楽しんだところから「新堀」に「日暮里」の文字をあてたといわれます。

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道灌山・ひぐらしの里は荒川区内で最も古い歴史をもつところです。このあたりから出土した土器や住居址などは、縄文時代から数千年にわたって人々の営みが続けられたことを物語っています。道灌山の大半は秋田藩主・佐竹氏抱屋敷になりますが、東の崖ぎわ人々の行楽地で筑波・日光の山々などを展望できたといいます。また薬草が豊富で多くの採集者が訪れました。ひぐらしの里では寺社が競って庭園を造り、さながら台地全体が一大庭園のようでした。『桃さくら鯛より酒のさかなにはみどころ多き日ぐらしの里』(十返舎一九)雪見寺(淨光寺)、月見寺(本行寺)、花見寺(青雲寺・修性院)、諏訪台の花見、道灌山の虫聞きなど、長谷川雪旦や安藤広重ほかの著名な絵師の画題となり今日にその作品が伝えられています。明治時代、正岡子規も道灌山・ひぐらしの里あたりをめぐり「道灌山」という紀行文を著しました。『山も無き武蔵野の原を眺めけり車立てたる道灌山の上』(子規) 昭和48年ここ西日暮里公園が開園し区民のいこいの場となっています。(石碑文)

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道灌山虫聴
江戸時代から明治時代にかけて道灌山は虫聴きの名所だった。『江戸名所花暦』(文政10年(1827) 刊行文は岡山鳥で絵は長谷川雪丹)にはつぎのように書かれています。虫『道灌山 日暮より王子への道筋、飛鳥山への続きなり。むかし太田道灌出城の跡なりといふ。くさくさの虫ありて人まつ虫のなきいつれはふりいてヽなく鈴虫に、馬追い虫、轡虫(くつわむし)のかしましきあり。おのおのその音いろを聞んとて、袂すヽしき秋風の夕暮より、人人是にあつまれり。また麻布広尾の原、牛嶋もよし虫聴きの名所は、道灌山が最も有名でとくに松虫が多く澄んだ音色が聞けたといいます。このほか真崎(南千住白鬚橋のたもと)、隅田川東岸(牛嶋神社あたり)、三河島(荒木田の原あたり)、王子・飛鳥山辺、麻布広尾の原が虫聴きの名所でした。『東都歳時記』によれば旧暦7月の末、夏の終わりから秋の初めにかけて「虫聴」がさかんだったと記されている。道灌山虫聴の絵は雪丹、安藤広重、尾形月耕が描いた3種類があります。広重の絵は公園入口に模写したものがあります。尾形月耕は明治期に活躍した画家で、岡倉天心らとともに美術界発展に尽くした人です。新聞の口絵、挿絵が有名でした。この絵は道灌山に月が昇る頃、中腹にむしろを敷き、虫かごに虫を入れて鳴かせ、たくさんの虫に音色を催促しています。坂を上ってくる女性が足音をしのばせている姿もほほえましく感じます。この絵は明治末頃の作と思われますが、秋の夜長に涼を求めて老若男女がここにあつまり、自然の美しさ、すばらしさを楽しんでいたのです。(石碑文)

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道灌船繋松
道灌船繋松のことは『江戸名所図会』(天保七年刊(1836)斎藤幸雄・幸孝・幸成(月岑)の33人が文章を書き、長谷川雪旦が絵を描く)にくわしく書かれています。『青雲寺の境内、涯に臨みうっそうとしてそびえたり、往古二株ありしが、一株は往んじ安永元年の秋、大風に吹き折れて、今は一木のみ残れり。(中略)或人曰く、往昔このふもとは豊島川に続きし入江にて、道灌の砦城ありし頃は、米穀その外すべて運送のよりこの目当にせしものにて、つなぐといふもあながち繋ぎとどむるの議にはあらず、これは舟人の詞にして、つなぐといふは目的とするなどといえるに同じ心とぞ。よってその後道灌山の船繋ぎの松と称して、はるかにこの所の松を目当にせしを誤りて、道灌船繋の松と唱ふるとぞ』長谷川雪旦は「日暮里惣図」と題し、この地域を7枚に画いています。道灌山から諏訪神社、浄光寺、養福寺、本行寺まで当時の様子がわかります。道灌船繋松はこの絵の中でも台地上に高くそびえています。安永元年(1772)の秋台風のため一本が折れ、残り一本になってしまったようです。この松をなつかしんで「日暮里繋舟松之碑」が道潅山に建てられましたが、現在は青雲寺本堂脇に移されています。建碑の年月はわかっていません。天明5年(1785)に鳥居清長の描いた墨本「画本物見岡」の「日暮里青雲寺境内」の絵にこの石碑を眺めている人たちの姿がみられることから、石碑は安永元年から天明5年までの13年間に建てられたことがわかります。道灌山の船繋松はここのシンボルであり、地域の人たちに親しまれ大切にされていました。(石碑文)

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江戸名所図会 日暮里惣図 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


・・・諏訪台通り

諏訪台
諏訪台は縄文・弥生時代から人々が生活を営んでいた場所であり、景勝の地としても知られている。江戸時代、四季折々の景色を楽しむ客でおおいに賑わった。安藤広重の『名所江戸百景』の中にも諏訪台の春景色が描かれている。また「土器投げ」という遊びが流行し「花の散るたびに土器それるなり」など川柳にも詠まれた。享保13年(1728浄光寺の住職宝山が『諏訪浄光寺八景詩歌』を板行。筑波茂陰・黒髪晴雪・前畦落雁・後岳夜鹿・隅田秋月・利根遠帆・暮荘炬雨・神祠老杉の八景を巧みに詠んだ諸家の詩歌が収められている。(荒川区教育委員会)

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高村光太郎記念碑
荒川第1日暮里小学校門前に石碑とふくろうの像があります。創立百周年の際に造られたもので、石碑『正直親切』は同校卒業の高村光太郎直筆によるものです。(案内版)

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諏方神社鳥居/西日暮里


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諏方神社
信濃国諏訪の住人豊島左衛門尉経泰は、諏訪明神を敬い守護神と崇めていたが、治承のころ源頼朝の幕下に参じ、関東の野に奮戦して勇名をとどろかしその軍功により豊島の地を賜わる。これも御神徳の賜と経泰江戸に移住するとき一行とともに下行、己が庭内に勧請するが、これを郷土の人びと明神の御神徳と仰ぎ、産土神として奉仕するに至る。とき元久2年(1206)である。文安(1449-9)のころにおよんで太田道濯当社に祈り、霊験あらたかなるをもって社領を寄進するなど、信仰大いに寄せられる。寛永11年(1634)日暮里の現在地山をひらきて御遷座し奉る。慶安2年(1650)には徳川氏神領として五石の御朱印を寄せ、爾来、徳川氏は厚き誠を寄せられた。当地は上野より飛鳥山に通じる高台にあって、四季の眺望よく文人墨客の遊観頻繁にして、諏訪台八景の地に選ばれるなど江戸景勝の地としても賑わった。(東京都神社名鑑)

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源為朝公の山車
この人形はだしにしつらえ御輿と共に巡行したもので、平安時代末期武勇に猛けた「源為朝」鎮西八郎為朝公を擬してある。製作年は安政(18541860)とあるが作者は現在不詳。当時の日暮里諏方様の山車は江戸の中でも有名であり、且つ格式の高いものであった。特に日清戦勝の祝賀会が皇居前広場で行われた時、東京中の山車が勢揃いした。その勢揃いの順位が3番目、道中鳶頭連中が木遣りと芸者の手古舞を2頭の牛車が引いて参列し妍を競ったといわれる。明治の終わり頃までは本祭りの度に牛と子供連中に曳かせたが、その後土地の発展に従い電線などにより不可能となり、氏子有志が組織した「祖崇会」が維持管理し人形だけ飾った。戦後からそれが自然と消滅して、人形は倉庫の中に保管したがその痛みが激しく、このままでは朽ち惜しいということで金子正男・工藤三郎両氏相計い、昔日の姿に復元したものである。(平成元年1027日 平塚春造記)

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地蔵坂
この坂はJR西日暮里駅の西わきへ屈折して下る坂である。坂名の由来は諏方神社の別当であった浄光寺に、江戸六地蔵の三番目として有名は地蔵尊が安置されていることにちなむという。(荒川区教育委員会

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諏方神社境内


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浄光寺山門/西日暮里

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江戸六地蔵と浄光寺
山門をくぐって左手に高さ一丈(約3m)の銅造地蔵菩薩がある。元禄4年(1691空無上人の勧化により江戸東部6ヶ所に六地蔵として開眼された。もと門のかたわらの地蔵堂に安置されていたもので、門前は「地蔵前」ともよばれる。浄光寺は真言宗豊山派の寺院。法輪山法幢院と称し江戸時代までは諏方神社別当寺であった。元文2年(1737)八代将軍吉宗が鷹狩の際にお成りになり、同5年以降徳川将軍御膳所となった。境内に「将軍腰かけの石」がある。眺望にすぐれた諏訪台上にあり、特に雪景色がすばらしいというので「雪見寺」ともよばれた。(荒川区教育委員会)

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石造群                   江戸六地蔵

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浄光寺墓地より西日暮里駅方向の景観です

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街道の風景⑤ 右が富士見坂ですが、ひとまず直進してみます/諏訪台通り

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日暮里小学校跡
明治135月谷中天王寺門前の瑞輪寺境内にあった寺子屋が日暮里6番地(現諏訪台ひろば館あたり)に分離移転したという。その後、公立小学校設置の必要性に迫られていた日暮里村・谷中本村・谷中村の三村が東京府知事に設置を嘆願。明治18年に認可され公立日暮小学校が誕生した。開校当時、児童数36名、教員2名・1学級で、校舎は萱葺15坪(約502)一棟の規模であったという。大正2年校名を第一日暮里尋常高等小学校と改称。昭和1111月日暮里9丁目1080番地、旧星雲寺内(現在の区立第一日暮里小学校)に新築移転した。(荒川区教育委員会)

