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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(11)小田原宿~箱根湯本 01 下見・小田原城   

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小田原城天守閣
15世紀中頃に大森氏が築いた山城が前身で、その後戦国大名北条氏の居城となってから、関東支配の拠点として次第に拡張され、豊臣秀吉の小田原攻めに備えるために築造された城下町を囲む延長9kmに及ぶ総構(そうがまえ)の出現により城の規模は最大に達しました。北条氏滅亡後徳川家康の家臣大久保氏が城主になると、城は改修され近世城郭の姿になります。大久保氏改易後に城は破却されますが、寛永年間に稲葉氏が城主になると再び改修工事が実施され城の姿は一新します。大久保氏が再度城主となりますが、元禄16年に発生した地震により天守はじめ城内の各施設はほぼ倒壊焼失してしまします。その後本丸御殿などを除き再建され幕末に至ります。(パンフレット)


天守閣望景
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箱根連山

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相模湾&真鶴半島


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相模湾&国府津・大磯


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丹沢山地


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資料ファイル

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小田原城絵図(文久図)
《江戸時代の小田原》
関東一円を支配した後北条氏は天正18年(1590)天下統一を目指す豊臣秀吉との小田原合戦に敗れ、戦国期最大規模の城郭として発展した小田原城も徳川家康の支配下に置かれた。江戸時代に入ると、有力な譜代大名である大久保氏、稲葉氏によって江戸を守る西の要として小田原城は改造され、石垣と水堀を中心とした近代的な城に姿を変えました。この付近には現在の道路に沿って南北に三の丸東堀が造られました。この堀に架かる土橋を渡り大手門を抜けると小田原城三の丸で、家老職など藩の重臣の屋敷や藩校集成館などがありました。大手門から三の丸に入り、現在も残る二の丸東堀を渡り馬出門、さらに銅門を通ると二の丸の中心部である藩主屋敷に至ります。この順路が正式な登城路とされていました。ここから約500m東にある国道1号の新宿交差点までの区間は将軍用の「御成道」とされ、藩主もこの道を通ること遠慮したといわれています。
(説明版)

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小田原城本丸
小田原城本丸は東西83間(約150m)南北63間(約114m)ほどの規模を持ちその西側に天守閣、中央にはかつて本丸御殿が存在した。本丸の周囲は石垣と土塀がめぐらされており、東南と北側に門が設置され出入りが制限されていました。東南側の門が本丸の正面にあたる常盤木門、北側の門は裏門にあたる鉄門(くろがねもん)と呼ばれています。本丸御殿は寛永11年(1633)に徳川家光が上洛に際して宿泊するために建設されたもので、元禄16年(1703)の地震により焼失して以来再建されませんでした。宮内庁図には本丸の南側に七本松と呼ばれた松が描かれていますが、現存する巨松(おおまつ)は七本松の最後の1本で樹齢400年を超えているものです。(小田原市)


東海道(11)小田原宿~箱根湯本 01 下見・小田原城_d0183387_19374976.jpg天守閣
江戸時代に造られた雛型や引き図を基に昭和35年に鉄筋コンクリート造で復興されました。3重4階の天主に付櫓(つけやぐら)、渡櫓を付しています。なお最上階の高欄付き廻縁(まわりえん)は復興に際して付けられたものです。


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常盤木門                      常盤木橋(本丸東堀跡)

常盤木門(ときわぎもん)
小田原城本丸の正門にあたり、最も大きく堅固に造られていました。周囲の多門櫓(たもんやぐら)と渡櫓を配した桝形門の構造を持ち、そばにある巨松(おおまつ)になぞらえてその名が付けられたと言われています。(常盤木とは常緑樹の意味)

本丸東堀跡江戸時代の小田原城は本丸を堀が囲んでいました。この絵図によると堀は二の丸堀とつながる水堀となっています。この堀を渡るために架けられたのが常盤木橋です。(小田原市)

本丸の巨(おお)マツ
天保年間の相中雑誌に「御本丸に七本松という老松・・・」とある松の生き残りと思われる。城跡内最大の巨木である。樹高30m 周囲5.3m 樹齢約400年(推定) かながわ名木100選

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銅門                         住吉橋

銅門(あかがねもん)
馬屋曲輪から二の丸に通じる位置にあり、二の丸の正面にたたります。渡櫓門、内仕切門(うちじきりもん)と土塀で周囲を囲む桝形門の構造を持ちます。渡櫓門にはその名の由来となった銅板の装飾が映えます。(パンフレット)

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馬出門                        馬出門土橋(めがね橋)

馬出門(うまだしもん)
馬出門は二の丸正面に位置する門で、馬出門、内冠木門と土塀で周囲を囲む桝形門の構造を持ちます。馬屋曲輪へ通ずることからこの名が付いたとみられます。(パンフレット)

東海道(11)小田原宿~箱根湯本 01 下見・小田原城_d0183387_2249177.jpg小田原城址・三の丸土塁
この土塁は江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡です。当時は本丸、二の丸(現在の城址公園周辺範囲)を囲むようにお堀と土塁を巡らし三の丸としていました。この場所の西側に幸田門という三の丸の入口がありました。(説明版)


