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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(29)池鯉鮒宿~桑名宿 下見03 宮宿&七里の渡し   

日時 2014.10.29(水)~31(金)
天気 晴れ&曇り
池鯉鮒宿~桑名宿(3) 宮部神社~宮宿~桑名


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山崎の長坂

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旧道・呼続信号を直進               山崎川を渡り左折


・・・松田橋交差点 

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手前を横断し、歩道橋から茶色ビル方向へ


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高架側道を直進

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名鉄踏切を道なりに直進             JR高架を直進


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伝馬町を直進(右折し神宮南信号を横断し前方の路地へ)


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ほうろく地蔵を左折し歩道橋へ         歩道橋を左斜め方向へ(蓬莱軒本店)

   

   
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宮の渡し公園(七里の渡しで桑名宿へ)


       
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資料ファイル

・・・呼続

東海道(29)池鯉鮒宿~桑名宿 下見03 宮宿&七里の渡し_d0183387_13015342.jpg長楽寺
寺伝によれば、弘仁12年(821)に空海が巡礼に訪れた際に見た夢のお告げで、呼続の浜に七堂伽藍を創建。真言宗戸部道場寛蔵寺と命名して「鎮守清水叱枳眞天」を安置したという。その後、寺は一山十二坊を有するまでになったが、やがて寺勢も衰えた。それを文明年間(1470頃)に義山禅師が再興し、永生5(1508)今川氏が諸堂を再建。この頃に曹洞宗の寺となり、明谷禅師が寺号を長楽寺と改めた。慶長8年(1603)清洲城主松平忠吉が、当時境内にあった素盞鳴尊 を祀る祠に病の平癒を祈願し回復した事から、慶長11年にこの祠を東に移して宮部神社とするとともに、書院、客殿等の諸堂を建てたとも伝わる。境内には、戦国時代に織田と今川両家の国境線であった谷が残っている。山号にもあるように境内の一角には稲荷神を祭る清水稲荷が置かれ、神仏習合となっている。(Wikipedia)


東海道(29)池鯉鮒宿~桑名宿 下見03 宮宿&七里の渡し_d0183387_13015863.jpg宿駅制度制定四百年記念碑/長楽寺参道前
江戸時代東海道の西側には、呼続浜の潮騒が磯を洗い、大磯の名を残している。ここで造られた塩は塩付街道を通じて小牧・信州に送られていた。東側には松林を遠く望む風光明媚な景勝の地として有名であった。現在は繁華な町となっているが、長楽寺・冨部神社、桜明神社など、名所旧跡を多く残し、今日に至るまで数々の歴史の重みに想いをはせるものである
(名古屋市呼続学区)



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塩付街道石柱/宮部神社手前       鎌倉街道石柱/熊野神社手前


東海道(29)池鯉鮒宿~桑名宿 下見03 宮宿&七里の渡し_d0183387_13041584.jpg宿駅制度制定四百年記念碑/熊野三社参道前
古来、呼続一帯は四方を川と海に囲まれた、巨松の生い茂る陸の浮島として、「松巨嶋」(まつこじま)と呼ばれ、尾張の名所であった。ここは東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差している。西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったと言われている。芭蕉は「寝覚めの里よびつぎ」と書き記し、この地に足跡を残している。また、山崎の長坂(今より急であった)に接する山崎の立場は、宮の宿への往還の地として賑わい、宮の宿より渡し舟の出港を呼びついたことから「よびつぎ」の名があるとも言われている。(名古屋市呼続学区)


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山崎城・安泰寺石柱/山崎の長坂    道標/山崎橋


・・・宮宿

宮宿 
東海道五十三次の
41番目の宿場である。中山道垂井宿にいたる脇街道美濃路や佐屋街道との分岐点でもあった。一般には宮の宿と呼ばれることが多かったが、幕府や尾張藩の公文書では熱田宿と書かれている。東海道でも最大の宿場であり、天保14年には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋は248軒を擁し、家数2924軒、人口10,342人を数えたという。古くからの熱田神宮の門前町、港町でもあり、尾張藩により名古屋城下、岐阜と並び町奉行の管轄地とされた。桑名宿とは東海道唯一の海路である七里の渡しで結ばれていた。江戸時代中期以降は四日市宿へ直接渡る航路(十里の渡し)もよく利用された。(Wikipedia)


