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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 梅洞水-向島百花園   

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向島
百花園/墨田区東向島
仙台出身の骨董商・佐原鞠塢(さはらきくう)がもと「多賀屋敷」と呼ばれていた土地を入手し1804年(文化元年)に開園した。360本もの梅の木を植えたことから当時亀戸(現・江東区)にあった「梅屋敷」に倣って「新梅屋敷」とも「花屋敷」とも呼ばれていたが、「梅は百花にさきがけて咲く」に因み「百花園」と呼ばれるようになった。庭園の特徴は芭蕉の句碑をはじめ20数基の石碑と園全体の雰囲気が江戸文人趣味豊かに作庭され、大名庭園とは趣を異にした草庭にあります。また、「隅田川七福神」の発祥の地であり佐原鞠塢が所有していたともいわれる福禄寿尊が祭られています。


# by Twalking | 2019-09-17 14:35 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 隅田川(5)鐘ヶ淵~向島03-東向島   

日時 2019.9.6(金)
天気 晴れ


隅田堤の跡は墨堤通りですが、これは普通の道です。
墨堤の面影を留めているのは白髭神社と隅田公園の2ケ所。
自然堤防ですから蛇行し、東側に段差があり、往時を偲べます。

また、墨堤から西へ地蔵坂通り、鳩の街通りが東へ通っており、
かつては水路があって土手通りだったようです。
旧赤線ですからちょっと覗いてみました、面白そうですね。



・・・
東向島/墨田区


墨田区の北西部に位置する。北で墨田、東で屋八広及び京島、南で押上、南西で向島、西で低通と隣接する。町域東辺を水戸街道、西辺を墨堤通りと接する。また中央部を南北に東武鉄道の鉄道路線が縦貫し、中央部と南部に同路線の鉄道駅が2つある。また町域内に出入口はないが隣接する堤通を首都高速道路の高架路線が走り向島出入り口が設けられている。
Wikipedia

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街道の風景① 直進が墨堤通り、白髭神社に沿って旧墨堤が残ります/白髭神社上

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白鬚神社参道/東向島

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白鬚神社祭
神祭神:猿田彦大神 天照大御神 高皇産霊神 神皇産霊神 大宮能売神 豊由気大神 健御名方神
天暦5年(951)に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊をここにまったと社伝の記録は伝えている。天正19年(1592)には時の将軍家より神領二石を寄進された。当社の御祭神・猿田彦大神が天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内して下さる神としての信仰が生れた。社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が文化12年(1815)に奉納したものでその信仰のほどが偲ばれる。明治40年(1907)には氏子内の諏訪神社を合祀した。

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隅田川七福神(寿老神)
当社に寿老神を配し奉るのは、文化の頃この向島に七福神をそろえたいと考えた時に、どうしても寿老人だけが見当たらなかった。ふと白鬚大明神はその御名から、白い鬚の老人の神様だろうから寿老人にはうってつけと、江戸人らしい機智を働かせてこの神を寿老人と考えめでてく七福神がそろったといわれる。隅田川七福神に限り、寿老神と神の字を用いる所以である。(由緒碑)

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墨多三絶の碑(すみださんぜつ)
墨田川の風物を詠じた佐羽淡斎の詩碑で大窪詩仏が筆をとったものです。「墨多三絶」の篆額は巻菱湖の筆になります。建立年に当たる壬午は文政51822)のことです。なお、とは五字または七字の四句で一体をなす漢詩のことで、三詩からなるので三絶と呼びます。この碑(草書)は三囲神社の「本松斎一得之碑」(隷書)、隅田川神社の「無琴道人墓銘」(楷書)の両碑を加えて大窪詩仏の三書体、すなわち『詩仏三碑』として世に知られています。「舟渡口歩汀名沙来飲祀前売酒家一 道玻璃烟淡抹夕陽猶在半堤花 不借朝南暮北風遊船如織日忽々沙鴎 欲管繁華事閑睡落花流水中 断磬聲中結夕陰堤彎岸繚寺門深  鴎邊柳処元陳迹付与詩人吟至今 上毛淡齋佐羽芳詩壬午冬日書詩佛老人大窪行」(墨田区)

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鷲津毅堂碑
鷲津毅堂は幕末明治の漢学者です。文政8年(1825尾張に生まれました。通称を毅堂または蘇州と号し父、祖父ともに大変に徳望篤い人物でした。20歳のころ江戸に出て昌平黌に学び、嘉永6年(1853)久留米藩に仕え、次いで尾張侯の招きに応じ侍読となり、さらに教授に進み毅堂自身も子弟とともに学問に励みました。時に王政復古となり、藩主徳川康勝の議定官に任ぜられ国論を一定し覇王の思想を隣藩にまで広めました。明治元年(1868)調停より権弁事を任ぜられ、明治2年(1869)大学少丞に転じます。そして権大書記官五等判事、司法少記官、東京学士会々員に列するなど明治政府の要職を歴任しました。明治15年(1882)司法権大書記官となりますが、同年10558歳で歿しました。なお、毅堂は永井荷風の母方の祖父にあたります。本碑の篆額は三条実美、撰文は三島毅、書は巌谷一六による碑です。(墨田区教育委員会)

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山玉向島講社の碑
山玉向島講社はかつて向島地域にあった富士講の一つで、山玉深川講の枝講だったと考えられています。明治8年(18757月頃には既に存在し、構成員は主に寺島・中ノ郷・須崎の三地区に居住していました。専用の祭祀具をあつらえて月拝みを行い、夏季には20名前後の人数で富士山を登拝していたようです。井戸の後ろに立つ石碑2基はその山玉向島講社が大正1119223月に建立しました。向って左側に立つ石碑には「奉納基本金大正113月」と見え、4代目先達玉山丈行、講元松本萬次郎、そして世話人22名の名前が彫らています。右側に立つ石碑には総勢82名の名前と5軒の屋号が確認できます。(墨田区教育委員会抜粋)

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寺島のナス/白鬚神社
かつて白鬚神社の周辺は寺島村といった。元禄郷帳(1688-1704)によればこの地域一帯は水田を主とする近郊農村であったが、隅田川上流から運ばれてきた肥沃な土はナス作りにも適し、ナスの産地としてその名も「寺島ナス」と呼ばれていた。1735年の「続江戸砂子温故名跡志」には『寺島茄子 西葛西の内也。中の郷の先、江戸より一里余』とあり、「夏秋の中の嘉 蔬とす」として江戸近郊の名産であることが記され、また1828年の「新編武蔵風土記稿」には茄子として『東西葛西領中にて作るもの』として『形は小なれどもわせなすと呼び賞美す』とナスの産地だったことを示しています。農家は収穫したナスを船を使って千住や本所四ッ目、神田の土物店(青物市場)等に出荷していた。江戸時代、悠々と流れる隅田川の東岸。田園地帯であった寺島に後世に伝えるに値するナスの銘品があった。(JA東京グループ解説板)

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西川春洞・寧(やすし)住居跡/白髭神社参道
西川春洞は肥前唐津藩医を父に弘化4年(1847日本橋の家で生まれました。幼い頃、書を中沢雪城に学び初め銭梅渓の書を習得しましたが、後に書風を一変し徐三庚を中心とした江南の書風に拠り、わが国近代書道に新風をもたらしました。そしてこの地(寺島村1207番)に居を構え多くの弟子を養成しました。春洞は地域の社寺や人々の求めに気軽に応じ、多くの作品を残し大正4年この地に没しました。春洞の息子寧は明治35年ここに生まれ、寺島小学校(現第一寺島小学校)に学び慶応大学では中国文学を専攻し、さらに書道史学の面でも多くの資料紹介や研究の成果を残し昭和60年に書家として初めて文化勲章を受賞しました。平成元年5月目黒区中町で没しました。なお、住居跡は階段下約30m先の右側の辺りです。(墨田区教育委員会)

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江戸名所図会 白鬚明神社(隅田川東岸)(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

隅田堤

『深堀橋にはじまり熊谷に至る。行程およそ16里これを熊谷堤といふ。天正2年小田原北条氏これを築きたりといへり。御当家にいたり、官府の命ありて、三囲稲荷の辺りより木母寺の際まで、堤の左右へ桃・桜・柳の三樹を殖ゑさせられければ、2月の末より弥生の末まで紅紫・翠白枝を交へ、さながら錦繍を晒すがごとく、幽艶賞するに堪へたり。また董菜・砕米菜盛りの頃は、地上に花氈を敷くがごとく一時の壮観たり』(江戸名所図会)


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街道の風景② 旧墨堤の名残りです、よく残りましたね~、見事です/白髭神社付近(墨堤通り)

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旧墨堤の道/東向島
隅田川の自然堤防沿いに桜の木が植えられたのは寛文年間1661年~1673。徳川将軍家の休息所であった隅田川御殿辺り(現堤通2丁目、都立東白鬚公園)から白鬚神社の北側辺りまででした。江戸時代中期には8代将軍徳川吉宗が護岸強化と憩いの場づくりのために堤と並木の南端を言問橋の架かる辺り(現向島2丁目 言問通り)まで延ばして人々に地固めをさせました。以来、堤は多くの江戸市民でにぎわう花見の名所、憩いの場所へとなっていきました。道幅は広く道の両側には見事な桜の並木が続いていました。白鬚神社脇から地蔵堂へと続く湾曲した道は姿をけしてしまった旧墨堤の名残りです。春は花見、正月は七福神めぐりの人々で特ににぎわいました。関東大震災や東京大空襲などの復興事業を契機に墨堤通りは湾曲した道から直線道路へ、土の道から舗装道路へと整備されました。現在、旧墨堤の面影を見ることができるのはこの場所と「墨堤植桜之碑」(向島5丁目4番先)近くの湾曲部の2ヶ所だけとなっています。(墨田区教育委員会)

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白髭の翟松 今戸の夕け烟-絵本隅田川両岸一覧
「絵本隅田川両岸一覧」は隅田川両岸を中心に高輪から吉原までを描いた全325作品からなる狂歌絵本シリーズで、この作品は下巻に収められています。秋の夕暮れが広がる画面の左では、今戸(現台東区今戸)の瓦焼きの真っ最中で、川縁で何やら言葉を交わしながら瓦を運ぶ二人と瓦を積んだ舟が描かれています。画面の奥には名勝地として知られた白髭明神社(現在の白髭神社)の鎮守の杜を配し、また右側に配された動きのある白鷺がアクセントになっています。葛飾北斎が4047歳頃の作品です。(解説板)

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子育地蔵尊堂/向島出口(墨堤通り)

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子育地蔵尊堂
この御堂に祀られている子育地蔵文化年間(18041818)に行われた隅田川の堤防修築工事の際に土中から発見されたと伝えられています。初めは村の子供たちが神輿(みこし)がわりにこの地蔵をかついでいたそうです。この地蔵には次のような伝承があります。ある日、この地に古くから住む植木屋平作方に雇われていた夫婦が川沿いの田地で殺害される事件がおきました。犯人はすぐにはわかりませんでしたが、この地蔵が村の子どもの口をかりて犯人を告げたのだとか。そこで平作はこの所に地蔵を安置して朝夕に供養するようになりました。

