無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩の秋-乞田・貝取ふれあい広場   

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乞田・貝取ふれあい広場/乞田川(多摩市乞田)
女心と秋の空か、
移り気だね~・・・、
早く安定しておくれ~!お天気さん。

# by Twalking | 2018-10-23 12:09 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ザクロくん   

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多摩市愛宕
天気もいいことだし、
ピーチク、パーチク
語ろうぜ~、ね、おじちゃん。

# by Twalking | 2018-10-22 16:46 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 乞田川の風景-黄葉   

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乞田川/多摩市落合
秋晴れのいいお天気、
午後の柔らかな日差しに映えて
美しいこと・・・、至福のひと時です。


# by Twalking | 2018-10-22 10:56 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり上野~三ノ輪01-上野   

日時 2018.10.16(火)
天気 晴れ

不安定な天気が続きますが、晴れそうなので出掛けました。
旧筋違御門から御成道を上野へ、根岸の里から
奥州裏街道を三ノ輪へと予定しています。

旧筋違御門、上野広小路、アメ横などは久し振りです。
ついでに徳大寺(摩利支天)、下谷神社にもお参りして
松が谷の寺町、根岸の里へ、ここは初めてなので楽しみです。


・・・外神田/千代田区

千代田区のうち神田川の北側に張り出した位置にあり一般的に秋葉原と呼ばれている地区にほぼ相当、文京区(湯島)、台東区(秋葉原・上野)との区境にあたる。江戸府内より見て神田川(外堀)の外側を「外神田」(内側は「内神田」)と称したことが名前の由来で、1964年の住居表示実施による町名変更の際この名が新町名に採用された。
Wikipedia


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街道の風景① 定番のスポット、聖橋から神田川昌平橋方向を望みます/御茶ノ水駅

聖橋

千代田区駿河台と文京区湯島にまたがり本郷通り(都道403号)を結んでいる。全長79.3mのうち神田川の上部の36.3mが放物線を描く鉄筋コンクリートアーチ橋。関東大震災後の震災復興橋梁の1つで昭和2年(1927年)に完成した。両岸に位置する2つの聖堂(湯島聖堂ニコライ堂)を結ぶことから「聖橋」と命名された。Wikipedia


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昌平坂                        湯島聖堂

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街道の風景② 万世橋にでて中央通りを上野へ向かいます/万世橋

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万世橋
千代田区北東部、神田川に架かる橋。江戸時代、中山道御成街道との分岐点に筋違見附があり、城を守る筋違門があった。1873年(明治6)城門を壊した石を利用して東京で初めてのアーチ型の石橋(眼鏡がつくられ、橋の名を万代(よろずよ)として不朽を願った。1906年(明治39)撤去され、やや上流に架橋、万世橋とされ呼び名もいつしか「まんせいばし」と変えられ付近の地名ともなった。現在の橋はふたたびもとの筋違門付近1930年(昭和5)鉄筋コンクリートで架けられたもの(上流の万世橋は昌平橋と改称)。秋葉原)駅に近く橋の南詰にあったかつての甲武鉄道(中央線)万世橋駅跡には交通博物館があった(20065月閉館)(コトバンク)

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旧万世橋駅(マーチエキュート神田万世橋)
かつて中央線の神田~御茶ノ水間に明治451912)年に開業した「万世橋駅」がありました。昭和18休止になりましたが、赤レンガの万世橋高架橋の中にホームや階段など駅の施設が一部残っていました。「旧万世橋駅」はこれら駅の遺構を再生し、歴史的価値ある遺構を随所にご覧いただける施設です。開業当時姿をほぼ留めた「1912階段」や、交通博物館開館時に設けられた「1935階段」をはじめとする遺構を公開するほか、旧万世橋駅時代のプラットホームにデッキを設けた「2013プラットホーム」にはフリースペースやカフェがあります。このほかにも万世橋駅の足跡を今に伝える展示も実施しています。(東日本鉄道文化財団HP)

駿河台・筋違御門の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/24224167/

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街道の風景③ かつての御成道、総武線の御成街道架道橋」にその名を残します/秋葉原駅前

御成街道
神田川以北は五街道ではなく江戸城から寛永寺へと向かう御成道(御成街道)に由来する。御成道は昌平橋と現在の万世橋の間の位置にあった筋違橋から下谷広小路(現在の上野広小路)を経て、寛永寺境内(現在の上野恩賜公園)の参道に接続していた。「御成街道」の名前は御成街道架道橋に残っている。また、万世橋の前後は架橋に伴って整備された道筋である。(Wikipedia

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秋葉原
秋葉原駅周辺
、主として千代田区外神田・神田佐久間町および台東区秋葉原周辺を指す地域名である。18701月(明治212月)の大火を受けてできた火除地(空地)に明治天皇の勅命で1870年(明治3年)10月に宮城(江戸城)内の紅葉山から鎮火三神を勧請して創建した「鎮火社」が、火防(ひぶせ)の神・秋葉大権現として人々が「秋葉社」「秋葉様」「秋葉さん」と呼び、火除地を「秋葉の原」「秋葉っ原」と呼んだことで秋葉原の地名が誕生した。鎮火社は1888年(明治21年)に日本鉄道が建設していた鉄道線(現在の東北本線)が上野から秋葉原まで延長されるのに伴って東京府下谷入町(台東区松が谷三丁目)に遷宮して秋葉神社となった。Wikipedia

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神田亀住町

江戸時代のこの界隈は武家屋敷がたち並ぶ地域で、幕末のころには一帯が豊前小倉藩小笠原家中屋敷となっていました。神田亀住町はもともと神田川北岸に江戸時代からあった神田六軒町、柳原大門町、神田八軒町、上野町代地が明治2(1869)合併してできた町名です。その名前は末永く生活できる場であってほしいという願いを込めて付けられたといいます。この年の12月、現在の外神田一帯に大きな被害をもたらした火事がありました。火災後、神田亀住町は新政府により火除地(延焼を食い止めるための空き地)とされたため、翌3(1870)小笠原家屋敷跡代地として与えられ、神田川北岸に移転してきました。明治44(1911)の町名変更で町名はいったん亀住町となります。昭和22(1947)にふたたび神田亀住町に戻されますが、昭和39(1964)の居住表示の実施で、神田栄町や神田元佐久間町と合併して現在の外神田五丁目になりました。町内にある亀住稲荷(かめずみいなり)神社は豊前小倉藩の中屋敷内にあった稲荷と神田八軒町にあった稲荷を一緒に祀ったユニークな社(やしろ)です。町の人々はこの神社に深く愛着をいだき稲荷のための保存講を組織し管理・運営を続けるなどいつの時代も大切にしてきました。(千代田区町名由来版)


・・・上野/台東区

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街道の風景④ 上野松坂屋から京成上野駅の一帯が黒門のあった下谷広小路です

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上野
戦国時代『小田原衆所領役帳』に江戸上野という記述が見られ北条領であった。江戸時代:
1752年の地図上の不忍池(中央上やや右)。上野山は戦国時代には忍岡(しのぶのおか)と呼ばれており、元々江戸においては人口の少ない地域であった。1603年に江戸幕府が開かれた頃、忍岡には伊賀国上野を本拠地とする外様大名・藤堂高虎の屋敷が置かれた。後に徳川将軍家の菩提寺である寛永寺が建立され門前町が開けた。この頃から寛永寺付近の一帯を「上野」と呼ぶようになる。これは藤堂家の所領である上野に地形が似ていたためと言われている。寛永寺には歴代将軍の墓も建てられ江戸幕府から保護されたので繁栄し、それに伴って門前町の上野も発展した。上野寛永寺は江戸城から見て陰陽道上の鬼門に当たり、京都の延暦寺(京都から見た場合は北東)に擬えた江戸鎮護の寺でもあった。明暦の大火後には上野に広小路が設置された。ただし、当時の上野広小路は現在の上野駅付近にあり、現在の広小路は江戸時代には「下家広小路」と呼ばれていた。Wikipedia抜粋)

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旧東黒門町
東叡山寛永寺が創建されたのにともない、寛永3(1626)に同寺の門前町として上野新黒門町ができた。この命名については御府内備考が『問う叡山御門前に相成、元黒門町に引続町屋に御成候に付新黒門町と唱候哉』と述べられているのに由来する。上野新黒門町は御成道(現在の中央通り)両側に形成されていたが、明治2(1869)御成道を境にして東西に二分され上野西黒門町、上野東黒門町として新たに発足した。翌3年東京府の近代都市政策のもと下谷第39番組に属し地元指導者を中心にまちづくりが始まった。そして明治5(1872)付近の武家屋敷を合併し本町は形づくられた。明治44年に上野の二字をはずし東黒門町となった。(下町みちしるべ/台東区)

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街道の風景⑤ 朝の不忍池です。右手に下町資料館、左に龍門橋碑(忍川)があります

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下町風俗資料館               龍門橋碑

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上野広小路三橋遺構
上野広小路三橋遺構は都道中央通り(上野広小路)に建設中の台東区営地下駐車場工事地内における発掘調査により平成17年度に発見された石組水路です。江戸時代には寛永寺の参道に続く下谷広小路にかかる遺構で、西側の不忍池から広小路を横切るように水路(忍川)が砂層を分断してへ流れていました。川には三つの橋(中央に将軍が寛永寺に参詣する時に使用する大橋、左右に一般用の小橋)が架けられていて三橋と呼ばれていました。下谷広小路はほぼ現在の都道中央通りとなっており、本遺構は三橋に関係するものと考えられます。石組水路は明治に暗渠となっていたようですが、昭和5年の地下鉄銀座線に分断されて廃棄された後には、コンクリート管が埋められましたが、遺構部分は良好に残されていました。水路は一度改築されて約80cm浅くなり、さらに途中から南側に折れ曲がります。当初の深い部分において上幅3m、下幅1m、高さ3mあり、石垣は間知石を積み上げ、底面の砂層の上には長さ450、幅40、厚さ10cmの板材を組み合わせて敷いています。構築は17世紀中頃、改築は17世紀後半から18世紀前半頃と推測され、改築は参道が広小路として拡幅されたことと関連すると思われます。本遺構は遺存が良好であり、また類例の知られていない板敷きを有するなど貴重です。また忍川と上野広小路の歴史を解明し、さらには寛永寺と三橋の関係を考えるためにも重要です。(台東区教育委員会/台東区HP)

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旧上野三橋町
本町は明治2(1869)上野仁王門前町と仁王門前上野家来屋敷の東側、そして北大門町飛地と上野役人屋敷を合併しその地域を町域にして起立した。町名は町の南西、御成道(現中央通り)、不忍通りとの交差点のあたりに三橋という橋があったことに由来する。橋の名は不忍池から流れ出る忍川三つ並んで架設されていたことにちなむという。ほかに将軍が寛永寺墓参の折に渡る橋なので御橋といい、それが三橋に転訛したとする説もある。定説の三つの橋は真中の橋が将軍専用で、両側の橋が一般の通用橋であったという。忍川は昭和初年に暗渠になりそのため橋も消えた。昭和39(1964)の住居表示では大部分が上野4丁目になり一部JR高架線下が同6六丁目になった。(下町まちしるべ/台東区)

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上野広小路・下谷・山下
現在の上野公園(旧寛永寺)周辺。広小路は、現在の上野公園入口から松坂屋に至る一帯。明暦の大火(明暦31657年)ののち、道幅を広げて火除け地となった。歴代将軍が寛永寺参拝に利用した御成道で、沿道に食料品店、料理店などが並ぶ繁華街であった。現在の中央通りと不忍通りの交差点には忍川が流れており、三つの橋が並んでかけられていたことから三橋(みはし)と呼ばれた。松坂屋、三橋は錦絵にも描かれた。下谷は寛永寺(現上野公園)の東側一帯をさし、台地であった上野に対する名称。山下は東叡山の下の意味。現在のJR上野駅構内駅前広場にあたる。元文21737)年の火災ののち火除け地となり、町屋は開かれず商店や見世物小屋が立ち並ぶ歓楽街となった。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)
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江戸名所図会 東叡山黒門前 忍川 三橋 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景⑤ 昭和通りの歩道橋よりお上野のお山を望む、上野駅周辺が「山下」でしょうか/上野駅前

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昭和通り
第一京浜(国道15号)・銀座通り(国道15号)が交差する港区新橋交差点から、明治通りが交わる台東区大関横丁交差点に至る道路の東京都通称道路明である。昭和通りは関東大震災の復興事業として計画・建設された道路である。当時東京市長だった後藤新平の原案では道幅を108mとするものであったが、広い道路の重要性が当時は受け入れられず、結果現在の道幅に狭められ1928年(昭和3)に完成した。Wikipedia

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上野駅
当駅は日本の鉄道黎明期に日本初の私鉄である日本鉄道が上野熊谷間の第一区線(現在の高崎線)開業時(1883・明治16年)に合わせて、東京下町北端の山下町に東京方の起点駅として開業した歴史ある駅である。以来、日本を代表するターミナル駅として栄えてきた。現在、当駅には北関東と東京を結ぶJR各線の中距離電車と東京都区部を走る各通勤電車(JR東日本・東京メトロ)各線が結節し、また東北、上信越方面の各新幹線、その他在来線各線の優等列車が発着するなど東京の「北の玄関口」として機能している。Wikipedia
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江戸名所図会 山下 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


上野公園の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27155599/


・・・御徒町

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御徒町
御徒町駅周辺5駅を核とした地域・通称。東京7ヶ所の副都心、上野・浅草副都心を形成する拠点地域のひとつでもある。江戸時代秋田藩竹町(御徒町の北側)現在の佐竹商店街近辺にあり幕末後、野ッ原になった。その後、明治の後半から大正にかけてこの地には寄席、見世物小屋が並び東京の一大歓楽街を成していた。江戸時代、江戸城や将軍の護衛を行う下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である御徒(徒士)が多く住んでいたことに由来する。現在は町名としては消滅し台東区台東および東上野の一部となっている。
Wikipedia)写真:御徒町駅前

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街道の風景⑥ 久し振りのアメ横です、相変わらず賑わっていますね

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アメヤ横丁
台東区の南西部、JR御徒町駅上野駅間ガード下西側一帯のマーケット街。アメ横ともよばれる。終戦直後の1946年(昭和21)ここに闇市や露店が開かれて活況を呈したが、当時飴屋が多かったのでこの名が生まれた。その後、飴屋が菓子問屋、化粧品店になりやがて万年筆、香水、時計などの高級輸入品を扱うまでになり、とくに年末の食料品、海産物の売り出しは東京の名物の一つともなっている。1983年(昭和58)北東端にモダンな地下2階、地上5階建てのアメ横センタービルがオープンし現在は新旧のアメ横共存の形である。(コトバンク)

