無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-世田谷八幡宮   

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阿形


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吽形

本殿前の親子狛犬、どっしりとして逞しいですね、
また見上げる子獅子が、なんと愛らしいこと、見事です。
明治11年(1878)の奉納です。



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阿形


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吽形
境内奥の招魂社の狛犬、こちらも親子です。
じゃれてますね~・・・、きかん坊くん、可愛いこと。
大正6年(1917)の奉納です。

世田谷八幡神社/世田谷区宮坂

# by Twalking | 2019-02-19 19:18 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 『玉電』あれこれ   

・・・池尻大橋

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目黒川から見る246号の景観です/常盤橋

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玉電-人気を呼んだ路面電車
向こうに見える国道246号。20数年前までこの道を玉電が走っていました。玉電の愛称で親しまれた路面電車が最初に走ったのは明治40。この年5月、玉川電気鉄道により道玄坂上~三軒茶屋間が開通。夏には玉川~渋谷間が一本につながった。玉電は多摩川の砂利を東京に運ぶ目的で敷設された砂利運搬線だが、ゲタ履きで気軽に乗れるため一般の利用客も多かった。昭和13年東京横浜電鉄が買収、同電鉄の玉川線として再出発したが、車時代の到来で同445お役ご免に。今は三軒茶屋~下高井戸間を結ぶ世田谷線が残されているだけだ。(目黒区みどりの散歩道-西郷山・目黒川コース)
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明治40年製木造単車(新玉川線開通記念絵はがきより)

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昭和30年代 デハ200型

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昭和44年5月8日~10日玉川線に運転されたお別れ花電車 デハ65号

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246号の風景(大坂上方向)/大橋(目黒川)



・・・宮ノ坂駅

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東急世田谷線宮ノ坂駅

車両

現在世田谷線用の車両として30010編成あり全列車がこれの2両編成で運行されている。以前は、木の床など昔ながらの路面電車の構造をした車両で運行されていたが、2001年にすべて300系に置き換えられた。その際、台車などの旧車両の一部の部品を300系に流用している。また、江ノ島電鉄に譲渡されていた旧車両が宮の坂駅前に静態保存されている。 (Wikipedia



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西側に往時の車両が静態保存されています

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運転席                車輛内部

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江ノ電601号略歴

この電車は大正14年に製造され、昭和44年まで渋谷~二子玉川、下高井戸間(現在の東急新玉川線・世田谷線)を走り、その後江ノ島鎌倉観光株式会社(現在の江ノ島株)に譲渡され、主力電車として藤沢~鎌倉間で活躍したが、江ノ電2000形のデビューに伴い平成24月、65年間にも及ぶ長い現役生活に別れを告げた。
大正14年:蒲田車両で木製車として製造され、車両番号を玉川電気鉄道45号とした昭和28年:木製車を鋼製車体化し、車両番号をデハ104号とした。昭和44年:玉川線廃止時に江ノ電鎌倉(株)に譲渡された。平成2年:江ノ電2000系デビューに伴い廃止され、現在地に保存。(説明板)

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600形正面スタイルの変化/説明板

東急多摩川線
玉川線は渋谷区の渋谷駅と世田谷区の二子玉川園駅(現二子玉川駅)、および途中の世田谷区の三軒茶屋駅と下高井戸駅を結んでいた東京急行電鉄(東急)の鉄道路線(軌道線)である。通称「玉電」「玉川電車」。1907(明治40年)に道玄坂上を起点に部分開業後、主に玉川通り(国道246号)を中心に砂利輸送、地域輸送を行っていた。路線の延伸、支線の開設、譲渡を経て1969(昭和44年)に一部区間(現在の世田谷線)を除いて廃止された。1907年(明治40年)から1938年(昭和13年)までは玉川電気鉄道玉川電鉄)が運営、同年玉川電気鉄道が東京横浜電鉄に合併されその後その後身である東京急行電鉄が運営した。Wikipedia
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1930年代の玉川電気鉄道路線図/Wikipedia

玉川線

渋谷-〔道玄坂上〕-上通-〔大坂上〕-大橋-玉電池尻(旧名:世田谷→池尻)-三宿(旧名:池尻) - 〔東太子堂〕(旧名:太子堂)-三軒茶屋-玉電中里(旧名:中里)-上馬(旧名:上馬引沢)-真中 駒沢-新町(旧名:弦巻)-桜新町(旧名:新町)-用賀-玉電瀬田(旧名:瀬田前→瀬田) - 〔玉川遊園〕(旧名:身延山別院前)-二子玉川園(旧名:玉川→よみうり遊園→二子読売園→二子玉川)/Wikipedia

# by Twalking | 2019-02-19 15:41 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東の空にお月さん   

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乞田川/多摩市落合
東の空にお月さん、美しいですね~。
2019年の最大の満月は20日の夜半とか、
見れればいいですね。
2019.2.18(月)17:18


空高く輝く今年最大の満月を見よう!
220日の満月は2019年で最も大きな満月です。その前日の219日、月は183分に近地点を通過し、日付が変わってすぐの220054分に満月となります。満月の瞬間の地心距離は約357千km、視直径は3329秒角です。つまり、今年最大の満月は満月の日である220日の夕方に昇ってくる月ではないことに注意しましょう。また2019年で最も小さな満月となるのは914日です。今年、月が最も地球から離れるのは25日の1829分ですがこの日は新月です。満月の瞬間と遠地点通過の時刻が近いのは9月で、月は9132232分に遠地点を通過し、9141333分に満月となります。満月の瞬間の地心距離は約406千km、視直径は2924秒角です。月は地球の周りを公転しています。月の軌道は円形ではなく楕円形をしているため地球と月との距離は一定ではありません。また、月の軌道は太陽や地球などの重力を受けてわずかに変化するため、近地点や遠地点での距離は上の図のように毎回異なります。満月における地心距離はおよそ356千kmから40万7千kmの間で変化します。そして、月の視直径は地球と月との距離が近いときには大きく、遠いときには小さくなります。最も大きな満月は最も小さな満月に比べて14視直径が大きく、30明るく見えます。冬の満月は夏の満月よりも空の高いところを通ります。(国立天文台HP)

# by Twalking | 2019-02-18 21:51 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 メジロ   

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多摩市愛宕
あれ、メジロさん、
じっとしててね~・・・、
バシャ、ありがとう~!


メジロ
目白繍眼児

スズメ目メジロ科メジロ属の鳥の一種である。全長約12cmでスズメよりも小さい。翼開帳は約18 cm。緑がかった背と暗褐色の羽を持ち雌雄同色。目の周りの白い輪が特徴であり名前の由来ともなっている(メジロ科に属する鳥は英名でも "hite-eyes " と呼ばれ、また中国名名では「繍眼児」と呼ばれやはり名前の由来となっている)。花の蜜を大変好むため花期に合わせて行動し、春には好物の花の蜜を求めて南から北へと移動するものもいる。特に早春はツバキや梅の花に群がる様子がよく観察され「チー、チー」という地鳴きで鳴き交わす様子がよく観察される。(Wikipedia


# by Twalking | 2019-02-18 18:31 | ○たま-2019

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 北沢川緑道(合流点~梅ヶ丘)   

日時 2019.2.7(木)
天気 晴れ


小田急で帰ろうと思い、北沢川を西へ向かいました。
緑道だろうと思ってましたが、道の真ん中に川が流れます。
清流復活事業でここまで「復元」するとは驚きです。

滝坂道は歩きましたが、その北側に流れ、丘がすぐ迫ります。
代沢・代田はよく知りませんでしたがいい街並です。
坂も良さそうだし、文士町もあるのでまた訪ねたいと思います。



・・・代沢

世田谷区の東部に位置し北に北沢、西に代田、南に太子堂、三宿、池尻、東に目黒区駒場に接する。地形的には台地北沢川周辺の低地にまたがり起伏が比較的複雑である(四丁目はほぼ平坦な低地)。元々、東京府(武蔵国)荏原郡下北沢村代田村の一部で、1516世紀頃に北沢川周辺等で両村の開墾が始まり集落の形成が進んだ。明治時代以降、世田谷村への合併、東京市、世田谷区への編入があるように宅地化が進んだ。周辺の住居表示実施(1964・昭和39年)に際し、旧北沢の一部と代田の飛地下代田等が統合する形で成立した。代田下北沢の合成地名。始めて代沢と付けられたのは1898年(明治31年)に開校した荏原小学校代沢分教場(現在の代沢小学校)で1964年の住居表示の際に地名となった。(Wikipedia


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川の風景① 左が烏川緑道、右が北沢川緑道、目黒川の起点になります/合流点

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烏山川緑道(左)                  目黒川緑道(下流)

烏山川緑道の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27441728/

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川の風景② 「ふれあいの水辺」、人工ですがせせらぎが作られています

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北沢川
かつての目黒川の支流のひとつ。世田谷区内を流れる二級河川であった。本来の源頭地は世田谷区上北沢・都立松沢病院付近。(主要な水源のひとつであったとされる「将軍池」が病院敷地内に残っており隣接地が「将軍池公園」として公開されている。この池は大正時代にもともとの湧水地をもとにして患者の作業療法も兼ねて池を掘り広げたものだという)。これに北方を流れる玉川上水からの分水を引き込んでいた。病院付近から南東に向かい小田急線経堂駅北方で東へ転流し、豪徳寺駅のすぐ北をかすめ梅ヶ丘駅の東で線路をくぐる。さらに東南東へ流下し環七通り、茶沢通り、淡島通りを越え池尻大橋駅西方で烏山川と出会い目黒川となる。 元来は流量の少ない川だったが1658年(万治元年)に玉川上水からの分水(北沢分水)を認められ、上水から水源地付近まで導水するようになった。以来、北沢用水として親しまれつつ一帯の田畑を潤してきた。江戸時代の下北沢村開拓に密接に関係した歴史を持つ。

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支流
左岸(流路北側)にのみいくつかの支流があった。いずれも暗渠となっている。
森厳寺川(しんがんじがわ)
区立北沢中学校近辺から下北沢駅の東を通り、茶沢通りのルートを南下して代沢小学校の端で北沢川に合流。
だいだらぼっち川
森厳寺川の支流。下北沢駅西方を南流。源頭はもと大きな湧水窪地で「ダイダラ坊の足跡」であるとされ、これが「代田」の名の由来にもなったという
Wikipedia

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街道の風景① 滝坂道です、左が旧道、淡島交差点の先で合流します/淡島通り

淡島通り(432号)
元々、道玄坂上と下北沢(森厳寺・淡島神社附近)を結んでいた道路と現在の淡島交差点付近で分岐して現在の調布市方面に向かっていた滝坂道が原型である。主に20世紀前半にルート変更が重ねられ現在の形態となっている。通称淡島通りの「淡島」とは森巌寺境内淡島神社に由来するが現在は淡島神社付近は通らない。道玄坂上-山手通り、淡島交差点-下北沢の「旧道」はそれぞれ生活道路となっている。Wikipedia

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淡島通りの駒場方向です        辻に建つ庚申塚/旧道(大石橋先)

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旧道に架かる大石橋          こちらは淡島通りの下代田橋です

滝坂道(淡島付近)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22846177/

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川の風景③ すぐ左手にせせらぎ公園があります/淡島先

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代沢せせらぎ公園
世田谷区代沢4丁目にある都市公園(街区公園)である。代沢せせらぎ公園と北沢川緑道として世田谷区より地域風景資産に指定されている。1991年より「住民参加型公園設計」を経て完成した公共施設であり、公園に隣接した北沢川緑道の両岸には桜並木が立ち並び地元住民に愛されている。同種の公共施設では全国でも先駆者的な存在となっている(Wikipedia

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北沢川文学の小路
北沢川緑道の宮前橋(世田谷区代田)から下代田(代沢)までの区間約1kmは、近代文学を代表する歌人、作家、詩人たちが普段着で散策した場所です。彼らがここを通り思念し、思索し、歌を、俳句を詠み、そして詩を創り文章を書きました。その彼らがかつて居住したところがこの北沢川周辺にあったことから地域の皆さんから「北沢川文学の小路」と呼ばれています。北沢川ゆかりの作家が居住した町丁目を紹介すると代田三丁目には齋田小枝子、斎藤茂吉、代田二丁目には萩原朔太郎・萩原葉子、代田一丁目には三好達治、代田五丁目に坂口安吾(勤務地)、石川淳、田中英光、中村汀女、代沢四丁目には森茉莉、加藤楸邨、代沢三丁目には宇野千代、田村泰次郎、代沢二丁目に横光利一がいました。(案内板)

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川の風景④ 「川が主役」、存在感がありますね、文学碑も立っています

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横光利一顕彰碑
『微笑といふものは人の心を殺す光線だ』横光利一
新感覚という未踏の境地を切り開いたのは小説家・横光利一(18981947)である。彼は1928年(昭和311月ここ北沢川左岸の丘に居を構えた。小田急線開通によって開けた地である。「雨過山房」と名づけられた邸からは近代郊外風景が望めた。木々の間に赤い屋根が見え隠れし、眼下には緑の傾斜が川まで続いていた。代表作「旅愁」をはじめとする数々の作品がここで書き上げられた。当地、北沢に想を得たものも少なくない。その愛着の深い地で彼は終焉を迎える。19471230日、49歳の若さだった。彼こそは下北沢文士町先駆けの作家である。冒頭の一節は遺作となった「微笑」から抜き出したものだ。数文字で現象の本質を巧みに衝く新感覚表現の結晶の1つだと言ってよい。この「微笑」には「家の門から玄関までの石畳が靴を響かせてくるとき、その「靴音の加減で」用向きの判定をつけていたとある。(北沢川文化遺産保存の会)

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安吾文学碑の由来
坂口安吾は大正14年(1925)代沢小学校で1年間代用教員として勤めた。その時のことを背景として書かれたのが「風と光と二十の私と」である。安吾文学碑に刻んだ文言はこの作品に書き記された一節である。碑文両脇の煉瓦は安吾が「蒲田の家」(現大田区東矢口2丁目)と称していた家の門柱である。この家で「日本文化私観」「堕落論」「白痴」「風と光と二十の私と」などの作品が書かれた。門柱は所有者「新潟日報社」が長年保存してきたものである。それを譲り受け「東邦薬品株式会社」の協賛を得てここに門柱保存を兼ねた文学碑を建立したものである。なお、この碑は武蔵野の風と光と若い魂が通り抜けて行けるようにデザインしたものである。(世田谷区教育委員会)

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茶沢通りに架かる橋場橋        茶沢通り(下北沢方面)

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川の風景⑤ 右手に高台が迫ってきます、川の流れがよくわかります/橋場橋先

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せたがや百景7-北沢川緑道桜並木と代沢の桜祭り
代沢地区の北沢川緑道の両側には桜並木が続いている。満開になると花のトンネルになり花見の宴が繰り広げられる。地元主催の桜祭りには甘酒の無料接待やパレードなども行われる。(世田谷百景)
(青:北沢川 紫:滝坂道 橙:茶沢通り 緑:鎌倉道 黄:環七)

