無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり『中村一族の郷めぐり』01-土屋   

日時 2018.6.14(木)
天気 曇り

大磯丘陵の金目川筋・土屋荘は土屋一族、
七国峠を越えた中村川筋は本家の中村氏の故地です。
ここは訪ねてみようと思っていました。

以前、関東ふれあいの道で土屋付近を歩きましたが、
場所が分からず目的の場所に辿りつけませんでした。
いい機会なので、土屋氏&中村氏の故郷を訪ねて見ました。


・・・南矢名/秦野市

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街道の風景① いつもは通過ですがここからスタート、起点の中村橋へ/小田急線東海大学前駅

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記念碑/東海大学駅前
明治22年(1889)当時の南矢名・北矢名・落幡・下大槻・真田の五か村が合併し「大根村」となり。昭和2年小田原急行鉄道(現小田急電鉄)が開通し、村内に駅を設置するに際して、その名称を「大根駅」とした。駅開設が実現をみたのは、大根村はじめ地域の方々の多大なご協力の賜であり、このたび駅名を「東海大学前」に改称するにあたり、このことを永く後世に伝えるためこの碑を建立する。(小田急電鉄)

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街道の風景② ひとつ丘を越えますが、麓には大根川が流れます/中央橋

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大根川                弘法山、裏側は善波越えの道です

矢倉沢往還善波峠の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26758799/


・・・土屋/平塚市

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街道の風景③ 起点の土屋橋から上流側、丘上は下大槻、秦野・平塚の市境です/金目川

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県道77号を西へ            座禅川はこの先で金目川に合流/観音橋

神奈川県道77号平塚松田線

平塚市南金目から足柄上郡神山に至る県道(主要地方道)である。大磯丘陵を縫うためカーブの多い路線である。Wikipedia

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正蔵院 星峰山観音寺と号する天台宗のお寺です

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本堂                 境内の石仏群

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街道の風景④ ここでも行けますが、この先を右折すると「関東ふれあいの道」の標識があります/庶子分バス停

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寺分バス停              続いて庶子分バス停


・・・土屋氏館跡 
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「関東ふれあいの道」(土屋一族の墓・土屋城址)に従い右折します

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いい坂道です             案内板の右下が墓・館跡です

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案内板から館跡を望みます

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土屋一族供養塔・館跡
土屋一族の墓平安時代後期、中村荘司・宗平3男・宗遠(むねとう)は相州土屋の地の領主としてを構えました。土屋宗遠は治承4年(1180源頼朝の挙兵に参加、鎌倉幕府の成立に貢献し、その子・義清も「随兵役」を勤めるなど頼朝の厚い信頼を受けた武将でした。以来、土屋氏は室町時代の応永23年(1416上杉禅秀の乱で敗走し所領が没収されるまで、土屋の土地を支配しました。「新編相模風土記稿」ではその土屋の館の所在について『宗憲寺境内なりと云し(中略)遺形と覚しき所なし』と記されています。現在「宗憲寺」は存在しませんが、周辺の地理的状況などによりその館は三方に囲まれ、座禅川を配した中世の館として最適な地形を持つ天台宗大乗院に位置する段丘上と推定されています。また、「字大庭」の地名が残る場所では、もののふの館に関する郭状遺構が発見されています。館跡の一郭には「土屋一族の墓」と伝えられる墓域があり、手厚く供養するため地元では「墓前祭」が行われています。なお、土屋は惣領分庶子分寺分と地域区分されますが、これは土屋氏が所領を一族で分割した「土屋三分」によると考えられています。(平塚市教育委員会)

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鎌倉将軍源実朝御歌
『道とほし 腰はふたへに かがるれり 杖にすがりて ここまでも来る
宗遠は90寿の晩苑になっても たびたび鎌倉を訪ね 実朝公に拝謁し 四方屋話で一時を過ごしたと想われる 実朝公はその折々の様子を数種歌に詠じ給うた その一首を碑に刻む(碑文)

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相州土屋始祖・土屋三郎宗遠公一族の供養塔
相州土屋氏の始祖・土屋三郎宗遠公は、桓武平氏中村荘司宗平3として大治3年(1128)相模餘綾郡(ゆるぎぐん)中村(現中井町)に生まれた。長じて武門に志し当大住郡土屋郷に本拠を置き「土屋」の地名を以って屋号(姓)とし、三浦義継を妻とした。一方、土肥郷(現湯河原町)に本拠を置く兄・土肥次郎実平(さねひら)らとともに西相模一帯の強力な一陣営を為し、関東武士団として成長していった。治承4年(11809源頼朝の平家討伐の旗挙げ「石橋山の合戦」から兄・実平らとともに頼朝側近の武将として富士川の合戦、一の谷の合戦、屋島・壇ノ浦の合戦など数多くの戦に出陣し鎌倉幕府樹立に貢献した。以後、宗遠公の後裔は代々鎌倉幕府の要人として仕えたが、専横傍若無尽な執権・北条義時に挑発され兵を挙げ「和田義盛の乱」に組し、土屋次郎義清ほか家の子郎党たちが討死して、土屋氏に動揺が走ったことは否めない。

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宗遠は熊野神社を勧請創建し、大乗院を再建するなど善行に励み幾多の功績を残したが、晩年は時勢の変転していく様相を眺めつつ静かに余生を送り、将軍実朝の邸を訪ね昔物語りなどに時を過ごした。実朝の私家集「金槐和歌集」から宗遠公の当時の様子をうかがい知ることができる。やがて老境に達した宗遠公は空阿と号し、菩提寺として阿弥陀寺(現芳盛寺)を創建した。そして建保6年(12188590歳の高齢でこの世を去った。法名阿弥陀寺殿空阿。
時は移り、室町時代の明徳2年(1391)には威勢盛んな山名氏の脅威を除こうとした室町幕府に対する山名氏清の反乱「明徳の乱」に組みし、12土屋宗貞と郎党50有余人は討死の痛手を受けた。また、応永の度重なる戦乱に勢力を失い、応永23年(1416)には鎌倉公方・足利持氏と不和になった前関東管領・上杉禅秀(氏憲)の乱に組し、戦運を懸けたが敗れ土屋氏の所領小田原大森氏に没収され、この地は大森芳盛のものとなった。
これより当地に栄えた土屋氏は各地へ離散していった。その後、ここ土屋から全国各地へ派生した土屋一族は厳しい戦国の世を切り抜け、江戸時代から明治そして現代へと始祖・宗遠公のその精神を脈々と受け継ぎあらゆる分野で数多くの人材を世に送り出している。ここにおよそ800年の星霜を深い樹木に抱かれた土屋一族の墓は、土屋氏ゆかりの人達に見守られてきた。この一帯は館跡と伝えられ、一族の供養塔もこの一角に散在していた。昭和10年(1935)頃杉林を開墾して畑にした当時、寺分字粟久保の故杉山鐸之助氏を中心に供養塔を現在地に収集移設し現在に至っている。(土屋三郎宗遠公遺跡保存会)

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案内板より一段下ると土屋一族の墓(供養塔)があります

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土屋一族の墓
鎌倉時代の武将で土屋の領主、土屋三郎宗遠を始祖とする土屋一族の墓所と伝える。宗遠は平安時代末期に中村荘司宗平三男として生まれたが、土屋に分岐したので在地名をもって土屋姓を名のり、源頼朝挙兵のときから参加、歴戦し、鎌倉幕府の基礎固めに力を尽くした。のち一族は平家討伐の屋島、一の谷、壇の浦等の戦役にも従軍し戦功をたてた。(環境庁・神奈川県)

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石碑
源頼朝公源氏再光石橋山参陣800年記念
地頭土屋三郎平宗遠公一族之墓苑

浩宮徳仁殿下一行当初見学記念

昭和54912日(碑文)

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その下の平場に土屋氏館跡その下の平場に「土屋氏館跡」の標柱が立ちます

土屋城址
鎌倉時代の御家人で重臣であった土屋三郎宗遠城跡。土屋の丘陵にあって段丘を利用し、南に座禅川をひかえた鎌倉時代初期の形式に属するものである。この地は高陣山と呼ばれこのほかに高見台などがあり、一族縁者が居を構える二宮ノ館真田ノ館岡崎ノ館中村ノ館などに連絡ができる場所でもある。また当時は交通の要衝の地でもあった。(環境庁・神奈川県)

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案内板に戻り、少し上ると丘の上にでます、高陣山でしょうか

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土屋城址と高神山(高陣山)土屋の地形は分水嶺としての丘陵台地で、そこに小高い丘が幾重にも連なり多くの谷戸を形成する自然豊かな丘陵地です。平安時代末期からこの地を治めていた鎌倉幕府御家人・土屋三郎宗遠は字大庭に館を構えていました。土屋一族は鎌倉~室町時代にかけて地の利を生かし、館の裏山一帯を要害として土屋城(陣地)を築いたということから、この一帯を高陣山といいます。(今では字「高神山」という)この土屋城の北面には湿地帯を成す暴れ川といわれる金目川流域が広がり、そこからせり上がる竹林には古井戸・腰郭、熊野神社、大乗院(一説には本丸という)、北東の舌状台地には鉄砲馬場(昭和15年頃までは流鏑馬神事や競馬が奉納された)・のろし台(土屋一族縁者との連絡用)・物見の松・袖坂・木舟神社、南東の段丘台地には土屋一族の館・一族の墓、その南方には湿地帯を挟み座禅川、南西には牢屋、牢坂(堂坂ともいう)・処刑場、水呑地蔵(処刑者の末後の水を飲ませ供養したという供養石仏群)などがあり、城郭としての機能が備わっていたと伝えられています。

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大乗院(天台宗星光山弘宣寺大乗院と号す)の創立会期は宗祖伝教大師と伝えられ、治承年中(平安時代末期1178年こと)宗遠により殿宇再建がなされたといわれています。開山は1200年も前と考えられ、鎮護国家の道場として相模国の中本山となっていました。鎌倉時代以降は度重なる兵災に遭い殿堂は焼失しましたが、至徳3年(1386)中興開山一世圓海法印により再び法灯をかかげ檀林所として興隆しました。天正19年には家康公より石高10石の御朱印を賜り、江戸時代には天台宗相模国の触頭を勤め25ヶ末寺・門信寺を有していました。大乗院の境内に金茂院・大安寺・宝性院・阿弥陀院が、周囲には持宝院・正福寺・宗憲寺がありましたが現在は廃寺となっています。大乗院はその長い歴史の中で幾多の戦禍を被りましたが、「土屋の古刹」として今日まで脈々と受け継がれています。

