東海道(15)沼津宿~原宿 02 下見・原
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資料ファイル
沼津藩領境榜示杭 八幡神社
安永6年(1777)沼津藩主となった水野忠友によって、翌安永7年(1778)2月に建てられたものである。沼津略記に「二月六日 韮山代官ヨリ榜示杭來(長一丈、八寸角)・・・・」とある。 これは、沼津藩の西限を示すもので、下石田の東榜示と対応する。石製で、下半分は欠損している。「従是東」と刻まれているが、もとは「従是東沼津領」であったと考えられる。八幡神社の鳥居の横にある。(沼津市)
松長一里塚碑
東木戸(見附)跡
原宿は現在の西町、東町、大塚本田の三町で形成され、西と東に木戸を設けて宿場の入口とした。東木戸の入口はこの辺りではなかったかと推定される。東木戸から錦戸まで、即ち原宿東西の距離は660間(2.2km)であった。(案内版)
臨済宗の古寺で、歴史は約700年あり、名僧白隠が住職になってから特に有名である。現在は臨済宗白隠派大本山である。「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とうたわれた白隠禅師は、駿河国原宿長沢家の3男として貞享2年(1685)に生まれ、幼名を岩次郎といった。15歳の時松蔭寺で出家、慧鶴(えかく)と名づけられた。19歳より諸国の旅を重ね、精魂を尽くして修行を積み、享保2年(1717)松蔭寺の住職となり、翌3年34歳の時京都妙心寺の第一座となった。その後、禅の大衆化を図り、ついに500年に1人と言われるほどの高僧となり、臨済宗中興の祖と仰がれた。白隠は、禅画を確立したことでも名高く、好んで釈迦、観音、達磨などを描き、現在松蔭寺に多数保存されている。明和5年(1768)84歳で入寂、この寺の境内に墓がある(県指定史跡)。また、松蔭寺には、白隠が岡山城主池田侯から贈られた備前焼のすり鉢を、台風によって裂けた松の枝の雨避けにかぶせたというすり鉢の松がある。 一方、松蔭寺山門(表門)は木造、石瓦葺き、切妻造りの平屋建てで、白隠禅師創建と伝えられている。この門の特長は、石瓦葺きであることで、幅約30センチ、長さ約1メートルのものを1面3段54枚、裏表合わせて108枚を用いて葺かれており、白隠禅師の考案といわれる。この地方では他に類例を見ないものである。(沼津市)
白隠禅師誕生地
「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」と歌われ臨済禅中興の祖と仰がれる白隠禅師は西暦1685年12月25日長澤宗彛(そうい)を父 妙遵(みょうじゅん)を母とし三男二女の末子として生まれる。15才の時松蔭寺の単嶺祖伝和尚を師として自ら望んで出家し仏門に入る。19才から32才まで修行行脚で全国を巡り33才で松蔭寺住職となり84才で亡くなるまで松蔭寺を中心に全国各地で真の禅宗の教えを広めた。毛筆の書画に秀でて達磨図や観音菩薩絵は特に有名である。現地は母妙遵の生家屋号味噌屋(みそや)の地でのち父宗彛(そうい)が分家して沢瀉屋(おもだかや)を名乗った跡地である。禅師が生まれた時使用した「産湯の井戸」がこの奥にいまなお清水を湛えている。(案内版)
原宿の本陣渡邊家は阿野全成(あのぜんじょう・源頼朝の弟・義経の兄)の子孫であり、代々平左衛門を名乗っていて幕末に至っている。原宿の草分けであり広大な建物を持っていたので自然に大名、幕史等の宿所として本陣となり問屋・年寄・名主などを勤めていた。明治維新以後明治元年(1868)10月7日明治天皇東幸の時、本陣渡邊平左衛門家で「御小休」され、その後も巡行され「御昼」をされた記録もある。昭和20年までの戦前まで「明治天皇行在所」と記された標柱が現在地に整備され立っていた。間口は15~17間、建坪235坪、総坪数は山林・畑も含め6600坪の広大な規模であった。(案内板)
by Twalking | 2013-06-14 10:45 | 東海道(完)