・・・代田


世田谷区の北部に位置し北沢地域に属する。北沢川が地区南部を西から東に流れるが暗渠化されている。地形は北沢川に向かって下る傾向があるが、北端の六丁目には南北に長い窪地があり、東西それぞれに上がる傾向も見られる。
戦国時代末期に後北条氏の滅亡の際に、北条方の吉良氏の家臣であった齊田氏が現在の一〜三丁目付近に土着し開墾したのが始まりともいわれ、その後も開墾を進め範囲を広げていった。元々、荏原郡に属し、現在の代沢の一部、大原をも含む範囲を指す概念であり、下北沢村の元々の中心部(現在の代沢三丁目、五丁目付近)を東西から挟み込むような形であった。その後、甲州街道に接する大原が独自の発展をし、世田谷区への編入などを経て住居表示の実施、飛地の整理で羽根木の飛地(現在の羽根木公園付近)の編入、逆に飛地であった下代田等が代沢に編入されて現在の形となった。Wikipedia

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街道の風景② 鎌倉通りに架かる「鎌倉橋」、代沢と代田境を北へ向かっています

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鎌倉道(南方向)           鎌倉橋、文学碑が建ちます

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三好達治文学顕彰碑
三好達治(1900年-1964年)は詩界の開拓者だ。和洋の詩風を織り込んで新しい詩の可能性を切り拓いた。昭和期を代表する第一級の抒情詩人だ。処女詩集「測量船」は言葉の響きを重んじて創られた名編だ。この発刊以降も語の音楽性にこだわり、生涯で千篇を越える詩を詠んでいる。達治は世田谷区代田1丁目1番(当碑の南約400)に16年間住んだ。静かな路地裏で詩集「百たびののち」は編まれた。
寒窓の一盞

憐れむべし糊口に穢れたれば 一盞(いっさん)はまづわが腹わたに注ぐべし
よき友らおほく地下に在り 時に彼らを憶ふ
また一盞をそそぐべし わが心つめたき石にも似たれども世に憤りなきにもあらず
また一盞をそそぐべし 霜消えて天晴るる 
わが庭の破れし甕にこの朝来たりて水浴ぶは 黄金渇の小雨鶲(こさめびたき)
小さき虹もたつならし 天の羽衣すがしきになほ水そそぐはよし 
また一盞そそぐべし 信あるかな爾 十歳わが寒庭を訪ふを替えず われ東西南北の客 流寓に疲れたけども 一日汝によりて自ら支ふ 汝何にために又々一盞をそそがざらでやは
詩人は諸国をさすらった末この代田に「流寓独居」し、独り酒を飲み寒庭を訪れる小鳥に語りかけた風狂の詩人、終焉の地での秀作である。達治が歩いたこの北沢川べりに詩碑を建てこれに1枚の写真を添える。庭で愛犬ミミーと戯れる詩人の肖像である。(北沢川文化遺産保存の会)

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川の風景⑥ 北側に丘が迫ります/桜橋

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齋藤茂吉歌碑
代田川の ほとりにわれを いこはしむ 柿の花も ほほけそめつつ 茂吉


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萩原朔太郎・葉子と代田の丘の61号鉄塔
ここ鶴ケ丘橋たもとから眺められる丘上の鉄塔には歴史がある。昭和元年(1926)に建ったものだ。当時、緑豊かなここに堂々と聳え立つ銀色の塔は都市近郊を象徴する景観であった。この塔のすぐ下に昭和8年、自らの設計による家を建て居住したのは萩原朔太郎(18861942)だ。鋭く尖った三角屋根の家は鉄塔を意識して設計されたものだろう。詩人は故郷前橋で電線の青い閃光を眺めては東京を恋い慕った。「定本青猫」の自序にはこうある。『都会の空に映る電線の青白いスパークを、大きな青猫のイメーヂに見てゐる』(萩原朔太郎)かつては当地の高圧線の碍子も青く仄めいていたという。詩人はそれを青猫に見立てたのかもしれない、代田鉄塔物語である。父はポエジィを子は怖れを感じた。娘葉子は自伝小説「蕁麻(いらくさ)の家」で「あの高い鉄塔」と描写し「暗い予感」をこれに持ったという。今となっては詩人と小説家とを偲ばせるたったひとつの風景だ。このことから丘の鉄塔は「世田谷区地域風景資産」に選定された。日本では他に類例をみない文学モニュメントだといえる。(北沢川文化遺産保存の会)

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円乗院山門/代田

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円乗院
代永山真勝寺円乗院と号し真言宗で勝国寺の末寺であった。「新編武蔵原土記稿」には『円成院境内除地1611畝余』と記載され『村民古クヨリモテルト云記録アリ、ソレモ寛永2(1625)以来ノコトヲ載タレド、ソレヨリ上ノコトノ、シルサズ、菅村民7人円成院ト共ニ小名本屋舗ノ地ニアリテ耕作ヲ勤ムト云々、サレバ此村草創ノ比ヨリノ寺ナルベシ』とあり、いわゆる代田7人衆などにより寛永初期頃までに代田村村民菩提寺として創建維持されてきた百姓持ちの寺と思われる。享保年間(17161736)に炎上再建されたが、昭和20年の空襲により再度回禄の災にかかる。現本堂は昭和29移建されたものであるが、その前身は台東区橋場総泉寺(秋田佐竹侯菩提寺)の旧本堂であった。狩野探信筆の襖絵(文政8年)などがあり江戸後期の建築物であろう。

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風土記稿にみえる観音堂は戦災時まで存していたが惜しくも炎上した。本尊不動明王は享保炎上後同18年(733)12月再造されたもの、門前に斉田東野筆弘法大師1000年遠忌の大石碑がある。並立する庚申塔2は区立守山小学校敷地から移したものである。115日境内で三土代会主催で代田餅搗や曲搗保存のための餅搗会が行なわれている。世田谷区内で数少い弥生時代追跡である円乗院遺跡は同院裏手のほぼ南面する丘陵端で発見され、昭和3年調査されたときには竪穴住居3が確認され多数の弥生後期の土器が出土した。都市化の進行により遺跡は湮滅に帰したが、土器類は世田谷区立郷土資料館に展示されている。(せたがや社寺と史跡)

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高野槇
日本特産で大きいもので高さ40m、直径1.5mになり、樹幹は狭円錐形になる。樹名の由来は和歌山県の高野山に多く自生している事から高野槇の名が付いた。この高野槇は第二次世界大戦の昭和20525日の空襲の戦火を浴び焼失したもので、戦争の痛ましさを忘れぬため保存しました(円乗寺)

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街道の風景③ 環七の若林方向の景観です、左が円乗寺、宮前橋が架かります。

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代田八幡神社/代田 左手に古い鳥居があります

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代田八幡神社
祭神:仲哀天皇、応神天皇、神功皇后、「新編試蔵風土記稿」に『鎮坐、年代詳ナラズ、元文年中(17361741)ノ棟札アリ、是ハ今ノ社ヲ修造セシ年代ナルベジ』と記す如く由緒については明らかでない。別当円乗院が享保年間(1716~1736)に炎上したためであろう。代田村の鎮守であったが、明治年間大原町などが分かれた。神宝として石棒を蔵する。風土記稿に云う。『此社ノ内ニ奇石アリ、ソノ状雷槌ノ如クニシテ青石ナリ。長サ四尺ニ寸余円径太キ所ニテ四寸周一尺三寸五分、コレノハ管ヨリ此ホトリノ百姓ガ宅地ノ内ニアリシヲ、近キ頃此社へ納メシト去』。社殿は戦災により炎上、現在のものは戦後の再建である。天明5(1785)銘の石の鳥居が建つ。祭礼は91920日であったが、現在は9月の第3土曜日曜に行主われる。(せたがや社寺と史跡)

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代田八幡神社鳥居一基(世田谷区指定有形文化財)
この鳥居は明神鳥居の形式で建てられています。大きさは柱間が2.390m、最高高さが3.115mあり、材質は花崗岩です。柱に刻まれた銘文によれば、天明5年(178512月に惣氏子中・大原講中によって奉納されたもので、石工は北八丁堀松屋町助左衛門です。大正12年(1923)の関東大震災で傾き、その修理の時に正面を裏に向けてしまったと伝えられています。現在、区内にある鳥居で二番目に古く、承応3年(1654)建立の喜多見氷川神社の石造鳥居(区指定文化財)に次ぐものです。(世田谷区教育委員会)
写真は境内です

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川の風景⑦「緑道」といえばこれが普通でしょうか・・・/四之橋

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小田急線高架下            梅ヶ丘駅北口付近

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下北沢文士町文化地図/北沢川文化遺産保存の会
(青:北沢川 紫:滝坂道 緑:鎌倉道 黄:茶沢通り・環七 赤角:下北沢駅)

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ふれあいの水辺案内図
(紺:北澤川緑道 緑:烏山川緑道 青:目黒川緑道 橙:大山街道・茶沢通り 紫:滝山道 緑:鎌倉道)

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代沢周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(青:北澤川・烏山川 紫:滝坂道 緑:鎌倉道 橙:大山街道)

# by Twalking | 2019-02-17 18:51 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 梅ヶ丘駅   

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小田急線梅ヶ丘駅/世田谷区梅丘
自転車通学でしたが、高校の最寄駅です。
高架駅になりましたね~・・・・、
南口は面影はありますが、北口が変わっていました。


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梅ヶ丘駅
世田谷区梅丘一丁目にある小田急小田原線の駅で、相対式ホーム24線を有する高架駅である。1934年(昭和9年)に開業、20183月以降は代々木上原駅から登戸駅構内まで複々線化されている。当駅は羽根木公園の最寄り駅で梅のシーズンには観梅客で賑わう。また、国士舘大学世田谷キャンパスおよび国士舘中学・高校の小田急での最寄り駅でもあり、通学生の利用が多い。(Wikipedia



# by Twalking | 2019-02-16 18:55 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 乞田川の風景   

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乞田川/多摩市落合
晴れてますが、風が冷たいですね、
あと1月ちょっとかな・・・、
じっくりと待ちましょうか。

# by Twalking | 2019-02-15 20:11 | ○たま-2019

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 烏山川緑道(世田谷区)03-若林~合流地   

日時 2019.2.7(木)
天気 晴れ


世田谷の旧中心地から太子堂、三宿を通り目黒区へ、
三軒茶屋は大山道の追分で今も活気があります。
川筋は静かな住宅街、落ち着いたいい街並です。

太子堂界隈は古い道が残っていて風情があります。
「鎌倉通り」とあるので、調べて見ると中道の支道
のようです、本路と合わせて歩きいてみたい道です。
大橋から開渠となりますが、流れがある方がいいですね。



・・・若林

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1585年(天正13年)には世田谷城主・吉良氏朝が家臣の周防上野介に「若林分」を分け与えている。 江戸時代には荏原郡世田谷領若林村となり、正保・元禄の頃より千人同心・志村氏の知行となった。1672年(寛文12年)長州藩が小名西三谷18300坪の土地を買い取り抱屋敷とした。現在の若林4丁目一帯は藩主毛利氏の官位「大膳大夫」に因み大夫山、或いは長州山と俗称された。1863年(文久3年)吉田松陰が故塚原回向院から長州藩屋敷内に改葬され、1882年(明治15年)松陰神社が建立された。1888年(明治22年)町村制施行により若林一帯は世田谷村の大字となった。若林とは新田を意味する古い表現、または開発造成され植林された若い木の並んでいるところを指すと考えられているが、正確な由来は不詳である。(Wikipedia

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川の風景① 右に登ると国士舘大・区役所になります/勝橋

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いい道ですね~/中堰橋         右に行くと若林駅です/天神橋

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若林天満宮鳥居


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若林天満宮
北野神社・牛天神とも呼ばれ、祭神・菅原道真公を祀り学問にご利益があるといわれています。その歴史は古く応永8年(1401)に武蔵国深大寺の僧・花光坊長弁が連歌の法楽を興行したと記録が残っています。環七ができた時に境内の3分の1以上の土地が削られましたが、地元の人々を始め多くの人々に天神様として親しまれ毎年1月には初天神祭を盛大に執り行われます。(若林町会HP)

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街道の風景① 左が若林駅、川はビルの所を横断しています/環七・若林踏切

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若林踏切
当駅の三軒茶屋方至近距離にある踏切で東急側では「西太子堂5号踏切」と称する。環七通りを横切る唯一の踏切である。一般的な鉄道の踏切と違って遮断機はなく、信号機によって交通を制御している。かつては遮断機のある一般的な踏切であったがモータリゼーションによる環七通りの交通量増大に見合わなくなったために1966年(昭和41年)に現在の形式に変更された。(Wikipedia

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若林稲荷神社鳥居


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若林稲荷神社
祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)である。当神社の由緒によれば「当社ヲ福寿稲荷ト云、三反五畝ノ除地ハ明和64月地頭ヨリ寄附セリ、神体長サ五寸許、三衣ヲ着シ白狐二跨レリ、彩色ヲ施シ彫工イト巧ミナリ、祭礼921日、神楽ヲ奏セリ」とあり、なお神社の記録によれば『本社間口壱丈奥行弐間、但シ木造 拝殿間口三間奥行三間、但シ木造、境内坪数318坪、(104942)境内立木31本、内目通一尺以上五尺未満21本、目通五尺以上一丈未満10、什器一、幟一対、手洗鉢一個、鳥居一台、右之通り相違無之候也、明治17年』とある。すなわち明治17年ころは樹木鬱蒼とし大木に囲まれた神社であったが、昭和20年に戦災にあい、現在では銀杏その他10教本の樹木があるのみである。なお神社には「正一位福寿稲荷大明神」と記した縦1.5m、横0.6mほどの古い額があったが戦災で焼失してしまったという。祭礼は97日。(せたがや社寺と史跡)

大山街道(若林周辺)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22614408/


・・・太子堂

鉄道の駅は三軒茶屋駅、西太子堂駅が設置され、幹線道路は国道246号線、世田谷通り、茶沢通りが通る。三軒茶屋駅周辺と世田谷通り沿いに商業地が広がりその他は住宅地が多い。河川は東西に烏山川が流れるが暗渠化されて緑道となっている。地形的には一丁目は概ね平坦だが、二・四丁目と三・五丁目の中央を通る烏山川緑道に向かって急な坂も点在している。(Wikipedia


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川の風景② 正面にキャロットタワーが見えてきます/耕整橋

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太子堂八幡神社鳥居


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太子堂八幡神社祭神:誉田別命)
当社の鎮座年暦不詳なれど旧当社別当円泉寺開基の縁起によれば、文禄年間(1592-1596)創祀されたとあるが、平安時代後期源義家が父頼義と共に朝廷の命をうけ陸奥の安倍氏征討に向う途中この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられている事から少なくともこれより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮の御分霊を勧請し村の守護神として祀った事はあきらかである。

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太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って八幡神社の西側から滝坂道を横切り下北沢と代田の境を通って鎌倉へ通ずる道で鎌倉道と呼ばれ、古い時代には行きつく目的地の名を取って付けたようである。此の鎌倉道の附近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴をはった太子堂上本村121-122番地の辺を(5丁目)土器塚と云い、酒宴後の土器など此の地に埋めたのでそう呼んだのである。その塚に続く塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わした名残である。真言宗豊山派円泉寺境内に聖徳太子像を安置し、それより太子の号をとりて部落の村名とした。以上は古老の伝承、武蔵風土記等を参照記したものである。(境内掲示板)

