鶴見川(1)源流の泉~鶴川(改定)
天気 晴れ
・・・よこやまの道
鶴見川流域最高度三角点「山王塚」
この山上塚跡には鶴見川流域最高度三角点「山王塚」(168m)があります。鶴見川は流域面積235平方万kmで、多摩丘陵から下末吉台地を刻み横浜市鶴見区から東京湾に注ぎます。鶴見川の源流はここから南0.6km下った町田市上小山田の「鶴見川源流の泉」です。(案内板)
・・・源流の泉
鶴見川源流の泉
当地は鶴見川の最源流部・町田市上小山田田中谷戸に位置し、一日約1300tの地下水を湧出する「源流の泉」です。この安定した清流は源流の生きものたちの賑わいを支え、水田の用水としても大切に利用されつつ中下流の街にむけて多摩丘陵をかけております。
全長:源流の泉から生麦河口まで43.9km
源流の泉から新橋まで1.4km 級河川上流端・新橋から鶴川(睦橋)まで10km 鴨居(鴨池人道橋)まで23km 新横浜駅(駅前広場)まで28.3km 生麦河口まで42.5km(町田市上下水部)
・・・上小山田
町田市の北部に位置する。中世、坂東八平氏の一つ秩父氏の一族有重が武蔵国小山田荘に移り住み小山田氏を名乗る。1447年には長尾景春によって、小山田城が落城している。その後北条氏の支配下に入っているがその頃には上小山田村、下小山田村の名が見える。(Wikipedia)
鶴見川の源流は東京都町田市の北部、多摩市との境に近い上小山田町にある多摩丘陵の谷戸群(低湿地)の一角、田中谷戸(標高約170m)の湧泉である。源流周辺は「鶴見川源流泉のひろば」として整備されている。源流を発した鶴見川は町田市鶴川で真光寺川と、神奈川県川崎市麻生区で麻生川と合流し横浜市青葉区を縦断する。東名高速道路の下を抜けて横浜市緑区と都筑区の境界に沿い、下末吉台地に挟まれた沖積低地の入り口付近である緑区中山町で恩田川と合流する。このあたりまで鶴見川は谷本川(やもとがわ)とも呼ばれ、源流からおおむね南東に流れる。恩田川と合流した鶴見川は利水の基準地点とされる落合橋付近から東流し、港北区新横浜付近で鳥山川と合流すると蛇行して北へ向かう。再び蛇行して東流すると港北区綱島付近で早渕川と合流し、鶴見区駒岡付近で矢上川と合流する。鷹野大橋付近から左岸に川崎市幸区と接しながら南東へゆるやかに蛇行し始め、治水の基準地点とされる末吉橋付近から鶴見区を貫き、同区末広町・大黒町の河口から東京湾に注ぐ。
鶴見川流域は標高80mから170mの低い丘陵地帯が分水界をなし、河床勾配は源流から恩田川合流付近までの上流部で約1/250、沖積低地の中下流部で約1/1000の緩勾配となる。流域の大半が大きく起伏した丘陵・台地のため、かつては開発されることもなく自然豊かな環境・景観が形成されていた。しかし、1960年代(昭和30年代半ば)に始まる高度成長期から、流域周辺は人口が急増し、住宅地として急速に開発が進められた。1958年(昭和33年)には流域内の市街地率は約10%、人口は約45万人であったが、2003年(平成15年)には市街地率約85%、人口約188万人となっている。この市街地化の結果、谷戸や低平地の農地はほとんど姿を消し、自然主体の流域から都市主体の流域へと変貌した。(Wikipedia)
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(青:鶴見川 赤:小山田城址・大泉寺 白山神社 小山田神社 黄:小山田緑地)
・・・図師
町田市の北部に位置する。北西から南東に鶴見川が流れる。小野路町に跨る北部の丘陵地帯は「図師小野路歴史環境保全地域」に指定されており、全体として典型的なかつての多摩丘陵の景観を示している。武蔵国多摩郡小山田庄小山田郷の後、多摩郡柚木領に属した。地名は承久年間(1219~1221)時の領主の小山田二朗重義が半沢山にある「白山社」を修理しようとして別当の大蔵院長栄に社にある地形を尋ねたところ、長栄は図を画き重義がそれを誉め、長栄を図師法印半沢坊と称し領地の一部を社領として寄贈し「図師領」と称したと伝わる。(Wikipedia)
山崎町
町田市の中部に位置し、野津田町との町境付近を鶴見川が流れる。東には七国山があり東側の町境は薬師池公園に接する。旧日本住宅公団の大規模集合住宅である町田山崎団地・山崎第二団地が南部の大部分を占めるほか、北東部には都営山崎町アパート、シーアイハイツ町田などの集合住宅が多い。(Wikipedia)