熊野神社
宗遠が平家追討軍として壇ノ浦の戦い(1185)で参戦し勝利を収め凱旋途中、紀州の熊野権現に参詣しその分霊を蓑に包んで持ち帰り、小熊野の地に奉り尊信したと伝えられる「古社」です。明治初期から昭和20年までは社格が「郷社」として郷内7社が合祀されていました。寺分各集落の神社4社が合祀されており氏子の篤い尊崇を受けています。
この土屋城があった一帯は昭和30年代に開発が急速に進み、今では面影を見ることは出来ません。開発当時は土器等の埋蔵物が出土しましたが、発掘調査はなされておらずその全容は解明されていません。土屋三郎宗遠と土屋一族については「吾妻鏡、平家物語、源平盛衰記」などで当時の様子をうかがい知ることができます。(ふるさと土屋いろはかるた実行委員会)

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鎌倉右大臣実朝御私家集・金槐和歌集(巻下雑部より)
相州の土屋と云ふ所に 年90にあまれるくち法師あり おのづからきたる 昔語などせしついでに 身のたちゐにたえずなむ 成ぬる事を なくなく申て出ぬ 時に老という事を人々に仰せてつかうまらせし次によい待し
『我いくそ 見し世の事を 思い出の あくるほどなき 夜の寝覚に』
『思い出て 夜はすがらに 音をとぞなく 有し昔の 世々のふること』
『中々に老いはほれても 忘れなで などか昔を いとしのぶらむ』
『道とほし 腰はふたへに かがよれり 杖にすがりて ここまでも来る』
『さりともと 思ふ物から 日を経ては しだいしだいに 弱る悲しき』

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大乗院山門


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大乗院
天台宗
延暦寺派の名刹、鎌倉時代の武将で土屋の領主・土屋三郎宗遠堂塔再建したと伝えられる寺院である。往時は多くの末寺をもつ大乗院であったが、お堂の建物は惜しくも第二次世界大戦(昭和20)のとき焼失した。再建後の本堂には瑞光をはなったといわれる阿弥陀如来が難を免れ安置されている。またこの寺は相模西国29番観音霊場でもある。本尊:阿弥陀如来 中興開基:圓海(環境庁・神奈川県)

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熊野神社鳥居/土屋

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土屋熊野神社
伊邪那美命 与母津事解之男命 速玉之男命 十二社柱大神 造化二柱大神
「往昔邑人某、南紀熊野神社に詣で分霊を請い、途中覆ふに其の破れる所の蓑を以てし、帰り来てに勧請せり。」と。その後、健中年中(11901199年)「土屋三郎宗遠当村を所領せる際、其の4男・宗光なるもの現在の社地に遷せり。是れ字名に庶子分小熊等の名称ある所以なり」との記録がある。新編相模風土記に「天正19年(1591)家康より社嶺高五石の地を寄附せられ、御朱印を賜う。元和4年(16199月修造の棟札あり。神木の杉、囲一丈二尺ありき」と記載されている。明治維新の際上地した。明治6730日郷社に列せられた。(神奈川県神社誌)

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街道の風景⑤ 立派な長屋門のお屋敷ですね・・・、旧道でしょうか/熊野神社先

岡崎氏館跡の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26676354/
真田氏館跡の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26693660/


・・・遠藤原

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街道の風景⑥ 小熊集落を抜けると広い平原「遠藤原」です、弘法山&丹沢山地の展望が雄大です/遠藤原

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「七国峠・遠藤原」の標識       標識近くの石仏群

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街道の風景⑦ バス通りを尻目に畑の農道を上ります

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遠藤原バス停先を左折         自治会館前バス停を右折

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街道の風景⑧ 県道を七国峠へ向かいます/琵琶入口

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芳盛寺山門/土屋

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芳盛寺
土屋山無量寿院芳盛寺は、現在は真言宗の寺院です。土屋三郎宗遠が自らの菩提寺として建仁41204)に戦の守り本尊阿弥陀如来を祀り、阿弥陀寺と号したのが始まりです。開基は退耕行勇上人で、鎌倉幕府の三代の将軍と親交のあった高僧です。恵心僧都作と伝えられる本尊の阿弥陀如来(秘仏)の他に空海の画像(市指定重要文化財)などの寺宝が伝えられており歴史の古さを物語っています。鎌倉時代には相模、武蔵、伊豆の三つの国の僧が集い修行をする壇林所(修行道場)として栄えました。また、この寺の石段の下を流れる川が「座禅川」と名付けられたのは川の畔で修行僧座禅をしていたことに由来すると伝えられています。応永年間になると関東公方足利氏満が中興して、高野山の末寺になり無量寿院阿弥陀寺となりました。その後、応永23年に関東管領・足利持氏に対して反乱を起こした関東公方足利氏憲に味方した土屋一族は、領地を取り上げられその勢力は衰えてしまいました。足利氏は土屋氏の所領を小田原の大森式部大輔芳盛に与えたため、芳盛は阿弥陀寺を菩提寺としその寺号を芳盛寺と改めました。(ふるさと土屋さんHP)

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僧空海画
絹本着色 総縦188cm 同横73cm 画面縦100.5cm 同横50.5cm
当画像の箱書には「真如親王御筆」となっているが、真如法親王は平安時代(800年代)の人である。画法・絵絹、画像右上方に書かれた替文の書風など絵全体の歴史的作風から類推すると室町時代(14世紀後半ないし15世紀前半)の作と思われる。平塚市内に存在する仏画としては最古の作品であり、また画としての品格も備え、芳盛寺に伝承秘蔵された由緒等も明確であり、市にとっても貴重な文化財である(平塚市教育委員会)

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門前を流れる座禅川、上流域にあたります

座禅川
(ざぜんかわ)
平塚市を流れる金目川水系の二級河川。本流に尼ヶ滝、支流に駒ヶ滝(清滝)がある。神奈川県平塚市土屋の七国峠付近に源を発し、平塚市南金目で三笠川を合わせ金目川に合流する。Wikipedia

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街道の風景⑨芳盛寺先から七国峠へ向かいます


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ふるさと土屋マップ/ふるさと土屋さんHP
(赤:歩行ルート 橙:県道77号 緑:小田原みち 黄:七国峠・遠藤原のみち 青:金目川・座禅川)

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コース地図(東海大萼前駅~井ノ口)
(赤点線:歩行ルート 緑:矢倉沢往還 橙点線:羽根尾通り大山道 赤角:東海大前駅・七国峠・井ノ口)

# by Twalking | 2018-06-18 10:49 | 古東海道関連(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 クチナシ   

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クチナシ
大乗院/平塚市土屋
八重はみなれてるけど
クチナシさんかな・・・??
きっそそうだね~。


クチナシ
(梔子、巵子、支子)

アカネ科クチナシ属の常緑低木である。野生では森林の低木として自生するがむしろ園芸用として栽培されることが多い。果実が熟しても割れないため「口無し」という和名の由来となっている説もある。他にはクチナワナシ(クチナワ=ヘビのこと、ナシ=果実のなる木、よってヘビくらいしか食べない果実をつける木という意味)からクチナシに変化したという説もある。樹高1-3 mほどの低木。葉は対生で時に三輪生となり、長楕円形、時にやや倒卵形を帯び長さ5-12cm、表面に強いつやがある。花期は6-7月で、葉腋から短い柄を出し一個ずつ花を咲かせる。花弁は基部が筒状で、先は大きく6に分かれ、開花当初は白色だが、徐々に黄色に変わっていく。花には強い芳香があり学名の種名jasminoides は「ジャスミンのような」という意味がある。Wikipedia


# by Twalking | 2018-06-16 15:12 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 梅の実?   

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多摩市愛宕
ぽつりと一粒、うめさん?
おっこっちゃったね・・・
大丈夫だったかな~。

# by Twalking | 2018-06-16 13:12

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-室生神社   

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阿形


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吽形

室生神社/山北町山北
広い境内にちょこんと鎮座、
小粒でも迫力は十分、
なかなかユニークな狛犬さんです。

# by Twalking | 2018-06-15 21:28 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 アジサイ   

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豊ヶ丘北公園/多摩市豊ヶ丘
う~ん、美しい!
背が高いので下から・・・
なんだか新鮮な感じです。

# by Twalking | 2018-06-15 10:08 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海大学前駅   

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東海大学前駅/小田急線(秦野市南大谷)
いつもは通過ですが初めて降りました。
通学帯は学生さんで混雑するので
その少し前に・・・、座れました。


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東海大学前駅
秦野市南矢名一丁目にある小田急電鉄小田原線の駅。秦野市に所在するが秦野盆地の外側に位置しており平塚市との市境が近い。東海大学湘南キャンパスの最寄り駅である。当駅の開設時は中郡大根村に位置していたことから大根駅と名付けられた。その後も付近一帯(北矢名・南矢名・下大槻・鶴巻)は大根地区と呼ばれている。後年、当駅から1km弱のところに東海大学湘南キャンパスが開設され東海大学前駅に改称された。また、その際地元住民の働き掛けで、旧駅名である「大根」という地名のいわれを後世に伝えるための石碑が駅前に設置されたWikipedia

# by Twalking | 2018-06-15 09:50 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ロマンスカーふじさん   

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ふじさん
新百合ヶ丘駅/川崎市麻生区
通勤ラッシュ前ですが、
朝早くから運行してるんですね。
新百合にも停車なので一枚、パチリ。


# by Twalking | 2018-06-14 21:45 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 D5270-山北鉄道公園   

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D5270
山北機関区跡/山北鉄道公園(山北駅)
かつて御殿場線で使われていた蒸気機関車、
鉄道公園に保存されているいます。
子供の頃、東海道線で乗った記憶がありますね・・・。



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D52形蒸気機関車
日本国有鉄道(国鉄、製造時は鉄道省)の貨物用テンダー式蒸気機関車である。
D52 70』:神奈川県足柄上郡山北町「山北鉄道公園」(山北駅前)に保存されている。20163月、圧縮空気による動態運行が可能な状態に整備され、同年1014日の「D52 奇跡の復活祭」にて10数m自走した。動態運行は定期的な運行が予定されている。復元と稼動に中心的な役割を担っていた国鉄OBが直後に急逝し次回の運行を中止すると報じられたが、役割については国鉄OBと交流があった男性に引き継がれている。有火ではないものの自走可能な唯一のD52である。Wikipedia


# by Twalking | 2018-06-13 22:38 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 あした天気にな~れ!   

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豊ヶ丘スクールロード/多摩市豊ヶ丘
あした天気にな~れ!
叶うといいね~、お嬢ちゃん。
みんな、気をつけてお帰り~。


# by Twalking | 2018-06-13 19:47 | ○walk

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 御殿場線   

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御殿場線/山北町萩原
出でてはくぐるトンネルの 前後は山北小山駅 
   今も忘れぬ鉄橋の 下ゆく水のおもしろさ♪♪

昔の東海道本線ですね・・・、
山北-小山間のトンネルは8ヶ所、
酒匂川(鮎沢川)の鉄橋は4ヶ所とか、
箱根外輪山を左に、峠を越えて見る富士の風景
車窓から見てみたいですね~!