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弁天社
弁天社は元々インドの音楽・芸能の神仏教とともに伝えられました。弾いている琵琶の形が水を掬う瓢(ひさご)に似ていることから水の神になり、厳島の神と同じとされました。また財宝の神ともされ七福神の一つに数えられます。当社の弁天様は烏山川に架かる弁天橋のたもとに水・農耕の守り神として祀られていましたが昭和27年に現在地に遷されました。(パンフレット)

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稲荷神社
稲荷神は元々稲・穀物・食物の神で、御神徳は衣・食・住を守り、更に商売繁盛・殖産興業など広くに及び社内や会社の守護神ともされます。当社では八幡神社のお食事を司る御食神として祀られております。狐は稲荷神の御使いとされています。(パンフレット)

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立地
幹まわり4mを超える大きなを中心に大小数百本の樹木に囲まれた杜に太子堂の町々をお守りする八幡神社が祀られています。烏山川の北方に位置するこの地は、関東ローム層の固い安定した地盤で、に向かって緩やかな斜面は神を祀る社殿を建てるのに最もふさわしい所で。西側には若林する鎌倉に通ずる古道(鎌倉道)に接し、昔は交通の要衝でした。(パンフレット)

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教学院境内 奥が本堂、右手が不動堂です

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教学院
教学院は竹園山教学院最勝寺という。慶長9年(1604)玄応大和尚の開基になり江戸城内紅葉山にあったが、後赤坂三分坂に移転した。更に寛永8年(1631)第5世法印岸能大和尚のとき青山南町4目に移ったが、延享年間と宝暦年問の2度の火災で古記録を失いその間の詳しいことは明らかではない。元禄年間までは麹町山王成琳寺の末寺であったが、貞享4年(1687)旧相州小田原の城主大久保加賀守菩提寺となって寺運隆盛となり、東叡山輪王寺の直末寺となった。後に大寺の格式となり比叡山延暦寺の末寺となった。明治41年、第17世権僧正寛葆大和尚の代に太子堂町の現在地に移転した。本堂に恵心僧都作の阿弥陀如来と聖徳太子の作といわれる聖観音像を安置している。

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別堂には不動明王像を安置してありこれが目青不動尊である。これは目黒不動、目白不動、目赤不動、目黄不動と共に江戸五色不動の一つとして有名である。この像はもと麻布の観行寺の本尊であったが、同寺が廃寺となったので明治15年青山南町4丁目にあった教学院に移され、青山のお閻魔さまといわれていた。この像の右脇侍は閻魔大王、左脇侍は奪衣婆が安置されているので、この不動堂は一名閻魔堂ともいわれる。なおこの像の作者は目黒不動尊と同一人といわれている。(せたがや社寺と史跡)

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街道の風景② 大山道の追分です、茶沢通りを左折して戻ります/三軒茶屋交差点

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三軒茶屋
三軒茶屋という地名は、江戸時代の中頃から大山道(矢倉沢往還)の本道(現世田谷通り)と近道(現玉川通り)の分岐点近くに田中屋設楽屋(しからぎ・後に石橋屋)、角屋という3軒の茶屋があったことが起こりといわれています。この茶屋はみな座敷に膳を整え、茶屋娘を置く立派な構えの料理茶屋でしたが、一方店の前に床几を並べ、葭簀(よしず)を立て道行く人々にお茶の接待もしていました。江戸時代は大山街道や多摩川行楽の人びとの休み処として栄え、回りには髪結床や煙草屋などもありました。明治以降シャボン屋、立ち飲みのできる酒屋、駄菓子屋、魚屋などいろいろな店が増え、明治40には玉川電車も開通して次第に盛り場としての体裁を整えてきました。(案内板)

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キャロットタワーCarrot Tower
世田谷区太子堂にある商業施設及びホール施設併設のオフイスビル。三軒茶屋駅周辺の再開発事業により1996年(平成8年)に完成した。東急世田谷線に直結、東急田園都市線三軒茶屋駅にも地下通路で接続されている。周囲に中低層の建物が多い中、レンガ調外壁の一際目立つ建築物で周辺のランドマークにもなっている。地上27階(124m)(Wikipedia


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茶沢通り
三件茶屋と下北沢、東北沢を結ぶ世田谷区道の通称。三軒屋と下北を結ぶ道路であることから茶沢と命名された。

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川の風景③ 茶沢通りに架かる大師橋から西へ向かいます

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合流点から1kmの標識         人工の流れが作られています

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世田谷百景5-太子堂下ノ谷界隈
茶沢通りの中程から入ったところに下ノ谷商店街があります。下町情緒の懐かしい雰囲気の店が並んでおり、第1・第3日曜日の朝9時から10時まで朝市で賑わいます。街と人びとが作り出す原風景とでもいったものが見られる一帯です。(案内板)


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歴史と文化の散歩道-松陰太子堂散歩
松陰太子堂散歩は淡島通りから烏山緑道に沿って太子堂を経て世田谷線の上町駅までの約4.6kmの道のりです。聖徳太子堂のある円泉寺、吉田松陰ゆかりの松陰神社、井伊家の菩提寺である豪徳寺、かつての世田谷の中心・世田谷城址などを巡ります。(案内板)

歴史と文化の散歩道の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/21642253/

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円泉寺山門


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円泉寺
真言宗、聖王山、法明院と号し、開山は賢恵僧都で葛飾郡新堀村の生れである。円泉寺の建立由来書によると、文禄1年(1592賢恵僧都大和国久米寺から聖徳太子像十一面観世音を背負って関東へ下った。文禄4年当地に来て一泊した時、賢恵僧都が不思議な夢をみた。聖徳太子が告げていうには「この地に霊地あり円泉ケ丘といふ。こ霊泉湧き出づ、永くここに安住せん。汝も共に止まるべし」と。翌文禄512月本堂、聖徳太子堂、庫裡が完成、本堂には運慶の作といわれる長さ約1mの十一面観世音立像を安置して本尊とした。

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太子堂は境内の中央にあり、約2間半4方で長押に長谷の僧正動潮の筆になる「太子堂」の扁額がある。聖徳太子の像は約11寸で弘仁9年(818)春、天下に大疫病流行の時疾疫の消除と国民擁護のため、弘法大師がこの尊像を精魂こめて作られたものと伝えられ、難症難治の病をいやし給うた諸顧成就の尊像である。この堂が出来てから土地は繁栄し一つの村をなすようになり、太子堂の号をとって太子堂村というようになった。円泉寺には現在泉は湧き出ていないが、この辺りは太子堂町でも低い所で、円泉が丘すなわち今の国立小児病院一帯に樹林が繁茂していた昔は、霊泉の湧き出る清浄な所であったと思われる。

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また、境内には世田谷教育界の大恩人である宮野芟平先生の碑がある。明治3年に世田谷村、松沢村、玉川村、目黒村、碑衾村の有志が協力して「郷学所」を作り宮野先生を迎えた。この郷学所は今までの寺子屋と違い新時代に適した教材と、四民平等の新しい思想によって身分の上下を問わず教育した。明治443日、太子堂村380番地に立派な校舎を新設し、「太子堂郷学所」と命名し、明治62月東京府の指令で「幼童学所」と改称され、明治612月「太子堂幼童所」をそのまま新学制の小学校にし「第二中学区第四番小学荏原学校」となる。ここに世田谷区内で第1番目の小学校が生まれたわけで、宮野先生はその初代校長に任命され、以後引き続き校長として世田谷の教育に尽力し明治283月現職中に逝去した。先生の高徳を長く後世に残すために明治20年荏原小学校が火災にあい焼失したとき一時仮校舎であったこの円泉寺の境内に頒徳の碑が建てられた。(せたがや社寺と史跡より)

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せたがや百景6-太子堂圓泉寺とけやき並木
聖徳太子を祀った太子堂の由来から地名が生まれたという。明治4年、境内に「郷学所」が設けられ、世田谷の教育発祥の地となったところだ。ケヤキの大木の並木は、農村だったころ区内随所に見られた屋敷林の名残ともいえる。秋の境内は紅葉したケヤキやイチョウの落葉で黄色のカーペットが敷かれる。(せたがや百景)


・・・三宿

町全体が烏山川の削ったの斜面に位置し南側が三宿一丁目、北側が三宿二丁目、谷底部分が境となっている。この川は現在暗渠・緑道(遊歩道)化されており三軒茶屋や池尻大橋方面にいくことができる。川沿いのいわゆる境目付近に三宿神社が存在する。三宿神社のある小高い丘は多聞山と呼ばれ、過去には三宿城(多聞小学校敷地が本丸と比定されている。現在の住所は池尻)、多聞寺が存在したが、明治維新後の明治政府による廃仏毀釈の影響で多聞寺は緊急に神社化され、前述の三宿神社となった。故に現在も神社脇に旧寺の墓地が存在する珍しい状態となっている。(Wikipedia

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川の風景④ 小学生が描いた川の絵がレリーフで飾ってあります

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三宿神社鳥居


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三宿神社
祭神は倉稲魂命をまつった稲荷社であるが、毘沙門天(木像1尺位)も祀られているので一名毘沙門様とも称せられている。昔多聞寺(現在廃寺)の境内にあった毘沙門堂の本堂をうつしたものと伝えられ、現在の社殿は昭和42年の建築である。三宿の氏神で例祭は923日であるが、奉納される神楽のうちにたぬきはやしがあるが、これは養老の滝の物語の孝子がたぬきを助けたという伝説にちなんだものだといわれている。二の鳥居の傍に昭和31年土地の有志が建立した石碑がある。この石は旧江戸城に築かれていた城石だということで表の面に、過去五百年之進歩道灌不知 未来五百年之進歩我等不知 石又沈黙 江戸城築城之石 大田道灌築城五百年 武者小路実篤 とある。(せたがや社寺と史跡より)

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一帯は小高い丘、多聞城が置かれていたそうです・・・、南側の丘に矢倉沢往還(大山道)が通ります


・・・池尻

旧・荏原郡池尻村。吉良氏の部将である橋本天王丸の子・兵庫重寿17世紀前半に開発したとされている。1945年までは国道246号の南側(池尻1丁目と2丁目)のほとんどの区域を陸軍の練兵場が占めていた。そのためこの地域には陸上自衛隊の三宿駐屯地や池尻小学校・(旧)中学校、世田谷公園そして国家公務員官舎や都営アパートなど国や東京都の建物が集中して建築されている。北沢川と烏山川が合流し目黒川となる付近で沼沢地帯を為していた。池尻の「」とは「出口」という意味で池や沼や湖が川に落ちる部分のことを示している。「いけしり」や「いけのしり」という呼称もある。(Wikipedia

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川の風景⑤ 北沢川と合わせ、ここから目黒川(緑道)になります

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川の風景⑥ 目黒区に入り緑道の案内も「緑の散歩道」に変わります

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目黒川緑道の終点           246号を横断します/大橋

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川の風景⑦ ここからは開渠、やっぱり流れがあった方がいいですね!いずれまた・・・/大橋

大山街道(池尻大橋付近)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22555139/

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「ふれあいの水辺」案内板
(緑:烏山川緑道・北沢川緑道 橙:大山道 紫:滝坂道 緑:鎌倉道)

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太子堂周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(青:烏山川緑道 紺:北沢川 橙:大山道 紫:滝坂道)

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烏山川(緑道)流域図
(紺角:源流域・北沢川合流点 赤:旧甲州街道・大山街道 紫:滝坂道)

烏山緑道02(船橋~若林)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27437851/

# by Twalking | 2019-02-14 18:58 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 玉電がゆく   

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若林踏切/環状7号線(世田谷区若林)
はじめて玉電に乗った時は「電車優先」だったような。
モータリゼーションの波には勝てず、渋滞解消で遮断機がつき、
今は仲良く信号誘導になっています。車両もスマートになって・・・、
時代とともに移りゆく玉電、逞しいですね~、愛着を感じます。


# by Twalking | 2019-02-14 16:04 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 烏山川緑道(世田谷区)02-船橋~若林   

日時 2019.2.7(木)
天気 晴れ


千歳船橋から緑道を西へ向かいます。
昔、住んでいた近くなので懐かしいエリアで、
高校へ通う道筋に当たりまます。

当時はまだ川は流れてましたね~・・・。
川筋は緑道となっていますが、両岸は小高い丘、
地形を確認しなが歩くと、また違った風景に出会えます。


・・・船橋

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街道の風景① 駅南側の城山通りです、緑道は北側の低地を流れています/桜ヶ丘

桜ケ丘
旧・荏原郡世田ヶ谷村。隣接する世田谷区に置かれた桜小学校に関係がある。1922年(大正11年)桜小学校の分校として横根分教場が置かれる。昭和5年横根分教場は独立して、第二桜尋常小学校と改名。昭和16年さらに桜丘国民学校(現:桜丘小学校)に改名される。これに由来する。(Wikipedia

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稲荷森稲荷神社鳥居 商店街の一角にあります、知りませんでした/桜ヶ丘


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稲荷森稲荷神社
当神社の創立年代は詳らかでない。しかし当神社のすぐ側に湧水池があった。(昭和28年頂まで)もともと氏子でみる旧世田谷5丁目には品川用水を別として、川もなく田のないところであった。この点から考えてこの土地の人々が住みついたときこの水源は貴重なものであったにちがいない。この個所に社を造り神をまつるのは当然であったと考えられる。「新編武蔵風土記稿」巻之四十八には「荏原郡之十、世田谷領、稲荷社 除地八畝歩是モ横根ノ内ナリ」と記されている。現在の社殿は寛政年中(1789-1800)に造営されたもので「本殿床板の種子 維時寛政龍次己未霜月 奉新造正一位稲荷宮本社 武州荏原郡世田谷邑横根邨 工匠岡庭政右エ門、嶋田喜兵エ助工 清治郎 巳之助 金五郎」とある墨記によっても知られ、また棟札にも「嘉永三庚歳」建造した旨が記してあることからも知られる。その後も数度にわたり修繕されている。

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また境内の一隅に存する庚申碑には延宝の年号を見ることができる。これらより神社は相当さかのぼることと思われる。また境内はもとうっそうたる森をなしており、樹令三四百年をかぞえる杉の御神木もあり、黒駒街道に面し道中往来の人の崇敬を集め、特に雨を凌ぎ暖をとるのに絶好な神域であったと伝えられている。今なお当時往来の馬追い連中より寄進せちれた向い獅子を存している。また今日著明な世田谷ボロ市も当神社に起因するという。明治初年当時の変動により除地せられた八畝の社地も大半を失ない、また明治40年に合祀の議がおこったが氏子有志は結束して現状を維持したとしいう。祭神は稲倉魂神。静御前が輿州下向の折、一夜当社に参詣したとの口碑がある。(せたがや社寺と史跡)


