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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり世田谷豪徳寺   

日時 2015.3.18(水)
天気 晴れ

ドックウオーキングのプレゼンの後、
駒沢から豪徳寺までぶらりと歩いてみました。
この界隈は昔、住んでいたところなので、
親しみと懐かしさがあります。

豪徳寺では檀家の方から声を掛けて頂き
境内の要所の解説をしていただきました。
知らなかったことが多く、興味深く拝聴しました。
ありがとうございました!


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松陰神社
幕末の思想家・教育者である吉田松陰を祭神とする神社である。松陰の墓所がある東京都世田谷区と、松陰の生誕地である山口県萩市にある。どちらも、学問の神として崇敬を受ける。鎮座地にはかつて長州藩主の別邸があった。松陰が安政の大獄で刑死した4年後の文久3年(1863)、高杉晋作な松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が当地に改葬された。明治15年(18821121日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。現在の社殿は昭和2年から3年にかけて造営されたものである。松陰の50年祭に際して寄進された26基の燈籠には伊藤博文、木戸高正、山縣有朋、桂太郎、の乃木希典、井上馨、青木周蔵などの名前が刻まれている。松下村塾を模造した建物、頼美樹三郎、広沢真臣らの墓もある。松陰らが眠る墓域は幕末時代、徳川勢により一度破壊されたが、慶応4年(明治元年)、木戸孝允がこれを修復整備した。墓域には現在も、木戸が寄進した鳥居が残っている。また、敷地に隣接する形で桂太郎の墓もあるが、案内が不十分なこともあり、参拝者は少ない。桂自身の遺言により、この地に埋葬された。徳富蘆花の「謀反論」でも書かれているが谷を挟んだ向こう側には豪徳寺がある。豪徳寺は吉田を刑死させた安政の大獄を起こした井伊直弼の菩提寺である。(Wikipedia


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御社殿
神社創建時に伊藤博文、山縣有朋、井上馨、乃木希典等の方々によって造営された社殿は現在本殿の内陣となっています。現在の社殿は昭和2年から3年にかけて、明治の元勲や崇敬者の方々によって造営されました。(松陰神社HP)



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石燈籠
境内には毛利元昭公を始め、先生門下の伊藤博文、山縣有朋等の縁故者より奉献された32基の石燈籠があります。その燈柱に刻されている文字は書家竹山先生の所謂、八分隷書体に成るもので貴重な文化財とされています。(松陰神社HP)



ぶらり世田谷豪徳寺_d0183387_23090663.jpg松下村塾
松蔭先生の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。塾長は玉木氏が公務多忙の間、久保五郎左衛門が安政4年(1857)まで引き継ぎました。その後、松蔭先生が再び投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏、兄の杉梅太郎らによって明治25年頃まで続きました。松陰先生は嘉永5年(185223歳の時は半年ほど、安政4年(185726歳の冬出獄(米艦に乗船を企てて投獄されていた)してから安政4年(185711月迄、杉家(松蔭の実家)で子弟を教育していました。この月の5月にはじめて八畳一間の塾舎が完成することになり、松陰先生はこの時から塾に起居し塾生に対し子弟同行の実際教育を指導しました。塾生が増加して手狭になったので安政5年(18583月、十畳半の増築がおこなわれました。松陰先生が名実共に公に認められたのは、安政5720日、先生29歳の時、藩主より家学(山鹿流兵学)教授を許可され、これから同年12月安政の大獄に連座し投獄されるまでの5ヶ月の間のことでありました。実際に先生が塾生に教育を施した年月は安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、通算2年半程であったようです。松下村塾で薫陶をうけた塾生はおよそ90名前後といわれており、久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允、山縣有朋、品川弥三郎、伊藤博文など明治維新を通して近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させたことは特に有名です。本神社にある松下村塾は山口県萩の松蔭神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。(案内板)