御殿場線

小田原市の国府津駅から御殿場市の御殿場駅を経て沼津市の沼津駅に至るJR東海の鉄道路線(幹線)である。1889年(明治22年)に東京-大阪間を結ぶ鉄道(1909年に東海道本線と命名)の一部として開業し、複線化も行われていたが、1934年(昭和9年)の丹那トンネル(総延長7804m)開通に伴い、東海道本線は熱海駅経由に変更され、国府津駅-沼津駅間は支線の御殿場線となった。なお鉄道唱歌の歌詞は丹那トンネル開通前に発表されたため、国府津駅-沼津駅間が現在の御殿場線経由となっている。路線距離(営業距離):60.2km駅数:19(起終点駅含む)Wikipedia


# by Twalking | 2018-06-13 13:00 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 果樹-ビワ   

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琵琶/山北町向原
ビワの実がたわわに、
しばらくご無沙汰だったような、
お土産に探してみるかな・・・。


ビワ
(枇杷)

バラ科の常緑高木。原産は中国南西部で、日本では四国、九州に自生し多くは果樹として栽培される。樹高は10mほどになる。葉は濃い緑色で大きく長い楕円形をしており、表面にはつやがあり裏には産毛がある。そして、その大きな葉陰に楽器の琵琶に似た形をした一口大の多くの甘い実がなり、黄橙色に熟す。語源はの形やの形が楽器琵琶に似ているからとされる。日本においては梅雨のころに実がなるため、「枇杷」及び「枇杷の実」は仲夏の季語とされている。またには枝先にやや黄色味を帯びた白い五弁の小花を咲かせる。目立たない花ではあるけれどもかぐわしい香りを持ち、「枇杷の花」や「花枇杷」あるいは「枇杷咲く」などは初冬の季語となっているWikipedia


# by Twalking | 2018-06-12 23:03 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 アジサイ   

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アジサイ
上之根公園/多摩市愛宕
健気に咲いて・・・、
美しいこと、心が和みます。
雨がお似合いかな、萼あじさいさん。

# by Twalking | 2018-06-12 22:06 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり松田&山北04-洒水の滝   

日時 2018.6.2(土)
天気 晴れ

相模国随一といわれる洒水の滝に寄り道しました。
なるほど幽谷にひっそりと落ちる姿は見事です。
ここは河村城址等とセットで歩くといいですね。

途中に「川村土功」の碑がありますが、
これを読むと富士噴火の降砂と土石流災害と
戦った歴史がわかります。

城址の説明にも「南に酒匂川、北に皆瀬川・・・」
とありましたが、往古、皆瀬側は城山の北を流れて
いたようです。南に背替えしたんですね・・・。


・・・日向(山北町)
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街道の風景① 田んぼの道を通り前方の谷間へ向かいます/日向

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途中の道祖神                    鎮守さまでしょうか

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日向用水の由来
日向用水は地区の伝承によると、度重なる酒匂川の氾濫により高瀬堤防の決壊と河床の低下が幾度となく起こった為、用水の取水口は上流への移動を余儀なくされ、ついには酒匂川皆瀬川合流地点で取水するまでになり、俣野地区を経て城山西裾岩盤に用水路を確保し日向へと通水されました。江戸時代後期相次ぐ災害により用水路の確保が困難を極めていたおり、名もなき夫婦者が高瀬堤防の際に小屋を建て、城山西裾素掘り隧道を掘る作業に着手しました。

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隧道の完成を見たのは着手した時生まれた子供が歩くようになった頃と言われ、そのことから工事期間は3年位かかったと思われます。隧道の長さは約90で、日向側より50m位は腰を屈めて通れますがその先は腹這いにならなければ通れないほど大変な作業だったことが伺しれます。この隧道の開通は日向水田約八丁歩の収穫量安定の礎となり今日の繁栄をもたらしました。高瀬橋の架け替え、道路の拡幅などで往時を偲ぶ一助となればと建立するものです。(日向耕地組合)

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街道の風景② 山間から滝沢川が酒匂川に合流します/高瀬橋



・・・平山

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街道の風景③ 洒水の滝入口、この県道は矢倉沢関所に通じているようです/滝沢橋

神奈川県道726号矢倉沢山北線
南足柄市と足柄上郡山北町(樋口橋交差点)を結ぶ一般県道。主要地方道御殿場大井線の矢倉沢バス停付近から北に分かれて山北町方面へ向かう。Wikipedia

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棚島神社鳥居と参道階段/平山

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拝殿                   北に東名吾妻橋を望みます


・・・洒水の滝

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洒水の滝
酒匂川の支流・滝沢川から流れ落ちる洒水の滝は「日本の滝百選」、またその水は「全国名水百選」に選ばれている名瀑です。「洒水」=「しゃすい」の名は、密教用語で清浄を念じてそそぐ香水を指すといいます。雄大なその姿は三段からなり落差は一の滝は69m、二の滝は16m、三の滝は29mという豪快な滝で、古くから相模の国第一の滝とされ「新編相模国風土記稿」では「蛇水の滝」と記されています。この滝は鎌倉時代の名僧文覚上人が百日間も滝に打たれる荒行を積んだ地としても知られており、付近には文覚上人が安置したといわれる滝不動尊(不動明王「穴不動」)があります。毎年、7月第4日曜日に行われる「洒水の滝祭り」では、洒水太鼓をはじめとする太鼓の競演、滝不動尊境内での火祭りが行われます。火祭りの後御幣は無病息災のご利益があるといわれ、人々は競って持ち帰ります。Wikipedia

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滝へは滝沢川沿いに散策道がついています

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散策路                滝沢川

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ここまでは車でも来れますが、歩く方がいいですよね!説明板の先から21世紀の森への道もありました

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神奈川県指定名勝-洒水の滝
酒水の滝は足柄上郡山北町にあって、平山の滝又は灑水の滝(しゃすい)といわれていたがいまは一般的に酒水の滝と呼ばれている。その水源は西北を限る800m及び500mの連嶺の東南方山地の水を集めて流れるものである。付近一帯の地質はよく磨かれた大小の礫を含む岩層で、第三世紀足柄層と呼ばれている。この足柄層の降起に伴って生じた裂線を浸食する湧流が標高300mから200m位まで3段の瀑布となっている。その高さは三の滝29.7m、二の滝16m、一の滝69.3mあって、以下滝沢川となって酒匂川に合流する。浸食谷の入口平山から滝壺までの間には礫岩層が至所に横たわって滝沢川不断の浸蝕によって滝口が後退し、現在の絶壁に東面してかかっている。滝は関東屈指の名瀑である。(神奈川県教育委員会)

灑水

灑水は洒水(しゃすい)とも書きます。そそぐ・清らか・洗うという意味を持ちます。灑水は身をはじめとして道場や、いろいろな物を清めるときに使われます。散杖(さんじょう)あるいは灑水杖と呼ばれる木の棒で、器から少し灑水用の香水を取り、注ぐように撒いたり散布するように撒きます。(やさしい仏教入門)
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渓谷らしくなってきました、この先が展望台、その少し先まで行けます

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見られるのは第3の滝だけです/展望台

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その先、橋の所まで行けます

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幸せ達磨/展望台              名水の滝百選の碑/橋の手前


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滝への散策路の途中に丹沢山別院最勝寺があります。詳しいことは分かりまが東光院が別院として開山されたお寺さんでしょうか??

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本堂                 こちらにも風車のお地蔵さん

丹沢山東光院の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26880138/

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常実坊

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平山洒水の滝不動尊常実坊
洒水の滝傍らにあり滝堂とも呼ぶ龍王山誓源寺と号し天台宗なり。古くは平山原480にあり、明治21年頃平山の住人古瀬喜作氏の寄進である現在地に建立される。往昔、文覚上人百日の荒行をなせし時の御作不動明王を安置すと云う。これより洒水の滝不動尊と呼ぶようになり、霊験あらたかにして足柄地域はもとより遠く京浜地域までその信者多く集うようになる。明治6年時の大僧正・桜井敬徳、元老院議官・町田久成両氏の紹介により滋賀県大津の円城寺(三井寺)の山中より常実坊遷座奉る。これより平山洒水の滝不動尊常実坊とよぶようになる。

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伝文覚上人御作不動明王像おん丈53cm、石刻座像、一部色彩色。素朴な厨子に鎮座し、前にせいたか、こんからの両童子控う。上人は平安末期から鎌倉初期の真言僧、俗名遠藤盛遠、元上西門の北面武士、誤って袈裟御前を斬り一念発起得度し熊野、高雄を初め山岳修験を重ね験力著しき修験者となった。神護寺再興について後白河上皇の忌避にふれ伊豆に流されている。この頃頼朝の知遇を得る。当地の修法はどの頃か詳らかざるもこの頃であろう。後略(説明板)

文覚

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。摂津源氏傘下の武士団である渡辺藤・遠藤氏の出身であり、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが、19歳で出家した。京都高雄山臣護持の再興を後白河天皇強訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流される(当時は頼政の子源仲綱が伊豆守であった)。文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。のちに頼朝が平氏奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺高野山大塔、東大寺、江の島弁財天など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。Wikipedia