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その後、天保3(1832)4月に11代将軍徳川家斉が鷹狩に来て平作宅にて休憩した際、この地蔵の由来を聞いて参拝しました。平作がこのことを記念して御堂を建てて地蔵を安置すると人々はこぞって参詣しました。出産・眼病その他諸病の平癒開運を祈ると霊験が現れたそうです。当時は平作地蔵あるいは塩地蔵、また子育地蔵と様々な名前で呼ばれました。御堂前の坂明治44(1911)堤防修築の土盛り以降、現在まで「地蔵坂」の名で親しまれています。昭和8(1933)に建てられた由来碑と御堂建立百年御忌供養塔は地元出身の書家・西川寧 (やすし・文化勲章受章者)が揮毫したものです。(墨田区教育委員会)


・・・地蔵坂通り

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街道の風景③ 子育地蔵堂から東の道が地蔵坂、江戸の頃は「つる土手」と呼ばれていたようです/地蔵坂通り商店街

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坂といってもほぼ平坦です          寺島学校発祥の地碑

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向島百花園/東向島 地蔵坂通りの北側にあります


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向島百花園本園は江戸時代文化21805)頃、佐原鞠塢(さはらきくう)という粋人が、向島の寺島村で元旗本・多賀氏の屋敷跡3000坪を購入し、当時鞠塢と親交の深かった一流の文人墨客の協力を得、梅を多く植えたことから「新梅屋敷」として創設したのが始まりとされています。往時は江戸中に百花園の名が知れ渡り多くの庶民の行楽地として賑わいました。なかでも弘化21845)には12代将軍家慶の梅見の御成りがあり、明治になると皇室関係をはじめ多くの著名人が来遊した記録が残っています。その後、時代の変遷と共に小倉家に所有権が移り昭和8年(19332月国の「名勝」に指定され、時至って小倉氏の遺志(名勝永久保存のため)により昭和13193810月に東京市に寄付されました。百花園を受領した東京市は衰退著しかった庭園を復旧し昭和14年(193978日制限公開にしています。(写真右手は東京市の由来碑です)

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この後、戦災で石碑以外は全て焼失しましたが、多くの方々の努力のもと昭和241949)に再び復元。その後、荒廃を余儀なくされましたが初代鞠塢の「群芳暦」を基本に植栽し、昭和53年(197810月文化財保護法により「名勝及史跡」の指定を受け今日に至っています。この庭園の特徴は芭蕉の句碑をはじめ20数基の石碑と園全体の雰囲気が江戸文人趣味豊かに作庭され、大名庭園とは趣を異にした草庭にあります。また初代鞠塢の頃から「詩経」や「万葉集」に因む歴史的草花を植栽し、春や秋の七草をはじめ四季それぞれの植物が植え込まれ野趣豊かな庭園となっています。江戸の文人墨客をはじめ庶民に愛され、今日まで受け継がれてきた貴重な財産がこの「向島百花園」と言えます。(説明板)

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園内の池泉              ハギのトンネル

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隅田川七福神
文化元年(1804)向島向島百花園が開園してから、ここに集まる文人墨客たちが園主佐原鞠塢(さくう)が福寿寿を祭っているのを知り、この隅田川の東岸にも七福神がそろわないものかと考え、七福神がそれぞれ縁故をもつ神社仏閣を探し出した。そして初春七草の間に寿福を祝い家内繁栄、家業隆盛を願う初参りの行事を創始したのが隅田川七福神の始まりである。七福神の「七」という数は陽を表す奇数であって古くからめでたい数字とされている。七難即滅、七福即生、万生安楽という語句は七福神の語源ともいわれ、寿命、有福、人望、清廉、愛敬、威光、大量の七つの神々を象徴するもので、心新たな年頭にあたって参拝しその年の至福を祈念する習わしが七福神初詣である。(墨田区)(写真:福禄寿尊堂)

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向島百花園
文化元(1804)年、骨董商の佐原菊塢(さはらきくう)が梅やすすきなどの日本古来の草木を集め、幕臣の多賀家屋敷跡に造園した庭園。名称は江戸後期の画家酒井抱一が「梅は百花のさきがけ」の意から名付けたとされる。当初は360本の梅が主体で、亀戸梅屋敷に対して新梅屋敷とも呼ばれた。現在は都営庭園となり国の史跡・名勝に指定されている。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)
錦絵:東都三十六景-向しま花屋敷七草/広重


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蓮花寺山門/東向島

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蓮花寺
清瀧山蓮花寺は京都智積院末で真言宗に属し、本尊は空海自筆の弘法大師画像と伝えられています。この寺の開山については諸説がありますが一説は次の通りです。最明寺入道・時頼(鎌倉幕府第5代執権)が兄の武蔵守・経時追福のために寛元41246鎌倉佐介谷に巨刹を創建、蓮華寺と名付け良弁法印審範を開祖として聖徳太子の御像を安置しました。その後京都禁裏から空海自筆の「女人済度厄除弘法大師」を請し、奏送を怠ってそのまま寺に安置しました。経時の死後、子頼助は病身なので執権職は叔父時頼に譲り、自ら剃髪して諸国を廻りました。その折、偶々今の寺島に来て一寺を建て、鎌倉の蓮華寺を遷し「女人済度厄除弘法大師」を本尊とし、右側に小さな堂を建て聖徳太子の御像を納め、佐々目大僧正頼助と号し自ら開山となりました。時は弘安3128082日でした。これが今の蓮花寺です。(当寺は「蓮華寺」と書きました)この説には宗派のこと、建立年月のこと、開祖のこと等から異論もあります。(すみだの史跡文化財めぐり)

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女人済度御自筆 弘法大師の道標
左右側面に「大しみち」(大師道)とあり、もと地蔵坂を登った墨堤にあったものです。片方は蓮花寺でもう片方の「大しみち」は西新井大師総持寺を指したと考えられます。文化151818)の建立です。台石に「と組」と記されているので江戸火消しが建てたのでしょう。

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石除弘法大師の道標
右側側面に「西 白ひけ はしはみち」(白髭 橋場道)とあります。文面から門前に建てられていたものと考えられます。文政5の建立です。ともに蓮花寺とはゆかり深い道標です。文化文政のころには「寺島の大師」として川崎大師、西新井大師総持寺と並んで江戸三大師の一つとして栄えていました。厄除けの護符をいただきにくる大師参りの人々のために建てられたに違いありません。(墨田区教育委員会)

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江戸名所図会 寺島 太子堂 蓮華寺(隅田川東岸)(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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幸田露伴旧宅跡/露伴児童公園
幸田露伴の旧宅。露伴は自分の家を「かたつむりの家(蝸牛庵・かぎゅうあん)」と呼び、やどかりのように幾度となく住まいを変えた。その中でも彼が一番長く10年間住んだ隅田川の東、向島にあった家が明治村に移築されて保存されている。幸田露伴は明治30年(1897)からの約10年間をその家で過ごしている。娘で作家になった幸田文はこの家で生まれた。旧所在地は墨田区東向島3丁目26番地で、建設年代は明治初年(1868)代とされている。跡地には墨田区立の露伴児童遊園という公園があり、幸田露伴の文学碑が立てら、彼の小説『運命』の一節が引用されている。Wikipedia

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幸田露伴文学碑
世おのづから数(すう)というもの有りや。有りといへば有るが如く、無しと為せば無きにも似たり。洪水天に滔(はびこ)るも、禹(う)の功これを治め、大旱地を焦せども、湯(たう)の徳これを済(すく)えば、数有るが如くにして、而も数無きが如し。「運命」より/碑文



・・・鳩の街通り

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街道の風景④ 「鳩の街」のメイン通り、裏路地が旧赤線でしょうか、川が流れ土手があったよです/鳩の街商店街

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墨堤通り入口                水戸街道にでます

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鳩の街(はとのまち)
現在の墨田区向島と東向島の境界付近にあった赤線地帯。地理的に「玉の井」と近1kmほどの距離である。太平洋戦争末期に東京大空襲で玉の井を焼け出された業者が何軒かこの地で開業したのが始まりという。終戦直後は米軍兵士の慰安施設として出発したが兵士が性病に感染することが多いため1946年(昭和21年)に米兵の立ち入りが禁止された。その後、日本人相手の特殊飲食店街(赤線)として発展した。この街の店舗は警察の指導でカフェー風に作られた。1952年(昭和27年)当時は娼家が108軒、接客する女性が298人いたという。1958(昭和33年)に売春防止法が完全施行されすべての業者が廃業。跡地は商店街やアパートなどの住宅となった。現在でも商店街の裏に入ると色タイルを貼った娼家風の建物が多少残っているが、老朽化による建て替えや改築によりそれらも少なくなった。Wikipedia)地図:1950年頃の鳩の街付近(橙)

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榎本武揚旧居跡
父は将軍側近で天文方として伊能忠敬にも師事した知識人であった。武揚も幼い頃から学才に長け、昌平黌で儒学を、江川太郎左衛門から蘭語、中濱萬次郎から英語をそれぞれ学び、恵まれた環境で洋学の素養を身につけた。9歳で箱館奉行の従者として蝦夷地に赴き樺太探検に参加する。安政 3 ( 1856 ) には長崎海軍伝習所に学び、蘭学や造船学、航海術などを身につけた。文久3 ( 1867 )幕府が発注した軍艦「開陽」に乗船して帰国、翌4年に海軍副総裁に任ぜられた。戊辰戦争では徹底抗戦を唱えたが五稜郭で降伏3年間投獄された。この箱館戦争で敵将ながらその非凡の才に感服した黒田清隆の庇護を受け北海道開拓使に出仕。明治7 ( 1874 ) に駐露特命全権公使となり樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て文部大臣、外務大臣などを歴任した。明治 38 ( 1905 ) から73歳で没する同 41年までこの地で暮らし墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。(案内板)

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街道の風景⑤ 国道6号、現在の水戸街道です、秋葉神社に寄って墨堤へもどります/東向島1

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秋葉神社鳥居/向島


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秋葉神社
昔この地を五百崎の千代世の森と云い千代世稲荷大明神がまつられていた。草創は正応21289)と伝える。江戸時代の始め善財という霊僧この森に庵を結び精修数年の後、秋葉大神の神影を彫みこれを社殿に納めて消え去った。元禄の始め修験者・葉栄が神感得てこの社に参り祈願の利益をうけ、当時請地村の長・百姓岩田与右衛門を通じ寺社奉行に願出て上州沼田城主・本多正永の報賛にて、元禄15年(1702)秋葉稲荷両社と称して社殿を造営し又千葉山満願寺を興して別当となった。爾来鎮火の霊験・産業縁結びの神徳により諸大名はじめ士庶人の信仰を受け、享保2年(1717)に神祇管領より正一位の宗源宣旨を受けるに至った。明治元年神佛分離令の施行により秋葉神社と称し別当満願寺を廃した。大正12年の震災に社殿倒壊し、昭和5年復興したが、昭和20年戦災にかかり昭和41年氏子崇敬者の奉賛により現社殿を再建した。(境内掲示板)

