無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「酔石横町」-神楽坂   

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酔石横町/新宿区神楽坂
善國寺の向かいにある石畳の小路、雰囲気がありますね。
千鳥足で歩きたいことから「酔石横町」の名があるとか、
ぶらりとしたくなる露地です。

# by Twalking | 2018-07-16 10:36 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 永山駅   

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永山駅/多摩市永山
京王と小田急線の高架駅を
ペデストリアンデッキが繋ぎます。
明るいアーケード、この風景はいいですね!

# by Twalking | 2018-07-15 13:39 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 青銅水鉢-飯泉観音   

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青銅水鉢/飯泉観音(小田原市飯泉)
これは珍しい水鉢ですね、はじめて見ました。帆船の形をして、船尾に十一面観音菩薩の座像が一体あり、水鉢の全体に多数の銘文が刻まれています。銘文によれば作者は江戸神田の鋳物師小沼播磨守藤原正永とあり、江戸時代の宝永元年(17047月と記されています。この酒匂川一帯も水害に苦しめられたところ、水除けを願って奉納されたんでしょうね・・・、ご利益ありますように、合掌。


# by Twalking | 2018-07-14 18:28 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 二宮金次郎発願の像-飯泉観音   

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二宮金次郎発願の像/飯泉観音(小田原市飯泉)

『報徳記により彫塑家これを製作す。また篤志者ありて飯泉山観音堂前にこれを銅像として献ず。尊徳先生一代の鴻業(こうぎょう)はこの初発願に徴し 救世の大誓願を拡張せるのみ。昭和41113日 文学博士 佐々井信太郎 撰並題 94歳』と碑文にあります。飯泉観音は二宮尊徳が少年時代の頃、旅僧から観音経を聞き一念発起した地であると言われています。


# by Twalking | 2018-07-13 20:50 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 足柄駅   

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小田急線足柄駅/小田原市
引き込み線にロマンスカーが止まってる・・・、
初めての駅、新松田で急行に乗り換えです。
箱根の山が真近に迫ります。


足柄駅

小田原市扇町三丁目にある小田急電鉄小田原線の駅である。島式と算式の複合型ホーム23線を有する地上駅。駅構内には留置線があるがこれは小田原線開業時に当駅に車庫が置かれていた名残である。駅所在地の開業当時の地名が「足柄下郡足柄村」であったことと、「足柄」が「箱根」の枕詞であったことから名付けられた。当初は付近の地名から「多古(たこ)」とする予定だったが語呂が悪いとのことで採用されなかった。Wikipedia


# by Twalking | 2018-07-13 16:22 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり『曽我の里』03-曽我の遺跡群   

日時 2018.6.29(金)
天気 晴れ

相模国府比定地の関連として出てくる「千代廃寺」、
ここは見ておきたいと思っていました。
調べていたらこの酒匂川低地は遺跡の宝庫です。

駅前の案内板に従い群家跡と想定される永塚遺跡、
千代廃寺跡、高田遺跡など順番に訪ねてみました。
初期国分寺・国府説は否定されているようですが、
この考えは方は初期寺院と郡家に置き換えられるようです。

日差しが強くて鎮守の森に入るとホット一息でしたが、
西からの稲作の伝来や古東海道の関連など、
遺跡としてはなかなか興味深いものがありました。



・・・永塚(小田原市)

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眼下の酒匂川低地(足柄平野)に下曽我遺跡群が広がっています/六本松峠


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下曽我駅からめぐる小田原の遺跡/下曽我駅前
下曽我駅の周辺には小田原の歴史を考える上で重要な遺跡が多く所在しています。遺跡解説の説明板をコース上に設置しています。下曽我駅を出発して遺跡めぐりに出かけてみてはいかがでしょうか。
下曽我遺跡・永塚遺跡群(説明板234
古墳時代の集落からは銅鏡が見つかっていることが注目されます。奈良・平安時代は地方役所である足下郡家(あししもぐうけ)があったと推定されています。古代の井戸や舗装道路のほか木簡や墨書土器など貴重な資料が見つかっています。
千代遺跡群(説明板567弥生時代後期以降、地域でも屈指の大集落が展開していました。奈良・平安時代千代寺院跡(千代廃寺)が所在し、瓦や木簡など寺院との関連を示す遺物が多く見つかっています。
高田遺跡群(説明板89
8世紀の正倉院文書に記載された「足下郡高田郷」が所在した場所と推定されています。低地部の調査では古墳時代の農耕具が見つかっているほか、古墳時代前期の銅鏡なども出土しています。
下堀方形居館(説明板10
中世土豪クラス居館跡と推定されています。当時の屋敷地の名残である方形の区画や土塁が残存しているほか、周囲を囲む二重の堀が発掘調査で見つかっています。(小田原市教育委員会


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街道の風景① 田園に森戸川が流れます、森が永塚観音、郡衙想定地です/永塚

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永塚観音

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永塚観音
永塚観音は永塚の観音様と呼ばれ古くからこの地方の人々に尊信されています。本尊は馬郎婦観音立像(陶製)です。観音縁起は延淳年間(17441747)の火災によって焼失してしまいました。しかし、伝承によれば昔、光海(小海)のほとりに貧しいが心やさしく信心深い農夫が住んでいて、ある年の718日の夜農夫の夢枕に白髪の老人が立ち「昔この地方に大地震による大災害があり、その際に光海が出来た。その時に観音様も水中に没してしまった。信仰心の厚いお前に観音様の場所を知らせるので、明朝光海へ来なさい。一本の白羽の矢を放つからその矢の落ちた所に観音様はある」と農夫に伝え、翌朝その農夫が光海に行くとそこには一本の白羽の矢があり、その水中に御丈6寸(18cm)の青磁の観音様を見つけ、信心深い農夫は家財を一切売り払って観音様を安置する御堂を建立したとされています。以後、この地域の人々に尊信され、毎年717日の御開帳には多くの参詣客で賑わいをみせています。(説明板)

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良雲寺(曹洞宗)           遺跡説明板


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郡家想定地としての永塚
永塚台地の北側には永塚長森遺跡永塚北畑遺跡が広がっています。両遺跡では数次にわたる発掘調査で弥生時代後期から平安時代にかけての遺蹟が発見されています。永塚長森遺跡では弥生時代後期から古墳時代前期方形周溝墓が発見されています。方形周溝墓とは弥生時代から古墳時代前期にかけての埋葬遺構です。中央の埋葬施設を取り囲むように四角く溝(周溝)を掘り墓域を区画したものです。丁度この説明板の前でも2基の方形周溝墓が確認され多くの遺物が出土しています。永塚台地では南側の永塚下り畑遺跡で20軒以上の住居跡が確認されていますが、この周辺では住居跡はほとんど見つかっていません。このような異なる遺構分布傾向から、永塚の北側には墓域が広がっていたのではないかと考えられます。

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永塚北畑遺跡では奈良・平安時代住居跡が多数確認されており集落が広がっていたことが分ります。しかしその一方で、永塚観音堂を中心とする永塚長森遺跡一帯では奈良時代以降の遺構はあまり確認できず、住居跡も発見されていません。このような集落遺跡の空白状況は千代台地における千代廃寺周辺の様子とよく似ています。千代の場合は寺院があったため集落が営まれなかったと考えられますが、永塚の場合も郡家(地方役所)があったためではないかと考えられています。今のところ郡家に関係する明確な遺構は発見されていませんが、このような住居跡の空白状態から郡家が永塚に所在した可能性を想定することができます。(小田原市教育委員会)

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街道の風景② 曽我病院前に説明板が立っています/永塚

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学史に残る下曽我遺跡の調査
下曽我遺跡1959年に行われた曽我病院の土取工事中に発見されました。翌1960年から発掘調査が行われ、木枠の井戸木柵列が発見され、木簡墨書土器などが出土したことで話題となりました。この時に発見された井戸は3基であり、出土した木簡は研究史上4例目で関東では初めての発見でした。

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最初の発掘調査から約40年後の2001年、社会福祉法永耕園の新築工事に伴って再び発掘調査が行われました。この調査では40年前に発見されていた井戸(1号井戸)を再び確認することができ、井戸の詳しい構造や規模を確認することができました。また、未確認であった井戸も新たに1基発見され、下曽我遺跡には合計4井戸が存在することが分りました。井戸の周りには曲物埋設遺構や護岸施設と考えられる木組み遺構も確認されており、この辺りが水の豊富な土地であったことが分りました。

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下曽我遺跡の調査では墨で文字が書かれた土師器や須恵器、灰釉陶磁器(はいゆう)が多く出土しています。このような土器を「墨書土器」と呼んでいますが、墨書土器は奈良時代頃から日本各地で見られるようになり平安時代になると多く出土するようになります。写真3に掲載した「千字文」とは習字の手習い書のことであり「上主ちょう」の主ちょうとは郡司(郡の長官)の役職名である「主帳」と同じ意味を表しています。他にも「」(け)「大家」(おおやけ)「」など郡家(地方役所)のような公共の建物を表す文字を記した土器が多く出土しています。このような墨書土器が多いことから、下曽我遺跡は一般的な集落と異なり郡家に付属する(津)であったのではないかと考えられています。(小田原市教育委員会)

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街道の風景③ 曽我病院の先の住宅地に説明板が立ちます/永塚

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集落がひろがる永塚下り旗(くだりはた)遺跡
この辺りの遺蹟は小字名から永塚下り畑遺跡と呼んでおり、弥生時代後期から平安時代にかけての遺蹟としてしられています。丁度この場所で2001年に発掘調査が行われ(永塚下り畑遺跡第Ⅳ地点)大きな成果が挙がりました。発掘調査では弥生時代後期から古墳時代前期の住居跡10軒確認されました。


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住居跡の中には神奈川県で3例目となる重圏文鏡と祭祀に用いられたと考えられる片口の高杯(たかつき)が出土するものや、ユリ科のネギ属の球根(アサツキやヤマラッキョウのようなもの)が納められた壺や神奈川県2例目(全国で6例目)となる琴柱垂飾品(ことじがすいしょうひん)の発見されるものもありました。これらの住居は集落の中でも特殊な役割を果たしていたと考えられます。

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また、古墳時代後期から奈良・平安時代の遺構も濃密に分布していました。その中でも1号道路状遺構は小石、土器、瓦の破片で表面を舗装した珍しい舗装道路で、同Ⅴ地点でも続きが発見されています。発見された住居跡はこの道路に沿って建てられていることが分りました。

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なお、永塚下り畑遺跡周辺では愛知県猿投窯で焼かれた緑釉陶器(ろくゆととうき)の破片が多く出土しています。緑釉陶器は平安時代の国産陶器としては最高級品です。永塚下り畑遺跡で多くの緑釉陶器が出土する理由は、南方の千代廃寺や永塚に所在地が推定される郡家(地方役所)との関わりが考えられます。先の舗装道路を歩き千代廃寺と郡家の間を往来する人々の姿が思い起こされます。(小田原市教育委員会)


・・・千代

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街道の風景④ 県道716号から一段上に「千代廃寺」の説明板が立ちます/千代