・・・山北駅へ

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街道の風景④ 現在の酒匂川・皆瀬川の合流地です。皆瀬側は246号、その先の東名吾妻橋の谷間を抜けてきます。右手にスポーツ広場、左手に山北発電所があります/足柄橋(酒匂川)
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街道の風景⑤ 河村城の西端は酒匂川に面した急峻な崖になっています/足柄橋

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足柄大橋               246号樋口橋を直進します

河村城址の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26885649/


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川村土功之碑
川村は明治22年(18894川村山北川村岸川村向原3村が合併して誕生、明治8年(1932)に山北町となる。土功とは大地をつかさどること、文命堤の碑文にも土功の字がある。碑文は元禄161703)の大地震、翌年から2年続きの大水から始まる。宝永4年(170711月には富士山噴火の降砂による災害復旧のため、宝永5年小田原藩領の足柄上・下郡は幕府代官の支配となる。皆瀬川から流れ出す土砂で湖水と化した川村山北は日向組・日陰組両名主を中心に皆瀬川の流れをに替える瀬替を請願、宝永6年伊勢国津藩藤堂氏の手伝い普請となり、18日間の工事で掘割として実現した。その後、村民は灌漑・生活用水の確保に努め享保19年(1734)皆瀬川からの川入堰、元文4年(1739)板橋沢からの御関所堰、天明2年(1782)には名主湯山弥太右衛門らによる4年の工事で酒匂川からの瀬戸堰が完成し、寛政年間に川村岸分水する。瀬戸堰の取水口はさらに上流へ開削されて川村3ヶ村の水田を潤し、現在も東電発電所水路から取水し、川村用水として活用されている。碑の建立は明治26年(18937月大磯の漢学者伊東希元の撰文、裏面に発起人6人、賛成人89名の氏名が刻まれている。(山北町教育委員会)

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皆瀬川                樋口橋

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街道の風景⑥御殿場線に沿って山北駅に下ります、左は県道725号です/山北橋

神奈川県道725号玄倉山北線
山北町を走る一般県道。丹沢湖東部の玄倉地区と山北町中心部を直接結ぶルートとなる予定であるが、2008年(平成20年)1月現在、起点から山北町皆瀬川までは通行不能(未開通)である。全長:10.1km(不通区間3.8㎞)Wikipedia

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街道の風景⑦ 御殿場線は掘割、この道も歩きやすいいい道です

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山北鉄道公園/山北駅
神奈川県山北町に位置する都市公園(街区公園)である。御殿場線山北駅の沼津方先端にあり、鉄道公園として1970年(昭和45年)に開園した。山北がかつて「鉄道の町」として重要な役割を果たしていたことを残す数少ない施設の一つ。御殿場線が東海道本線から格下げされた後、箱根の峠の急勾配を越えることが可能な大型蒸気機関車として活躍したD5270号機が静態保存されている。また、夜にはスポットライトでライトアップされ、闇の中に浮かぶ勇壮な姿が美しい。すぐ脇を御殿場線が走っておりこの公園付近の「山北の桜並木」は花見スポットとしても有名である。Wikipedia)

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「水緑まんぷくコース」変化に富むいいコースですね、楽しませて頂きました/山北駅

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山北町観光案内図(黄:水緑まんぷくコース 橙:246号 青:酒匂川・皆瀬川)

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松田&山北ルート地図
(赤:歩行ルート 緑:矢倉沢往還 赤丸:松田城址・河村城址)

# by Twalking | 2018-06-12 19:38 | 古東海道関連(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ユリ   

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ユリ/多摩市愛宕
雨にもめげず、
ぱっと咲いたね~、
ゆりさん、お見事~!

# by Twalking | 2018-06-11 18:13 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 スモークツリー   

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愛宕下通り/多摩市愛宕
シトソトくらいならいいけど・・・、
ね~、けむりさん。
台風接近中、くれぐれもご用心くださいませ。

# by Twalking | 2018-06-11 10:48 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり松田&山北-03河村城址   

日時 2018.6.2(土)
天気 晴れ


浅間山の東麓にある河村氏関連の寺社を見てから、
河村城のある河村城址公園に向かいました。
保全された森をひと上りすると本城郭があります。

蔵郭・近藤郭、大庭郭、大庭郭張出など遺構が残り、
その先から見る足柄平野の展望は素晴らしい景観です。
本城郭から日向へ下り、酒水の滝へ足を延ばしました。
ここは森の緑と水の青、歩き甲斐のあるいいコースです。



・・・河村城址公園

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街道の風景① 標識または盛翁寺より左折すると城址公園入口になります

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河村城
平安時代末期築城され、相模・甲斐・駿河三国の境界線が交差する要衝の近くに築かれた山城である。河村城は平安時代末期に藤原秀郷の流れをくむ河村秀高によって築かれたとされる。建武の新政・南北朝時代に入ると、河村宇治は新田氏に協力し南朝方につき北朝方の足利尊氏と対峙したといわれ、1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)から2年間、河村秀国・河村秀経らは新田義興・脇屋義治とともこの城に立てこもり、畠山国清を主将とする足利尊氏軍の攻撃をしのいだとされる。しかし、南原の戦いで敗れ落城し河村一族の多くは討死し、新田義興・脇屋義治は中川城を経て甲州に逃れたとされる。その後は、この城は畠山国清や関東管領上杉憲実を経て、足利持氏の属将、大森憲頼(氏頼の弟)の支配するところとなる。戦国時代に入ると後北条氏の支配を受けるようになった。元亀年間(1570-1573)には甲斐国の武田信玄の侵攻の際に補強され、その後、周辺の諸城とともに後北条氏と武田氏の間で争奪合戦があったとされる。1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐でこの城は落城し廃城となった。Wikipedia

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街道の風景② 本城郭へひと上り、道は整備され気持ちいい森林浴です。

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茶臼郭
本城郭から北に伸びる尾根は二本の堀切によって小郭と茶臼郭に区切られている、北側に位置する茶臼郭は本城郭より約10m低く東西約20m南北約80mを計る緩やかな斜面で、東西両側に帯郭が見られる、絵図によっては、小郭を茶臼郭としているものもあるが、新編相模国風土記稿の河村城古図では、小郭の北側に茶臼郭を配している。(山北町)

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お姫井戸               堀切

お姫井戸
小郭と茶臼郭の間の堀切では、畝掘りが確認されており、東端の畝間には出水がある。新編相模国風土記稿の絵図にはこの位置に井戸の記載があり、往時は井戸として使用していたと考えられるが、発掘調査では井戸の遺構は確認できなかった。しかし、河村城落城の時に城主の姫が井戸に身を投じたという衣話が今でも伝えられている。(山北町)

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街道の風景② 本城郭の入口です。ここから3方向の尾根に郭が連なります

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本城郭には「河村城碑」「神社」「説明板」等があります

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河村城跡
河村城跡が位置するこの地は城山と呼ばれ、旧皆瀬川酒匂川によって周辺山地と分断された自然の要害ともいうべき形となっている。城山の標高は225で、酒匂川との比高差は130を測り東へ浅間山丸山と連なる独立丘陵状をなしている。河村城の周辺では相模・甲斐・駿河三国の境界線が交錯することから、数多くの城砦群が築かれている。甲斐から城ヶ尾峠を越えると湯ノ沢城中川城大仏城山新城鐘ヶ塚城が、駿河から箱根山地・足柄峠の尾根筋を下ると足柄城・阿弥陀尾砦・浜居場城があり、さらに足柄平野縁辺部には松田城・沼田城などがあるが、なかでも河村城は甲斐・駿河から足柄平野に至る交通要衛に位置している。

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河村城の築城は古く、平安時代末期に秀郷流藤原氏の一族波多野遠義二男河村秀高によって築かれたと伝えられている。秀高の子・義秀は源頼朝の石橋山挙兵の際、平氏方に属したため領地を没収されるが、建久元年(1190)鎌倉での流鏑馬の妙技により本領河村郷復帰できたと「吾妻鏡」にある。町指定無形文化財「室生神社流鏑馬」はこれに由来すると言われている。建武の中興・南北朝時代と河村氏松田氏とともに南朝方の新田氏に協力し活躍するが、北朝方の足利尊氏らによって鎌倉が攻められると、河村秀国・秀経らは新田義興・脇屋義治とともに河村城篭城する。正平78年(115253)にかけて畠山国清を主将とする足利尊氏軍と戦火を交えるが、南原の戦いで敗れ新田・脇屋らは中川城を経て甲州にのがれたと「太平記」にある。当時の河村城については『管領記』に「山瞼にして苔滑らかに人馬に足の立つべき処もなし」とあるように、難攻不落の堅城であったことがうかがえる。また、篭城の様子については、河村氏の菩提寺とされている岸の般若院所蔵の『梅風記』(写)に詳しい。南原の戦い後、河村城は畠山清国・関東管領上杉憲実を経て大森氏の持城となったと考えられ、その後相模に進出してきた小田原北条氏に受け継がれていく。戦国時代、小田原北条氏は武田氏との攻防から、前記の各城とともに小田原城支城として河村城を重視し、特にが元亀年間には河村城の補強を行ったことが「相州古文書」に見られる。その後、武田氏との間で周辺の諸城とともに争奪戦を繰り返し、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐で落城、廃城になったと考えられるがこれらを伝える資料は残っていない。

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河村城の規模・郭配置については『新編相模風土記稿』及び堂山の鈴木友徳氏所蔵絵図に見ることができるが、遺跡の保存状態が良いため現地でも概略の位置は確認できる。各部の名称は絵図を参考に付けたものであるが、記載のないものなどについては調査・研究等に使われている名称を便宜上使用している。河村城は急な斜面と入り組んだ谷を持つ地形を充分にいかした郭配置がなされており、大きく三つの尾根を堀切によって郭としている。現在を本城郭とし、東の浅間山に連なる尾根に蔵郭近藤郭大庭郭洞張出郭を配しており、絵図によっては張出部南端大手としている。本城郭から北へ伸びる尾根には小郭・茶臼郭を配し、西へ伸びる尾根には馬出郭西郭北郭・同張出部を配し大久保平へと続いている。廓の周囲には水郭・帯郭が随所に見られ、本城郭と北郭の間に馬洗場、小郭と茶臼郭の間にはお姫井戸の伝承地があり湧水があったと考えられる。平成2年の本城郭及び堀切の2ヶ所の試掘調査では、本城郭から柱穴と思われるピット6個が検出され、古銭(熙寧元宝)・染付陶磁器なども遺物も出土している。ピットの覆土にはいづれも焼土・炭化物が含まれており、根固め用と考えられる河原石が認められた。

