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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(5) 保土ヶ谷宿~戸塚宿 01 下見・権田坂   

保土ヶ谷宿から戸塚宿を歩いてきました。

保土ヶ谷は北から続く多摩丘陵の南端に位置しているため、
せり出す尾根と谷間の低地が入り組んだ地形となっており、
戸塚へは元町から境木を越える権田坂の“峠越え”になります。

東海道の最初の“難所”と云われてますので、楽しみにしてました。
一番坂から二番坂はチョット勾配がありますのでここはマイペースで、
この後境木までは平坦ですから景色を見ながらのんびりと、ていう感じです。
境木からは一部登りもありますが東戸塚までは緩やかな下りが続きます。

歩いた感じでは多摩の坂道より少しばかり急かなぁ~という印象です。
丘の上に出ると、富士や横浜の街など素晴らしい眺めが待っててくれます。
これまでが平坦でしたので、そのぶん“タフ”さは感じるでしょうが、
歩きに変化が出てきますので、ぐっと面白くなりますよぉ~!


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権太坂とも云う。
江戸名所図会 科濃坂  (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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一番坂/権田坂入口                二番坂/藤田農場前


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ここ辺りが最高点/境木立場跡         武相国境モニュメント

境木の立場は権田坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、みはらしの良い高台で西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、旅人が必ず足をとめる場所でした。また、茶屋でだす「牡丹餅」は境木立場の名物として広く知られておりたいへん賑わったということです。(歴史の道)

萩原代官屋敷跡
萩原家は平戸の領主で代々旗本杉浦越前守の代官をつとめ、幕末の頃にはこの場所に道場を開いた。今は武家屋敷門と倉が残る。


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土人の称なり。武蔵・相模の境なるゆえに、傍示の杭を建てらるゆえにこの名あり。
江戸名所図会 境木 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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焼餅坂を下る                      品濃一里塚/谷宿坂

ここ品濃の一里塚は日本橋から九番目の一里塚で、旧東海道をはさんでほぼ東西に二つの塚があり、地元では一里山と呼ばれていました。東の塚は平戸村内に、西の塚は品濃村内に位置し、西の塚にはエノキが植えられていたようです。このように今でも道の両側に塚がともに当時の形で残っている所は神奈川県内でもこの一里塚だけです。(横浜市教育委員会)

 
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品濃坂を戸塚方面へ下る/環状2号歩道橋


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資料ファイル

権太坂(ごんたざか)
神奈川県横浜市保土ケ谷区にある旧東海道の坂の名称、また保土ケ谷区にある町名の一つである。旧東海道を東京から西へ向かう際、最初の急勾配として知られる。権太坂(一番坂・二番坂)、焼餅坂、品濃坂と坂道が続き、旅の難所であった。年始に行われる箱根駅伝では、旧東海道の権太坂は通らないが、付近の国道1号の坂を権太坂と称し、往路2区の難所として位置づけられている。1659年10月1日(万治2年8月15日):藤田権左衛門が鍬入れした日。代官藤原の指図により二番坂より下側を建設する。1660年(万治3年)完成
<名称の由来 >
坂の改修工事を手がけた、藤田権左衛門の名から由来する。
旅人(侍または大名)が、きつい坂を上り終えて休憩した際、近くに居た耳の遠い老人に坂の名前を尋ねたところ、自分の名前を聞かれたと思った老人が「権太」と答え、広まったという説もある。(Wikipedia)


