東海道(24)金谷宿~掛川宿02 下見・掛川宿
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東海道(24)金谷宿~日坂宿~掛川宿(2)
掛川市内には小夜鹿、伊達方、葛川、大池の4ヶ所に塚が設けられていた。 ここ伊達方一里塚は、江戸より五十七番目の塚として街道の両側に築かれ、南側は現・荻田理髪店東側あたり、北側は現・三浦たばこ店屋敷あたりに設けられていた。 当時、塚の大きさは直径七間、高さ三間の小山で、一里山と言われた。明治三十三年頃取り壊れたという。(案内板)
昔は各所に道案内として主な街道には、道標(道しるべ)が建てられてあった。そして其の道を往来する人達の案内役を果たしていたが、最近は時代と共に次第に見受けられなくなってきている。西山口農協支所西角にある道標は、郷土の文化遺産として、昔の時代を知る手掛りとなる貴重な存在である。いつ頃建立したものか年号が刻んでいないので解らないが、東山口地区伊達方にある道標が、当地のものとよく類似している。それには寛保二壬戌年と深く刻んであるので、およそ同年代に程近いものではないかと思われる。いづれにしても二百数十余年の歳月が過ぎていることは確かである。大頭龍権現は菊川町加茂に、福天権現は同町西方龍雲寺境内にあるが、当時は両権現信仰の最も盛んな時代で、信者やそのほかの人にはこの道標から、裏丁通りを経てそれぞれの目的地まで歩いて行った。また川崎街道の分岐点でもあることから、菊川(元、堀之内町)、川崎湊(現、榛原町静波)両方面を往来する人達には、唯一の街道であった。猶、東へ直進すること約百米先に、右折する県道(現、菊川バス路線)がある。この道路は大正四年に建設するが、それまでは全て菊川又は川崎方面に行く人達は、当地を起点として主な役割を果たしていた。 (案内板)
新町七曲(左)
葛川と新町の境に掘割があり、ここにかかる橋を渡ると門がありました。この門から西が宿場のなかです。ここから東海道は南に折れ、道がかぎの手にいくつも折れ曲がる新町七曲に入ります。七曲は、容易に敵を進入させないための構造だと考えられます。七曲の終点に、城下に入ってくる人物や物を取り締まるための木戸と番所がありました。番所には、捕縛のための三道具(刺股・突棒・袖がらみ)や防火用の水溜め桶などが備えられていました。新町には、山内一豊が整備した城下町の東に発達した町並みで、元和六年(1620)町として認められました。(案内板)
塩の道 (右)
静岡県の西部地域は、古来遠州とよばれ、昔の人々が塩や米などの生活必需品を運び、神社仏閣に詣でる道が、各地にできていた。この中でも、秋葉街道と重なる「塩の道」や太平洋岸の「横須賀街道」は東海道や海の東海道と交わる交流の道である。 (案内板)
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掛川城
掛川城の歴史
掛川城は文明年間(1469~14869)頃今川氏の家臣が掛川古城を築いたことに始ります。永正10年(1513)頃に現在地に移り、今川氏の遠江支配の拠点となりました。永禄12年(1569)徳川家康がここに立てこもった今川氏真を攻め、長期間にわたる攻防の末掛川城は開城しました。家康の支配下にはいった掛川城は甲斐武田氏の侵攻を防ぐ拠点になりました。天正18年(1590)豊臣秀吉は天下統一を成し遂げ、脅威であった徳川家康の領地を関東に移しました。さらに家康の旧領地に秀吉は配下の大名を配し、掛川城には山内一豊が入りました。一豊は大規模な城郭の拡張を行い近世城郭として整備し、この時初めて天主閣をつくりました。その後、掛川城に松平家、大竹など徳川譜代の大名が11家26代の居城として明治維新まで続きました。(案内板)
正保元年(1644)徳川幕府は全国の城郭監理の一環として、諸大名に城絵図の提出を命じました。これが正保絵図と呼ばれるものです。堀の幅・深さ、土塁の高さ、石垣の高さ、櫓・塀の状況、城下町の町割り、街道の軍事に関わる施設が詳細に記入されています。この絵図と実際の城の様子が違っていると、その大名家は幕府により所領没収、お家断絶されたことから当時の城の様子が正確に描かれたと考えられます。(案内板)
東から流れてきた逆川が城山に当たり、川は深い渕となり崖をつくった。鎌倉時代から懸河と呼ばれていたこの場所が、掛川の地名の由来となった。江戸時代に掛川城の歴代の城主が記念して標示を立てた場所である。(掛川誌稿をもとに作成・標柱)
松尾池跡
本丸を囲む南側の堀は松尾池と呼ばれていました。(案内板)
正保城絵図では荒和布櫓(あらめやぐら)と呼ばれている見張りの櫓がありました。今ある建物は嘉永7年(1854)の大地震以後に建てられた太鼓櫓です。時刻を知らせる太鼓を置いていた櫓で何回かの移転の末、昭和30年(1955)に三の丸から移転されました。(案内板)