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吉田松陰先生他烈士墓所
境内墓域には、吉田松陰先生の墓碑をはじめとして、頼三樹三郎、小林民部、来原良蔵、福原乙之進、綿貫次郎輔、中谷正亮、其の他烈士の墓碑があります。文久三年(1863)正月。高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は、松陰先生の亡骸を千住小塚原回向院よりこの世田谷若林大夫山の楓の木の下に改葬し、先生の御霊の安住の所としました。同時に頼三樹三郎、小林民部も同じく回向院より改葬。その数日後、来原良蔵の墓を芝青松寺から改葬。同年十一月、福原乙之進を埋葬。 禁門の変の後、長州征伐の際に幕府によって松陰先生以下の墓は破壊されましたが、木戸孝允等の手により明治元年(1868)に松陰先生以下の墓を修復し、更に綿貫治良助を埋葬、中谷正亮を芝清岸院より改葬、長州藩邸没収事件関係者の慰霊碑を建立しました。明治2年整武隊長官が鳥居より墓前に至る道に石を敷いて参拝に便ならしめ、かくして墓域は完成し、忠魂の鎮座することとなりました。(案内板)


ぶらり世田谷豪徳寺_d0183387_23091175.jpg木戸孝允寄進の鳥居
松陰先生墓域の入口に建てられている鳥居は松陰先生墓所の修復の際、木戸孝允によって奉納されたもの。「大政一新之歳、木戸大江孝允」と刻まれている。(案内板)




ぶらり世田谷豪徳寺_d0183387_23085941.jpg吉田松蔭先生像
(鋳造:平成25年・ブロンズ)
明治23年に大熊氏廣氏によって製作された吉田松陰先生像(石膏 松蔭神社所蔵)から鋳造されたブロンズ像。松蔭神社ご鎮座130周年(平成24年)の記念事業として東京藝術大学に依頼し、ほぼ一年かけて石膏像の調査修復及びブロンズ像の鋳造をおこなった。平成25年4月完成。同27日の春季例大祭にあわせ完成除幕式がおこなわれた。
大熊氏廣(安政3年・1856~昭和9年・1934明治9年工部美術学校に入学し、教授として来日していたイタリヤ人彫刻家ラグーザに師事、明治15年首席で卒業。明治2122年滞欧しファルギエール、モンテベルデ等に師事。日本における近代彫刻の先駆者。作品として靖国神社の大村益次郎像が有名。(案内板)



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世田谷城址
世田谷城は武蔵野台地の一角、南東に張り出した舌状台地の先端部に立地し、西・南・東の三面に烏山川が蛇行し、北には小支谷が入る。14後半に吉良治家が居住したのに始まると伝える。吉良氏は清和源氏・足利氏の氏族で、世田谷吉良氏はその庶流にあたる。はじめ鎌倉公方に仕え、15世紀後半に関東が乱れると関東管領・上杉氏やその家宰・太田道灌に与力し、16世紀には北条氏と結んだ。北条氏と上杉氏との勢力争いで、享禄31530)には世田谷城は攻略されたと伝えるが、のち吉良氏の手に復した。この間、吉良氏は北条氏と婚姻関係を結び、その庇護下にあったが、天正18年(1590)、豊臣氏の小田原攻略により、世田谷城も廃城となった。 世田谷城の濠・土塁の構造は天文6年(1537)の再築とされる深大寺城のそれと類似しており、16紀前半に防御の為、大改築がなされた事が窺える。(案内板)


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吉良氏と世田谷城
世田谷城は清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城として知られています。貞治5年(1366)、吉良治家によって築城されたといわれていますが、定かではありません。永和2年(1376)に吉良治家が鎌倉八幡宮にあてた文書から、おそくとも14世紀後半にはこの地に吉良氏が領地をもっていたことがうかがわれます。応永33年(1426)には「世田谷吉良殿」などと称され、足利将軍家の御一家として諸侯から一目置かれる存在でした。また、15世紀後半には江戸城の太田道灌と同盟関係を結び、武蔵国の中心勢力として繁栄します。その後、吉良頼康の代には小田原原北条氏と縁戚関係をもつようになりますが、豊臣秀吉の小田原攻めによる北条氏の没落に伴い、吉良氏は上総国生実(おうみ)逃れ世田谷城は廃城になりました。しばらくして、当地は彦根藩井伊家の所領となりますが、城内にあったとされる吉良氏の小庵・弘徳院は豪徳寺の前身といわれています。(説明板)