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また、河村城東端の大庭郭張出部東側の堀切では、幅約20m・深さ約11mの箱薬研状を呈す堀であること、蔵郭と近藤郭の堀切は幅約30m、深さ15mの河村城最大の規模であることが確認された。さらに、平成4年の本城郭から茶臼郭の間の堀切2ヶ所と小郭の発掘調査では、正郭両端の堀切はいずれも畝堀の形態であり、本城郭側の堀切では8本、茶臼郭側の堀切では5本の畝が検出された。また、小郭担面は一辺約15mの三角形状を呈し、緑辺には地山を削り出して低い土塁が設けられており、南・北端には「つぶて石」に利用したと考えられる拳大ほどの河原石んぽ溜場が検出されている。郭全体には焼土・炭化物の薄層が覆っており、焼失した可能性があるがピットは4個確認できただけで建物の存在を示唆するまでには至っていない。また、平成5年の河村城の根古屋とされる岸湯坂地区土佐屋敷・秀清屋敷伝承地の試掘調査では、室町時代から戦国時代にかけての館跡と思われる溝が一部確認されており、当時すでに館・詰めの城の関係が成立していた可能性がある。(山北町)

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街道の風景③ 本城郭の南は堀切を挟んで蔵郭があります

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堀切
本城郭蔵郭の間にある幅20m、深さ8m、堀底の巾50cmの傾斜の急な堀切です。発掘調査では堀底を含め5の造り直しを確認しました。橋脚の跡は堀切内の平らな造成面で発見され、それよりも古い傾斜のある時期の橋脚跡は不明です。

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堀切で発見された橋の跡
堀切内からは4本の柱穴が見つかり、その位置を柱状のコンクリートで示しています。橋脚幅は4m、堀をまたぐ柱の間の幅は8mあり、柱穴に残った炭化した柱の炭素による年代測定(AMS法)では、400ほど前に伐採した木材であることがわかりました。

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木橋
木橋は城跡全体の維持管理のために架けた現代的な橋ですが、当時の橋の様子を想わせる整備をおこなっています。幅2.5m、長さ24m、高さは3.3mあります。橋の手摺は神奈川県のヒノキ、橋脚や床板は国外の硬い樹木を利用しています。(山北町教育委員会)

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街道の風景④ 蔵郭です

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蔵郭
東西約700m、南北約300mの長楕円形の郭(くるわ)で西に本城郭、東に近藤郭があります。北側は丸い尾根に3段の平場が続く郭です。南側は急な谷間で郭の東西には自然地形を利用した堀切を築いています。近藤郭との間の堀切は東西24m、南北60m、深さ12mの河村城最大の堀切です。

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蔵郭で発見された城の施設跡
建物跡
蔵郭の中央東側にあります。径6m方形で深さは約50cmあります。竪穴からは直径10cm~30cmの焼けた石、中国産の青磁の皿や碗、東海地方の陶器、かわらけ、鉄釘、炭化したイネやオオムギの果実、土壁状の塊が出土しました、これらの発見は建物跡と蔵(穀物を貯蔵した土蔵)の密接な関係を表しているのかもしれません。また、蔵郭の中央では建物の柱穴なども見つかっています。

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配石土杭
蔵郭の東側で中から大きい石賀数多くみかた長方形の穴(配石土杭)が、常滑(源愛知県常滑市)産の瓶とともに発見されています。その他周辺からは設楽(源滋賀県甲賀市)系壺、常滑系擂鉢片、かわらけの破片が出土しています。(山北町教育委員会)


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河村城案内図
河村城は中世山城の全容を残しています。城は自然地形を利用し尾根の高い部分を削り、その土で低い部分を埋めて「郭」と呼ぶ平場を造成します。また、谷や崖面を利用して堀とし外敵の侵入を遮るため、尾根を人工的に切断して堀とした「堀切」を造り、郭の間を隔てる防御態勢を整えました。河村城の郭や堀切の平面配置を示す「縄張り」は約300年前の絵図を参考にしています。(説明板)

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街道の風景⑤ 近藤郭です

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縁石ベンチは発掘調査で見つかった堅穴と空堀の跡を示しています。
堅堀
幅:約12m、深さ:3.5m以上、堀の斜度:4055度。郭内での敵の移動を制限するために設けられます。また、堀の中での敵の移動を制限するために堀障子を設けています。掘障子を持つ堀のことを障子堀と言い、小田原北条氏特徴的な堀の造り方です。河村城跡では堀切2などでも障子堀です。

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街道の風景⑥ 左は多地屋敷、右は大庭郭です

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街道の風景⑦
 大庭郭張出・大手です。直進は浅間山、右に下れば湯坂になります。前方に見えるのは松田山でしょうか。

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眼下は山北&東名の吾妻トンネル、左は鳥手山でしょうか、246はこの谷間を西に向かいます/大庭郭張出し

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浅間山の先から望む足柄平野、左が松田惣領、渋沢丘陵の先端が国府津、右手が小田原になります。城内歩道を本城郭に戻ります。

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街道の風景⑧ 本城郭から樹林帯を日向へ下ります

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途中に馬出郭             右尾根に行くと西郭です

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街道の風景⑨ 湯坂から来る城山南麓の道です、前方の谷が洒水の滝、右折します/日向

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ここから舗装路です          麓へ下ります

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南側は酒匂川との間に田んぼが広がります/日向

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西側は酒匂川に接した崖になっています。上流で皆瀬川を合わせます/高瀬橋

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山北駅付近地図
(黄:歩行コース 橙:246号 青:酒匂川・皆瀬川)

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山北辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(黄:歩行ルート 青:酒匂川・皆瀬川)


・・・・
資料ファイル
河村氏

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河村義秀
鎌倉前期の武士。相模国の住人。藤原秀郷の子孫、波多野氏の一族。秀高の子。治承4(1180)年源頼朝の石橋山挙兵の際、平家方に属し頼朝軍と戦いのち捕らわれて大庭景能の許に預けられた。斬罪になるところを景能の計らいで死を免れた。建久1(1190)8月の鶴岡八幡宮放生会の際、景能の進言で流鏑馬射手に召し出され、三尺・手挟・八的などの難しい的を見事に射抜き、頼朝より罪を許された。9月には本領河村郷(神奈川県山北町)安堵され、以後御家人として活躍。頼朝の2度の上洛や曽我兄弟の仇討ちで有名な富士野巻狩りにも随行。承久3(1221)年の承久の乱では幕府軍に属して軍功を挙げた。(コトバンク)
(系図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)

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河村秀清
相模国足柄郡河村郷(現・神奈川県足柄上郡山北町)の住人。藤原秀郷流、波多野氏の一族。幼名は千鶴丸、通称は四郎(河村四郎)。治承元年(1177)に波多野吉義通の実弟・河村秀高四男(母は源頼朝の御所の女官である京極局)として生まれる。兄に河村則実(のりざね、柳川二郎)と河村義秀(よしひで、河村三郎)、弟に河村秀経(ひでつね、河村五郎)がいる。「河村」の姓は、父・秀高(名は遠実(とおざね)とも)がその父(秀清の祖父)である波多野遠義(とおよし)から河村郷の所領を譲られてそこを本拠とし、その地名をとって名乗ったことに始まる。源頼朝が挙兵した際、義秀はそれに応じず平家側につき、治承4年(1180)の石橋山の戦いでも大庭景親に同調したが、富士川の合戦後に景親らとともに捕縛された。河村郷を中心とする義秀の所領(本貫地)は没収され、本来ならば斬罪に処されるべきところを、以前より頼朝方であった景親の兄・景義の計らいによって罪を赦され、本領であった河村郷を安堵され以後御家人として活動することとなる。義秀が捕縛された時、その弟である千鶴丸は浪人となり母・京極局のもとにいたようである。『吾妻鏡』によれば、文治5年(1189)、若年の千鶴丸は13歳にして奥州合戦に参加、三浦義村らとともに、藤原泰衡の異母兄・藤原国衡がまもる陸奥国阿津賀志山(現・福島県伊達郡国見町厚樫山)の堡塁(ほうるい)を攻めて武功を挙げ(阿津賀志山の戦い)これに感激した頼朝は船迫駅において、自らの御前で元服させたという。この時の烏帽子親は頼朝からの指名により小笠原長清が務め、「清」の字を与えられて秀清と名乗った。加えて秀清は戦後の論功行賞により岩手郡・斯波郡の北上川東岸一帯と茂庭の地、そして摩耶の三カ所に所領を賜った。以後、河村氏は本家筋の波多野氏とともに北条氏に従い、承久3年(1221)の承久の乱では兄・義秀とともに幕府方方について宇治川で戦い武功を挙げた。その後は没年を含め不明である。Wikipedia
(地図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)

波多野城址の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26773255/


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古地図/案内板

波多野一族・松田氏の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26874839/

# by Twalking | 2018-06-11 09:35 | 古東海道関連(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 シカさん-洒水の滝   

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シカさん/洒水の滝(山北町平山)
「おいしい空気でしょ~、楽しんで歩いてね~!」
「そだね~、ありがとう!シカさん」
なんとすこやかなこと、思わず和みます。


# by Twalking | 2018-06-10 12:11 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 果樹-ザクロ   

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ザクロ/山北町岸
少しずつ膨らんできましたね~、
あまり食べないですが、
大きくな~れ!でしょうか。


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ザクロ(石榴、柘榴、若榴)
ミソハギ科ザクロ属の1種の落葉小高木、また、その果実のこと。葉は対生で楕円形、なめらかで光沢がある。初夏に鮮紅色の花をつける。花は子房下位で蕚と花弁は6枚、雄髄は多数ある。果実は花托の発達したもので球状を呈し、秋に熟すと赤く硬い外皮が不規則に裂け、赤く透明な多汁性の果肉の粒が無数に現れる。果肉1粒ずつの中心に種子が存在する。Wikipedia

