無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道・上道(1) 多摩~町田   

多摩に住んでいますので多摩丘陵はよく歩きます。
多摩・町田周辺には鎌倉古道の跡がよく残されていますので、
カテゴリー追加を機に鎌倉街道・上道を整理してみました。
ます、多摩市から町田市へから始めたいと思います。
(2015.6月改定)

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推定鎌倉古道(貝取山緑地)/多摩市貝取


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鎌倉古道(鎌倉街道上ノ道本路)跡 /多摩市南野
わが国初の武家政権である鎌倉幕府が開かれた鎌倉と、各地の武士(御家人)たちの拠点を結んだ道が「鎌倉街道(関東の主要七道)」でした。その中で、武蔵国府(府中)近くを通る上ノ道は上野国(群馬県)から続き、武蔵国を南北に走る最重要路でありました。この近くに見える山道は貝取団地の尾根へとつながり、地中や地表に残された道の跡などから、本来の鎌倉古道本路跡ではないかと考えられます。(案内版)

貝取山緑地の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23307489/
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前方の尾根を小野路へ下ります

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古道の風景

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辻にお地蔵さん                神社があります 


                  
・・・小野路

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小野路宿

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小野路宿通り                   万松寺

小野路宿里山交流館

多摩丘陵の原風景を残す町田市北部の小野路地域には、江戸時代に宿場としてにぎわった小野路宿があり、そこにあった一軒の旅籠・旧「角屋」を改修し観光交流の拠点として再整備した施設が「小野路宿里山交流館」です(町田市)

「小野路宿里山交流館」の関連記事はこちらへ
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小野神社/町田市小野路
小野路は鎌倉みちの宿駅として鎌倉と武蔵の国府が置かれていた府中に通づる要衝の地にある。宿の入口にある小野神社は、小野篁(たかむら)の霊を祀ったことに由来する。小野篁は平安時代前期の人で和漢に優れた学者で学問の神であり菅原道真の先輩にあたる。篁の孫・小野道風は平安時代を代表する書家で三蹟として有名である。なお、小山田氏の小野路城があった城山には小町井戸と伝えられる遺址もあり小野氏との関連が深い土地である。応永10年(1403)には小野路村の僧正珍が寄進を募り交通の安全を祈願して鐘を奉納した。朝夕に別当寺の清祥院(現在廃寺)の僧が宮鐘をついて旅人に時を知らせたという。戦国時代の文明年間に両上杉の合戦でこの宮鐘は山内上杉の兵によって陣鐘として持ち去られた。現在は神奈川県逗子市沼間の海蔵院に保管されている。(案内板)

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幕末の小路村絵図
古来、鎌倉みちは幕府のあった鎌倉から武蔵の国府である府中を抜けて上州の高崎方面に続いていた。府中の手前にある小野路の宿は鎌倉時代にできたと考えられる。駿河の久能山に埋葬された徳川家康の遺骨を江戸時代の初期の元和(げんな)3年(1617)3月に日光東照宮に移したときに街道の整備と共に小野路の一里塚は造られた。伝承によると御尊櫃(ごそんひつ)を乗せた輿が向阪を下ったとき壊れ、一行が難儀し鍛冶屋を呼んで修理した。この時の小野路村の労苦に対して幕府は以後助郷を免除した。この街道は御尊櫃御成道、また矢倉沢往還として利用され、東海道平塚宿と甲州道府中宿を結ぶ脇往還として賑わった。江戸期に盛んになった大山詣での道として小野路宿は賑わい幕末頃は旅籠が6軒あった。東海道一里塚は五間四方あったというが小野路の一里塚は一回り小さかった。榎の木が植えられておりここで旅人は一服つけたのではなかろうか。町田市では他に木曾の一里塚が残っているが、多摩市貝塚にあった塚は現在は残ったいない。(小島政孝稿)