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養福寺参道/西日暮里

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養福寺仁王門

養福寺は補陀落山観音院と号し真言宗豊山派に属しています。開創の確かな年代はわかりませんが、初代住職という乗蓮は寛永3年(1626)に没したと伝えられています。この仁王門は山門を入り正面右寄りにあります。もとの本堂や観音堂などほかの建造物は戦災で失われましたが、宝永年問1704-1711)建立と伝えるこの仁王門は焼失を免れて江戸期の木造建造物として現在に残ったものです。門の表側には仁王像一対があり一つは口を開いて「阿」、一つは口を閉じて「呼」を示しています。仁王像は分身して一対になり仏法を守護するといわれ、各地の寺々にも多くみられます。また、門の裏側には四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)のうちの二天(広目天・多聞天)の像があります。(荒川区の文化財)

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養福寺と文人たち
養福寺は真言宗豊山派の寺院で補陀落山観音院と号し、湯島円満寺の木食義高(享保3年・1718没)によって中興されたという。江戸時代、多くの文人たちが江戸の名所である「日暮里(ひぐらしのさと)」を訪れ、その足跡を残した。なかでも養福寺は「梅翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などからなる『談林派歴代の句碑(区指定文化財)』や江戸の四大詩人の一人、柏木如亭を偲んで建てられた『柏木如亭の碑』、畸人で知られた自堕落先生こと山崎北華が自ら建てた「自堕落先生の墓」などさまざまな文人の碑が残る寺として知られている。(荒川区教育委員会)
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養福寺墓地から日暮里駅方向の景観です

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啓運寺山門/西日暮里

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啓運寺
荒川区西日暮里にある法華宗本門流の寺院。山号は法要山。大本山鷲山寺末。木造毘沙門天像(寛政9年以東光雲作)や区内唯一の延宝8115日銘庚申塔(ともに荒川区登録文化財)を所蔵する。元和元年(1644)、円住院日立を開山に寛永寺御用地(現在の下谷一丁目付近)に創建され、元禄11年(1698)に下谷二丁目へ移転後、明治18年(1885)に現在地へ移転したという。Wikipedia

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木造毘沙門天像(啓運寺)
啓運寺は法華宗(本門流)の寺院で法要山と号す。上野にあったが明治18年に現在地に移転。毘沙門天は多聞天ともいい、四方を守護する四天王の一つであるが独立して福徳富貴の神としても信仰されている。当寺の毘沙門天は台座の裏に「寛政9年(17978月吉辰、仏師以東光雲」の墨書銘がある。その外境内には延宝8年(1680)銘の庚申塔がある。この塔には「三守庚申三尸伏、妙法、七守庚申三尸滅」の銘文のほか36名の施主名が刻まれており区内唯一の日蓮宗系の庚申塔である。(荒川区教育委員会)

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日暮里周辺地図

# by Twalking | 2018-09-21 19:56 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 秋雨   

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乞田川/多摩市落合
シトシト、ピッチャン
冷たい雨・・・、
一枚、羽織らないと~。

# by Twalking | 2018-09-20 20:54 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 西日暮里駅   

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西日暮里駅/荒川区西日暮里
駅の山側が道灌山、その西側が諏訪台になります。
この駅、山手線で一番新しい駅なんですね~・・・、
1971年の開業、知りませんでした。


西日暮里駅

JR東日本は山手線、京浜東北線の2線があり東京地下鉄は千代田線、東京都交通局は日暮里・舎人ライナーが利用可となっている。山手線で唯一昭和時代に開業したであり現時点最も新しいである。なお、開業前の西日暮里駅の仮称は「新日暮里」であった。隣の日暮里駅とは500しか離れていないが、当駅が開業した理由の一つとして常磐線の複々線化の影がある。複々線区間のうち常磐線緩行線は綾瀬駅から高速度交通営団(現:東京メトロ)の千代田線に乗り入れることになったため、緩行線しか利用出来ない乗客の便宜をはかるために当駅が開業したのである。千代田線の駅は1969年12月20日に開業したものの、山手線の駅が開業したのはそれから一年以上遅れた1971年4月20日であった。(ニコニコ大百科)



# by Twalking | 2018-09-20 15:25 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 モニュメント-君たちに   

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第一日暮里小学校桜の門/諏訪台通り(荒川区西日暮里)
『自分に正直であれ 人には親切であれ』と・・・、
創立100周年記念に卒業生の高村光太郎が送った言葉、
素晴らしいですね!直筆だそうです。


君たちに
君たちに手渡す百年 君たちが築く未来
いっしょに此処で語り合おう あしたの世界を
限りない時の流れのなかで 百年はまたたく間だが
ここで無限の夢をはぐくんだ 万余の仲間たちがいる
その仲間たちの思いをこめて いま21世紀を歩む君たちに願う
自分に正直であれ 人には親切であれと
昭和60年11月9日記

# by Twalking | 2018-09-19 12:46 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 笹塚駅   

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京王線笹塚駅/渋谷区笹塚
本八幡行だったのでここで乗り換え、
昔は通勤でお世話になった駅ですが、
たいがい都営線の始発が待機してます。


笹塚駅
渋谷区笹塚一丁目にある京王電鉄の駅である。京王線と京王新線の分岐駅で、島式ホーム24線を有する高架駅。幡ヶ谷駅・初台駅は京王新線にホームがあり、両駅への利用の便宜を図るため日中は京王線新宿行と区間急行・快速本八幡行き(笹塚始発急行本八幡行き含む)が相互接続している。都営線本八幡・大島方面から京王へ乗り入れる急行のほとんどは当駅止まりである。そのため代田橋・明大前駅寄りに10両編成対応の引き込み線が2本設置されている。駅名の由来は内藤新宿からちょうど一里の距離のこのあたりに「一里」が甲州街道の両脇にあり、その塚が「やぶ」で覆われていたことから「幡ヶ谷村笹塚」と名付けられる。(Wikipedia


# by Twalking | 2018-09-18 21:05 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ロケット公園   

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ロケット公園/多摩市愛宕
お~、グリーンが眩いばかり、
鮮やかなモミジだこと・・・
こちらはまだ「夏」の装いですね。

# by Twalking | 2018-09-17 23:36 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ノウゼンカズラ   

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多摩市愛宕
ふ~、暑い!夏にもどったかな。
漢詩では「愛の象徴」とか、
絡まっておくれ~、ノウゼンさん。

# by Twalking | 2018-09-17 12:43 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 乞田川の風景-初秋   

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乞田川/多摩市落合
川辺も秋の装い、
黄葉がそろそろ見頃です、
楽しませてくれますね~。

# by Twalking | 2018-09-16 22:29 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 曼珠沙華   


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彼岸花/第九公園(多摩市豊ヶ丘)
お、白の曼珠沙華、
そうか、お彼岸だな・・・、
お墓参りいかなくちゃ~。



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ヒガンバナ(彼岸花)
ヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草である。曼珠沙華(マンジュシャゲ)学名からリコリス・ラジアータとも呼ばれる。全草有毒な多年生の球根性植物。散形花序で6枚の花弁が放射状につく。9月中旬に赤い花をつけるが稀に色素形成異常で白みがかった個体もある。その姿は独特で、夏の終わりから秋の初めにかけて高さ30-50cmの枝も葉も節もない花茎が地上に突出しその先端に苞に包まれた花序が一つだけ付く。苞が破れると5-7個前後の花が顔を出す。花は短い柄があって横を向いて開き、全体としてはすべての花が輪生状に外向きに並ぶ。花弁は長さ40mm、幅約5mmと細長く大きく反り返る。彼岸花の名は秋の彼岸ごろから開花することに由来する。別名の曼珠沙華は法華経などの仏典に由来するWikipedia


# by Twalking | 2018-09-16 20:09 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 あめふり   

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パルテノン大通り/多摩センター駅(多摩市落合)
あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン♪♪

作詞:北原白秋 作曲:中山晋平 1925(大正14年)


蛇の目
同心円を基調にした模様である。ヘビの目から名づけられた。二重丸の中を塗りつぶした図形のことを蛇の目という。英語では「fisheye(魚の目)」。蛇の目傘:畳んだ状態が細身の和傘である。本来は蛇の目に見えるように紙を張り付けたものをいった。童謡「雨降り」の歌詞にある「じゃのめで おむかえ うれしいな」の「じゃのめ」は蛇の目傘のこと。Wikipedia


# by Twalking | 2018-09-15 12:15 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 府中あれこれ-品川みち   

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品川みち/武蔵台駅入口(府中市白糸台)
「お昼はいなりと団子でどうでしょう?」
「あ~、そりゃ、いいね!」
品川みち&甲州街道を歩いていた時みつけたお店、
なかなか繁盛してますね~・・・
これも街道歩きの楽しみのひとつです。


# by Twalking | 2018-09-14 17:17 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 モニュメント-常久一里塚跡   

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常久一里塚/品川みち(府中市清ヶ丘)
甲州道中7里目の一里塚跡です。
品川みちに立ちますが、この道筋は「初期の甲州街道」、
多摩川の度重なる洪水により南側の現「旧甲州街道」に付け替えられました。
旧甲州街道沿いには何故か一里塚はありませんし、府中崖線沿い行きますので
歩くなら初期の方が面白いですね~、私ならこちらを選択します。


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甲州街道常久一里塚跡
一里塚
は旅人に里程を知らせるため、街道の両側に一里(約4km)毎に築かれた塚で、我が国では江戸時代になり制度として確立した。すなわち、慶長9年(1604)徳川家康は江戸日本橋を起点として東海・東山・北陸の三道に一里塚を築かせ、それを全国に普及させた。塚上には塚を固めるため榎をはじめ松や欅などが植えられ、これが旅人にとっては日ざしをさける木かげの休所となった。この常久(つねひさ)一里塚跡は、江戸初期に整備された甲州街道の日本橋から7里のところに設けられた一里塚の跡と伝えられているものである。府中市内ではこのほか日新町一丁目の日本電気株式会社府中事業所内にある一里塚跡が「市史跡 甲州街道本宿一里塚跡」として府中市指定文化財となっている。(府中市指定文化財市史跡/府中市教育委員会


# by Twalking | 2018-09-13 13:39 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 『歩いて知ろうわがまち府中2018』   

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武蔵野の森綜合スポーツプラザ/味スタ通り(府中・調布市境)
「ここ、オリンピックのバトミントン会場」
「そうですか、それは、いいですね!」
11月25日に開催される「府中市ウオーキング大会」(第5回)、
の各コース(4コース)の確認をしてきました。
緑も多いし歴史も香る変化に富んだコース、
着々と準備が進んでします。どうぞ、お楽しみに~!