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徳大寺山門

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徳大寺/上野
台東区上野4丁目アメヤ横丁の商店街の中にある日蓮宗の寺院。山号は妙宣山。本尊は大曼荼羅。開運摩利支天を祀ることから摩利支天山(まりしてんさん)とも呼ばれる。旧本山は大本山中山法華経寺。親師法縁。周囲を商店に囲まれた環境の中で立体構造型の特異な寺院様式を呈しており、参道上にアメ横周辺では異色の空間といえる境内が広がる。正午と夕暮れ時6時の商店街に響きわたる鐘の音は、徳大寺の鐘楼堂によるものである。創建年代は不明だが、伝承では江戸時代前期の承応2年(1653)に示寂した日遣によって開山されたとものという。京都本法寺の日達が下総国中山(現在の市川市)の法華経寺へ赴く際に聖徳太子作と伝えられる摩利支天像を感得、これが宝永5年(1708)にこの寺に安置され、以後江戸における流行仏のひとつとして庶民の信仰を集めた。Wikipedia

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浄行菩薩               七面大明神


・・・東上野

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街道の風景7 浅草通りを南に向かうと下谷神社があります

浅草通り

中央通りと昭和通りと交わる台東区の上野駅交差点から明治通りと交差する江東区福神橋交差点にわたる道路の通称。 都道463号上野月島線と同453号本郷亀戸線の一部に属する。台東区内全域にあたる昭和通り (国道4)から江戸通り(国道6)の間は、浅草通りの下を東京メトロ銀座線が地下の最も浅いところを走っている。日本で最初の地下鉄はこの通りの下を通って完成されたものであるWikipedia


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南稲荷町
明暦3(1657)江戸大火後、江戸各地の寺院がこの付近に移転してきた。そして唯念寺、成就寺、宗源寺、西蓮寺の各門前に町屋が形成された。この頃、唯念寺の門前町屋は町内に稲荷神社があったので俗に稲荷町一丁目と呼ばれていた。また、成就寺の門前町屋は稲荷町といっていた。明治2年これらの門前町屋は、隣接する辻番屋敷を合併して下谷稲荷町と名付けられた。稲荷神社は現在の下谷神社である。明治5年、下谷稲荷町は現在の浅草通りで南北にわかられるとともに下谷江島町をあわせて下谷南稲荷町が誕生した。その後、明治44年に下谷の二字をはずして下谷稲荷町となった。(下町まちしるべ/台東区)

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下谷神社鳥居/東上野

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下谷神社(したやじんじゃ)
大年神と日本武尊を祭っている。古くは下谷稲荷社下谷稲荷明神社と呼ばれた都内最古稲荷神社。東京メトロ銀座線に名を残す旧町名の稲荷町はこの神社の旧称が由来の町名である。例大祭で近隣町内を渡御する本社神輿は台輪幅41寸の千貫神輿といわれ大きな威容を誇る。社殿の天井画は横山大観の作。また、1708年に初代・三笑亭可楽によって当社境内で初めて寄席が開かれた。このため本神社には「寄席発祥の地」の石碑がある。夏になるとドライミストで神社に集まる人々が涼しんでいる。「水」と「芸能」のパワースポットと云われる。宮司の阿部明徳は東日本大震災で被災した神社等の仮社殿、鳥居、神輿、縁日などの復旧支援活動を、他の神社関係者と共に行っている。当初は上野公園に鎮座していた。730年(天平2年)峡田の稲置きらが建立したとも、行基が伏見稲荷大社を勧請したとも伝えられる。939年(天慶2年)平将門による天慶の乱追討祈願のため藤原秀郷が社殿を新造したという。寛永年間、境内が寛永寺山内となるにあたり、1627(寛永4年)別当正法院と共に下谷屏風坂下に移転したが、126坪余と手狭だったため1680年(延宝8年)下谷広徳寺前にあった谷中天眼寺先住少林庵抱地525坪余と土地交換した。1703年(元禄16年)旧地も正法院抱地になった。1868年(明治元年)神仏分離令により正法院を分離した。翌年周囲の町名が当社に因み下谷稲荷町となる。1872年(明治5年)下谷神社と改称、翌年下谷地域の郷社と定められた。関東大震災で社殿を焼失、1928年(昭和3年)現在地に移転。1934年(昭和9年)現在の社殿が完成した。Wikipedia

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舞殿                 隆栄稲荷神社

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「落語発祥の地」碑
現在の下谷神社は明治5年以前は「下谷稲荷社」が正式な名称でした。江戸時代、寛政10年(17986月に初代山生亭花楽が下谷稲荷社で5日間の寄席興業を行いました。これが江戸における最初の寄席興業といわれております。落語自体はもっと前から存在しましたが、それ以前の落語は身分の高い方の前で一対一で話をしたそうで、寄席の定義というのは一般の人を対象に木戸銭をとって落語を聞かせることだそうです。馬喰町の櫛職人をしていた京屋又五郎という人が山生亭花楽と名乗り「風流浮世おとし噺」の看板を掲げ、下谷稲荷社の境内の賭け小屋で一般の人を対象に木戸銭を取って落語を聞かせました。これが江戸における最初の寄席興業といわれており、寛政の後の文化・文政の時代には百数十軒にも増加したそうです。山生亭花楽の名前は「山椒は小粒でピリリと辛い」をかけたて付けられてものだそうです。平成10年(1998)寄席発祥200年を記念して都内4つの亭席、落語協会、落語芸術協会をはじめ落語関係者の協力により境内に記念碑が建てられ、落語関係者200名参列の下除幕式が執り行われました。(宮司 阿部明徳) 

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南参道 下町らしい風情のある参道です

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江戸名所図会 下谷稲荷明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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上野広小路周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)(黄:歩行ルート 橙:中山道・御成道 青:神田川)


# by Twalking | 2018-10-21 19:42 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 にわか雨   

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パルテノン大通り/多摩センター駅(多摩市落合)
あららぁ~、駅に着いたらにわか雨、
おふくろさん、大丈夫だったかな・・・。
ちょっと雨宿りして帰るかな~。

# by Twalking | 2018-10-21 11:15 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 『Y's Diner』さんで会食   

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今日は奥沢の『Y's Diner』(ワイズダイナー)さんで
母方の親戚のみなさんと会食しました。
989694、母と2つ違いの叔父さま、伯母さまも同じようなお年、
みなさんお元気ですね・・・、嬉しい限りです。

ここは従弟の幼稚園の同級生がやっているお店、
これにもビックリ、イラストのようなアットホームな空間、
お店の雰囲気がよく分かります。

美味しい料理に会話も弾み楽しいひと時を過ごしました。
どうもありがとうございました、感謝です。


・・・
Y's Diner
スペイン料理のお店です
場所:東急目黒線奥沢駅すぐ
  (世田谷区奥沢2-10-7 伊賀ビル1F)03-5726-8175

# by Twalking | 2018-10-20 22:50 | さんぽみち

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 乙女椿   

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乞田川/多摩市落合
あれ、乙女椿さんかな~???
ちょっと寒いと思ったら咲き始めました。
早いですね・・・、そろそろ冬支度でしょうか。


乙女椿
ツバキ科ツバキ属。(学名:Camellia japonica f. otome
ピンク色の花びらを重ねた八重咲きの中輪である。花びらは円頭形で整然としている。葉は卵形で互い違いに生える(互生)。葉の先は尖り縁にぎざぎざ(鋸歯)はない。葉には艶がある。葉はヤブツバキよりも小さい。ユキツバキ系の品種で江戸時代から栽培されている。属名の Camellia はイエズス会の宣教師「カメル(G. J. Kamell)さん」の名からきている。種小名の japonica は「日本の」という意味である。品種名の otome は「乙女」である。(みんなの花図鑑)


千重咲き

千重咲き(せんえ)は花弁の重なりが多く、花芯に雄しべがほとんど見られない椿です。「乙女」は淡桃色の中輪で、刈込みに強くて枝葉が密に茂り、病害にも強い品種です。(武田薬品工業)


# by Twalking | 2018-10-19 15:10 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-五条天神神社   

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阿形

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吽形

五条天神神社/上野公園(台東区)
製作年代は分かりませんがブロンズ製でしょうか、
がっちりとしてなかなか精悍な面構えです。

# by Twalking | 2018-10-18 20:03 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 autumn   

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乞田川/多摩市落合
美しい、
輝いてますね~・・・、
あやかりたいものです。

# by Twalking | 2018-10-18 15:05 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 秋葉原駅   

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日比谷線秋葉原駅/千代田区神田佐久間町
三ノ輪で新宿方面の接続を伺ったら上野か銀座、
車内で路線をみると秋葉原で都営線(岩本町駅)
と接続したました。神田川を越えて歩くので
外したんでしょうね・・・。


秋葉原駅

千代田区にあるJR東日本・東京メトロ・首都圏新都市鉄道の駅である。所在地はJR東日本が外神田一丁目号、東京メトロと首都圏新都市鉄道が神田佐久間町である。東京メトロ日比谷線はJR線東側の昭和通りの真下に位置する相対式ホーム22線を有する地下駅。電気街などのJR線西側へは神田川沿いの道路およびJR中央改札口前の東西自由通路にて連絡している。また、小伝馬町寄りの改札口を出て神田川の和泉橋を渡った場所に都営地下鉄新宿線の岩本町駅がある。当駅と岩本町駅は距離が近いが同駅の開業以来連絡運輸(メトロ⇔都営地下鉄の乗り継ぎ割引適用)を行っていなかった。しかし、2013年までに乗継割引の適用を開始することが2011年に発表され同年から適用が開始された。(Wikipedia



# by Twalking | 2018-10-17 21:49 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 古希   

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愛宕下通り/多摩市愛宕

あなたに笑いかけたら 
   そよ風がかえってくる~♪♪
若いね~・・・、うらやましい。
人生七十古来稀なり」というそうだから、
一区切りして、もうひとがんばりでしょうか。
どんぐりさん、元気をありがとう!


曲江
/杜甫
朝回日日典春衣 朝(ちょう)より回(かえ)りて日日に春衣を典(てん)し

每日江頭盡醉歸 毎日江頭(こうとう)に酔を尽くして帰る
酒債尋常行處有 酒債(しゅさい)は尋常 行く処に有り

人生七十古來稀 人生七十 古来稀なり
穿花蛺蝶深深見 花を穿(うが)つ蛺蝶 深深として見え

點水蜻蜓款款飛 水に点ずる蜻點(せいてい) 款款(かんかん)として飛ぶ
傳語風光共流轉 伝語す 風光共に流転す

暫時相賞莫相違 暫時 相賞して相違(たが)う莫(なか)れと


# by Twalking | 2018-10-17 18:57 | さんぽみち

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 古跡昌平坂   

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昌平坂/本郷台(千代田・文京区境)
湯島聖堂の西側から本郷通りへ上る坂、
坂下に道標が建っています。
いい坂ですね!


昌平坂

湯島一丁目14の間。湯島聖堂と東京医科歯科大学のある一帯は、聖堂を中心とした江戸時代の儒学の本山ともいうべき「昌平坂学問所(昌平黌)」の敷地であった。そこで学問所周辺の三つの坂をひとしく「昌平坂」と呼んだ。この坂もその一つで、昌平黌を今に伝える坂の名である。元禄7(1694)9月、ここを訪ねた桂昌院(五代将軍徳川綱吉の生母)は、その時のことを次のような和歌に詠んだ。『萬代(よろずよ)の秋もかぎらじ諸(もろ)ともに もうでゝ祈る道ぞかしこし』(文京区教育委員会)


# by Twalking | 2018-10-16 21:12 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鬼面鬼瓦-寛永寺旧本坊表門   

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鬼面鬼瓦/上野寛永寺
可愛い鬼さんだこと・・・。
高い所にあるので遠目では分かりませんが、
境内に展示してあったのでじっくり見れました。
旧本坊表門の鬼面鬼瓦です。


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鬼瓦
和式建築物の棟(大棟、隅棟、降り棟など)の端などに設置される板状の瓦の総称。略して「」とも呼ばれる。厄除けと装飾を目的とした役瓦の一つ。鬼瓦は棟の末端に付ける雨仕舞いの役割を兼ねた装飾瓦で、同様の役割を持つ植物性や石、金属などの材料で葺かれた屋根に用いられるものを「鬼板(おにいた)」というが、鬼面が彫刻されていない鬼瓦も鬼板という。一般的に鬼瓦といえば鬼面の有無にかかわらず棟瓦の端部に付けられた役瓦のことをいう(Wikipedia

# by Twalking | 2018-10-15 21:31 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 多摩の秋-乞田川   

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乞田川/多摩市落合
深まりゆく秋、
川辺の桜も今が盛り、
静かでいいですね~・・・。

# by Twalking | 2018-10-15 14:46 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 湯島駅   

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千代田線湯島駅/文京区湯島
小田急線に乗り入れてますし、次の
新御茶ノ水では都営、京王線も使えます。
都心に出るのに便利になりましたね。


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湯島駅
文京区湯島三丁目にある東京メトロ千代田線の駅である。島式ホーム12線を有する地下駅。 エスカレーターはホームと根津寄り改札口・新御茶ノ水寄り改札口を連絡するものが設置されているほか、根津寄り階段の1番線側にはエレベーターも設置されている。(Wikipedia

# by Twalking | 2018-10-14 22:15 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ススキ   

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ススキ
乞田川/多摩市落合
秋の七草、
川辺のススキもいいですね!
和みます。


ススキ
(芒、薄)

イネ科ススキ属の植物、尾花ともいい秋の七草の一つ。また茅(かや・とも書く)と呼ばれる有用植物の主要な一種。野原に生息しごく普通に見られる多年生草本である。高さは1から2m。地下には短いがしっかりした地下茎がある。そこから多数の花茎を立てる。葉は細長く、根出葉と稈からの葉が多数つく。夏から秋にかけて茎の先端に長さ20から30cm程度の十数本に分かれた花穂をつける。花穂は赤っぽい色をしているが、種子(穎果・えいか)には白い毛が生えて穂全体が白っぽくなる。種子は風によって飛ぶことができる。(Wikipedia


# by Twalking | 2018-10-14 13:58 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 オミナエシ   

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オミナエシオ/光源寺(京区向岡)
どこかで出会いたいなと思っていたら、
お寺の境内に咲いてました。
手入れがよく行き届いていますね。


オミナエシ
(女郎花)
オミナエシ科オミナエシ属の多年草植物。秋の七草の一つ。夏までは根出葉だけを伸ばし、その後花茎を立てる。葉はやや固くてしわがある。草の丈は60-100cm程度で、8-10月に黄色い花を咲かせる。日当たりの良い草地に生える。手入れの行き届いたため池の土手などは好適な生育地であったが、現在では放棄された場所が多く、そのために自生地は非常に減少している。日本では万葉の昔から愛好され、前裁、切花などに用いられてきた。漢方にも用いられる。Wikipedia


# by Twalking | 2018-10-13 21:13 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 セイタカアワダチソウ   

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セイタカアワダチソウ/乞田川(多摩市落合)
ミツバチさんも蝶さんも、
せっせせっせとお仕事中かな・・・、
お疲れさ~ん。