・・・経堂

江戸時代は荏原郡経堂在家村と呼ばれていた。1932年(昭和7年)世田谷区が成立した際に経堂町となり、昭和42年の住居表示で現在の形となった。地名の由来はかつて御経を納める御堂(経蔵)があったためとされる。また、かつて存在した御堂が京都風の建造物であったために「京堂」と呼ばれ、それが転じて経堂になったともされる。(Wikipedia

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川の風景① 桜並木を西に向かいます、右手高台に天祖神社があります/経堂

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天祖神社鳥居/経堂


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天祖神社
当神社は江戸幕府が編纂した地誌新編武蔵風土記稿(1830)に「伊勢宮伊勢宮 除地一段 村ノ西ニアリ ワズカナル祠ナリ 当村ノ鎮守タリ 鎮座ノ年代ヲ知ラズ 村内福昌寺持」と記されています。(除地は年貢免除の土地。一段は一反。約992平米)「鎮座ノ年代ヲ知ラズ」となっていますが、土地の古老の間では永正4年(1507)と言い伝えられています。永正4年といえば北条早雲が小田原城主として後北条の基礎を築いた頃で、世田谷はその傘下にある源氏の名門吉良家領地でした。鎌倉幕府を開いた源頼朝は氏神である八幡神と同様伊勢神宮を篤く崇敬しており、関東の地にも御厨といって伊勢神宮へ納める米などの作物をつくる土地を寄進しました。このご縁でご祭神天照大御神を祀る天祖神社・神明社が祀られました。但し、当社がそのご縁によるものかは不明です。

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因に経堂在家村といわれていた江戸末期には村内に伊勢宮、天神社、四稲荷社の六社があったようです。当社は『新編武蔵国風土記稿』に「伊勢宮」と記されていますが官国幣社以外の神社(民社)では「宮」の称号の使用が禁じられましたので、天照大御神の「」と氏神様(先祖神)の「」を合わせて、明治7年(1874)村社「天祖神社」としたとのことです。社格制度は昭和21年(1946)神道指令により廃止されましたが当神社の入り口にある「社名標」には「村社」の文字が残っています。また鳥居と石灯籠には「明治419月合祀記念」の文字があります。(天祖神社HP)


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小田急線を越えます          小さな石仏があります/石仏公園

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川の風景② 懐かしい交差点、先が農大、後ろが経堂駅です/大橋(経堂商店街)


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農大通り                  ハートフルファミリー

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経堂大橋公園付近の写真 左:現在 右:昭和30年代

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烏山川(目黒川水系2級河川)
昔の烏山川の水源は現在の高源院(北烏山4丁目)の池に武蔵野の伏流水が湧出したものだと言われ、自然発生した川です。江戸時代に飲水や田畑の用水を求めて烏山村などの農民が幕府から許可を得て、玉川上水から烏山川へ分水して烏山用水として利用されました。大正期以降、人口が増え農地から宅地へ転用が進むにつれて農業用水の利用が減り、住宅などの生活排水が流れるようになりました。昭和40年代に排水路化された川に下水道幹線を埋めて排水を流しています。上流右岸は給田5丁目4番先、左岸は北烏山3丁目32番先(三鷹市と世田谷区の境界線)です。それより上流は水路です。下流は目黒川合流点です。(写真:昭和20年代以前/経堂大橋公園案内板)

滝坂道(経堂・船橋)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22902123/

・・・宮坂

世田谷区の中央部に位置し、北辺北沢川南側烏山川が流れ中央部丘状となっている。世田谷八幡宮の東側にある(都道427号)の名に由来する。現在は短い坂だが、坂の上部は世田谷線開通時に切り崩されている。旧・荏原郡世田ヶ谷村字宮ノ坂。地元では「みゃんざか」と発音されていたようであり、駅名は「宮の坂(みやのさか)」だが、1964年(昭和39年)の住居表示の際に「宮坂(みやさか)」とされた。(Wikipedia

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街道の風景② 地名の由来となった宮坂、坂上で滝坂道と交差します/宮の坂駅前

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世田谷百景/宮の坂駅前
世田谷百景は区民に世田谷の風景に関心を持ってもらうことを目的に、昭和59年に選ばれました。選定にあたっては好ましい風景として区民から推薦投票で選ばれた約400景の中から選定委員が200景の候補に絞り、区民投票を実施し票の多い順で100景が選ばれました。(案内板)

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世田谷八幡宮鳥居/宮坂


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世田谷八幡宮
祭神、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、天保7年(1836)に刊行された「江戸名所図会」には、絵図に世田谷八幡社と註され、文には宮坂八幡宮として『同じ寺(豪徳寺)より西の方の岡続きにありて、其の三町計を隔つ。鎌倉亀岡八幡宮の模にして、勧請年暦詳ならず、天文15吉良頼貞当社を建立すと云。或は義家朝臣勧請せられし御神にして吉良家再興とも云伝ふれども義家勧請と云事疑少からず。祭礼は815日にして、社司大場氏の奉祀たり。社内に存する嘘は頼貞親植るところと云伝ふ』

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すなわち、約880年前、奥州の清原武衝、家衡らの内乱(後三年の役)を平定した源義家が、戦勝を祝してこの地に勧請し東征の弓矢、旗を当社に納めて後の記念とした。さらに世田谷の地に城を築いた吉良氏が氏神として崇敬し、社殿を修復して術前雲次の大刀(23寸)の白鞘一振を、八幡大神の御佩刀として納めたともいい伝えられているが、これらの棍拠はうすいもので、かつて、この社に蔵してあった棟札に『当社八幡宮建立大檀那源朝臣頼貞。天文15年丙午820日釿立、1220日癸卯御遷宮』とあるので、約420年前に吉良7代の頼康卿によって造立されたものと考えられる。(頼貞というのは頼康の初の名で同一人である)。

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徳川家康が江戸城に入城したのち、天正19年(1591)当八幡社に社領として11石、田畑にして約394畝を寄進した。以来徳川代々の将軍は朱印地として社領11石を寄進するならわしとなった。維新後の明治5年に郷社宇佐神社となり、旧世田谷村の地および羽根木を氏子区域と定めたが、終戦後、神社は国家管理を離れたので細社の社格も廃止され、また、宇佐神社の社名も朱印状などの文献によって元の社名「世田谷八幡宮」と復元、昭和395月鉄筋コンクリート建に改築し荘麗な社殿となった。なお文化10年(1813)の建築といわれる本殿はそのまま現在の本殿の中に納められている。また秋季大祭(915日)の奉納相撲が有名である。(せたがや社寺と史跡)

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世田谷百景30-奉納相撲の世田谷八幡宮
秋祭りの奉納相撲で有名な世田谷八幡宮は、吉良頼康が天文15年(1548)に造立したという記録があります。また将軍徳川家康より朱印地11石を与えられています。「五郎」という怪力力士が活躍する民話もあり、長きにわたる村人たちの奉納相撲の活況を物語っています。今でも相撲部の大学生たちが古い伝統を継いでいます。(百景案内板)
江戸郊外三大相撲:世田谷八幡宮 渋谷氷川神社(渋谷区)、大井鹿嶋神社(品川区)


・・・豪徳寺

「招き猫伝説」で知られる
豪徳寺がある。町域北部を横断する北沢川緑道や南辺の烏山川緑道は、それぞれ暗渠化した北沢川や烏山川の上部を緑道に造成したものである。川の名残として幾つかの橋の名前が残っている。町内部分の北沢川緑道では山下橋、新山下橋、松竹橋等、烏山川緑道では八幡橋、城向橋、青葉橋、品川橋等である。旧・荏原郡世田ヶ谷村1966年(昭和41年)の住居表示実施時に寺の名前から地名が付けられた。(Wikipedia


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川の風景③ 世田谷城に沿って蛇行して流れています、右へ行くと豪徳寺参道です

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豪徳寺山門
 

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招き猫の豪徳寺
世田谷城主
吉良政忠が文明12年(1480)に城内に建てたとされる小庵・弘徳院が豪徳寺の始まりです。江戸時代の初め徳川家康に仕えた井伊直孝が井伊家の菩提寺としました。招き猫伝説は直孝とこの寺の出合いを物語るものです。『直孝が遠乗りをしてこの辺りまで来ると急に雷雨になった。寂れた寺の目の前で猫が手招きしているので不思議に思って寺の門をくぐって中へ入ると、さっきまでいた所に雷が落ちた。猫のお蔭で助かった直孝はこの寺を菩提寺とした』という話になっています。豪徳寺の寺号は直孝の法名に因んでつけられたものです。桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の墓もここにあります。(世田谷八景案内板)

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世田谷城址公園から南の景観、眼下に烏山山川が流れ、前方の丘は元宿(世田谷区役所)になります

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世田谷百景22-世田谷城址公園
この公園を中心にして北は豪徳寺、西は宮の坂駅、東と北は烏山緑道近くの辺りまでが世田谷城のあったところといわれています。城主は吉良氏です。世田谷城は17世紀後期の談話文学「名残常盤記」の舞台でもあります。『吉良頼康の側室に常盤姫という美しい女性がおり、常盤は頼康にたいへん愛されていた。それを妬んだ者たちから不義密通の濡れ衣をきせられた。常盤は自害する前に辞世の句を白鷺の足につけ、父のいる奥沢城へ飛ばしたが白鷺は途中で射殺されてしまった。そして白鷺は白い花になった』という伝説です。奥沢城は九品仏浄真寺になっています。(世田谷百景案内板)

品川道(九品仏浄真寺)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/25235304/
せたがや散歩道-歴史コースの関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/21642253/


・・・世田谷

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町の北辺の烏山緑道は暗渠化した烏山川の上部を緑道に造成したものである。川の名残として町内部分では八幡橋、城向橋、青葉橋、品川橋等の橋の名前が残っている。水準点(世田谷2丁目13番)の高さは東京湾平均海面上(海抜38.6993200611日現在)。縄文前期の集落跡を示す元宿遺跡が四丁目にある。縄文中期の包蔵地である浄光寺遺跡が一丁目にある。江戸時代、多くは彦根藩井伊家の所領であり、1633年(寛永10年)から1871年(明治4年)まで同家の代官職を継いできた大場家の屋敷が東京都史跡の世田谷代官屋敷として一丁目に残る。(Wikipedia)

大山街道(上町周辺)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22619327/

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街道の風景③ 後方は矢倉沢往還(大山道)になります/世田谷区役所

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国士舘大学              前方が世田谷城址です

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勝国寺山門


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勝国寺
所在地が世田谷城裏鬼門に位置しており、鬼門除けのために薬師如来を安置して祀ったのが起りとされる。旧御朱印寺。玉川八十八ヶ所霊場48番札所。勝国寺はもと丸香山薬師院と称し、その後青龍山勝国寺と名を改めた。新義真言宗豊山派に属し、宝仙寺(中野区)の末寺で愛宕下真福寺の支配下の寺院であった。勝国寺は空襲などの被害を受けたために創建の時期や事情を伝える古文書類がほとんど残っていない。『新編武蔵風土記稿』巻之四十八荏原郡之十によれば「開山ハ詳ナラズ。(中略)相伝フ当寺ハ吉良義髙祈願所ナリト。按ニ吉良系図ヲ見ルニ、義髙トイフ人ヲノセズ。疑フベシ」と記述されていた。

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このような前掲書の記述や筆録時期不詳の『勝国寺過去帳』への書き入れ、寺伝、伝承の類のみの形で伝えられていて不明確である。『勝国寺過去帳』への書き入れによればその起源は少なくとも1554(天文23年)まではさかのぼり、吉良氏5代目当主政忠開基とされる。寺院の建立には3年の年月を要し、実働の人夫は延べ2360人という記録が残る。当時の本尊は薬師如来で吉良家代々の祈願所となった。

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勝国寺の所在地は世田谷城東北裏鬼門に当たる地であった。この地は世田ケ谷村元宿(現在の世田谷区役所付近)の一角で西と北が高い崖になっているため、世田谷城の防衛となる他の寺社より防衛しやすいという地の利があり、砦として防衛の拠点であったと推定される。勝国寺は小本寺として円光院、円乗院、密蔵院、善性寺、多門寺(廃寺)、泉竜寺の6寺院を持っていた。現在の狛江市にある泉竜寺を除く5寺院はいずれも現在の世田谷区内にあって、勝国寺とともにそれぞれ世田谷城を取り巻くとしての役割を果たしていたものと推定される。吉良氏の勢力が衰えたのち、1591年(天正19年)11月に徳川家康12石を寄進し、後に徳川家光も12石を寄進した。歴代将軍も前例に倣って同様に朱印状を与えている。Wikipedia

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川の風景④ いい風景ですね~、右手が区役所・国士舘のある台地です/稲荷下橋付近

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旧明正高校、今は国士舘大です/品川橋  国士舘の崖下を流れていました

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勝国寺より梅ヶ丘方面を望みます、滝坂道は前方の丘を通っています

滝坂道(梅ヶ丘・松原付近)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22847697/

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烏山川緑道案内図(経堂~若林)
(緑:烏山川・北沢川 橙:大山道 紫:滝山道 赤:玉電・小田急線)

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豪徳寺周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(青:烏山川 橙:大山道 紫:滝坂道 赤:玉電)

烏山緑道01(源流~船橋)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27412278/

# by Twalking | 2019-02-11 11:22 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ハートフルファミリー/経堂農大通り商店街   

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農大通り/烏山緑道・大橋(世田谷区経堂)


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ハート・ファミリー
兄(農大商一)今はサラリーマンだけど、いずれパパの後を継ぐつもりらしい。
兄嫁(農大栄子)兄の年上女房。頭が良くて快活で、たまに母と衝突するけれど、商店向きの人だと母はよく言います。

甥(農大健介)兄に似ず頭が良さそうで、末が楽しみなわが家の初孫です
(写真:経堂農大通り商店街)


昔お世話になった商店街、駅前にもありますがほのぼのとして、いいですね~!

# by Twalking | 2019-02-08 22:25 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 千歳船橋駅   

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小田急線千歳船橋駅/世田谷区船橋
高架になって初めて降りましたが、
見える景色が全く違いますね・・・・。
ますますのお天気、ここからスタートです。


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千歳船橋駅
世田谷区船橋一丁目にある小田急小田原線の駅である。1927年(昭和2年)開業2004年(平成16年) 5月上り通過線使用開始(上り2線化完成)同9月下り通過線使用開始(複々線化完成)。駅は間に通過線(急行線)を挟んだ相対式ホーム24線を有する高架駅である。駅名は「千歳村」にあり、駅所在地付近は湿地帯だったため「船橋」を架けて交通の便を図ったことに由来する。(Wikipedia

# by Twalking | 2019-02-08 13:38 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 小田急ロマンスカー   

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新百合ヶ丘駅/川崎市麻生区
お~、白のロマンスカー、
5000系かな・・・、
かっこいい~!

# by Twalking | 2019-02-07 22:31 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 お守り-太子堂八幡神社   

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太子堂八幡神社/世田谷区太子堂
『生きている間何度いえるだろう
 ありがとう
 言っただけ素敵な出会いがあるんだね』
明快で、素敵だね、子猫ちゃん、ありがとう~!

