無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(2) 品川宿~川崎宿 01 下見・品川   

下見日時 2012.4.11(水)
天気 曇り/小雨

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品川宿八ツ山口
標柱には「従是南 品川宿 地内」「従是南 御代官築山茂左衛門支配所」「弘化二年化乙巳 月」と書かれています。


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品川橋/目黒川(上流に架かる鎮守橋をみる)
この辺りは海が近く漁業もさかんなところでした。今でも神社仏閣が多く、当時の面影がしのばれます。「品川橋」は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ、江戸時代には「境橋」と呼ばれていました。また別に「行合橋」「中の橋」とも呼ばれていたようです。最初は木の橋でしたが、その後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、時代の移り変わりとともに、その姿を川面に映してきました (品川区)


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品川寺(ほんせんじ)
寺伝によると、弘法大師空海を開山とし、大同年間(806-810年)に創建されたという。長禄元年(1457年)、江戸城を築いた太田道灌により伽藍が建立され、寺号を大円寺と称した。その後戦乱により荒廃するが、承応元年(1652年)に弘尊上人により再興され、現在の寺号となった。スイスジュネーヴ市と深い縁を持つ梵鐘を始め、江戸六地蔵の第一番にあたる地蔵菩薩像や東海七福神の毘沙門天などがある。(Wikipedia)


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花街道/勝島運河

d0183387_0135159.jpg浜川橋のたもとから立会川が海にそそぐところが土佐藩の抱屋敷であった。幕府への「差出」によると869坪が抱屋敷の広さである。ペリー来航の嘉永6年(1853)土佐藩は砲台築造の「願」を幕府に提出し、許可を得て翌年砲台を造った(浜川砲台) 警備陣は品川下屋敷を宿舎としてこの砲台に配置されたいた。浜川砲台と品川下屋敷を結ぶ連絡路は現在の立会川商店街の道路にあたり、その距離は約200mである。若き日の坂本龍馬も警備陣に加わっておりこの道を毎日歩いていた。



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資料ファイル

品川宿(しながわしゅく、しながわじゅく)
東海道五十三次の宿場の一つ。東海道の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。慶長6年(1601年)に中世以来の港町、品川湊の近くに設置され、北宿、南宿、新宿にわかれていた。場所は、現在の東京都品川区内で、京急本線の北品川駅から青物横丁駅周辺にかけて広がっていた。目黒川を境に、それより北が北品川、南が南品川とされた。

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尾張屋版江戸切絵図「芝高輪辺絵図」


d0183387_095520.jpg問答河岸跡/徒歩新宿  
寛永の昔、徳川三代家光将軍、勇壮活達の明君也。宗彭沢庵禅師に帰依して品川に萬松山東海寺を建つ。寺域五萬坪寺領五百石。殿閣僧坊相連つて輪・美を極む。・・・将軍一日天地丸に座乗し品海を渡り目黒河口に繋船して東海寺に詣し、喫茶法話薄暮に至って江戸城に還らんとす。禅師河畔に立って是を送る。将軍乗船に臨んで禅師に問して曰ク海近くして如何が是れ東海寺と。禅師答而曰ク大軍を指揮して将軍と言が如しと。将軍一笑。_を解いて而て還る。時移りて三百年地勢・変し河海遠し。然れ共市人傳えて問答河岸と称す。一世の英主一代の名僧諧譫談笑の蹟。菊鮨總本店主其煙滅を惜み石に録して永に芳を傳えんとす。亦可しからすや。            


d0183387_010297.jpg土蔵相模跡/徒歩新宿 
旅籠屋を営む相模屋は、外壁が土蔵のような海鼠壁だったので、「土蔵相模」と呼ばれていました。 1862年(文久2)品川御殿山への英国公使館建設に際して、攘夷論者の高杉晋作や久坂玄瑞らは、この土蔵相模で密議をこらし、同年12月12日夜半に焼き討ちを実行しました。幕末の歴史の舞台となったところです。


d0183387_21182141.jpg善福寺/北品川宿 
伊豆長八は幕末から明治初期に活躍した左官工、その漆喰こて絵は「東洋のフレスコ」として名高い。寄木神社本殿の内扉にはユーモアたっぷりな作品が、善福寺本堂正面の上部には力強い龍の作品が残る。(まち歩きマップ)