セイタカアワダチソウ
(背高泡立草)

キク科アキノキリンソウ属の多年草である。北アメリカ原産で、日本では切り花用の観賞植物として導入された帰化植物(外来種)であり、ススキなどの在来種と競合する。11月頃まで開花していることから、ミツバチの蜜源植物として養蜂業者が全国に広めたこともある。河原や空き地などに群生し高さは1-2.5m、良く肥えた土地では3.5-4m程度にもなる。茎は下の方ではほとんど枝分かれがなく、先の方で花を付ける枝を多数出す。花期は秋で、濃黄色の小さな花を多く付ける。(Wikipedia


# by Twalking | 2018-10-12 13:37 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり千駄木~上野公園05-上野公園(2)   

日時 2018.9.28(金)
天気 晴れ


かつての参道を清水観音堂、旧山王台、不忍池へ向かいました。
みどりも多いし、見所豊富ですから散策にはうってつけ、
それにしても外国の方が多いですね・・・、ちょっとビックリ。

今回は寛永寺の関連史蹟を中心に見て廻りましたが、
ここは博物館や美術館、それに芸大もありますから、
いろいろな楽しみ方ができます。
今度は目的を変えて訪ねてみたいと思います。


・・・擂鉢山

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かつての参道でしょうか、左が清水観音堂、寄りませんでしたが右奥が擂鉢山になります

摺鉢山古墳
摺鉢山はその形状が摺鉢を伏せた姿に似ているところから名付けられた。ここから弥生式土器、埴輪の破片などが出土し、1500年前前方後円形式の古墳と考えられている。現存長70m、後円部径43m、前方部幅は最大部で23m、後円部の道路との比高は5mである。丘上はかつての五條天神清水観音堂鎮座の地であった。五條天神の創立年代は不明であるが堯恵法師は『北国紀行』のなかで文明19(1487)に忍岡に鎮座する五條天神を訪れた際『契りきて たれかは春の 初草に 忍びの丘の 露の下萌絵』とうたっている。現在、上野公園忍坂に鎮座。清水観音堂は寛永8(1631)寛永寺の開祖天海僧正により建立されたが元禄年間(16881703)初めごろ寛永寺根本中堂建立のため現在地に移転した。現在、丘上は休憩所となっているが、昔のまま、摺鉢の形を保っている。(台東区教育委員会)

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花園稲荷神社鳥居


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花園稲荷神社
祭神:倉稲魂命(うがのみたまのみこと、別名豊受姫命・とようけひめのみこと)
この神社の創建年代については不詳であるが、五條天神社が移転してくる以前からこの地にあった神社である。一説に空海が東寺の門前に建てた稲荷山太田道灌が勧請したとも、天海が勧請したとも、のちに木食浄雲により再興されたとも伝えられるが、社伝では承応3年(1654)に天海の弟子晃海により再興されたとされる。幕末には上野戦争(黒門・穴稲荷門の戦い)の舞台ともなった。1873年(明治6年)に周囲が寛永寺の花畑であることから花園稲荷神社と改名され、現在の花園稲荷神社の社殿などが整備された。本務社である五條天神社に管理されているものの花園稲荷神社は独立した法人格を持つ兼務社であって、五條天神社の境内社ではない。(Wikipedia

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稲荷坂
花園稲荷神社は「穴稲荷」「忍岡稲荷」とも呼ばれ、創建年代は諸説あるが江戸時代初期には創建されていた。これにより江戸時代から「稲荷坂」の名がある。享保17年(1732)の『江戸砂子』にその名が見え、明治29年(1896)の『新撰東京名所図会』には「稲荷坂 忍ヶ岡の西方に在りて、穴稲荷社へ出る坂路をいふ」とある。(台東区教育委員会)

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五条天神社鳥居


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五条天神社
景行天皇の御代(110日本武尊が東夷征伐のため上野忍ケ岡をお通りになられた時、薬祖神二柱の大神に難儀を救われたことを感謝しここに両神を祀られた。相殿の菅公は社名が五條天神といわれたことから、寛永18年(1641)に合祀されたともいい、また神職瀬川家が代々連歌師であって歌道の祖として庭内に祀られていた社を合祀したともいう。社地は天神山にあったが寛永寺が創られるにあたり神職瀬川邸に遷り、震災のあと現地に昭和39遷座された。(東京都神社名鑑)

忍ヶ岡(しのぶがおか)

台東区西部、上野古名。山手台地が隅田川沿いの低地に臨む突端にあたり、江戸時代に東方の下谷(したや)に対して上野とよぶようになったが、以前は忍ヶ岡、また忍ヶ森とよばれた。東叡山寛永寺が1625年(寛永2)建立され、明治以後に上野公園となり文化、散策の地として親しまれている。忍岡中学校にその名が残っている。(コトバンク)


・・・旧山王台

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前方が彰義隊の墓所、右手に西郷像が立ちます

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敬天愛人/西郷隆盛
像台東区上野の上野公園に建っている西郷像は高村光雲の作(傍らの犬は後藤貞行作)、鋳造は岡崎雪聲。発起人は吉井友美、宮内省より500円を下賜され、さらに全国25千人余の有志の寄付金で建立された。除幕式は西郷の死後21年を経た1898年(明治31年)1218日に行われた。身長:370.1cm、胸囲:256.7cm、足:55.1cm。正面から写した写真では頭部が大きく見えるが、これは像の足元から見上げた場合の遠近感適正に見えるよう計算されているためで、実際の西郷の体つきがこうであった訳ではない。以後「上野の西郷さん」と呼ばれて100年以上も国民に親しまれ、現在でも東京タワーや新宿の高層ビル街とならぶ東京の象徴的光景となっている。(Wikipedia

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敬天愛人 西郷隆盛と銅像の由来
西郷隆盛は文政10年(1827年)127日薩摩藩士として鹿児島鍛冶屋町に生まれた。通称吉之助。南州はその号である。若くして、藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること2回。元治元年(1864年)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶應3年(1867年)12月ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、江戸を戦禍から救ったことは余りにも有名である。その後は故郷に退隠したが明治41871年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて上京、参議に就任し廃藩置県その他近代国家建設のための主動的役割を果たした。然るに、明治66月いわゆる征韓論が閣議に上がるや断固反対して、大使派遣による平和的修交を主張しその決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷。私学校を興して後進青年の育成に努めた。明治102月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、転戦7ヶ月余ついに敗れて城山に自刃した。924日、享年51歳。そのため一時逆賊とされたが明治222月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ正三位を追贈された。この銅像はこれに感激した隆盛の旧友・吉井友実が同志と共に追慕の情を表すべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志25千人の醸金を得て明治26年起工、同30年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村光雲の作である。西郷隆盛の偉大な功績はその信条たる敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠没我の所産であり、日本の代表的偉人として今なお敬慕される所以はここに在るのである。(碑文)

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彰義隊の墓

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彰義隊の墓(台東区有形文化財)
江戸幕府15代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応4年(18682月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。慶応4515朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。正面の小墓石は明治2年(1869)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋葬したものだが、後に掘り出された。大墓石明治14188112月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。平成2年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。(台東区教育委員会)

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彰義隊の墓
15代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷(おきさと)らは、慶応4年(1868)大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の除名嘆願のため同志を募った。そこに徳川政権を支持する各藩士をはじめ新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり「彰義隊」と名乗り、やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦515日上野戦争は武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させた。生き残った小川ら隊士は明治7年(1874)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。なお遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されている。以後、120年余りに渡り小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史記念としてその管理は東京都に移されている。(説明版)
(写真:彰義隊奮戦の図/説明板)

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階段を下ると上野広小路ですが、清水観音から不忍池へ向かいます


・・・清水観音堂


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清水観音堂

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清水観音堂
清水観音堂は寛永81631)年に天台宗東叡山寛永寺の開山・慈眼大師天海大僧正15361643)によって建立されました。天海大僧正は寛永21625)年に2代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、平安京と比叡山の関係にならって「東叡山寛永寺」を開きました。これは、比叡山が京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城鬼門の守りを意図したのです。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立しましたが、清水観音堂は京都の清水寺(きよみずでら)を見立てたお堂です。清水観音堂は京都の清水寺の義乗院春海上人から、同寺安置の千手観世音菩薩像が天海大僧正に奉納されたことにちなみ、清水寺と同じ舞台作りで、初めは上野公園内の「擂鉢山」(すりばち)に建てられました。しかし元禄初期、今の噴水広場の地に寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると、その工事に伴って元禄71694)年9月に現在地に移築されました。上野の山に現存する創建年時の明確な最古の建造物です。平成212月から文化財保存修理が行われ平成81996)年10月に竣工、元禄移築時の面影を再現するに至る国指定重要文化財です。(寛永寺HP)

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月の松                清水坂

清水坂
この坂を「清水坂」という。坂の上には東叡山寛永寺清水観音堂があり、坂の名はその堂の名称にちなむ。清水観音堂は寛永8(1631)に京都の清水寺を模し摺鉢山の上に創建され、元禄7年(1694)に現在地へ移転した。国の重要文化財に指定されている。不忍池弁天堂から清水観音堂へ向かう途中にあるこの石段坂を「清水坂」といいます。(台東区教育委員会)


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江戸名所図会 清水堂花見図 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


・・・不忍池

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清水坂を下ると不忍池、湖畔から上野のお山(忍岡)を望みます

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不忍池
不忍池はかつて古石神井川武蔵野台地の東端を割って海ぞいの低地へと注ぎ出ていた開口部に位置し、川の東岸にあたる上野台地(いわゆる上野のお山)や西岸にあたる本郷台地(東京大学の立地する台地。南は神田山(駿河台)へと連なる)にくらべると10m以上も標高の低い谷あいとなっている。縄文時代の頃にはこの辺り一帯は東京湾入り江であった。その後海岸線後退とともに取り残されて、紀元数世紀頃にになったと考えられる。1625年、江戸幕府は西の比叡山延暦寺に対応させこの地に寛永寺を建立した。開祖である慈眼大師・天海は不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえ弁天島(中之島)を築かせ、そこに弁天堂を作った。当初の弁天島は文字通りで渡る島であった。しかし1672年に弁天島から東に向かって石橋が架けられ徒歩で渡れるようになった。明治時代の初期までの池の形は現在のものとはかなり異なっていた。特に池の北側は今よりもかなり広く藍染川(谷田川)という川も注いでいた。また、弁財天の中島への両側は家が建ち並び明治5(1872)4月には不忍天竜町という町名さえ起立されていた。上野の山が公園に指定されたのに伴い1875年に不忍池も公園に編入された。このときの面積は18ha、1989年当時に対して1.7倍の広さだった。しかし1884年共同競馬会社による競馬場の建設に伴い埋め立てが行われほぼ現在の形が出来上がった。Wikipedia抜粋

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弁天堂

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弁天堂 
寛永21625)天海僧正は比叡山延暦寺にならい上野台地に東叡山寛永寺を創建した。不忍池は琵琶湖に見立てれられ、竹生島に因んで常陸(現茨城県)下館城主・水谷勝隆が池中に中之島(弁天島)を築き、さらに竹生島の宝厳寺の大弁才天を勧請し弁天堂を建立した。当初、弁天島へは小船で渡っていたが、寛文年間166172)に石橋が架けられて自由に往来できるようになり、弁天島は弁天堂に参詣する人々や行楽の人々で賑わった。弁天堂は昭和20年の空襲で焼失し、昭和339月に再建された。弁天堂本尊は慈覚大師の作と伝えられる八臂の大弁才天、脇士は毘沙門天、大黒天である。本堂天井には児玉希望画伯による「金竜」の図が画かれている。また、本堂前手水鉢の天井に天保3年(1832)と銘のある谷文晁による「水墨の竜」を見ることができる。大祭は9月の巳の日で巳成金という。(台東区教育委員会)

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弁天堂(背面)               琵琶の碑

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大黒堂

このお堂は豊臣秀吉公が大切に護持していたと伝わる大黒天が祀られている。東叡山寛永寺(天台宗)の伽藍の一つです。大黒天はもともとインド古来の「マハーカーラ」という戦争の神、時間を支配する恐ろしい神と考えられてきました。やがて日本に仏教が伝わり民間信仰の対象となってからは、日本古来の福神の大国主命と同体である(同音)という考えが生まれて、武神から福神へと変化し広く親しまれるようになりました。この大黒堂は太平洋戦争で焼失しましたがご本尊の大黒天は安泰で、昭和43年に旧位置に再建されました。(説明板)

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芭蕉翁碑・ぶぐ供養碑  
       めがねの碑


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幕末の剣豪櫛淵虚沖軒之碑       鳥塚

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遊歩道より上野広小路方面の景観です

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弁天堂&スカイツリー         湖畔のひと時

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江戸名所図会 忍ばず池 中島弁財天
 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

不忍池

現在の上野公園の西南部にある池。かつて東京湾の入江であったが、平安時代ごろ入江が後退した際に取り残されて池となったとされる。寛永寺創建の際、寺の山号を比叡山にならって東叡山としたことにちなみ、この池を琵琶湖に見立てて、竹生島になぞらえた中島を築造し弁天堂を創設した。名前は忍岡に由来するという説や、篠が生い茂って輪のようであった(篠輪津)という説など諸説ある。特に夏季は美しい眺めで、文人たちにより小西西湖(しょうせいこ)と唱えられた。蓮の名所で茶屋では蓮飯を食べさせた。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)

上野公園(1)(輪王寺・上野東照宮)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27153886/

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街道の風景 池の端から昌平橋通りの千代田線・湯島駅にゴールしました/天神下交差点

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上野公園周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)

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ルート地図(千駄木~上野公園)
(赤:歩行ルート 赤角:本駒込駅・湯島駅)


# by Twalking | 2018-10-11 21:21 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 乞田川の風景-黄葉   

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乞田川/山王橋(多摩市山王下)
ひと雨ごとに透けてくのかな・・・、
ちょっと寂しげで切ないけど、
桜並木も今が黄葉の盛りでしょうか。

# by Twalking | 2018-10-11 17:33 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 walk   

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乞田川/多摩市落合
う~ん、爽やか・・・・
うっとり。

# by Twalking | 2018-10-10 15:17 | ○walk

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり千駄木~上野公園04-上野公園(1)   

日時 2018.9.28(金)
天気 晴れ

上野公園は「日光街道」のバスの出発地でしたので、
朝とか帰りがけなどに園内をぶらりと歩いて、
記録はしていましたが、まとめ直したいと思っていました。

今回、一部ですが古石神井川跡や寛永寺など関連する
箇所を廻りながら上野公園をゴールにしましたので
記録を整理して更新したいと思います。
歴史遺産も多いし、緑も豊か、歩き甲斐のある公園です。


・・・上野公園/台東区

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街道の風景① 外周路から噴水広場へ右折します、左は輪王殿です/両大師橋手前