『歩いて知ろうわがまち府中2018』詳しくはこちらへ
(https://www.city.fuchu.tokyo.jp/…/aruiteshirouwagamachifuch…)

# by Twalking | 2018-09-13 10:07 | DogWarkig&セミナー(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩モノレール   

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多摩モノレール/京王多摩センター駅(多摩市落合)
お、多磨モノが越えていく・・・、
このアングル好きなんです。
グットタイミングでした。

# by Twalking | 2018-09-12 23:16 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 キリシタン灯籠-禅定院   

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キリシタン灯籠/禅定院(練馬区石神井台)
『本堂前の寛文13年(1673)と刻まれた織部灯籠(区登録文化財)はその像容から別名キリシタン灯籠といわれ、区内でも珍しい石造物の一つに数えられています』と説明板にあります。こちらのお寺は板碑や庚申塔など古い石造物が多く、見応えがあります。


織部形灯籠

つくばいの鉢明りとして使用する四角形の火袋を持つ活込み型の灯籠。その為、高さの調節が可能である。露地で使用される。奇抜な形から江戸時代の茶人・古田織部好みの灯籠ということで「織部」の名が着せられる。石竿に十字模様や聖人(実際は地蔵菩薩)のようにも見える石像が刻まれており、これをもってキリシタン灯籠と呼ばれることもある。ただし、織部灯籠をキリシタン遺物と結びつける説が現れたのは昭和初期からであり否定的な学者も多い。Wikipedia

# by Twalking | 2018-09-11 22:17 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ブルー   

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鶴牧西公園/多摩市鶴牧
季節の変わり目、
鈴虫の鳴くころ・・・、
少々、もの悲しい夕暮れ時です。

# by Twalking | 2018-09-11 12:14 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 秋雨   

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多磨センター駅前通り/多摩市落合
本降りですね~・・・
秋雨前線が停滞してるので
しばらくはぐずつき気味でしょうか。


秋雨前線

9月前半から10月前半に日本の南岸沿いに現れる停滞前線。秋霖(しゅうりん)前線ともいう。真夏の亜熱帯高気圧が南へ遠ざかり、日本海や北日本へ張り出してきた寒帯高気圧との境にできる前線で、成因や性質は梅雨前線によく似ているが、長続きせず始まりと終わりが明確でないことが多い。東日本の雨量は梅雨期よりも多い。台風が接近すると大雨を降らせることが多く、秋雨は末期より初期のほうが雨量が多い。(コトバンク)


# by Twalking | 2018-09-10 19:30 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02   

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鶴牧西公園(多摩市鶴牧)
秋の七草か・・・、
早くから咲いてはいますが、
時期を得たこの頃がしっくりきますね。

# by Twalking | 2018-09-10 11:19 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夕暮れ   

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夕暮れ/多摩市鶴牧
暮れるのが早くなりましたね・・・、
面白い雲のうごきです。

# by Twalking | 2018-09-09 21:12 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 乞田川-初秋   

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乞田川/鎌倉街道(多摩市乞田)
少し暑いですが、風は爽やかです。
川辺も初秋の色合い、気持いいですね!
デジカメに魚眼の機能があるので試してみました。

# by Twalking | 2018-09-09 17:01 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 練馬駅   

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練馬駅/練馬区練馬
初めて降りましたが大きな駅なんですね・・・、
区役所や文化会館など行政の中心地ですが、
工場跡地に公園、街に緑があるとホットします。


練馬駅
練馬区にある西武池袋線・都営地下鉄(大江戸線)の駅である。所在地は西武鉄道が練馬一丁目、東京都交通局が豊玉北五丁目である。西武鉄道の駅は島式ホーム26線を有する高架駅、上下とも最も外側の1線ずつは通過線である。北口駅前には1920年から1970年までに鐘淵紡績練馬工場があった。その跡地は更地を経て練馬文化センターやロータリーなどに転用されている。中央・南口は千川通りに面しており駅周辺には飲食店などの商店が多く立地し、商業集積地となっている。(Wikipedia

# by Twalking | 2018-09-09 11:38 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 秋祭り   

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乞田八幡神社/多摩市豊ヶ丘
大きな太鼓、
「バット」でド~ン!
震えちゃうよね~、お嬢ちゃん。

# by Twalking | 2018-09-08 19:50 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり石神井&豊島03-練馬城址   

日時 2018.7.31(金)
天気 晴れ


ついでなもで石神井公園駅から電車で練馬駅へ。
対の城の練馬城と古東海道の「乗潴駅」の一つ、
練馬説の推定地白山神社を見るのが目的です。

文化会館で雨宿りして周辺を歩いてみました。
遺構はありませんが、なんとなく地形は掴めます。
帰りは大江戸線が便利なので練馬春日へ向かいました。


・・・練馬


「練馬」という地名は古い。文明9年(1477年)練馬、石神井の領主豊島泰経太田道灌を攻めて両城を打って出たと、道灌の書状や『鎌倉大草紙』という本に書いてある。練馬城は今の豊島園のところである。さらにさかのぼって8世紀ごろ武蔵下総を結ぶ官道に「乗瀦」という宿駅があった(続日本記)。これをノリヌマと読んでネリマに訛(なま)ったとする説がある。白山神社(練馬42)には樹齢800といわれる大ケヤキが、また阿弥陀寺(同144)には区内で2番目に古い鎌倉時代板碑がある。近くには古鎌倉みちの伝承もある。乗瀦が練馬であっても少しも不思議はない。練馬の由来にむかし馬どろぼうが盗んで集めた馬を調練したところだという話が有名である。広い原野を色とりどりの馬が駆けめぐるさまは夢があって楽しい。戦国時代の記録に「練間」と書いたものがある。地名には当て字が多いからどちらが正しいともいえない。練馬はネリバ(練場)だとする説もある。この辺は古代に土器を作る粘土が豊富で材料の土を練るのに最適の場所であった。先ごろ貫井(旧上練馬村)の遺跡から都内では珍しい窯場跡(かまばあと)が発見された。ともかく練馬の地名の起源ははるか歴史のかなたにありそうだ。/練馬の地名-練馬今むかし/練馬区HP)

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街道の風景① 練馬文化会館で雨宿りして出発、街に緑があるとホットします/平成つつじ公園

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街道の風景② 「乗潴駅」の推定地のひとつ、ここは見ておきたかったんです/白山神社前

乗潴駅
旧・武蔵国豊島郡下練馬村。地名は駅名から付けたもの。8世紀
半ばごろ武蔵国に乗潴駅が所在(10世紀初頭には消滅)し、その所在には練馬区練馬説杉並区天沼説がある。練馬区練馬説における乗潴駅の所在地は白山神社付近であると推定されている。1083年(永保3年)源義家が練馬白山神社の大ケヤキを奉納したと伝えられている。1281年(弘安4年)この年の板碑が白山神社周辺から出土。当時、白山神社周辺に集落が発達していたと考えられている。Wikipedia

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阿弥陀寺山門/練馬


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阿弥陀寺
寺伝によると正平・文和の頃(1355年頃)遊行八代渡船上人巡化の頃から時衆集団が生まれた。また江戸時代頃より時宗・品川長徳寺の境外仏堂(説教所)としてこの付近に信徒を集めていたことは記録によって明らかにされています。本尊は阿弥陀如来(木造)で、明治の廃仏毀釈の際、近くの白山神社に祀られていた観音菩薩(青銅製)を脇侍仏としました。また、寺宝として弘安31280)銘の弥陀一尊板碑が保存されております。この板碑は区内で2番目に古いものです。境内には享保14年(1729)の銘のある地蔵尊が安置されており、日を限って祈願すると願い事がかなえられるということから「ひぎり地蔵」と呼ばれています。眼病の治癒に霊験があるといわれ、現在もなお信仰が盛んです。(練馬区教育委員会)

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白山神社鳥居/練馬

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白山神社
「下練馬村御割付之写」に白山大権現とあり、同じ頃の「新編武蔵風土記稿」下練馬村の項には白山社とある。「北豊島郡誌」下練馬村の項は「無格社 練馬白山神社 字谷戸山にあり、伊邪那美命を祀る。例祭109日、当日神輿渡御あり、境内に村芝居の催あるを例とせり」と記している。創立年代は不詳だが、社前に残る推定樹齢900大ケヤキから相当な古社と考えられる。「北豊島郡誌」に言う。「・・・現存セル遺物又ハ天然物等ニヨリテ推定スルニ遠ク、源家ノ興隆時代ニ創立セラレタルモノナルコト創造ニ難カラズ。・・・尚古老ノ口碑ニヨレバ、往昔源義家奥州討伐ノ砌ニ、戦勝ノ祈願ヲコメ、欅笛ヲ奉納スルトコロアリタルガ、明治初年迄六本アリ同18年ニ至リテ、ソノ四本目ヲ伐採・・・又境内ニ隣接セル杉本方ニテ天保3年井ヲ開鑿シタルニ・・・一基ノ石碑ノ発掘セラレタルガソノ刻字ニ康安48月トアリ、ナホ同時ニ発掘セラレタル他ノ一基ニハ延文元年トアリタリト、当時当村ハ関東武士ガ鎌倉ニ往来スル途次ニアリテ既ニ一村ヲ形成シタリト云ヘバ、本社ハ弘安4年以前ニ勧請セラレタルモノタルヤ明ラカナリ」と。鎌倉時代には周辺に集落があったと推定される。(「練馬の神社」)