d0183387_0124534.jpg品川宿本陣跡(聖蹟公園)/北品川宿 
江戸時代の本陣は、宿場で大名や旗本、公家などが休息や宿泊するところで、品川宿には、初め南北品川宿に一軒ずつありましたが、江戸中期には北品川宿のみとなりました。大名などが宿泊すると、本陣には大名の名を記した関札を立て、紋の入った幕をめぐらしました。明治維新後、京都から江戸へ向かった明治天皇の宿舎(行在所)にもなったところです。


d0183387_2225250.jpg幕府御用宿 釜屋跡 
この地はもと「釜屋」のあったところです。釜屋は南品川にあった建場茶屋のひとつで、東海道を上がり下りする旅人たちま、ここで休息したり、見送りや出迎えの人たちと宴会をひらいたりしました。大へん繁盛したので、のちには本陣のような構えに改築しました。それで俗に「本陣」とよばれたりしました。幕末動乱の世情を反映して、慶応3年(1867)には連日のように幕府関係者が休んだり宿泊した記録が残っています。長井尚志(若年寄格)をはじめ、奉行、代官、歩兵隊々長他、旗本達が多く利用しました。有名な新撰組副長土方歳三も、隊志を連れて、慶応3年10月21日に休息しています。また、慶応4年1月(1868)の鳥羽・伏見の戦いに敗れた新撰組隊志たちは、同月15日に品川に上陸し、しばらく釜屋に滞在しました。今から120余年前を偲びつつ、ここに記す次第です。(青物横丁商店会、まちのお宝保存委員会)


d0183387_1264545.jpg海運寺・千躰荒神堂奉納扁額
千躰荒神王は火と水の神として、また台所の神としても有名である。堂内に懸げられている扁額は信徒の奉納によるものであり、全部で三十七面ある。文字額及び雌雄二鶏図が多く、格(こうし)天井の中央に龍の図が、その周りには纏図が描かれている。文久元年(1861)作の雌雄二鶏図はガラスの上に彩色された貴重な資料であり、また昭和10年に浪曲家廣澤虎造夫妻による文字額もある。(品川区教育委員会)


d0183387_21474372.jpg浜川橋 
立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられたこの橋は、またの名を「涙橋」ともいいます。この橋が架けられたのは、徳川家康が江戸入府後の1600年頃と思われます。現在の橋は、昭和9年(1934)に架け替えられたものです。
《涙橋の由来》 慶安4年(1651)、品川にお仕置場(鈴ヶ森刑場)が設けられました。ここで処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。この時、親族らがひそかに見送りにきて、この橋で共に涙を流しながら別れたということから、「涙橋」と呼ばれるようになりました。 (品川区教育委員会)


d0183387_015276.jpg都旧跡 鈴ヶ森遺跡 
寛政11年(1799)の大井村「村方明細書上」の写によると、慶安4年(1651)に開設された御仕置場で、東海道に面しており、規模は元禄8年(1695)に実施された検地では、間口40間(74m)、奥行9間(16.2m)であったという。歌舞伎の舞台でおなじみのひげ題目を刻んだ石碑は、元禄6年(1693)池上本門寺日顗の記した題目供養碑で、処刑者の供養のために建てられたものである。大径寺改題には、火あぶりや、はりつけに使用したという岩石が残っている。ここで処刑された者のうち、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒などは演劇などによってよく知られている。江戸刑制史上、小塚原とともに重要な遺跡である。(東京都教育委員会)


