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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 舞鶴城望景   

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東-大菩薩嶺&御坂山塊

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西-白根三山&鳳凰三山&甲斐駒ケ岳

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南-富士

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北-古府中

甲州街道・甲府柳町宿


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資料ファイル
《舞鶴城の歴史》
天正10年(1582)戦国大名の武田氏滅亡後、甲斐国は織田信長の領国となり本能寺の変の後は徳川家康の支配下に置かれました。しかし、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると、秀吉の命により甥の羽柴秀勝と腹心の部下である加藤光泰らによって築城が始められ、浅野長政・幸長父子の手により完成をみました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い以降は再び徳川家の城となり、幕末まで城の歴史は存続しました。舞鶴城は江戸時代の初め、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、宝永元年(1704)徳川綱豊が第5代将軍徳川綱吉の嗣子(しし)となり江戸城に移り住むと、柳沢吉保が城主となり大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展しました。しかし、柳沢氏が大和国郡山城主として転封されると甲斐国は甲府勤番の支配下に置かれることになりました。享保年間の大火で本丸御殿、銅門などを焼失、明治時代に廃城となる。(パンフ)

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遊亀橋より                   堀      

《甲府》
甲府という名称は、1519年(永正16年)に武田信虎が居館を石和(現在の笛吹市石和町)、次いで川田(現在の甲府市川田町)から躑躅ヶ崎館(現在の武田神社・甲府市古府中町)へ移した際に、甲斐国の府中という意味から甲府と命名したことに始まる。戦国時代には大名領国を形成した武田氏の本拠地となり、武田氏滅亡後は徳川氏や豊臣系大名浅野氏の甲斐国経営の中心となり、国中地域や甲斐国の政治的中心地と位置付けられる。江戸時代には江戸の西方の守りの要として重要視され、また甲州街道の宿場町としても盛えた。(Wikipedia抜粋)

《甲府盆地》
山梨県中央部に位置する盆地。やや東西に長い逆三角形の盆地形状で、面積は275km²。長野県の松本盆地や諏訪盆地と続く構造盆地。盆地域には北東から流れる笛吹川と北西から流れる釜無川が盆地南西部で合流して富士川となり、静岡方面へ向かう。盆地西部には御勅使川や早川などが東流する。河川の堆積作用により700m以上の砂礫層がありし、周縁には御勅使川扇状地、釜無川扇状地、金川扇状地など多くの複合扇状地が形成され、果樹栽培や養蚕に適した地形となっている。中南部の低地はかつて両河川の氾濫原であり、水田地帯として利用されてきた。古代には盆地西部が中央政府の支配拠点となり、国衙や古代寺院も出現する。笛吹・釜無の両河川の氾濫原や盆地周縁の山麓地域は官牧として利用され、甲斐の黒駒に象徴される馬産地となる。平安時代には常陸国から移住した甲斐源氏が盆地各地へ進出し、棟梁となった武田氏が甲斐守護となり、石和や甲府に居館を置き、甲府盆地は諸勢力との抗争の舞台となる。戦国期には武田の大名権力により治水工事が進められ、新田開発も行われる。(Wikipedia抜粋)

by Twalking | 2012-11-20 22:54 | 甲州街道(完)

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