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石燈籠
殿に向かって一番近くにある石燈籠一対は、松平甲斐守吉里の室・源頼子寛保元年1741)奉献したものです。吉里将軍綱吉の籠臣・柳沢吉保の子です。この石燈籠の右横にある一基は前橋城主・酒井雅楽頭忠挙が宝永6年(1709)に奉献したもので、その手前にある一対の石燈籠は関東郡代・伊奈忠宥が宝暦8年(1718)に奉献しました。鳥居に近い石燈籠一対は上州沼田城主で老中も勤めた伯耆守本多正永が宝永元年(1704)に奉献したものです。なお、この一対は〈墨田区登録文化財〉に登録されています。当社は安藤広重の『名所江戸百景』に紅葉の名所として描かれ、『江戸名所図絵』には「秋葉大権現社、弘福寺より三丁あまり東の方請地村にあり、遠州秋葉権現を勧請し(略)境内林泉幽邃にして四時遊観の地なり」とも書かれています。一方鎮火の神として将軍家や諸大名の崇敬があつかったといいます。(墨田区)

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江戸名所図会 請地 秋葉大権現宮 千代世稲荷社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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秋葉大権現社(あきばだいごんげんのやしろ)
火伏せ(防火)の神を祀る静岡県の秋葉神社を勧請して正応21289)年に創建したと伝わる。江戸時代には江戸城大奥や諸大名の信仰を集めた。江戸中一の紅葉の名所。門前には料理屋も多く参詣の人々で賑わった。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)

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東向島周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照(緑:墨堤通り 紫:古奥州街道 黄:地蔵通り・鳩の街通り 青:水路 赤角:玉ノ井・鳩の街)

隅田川(5)鐘ヶ淵~向島02-鐘ヶ淵(2)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27766330/


・・・資料ファイル

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隅田川七福神
文化元年(1804向島向島百花園が開園してから、ここに集まる文人墨客たちが園主佐原鞠塢(さくう)が福寿寿を祭っているのを知り、この隅田川の東岸にも七福神がそろわないものかと考え、七福神がそれぞれ縁故をもつ神社仏閣を探し出した。そして初春七草の間に寿福を祝い家内繁栄、家業隆盛を願う初参りの行事を創始したのが隅田川七福神の始まりである。七福神の「七」という数は陽を表す奇数であって古くからめでたい数字とされている。七難即滅、七福即生、万生安楽という語句は七福神の語源ともいわれ、寿命、有福、人望、清廉、愛敬、威光、大量の七つの神々を象徴するもので、心新たな年頭にあたって参拝しその年の至福を祈念する習わしが七福神初詣である。(墨田区)

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隅田川七福神めぐり
毘沙門天(多聞寺):本尊の毘沙門天は弘法大師の作と伝えられる。昔、村人達は本堂の前に住む狸の悪戯に悩んでいた。その村人を毘沙門天門下の禅尼童子が狸を懲らしめ救ったという伝説が伝わる。

寿老神(白髭神社)
祭神の猿田彦命は道案内の守り神ということから、お客を案内する千客万来、商売繁盛の信仰が生まれる。隅田川七福神の中ではんかなか見つからなかった寿老神を、白い髭の長寿の神様として白髭大明神にあてたことから「神」としている。

福禄寿尊(百花園):文化元年(1804)に開かれた百花園に集まる江戸の町民文化を代表する文化人達の発案で隅田川七福神巡りが始まった。福禄寿尊像は開祖佐原鞠塢が百花園の草花にちなみ、本草の神として愛蔵し信仰していたもの。

弁財天(長命寺):二代将軍家光が鷹狩の途中の腹痛を寺内の井戸水で薬を服用し快癒したことから、長命水の名をいただき寺号も長命寺とした。弁財天は河(水)の神ということから蛇がお使いとして選ばれ、巳の日に参拝する風習が生まれた。


布袋尊(弘福寺):黄檗宗で中国風の特色を持つ禅宗建物。布袋尊は七福神の中で唯一実在した中国の禅僧で弥勒の化身といわれる。咳の爺婆尊像は風外和尚が修行中、両親を偲び彫ったもので風外の石像だから風邪にも強かろうと風邪除けの信仰を集めた。


大黒神 恵比寿神(三囲神社):三井寺の僧源慶が弘法大師創建の由来を持つ荒れた祠を再建した時、出土した神像の周りを白狐が現れ三回巡り、消え去ったことから「みめぐり」の名が起こったとされる。大國・恵比寿は越後屋(現三越)にまつられていたもの。
(隅田川七福神めぐりマップ)

# by Twalking | 2019-09-17 11:53 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 敬老の日   

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敬老の日
「富嶽三十六景-神奈川沖浪裏」の描かれた江戸切子のグラス、東京都からお祝いに頂きました。国からは感謝状と共に銀杯、いずれも見事なものです。格別な一日です、母を誇らしく思いました。母さん、百歳の長寿、おめでとう!凄いことですよ、頭が下がります。ただただ感謝あるのみです。(令和元年9月16日)

# by Twalking | 2019-09-16 19:18 | さんぽみち

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鐘ヶ淵駅   

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東武線鐘ヶ淵駅/墨田区墨田
電車がひっきりなしで通りますから、
この踏切は「開かずの踏切」みたいですね・・・。
高架化する計画があるようです。


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鐘ヶ淵駅(かねがふちえき)
墨田区墨田五丁目にある東武鉄道伊勢崎線の駅である。墨田区最北端の駅。相対式ホーム24線を有する地上駅。ホームの有効長は10両編成に対応するが、東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線直通列車はすべて当駅を通過する。開業当初(明治351902年)駅は直線上に位置しており、路線も当駅の北東で緩やかにカーブして堀切方面に向かっていた。しかし荒川放水路の開削に伴い1923年(大正12年)に当駅から北のルートが変更され、現在の荒川放水路の横をかすめるルートとなったためその影響で当駅に急カーブができることとなった。鐘ヶ淵駅付近において立体交差化(鉄道高架化)を進める計画があり、駅付近にある伊勢崎線第17号踏切を撤去する。Wikipedia

# by Twalking | 2019-09-15 21:13 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中秋の名月   

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中秋の名月
一日遅れですが、まんまるお月さん、
みごとですね~、ありがとう~!
(2019.9.14.19:48)

# by Twalking | 2019-09-14 20:10 | ○たま-2019

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 隅田川(5)鐘ヶ淵~向島02-鐘ヶ淵(2)   

日時 2019.9.6(金)
天気 晴れ

隅田川左岸の鐘ヶ淵は古道が交差する要衝です。
武蔵と下総の国府を結ぶ古東海道の道筋で、
地図上でも低地を行く直線路が確認できます。

また、千住大橋の架橋で付け替えられましたが、
江戸以前の古奥州街道は鐘ヶ淵を経由しています。
近くなので「玉の井」もぶらりと歩いてみました。


・・・墨田


墨田区の北部に位置する。墨田区役所の北東方約2.4kmにある。北東で荒川を挟んで対岸に葛飾区堀切、東で八広、南で東向島、西で堤通、北西で旧綾瀬川を挟んで対岸に足立区千住曙町と隣接する。町域の北西辺を以て墨田区-足立区境、北東辺を以て墨田区-葛飾区境とする。荒川堤防上を都道449号線、東辺を水戸街道、西辺を墨堤通りと接する。

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街道の風景① 墨堤通りの西側には古奥州街道が通っています/墨田

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荒川で消えますが堀切へ続きます    細路地の先から広くなります

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多聞寺参道/墨田

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多聞寺山門(墨田区指定文化財)
多聞寺の山門は切妻造四脚門で、現在では珍しい茅葺の屋根を持ちます。幅が太く深い文様を彫り出す点に特徴のある簡素な和様の造りですが、控柱の礎石(礎盤)など一部に禅宗様の技法が確認できます。寺伝によれば多門寺の山門は、慶安21649)の建立後、享保317182月に焼失しています。再建年は不明ですが、寺の過去帳に享和3年(18032月の火災に関する記録が見え、その中に「表門は焼けず」とあります。また専門家の調査の結果、現有する山門の建立年代は18世紀を降らないとの判断が得られています。これらのことからこの山門は享保3年以降に再建され、享和3年の火災で焼失を免れたものではないかと考えられています。多門寺山門はこのように建立年代が江戸時代中期に遡る可能性が考えられる文化財です。平成16101日に墨田区指定有形文化財に指定されました。山号額「隅田山」(正法金對書)裏に「明和九辰3月吉日造営」「現住法印興應」「願主渋澤逸平規知」と刻まれています。このため現存する山門を明和9年(1772)の造営物と見る説もあります(墨田区教育委員会)

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多聞寺/墨田
天徳年間(957-960)には墨田千軒宿、今の隅田川神社付近にあって大鏡山明王院隅田寺と称え、本尊は不動明王でした。降って天正年間1573-1591)には41代鑁海上人がある夜、夢に毘沙門天(多聞天)尊像を感得して以来、毘沙門天を本尊と隅田山吉祥院多聞寺改称したといいます。なお、明治維新までは隅田川神社別当寺でした。多門寺は区内の最北端にあり関東大震災、戦災ともに遭わなかったので、昔日の面影を残す数少ない寺院となっています。明治45年には永信講として「地蔵尊密言流念仏」が発足しましたが、戦時中に中断したのち昭和26年に復活し毎月24日に催されています。また、境内の狸塚の前には弥陀三尊の板碑(年紀不明)があり、他に弥陀一尊(花瓶)のものが保管されています。(すみだの史跡文化財めぐり)

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六地蔵菩薩坐像(墨田区登録文化財)
この六地蔵像は総高150mでいずれも安山岩の四石からなっており地面から一、二段目の石は方形、三段目は蓮台、その上にそれぞれ60cmの丸彫り地蔵坐像がのっている。像容は向かって右から持ち物不明の坐像が二体、両手で幡を持つ半跏像、両手で宝蓋を持つ坐像、持ち物不明の半跏像、合掌している坐像の順に並んでいます。欠損や修復の跡が見られますが僧覚誉理慶(利慶)が領主となり、7年間にわたって隅田村内の地蔵講結衆の二世安楽を願って造立されたことが刻銘から読み取ることができます。隅田村地蔵講中の数年にわたる作業行為を知り得る貴重な資料といえます。六地蔵の製作年代は右から正徳3年(17132月吉祥日、同48月吉祥日、同38月吉祥日、同28月吉祥日、享保元年(17169月吉祥日、同310日と刻まれています(墨田区)