東海道(5) 保土ヶ谷宿~戸塚宿 01 下見・権田坂_d0183387_1629451.jpg境木地蔵(さかいぎじぞう)
神奈川県横浜市保土ケ谷区にある、地蔵菩薩を祀る仏堂。旧東海道の武蔵国と相模国との国境にあたる。伝承によれば、鎌倉の由比ガ浜に漂着した地蔵菩薩像を漁師が浜に祀ったところ大雨で流出してしまい、数年後腰越に流れ着いた。夢で地蔵から江戸の方へ行きたいと告げられた漁師は、像を牛車に乗せて運んだが、当地で車が動かなくなってしまった。漁師から地蔵像を託された村民は、夢告により地蔵堂を作り安置したところ、村が繁盛したという。堂が建立されたのは、万治2年(1659年)である。地蔵堂はもとは良翁寺の境内にあったが、同寺は関東大震災で被災して廃寺となり、現在は地蔵堂のみが残る。堂の所在地は旧東海道の権太坂頂上にあたり、江戸時代は茶屋が多く大変賑わった。門前は2005年に拡幅整備され、地名の由来にもなった「武相国境之木」モニュメントが設置されている。(Wikipedia)


横浜市の地形
丘陵地は、市域中央部よりやや西よりに分布し、市域を南北に縦断する。この丘陵地は保土ケ谷区・旭区などを流れる帷子川付近を境に、北側と南側で性質を異にする。北側の丘陵地は、多摩丘陵の南端に位置し、標高は60mから100mで北に向かって高くなっている。南側の丘陵地は、三浦半島に続く三浦丘陵の北端部を占め、標高は80mから160mで南に向かって高くなっている。南側の丘陵地の方が起伏も激しく、標高も高い。鎌倉市に山頂部を置く大平山をはじめとする通称「鎌倉アルプス」に続く峠部分が市内最高点(栄区上郷町、標高159.4m)であり、市内最高峰の大丸山(金沢区釜利谷町、標高156.8m)や円海山(磯子区峰町、標高153.3m)もこの南側の丘陵地に位置する。台地・段丘は、丘陵地の東西にある。東側の台地は鶴見区の地名を取って下末吉台地と呼ばれ、標高は40mから60mで鶴見川付近まで続く。西側の台地は、相模野台地の東端にあたり、標高は30mから70mで南に向かって低くなっている。本牧付近で台地が海に突き出し、その南側は根岸湾と呼ばれる。横浜駅周辺も幕末まで袖ヶ浦と呼ばれる入り江だった。低地には、丘陵地や台地を刻む河川の谷底低地と沿岸部の海岸低地とがある。谷底低地は鶴見川に沿って広がり、平坦な三角州性低地を形成する。また、海岸部には埋立地が造成され、海岸線はほとんどが人工化されている。金沢区の小さな入り江平潟湾は、鎌倉幕府が江戸湾側の海の玄関口とした天然の良港であった。(Wikipedia)

帷子川(かたびらがわ)
現在の横浜市保土ケ谷区天王町一帯は、片方が山で、片方が田畑であったため、昔『かたひら』と呼ばれていた。その地を流れていたので『かたびらかわ』と呼んだのが名の由来だとされているが諸説ある。神奈川県横浜市旭区若葉台近辺の湧水に源を発し、保土ケ谷区を南東に流れ、西区のみなとみらい21地区と神奈川区のポートサイド地区にまたがる場所で横浜港に注ぐ。もともとは蛇行の激しい暴れ川で、水害の多い川であったが、多くの地点で連綿と河川改良が進められた。 平安時代:河口(天王町近く、当時はここまで入り海だった)は帷子湊(かたひらみなと)として栄えた。現在の橘樹神社付近は「かたひらの宿」「かたひらの里」として栄えた。 江戸時代:河口に舟着場があり、薪炭などの物流の地として栄えた。 1732年(享保16年):川幅と河身の改修工事が行われる。こののち明治時代にかけて入り海(袖ヶ浦)の埋め立てが進み、埋め立て地に帷子川本流と新田間川・派新田間川・石崎川・幸川が残された(さらに一部はその後埋め立てられた)。 明治時代:絹のスカーフの輸出増大を受けて、染色・捺染工場が集まる。八王子からの「絹の道」が通り、天王町が栄えた。(Wikipedia)

by Twalking | 2012-07-03 22:31 | 東海道(完)

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