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忠魂碑が建ってます           県道716号


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千代寺院跡(千代廃寺)/千代
奈良・平安時代の千代には寺院が建てられていました(通称「千代寺院跡」「千代廃寺」)。195051(昭和2526)年に千代中学校の校庭造成のために県道沿いの千代字北町で土取り工事が行われ鬼瓦を含む大量の瓦などが採集されています。1958(昭和33)年に寺院跡の実態解明を目的とした最初の発掘調査が行われました。現在忠魂碑の建つこの場所も台ノ塚と呼ばれ1960(昭和35)年に発掘調査が行われています。いずれも、明確な寺院の痕跡は見つかりませんでした。

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その後の発掘調査でも具体的な姿が明らかにならず千代寺院跡は謎に包まれた状態が長く続きました。2006(平成18)年に千代字南原で行われた千代南原遺跡24地点で、主要建物の基礎(基壇)跡が検出されました。初めての建物跡の発見で千代寺院跡の実態解明の大きな一歩となりました。




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また、低地の千代南原遺跡第7地点では、公的な施設の存在を示す木簡2点が出土しているほか、千代仲ノ町遺跡第4地点では、寺院などの厨房施設を意味する「」の文字が記された墨書土器が出土するなど寺院の様子が次第に明らかになっています。かつては千代の寺院を東大寺式の伽藍配置を持つ初期国分寺とする説もありました。近年では8世紀初頭地元豪族によって造営され、8世紀末から9世紀前半に修復された後、10世紀前半まで存続した寺院と考えられています。また、伽藍配置も法隆寺式であった可能性が指摘されています。永塚・下曽我遺跡に推定される古代の役所である足下郡家とともに、地方行政の中心であったようです。(小田原市教育委員会)


・・・高田

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街道の風景⑤ 若宮八幡神社の境内にも説明版が立ちます/高田

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若宮八幡宮周辺の遺蹟
若宮八幡周辺で最初に人々が生活するようになったのは3世紀前半の弥生時代後期のことです。永く古墳時代前半まで継続的に大規模な集落があったことが発掘調査によって明らかになっています。土器は煮炊きや食料の貯蔵など生活の様々な場面で用いられましたが、若宮八幡東側の高田宮町遺跡Ⅱ地点の調査では肩の部分に2つの口がついた全国的にも珍しい壺形土器が見つかっています。また。北側の高田北之前遺跡Ⅱ地点では、破損のため先端部分だけですが磨製石剣と呼ばれる道具が出土しています。実用的なものでないため祭祀用の石器と考えられています。

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さらに中央集権的な国家の仕組みがつくられる古墳時代後期~奈良・平安時代の集落も見つかっています。奈良東大寺の正倉院には「高田郷」として高田の地名が確認できる8世紀の文書が伝わっています。永塚周辺や千代には郡家(地方役所)や寺院が造られ、高田郷は地域の中心的な役割を果たしていました。寺院や郡家の近くに位置していたためそれらと関係するような遺構、遺物も検出されています。高田北之前遺跡第Ⅱ地点では8世紀前半の大型の井戸が検出されているほか、当時の官人が腰帯に付けていた丸鞆(まるとも)と呼ばれる石製の帯飾りが出土しています。また、若宮八幡南側の高田宮町遺跡第Ⅳ地点では吉祥句である「千万」と墨書きされた灰柚陶器が見つかっています。(説明板)


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高田西原の道祖神/高田
「道祖神」といえば「サエノカミ」とか「サイノカミ」と呼ばれ、道路の神様として防塞を意味し外から襲いくる疫病、悪霊などを防塞する神として知られ、古くから集落の外にあって悪霊を防いで集落と旅人を守護する神であるといわれている。道祖神は小田原市内に252ヶ所で307体が存在するが、その60%の185体は浮彫双立合掌型である。ここ西原の道祖神も浮彫双立合掌型であるが、市内の数多くの道祖神の中で在銘による最古の道祖神である。彫られた銘によれば寛文庚戌歳高田村とあるから335年前に建立されたものである。また、最も古い道祖神であるのに摩滅も少なくその美しいお姿を今に伝えていることから昭和63年小田原市有形民俗文化財に指定された。(説明板)


・・・下堀

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街道の風景⑥ 小田原厚木、県道の先、関口川を渡ると下堀です/高田橋下流

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717号を横断              公民館に説明板があります

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下堀方形居館
説明板の前方約40mの場所には下堀方形居館と呼ばれる中世豪族クラス居館と推定される遺構が残っています。甲斐武田氏の家臣である志村氏の居館であっと推定されていますが、その出自は明らかではありません。


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堀の名残である用水路に囲まれた区画は南北129×東西103の規模で、出入り口と考えられる南西の東側がやや外側に広がっています。居館の北西側の県道部分の発掘調査では、居館をめぐる内堀と外堀の二重の堀が検出されました。内堀は土塁の裾から幅が7程度、外堀6m前後の堀底からは中世の陶磁器類の他漆碗や下駄、銅製の笄(こうかい)などが見つかりました。



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髪をかきあげるために用いられた笄は花菱と思われる家紋が施された優品です。さらに、堀の外側では井戸跡や堀立柱建物が見つかり居館に伴う施設があったものと考えられています。周辺から検出される遺構は居館と軸を揃えているものが多く、整然とした区画割りがなされていたことが明らかになっています。(小田原市教育委員会)

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中里下堀八幡神社鳥居


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中里下堀八幡神社沿革
祭神:譽田別之命(応神天皇) 祭祀:大祭43日現4月第1日曜日
由来:元和84月(西紀1623年)鎌倉八幡宮から分霊されて下堀村社八幡社としてまつられた。明治42年(西紀1909年)神社の整理統合政策により中里の無資社天津神社を併合して住民の鎮守神として中里494番地に 中里下堀八幡神社を建立した。明治44年(西紀1911年)神饌幣帛供進の格式を得る神社に指定される。昭和33年(西紀1958年)神殿を除き参集殿拝殿火災のため焼失。昭和422月(西紀1967年)氏子寄進により現神社再建。(説明板)


・・・中里

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街道の風景⑦ 中里ポケットパークの説明板

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中里遺跡/ポケットパーク
中里遺跡は1952年に大同毛織小田原工場建設の時に遺跡の一部が発見され、その後再開発事業のため1991年から3地点において本格的な発掘調査が行われました。その結果、この地区には今から約2150年前頃(弥生時代中期前半)東日本では最も古い本格的なコメ作りの集落があったことがわかりました。右の図のように第Ⅰ地点では多くの住居倉庫井戸などのある集落、第Ⅱ地点では水田、第Ⅲ地点では方形周溝墓と呼ばれる墓の跡が発見されています。こうした集落・水田・墓地がまとまって発掘されたことにより弥生時代の集落の全体を知ることの出来る貴重な遺跡といえます。

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また出土した瀬戸内地方土器などから遠く400kmも離れた瀬戸内地方の人々との交流によって、進んだ稲作技術東日本最も早い時期に取り入れた人々の集落遺跡であることが明らかになりました。中里遺跡はこのように学術的に大変貴重であり、小田原の歴史を知るための代表的な遺産でもあるところから発掘された住居跡の一つを再現し、中里遺跡ポケットパークとして市民の皆さんに弥生文化に親しんでいただこうとするものです。(株式会社ダイドーリミテッド 小田原市教育委員会)

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下曽我駅周辺の遺跡図/「永塚遺跡群と下曽我遺跡」(小田原市教育委員会編)を参照しました


・・・飯泉

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街道の風景⑧ 巡礼道を飯山観音に向かいます/飯泉観音手前

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巡礼道道標              飯泉交差点を直進/255号

国道255

秦野市より足柄上郡松田町を経て小田原市へ至る一般国道である。秦野市と足柄上郡松田町の間は国道246号と重複しているため、単独区間は足柄上郡松田町(国道246号)と小田原市(国道1号)の間である。国道1号と国道246号を南北に結んでおり足柄平野の主要ルートとしての役割を果たしている。Wikipedia

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勝福寺山門

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勝福寺(しょうふくじ)
小田原市飯泉にある真言宗東寺派の寺院。山号は飯泉山。本尊は十一面観音で、坂東三十三箇所5番札所である。飯泉観音(いいずみかんのん)とも称される。この寺は奈良時代孝謙上皇の信頼を得たが、上皇の没後下野国薬師寺に左遷されることとなった僧・道鏡が下野国へ赴く途中、上皇から賜った十一面観音を相模国足柄下郡千代村に堂宇を建立して安置したのに始まると伝えられる。この観音像は、唐からの僧。鑑真が請来したものと伝えられ、当初は補陀落山と号し、道鏡の出身である弓削氏氏寺であったという。平安時代の830年(天長7年)現在地に移ったとされ、室町時代に現在の勝福寺と号するようになり、後北条氏の帰依を得た。なお、この寺には曾我兄弟(曾我裕成・時致)が仇討の際に日参して成就したことや、二宮尊徳が14歳の時、旅僧の訓読する観音経を聞いて発心したという伝説が残されている。Wikipedia

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飯山観音仁王門

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勝福寺の仁王門
飯泉山勝福寺は真言宗東寺派に属し、通称飯泉観音と呼ばれ坂東33
観音の第5番札所として有名です。本堂や本尊の十一面観音は県の重要文化財に指定されるなど由緒ある寺院です。仁王門は「飯泉誌」によると宝暦8年(1758)に造営されたもので、全体に木割れが太く、二重の虹梁蟇股(こうりょうかえるまた)式の妻架構(つまかこう)が堂々とした外観を構成しています。また八脚門としては県下でも最大限で格調高いものです。この仁王門も老朽化のため昭和34年から38年まで解体修理され、屋根も瓦葺から銅板葺に改変されましたが、それ以外は貫などに新材で補修した場所があるものの原形をよくとどめています。(説明板)

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飯泉山勝福寺(通称飯泉観音)
飯泉山勝福寺は真言宗東寺派に属し、十一面観音を本尊とする。創立は奈良時代の頃、弓削道鏡が流されて下野に赴くとき、千代の郷に寺を建立し孝謙天皇より賜った唐国伝来観音像を安置したのに始まると伝えられている(千葉山弓削寺)。後に寺が焼けて当地に移され飯泉山勝福寺と称した。坂東33観音の5番札所としても有名で、国府津の額木橋から当寺までの道は巡礼道と呼ばれている。棟札によれば、現在の本堂は宝永3年(1706)に再建されたもので、江戸初期の古式をとどめた地方色豊かな建物である。本寺にまつわる伝承として、曽我兄弟が仇討祈願のため日参し五郎が百人力、十郎が十人力を授かり富士の裾野で仇討に成功したことや、講談で有名な雷電為右衛門が田舎相撲の大岩第五郎を倒したことがある。また、二宮尊徳が少年時代の頃旅僧から観音経を聞き一念発起した地であると言われている。飯泉観音の縁日は118日が初観音、89日・10日が四万八千日、127日・8日がだるま市で、いずれも市が立ち多くの人で賑わう。(説明板)


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勝福寺の青銅水鉢
水鉢は青銅製で帆船の形をしています。船尾に十一面観音菩薩の座像が一体あり、水鉢の全体に多数の銘文が刻まれています。銘文によれば作者は江戸神田の鋳物師小沼播磨守藤原正永とあり、江戸時代の宝永元年(17047月と記してあります。この水鉢は水鉢として形などが珍しくその造りも優れています。全長274cm、幅45cm、高さ82cm。(小田原市教育委員会)