・・・野津田

町田市の中北部に位置する。東西に鶴見川が流れ、北東の町境には小野路川が流れる。北部と南東部と南西部は丘陵地帯となっている。主に参道橋以西の鶴見川周辺と、薬師池公園の西で七国山の北と、野津田公園の東で綾部原トンネルの上辺りには畑が多く残っている。(Wikipedia)

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野津田公園芝生広場

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野津田公園上の原広場


d0183387_23292967.jpg華厳院/野津田町
宗派:古義真言宗 都筑郡恩田徳恩寺末。山寺号:普光山華厳院明王寺(朱印八石あった)。本尊:不動(智證大師の作と伝える)開山:草創年代を天平と伝えるが、今は全く不明である。しかし、隣地を鎌倉古道が通っており、奥州への古道にも近いので、古寺成立の条件にかなっている。もと福王寺といったのを、室町時代末、僧満興、衰微して廃せんとするに当たり、これを明王寺の廃跡である現地に移して再興したのが華厳院である。僧満興は天正4年(157651日示寂。本堂:間口12間、奥行7間半。三方に五尺の廊があり、寄棟草屋根木造建築。272枚ずつ花丸の格天井と、吉祥天女および竜と雲の欄間彫刻は注目して良い。庫裡:昭和465月改築。75坪。墓地:古い五輪塔5、宝篋印塔6がある。(町田市史)


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手前が七国山、奥が野津田の丘になります


・・・七国山

七国山(ななくにやま)
東京都町田市山崎町にある標高128.5メートルの山である。鎌倉時代頃に鎌倉と上州方面を結んだ鎌倉上道の古道跡が現在も残っており、近隣の本町田や小野路は古くから宿場として栄えたとされる。昔は頂上付近から相模、甲斐、伊豆、駿河、信濃、上野、下野の7つの国を見ることができたため、そのように呼ばれた。(Wikipedia)

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鎌倉街道上ノ道/七国山 


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丸山橋/鶴見川                   ここを左折、尾根を登ります

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尾根上の道と合流します


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七国山鎌倉街道の碑               鎌倉井戸

鎌倉井戸
鎌倉時代に掘られたものといわれ、新田義貞が鎌倉攻めの軍を進める途中ここに井戸を掘りこの水を軍馬に与えたと語りつがれている。井戸の深さは約4mであり表土の部分は永い年月の間に崩れ落ちているが 、地表から約1.5m下のローム層の部分は下方に直径70cm程の円筒形の井戸が原型のまま保存されている。(町田市教育委員会)

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七国山緑地保全地域案内図(緑:鎌倉古道)

七国山緑地保全地域
昔この山頂から7つの国が見えたことから七国山と呼ばれるようになりました。なだらかな起伏の続く丘陵の中でも一段と小高い地域です。数条の尾根と谷戸が入り組んで変化に富んだ地形を成し、区域内の西部には鎌倉古道が遺構が南北に縦貫し、鎌倉井戸の遺構があります。ほぼ全域にコナラ・クヌギが分布し、中央部及び周辺部の緩斜面の一部二耕作地、果樹園、竹林等が散在する変化の多い植生です。東京都ではこの自然を守り次世代へ伝えていくために「東京における自然の保護と回復に関する条例」に基づき緑地保全地域に指定しました。(東京都)

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多摩丘陵散歩道・野津田町周辺コース
(赤:鎌倉古道 緑:大山道 紫:現鎌倉街道 青:鶴見川)



・・・本町田

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菅原神社

室町期の永享年間大沢左近正次は先祖の大沢七郎正純が元応年間(鎌倉期)に京都北野天神を詣でた折に得た天神像をこの井出の沢の山上に奉安いたしました。時は下ってその子孫大沢玄蕃は江戸期初頭の寛永7年(1630)新たに渡唐の天神像を刻ませてここに奉安いたし、この地を寄進して本町田の鎮守としたのが当社の縁起であります。享保7年(1722)御本殿が再建され天明5年(1785)社殿が造られました。明治35年(1902)千眼天神社、大六天社、七面社、稲荷社、白山社の五社を合祀し、その後も氏子の総力をあげて社殿の修復、境内の整備を重ね、平成12年には新神楽殿が竣功いたしました。主な御祭神は菅原道真公(平安前期の学者、政治家、歌人)であります。同じく菅公をお祀りする町田天満宮、南大谷天神社とともに町田三天神の一社として多くの人々からご神徳を慕われ崇敬されております。(境内掲示)