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品川湊(しながわみなと、品河湊とも)
武蔵国荏原郡品川(現在の東京都品川区)の目黒川河口付近にあった港。狭義には中世の港町を指す。品川湊は河口の砂洲によって流れが湾曲し緩やかとなり、砂洲を見渡すテラス状の高台があるという、古来から好まれた形状の港だった。1937年(昭和12年)に目黒川の流れが直線化されるまでは、河口は現在より北の品川浦付近にあった。突端は州崎と呼ばれ、利田神社が建っていた。品川湊のあった品川湾は遠浅で、品川湊の沖合いでは、東京湾内の小型廻船(瀬取船など)と太平洋航路の大型廻船(弁才船など)の積み替えが行われた。現在の東京港品川埠頭から天王洲にかけての一帯がこれにあたる。
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〈古代〉品川湊は内陸部にあった武蔵国国府(現東京都府中市)の外港(国府津)だったという説がある。品川と府中は品川道によって結ばれていた。品川にある荏原神社は、府中の大國魂神社との関係が深い。品川海上禊祓式(汐汲み・お浜降り)が行われる。
〈中世〉鎌倉時代には、鎌倉との関係が深くなった。御家人として品川氏が置かれた。北条氏得宗が掌握する、武蔵国の国庫の納物を鎌倉に運ぶ港として使われた可能性も指摘されている。室町時代には六浦に代わり、神奈川湊(横浜港)と共に東京湾有数の湊へと成長した。浅草や江戸湊と並ぶ、武蔵国の代表的な湊であった。品川湊は伊勢・熊野と結ぶ、太平洋航路で栄えた。中世の太平洋水運を担っていた伊勢神宮(伊勢大湊)や、熊野三山とのつながりが強い。金沢文庫の「湊船帳」によると、南北朝時代末期の明徳3年(1392年)1月から9月までの間に、伊勢神宮配下の「神船」(免税船)が30隻入港したとされる。これらの物流は、鈴木道胤や榎本道琳などの熊野出身の商人(有徳人)が担っていた。品川湊の問屋(土倉)は、鎌倉府の財政基盤の1つであった。称名寺や円覚寺の造営料も徴収された。鎌倉府は直轄地化を進めた。領主であった品川氏は1424年(応永31年)、鎌倉公方足利持氏に所領を没収された。1450年(宝徳2年)、足利成氏は鈴木道胤の蔵役を免除し、港や町の運営を行わせた。1455年(享徳3年)、享徳の乱が勃発。足利成氏は古河に退去。太田道灌は御殿山の居館伝説もあるが、1457年(長禄元年)、扇谷上杉家の拠点として江戸城を築城。一方、神奈川湊は山内上杉家の長尾忠景の所領となっており、品川湊は両上杉に挟まれる形となった。1470年(文明2年)、鈴木道胤は河越城まで出向いて大田道灌の父、太田道真主催の連歌の会「河越千句」を手伝った。また品川湊の商人である宇田川清勝は1466年(寛正7年)、享徳の乱の激戦の1つとして知られる五十子の戦いで戦死した。戦国時代、品川湊は大規模な米の集積地となっていた。兵糧米を求める扇谷上杉氏や後北条氏、上総武田氏、安房里見氏に狙われた。妙国寺などの寺社仏閣や品川湊の町人は各勢力の制札を購入し、略奪に備えた。1524年(大永4年)、北条氏綱は江戸城を攻略。品川湊の支配権も後北条氏に移った。1526年(大永6年)、後北条氏に敵対する里見義豊の攻撃を受けた。後に北条氏康から甥にあたる古河公方足利義氏の御料として献上された。(Wikipedia)


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南品川猟師町と利田新地
南品川猟師町は、洲崎(すさき)(冽崎)とも呼ばれ、現在の東品川1丁目の一部で、目黒川河口の砂洲(さす)(寄洲(よりす))にできた町です。この町の誕生は江戸時代の明暦(めいれき)の頃(1655年頃)で、その昔は兜島(かぶとじま)と呼ばれ、人家は無かったといいます。漁業を生業として、幕府に対して魚介類を納める御菜肴八ヶ浦(おさいさかなはちかうら)のひとつでした。また、猟師町の地先は、江戸時代中頃から埋立が行われ、新しく開かれた土地ということで「南品川新開場(しんかいば)」といい、この開墾に着手した南品川宿の名主利田吉左衛門(かがたきちざえもん)の姓をとって「利田新地(かがたしんち)」と呼ばれていました。幕末、この地の東側に「御殿山下砲台」が築造されました。現在の台場小学校周辺です。『江戸名所図会』には、南品川猟師町と利田新地の名所として、洲崎弁天と寄木(よりき)明神社の2ヵ所が挿し絵とともに紹介されています。(品川区)


