東海道(23)岡部宿~藤枝宿~金谷宿 02下見・島田
日時:2014.3.25(火)~26(水)
天気:26日 曇り/雨
側面に「昭和二十一年六月十八日丸三製茶工場」とありますが、昭和天皇の石碑は珍しいのではないでしょうか。
木津谷川栃山橋
栃山土橋
木津谷川と伊太谷川がこの橋の川上で合流して栃山川と名を変えます。昔は「島田川」とも呼ばれていました。享和3年(1803)に書かれた「島田宿書上控」によると、江戸時代の「栃山橋」は土橋で、長さ17間(36.6m)横幅3間(5.4m)橋杭は3本立て7組で支えていました。土橋とは橋橋の上に柴(木の枝)を敷きその上に土を貼ったものでした。この橋の東端が当寺の道悦村と島田宿の境となっていました。(島田宿史跡保存会)
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蓬莱橋
1869(明治2)年7月、最後の将軍徳川義喜を護衛してきた幕臣達が大井川右岸にある牧之原を開拓しお茶をつくり始めた。当初は大変厳しい環境の中で筆舌にはつくせない苦労の連続だったが、そのかいがあって順調に茶栽培が営まれ、生活が安定するに従って島田の方へ生活用品や食料品を買いに出かけるようになってきた。また、島田の方からも初倉に山林、原野の開墾のためにでかけるようになったが、大井川を小舟で渡らねばならず大変危険なことだった。そこで、島田宿の開墾人総代達は時の静岡県令(現在の知事)に橋をかける願いを出し許可され、1879(明治12)年1月13日に完成した。しかし、木橋のため大井川の増水のたびに被害を受けてきたので1965(昭和40)年4月にコンクリートの橋脚に変え、今日の姿となった。現在の蓬莱橋は全長897m(平成9年12月 ギネス認定「世界一長い木造歩道橋」)通行幅2.4mであり、大井川の自然と一体となった木橋として全国的にも有名な観光名所となっている。(島田市)
蓬莱の島台で長寿祈願の鐘突き 蓬莱橋を渡った先には、「蓬莱の島台」あり蓬莱橋の全景を望むことができる。結構渡ったらすぐに引き返す人が多いが、時間があれば行ってみることをお勧めする。蓬莱の島台には「蓬莱吉祥天女」の話などの看板や天女の像(?)などがあり、その他にも「蓬莱」の解説の看板や2つの鐘の「愛和の鐘」と「長寿の鐘」や「蓬莱」の意を象る鶴や亀などの石像もある。また、2つの鐘の近くにある石碑には、以下のような句が刻まれていた。「蓬莱に 不死の仙薬 無けれども 長生き橋(長い木橋)に あやかりて 長寿祈願の 鐘一つ打つ」 「人の一生 長い橋(道) 夫婦愛和が 種となり 枝も栄える 葉も繁る」なるほど、「長生き」と「長い木」をかけてあるのね。もちろん、愛和と長寿を願って鐘を3回鳴らしました!3つ以上は無意の鐘だって。一ツ鳴らしてあなたに愛を、一ツ鳴らして仲睦まじく、一ツ鳴らしていつまでも(島田市)
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島田宿
刀匠顕彰碑
島田の刀鍛冶は室町時代より江戸時代末期にわたる約四百年間の歴史を持ち、繁栄期にはこの島田に多くの刀工が軒を連ね、鍛冶集団を形成していたという。 その系譜は義助、助宗、広助を主流とし、作風は相州風、備前風、などのみえる業物打ちであった。江戸時代になると貞助系、忠広系が派生し、信州などに進出していった刀工たちもある。彼ら島田鍛冶は地方的な存在であったが、戦国大名の今川・武田・徳川氏などに高く評価され、多くの武将に珍重された。とくに、義助の「お手許の槍」や、武田信玄所蔵という助宗の「おそらく造りの刀剣」など、刀剣史上に今なおとどめる秀逸な作品も少なくない。紀行文や文芸作品・芸能にも島田鍛冶は取り上げられ、往時の繁栄ぶりと名声のほどがうかがわれる。また室町末期に活躍をした連歌師宗長は、島田の刀工義助の子であったといわれている。島田鍛冶集団は、中世末期から近世にいたる島田の歴史の中でも、とりわけ燦然と輝いている(島田市)
やはらかにたけよことしの手作麦 如舟
田植えとゝもにたびの朝起 はせを (芭蕉)
するがの国に入て はせを
するがぢや はなたち花も ちゃのにほい
この句は句集芭蕉七部集中の『炭俵』上巻夏の部にあり「島田よりの便に」という後書きがついています。此句の碑は既に静岡には音羽町の清水寺と市の北足久保との二ヶ所にありますが、当島田には特に縁り深きを思い、このたび同士によりここに、建碑することとなったものであります。当此碑稿は元禄七年(1694)五月芭蕉翁西帰の途次、当宿塚本如舟邸を訪れた際書き残された翁の筆跡から廊大したものであります(碑文)
大井神社