# by Twalking | 2019-02-07 21:33 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 雨上がり   

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乞田川/多摩市落合
あめ、やんだかな~・・・・。
カラカラだったので湿り気が欲しいところ、
寒いけど、雨もまた佳しでしょうか。

# by Twalking | 2019-02-06 21:18 | ○たま-2019

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 お不動さん-多聞院   

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多聞院-烏山寺町(世田谷区北烏山)
小粒ですが、がっちりとして、
いい面持ですね~・・・、
ちょっと惹きこまれました。

多聞院(烏山寺町)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27403962/

# by Twalking | 2019-02-05 21:05 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-十番稲荷神社   

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阿形

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吽形

十番稲荷神社/港区麻布十番
すらっとした美形ですが、
鋭いまなざしで睨みを利かせて・・・、
なかなかの見応えです。


狛犬
当社の狛犬は戦前の昭和122月に前身であります末広神社に奉納されたものです。奉納した音丸さん(本名、永井満津子)は地元麻布十番のご出身で、美声を以って知られコロンビア所属の歌手として「船頭可愛や」のヒットで有名です。戦時中、土中に埋めていたため戦災をまぬがれ現在に伝っております。(境内案内/十番稲荷神社HP)

十番稲荷神社の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27418121/


# by Twalking | 2019-02-04 21:56 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 立春   

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多摩ニュータウン通り/多摩市落合
春を思わせせるような温かさ、
20度近くまで気温が上がりました。
青空に舞う龍さん、気持よさそうですね~。

# by Twalking | 2019-02-04 21:09 | ○雲

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カモン、はる!   

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乞田川/多摩市永山
お~、柔らかいこと、
カモン、はる~!
キャンプインかな???、カモさん。

# by Twalking | 2019-02-03 21:55 | ○たま-2019

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり白金   

日時 2019.1.24(木)
天気 晴れ


歴史資料館がオープンしたと支所で伺いましたので、
古川と別れ蜀江坂を上って白金台へ向かいました。
この辺りは静かで緑も多いので歩くにはいいですね。

歴史資料館は東大医科学研究所の一画にあります。
剥製や出土品、所蔵の錦絵・切絵図などがみれますが、
丁寧に説明をしていただきました、ありがとうございました。


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街道の風景① 五之橋から古川と別れ商店街を白金台へ向かいます/白金

麻布田島町
元禄(16881704)から享保(17161736)にかけて新堀向と俗称したようですが、近傍に三田龜塚(みたかめづか)の代地二ヶ所、西久保天徳寺領屋敷があるのを併せて田島町を名乗ったといいます。そのころ周囲はなお田であったので「田の中の島のような町」との意味だという説もありますがはっきりはしていません。(麻布地区の道路橋/港区HP)


・・・白金

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街道の風景② 白金台の下は北里通り(305号)お墓参りで通る道です/白金

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白金(しろかね)
応永年間にこの地を開いた「柳下上総介(やぎした)」氏が、大量の銀(読みはシロカネ)を所有していたことから「銀長者→白金長者」と呼ばれ、「白金」がそのまま地名になったとされています。銀の読みと同様に町名も、しろかねと濁らないのが正式のようです。『小田原衆所領役帳』では「白銀」と記されていましたが、読みはやはり「しろかね」だったそうです。江戸時代は豊島郡と荏原郡の境界線上にあったこの白金村は、区画が定まらず入会地(共同耕作地)とされました。明治に入り東京府へ編入され、武家地跡に白金下三光町、白金上三光町、芝白金丹波町などが起立しました。明治11年(1878)に一旦芝区に所属しますが、白金志田町・芝白金丹波町以外は荏原郡へ所属替えとなり、13年後再び芝区に編入され、芝白金今里町、東名光(ひがしなこう)、西名光(にしなこう)、松久保、雷神下などをあわせて芝白金三光町となり、昭和22年(1947)港区の成立により芝の冠称を除き白金三光町となります。後の「新住居表示」により麻布新広尾町、麻布田島町、芝三田老増町(おいます)、白金三光町、白金志田町、白金台町などの全域または一部をあわせて現在の「白金」となりました。(港区の地名の歴史/港区HP)

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本妙寺山門


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本妙寺
港区白金にある日蓮宗の寺院。山号は金峯山。旧本山は身延山久遠寺(身延門流)、通師法縁。日瑞(碑文谷法華寺・現在の天台宗円融寺10世)が退隠のため碑文谷法華寺の付近に創建。延宝4年(1676)日玄(4世)の代に現在地へ移転した。Wikipedia


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北里大学北里研究病院港区
白金五丁目にある医療機関。学校法人北里研究所が運営する病院である。北里柴三郎によって設立された土筆ヶ丘養生園を起源とする。(1893年・明治26設立)
北里柴三郎
細菌学者。肥後の人。東大卒。ドイツに留学、コッホのもとで研究し破傷風菌の純粋培養に成功、さらに血清療法を発見。帰国後、伝染病研究所長のち北里研究所を創設。ペスト菌の発見者でもある。(コトバンク)

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坂の風景① 北里研究所前から聖心女子(裏門)に沿って南へ上る坂です

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蜀江坂(しょっこうざか)
坂上の丘を、紅葉が美しい中国の蜀江にちなんで蜀江台と呼んだことからつけられた。むかしの字名は卒古台であった。(標柱)




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聖心女子学院(裏門)
港区白金に所在し、完全小中高一貫教育を提供する私立の女子小学校・中学校・高等学校。カトリック女子修道会である「イエズスの聖心会」を母体として設立。(1908年・明治41年)世界約40ヶ国、200校の姉妹校がある。一学年3クラス、収容定員1344(初等科第1学年から第4学年までは1クラス32人、初等科第5学年から高等科第3学年までは1クラス42)の小規模な学級編成されている。(
Wikipedia

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レンガ塀が素敵な坂です        坂上も緑が多くて寛げます


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坂の風景② 歴史資料館に寄ってから麻布方面に戻ります/日吉坂上(目黒通り)

日吉坂 
能役者日吉喜兵衛が付近に住んだためと伝える。ほかに、ひよせ、ひとせ、ひとみなどと書く説もある。(港区標柱)


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坂の風景③ 聖心女子学園の表門前を通り、北里通りへ下ります

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三光坂
本来は坂下専心寺にあった三葉の松にもとづき三鈷(さんこ・仏具)坂だったというが、日月星の三光などともいう。(標柱)




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白金三光町
東京市芝区(現・東京都港区)にかつて存在した町名。もと
白金村の内字上三光、下三光、名光、東名光、西名光、卒古台、松久保、雷神下の地である。18913月合して1町となし「白金三光町」と称し東京市に属す。その内上三光にはもと上杉氏分部氏の別邸及び旧幕府書院番組屋敷址その他の土地があった。1872年合して「白金上三光町」といった所がある。下三光には黒田氏伊達氏の別邸及び土地が存在し1872年合して「白金下三光町」を立てた所がある。また町の東北には俗に「鷺森」と称し寛永中鷺森明神の門前町を開き、1869年立てて「白金錦町」と称した地がある。(Wikipedia

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三光坂下               西光寺浄土宗のお寺さんです

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氷川神社鳥居


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氷川神社
祭神:素盞鳴尊、日本武尊、櫛稲田姫尊 
白鳳年間(今から1338年前)に所謂白金邑総鎮守の氏神様として建立せられた。明和9年目黒行人坂から出た火災により類焼、その後宝暦2年大規模な権現造りの御社殿が御造営され嘉永5年には拝殿が銅葺せりと伝えられ立派な建物であったが、昭和20425日大東亜の戦禍にあった。昭和33年秋現在の御本殿・拝殿・参道・社務所等境内整備に至る迄造営大工事が竣工した。(境内掲示)

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境内
                 建武社

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街道の風景③近くに駅はあったみたいですが麻布十番に戻りました/麻布十番通り

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白金周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)

白金台の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22184781/



・・・・・
資料ファイル

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港区郷土博物館

建物
この建物は東京大学建築学科教授の内田祥三(よしかず)により設計され、昭和131938)年に建設された旧公衆衛生院です。構造は鉄骨・鉄筋コンクリート造、スクラッチタイルで覆われたゴシック調の外観で「内田ゴシック」と呼ばれる特徴的なデザインとなっており、隣に建つ東京大学医科学研究所と対になって建てられました。建物の内部にも講堂や教室・研究室などのほか細部にわたる意匠など当時の状態を伝える部分が多くあります。歴史的に貴重なこの建物を保存・改修し、郷土歴史館を中心とした複合施設として活用しています。(港区HP)

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港区立郷土歴史博物館 
2018年(平成30年)11月、白金台のゆかしの杜に郷土歴史博物館が開館します。建物は昭和13年に建築された旧公衆衛生院の歴史的に貴重な外観や内部の講堂などを保存改修して活用しています。郷土歴史館では出土した縄文土器やクジラの骨格標本など本物に触れたり、プロジェクションマッピングやタッチパネルを活用しながら港区の自然・歴史・文化を学ぶことができます。また、ミュージアムショップやカフェもあり歴史を知り交流できる施設です。ぜひご来館ください。(港区HP)

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ミンククジラ(ナガスクジラ科)
宮城県鮎川で捕獲されたクジラで、東京慈恵会大学の標本館に収蔵されていましたが平成10年(1998)に寄贈されました。ミンククジラは歯のかわりにヒゲを持つクジラの中までほぼ世界中の海に生息しています。体長は9m前後になります。ナガスクジラ科の中では最も小さいクジラです。(説明板)

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ステンドグラス
このステンドグラスは港区三田三丁目・札の辻近くにあった浅野セメント創業者・浅野総一郎自邸ステンドグラスです。その後、浅野邸は港区立芝浜中学校として利用されていましたが、校舎の建替え時に不要となったものを保存しています。(説明板)

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伊皿子貝塚
港区三田4丁目19(旧三井家邸宅敷地、現・NTTデータ三田ビル敷地)にあった縄文時代後期貝塚。規模は大きくはないものの貝の種類の豊富さや貝層密度の濃さでは日本有数の貝塚である。貝層の下からは貝塚より古い時代の土器、貝層の上からも縄文時代晩期の土器、さらに弥生時代以降の遺構も見つかりこの地には貝塚を形成した時期だけでなく長い期間人の営みがあったことがわかる。貝塚の上下から違う時代遺物も発見されていることからそれらも合わせて伊皿子貝塚遺跡ともいう。貝塚の位置は台地上の標高11前後のに向いた斜面上にある。縄文時代の縄文海進時には高輪台地は南西から北東方向に伸びる台地で東は東京湾、北から北西は古川(渋谷川)西も低地で、伊皿子貝塚は高輪台地の東側にあり東京湾に直接面していた。港区内には縄文遺跡が多く存在するがその多くは古川沿いにあり、東京湾に直接面していた縄文遺跡は多くは無い。(Wikipedia
写真:
伊皿子貝塚の貝層断面

中原街道・伊皿子坂周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22226945/

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本村町貝塚/南麻布3丁目
古川を南に望む台地の端と斜面にあるとされる貝塚です。ハマグリ・サルボウなど海水産の貝殻からなる縄文時代前期の貝塚です。当時は海水がこのあたりまで入り込んでいたことを示しています。土器の形式としては黒浜式・諸磯式が多く出土しています。旧町名で本村町、今の南麻布3丁目の広い地域に広がっていたと考えられますが、近年の台地上の数ヶ所での試掘調査では貝塚はまったく確認されていません。古川の谷を望む台地の南斜面で日当たりもよく、原始・古代から生活の適地であったと考えられますが、現在では開発が進みその痕跡をわざかながらも伝えるのはここだけになってしまいました。(港区教育委員会)写真:薬園緑地付近

古川・四之橋周辺(旧本村町)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27423693/

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港区埋蔵文化財包蔵地(遺跡)分布図
/平成303月現在(部分拡大)
(橙:旧東海道 紫:中原街道 緑:大山街道 青:古川を着色)

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港区等高線マップ

# by Twalking | 2019-02-03 18:31 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 2月   

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愛宕第四公園/多摩市愛宕
抜けるような青空、気持よさそうですね。
勢いがあるな~・・・、ブナでししょうか??、
寒いけど背筋を伸ばしてシャキッとしょっと。

# by Twalking | 2019-02-01 22:20 | さんぽみち

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり古川(一之橋~五之橋)   

日時 2019.1.24(木)
天気 晴れ


麻布十番から古川を遡ってみました。
昔、母が暮らしていた所、どんな所かな~???
というのが動機です。

「四之橋の辺り、市電の停車場があり、映画館があった」
と聞いています。当時とは街はすっかり様変わりしていますが、
地図で見ると路地は当時と変わらず、この辺かな???と
思いながら散策・・・、楽しいひと時でした。


・・・麻布十番

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街道の風景① 明治通りの新一之橋交差点から古川橋へ向かいます/麻布十番駅

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麻布
麻布周辺には貝塚などが見られ縄文時代から人間が住んでいた。弥生時代には農業も行われていた。712年には竹千代稲荷(現在の十番稲荷)が創建、824年には空海により麻布山善福寺が開基、939年には氷川神社が源経基により勧請される(1659年に現在の位置に移転)。江戸時代初期までは農村や寺社の門前町であった。武家屋敷が建ち並ぶようになり江戸の人口増加・拡大につれ都市化し代官支配から町方支配にうつる。馬場が1729年に芝から麻布に移転、十番馬場と呼ばれた。馬場移転に伴い馬市が立ち麻布十番は栄える。1859年にアメリカ公使館が善福寺に置かれる。明治時代には古川が埋め立てられ鉄道馬車が通り工業化が進む。次第に台地の上は高級住宅街、低地には零細商工業といった分化がすすむ。大正時代には麻布十番を中心に花街や演芸場、映画館、デパートなどが造られ東京でも有数の盛り場となる。第二次世界大戦では空襲で大きな被害を受けるが、戦後に復興する。1994年(昭和24年)に麻布中版温泉が開湯する。(Wikipedia)

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川の風景①
交番裏に架かります、古川は一之橋から南へ大きく曲がります

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一之橋(赤羽川合流口)
三田1丁目から麻布4丁目に至る鋼橋。現在の橋は1983年(昭和58)に改修されました。1699年(元禄12)の麻布御殿造営に伴う古川改修により岡田将監屋敷の西側が召し上げられ新堀堀割となり、そこに当時橋名「一ノ橋」「二ノ橋」が架け渡されました。水運の発達により一之橋のたもとには亨保(17161736年)の頃より荷揚場が出来、新河岸と呼ばれそこを経由して後背地の住宅に炭や薪が運ばれました。橋の袂には六本木、元麻布、麻布十番方面からの水系を集めた赤羽川合流口が顔を出しています。(古川の今昔/港区)