# by Twalking | 2018-06-09 22:23 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ヒメオウギズイセン   

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ヒメオウギズイセン
愛宕下通り/多摩市愛宕
鮮やかなオレンジ色、
今年も咲きだしね~
モノトさん。


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ヒメヒオウギズイセン(姫檜扇水仙)
アヤメ科ヒメオウギズイセン属(クロコスミア属)の雑種。園芸ではクロコスミア、または旧学名のモントブレチアの名前でも呼ばれる。葉は剣状、60cmから150cm。花茎から穂状花序を分枝し、各々にオレンジ色の花を付ける。花期は78月。Wikipedia

# by Twalking | 2018-06-09 14:19 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり松田&山北02-山北   

日時 2018.6.2(土)
天気 晴れ

山北は酒匂川の上流域、波多野氏一族の河村氏が
進出してきた最先端の地域です。
河村城址や関連する寺社など史跡が多く残ります。

山北町の「水緑まんぷくコース」がありますので、
東山北からこのルートで歩いてみました。
先ずは浅間山山麓の史跡を訪ね河村城跡へ向かいます。


・・・向原(山北町)

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街道の風景① 御殿場線沿いに246号を向原(東山北)へ向かいます/山北町境

東山北駅

山北町の南東に位置する向原地区にある駅。地元の請願によって戦後の1956年(昭和31年)に新設された駅で、当駅の開業と同じ日に2つ隣の相模金子も開業した。1970(昭和45年)に県立山北高校が駅近くに移転してからは多くの通学者に利用されている。また、山北駅よりも1日あたり100人ほど乗車人員が多くなっている。Wikipedia


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御殿場線を横断/村雨               尺里川を渡ります/大庭橋

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街道の風景② 大きく蛇行する酒匂川に沿って県道が通ります。右手「丸山」の裾を巻いて岸集落へ/原耕地

県道721号東山北停車場線

足柄上郡山北町の御殿場線東山北駅(246号)と県道74号小田原山北線交点(山北町岸)を結ぶ一般県道。Wikipedia


・・・岸

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街道の風景③ 丸山の西裾、向原と岸の集落を繋いでいますが、いい道ですね/岸

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般若院山門/岸

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河村氏の菩提寺「般若院」
当寺は河村氏初代・河村山城守秀高(波多野遠義・とおよしの二男)以来の菩提寺である。本尊に文殊菩薩を安置し、古くは恵華山と号した。河村城の大手湯坂の地にあったが文明年間、中興開山日円が現在地の北側に移した。天正8年(1580室生明神社を後方の丸山山上に勧請したので、室生山智積寺(ちしゃくじ)般若院(はんにゃいん)と号し、古義真言宗の名刹である。戦国時代甲斐、越後の軍が乱入し兵火で炎上、江戸時代にも災火にあって万治元年(1658現在地移転した。境内静寂、泉声渾々として脱俗の浄域である。

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後ろの丘に父の追福の為、河村権七が建てた累代の事蹟を刻んだ河村勝興(かつおき)のがある。寺宝として勝興の烏帽子型兜、法華経、河村城古図などがある。外に奥州河村氏に伝わる秘伝河村城篭城戦記「梅風記」の写し、幕府大目付河村大和守の記録がある。(山北町教育委員会)

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木造文殊菩薩坐像
般若院の本尊。右手に宝剣、左手に経巻を執る通形の文殊菩薩像です。構造は、頭体幹部を前後剥ぎとし割首、両体側材、脚部材などを剥ぎつけています。この像は量感のある全体形を持ち、やや箱型の体形や大きな衣文のさばきなどその造形に室町時代の名残を感じさせます。彫技は丁寧で背中や膝の起伏、穏やかに整った面相など神経の行き届いた表現を見せています。体内に納入銘札がありこの内容から寛文7年(1667)般若院一代法印宥傳(ほういんゆうでん)が鎌倉の仏師・式部に制作させた像と考えられ、江戸時代前期における鎌倉仏師の堅実な作風を伝える好例です。また、本像は般若院が江戸期に入り再興されたときの像であり史料的価値も高く評価されます。(山北町HP)(写真:山門)

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金箔烏帽子形兜
この兜は外見が烏帽子の形をしているため烏帽子形兜(えぼしなりかぶと)と呼ばれています。戦国時代後期、武具類の大量需要に応ずるためこれまで一般的であった筋兜や星兜から、しだいに制作の容易な頭形兜(ずなりかぶと)や烏帽子形兜などが流行するようになりました。これらは従来の兜と比べると格段に少ない鉄板で構成されるため軽量であり活動性にも富んでいました。鉢(頭に被る部分)は鉄板6枚を剥ぎ合わせて形作り、その上に漆を塗って剥ぎ目を平滑にしたのち金箔を貼っています。鉢の裏側に刻まれた銘文によると、天和元年(1681)に河村権七一吉が父勝興の追善供養のため智積寺(般若院の寺号)へ奉納したことがわかります。この銘文については江戸時代の後期、幕府により編纂された『新編相模国風土記稿』にも掲載されています。制作期、奉納期、奉納者名などが明らかで山北とも縁のふかい兜として貴重なものです。なお、勝興は初め豊臣秀吉方、のち徳川家康方大名となった加藤嘉明(よしあき)の家臣です。(嘉明の母は河村氏出身
(山北町HP)(写真:鐘楼)

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山北町岸のヒキガエル集合地
ニホンヒキガエルは動物学上、学術研究上また日本の理科教育上貴重な生物である。この地区はヒキガエルが多産し新編相模風土記稿にもこの地区の「蛙合戦」が載っていて、歴史的にも非常に古くから現在まで繁殖地としての蛙合戦が続いている。毎年3月上旬から下旬にかけて多数のヒキガエルが池に集まり産卵をする。やがて卵より生育したヒキガエルは6月頃山に帰っていく。これは昔より今日にいたるまで年々繰り返されていることで、いつまでも蛙合戦が続いていくように保護するため、ここに天然記念物に指定した。(神奈川県教育委員会・山北町教育委員会)

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東光院山門/岸 東寺真言宗のお寺です

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本堂                 石造群
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境内から浅間山を望む

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街道の風景④ 木陰から振り返ると丸山が望めます、いい風景です/岸

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石仏群                「水緑まんぷくコース」の標識

『水緑まんぷくコース』

河川敷の平地やハイキングコースの上り坂などバリエーション豊かな道を歩きます。上り坂は勾配も緩やかで歩きやすい道です。トイレもあるので安心です。歴史ある酒水の滝や河村城址公園を通り山北の歴史に触れ、滝と森の中で癒しを体感してください。森の緑と水の青、山北町の魅力がつまったコースです。東山北駅-ぐみの木公園-般若院-河村城址公園-洒水の滝-山北駅 距離:9km

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街道の風景⑤ 浅間山の南麓です、城の古都では「小田原道」と記されています/岸バス停

県道74号小田原山北線
小田原市(城山中学校入口交差点)と足柄上郡山北町(岸入口交差点)を結ぶ主要地方道である。Wikipedia

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八幡神社鳥居/岸

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八幡神社縁起・由緒
「新編相模風土記稿」(1841年)によれば八幡宮は『村の鎮守、本地仏三尊阿弥陀仏他安ず。3年に一度祭祀を行う。祭日は815日。往古は城山に在りしを、後年この地円月宮の社地に遷せしなり』と云う。加えて「般若院智積寺」の所存する真亨2年(1685年)当代11代伝栄和尚の筆による縁起より抜粋すれば『河村岸の鎮守正八幡大菩薩は、往古河村城山の城主・河村秀高公城内に建立せられ、建立の年代は不詳なれども秀高公開基、菩提寺般若院智積寺の建立が高倉天皇(11611181)の御宇治承2年(1172)なる故、正平841日(1353)瓦城落城するや岸湯坂梵天山山下に遷し、更にその後現在地に遷し奉り。村の鎮守の宮として村民の崇敬する所となれり』とある。(由緒書き)

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八幡神社のくすのき
山北町岸に所在する八幡神社入口にあり、樹高約20
m、根廻り約7.2mを有し、推定樹齢は約300年とされています。その姿は根元から約6mのところで大きく2つの幹に分かれ、しかも斜めに張り出した巨木で、葉は幹が隠れるほど茂っています。根元の小枝は関東大震災によって根元が裂け、その先端から生じたもので、学術的にも貴重な現象です。(山北町HP)





・・・山北

山北町
神奈川県の最西端に位置する町である。町内には1978年に完成した丹沢湖がある。横浜市から西へ直線距離で50km、神奈川県の最西端に位置し山梨県・静岡県と境を接する。町域の大半は丹沢山地であり丹沢大山国定公園に指定されている。国道246号や御殿場線など主要な街道や鉄道路線は町の南部に集中し、町域を東西に貫通しており市街地もそれに沿っている。渋滞ポイントとして知られる都夫良野トンは山北町の都夫良野地区にある。明治時代、東海道本線の開業とともに交通の要衝として栄えたが、同線が丹那トンネルの開通により経路を変更し御殿場線となって以来鉄道中継地としての役割は低下した。Wikipedia

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街道の風景⑥ 浅間山の東麓にあたります、右手に室尾神社があります/山北

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室生神社(むろうじんじゃ)/山北

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御祭神は建御名方命、倉稲魂命、誉田別命、木花咲耶姫命、天児屋根命、弟橘姫命、速玉男命、素盞嗚命、大山祇命、日本武命、大日孁貴命、玉依姫命、大山咋命、大己貴命、菅原道真です



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流鏑馬神事
室生神社の流鏑馬神事の由来は、治承4年源頼朝公が石橋山に旗揚げした折、河村城主義秀公は平家方である大庭景親に味方した罪にとわれ、領地河村を没収され処刑されるところを、景親の兄・大庭景能に助けられ隠われていたところ、建久元年鎌倉に於いて流鏑馬行事が行われた時、たまたま欠員ができたのでその代替として参加し、その抜群の妙技によって罪を赦され旧領河村復帰できたことを記念し、年々行われる様になったと伝えられています。そして780余年の間農民の手によって引き継がれて来たものであります。また、昔から一の的は早稲(わせ)、二の的は中稲(なのて)、三の的は晩稲(わくて)として、その的の当たる矢によって翌年の稲作の値付けの占いとしてきたものであります。(室生神社)