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旧上野恩賜公園
江戸時代初期この地は津軽藤堂堀家の屋敷であったが、徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永2(1625)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶応4(1867)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治61月の太政官布告により公園に指定されたことから公園地となった。恩賜公園のいわれは大正13年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模景観はもとより施設などが我が国有数の都市型公園として整備された。面積62万m2余り。上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言して実現したものである。(下町まちしるべ/台東区)

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上野恩賜公園
上野の森」とも呼ばれ、武蔵野台地末端の舌状台地「上野台」に公園が位置することから「上野の山」とも呼ばれる。総面積約53万m2。東京都建設局の管轄。公園内には博物館、動物園等多くの文化施設が存在する。「上野公園」は台東区の町名でもある。江戸時代、3三代将軍・徳川家光が江戸城の丑寅(北東)の方角、すなわち鬼門を封じるためにこの地に東叡山寛永寺を建てた。以来、寛永寺は芝の増上寺と並ぶ将軍家墓所として権勢を誇ったが、戊辰戦争では寛永寺に立て篭った旧幕府軍の彰義隊を新政府軍が包囲殲滅したため(上野戦争)、伽藍は焼失し一帯は焼け野原と化した。1870年、医学校と病院予定地として上野の山を視察した蘭医ボードウィンが公園として残すよう日本政府に働きかけ、その結果1873に日本初の公園に指定された。このことをもってボードウィンは上野公園生みの親と称されている。(Wikipedia


・・・・輪王寺

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寛永寺旧本坊表門(国指定重要文化財)

江戸時代、現在の上野公園には寛永寺の堂宇伽藍が整然と配置されていた。現在の噴水池周辺竹の台)に本尊薬師如来を奉安する根本中堂、その後方(現・東京国立博物館敷地内)に本坊があり、「東叡山の山主である」輪王寺宮法親王居住していた。寛永寺本坊の規模は3500(1.15ha)という壮大なものであったが、慶応4(18588)5月の上野戦争のためことごとく焼失し、表門のみ戦火を免れた。これはその焼け残った表門である。明治11帝国博物館(現・東京国立博物館)が開館すると正門として使われ関東大震災後、現在の本館を改築するのにともない現在地に移建した。門の構造は切妻造り本瓦葺、潜門のつく薬医門である。薬医門とは本柱が門の中心線上から前方にずれ、本柱と控柱を結ぶ梁の中間上部に束をのせ、その上に切妻屋根を乗せた門をいう。なお、門扉には上野戦争時の弾痕が残されていて当時の戦闘の激しさがうかがえる。(台東区教育委員会)

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輪王寺(両大師堂)山門
境内西側に本堂1993年再建)

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輪王寺(両大師堂
寛永寺の開山・天海(慈眼大師)は寛永20年(1640年)に死去し、翌正保元年1644年)現・輪王寺の地に天海を祀る開山堂が建てられた。天海が崇敬する良源(慈恵大師、元三大師)を併せ祀ったことから「両大師」と呼ばれるようになった。日光の輪王寺は明治初年の神仏分離後に旧名の満願寺となっていたが、明治16年(1883年)に輪王寺の寺号復称が許可され、2年後の明治18年(1885年)には「輪王寺門跡」の称号が復活した。開山堂は慶応4年(1868年)の上野戦争では焼け残ったが、平成元年1989年)に火災に遭い、天明元年(1781年)再建の開山堂と寛政4年(1792年)再建の本堂が焼失した。現在の本堂は平成51993年)に再建されたものである。
境内西側に本堂1993年再建)東側に輪王殿(斎場)がある。輪王殿の手前には西隣の東京国立博物館敷地から移築した寛永寺旧本坊表門(重要文化財)が建つ。本堂前の鐘楼に懸かる梵鐘は慶安4年(1651)の製作。本堂前の参道左右の銅燈籠はもと上野の大猷院(徳川家光)霊廟に奉納されたものである。(Wikipedia


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阿弥陀堂                  銅灯籠

両大師(りょうだいし)
天台宗良源 (りょうげん)天海(てんかい)を並べて尊崇する呼称。ともに平安なかばと、戦国時代末に荒廃した比叡山と天台宗を復興し、良源は第18天台座主となり、慈恵大師と諡(おくりな)し、天海は上野東叡山寛永寺を開山、慈眼(じげん)大師と諡する。両大師の験力は民間の信仰を集め上野の両大師など、とくに関東一円に盛んである。(コトバンク)

日光山輪王寺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/17642344/



・・・噴水池広場

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噴水池から国立博物館を望む、かつての根本中堂があった場所です

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東京国立博物館(旧本坊跡)
日本と東洋の文化財(美術品、考古遺物など)の収集保管、展示公開、調査研究、普及などを目的として独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館である。また、社団法人日本工芸会の本部がある。1872年(明治5)に創設された日本最古博物館である。東京都台東区の上野恩賜公園内にある。本館、表慶館、東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館その他の施設からなる。収蔵品の総数は11万件を超え、国宝87件、重要文化財622件(2009331日現在)を含む。(Wikipedia

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旧因州池田屋敷表門(黒門)
この門はもと因州池田家江戸屋敷の表門で、丸の内大名小路(現丸の内3丁目)に建てられていたが、明治25年(1892芝高輪台町常宮御殿の表門として移建された。のちに東宮御所として使用されさらに高松宮家に引き継がれる。表門は昭和29年(19543月さらにここに移建して修理を加えたものである。創建年代は明らかではないが、形式と手法からみて江戸時代末期のものである。屋根は入母屋造、門の左右に向唐破風造の番所を備えており大名屋敷表門として最も格式が高い。昭和26年(19519月、重要文化財に指定。(説明板)

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上野動物園
東京都恩賜上野動物園台東区上野公園の上野恩賜公園内に在る東京都立動物園。通称・上野動物園。開園は1882(日本で最も早い)。開園時には農商務省、その後宮内省、東京市、東京都建設局が所管、現在は指定管理者制度により公益財団法人東京動物園協会が管理する。日本一の入園者数を記録する動物園である。旭川市旭山動物園が月間入園者数で上回る月もあるものの、年間入園者でみると当園が日本1位である。上野駅(公園口)から徒歩5分の場所にゲートがある。敷地は西園と東園に分かれており、両園を結ぶ都営モノレール(上野懸垂線)は日本初のモノレールである。Wikipedia

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小松宮彰仁親王銅像 
彰仁親王(あきひと)は伏見宮邦家親王の第8王子。安政5年(1858)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し(1867)勅命により22歳で還俗東伏見宮嘉彰親王と改称した。同41月の鳥羽・伏見の戦いで征東大将軍として参戦。ついで会津征伐討越後口総督となり戊辰戦争に従軍した。明治105月、西南戦争の負傷者救護団体として博愛社が創立されるとその総長に就任した。同15年には小松宮彰仁と改称。同20年、博愛社が日本赤十字社と改名すると総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同36118日、58歳で没。銅像は明治452月に建てられ同318日除幕式が挙行された。作者は文展審査委員の大熊氏廣。「下谷区史」は当地に建てた理由について寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。(台東区教育委員会)


・・・上野東照宮

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東照宮大石鳥居


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上野東照宮
藤堂高虎1556-1630)は上野山内屋敷の中に徳川家康を追慕し家康祭神とする宮祠を造った。これが上野東照宮の創建といわれている。あるいは寛永41627宮祠を造営したのが創建ともいう。もとは東照社と称していたが正保2年(1645)に宮号宣下があり、それ以後家康を祀る神社を東照宮と呼ぶようになった。現在の社殿は慶安416513代将軍家光が大規模に造り替えたもので、数度の修理を経ているがほぼ当初の姿を今に伝える。社殿の構造は手前より拝殿、幣殿、本殿からなりその様式を権現造りという。社殿は都内でも代表的な江戸時代初期の権現造りで華麗荘厳を極めている。唐門、透塀は社殿とともに構造、様式が優れており貴重であることから、参道入口の石造明神鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠48基と合わせて国の重要文化財に指定されている。(台東区教育委員会)

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唐門 前来た時は修復工事中でしたが・・・、美しいですね!

唐門(国指定重要文化財)
正式名称は唐破風造り四脚門。柱の内外四額面には日光東照宮の『眠り猫』で有名な左甚五郎作の『昇り龍降り龍』の彫刻があり、毎夜不忍池の水を飲みに行くという伝説があります。偉大な人ほど頭を垂れるという諺に由来して、頭が下を向いているものが昇り龍と呼ばれています。両側上部に錦鶏鳥の透かし彫りがございます。透かし彫りが裏表どちらから見ても美しく見えるように一本の木を両面から彫り出す高い技術が必要なもので、室町桃山時代の技術を集大成したものとして評価されています。両側中央にある透かし彫りは諌鼓鳥というモチーフです。昔、中国の皇帝が朝廷の門前に太鼓を置き、天子の政道に誤りがある時は人民にそれを打たせてその訴えを聞こうとしたが政治に誤りが無く、打つことが無かった為、鶏が太鼓に住みつくほどであったと言う故事に由来します。徳川の世が天下泰平であるように願いを込めて彫られたと考えられています。(説明板)

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透塀(すきべい・国指定重要文化財)
向こう側が透けて見えるのでこの呼び名があります。社殿の東西南北を囲んでおり上段には野山の生き物と植物、下段には海川の生き物が計250枚、約90種類彫られています。鳥や獣の他、蛙や貝、鯰、昆虫など珍しい彫刻もあり、実写的なものから大きくデフォルメされたものまであります。これらの彫刻は創建当時、極彩色であったと思われますが、その後の修理で弁柄漆で上塗りされたと考えられています。平成2125年の保存修理工事では江戸創建当時の姿を蘇らせるために全ての彫刻に彩色を行いました。彩色は生彩色と呼ばれる方法で行いました。生彩色とはまず金箔で彫刻を覆った上から絵具で彩色を行う豪華な彩色方法です。絵具は創建当時と同じ岩絵具を使用しました。彫刻の形から動物の種類を推察し、当時の彫刻や絵からどのような色で描かれていたかを調査し、有識者間での検討を重ねて色を決定し彩色がなされました。(説明板)

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御三家灯篭
これら唐門両側の6基の銅灯篭は家康公36回忌である慶安4年(1651417日に奉納された。尾張・紀伊・水戸の「御三家」により2基づつ奉納されたものです。すべて重要文化財に指定されている。笠の龍が舌を巻いているようなモチーフは「蜃・しん」という想像上の動物で、口から気を吐き蜃気楼を作るといわれている。火袋の天女の装飾が美しく精巧である。燈籠の奉納者は唐門より順に以下のように並んでいる。紀伊 従二位大納言徳川頼信(家康の十男) 水戸 正三位権中納言徳川頼房(家康の十一男) 尾張 従三位兼右近衛権中将徳川光義(家康の孫・家康の九男義直の子)御三家の中では尾張・紀伊・水戸の序列が一般的なので通例だと兄弟の順からも九男が興した尾張家が一番唐門側に来るのであるが、奉納の前年に義直が他界し子の光義(後の光友)が家督を継いだばかりでまた官位も低かったため唐門から最も遠い場所に奉納し、このような順になったと考えられる。(説明板)

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銅燈籠
東照宮社殿唐門前参道50基の銅燈籠が並んでいる。燈籠は神事・法会を執行するときの浄火を目的とするもの照明用具ではない。浄火は神事・仏事に使う清めた火。燈籠は上部から宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇で構成されている。火袋は八角・六角・四角などの形式に分かれ、各面には火口・円窓という窓を設けている。火袋下部の長い部分を竿といいここに銘文を刻むことが多い。これら銅燈籠は諸国大名が東照大権現霊前に奉納したもの。竿の部分には寄進した大名の姓名と官職名・奉納年月日等が刻字されている。それによると伊勢国(現三重県)津藩主藤堂高虎奉献の寛永5年(1628)銘一基をはじめ、慶安4年(1651)正月17日奉献2基、同年417日奉献45基、同5年孟夏17日奉献2基となっている。慶安4417日は東照宮社殿落慶の日。その日の奉献数が最も多い。これら銅燈籠は東照宮社殿とともに一括して国の重要文化財に指定されている。(台東区教育委員会)

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旧東叡山寛永寺五重塔(旧東照宮五重塔)
寛永8(1631)土井利勝により上野東照宮(寛永4年・1627創建)の一部として五重塔が建立・寄進されました。寛永16(1639)火災により焼失、甲良宗広らにより同年再建されたのが現存する五重塔です。以前この場所には五重塔への参道がありました。ですから五重塔の正面は今ご覧になっている面です。明治時代に神仏分離令が発令され、五重塔は仏教施設であることから全国の神社所有の五重塔は多くが破壊されました。当宮の五重塔も取り壊しの対象となりましたが美しい姿を何としてでも残したいと考えた当時の宮司は熟慮を重ね、五重塔を手放すこととし塔は寛永寺所属であると国に申し出ました。東照宮五重塔は寛永寺五重塔と名前を変えましたがその機転により取り壊しは免れました。寛永寺の所属となったものの寺からは距離があり管理が難しいことから昭和33(1958)東京都寄付されました。現在は動物園の敷地内にございます。塔の高さは32、江戸時代の多くの五重塔が初層から第4層までを和風、最上層のみを唐様風とするのに対し、この塔は全層和風様式です。建物内部には心柱が塔の土台の上にしっかりと建てられ、塔の頂上にある青銅製の相輪まで貫いています。心柱が釣られた懸垂式と呼ばれる建築構造が江戸時代の五重塔に多く見られるのに対し、この塔は土台にしっかりと建てられた桃山時代建築の五重塔に良く見られた構造で建てられています。屋根は初層から第4層が本瓦葺、最上層は銅瓦葺を使用しています。初層上方には十二支の彫刻が、各層の軒下の角隅部には4頭ずつ龍の彫刻が配されています。関東大震災でも倒壊せず戊辰戦争や第2次大戦でも焼失を免れた、江戸初期の建築様式を伝える優れた建築の一つとして明治44(1911) 国の重要文化財に指定されました。以前、塔の初層内部には心柱を大日如来に見たてそれを中心にして東寺大仏師職法眼康猶の作と伝えられる弥勒・薬師・釈迦・阿弥陀の4体の仏像が安置されていました。第2次大戦中五重塔は管理が行き届かず扉は壊れた状態でした。その内部に仏像が置かれたままになっているのを発見した当時の宮司は、仏像の破損や盗難を防ぐため急いで東照宮内に4体を引き取って大切にお守りし戦後寛永寺にお返ししました。現在 この4体の仏像は東京国立博物館に寄託されています。(上野東照宮)

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神楽殿                広島・長崎の火

東照宮

東照大権現の神号を得た徳川家康をまつる神社。全国各地に所在し、そのうち日光市の日光東照宮が特に有名で元別格官幣社。元和2 (1616) 年に没した家康の遺体はいったん駿河国の久能山に葬られたが、遺言により元和3 (1617) 年下野国日光山に改葬された。その後、寛永 11 (1634) 13年に将軍徳川家光が社殿の大々的な改築を行ない現在の日光東照宮ができた。すべて漆塗りで極彩色が施され当代の建築装飾が集約されている。社殿の形式は権現造の典型的なもので、最もよく知られている陽明門をはじめ58棟が国宝に指定されている。1999年には近隣の二荒山神社、輪王寺とともに世界遺産の文化遺産に登録。なお東照宮は初め東照社と称し、正保2 (1645) 年東照宮号を朝廷から授けられた。(コトバンク)

