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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 番外 ぶらり曽我の里   

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曽我・別所梅林


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十郎・五郎(左)、父裕信・母満江御前(右)の供養墓/城前寺


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法輪寺


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資料ファイル

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城前寺                       兄弟の記念碑

曽我兄弟の菩提寺で兄弟の育った曽我城の大手前にあるのでこの名がある。建久4年(1193)富士の裾野で兄弟が父の仇・工藤裕経(すけつね)を討った後、叔父の宇佐美禅師はその遺骨を携え此の地に来て庵を結び兄弟の菩提を弔ったのがこの寺の始まりと伝えられている。なお、この討ち入りの時兄弟は暗夜であったため傘を燃やして松明としたので仇討の日にあたる5月28日には、この故事にならい境内で傘を焼いて兄弟の霊を慰める傘焼きまつりがおこなわれryが類例のない祭りであるので有名である。境内には十郎・五郎・父裕信(すけのぶ)・母満江(まんこう)御前の供養墓や十郎が大磯の虎御前をしのび腰を掛けて笛を鳴らした忍石、坪内逍遥筆で歌舞伎俳優連中寄付の兄弟の記念碑などほか各種のゆかりの品がある。なお、4人の墓の建つ墳丘は曽我城の土塁である。(案内板)

  

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宗我神社                      鳥居・参道

祭神 宗我都比古命(そがつひこのみこと) 宗我都比姫命(そがつひめのみこと)
足柄上郡旧上曽我村及び曽我大見と下郡の下曽我に属する旧四村を併せて古くは曽我郷六ヶ村と呼ばれました。その総鎮守が宗我神社でした。小田原北条時代から小田原城の鬼門擁護の神社とされていました。江戸時代には小沢明神の名で総崇され、明治に入って六ヶ村それぞれの鎮守をこの社に会示し新たに宗我神社になりました。現在の社殿は大正12年(1923)関東大震災後に復興したものです。(案内板)


番外 ぶらり曽我の里_d0183387_0421025.jpg小沢明神薬師堂の旧地
小沢明神とは旧曽我村六村の鎮守で明治以来宗我神社となった。この明神の東隣りに位置するここには小沢明神の本地物(神体仏)とされる薬師三尊が祀られ、その堂は古くは「小沢山神宮寺」と称した。当時の別当寺は法輪寺なのでその古い縁をたどって大正3年に薬師三尊は薬師堂とともに法輪寺に移っている。公民館横の石造観音菩薩立像はこの地の人々が観音霊場の巡礼をしたときの供養塔である。ここは法輪寺大門の位置にあり、六地蔵などの石物が並んでいたがこれらは大正3年に法輪寺に移された(小田原市)


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法輪寺本堂                    薬師堂

法輪寺は盤谷山(はんこくさん)と号する臨済宗建長寺派の寺院です。創建は延文3年(1358)、開山は建長寺35世の了道素安(本覚禅師)、開基は浄智温中と伝えられています。かつては天台宗寺院の慮尊寺(ろそんじ)と称したといいます。天保2年(1831)の火災により本尊の運慶作と伝えられる地蔵菩薩坐像は焼失し、その後本尊である室町時代造立の釈迦如来坐像が隠居寺より移されています。境内にある薬師堂(瑠璃光殿)は法輪寺の大門跡(現曽我谷津公民館)から大正3年(1915)移設したものです。平安時代造立の薬師三尊像、脇には十二神将像が祀られています。寺の東には祐信山崇泉寺という曽我太郎祐信(すけのぶ)の菩提寺があり、崇泉寺殿智獄祐信大居士という位牌がありましたが、廃寺後この位牌は法輪寺に安置されたいます。(案内板)


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大光院                       神変大菩薩

本山修験大光院
諸法山実相寺(じつそうじ)と称し、文明18年(1486)の起立と伝えられている。本尊は木彫不動尊。はじめ本山修験で小田原城下の玉滝坊(ごくりゅうほう)に属していたが明治初頭に天台宗園城寺派に変わった。堂前に「神変大菩薩」の石塔が建ち明治32年の記録がある。神変大菩薩は役行者(えんのごうしゃ)のことで山岳修験の系譜につらなる寺であることが知られる。しかし大光院は久しく里修験として続いてきて地鎮祭、建前、病気平癒などの祈願が行われている。(小田原市)


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南谷寺東光院山門                門前の石仏群

徳本の名号碑ほか石造物
徳本(1758~1818)は日課として弥陀の六文名号を唱えることを教え、江戸で教化していた頃は毎日数千人の群衆に囲まれたという。この碑は天保5年(1834)の造立で徳本没後16年を過ぎているが裏面にh足柄平野一帯の各地の長一面に刻まれており、なお進行が衰えていないことが知られる。六地蔵は笠付き六角柱の各面に地蔵の立像を浮き彫彫刻にし文化2年(1805)の命がある。もとは大山道沿いに祀られていた。(小田原市)


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法蓮寺本堂                    毘沙門堂

山号は千葉山(せんようさん)。この地方の古寺の通例としてもとは天台宗であったというが、寺伝によると慶長19年(1614)日蓮宗に改宗した。この寺の木彫毘沙門天立像は別名「夢の毘沙門天」ともいわれ、安永3年(1774)に住職の日迂上人と小八幡の漁師双方の夢枕に立ったとして、その言葉とおり小田原小八幡の海で漁網にかかって出現したという伝承である。(小田原市)


番外 ぶらり曽我の里_d0183387_1521455.jpg満江御前の墓
満江(まんこう)御前は日本三大仇討の一つとして名高い曽我兄弟・十郎祐成(すけなり)と五郎時教(ときむね)の母である。伊豆の狩野親光の三女で、最初の夫は伊豆の国司代の源佐衛門尉仲成で一男一女を生んで4年にして離別した。その後伊東祐親(すけちか)の嫡男河津の庄の地頭河津三郎祐泰(すけやす)と再婚し三人の男子を出生した。兄の幼名は一万のちの十郎祐成で、弟は箱王のちの五郎と時教で、末弟は祐泰の死後誕生した律師坊実永である。一族の領地争が起因で夫の祐泰が非業の死を遂げ、舅の伊東祐親のすすめにより曽我の庄の地頭の曽我太郎祐信(あすけのぶ)の夫人となる安元2年(1176)満江三十歳位。十郎・五郎兄弟が富士の裾野で夫の敵の工藤祐経を仇討した後、建久6年(1195)夫の祐泰と共に出家し、当地の曽我別所に大御堂を建て兄弟の霊を供養してきたが、正治元年(1199)兄弟の七回忌の5月28日奇しくも没した。この年満江は五十歳位だったという。(案内板)


曾我氏(そがし)
相模国を発祥とする武家。桓武平氏千葉氏の支流平常信の子祐家が、相模国曾我荘(現在の神奈川県小田原市周辺)を本拠として曾我大夫を称したのに始まるという。祐家の子祐信は、仇討ちで有名な曾我兄弟の養父で、鎌倉幕府の御家人として活躍した。実子の祐綱も功を立てて土佐国に地頭職を得た。室町時代は将軍家の奉公衆となり幕府に仕えた。足利義昭の近習に曽我晴助がいる。(Wikipedia)


by Twalking | 2013-02-12 15:42 | 東海道(完)

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