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狸塚のいわれ
むかし江戸幕府が開かれる少し前、今の多聞寺のあたりは隅田川河原の中で草木が生い茂るとても寂しいところでした。大きな池がありそこにはひとたび見るだけで気を失い、何か月も寝込んでしまうという毒蛇がひそんでいました。また、「牛松」と呼ばれるおとなが5人でかかえるほどの松の大木がありました。この松の根元には大きな穴があり、妖怪狸がすみつき人々をたぶらかしていたのです。そこで、鑁海和尚と村人たちは人も寄りつくことができないような恐ろしいこの場所に、お堂を建てて妖怪たちを追いはらうことにしました。

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まず「牛松」を切り倒し穴をふさぎ池をうめてしまいました。するとどうでしょう、大地がとどろき空から土が降ってきたりいたずらはひどくなるばかりです。ある晩のことでした。和尚さんの夢の中に天までとどくような大入道があらわれて「おい、ここはわしのものじゃ、さっさと出て行け、さもないと、村人を食ってしまうぞ」とおどかすのでした。和尚さんはびっくりして一心にご本尊さまを拝みました。やがて、ご本尊毘沙門天のお使いが現れて妖怪狸に話しました。「おまえの悪行はいつかおまえをほろぼすことになるぞ」次の朝、二匹の狸がお堂の前で死んでいました。これを見つけた和尚さんと村人たちは狸がかわいそうになりました。そして切り倒してしまった松や、埋めてしまった池への供養のためにもと塚を築いたのでした。この塚はいつしか「狸塚」と呼ばれるようになりました。(説明板)

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阿弥陀如来像・子育て地蔵/参道
お釈迦様が悟られた内容を法といいます。それは姿形のあるものとしては説かれていませんでした。やがてお釈迦様が入滅されたあと、如来というお姿で現されるようになりました。真言宗のご本尊を法身大日如来とお呼びします。阿弥陀はインドの呼び名で「アミターユス(アミターバ)」の音訳です。中国では無量寿(無量光)如来と訳され、時間的・空間的な無限の済いを表しています。この如来さまは寛文4年(1664)造立されました。(墨田区指定文化財)隣に並んでいらっしゃるのは子安地蔵さまです。(多聞寺HP)

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映画人墓碑
「映画を愛し平和と民主主義を支え人間の尊厳を守った人々ここに眠る」 故坂斎一郎(共同映画株式会社創立者)氏の遺族ハツ夫人が墓地資金を提供し、日本映画の民主主義的発展のためにつくされた映画の仲間の生涯を顕彰し追悼する共同の墓碑建立に役立ててほしいとの申し出がありました。その意思を尊重し、映画を愛する人々と団体によって本会が組織され、この墓碑が建立されました。(碑文)

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多門寺-毘沙門天
多門寺はその昔、墨田堤の外側・水神森近くにあったが、400年ほど前徳川氏が江戸に移った直後、今の場所に移された。本尊の毘沙門天は弘法大師の作と伝えられる。毘沙門天は佛法の守護神のひとりで、世界の中心に聳える須弥山(しゅみせん)の北方を厳然と守っていたとされる。またの名を多聞天とも申し上げる。しかしその反面山界に余るほどの財宝を保有していて、善行を施した人々にはそれを分け与えたといわれる。強い威力を持つ一方で富裕でもあるという神格が福徳の理想として七福神に含められ信仰された理由である(隅田川七福神コース案内板)

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多聞寺の隣に香取神社があります

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街道の風景② 先の信号左折が鐘ヶ淵駅、右折が水神大橋になります/円徳寺付近

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円徳寺山門

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円徳寺/墨田
醍醐山円徳寺といい曹洞宗に属します。はなやかな朱の山門が目立ちます。寺伝では慶長181613)に文京区駒込にある吉祥寺13世離北良重和尚の開山としています。本尊は薬師如来です。なお、葛西誌に見える正慶元年(1332)・嘉吉4年(1444)銘の古碑(板碑)は所在不明となっています。また水戸徳川家の参府の折には、当寺で最後の身支度をととのえる屯所に充てられたとも聞きます。(すみだの史跡文化財めぐり)

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庚申塔(寛文12111日銘)
十干十二支で庚申は60日に一度めぐってくる。この日の夕に斎戒沐浴して供養し一夜を寝ずに明かす行事を「庚申待」という。人の身中に潜む三尸という虫がこの夜の眠っている間に抜け出し、人界での諸悪を天帝に告げるため人は寿命を縮めるとされている。近隣の者たちが供物(馳走)を持ち寄り、庚申の掛物を礼拝し、日ごろの話題に談笑したりして夜明けを待つ。また、この夜は村人にとっては数少ない楽しみのひとつでもあった。この庚申塔は区内でもかなり大きなものであり、舟型光背・蓮華座に阿弥陀尊像を配し、台座にも三猿を掘出していて優品に属する。銘を「寛文十二(1672)壬子歳十一月一日 奉造立庚申待供養現当二世安楽所 敬白」とし、主尊の両側には旧隅田村の有力者名が27名も彫られており、多数の村人たちが結集し信心の証しとして造立したことがわかる。(墨田区)

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街道の風景③ 鐘ヶ淵通りを横断、直線的に南へ向かいます/正福寺前

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首塚地蔵尊/正福寺門前
天保4年(1833)洪水の危険を防ぐため隅田川橋場付近の川浚い工事の際に、川底より多くの頭骨が発掘された。関係者は当山第16世住僧・宥照和尚とはかりここに合葬をたて「首塚」といったと伝えられる。この頭骨の由縁については諸説あるが、爾来歴代住僧並びに信者により護持され今日に至る。この縁で首から上の病に効験あるからと参詣の香華がたえない。このお堂は真言宗中興の祖・興教大師850年御遠忌(平成41211日)記念事業の一環として、平成28月檀信徒一同により再建、奉納されたものである。(正福寺)

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正福寺山門/墨田


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正福寺
月光山薬王院と号し、真言宗智山派に属して東向島蓮花寺の末寺となっています。開山は慶長71602)宥盛法印によると伝えられ、本尊は薬師如来を祀っています。また、10数代後の持住伝雅和尚は大の猫好きで寺内に数十匹の猫を飼っていたことから、以来「ねこ寺」の通称で呼ばれたともいいます。(すみだの史跡文化財めぐり)

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正福寺の板碑(墨田区登録文化財)
板碑は青石塔婆とも呼ばれる塔婆の一種です。材質は緑泥片岩(青石)で、頭部・碑身・脚部に区分されます。頭部は三角形状にそぎ、碑身との境に二条線を刻み、碑身の正面には種字(しゅし・仏や菩薩を表す梵字)年号・銘等を薬研彫りで刻みます。板碑の起源は碑伝(ひで)や五輪塔とも言われていますがはっきりしません。中世の武士達が供養のために建てたものがのちに庶民にも広がっていったものです。正福寺には3基の板碑があります(登録は2基)宝治2年(1248)銘の板碑は高さ116cm、幅46cm、厚さ10cmで区内では随一の大きさを持っています。在銘の板碑としては都内最古です。阿弥陀一尊を種字で刻み「宝治2年戊辰33日」の銘があり、量感のある点でも貴重です。登録されているもう一基は碑身のみが現存し三尊種字が刻まれています。これらの板碑は江戸時代に付近の御前栽畑から発掘されのち当寺に移されたといわれます。なお、区内には約30基の板碑があります(墨田区教育委員会)

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太子堂                手洗水盤(寛文7年・1667銘)

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正福寺の先に下稲荷神社があります

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街道の風景④ ここで道は消えています。右折して墨堤通りにでます。信号を一つ戻ると隅田川神社の参道入口になります

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街道の風景⑤ 墨堤通りの側道、暑いから木陰は何よりです

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下の道/白髭橋手前(墨堤通り)
承和2835)の太政官符に『武蔵国下総両国堺、住田河四艘・・・』の記載が見られます。住田渡(隅田渡)は現在の白髭橋辺りと考えられ、大正3年(1914)の架橋頃まで永々と続く隅田渡がありました。古代東海道の官道であり、鎌倉街道奥羽水戸街道などの道すじにもなっていました。この隅田堤を下る道も古道で、古くから「下の道」と呼ばれ、鎌倉街道の「下の道」とも想定されます。源頼朝が敵対する常陸国の佐竹氏討伐に、また奥州征伐にも使用された道とも考えられます。(吾妻鏡)さらに時代が下り、戦国時代には国府台合戦の小田原北条軍使用路でもあり、郷土の歴史を知るうえからも貴重な道すじです。(監修:墨田区教育委員会 施主:東京都住宅供給公社)

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街道の風景⑥ 明治通りとの交差点、右折して白髭橋へ/白髭橋(墨堤通り)

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隅田川の風景 白髭橋の左岸側テラスから下流を望みます

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白鬚橋
西岸は荒川区南千住三丁目と台東区橋場二丁目を分かち、東岸は墨田区堤通一丁目と二丁目を分かつ。橋名は東岸にある「白髭神社」に因む。創架1914(大正3年)。もともと「橋場の渡し」と「白髭の渡し」という渡船場があった場所であり、特に橋場の渡しは江戸時代、文禄3年(1594)に千住大橋が完成して主だった街道筋が移されるまでは隅田川渡る中心地であった。橋長: 168.8m 幅員: 22.1m 構造形式:下路式ブレースドリブドタイドアーチ橋 竣工:昭和6年(1931年)Wikipedia抜粋)

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橋場の渡し
歴史的に位置や名称に変遷があったが記録に残る隅田川の渡しとしては最も古い律令時代承和2835)の太政官符に「住田の渡し」と書かれたものが残っている。奥州総州への古道があり、伊勢物語で主人公が渡ったのもこの渡しとされている。また、源頼朝が挙兵してこの地に入る際に、歴史上隅田川に最初に架橋した「船橋」もこの場所とされ「橋場」という名が残ったとも伝えられている。橋場は歴史の古い土地柄から江戸時代から風流な場所とされ、大名や豪商の別荘が隅田川河岸に並び有名な料亭も多かった。明治期に入ってからも屋敷が建ち並んでおり、とりわけ著名な三条実美の別荘である「對鴎荘」が橋場の渡しの西岸にあった。歌川広重が錦絵「墨田河橋場の渡かわら竈」に描いた。白鬚橋の完成に伴い大正期に廃止されたといわれる。Wikipedia錦絵:東都名所図絵隅田川渡しの図/広重(国立国会図書館蔵)

橋場地域(隅田川右岸)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27271884/


・・・鐘ヶ淵通り

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街道の風景⑦ 鐘ヶ淵通りは墨堤通りから水戸街道まで続く現在のメイン通りです

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鐘ヶ淵駅東武線踏切          左は「旧玉ノ井」右は隅田川稲荷です

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隅田稲荷神社鳥居/墨田


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隅田稲荷神社/墨田
旧善左衛門村の鎮守である。善左衛門村は明治22年(1889)町村制の施行によって隅田村と大木村に吸収されて消滅し、稲荷神社も荒川の開削によって現在地に移転している。祭神は倉稲魂命で古くは八僧稲荷と称したという。土地の開拓者善左衛門の名がそのまま村名となった所で、その家系は代々善左衛門村を名乗ったが、五代目の善左衛門が伊勢参りに出た折、どこからともなく現れた八人の僧によって災難から救われ、無事に帰ることができた。そこで村人とはかり稲荷社を建てて八僧稲荷と名付けたと伝えられている。また、弘福寺(向島五丁目)の開山鉄牛和尚の守護神を祭ったともいわれるが、往時は八僧の縁起を万燈に仕立てたみこしでにぎわったという。この「万燈みこし」は近年復活され毎年615日に例大祭が行われている。(墨田区史)