東海道(11)小田原宿~箱根湯本 01 下見・小田原城_d0183387_22494954.jpg二の丸東堀
小田原城は江戸幕府の三代将軍家光の乳母春日局の子・稲葉正勝が寛永9年(1632)城主になると、大規模な工事が行われ石垣を備える近世城郭として整備されました。二の丸東堀は本丸、二の丸を守る堀の中で最もおおきなもので巾は最大40mあり、現在よりもさらに北に約60m先まで、また西は常盤木橋、南は南曲輪の前までつながっていました(小田原市)


東海道(11)小田原宿~箱根湯本 01 下見・小田原城_d0183387_23582717.jpg小峯曲輪北堀
報徳二宮神社の境内は戦国時代北条氏によって造成された古い曲輪にあたります。江戸時代前期は雷曲輪(由来ははっきりしない)、後期には小峯曲輪と呼ばれていました。小峯は天守閣の裏手西側一帯を指す古い地名なのでこれにちなんだものでしょう。目の前の空堀は左手の小峯曲輪を囲む堀の北側の部分です。石垣を用いない土塁と空堀だけの戦国時代の城の原形をよく留めている貴重な遺構です。正面右手急斜面の高台は本丸の裏手を守る曲輪状地形の屏風岩(現在遊園地)です。(報徳二宮神社)


東海道(11)小田原宿~箱根湯本 01 下見・小田原城_d0183387_2359166.jpg小田原城三の丸・箱根口跡
国道1号線(東海道)からお茶壺橋にかけての一帯は江戸時代には小田原城三の丸出入り口の一つである「箱根口」とそれに関する意向があった場所です。



東海道(11)小田原宿~箱根湯本 01 下見・小田原城_d0183387_23592425.jpg小峰橋(御茶壺橋)
江戸時代には小田原城三の丸への出入り口としては大手口と幸田口、箱根口がありそれぞれ大手門、幸田門、箱根口門を設けていました。南北の箱根口門から入城するとこの小峰橋を渡り次に住吉橋を渡って内部に入ることもできます。この橋の正式名称は小峰橋ですが現在では御茶壺橋という名称で親しまれています。江戸時代宇治から将軍家に茶を献上する際に幕府は御茶壺道中と呼ばれる行列を作って運搬しましたが、小田原城内には御茶壺を保管するための御茶壺蔵が設置されていました。その際御茶壺がこの橋を大服下ことにちなんで御茶壺橋と呼ばれるようになったといわれています。(説明版)


総構え(そうがまえ)
城や砦の外郭(がいかく)、またはその囲まれた内部のこと。特に、城のほか城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ、日本の城郭構造をいう。惣構(そうがまえ)、総曲輪(そうぐるわ)、総郭(そうぐるわ)ともいう。日本では異民族の侵入が少なかったことや山地が国土の大半を占めることなどから、大陸に見られるような城壁都市は一部を除いて発展せず、野戦用の防御施設として作られた「柵」や武士の居館を堀や櫓で防備した「館(やかた、たて、たち)」が、中世には山城へと発展した。近世にいたり、城郭が単なる軍事拠点のみならず政治的統治拠点としての役割を持つようになると、城下町や家臣団防備の目的で従来の城の機能的構成部分(内郭)から、さらにもう一重外側に防御線が設けられるようになった。これが総構えである。普通、「城」という場合は、内郭のみを指し、外郭である総構えは天然の地勢(山・河川)をも含むため、どこまでをいうのか不明瞭なものもあった。後北条氏の拠点、小田原城の総構えは2里半(約 9 km)に及ぶ空堀と土塁で城下町全体を囲む長大なものであった。大坂城の外郭も周囲2里の長さで、冬の陣では外郭南門の外側に出丸が造られ(真田丸)、徳川方は外郭内に1歩も侵入できなかったという。また江戸時代の江戸城外郭は最大で、堀・石垣・塀が渦状に配されて江戸市街の全てを囲んでいた。総構えの典型は、中国の城や中世欧州の都市のように、都市全域を囲む堀と塁(城壁)にみることができる。中世都市の堺は三方を深さ 3 m、幅 10 m 程の濠で囲み、木戸を設けて防御に備えていた。今でも遺構を見ることが出来る京都の「御土居」も典型的な総構えであり総延長は5里26町余 (22.4 km) にも及んだ。(Wikipedia)


小田原城址・八幡山古郭の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/17851207/


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報徳二宮神社
報徳二宮神社は小田原の生んだ農聖二宮尊徳(金次郎)翁を祀るために、明治27年(1894)に創建されました。また、報徳博物館は幕末の疲弊した社会の再建人・尊徳二宮金次郎の「報徳」と呼ばれる人づくり、国つくりの思想とその業績を伝える博物館です。

二宮尊徳翁(1787~1856)
経済なき道徳は虚言であり、道徳なき経済は犯罪である
江戸時代後期の農政家・思想家。通称金次郎、尊徳は武士の名のり。幼少時の逸話が一般に知られているが後に「報徳仕法」と呼ばれる独自の方法と理念で小田原藩や日光神領などを含む多くの諸家、諸領の復興に尽くした。直接・間接的に指導した農村は六百余りにものぼる。(説明版)

by Twalking | 2013-01-30 19:13 | 東海道(完)

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