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・・・大仏山

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広い桜並木の道がかつての参道、その右手が大仏山です

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お化け燈籠
佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造の燈籠で、奉寄進佐久間大膳亮平朝臣勝之東照大権現御宝前石燈籠寛永8年辛末孟冬17日と刻印し寄進者・寄進年月を知ることができる。寛永8(1631)当時、東照宮は創建して間もなく、社頭には現存の大鳥居・銅燈籠・石燈籠などはまだわずかしか奉納されていなかった。勝之は他にさきがけてこの燈籠を寄進したのである。勝之は織田信長の武将佐久間盛次4。母は猛将柴田勝家の姉という。信長・北条氏政・豊臣秀吉、のち徳川家康に仕え信濃国川中島ほかで一万八千石を領した。燈籠の大きさは高さ6.08m、笠石の周囲3.63mと巨大でその大きさゆえに「お化け燈籠」と呼ぶ。同じ勝之の寄進した京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大燈籠とともに日本三大燈籠に数えられる。(台東区教育委員会)

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上野大仏とパゴダ
正面の丘はかつて「大仏山」と呼ばれ、丘上にはその名のとおり大きな釈迦如来坐像が安置されていた。最初の大仏は越後(現新潟県)村上藩主堀直寄が寛永8年(1631)に造立した280cm前後の釈迦如来像であったが、粘土を漆喰で固めたものであったため正保4年(1647)の地震により倒壊してしまった。明暦~万治年間(16551660)には木食僧浄雲が江戸市民からの浄財によって360cmをこえる青銅製に堂々たる釈迦如来坐像を像立した。その後、元禄11年(1698)輪王寺宮公弁法親王が同像を風雨から覆うための仏殿を建立。天保12年(1841)の火事によって大仏・仏殿ともに被害を受けたが、1年半後の天保14年(1843)には最初の造立者・堀直寄の子孫堀直央が大仏を修復、幕府が仏殿を再建した。さらに、安政2年(1855)の大地震では大仏の頭部が倒壊したものの間もなく堀家が修復している。しかし、明治6年(1873)上野公園開設の際に仏殿が取り壊され(年代については他に明治9年・1876、明治10年・1877の二説あり)、大正12年(1923)の関東大震災では大仏の面部が落下、さらに第二次世界大戦における金属供出令により大仏の体・脚部を国へ供出したため面部のみが寛永寺に遺った。寛永寺では昭和47年(1972)丘陵上の左手に壁面を設けここに「上野大仏」の顔をレリーフ状に奉安した。なお、江戸時代の大仏はいずれも南に向かって造立され、丘陵の南側には当時の参道(石段)が現存する。また、同じく丘陵上の正面にある建物は「パゴダ」(仏塔のこと)と呼ばれている。上野観光連盟が上野公園の名所のひとつとするために建設したもので、昭和42年(19673月着工、同昭和42年(19676月に完成した。高さ15m内部には中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側に日光菩薩を安置している。この薬師三尊像は江戸末期まで東照宮境内にあった薬師堂本尊で、明治初期の神仏分離令により寛永寺に移管、さらにパゴダの本尊として迎えられた。(台東区教育委員会)

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時の鐘
花の雲 鐘は上野か 浅草か』芭蕉が詠んだ句はここの鐘のことである。時の鐘ははじめ江戸城内で撞かれていたが、寛永3(1626)になって日本橋石町3丁目に移され江戸市民に時を告げるようになったという。元禄以降、江戸の町の拡大に伴い上野山内、浅草寺のほか本所横川、芝切通し、市谷八幡、白不動、目黒円通寺、四谷天竜寺などにも置かれた。初代の鐘は寛文6(1666)の鋳造。銘に「願主柏木好古」とあったという。その後、天明7(1787)谷中感応寺(現・天王寺)鋳直されたものが現存の鐘である。正面に「東叡山大銅鐘」反対側には「天明七丁未歳八月」下に「如来常住 無有変易 一切衆生 悉有仏性」と刻まれている。現在も鐘楼を守る人によって朝夕6時と正午の3回昔ながらの音色を響かせている。なお、平成86月環境庁の残したい「日本の音風景100選」選ばれた。(台東区教育委員会)

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江戸名所図会 東叡山寛永寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

東叡山寛永寺
天台宗の寺。寛永21625)年開創。創建年号にちなみ寛永寺と号された。山号は東叡山東の比叡山の意味)、院号は円頓院。日光山に東照宮を営んでいた僧天海が、幕府より江戸忍岡の地を与えられ、寺院を建立し武蔵国川越の東叡山喜多院から東叡山の名を移した。その後、徳川家康を祭神とする東照宮、京都清水寺の観音堂を模した清水観音堂などが建立され、幕府の保護のもとに隆盛を極めた。一帯は物見遊山の場としても栄え桜の名所でもあった。これは、桜を好んだ天海が吉野より桜を移植したことに始まる。慶應41868)年、彰義隊と官軍との戦場となり伽藍の大部分が灰燼に帰した。現在、この一帯は上野公園となっている。(錦絵で楽しむ江戸/国立国会図書館

寛永寺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27150492/

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上野公園案内図

# by Twalking | 2018-10-10 14:19 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02   

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府中運転試験場/府中市多磨町
真っ青な空に流れる白い雲、
しびれるような美しさ・・・、
秋の空ですね~。


# by Twalking | 2018-10-09 22:20 | ○雲

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 上野の「西郷どん」   

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西郷隆盛像
上野恩賜公園山王台跡/台東区上野公園
『咲花の 雲のうへ野に もゝとつとふ いさをのかさみ たちしけふかな 君まさば かたらむ事の さはなるを なむあみだ沸 我も老いたり』
除幕式(明治311218日)に勝海舟が添えた祝歌だそうです、西南の役より21年後のことです。
(西郷像:高村光雲作 犬:後藤貞行作 鋳造:岡崎雪聲)


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西郷銅像基台刻誌
西郷隆盛君の偉功は、人の耳目にあれば、復、賛述をすべし。前年、勅により、特に正三位を追贈される。天恩、優渥に、衆、感激せざる莫し。故、吉井友実同志と興に謀り、銅像を鑄して、以って追慕の情を表す。朝旨ありて、金を賜り費に佽し、資に捐ず。此の擧に纂ずる者二万五千余人。明治二十六年に起工し、三十年に至りて竣る。乃ち、之を上野山王台に建て、事の由を記し、以って後に傅ふ。


# by Twalking | 2018-10-09 16:10 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり千駄木~上野公園03-上野桜木   

2018.9.28(金)
天気 晴れ


寛永寺は以前一度訪ねたことがあります。
上野戦争で焼失、明治に支院の大慈院跡地に移築・復活したもの、
建物も寛永期のもの、扁額の「瑠璃殿」がひときわ目を引きます。

境内に「建永寺の歴史」が紹介されています。
往時の壮大な伽藍の様子は錦絵などでしか偲べませんが、
それでも戦災等を免れた貴重な遺構は味わい深いものです。



・・・上野桜木/台東区

台東区の北西、下家地域の北部に位置する高台の住宅地。武蔵野台地東端にあたる。下谷桜木町を前身としており、上ノ台部分は上野花園町から独立したところで寛永寺域であったことからその子院が数多くあった。多数の寺院の存在とともに、江戸時代の町割り、道割りの上に明治・大正・昭和の建物が混在していて歴史的重層性のある景観を作りだしている。町内にある寛永寺は寛永2(1625)徳川3代将軍徳川家光の治世に建てられた。寛永寺は徳川家の菩提寺として知られ、都内を代表する寺院として知られている。寛永寺には徳川家墓所として6の将軍の霊廟がある。また、大慈院は徳川慶喜が謹慎していた場所でもある。Wikipedia


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街道の風景① この先の信号を右折すると寛永寺です/旧吉田屋酒店(言問通り)

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上野桜木町
上野桜木町は上野台とその東側山麓に広がっていた。上野台部分は上野花園町から独立したころで、寛永寺域であったことからその子院が数多くあった。本町内にある寛永寺本堂は慶応4(1868)彰義隊の戦争により寛永寺本坊はじめほとんどが焼失したため、寛永年間(16241643)に建てられた川越喜多院本堂を明治12年に移築したものである。東側山麓にあたる現在の根岸一丁目二番付近は谷中村の飛地であった。本町ができた年代は明治7年から同112月の間と推察する。そして町名のいわれはこの付近に桜の木が多くあったことに由来する。(下町まちしるべ/台東区)


・・・寛永寺

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東叡山寛永寺の山門

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寛永寺山門/上野桜木

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根本中堂

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寛永寺本堂
旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前噴水池あたりにあったが、慶応4年(1868)彰義隊の兵火で焼失した。そのため明治9年(1876)から12年にかけて埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂となったのである。寛永15年(1638)の建造といわれる。間口・奥行ともに7間(17.4m)前面に3間の向拝と5段の木階、背面には一間の向拝がある。周囲は勾欄付廻縁をめぐらしており、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁などすべて素木のままである。屋根は入母屋造本瓦葺、二重棰とし、細部の様式は和様を主とする。内部は内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥檀が設けられている。須弥檀の上に本尊その他の仏像を安置する。内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は仮の床が張られ内外陣ともすべて畳敷になっている。(台東区教育委員会)

東山天皇御宸筆「瑠璃殿(るりでん)」
1698年(元禄11)徳川綱吉は江戸第一の大きさを誇る根本中堂(焼失)を建立、東山天皇から「瑠璃殿」の勅額を賜りました。現根本中堂に掲げられています。

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銅鐘
本鐘の大きさは総高177.2cm、口径91.8cm、厳有院殿(4代将軍家綱)の1周忌にあたる延宝9(1681)58日に厳有院殿廟前鐘楼に奉献された。明治維新以降に寛永寺根本中堂の鐘として当所に移されたと伝えられる。現在は除夜の鐘や重要な法要の際に使用されている。作者の椎名伊予守吉寛は、江戸時代前期(17世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で神田鍋町に住した。延宝元年(1673)から貞享3(1686)にかけて銅鐘を中心に17例の作例が知られている。その中には増上寺や寛永寺などに関わるものも含まれており幕府との関係の深さが窺える。本鐘は将軍家霊廟の儀式鐘で、近世初期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上でも貴重な遺品のひとつである。平成18年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。台東区有形文化財(台東区教育委員会)

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旧本坊表門-根本中堂鬼瓦
この鬼瓦は現在「黒門」の通称で親しまれている寛永寺旧本坊表門(国指定重要文化財)に据えられていたものです。旧本坊表門は寛永初年に寛永寺の開山である天海大僧正自身が建てたものであり、天海自身をはじめいわゆる歴代の輪王寺宮住まわれた場所でした。この門は昭和12年現在の東京国立博物館の地から現在地移築され、平成22年から行われた解体修理によって修復されました。

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この時の調査により、現鬼瓦の製作年代は不明ながら、東側の「阿」形より西側の「吽」形が古いこと、かつては鳥衾(とりぶすま・鬼瓦の上に長く反って突き出した円筒状の瓦)を接合する部分が設けられていましたが、現存の鬼瓦には鳥衾を取り付けた痕跡がなかったことが分っています。東側にあった「阿」形は耐用年数を過ぎていたため修復の折り西側の意匠にあわせて造り替え、新たな息吹を門に与えています。この修復を機会として寛永寺根本中堂と合わせここに展示いたします。(寛永寺教化部)

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了翁禅師塔碑(りょうおうぜんじとうひ)
了翁禅師(16301707)は江戸時代前期の黄檗宗の僧です。俗姓は鈴木氏。出羽国雄勝郡に生まれ幼い頃から仏門に入り、後に隠元禅師に師事します。諸国を巡るうち霊薬の処方を夢に見て「錦袋円(きんたいえん)」と命名し、不忍池付近に薬屋を俗甥の大助に営ませます。その利益で難民救済や寛永寺に勧学寮(図書館)の設置などを行いました。こうした功績により輪王寺宮から勧学院権大僧都法印位を贈られています。宝永478歳で没し万福寺塔頭天真院に葬られました。本碑は了翁禅師の業績を刻んだ顕彰碑生前に作られたものです。元々建てられた場所や現在の場所に移築された時期などは不明です。東京都指定旧跡(東京都教育委員)

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慈海僧正墓(じかい)
墓石の正面中央に聖観世音菩薩の像を彫り、右側には「当山学頭第4世贈大僧正慈海」左側に「山門西塔執行宝園院住持仙波喜多院3世」背面に「元禄6年癸酉216日寂」と刻む。慈海僧正は学徳をもって知られ塔叡山護国院、目黒不動尊、比叡山西塔宝園院、川越仙波喜多院を経て東叡山凌雲院に入った。東叡山は寛永寺一山の山号で一山を統轄・代表する学頭には凌雲院の住職が就任することを慣例としたという。学頭はまた門主・輪王寺宮名代をつとめうる唯一の有資格者であり、学頭の名のとおり宮や一山の学問上の師でもあった。慈海版として知られる「法華経」「薬師経」の翻刻や「四教義算注」「標指鈔」30巻の著作がある。寛永元年(1624)目黒で誕生、70歳で没した。没後、公弁法親王の奏請によって大僧正の位が贈られた。墓は初め凌雲院内にあったが、昭和33年東京文化会館建設のため寛永寺に移った。東京都史跡(台東区教育委員会)

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尾形乾山墓碑・乾山深省蹟(おがたけんざん・しんせいせき)
尾形乾山は琳派の創始者として著名な画家・尾形光琳である。寛文3年(1663)京都で生まれた。乾山のほか深省・逃禅・習静堂・尚古斎・霊海・紫翠の別号がある。画業のほかにも書・茶をよくし、特に作陶は有名で正徳・享保年間(17111735輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り、入谷に窯を開きその作品は「入谷乾山」と呼ばれた。享保3年(174381歳で没し、下谷坂本の善養寺に葬られた。しかし、月日の経過につれ乾山の墓の存在自体も忘れ去られてしまい、光琳の画風を慕う酒井抱一の手によって探り当てられ、文政6年(1823)顕彰碑である「乾山深省蹟」が建てられた。抱一は江戸琳派の中心人物で文化12年(1815)に光琳百回忌を営み、『光琳百図』『尾形流略印譜』を刊行、文政2年には光琳の墓所を整備するなど積極的に尾形兄弟の顕彰に努めた人物である。墓碑及び「乾山深省蹟」は上野駅拡張のため移転した善養寺(現、豊島区西巣鴨4-8-25)内に現存し東京都旧跡に指定されている。当寛永寺境内の二つの碑は昭和7年、その足跡が無くなることを惜しむ有志により復元建立されたものである。その経緯は墓碑に刻まれそれによると現・善養寺碑は明治末の善養寺移転に際し両碑共に当時鶯谷にあった国華倶楽部の庭へ、大正10年には公寛法親王との縁により寛永寺境内に、その後、西巣鴨の善養寺へと三たび移転を重ねたとある。なお、入谷ロータリーの一隅に「入谷乾山窯元碑」がある。(台東区教育委員会)