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勝福寺の銅鐘
この銅鐘は青銅製の和鐘で、銘文により江戸時代初期の寛永6年(1629)に地元小田原の鋳物師である青木源右衛門が作ったことがわかります。また、この銅鐘の奉納者は江戸の侍である佐須弥左衛門尉政重と記されています。小田原の鋳物業は戦国時代に北条氏から庇護を受け、関東鋳物業の中心でありました。江戸時代になってからも鋳物は栄え山田、長谷川、青木の緒家から名工が生まれ小田原の梵鐘として広く知られてきました。この銅鐘もその一つであり、市内に残る数少ない銅鐘の内でも優れたものであります。総高139cm 鐘身高100cm 口径74cm 童頭高28cm(小田原市教育委員会)


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勝福寺の大イチョウ             二宮金次郎発願の像

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八幡神社鳥居/飯泉

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八幡神社
主祭神:誉田別命 例祭日:10月第1日曜日  境内末社:稲荷社・天神社・神明社
古来、茲飯泉は鎌倉街道・大山街道・足柄山道・箱根山道等々が交錯し、殊に(まりこ)(現在の酒匂川)の渡し場と共に交通の要衝であったが、同時に洪水・地震・噴火に悩まされた住民は相謀り、永年の願望だった茲飯泉村に鎮守神を奉斎すべく、時の宗我麿介広之(宗我都比古神社々主)に請願し、鎌倉八幡宮のご分霊を奉遷したのである。其の後逐次近郊の末社を整理集合して郷社として天下泰平・五穀豊穣・安産・永世平和の守護神として崇尊され祀られてでた。(由緒書き)

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街道の風景⑨ 左から狩川が合わせます、かつては「飯泉の渡し」箱根の山が眼前に迫ります/飯泉橋

狩川

神奈川県の足柄平野西部を流れ酒匂川に合流する二級河川。二級河川部分の延長は13.64kmである。神奈川県南足柄氏の金時山東斜面に源を発し北上、その後足柄街道(県道78号線)に沿って流れる。南足柄市役所や大雄山駅近くからは県道74号線に沿って概ね南東へ向かって流れ、小田原市飯泉の国道255号飯泉橋付近で酒匂川に合流するWikipedia


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振り返って見る曽我丘陵、北は松田丘陵&丹沢山地です/飯泉橋曽

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曽我の里ルート図(赤:歩行ルート 橙:旧東海道 紫:巡礼道 緑:六本木通り)


・・・・
資料ファイル

足柄下郡

神奈川県西部にある郡。以下の3町(箱根町、真鶴町、湯河原町を含む。郡域は上記の3町以外では現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。小田原市(大字曽比、栢山、上曽我、曽我大沢、鬼柳、下大井を除く全域)。713(和銅6年)律令時代「好字二字の制」により足下郡と表記されることとなり、これによって「あしのしも」という読みも行われた。郡衙は小田原市内の千代廃寺付近と推定されている。Wikipedia


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足柄郡家と千代廃寺
千代廃寺(千代寺院)は研究史の上では初期国分寺に比定されたことがありました。これは「府中」(ふなか)や「国府津」という地名、そして千代廃寺の伽藍配置が東大寺方式であるとされたことによります。そのため千代廃寺に隣接した永塚台地に初期相模国府があったとする説も木下良氏によって唱えられました。現在では初期相模国府説は否定されていますが、この考え方はそっくり初期寺院郡家に置き換えることができます。というのも郡家の近隣では初期の古代寺院の跡が発見されることが多いからです。こうした寺院は郡寺、郡附属施設寺院、郡家周辺寺院などと呼ばれています。
国府津も国府の津(湊)を語源とするものではなく「郡津」(こほりのつ)が転訛したものではないかと考えられています。

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永塚に足下郡家があったとすとその中心はどこだったのでしょう。ここでは先に示した集落遺跡の空白地、永塚観音堂周辺に広がる永塚長森遺跡候補地としてクローズアップされてきます。そして郡家の存在と深く関わる古代の東海道は足下群と足上郡の郡境を東西に走り、大磯丘陵の手前でに方向を変えて国府津付近に比定されている小総駅家(おぶさのうまや)へと続くものと思われます。
下曽我遺跡の立地は台地から下った低地部にあります。この一帯は永塚小海端、曽我岸、曽我岸、曽我光湖、曽我耕海、千代光海などの地名が残るように森戸川の氾濫による低地が広がっていました。低湿地が埋め立てらて今の姿になったのは天保81837以降であることが千代三嶋神社の開拓記念碑から分かります。おそらく古代には小舟を使って下曽我遺跡の辺りまでは森戸川を遡ることができたのでしょう。そのように考えると下曽我遺跡は郡家に付属するの機能を持っていたこと考えることができます。隣接する永塚下り畑Ⅳ地点で見つかった舗装道路跡も郡家と津、さらには千代廃寺を結ぶ地域の重要道路だったのではないでしょうか。(「永塚遺跡群と下曽我遺跡」/小田原市教育委員会編を参照しました)

相模国府-四之宮(平塚)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26660116/

# by Twalking | 2018-07-13 10:32 | 古東海道関連(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 市ヶ谷駅   

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総武線市ヶ谷駅/千代田区五番町
このホームから見る外濠はいいですね!
好きな風景の一つです。


市ケ谷駅
千代田区・新宿区にあるJR東日本・東京メトロ・都営地下鉄の駅である。JR東日本の駅に乗り入れている路線は中央線であるが、当駅には緩行線を走る中央・総武線各駅停車のみが停車する。島式ホーム12線を持つ地上駅で橋上駅舎を有している。出口は新宿寄りに1か所ある。他に地下鉄各線への乗り換え口がある。ホームは外濠の真横にあり、外濠には釣り堀もある。とくに桜が満開となる時期の景観は美しい。Wikipedia

# by Twalking | 2018-07-12 17:44 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 新宿駅   

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新宿駅
総武線上りホームの一番後ろです。
通勤帯ではありませんが混んでますね・・・、
狭いから気おつけないと。

# by Twalking | 2018-07-09 20:42 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 伝曽我祐信宝篋印塔   

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伝曽我祐信宝篋印塔/曽我谷津
昔から土地の人々に「祐信さんの供養塔」と呼ばれています。銘を持たないので造塔の意図、年時、造立者、大工名等一切不明ですが、死者往生を本願としたものと思われます。塔の総高は220cm(基壇を除く)に達し、基壇の上に蓮座、基礎、塔身、笠、相輪の順で積み上げられています。関東における基本的な様式を備えた宝篋印塔で、県下においても屈指の貴重なものです。(小田原市教育委員会)


# by Twalking | 2018-07-09 11:37 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夕焼け   

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多摩センター駅南口/多摩市
う~ん、綺麗な夕焼けだこと。
穏やかに暮れていきます。

# by Twalking | 2018-07-08 23:12 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり『曽我の里』02-六本木峠   

日時 2018.6.29(金)
天気 晴れ

中村郷と曽我郷を結ぶ峠が六本松、古い道です。
この峠付近からの展望は素晴らしいです。
大磯丘陵、足柄平野、箱根など地形がよく分かります。

峠から南へ尾根道を行くと国府津、この散策路も魅力的、
今回は曽我氏と千代廃寺遺跡を目的にしましたので、
途中から下りましたが、歩いてみたいコースです。


・・・曽我谷津

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街道の風景① 二差路へ戻り橋を渡って峠へ向かいます

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二差路                        曽我谷津集落

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伝曽我祐信宝篋印塔/曽我谷津
昔から土地の人々に「祐信さんの供養塔」と呼ばれています。銘を持たないので造塔の意図、年時、造立者、大工名等一切不明ですが、死者往生を本願としたものと思われます。塔の総高は220cm(基壇を除く)に達し、基壇の上に蓮座、基礎、塔身、笠、相輪の順で積み上げられています。関東における基本的な様式を備えた宝篋印塔で、県下においても屈指の貴重なものです。(小田原市教育委員会)

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街道の風景② 眼下に小田原の街、相模灘に浮かぶ真鶴半島、その奥が天城連山、素晴らしい景観です/宝篋印塔前

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箱根連山&足柄平野

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鞍部が峠でしょうか          大山道の合流地


・・・六本木峠

六本松跡

六本松跡は曽我山(当時山彦山といった)峠道で、六本の古松があったことからこう呼ばれています。この峠は鎌倉時代、曽我氏・中村氏・松田氏・河村氏の各豪族居館鎌倉を結んでおり、曽我別所から足柄峠へと通ずる「鎌倉道」、大山からこの峠を越えて高田・千代・飯泉へ通ずる「大山道(中村通)」そして押切方面より小田原に至る「箱根道」が交わる重要な峠であったといわれています。現在は一本の松も存在しませんが、大正7(1918)孤山人(尾崎八束宗我神社神官)筆の六本松跡碑があります。また、俳聖芭蕉の句碑がありこの碑は芭蕉復興運動を行った加舎白雄が建てたものであるとされています。(小田原市HP)

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街道の風景③ 切通の先が峠です(曽我郷側)

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こちらの方が峠らしいですね(中村郷側)

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六本松跡
古代、千代台地師長国府中で、この地方の文化の中心であったので西からの旅人は皆ここに寄って、この道を目指す坂東や奥羽へと向かったと推定(弓削道鏡等)される。その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開き、上洛富士の巻狩りなどにこの道を通り、いまも鎌倉山、将軍山また豪族中村氏が出迎えした所を「火迎え」などの地名が残っている。また、この地の豪族が鎌倉に馳せ参じた鎌倉街道でもあり、坂東33番観音の5番勝福寺から6番長谷寺に詣でる巡礼道でもある。戦国乱世のころ、京の聖護院准后道興は『答えする 人こそなけれ 足曳の 山彦山は 嵐吹くなり』を詠み、降って文禄の頃松尾芭蕉は『ほととぎす 鳴き鳴き飛ぶぞ いそがわし』、門人の白雉は『人の知る 曽我中村や 青嵐』、その後蕪村も『雨ほろほろ 曽我中村の 田植かな』と詠んだ。この六本松の地名となった最後の末の大樹は明治の終わり頃惜しくも長い一生を終わっている。(説明板)

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六本松跡碑              芭蕉句碑

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峠から西側は見えませんが東南側の展望は秀逸です(中央が吾妻山 左奥が湘南平、その下の谷間が中村郷でしょうか)

中村郷の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26940268/
高麗山・湘南平の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/21471193/
吾妻山の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/17630359/)

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尾根道を北へ行くと忍石があります、その途中から峠方向の景観です

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伝曽我十郎・虎御前の「忍石」
「曽我物語」によれば曽我十郎祐成(すけなり)は仇討に旅立つ前の日、恋人の虎御前と曽我でひとときを過ごした後、虎を馬で大磯へ送り返した。その時、人目を忍んで通った「山彦山の中村道」と伝承される道筋が23ありこの大山道もその一つ。そしてこの「忍石」の辺りで二人は涙ながらに別れを惜しんだとされているが「忍石」の意味は定かではない。「曽我物語」は二人の嘆きを万葉時代、新羅に征く夫を山頂から見送り、そのまま石になってしまったという松浦佐用姫になぞらえている。この「忍石」にもそのようなイメージを重ねた後の村人の思いがこめられているようでもある。また、石の中央には手形に似た窪みがあり十郎が力を試していた力石だともいわれている。(説明板)

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峠から尾根上を一本松・国府津方面へ向かいます

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一本松(185m)から麓へ下ります    結構急な坂道です


・・・曽我別所

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街道の風景④ 杉林の中をつづらに下ります

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県道72号にでます           ここのアイスお勧めです