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古い狛犬                灯籠

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練馬白山神社の大ケヤキ
白山神社は、練馬宿の氏神で伊邪那美命をまつり、平安時代に建てられたと伝えられています。社の境内の大欅は現在は2本になってしまいましたが、いい伝えによると永保3年(1083)に源義家が奥州征伐に下る時、この社に戦勝を祈願して奉納した苗の一部であると伝えられています。1本は目通り10mほど、今1本は7m余りあり、高さはともに25mぐらいで、樹齢は7800年を経ているといわれます(林学博士本多静六氏の鑑定)。昭和15年には天然記念物として国の指定を受けました。なおこの付近から、弘安41281)などの板碑が多く発掘されていることによって、鎌倉時代にはこの神社の周辺に集落が発達していたことが考えられます。(練馬区教育委員会)

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境内より南の景観

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街道の風景③ 豊島公園通りを進むと「田島山十一ヶ寺」があります/地下鉄豊島園前

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十一ヶ寺
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ヶ寺とは仁寿院・迎接院・本性院・得生院・九品院、林宗院・称名院・受用院・仮宿院・宗周院・快楽院の十一寺院の俗称で、もとは田島山誓願寺(浄土宗・現在は府中市の多摩霊園正門並くにある)の塔頭寺院でした。田島山誓願寺は江戸時代初めに小田原から江戸神田に移り、さらに明暦31657)年の振袖火事後浅草田島町に移転しました。この頃は幕府から朱印三百石を与えられ、檀家には豪商も多く16院もの塔頭寺院を持つ大きな寺でした。明治以降、各塔頭寺院は本坊の田島山誓願寺から独立し、大正12年の関東大震災後11の塔頭寺院がここに移転しました。墓地には本草学者として名高い小野蘭山や書道家としてまた篆刻の名人として有名な池永道雲の墓をはじめ、札差として権勢を誇った青地善春一族あるいは名優のきこえ高い初代沢村宗十郎らの名墓があります。(練馬区教育委員会)


・・・練馬城跡(向山)

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街道の風景④ 石神井川へ下ります、左は豊島園正門になります/豊島園通り


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川の風景① 坂下を石神井川が流れます、左手森が豊島園です/中之橋(豊島園通り)

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中之橋から戻ります          豊島園沿いの道が旧道のようです

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坂を上ると豊島園の正門ですが遺構や説明版等はありません

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練馬城
現在の練馬区向山にある遊園地「としまえん」の園内にかつてあった室町時代の日本の城である。築城年代は不明であるが、14世紀末頃豊島氏石神井城支城として築いたものと考えられている。豊島氏は文明8年(1476)に勃発した長尾景春の乱において長尾景春同調して山内・扇谷両上杉氏と戦った。この乱において、両上杉方の江戸城と河越城の間に位置する練馬城は、近隣の豊島氏の城である石神井城とともに両城の連絡を遮断する役割を果たした。翌文明9年(1477413日、扇谷上杉氏の家宰太田道灌は江戸城を出発し、練馬城に矢を撃ち込むとともに周辺に放火した。これをみた練馬城主の豊島泰明は石神井城にいる兄・泰経に連絡を取り全軍で出撃、道灌もこれを引き返してこれを迎え撃ったため両者は江古田原で合戦となった(江古田・沼袋原の戦い)。戦いの結果、豊島方は泰明ほか数十名が討ち死にし、生き残った泰経と他の兵は石神井城へと敗走することになった。城主の討ち死にや従兵の石神井城への敗走により無人となりそのまま廃城に至ったものとも考えられている。なお、以前は道灌が最初に攻めた城は「平津城」とされていたが、現在は「練馬城」とするのが新たな通説となっている。Wikipedia抜粋)(写真は豊島園東側です)

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豊島園(右)の南側 緩やかですが起伏があります

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石神井川に位置する丘陵を利用して築かれた城である。城地は石神井川に流れ込む湧水が形成した侵食谷によって、東西を刻まれ南北に伸びた舌状の台地を利用している。台地を東西に断ち切る石神井川の急崖をもって城の北の守りとしており、台地続きの南側防御正面としていたと推定される。『東京近郊史蹟案内』(昭和2年=1927年刊)によれば、内郭の規模は堀の長さから測って東西約110南北約95であったとされる。北東部には752程の平坦部があって物見櫓跡と推定されており、以前には鬼門を守る「城山稲荷」が奉られていた(稲荷祠は移築され、現存)。土塁の幅は1015mで高さは約3m、土塁頂上は通路として利用されていたという。また、南方では馬出の跡も確認されている。城は太田道灌との緊張関係が高まる中で石神井城とともに「対の城」(向かい城)として大掛かりに増・改築された可能性が高い。遺構は近年まで若干残されていたが、平成元年(1989年)のプール施設「ハイドロポリス」他の建設により完全に消滅した。「ハイドロポリス」建設に伴う発掘調査では、最大で幅約10m・深さ約4mの空堀土塁跡などが検出され、土師器皿・甕(かめ)・器種不明品・擂鉢(すりばち)、庭石(または盆石)、碁石と思われるもの、焼けた礫、ススの付いた礫などが出土している。Wikipedia抜粋)

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豊島園(右)西側           石川橋

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川の風景② 豊島園の中を流れる石神井川、寄れませんでしたが近くに尾崎遺跡があります/石川橋

石神井城の関連記事はこちらへhttps://teione.exblog.jp/27089411/

尾崎遺跡(おさき):No98遺跡

春日町5丁目、春日小学校一帯に拡がる遺跡です。発見された遺構・遺物は旧石器・縄文・弥生・古墳・奈良・平安・中世・近世の各時代にわたっています。石神井川の低湿地泥炭層の調査で検出された旧石器時代の植物化石は分析の結果、江古田植物化石層群に相当する針葉樹・落葉広葉樹のもので、当時は現在よりも寒冷な気候であったことがわかりました。弥生時代の壷・甕形土器などの完形品が出土しています。また平安時代住居址が確認され、埋め戻し保存されています。平安時代の遺物として火をおこす道具である木製の火鑽臼(ひきりうす)が出土しており、これは東京都内でも類例の少ない遺物です。尾崎では練馬区の歴史を考える上で貴重な資料が出土しており昭和58年に東京都史跡に、また平成3年にはその出土遺物が練馬区指定文化財となりました。現在遺物は春日小学校(春日5丁目121号)に整理保存されており、同校内尾崎遺跡資料展示室にその一部が陳列されています。(練馬の遺跡/練馬区HP)


・・・春日町

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春日神社鳥居

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春日神社
練馬区春日町にある神社。所在地の町名「春日町」は当社に由来する。鎌倉時代、工藤祐宗(工藤裕経の孫)が源頼朝に従って奥州合戦に向かう途中、自分の先祖の藤原氏氏神である春日大社の祭神をここに勧請して、戦勝を祈願したのにはじまるという。文明年間(1469-1486)練馬城主の豊島泰経は一族の守護神として当社を深く崇敬した。豊島氏没落後、あとの城主海老名左近はここを居館一部とした。江戸時代、十羅刹女(じゅうらせつにょ)と呼んでいた。明治の神仏分離で十羅刹女社は隣の寿福寺へ、祭神は春日神社として祭られた。Wikipedia

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寿福寺山門


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寿福寺
寿福寺は大林山最勝院といい真言宗豊山派です。本尊は薬師如来で豊島88か所第19番札所でもあります。開創は詳らかではありませんが『新編武蔵風土記稿』に「開山秀信、万治2年(165912月寂ス」とあり、寺の記録にも慶安2年(1649)の記述があることからそれ以前の創建であることが分かります。明治26年失火により全焼しましたが本尊の薬師如来は幸い焼失を免れました。明治43年本堂と堂内のほとんどを再建しましたがまだ不十分な状態でした。そのため本尊薬師如来の御影を厨子に入れて背負い、近郷近在に喜捨を願って巡行したので人びとは「巡行薬師」と呼んで親しみ敬いました。集まった浄財で仏具等を整備してお堂が完成しました。現在の本堂は昭和4年に改築されたものです。境内の十羅刹女神社は古くは隣地の春日神社に祀られていましたが明治時代の廃仏棄釈でここに遷らされました。延宝3年(1675)の庚申塔は青面金剛像の刻まれる塔としては区内最古のものです。また江戸時代後期に上練馬村で家塾を開いていた河野鎮平(天保6年・1835没)の筆子碑は区の登録文化財です。寺宝には平安時代の絵師として有名な巨勢金岡筆と伝えられる六字名号の軸物があります。(練馬区教育委員会)

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十羅刹女神社               庚申塔

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街道の風景⑤ 豊島園通りを環八へ向かいます/寿福寺入口

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街道の風景⑥ 環八先の富士街道に
愛染院の参道があります

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ふじ大山道/愛染院参道入口
ふじ大山道は道者街道、富士街道ともよばれています。それは阿夫利山ともいわれた大山へ大山また大山から富士山への道者が通ったからです。北町1丁目で川越街道から分かれて石神井、田無を経て伊勢原(神奈川県)に達していました。練馬の中央部をほぼ東から西南に横断して区内では約8kmに及んでいます。そしてその分岐点には「従是大山道」と刻んだ道しるべが建てられたのです。旧暦の6月は俗に祭月とよばれているように、江戸や関東の各地では祭礼がさかんに行われました。阿夫利山も「水の無い月に雨降る山は開き」とあるように628日が初山で、それから714日まで連日、関東の村々から集まった人々でにぎわいました。その白衣の道者たちが通ったのがこの街道です。(練馬区教育委員会)

