人気ブログランキング | 話題のタグを見る

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 武蔵野の道・丸子-二子コース03  兵庫島   

日時 2015.6.20(土)
天気 晴れ


梅雨の晴れ間、真夏日になりそうです。
久し振りの青空に誘わて朝の兵庫島を歩いてみました。
世田谷に住んでいた頃はよく子供と遊びに来ましたが、
この川辺は眺めもいいし、緑も豊かで憩えますね。


武蔵野の道・丸子-二子コース03  兵庫島_d0183387_10534020.jpg
兵庫橋を渡って中央の丘へ

兵庫島公園 
世田谷区玉川三丁目にある公園。多摩川と多摩川に合流する野川の河川敷を利用した公園である。公園内には「兵庫島」が丘として残っており、「兵庫島」を中心として木々が生い茂り武蔵野の緑を今に残している。「兵庫島」の上流側には開放的な芝生広場もある。また、三方を多摩川・野川に接している他、公園内中央には人造の池である「兵庫池(ひょうたん池)」があり、また上流側からは「ひょうたん池」に注ぎこむ人造の小川が整備されており、水に親しみやすい公園である。兵庫島から多摩川を望んだ時に広がる風景は、池や小川が人造ではあるものの、東京23区内では貴重な緑と水の溢れる風景であり、周辺住民に親しまれている。(Wikipedia


武蔵野の道・丸子-二子コース03  兵庫島_d0183387_11033535.jpg
兵庫池(ひょうたん池)

武蔵野の道・丸子-二子コース03  兵庫島_d0183387_11115347.jpg
武蔵野の道・丸子-二子コース03  兵庫島_d0183387_11114689.jpg
枯れ流れ               芝生広場

多摩川八景
中下流部の多摩川の広大な河川敷は、公園やグラウンドに多く利用されています。世田谷区多摩川の兵庫島一帯も河川敷利用の公園の一つで、水と緑に親しめる豊かな自然の場として人気があります。兵庫島は多摩川の支川野川と多摩川の合流点にある小高い丘で、新田義興の家臣、由良兵庫助の死体が流れ着いたといわれる伝説の地です。この歴史ある地に、昭和63年、かねて整備中であった「兵庫島河川公園」が完成し、更に多くの人々が訪れるようになりました。兵庫島一帯は、交通の便も良いことから、地元はもとより広い地域の人々が憩いと安らぎを求める場となっています。(京浜河川工事事務所)


武蔵野の道・丸子-二子コース03  兵庫島_d0183387_10511070.jpg
公園中央の丘

兵庫島の由来
正平13年(1358年)に新田義貞の子義興が、足利基氏を討ち新田家再興をめざして、従者13人と上野(こうすけ群馬)より兵を進めた。ところが多摩川稲城長沼の渡しで、敵の策略とは知らずにさし向けられた船に乗ってしまう。この時、渡し守はかねて仕掛けられた船底の栓を抜き逃げ去った。同時に両岸からは数百の軍勢が時の声をあげて矢を射かけた。兜、よろいの武士たちは身動きがとれない。もはやこれまでと義興は自害してしまうが、従者たちの中には対岸まで泳ぎつき群がる敵兵と戦い自害して果てる者もあった。その中の一人でもある由良兵庫助が流れついたのが兵庫島の名の起こりという。村人たちはわざわいが起こらないよう供養し、それ以降、不思議なことにこの中州はどんな洪水の時でも流されることがなかったと伝えられる。(世田谷区)

大田区の新田神社に示されているとおり、義興の死は「矢口渡」とするのが一般である。ただし、そうであれば兵庫助が当地に流れ着くはずはなく、また当公園に関する案内や資料には「稲城長沼の渡し」や「府中付近」などの文字が見られることがある。そのため、「矢口渡」は「矢の口(矢野口)の渡」の誤りではないか、とする説があり本記事はそれに拠っている。これと対立する説を付言すると、当時の多摩川は川幅が現在よりもはるかに広く、満潮時には逆流したことも考えられるため大田区の矢口渡から死体が流れ着くことも考えられるとするものがある。Wikipedia)



武蔵野の道・丸子-二子コース03  兵庫島_d0183387_11202734.jpg
新二子橋(上流側) 