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利田神社(かがた)
洲崎弁天は、現在の利田神社で、弁財天を祀っています。「洲崎弁天」の挿し絵には、鯨塚も描かれています。この鯨塚の由来は、寛政101798年)5月に、品川沖に大鯨が迷い込み、地元の漁師によって浅瀬に追い込み捕らえたのです。捕獲された鯨は評判となり、浜御殿で11代将軍徳川家斉(いえなり)が上覧するほどでした。その後、この鯨の骨を埋めて塚の上に碑を建てたのです。これが今も利田神社脇にある鯨塚(鯨碑)で、品川区の文化財に指定されています。明治後期の『風俗画報』では、利田新地の様子を「人家が連なっていて、北には中央気象台の出張所などもあるが、広っぱは網干場でうまり、東側の海岸は夏になると海水浴場が開かれたところ」と書いています。(品川区) 


d0183387_10583436.jpg鯨塚
この鯨碑(鯨塚)は、寛政10年(179851日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑である。鯨の体長は九間一尺(約16.5m)高さ六尺八寸(約2m)の大鯨で、江戸中の評判となった。ついには11代将軍家斉(いえなり)が浜御殿(現、浜離宮恩賜庭園)で上覧するという騒ぎになった。全国に多くの鯨の墓(塚・塔・碑など)が散在するが、東京に現存する唯一の鯨碑(鯨塚)である。また、本碑にかかわる調査から品川浦のように捕鯨を行っていない地域での鯨捕獲の法を定めていることや、鯨見物に対する江戸庶民の喧騒ぶりを窺い知ることができる貴重な歴史資料である。(品川区教育委員会)



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御殿山下砲台(台場)跡
嘉永6年(1853)アメリカ合衆国のペリーが4隻の軍艦(黒船)を率い、日本に開国を求めるため浦賀に来航しました。鎖国をしていた当時の日本は大騒動になり、徳川幕府は江戸の町を守る為急いで品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を造ることにしたのです。伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍がオランダの書物をもとに砲台造りの指導にあたり、第一から第三台場と第五・第六台場は完成させましたが、残りの第四・第七は中途で工事を中止し、第八以下は着工にも至らなかったのです。その代りとして、陸続きで五角形の砲台を造ることになりました。これが御殿山下台場(砲台)です。明治になると埋立てられ姿を消しましたが、幸いな事に台場の輪郭は道として残り、今でもその位置と形を知ることが出来ます。跡地に建つ台場小学校の敷地はこの台場の半分程の面積を占めています。台場跡からは石垣が発見され、小学校にはその石垣を使った記念碑が建てられました。石垣の上に立つ灯台は、明治3年(1870)日本で3番目の洋式灯台として第二台場に造られた品川灯台を模したものです。現在、品川灯台は国の重要文化財として愛知県犬山市の博物館明治村に移設されています。(品川区教育委員会)
 


紀氏長谷雄流の品川氏(しながわし)
鎌倉時代から室町時代にかけて武蔵国荏原郡品川郷を中心に活動した武家の一族。品河氏とも表記される。家祖は紀実直(大井実直)の子・品川清実。平安時代末期、紀実直は国衙の関係者として武蔵国に土着し、荏原郡大井郷の地名から大井氏を称した。大井氏は次男の大井実春が継ぎ、一族は周辺地域に所領を得て広がった。実直の子から分かれた一族には、品川氏のほかに春日部氏・堤氏・潮田氏がある。1184年(元暦元年)8月、実直の三男・清実は源頼朝から品川郷の雑公事を免除されている(田代文書)。この文書が「品川」の地名が登場する現存最古の史料である。1185年(文治元年)2月、清実は源範頼の下で豊後上陸に関わる水軍の「先登」に選ばれている。その後も品川氏は、大井氏と共に頼朝の「随兵」に選ばれるなど厚遇された。品川氏の重要な役割として、武蔵国の国府津である品川湊の管理があげられる。紀氏は伊勢国との関係の深い氏族で、品川氏の所領は伊勢国員弁郡曾原御厨にもあった。1242年(仁治3年)頃には伊豆国の田代氏と婚姻関係があることが記録されており、品川氏は伊勢から品川までの太平洋航路にも関わっていたと考えられる。品川氏の館の所在地については、貴船神社(品川区西品川3丁目)周辺の台地上が有力とされている。ほかに現在の戸越公園(品川区豊町2丁目)とする説もある。1424年(応永31年)、鎌倉公方足利持氏によって品川氏はわずかに館とその周辺のみを残し、品川郷を没収された。これには、品川氏が上杉禅秀の乱に関与したためという説がある。以後史料において品川氏の宗家の姿は見られず、没落したものと思われる。(Wikipedia)

by Twalking | 2012-04-16 22:12 | 東海道(完)

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