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下久保の道祖神ほか石造物群
ここには次の石造物が見られます
道祖神:小田原市内でも最も多く見られる浮き彫り双立像です。この像は僧形となっています。神講碑:この碑は弘化3年(1846)造立で、中央に天神社と彫られています。この地の地神講の人々が建てたものです。題目塔:中央に南無妙法華経と彫られています。安政5年(1858)この地にコレラが流行した時、法華経1千部を奉唱して病気退散を祈りました。老人や子供までも昼も夜も題目を唱えたことが碑文に読まれています。(小田原市教育委員会)

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法蓮寺山門/曽我別所

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本堂                 毘沙門天堂

法蓮寺と毘沙門天像
山号は千葉山(せんようざん)。この地の古寺の通例としてもとは天台宗であったというが、寺伝によると慶長19年(1614)に日蓮宗に改宗したという。この寺の木彫毘沙門天像は現在独立した毘沙門天堂に祀られ、古風な唐破風二重樽木の厨子に安置されている。この像は別名「夢の毘沙門天」ともいわれ、安永3年(1774)に住職の日迂上人(にちろう)と小八幡の漁師双方の夢枕に立った。そしてその言葉とおり小田原市小八幡の海で漁網にかかって出現したという伝承がある。毎年1月の寅の日が毘沙門天の縁日であったが、現在では毎月17日が縁日で近郷から信者が集まってくる。また山門に二基の題目塔がある。(小田原市教育委員会)

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満江御前の墓/法蓮寺

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満江御前の墓
満江(まんこう)御前は日本三大仇討の一つとして名高い曽我兄弟・十郎祐成(すけなり)と五郎時教(ときむね)のである。伊豆の狩野親光三女で、最初の夫は伊豆の国司代の源佐衛門尉仲成で一男一女を生んで4年にして離別した。その後伊東祐親(すけちか)の嫡男・河津の庄の地頭河津三郎祐泰(すけやす)と再婚し、三人の男子を出生した。の幼名は一万のちの十郎祐成で、箱王のちの五郎と時教で、末弟は祐泰の死後誕生した律師坊実永である。一族の領地争が起因で夫の祐泰が非業の死を遂げ、舅の伊東祐親のすすめにより曽我の庄の地頭の曽我太郎祐信(あすけのぶ)の夫人となる、安元2年(1176)満江三十歳位。十郎・五郎兄弟が富士の裾野で夫の敵の工藤祐経を仇討した後、建久6年(1195)夫の祐泰と共に出家し、当地の曽我別所に大御堂を建て兄弟の霊を供養してきたが、正治元年(1199)兄弟の七回忌の528日奇しくも没した。この年満江は50歳位だったという。(案内板)


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曽我物語「小袖乞い」の伝承地/曽我別所
曽我兄弟は源頼朝の巻狩りに随行している仇敵工藤裕経(すけつね)を討つために、いよいよ富士の裾野へ向おうとするとき、今生の別れに母の満江御前から小袖を乞いうけた。著明な曽我物語「小袖乞い」の一節は謡曲や幸若舞においても「小袖曽我」として代々語り、舞いつがれ人々の涙をそそってきた。

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「皇国地誌残稿」は曽我別所の字防田(ぼうだ)に溜池大屋敷があったと記している。地元ではその大屋敷が、満江御前が居住としていた蘇我氏下屋敷であったと伝えており、現在の曽我別所公民館がその屋敷跡にあたる。この前かつて大池があり、そこに祀られていた水神碑が現存している。また、屋敷地の東南に隣接する武藤、安池両家の祖先は伊豆から満江御前に随行してきた家臣であったと伝えられている。(小田原市教育委員会)

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街道の風景⑤ 峠から六本松通り大山道はここに下ってきます

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大山道
大山は神奈川県の最高峰のひとつで、雨降山とも呼ばれた。江戸時代にはその中腹の不動寺の鉄不動が広く尊崇され、明治以降には阿夫利神社が信仰されている。相模平野の農村では雨乞いなど農業の守護が祈られ、漁村では船の上からも遥拝される山なので海上安全の目的で信仰された。江戸から講を作って参詣団が来るのは、春秋のリクリエーションの目的を兼ねていた。その大山への参詣道が「大山みち」で、相模平野の各地から多くのルートがあった。曽我の大山みちは千代-曽我原殿沢川曽我別所六本松峠-田中のルートである。(小田原市教育委員会)

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二宮尊徳遺髪塚
尊徳二宮金次郎の母・よし実家は旧曽我別所村の川久保太兵衛であった。当時、川久保家は父太兵衛の代になると分をこえた生活と病災にみまわれて家運も傾き始めた。天保11年(1840)、尊徳は川久保家の再興をはかることになり市太郎、民次郎、常次郎の3人の息子に無利息の報徳金を貸与し復興の指導を行った。その結果、もっともすぐれた成果を上げた民次郎が川久保家を継ぐことになった。この民次郎は下野国桜町(栃木県二宮町)仕法時代から永らく尊徳従者として仕えており、尊徳の死去にあたりその遺髪を保て曽我へ帰った。この遺髪塚は民次郎の遺言によるもので、孫の興三郎が昭和13年にその遺志を継いで建てたものである。(小田原市教育委員会)

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南谷寺東光院山門

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本堂                 延命地蔵

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徳本の名号碑ほか石造物
徳本(17581818)は日課として弥陀の六文名号を唱えることを教え、江戸で教化していた頃は毎日数千人の群衆に囲まれたという。この碑は天保5年(1834)の造立で徳本没後16年を過ぎているが裏面にh足柄平野一帯の各地の長一面に刻まれており、なお進行が衰えていないことが知られる。六地蔵は笠付き六角柱の各面に地蔵の立像を浮き彫彫刻にし、文化2年(1805)の銘がある。もとは大山道沿いに祀られていた。(小田原市)

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街道の風景⑥ 旧道を下曽我駅に戻り、西側の古墳群巡りへ向かいます/下曽我駅入口

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ウオーキング案内図/六本松峠
(赤:歩行ルート 緑:六本木通り大山道 黄:国府津・曽我の里散策コース 黄角:六本木峠)


# by Twalking | 2018-07-08 15:58 | 古東海道関連(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夜明けの空   

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多摩丘陵/多摩市
美しいけど
なんだか不気味な空
悪さしないでね~・・・、頼むよ!

# by Twalking | 2018-07-08 10:22 | ○雲

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 市ヶ谷水管橋   

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市ヶ谷水管橋/外濠通り
市ヶ谷橋の隣にある水管橋です。
下は釣り堀、親見附濠と中央線を跨ぎます。
説明板がないので、現役なんでしょうか???


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市谷水管橋
『東京市の水道が中央線と外濠をオーヴァするところ、市ヶ谷見付に架設された總長322呎の水道橋、幅員15呎で、徑間は563連、5831連連の5徑間。下路鋼鈑桁橋で、橋臺は混凝土、橋脚鐵筋混凝土造』(新東京名所市ヶ谷見附跨線水道橋)と紹介されているそうです。中央線を跨ぐ部分は(29.26m) 、外濠を跨ぐ部分は (17.07m) 3 + (17.68m) 1連の橋で、橋歴版には「昭和四年 株式會社橫河橋梁製作所 製作」とあります。


# by Twalking | 2018-07-07 21:41 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ボアソナード・タワー   

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牛込濠/外堀通り(新宿区市谷田町)
「う、誰だい???」
「天下の法政よ!」
「ボアソナード・タワー、「学祖」さまか、失礼しました」


ボアソナード・タワー

千代田区富士見町2丁目にある超高層ビル(高さ122m)であり、法政大学市ヶ谷キャンパスの校舎である。法政大学創立120周年記念事業の一環として2000年に53年館と第Ⅱ58年館の跡地に建設された建築物である。千代田区富士見一帯の中で随一の高さを誇る建築物であり、法政大学市ヶ谷キャンパスのシンボルとして、学生の間では「ボアソ」と称され親しまれている。名称は大学内の公募によって決定された。法政大学の祖であり、同大学の前身である「東京法学校」の教頭として就任したボアソナード(フランスの法学者)に由来している。Wikipedia


# by Twalking | 2018-07-07 14:25 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 『明年此の会 誰か健なるを知らんや』   

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新見附濠/新見附橋(千代田区市谷田町)

『明年此の会 誰か健なるを知らんや』
七夕の頃、年に一度の親睦会があります。めったに都心にでることはありませんが、この会は欠かせません。「年とったな・・・」と思うことはありますが、ここに来ると「何を、若造が」でちょん。みなさん、矍鑠として意気軒昂、凄いことです。昼間の開催にしたので、ネオンはありませんが、記念に一枚。いい時間でした、ありがとうございました、どうぞお元気で。


新見附橋

一口坂を下りきった新見附交差点から新宿区市谷田町に向かって、JR中央・総武線を越え外濠の水を横切っている橋です。明治中頃、外濠の牛込橋と市ヶ谷橋の中間点を埋め立てて橋が造られ、旧麹町区と旧牛込区の住民の行き来の便宜が図られました。その結果、外濠は二つに仕切られ下流の牛込橋寄りは牛込濠、上流の市ヶ谷橋寄りは新見附濠と呼ばれるようになりました。現在の橋は昭和4年(192976日の架橋で、長さ20.65m、幅11.27mの鋼橋です。(千代田区観光協会)


# by Twalking | 2018-07-06 22:57 | さんぽみち

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 飯田橋駅   

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総武線飯田橋駅/千代田区飯田橋
久し振りに都心にでました。
この線形好きなんですが、危ないですね・・・、
現在、西口を改良工事中です。


JR
東日本飯田橋駅/千代田区飯田橋

島式ホーム12線を有する高架駅、駅舎は東西に出口がある。地形が傾斜しているため東口側は高架駅舎のようになっているが西口側は橋上駅舎となっている。ホームが半径300mの急カーブに位置するためホームと電車の間には広い隙間ができる。かつては市ケ谷方面に牛込駅がありその跡地に千葉方面から折り返し運転をするための引き上げ線が設置されていた。20147月、JR東日本はホームを現西口を中心とした新宿方の直線区間へ約200m移設してホームと車両の隙間を解消させるとともに、西口駅舎の建て替えと駅前広場の整備を実施することを発表した。前述の引き上げ線の跡地を再利用するもの。20168月から仮駅舎での営業を開始し牛込橋に面した旧西口は閉鎖されている。Wikipedia


# by Twalking | 2018-07-06 22:05 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり『曽我の里』01-曽我氏館跡   

日時 2018.6.29(金)
天気 晴れ


曽我の里は訪ねましたが、六本木峠は寄らなかったので、
もう一度歩き直したいと思っていたところです。
中村郷から六本木峠を見た機会に再訪してみました。

ここは曽我氏関連の史蹟、六本木峠、そして古東海道
関連の千代廃寺跡など見所が多い所です。
暑いですが、景色は抜群、楽しみに歩きます。


・・・曽我

神奈川県小田原市の東方、
曽我山西麓一帯の地区。旧曽我村。JR御殿場線下曽我駅近くの地で、地形上は酒匂川地溝帯の東部断層が走り、関東大震災の際の大被害地の一つとして知られる。断層崖下には侵食谷がつくった小扇状群が並ぶ。中世曽我荘の本領をなし宗我神社、城前寺など曽我氏ゆかりの社寺があり、毎年5月傘焼祭(曽我祭)が催される。ここの扇状地群にはウメが栽培されて小田原特産の梅干しの原料とされてきた(現在約35000本)。近年晩冬から初春の梅花季には水戸、越生(埼玉県)などとともにここでも梅祭が催され観梅客でにぎわう。(コトバンク)