大井神社は、貞観七年授駿河国正六位上大井神と三代実録に記載の見える古社である。昔、大井川が乱流し、度重なる災害に悩まされた里民は、子孫の繁栄と郷土の発展の為に御守護を祈るべく大井神社を創建した。幾度びかの御遷座の後、島田宿が東海道五十三次の要衝として宿場の固まった元禄初年、当地に正式に遷座し、元禄八年より御しんこいの神事が始まり、下島(現御仮屋)の旧社地は御旅所と称せられ、日本三奇祭「帯祭」と讃えられるようになった。島田宿の氏神として尊崇され、また、大井川川越の公家、大名、一般旅人からも大井川渡渉の安全を祈願する為深く信仰された(碑文)
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芭蕉句碑
川会所内にある、「馬方はしらじ時雨の大井川」の句碑です。元禄4(1691)年、まだ川越制度が確立していない頃に、松尾芭蕉が大井川を渡った時の心境を詠んだといわれています(島田市)
天正の瀬替え以降、島田宿の大井川沿いに築かれていた川除堤が慶長の大洪水(1604~1605)で決壊し、建設間もない島田宿の全てが流されました。その後、大堤完成までの確かな記録は不明ですが、島田代官長谷川藤兵衛長勝の頃向谷(むくや)水門を掘り抜き、宿内に3本の灌漑用水を完成させて、復興が本格化しています。恐らくこの頃(正保元年・1644)までには完全な大堤が完成したことと思われます。これらの治水・灌漑により島田宿の米の生産は以前の20倍にも増えています。大堤の規模は高さ2間(3.6m)で向谷水門下から道悦島村までの長さ3150間(5733m)と記録されています(島田宿史跡保存会)
八重枠稲荷神社
昔、ここには大井川の「出し堤防」があり、増水の時には蛇籠(じゃかご)に石を詰めて杭で固定し、これを幾重にも並べて激流から堤防を守りました。「八重枠」の名の由来はそこからきています。宝暦十年(1760)に、川越しの安全と水難排除を祈願して建立されたと記録にあります。しかし、この神社の祭日が春の彼岸の中日であることからも、建立当時の目的は川越しの事故で亡くなった人々の供養が主だったのではないかと想像されます。社殿は文化九年(1812)明治三十四年(1901)に修繕されましたが、礎石は建立当時のままで、大井川の川石を亀甲型に加工して積み上げたものです。川石は硬くて加工に手間がかかり、今では市内に数カ所残るのみの技法です(島田宿史跡保存会)
せぎ跡
昔、ここに一本の大きな松がありました。江戸時代、大井川には橋がかけられず、川越人足の手を借りて川を渡っていました。そして、雨が降って川の水かさが増すと、しばしば川止めとなり、旅人たちは宿屋に足止めされました。ここには次のような物語りがあります。安芸の国(広島県)の娘深雪が、宮仕え中の京都で、蛍狩りに行き宮城阿曽次郎という青年と恋仲になります。その後、国もとに帰った深雪は、親から駒沢次郎左衛門という武士を婚約者に決めたと聞かされます。しかし、その人こそ駒澤家を継いだ阿曽次郎とは知らずに家出をし、朝顔という名の門付け(三味線弾き)となって阿曽次郎をたずね諸国をさまよううちに目が見えなくなってしまいます。ゆえあって、島田の宿に来、宿屋の軒ごとに哀切きわまりない歌を流し歩いていると、ある座敷から声がかかります。この声の主こそ、さがし求める阿曽次郎でしたが、彼は主名をおびた急ぎ旅のため、また、朝顔は目が見えなかったため名乗り合いずに別れてしまいます。あとて阿曽次郎と知った朝顔は、急いで追いかけますが、大井川まで来ると、ちょうど川止め。半狂乱となった朝顔は、激流に飛び込もうとしますが、宿屋の主人戎屋徳右衛門(実は深雪の祖父に仕えていた)に助けられ、その犠牲的行為により目が見えるようになります。その時、初めて目に映ったのが大きな一本の松でした。この物語りを伝えるにふさわしい大木(目通り1メートル56センチ、高さ20メートル)でしたが惜しくも昭和十年代に枯れてしまい、これを哀れみ惜しんだ地元の人々によってこのお堂が建てられ、中に木碑にした松が奉納されました。この物語り「朝顔日記」は、江戸後期(1811)に作られたものですが、浄瑠璃として上演され、大好評となりました。「生写朝顔話」は、今でも上演されています(島田市)
金谷宿
日本左衛門は本名を浜島庄兵衛といい、生まれは定かではないが遠州浜松在ではないかといわれています。歌舞伎の「青砥縞花紅彩画」(白浪五人男)で日本駄右衛門のモデルにもなりました。義賊といわれ、盗みはするが非道はしないというのが身上で、金持ちの蔵を破り生活困窮者に盗んだ金をばらまいたという説もあります。 詮議の手が廻りもはや逃れないことを知った日本左衛門は、京都で自首しました。そして、江戸に送られて処刑され根城としていた見付宿(現在磐田市)でさらし首になりました。辞世「押取の人の思い羽かさなりて 身に青綱のかかる悲しさ」と詠んでおります。金谷宿の「おまん」という愛人がひそかに見付宿から首を持ち帰り、この宅円庵に葬ったものです(金谷町・金谷町観光協会)
by Twalking | 2014-03-30 13:13 | 東海道(新規)