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虫塚碑 
虫塚は伊勢長島藩主増山雪斎が写生図譜である「虫豸帖(ちゅうちじょう)」の作画に使った虫類の霊をなぐさめるため、雪斎の遺志によって文政4年(1821)に建てられた。増山雪斎は宝暦4年(1754)に江戸で生れた。本名を正賢といい雪斎・玉園・蕉亭・石顚道人・巣丘隠人などと号した。江戸の文人大田南畝や大阪の豪商木村兼葭堂など広く文人墨客と交流を持ち、その庇護者としても活躍した。自ら文雅風流を愛し、清朝の画家・沈南蘋に代表される南蘋派の写実的な画法に長じ、多くの花鳥画を描いた。中でも虫類写生図譜「虫豸帖」(都指定史跡融解文化財、東京国立博物館所蔵)はその精緻さと本草学にのっとった正確さにおいて、殊に有名である。文政2年、66歳で没した。虫塚は当初、増山家の菩提寺・寛永寺子院勧善院内にあったが、昭和初期に寛永寺に合併されたためこの場所に移転した。勧善院4代将軍徳川家綱の生母で、増山氏の出である宝樹院の霊廟の別当寺として創建された。碑は安山岩製で台石の上に乗る。正面は葛西因是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は詩仏と菊池五山の自筆の詩が刻まれており、当時の有名な漢詩人が碑の建設にかかわったことが知られる。(台東区教育委員会)


・・・寛永寺徳川家廟

徳川家霊廟

東京国立博物館裏手の寛永寺墓地には徳川将軍15のうち6(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)が眠っている。厳有院(家綱)霊廟と常憲院(綱吉)霊廟の建築物群は東京の観光名所として知られ旧国宝に指定されていた貴重な歴史的建造物であったが、昭和20年(1945年)の空襲で大部分を焼失。焼け残った以下の建造物は現在重要文化財に指定されている。厳有院霊廟勅額門、同水盤舎、同奥院唐門、同奥院宝塔。常憲院霊廟勅額門、同水盤舎、同奥院唐門、同奥院宝塔Wikipedia

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徳川家霊廟

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徳川綱吉霊廟勅額門

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徳川綱吉霊廟勅額門(重要文化財)
5代将軍綱吉は延宝8(1680)5月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永6(1709)110日に63才で没した。法名を常憲院という。綱吉ははじめ善政を行い「天和の治」と賛えられたが、今日では「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名。元禄11(1698)9月この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀伊国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。又、それに伴って先聖殿(湯島聖堂)上野から湯島に移されている。綱吉の霊廟は宝永6年の11月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じてみてももっとも整ったものの一つであった。ただ、その一部は維新後に解体されたり第2次世界大戦で焼失した。この勅額門水盤舎(ともに重要文化財)はその廟所と共にこれらの災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、胴瓦葺。(台東区教育委員会)

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天璋院篤姫墓所(非公開)
天璋院篤姫は天保6(1835)1219日、薩摩藩今和泉島津家・島津忠剛の長女として今和泉島津家本邸(現在の鹿児島県指宿市)にて生を受けました。(幼名一子・かつこ・於一おかつ)嘉永6(1853)、島津本家28代当主・島津斉彬の養女となり名を篤姫と改めて鶴丸(鹿児島)城に入り、また同年中に鹿児島を出立し京都の近衛家に参殿ののちに江戸城下、芝の藩邸に入っています。その後、安政3(1856)近衛家養女となり、名を敬子(すみこ)と改め同年に徳川13代将軍家定公の正室として輿入れしました。この輿入れの際に篤姫は斉彬より14代将軍に一橋慶喜を推すようにとの密命をうけていましたが、家定公は心身が虚弱で入輿からわずか2年後の安政5(1858)に逝去され、14代将軍には紀州の慶福(のちの家茂)が就任しています。(落飾し天璋院と号する)また同年、養父斉彬が逝去され、篤姫はその密命を果たせぬまま夫と養父を相次いで亡くしました。しかし、落胆の中でありながら篤姫は若き将軍の補佐によく勤め、また大奥をまとめる為にも尽力しました。公武合体の為、家茂公のもとへ降嫁した和宮とは当初は対立していましたがのちに心を通わす仲となり、その後敵対してしまった実家(薩摩)に対し徳川家の存続を歎願するなど江戸城無血開城にも大きく貢献しています。明治になるとわずか6歳で徳川家を継いだ16代家達公の養育に余生を捧げ、明治1611月に49歳で亡くなるまで徳川家の為にその生涯を捧げました。なお、墓所は5代綱吉公霊廟内、家定公の墓所の隣にあり、宝塔の脇には好物であったとされる枇杷の木が植えられています。(寛永寺教化部)


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徳川家綱霊廟勅額門

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徳川家綱霊廟勅額門
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代将軍家綱は慶安4年(16514月に父家光の死に伴ってわずか10歳で将軍の座につき、延宝8年(168058日に39歳で没した。法名を厳有院という。病気がちであった家綱時代の政務は主として重臣の手に任されていたが、とくに後半の政治を担当した大老酒井忠清が有名である。時代は家綱の襲職直後に起こった由比正雪の乱の解決を機にようやく安定期に入った。家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門水盤舎(ともに重要文化財)はその廟所と共にこれらの災いを免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。なお、このうち水盤舎延宝8に家綱のために造られたものであるが、この勅額門は昭和32年の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。(台東区教育委員会)

芝増上寺(徳川家霊廟)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/24440613/

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武蔵野台地東縁 日暮里駅方向の景観です/徳川霊園

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上野台地の下は鶯谷駅、上野方面の景観です/徳川霊園

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街道の風景② 霊園を左に下ると鶯谷の駅、直進して上野公園へ向かいます/国立博物館裏

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殉死者の墓/現龍院墓地
慶安4(1651)420日三代将軍徳川家光が死去した。その後を追って家光の家臣5名が殉死、さらにその家臣や家族が殉死した。ここには家光の家臣4名とその家臣8名の墓がある。堀田正盛(元老中。下総国佐倉藩主)阿部重次(老中。武蔵国岩槻藩主)家臣の新井頼母・山岡主馬・小高隼之助・鈴木佐五右衛門・村片某、内田正信(小姓組番頭・御側出頭。下野国鹿沼藩主)家臣の戸祭源兵衛・荻山主税助・三枝守恵(元書院番頭)家臣の秋葉又右衛門。殉死とは主君の死を追って家臣や家族らが自殺することで、とくに武士の世界では戦死した主君に殉じ切腹するという追腹の風習があった。江戸時代になってもこの風習は残り将軍や藩主に対する殉死者が増加、その是非が論議されるようになった。家光への殉死から12年後、寛文3(1633)に幕府は殉死を禁止。その後、この風習はほぼ絶えた。(台東区教育委員会)

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街道の風景③ 上野駅公園口&上野市街を望みます/両大師橋

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寛永寺周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)


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資料ファイル
寛永寺

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東叡山寛永寺
元和8年(1622)徳川幕府2代将軍秀忠上野の地を天台宗の僧・天海に寄進したことから、寛永寺の歴史は始まります。本坊寛永21625)に竣工。根本中堂の完成は元禄111698)のことです。江戸末期までの寛永寺は今の上野公園をはじめその周辺にも堂塔伽藍や子院が立ち並ぶ文字通りの巨刹であり、徳川将軍家ゆかりの寺にふさわしい威容を誇っていました。明治維新の際の上野戦争で大半が炎上し、その後明治政府の命令で境内も大幅に縮小され(約3万坪 江戸時代1/10ほど)現在に至っております。江戸開府400年を記念し、往時の寛永寺を描いた錦絵などで江戸と現代を比較しつつここに寛永寺の歴史を紹介いたします。(説明板)

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「江戸図屏風」(右隻第46扇より/国立歴史博物館)
3代将軍家光の事蹟を顕彰記念するために製作された屏風といわれ、秩序整然とした寛永の頃の江戸が描かれている。台東区域に絞ってみると隅田川、そして浅草橋から浅草寺に至る街並み、寛永寺と上野東照宮、それに不忍池が描かれいずれの寺社も森に囲まれた静寂な空間として表現されている。さらに左手、つまり当区域の南部には武家屋敷が並んでおり、街道の裏手には田んぼのある農村風景も見られる点が注目される。江戸の名所は京都の名所を見立てたものが多い。東叡山寛永寺は京都の比叡山延暦寺に見たて、寛永寺の大仏は京都方広寺の大仏、清水堂は京都の清水寺、不忍池は琵琶湖、弁天堂は竹生島に見立ててつくられた。(説明板)

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浮世絵東叡山御中堂之景/
北尾重政 
24.4×36.5cmこの作品は旧い時代の作品で非常に珍しいもの。上野の浮世絵作品の中でも代表作の一つである。(説明板)


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東都名所上野東叡山全図/初代歌川広重 
36.4×73.7cm 広重の作品の中でも有名な絵。よく売られたらしく現存する作品数も多い。(説明板)
(錦絵:錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)


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寛永寺旧伽藍
松坂屋上野店あたりから上野公園入口あたりの道をかつて「広小路」と称したが、これは将軍が寛永寺にある徳川秀忠らの霊廟に参詣するための参道であり、防火の意味で道幅を広げていたため広小路と呼ばれた。上野公園入口付近には「御橋」または「三橋」と称する橋があって寺の正面入口となっており、その先に総門にあたる「黒門」があった。上野公園内中央を通り大噴水、東京国立博物館方面へ向かう道がかつての参道であり、文殊楼、その先に法華堂と常行堂、多宝塔、輪蔵、根本中堂本坊などがあった。その周囲には清水観音堂(現存)、五重塔(現存)、東照宮(現存)、不忍池の中島に建つ弁天堂(現存するが20世紀の再建)などが建ち、また36か院にのぼる子院があった。天海は江戸と寛永寺との関係を京都比叡山の関係になぞらえて構想していた。すなわち、根本中堂、法華堂、常行堂などは比叡山延暦寺にも同名の建物があり、清水観音堂は京都の清水寺になぞらえたもの(傾斜地に建つ建築様式も類似する)、不忍池と中島の弁天堂は琵琶湖とそこに浮かぶ竹生島宝厳寺の弁才天にならったものである。(Wikipedia

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江戸朱図(東京都公文書館)台東区のクローズアップ
都市江戸はたえず拡大していた。江戸の範囲、つまり御府内の範囲はどこまでなのか、江戸後期にはかなり混乱を生じていたらしい。そこで、文政元年(1818)幕府は江戸絵図面に朱線を引き、この朱引の内を御府内とする統一見解を示した。その内側の黒引の線は町奉行の支配地。朱引と黒引の間は同じ御府内といっても代官支配地であった。(説明板)







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上野戦争碑記
慶応4(1868)、戊申正月、伏見の変(起る)。前大将徳川公(慶喜)江戸に帰り、罪を上野(東叡山寛永寺子院大慈院)に待つ。この時に当たって城中(江戸城)紛糾し議論沸騰す。老成者いわく、すでに罪を皇室に得、今又兵を出だして担ぎ戦うは是れ其の罪を重ねるなり。恭順して詔命を待つに若かずと。少年の者は皆いわく、今日謂うところの詔命(天皇の命令)は宸衷(陛下の御心)出づるにあらず。乃ち是れ二三幕臣の為すところ(なり)焉んぞ主家の為に冤を雪ぎ、後(後継者)を立つるを請はざるや。苟も命を得ずんば乃ち死あるのみと。悲憤激烈言々人を動かす。余も亦之に賛()し、同志諸氏と四谷円応寺に會して謀議す。既にして浅草本願寺に移り、遂に上野東叡山に屯し、将に請う所あらんとす。衆、余をして隊名を撰ぶばしむ。余曰く、大義を彰明するはこの一挙に在り。彰義となさんと欲す。皆曰く善しと。是において四方より来会するもの日一日よりも多し。十二隊を得。曰く遊激、曰く歩兵、曰く猶興、曰く純忠、いわく臥竜、曰く旭、みな幕府の士なり。曰く萬字、関宿の藩士、曰く浩気、小浜の藩士、曰く高勝、高崎の藩士、曰く水心、結城の藩士なり。首領を立て約束を申べ、分かれて山中の寺坊に屯す。この時に当たって官軍すでに江戸城にあり。命を伝えて解散せしむ。使者三たび反り、竟に聴かず。前大将軍水戸に移る。因って輪王寺宮法親王(公現法親王、後の北白川宮能久親王)奉じて益々素志を達せんと欲す。官軍その屈強すべからざるを知るや遂に攻撃の議に決す。初め寛永()中、徳川氏、根本中堂を上野に建て寛永寺と称す。輪王寺宮世々これを管()す。金碧熒煌、観美を窮極す。吉祥閣その前に屹立す。環らすに三十六坊を以てし、比叡山に擬し、因って東叡山と称す。地勢爽塏(そうがい)西、不忍池に臨み、東南は下谷に接し、西北は根岸、三河島の諸村に連なる。而して埤堞(ひちょう)の據って(よって)以て守るべきなし。乃ち急に市民を募集し木石を運び、塁を築き柵を植う。市民、争って来たり役に就く。巨砲を山王台に置き、以て東南に備う。山門すべて八、南を黒門と云い、広小路を控う。我が隊、歩兵万字の二隊を率いて守る。東を真黒門と云い、車坂門と云い、屏風坂門と云い、坂本門と云う。この間一帯、丘を負いて市に面す。我が隊、純忠、猶興、遊撃の諸隊(にて)守る。別派の一隊、分かって啓運、養玉の二寺に陣す。西を穴稲荷門と云い、神木、浩気の二隊(にて)守る。清水門と云い、谷中門と云うは、歩兵、臥竜、旭、松石の諸隊(にて)守る。部署既に定まる。乃ち市民に命じ避去せしむ。去る五月十五日未明、官軍来たり襲う。初め我が兵、山中にあるもの三千余人、事、倉卒(にわかに)出づるをもって、外にあるものは途梗(道路がふさがる)して入ること能わず。また怯恇(きょきょう)遁走するものあり。その留まって拒ぐ(ふせぐ)もの、僅かに千人なるべし。急に命を諸隊に伝え、各々その処を守らしむ。鹿児島、熊本藩の兵、呼噪(こそう=さけびさわぐ)して広小路より進み、先ず南門を攻む。我が兵、銃を叢め斉しく発す。官軍辟易す。たまたま、鳥取藩兵の湯島台にあるもの火を天神別当喜見院に放ち、不忍池の南に沿いて来たり二藩と合し、兵勢漸く加わる。我が山王台の兵、巨砲を発してこれを拒ぐ。少しして火、二か所に起り、煙焔天に張る。津藩の兵、竹町より進むもの、山下の酒楼に登り、簾を埤(ひく)めて狙撃す。我が兵、裡てこれを走らす。時まさに梅雨、泥濘膝を没す。市民、荷擔して亡()ぐ。〇仆困頓、号泣、路に盈つ。而して来りて我を助くるものも亦少なからず。萩、岡山、大村、佐土原、津、名古屋(等の)六藩の兵、本郷より進んで西門を攻め、先づ我が兵の根津の祠に屯するものを撃ち、突進して直ちに三崎に至る。この地、丘阪高低、道路狭隘、加うるに霖潦(長雨)をもってし、踏趄(行きなやむ)進むこと能わず。我が兵、高きに據り、縦に撃ち、北()ぐるを追うて薮下に至り、伏兵に遭いて潰ゆ。根津の南に水戸、富山、高田の藩邸あり。池を隔て、東叡山と相対す。差が、岡山、熊本、佐土原、津、名古屋の諸藩の兵これに據り遥に銃砲を放つ。また一隊を遣わし舟を泛べて水を渡り、来たって穴の稲荷門に逼る。我が兵、善く柜ぐ。徳島、鹿児島、岡山、新発田、津、彦根の諸藩の兵来たり東門を攻む。我が兵、最も少なし。啓運寺の兵、邉え撃ちてこれを走らす。北()ぐるを追うて御徒町に至る。官兵、反(そり)戦う。我が兵、且つ戦い、且つ退く。養玉院の兵出でて援けてこれを挟撃し、官兵、敗走す。この時に当たって東西南の諸門、皆囲いを受く、我が兵、奮闘す。一人百人に当たらざるはなし。その最も激しき者を南門の戦いとなす。晨(あさ)より午に迄(いた)り、勝敗いまだ決せず。未牌(午後二時)津の藩兵の南門を攻むる者、遷(めぐ)つて山下に出で、肉薄して乱射す。我が兵稍阻む。官兵、勝に乗じて将に南門に入らんとす。我が兵、撃ちてこれを走らす。而して鹿児島、佐賀、鳥取の藩兵、代わって進み、攻撃甚だ急なり。我が兵、死傷相い踵()ぐ。新黒門初めて守りを失う。諸門ついに敗る。是において官兵、三面より斉しく入り、山(東叡山)を奪いて火を放つ。余、初め難問にありて拒ぎ戦う。敗るるに及んで隊士百人と退いて中堂の前に至る。殊死(死を決して)して戦う。たまたま、火、堂宇に及ぶ。吉祥閣むまた黒煙、猛火の中にあり。天地ために震い、山河ために動く。而して官兵充塞(ふさがる)してまた拒ぐべからず。すなわち走って法親王に謁せんと欲す。親王既に遁(のが)る。之に跡して三河島に至り、ついに追いおよぶ。王、納衣草履、唯一僧のみ従う。余等伏して生死相従わんことを請う。侍僧の曰く、王、将に会津に赴かんとす。卿等去って後図(のちのはかりごと)をなせと、衆みな涙をふるって散ず。後、一、二年、海内すでに定まる。諸の罪を得るもの赦されて故郷に帰る。余も亦万死を出でて一生を得、当時を回顧して深概に堪えざるものあり。よってその顛末を録することかくの如し。明治七年申戌五月 幕府の遺臣阿部弘蔵撰 清蘇州費廷桂書
(何の碑だろうとネットで調べてみたら「上野戦争碑記」でした。漢文で書かれていますが、幸い「訳」もありましたので記録させていただきました)