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街道の風景① 駅前から北へ蘇我氏ゆかりの地へ向かいます/下曽我駅

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奇祭「曽我の傘焼きまつり」
ここ曽我の里は歴史的遺跡や遺物が何気なく日々の暮らしの中に溶け込んでいる里であり、日本三大仇討ちの一つ曽我兄弟の仇討ちゆかりの地です。建久4年(1193528日、源頼朝が催した富士の裾野の巻狩りで兄弟は父の仇討ちを成就しました。その時、傘を燃やして松明にしたという故事にちなんで、毎年曽我氏の菩提寺「城前寺」で兄弟の供養の為「曽我の傘焼きまつり」が行われています。十郎祐成22歳、弟五郎時致20歳でした。この仇討ちは民衆に広く知れ渡り「曽我物語」が生まれ、江戸時代に歌舞伎や謡曲、浄瑠璃等で曽我物として演じられ、人々の心をとらえ今もその人気はかわっていません。(曽我兄弟遺跡保存会)

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街道の風景② 県道72号の先、左へ上ると宗我神社があります/曽我谷津

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文学碑建立の趣旨
尾崎一雄先生は
曽我谷津に在住し、作家として日本独特の文学である私小説において幾多の優れた作品を発表し、第5回芥川賞をはじめ数々の文学賞を受賞されるとともに、昭和53年文化勲章を受章されました。これは先生の栄誉であると同時に本市にとっても誇りであります。また小田原文話会の顧問として後進の指導にあたり地域に根差した本市文化の向上に寄与されました。昭和55年の市制40周年記念式典において先生を特別表彰するとともに文学碑を建立し、その功績を永く顕彰するものです。(説明板

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宗我神社鳥居/
曽我谷津

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宗我神社
祭神:宗我都比古命(そがつひこのみこと)宗我都比女命(そがつひめのみこと)
宗我神社は明治28年の神社上書に依れば「長元々年(1028)に奈良県橿原市曽我町の式内大社宗我都比古神社の神主だった宗我保慶が祖先の宗我都比古命の墓を訪い、同時に武内宿弥及び宗我都比古命を鎮祭して・・・」が当社の創建と決めています。 足柄上郡旧上曽我村及び曽我大沢と、下郡の下曽我に属する旧四村を併せて、古くは曽我郷六ヶ村と呼ばれました。その総鎮守が宗我神社でした。小田原北条氏の時代から小田原城鬼門擁護の神社とされていました。江戸時代には小沢明神の名で総崇され、明治に入って六ヶ村それぞれの鎮守を この社に会示し、新たに宗我神社となりました。現在の社殿は大正12年(1923)関東大震災後に復興したものです。(案内板)

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宗我神社と尾崎一雄
宗我神社は曽我祐信再興したとされる曽我郷六ヶ村(上曽我、曽我大沢、曽我谷津、曽我岸、曽我原、曽我別所)総鎮守で、江戸時代には小沢明神と呼ばれていました。長元元年(1028)曽我播磨守保慶の建立で、曽我氏の祖先を祀った神社といわれています。明治に入り六ヶ村それぞれの鎮守をこの社に合祀し、新たに宗我神社となりました。現在の社殿は、大正12(1923)関東大震災後に復興したものです。宗我神社の神主の家に生まれた尾崎一雄(18991983)は昭和12(1937)に第5回芥川賞を受賞し、昭和53年には文化勲章を受章しました。作品の舞台は生まれ育った下曽我を中心とするものが多く、昭和の代表的私小説家として独自の境地を開きました。宗我神社の大鳥居付近に建立された尾崎一雄文学碑には、下曽我から見える富士の姿を記した「虫のいろいろ」の一節が刻まれています。(小田原市HP)


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曽我谷津岩本遺跡第Ⅱ地点
この説明板から南東へ約240mの曽我谷津岩本遺跡第Ⅱ地点では平成24年(2012)に発掘調査が行われ、縄文時代中期(勝坂式期)の竪穴住居跡の中から小田原市を含む足柄平野周辺地域で初めて「台形土器」と呼ばれる遺物が見つかりました。台形土器はものを載せるための円形の受け面とこれを支える脚部を持つ土器で、縄文土器を製作する台としての機能が有力視されています。又燃成粘土塊という年度の質を確かめるテストピースやミニチュア土器が出土しているほか、土器焼きを行った痕跡と考えられる遺構が見つかっています。このようにこの地点の周辺はかつて縄文時代の土器づくりを行っていたムラがあったことが発掘調査の成果で明らかになってきました。勝坂式土器はその文様の特徴や東海地方の土器が出土することなどから、山梨や静岡の縄文文化の影響を受けて作られたこの地域に特徴的なものであることが分りました。(説明板)


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小沢明神薬師堂の旧地/公民館
小沢明神とは旧曽我村六村の鎮守で明治以来宗我神社となった。この明神の東隣りに位置するここには小沢明神の本地物(神体仏)とされる薬師三尊が祀られその堂は古くは「小沢山神宮寺」と称した。当時の別当寺は法輪寺なのでその古い縁をたどって大正3年に薬師三尊は薬師堂とともに法輪寺に移っている。公民館横の石造観音菩薩立像はこの地の人々が観音霊場の巡礼をしたときの供養塔である。ここは法輪寺大門の位置にあり、六地蔵などの石物が並んでいたがそれらも大正3年に法輪寺に移されている(小田原市)

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街道の風景③ 殿沢川が流れる参道、潤いがあります/法輪寺門前

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法輪寺山門/曽我谷津


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法輪寺
法輪寺は盤谷山(はんこくさん)と号する臨済宗建長寺派の寺院です。創建は延文3年(1358)、開山は建長寺35世の了道素安(本覚禅師)、開基は浄智温中と伝えられています。かつては天台宗寺院の慮尊寺(ろそんじ)と称したといいます。天保2年(1831)の火災により本尊の運慶作と伝えられる地蔵菩薩坐像は焼失し、その後本尊である室町時代造立の釈迦如来坐像が隠居寺より移されています。境内にある薬師堂(瑠璃光殿)は法輪寺の大門跡(現曽我谷津公民館)から大正3年(1915)移設したものです。平安時代造立の薬師三尊像、脇には十二神将像が祀られています。寺の東には祐信山崇泉寺という曽我太郎祐信(すけのぶ)の菩提寺があり、崇泉寺殿智獄祐信大居士という位牌がありましたが、廃寺後この位牌は法輪寺に安置されています。(案内板)

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薬師堂                参道入口の石造群

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大光院山門/曽我谷津

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本山修験大光院
諸法山実相寺と称し文明18年(1486)の起立と伝えられている。本尊は木彫不動尊。はじめ本山修験で小田原城下の玉滝坊(ごくりゅうほう)に属していたが、明治初頭に天台宗園城寺派に変わった。堂前に「神変大菩薩」の石塔が建ち明治32年の記録がある。神変大菩薩は役行者(えんのごうしゃ)のことで山岳修験の系譜につらなる寺であることが知られる。しかし大光院は久しく里修験として続いてきて地鎮祭、建前、病気平癒などの祈願が行われている。(小田原市教育委員会)


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五郎の沓石              石造群/城前寺角

五郎の沓石
この石は「五郎の沓石」と呼ばれ、あるとき曽我五郎(曽我物語で有名な曽我兄弟の弟)が足を患ったが、治癒した際自分の体力が衰えていないかと心配になり、試にこの石の上で踏ん張ったところ石が足形に窪んでしまったといわれ、その足形が石の真中辺りに残っています。この沓石は、以前は足を病んだ人たちが祈願して治ったお礼に、草履や草鞋などのお供え物が絶えなかったと言われています。(小田原市観光課)

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曽我谷津岩本遺跡第Ⅰ地点/城前寺
この説明板の北側の城前寺境内で行われた曽我谷津岩本遺跡第Ⅰ地点の調査は平成18年(2006)に「柄鏡形敷石住居」という縄文時代後期の住居がみつかりました。住居の出入り口部分が外に張出し、床面には平らな河原石が敷かれるという特徴を持ちます。中央には浅鉢形土器を地面に埋め込んだ炉が作られました。敷石に使用された石は根府川石と呼ばれる板状に割れやすい性質のある石を用いており、市域南西部の根府川から石材を調達していたことがわかりました。曽我谷津岩本第Ⅰ地点で発見された土器は形や文様の特徴から「堀之内式」「加曽利B式」と名付けられており今から3500年前に作られました(説明板)

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城前寺山門/曽我谷津

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城前寺
曽我兄弟の菩提寺で兄弟の育った曽我城大手前にあるのでこの名がある。建久4年(1193)富士の裾野で兄弟が父の仇・工藤裕経(すけつね)を討った後、叔父の宇佐美禅師はその遺骨を携え此の地に来て庵を結び兄弟の菩提を弔ったのがこの寺の始まりと伝えられている。なお、この討ち入りの時兄弟は暗夜であったため傘を燃やして松明としたので、仇討の日にあたる528日にはこの故事にならい境内で傘を焼いて兄弟の霊を慰める傘焼きまつりがおこなわれるが類例のない祭りであるので有名である。境内には十郎・五郎・父裕信(すけのぶ)・母満江(まんこう)御前の供養墓や十郎が大磯の虎御前をしのび腰を掛けて笛を鳴らした忍石、坪内逍遥筆で歌舞伎俳優連中寄付の兄弟の記念碑などほか各種のゆかりの品がある。なお、4人の墓の建つ墳丘曽我城土塁である。(案内板)


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孝行阿弥陀仏
ここに安置された阿弥陀如来坐像は忠臣蔵で知られた赤穂義士の一人(命日)「元禄1624日」(1703)吉田忠左衛門兼亮の遺児で、当寺14世の到誉達玄和尚が元文元年(1736)亡父の33回忌に当たって造像したものであります。昔から「孝行阿弥陀仏」とも呼ばれ、一心に念ずれば諸願成就せずということなしと、伝えられてきた有り難い御仏でもあります。(碑文)

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澄禅地蔵由来
慶長の頃、近江国で生まれた人である。浄土宗宗祖の遺風復奮したいと諸国を周遊し、曽我の剣沢に留まることとなった。富士の高嶺を望み弥陀の来迎を機するを願ふより他念なし。念仏行者としての澄禅は学徳たかき方であり、享保624日古智谷で遷化した。(碑文)

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十郎・五郎(左)、父裕信・母満江御前(右)の供養墓/城前

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十郎・五郎供養墓          父裕信・母満江御前供養墓

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街道の風景④ お寺の裏手にある曽我祐信屋敷跡へ向かいます/城前寺

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曽我氏館跡伝承地」です。東に曽我山、西に足柄平野を望む丘の上、遺構はありませんが碑が建ちます