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板絵墨絵「神竜図」
板絵墨絵「神竜図」は隅田稲荷神社の拝殿天井絵です。いわゆる雲竜図で、17枚の檜板から成る画面に雲間から半身を現わす竜(神竜)の姿が描かれています。筆者は一時付近(現隅田3丁目37番)に住んだ鴨下晁湖(ちょうこ・1890-1967)です。晁湖は浅草出身の日本画家で、松本楓湖に大和絵を学び歴史絵を得意としました。明治40年(1907)の第1回文部省美術博覧会で3等賞を受賞後、文展や帝展で入選を重ね昭和7年に永久無監査の資格(無審査で出品出来る資格)を得ました。戦後は柴田錬三郎の「眠京狂四郎無頼控」など時代小説の挿絵に名作を残しました。「神竜図」の制作期間は未確定ですが、昭和18に社殿の改築が行われておりその頃のものと思われます。地元にゆかりのある画家の作品であることに加え、墨田区内では希少な天井絵であることから平成12年に墨田区の文化財となりました。(墨田区教育委員会)


・・・玉の井いろは通り

「玉の井」はもともと東京府南葛飾郡寺島村にあった字(小字)で北玉ノ井と本玉ノ井の二字があった。1923年(大正12年)寺島村が町制を施行して寺島町になる。1930(昭和5年)寺島町はこれまでの字を廃して新たに一-八丁目の大字を設置し、このとき正式な「玉の井」の地名が消滅。(字北玉ノ井と本玉ノ井は大字五-七丁目に含まれた)
Wikipedia


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街道の風景⑧ 東京大空襲での焼失を免れた地域でしょうか/玉の井いろは通り(新玉の井)

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玉の井いろは通り入口付近       東武線を越えると大正通りになります

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玉の井
戦前から1958年(昭和33年)の売春防止法施行まで、旧東京市向島区寺島町(現在の墨田区東向島五丁目、東向島六丁目、墨田三丁目)に存在した私娼街である。永井荷風の小説『濹東綺譚』(ぼくとうきだん)、滝田ゆうの漫画『寺島寺島町奇譚』の舞台として知られる。
(玉の井いろは通り(橙)辺りが「新玉の井」下側が「旧玉の井」でしょうか?)(地図:1927~1939年頃)


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(起源)玉の井の起源については永井荷風の『濹東綺譚』によれば1918年(大正7年)-1919年(大正8年)のころ浅草観音堂裏に言問い通りが開かれるに際して、その近辺にあった銘酒屋等表向きは飲み屋を装いひそかに私娼を置いて売春させた店)がこの地へ移ってきたのが始まり。その後、関東大震災後の復興に際して浅草では銘酒屋の再建許可されず、亀戸とともに銘酒屋営業が認められた玉の井はますます繁栄する。、浅草からこの付近まで一直線に通る道路(現国道6号)が開通したほか、1931年(昭和6年)には東武伊勢崎線の浅草雷門駅(現浅草駅)が開業したことで、浅草から玉ノ井駅(現東向島)までのアクセスが格段に良くなったことも繁栄を助長した。

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(戦前・戦中)玉の井の銘酒屋は間口の狭い木造2長屋建で、それぞれの店には女性を1- 2人程度置いていた。1階には狭い通りに面して小窓が作られここから店の女が顔を覗かせて客の男を呼んだ。区画整理のできていない水田を埋め立てて作った土地のため、あぜ道の名残の細い路地が何本も密集した銘酒屋街の中を縦横に入り組んで通っていた。その地質のせいで雨が降ると相当ぬかるんだ。路地の入り口にはあちこちに「ぬけられます」あるいは「近道」などと書いた看板が立っており、この街を荷風はラビラント(迷宮)と呼んだ。第二次世界大戦中は軍需工場の工員や兵隊たちで賑わったが1945年(昭和20年)310日の東京大空襲で街のほとんどが焼失した。

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(戦後)終戦後の玉の井は焼け残った地域に移り(焼失前の位置は寺島町五丁目、六丁目、現在の東向島五丁目、六丁目の一部。戦災後の位置は寺島町七丁目、現在の墨田三丁目の一部)営業が続けられた。また一部の店は1kmほど離れた場所に作られた「鳩の街」に移転した。銘酒屋街は警察の指導により「カフェー」風の店に改めさせられいわゆる赤線地帯となった。売春防止法施行後はこの地区に娼家はなくなりほとんどは商店や住宅が建ち並び一部に町工場のある東京の普通の下町となった。Wikipedia


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鐘ヶ淵周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏)を参照

隅田川(5)鐘ヶ淵~向島01-鐘ヶ淵(1)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27761899/




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資料ファイル


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武蔵・下総を結んだ古代東海道/鐘ヶ淵駅前
東武線鐘ヶ淵駅の付近には武蔵国下総国を結ぶ古代の官道がありました。古代東海道と呼ばれるこの街道は、現在の墨田区北部を東西に貫き、京の都から常総方面に至る幹線道路として多くの人々に利用されたと考えられます。官道に定められた年代は910世紀と想定されます。「大日本地名辞書」に『隅田村より立石奥戸を経、中小岩に至り、下総府へ達する一径あり、今も直条糸の如く古駅路のむかし偲ばる』と記されるように明治13年(1880)の地図からは古代の官道の特徴を示す直線道を見出すことができます。

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またこの道筋には大道立石など古代の官道跡に見出される地名が墨田区墨田・葛飾区四ツ木(大道)、江戸川区小岩(大道下)に確認できます。また葛飾区立石には古代の標石に使用されたと考えられている立石様が残っています。これらは古代東海道の名残を示すものといえます。鐘ヶ淵駅から西へ進むと隅田川に至ります。江戸時代より前の時代、隅田川を渡るにはがおもな交通手段でした。承和2835太政官符で渡船の数を2から4にしたことは、隅田川を往来する人々の増加を物語っています。その行程をたどるのが「伊勢物語」東下りの場面です。在原業平が『名にしほゝいざ事とはむ宮こ鳥わが思ふ人はありやなしやと』と詠ったとされる場所は、古代東海道をつなぐ渡しであったのです。(墨田区教育委員会)図:赤線が古代東海道と推定されるルート
(赤:古東海道 紫:古奥州街道 緑:墨堤通り 黄:明治通り・鐘ヶ淵通り 青:隅田川・旧綾瀬川・荒川)

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沖積平野を越える道(概説)
隅田川の東側は下総国葛飾郡で、墨田区北部から二本の道が出ている。(紫)一本は東行し小岩から千葉街道へ出る。この道は古東海道が基になったもので源頼朝挙兵時に通った道である。古代東海道が基になった道はもう一本あり、葛飾区立石から東北方に分かれ柴又矢切を経て安孫子へ行く。この道が古代東海道の頃には「更級日記」の著者が通ったようである。また、戦国時代の第二回国府台合戦の土岐には北条氏の攻撃路であった。墨田区北部からもう一本は下道(薄紫)で、後の水戸街道の基になった道である。それは堤通で古東海道から分かれて堀切-青戸-金町-松戸-柏とほぼ一直線に通っている。頼朝の佐竹征伐はこの道を進軍したものと思われる。また北条氏第一回国府台合戦時の攻撃路であった。以上の旧街道は古奥州街道または古千葉街道などといわれた。(鎌倉街道探索の旅・中道・下道編/芳賀善次郎氏より)

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迅速測図・明治
13(1880)にみる東京低地/
葛飾区史
(赤:古東海道 薄紫:古奥州街道 茶:水戸街道 橙:日光道中 緑:熊谷堤・掃部堤・日本堤 青:隅田川・中川・江戸川 紺:古隅田川・綾瀬川を着色)

# by Twalking | 2019-09-14 09:41 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 永山駅   

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永山駅バスターミナル/多摩市永山
何でしょうね~、動かないけど風車かな???
一難去って、2日続きの猛暑日、ぎんぎらぎん。
もうすぐお月見ですよ~・・・、涼しくなっておくれ~!

# by Twalking | 2019-09-11 09:17 | ○たま-2019

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 隅田川(5)鐘ヶ淵~向島01-鐘ヶ淵(1)   

日時 2019.9.6(金)
天気 晴れ


秋雨前線の停滞で天気がすぐれませんね。
予報は「晴れ」、残暑が厳しいかな・・・、
9月に入ったので思い切って出かけて来ました。

「鐘ヶ淵」ここは古代官道の要所、隅田川を渡り
古東海道や後の鎌倉道、旧奥州街道などが通っていました。
資料関係は乏しいですがじっくり見てみたいと思います。


・・・鐘ヶ淵

「鐘ヶ淵」の由来

江戸時代にうぐいすの名所として知られた鐘ヶ淵は、隅田川のうち現在の区立鐘淵中学校のある堤通2丁目地先をさす名称です。その地名の起りは隅田川がこの辺で直角に曲り、それが大工の使う指矩(さしがね)に似ているところから「かねが淵」と呼ばれるようになったことによります。なお、ここは綾瀬川が合流することもあり、昔の舟人からは航路の難所として恐れられとくにその名が高くなった所です。後世、この名称からさまざまな伝説が生まれ、たとえば台東区の石浜にあった普門院が亀戸村に移転する際その梵鐘が川に落ち、今にいたるまで引き揚げられずに沈んでいるという話や、その寺を石浜の法源寺(現保元寺)といい、あるいは橋場の長昌寺とも称し、またある将軍が家臣を水中に潜らせてその鐘を見とどけさせたなどという話などが伝えられています。やがて明治の世となりこの周辺の開発が進むと、ここに紡績工場が建てられて社名を鐘ヶ淵紡績株式会社と称したことから後に鐘紡の名で知られるようになりましたが、昭和44年に鐘紡も閉鎖されしだいに現今のような景観に変わってきました。(墨田区HP)


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街道の風景① 綾瀬橋(旧綾瀬川)を渡ると墨田区です、かつては鐘紡の工場群でした/墨堤通り

墨田区の名称由来

墨田区は昭和221947年)315日に北部区域の向島区と南部区域の本所区が一つになって誕生しました。そのときに新しい区の名前として「墨田区」と名付けられました。それは昔から広く人々に親しまれてきた隅田川堤の通称「墨堤」の呼び名の「墨」からと「隅田川」の名の「田」からの2字を選んで名付けられたものです。(墨田区HP)