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練馬大根之碑
練馬といえば大根、大根といえば練馬といわれるほど、練馬の名は大根によって人々に親しまれてきました。練馬大根のはじまりについては、将軍徳川綱吉が尾張(愛知県)から種子をとりよせ百姓大木金兵衛に作らせたとか、上練馬村の百姓又六が作り出したとかの話が伝えられています。江戸の発展、さらに東京都なって、大量の大根が作られるようになりました。練馬大根の沢庵漬けは特産として全国的に有名になりました。これを記念して昭和164月に建てられたのがこの大根碑です。練馬大根の品種改良と普及育成に生涯をささげた鹿島安太郎の顕彰碑もこれと並んで昭和404月に建てられました。この奥の練月山愛染院は真言宗の寺です。江戸時代に寺領20石を与えられました。境内の沢庵石を磁石とした鐘楼には元禄14年(1710)鋳造の梵鐘が残されています。(練馬区教育委員会)

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愛染院参道

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愛染院山門


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愛染院
愛染院は練月山愛染院観音寺といい真言宗豊山派(豊島88ヶ所第26番札所)の寺院で、本尊は愛染明王です。縁起によると永享9年(1437)能円坊尊岳が尾崎の地(現在の春日小学校付近)に開いた寺で、寛永年間(1624-1644)に権大僧都尊智によって現在地に移され中興したといわれます。江戸時代には12石余の朱印地がありました。慶安2年(1649)の徳川家光朱印状をはじめとして、徳川将軍家が愛染院の寺領と同寺管理の若宮八幡(現高松八幡神社)の社領8石を安堵した朱印状が残されています。また寛政年間(1789-1801)の火災により、元禄10年(1697)の山門と元禄14年(1701)の梵鐘を残して建造物はことごとく焼失したといいます。明治の廃仏毀釈の際、末寺の成就院(練馬区向山)、高松寺(練馬区高松)、養福寺・泉蔵院(練馬区田柄)の四ヶ寺を当寺に合併しました。境内には高松寺合併について記した明治25年(1892)の宝篋印塔があります。この他、弘法大師座像(木像)などの仏像が所蔵されており、境内には西山稲荷祠や六地蔵(元文4年・1739)をはじめ弘法大師一千年供養塔、敷石供養碑など数多くの石造物があります。昭和5511月、3年の歳月を費やし本堂・大師堂・表書院・鐘楼・稲荷社・山門など諸堂伽藍が完成し入仏落慶法要が盛大に挙行されました。(練馬区教育委員会)

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大師堂                鐘楼

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豊島園周辺
地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(青:石神井川 橙:富士街道・目白通り・豊島園通り 赤角:練馬城跡)

# by Twalking | 2018-09-08 12:02 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 いざ、出陣!   

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乞田川/多摩市落合
いざ、出陣!
荷物が多いんだね・・・、
行ってらっしゃ~い、気をつけて。

# by Twalking | 2018-09-07 17:44 | ○walk

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-石神井氷川神社   

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阿形

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吽形/鳥居先


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阿形

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吽形/拝殿前

石神井氷川神社/練馬区石神井台
鳥居の先の方は大振りで子獅子がじゃれている
ところが面白ですね。(大正9年奉納)
拝殿前の獅子は小振りですが
シンプルで重厚です。(天保8年・1837奉納)


# by Twalking | 2018-09-06 22:18 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり石神井&豊島02-石神井公園周辺   

日時 2018.8.31(金)
天気 晴れ

三宝寺池から石神井川一帯を歩いてみました。
ここは石神井城の郭内、氷川神社や池の謂れの三宝寺、
豊島氏の菩提寺道場寺などの古刹があります。

大田道灌が陣を張ったといわれる城山を確認して、
旧早稲田通りにある禅定院に寄り、豊島橋から
石神井川沿いを廻って駅に向かいました。

深い緑の社叢に立派な伽藍、石神井川の川辺も
いいですね・・・、見応えたっぷりのコース、
桜の頃、秋の紅葉、また違った趣きがあると思います。


・・・上石神井


練馬区の南西部に位置する地域。江戸時代、現在の上石神井及び石神井台は武蔵国豊島郡上石神井村と呼ばれていた。現在の上石神井の範囲は字城山、観音山、立野、池淵、出店(でだな)あたりであり、城山と呼ばれていた場所には現在早稲田大学高等学院とその中学部がある。(Wikipedia

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川の風景① 石神井川右岸の高台が「城山」大田道灌が布陣したと伝わります/上御成橋

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川から急坂を上ります         下って氷川神社へ戻ります

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城山遺跡・愛宕山塁:No45139遺跡
上石神井3丁目、早稲田高等学院一帯に拡がる遺跡で旧石器・縄文・弥生・中世の遺構・遺物が確認されています。旧石器時代の石器の一部には細石刃(じん)と呼ばれる区内では類例の少ない石器が出土しています。なお、No139遺跡の愛宕山塁太田道灌勢石神井城攻めの際のという伝承がありますが、調査でははっきりしていません。堀状の遺構が確認されておりある程度の規模の施設が構えられていた可能性が考えられます。(練馬の遺跡/練馬区HP)


・・・石神井台


上石神井村のうち石神井川、小字で大門(だいもん)、沼部西村小関をいう。大門という地名は大寺門前を指し、区内にはここのほか練馬と高松に残っている。3代将軍家光は鷹狩りのたびによく三宝寺で休憩した(徳川実紀)。だから三宝寺の山門を御成門と呼ぶ。地名の大門はその御成門に由来する。石神井の語源となった石神様は一説に三宝寺池から出現したともいう。歴史的文献に見える石神井については前にふれたが石神信仰そのものはさらに古く、扇山遺跡(石神井台4丁目)や天祖東遺跡(関町北3丁目)などから縄文時代石棒が発見されている。(練馬の地名今むかし抜粋/練馬区HP)

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街道の風景① 石神井川低地から真直ぐ北に延びる氷川神社の参道です

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氷川神社鳥居/石神井台

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氷川神社
氷川神社は、社伝によると応永年間(1394~)この地を領していた豊島氏武蔵一ノ宮分霊を奉斎して石神井城内に創建したといいます。祭神は須佐之男命・稲田姫命、大己貴神の三神です。文明9年(1477)石神井城落城のあとは石神井郷総鎮守として上石神井、下石神井、谷原、田中、関の五ヶ村の人びとから崇敬されておりました。境内末社には江戸時代からの北野・須賀・稲荷をはじめ御嶽・八幡・三嶋・榛名・浅間・三峯・阿夫利の各社があります。境内には享保12年(1727)の「石神井郷 鎮守社 御手洗鉢」と刻まれた水盤をはじめ多くの石造物があります。中でも本殿瑞垣のうちにある一対の石灯篭は右側の竿に元禄12年(1699豊島泰盈(やすみつ)が寄進したことが刻まれ、左側のものは火袋が失われ銘文が失われていますが泰盈の子泰音(やすたか)によって奉納されたと伝えられています。文化財:豊島氏奉納の石燈籠(練馬区指定文化財)石神井台氷川神社の水盤(練馬区登録文化財)(練馬区教育委員会)

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石燈籠一対
かつては本殿の前面両側に置かれてた燈籠で、元禄12年の年期が彫られています。当神社を創建した豊嶋泰盈(としまやすみつ)、豊嶋泰音(としまやすたか)により奉納されたものです。「高砂」図の彫刻がある風雅な燈籠ですが、一基は火袋が欠損しています。神社の歴史とともにあった石神井城は太田道灌の攻略を受け文明九年(1477)に落城し、当時の城主とその息女は池に入水して果てたと伝えられています。豊嶋氏の繁栄と悲劇が窺われる文化財といえましょう。練馬区文化財指定。(東京都神社庁)

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街道の風景② 三宝寺の門前です/旧早稲田通り

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三宝寺参道入口に「守護使不入」の碑が建っています/石神井台

守護使不入
(しゅごしふにゅう)
鎌倉時代・室町時代において幕府が守護やその役人に対して犯罪者追跡や徴税のために、幕府によって設定された特定の公領や荘園などに立ち入る事を禁じたこと。(Wikipedia


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三宝寺
三宝寺は江戸時代には山号を亀頂山(きちょうざん)といい、不動明王を本尊とする真言宗智山派のお寺です。室町時代の応永元年1394権大僧都幸尊が開山したと伝えられます。文明9年(1477)石神井城落城の後、石神井池南方台地上の現在の野球場周辺から現在地に移ったといわれています。戦国時代に小田原北条氏、江戸時代には徳川氏から保護を受け、近くに数十の末寺をもち府内88ヶ所巡り16番札所となっていました。二度の火災で焼失したものもありますが優れた仏僧や絵画などを今でも数多く所蔵しています。また、三門3代将軍徳川家光が狩りをした時、ここを休憩所としたことから「御成門」と呼ばれるようになったと伝わります。山内東側の長屋門勝海舟邸の屋敷の門を移したものといわれています。(練馬区指定文化財)三宝寺の梵鐘  阿弥陀三尊来迎迹像板碑(子育千体地蔵堂に保管 文明4年(1472)銘 来迎画像が描かれています)

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三宝寺山門(練馬区登録文化財)
寛永2年(1625)及び正保元年(1644)に徳川家光が狩猟の際、当山が休憩所とされたのでこの山門を御成門と称するようになった。江戸時代には平常は門扉を閉じて庶民の通行を禁じていたといわれる。棟札に記されたところでは当山23世宥泉和尚が布施物を蓄積して再建したものであるという。文政10年(1827726日に成り2度の火災にもその難を免れ当山第一の古建築であるばかりでなく当地方稀に見る傑れた山門である。(説明板)

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大黒堂・子育千体地蔵堂
大黒堂は第33世融憲和尚の念持仏であった大黒天尊像を本尊としている。昭和4年(1929)に大黒堂を創建され、併せて江戸子育千体地蔵堂に祀られていた子育千体地蔵尊合祀された。そして東京をはじめ近在に甲子講中の結成を求め信徒を募り殷賑を極めた。現在のお堂は昭和59年の甲子大開帳を期に大黒天と千体地蔵尊を別祀し上階を大黒堂、下階は千体地蔵堂として改築された。(説明板)

