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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 荒川リバーサイド 02   

水辺のまち

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小名木川/四ツ目通り・小名木川橋



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横十間川親水公園/清洲橋通り・岩井橋



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新川/船堀街道・宇喜多橋



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小松川境川親水公園/船堀街道



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北十間川/スカイツリー前


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資料ファイル

《小名木川》(おなぎがわ)
東京都江東区を流れる人工河川である。1590年頃、徳川家康が小名木四郎兵衛に命令し開削させた運河である。現在の千葉県行徳で作られた塩や、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の米などを江戸に運ぶために掘られたものであった。小名木川と旧中川、新川の合流地点には「中川船番所」が置かれていた。開削とほぼ同時期に、川の北側を深川八郎右衛門が開拓し深川村が、慶長年間に川の南側は、埋め立てられ海辺新田となり、以降、江戸時代を通じて埋め立てが進んだ。やがて小名木川を中心に竪川や大横川、横十間川、仙台堀川などの整備が進み、重要な運河の一つとして機能した。近世になり、1930年には荒川放水路が完成したが、これに伴い荒川や旧中川、新川の合流地点には「小名木川閘門(こうもん)」「小松川閘門」「船堀閘門」が設置されていた。しかし、昭和50年代には地盤沈下などにより閉鎖されたが、2005年に「荒川ロックゲート」が完成し、旧中川を経由して荒川への通行が可能になった。(Wikipedia)

《横十間川》(よこじっけんがわ)
東京都墨田区・江東区を流れる運河。天神川や釜屋堀、横十間堀、横十間堀川ともよばれる。東京都江東区亀戸と墨田区業平の境界で北十間川から分かれ南へ流れる。ここから竪川が交差する点に至るまでは、川の中央が両区の区境となっている。竪川と交差し、さらに小名木川と交差するが、そこにはX字状の小名木川クローバー橋が架かる。仙台堀川と交差した下流で西に流路を変え、江東区東陽で大横川に合流する。小名木川クローバー橋から大横川に合流する地点までの区間は、横十間川親水公園として整備されている。江戸城に対して横に流れ、川幅が十間(18m)あったことから。別名の天神川は、亀戸天神の横を流れることに由来する。(Wikipedia)

《横十間川親水公園》(よこじっけんかわしんすいこうえん)
東京都江東区にある江東区立の公園である。江東区内を流れている横十間川の多くの部分を埋め立てて造られた親水公園で、総延長は1970メートルの大規模な親水公園である(Wikipedia)

《新川》(しんかわ)
東京都江戸川区を流れる一級河川である。中川と旧江戸川を結ぶ人工河川である。江戸時代には船堀川や行徳川とも呼ばれていた。新川は、船堀川の流路を一部変更した運河である。1594年(文禄3年)に利根川東遷事業が始まり、1629年(寛永6年)には三角渡し(現・三角橋)以東が開削され、直線水路となった。小名木川と共に江戸の水運の大動脈として使用され、行徳塩田の塩が戦略物資として江戸に運ばれた。1632年(寛永9年)からは貨客船である「行徳船」が就航し、近郊の農村で採れた野菜や東北地方の米、成田参詣の客なども運ばれるようになった。新川の川岸には味噌や醤油、酒を売る店、「ごったく屋」と呼ばれる料理屋が立ち並び、旧江戸川に向かって遡る船を無風時に曳船する業者も居て賑わった。(Wikipedia)

《北十間川》(きたじっけんがわ)
東京都を流れる川。総延長3.24kmの荒川水系の一級河川であり、江戸時代初期に開削された運河である。西に隅田川、東に旧中川と接続する。横十間川との合流点より西は墨田区内を通り、東は墨田区と江東区の区界となっている。名称は、本所の「北」を流れる、川幅が「10間」の川であることに由来する。以前は大横川の分流点より西を源森川(別名源兵衛堀)、東を北十間川といった。(Wikipedia)

《江東区》
江東区は、江戸時代までは東京湾に注ぐ河川のデルタ地帯の一部で、海面と散在する小島があるだけでした。しかし、亀戸周辺には、人が住んでいたことを示す伝説や地名が残されています。江東区の発展は、江戸初期からの埋立てに始まります。慶長期(1596~1615)に深川八郎右衛門が森下周辺の新田開発を行い、深川村を創立しました。また、万治2年(1659)に、砂村新左衛門一族が、宝六島周辺の新田開発を行い、砂村新田と名づけられました。明暦3年(1657年)の大火後、幕府は火事に強い町づくりを計画し、密集した市街地の再開発、拡張に努めました。まず貯木場を永代島に集めて木場を創設し、元禄14年(1701年)に現在の木場に移転させました。さらに埋立て開発の進んだ深川地区には、武家屋敷や社寺を移し、正徳期(1711~1716)になると市街地に編入されました。区内を縦横に走る河川を利用しての木材・倉庫業、米・油問屋の町として栄えた深川地区は、社寺の祭礼、開帳などの年中行事を中心に、江戸市民の遊興地としても賑わい、江戸文化の華を咲かせました。(江東区HP)

by Twalking | 2012-08-03 17:42 | 東京散歩

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