天正8年(1590)山内一豊が入城する以前は、本丸として使われていました。一豊によって城郭が拡張されると、天守閣を配置する独立した曲輪になりました。永禄12年(1569)徳川家康は今川氏真の立てこもる掛川城を攻めました。この時井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、家康軍の攻撃から守ったという伝説があります。
・1522年(490年前)に井戸が掘られました(約1年かけて掘られました)
・日本第3位の深さといわれています(深さは45mあります)
・この井戸は昭和35年位まで使われていました
(1番丸亀城(香川)65m 2番福知山城(京都)50m 3番掛川城45m 4番松山城(愛媛)42m 連歌師宗長の書き留め)
天守閣
天正19年(1591)から慶長元年(1596)にかけて山内一豊によって掛川城に初めて天主閣が作られました。しかし嘉永7年(1854)の大地震で倒壊し、幕末まの混乱の中取り壊されました。平成5年81993)城絵図や古記録を元に再建されました。天守閣の外観は三層・内部4階から成ります。六間×五間(12m×10m)の天守本体は決して大きくはありませんが、東西に張り出し部設けたり入口付櫓を設けたりして外観を大きく複雑に見せています。(案内板)
十露盤堀(そろばんほり)
本丸を囲む重要な堀です。十露盤堀という名前の由来ははっきりしませんが、水がたまった部分がそろばんの箱のように見えることからその由来と考えられます。(案内板)
御殿は儀式・公式対面など藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の政務をつかさどる役所という3つの機能を合わせもった施設です。掛川城御殿は、二の丸に建てられた江戸時代後期の建物で、現存する城郭御殿としては京都二条城など全国でも4ヶ所しかない貴重な建築物です。書院造りと呼ばれる建築様式で、畳を敷きつめた多くの部屋が連なり、各部屋は襖によって仕切られています。当初は本丸に御殿がつくられましたが老朽化したり災害にあって二ノ丸に移りました。嘉永7年、安政の東海大地震で御殿が倒壊したため、時の城主太田資巧(すけかつ)によって安政2(1855)から文久元年(1861)にかけて再建されたのが現在の御殿で、明治元年までの間掛川藩で使われていました。(パンフ抜粋)
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掛川宿
天正十八年、掛川城主であった山内一豊、千代夫人を浮彫刻にした。若き日の一豊が名馬を欲したところ、千代夫人が密かに蓄えた黄金をもって願いを叶えさせたと云う内助の功が美談として伝えられている。 後日、土佐高知城主として明治維新の山内容堂に至るまで、連綿として城主としての家系を保った。(清水銀行)
掛川城蕗(ふき)の門 西入り口
円満寺・蕗の門
地震を免れた城の内堀(蓮池)畔にあった門は明治5年(1872)に寺の山門として移築されました。四脚門という様式のひとつで、門柱の前後に控柱を2本ずつ、左右合わせて4本立ててあります。正門に配されることの多い格式の高い門です。瓦の桔梗紋は太田道灌の子孫といわれる掛川城最後の城主・太田氏の家紋であり、桔梗は掛川市の市章や市の花にもなっています。
ここは「平将門」の首級を祀る十九首塚です。人皇六十一代朱雀天皇の御代、関東下総の国(茨城県)相馬郡猿島に、桓武天皇の五代の孫で、相馬小太郎将門という武将がおりました。承平五年(935)、一族の内訌を契機として、将門は、常陸を始め関東一円を占拠、自から新皇と称し律令国家に対抗する国家を企てた。この反乱に、朝廷から大規模な将門追討が興され、平貞盛、藤原秀郷らにより、将門は天慶三年(940)二月十四日滅ぼされました(天慶の乱)。秀郷は将門をはじめ一門の家臣十九人の首級を持って京に上がる途中掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣され、この地(現在の十九首町)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。首実検の後、秀郷は『将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。』と十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養しました。時は天慶三年八月十五日でありました。その後、歳月の流れ土地開発等の為、移動し現在地に移りました。ここ十九首塚には、葬られた十九人の詳細な名前が残されています。地名の由来も十九の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。 町民は、首塚を町の守り神として春秋二季の彼岸と八月十五日の命日には供養際を行い、今日まで続いております。(案内板)
by Twalking | 2014-04-26 17:48 | 東海道(新規)