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大師堂(奥之院)
建物什宝調書控には「経堂」として載せられているもので、絵図画によれば古来ほぼ現在地近くにあったと思われる。昔は一切経等を納めた経堂であったが、これに千体地蔵弘法大師を安置したので専ら大師堂と呼ばれていた。近年までは朱塗りの小堂であったが昭和42年に迎えた弘法大師ご生誕1300年を記念して改築された。現根本大塔の位置にあったものを平成4年根本大塔建立に伴って現在地に移築された。(説明板)

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根本大塔               観音堂

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通用門(長屋門)
練馬区旭町兔月園にあった勝海舟邸の屋敷門が所有者の明電舎の事情により取り壊しの処分を受けるに際し、練馬区長須田操氏の斡旋で当山に移築された。(説明板)

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街道の風景③ お地蔵さんが建っています/道場寺角(旧早稲田通り)

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お地蔵さん           こちらの「焼きだんご」お勧めです

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道場寺山門 豊島氏の菩提寺と伝えられています 

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道場寺
道場寺は豊島山といい曹洞宗の寺です。この寺は文中元年(北朝応安5年・1372)、当時の石神井城主・豊島景村養子輝時(北条高時の孫)が大覚禅師を招いて建てたもので、その時、輝時は自分の土地を寺に寄附して、豊島氏代々菩提寺としたと伝えられています。今でも豊島氏の菩提が弔われ、境内には文明9年(1477)太田道灌に滅ぼされた豊島氏最後の城主泰経一族の墓と伝えられる石塔3があります。道場寺には北条氏康印判状が所蔵されています。この古文書は永禄5年(1562421日、小田原の北条氏康から禅居庵にあてて発給した虎の朱印状です。内容は道場寺分の段銭、懸銭などの税金を免除するもので、練馬区内では現在のところ練馬区に関係する唯一の後北条氏文書です。境内の三重塔(昭和48年築)内には人間国宝であった香取正彦作の金銅薬師如来像が置かれ、その台座にはスリランカより拝受の仏舎利が奉安されています。(練馬区教育委員会)

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山門(室町様式)              三重塔(鎌倉様式)

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鐘楼(安土桃山様式)         紅葉の頃がいいですね

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禅定院山門

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禅定院
禅定院は照光山無量寺といい真言宗智山派(豊島88ヶ所霊場第70番札所)のお寺で、本尊は阿弥陀如来です。「新編武蔵風土記稿」によれば今から約600年前、願行上人によって開かれたお寺であると伝えます。文政年間(181830)の火災で建物・記録などことごとく焼失しましたが境内にある応安、至徳(南北朝時代)年号の板碑によっても創建の古さをうかがうことができます。門前の堂宇に安置された六地蔵や鐘楼前の大宝篋印塔は石神井村の光明真言講中によって造立されたものです。本堂前の寛文13年(1673)と刻まれた織部灯籠(区登録文化財)はその像容から別名キリシタン灯籠といわれ、区内でも珍しい石造物の一つに数えられています。墓地入口にいぼの治癒に霊験のあるいぼとり地蔵や、墓地内に寺子屋師匠の菩提を弔った筆子塚があります。また現在の石神井小学校の前身である豊島小学校は、明治7年区内初の公立小学校としてここに創立され、以来30余年子弟の教育の場でした。(練馬区教育委員会)

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板碑                 キリシタン燈籠

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いぼとり地蔵               「なかよし・わらべ」の碑

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川の風景② 気分を変えて石神井川沿いを歩いてみました/豊島橋(旧早稲田通り)

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山下橋                和田前歩道橋

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川の風景③ 遊歩道がついて、桜の頃がいいでしょうね、山下橋に戻ります/南田中橋

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武蔵野の路「千川・石神井川コース」
このコースは武蔵野市多摩湖自転車道入口から練馬区石神井川長光寺橋までの河川沿いの約8.9kmの平坦なコースです。コース周辺には武蔵関公園、善福寺公園、石神井公園など水と緑の豊かな都市型リクリエーション施設が点在しています。また史跡、寺社などの文化資源が数多く見られます。(案内板)

善福寺池の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/24083934/

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和田稲荷神社の台輪鳥居、途中にありましたので参拝/石神井町

稲荷鳥居

鳥居の形式の一。明神鳥居に似て、島木との間に台輪が付いたもの。台輪鳥居。(コトバンク)


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和田稲荷神社
石神井町にある稲荷神社。地図などでは単に「稲荷神社」とだけ記されている。別名伝五郎稲荷、または和田堀稲荷とも呼称される。かつては周辺の和田地区鎮守であったが、明治以降は石神井公園南側に隣接する石神井氷川神社合祀されている。複数の旧資料中に記述はあるものの、明確な創建年代については不詳である。境内の石碑(1932年建立)の背面には 「三百餘年の昔 京都伏見乃里より(渡邊)傳五郎翁の遷し祀りしと云ふ」と刻記され「伝五郎稲荷」はこの人物の名に由来する。入口の鳥居は台輪鳥居と呼ばれる形式でこの形で現存するものは比較的数が少ない(練馬区内では3基のみ)。敷地内のほぼ中央に立つ御神木の白樫(シラカシ)は高さ18m・幹の太さ3.8mで、樹種別では練馬区内最大のシラカシとされる。1900(明治33年)に奉納された神使の狐像と火焔宝珠紋の手水舎がある。現在はこの手水舎に水は無い。また境内社として、本殿の左手奥北側の塚に朱い鳥居があり荷田春満を祀ったとされる「荷田神社」がある。Wikipedia

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石神井公園駅周辺マップ
(赤:歩行ルート青:石神井川黄:富士街道・旧早稲田通り・井草通り)

三宝寺池・石神井城関連展示はこちらへhttps://teione.exblog.jp/27089411/


・・・資料ファイル
石神井公園ふるさと文化館(2


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武蔵野の中の練馬
武蔵野台地は多摩川から流れ出た土砂が青梅付近より古東京湾にかけて堆積した扇状地でした。その後、1213万年の間に海進・海退隆起、富士山などの火山灰の堆積により現在のような西高東低の比較的平らな台地となりました。地表は黒土で覆われていますが、深さ0.51m程で厚く堆積した火山灰土(関東ローム層、赤土)となります。その下は扇状地の時期に堆積した小石混じりの土層となり地下水が蓄えられています。練馬区域は石神井川などの河川沿いの土地は乾いた平坦な土地でした。(展示パネル)

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主な旧道(展示パネル)

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所沢道
八成橋で杉並区から練馬区に入ります。禅定院の門前で向きを西に変え、道場寺三宝寺の前を通って、富士街道を斜断した後、南大泉を経て保谷市に入り、所沢へと通じています。概ね今の早稲田通りです。「新編武蔵風土記稿」ではこの道のことを単に「所沢ヘノ道」と記してあり、はっきり「所沢道」と書かれたのは「石神井町誌」(大正14年)が初めてのようです。関東大震災後、都市計画により名称が「昭和通り」となり、大部分の区間で拡張工事が行われましたが、禅定院から石神井小学校の間には今も所々に細い道が残っています。八成橋には谷原長命寺への道標があります。江戸の文人太田南畝が「石神井三宝寺遊記」で歩んだ道でもあり、大泉・石神井から江戸方面への産業の道でもあったと共に江戸からの参詣、行楽の道でもありました。(練馬区教育委員会)

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清戸道(きよとみち)
主に江戸時代に江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)との間を結んでいた古道である。神田川に架かる江戸川橋(現文京区関口付近)を江戸側の起点とし、そこから北西へ約56里(約2024km)の武蔵国多摩郡清戸(上清戸村、中清戸村、下清戸村、清戸下宿。現東京都清瀬市上清戸、中清戸、下清戸、下宿付近)との間を結んでいたとされる。成立の経緯は明らかではない。江戸時代に尾張藩鷹場が清戸にありそこへ鷹狩りに向かう尾張藩主が通ったといわれているが、それよりも農村であった清戸から市場である江戸への農産物輸送路としての役割が大きかった。「清戸道」の名称は江戸時代以前の文献には確認できないが『新編武蔵風土記稿』では「下高田村」(現:豊島区)の「村の北寄に目白辺より練馬辺への往還掛れり」、「長崎村」(同)の「雑司ヶ谷より練馬村境界に通ずる往来あり、幅五間」といった形で清戸道に相当する道の記述が見られる。(Wikipedia

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ふじ大山道
現在の練馬区から大山へ向かうものである。富士山への参詣者も通ったため「ふじ大山道」と呼ばれ、それが明治期に入って「富士街道」の名で呼ばれるようになったものである。練馬区北町1丁目の旧川越街道とふじ大山道の分岐点に1753年(宝暦3年)下練馬村講中により「ふじ大山道 田なしへ三里 府中江五里」と陰刻された道標が建立されており練馬区指定文化財となっている。経路:川越街道下練馬村(練馬区北町1丁目付近)-田無(西東京市)-押立の渡し(多摩川)- 長沼(稲城市) -図師(町田市)-府中通り大山道を経て大山へ(Wikipedia

# by Twalking | 2018-09-06 19:34 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 一難去って・・・   

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鶴牧西公園/多摩市鶴牧
台風が去ってやれやれと思っていたら、
深夜の地震の報、怖いですね・・・、
身につまされます。
心よりお見舞い申し上げます。

# by Twalking | 2018-09-06 16:24 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 木槿   

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木槿/多摩市中沢
被害がでてますが大丈夫でしたでしょうか?
風が強かったですね~・・・、
木槿さんも元気で何より、ほっとします。

# by Twalking | 2018-09-05 19:03 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり石神井&豊島01-石神井公園   

日時 2018.8.31(水)
天気 晴れ

猛暑続きでしたので遠出は控えてましたが、
8月最後の日でもあり、暑くなるようですが
思い切って出かけて来ました。

三宝寺池は石神井川の水源の一つでもあり、
豊島氏の後期の居城石神井城址もあるので
一度訪ねてみたいと思っていました。

石神井公園一帯は武蔵野の面影をよく留め、
合わせて中世の歴史の香りが色濃く漂う所、
都会にこんな緑の森が残されているとは・・・、
素晴らしいですね。


・・・石神井/練馬区

練馬区
の南西部に位置する地区。「石神」(しゃくじ、いしがみ)に由来すると伝えられている。むかし村人が井戸を掘った折、石棒が出てきた。その石棒には奇端(きずい=めでたいことの前兆)があり村人達はそれを霊石、石神様として祭った。これが通称「石神神社」今の石神井神社の始まりだという。いつか、村の名もそれにちなんで石神井となった。一説には石神様は三宝寺池(今の石神井公園の一部)から出現した石剣ともいう。石神井の地名は古く、鎌倉時代の弘安5年(1282)に宇多重広(うだしげひろ)という武将が、に石神井の所領を譲った書付けがある。現在この石剣石神井神社神体として祭られている。Wikipedia