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曽我氏館跡伝承地(曽我祐信屋敷跡)
新編相模風土記稿」に曽我太郎
祐信屋敷跡が『(曽我谷津)村の南北』『城前寺の後』にあり、四方を道で囲まれているとしている点から、館跡はほぼこの丘一体と考えられる。その規模は「23町許」(一辺が200300mの四角形)で、外構の土塁の跡や高さ25m前後土塁で囲まれた内郭跡(一辺が100mほど)が館跡の中央に残っていたことが記されている。現在、地表面からこれらの遺構を検証することは困難である。平成3年小田原市教育委員会によりこの区域の一部が発掘調査されたが、館にかかわる遺構・建物はまだ確認されていない曽我祐信は曽我兄弟の養父にあたる人物として知られているが、曽我氏は平安時代から戦国時代にわたってこの地に拠点を置いたと考えられる。この丘は周辺で鎌倉街道大山道曽我道が交差し、背後に剣沢の水源を控え、更には眼前に足柄平野、箱根連山を見渡すなど交通・水利・軍事上館を構えるうえで極めて良好な条件を備えていたといえる。(小田原市教育委員会)


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曽我一族郎党の供養御堂
曽我氏は太郎裕信(曽我兄弟の養父)以来、連綿として14代甚五郎裕正まで繁栄していましたが、永禄2年(1559)に北条氏に叛いた為氏康に攻められ、616日城に火を放ち城主の信正とともに360余人が自決したと伝えられます。その後、400年の月日が経ちましたが誰一人としてその霊を供養する者もありませんでした。平成56月、曽我兄弟の仇討800年記念を機に観世音菩薩を祀り、曽我一族の供養をするため御堂を建立することになりました。(説明板)

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物見塚
小田原市教育委員会は平成元年8月、地元自治会の御協力を得てこの物見塚を発掘調査しました。調査では古墳の石室や側壁や天井石は消化していましたが、女室部分は小さな川の川原石が敷き詰められ、ここから鉄鍬や金環などが出土しました。この結果、この古墳は古墳時代後期7世紀)の墳丘をもつ円墳であったと推定されます。また、この古墳近くの西側の一画からは弥生時代から平安時代室町時代頃と考えられる柱穴が多数確認され、この中には柱穴の底に川原石を基礎としたものがありました。これらのことから付近一帯は古くから人々の生活が営まれていたことが分ります。(小田原市教育委員会)

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曽我氏
相模国
曾我荘を本領とする中世武家。系譜の上では桓武平氏の一流千葉氏に属するが、はじめて曾我を称した祐家以下の子孫が〈祐〉の1字を共有していることや、のちに陸奥国に拠点を移した子孫が伊豆に所領を相伝していることなどから考えると、下総に本拠をおく千葉氏よりも伊豆の雄族伊東氏と縁の深い一族であったといえる。祐家の子祐信の妻に迎えられた女性が、仇討で有名な曾我兄弟のである。曾我兄弟の実父は伊東一族の河津祐泰であるが、祐泰の死後母親が曾我に嫁したためその連れ子である兄弟も曾我を称したのである。(コトバンク)

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曽我祐信(すけのぶ)
平安末・鎌倉前期の武士。太郎と称す。
桓武平氏の出自。相模曾我郷(小田原市)の住人。母は伊東祐家の娘。治承4(1180)石橋山の戦平家方に属したが、のち源頼朝に降参、本領安堵された。曾我祐成・時致兄弟の再婚。建久4(1193)年富士の巻狩に加わり継子である曾我兄弟の仇討ちのことで隠退を許され、死んだ兄弟菩提のため曾我庄の年貢を免除された。子孫は御家人として鎌倉・室町幕府に仕え、のち武家故実家として知られた。北条得宗の被官だった一族は陸奥津軽の地頭代として活躍。小田原市曾我に伝祐信供養の関東式宝篋印塔(鎌倉後期)がある。(コトバンク)
(地図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)

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街道の風景⑤ 剣沢に沿って北へ、六本松峠はこの先を右ですが直進して弓張の滝に寄り道

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東屋のある広場            夏草はありますが道はしっかりしてます

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展望台からみる弓張の滝

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鎧の滝・弓張の滝
曽我の郷の谷津と別所の境を流れる剣沢川の上流、剣沢山の深い谷筋に二段の滝があり、上段は鎧の滝、下段は弓張の滝と呼ばれてきた。「新編相模風土記稿」によれば当時の鎧の滝は高さ8尺(約2.5m)、弓張の滝は15尺(約4.5m)であった。室町時代剣沢の岩に立ち名所として知られていた。文明18年(1486)の冬、ここを訪れた聖護院道鏡准后は『此頃はみさびわれたる剣沢 こほりしぞ名は光ある』という歌を残している(廻国雑記)また、戦国時代には風流をたしなむ小田原北条氏配下の数人の若侍たちがこの滝のちたで藤の花見を楽しんだという。その一人はその情景を『滝水にうつろう影もしげり行 松に契りてさける藤波』(小田原記)と詠んでいる。(小田原市教育委員会)

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宗我神社周辺案内図/宗我神社のしおり
(黄:歩行ルート 緑:六本木通り大山道 橙:県道72号)

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下曽我周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:歩行ルート 緑:六本木通り大山道 赤角:六本木峠)


・・・・
資料ファイル

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曽我兄弟
鎌倉初期の武人。父の仇を討ったことで名高い兄弟。伊豆の豪族河津三郎祐泰(すけやす)の子。兄は十郎祐成(すけなり)、幼名一万。弟は五郎時致(ときむね)、幼名筥王(はこおう)1176年(安元2)父祐泰が伊豆の奥狩場で工藤祐経(すけつね)に殺されたのち、曽我祐信(すけのぶ)再嫁したので曽我氏を称した。鎌倉幕府を開いた源頼朝の寵により勢いを得ていた祐経は曽我兄弟を殺そうと謀ったが、畠山重忠・和田義盛らによって救われた。筥王は一時、箱根別当行実の弟子となったが1190年(建久1)北条時政によって元服した。成人した兄弟は祐経をねらったが仇討の機会がなかった。935月、頼朝が催した富士野の巻狩りに同行していた祐経の宿所をつきとめ、夜半風雨を冒して侵入し祐経を殺して父の仇を討った。しかし兄祐成は宿衛の新田忠常に討たれ、翌日弟時致も捕らえられ殺された。(コトバンク)
写真:曽我兄弟発願之像/城前寺

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曽我兄弟の仇討
建久4528日(1193628日)源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曽我祐成と曽我時致の兄弟が父親の仇である工藤裕経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討に並ぶ日本三大仇討ちの一つである。

ゆかりの地
曾我兄弟の墓とされるものの中で有力とされるものに曽我の里と呼ばれる一帯にある城前寺(小田原市曽我谷津)が挙げられる。城前寺の由来は曾我兄弟の死後に叔父宇佐美禅師がこの地に兄弟の遺骨を運んで弔ったのが寺の興りとしている。建久4年(1193年)528日に曽我五郎・十郎の兄弟が富士の裾野で工藤祐経を討った際に傘を燃やして松明とした故事から、毎年528日に城前寺付近の家々から古い傘を集めて本堂の裏側にある曽我兄弟の墓前に積み上げて火を放ち、衆僧が列を作って読経をしながらその火を巡って行道・供養する「傘焼き祭り」が行なわれていたが、2011年に寺側からの申し出により中止となり保存会が駅前や公園など市内各所で関連行事を続行しているWikipedia


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正眼寺曽我堂/箱根町湯本
建久4
四年(1193528日富士裾野で父の仇工藤祐経を討ち本懐を遂げた曽我五郎十郎の菩提供養のため、兄弟の親類縁者によって兄弟が仇討成就を願って祈念参籠したといわれ、湯本地蔵堂の近くに曽我堂が建立されました。その創建年代は明らかでありませんが江戸時代初期に修復された記録がありますので、それ以前に遡ることは確かです。江戸時代東海道箱根八里の沿道にあったこの堂の地蔵菩薩像は曽我歌舞伎の流行とともに曽我兄弟の化粧地蔵と呼ばれ、街道を行く旅人の信仰をあつめました。明治元年(1868)曽我堂は戦火にあい焼失しましたが、幸いにも両像は戦火を脱れました。大正3年(1914)曽我堂は松竹歌舞伎の関係者によって再建され、昭和61年には台床光背を失っていた両像の修理が実施され元の御姿を拝することができるようになりました。(説明板)

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曽我神社/箱根神社
鎌倉時代、箱根権現の稚児であった曽我五郎時致兄十朗祐成の霊を慰めるため「勝名荒神祠」としてお祀りされたのが始まりである。江戸時代の正保四年(1647)小田原城主稲葉美濃守正則が石造の本殿を造営し、また平成の御代に社殿を改修した。祥月命日には故実による傘焼の神事や居合道の奉納等が行われ、今日なお心願成就の守護神として崇敬されている。(案内板)

知足寺供養塔(二宮氏館跡)の関連期にはこちらへ(https://teione.exblog.jp/17630359/


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工藤氏
藤原南家の流れをくむ為憲木工助となり、木工助の〈工〉と藤原氏の〈藤〉をとって工藤大夫と称したのに始まる。一族に伊東、河津、狩野、宇佐美、曽我、二階堂などがある。為憲が遠江権守であったのをはじめその子孫は遠江、駿河、伊豆等の国衙在庁官人となって各地に勢力を扶植した。伊豆国久須美荘の開発領主といわれる工藤祐隆も伊豆にあって工藤介を称した一族の出身であるが、彼は後継者にめぐまれなかったためその所領を後妻の娘との間に生まれた子で養子の祐継と早世した嫡子祐家の子祐親とに分与した。(コトバンク)
(系図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)

工藤裕経(すけつね)

平安末・鎌倉初期の武士。工藤一郎と称す。父は祐継。平重盛の許に出仕し家人となり在京、左衛門尉に任官した。在京中に叔父(従兄弟とする説あり)伊東(河津)二郎祐親に伊豆国伊東荘を預けていた祐親が押領したとして相論となった。祐経のは祐親のであり、この対立のため祐親の許に連れ戻され土肥遠平に嫁がされた。これを怒った祐経は、安元2(1176)年伊豆での巻狩に事寄せて祐親を襲い、祐親の嫡子河津祐泰(すけやす)を殺害した。源頼朝の挙兵以後、早くから頼朝方に付き、幕府成立以後は在京の経験から楽などの道にも通じており、頼朝の信任も厚く平重衡が囚人として鎌倉に下ったときの宴や文治2(1186)年に源義経の妾静が鎌倉鶴岡の社頭で舞をまった際に鼓の役を務めた。また、平家追討で九州へ従軍し5年には奥州合戦にも出陣している。建久4(1193)年、河津祐泰の子の曾我十郎祐成(すけなり)・五郎時致(ときむね)兄弟によって富士の狩場で父の仇として討たれた。(コトバンク)

# by Twalking | 2018-07-05 13:29 | 古東海道関連(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 駅前通り   

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駅前通り/多摩センター駅北口(多摩市)
う~ん、残念、
でも、よく頑張ったよ、ありがとう!
今宵はそぞろ歩きかな・・・、クヤチィ~。

# by Twalking | 2018-07-03 20:59 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-中里下堀八幡神社   

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吽形


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阿形

中里下堀八幡神社/小田原市下堀
がっちり、キャッチングだい、
絶対、離さないそ!
がんばれニッポン。

# by Twalking | 2018-07-02 21:33 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 7月   

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向日葵
堀之内寺沢里山公園/八王子市堀之内
梅雨の中休みと思っていたら、
いきなりの「梅雨明け」宣言でした。
今年の夏は長そうですね・・・、ふ~ぅ。
くれぐれもご自愛くださいませ。

# by Twalking | 2018-07-01 16:58 | さんぽみち

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 本厚木駅   

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本厚木駅/小田急線(厚木市泉町)
「各駅でも先に着く」の案内で乗車、
ここで急行に乗り換えますが、
同じく新松田までは「各駅停車」なんですね。

# by Twalking | 2018-06-30 20:11 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ボタンクサギ   

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ボタンクサギ
鎌倉街道/多摩市貝取
何だろう??と思いながら撮っていたら、
「ボタンクサギですよ」と教わりました。
手がかりがあると助かります、ありがとうございました。



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ボタンクサギ
クマツヅラ(シソ)科。中国南部原産で冬に葉を落とす落葉性の低木です。花がきれいなので庭木や鉢植えとして利用されます。草丈は1m~大きくなると2mほどになります。地下茎から芽を出して広い範囲に茂ります。梅雨時から夏にかけてピンク色の小花がボール状にまとまって咲きます。花にはかすかな芳香があります。葉っぱは大きな丸形で先端が少しとがります。色は濃い緑色で、もんだりこすったりすると一種独特なニオイがします。ボタンクサギは漢字では「牡丹臭木」と書き、ボタンのような花のクサギ〔Clerodendrum trichotomum〕という意味でしょう。クサギは日本でも古くから親しまれている植物です。葉っぱをもんだりすると臭いニオイがするのでこの名前があります。(ヤサシイエンゲイ)


# by Twalking | 2018-06-28 20:23 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 高幡不動尊参道   

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高幡不動尊参道/日野市高幡
七夕飾り、夏ですね・・・、
山あじさいが見頃と聞いて出かけました。
見事です、まだ、大丈夫ですよ~!