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神馬でしょうか?           境内の石造群

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室生寺のいちょう
山北町山北に所在する室生神社境内にあり、樹高約25m、根廻り約9.8mを有し、推定樹齢は約300年とされています。幹が根元から南北2本に分かれ、いずれも雄大な姿を呈する雌株です。(山北町HP)


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室生神社のぼだいじゅ
山北町山北に所在する室生神社(むろうじんじゃ)の境内にあり、樹高約25m、根廻り約4mを有し、推定樹齢は約300年とされています。幹が根元から4本に分かれ、それぞれが高く伸び美しい樹形をした巨木です。昭和59年にかながわの名木100選に選ばれています。(山北町HP)

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水屋・水船石/山北
先代の人々が苦労し長年生活の糧と共に飲料水を大切にしたる文化遺産を此処に保存する(宮地水道組合)

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街道の風景⑦ 浅間山東麓の里を河村城址に向かいます

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道祖神                城址への標識(お寺からも行けます)

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盛翁寺(せいおうじ)参道/山北 曹洞宗のお寺です

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本堂                 観音堂

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やまきた観光案内図
(黄:水緑まんぷくコース 橙:245号)

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山北辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:水緑まんぷくkコース 緑:矢倉沢往還 橙:246号 青:酒匂川)

# by Twalking | 2018-06-08 17:54 | 古東海道関連(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ナツツバキ   

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ナツツバキ/多摩市愛宕
標札に「ナツツバキ」
聞いたことはあるけど、
初めてかな・・・、よろしく~。


ナツツバキ
(夏椿、沙羅)
ツバキ科ナツツバキ属の落葉高木。別名はシャラノキ(娑羅樹)。仏教の聖樹であるフタバガキ科の沙羅樹(さらのき)に擬せられこの名がついたといわれる。樹高は10m程度になる。葉は楕円形で長さ10cm程度。ツバキのように肉厚の光沢のある葉ではなく秋には落葉する。花期は6月~7月初旬である。花の大きさは直径5cm程度で、花びらは5枚で白く雄しべの花糸が黄色い。朝に開花し夕方には落花する一日花である。Wikipedia


# by Twalking | 2018-06-07 21:31 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 乞田川-梅雨晴れ   

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乞田川/長久保橋(多摩センター北口)
ほら、貼られちゃったでしょう・・・、
ここは、だめなんだよね!
みんなが憩う川辺の遊歩道なんだから。

# by Twalking | 2018-06-07 17:11 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり松田&山北01-松田城址   

日時 2018.6.2(土)
天気 晴れ

渋沢丘陵を越えて、酒匂川を渡り駅のあった
坂本へと向かい、足柄峠へと古道は続きます。
周辺には遺跡や史蹟も多く見所は多いようです。

酒匂川の上流域は波多野氏の一族の松田氏、
河村氏が進出しきた所、その城跡が残りますので、
先に進む前にその足跡を訪ねて見ることにしました。



・・・松田惣領


松田町は
足柄平野の北端にあり町域の大部分を丹沢山地が占める。中心集落の松田惣領酒匂川川音川の合流点に位置し、中世には松田荘が置かれた。足柄平野北部の交通の要地にあり矢倉沢街道宿場町、丹沢山地と大磯丘陵の接する谷口集落として発達し、現在はJR御殿場線と小田急線が交わるほか国道246号、255号線が通り東名高速道路の大井松田インターチェンジが設けられている。(コトバンク)

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街道の風景① 街道はロマンス通りを西へに向かいます/松田駅前


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途中を右折すると中沢酒造があります、一帯は街道の面影が残ります

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中澤酒造
日本酒を中心に製造販売する。主要銘柄名は「松美酉(まつみどり)」。1825年(江戸・文政8年)創業。中沢酒造で表記されている場合もある。足柄米を使いおいしい酒づくりに精を出す一方で、松田周辺の庄屋も兼ねる名家であった。また当時は小田原藩御用商人として大久保家に出入りし、その縁で自慢のお酒を献上したところお殿様から立派な酒名を賜った。それが「松美酉」である。ちなみにこの名は松並木が美しかった松田周辺の景観に由来しているWikipedia

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街道の風景② 街道を左折する道が「十文字の渡し場」への旧道でしょうか

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左手に供養塔道標          ガード手前の石搭群

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川音川が酒匂川に合流します/宮下児童公園

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「十文字」のモニュメント/宮下公園 江戸の渡し場はこの辺りでしょうか

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酒匂川から振り返って見る渋沢丘陵、左手は松田山です/渡し場付近

松田山

丹沢山地最南部、足柄上郡松田町と同郡山北町にまたがる山塊である。小田急小田原線およびJR東海御殿場線の新松田駅(松田駅)の北に位置する北西から南東にやや長い台形状の山塊であり、最高地点の標高は568mである。山頂一帯はゴルフ場となっており、南斜面には最明寺史跡公園西平畑公園などが設けられ季節を通じて多くの観光客が訪れる。Wikipedia


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街道の風景③ 昔は渡し、現在は橋を渡り開成町へですが、街道と別れて松田庶子へ向かいます/十文字橋

十文字橋
開成町と松田町を結んで酒匂川に架けられている橋を十文字橋といいます。また、橋の付近一帯、川原を含めて十文字と呼びますが正式な名前ではありません。その昔「十文字の渡し」という、矢倉往還の中で難所の渡し場が橋に変わった名残りです。渡しの方法は原則として歩行渡しでしたが、危険なため代官蓑笠之介により夏期は船渡しに変わり、冬期は流れの上だけ橋を架けていました。また、開成町側には渡しのケヤキと呼ばれるケヤキが植えられており、対岸が遠いため目印とされていたそうです。現在のケヤキは二代目のケヤキになっています。(酒匂川水辺ウオークパンフ)

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十文字橋の歴史
十文字橋明治221889)東海道線が開通し、それに伴い松田駅から大雄山最乗寺道了尊に通ずる幹線道路の橋として出来ました。この木の橋は地元有力者が建設し金銭を取り渡らせていました。たび重なる豪雨でその都度流され仮橋や渡舟で対応していました。大正21913年)現在の十文字橋の原型となるトラス橋を県が完成させました。しかし、中心部の橋脚だけが石で積み上げその他は木製でした。その後木製から鉄製になりました。大正12年(1923)の関東大震災で鉄製の橋脚は落ちてしまいましたが、石の橋脚部分だけは残りました。昭和81933)には鉄製部分がすべてコンクリート製になりました。その後、歩道をつけたりトラスをとる大規模改修をし、昭和51年(1976)からは松田町・開成町で管理することになりました。平成19年(2007997日未明の台風で大正2年(1913)につくられた石の橋脚の一部が被害を受けてしまいましたが、平成202008)現在の橋に復旧されました。このモニュメントに使われている石は大正2年(1913)の橋脚の石です。(松田町役場)

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酒匂川の鮎
神奈川県西部を流れる酒匂川は首都圏近郊では数少ない天然アユの遡上する河川です。下流の山北地区、松田地区及び小田原地区ではアユの友釣りを楽しむことができます。毎年61日から1014日まで 毎年121日から1231日まで。

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寒田神社鳥居/松田惣領

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寒田神社-松田町重要文化財(史跡)
西暦400年頃の古代に創建されたと言われる由緒ある神社で、延長5年(927)に国が作成した「延喜式神名帳」に相模国十三座の内「足上郡一座小寒田の神社」と明記されています。古代には箱根越えの旅人が足柄道の通行の途中この神社に旅の安全を祈願したと言われ、倭建命が東征の折に立ち寄られたと伝えられています。祭神は倭建命、更に文明4年(1472)に弟橘比売を合祀、大正2年に天神社2柱、昭和36年に子八幡社を合祀しています。

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神宝の椀-松田町重要文化財(工芸)
この椀は弥生時代後期の作と言われ神社創建の頃から御神宝として保存されています。材質はけやきで塗りの跡はなく、高台が特に高くロクロ目が荒く表面が輪なりにごつくて縄文のように見えます。なお、全体の形はふっくらとして量感に富んでいて格調の高い作品です。(松田町教育委員会)

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延喜式内社について
延喜式とは平安時代中期、醍醐天皇の時に完成した法制書です。この式の神明帳に掲載されている神祇官の管轄する神社を延喜式内社、略して式内社といって全国で2861社あります。相模国には13の神社名がのっています。当社はその一つです。このことから寒田神社は県西地区では唯一の式内社で、延喜式の完成当時すでに有力な神社として鎮座していたことが分る古社です。社伝では仁徳天皇3年(315年)の御創建で、古来より篤い信仰を集めていた由緒ある神社です(石碑文)

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寒田神社のカシ(かながわの名木100選)
幹はまっすぐに伸び県内のカシ類の中では最も樹高の高いものである。イチイガシは県内ではきわめて少なく貴重である。樹高:30m 胸高周囲:3m 樹齢:約500年(推定) イチイガシは関東南部から九州に分布する常緑高木である。樹高30m、胸高周囲5m、樹齢約1000年に達するものもあるといわれている。(神奈川県)

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松田大名行列-松田町重要無形文化財指定
寒田神社大祭典に江戸時代より行われており、その起源は詳かでないが文政13年徳川幕府に差し出した「人別一紙目録」にはその編成、服装等詳細に記されており、以来幾星霜幾多の変遷を経てきたが、明治初期藩制廃止に際し小田原城主大久保家の奴振りの師範を招いて指導を受け、一層充実し小田原藩十一万三千石の格式により今日まで受け継がれてきた。昭和46年同保存会が主軸となり衣装、調度品並びに御駕籠を新調、保存会員の拡大を図り益々盛大となってきた。演技の中心は奴振りで行列のかけ声と共に演技振りを行いその変化に富み独特の風格を持っていることで世に知られている。(松田町教育委員会)

矢倉沢往還(神山・松田惣領)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26823895/


・・・松田町庶子(そし)

『松田有常松田郷に住みて領主たり、有常二子あり、太郎某は弟なれ共妻の出なるにより太郎として本家を継がせた。次郎某は妾腹なる故に兄なれ共庶子として分家す。是惣領庶子に村の名の由りて起これる所以ってなり、此れ以前は一邑にして松田と称えしこと論なし』(皇国地誌)。惣領地区を「上松田」、庶子地区を「下松田」と言ったこともあったが惣領と庶子に戻っている。