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街道の風景① 駅前のロータリーに「石神井火車站之碑」が建ちます/石神井公園駅

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石神井火車站之碑
この碑は大正41915)の武蔵野鉄道石神井駅(現西武鉄道池袋線の石神井公園駅)の開業を記念し、大正95月に地元の有志により造立されました。火車站(かしゃたん)とは中国語でのことです。表面には駅の建設や鉄道完成のよる利便や喜びを漢文・漢詩で記すとともに記すとともに近くにある石神井城、三宝寺池、長命寺の歴史や見どころを紹介しています。裏面には寄付者名なども記されています。都市化に大きな役割を果たした鉄道・駅の開設を記念する石碑です。(総高351.5cm、碑の高さ288.5cm、幅114.0cm、厚さ14.7cm)

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表面銘文読み下し
『大正44月武蔵野鉄道成る。其の軌道、池袋に起こり飯能に訖いたる、延長10有余里。石神井駅、恰(あたか)も其の軌路に当たる。郷人挙(こぞ)って之に賛う。捐地(えんち)5千余坪に火車站を設け、以て交通殖産の利便に資す。を稽(かんが)うるに治承4豊島権守平清光有り、源頼朝に従いて此の地を領す。6世の孫泰景、上杉管領に属してを築きて此に居す。文明9太田道灌兵を率いて之を攻む。勘解由左衛門尉泰経、其の弟泰明と力を戮(あわ)せて之を防ぐも利あらず、遂に陥る。其の廃址、今に至るまで犂然(りぜん)たり。考えうべし。城のに瀦水(ちょすい)有り三宝寺池と曰う。其の周530余歩、清冽たる澂鑑(ちょうかん)、冬は温かく夏は清しく、窅邃(ようすい)たり、遊ぶべし。駅を距てた少し許り。また東高野山長命密寺も有り。慶安4年慶算阿闍梨の開基する所なり。寺境は静閴(せいげき)、賽者(さいしゃ)雲集す。矧(いわ)んや、京を距たつこと指顧しあるを。この間に在るを以てをや。春秋の佳日、徜徉(しょうよう)遊息の客、常に跟踵(こんしょう)を接す。斯に古蹟有り、斯に浄区有り。而るに車馬の便、不完にして郷人太(はなはだ)之を嗟(なげ)く。今や鉄路一串(いっせん)して、履(くつ)を泥せずして游(あそ)ぶを得る。是僉(みな)鉄路の賜なり。郷人之を徳とし、輒(すなわ)ち石を市(か)い其の縁由を鑿(うが)ちて後昆(こうこん)に眎(しめ)す。銘に曰わく。三宝寺池、明漪(めいい)底を絶ち 長命密寺飛観霞に啓(ひら)く 鉄路は道を貫き人髀(もも)労すること靡(な)し 斯れ是れ祥禎(しょうてい)、天秩(てんつい)の礼有り 大正9年歳次庚申55日 滑川達撰 豊田利右衛門書 今井亀鶴泉刻』(練馬区教育委員会)

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石神井神社鳥居 駅の北側住宅地の中に鎮座します/石神井町

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石神井神社
石神井神社の由来は古く詳らかではありませんが、四神地名録・新編武蔵風土記稿など江戸の地誌には「石神の神社と号せる僅なる小社有り。神体はにて神代より以前の石剣なり」とあります。いずれにしてもこの「石神の井」が石神井の地名の起こりとなったと思われます。本社の祭神は少彦名命でありますが、石剣もまた本殿の奥深く御神体として奉祀されております。境内末社には稲荷神社があります。拝殿内には明治初期以降の大絵馬十数枚が奉納されています。保存が大変良く破損や彩色の剥落は殆んどありません。江戸時代からつづいた中野の絵馬屋、鎌田東渓の作品2点があります。(練馬区教育委員会)

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稲荷神社               昔の狛犬でしょうか

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街道の風景② 駅から商店街を通り坂を下ると石神井井公園です/石神井町


・・・石神井公園

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練馬区にある都立公園である。園内には石神井池三宝寺池がある。井の頭池、善福寺池と並び武蔵野三大湧水池として知られている。当地付近は元々武蔵野を支配した豊島氏の居城(石神井城)があり同氏が室町時代に滅ぶまで在った。公園内に空堀の一部が残る。近辺には豊島氏や豊島氏を滅ぼした太田道灌にまつわる遺跡や神社がある。三宝寺池には石神井城落城の際に豊島氏の姫・照姫が身を投げたと言う伝説があり、練馬区では照姫を偲んだ照姫まつりを1988年(昭和63年)より毎年4-5月に開催している。Wikipedia

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石神井池

石神井池(通称ボート池)
三宝寺池一帯が風致地区に指定された際、三宝寺池とともに武蔵野の景観を保護する目的で人工的に作られたものである。もともと三宝寺池から周辺の田んぼに水を引いていた水路であったが、それを人工的にせき止めて池とした、1933年に作られた。

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中の島

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北側(住宅地側)の道          南側の遊歩道

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街道の風景③ 二つの池の間を井草通りが抜けています/三宝寺池バス停

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三宝寺池
三宝寺池は井の頭池や善福寺池などとともに武蔵野台地地下水が湧出し水をたたえてできた池です。面積はおよそ240002、水深は平均約2mです。昔から水量が多く夏でも冬でも容易に枯れなかったといわれましたが、年々湧水が減少し現在地下水を汲み上げて補給しています。江戸時代には池の小島弁天様が祀られ、この池を主な水源とする石神井川の恩恵を受けた流域40余か村の農民が「講」をつくって尊崇していました。また古来禁猟地であったため草木がよく繁茂し鳥類の楽園であり、特に自生の水草類が多く昭和10年(1935)に「三宝寺池沼沢植物群落」として国の天然記念物に指定されミツガシワ・シャクジイタヌキモなどが保存の対象となりました。(練馬区教育委員会)

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橋を渡ると「石神井城址」になりますが、一周してからじっくりと/浮島

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三宝寺池沼沢植物群落
三宝寺池は昭和30年代頃までは冷たく澄んだ湧水をたたえた池でした。そのため東京では珍しい沼沢植物が育成しており、昭和10年(1935)「三宝寺池沼沢植物群落」として国の天然記念物に指定されました。指定当時は大きなハンノキは少なくカキツバタが一面に咲き乱れ、ジャクジイタヌキモやジュンサイ等貴重な沼沢植物が見られました。しかし昭和30年以降の急激な都市化に伴う湧水の減少や水質の悪化が進んでいます。また、抜かしは人々が生活の為に刈り取っていたハンノキ、ヨシ、マコモが放置されて繁茂したこにより池の環境が大きく変化し、貴重な植物の多くが消滅してしましました。この状況を改善するため専門家や文化庁の指導、助言のもとハンノキの萌芽庚申やヨシ等の大型水生植物の刈り込み等以前の環境を回復させるための管理を進めています。その結果、カキツバタやミツガジク、ハンゲショウ、コウホネ等の貴重な植物は順調に増え、消滅した植物も少しづつ回復しています。(説明板)

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先には水辺観察園           対岸には木道があります

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東の丘には隣接して「石神井松の風文化公園」があります

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石神井松の風文化公園
練馬区石神井台にある区立公園である。当該公園はもともと長く日本銀行石神井運動場であったが、東京海上日動火災に売却、その後さらに練馬区に売却され区立公園として整備されたものである。都立石神井公園に隣接し、石神井公園内には国の天然記念物に指定されている貴重な沼沢植物群落があり日本銀行石神井運動場が新たに開発されてしまうと沼沢植物群落にも影響が及ぶ可能性があった。区としてもレクリエーション施設を残しつつ、石神井公園の景観や生態を損なわないように配慮した公園にすることになったものである。Wikipedia

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殿塚                 姫塚/桜の広場


殿塚の由来
文明9年(1477)石神井城が上杉氏の軍将太田道潅との戦いに敗れて落城したときに、城主豊島太郎泰経は黄金の鞍をつけた愛馬に乗り三宝寺池に沈んだという伝説があります。この縁者が徳をしのんで築いたといわれています。たといわれています。また、これより西方30mのところに落城のとき同じく三宝寺池に身を投げた城主泰経の二女照姫供養姫塚があります。(練馬区教育委員会)

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対岸の丘、左奥が石神井城の内郭部になります

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一番奥からの景観です、右が厳島神社です

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厳島神社
創立年代等不詳。「新編武蔵風土記稿」上石神井村の項に「弁天社 三宝寺池ノ中島ニアリ。神楽堂」「水天宮 池ノ側ニアリ。」とある。弁天社神仏分離後厳島神社となる。水天宮水神社である(当社から東へ50mほどの池畔にある小祠)。厳島神社は昭和56年から境内の護岸工事、57年には社殿の改築工事を始めて58年に鉄筋コンクリート造として竣工した。南の丘の下に洞穴の祠があって穴弁天という。「北豊島郡誌」石神井村の項に「無格社厳島神社。大字上石神井字大門に在り、即ち三宝寺池畔の弁財天なり、石神井案内に曰く、池畔の洞窟、奥深き所には池霊の弁財天像を安置し里人相伝へて尊敬している。冒険の士は一把の松明を携へて暗黒裡陰風凄愴なる辺りに、池霊と相語るも亦快きことではないか」と記されている。雨乞いに際し、本殿に祀り祈願すると必ず雨が降ったという。相殿の祭神は明治41年、大正4年に近隣の稲荷神社、愛宕神社、御嶽神社を合祀したものである。(「練馬の神社」)