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金剛寺
日野市高幡にある真言宗智山派別格本山の寺院。高幡不動尊の通称で知られる。本尊は大日如来。高幡山明王院金剛寺と号する。草創は古文書によれば大宝年間(701- 704)以前とも、奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、寺伝によれば平安時代初期に円仁(慈覚大師)が清和天皇の勅願により東関鎮護の霊場を高幡山山上に開いたのが始まりとされる。江戸時代、真言宗関東十一檀林の談義所として多くの学僧を輩出している。以来、「高幡のお不動さん」と呼ばれ人々の信仰を集めており毎月28日の縁日には多くの参詣者で賑わう。成田山新勝寺などとともに関東三大不動の一とされる。Wikipedia


# by Twalking | 2018-06-28 10:46 | ○たま-2018

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 キキョウ   

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キキョウ
多摩市グリーンライブセンター/多摩中央公園(多摩市)
もわ~んとして蒸しますね、
君に会うと汗が引いてく感じ、
一服の涼をありがとう!


キキョウ
(桔梗)
キキョウ科の多年生草本植物。山野の日当たりの良い所に育つ。万葉集のなかで秋の七草と歌われている「朝貌の花」は本種であると言われている。根は太く黄白色。高さは40-100cm程度。葉は互生で長卵形、ふちには鋸歯がある。下面はやや白みがかっている。秋の花のイメージが強いが、実際の開花時期は六月中旬の梅雨頃から始まり、夏を通じて初秋の九月頃までである。つばみの状態では花びら同士が風船のようにぴたりとつながっている。そのため「balloon flower」という英名を持つ。つぼみが徐々に緑から青紫にかわり裂けて星型の花を咲かせる。花冠は広鐘形で五裂、径4-5cm、雄しべ・雌しべ・花びらはそれぞれ5本である。Wikipedia


# by Twalking | 2018-06-27 17:45 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 秦野駅   

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小田急線秦野駅/秦野市大秦野
「バスで秦野に」正解だったかな・・・、
本数が少ないので時間待ちしましたが、
ここからは早そう、座れるかな~???

# by Twalking | 2018-06-27 10:04 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-愛宕神社   

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阿形


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吽形

愛宕神社/平塚市土屋
山深い所だけど
美形だね~・・・、
いや、お見逸れしました。

# by Twalking | 2018-06-26 15:53 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ブットレア   

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ブットレア
愛宕下通り/多摩市愛宕
ちょこちょこと
エビさんが跳ねてるみたいだね~、
ブットさん。


フジウツギ属
Buddleja

フジウツギ科の植物の属である。花が美しいので園芸用に栽培され、属名からブッドレアと呼ばれることが多い。葉は長さ1-30cmで細長くほとんどは対生。花は長さ1cmほどの筒状で、花びらの先が裂し、長さ10-50cmの密な円錐花序をなす。花の色は種類により白、桃色、赤、紫、橙色、黄色などいろいろある。Wikipedia


# by Twalking | 2018-06-26 15:20 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり『中村一族の郷めぐり』03-中村郷   

日時 2018.6.14(木)
天気 曇り


井ノ口から「小田原みち」を山越えして
中村党の故地・中村郷に向かいました。
大磯丘陵の懐深く、がぴったりの山峡の里です。

土屋郷、中村郷と中村党の足跡を訪ねました。
決して華やかな史蹟があるわけではありませんが、
「土に眠る」でしょうか、味わい深いものがありました。


・・・藤沢(中井町)

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街道の風景① 県道71号と平行して南に延びる尾根へ旧道を上ります/上の原バス停

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神奈川県道71号秦野二宮線
秦野市(246号・落合立体交差)から中郡二宮町(国道1号・二宮交差点)に至る主要地方道である。1981年(昭和56年)に東名高速秦野中井ICが開設されるとこの道路の重要性は大きなものとなった。片側2車線あるいは片側1車線で路肩に余裕のある現在の経路は1989年(平成元年)までに順次開通した。秦野市・中井町境界付近から二宮町の西八戸橋付近までは葛川西側段丘面を通るものである。旧道はおおむね現道のやや東側を通り現在も路線バスは一部路線を除き旧道を経由し、地域住民の生活道路として重要な役割を担っている。なお、旧道沿いには1937年(昭和12年)まで湘南軌道という軽便鉄道も走っていた。(Wikipedia)(南北が71号、直進が77号です/中井電話局前)

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街道の風景② 坂上の農地に残る小田原みち、これはいい道です。国府津からの大山への「羽根尾通り大山道」でもあります

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坊主殺しの伝説/長坂
ここは北田宇塔坂上井ノ口を結ぶ小田原道の途中で、俗に「長坂」と呼ばれるところである。この長坂を横切るように下井ノ口から中藤沢へ通じる古い道があり、以前は大山参詣の賑わいと共に人の往来もあった道である。かつてこの道の藤沢への下り口に立石の墓標が建っていた。ここが伝説の「坊主殺し」の跡である。昔、下井ノ口のお堂(現下井ノ口自治会館)にある尼僧が堂守りをして暮らしていた。性格が温順であったので里人に親しまれ多勢の人達が物品等を持ち寄り孤独を慰めた。そのためいつしか小銭持ちだと噂が飛び、ある日藤沢方面に出かけて1日の修業が終わり家へ帰ろうとした途中、この場所で絞殺されたうえ身に付けていた金銭を奪われてしまった。この事を知った下井ノ口の人達は尼僧を不憫に思いそこに亡骸を埋め懇ろに供養をしてやった。その翌年の命日に心優しい里人は金を出し合い尼僧の殺された場所に墓標を建てた。それ以来ここを「坊主殺し」と呼んで夕暮れなどは淋しがって往来する人もほとんどなく途絶えてしまった。前述の20貫もあった墓標は関東大震災の折りどこかに埋没して今はその景をとどめていない(中井町古道復旧の会)


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向の丘が見えてきます         一本松峠へ下ります


・・・一本松峠

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街道の風景③ 峠の少し先から西側の景観です、右は中井町役場のある比奈窪、左は九所でしょうか、六本木通り大山道は九所・五所八幡へ下ります/一本杉峠

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一本松と道標
ここは昭和初期まで形のよい松の古木が聳えていて、里の人々に親しまれてきた。今は朽ちてなくなっている。かつてこの付近に大山街道往還の休息所として茶店があり、大変賑わったと伝えられる。ここは現在、石の道標が2基残っており、その文面は左記のとおりである。「をだわら道 これより三里」元禄三庚午歳6月吉日 此よりいゝつみまで二里 かなめまで二里 大山道これより三里 相州西郡中村乃内久所村(中井町教育委員会)

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一本松大山道標の意義
すべての道は大山へと言われるほど各地から大山へ向かう道は多い。ここ一本松はおだわら飯泉観音から曽我の六本松(古くは「やまびこやま」と称された)を越えて当地に至る通称六本松通り大山道と東海道前川からの前川通り大山道合流するところである。この一本松大山道道標には次のように刻まれています。人数15人施主 をだわら道これより三里 元禄3庚牛齢(16906月吉日 三王為供養 古れよりしやまひ古へ(越え) いゝつみまで二里 大山道これより三里 敬白 相刕西部(にしのこおり)中村之内久所村 道標の頭頂には放射状に東西南北と刻まれています。

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また、右に建つ聖観音(推定)の蓮華座には次のように刻まれています。をたわらミち 三リ これより西いつみミち二り これより左三り大山ミち かないミち(金目道)二りさらに観音光背の左には加藤庄左衛門と刻まれていますが、この人は貞享3年(1686)に提出された今関五大夫宛、新畑帳の差出人である久所村庄屋、加藤庄左衛門であると思われますので、1686年にはこの南北の大山詣での大山道東西金目観音飯泉観音とを結ぶ巡礼道の重要な交差点であったことが分ります。
最古の大山道道標は東海道藤沢四ツ谷不動(辻堂駅北口国道1号線沿い)にある「是より里右大山みち」と刻まれた万治41661)のものです。この道標は天保6年(1835)に再建、関東大震災で修理・再建、平成1771日新道標が建立されると大山阿夫利神社に一児保管され平成24年伊勢原日向の秋山安太郎石材の手から子易地区大山新道沿いに修復・移設・再建されました。参考までに田村通り大山道の一の鳥居延宝41678)に建立されました。伊勢原市最古の大山道道標は矢倉沢往還と柏尾通り大山道の合流付近田中耕雲寺境内の「おふやまみち」庚申塔が享保13年(1728)建立であることからも、この一本松峠元禄3年大山道道標の重要さが分ります。(中井町教育委員会・文化財保護委員会)

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街道の風景④ 一本松峠を直進し、「羽根尾通り」を遠藤へくだります。


・・・遠藤

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街道の風景⑤ 集落の手前に弘法大師堂があります

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弘法大師堂
この堂の中には石の弘法大師像3が安置されている。弘法大師(空海)は水脈を知る能力を備えていたと考えられる。堂入口の井戸も弘法年間(800年代)弘法大師が諸国行脚の途中、この地に休息し杖を建てたところ清水が湧きだしたと伝えられる。この水はいかなる日照りにも涸れることなく、郷土の先人はこれを特別なこととして弘法大師の像を安置し、今日まで信仰され続けている。(中井町教育委員会)

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その先に石塔             水神塔

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街道の風景⑥ かなりの急坂「宇塔坂」、右手に五輪塔があります。


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宇塔坂五輪塔             坂下を左折します、小田原境です


・・・中村(小田原市)

中村(村)
神奈川県足柄上郡に存在した村。現在の中井町西部、東名・中井パーキングエリア付近から南東を占めた。村名は古代・中世に存在した中村郷(中村荘)より。Wikipedia