d0183387_14393898.jpg井出の沢の古戦場/菅原神社
井出の沢古戦場は南北朝時代に発生した中先代の乱の古戦場です。元寇年(1333)にはじまった後醍醐天皇による建武の新政は、武家を軽んじたため各地で武家の不満が高まりました。そのような中かつて鎌倉幕府の執権を務めた北条氏の得宗である高時の子・時行が兼務2年(1335)反乱の兵をあげました。これが中先代の乱です。信濃から鎌倉奪還を目指し南下した時行はこの井出の沢の地で足利尊氏の弟・義直によって迎撃されました。激戦の末時行の軍は足利勢を破り鎌倉を占領しましたが、わずか20日余りで足利尊氏・直義の軍に鎮定されました。現在菅原神社、町田市立体育館及び市営グランドのある場所が井出の沢古戦場跡と伝えられています。(東京都教育委員会)


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資料ファイル

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軍勢が通った長い谷

(小野路と鎌倉古道)現代の鎌倉街道が南北に通るこの谷は、多摩市の乞田の五差路から古戦場伝説や大きな道路跡が発見された町田市の野津田の丘まで、約4.5kmに渡ってほぼ南北に真っ直ぐ伸びた自然の谷です。それと平行するように、この道の西側約400mの多摩市南野から町田市の小野路の宿にかけては 中世武士の時代の幹線道路であった「鎌倉古道(鎌倉街道上ノ路本路)」が通り、また東側の小野路町別所にも同様に鎌倉道と伝わる道が尾根の上を通っています。これらの中間に位置する現代の鎌倉街道の谷も、長い戦乱の時代には大勢の武士や兵士が通り過ぎていったことが考えられます。(よこやまのみち案内板)


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(鎌倉や小田原への早道)
治承4年(1180102日、源頼朝は伊豆で旗挙げするも敗戦し、海を舟で渡って房総半島に逃げ、そこから墨田川を渡り浅草付近で千葉氏や江戸氏らの支援を受け体制を取り戻しました。その後、府中から一路この付近を通って鎌倉をめざし、我が国初の武士による政権「鎌倉幕府」を樹立します。しかし、この時にはまだ鎌倉街道は出来ていませんでした。幕府樹立から6年後にも頼朝は「奥州藤原氏征伐」の往復で、また13年後の建久46月「那須野の狩」でも鎌倉から府中に向かっています。この頃には鎌倉街道と後に呼ばれた道ができ始めたものと考えられます。その後も新田義貞の鎌倉攻め、観応の擾乱での通過など、いずれも大軍勢がこの谷や鎌倉古道を通過していったものと思われます。(よこやのみち案内版)


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鎌倉裏街道/一本杉公園

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鎌倉道入口              一本杉公園

小野路道と鎌倉裏街道
ここに残る杉並木の存在から崖上に残る古道跡=通称「鎌倉裏街道」が確認されました。この道は多摩市一ノ宮にあった渡河点(多摩川の渡し場)から愛宕団地の愛宕切通し豊ヶ岡北公園を通って小野路宿に続く中世の鎌倉街道の一つで、関戸にあった関所を通る煩わしさを避ける道とも考えられます。江戸時代には日野往還や小野路道とも言われ後に新選組となる土方歳三や沖田総司らが小野路での出稽古に日野宿から通った道でもありました。(よこやまの道案内板)



小野路城址

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小野路城址
小野路城址は現在の大泉寺の場所に居城(小山田城)を構えていた小山田有重が築いた副城で、その子・二郎重義が守護にあたったという。築城は承安年間(1171~1174)といわれ都内の古城址の中でも最も古いものの一つである。現在残っている地形から本丸を含む二つの郭(くるわ)とそれを囲む土塁、空堀からなっていたと想像される。(東京都)