七国山(ななくにやま)
町田市山崎町にある標高128.5mの山である。鎌倉時代頃に鎌倉と上州方面を結んだ鎌倉上道の古道跡が現在も残っており、近隣の本町田や小野路は古くから宿場として栄えたとされる。昔は頂上付近から相模、甲斐、伊豆、駿河、信濃、上野、下野の7つの国を見ることができたためそのように呼ばれた。(Wikipedia)
・・・野津田
町田市の中北部に位置する。東西に鶴見川が流れ北東の町境には小野路川が流れる。北部と南東部と南西部は丘陵地帯となっている。「野津田郷」とも呼ばれた。江戸時代に、野津田村は最初、捉飼場(鷹を訓養する場所)になったが、後に留場(放鷹の地で水鳥などを生息、繁殖させるため漁猟禁止地域)に組み込まれた。その後、金沢藩前田家の鷹場になった。地名は蔦(ツタ)が茂っていたことに由来し「野蔦」と呼ばれた。(Wikipedia)
「鎧堰の歴史」
鎧堰は、永禄8年(1565年)に八王子城主・北条氏照候の印版状を得て武藤半六郎が構築した。北条氏照は天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原城攻略による落城で秀吉から切腹を命ぜられた。しかし、この鎧堰はその後長い間地域の人々に守られ今日まで400年以上にわたって野津田地区で八町八反歩(約87000平方メートル)の水田に豊かな農業用水を供給して人々の生活を支え親しまれたきた。河川整備に伴う鎧堰の撤去に際し、歴史を記す。
北条氏照印判状 野蔦(野津田)之郷本堰口、川二崩、当年水不上之間、新堰可鑿歟之旨、得御意候、 以彼堰過分之田地可荒義如可候間、小分之年貢引候義者不苦候、 尤新堰可為鑿旨被仰出状如件、丑(永禄8年)三月廿日 一雲奉 武藤半六郎殿 専正軒 「町田市史資料集第四集」より
「鎧の名の由来」
元弘3年(1333)5月8日、上野国新田庄(群馬県新田郡)の武将新田義貞は後醍醐天皇側からの命を受け、鎌倉幕府を倒すための兵を挙げました。新田軍は上野国から武蔵国に入り、鎌倉街道上道に沿って兵を進めます。対する鎌倉幕府軍は5月9日に鎌倉を出発します。両軍は、小手指原(入間市)久米河(東村山市)にて衝突し、5月15日には武蔵国府の有る府中に至ります。15日16日の2日間にわたって分倍河原(府中市)では激しい戦いが繰り広げられました。多摩川を越えた関戸付近では敗走する幕府軍を追って激しい掃討戦(関戸合戦)がおこなわれました。 (「多摩川市関戸に残る中世の伝承とその背景」より) この関戸合戦の末端で戦い犠牲になった兵の屍が鶴見川を流れ折り重なって堰をなり、その状況を見て「鎧堰」 (当時は鎧ヶ淵)と呼ぶようになったろの伝承があります。また、堰の模様が鎧に見えたことから鎧堰を呼ぶ説もあります。この鎧堰の北側の小高い畑に兵の亡骸を手厚く葬り、神聖な場所と言われた「兜塚」がありました。また、並木前の畑にはヤバ(矢場)畑、ツカ(柄)畑の通称もあり、この地が合戦場であったことを思わせます。 平成21年の河川整備に伴いこの伝承を記す。(東京都南多摩東部建設事務所)
鶴見川東京都管理区間/丸山橋
区間:新橋上流端から麻生橋上流(神奈川県内を除く)
鶴見川は町田市上小山田町に源を発し、多摩丘陵を流下して横浜市生麦付近で東京湾に注ぐ全長42.5km、流域面積235km2の一級河川です。その流域は町田市、稲城市及び川崎市、横浜市に拡がり流域市街化率は80%を超えますが、上流・源流域は谷戸とその背後地に広がる雑木林など現在も豊かな自然が残っています。
谷戸とは
丘陵地が浸食されてできた谷状の地形を持つ地域です。谷戸には斜面の雑木林や谷底の谷戸田・湿地・草地など多様な自然環境が見られ、人間が長い間、自然と共存した生活を営んでききました。(東京都南多摩東部建設事務所)
・・・大蔵
町田市の北部に位置する。東西に鶴見川、西の町境には小野路川が流れ鶴見川に合流する。東には能ヶ谷、東南で川崎市麻生区の飛び地である岡上に接し、北には鶴川がある。(Wikipedia)
by Twalking | 2016-01-21 23:46 | リバーサイドウオーク(新規)