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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(4) 神奈川宿~保土ヶ谷宿 03 下見・横浜   

東海道の下見に行ってきました。
神奈川宿は見どころがたくさんあって面白い所ですね。。

洲崎神社の社叢。
急階段の参道を上り詰めると鬱蒼とした杜が切れ、
陽光に白く光る​拝殿の屋根が目に入ってきます。
こういう瞬間て、凄く好きです。


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資料ファイル

横浜
市域は、鎌倉に鎌倉幕府が置かれた鎌倉時代から本格的に開発され始めた。江戸時代には江戸幕府が置かれた江戸に近いため、幕府直轄地や旗本領が大部分を占め、藩は小規模な六浦藩(金沢区)のみがおかれた。また、大きな港を持たない鎌倉幕府の海の玄関口として六浦湊(金沢区六浦)が、江戸湾(東京湾)内海交通の要衝として神奈川湊(神奈川宿、神奈川区神奈川)が、早くから栄えた。江戸時代末期には、神奈川沖・小柴(旧・六浦湊外周部)で締結された日米修好通商条約により、「神奈川」を開港場にすることが定められた。実際には神奈川湊の対岸にある横浜村[3](現在の中区関内地区)に新たに港湾施設が建設され、短期間に国際港の体裁を整えた。1859年7月1日(旧暦:安政6年6月2日)に開かれた横浜港は「金港」とも呼ばれ、生糸貿易港、商業港、旅客港として、また工業港として急速に発展。横浜を日本の代表的な国際港湾都市へと発展させる礎となった。
○7世紀後半までに市域には、武蔵国橘樹郡、久良岐郡、都筑郡、相模国鎌倉郡が置かれた。奈良時代以 降、人口も増えて生産力を高めた。平安時代には各所の開発も進み、坂東八平氏や武蔵七党など、関東武 士の力が蓄えられた。市域には、平子氏、榛谷(はんがや、はりがや)氏、稲毛氏、綴党(つづきとう)などの 武士団が勢力を張った。鎌倉に鎌倉幕府が開設された12世紀から本格的に開発が始まった。鶴見川や柏 尾川などの河川流域では 農業が発達し、13世紀前半には、現在の新横浜周辺地域にあたる小机郷鳥山 (港北区小机町・鳥山町)から、多摩川・鶴見川周辺地域が、幕府によって大規模に開発された。
○江戸幕府が置かれた17世紀以降は、東海道の宿場とされた神奈川宿、程ヶ谷宿(保土ヶ谷宿)、戸塚宿を中心に発展する。特に、神奈川湊を持つ神奈川宿が江戸湾(東京湾)内海交通の要衝の一つとして栄え、対する六浦湊は、歌川広重が金沢八景を浮世絵としたように、風光明媚な景勝地としての色合いを濃くしていった。なお、江戸時代末期までの横浜村は、前出二つの湊とは対照的に、戸数わずか100戸足らずの砂州上に形成された半農半漁の寒村であった。

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開港期頃の横浜

○横浜村の運命を一変させたのは、当時国交を持たなかったアメリカのマシュー・ペリー率いる黒船の来航であった。交渉の結果1854年(安政元年)に横浜村で日米和親条約が締結され、1858年(安政5年)には神 奈川沖・小 柴(現・八景島周辺)のポウハタン号上で日米修好通商条約が締結された。この通商条約に「神奈川」を開港するよう定めたことが、横浜の都市開発の発端となった。幕府は、東海道に直結し当時既に栄えていた神奈川湊を避け、外国人居留地を遠ざけるため、対岸の横浜村を「神奈川在横浜」と称して開港地とした。横浜村には、短期間で居留地、深谷市在の笹井万太郎により波止場、運上所(税関)など国際港の体裁が整えられ、安政6年6月2日(新暦1859年7月1日)に横浜港は開港した。