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綾瀬橋/墨堤通り            鐘紡の跡地 

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鐘淵紡績発祥の地/墨田5丁目
明治19
(1886)に綿問屋の三越、大丸、白木屋、 荒尾、奥田の5軒が集り三越得右衛門を頭取として東京綿商店が設立されました。翌年、資本金を10倍に増加させ隅田川河畔鐘ヶ淵の宏大な土地に紡績工場を建設して明治22(1889)に操業を開始、名称も有限責任鐘淵紡績会社と変更しました。これが現在のカネボウ株式会社です。鐘淵紡績は設立当初こそ経営難に見舞われたものの他社を吸収合併する中に日清戦争を機に大発展を遂げ、世界有数の紡績会社となりました。(墨田区教育委員会)

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街道の風景②交差点にモニュメント。左手が鐘ヶ淵駅、右折して水神橋に向かいます/鐘ヶ淵陸橋(墨堤通り)

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モニュメント/鐘ヶ淵陸橋
これは広重の「木母寺内川御前栽畑」(名所江戸百景)をレリーフにしたものです。徳川将軍の食膳に供する野菜を栽培する畑を御膳栽といい、ここの内川入江)を船で出入りすることが出来ました。鐘ヶ淵の由来には隅田川がこの辺りで直角に曲がりそれが工匠の使う曲尺(矩尺)に似ているから、また寺院の移転の際に梵鐘が川に落ちたところからの二説が伝えられています。(碑文)

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隅田川関屋の里(富嶽36景)
葛飾北斎
72歳の頃に版行した「富嶽三十六景」シリーズの一枚です。現在の墨田区堤通2丁目から足立区千住曙町千住関谷町のあたりが描かれています。画面には高札以外の家も見えず草原と田んぼが広がり、手前から奥へ蛇行して伸びる土手と存在感のある松、朝焼けの富士山が見える天保21831)年頃の作品です。穏かな早朝の中疾走する3騎の人馬は躍動感に溢れる印象的な作品です。武士たちの衣裳、馬体、馬具の細部に至るまで明るい色使いが施されています。(解説板)
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隅田川の風景① 水神橋より上流の景観。右手から綾瀬川が合流しています、かつての河口だった所でしょうか。

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水神大橋
隅田川にかかる都道461号吾妻橋伊興町線の支線の橋。西岸は荒川区南千住八丁目、東岸は墨田区堤通二丁目。橋名は東岸にある「隅田神社(水神宮)」に因む。創架は1989年(平成元年)。橋の組み立てを陸上で行い、橋桁を台船に乗せて干満の差を利用して橋脚に乗せるという方法を利用した。もともと「水神の渡し」という渡船場があった場所でもある。種別:鋼道路橋 形式:3径間連続ニールセンローゼ桁橋 橋長:157.0m 最大支間:102.0
Wikipedia

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水神の渡し
現在の水神橋の
100ほど下流にあった真崎稲荷隅田川神社を結んでいた渡しで、名は隅田川神社水神を祀っていることによるが、付近の俗称が「水神」でもあったことにもよる。歌川広重が錦絵「隅田川水神の森眞崎」に渡しを描いている。(Wikipedia
錦絵:江戸名所百景「隅田川水神の森真崎」/歌川広重

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隅田川の風景② 右岸の汐入公園より下流の景観です。左手が水神の杜辺りでしょうか、墨堤通りへ戻ります

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隅田川旧堤防堤/右岸
東京の東部低地帯にはおよそ三百万人の都民が生活し莫大な資産が集積しています。またこの地域は軟弱な沖積層に厚くおおわれ、大半が海面下となっているため昔から多くに水害を被ってきました。東京都はこの地域を高潮や洪水から守るため昭和32年から防潮堤や水門の建設に着手し、隅田川の防潮堤は昭和50年度に完成しました。この防潮堤が完成して以降、水害は発生することなく地域の安全に大きく寄与してきました。現在、隅田川ではより安全で環境にも配慮したスーパー堤防の整備を進めており、この白鬚西地区においても平成182月に完成を迎えました。このスーパー堤防の完成にあたりこれまで幾多の台風、豪雨から地域を守ってきた旧の防潮堤を後世に伝えるためその一部を保存するこのです。(東京都建設局)

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汐入水門跡/右岸
汐入水門は隅田川貨物駅構内に掘り込まれた運河の水位を調節し、駅構内と周辺地域を水害から守るため昭和28に誕生した。隅田川貨物駅は明治30年に石炭の集散地として開設された駅である。鉄道(常磐線)と隅田川の水運を結びつける構造をもちそのための運河が造られた。元来この地域は土地が低く、運河の護岸は荷物の揚げ下ろしの関係上低く造られていたため、満潮時には付近に浸水しさらに台風などの異常な高潮時には南千住ばかりでなく浅草方面まで被害をこうむっていた。水門はこの水害を防ぐために建造されたのである。しかし貨物の輸送が船による河川輸送から鉄道・トラックによるコンテナ輸送に切り替わると、運河は不用となり昭和45年頃には全て埋め立てられ水門もその役割を終えた。
(写真:瑞光橋/瑞光橋公園)


・・・堤通
(つつみどおり)/墨田区

墨田区の北部西端部に位置し南北に細長い町域を持つ。北で旧綾瀬川を挟んで対岸に足立区千住曙町、東で隅田及び東向島、南で向島、西で隅田川を挟んで対岸に荒川区南千住及び台東区橋場と隣接する。町域の北辺の旧綾瀬川を以て墨田区-荒川区境、西辺の隅田川を以て墨田区-荒川区・台東区境とする。町域東辺を墨堤通り、西辺に首都高が南北に走る。
Wikipedia

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街道の風景② 分離帯に松並木、交差点先の右手に梅若公園があります/墨堤通り

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小さな公園ですが、この辺りが木母寺の旧地です/区立梅若公園

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梅若塚(東京都指定旧跡)
梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、謡曲「隅田川」で知られます。梅若丸は京都北白川の吉田少将帷房遺児で、比叡山で修行中に信夫藤太と言う人買いによりさらわれ、奥州に向かう途中隅田川のほとりで死にます。その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いたが梅若塚であると伝えられます。木母寺は忠円により梅若塚の傍らに建てられた隅田院梅若寺が始まりとされます。塚は梅若山王権現として信仰を集めました。木母寺は当該地周辺にありましたが白髭防災団地建設に伴い現在地に移転しています。(東京都教育委員会)

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木母寺境内之図(山本松画 明治31年・1898
江戸時代の木母寺境内は幕府から寺領を与えられ多くの参拝者を集めていましたが、明治時代になり神仏分離令に伴う廃仏毀釈のあおりを受け木母寺は荒廃し梅若神社となった。幕府の庇護を失った梅若神社の経営は苦しく存続の危機に陥るが、様々な人の支援を受け1889に寺院への復帰を果たす。現在の木母寺に移築され現存する梅若堂(当地ではない)は木母寺が再興されたのちに建立されたもので、戦時中の空襲から奇跡的に焼失を免れたもの。「木母寺境内之図」は梅若堂が当地に建立された明治期の木母寺の様子を伝える貴重な資料。画面の中央に梅若堂、右手に木母寺の本堂、左手に料理茶屋。(墨田区)

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梅若塚跡
梅若塚は謡曲「隅田川」で知られる「梅若伝説」に登場する伝説上の人物である梅若丸であると伝えられます。梅若丸は京都北白川の「吉田少将これふさ」と美濃国野上の長者の一人娘「花御せん」の子で、父の死後7歳で比叡山に入り修行に励みます。梅若丸の秀でた才能は評判になりますが、松若丸という同じく優秀な同輩との争いが原因でみちのくの人買い・信夫の藤太にかどわかされてしまいます。奥州に連れて行かれる途中、なれない長旅の疲労により重い病にかかり藤太は梅若丸を隅田川のほとりに置き去りにしてしまいます。里人たちの看病もむなしく「たつね来て とはゝこたえよ みやこ鳥 すみたかはらの 露ときえぬと」という辞世の句を残し、貞観元年315日梅若丸はわずか12歳でその生涯を閉じます。その死を哀れんだ出羽国羽黒山の高僧で下総の御坊忠円阿闍梨が墓を築き、一本の柳を植えて菩提を弔ったのが梅若塚であると伝えられ、梅若丸は山王権現として信仰の対象になっています。(墨田区)

梅若塚と木母寺
木母寺は梅若塚の傍らに建てられた草庵が梅若寺と呼ばれるようになったのが始まりとされます。その後、「」の字を分けて「木母」となったといわれています。木母寺は当該地周辺にありましたが、白鬚東地区防災拠点建設に伴い現存する梅若堂、梅若塚と共に現在の場所に移転しています。(墨田区)

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梅若権現御縁起
「梅若伝説」を伝える絵巻物として「紙本着色梅若権現御縁起 附 漆箱二匣」(墨田区指定有形文化財)があります。これは高崎城主・安藤対馬守重治延宝716793月に寄進したもので、現在も木母寺が所蔵する寺社縁起絵巻物です。原本は保存のため非公開ですが、すみだ郷土資料館で複製を所蔵しており展示されています。(絵:梅若権現御縁起 下巻 第3-すみだ郷土資料館)

梅若塚と妙亀塚

妙亀塚(都指定旧跡)は梅若丸の母親の墓であると言われています。我が子を探し求めこの地まで来た母親が、里人から梅若丸の死を知らされ梅若丸の菩提を弔うため庵を結びました。その後、母は底なし池に身を投げてしまいます。母が身を投げた池は隅田川対岸・浅茅か原(現在の台東区橋場付近)にあった池と言われ、妙亀塚公園(台東区橋場)内にあります。(墨田区)

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銅像榎本武楊像
本像は榎本武揚没後の大正219135月に建立されました。銅製で像高は約3mあり、南を向き大礼服姿で荘重な趣を呈しています。彫刻は衣服の質感や顔の表情が細かく表現されて外形描写に優れています。榎本武揚は戊辰戦争終盤のは箱函戦争で明治維新政府軍と戦った旧幕臣として著名な人物です。武揚は箱函戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は明治政府に出仕し文部大臣、外務大臣等政府の要職を歴任しました。晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が見られたようです。建立にあたっては大隈重信や大倉喜八郎、渋沢栄一、益田孝など政財界を代表する人物等が協力しました。原型製作者は藤田文蔵田中親光であり鋳造者は平塚駒次郎です。この銅像は平成12年墨田区登録文化財に登録されました。(墨田区教育委員会)
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現在の木母寺は都営の9号館を抜けた東白髭公園の一角にあります

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木母寺(もくぼじ)
墨田区にある天台宗の寺院。山号は梅柳山、院号は墨田院、本尊は地蔵菩薩・元三大師。この寺は寺伝によれば976(貞元元年)忠円という僧が、京都から人買いによって連れてこられてこの地で没した梅若丸を弔って(梅若塚:現在の墨田区堤通2-6)をつくり、その傍らに建てられた墨田院梅若寺に始まると伝えられる。1590年(天正18年)に徳川家康より梅若丸と塚の脇に植えられた柳にちなんだ「梅柳山」の山号が与えられ、江戸時代に入った1607年(慶長12年)、近衛信尹によって梅の字の偏と旁を分けた現在の寺号に改められたと伝えられており、江戸幕府からは朱印状が与えられた。明治に入ると神仏分離に伴う廃仏毀釈によりいったん廃寺となったが、1888年(明治21年)に再興された。その後白髭防災団地が建設されるにあたり、現在の場所に移転した。
Wikipedia