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旧麻布日活館
一之橋公園(交番奥・現在工事中)の地は昔は河岸地でしたが路面電車が古川沿いに開通した前後の1910年(明治43)、福宝堂がここに活動写真館の「第三福宝館」を建て、1912年(大正元)に他の3社と合併して日活となるとその直営館になりました。関東大震災後に「麻布日活館」と改称し、1929年(昭和4)に廃業した麻布十番末廣座に移転しました。翌春までは「一之橋日活館」を名乗っていましたが、後の新東宝社長大蔵貢が買収し「一之橋館」と改称し、戦時中に演芸館となって1944年(昭和19)まで存続しました。全盛期は一之橋の日活と四之橋の松竹が麻布での覇を競いました。(古川の今昔/港区)

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川の風景② 右岸は三田丁目になります、町屋風の路地が残っています

小山橋

当初は私道であったが、昭和30年区道認定により区の管理となっている。昭和363月竣工 長さ 15.7m 幅 5.7m(車道4.0m、歩道1.0m)/港区の道路橋

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川の風景③ 二之橋から上流を望みます

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二之橋
仙台坂日向坂を結ぶ橋です。麻布側に飯野藩保科家の上屋敷がありました。そこに出入りしていた信州保科村の反物屋清右衛門は蕎麦を打つのが上手いことから、藩主の助言により蕎麦屋に転向しました。名前も布屋太兵衛と改め、藩邸に近い永坂で「永坂更科」を開店しました。「更科」とは長野県千曲市にある地名「更級」の「」と保科家の「」を合わせたものと言われています。白い蕎麦粉を使用した高級な「御膳蕎麦」が評判となり、増上寺の僧もよく食されたということです。(麻布地区の道路橋/港区HP)
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坂の風景① 坂上にはオーストラリア大使館、綱町三井倶楽部などがあります

日向坂(ひゅうがざか)

江戸時代前期南側に徳山藩毛利日向守の屋敷があった。振袖坂ともいった。由来は不明である。誤ってひなた坂とも呼んだ。(標柱)


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圓徳寺/三田
日蓮宗中山法華経寺末で常祐山と號する。寛永元年芝金杉裏四丁目に創建し、延寳7久保三田に移り、寳永3此地に轉じた。開山は日青、中興を日念といふ。(芝區誌)

三田周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22212946/



・・・南麻布

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南麻布
江戸時代、この地には仙台坂南部坂の由来にもなった陸奥仙台藩伊達家下屋敷陸奥盛岡藩南部家下屋敷などの武家地をはじめ天真寺、曹渓寺、光林寺、天現寺、麻布七仏薬師などの寺社地や門前、麻布本村町、麻布広尾町、三田古川町などの町屋、下渋谷村、麻布村などの村地となっていました。また元禄11年(1698)から宝永5年(1708)まで将軍家の別荘である白銀御殿(しろかね・布御殿・富士見御殿ともいう)が置かれています。明治に入り麻布区に所属。「住居表示に関する法律」の施行を受けて昭和41年(1966)麻布東町、麻布竹谷町、麻布本村町、麻布新堀町、麻布富士見町、麻布盛岡町、麻布広尾町、麻布新広尾町を合わせ麻布地域の南に位置することから町名を「南麻布」としました。(地名の歴史/港区HP)

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川の風景④ 三之橋から上流を望みます

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三之橋/三の橋通り           三之橋交差点/明治通り

三之橋
当初は木橋で松平肥後守下屋敷脇であったことから「肥後殿橋」ともいわれた。平成191月架替え 長さ 22.3m 幅 11.2m(車道7.0m、歩道1.5m両側)(麻布地区の道路橋/港区HP)

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街道の風景② 左が415号(麻布通り)前方が明治通り(起点)です。古川はここで大きく曲がり右手へ流れます/古川橋

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川の風景⑤ 右手明治通りに沿って現源寺方向へ流れます/古川橋

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古川橋
白金1丁目、南麻布2丁目、三田5丁目の古川(渋谷川)にかかる橋である。古川と渋谷川は同じ川であり、上流(渋谷区区間)渋谷川下流(港区区間)古川と呼ぶ。都道415号高輪麻布線の構造物である。先代の橋は昭和初期にかけられた長さ15.9m、幅16.3mの鋼橋であり、現在の橋は昭和431968)に改架された長さ17.6m、幅37mの鋼橋である。私設の橋を東京市に編入したのが始まりとなる。また、現在では古川橋といえば主に明治通りと都道415号の古川橋交差点をさす。この交差点は古川橋のたもとに位置し明治通り起点となっている。かつては数多くの都電457834系統)が走る主要な停留所・乗り換え地点として有名であり、現在でも都営バスの古川橋バス停がある。Wikipedia

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麻布新堀町
町は東流してきた古川屈曲する部分の左岸にあります。「御府内沿革図書」によると江戸時代初期から町域のほとんどが武家屋敷でした。明治5年(1872)武家地を合併して麻布新堀町となりました。町名は町のの二方が新堀川(古川)に沿うことに由来します。(麻布地域の旧町名由来/港区HP)
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川の風景⑥ 新古川橋から上流を望みます、こちらの大久保通りが旧道でしょうか?

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新古川橋(玉名川合流口)
白金1丁目から南麻布2丁目にかかる鋼橋。1935年(昭和10)に架設され、1989年(平成元)に架け替えられました。新古川橋の下で玉名川が古川に合流します。玉名川の流れは山内遠江守下屋敷にあった「玉名の池」より流れ出し、樹木谷から松秀寺の西境を過ぎて、三田老増町を巡って白金志田町、白金三光町の境を北に向かい新古川橋で合流しています。(古川の今昔/港区)

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新古川橋
かつてこの場所は高輪から樹木谷(地獄谷)を経て大久保通り麻布本村の谷上に向かう古い東海道の道筋に当っていたと思われる。しかしながら「新古川橋」として橋が架けられたのは、古川の橋の中では新しく昭和10年に架設されている(欄干碑文)

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圓澤寺山門

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龍興山圓澤寺
駒込大圓寺末、本尊延命地蔵尊。起立は寛文22月(文政書上正保二酉とす)開山は附山營傳和尚(寛文10312日寂)本尊の地蔵木像は弘法大師一刀三體の作と傳えている。儒者渡邊象山父子の墓がある。象山は信州飯田藩主堀大和守の祐筆、その養子渡邊木叟(名は楊蔵)も同じく飯田侯に仕へた。木叟は嘉永4年正月2167を以て卒した。(麻布區史)

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西福寺山門

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金生山西福寺(大谷派)
寛永7麻布本村に建立され寛文元年現地へ移った。當初は西本願寺末であつたが、万治39月大谷派に變り、開山の以傳(寛文672日寂)も海傳と改名した。『府内備考』に飯倉の圓應寺併合の事及び蔵する書畫佛蔵中に「武州豊島郡飯倉郷金曽木村圓應寺」と銘あるものあることが載せられている。寳暦94月江戸の名工西村和泉守藤原政時作るところの梵鐘がある。(麻布區史)

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街道の風景③ 信号の手前に明稱寺、左が四之橋、右手が薬園坂です/四之橋

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麻布本村町
古川の谷へ南面する台地から傾斜地にかかっており、古くから住居好適地に選ばれたことは貝塚の存在することでもわかります。阿佐布という地名は当初このあたりを指したものと推定され、本村とは元村すなわち麻布の中心の意味といわれています。(麻布地域の旧町名由来/港区HP)
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川の風景⑦ 四之橋から上流を望みます

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四之橋
広重の「名所江戸百景」に描かれている麻布高輪を結ぶ橋です。近くに土屋相模守の屋敷があったことから「相模橋」とも、また、麻布薬園があったので「薬園橋」とも呼ばれていました。浮世絵にある茶屋は「狐鰻」という鰻屋で、頭のとがった鰻を出すことで評判の店でした。また、四之橋の近くで尾張屋藤兵衛というものが汁粉屋を商っていましたが、時折、狐が化けて買いに来る「狐汁粉」として大いに繁盛したということです。(古川の今昔/港区)

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右岸は白金商店街です

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明稱寺山門

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宇田山明稱寺(みょうしょうじ・大谷派)
慶長14芝宇田川町に建立、開山釋行念(寛永元年927日寂)はもと甲州武田家浪人で高坂慶治良(弾正の孫)と云った。寛文3下窪町へ移り、後天和3現地へ轉じた。正徳26月田中丹波守作の梵鐘がある。寺傳の薬「涼驚圓」(小児丸とも云ふ)は昔時一粒三銭と云ふ高であつたが、非常に賣れたものである。(麻布區史)

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坂の風景② 四之橋から仙台坂上に登ります/イラン大使館前

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途中には釣堀坂があります       谷の底の薬楽園緑地


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坂上の奴坂              坂入口にある本村公園


奴坂
竹ヶ谷(たけがやつ)の小坂で谷小坂、薬王坂のなまりでやっこう坂、奴が付近に多く住んでいた坂の三説がある。(標柱)

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坂の風景③ 光林寺の手前から新坂を北へ上ると有栖川宮記念公園です


新坂

新しく開かれた坂の意味であるが、開かれたのは明治20年代と推定される。(標柱)

仙台坂&有栖川宮記念公園の記事はこちらへhttps://teione.exblog.jp/22181592/

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川の風景⑧ 五之橋から上流を望みます、今回はここまでです

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五之橋
昭和109月竣工 長さ 17.0m 6.6m(車道6.0m)(麻布地区の道路橋/港区HP)

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光林寺山門

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慈眼山光林寺 
本尊如意輪観音。妙心寺派中本寺格。延寶610市兵衛町に創建し元禄75今の所へ移った。永く舊地を光林谷と呼んでいた。開山は盤珪永琢和尚である。和尚は播磨綱干の人、同國龍門寺の開山。諸侯の歸依を集めた高僧で元禄693日齢79(一に72)を以て龍門寺に寂した。元禄32月特に詔に依って佛智弘済禅師の號を賜はり、後元文512月勅諡大法正眼國師を下賜された。當寺の本尊は此の開山が作るところと傳へられている。開基は丸亀藩主・京極備中守高豊で、特に刑部少輔高和の奥方養性院殿寶山壽心大姉(藤堂大學頭女、元禄223日卒)は最も熱心な歸依者であつた。寶永65月奥田出羽掾作の鐘には「武州豊島郡麻布邑慈眼山光輪禅寺」云々と銘が鐫りつけてある。(麻布區史)

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史蹟・ヒュースケンの墓
アメリカ総領事ハリス通訳兼書記官として18567月に下田に到着した。オランダ人ヒュースケンはその後、1859年江戸麻布善福寺にアメリカ仮公使館が設けられるに及び江戸に入り、ハリスの片腕となって困難な日米間の折衝に活躍し日米修好通商条約を調印にいたらしめ、また日本と諸外国との条約締結にも尽力した人物である。186012月、ヒュースケンは日本とプロシアとの修好条約の協議斡旋のため、会場であった赤羽接遇所と宿舎の間を騎馬で往復していたが、5日午後9時頃宿舎への帰路、中ノ橋付近で一団の浪士に襲われ刀で腹部等を深く切られた。その後宿所に運ばれプロシア使節団の医師らによる処置が行われたが、6日未明に死亡した。遺体は江戸府外であった光林寺に葬られた。(港区教育委員会)

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古川橋周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)


・・・・
資料ファイル

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麻布の名所今昔-坂と旧跡ほか(部分)/港区麻布支所

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港区等高線マップ(部分)/港区郷土歴史館
(青:古川 橙:旧東海道 紫:中原街道)

古川
古川は江戸時代から現代までの生活史・産業史に大きなかかわりをもっています。〈江戸時代〉1653(承応2)に玉川上水が完成し、その余水は現在の新宿御苑内で池を作り、さらに流下して古川源流になっています。明暦の大火1657年)後の都市改造として拡幅工事が計画され、翌年に麻布十番にいたる船入り計画が立てられ、1675(延宝3)に河口芝・金杉より麻布十番にいたる拡幅工事が行われています。舟が行き来し、両岸には数多くの船着場がつくられ水運が活発になりました。古川は古川橋あたりまではへ流れ、急に北上し、一之橋あたりでまた急に東へ流れを変えています。これは麻布十番に堀留ができたこと、元禄時代に麻布御殿造営に伴い古川が整備されたことが大きな理由です。今は幻となっている入間(いりあい)は古川の三之橋あたりで分岐して東へ進み、芝で海に注いでいたといわれています。(諸説ありますが・・・)(古川の今昔/港区)


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「名所江戸百景-広尾ふる川」/歌川広重
四之橋を中央にしたのどかな風景、廣尾はかって水車などもあり古川が流れる静かな田園風景でした。戦災以前(1945年ごろ)までそのまま自然が豊か地域でした。本図は現在ならば、渋谷区広尾と接する天現寺あたりから明治通り渋谷方面を見た構図で160年ほど前の風景が描かれています。歌川広重の名所江戸百景の「廣尾ふる川」に描かれているのはこの四之橋。(古川の今昔/港区)




# by Twalking | 2019-02-01 17:08 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-玄照寺   

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阿形

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吽形
山門脇の狛犬、もしかして彪さんかな・・・??、ちょっとお訪ねしたくなりますね


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阿形

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吽形
こちらは本堂前の狛犬さん、声高らかに歌っているみたい・・・、可愛いですね。

玄照寺/烏山寺町(世田谷区北烏山)
烏山寺町の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27405293/

# by Twalking | 2019-01-30 21:26 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 麻布十番駅   

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麻布十番駅/大江戸線(港区麻布十番)
エスカレーターを何回か乗り継いでやっとホームになります。地上の標高は5m、ホームの深さは約32mとか。お隣の六本木駅は大江戸線では一番深いホーム(深さ42m)ですから、電車も台地上から古川低地へ下ってるんですね。歩けばすぐ分かるのに、地下だと気づかないですね~・・・。


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麻布十番駅
港区麻布十番にある東京メトロ・都営地下鉄の駅である。東京メトロの南北線と都営地下鉄の大江戸線が乗り入れ接続駅となっている。2000(平成12年)営団地下鉄南北線(目黒-溜池山王間)全線開通により開業、12月に都営地下鉄大江戸線(国立競技場-清澄白河-都庁前間)全線開業により乗換駅となる。大江戸線は島式ホーム12線を有する地下駅、改札は地下4階、ホームは地下6階にある。(Wikipedia

# by Twalking | 2019-01-29 23:02 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり麻布狸穴町   

日時 2019.1.24(木)
天気 晴れ


所用があって港区の麻布支所まで出かけました。
支所は鳥居坂上にありますので、ついでに
周辺の坂道を歩いてみました。

外苑東通りの西側は古川への谷になっていて、
坂上が旧飯倉片町、谷側は麻布狸穴町になります。
ここは訪ねて見たかった所、楽しみです。


・・・麻布十番

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街道の風景① 麻布十番から鳥居坂を六本木方向へ向かいます/環状3号線

環状3号線

六本木区間は青山から六本木を経由し芝へ至る区間。並行する外苑東通りのバイパス機能を持つ。1993年に全線開通・供用を開始した。外苑東通りが尾根沿いを走るのに対して当道は谷沿いの低地を走る。都道319号環状三号線に指定されている。Wikipedia