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整備期頃の横浜

○横浜村は幕府が設置した運上所(税関)を境に、以南を外国人居留地(横浜居留地)、以北を日本人居住区とした。境界には関所が置かれ、関所から外国人居留地側を関内、以外を関外と呼んだ。今に残る横浜中華街は、外国人居留地の中に形成された中国人商館を起源とする。一方日本人居住地は横浜町と名付けて5 区域に分割し、各区域に名主を置いて総年寄が町全体を統括した。開港当初の横浜港には、東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)が設置され、東西波止場はその形から「象の鼻」と呼ばれ   た。象の鼻は、現在の大さん橋の付け根部分にあたる。明治5年9月12日(1872年10月14日)には、新橋(後の汐留駅。現在は廃止)と横浜(現在の桜木町駅)をつなぐ鉄道が開業し、同年には、神奈川駅(現在の横浜駅近傍)と鶴見駅も開設されている(Wikipedia)

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横浜道(よこはまみち)
幕末、横浜開港に際して、東海道と横浜港を結ぶために現在の横浜市西区・中区に造られた街道。当時、神奈川・横浜間の交通は不便であった。帷子川河口部の岡野新田・平沼新田や、大岡川下流部の吉田新田・太田屋新田は埋め立てられていたがまだ湿地で、野毛山の東側もすぐ海(現在の花咲町・桜木町)であり、道らしい道はなかった。そのため海路か、陸路ならば程ヶ谷宿から井土ヶ谷を迂回するしかなかったので、幕府は神奈川と横浜を短距離で結ぶ道を造ることに決めた。経路は、神奈川宿と程ヶ谷宿の間の芝生村(現在の西区浅間町、浅間神社・浅間下交差点の近く)から、当時の海岸線に沿って新田間橋、平沼橋(現・元平沼橋)、石崎橋(現・敷島橋)を架けて道を築き、戸部村から野毛山を越える野毛の切通しを造り、野毛橋(現・都橋)、太田橋(現・吉田橋)を架けて現・馬車道付近を通って横浜港に至ることになった。(Wikipedia)

保土ヶ谷道
保土ヶ谷道は開港前夜から明治にかけて保土ヶ谷宿と戸部村をむすぶ道で、旧東海道の保土ヶ谷宿の天王町大門付近で分かれJRを横切り、今の藤棚商店街、伊勢町商店街を通り戸部1丁目交差点で横浜道に繋がっていた。

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西区の案内道標

神奈川往還(かながわおうかん)
現東京都八王子市周辺と同神奈川県横浜市を結んだ道。別称として浜街道、武蔵道、絹の道があるほか、横浜側では八王子街道とも呼ばれる。経路は現在の町田街道および国道16号に相当する。従来より八王子周辺は多摩郡や甲州・武州各地で生産された生糸の集積地となっており、この生糸を江戸や多摩郡の各地域へと出荷していたが、1859年(安政6年)に横浜港が開港すると、海外への生糸の輸出のため横浜方面へも出荷が行われるようになり、浜街道と呼ばれるようになった。これにより、従来よりも多摩郡と横浜方面との往来が盛んになり、後に絹の道とまで呼ばれるほど発展するようになる。この浜街道は、現在の町田市相原町字橋本付近と町田市鶴間字大ヶ谷戸付近までの間で二通りの経路に分かれており、ひとつは主流であった現在の町田街道の経路である。八王子を出発し鑓水峠を越えたところで武蔵国多摩郡の小山村に入るが、ここから境川の東側(武蔵国内)となる同郡原町田村を中継地として抜け、鶴間村(以上、現東京都町田市)、都筑郡今宿村(現神奈川県横浜市旭区)などを経由して横浜港へ向かっていた。もうひとつの経路として、武蔵国多摩郡相原村(現町田市)の先で境川を渡って相模国高座郡橋本村に入り、同郡の淵野辺村、上鶴間村(以上、現神奈川県相模原市)、下鶴間村(現神奈川県大和市)などを経由した後に再び境川を渡って武蔵国多摩郡の鶴間村に入ったところで上記の経路と合流する現在の国道16号に相当する経路がある。但し、上記の原町田を抜ける経路のほうが発展していたことや距離が近かったことなどから、もっぱら裏街道のような存在であった。こちらは後に国道16号(東京環状)として発展することになる。(Wikipedia)

by Twalking | 2012-06-13 12:02 | 東海道(完)

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