# by Twalking | 2018-10-08 15:24 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ほっこりさん-くらふとフェアー   

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くらふとフェアー2018/多摩中央公園(多摩市)
あかいほっぺのほっこりさん、
おねむかな~・・・・、
かわいいですね!


# by Twalking | 2018-10-07 21:20 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 木の帽子-くらふとフェアー   

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くらふとフェアー2018/多摩中央公園(多摩市)
木の帽子
洒落てますね~・・・、
これかぶって、トランク下げて、
ぶらりと旅にでるか・・・、寅さん気分で。

# by Twalking | 2018-10-07 19:43 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 免許更新   

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府中運転免許試験場/府中市多磨町
国分寺崖線の袂、変わらぬいい風景ですね!
ここで初めて免許書の交付を受けてから
随分と歳月が流れました・・・、
そろそろ考えどきでしょうか???


府中運転免許試験場

警視庁が管理している東京都府中市多摩町に所在する運転免許試験場である。(運転免許試験場の運転コース一部敷地は小金井市前原町一丁目2番・3番に掛かる)警視庁の筆頭運転試験場であり、場長には署長経験者の警視が就く(他の試験場長は副署長経験者)。施設南側は東八道路(東京都道14号新宿国立線)が面している。Wikipedia


# by Twalking | 2018-10-07 18:26 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり千駄木~上野公園02-谷中霊園   

日時 2018.9.28(金)
天気 晴れ

三浦坂を上野台地に上ると谷中寺町になります。
江戸の頃、神田辺りから移って来て作られた寺町で、
寛永寺寺域を形成しています。

谷中霊園は一度訪ねたことはありますが、桜並木が印象的です。
かつての参道の真ん中あたりに本堂と五重塔があったんですね。
「西郷どん」も佳境なので慶喜墓にお参りしてきました。



・・・谷中寺町/台東区

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街道の風景① 寺町の路地にぽつりとパン屋さん・・・懐かしい風景です/三浦坂上

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延寿寺山門

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延寿寺/谷中
台東区谷中一丁目にある日蓮宗の寺院。山号は六浦山。旧本山は身延山久遠寺(身延門流)、潮師法縁。明暦3年(1657)、覚性院日勤を開山に創建された大乗山延寿院が起源である。宝永年間(1704-1710)に身延山久遠寺の末寺となる。宝暦5年(1755)寺号を現在の六浦山延寿寺に改め、あわせて身延山の宿坊山本坊より日荷上人像を勧請した。明和9年(1772)の明和大火で焼失したが、安永3年(1774)までに諸堂が再建された。慶応4年(1868)に上野戦争で山門を残し伽藍を焼失した。明治9年(1876)に本堂、庫裡を再建、明治44年(1911)には仮堂であった日荷堂も再建された。Wikipedia

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延寿寺日荷堂の絵馬
延寿寺は明暦2年(1656)に開創された日蓮宗寺院です。宝暦5年(1755久遠寺に蔵されていた日荷像を勧請し、安永元年(1772)に日荷堂を建立して本尊としました。日荷は武蔵国久良岐郡六浦(現横浜市六浦)の人で日蓮の高弟、日祐の弟子となり妙法と号しました。六浦にて自ら造立したニ躰の仁王像を背負い、一昼夜のうちに身延山久遠寺に運び上げ山門に安置したと伝えられます。日荷堂の絵馬は仁王像を背負い、六浦から身延山までの険しい道を歩いた日荷の健脚にちなんで足病平癒の祈願のために奉納されたものです。日荷堂には現在、絵馬が75点、文字額が8点残されています。はきものの絵馬が残された寺社は多くありますが、この日荷堂のように種類・点数が豊富で、保存状態が良好なものは少なく極めて貴重です。延寿寺日荷堂絵馬群は平成8年に台東区有形民俗文化財に登載されました。台東区登載文化財(台東区教育委員会)
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瑞輪寺山門


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瑞輪寺
台東区谷中4-2-5にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は慈雲山。旧本山は身延山久遠寺。潮師法縁。1591年(天正19年)日本橋馬喰町に瑞輪寺が創建される。1601年(慶長6年)神田に移転。1649年(慶安2年)現在地に移転。1868年(明治元年)上野戦争により全山焼失。以降再建を図る。釈迦如来座像(台東区指定有形文化財)正徳2年(1712年)14世乗妙院日感の代に勧請されたもの。鐘楼堂元和年間の8世日住の代に徳川家光の寄進により建立されたもの。大久保主水墓(東京都指定旧跡)Wikipedia

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大久保主水墓(都旧蹟)
名は忠行、または藤五郎と称す。三河国の武士で徳川家康に仕え三百石を給されていた。一向一揆のときに足を負傷してから戦列に加われず、餅菓子を作る特技を生かし以後、家康に菓子を献じたという。天正18年(1590)家康は江戸に入り町づくりを始める。用水事業を命ぜられた忠行は、武蔵野最大の湧水地である井の頭池、善福寺池を源にそれぞれの池から流れる河流を利用して江戸城ならびに市中の引水に成功した。これを神田上水といい、江戸の水道の始まりでありまた我が国水道のさきがけであった。この功により家康から「主水」の名を賜り、水は濁らざるを尊しとして「モント」と読むべしと言ったという。以来、子孫は代々主水と称し、幕府用達の菓子司を勤めた。なお、墓の近くにある八角形の井戸は天保6年(1835)十代名忠記が忠行の業績を顕彰したものである。元和3年(1617)没。(台東区教育委員会)

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旧谷中町
天正から元禄(15891703)にかけて町屋の区域が武蔵國豊島郡谷中村より独立して谷中町として起立した。谷中という地名は江戸時代からあり、その由来は上野台(代山)本郷台谷間に位置していることにちなみ下谷に対してつけられたといわれている。本町の江戸時代の町屋は、言問通り面(八軒町)天王寺へ行く通りの面(総持院門前前町まで)に形成されていた。明治初年、大雄寺をはじめとする寺地が合併されて町域が定まった。大雄寺には勝海舟、山岡鉄舟とともに「遺臣の三舟」といわれた高橋泥舟が「大くすの木」の下に眠っている。この大くすの木は東京都の保存樹木に指定されている。(下町まちしるべ/台東区)

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街道の風景② 昔からのみちでしょうか・・・街とお寺が馴染んでいます

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大泉寺山門


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大泉寺
当寺は清林山和光院大泉寺と号し、慶長16215日浅草新堀東光院の末寺として神田北寺町に権大僧都慶賢法印によって創建されました。のち寺地が御用地となったため慶安元年1121現在地に移され今日に至っております。その間幾度となく災禍にあいました。6世豪栄法印の代の元禄1611月類焼しましたが、幸い7年後の宝永7年秋に客殿が新造されました。また明和92月の大火では土蔵以外すべてを焼失、直ちに客殿・庫裏の再建に着手し、完成を目前に再び延焼の悲運に見舞われました。しかし伊賀屋宇右衛門が大施主となり9世良弁法印の代の安永9年に本堂・客殿・庫裏が無事再建されました。その建物も関東大震災により倒壊しましたが、18世信道和尚は苦心の末昭和6年に本堂、同9年には客殿・庫裏の復興を成し遂げました。戦災も無事くぐり抜け平成元年以降、山門の再建、本堂・客殿の屋根瓦葺替、客殿の増改築などの復興整備工事が進められ寺観を一新しました。(天台宗東京教区HP)

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自性院山門 正面が桂の木、2代目?のようです

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愛染堂・愛染かつらゆかりの地
自性院は慶長16年(1611)に神田に創建、慶安元年(1648現在地に移った古寺である。当院は愛染堂に安置した愛染明王像で知られ、江戸文化が花開いたといわれる文化文政の頃(1804-30)になるとその名は近在まで広がったと伝えられる。江戸時代中期頃から別名を俗に愛染寺といわれた由縁である。愛染明王像は寺伝によれば、元文年間(1736-41)第9世貫海上人が境内の楠を彫刻いた。像高1m、像内には貫海上人が高野山参詣のとき奥院路上で拾得した小さな愛染明王が納められていると伝えられている。愛染明王は特に縁結び、家庭円満の対象として信仰されている。昭和の初め文豪川口松太郎の名作「愛染かつら」は、当院の愛染明王像と本堂前にあった桂の古木にヒントを得た作品だといわれる。(台東区教育委員会)

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大雄寺山門


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大雄寺(だいおうじ)
台東区谷中にある日蓮宗の寺院。山号は長昌山。旧本山は玉澤妙法華寺、親師法縁。伊豆玉沢妙法華寺の江戸触願寺をつとめた。慶長9年(1604)日達(元和8年・1622年没)が開基となって神田土手下に創建された。万治元年(1658現在地に移転した。境内には高橋泥舟(場末の三舟の一人)と向井勝幸(彫金家)の墓所がある。また、クスノキ都市の美観風致を維持するための樹木の保存に関する法律の東京都知事指定樹で台東区みどりの条例の保護樹木である。Wikipedia

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高橋泥舟墓
高橋泥舟は幕末期の幕臣、槍術家。名は政晃。通称謙三郎。のち精一。泥舟と号した。山岡鉄舟義兄にあたる。天保6年(1835217日山岡正業の次男として生まれ高橋包承の養子となる。剣術の名人として世に称賛され21歳で幕府講武所教授、25歳のとき同師範役となり、従五位下伊勢守に叙任された。佐幕、倒幕で騒然としていた文久2年(186211月幕府は江戸で浪士を徴集し、翌文久3年(18632月京都へ送った。泥舟は浪士取扱いとなったが、浪士が尊攘派志士と提携したため任を解かれた。同文久3年(186312月師範役に復職し慶應3年(1867)遊撃隊頭取となる。翌年(18681月「鳥羽伏見の戦」のあと、主戦論が多数を占めていた中で泥舟は徳川家の恭順を説き、15代将軍徳川慶喜が恭順の姿勢を示して寛永寺子院の大慈院に移り、ついで水戸に転居した際には遊撃隊を率いて警固にあたった。廃藩置県後は要職を退き隠棲し書を楽しんだという。明治36213日没。勝海舟山岡鉄舟とともに「幕末の三舟」といわれる。(台東区教育委員会)

勝海舟の墓(洗足池)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/25591654/
山岡鉄舟の墓(谷中)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27133161/

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街道の風景③ 昔ながらのお店がありますね、下町風俗資料館で一休みして谷中墓地へ/言問い通り

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旧吉田屋酒店/下町風俗資料館付設展示場(上野桜木)

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旧吉田屋酒店
かつて谷中6丁目の一角にあった商家建築。吉田屋酒店は江戸時代以来の老舗であった。旧店舗の建物が台東区に寄贈され、明治から昭和初期にいたる酒屋店舗の形態を後世に遺すため昭和62年(1987)移築復元して、当時の店頭の姿を再現、展示している。平成元年には一階店舗と二階部分及び道具・文書類が台東区指定有形民俗文化財となった。棟札によれば明治431910)に新築して昭和10年(1935)に一部改築したもの。正面は一、二階とも出桁造りで商家特有の長い庇を支え、出入り口には横長の板戸を上げ下げして開閉する揚戸を設け、間口を広く使って販売・運搬の便を図った。一階は店と帳場で展示している諸道具類や帳簿などの文書類も実際に使用されていたもの。帳場に続く階段をのぼると、三畳半と八畳の部屋があり店員等が使用していた。向かって右側の倉庫部分は外観のみを明治43年の写真に基づいて復元した。店舗後方の和室部分は構造的補強の必要から増設したものである。台東区指定有形民俗文化財(台東区教育委員会)