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本丸跡                        城址下の古道


d0183387_22363762.jpg小町井戸
この湧水は小町井戸と呼ばれています。平安朝のむかし、小野小町が病にかかりこの山に千日こもり、この水で目を洗ったところ全快したという伝承からでた名といわれています。また仙人水とも呼ばれたらしく「武蔵名所図会」にその記載があります。小町井戸はここから東南へ百メートル程の崖下にある「滝つば」と呼ばれる湧水とともに小野路城の水源として使われたものと思われます。(東京都)  

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大泉寺/町田市下小山田

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小山田高家公顕彰碑
桓武平氏の流れを汲む小山田別当有重、承安元年(1171)この地に城を築いて小山田の庄を領した。源平争乱の時代に小山田一族は、源頼朝の家人として活躍し平氏滅亡のあと、建久元年(1190)頼朝初の京都入洛に際して有重の子三郎重成、四郎重朝、五郎行重は、畠山重忠らとともに先陣の隋兵として従った。頼朝亡きあと、北条時政の誹りを受け元久2年(1205)三郎重成、四郎重朝とその子等は、将軍実朝により二俣川に於いて謀殺された。ここに小山田一族は離散した。元弘3年(1333)小山田一族の裔小山田太郎高家、新田義貞の侍大将として登場。小山田城を固守していた北條泰家の軍を追って鎌倉に攻め入り北條一族を討滅した。ここに建武中興成る。その後、足利尊氏が叛くに及んで高家は湊川の合戦に奮戦の折、主君義貞生田の森で足利軍の矢ぶすまに立ちつくすを見て、高家おのれの馬に乗せ奉りて主君の危急を救い、自らは処女塚で壮烈な戦死を遂げる。時に延元元年(1336)5月25日と 太平記は記している。小山田城址と伝えられる大泉寺境内の西北の山腹に三基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があるが、有重、行重、高家三人の供養塔といわれている。梵字の彫刻も苔むして定かではない。塔のたたずまいは小山田の風土と永い歴史をわれわれに語りかけてやまない。然し今日、開発の波は怒涛の如く由緒あるこの城址に逼りつつある時、ここに美しい風土に秘められた歴史の跡を偲び、併せて小山田高家公及び小山田一族の名声を末永く顕彰するためこの碑を建立する。(説明板)


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山門                 参道

山田氏(おやまだし)
武家の氏族。有重が武蔵国小山田荘(東京都町田市上小山田町・下小山田町)を本領としたことに由来し、鎌倉時代に甲斐国へ移り甲斐東部の都留郡(郡内地方)のうち谷村(都留市)を本拠とする。居館は市内大泉寺に比定。有重は小山田氏を称し、その三男である重成は稲毛氏を、四男の重朝は榛谷氏(はんがや)を、五男の有朝は田奈氏を、六男の重親は小山田氏を、七男の行重は森氏を称した。小山田一党は秩父党の重鎮として源頼朝の鎌倉幕府創立に功を立てたが一族の畠山重忠の乱に巻き込まれて殆どが粛清された。鎌倉時代初期にその粛清から逃れた生き残りが甲斐に入府したと言い、承久の乱においては同地から幕府方の東山道軍に加わっている。南北朝時代(『太平記』では小山田高家が湊川の戦いで新田義貞の身代わりとして討ち死にした記事が見出される)から室町時代以降にみられる甲斐の小山田氏とは同族とされるが、その経緯ははっきりしてはいない。(Wikipedia

小山田 有重(おやまだ ありしげ)平安時代末期の武蔵国の豪族。秩父氏の一族で秩父重弘の子。武蔵国多摩郡から都筑郡にまたがる小山田保、また小山田荘を支配して小山田を称し小山田氏の祖となる。


by Twalking | 2013-03-07 11:21 | 鎌倉街道(新規)

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