ぶらり世田谷豪徳寺_d0183387_21574856.png城の構造

世田谷城は目黒川の支流・山川が大きく蛇行する地点の北側、三方を川に囲まれ、南側に衝き出した台地上に築かれています。また、城北方を通る滝山道と東方の鎌倉道が交差する交通の要衝にあたっています。城郭の構造は中央に位置する郭(A)は南北約120m、東西約60mほどの広さで、本来は南北に間口していたと考えられる台形の土塁に囲まれています。世田谷城趾公園には土塁の一部が残されています。世田谷城の範囲については諸説あり、規模は判然としませんが現時点では、この郭(A)を中心として複雑に展開する8ヶ所以上の郭や土塁・堀で構成され、郭(A)~(G)周辺を非常時の「結城」北側の豪徳寺部分を「吉良邸館」と推定し、この二つが一体となって「世田谷城」を構成していたと考えられます。(説明板 橙:烏山川) 


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豪徳寺
世田谷区豪徳寺二丁目にある曹洞宗の寺院。山号は大谿山(だいけいざん)。一説には招き猫発祥の地とされる。本寺付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし、天正18年(1590)の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。文明12年(1480)、世田谷城主吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を結んだ。当初は臨済宗に属していたが、天正12年(1584)曹洞宗に転じる。寛永10年(1633)、彦根藩主・井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備した。寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」による。招き猫発祥の地とする説がある。井伊直孝が猫により門内に招き入れられ、雷雨を避け、和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び、後に井伊家御菩提所としたという。Wikipedia


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招き猫伝説 
豪徳寺では「招福猫児(まねぎねこ)」と称し、招猫観音(招福観世音菩薩、招福猫児はその眷属)を祀る「招猫殿」を置く。招猫殿の横には願が成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されている。ちなみに、招福猫児は右手を上げており、小判などを持たない素朴な白い招き猫である。(Wikipedia


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彦根藩主井伊家墓所(国指定史跡)

井伊家は、遠江国井伊谷を中心に勢力を持った武上で、戦国期には今川氏の配下にあった。井伊家24世とされる直政は天正31575)、15歳で徳川家康に仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献した。合戦後、直政は近江国などに18石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。続く2代直孝も大坂夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷にあわせて30万石を有する譜代大名の筆頭格となった。以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間に控えて将軍に近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与した。寛永101633)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が普提寺に取り立てられた。直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、13代直弼(宗観院殿)墓がある。直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(掃雲院般・直孝長女)墓がその中央西側に位置している。墓所内で最も古い墓は、直時(広度院殿・直孝四男)のもので、万治元年(1658)に建てられた。直孝が没したのは万冶2年で、どちらの墓石も唐破風笠付位牌型で造られている。以降、豪徳寺に所在する藩主、正室、世子、側室の墓石は、いずれもこの形式で建造された。また、幕所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓石に混じって、江戸で亡くなった藩士とその家族の墓石も据えられている。これらを合わせると、墓所に所在する墓石の総数は300基余になる。彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清涼寺(滋賀県彦根市)、永源寺(滋賀県東近江市)の三ケ寺にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅される。各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な通産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として平成20328日、国史跡に指定された。(世田谷区教育委員会)

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江戸名所図会 世田谷豪徳寺(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』より引用しました)



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世田谷八幡宮

この神社は、源義家が奥州の内乱をとりしずめた記念として建てたとつたえられる。その後、天正15年(1587)に世田谷城主の吉良頼康が、新しく建てた。宮坂八幡・宇佐八幡とも呼ばれ、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后をまつる。社殿は、文化10年(1813)の建築で現在の社屋の中におさめてある。昔から行われている秋祭の奉納角力は有名である。(世田谷区教育委員会)