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梅若塚の沿革
『たづねきて問はばこたえよ都鳥すみだ河原の露ときえぬと』の辞世で名高い梅若塚は、中世からは能「隅田川」の文学的旧跡、また江戸時代には梅若山王権現として尊信されました。明治の世となり木母寺が廃寺の後は梅若神社と称されましたが、同寺再興の翌年(明治25年)佛式復帰しました。現在地に遷座したのは昭和51年で、旧地は門前の団地住宅第9号棟の東面梅若公園内に存置、石標が立っています(説明板)(写真:右が梅若堂 左が梅若塚)

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境内の諸碑
梅若塚で知られる境内には謡曲「隅田川」の碑など30墓の石碑があり著名なものとしては次の諸碑があります。華笠文京翁碑:幕末に出た劇作家花笠文京(魯助)の数奇に富んだ生涯を述べた碑で、弟子である仮名垣魯文が建てました。

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三遊塚:三遊亭円朝が先師初代円生追福のため明治22年に建てた碑です。題字は山岡鉄舟、銘文は高橋泥舟の書です。題墨田堤桜花(墨田堤桜花に題す)の詩碑:亀田鵬斎の作ならびに書で「長堤十里、白にして痕なし、訝しむ澄江の月と共に渾るに似たると。飛蝶還り迷う三月の雪。香風吹き度る水晶の村」と読みます。銘文は9歳の少年清水孝の書です。文政12年建立。(墨田区教育委員会)
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江戸名所図会 梅若丸 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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公園の園路を隅田川神社に向かいます、途中右手に隅田宿の説明板があります/東白髭公園

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東白髭公園
墨田区堤通二丁目にある東京都立の公園である。隅田川に沿う南北に細長い公園である。江東地区防災拠点の指定を受けている白髭東地区内に位置し、災害時用の各種設備が設置されている。
Wikipedia


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梅若の秋月-風流隅田川八景
「風流隅田川八景」シリーズの一枚です。「たづねきて問はばこたえよ都鳥すみだ河原の露ときえぬと」の辞世の句で有名な木母寺に古くから伝わる「梅若伝説」を題材にしています。京のほうから騙されて連れられてきた梅若丸は病に倒れ隅田宿あたりで僅か12歳の生涯を閉じました。母の花御前は悲しみのあまり狂女となり我が子を探し彷徨ったと伝えられています。平安時代の話を江戸時代に置き換え生前に会えなかった母子が、絵の中で仲睦まじく舟遊びをしてい姿で描かれています。文化中期(180418)頃の作品です。(解説板)

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雪月花隅田
雪景色の隅田河畔を描いた作品で、月の淀川、花の吉野と共に選ばれた三名所の一枚です。画面中央の森の中には木母寺と料亭「植半」、手前には水神社と呼ばれた隅田川神社を配し、厚い雪を積もらせています。当時はいずれも雪景色の名所と言われました。画面上下の濃い藍色が夜が明けきらない早朝の印象を与えていて、静寂さとそこはかとない郷愁を感じさせる作品です。そして静かな冬の朝の中にも舟で網を仕掛ける人や雪の中を行く二人の人物が描かれ左右の都鳥らしき鳥たちもアクセントになっています。文政末から天保初(1830)頃の作品です。(解説板)

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隅田宿の所在地範囲(推定)

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隅田宿跡
当地は古東海道渡河地で、平安時代末頃には墨田宿が成立していたといわれています。墨田宿は治承41180)に源頼朝が布陣したと伝わる宿で(『吾妻鏡』)、元来は江戸氏など中世武士団の軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南北朝時代までには人と物が集まる都市的な場が形成されたようで、歌人藤原光俊が詠んだという13世紀中期の歌には多くの舟が停泊してにぎわう様子が描かれています(『夫木和歌抄』)。また、室町時代成立の「義経記」には『墨田の渡り両所』と見え、墨田宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であったらしいこともうかがえます。対岸との関係については今なお不明な点を多く残しますが、隅田川東岸部における宿の広がりについては、江戸時代の地誌に載る一部の伝承と絵地図が参考になります。それらを分析した研究成果によれば、所在範囲はおよそ図示したように想定されます。なお、人質にさらわれた梅若丸とその母の悲話を伝えた梅若伝説、そして罪業深い老母と娘の悲劇を伝えた石枕の伝説(一ツ家伝説)など、隅田川流域にはいくつか著名な伝説が残されました。この付近に成立した墨田宿はそうした伝説を育む場でもあったようです。(墨田区教育委員会)(写真:豪族千田宗胤が舟で隅田宿に到着したことを伝えた古文書/恵釼書状・称名寺蔵・南北朝時代)

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隅田川神社一之鳥居 墨堤通りに面し参道が西へ延びています

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隅田川神社二之鳥居

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隅田川神社
墨田区にある神社で、周辺は東白髭公園となっている。祭神:速秋津日子神、速秋津比売神、鳥之石楠舟神、大楫木戸姫神。この神社の創建については不詳であるが、言い伝えによれば源頼朝が創建したものと伝えられる。もとの名を浮島神社といい、古くは水神社水神宮浮島宮などとも呼ばれ「水神さん」として親しまれてきた。1872現社名に改名した。地域の鎮守神であるとともに隅田川一帯守り神でもあり、水運業者や船宿など川で働く人たちの信仰を集めたほか「水神」の名から水商売の人々にも信仰された。江戸後期の戯作者の山東京山筆の道標、狂歌師の鹿都部真顔の歌碑がある。(Wikipedia

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水神の森跡
荒川下流鐘ヶ淵を越え大きく曲がったこの地は隅田川落ち口(終点)で、かつて鬱蒼とした森が広がっていました。人々からは水神の森とも浮洲の森とも呼ばれて親しまれていました。昔、ここから入江が始まり、となっていたことから「江の口」、すなわち「江戸」の語源ともなったといわれています。水神の森は『江戸名所図会』にも描写されているとおり、川岸にあった水神社(隅田川神社)鎮守の森でした。川を下ってきた人々には隅田川の入口の森として、川をさかのぼる人々にとっては鐘ヶ淵の難所が近いことを知らせる森として格好の目印となっていました。その後、震災・戦災にも消失を免れた森は戦後の開発で失われてしまい、隅田川神社自体も100ほど移されて現在地に鎮座しました。(墨田区教育委員会)(写真:現在の参道)


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水神の森
水神社(現隅田川神社)の鎮守の森。小高い土地にあったため増水でも沈むことがなかったことから「浮島」とも呼ばれていた。源頼朝挙兵の際、治承41180)年この地に到り、水神の霊験に感じて水神社の社殿を造営したと伝わる。河川交通の要所であることから隅田川流域の船主の信仰を集めていた。現在は100ほどに移転している。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立国会図書館)
錦絵:江戸名所百景「木母寺内川御前栽畑」/広重


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江戸名所図会 木母寺 梅若塚 水神宮 若宮八幡(隅田川東岸)(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
中央が木母寺・梅若塚、左が水神社、右上が若宮神社になります。
『木母寺に歌の会ありけりけふの月 其角』『回国雑記 いにしへの塚のすがたあはれさ いまのごとくにおぼえて 古塚のかげ行く水のすみだ河 聞きわたりて もぬるる袖かな 道興准后』

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東白髭公園周辺地図(紫:古東海道 橙:古奥州街道 緑:墨堤通り 黄:鐘ヶ淵通り 青:隅田川・荒川)

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「鐘ヶ淵」周辺 明治初期~中期/歴史的農業環境閲覧システムより

隅田川(4)千住曙町~北千住の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27716934/

# by Twalking | 2019-09-10 08:37 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 お月さん   

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多摩丘陵/多摩市
関東を直撃した台風15号、
昨夜来から風雨とも激しかったですね・・・。
台風が去って、あかね雲の間にお月さん、
やれやれ、ほっと一息です。
(2019.9.9(月)18:03)

# by Twalking | 2019-09-09 18:32 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「Revaty」   

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鐘ヶ淵駅・踏切/墨田区墨田
ここは開かずの踏切かな~・・・、
現われたのは東武特急の「Revaty」(リバティ)、
500
系の車両、かっこいいですね~!満足です。


東武500系電車

東武鉄道の特急車両。愛称は「Revaty(リバティ)」、これは併結・分割機能を活かした多線区での運行を表す「Variety」と路線を縦横無尽に走り回る自由度の高さを表す「Liberty」に由来する造語である。車体はアルミ合金製のダブルスキン構造を採用して軽量化が図られており、床面高さを100系より60 mm低くしてホームとの段差解消に努めている。本系列の全体の設計コンセプトとして「さまざまな運行形態で運用可能な速達性と快適性を持った特急列車」として前面を貫通型として分割・併合を行えるようにしている。特急車両であることを印象させるスピード感を表現するため先頭車形状を前面にプラグドア式の貫通扉を装備した前面部から屋根部まで続く傾斜がある流線形状とし、走行時での風圧抵抗を抑制しており貫通扉の上部と下部両側にはLEDの前照灯を配置している。Wikipedia


# by Twalking | 2019-09-08 19:35 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東武線北千住駅   

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東武線北千住駅/足立区千住
次の駅で降りますが、急行は止まらないし・・・、
初めてだし、大きなホームなので迷いました。
これに、乗ればいいのかな~。


東武線北千住駅

東武鉄道は1899年(明治32年)に当駅より久喜駅まで開業したため、当駅に0kmポストが設置されている。当駅からの下り列車の本数は当駅始発および東京メトロ日比谷線・半蔵門線からの直通列車が加わるため浅草発の本数に比べて2倍近くに増え、東武伊勢崎線の都心側拠点駅となっている。当駅は東京メトロ日比谷線の起点でもあり、東武スカイツリーラインと東京メトロ日比谷線は当駅を境に相互直通運転を行っている。1階(1 - 4番線)は東武スカイツリーライン専用で島式24線の地上ホーム。3階(5 - 7番線)は東京メトロ日比谷線および日比谷線から直通する東武スカイツリーラインの普通(各駅停車)乗り場で、島式ホーム23線を有する高架駅。5番線と7番線は東武スカイツリーラインの緩行線につながっている。地上からホームまでの高さは14.4mであり、日比谷線のみならず東京メトロ全体を通しても地面からは最も高い駅である(ただし標高では同線内の六本木駅より低い)(Wikipedia


# by Twalking | 2019-09-07 11:38 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 スカイツリー   

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小梅通り/墨田区小梅町
晴れたのは嬉しいけど、
厳しい残暑でしたね~・・・。
この辺りからのスカイツリーは迫力満点です。

# by Twalking | 2019-09-06 23:01 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 初秋   

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鶴牧西公園/多摩市鶴牧
雑木林もいつしか秋の気配・・・、
晴れたら出かけよっと。