東海道(29)池鯉鮒宿~桑名宿 下見03 宮宿&七里の渡し_d0183387_13262899.jpg宮地区の歴史
熱田社の門前町である宮地区は、佐屋・美濃・木曽の諸街道への重要な分岐点になっていたことから、経済情報・文化の中心都市的役割を担い、東海道五十三次の41番目の宿場町「宮宿」として古くから栄えたところでした。また、東海道五十三次のうち唯一の海上路で桑名までの距離が七里だったため「七里の渡し」と呼ばれ、熱田社の門前町であることから「宮の渡し」とも呼ばれていました。江戸時代には参勤交代で通行する諸大名の宿泊施設が建ち並び、お伊勢参りの流行によってさらに人の往来が活発になり東海道一のにぎわいを見せていました。(案内板)


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東海道五十三次 宮宿・熱田神事

東海道(29)池鯉鮒宿~桑名宿 下見03 宮宿&七里の渡し_d0183387_13331963.jpg裁断橋址
宮の宿の東のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて現在の姥堂の東側にあった。天正18年(1590)に18歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。33回忌にあたり、再び架け替えを志したがそれも果たせず亡くなり、養子が母の意思をついで元和8年(1622)に完成させた。この橋を有名にしているのは、その擬宝珠に彫られている銘文である。仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を渡る旅人に多くの感銘を与えた。現在は裁断橋も更に縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。(名古屋市教育委員会)


東海道(29)池鯉鮒宿~桑名宿 下見03 宮宿&七里の渡し_d0183387_13332219.jpg姥堂
延文3年(13589月法順上人が亀井山圓福寺の巌阿上人に帰依して、この場所に創建したと伝える。本尊姥像は熱田神宮にあったものを、ここに移したと伝えられ姥像の衣紋に熱田神宮の桐竹の紋が金で描かれてあった。旧東海道筋に在ったので古文書や古地図で存在は早くから知られており尾張名所絵図会にも登載されている。昭和203月の戦災で堂宇本尊ともに焼失したが、姥像は高さ8尺の坐像で、その大きさから奈良の大仏を婿にとると江戸時代俚謡に歌われたほどである。尊容から奪衣姿と見る説もあるが、両手に童顔の御像を棒持していること、熱田神宮伝来などから日本武尊の母か宮蔶媛命の像ではないかとも想定されている。昔から民間では安産や子育て・家内安全の仏として信仰され「おんばこさん」と呼ばれ親しまれてきた。現在の本尊は平成55月に焼失前の写真を元に四尺の大きさで復元した御像である。(案内板)


東海道(29)池鯉鮒宿~桑名宿 下見03 宮宿&七里の渡し_d0183387_13344116.jpg道標(熱田伝馬町西端)
ここ熱田伝馬町の西端は、江戸時代東海道と美濃路(又は佐屋路)の分岐点で重要な地点であった。この道標の位置(T字路の東南隅)は建立当時(1790年)そのままである。四面には、次のように刻まれている。(東)北・さやつしま  同・みのち道 (南)寛政二庚戌年 (西)東・江戸かいとう 北・なこやきそ道 (北)南・京いせ七里の渡し 是より北あつた御本社貮丁道  なお、この三叉路の東北隅にはこれより32年前に建立(宝暦8年)された道標があった。標示は「京いせ七里の渡し」以外はこれと同じである。戦災で破損したが復元され10mほど東の北側にある。(名古屋市教育委員会)


東海道(29)池鯉鮒宿~桑名宿 下見03 宮宿&七里の渡し_d0183387_13344388.jpgほうろく地蔵
「尾張名所絵図会」(天保12年脱稿)よれば、この石地蔵はもと三河国重原村(現在知立市)にあったが、野原に倒れ捨石のようになっていた。ところが、三河より焙烙を売りに尾張へ来るものが、荷物の片方の重石としてこの石仏を運んできて、ここで焙烙を売りつくした後石仏を海辺のあし原に捨てて帰った。地元の人がこれを発見し、安置しようとしたが動かないので怪しんでその下を掘ってみると、土中にこの仏の台座と思われる角石が深く埋もれていたので、皆が不思議なことだと思いその台石を掘り出し、この石仏を置いたのがすなわちこの地蔵である。(案内板)


東海道(29)池鯉鮒宿~桑名宿 下見03 宮宿&七里の渡し_d0183387_15042651.jpg宝勝院 
蓮泰山とご号す西山浄土宗の寺院である。昭和27年近くの高仙寺と合併したが、その際移安された木造阿弥陀如来立像の胎内から仏や菩薩像など木版刷りした摺仏(すりほとけ)や写経などが多数発見された。その写経の一部に僧永源が貞永元年(1232)仏道成就を願って阿弥陀如来の造立を企てた旨の奥書があり、造像はそのころと思われる。昭和58年本尊・納入物とも国の重要文化財に指定された。また、熱田湊常夜灯は承応3年(1654)から明治24年(1891)まで当寺が管理をしてきた。(名古屋市教育委員会)