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十番稲荷神社鳥居/麻布十番

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十番稲荷神社
祭神:倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)日本武尊(ヤマトタケルノミコト)宗像三女神
もと末広神社(旧坂下町鎮座)および竹長稲荷神社(旧永坂町鎮座)です。両神社は昭和20415日に戦災に遭い焼失、昭和256月復興土地区画整理により両社境内地を現在地に換地、隣接指定されました。その後両社は合併して社名を十番稲荷神社と改称し、平成9329日現社殿に建て替えられました。

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末広神社由緒
慶長年間(15961615年)に創建され、元禄4年(1691年)には坂下東方雑式に鎮座していましたが、同6年永井伊賀守道敏が寺社奉行の時、坂下町41の社域に遷座されました。往古より境内に多数の柳樹があり、「青柳稲荷」と称されていましたが、後にその中の一樹の枝が繁茂して扇の形をしていたことから「末広の柳」とよばれるようになり、社名に冠されて末広稲荷と称されました。その後、明治204月に末広神社と改称されました。

竹長稲荷神社由緒(たけちょう)
創建は定かではありませんが一説には和銅5年(712年)とも、弘仁13年(822年)に慈覚大師の八咫の神鏡を以て武蔵国豊島群竹千代丘(今の鳥居坂上)へ稲荷大神を勧請したとも伝えられています。延喜式内社の稗田神社と目されており、少なくとも10世紀初頭には鎮座していた古社と考えられます。その後、弘安2年(1279年)に鳥羽氏が社殿を再建、そして寛永元年(1624年)3月に永坂町に遷座されました。(十番稲荷神社HP)


・・・鳥居坂

旧麻布鳥居坂町
東鳥居坂町と鳥居坂町との間の坂が鳥居坂です。これは氷川神社の二ノ鳥居があったためという説もありますが、江戸時代に鳥居丹波守屋敷があったためと思われます。明治5年(1872)に町名を付けるときに坂名をとりましたが、鳥居氏の屋敷の無いほうが麻布鳥居坂町となり、有ったほうが東鳥居坂町となりました(麻布地区の旧町名由来/港区HP)

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坂の風景① 鳥居坂を上ります、坂上には国際文化会館、東洋英和女子学院などがあります

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鳥居坂
江戸時代のなかばまで、坂の東側に大名鳥居家の屋敷があった。元禄年間16881703)ごろ開かれた道である。(標柱)


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国際文化会館(左)
敷地は江戸時代から幕末にかけて多度津藩(現・香川県丸亀市)藩主京極壱岐守の江戸屋敷であったもので、明治初期に井上馨の所有となった。その後、久邇宮(くにのみや)邸、赤星鉄馬邸、岩崎小弥太邸と変遷し戦後は国有地となっていたが、払い下げられ1955年(昭和30年)に開館した。現在の庭園は岩崎小弥太が京都の造園家「植治(うえじ)」こと7代目小川治兵衛に作庭を依頼し、桃山時代あるいは江戸初期初期の名残りを留める近代庭園の傑作として知られている。庭園は2005年(平成17年)に港区の名勝に指定された。Wikipedia抜粋)

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東洋英和女学院
カナダ・メンジスト教会(現在のカナダ合同教会)婦人伝道会社から派遣された宣教師ミス・カートメルによって1884年(明治17麻布鳥居坂に開設された。キリスト教教育を行なうが入学及び教員の着任に際してクリスチャンであることは求められない。女子高として中高一貫教育が行われており高校からの入学者募集は行われていない。てぃばすの通る道路の反対側に港区麻布地区総合支所(旧麻布区役所)が位置する。Wikipedia

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・・・六本木

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街道の風景② 外苑東通りに出て、東側の谷へ下ります/六本木5付近


外苑東通り

新宿区早稲田鶴巻町交差点(新目白通り交点)から、港区麻布台の飯倉交差点(国道1号交点)に至る道路の通称である。全線が都道319号環状3号線に属しており、神宮外苑の東側を通ることから「外苑東通り」と命名された。港区青山一丁目交差点(国道246号交点)の南側で環状3号線に接続する。新宿区弁天町から新宿区市ヶ谷仲之町の間にかけては片側一車線であり、渋滞が激しいため拡幅事業中である。(Wikipedia

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坂の風景② 坂途中には共同墓地があります、南へ登ります丹波谷坂/六本木

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丹波谷坂
元和年間旗本岡部丹波守の屋敷ができ、坂下を丹波谷といった。明治初年この坂を開き、谷の名から坂の名称とした。(標柱)


・・・永坂

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旧麻布永坂町
町の北の方に「長い坂」があるので永坂町と呼ばれるようになりましたが、長坂氏の居住地があったのが由来という説もあります。東京の坂道の名で一番古く記録にあるのは上野の車坂ですが、その次はこの永坂で明暦3年(1657)の『新添江戸之図(しんてんえどのず)』という江戸初期の地図に「なか坂」(昔は濁点を省略した)と書いてあります。(麻布地域の旧町名由来/港区HP)

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坂の風景③ 標柱は旧道に建ちます、下ると麻布十番(一之橋)です

永坂
麻布台上から十番へ下る長い坂であったためにいう。長坂氏が付近に住んでいたともいうが、その確証はえられていない。(標柱)


・・・麻布台

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街道の風景③ 麻布通りを横断します、西側は谷になっています/飯倉片町

麻布通り(415号)
六本木二丁目交差点-古川橋交差点間に「麻布通り」の名が付与されている。これは港区により命名され2014年に都から承諾を受けたものだが、戦後に整備された比較的新しい道路なので広く周知された通称名は特に存在しない。旧来のものとしては道往寺前-伊皿子交差点間に伊皿子坂、魚籃坂下交差点-伊皿子交差点間に魚籃坂、一の橋交差点-飯倉片町交差点間の長い坂に永坂という名称が付いている程度である。Wikipedia

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飯倉片町
飯倉というのは古くからある地名です。昔伊勢神宮の直轄領である屯倉(みやけ)(役所・倉・水田を含む)を置いた跡なのでこの名が起こったといわれています。飯倉片町の起立の時期については飯倉町各丁と同じ頃のようです。「江戸図」には延宝2年(1674)町屋としてみえており、このころから片町と呼んだらしく片側町であったため飯倉片町というようになりました。(麻布地域の旧町名由来/港区HP)


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外務省飯倉公館
首脳会談や外相会談のほか各種会議やレセプションなどの交流活動にも利用されている。吉田五十八の設計で1971年(昭和46)に完成。所在地は港区麻布台1丁目53号だが、名称に冠した「飯倉」はこの地の歴史的名称「飯倉町」に由来する。また江戸時代の幕末期の開国以来の外交資料を保管し展示する外交史料館を併設している。近傍には旧事務次官公邸だった麻布台別館もある。(Wikipedia


・・・麻布狸穴町

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麻布狸穴町(まみあなちょう)
かつては飯倉村と呼ばれていましたが、江戸時代以降おいおい町並みとなり飯倉狸穴町というようになりました。狸穴の地名の由来は諸説ありますが谷あいの土地で古くより木立も繁り魔魅(まみ)(今日の動物学上ではアナグマとされており、タヌキと混同されたこともあったといいます)も住んでいそうな場所であったためと言われています。また、荻生徂徠(儒学者・16661728)は採金、すなわち「まぶ」のなまりとし、享保6年(1721)ごろ黄金のような砂がでましたが、まだ年のたらぬ金だといって掘らなかったと言っています(これは黄色の雲母(鉱物の一種)ではないかと想像されています)。この説は独特のものです(麻布地域の旧町名由来/港区HP)

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坂の風景④ ロシア大使館脇から古川方向へ下ります/麻布台

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狸穴坂(まみあなざか)
まみとは雌ダヌキ・ムササビまたはアナグマの類で、昔そのまぶ)が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。(標柱)









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右手がロシア大使館          坂下から麻布台を望みます

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坂下に狸穴公園があります

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園内には狸穴大明神が祀られています、「狸」じゃなくて狐さんですね・・・・

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街道の風景④ 麻布十番に戻りまた、左にカーブするのが明治通り、右に登るのが麻布通りです/新一ノ橋

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麻布十番周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(橙:中原街道 黄:六本木通り・麻布通り・外苑東通り・明治通り 青:古川)

麻布十番周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22181592/


・・・・
資料ファイル


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麻布区
麻布区は港区の前身(東京市野の行政区)の1つである。1878年(明治11)に郡区町村編成法が施行され、東京府域が156郡に区画分けされた際に発足した。その範囲は今日「麻布」を名前に含む町すべて(麻布十番・麻布台・南麻布など8町)と六本木一丁目~六丁目の町域にほぼ一致する。1947年(昭和22)に港区が発足し麻布区は消滅。この際、旧麻布区域のすべての町名には「麻布」を冠する町名に変更がなされたため(一例、「六本木町」を「麻布六本木町」に変更)住居表示の実施による町名町域統合が行われるまで、麻布地区一帯には「麻布○○町」といった町名が41存在した。麻布永坂町に住む松山善三と麻布狸穴町に住む澤博士の両者の運動により麻布永坂町麻布狸穴町の地名だけが変わらず今日に残っている(ただし両町とも約半分の面積に割譲)Wikipedia)
図:港区等高線マップ(部分)/港区郷土歴史館


# by Twalking | 2019-01-28 22:45 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夕陽   

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多摩センター北口通り/多摩市落合
西陽になが~い影、
少し陽が長くなったかな~・・・、
冷え込みが厳しそうです、ご自愛くださいませ。

# by Twalking | 2019-01-28 22:11 | ○たま-2019

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 フクロウ   

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港区郷土歴史館/港区白金
おめめパッチリで可愛らしいこと、それに
「森の物知り博士」て言われてるから賢こそう、
剥製ですが、生きているみたいですね~。


フクロウ
(梟)
夜行性であるため人目に触れる機会は少ないが、その知名度は高く「森の物知り博士」「森の哲学者」などとして人間に親しまれている。全長は50-62cm、翼開長は94-110 cm、尾長は22-25 cm。上面は褐色の羽毛で覆われ濃褐色や灰色、白い斑紋が入る。下面は白い羽毛で被われ褐色の縦縞が入る。平たいお面のような顔で、頭は丸くて大きい。目は大きく暗闇でも物がよく見えるように眼球が大きく発達し、眼球とまぶたの間に半透明の瞬膜があり、日中は眼球を覆い網膜を保護する。目は他の種類の鳥が頭部の側面にあるのに対して、人間と同じように頭部の前面に横に並んでいる。Wikipedia


# by Twalking | 2019-01-27 22:31 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 標本-ミンククジラ   

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港区歴郷土歴史館/港区白金
「遺跡で出たんですか???」と伺いましたら
宮城県沖で捕れて、標本館に保存されていたものとか、
デンと飾られているので目を引きますが、小さい部類だそうです。


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ミンククジラ(ナガスクジラ科)
宮城県鮎川で捕獲されたクジラで、東京慈恵会大学の標本館に収蔵されていましたが、平成10年(1998)に寄贈されました。ミンククジラは歯のかわりにヒゲを持つクジラの中まで、ほぼ世界中の海に生息しています。体長は9m前後になります。ナガスクジラ科の中では最も小さいクジラです。(説明板)写真:クジラのヒゲ


# by Twalking | 2019-01-27 19:09 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ステンドグラス   

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港区郷土歴史館/ゆかしの杜(港区白金台)
丁度、西日が射し込んで美しく輝いていました。旧東海道の札の辻(港区三田)近くにあった浅野総一郎邸にあったもの。その後、芝浜中学に受け継がれ、校舎建替えの時に不要となりこちらへ保存されたものだそうです。


ステンドグラス
(stained glass)
エ字形の断面を持つ鉛のリムを用いて着色ガラスの小片を結合し、絵や模様を表現したもの。ガラスに金属酸化物を混入することで着色している。キリスト教や西洋館の窓の装飾に多く用いられる。外部からの透過光で見るため人の目に非常に美しく映る。装飾を否定するモダニズム建築全盛の時期になるとあまり用いられなくなったが、今日では再びステンドグラスが見直され公共建築、住宅、教会堂などに採用されている。ガラス工芸としてランプの傘などにも用いられる。日本では近代建築とともにステンドグラスの技法が伝えられた。素朴なものでは長崎市にある大浦天主堂(国宝)のステンドグラスがある。Wikipedia


# by Twalking | 2019-01-25 22:21 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 烏山川緑道(世田谷区)01-源流域~船橋   

日時 2019.1.16(水)
天気 晴れ


烏山川は高校の校庭脇を流れていましたし、
通学路なので橋も渡っていました。
現在は緑道となっていて流れはありません。

高源院の鴨池が源流の一つなので、ついでに
どんな感じな・・・と流路を辿ってみました。
史跡や古刹もあるので楽しめそうですよ~。


・・・北烏山(源流域)

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川の風景① この鴨池が烏山川の源流域一つです、ここから南へ下ります/高源院

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烏山寺町
この地は水利に恵まれ地下水に富み、地元の人の話では井戸水を柄杓で汲めるほどであったという。烏山の地は海抜約45台地で、北から東南部にかけては烏山川(高源院の鴨池を水源とする)と烏山用水(玉川上水の分流)が流れ、西北部から南東には戸越用水(品川用水)が流れていた。西には水無川という川もあり、これらの川付近の低地は水田となっていた。高源院の鴨池はもともと「亀の子出井」(かめのこでい)と呼ばれていた湧水で年中水が涸れず水位は井の頭池と同じであるといわれる。Wikipedia

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川の風景②「昔はどぶ川が流れてました」と地元の方、これが川筋のようです

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フェンスで行けませんが鴨池方向です  寺町の裏側を流れていたようです

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川の風景③ 烏山団地の中を南へ進みます/松葉通り

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中央道を越えます           橋跡があるようですが???/甲州街道

烏山寺町の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27405293/


・・・旧甲州街道

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川の風景④ 下谷の前後に流路跡がありますが「大橋場跡」に橋があったようです/下宿バス停(旧甲州街道)

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手前の流路              大橋場跡の流路 

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大橋場跡 親柱に「武州千歳村大橋場跡」とあり、脇には「下山地蔵尊」が建っています

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フェンス先              京王線で行き止まり


・・・南烏山

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烏山川
世田谷区北烏山付近に源を発し南東へ流れ、同区三宿付近北沢川と合流して目黒川となる。流路延長は11.70km。世田谷区北烏山にある高源院弁財天堂の池が源流の1つ。1970年以降、ほぼ全面的に暗渠化されほとんどが下水道(烏山幹線)へ転用された。近年は暗渠部の緑道化が進められ「烏山川緑道」と呼ばれている。八幡山3丁目・都営八幡山アパート付近には環八通りに沿って廃用になった開渠が遺る。水は流れていない。Wikipedia)(南烏山付近マップ 緑:烏山川緑道 橙:旧甲州街道 紫:滝坂道)
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烏山念仏堂 京王線を渡った烏山川の右岸に念仏堂、烏山神社があります/南烏山