武蔵野の道・丸子-二子コース03  兵庫島_d0183387_11203137.jpg
二子橋&東横線(下流側)

二子の渡し

江戸時代、幕府は多摩川を江戸防衛の最前線と位置づけていたため、長い間架橋を制限していた。そのため、古来よりこの地を通っていた大山街道は、近年まで渡し船「二子の渡し」が結んでいた。この渡し船は、人を渡す船はもちろん、馬や荷車を渡す大型の船も用意されていた。江戸時代中期から橋ができる1925(大正14)まで、二子村と瀬田村(現在の世田谷区瀬田)が村の仕事として行っていた。架橋が幕府によって制限されていた多摩川には各所に渡し船があったが、かつては農民の江戸との交流に多く利用されていた。農民は多摩川沿いや多摩丘陵で穫れた野菜や炭などの物産を江戸へ運び、その折に契約している地域や家を訪ねて下肥を集め運んで帰ったという。これにより、当時は世界で最も人口密度が高いながらも、最も美しい都市とも言われた江戸の循環型社会の一翼を担っていた。また、特に二子の渡しは街道筋であるため、それら農民に加えて行商人や特に江戸中期以降盛んになった大山詣での人々などにとっても大切な足として機能していた。一方、かつて暴れ川とも呼ばれた多摩川の水かさによっては人々は両岸で何日も足止めされる場合も少なくなかったという。そのため、渡し場の周りには茶屋や食事処、宿屋などが集まり二子・溝口宿は街道沿いの宿場町として発展した。「二子新地」はこの当時の賑わいを今に残す名といえよう。多摩川はその流路を度々変えたため、二子の渡しもその場所が度々変わったと言われる。かつては二子神社・兵庫島付近に渡し場があったとも言われているが、明治以降は現在二子橋が架けられている場所よりも少し下流(野川合流点付近)の瀬田地先が渡し場跡であった。(Wikipedia



武蔵野の道・丸子-二子コース03  兵庫島_d0183387_11491738.jpg

野川

(先史時代)野川が流れる立川段丘面は23万年前の更新世に古多摩川が流れて作った河岸段丘である。その時代の多摩川は、立川段丘面に礫を残しながら武蔵野段丘を横から削っていた。多摩川本流が流路を変えた後に、国分寺崖線の湧水を集め多摩川旧河道を流れた小河川が野川である。(六郷用水開削による流路変更1597年(慶長2)から15年かけて六郷用水(次大夫堀)が開削された。これに伴い世田谷通りの新一の橋付近で六郷領用水と合流し流れを東に変え、世田谷通りと滝下橋緑道を流れ入間川と合流するようになった。次太夫堀公園を流れた後用水から分流し現在の野川下流に近い流路を通っていた。(昭和の流路変更1967年(昭和42年)になって六郷領用水も川の流路を失わない範囲で大部分が埋められ、野川の流路を東に寄らせる改修が行われた。野川は狛江市街に入らずに調布市と狛江市の市境付近に新たに開削された。(Wikipedia抜粋

武蔵野の道・丸子-二子コース03  兵庫島_d0183387_12020756.png
兵庫島公園案内図


武蔵野の道・丸子-二子コース03  兵庫島_d0183387_12123504.jpg

二子玉川
(ふたこたまがわ) 
世田谷区の地区名・通称地名。東急田園都市線・大井町線の二子玉川駅周辺を中心とした地域の通称である。「フタコ」、「ニコタマ」という愛称で呼ばれることが多い。町丁としての玉川は世田谷区の町名。「二子玉川」の名は、かつて多摩川を挟んで川崎市側に存在した「二子村」と世田谷区側の「玉川村」に由来すると言われている。また、同地付近にあった「二子の渡し」にも深い関連がある。なお、現在も多摩川の対岸にあたる川崎市高津区には「二子」(ふたご)という町名が存在するが、一般的に「二子玉川」と呼ばれる区域の対象には含まれない。町名は当時同地にあった二子塚古墳に因んで大井町線開業時に目黒蒲田電鉄が名付けた。Wikipedia


by Twalking | 2015-06-21 12:26 | 東京散歩(新規)

<< こまいぬフェスタin駒沢公園 梅雨の晴れ間 >>