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街道の風景④ 酒匂川の河岸段丘上、集落を繋いで旧道が通っています

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石仏群                自然堤防?でしょうか

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城光沢                旗谷沢の石仏

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地蔵尊                 石仏群等が多い道です

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街道の風景⑤ 御殿場線の踏切を渡ると246号です/桜観音前

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桜観音/松田庶子


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桜観音
朱色の屋根が国道からもよく見えるお寺です。しだれ桜の老木が寄り添うように立っています。ご本尊の十一面観音菩薩は、奈良の長谷観音寺と鎌倉の長谷観音寺にある十一面観音像と同じ霊木を三分して作られたそうです。昭和46年に町の指定重要文化財の第一号となりました。(松田町HP)

十一面観音菩薩立像

平安時代の一本造り 高さ134.5一般には浮彫りで特に褶の部分は深彫りで彫痕が強く全体の風格に精神美がある。この十一面観音菩薩像は大和の長谷観音寺と鎌倉の長谷観音寺にある十一面観音菩薩像と共に一本の木を三分して作られたもので、行基の作であると伝えられている(松田町教育委員会)

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宝寿院/松田庶子

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宝寿院
真言宗東寺派のお寺。国道246号線を山北方面に行く途中の高台に見えるお寺です。長谷観音寺(桜観音堂)と隣り合う真言宗のお寺です。境内の庭園には多彩な植栽が施され、長谷観音寺の桜とあいまって四季折々の彩りを添えています。庭園内の階段をのぼると、東屋があり周囲の樹木を眺めることができます。(松田町HP)

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宝光寺 
真言宗のお寺です

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最明寺跡(松田山)への入口ですが、またの機会に/桜観音前


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最明寺跡
最明寺は松田山山頂付近の海抜550mの平坦地に、承久37月(1221)浄蓮上人(源延)が信州善光寺の一光三尊の仏を模写し、松田山頂に安置し創建、西明寺(最明寺)と号した。鎌倉時代には5歩に一楼、10歩に一閣といわれるほど盛大をなしたが、室町時代兵乱相続きおとろえる。文明2年(1470)鎌倉の八正寺の尊賢親王が再建を計ったがならず寺を金子郷に移転された。最明寺跡には今日も大門跡、日中坂、本堂跡、護摩堂跡、鐘突き堂跡等の地名や石碑・石仏等が安置されている。また、最明寺史跡公園内にからさわ古代瓦焼かま跡(のぼり窯)が移築されています。ここより徒歩約60分(松田町教育委員会)


・・・松田城址

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松田城跡想定図/説明板
松田城は鎌倉時代に松田氏によって築かれました。この地区より馬具や土器が出土しています。南北にひょうたん型に広がり、最北端の最高地(海抜約180m)のところに本陣居城址があります。(松田町HP)

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少し戻って坂を上り東名高速・城山橋を渡ります。崩されてますが右手が「下段腰曲輪」左手が「上段腰曲輪」です/城山橋

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下段腰曲輪              上段腰曲輪(城址への道)

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説明板のある所が前曲輪2です。眼下は街道の通る松田惣領、足柄平野、相模湾が一望できます

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松田城址(松田町指定)
松田城跡は旗矢沢天神沢という二つの沢を天然の要害として利用した典型的な連郭式山城である。東名高速道路の拡幅工事時に記録保存され、上・下段腰曲輪、掘立柱遺構・柵列・井戸・溝状遺構・地下式擴・堀切が確認され、炭火穀物類・陶磁器類・カワラケ・鉄釘・古銭等多数が出土している。城郭として利用していた時期は15世紀中葉から16世紀後半頃で、秦野盆地から来た波多野氏の系譜である松田頼秀・顕秀・憲秀の頃である。松田憲秀は小田原北条氏の筆頭家老であり、松田城はその弟・新次郎康隆の持城であったとの記録が残っている。(松田町教育委員会)

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その先が前曲輪             本郭曲輪2でしょうか
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本郭曲輪2より上段の風景です

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この上が本郭曲輪1のようですが、先もあるのでここまでにして下ります

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松田氏
相模国師柄上郡松田郷に発祥した藤原秀郷流波多野氏一族の氏族と、丹後を拠点とする桓武平氏流の秦行衆一族が知られている。室町時代後期に備前国西部一帯に存在した家系、室町時代に幕臣として京都に存在した家系(近年、丹後守・若狭守・豊前守・対馬守流のほう奉行集・松田氏一族は平姓であり奉公衆の波多野一族とは全く別の家系であることが判明している。小田原後北条氏に仕えた後に加賀前田家に召抱えられた相模松田家本家、その分家は結城家、徳川将軍家旗本になった家系がある。鎌倉期には相模国内に残存した波多野氏一族を統合する惣領家であったと考えられる。南北朝期から室町期にかけ、惣領制が崩壊し有力庶子家・一族が本宗家から独立していった時代であり、松田氏においてもいずれが本宗家かは定かではない。神奈川県足柄上郡松田町松田惣領にはJRの松田駅がある。Wikipedia
(系図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)

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街道の風景⑥ 酒匂川が大きく蛇行して流れます、いい風景です。右手奥の山北に向かいます/246号山北境

波多野城址の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26773255/


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松田町風景散歩
松田町では丹沢系の中津川が流れ込む川音川と、酒匂川の2つの川が出会います。町の特産物である酒や農産物は、やわらかな丹沢の天然水が欠かせないと言っても過言ではないでしょう。このコースをたどることで、昔の人が川の氾濫や洪水などが起こるたびに知恵や工夫で生活を守り、神社の祭礼を行い伝統を今に伝えてきたことなどに想いを馳せる事ができるでしょう。(松田町HP)

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松田周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:歩行ルート 緑:矢倉沢往還 青:酒匂川)

# by Twalking | 2018-06-07 14:22 | 古東海道関連(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カシワバアジサイ   

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カシワバアジサイ
愛宕下通り/多摩市愛宕
咲きだしましたね~、カシワバさん、
清楚で美しいですね!


カシワバアジサイ
(柏葉紫陽花)

アジサイ科(ユキノシタ科)アジサイ属の落葉低木。原産地は北米東南部。花の色は白。葉の形がカシワに似ていることが和名の由来。花は円錐状あるいはピラミッド型に付く独自の形状をしており、5月〜7月に真っ白い花を付ける。八重咲きと一重咲きがある。一般のアジサイとは異なり全体の印象としては木のボリュームに比し、花が少ないのが特徴。葉には切れ込みがあり秋には紅葉する。Wikipedia


# by Twalking | 2018-06-06 17:26 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-寒田神社   

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阿形

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吽形

寒田神社/松田町松田惣領
おお、こわ~・・・
睨まれた感じ、凄味がありますね。


# by Twalking | 2018-06-05 14:25 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 オカトラノオ   

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オカトラノオ
愛宕下通り/多摩市愛宕
おはよ~!虎さん。
今年も咲いたね・・・、
若々しいこと。


オカトラノオ
(丘虎の尾)
サクラソウ科オカトラノオ属の多年草。高さは50cmから100cm。葉は茎に互生し、葉柄があり長楕円形で全縁。花期は6月から7月で、白色の小さな花を茎の先に総状につけ下方から開花していく。花穂の先端が虎の尾のように垂れ下がる。Wikipedia

# by Twalking | 2018-06-05 14:02 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 新松田駅   

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小田急線新松田駅/松田町松田惣領
早い時間なんですが、陽ざしは強いですね~。
今日は松田城址、河村城址など「お城巡り」、
酒水の滝にも寄ってみるつもりです。

# by Twalking | 2018-06-04 21:27 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 僧-㒼松禅寺   

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㒼松禅寺/町田市小野路町
修行僧でしょうか、
どうぞご縁がめぐりますように・・・、
合掌。

# by Twalking | 2018-06-04 17:27 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 果樹-ブラックベリー   

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ブラックべリーの花
鶴牧西公園/多摩市鶴牧
実が赤いのでラズベリーだと思ったら、
ブラックベリーと標札にありました。
実は緑から赤、そして黒に熟すんですね。


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ブラックベリー(Blackberry)
バラ科 原産地:北アメリカ・ヨーロッパ 花(56月)実(78月)
つる性の丈夫な果樹。木立性になるラズベリーやブルーベリーと異なりネットなどにつるを誘引する手間はかかりますが、育てやすく無農薬栽培も可能で家庭園芸に向いています。狭義にはセイヨウヤブイチゴをブラックベリーと呼びますが、園芸では似ている種や交配種もひっくるめてブラックベリーと呼ばれることが多いです。花は一重白花。実は黄緑色から赤色になり、その後にく熟します。葉は三出複葉で鋸歯が目立ちます。株はつる状に伸び、枝にはまばらに鋭いトゲがあります。トゲのない品種も出回ります。(花と緑の図鑑)


# by Twalking | 2018-06-04 09:45 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 『幸せ達磨』-酒水の滝   

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幸せ達磨/酒水の滝(滝沢川 山北町平山)
だれが呼んだか『幸せ達磨』
魅せられますね・・・、ご利益ありそう。
酒水(しゃすい)の滝で会えますよ~!



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洒水の滝(しゃすいのたき)
神奈川県足柄上郡山北町にある二級河川酒匂川水系滝沢川にある滝で、滝沢川とともに洒水の滝・滝沢川として1985年(昭和60年)枚衰百選に選ばれるとともに、洒水の滝は日本の滝百選・「かながわの景勝50選」・「かながわ未来遺産100」にも選定されている。洒水の滝は三段で一の滝は69m、二の滝は16m、三の滝は29mの落差。新編相模風土記稿では、「蛇水の滝」と記されており、古来より相模国の最大の滝であった。また、鎌倉時代初期の真言宗の僧・文覚が百日間も滝に打たれる荒行を積んだ地としても知られ、付近には文覚が安置したといわれる酒水の滝不動尊を安置する「常実坊(穴不動)」がある。県道726号矢倉沢山北線から滝近くまで、滝沢川沿いに遊歩道が設けられており、横に全景が見られる新観瀑台がある。現在、赤い橋から先は立ち入り禁止のため、滝壷へは行けない。Wikipedia

# by Twalking | 2018-06-03 23:44 | ○石像&モニュメント