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街道の風景⑦ 旧道より中村氏居館あととされる殿ノ窪を望みます/遠藤付近

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旧道の遠藤バス停            上小滝集落です
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街道の風景⑧ 中村川を渡ります左の丘の南は二宮でしょうか/板呂橋


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中村川
足柄上郡中井町および小田原市、中郡二宮町を流れ相模湾に注ぐ二級河川。中村川水系の本流である。延長は10.3km(二級河川部分は9.00km)、流域面積は29.47km2。河口付近では流域の字名に由来して押切川とも呼ばれている。Wikipedia


・・・殿ノ窪
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街道の風景⑧ 板呂橋の先を右折すると秋葉神社があります

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秋葉神社参道             秋葉神社社殿

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中村氏館跡とされる殿ノ窪です、説明板がたっています

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豪族中村氏居館跡(殿ノ窪)
桓武平氏村岡五郎良文6代の孫・宗平は平安末期、この中村郷周辺を広く領有しこの地に居館を構え、中村庄司平ノ宗平と称し、源頼朝伊豆配流の頃より源家に心をよせ治承4823日、頼朝石橋山挙兵の際には己は老齢、長男中村太郎重平は早逝のため出陣出来得なかったが、次男土肥次郎実平、三男土屋三郎宗遠、嫡孫中村太郎景平、同中村次郎盛平をはじめ女婿岡崎四郎義実、その嫡男真田与一義忠等々一族を挙げて参戦せしめ、中にも土肥実平の策謀により頼朝を房州に、また真田与一の奮戦の末戦死等は人のよく知るところで、宗平の頼朝の覚えめでたく頼朝鎌倉開府後しばしばこの館に宿泊したという。この居館跡は古代京師方面より坂東に下る官道、また後の鎌倉街道の要害の地点にあり、まわりを山で囲み、内部はおよそ8反歩、後方堂地(耕地)およそ3反歩あり、北側に屋敷神を祀り一族の墓所を納めた。東西馬跡の現代に残る数少なき代表的豪族居館跡で、江戸期小竹検地帳にも「殿ノ窪」と明記してある。(説明板)

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畑地になっていて小高い丘に囲まれています

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中村氏
坂東平氏の一つで、相模国西部に勢力を持ち、源頼朝挙兵時にその軍の中核をなした。師長国造の子孫ともいわれる。中村荘司宗平以前
中村氏は、桓武平氏良文流である平忠頼の子・平頼尊に始まるという。頼尊は出家した後、山辺禅師と号した。頼尊の息子が武蔵押領使・常遠であり、その息子で横浜市栄区笠間に住した笠間押領使・常宗が鎌倉景正に討たれたことが『桓武平氏緒流系図』に記載されている。そして、常宗の子である宗平の代になって初めて中村の名字を名乗ったとされる。しかし、諸系図では宗平以前は混乱している傾向が見られる。
(系図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)

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中村党の勢力拡大宗平
は相模国余綾郡中村荘(現・小田原市中村原、中井町中村付近)にちなんで中村荘司と称した。嫡子重平は父から中村の名字を継承した。次男の実平は土肥氏を称しその息子の遠平小早川氏を称した。三男宗遠土屋氏を、四男友平二宮氏を、五男頼平堺氏をそれぞれ称した。かくして中村党が形成されたのだが、本宗である中村氏は振るわなかったようで、後に土肥・土屋一族がその中核を占めるようになる。また、宗平のである桂御前は同じく相模国の豪族である三浦党の岡崎義実に嫁ぎ、義忠・義清兄弟をもうけている。この内、義忠佐奈田氏を称しているが、弟の義清は母方の叔父である土屋宗遠の養子となり土屋氏を称している。もう一人の宗平のである満江御前は伊豆国の伊東祐親に嫁いでいるが、諸系図を見ると中村党と伊東(久須見)一族と密接に婚姻関係を結んでいたのが分かる。宗平の娘と祐親の間には河津裕泰、伊藤裕清、八重姫、万劫御前らが生まれたが、この内、万劫御前は最初は工藤裕経の妻であったが、後に土肥遠平と再婚している(遠平の娘は、祐経の子・伊東祐時に嫁いでいる)。河津祐泰は曽我兄弟の父として有名だが、祐泰の妻・満江御前は最初は源仲成に嫁ぎ、最初の夫との間に出来た娘は二宮友平の息子・友忠に嫁いでいる。(地図:相模のもののふたち/永井路子氏を参照)

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鎌倉党との抗争と石橋山の戦い
中村宗平は父が鎌倉権五郎景正に討たれたゆえんか、鎌倉党を敵対勢力と見なしていたようで天養元年(1144)の源義朝大庭御厨乱入事件に積極的に参加している。治承4年(1180)に義朝の息子の源頼朝が挙兵すると宗平もこれに参加し、一族を引き連れて北条、加藤、天野、佐々木の諸氏と共に山本館襲撃に参加している。その後、頼朝勢は石橋山に進撃し石橋山の戦いが始まるが、これを迎え撃った平家方の大将は鎌倉党の大庭景親であり、その許には梶原、俣野、長尾と言った鎌倉氏の一族が多数馳せ参じていた。他方、頼朝勢には宗平嫡孫の中村景平・盛平兄弟(中村重平の子)、土肥実平親子、土屋宗遠親子、岡崎義実・佐奈田義忠親子と言った中村党の面々が多数参加していた(宗平自身は老齢が理由か直接は参戦していない)。この内、岡崎親子は三浦党の人物だが、上記の姻戚関係などからすると実質的には中村党の人物と言った方が近い(岡崎氏の諸氏は、後に土屋・土肥の諸氏と共に活動していることが多い)。他にも頼朝勢には佐々木、北条と言った多数の諸氏が加わっていたが、実質的には中村党が中枢を占めていた。頼朝が本陣を置いたのが土肥実平所領であり、石橋山の戦いは見方次第では中村党と鎌倉党の戦いとも見て取れる。なお、平家方には縁戚である伊東祐親一族も参加しており、同族同士の戦いの側面もある。戦いは頼朝勢の大敗に終わり多くの中村党の人物が討死した。佐奈田義忠の戦死は余りにも有名だが、土屋宗遠の子・忠光も討ち死にしており、中村景平・盛平兄弟も後に記録に見えないことからこの時に討死にした可能性が高い。北条時政の長男・宗時も後に討死にしているが、彼は宗平の曾孫である。

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和田合戦
頼朝が再起すると中村党もこれに従い平家追討、奥州合戦に参加し鎌倉幕府樹立に功を立てている。中村氏の本宗絶え土肥・土屋一族が中枢を担うようになったが、『吾妻鏡』にも「土肥・土屋の一族」と記載している。建保元年(1213)の和田合戦には土肥・土屋・岡崎一族は和田方に加わり多数の者が討ち死にしたことが『吾妻鏡』に見出される。その後、生き残った一族は甲斐、越中、安芸などの豪族として発展した。
Wikipedia


・・・比奈窪(中井町)

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街道の風景⑨ 一本松峠で分かれた「六本木通り」はここに下ります/五所八幡神社前

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五所八幡宮鳥居/
遠藤


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五所八幡宮
保元2
年(1157)比叡山の僧・義圓が東国行脚の時、雑色村子の神の祠に一夜を借りた際、霊夢によって白鳩に導かれ現在の地「龍頭の杜」に至り、ここに現れた童子(誉田別命)の霊言に従って勧請したと伝えられています。五所神社の由来は八幡宮の勧請5番目であるからといわれています。源頼朝の祈願所61社の一つであり、中村宗平が守護神として深く尊崇し、息子の土屋宗遠曽我祐信(すけのぶ)の両家より祭典の供物を納められていたと言われています。
(中井遊歩/中井町ガイドMAP)

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五所八幡宮梵鐘
この神社は保元2年(1157)比叡山の僧・義圓によって創建されたものであり、後には源頼朝の全国61ヶ所祈願所の一つに数えられている。源頼朝の再興に尽くした中村宗司宗平はこの神社を源氏守護神とあがめ中村上中村総鎮守にしたといわれる。この神社の例大祭(429日)は「かながわまつり50選」に選定され、例大祭の神事として今も残る「鷺の舞」はかながわ民俗芸能50選に選ばれている。境内西側の坂の途中にある梵鐘は寛永61629)の鋳造で高さ95cm、口径65cm中井町最古の梵鐘であり、井ノ口米倉寺の梵鐘とともに第二次世界大戦の時供出をまぬがれた由緒あるものである。(中井町教育委員会)

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境内から南の風景、この谷間の先は国府津ですね

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街道の風景⑩ 秦野駅行のバスが出ている比奈窪(中井町役場裏)へ向かいます/比奈窪

神奈川県道709号中井羽根尾線

神奈川県足柄上郡中井町(中井町雑色中井町役場入口交差点)小田原市(二宮町川匂押切橋交差点)を結ぶ一般県道。終点の交差点では中郡二宮町にも接している。中井町から小田原市東部を流れる二級河川・中村川に沿って内陸部と相模湾岸を結ぶ。Wikipedia


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中村川                秦野まで20分位です/比奈窪バス停

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中村周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:歩行ルート 橙:羽根尾通り 緑:六本松通り 黄:二宮通り 紫:旧東海道)

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コース図(東海大前駅~比奈窪)
(赤:歩行ルート 緑:矢倉沢往還 黄:旧東海道 橙破線:羽根尾通り 緑破線:六本松通り)

土屋氏館跡の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26915934/


・・・・
資料ファイル

中井町の大山道おすすめポイント(宇塔坂~一本松~井ノ口)
中村川を渡った羽根尾通り大山道は一本松を目指して宇塔坂を登ります。一里塚跡や古い道標などの史跡、一部は農道を歩き古道の雰囲気を感じることができます。県道71号線がよく見える場所までくれば正面に大きな大山が望めます。(中井遊歩/中井町ガイドMAP)

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羽根尾通り大山道(橙)
現在の小田原市から大山へ向かうものである。経路:東海道前川村小名向原(小田原市)-羽根尾-中村原-小船- 竹村-遠藤村(足柄上郡中井町)-久所-六本松通り大山道を経て大山へWikipedia

六本松通り大山道(緑)
現在の小田原市から大山へ向かうものである。国道255号などが近似したルートを辿っている。経路:東海道小田原宿(小田原市)-多古村-飯泉の渡し(酒匂川)-勝福寺門前町-千代村-高田村-曽我別所村-山彦山-六本松-田中村(足柄上郡中井町)-五所宮-久所-井ノ口村-大竹村(秦野市)-十日市場(曽屋-寺山村-小蓑毛村横畑-坂本村(伊勢原市)-大山Wikipedia

二宮通り大山道(黄)

現在の神奈川県中郡二宮町から大山へ向かうものである。経路:東海道二ノ宮村(神奈川県中郡二宮町)-一色村-井ノ口村(足柄上郡中井町)-六本松通り大山道を経て大山へWikipedia

# by Twalking | 2018-06-26 10:02 | 古東海道関連(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 石仏-阿弥陀堂   

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石仏
阿弥陀堂/八王子市堀之内
「ね~、そうでしょう、おとうさま」
「はい~」
やさしく諭されたような・・・・
合掌。

# by Twalking | 2018-06-25 14:17 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 虎の尾   

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愛宕下通り/多摩市愛宕
リボンの騎士
ど~ぉ、似合うかしら~?!

# by Twalking | 2018-06-25 13:59 | ○Flower