# by Twalking | 2019-09-05 18:35 | ○たま-2019

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 京急品川駅   

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京急品川駅/品川区高輪
ラッシュにかかる頃ですが、
下りは混雑してますけど、
上りは大丈夫みたいですね~・・・。

# by Twalking | 2019-09-03 19:36 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 三日月   

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愛宕下通り/多摩市愛宕
久し振りに見るお月さん、
今年の中秋の名月は9月13日です。
楽しみに待ちましょうか・・・。
(2019.9.2(月)18.36)

# by Twalking | 2019-09-02 23:18 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 坂の風景-地蔵坂   

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地蔵坂/荒川区西日暮里
諏訪台から西日暮里駅へ下る坂、名の由来は諏方神社の別当寺であった浄光寺に江戸六地蔵の三番目として有名は地蔵尊が安置されていることに因みます。一帯は江戸から明治にかけて「虫聞き」の名所だった所です。風流ですね~・・・、また訪ねてみたい名所です。


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江戸名所図会 
道潅山聴虫 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
『文月(ふみづき)の末を最中(さかり)として、とりわき名にしおふ虫塚の辺りを奇絶とす。詞人・吟客ここに来たりて、終夜(よもすがら)その清音を珍重(めではや)す。中にも鐘児(まつむし)の音(こえ)は勝れて艶(うるわ)しく、莎鶏(はたおり)、紡織娘 (きりぎりす)のあわれなるに、金琵琶(すずむし)の振り捨てがたく、思はず有明の先をまちたるも一興とやいはん。「まくり手にすずむしさがす浅茅かな」其角』

道灌山周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27119266/


# by Twalking | 2019-08-31 14:37 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鶴牧バス停   

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鶴牧公園通り/多摩市鶴牧
蒸し暑いからバスで帰ろっと。
本数は限られますが、
時間を合わせると便利です。

# by Twalking | 2019-08-29 22:36 | ○たま-2019

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 源実朝公御首塚跡   

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源実朝公御首塚/田原ふるさと公園(秦野市東田原)


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源実朝公御首塚
源実朝公御首塚ここは若くして非業の最期を遂げた鎌倉幕府3代将軍・源実朝の首塚と伝えられている。実朝は鎌倉幕府を開いた源頼朝と北条政子の子として生まれ、建仁3年(12033月に12歳で鎌倉幕府3代将軍となり、建保6年(121812月武士として初めて右大臣となった人物である。実朝は建保7年(1219)正月27日右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣した際に、2代将軍頼家の子・公暁により命を奪われた。「吾妻鏡」には首のないまま埋葬されたと記されており、首を持ち去った公暁が討たれたのち首の行方については一切触れられていない。多くの謎の残る事件であるが「新編相模風土記稿」(1841)の東田原村の項に『源実朝墓 村の中程に在 塚上に五輪塔建てり 承久元年(1219)武常晴 実朝の首級を当初に持ち来り』という記述がある。この武常晴は三浦半島地域を本拠地とした御家人・三浦氏の家臣であり、のちに一族は現在の当市寺山に移り住んだといわれている。なお、ここからほど近い金剛寺には源実朝像が安置されている。実朝はまた歌人としても名高く、私家集に「金塊和歌集」がある。歌碑に刻まれた和歌はそれに収められた一首であり、近代を代表する歌人のひとりである佐々木信綱の筆によるものである。「ものいはぬ 四方のけだもの すらだにも あわれなるかなや 親の子をおもふ」(秦野市教育委員会)


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東田原中丸遺跡/田原ふるさと公園


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東田原中丸遺跡
遺蹟の概要東田原中丸遺跡は神奈川県秦野盆地の北東・山から南に延びる標高約150舌状台地先端の緩やかな東斜面に位置します。盆地内では少ない水田が広がりその水田に接するように建物群が造られています。遺跡のすぐ北には市指定史跡「源実朝公御首塚」があります。ここは右大臣拝賀の儀式の跡に非業の最期を遂げた鎌倉三代将軍源実朝の御首を納めたという古くからの言い伝えが残されています。御首塚の更に北側約200mのところには波多野忠綱が勧請したとの伝承をもつ「金剛寺」があり、近年の調査において鎌倉時代の遡る秀麗な仏像が発見されています。北東約1kmに秦野義通の城跡の伝承がある波多野城があります。このように遺跡周辺には中世の香りが漂う市内でも稀有な土地であることがわかります。

東田原周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/26775694/




# by Twalking | 2019-08-28 16:31 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 道灌物見塚-本行寺   

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道灌丘碑
太田道灌が斥候台を築いたところを道灌物見塚と呼んでいる。塚は境内にあり「わたり二間ばかり、高さ一丈ばかり見事な塚なり」(江戸砂子)とあるところから当時の模様が想像される。今は道灌丘碑を残すのみとなっている。この本行寺は宝永6年(1709)谷中から移ったもので、景勝の地であったところから月見寺とも呼ばれていた。(荒川区教育委員会)



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小林一茶句碑
「陽炎や道灌どのの物見塚」







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種田山頭火句碑
「ほっと東京に来ている月がある」


本行寺/荒川区西日暮里
本行寺周辺の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27126295/










# by Twalking | 2019-08-27 22:40 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-南品川諏訪神社   

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阿形

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吽形
がっちりと太い足ながら、動きのある狛犬さん、
天保2年(1831)の造立です。


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阿形

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吽形
こちらは境内社の稲荷社の狐さん、
鋭い目、射すくめられそうですね~。

南品川諏訪神社/東海道品川宿(品川区南品川)
諏訪神社/品川宿の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/25791878/

# by Twalking | 2019-08-26 22:08 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 龍さん-上平間八幡神社   

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上平間八幡神社/川崎市中原区上平間
あれ、顔だけ~・・・、胸像かな???
堂々として、いい姿勢だこと。

# by Twalking | 2019-08-25 22:10 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 そろそろいいかなぁ~?   

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乞田川/多摩市落合
ぎんぎらぎんの厳しい残暑、
でも、風は爽やか。
そろそろいいかなぁ~、ねぇ~、わんこちゃん。

# by Twalking | 2019-08-25 14:18 | ○walk

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 千躰荒神堂奉納扁額-海雲寺   

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海雲寺/品川宿(品川区南品川)


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千躰荒神堂奉納扁額
千躰荒神王はの神として、また台所の神としても有名である。堂内に懸けられている扁額は信徒の奉納によるものであり全部で27面ある。文字額及び雌雄二鶏図が多く、格天井の中央に龍の図が、その周りに纏図(まといず)が描かれている。文久元年(1861)作の雌雄の二鶏図はガラスの上に彩色された貴重な資料であり、また昭和10年に奉納された浪曲家・廣澤虎蔵夫妻による文字額もある。品川区教育委員会)

東海道・品川宿(南品川)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/25791878/


# by Twalking | 2019-08-24 22:31 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 街道の風景-問答河岸   

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問答河岸/品川宿・徒歩新宿(品川区北品川)
左手の問答河岸碑を下ると目黒川の河口でした。
案内板が名文ですね~、宇都宮徳間氏の謹書とか。


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問答河岸跡
寛永の昔、徳川三代家光将軍、勇壮活達の明君也。宗彭沢庵禅師に帰依して品川に萬松山東海寺を建つ。寺域五萬坪寺領五百石。殿閣僧坊相連つて輪・美を極む。・・・将軍一日天地丸に座乗し品海を渡り目黒河口に繋船して東海寺に詣し、喫茶法話薄暮に至って江戸城に還らんとす。禅師河畔に立って是を送る。将軍乗船に臨んで禅師に問して曰ク『海近くして如何が是れ東海寺と』禅師答而曰ク『大軍を指揮して将軍と言が如しと』将軍一笑。_を解いて而て還る。時移りて三百年地勢・変し河海遠し。然れ共市人傳えて問答河岸と称す。一世の英主一代の名僧諧譫談笑の蹟。菊鮨總本店主其煙滅を惜み石に録して永に芳を傳えんとす。亦可しからすや。(案内板)

東海道品川宿(北品川)の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/25825171/


# by Twalking | 2019-08-24 19:25 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 晩夏   

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小田急多摩センター駅
秋雨前線が停滞して降ったり止んだりの空模様に、
「こんな日もあったな・・・・」と一息つく頃。
夏の疲れを癒すのにはいいですね~。

# by Twalking | 2019-08-23 21:27 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 水草   

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酉蓮寺/目黒区平町
葉陰でメダカさんが泳いで
涼しげなこと。
ホテイアオイさんかな~???


ホテイアオイ
(布袋葵)
単子葉植物ミズアオイ科に属する水草である。南アメリカ原産で水面に浮かんで生育する。花が青く美しいので観賞用に栽培される。湖沼や流れの緩やかな川などの水面に浮かんで生育する水草。葉は水面から立ち上がる。葉そのものは丸っぽく艶がある。変わった特徴は葉柄が丸く膨らんで浮き袋の役目をしていることで、浮き袋の半ばまでが水の中にある。日本ではこの浮き袋のような丸い形の葉柄を布袋(ほてい)の膨らんだ腹に見立てて「ホテイアオイ(布袋のような形をしているアオイ)」と呼ばれるようになった。Wikipedia


# by Twalking | 2019-08-23 19:37 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 お地蔵さん-千住不動院   

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「私もお堂のすみっこに置いてくださいな~・・・」
可愛いお地蔵さんだこと、合掌。

不動院/足立区千住
千住宿の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27689676/

# by Twalking | 2019-08-22 14:05 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-千住本氷川神社   

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吽形

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阿形
お尻をぴ~んと跳ね上げて、元気いいですね。
阿吽が逆で、年代は分からないそうですが、
がっちりとしてなかなかの見応えです。

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あれ、龍さんじゃないんだ・・・、珍しいですね。こちらは手水舎の狛犬さんです。

千住本氷川神社/足立区千住
千住本氷川神社の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/27689676/

# by Twalking | 2019-08-21 19:50 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 乞田川8月   

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乞田川/多摩市落合
桜並木の葉っぱも色づき始めました。
夏も盛りを過ぎたかな~・・・、
まだ残暑は厳しいですが、季節が移ろいます。


# by Twalking | 2019-08-21 16:14 | ○たま-2019

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 牛田駅   

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東武線牛田駅/足立区千住曙町駅
北側の踏切からの景観です。
墨堤通り側(右)に京成関屋駅があります。
牛田の地名はは牛田圦(農業用水)が流れていたからとか、
駅名に残されています。


牛田駅
足立区千住曙町にある東武鉄道伊勢崎線の駅で「東武スカイツリーライン」の愛称区間に含まれている。京成電鉄本線の京成関屋駅と至近の位置で、道路を挟んで向かい側にあり連絡運輸が行われている連絡駅となっている。相対式ホーム22線を有する地上駅。ホーム有効長は10両編成対応であるが、東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線直通の電車は通過する。1932年(昭和7年)の開業。(Wikipedia

# by Twalking | 2019-08-20 17:48 | ○station