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武州烏山村念仏堂・薬師堂略縁起
念仏堂・薬師堂の歴史は古く室町時代(足利幕府のころ)世田谷領主・吉良氏に、徳川時代には江戸幕府に関わりを持ちつつ明治の新しい時代を迎え、明治5年(1872)学制発布されると翌6烏山小学校の前身「温知学舎」がこの地に誕生しました。室町時代、旧烏山村はじめ世田谷全域、深大寺を含む調布市、三鷹市南部、狛江市、多摩川の向こうの川崎市など広い地域を納めていたのが、足利将軍家の一族世田谷(東条)吉良氏です。初代・吉良治家は世田谷豪徳寺つづきの東南の舌状台地に居城(世田谷城)を構え世田谷郷を領有したのが、永和年(1376)の頃と文献に見えます。その後、4代領主・吉良右京大夫頼高菩提寺として、また世田谷城北西の備えとして烏山村の南端に「栴澤寺」(せんたくじ)を開創しました。六代成高(しげたか)の頃です。この地域は世田谷城から約3km余、台地続きで往来に便利でした。

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栴澤寺(泉沢寺)は浄土宗・頼高法名(戒名)は泉沢寺殿船運光大禅定門です。時に延徳3年(1491)。実は4代頼高、5代政忠父子は永享の乱に関わり、室町幕府より世田谷領は没収され父子は厳重蟄居を命ぜられなど不運の領主でした。6成高の代に至り再び世田谷領は吉良氏に与えられるというプロセスがあります。泉沢寺は七堂伽藍を整え、吉良氏創立寺院中最高の格式を誇ったと伝えています。寺域は烏山神社から南側一帯で、寺領として旧甲州街道の南側全域、粕谷・廻沢にまで及んでいました。泉沢寺の開山と同時に寺領は烏山村から独立して荏原郡泉沢寺村に行政替えとなり江戸初期まで続きました。寺の運営にあたり烏山近郷領民のすべてが領主の命により泉沢寺の信仰集団(未だ檀家制度なし)に組み込まれ、厳しい奉仕活動を余儀なくされたため村から逃げ出す領民もいました。然し、開山から約60年を経た天文1815492月、第5世心誉住職の代に失火のため全山悉く灰燼に帰したことは誠に悔しい限りです。かくて5世心誉上人は泉沢村に土着されたと古老は伝えています。

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時の領主7吉良頼康は烏山村に再建することなく川崎市中原区上田中の現在地に移転し、現存する名刹です。泉沢寺は江戸時代を通じ20石の朱印寺です。泉沢寺移転の後、荒野となった地域には泉沢寺の守護神・白山社の祠と古い時代から存在した薬師堂が隆盛を極めた寺の盛衰を達観してきました。近郷村民はこのお薬師さんに無病息災、健康長寿を祈願してまいりました。ご本尊の薬師瑠璃光如来立像は室町時代後期の作と伝え貴重な仏像で霊験あらたかでありがたいお薬師さんと多くのみなさんから大層崇敬されております。徳川時代後期に刊行された新編武蔵風土記稿に「薬師堂・除地56歩、甲州街道より南、小名泉沢寺にあり、堂4間に4間半、本尊薬師は木仏にて長さ15寸、もとよりわずかなる堂なれば、いつの頃の草創なりと伝うことも伝えず」と記され、現存の薬師如来立像がそれであります。(念仏堂・薬師堂世話人一同 本寺・西向薬師医王院)

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釈迦涅槃石像(釈迦如来入滅の姿)
この石造は江戸時代中期から後期のものと伝え、東京都内で唯一体という貴重な文化財であります。お顔は童顔で柔和、拝者に光と希望をお与えくださる有難い御仏です。この尊像には建立寄進者名が刻字され昭和初期に判読できたと伝えています。また、泉沢寺跡付近から永徳元年(1381)明徳年間、他の板碑も出土しております。(念仏堂・薬師堂世話人一同 本寺・西向薬師医王院)

泉沢寺(川崎市中原区上田中の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22251172/

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烏山神社鳥居

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烏山神社
祭神は白山比咩大神・御嶽大神・天照皇大神・倉稲魂命・菅原道真公、創立および古代の縁由については不詳でみるが、元文元丙辰年9(1736)吉祥日と記載された手水鉢あり、これより以前であることは推察できよう。それ以後については社史によると天保3年大嵐により社殿大破したため改築、明治6年には村社に列せられて大正7年現今の社殿が新築された。さらに昭和7年には社号白山神社白山御獄神社と改称することになり、昭社29年には宗教法人法による登記を完了した。次いで昭和37年には町内天神社・神明社・稲荷社を合併して烏山神社と改称し39年に神楽殿を改め新築して今日に至っている。

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この神社は古くから村の鎮守として、旧千歳村の中では最大の氏子数をもち村の崇敬を集めていた。今日でも祭儀として例大祭が924日、春祭224日、秋祭1124日、月次祭毎月15日、元旦祭11日、初午祭2月初午日、神明祭311日、天神祭4月25日とにぎやかに行なわれている。「新編武蔵国風土記稿」によると「除地三段ニ畝ニ歩、小名泉沢寺ノ並ニアリ。村ノ鎮守ナリ。本社六尺四方。南向。拝殿ニ間ニ三間。神体白幣ヲ建ツ。社ノ廻リニ松杉ノ類村立リ。鎮座ノ初ヲ詳ニセズ。上高井戸村医王寺ノ持とある。なお合記された三社についてであるが、天神社は祭神は菅原道真公で烏山町713番地にあったものであり、神明社は祭神は天照皇大神で鳥山町913番地にあったものである。稲荷社については鳥山町にあった2社(いずれも祭神は倉稲魂命)のうち杉田一族の稲荷の方が合記された。他に志村稲荷といって志村一族によって祭られていた穏蒋は現在鳥山持社の境内におかれている。(せたがや社寺と史跡)

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高橋番神堂撤去記念碑
高橋一族は戦国時代に伊豆雲見城より当地に移り住み、一族の守護神として三十番神様を南烏山二丁目274番地に勧請す。爾来星霜を重ねる事四百年今度の都市計画整理地に当り昭和60417日に諸神それぞれの御本宮に御帰りを願う祭を修して後、御堂を撤去し当烏山神社境内に記念の調を記す。昭和607月吉日建立(碑文)

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高橋氏高
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏家臣。永正6年(1509)伊豆国雲見上ノ山城にて誕生する。・天文31534)扇谷上杉家臣の難波田善銀(なんばだ)が守る武蔵国多東群深大寺城を攻略した。その後、兄の綱高と共に深大寺城奪回に押し寄せた難波田善銀率いる扇谷上杉軍と対峙した。この時に武蔵野烏山を築く。その間に北条氏綱が河越城へ進軍したため、難波田勢が撤退を始めるとそれを追撃。多くの敵兵を討ち取り大勝した。・天正181590年)の小田原征伐では、氏直の命により吉良氏の兵600人を率いて伊豆国下田城に検使役・援軍として籠城する。3月に小田原城が落城したため氏直に従い随行者として高野山に入山。氏直の死後、帰郷し武州烏山に住した。Wikipedia抜粋)

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川の風景⑤ 千歳通りを越えると緑道が付いています、左が世田谷文学館、右後方が烏山神社です/南烏山

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世田谷文学館
世田谷区南烏山にある博物館施設である。1995年に東京23区初の近代総合文学館として開館した。運営は公益財団法人せたがや文化財団。環八通りと蘆花恒春園の近くに位置し、ウテナ創設者久保政吉旧邸宅に隣接して建てられた。(Wikipedia

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芦花翠風邸
お隣は久保雅吉の旧邸でしたが、現在は高級老人ホームになっています。






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・・・八幡山

中世には
鍛冶山と呼ばれた。1553年(天文22年)吉良頼康から大平静九郎に「かち山」が与えられた文書が残る。江戸時代には当初は天領だったが、1633年(寛永10年)に彦根藩井伊氏領となった。村南部は藩の御林となり薪炭が採取された。八幡山遺跡からは江戸時代初期の炭焼窯跡が発掘されている。慶安年間、船橋村より移住した島田五兵衛が当地を開拓し八幡山村が成立した。1889年(明治22年)北多摩郡千歳村の大字となる。村内にあった八幡神社が由来といわれるが定かではない。一般的には一丁目の八幡神社が由来の神社とされている。(Wikipedia

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川の風景⑥ 環八に沿って左側に緑道が続きます/八幡山

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横断歩道手前に案内板         環八沿いの旧流路跡

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川の風景⑦緑道を進むと八幡山遺跡の案内板があります

d0183387_15051767.jpg八幡山遺跡
豊かな水と緑に恵まれた世田谷区は関東平野南西部に拡がっている武蔵野台地の南東部に位置し、埋蔵文化財(遺跡)の宝庫でもありその数は東京23区内でも最も多い28ヶ所以上にも及んでいます。その中でも武蔵野台地の内部を流れる小河川沿いにも先土器時代や縄文時代を中心とした遺跡が多数発掘されたいます。八幡山遺跡も小河川の一つである烏山川(北烏山4丁目にある高源院から武蔵野面を刻んで東南に流れている)の左岸の台地に位置し、縄文時代中期の集落や江戸時代の炭焼窯等が調査されました。この調査で遺構(住居跡・小竪穴・土杭・ピット)や遺物(土器・石器・土製品)等が発掘されました。(碑文)

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滝坂道で通った所です         この先希望丘公園を左折します

滝坂道(八幡山)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/22902123/


・・・船橋

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船橋は世田谷区中西部に位置し砧地域に属する。東で経堂、南で桜丘、環八通りを境に西で祖師谷、北で粕谷、桜上水、八幡山、上北沢と隣接する。小田急線千歳船橋駅北側、環八通りの東側にあり、同駅周辺や道沿いには商店が見られる。南北に細長い形をしており南端の一丁目から北端の七丁目まで数字順に並ぶ。船橋の地名は文字通りかつてこの辺りは湿地帯で「船橋」をかけて交通の便を図ったことに由来する。
Wikipedia

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川の風景⑧ 希望丘公園の先まちかど図書館から緑道が続いています/希望丘通り先

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梶山橋/まちかど図書館前        本村橋を潜ります

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希望丘小の横を通ります        荒玉水道道路を横断

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川の風景⑨この先緑道は続きますが、観音堂を経由して千歳船橋駅に向かいます/千歳が丘高下

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船橋観音堂

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船橋観音堂
当観音堂の由緒を常徳院開山伝承、世田谷城名残常盤記、等文献に依て顧みるに、480有余年前延徳・明応の頃、船橋草奔の地穴山と呼ぶ所に世田谷領主・吉良氏家臣内海鈴木等の菩提所・浄徳庵と云う小庵あり。此庵嘗て足利義尚公武蔵国に下向の折ゆかりある故を以て明応年代、領主・吉良成高公世田谷城の守護となさんと多摩郡二俣尾海禅寺より益芝正謙和尚を迎え、寺名を常徳院と改め吉良家一寺に取立開山し、居城側近宮之坂に移動し給う。茲に於て吉良氏仏堂を船橋に存置し、旧浄徳庵檀徒領民等宣撫の要あり故に浄徳庵旧跡南方至近の地をとし一宇を建立して聖観世音菩薩を祀る。是れ当観音堂の創始と云う。本尊安置の御堂造り厨子扉に吉良家恩賜の菊桐の定紋あるは此の由縁を思惟す。自来戦乱の幾星霜を経て江戸時代宝暦113月及び聖代昭和1112月両度本堂再建の儀あり。而して方今本堂破損甚しく今年6月補修を施し宝性寺上田龍憲和尚を導師として本尊供養を厳修す。(説明板)

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船橋橋観音堂厨子
船橋観音堂の創建について伝承では15世紀後半に吉良成高が船橋にあった浄徳庵を宮坂へ移し常徳院とした代わりとして、観音堂を現在地に創ったといわれています。堂内に納められている厨子の扉に十六葉菊と五三の桐の家紋をかたどった飾りが付けられていることからも、船橋観音堂と世田谷吉良家、常徳院の関係が古くから指摘されています。この厨子の建立年代を知る資料は現在のところ発見されていませんが、各部の彫刻絵様から判断すると江戸時代中期の建立と推定されます。地域の歴史や文化を知るうえで貴重な建造物です。世田谷区登録有形文化財(建造物)非公開(世田谷区HP)

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烏山川緑道周辺地図明治39年(今昔マップ/埼玉大学教養学部・谷謙二氏を参照)
(青:烏山川・北沢川・玉川上水 橙:旧甲州街道 紫:滝山道 緑:鎌倉道



・・・資料ファイル

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ふなばし歴史散歩案内板(緑:烏山川緑道橙:鎌倉道赤角:千歳船橋駅赤丸:船橋観音堂・千歳が丘高校)

遺跡関係(赤丸)①船橋本村北遺跡 ②千歳遺跡 ③本村南部遺跡
湧水関係(青丸
⑦~⑬)
昭和20年代初期(1945~)船橋には少なくとも7つの湧水があり烏山川(谷戸川)へ流れていた。弁天橋の祠に祀らていた弁天さまが近くの民家の庭先の祠に今も祀られている。弁天橋そばには弁天滝と呼ばれる湧水をたたえた池があり、ザリガニやフナ等子供たちの遊び相手が棲んでいた。

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船橋観音堂前             千歳船橋駅への道

鎌倉道(茶丸④:橙)
今も世田谷に名を残す鎌倉道は、鎌倉から下総奥州へ通ずる鎌倉時代の主要な道であった。現在の千歳船橋駅東側から船橋観音堂横を通り希望丘小学校方面へと続く道が鎌倉道の一部であったという記録が残っている。地図上の鎌倉道の道路は文献史料を基に現在の道に読み変えて示している。

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高校の松と高射砲陣地(⑥)
第二次世界大戦中千歳船橋高校グランドから穴山にかけての一帯は旧陸軍が使用していた。校庭内の松が残る台地と穴山の高台には高射砲陣地があったという。(案内板より)

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千歳船橋駅周辺地図明治39年(今昔マップ/埼玉大学教養学部・谷謙二氏を参照)


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船橋
船橋という名の由来についてはいくつかの説があります。その一つは昔多摩川の蛇行する川岸に集落があって、多摩川を住民が渡るために船橋を架けたことから名がついたと言われるものです。この船橋というのは船や材木など水に浮くものを水面に並べてつなぎその上に板を渡した浮き橋のこと、または両岸から綱を張ってその綱を伝わって動かす(いかだ)のことでした。また別の考え方ではずっと昔には烏山川を含む周辺一帯に幅200m、長さ1800mくらいの大きな池があったのではないかとされ、そこに船橋が架けられていたと見る説です。そしてその橋の位置は今の希望丘橋のあたりで、この船橋を通る道は古い鎌倉街道の一つだったであろうといわれています。この幻の船橋の池と考えられるところはかつての水田地帯だった場所で、長い間に池は徐々に湿地帯となって水田に利用されたのではないかといわれています。またもう一節は佐野景綱という豪族の子の船橋春綱という人が下野の国に住んでいて、その子孫にあたる船橋吉綱の一族が移り住んだので船橋と呼ぶようになったというのですが、それ以上のことは何もわかってはいません。(地名由来/世田谷区HP)(写真:千歳船橋駅前商店街)

# by Twalking | 2019-01-25 13:39 | リバーサイドウオーク(新規)