・・・七里の渡
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七里の渡船着
(尾張名所図絵) 
この絵は、七里の渡しを描いたもので、道沿いに並ぶ旅籠屋などの家々や、岸につながれた舟、道を行きかう人の多さから当時のにぎわいがわかります。この渡し場は城下町名古屋の玄関口としても人と物資の輸送の面で重要な役割を果たし、そのため尾張藩は東・西浜御殿のほか、浜鳥居の西に船番所、船会所などの役所を設け、船の出入りや旅人の姓名などを記録していました。(名古屋市)



東海道(29)池鯉鮒宿~桑名宿 下見03 宮宿&七里の渡し_d0183387_15083500.jpg七里の渡し舟着場跡
江戸時代、東海道の宿駅であった熱田は「宮」とも呼ばれ、桑名までの海路「七里の渡し」の舟着場としても栄えていた。寛永2年(1625)に建てられた常夜灯は航行する舟の貴重な目標であったが、現在は復元されて往時の名残をとどめている。安藤広重による「東海道五十三次」の中にも、宮の宿舟着場風景が描かれており、当時の舟の発着の様子を知ることができる。(名古屋市)時の鐘 延宝4年(1676)尾張藩主光友の命により熱田蔵福寺に時の鐘が設置された。正確な時刻を知らせるこの鐘は熱田に住む人々や東海道を旅する人々にとって重要な役割を果たしていた。昭和20年の戦災で、鐘楼は焼失したが、鐘は損傷も受けずに今も蔵福寺に残っている。熱田の古い文化を尊ぶ市民の声が高まり、往時の宮の宿を思い起こすよすがとして、この公園に建設したものである。(名古屋市)

東海道(29)池鯉鮒宿~桑名宿 下見03 宮宿&七里の渡し_d0183387_15044627.jpg熱田常夜灯
この地は宮(熱田)の神戸の浜から、桑名までの海上七里の航路の船つき場跡である。常夜灯は寛永2年(1625)藩の家老犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて熱田須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に常夜灯を建立した。その後風害で破損したために承応3年(1654)に現位置に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられた。寛政3年(1791)付近の民家からの出火で焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃していたものを昭和30年ほぼ現位置に復元された。(名古屋市教育委員会) 

宮の宿とシーボルト
ここ宮(熱田)の宿・神戸の浜から桑名宿まで東海道では唯一の海上七里の海路で、東西の人々の行き交いが盛んであった。文政9年(1826)オランダ使節に随従して江戸へ参府するドイツ人医師シーボルトと名古屋の本草学者水谷豊文、その門下生伊藤圭介、大河内存真らと会見し、教えを受けた。後の名古屋の医学・植物学の研究に多大な影響を与えた。(名古屋市教育委員会)

東海道(29)池鯉鮒宿~桑名宿 下見03 宮宿&七里の渡し_d0183387_15090854.jpg丹羽家住宅
丹羽家は場期末の頃、脇本陣格の旅籠屋で、伊勢久と称し、西国各藩の名のある提灯箱などが遺されている。正面の破風付玄関はかっての格式の高さを残している。創建は不明であるが、天保十二年(1841)森高雅画の「尾張名所図会・七里渡船着」には当家のものと思われる破風付玄関のある旅籠屋が描かれている。昭和五十九年、市の有形文化財に指定された。(名古屋市教育委員会)

熱田荘  
木造・二階建・切妻造・桟瓦葺平入り・正面庇付で、この建物は明治291896)武藤兼次郎が建てた「魚半」という料亭であったが、戦争中三菱重工業の社員寮にされ、昭和29同社の所有となった。建造時期は新しいが、近世の町家の形式を継承しており、旧舟付場に面して立ち、先に指定された丹羽家(伊勢久)とともに、宮宿の景観をしのばせる数少い遺構の一つで市の有形文化財に指定されている。(名古屋市教育委員会)


・・・住吉浦
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住吉神社

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船着場                番流櫓を望む/七里の渡場

住吉浦 
桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的舟運の拠点として「十楽の津」(じゅうらくのつ)と呼ばれ、木材や米等の集散する自由活発な商業都市として発達してきました。住吉浦は廻船の船溜まりで全国から多数の廻船業者が集まっていました。この人たちによって航海の安全を祈り住吉神社(現大阪市)から勧請してこの住吉神社が建立されました。神社前の石燈2基は江戸時代の材木商が寄進したものです。なお、近年は太一丸堤の上にあった神明社が合祀されています。ここから伊勢大橋、多度山方面の眺めは水郷桑名ならではの絶景の趣があり水郷巡りの発着点として利用されています。(案内板)

by Twalking | 2014-11-05 16:35 | 東海道(新規)

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