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浮見堂                水神社


・・・石神井城址

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橋を渡った湖畔に案内板が立っています/三宝寺池

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石神井城の中心内郭跡
石神井城は平安時代末期から室町時代まで現在の台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、足立区、練馬区などやその周辺地域に勢力を持っていた豊島氏居城の一つです。城の築城鎌倉時代後期と考えられ、文明9年(1477428日に太田道灌に攻められ落城し廃城になりました。『太田道灌状』によれば、最後の城主豊島泰経は石神井城落城の後、平塚城(北区西ヶ原)に敗走し、その翌年の125日再び道灌に攻められ小机城(横浜市)に逃げています。その後の泰経の足取りは記録として文献に残っていません。城は石神井川三宝寺池に挟まれた台地上に築かれており全体では9ha前後の規模であったと推定されています。当時の城は、土塁と濠で土地を四角形に区画した場所(郭)をいくつか築き、防御施設としていました。例えば、城の東側はここより約100m程東の場所に幅7m程の区画されていたと考えられ、西側はここより約220m程の場所に幅約9程の土塁区画されていました。また北側南側三宝寺池石神井川という自然の地形を利用して防御されていました。この場所は本城の中心となるで土塁と濠がよく残っています。昭和42年の発掘調査では次のような規模の郭であることがわかりました。空濠:上幅11.6m 底幅3m 深さ6.1m 土塁:基底部12.3m 現在高2.3m また内部は平坦であり陶磁器片、かわらけ(素焼土器)、鉄釘なども出土しており何らかの建物があったと考えられます。この地域は濠と土塁がよく残っている大切な場所です。少しでも永くこの状態が残せるよう皆様のご協力をお願い致します。(東京都)

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石神井城址碑

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石神井城跡
石神井城は豊島氏の城です。豊島氏は葛西、江戸両氏とともに秩父流平氏で、鎌倉時代の末には石神井郷を領有していました。室町時代に城主の豊島泰経は、武蔵守護の上杉顕定にそむいた長尾景春に味方しました。そのために顕定を援助していた江戸城主の上杉定正の重臣の太田道灌は、文明
9年(14774月この城に泰経を攻めてこれを落しました。石神井城は中世の平城の一つで、三宝寺池の谷と石神井川の低地とに挟まれた小高い丘陵の上にあって、その周囲は空堀土囲でめぐらされていました。いまでも空堀のあとの一部を見ることができますが、落城によって照姫が水中に身を投げたという伝説など数々の哀れな物語を秘めています。(練馬区教育委員会)

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坂上から見る主郭部

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石神井城址
石神井城は秩父平氏の一族で、石神井川流域を中心とする現在の東京都区部北側の地域に平安時代末期から室町時代中期頃まで勢力を持っていた豊島氏の居城でした。石神井川と三宝寺池に挟まれた標高約49舌状台地上に所在し、東西約350南北350の規模の主廓外廓からなる比較的単純な構造の中世城郭です。昭和31年(1956)以降の数次の発掘調査によって主廓や土塁築土から12世紀から16世紀前半までに属する陶磁器が出土しています。文明8年(1476)の長尾景春の乱の際、当時の城主豊島泰経は景春に与したので、扇谷上杉氏の家宰・太田道灌に攻められることとなり、翌年石神井城は落城しました。落城後、泰経が白馬に乗って三宝字寺池に深く沈み、長女照姫も後を追って入水したなど落城にまつわる伝説が伝えられています。(東京都教育委員会)

石神井城址(土塁・空濠)への立ち入りについて
フェンスに囲まれた場所は東京都指定の史蹟「石神井城跡」の中でも、特に保存状態が良いところなので、当分の間養生が必要となりました。そのため原則として立ち入りはご遠慮ください。なお、学術的研究(歴史学習)や生物調査・観察、その他必要に応じての立ち入りは石神井公園管理事務所にご相談ください。皆様の御協力をお願いいたします(東京都)

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石神井城主郭跡
中世に活躍した武将・豊島氏の居城であった石神井城の中心部分です。三宝寺池側はで残る三方には、土塁が築かれていました。内部(内郭)は平坦で、有事の際に利用する建物などがあったと考えられた場所です。平成10年から6年間にわたって実施した市民参加の発掘調査で堀と土塁及び内郭の一部が明らかになりました。は調査地点で幅12m、深さ6mで、断面凵形に関東ローム層(赤土)を掘り下げ、底面を3mで平にした「箱堀」であることが分かりました。水が溜まっていた痕跡が無く空堀です。また掘り下上げた土は黒土を混ぜて少しづつ固めながら、内側に盛上げ土塁を築いています。崩れていた土の量から推定すると現在よりも3高かったと推定されます。堀と土塁を合わせると比較差10程となり堅固な防御施設であったことが分かります。土塁からは14世紀後半からから15世紀に作られた常滑焼の甕や鉄製小刀が出土しています。内部の建物跡は明確にできませんが、柱穴が発見されており小規模な掘立柱建物が建てられていたと考えられます。調査では12世紀~16世紀にかけての中国製の陶磁器や常滑焼、渥美焼などが少量ですが出土しており、豊島氏の財力を示すとともに、生活用具の出土は内部建物で居住していたことの可能性を示唆しています。(東京都 練馬区教育委員会)

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フェンス南側の土塁跡/三宝寺裏

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土塁の様子/案内板           長屋門のお宅

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石神井公園案内図

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江戸名所図会 三宝寺池 弁財天 氷川明神 石神井城址(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

『この絵は三宝寺池を南西の空から見渡している。画面左が「弁天社」(厳島神社)、画面右の畑の中が「氷川明神」、手前の「城山」は三宝寺池の南西に位置していることから「愛宕山」(現早稲田学院の高台)、「石神井城址」は氷川明神社の上、池の岸から右に連なる丘一帯と思われる』(「江戸名所図会」でたずねる多摩/重信秀年氏著を参照)

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石神井公園周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(青:石神井川 橙:富士街道・旧早稲田通り・井草通り)



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資料ファイル

練馬区立石神井公園ふるさと文化館

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展示風景-「中世の領主豊島氏が残したもの」

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石神井城域模型

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78世紀頃の役所と道
7世紀後半から奈良・平安時代にかけて奈良や京都の都から各地へと官道が整備されました。武蔵国府(府中市)から下総国府(市川市)を結ぶ道が7世紀終わり頃から8世紀に整備され、練馬区域周辺には「乗潴駅」(のりぬま)が置かれていました。(展示パネル)

東山道武蔵路(東の上遺跡)関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26027336/




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「石神井城発掘調査の記録」(練馬区教育委員会)より補足


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石神井城址の地理的環境
練馬区は武蔵野台地北東端に位置し、区域は西高東低で標高約55m~25mを測る。武蔵野段丘面を白子川、石神井川、中新井川が荒川低地に向けて流れ、平坦な台地を浸食して河川沿いは低地を形成している。
石神井城は石神井川流域に築かれた中世城郭で、石神井川(流路延長約25.2km 小平市花小金井南町付近を源流とし、北区舟堀で隅田川に合流)沿いには豊島氏に関わる遺跡が点在する(図:石神井城址位置図)

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石神井城跡(50:石神井台遺跡 53石神井城遺跡 赤枠)は練馬区石神井台一丁目に所在し、石神井川と宝寺池に挟まれた標高約48mの東西に長い舌状台地に占地している。
石神井川城は豊島氏の城としては最上流部に位置する城であるが、さらに上流には早稲田高等学院内の調査で中世の堀、早稲田大学東伏見グランド内の調査で中世の墓が発見されている。(45139城山遺跡・愛宕山塁 黄枠)
三宝寺池は標高約42m、台地は三宝寺池側が急峻な崖線となっており、石神井川側は緩やかに傾斜している。調査地(赤角)の推定主郭は舌状台地の先端に占地し、ほぼ平坦であるが緩やかに東側の小支谷に向って傾斜し、北側は崖の地形を利用して築造したと考えられる。(石神井城発掘調査の記録/練馬区教育委員会抜粋)(図:石神井城址周辺遺跡分布図)

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石神井城縄張図(石神井城発掘調査の記録/練馬区教育委員会)

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各年の調査地点図(石神井城発掘調査の記録/練馬区教育委員会)

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出土遺物(石神井城発掘調査の記録/練馬区教育委員会)


出土遺物コメント
石神井城の築城にかかわる遺物として、土塁築土から出土した常滑甕片があげられます。その特徴から14世紀後半にさかのぼるものであり土塁の構築時期を示唆しています。一方、14世紀前半頃の渥美製品が畝状遺構中から検出されたことも、14世紀に石神井の地で何らかの人間の活動が営まれていたことを物語っています。土塁構築基盤層から出土した刀子も同じ時期のものと推測されるでしょう。(石神井城発掘調査の記録/練馬区教育委員会抜粋)

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渥美焼・常滑焼            小刀/ふるさと文化館

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豊島氏と石神井城について
石神井城を築いた豊島氏は、桓武平氏のひ孫の高望王が上総地域の首長となり、その子らが関東に土着し勢力を誇ったことに始まる。秩父盆地に土着した一派は河越氏、江戸氏など平姓秩父氏の武士集団を形成した。その一族が豊島姓を名乗り、入間川(現在の荒川)と石神井川の合流する付近の北区中里居館を構え、石神井川沿いを開発したと考えられている。石神井の地域は鎌倉時代に宇多氏によって支配され、その後婚姻関係により宮城氏、次いで豊島氏の所領となった。鎌倉時代末には石神井城が豊島氏の居館として築かれたと考えられ、文明9年(1477)太田道灌に攻められて廃絶するまでの間、豊島氏の居城であった。(石神井城発掘調査の記録/練馬区教育委員会抜粋)
図:豊島氏関係図(ふるさと文化館)

豊島氏(平塚城址/北区)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27071692/


# by Twalking | 2018-09-05 10:58 | 東京散歩(新規)