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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 甲州街道(5) 日野~高尾   

日時 2011.9.7(水)
天気 晴れ

一日遅れで“台風一過”の好天に恵まれました。
透き通るような青空、「お久し振り!」という感じですが、
風も爽やかで“秋”の訪れを実感します。

今回は日野・高倉原の台地から浅川へ下り、八王子15宿の
史跡を巡りながら高尾へと向かいます。
八王子の中心部を挟んで、その前後は趣のある並木道が続き
ますので、リズムに乗ったウオークが楽しめるコースだと思います。

距離は少し長めですが、行く手に高尾山が見えますので、
これを目標にみなさん気持ちさそうに歩かれておられました。
やっぱり青空と涼風、これがなによりの“元気の源”ですね!
お疲れ様でした。


甲州街道(5) 日野~高尾_d0183387_13464100.jpg

井上源三郎墓所/宝泉寺
新撰組にまつわる史跡、逸話などはここでいったん終わります。
次に登場するのは笹子峠を越えた勝沼あたりになります。


甲州街道(5) 日野~高尾_d0183387_143048.gif

八王子宿の絵 (新編武蔵風土記稿)  Wクリックで拡大します
代官頭八王子総奉行となった大久保長安は八王子城下3縮を移転し、盆地の中央
に新たな甲州街道を設定する。その中心に置いた八幡・八日町・横山の3宿を宿場町・
町人屋敷とした。また、行政・司法の府として石見屋敷(石見陣屋)を新八王子宿の
中央に置き、その外側南北には寺院群を置いた。
(甲州街道 大高利一郎著)


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芭蕉句碑/永福稲荷             松姫尼公墓/信松院
蝶の飛ぶばかりの野中のひかげかな 芭蕉翁


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高尾山稜/日野
左手より高尾山、城山、小仏峠(中央・鞍部)、景信山となだらかな尾根が続きます。
次回はいよいよ“小仏越え”です!



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記録
人数 20名
歩数 24100歩
時間 6時間

行程
日野駅10:00・・・宝泉寺(S)・・・西の地蔵10:30・・・上人塚・・・
日野台一里塚・・・高倉南公園(WC)11:45・・・大和田橋・・・竹の鼻一里塚・・・
市守神社12:30(昼食)13:15・・・横山縮・・・八日町縮・・・念仏院・時の鐘・・・
大久保長保陣屋跡・・・信松院(WC)14:30・・・追分・千人同心屋敷跡・・・
興岳寺15::05・・・散田一里塚(推定)・・・高尾警察(WC)・・・熊野神社(S)・・・
高尾駅(16:20)



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資料ファイル

《大久保長安》
生年: 天文14 (1545)
没年: 慶長18.4.25 (1613.6.13)
江戸前期の奉行,代官頭。通称藤十郎,十兵衛,慶長8(1603)年石見守叙任。
武田信玄に仕えた猿楽師大蔵大夫金春七郎喜然の次男に生まれ,信玄に登用され土屋直村から土屋姓を授かり,財政や農村支配に当たる。
天正10(1582)年武田氏滅亡ののち徳川家康に用いられ,大久保忠隣の庇護を受けて大久保十兵衛と改称。家康の関東入部後代官頭として武蔵国八王子に陣屋を構え,伊奈忠次と並んで直轄地支配,知行割,検地などに活躍した。
関ケ原の戦では秀忠軍の先鋒として木曾路をのぼり,木曾遺臣山村良勝,千村良重らの起用を進言,木曾の森林資源と運材河川の利権を確保した。戦後直ちに石見大森銀山を支配,美濃代官として美濃一国の欠所を支配した。慶長6年彦坂元正と共に東海道,中山道の伝馬制を定め,伊奈忠次と関東諸国の検地を奉行,甲州総代官,大津町奉行となり,伏見銀座の開設にかかわり,とりわけ石見,佐渡鉱山の増産に実績を挙げた。
幕府が成立すると「所務奉行」(勘定奉行的地位)につき,家康の駿府移転後もその直轄地を支配,慶長10年代に大和,美濃の国奉行を兼ねて強大な権限を持ち,駿府城再建工事,丹波篠山城,亀山城などの普請にかかわり,建築用材輸送と内陸舟運路の開発に尽力した。
18年没後,生前の不正のかどで摘発され,男子は切腹,一族や下代らは処罰され,長男の舅信濃深志城主石川康長も改易された。
(朝日日本歴史人物事典の解説 大野瑞男)


《八王子千人同心》
江戸幕府の職制のひとつで、武蔵国多摩郡八王子(現八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団のことである。その任務は甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備と治安維持であった。 寛政12年集団で北海道・胆振の勇払などに移住し、苫小牧市の基礎を作った。
徳川家康の江戸入府に伴い、1600年(慶長5年)に発足した。当初は代官頭大久保長安が統括した。
千人同心は、甲斐武田家の滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・豪農などで組織された。甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは、武田家遺臣を中心に甲斐方面からの侵攻に備えたためである。甲斐が天領に編入され、太平が続いて国境警備としての役割が薄れると、1652年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となった。
十組・各百人で編成され、各組には千人同心組頭が置かれ、旗本身分の八王子千人頭によって統率され、槍奉行の支配を受けた。千人同心は警備を主任務とする軍事組織であり、同心たちは徳川将軍家直参の武士として禄を受け取ったが、その一方で平時は農耕に従事し、年貢も納める半士半農といった立場であった。
(Wikipedia)



《松姫尼公墓》(まつひめにこう)
松姫尼公は永禄4年(1561)武田信玄の四女(六女ともいう)として生まれ、
7歳の時に織田信長の長男信忠と婚約したが、その後武田・織田両家が不和に
なってこの約束は果たされなかった。
天正十年(1582)武田滅亡の際姪たちと八王子に逃れ、下恩方町の曹洞宗
心源院六世隨翁舜悦卜山禅師のもとで出家し、のちにこの辺りに庵をたて信
松院を開基せられたのである。元和2年(1616)56歳で没した。
法名は信松院殿月峰永琴大禅て定尼
(八王子市教育委員会)

by Twalking | 2011-09-08 13:31 | 甲州街道(完)

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