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松が谷三丁目五前道路
石造地蔵菩薩立像 舟型光背 文化81210日(文化八辛末年1210日 早生考道自性童女)
浅草六丁目13番地先道路

石造地蔵菩薩立像 貞林童子 銘文像左 元禄六発百五日

石造地蔵菩薩立像 銘文像右 享保九辰223日 像左 霊位(案内板)


・・・谷中霊園

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街道の風景④ 谷中霊園の入口です、かつては感応寺(現・天王寺)の参道でした/谷中

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旧谷中天王寺
本町は江戸時代にはその大部分が天王寺寺域であった。天王寺鎌倉時代後期、日蓮聖人に帰依した土豪関長耀煖の草創にかかるといわれもとは長耀山感応寺と号した。のち元禄11年(1698)幕府の命によって同寺は日蓮宗から天台宗に改宗、さらに天保4年(1833)には寺号も護国山天王寺に改称された。明治時代初期、天王寺の広大な境内地は一部を残して東京府に移管され共同墓地の谷中霊園となった。本町の起立年代は谷中各町の中では新しく明治24年1891)頃といわれている。谷中霊園、天王寺前町屋および隣接する銀杏横町、芋坂が合併され谷中天王寺と命名された。町名はいうまでもなく天王寺由来している。昭和42年(1967)の住居表示の実施で全域台東区谷中7丁目になった。(下町まちしるべ/台東区)


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谷中寺町と谷中霊園
寺院の屋根の下に谷中の町がある』という表現が大げさでないほど寺が多く、その数は70数軒にもなる。寛永年間(162443上野寛永寺子院がこの高台に多く建立されたのが谷中寺町の始まりである。それ以前は鎌倉時代創建の感応寺(現天王寺)ほか数える程しか寺院はなかった。そして慶安年間(164851年)に江戸府内再開発という幕府の施策で、神田あたりの相当数の寺院が谷中に移転してきた。また明暦の大火(1657)の後も江戸府内焼失の寺院がかなり移ってきた。寺の門前に町屋が形成され、また参詣にくる人で賑わい、庶民の行楽地となったのもこの頃である。幕末の慶応4年(1868上野戦争の兵火は谷中を襲い多くの寺院が焼失したがその後再建され、震災、戦災にもあわず昔ながらの情緒をもった寺町を今日に残している。谷中霊園は明治5年(1872)、旧天王寺境内の一部を官有とし、それに天王寺墓地徳川墓地の一部などをあわせた谷中墓地がその始まりである。そして明治7年(1884)東京都の公共墓地として発足した。東京の三大霊園の一つに数えられ、広さは約10万m2、現在の墓地使用者は6千人余りである。幕末、維新以降の著名人の墓碑が多くある。(歴史と文化の散歩道・谷中コース案内板)

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街道の風景⑤ 素晴らしい桜並木、桜の頃はいいでしょうね~/中央通り

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天王寺五重塔跡/天王寺公園

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天王寺五重塔跡
谷中の天王寺はもと日蓮宗・長燿山感應寺尊重院と称し、道灌山関小次郎長耀に由来する古刹である。元禄12年(1699)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺と改称したのは天保4年(1833)のことである。最初の五重塔は寛永21年(正保元年・1644)に建立されたが、130年ほど後の明和9年(安永元年・1772)目黒行人坂の大火で消失した。罹災から19年後の寛政3年(1791)に近江国高島郡の棟梁八田清兵衛ら48人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとしても知られている。総欅造りで高さ1128寸(34.18m)は関東で一番高い塔であった。明治41年(19086月東京市に寄贈され、震災・戦災にも遭遇せず谷中のランドマークになっていたが、昭和327月放火により消失した。現存する方三尺の中心礎石と四本柱礎石、方二尺七寸の外陣四隅柱礎石及び回縁の束石20個、地覆石12個総数49個はすべて花崗岩である。大島盈株による明治3年の実測図が残っており復原も可能である。中心礎石から金銅硝子荘舎利塔や金銅製経筒が、四本柱礎石と外陣四隅柱からは金銅製経筒などが発見されている。東京都指定史跡(東京都教育委員会)

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谷中五重塔模型(1/50谷中五重塔は仏塔としての存在だけではなく、江戸の佇まいを色濃く残す谷中の風景の一部であり、地域の人々の生活の記憶を形作るラウンドマークでもありました。今は無き五重塔を偲び、在りし日の姿を思い浮かべるよすがとなればと、そんな思いを込めてこの模型を製作しました。(谷中霊園管理事務所)
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天王寺山門


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天王寺
日蓮上人はこの地の住人・関長燿の家に泊まった折、自分のを刻んだ。長燿は草庵を結びその像を奉安した。伝承による天王寺草創の起源である。一般には室町時代・応永1294-1427)頃の創建という。「東京府志料」は「天王寺 護国山ト号ス 天台宗比叡山延暦寺末 此寺ハ日蓮宗ニテ長燿山感應寺ト号シ 応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリキ」と記している。東京に現存する寺院で江戸時代以前、創始の寺院は多くない。天王寺は都内有数古刹である。江戸時代ここで「富くじ」興行が開催された。目黒不動滝出雲寺、湯島天満宮の富くじとともに江戸三富と呼ばれ有名だった。富くじは現在の宝くじと考えればいい。元禄12年(1699)幕府の命令で感應寺は天台宗に改宗した。ついで天保4年(1833天王寺と改めた。境内の五重塔は幸田露伴の小説「五重塔」で知られていた。しかし昭和3276日惜しくも焼失してしまった。(台東区教育委員会)

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木造毘沙門天立像
本像はヒノキ材の一木造で、体内をくりぬかない彫法によって作られています。量感あふれる体型と頬と顎の張った表情や、大袖の特徴ある衣文の彫りはその作風から平安時代中期10世紀)ごろの作品とみられます。像高は116.8cm。頭、体とも正面を向き、邪鬼の上に立ち、左手に宝塔をのせ、右手には宝棒を握っています。天王寺はもと感應寺という日蓮宗の寺院でしたが、元禄11年(1698)江戸幕府の命令で天台宗に改宗させられました。この改宗に際し、京都の鞍馬寺が比叡山の乾(北西)の方角にあり毘沙門天をまつっていることになぞらえて、寛永寺の方角にあたる天王寺にも毘沙門天を迎えることになりました。こうして本像は元禄12比叡山からもたらされこの寺の本尊になりました。天王寺の毘沙門天は江戸の人々の信仰を集め、多くの参詣者でにぎわいました。江戸時代後期からは谷中七福神のひとつに数えられいまも庶民に親しまれています。本像とともに指定をうけた『感應寺毘沙門天王記』は享保16年(1731)寛永寺凌雲院実観の筆になるもので、本像が比叡山から天王寺に移された経緯がくわしく記されています。台東区指定文化財(台東区教育委員会)


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銅造釈迦如来坐像
本像については『武江年表』元禄3年(1690)の項に「5月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳」とあり、像背面の銘文にも制作年代は元禄3年(1690)鋳工は神田鍋町に住む大田久右衛門と刻まれている。また、同銘文中には「日遼」の名が見えるがこれは日蓮宗感応寺第15世住持のことで、同寺が天台宗に改宗して天王寺と寺名を変える直前の日蓮宗最後の住持である。昭和8年(1933)に設置された基壇背面銘文によれば、本像ははじめ旧本堂五重塔跡北方西側の道路中央付近)右側の地に建てられたという。『江戸名所図会』(天保7年・1836刊)の天王寺の項には、本堂に向かって左手に描かれておりこれを裏付けている。明治7年(1874)の公営谷中墓地開設のため同墓地西隅に位置することになったが、昭和8年(19336月修理を加え天王寺境内の現在地に鉄筋コンクリート製の基壇を新築してその上に移された。さらに昭和13年(1938)には基壇内部に納骨堂を増設し現在に至る。なお、「丈六仏」とは釈迦身長に因んで一丈六尺の高さに作る仏像をいい、坐像の場合はその二分の一の高さ八尺に作るのが普通である。本像は明治41年(1908)刊『新撰東京名所図会』に「唐銅丈六釈迦」と記され東京のシンボリックな存在「天王寺大仏」として親しまれていたことが知られる。平成5年(1993)に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。台東区登載文化財(台東区教育委員会)鬱金桜(うこんざくら)

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鬱金桜(うこんざくら)
この「鬱金桜(うこんざくら)」は別名「浅黄桜(あさぎざくら)」とも呼ばれており、花の開花はソメイヨシノより2週間程度遅く、4月中旬ごろに淡黄緑色八重桜の花が楽しめます。旧天王寺境内であった谷中霊園内には江戸時代から浅黄桜が多く植えられていたらしく、2代目歌川広重が描いた「江戸名勝図会 天王寺」のなかで「谷中天王寺中略境内に桜木多し、なかんずく浅黄桜の名木あり」と評され、江戸庶民に愛されていました。浅黄桜は最近ではほとんど見かけられなくなりましたが、第9回谷中花のフェスティバルを機にこの鬱金桜を植樹したものです。(説明板)
錦絵:江戸名勝図会天王寺/錦絵で楽しむ江戸の名所(国立国会図書館)


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もみじざか
坂道周辺の紅葉が美しかったので「紅葉坂」と命名されたのだろう。別名「幸庵坂」ともいった。その命名は不詳。江戸後期の国学者・山崎美成は「金杉日記」に「天王寺うら幸庵坂下、又三しま社のほとり秋色尤もふかし、林間に酒を煖む」と記している。この記事によると幸庵坂の名は江戸時代すでにあったことが知られる。(標柱)

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徳川慶喜墓/寛永寺墓地内


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徳川慶喜墓
徳川慶喜(18371913)は水戸藩主徳川斉昭の第七子で、はじめは一橋徳川家を継いで後見職として将軍家茂を補佐しました。慶応2年(186615代将軍職を継ぎましたが翌年、大政を奉還し慶応4年(1868)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず武家政権最後の征夷大将軍となりました。駿府隠棲し余生を過ごしますが、明治31年(1898)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見しています。明治35年(1902)には公爵を受爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され貴族院議員にも就任しています。大正2年(19131122日に77歳で没しました。お墓は間口3.6m、奥行4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1.7m、高さ0.72mの玉石畳の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。東京都指定史跡(東京都教育委員会)

徳川慶喜屋敷跡(駿府)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/20446305/

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谷中霊園案内図

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江戸名所図会 谷中感應寺
 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

谷中

江戸時代には上野台地の北部と両側低地部を指した。地名の由来は上野駒込の間にあるの意。江戸開府後、寺院が多数創建され門前町が形成された。感応寺(現天王寺)境内では毎年159月の11日に富くじ興業が行われた。五重塔で知られ、明治になって露伴の小説の題材にもされたが昭和321957)年に焼失した。寺が多かったため「谷中は墓と富くじ」と言われ、明治に入って谷中霊園が整備された。名産として葉生姜が名高く谷中生姜として贈答用に用いられた。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)


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浄名院山門/上野桜木町

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浄名院/上野桜木
昔は高重院、其後寛文6年(1667)圭海大僧都開基東叡山36坊の浄円院と称し寺領200石を賜う。五代将軍綱吉公の母宝樹院菩提所となり、寛海和尚は善養院に転住さる。寛文12年当山第1世妙立和尚安楽律の新法門を唱導。之に対し山徒頻に誹謗せしが、妙立門下霊空和尚出で師説を顕揚す。当時日本仏法の大王輪王寺宮の大御心を動かし奉るに到り、遂に享保8年御令旨に依り安楽一派を興立し、当山は浄名律院も改称し建立さる。又一山一ヶ寺の制を設けて比叡山に安楽律院、東叡山に当山、日光山に興雲律院の三院県立本山とし、徳川幕府の本宗棹尾の偉観を呈す。大明院宮、崇保院宮、隋宜楽院宮、御三代法親王の御崇敬を仰ぐ。殊に崇保院宮は地蔵信仰深く自ら尊像を画き江戸府内寺院に賜り毎月24日の縁日はそれより始まる。当山38世妙運和尚自他の人を合わせ、八万四千の石地蔵尊を建立し、上は仏祖の供恩に酬い下澆末の衆生を救わんとして発願さるや、直に北白川宮能久親王殿下の十数体奉納あり。徳川、小松、一条、近衛、毛利等各家の奉納に倣い、各界の人之に続き建立今日に到る。境内には明治初年神仏分離に際し江戸六地蔵6永代寺、富岡八幡宮の別当寺)は廃寺となり、地蔵尊も破壊され、以来当寺に江戸六地蔵第6番として再造された。(説明板)

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浄名院の八万四千体地蔵
この寺の名は初め浄円院といい寛文6年(1666寛永寺36の一つとして創建された。享保8年(1823浄名院となる。表門は享保年間(1716-35)の建立。地蔵信仰の寺となったのは第38世地蔵比丘妙運和尚の代からである。妙運和尚は大阪に生まれ、25歳で日光山星宮の常観庵にこもったとき地蔵信仰を得、一千体の石造地蔵菩薩像建立の発願を建てた。明治9年浄名院に入り、明治12年さきの一千体の願が満ちると、さらに八万四千体建立の大誓願に進んだ。明治18年には地蔵山総本尊を建立。各地から多数の信者が加わり地蔵菩薩像の数は増え続けている。

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境内にある青銅製の大きな地蔵菩薩坐像は、かつて江戸六地蔵第六番の地蔵菩薩像があった深川永代寺が明治維新のとき廃寺になったためと、日露戦争の戦没者を弔うため明治39年新たに建立されたものである。なお、旧815日の「へちま供養」にはせき、ぜんそくに効験を願う人々で賑わう。(台東区教育委員会)

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谷中霊園周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(橙:諏訪台通り・六道阿弥陀道 青・へび道 黄:坂)

# by Twalking | 2018-10-06 10:01 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 玉簾   

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タマスダレ/多摩市愛宕
本降りになってきたね~・・・、
台風の影響かな?、じっと我慢の子、
気をつけようね!、タマスダレさん。


タマスダレ
(玉簾)
ヒガンバナ科タマスダレ属の球根草。和名の由来は白い小さな花を「玉」に、葉が集まっている様子を「簾」に例えたことによる。別名のレインリリー(雨ユリ)とは、ゼフィランサス属及び近縁のハブランサス属(英語版)の総称でありタマスダレだけの別名ではない。まとまった雨後に一斉に花茎を伸ばし開花することに由来する。また、タマスダレを「ゼフィランサス」ということもあるが本来、ゼフィランサスは属名であるので注意を要する。葉は細長く棒状で濃緑、土から直接出ている。夏〜初秋に白い花を咲かせる。1本の花茎に対して花は1つだけである。(Wikipedia

# by Twalking | 2018-10-05 17:14 | ○Flower