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ぶらり世田谷豪徳寺_d0183387_23173607.jpg世田谷八幡宮
世田谷八幡宮の御鎮座は、今から約九百数十年前、第73代堀河天王の寛治5年(1091)、当時陸奥国(奥州)の鎮守府将軍として任ぜられた源義家が、幾多の苦を重ねて清原家衡を金沢柵にて攻め平定した後三年の役(1087-1094)の頃です。義家は、戦地からの帰途、この世田谷の里にて豪雨にあい、先に進めず天気快復を待つため十数日間滞在する事となりました。もとより敬神の念を厚く持つ義家は、今度の戦勝は日頃氏神(守神)として信仰する八幡大神様の御加護に依るものと深く感謝し、備前国(大分県)の宇佐八幡宮の御分霊を、この世田谷の地にお招き申上げ盛大なる勧請報斎・奉祝のお祭りを執り行い、里人に対しこの御祭神を郷土の鎮守神として厚く信仰するよう教えた、と云われています。また、そのとき兵士に奉祝相撲を取らせた事でも有名であり、現在でも奉納相撲として伝えられています。その後の八幡様は当社に残る棟札によると「当社 八幡宮建立大檀那源朝臣頼貞。天文15年丙午820日建立、1220日癸卯御遷宮」とあり、約四百数十年前の第105代後奈良天皇の御世に世田谷城主であった吉良頼貞・頼康が社殿を修築造営し、またこの時、現在でも社宝として残っている備前雲次の太刀(23寸)一振を寄進したと云われています。このように当社八幡さまは吉良家の祈願所として、神職はその当時の家臣一家老職大場家の一分家たる大場氏により祭典が行われてきましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の関東征伐にあたり吉良氏は小田原の北条氏と共に滅んでしまいました。その翌年の天正19年(1591)に江戸城に入城した徳川家康も、源氏の出身であり、その氏神八幡神を崇敬し、当社に社領として11石を寄進しました。以来徳川家代々の将軍は、朱印地として社領11石を寄進する習わしとなりました。明治維新後の八幡さまは、明治5年に世田谷の総鎮守として郷社宇佐神社となり旧世田谷村の地および羽根木を氏子地域と定めましたが、終戦後、神社は国家管理を離れたので、郷社の社格も廃止され、また、社名も朱印状などの文献により元来の世田谷八幡宮と復元されました。昭和395月に社殿を改築し、現在の荘厳な社殿となり世田谷の鎮守の神様として多くの人達に厚く信仰されています。(境内説明板)


ぶらり世田谷豪徳寺_d0183387_23162803.jpg奉納相撲の世田谷八幡

石の鳥居をくぐると右手に弁天池がある。その少し上手に土俵が設けられ、観客席がちょうど円形劇場のように広がっている。奉納相撲で知られるこの八幡は、吉良頼康の創建と伝えられる。江戸時代には「江戸三大相撲」の一つといわれるほど有名になり、現在も秋季大祭の915日には学生や若者の奉納相撲が行われる。(せたがや百景)


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江戸名所図会 世田谷八幡社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)



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世田谷吉良氏
世田谷の吉良氏は足利氏の一門で、忠臣蔵の吉良上野介義央とその祖を同じくしています。吉良氏は世田谷城を築き、文明12年(1480)に亡くなった伯母のために城内に弘徳院を建立したと伝えられており、これが現在の豪徳寺の前身となりました。吉良頼康には鷺草にまつわる悲話が伝えられています。次の吉良氏朝の時、北条氏政は世田谷新宿に楽市掟所を発しました。これが世田谷ボロ市の始まりです。天正18年(1590)豊臣秀吉によって小田原城が落城すると世田谷城も運命を共にし、氏朝は弦巻の実相院にこもり隠居居人として余生を送りました。(松陰太子堂散歩案内板)


2015.12月 世田谷八幡宮を追記

by Twalking | 2015-03-19 15:00 | 東京散歩(新規)

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